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「南方貨物線」の版間の差分

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* [[日本国有鉄道]] - 建設{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}
* [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] (JRTT) <ref group="注" name="清算事業団"/> - 未成区間の売却{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}
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'''南方貨物線'''(なんぽうかもつせん)とは、[[日本国有鉄道]](国鉄)が[[愛知県]]内で建設していた[[東海道本線]]の[[貨物線|貨物支線]]([[未成線]])。[[名古屋]][[名古屋貨物タミナ]][[1980年]]開設)から[[笠寺駅]]を結び、笠寺駅から[[東海道本線]]と線路別[[複々線]]で並行して同県[[大府]]の東海道本線[[大府駅]]に至る予定だったが、完成際で工が凍結され、開業にことなく放棄された
'''南方貨物線'''(なんぽうかもつせん)とは、[[日本国有鉄道]](国鉄)が[[愛知県]]内で[[東海道本線]]([[大府駅]] - [[名古屋]]間:約26.1&nbsp;[[キロメ|km]])の[[複線]]線増([[複々線]]化)として建設していた[[貨物線|貨物支線]][[未成線]]){{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}。本項目は主に、未成区間となった大府駅 - [[笠寺駅]] - [[名古屋貨物ターミナル駅]]間(約19.5&nbsp;km){{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}ついて解説する。

東海道本線と[[武豊線]][ともに現在は[[東海旅客鉄道]](JR東海)の管轄路線]が合流する大府駅([[大府市]])から、笠寺駅([[名古屋市]][[南区 (名古屋市)|南区]])まで東海道本線に線路別複々線の形で並走し、笠寺駅で分岐してからは[[東海道新幹線]]の[[高架橋]]や南郊[[運河]]{{Efn2|name="南郊運河"|南郊運河(延長約0.2&nbsp;km)は[[中川運河]]の横堀([[流路形状#支川|支流]]){{Sfn|名古屋港管理組合|2012|p=3}}。水運の減少によって一部が埋め立てられ、埋立地の一部は南郊公園など[[緑地]]として活用されている{{Sfn|名古屋港管理組合|2012|p=3}}。}}に並行して、[[名古屋貨物ターミナル駅]](同市[[中川区]]・1980年開設 / 仮称:「八田貨物駅」)<ref group="注" name="八田貨物"/>に至る<ref group="注" name="関西線"/>{{Sfn|森口誠之|2002|pp=102-104}}。そして同駅から名古屋駅まで(約6.2&nbsp;km)<ref group="注" name="約5.7"/>{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}は、「[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|西名古屋港線]]」<ref group="注" name="あおなみ線"/>および「[[稲沢線]]」{{Efn2|name="稲沢線"|「稲沢線」は東海道本線の名古屋・稲沢間に敷設された貨物列車専用の複線{{Sfn|太田幸夫|2010|p=25}}。[[1925年]]([[大正]]14年)に単線で開業し、[[1936年]](昭和11年)に複線化(東海道本線の名古屋 - 稲沢間が複々線化)された{{Sfn|祖田圭介|2008|p=14}}{{Sfn|太田幸夫|2010|p=25}}。}}を充当し{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=280}}{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}、西名古屋港線(名古屋貨物ターミナル駅 - 名古屋駅間)に並行して1線を増設{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(中巻)|2007|p=824}}(複線化)<ref group="注" name="あおなみ線改良"/>することで、名古屋駅{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=280}}・[[稲沢駅]]([[稲沢操車場]])方面へ至る計画だった{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。この路線が完成すれば、大府 - 名古屋 - 稲沢間は稲沢線(名古屋 - 稲沢間)と併せ、[[客貨分離]]がなされる予定だった{{Efn2|また、第3次愛知県地方計画 (1970) では「名古屋都市圏の通勤通学需要の増大と、名古屋 - [[北陸本線|北陸]]、名古屋 - [[高山本線|高山]]方面への都市間および観光輸送が急速に増大しつつあるため、昭和53年度(1978年度)までに稲沢 - [[米原駅|米原]]間の複々線化を進め、客貨分離による輸送力の増大を図る。」と計画されていた{{Sfn|愛知県|1970|p=250}}。}}{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}。

[[東海道線 (名古屋地区)|名古屋付近の東海道線]]の輸送力強化を図るため{{Sfn|愛知県|1970|p=248}}、[[1967年]]([[昭和]]42年)から建設が開始されたが、並行する[[東海道新幹線]]の[[名古屋新幹線訴訟|騒音公害訴訟問題]]によって工事は中断し{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}、[[1983年]](昭和58年)には国鉄の財政難・[[貨物列車|鉄道貨物]]輸送需要の激減を受け、建設が凍結された{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。それまでに高架橋の大半が完成していたが、工事は再開されず、[[2002年]]([[平成]]14年)から完成していた高架橋の解体が行われた{{Sfn|森口誠之|2002|pp=104-105}}。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[昭和30年代]]後半の鉄道貨物輸送の好調{{Efn2|鉄道による輸送は旅客・貨物とも、終戦直後に急増し、それ以降も1970年代まではほぼ漸増傾向にあった{{Sfn|愛知県|1973|p=621}}。}}により、大都市付近の国鉄路線では旅客輸送の増加と相まって輸送力の不足が目立ち始めた{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(中巻)|2007|p=824}}。特に、「南方貨物線」の建設が決まった1966年(昭和41年)当時、名古屋地区の東海道線は名古屋 - 稲沢間 (11.1&nbsp;km) が(貨物専用線の「[[稲沢線]]」<ref group="注" name="稲沢線"/>により)[[複々線]]化されていた一方、名古屋以東は[[複線]]のままで、長距離[[旅客列車]]・[[中京圏|名古屋圏]]通勤電車と[[貨物列車]]が混在して列車本数が多くなっており、東海道線で最大の隘路区間となっていた{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(下巻)|2007|pp=115-116}}。そのため、圏内輸送は幹線直通輸送の合間を縫って行うような状態が続き、圏内輸送機関として大きい役割を果たすことができなかった{{Sfn|PLAN'80|1980|p=45}}。そこで大府 - 名古屋間 (19.5&nbsp;km) を複々線化し、貨物列車を新線(南方貨物線)に移すことで、名古屋駅を中心に[[客貨分離]]を行い{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(下巻)|2007|p=116}}、同区間の輸送量増強{{Sfn|岐阜工事局|1970|pp=275-276}}・旅客輸送の改善が図られた{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(下巻)|2007|p=116}}。
国鉄が貨物輸送においてまだシェアを多く持っていた昭和40年代、東海道本線の[[名古屋駅]]周辺において速度の遅い[[貨物列車]]が[[旅客列車]]の妨げになっていたため、別線敷設による[[複々線]]化を行って、これを解消するとともに[[貨客分離]]を行い、増大する輸送量を増強することを目論むようになった{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}{{Sfn|川島|2010|pages=316-318}}。また、名古屋における貨物駅は名古屋駅南方の都心部近くに設けられていた[[笹島駅]]であったが、これが手狭になっていたことから、南へ移転する形で「八田貨物駅(仮称、後に[[名古屋貨物ターミナル駅]]として開業)」という新駅を開設することにもなった。この両者の目的により、東海道本線のバイパスとして建設されることになったのが、この「南方貨物線」である{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}{{Sfn|川島|2010|pages=316-318}}。

また、名古屋地区における貨物ターミナル駅は、名古屋駅の裏側に設けられていた[[笹島駅]]{{Efn2|name="笹島駅"|笹島駅(広さ160,000&nbsp;[[平方メートル|㎡]])は名古屋地区貨物駅の中心的役割を果たしてきたが、周囲を東海道本線・関西本線・中川運河に挟まれており、狭隘だった{{Sfn|祖田圭介|2008|p=17}}。1968年(昭和43年)10月にはコンテナ取扱設備を増強したが{{Sfn|祖田圭介|2008|p=17}}、1980年に名古屋貨物ターミナル駅(コンテナ基地)が開業して以降は車扱貨物主体の駅となり{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}、1986年(昭和61年)11月1日に廃止された{{Sfn|祖田圭介|2008|p=17}}(跡地は[[グローバルゲート]]として再開発済み)。}}であったが、同駅と東海道線(および[[名古屋港線]]・西名古屋港線<ref group="注" name="あおなみ線"/>)や関西線との接続には、道駅から約11&nbsp;km北側に位置する[[稲沢操車場]]を経由する必要があったため、[[スイッチバック|折り返し運転]]などのために無駄な時間を必要としていた{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(下巻)|2007|p=103}}。そこで、同駅の南方約3.9&nbsp;km(西名古屋港線の沿線)へターミナル機能を移転する形で{{Sfn|徳田耕一|1998|p=95}}、[[名古屋貨物ターミナル駅]](仮称:「八田貨物駅」)<ref group="注" name="八田貨物"/>を開設することになった{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。笹島駅発着の上り([[東京貨物ターミナル駅|東京]]方面行)貨物列車は当時、稲沢経由で折り返し運転を強いられていたが{{Sfn|徳田耕一|1998|p=95}}、この新貨物駅は「南方貨物線」上に位置するため{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(下巻)|2007|p=116}}、南方貨物線が完成すれば、名古屋貨物ターミナル駅・笹島駅とも同線上の駅となることで{{Sfn|PLAN'80|1980|p=92}}、稲沢での折り返し運転が解消されることになり、上下列車のスルー運転・物流システムの効率化が期待された{{Sfn|徳田耕一|1998|p=95}}。また、同時に名古屋港線<ref group="注" name="名古屋港線"/>・西名古屋港線とも結びかえを行い{{Efn2|name="関西線"|名古屋貨物ターミナル駅構内では、南方貨物線の下り線から線路2本が分岐し、関西本線([[四日市駅|四日市]]・[[亀山駅|亀山]]方面)へ向かう連絡線となる計画だった{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=311}}{{Sfn|太田幸夫|2010|p=233}}。この連絡線が完成していた場合、関西本線と西名古屋港線の[[デルタ線]]が形成されることとなっていたが、その計画も未成に終わっており、用地は住宅用地として売却されている<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=新聞閲覧室(『[[朝日新聞]]』[[朝日新聞名古屋本社|名古屋本社]]版1991年1月12日付より)|volume=36|page=111|date=1991-01-31|issue=4|publisher=[[新潮社]]|doi=10.11501/3378664}}(1991年1月31日号・通号1794)</ref>。}}、南方貨物線(貨物輸送ルートの基幹)から分岐する線形とすることで、能率的な輸送体型が整備されることも期待された{{Sfn|PLAN'80|1980|p=92}}。しかし、「南方貨物線」の大府 - 笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間は未成に終わり、名古屋貨物ターミナル駅発着の上り貨物列車は、同駅が開業した1980年(昭和55年)以降も稲沢経由のままとなっている{{Sfn|徳田耕一|1998|p=95}}。


国鉄は南方貨物線の建設と併せ、[[日本鉄道建設公団]]が建設していた[[愛知環状鉄道線|岡多線]]と[[瀬戸線]]{{Efn2|その後、岡多線(岡崎 - [[瀬戸市駅|瀬戸市]]間)および瀬戸線(瀬戸市 - [[高蔵寺駅|高蔵寺]]間)は[[愛知環状鉄道線]]として、瀬戸線([[勝川駅|勝川]] - [[枇杷島駅|枇杷島]]間)は[[東海交通事業城北線]]として、それぞれ開業している{{Sfn|日本鉄道建設公団|1995|pp=116-117}}。一方、瀬戸線のうち[[中央線 (名古屋地区)|中央線]]に並行する区間(高蔵寺 - 勝川間)は建設されず、買収済みだった敷地は国鉄清算事業団に譲渡され{{Sfn|森口誠之|2002|p=109}}、1999年度 - 2001年度にかけて売却された{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|pp=132-133}}。また、瀬戸線(城北線)の[[小田井駅]] - 稲沢間の貨物線も未成に終わり、こちらも買収済みだった敷地は住宅用地として売却された{{Sfn|森口誠之|2002|p=109}}。}}を利用し、東海道線の[[岡崎駅|岡崎]] - 稲沢間を迂回する形で貨物複線を設ける「北方貨物線」{{Efn2|[[大阪府]]・[[兵庫県]]内にある東海道本線の貨物支線「[[北方貨物線]]」([[吹田貨物ターミナル駅|吹田貨物ターミナル]] - [[尼崎駅|尼崎]]間)とは別物。}}計画も有していたが、こちらも貨物輸送需要の減少を受け、1987年(昭和62年)3月の[[国鉄分割民営化]]に伴い、新たに発足した[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が計画を放棄した{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(中巻)|2007|pp=824-825}}。
計画では[[東海道線 (名古屋地区)|東海道線]](名古屋 - [[稲沢駅|稲沢]]・[[枇杷島駅|枇杷島]]間及び笠寺 - [[岡崎駅|岡崎]]間)・[[愛知環状鉄道線|岡多線]](岡崎 - [[瀬戸市駅|瀬戸市]]間)・[[瀬戸線]](瀬戸市 - 稲沢・枇杷島間。このうち[[勝川駅|勝川]] - [[高蔵寺駅|高蔵寺]]間では[[中央線 (名古屋地区)|中央線]]に並行)・[[関西線 (名古屋地区)|関西線]]([[笹島信号場]] - 名古屋間)とともに[[中京圏]]の[[放射線・環状線|大環状線]]を形成する予定であった{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}。


=== 路線データ ===
=== 路線データ ===
* 路線距離:大府駅 - 名古屋駅間(約26.1&nbsp;km、うち大府駅 - 八田貨物駅間は約19.5&nbsp;km){{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}
* 路線距離:八田貨物駅(仮称) - 大府駅間 約26km
** 大府駅 - 笠寺駅間(東海道本線との並走区間):約12.1&nbsp;km{{Efn2|岐阜工事局 (1970) によれば大府・笠寺間は約12.5&nbsp;km{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=278}}。}}{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}
* 電化区間:全線(直流1,500V)
** 笠寺駅 - 八田貨物駅間(別線線増区間):約7.4&nbsp;km{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=280}}
* 複線区間:全線
** 八田貨物駅 - 名古屋駅間(西名古屋港線):約6.2&nbsp;km{{Efn2|name="約5.7"|岐阜工事局 (1970) によれば八田・名古屋間は約5.7&nbsp;km{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=280}}。}}{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}
* 三線区間:八田貨物駅(仮称) - 名古屋港線交点(仮称)
* 電化区間:全線(直流1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]])
* 複線区間:全線(大府駅 - 笠寺駅間は東海道本線の線路別[[複々線]]区間)
** [[複々線#三線|三線]]区間:八田貨物駅(仮称) - 名古屋港線交点(仮称)
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Nanpo-kamotsu-line.png|南方貨物線のルート(赤線に並行しているのが着工部分。途中で分岐する曲線は[[名古屋港線]]への連絡線。1995年・2000年撮影)。画像上では2本の線となっているが、実際には高架橋が途切れ途切れになっていた。<br /><small>帰属:国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」 配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]</small>
Nanpo-kamotsu-line.png|南方貨物線のルート(赤線に並行しているのが着工部分。途中で分岐する曲線は[[名古屋港線]]への連絡線。1995年・2000年撮影)。画像上では2本の線となっているが、実際には高架橋が途切れ途切れになっていた。<br /><small>帰属:国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」 配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]</small>
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 名古屋付近鉄道総合改良計画 ===
=== 名古屋付近鉄道総合改良計画 ===
南方貨物線の原型は[[1939年]](昭和14年)に[[鉄道省]]岐阜工事事務所(後の国鉄[[工事局|岐阜工事局]])が立案した'''名古屋付近鉄道総合改良計画'''にある。当時、[[日中戦争]]勃発後の軍需輸送増大により[[稲沢操車場]]の貨車中継能力が限界に達しており、同計画では貨物輸送増強策の一環として新たに八田、勝川、大府に操車場を設けることが構想されていた。付随する貨物線の新設も検討され、それぞれ'''南方貨物線'''(八田)、北方貨物線(勝川)、東方貨物線(大府)と呼ばれていた{{sfn|岐阜工事局|1970|page=306}}。この中では八田操車場と南方貨物線がもっとも有力視され、[[1941年]](昭和16年)から翌年にかけて東海道本線大府 - [[枇杷島駅|枇杷島]]間の線増扱いで測量費が予算計上され、地形測量が実施された{{sfn|岐阜工事局|1970|page=27}}{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}。
南方貨物線の原型は[[1939年]](昭和14年)に[[鉄道省]]岐阜工事事務所(後の国鉄[[工事局|岐阜工事局]])が立案した'''名古屋付近鉄道総合改良計画'''にある。当時、[[日中戦争]]勃発後の軍需輸送増大により[[稲沢操車場]]の貨車中継能力が限界に達しており、同計画では貨物輸送増強策の一環として新たに八田、[[勝川駅|勝川]]、大府に操車場を設けることが構想されていた。付随する貨物線の新設も検討され、それぞれ'''南方貨物線'''(八田)、北方貨物線(勝川)、東方貨物線(大府)と呼ばれていた{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=306}}。この中では八田操車場と南方貨物線がもっとも有力視され、[[1941年]](昭和16年)から翌年にかけて東海道本線大府 - [[枇杷島駅|枇杷島]]間の線増扱いで測量費が予算計上され、地形測量が実施された{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=27}}{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。


一方、鉄道省[[鉄道管理局|名古屋鉄道局]]運輸部でも岐阜工事事務所の計画と前後して貨車中継の改良計画を立てていたが、むやみに操車場を新設するのは貨車の輸送効率の面で不利であり、同局では稲沢操車場に[[操車場 (鉄道)#ハンプヤード|ハンプ]]を2か所設ける一大ヤードとする案を推していた{{sfn|岐阜工事局|1970|pages=306-307}}。このため八田操車場の新設は省内も賛否両論であったが、最終的には稲沢・八田の2操車場案でまとまり、[[1943年]](昭和18年)以降も南方貨物線・八田操車場の建設を推進することとなった。しかし、戦争の激化により同年以降は予算計上できず、計画はいったん棚上げとなった{{sfn|岐阜工事局|1970|page=27}}{{sfn|岐阜工事局|1970|page=307}}。
一方、鉄道省[[鉄道管理局|名古屋鉄道局]]運輸部でも岐阜工事事務所の計画と前後して貨車中継の改良計画を立てていたが、むやみに操車場を新設するのは貨車の輸送効率の面で不利であり、同局では稲沢操車場に[[操車場 (鉄道)#ハンプヤード|ハンプ]]を2か所設ける一大ヤードとする案を推していた{{Sfn|岐阜工事局|1970|pp=306-307}}。このため八田操車場の新設は省内も賛否両論であったが、最終的には稲沢・八田の2操車場案でまとまり、[[1943年]](昭和18年)以降も南方貨物線・八田操車場の建設を推進することとなった。しかし、戦争の激化により同年以降は予算計上できず、計画はいったん棚上げとなった{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=27}}{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=307}}。


=== 計画の再開からルート選定まで ===
=== 計画の再開からルート選定まで ===
[[File:Nampo Freight Line Route Plan.svg|thumb|right|350px|南方貨物線のルート選定(赤線が最終決定案)]]
[[File:Nampo Freight Line Route Plan.svg|thumb|right|350px|南方貨物線のルート選定(赤線が最終決定案)]]
終戦後はただちに測量が再開され、[[1946年]](昭和21年)4月には当時の計画線28kmの測量を終えた。同年9月には[[天白川 (愛知県)|天白川]] - 枇杷島間の用地設計案を[[運輸省]]に上申し、翌年には鉄施第645号として承認された{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}。その後、南方貨物線計画は名古屋市の都市復興計画と連動して構想された'''名古屋付近鉄道復興計画'''(鉄施第1492号)に組み込まれた{{sfn|岐阜工事局|1970|page=42}}{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}<!--42頁ではS22年12月発表、276頁ではS23年5月、307頁ではS22年とある-->。当時の計画ルートは最終決定案とやや異なり、[[関西本線]]を跨ぎ越して市街地を北上し、[[庄内川]]を渡り[[五条川信号場]]付近で[[稲沢線]]に合流するという、後に「中村ルート」と呼ばれるルート案に近いものであった{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}。
終戦後はただちに測量が再開され、[[1946年]](昭和21年)4月には当時の計画線28&nbsp;kmの測量を終えた{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。同年9月には[[天白川 (愛知県)|天白川]] - 枇杷島間の用地設計案を[[運輸省]]に上申し、翌年には鉄施第645号として承認された{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。その後、南方貨物線計画は名古屋市の都市復興計画と連動して構想された'''名古屋付近鉄道復興計画'''(鉄施第1492号)に組み込まれた{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=42}}{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}<!--42頁ではS22年12月発表、276頁ではS23年5月、307頁ではS22年とある-->。当時の計画ルートは最終決定案とやや異なり、[[関西本線]]を跨ぎ越して市街地を北上し、[[庄内川]]を渡り[[五条川信号場]]付近で[[稲沢線]]<ref group="注" name="稲沢線"/>に合流するという、後に「中村ルート」と呼ばれるルート案に近いものであった{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。


南方貨物線は東海道本線の線増を目的としていたが、同様の目的を別の形で推し進める[[新幹線]]建設計画が立ち上げられるとそちらが優先され、貨物線の分離のみを目的とする南方貨物線計画は再び停滞する。不要不急論に対し、当時[[名古屋港]]東岸(東臨港)の貨物線整備が不十分であったため、臨港地域の貨物集約機能を南方貨物線に付加する案も出された(「海岸線ルート」){{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}{{sfn|岐阜工事局|1970|page=278}}。種々検討の結果、ルートを大府 - 笠寺 - 八田 - [[笹島駅|笹島]]に変更し、さらに貨物専用ではなく旅客輸送も行う計画に修正されたが、これも[[1961年]](昭和36年)の[[名古屋臨海鉄道東港線|東港線]]建設決定(のちに[[臨海鉄道]]方式に移行)により廃案となる{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}。
南方貨物線は東海道本線の線増を目的としていたが、同様の目的を別の形で推し進める[[東海道新幹線|新幹線]]建設計画が立ち上げられるとそちらが優先され、貨物線の分離のみを目的とする南方貨物線計画は再び停滞する。不要不急論に対し、当時[[名古屋港]]東岸(東臨港)の貨物線整備が不十分であったため、臨港地域の貨物集約機能を南方貨物線に付加する案も出された(「海岸線ルート」){{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=278}}。種々検討の結果、ルートを大府 - 笠寺 - 八田 - [[笹島駅|笹島]]に変更し、さらに貨物専用ではなく旅客輸送も行う計画に修正されたが、これも[[1961年]](昭和36年)の[[名古屋臨海鉄道東港線|東港線]]建設決定(のちに[[臨海鉄道]]方式に移行)により廃案となる{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。


このように構想と中断を繰り返した南方貨物線だが完全に中止されることは無く、[[1962年]](昭和37年)2月には国鉄常務会(第234回)の承認を経て新幹線行区間(笠寺・[[堀川 (名古屋市)|堀川]]間)の用地が新幹線用地と共に買収され{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}、[[1964年]](昭和39年)に企画された第3次長期計画(1965年を初年度とする7か年計画)にも東海道本線大府 - 名古屋間複々線化工事として予算計上されていた{{sfn|岐阜工事局|1970|page=64}}。その後、計画ルートの選定も新幹線工事の進捗と共に最終段階となり、区間別に以下のような比較検討が行われた{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}。
このように構想と中断を繰り返した南方貨物線だが完全に中止されることは無く、[[1962年]](昭和37年)2月には国鉄常務会(第234回)の承認を経て新幹線行区間(笠寺・[[堀川 (名古屋市)|堀川]]間)の用地が新幹線用地と共に買収され{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}、[[1964年]](昭和39年)に企画された第3次長期計画(1965年を初年度とする7か年計画)にも東海道本線大府 - 名古屋間複々線化工事として予算計上されていた{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=64}}。その後、計画ルートの選定も新幹線工事の進捗と共に最終段階となり、区間別に以下のような比較検討が行われた{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。起点が大府駅(東海道本線と[[武豊線]]の合流点)とされたのは、[[知多半島]]の東岸にある[[衣浦港|衣浦]]臨海工業地帯からの貨物列車や、名古屋駅に直通する旅客列車が増加することを想定し、武豊線の複線化が企画されていたためであった{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。


;大府 - 笠寺間
;大府 - 笠寺間
:臨港貨物集約機能を兼ねる「海岸線ルート」が比較検討されたが、大きく迂回し地盤も悪いことから建設費が膨大となるため、当初案通り本線併設ルートが選定され{{sfn|岐阜工事局|1970|page=278}}。
:臨港貨物集約機能を兼ねる「海岸線ルート」が比較検討されたが、大きく迂回し地盤も悪いことから建設費が膨大となるため、当初案通り本線併設ルートが選定され{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=278}}、既設線沿いの盛り土に敷設された{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。新設線については貨客併用案・貨物専用案・(既設線とともに)方向別複々線として運用する案が検討されたが、貨物専用線として運用されることが決まった{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。これにより、新設線の「南方貨物線」は完成後、貨物専用線として24時間走行が予定され<ref name="公害訴訟2004"/>、並行する既設線は旅客線として運用されることとなった{{Sfn|名古屋市|1998|p=672}}。
;笠寺 - 名古屋間
;笠寺 - 名古屋間
:笠寺以北の併設は市街地のため建設費が高くつくこと、同区間も併設にすると八田操車場と連絡できないことから、この区間は笠寺・八田間の「運河ルート」が選定された{{sfn|岐阜工事局|1970|page=278}}。なお、堀川・八田間約2km区間については[[1963年]](昭和38年)にルートの再検討が名古屋市との間で行われ、南郊・小碓運河利用案と東海通直上高架案の二案が提示されていた。これも比較検討の結果、埋め立て計画により用地取得が容易になる南郊・小碓運河利用案が採用された{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}。
:笠寺以北の併設は市街地のため建設費が高くつくこと、同区間も併設にすると八田操車場と連絡できないことから、この区間は笠寺・八田間の「運河ルート」が選定された{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=278}}。なお、堀川・八田間約2&nbsp;km区間については[[1963年]](昭和38年)にルートの再検討が名古屋市との間で行われ、南郊・小碓運河利用案と東海通直上高架案の二案が提示されていた。これも比較検討の結果、埋め立て計画により用地取得が容易になる南郊・小碓運河利用案が採用された{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。
;八田 - 枇杷島間
;八田 - 枇杷島間
:この区間を「中村ルート」にすれば[[瀬戸線]]ともども名古屋駅を経由する必要がなくなり、[[貨客分離]]の観点からもメリットがあった。しかし[[中村区]]の家屋密集地域を縦貫するため、市との設計協議さえ困難な状況であった。建設費の高騰も予想されたため、結局、国鉄用地のみでほぼ建設可能な名古屋経由ルートが選定された{{sfn|岐阜工事局|1970|pages=276-278}}。
:この区間を「中村ルート」にすれば[[瀬戸線]]ともども名古屋駅を経由する必要がなくなり{{Efn2|名古屋駅経由ルートを採用した場合、名古屋駅の構内に無理が生じるほか、瀬戸線の名古屋駅乗り入れにも問題が生じることが懸念されていた{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=278}}。}}、[[貨客分離]]の観点からもメリットがあった。しかし[[中村区]]の家屋密集地域を縦貫するため、市との設計協議さえ困難な状況であった。建設費の高騰も予想されたため、結局、国鉄用地のみでほぼ建設可能な名古屋経由ルートが選定された{{Sfn|岐阜工事局|1970|pp=276-278}}。
選定ルート案は[[1966年]](昭和41年)4月の常務会で承認され、同年5月の設備投資計画に盛り込まれた(用地費52億円、主体工事費114億円、付帯電気工事費25億円で総額191億円){{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。同年、[[運輸大臣]]が建設計画を認可{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}。新幹線開業後も東海道本線名古屋付近の列車回数はほとんど減少せず、その後も大幅な輸送量の増加が見込まれていた{{Sfn|名古屋市|1998|p=671}}。[[名古屋商工会議所]]{{Efn2|同所は1962年(昭和37年)6月末、国鉄関係方面へ南方貨物線の建設工期短縮について、地元関係者の熱望に応えるよう要望していた{{Sfn|名古屋商工会議所|1971|p=644}}。}} (1971) は、南方貨物線の建設効果について「名古屋付近の[[線路容量]]の限界が解消され、同時に計画された八田操車場(現:名古屋貨物ターミナル駅)の新設が[[稲沢操車場|稲沢操車ヤード]]{{Efn2|当時、稲沢操車場の能力は限界に来ており、貨物輸送力の増強が求められていた{{Sfn|名古屋商工会議所|1971|p=644}}。}}の行詰りを解決することとなり、更に今後[[名古屋港]]南部及びに西部、[[四日市市|四日市地区]]、衣浦地区と臨海地帯の発展に対応し、また関西線<ref group="注" name="関西線"/>、名古屋臨港線<ref group="注" name="名古屋港線"/>の発着貨車の操配運用効率を高める効果など名古屋付近の鉄道輸送は画期的な改善をみせるものと期待される。」と述べている{{Sfn|名古屋商工会議所|1971|p=643}}。


=== 着工 ===
選定ルート案は[[1966年]](昭和41年)4月の常務会で承認され、同年5月の設備投資計画に盛り込まれた(用地費52億円、主体工事費114億円、付帯電気工事費25億円で総額191億円){{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}。新設線は貨物専用とし、24時間走行とした<ref name="公害訴訟2004"/>。
当工事は東海道本線の線増工事として企画されたもので、[[鉄道敷設法]]の予定線としては取り扱われていなかったため、[[日本鉄道建設公団]]ではなく国鉄が自ら工事を担当した{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。[[1967年]](昭和42年)2月から用地買収が開始され、同年3月からは天白川橋梁の工事も着手された{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。また、[[1968年]](昭和43年)11月からは八田貨物駅の測量工事も開始された{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。総工事費は約三百数十億円{{Efn2|愛知県 (1973) によれば、南方貨物線の建設+八田貨物駅(名古屋貨物ターミナル駅)の建設による総事業費は約390億円{{Sfn|愛知県|1973|p=622}}。}}が見込まれ{{Efn2|1983年の工事凍結時点までに費やされた300億円はすべて借金(金利年約20億円)で賄われた<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。}}<ref name="読売新聞1985-11-20"/>、国鉄は[[1972年]](昭和47年)10月の全面使用開始を目指して工事を進めた{{Efn2|愛知県 (1973) によれば、南方貨物線・八田貨物駅ともに1976年(昭和51年)3月の完成を予定していた{{Sfn|愛知県|1973|p=622}}。}}{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。[[1969年]](昭和44年)度末時点で、工事進捗率は36%(用地57%、主体工事30%)に至っていた{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=276}}。沿線は迷惑施設である貨物線の受け入れ条件として、駅の高架化と旅客列車の運動を要望していたが、用地全体を4&nbsp;[[メートル|m]]嵩上げすることで代替された{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。


=== 環境問題による工事中断 ===
=== 着工から建設凍結まで ===
[[File:Nanpō Freight Line Minami Toyoda-Aerial photography 1977.jpg|thumb|right|350px|南区豊田付近の新幹線並行区間(1977年10月)。工事中断により高架橋は途中で途切れている。<br /><small>帰属:国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」<br />配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]</small>]]
[[1972年]](昭和47年)10月の完成を目指し{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}、建設工事は[[1967年]](昭和42年)3月より開始された<ref name="朝日新聞1992-07-19"/><ref name="読売新聞1996-01-05">『[[読売新聞]]』1996年1月5日中部朝刊1面「中部新空港 鉄道アクセス新ルート浮上 南方貨物線→名古屋臨海鉄道→名鉄常滑線」</ref>。なお当工事は輸送力増強が目的であったため、[[日本鉄道建設公団]]ではなく国鉄自身の手で行われた{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}。総工事費は約三百数十億円が見込まれ、1983年の工事凍結時点までに費やされた300億円はすべて借金(金利年約20億円)で賄われた<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。[[1969年]](昭和44年)度末時点の工事進捗率は36%(用地57%、主体工事30%)であった{{sfn|岐阜工事局|1970|page=276}}。
しかし、南(大府方面)から開始された工事が名古屋市内に進んできた1971年(昭和46年)ごろから、沿線住民たちが南方貨物線の建設を「新幹線公害との複合公害になる」と問題視していた{{Sfn|船橋晴俊|長谷川公一|畠中宗一|勝田晴美|1985|p=27}}。当該区間は東海道新幹線と並行して敷設される予定だった[[南区 (名古屋市)|南区]][[豊田 (名古屋市)|豊田]]([[山崎川]]付近)から[[熱田区]][[四番町 (名古屋市)|四番町]]にかけての区間(約2.9&nbsp;km)で、これらの地域住民の間では、以前から新幹線の[[騒音]]・[[振動]]への不満が高まっていたところ、貨物線の騒音に対する懸念や、土地を奪われることへの反発も重なり{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}、公害反対運動が活発化していた{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}。同年4月、名古屋市政懇談会にて「[[名古屋新幹線訴訟|新幹線公害反対運動]]が行われている地域に新幹線と並行して南方貨物線の建設が進められているが、これが開通すれば、すでに新幹線で被害を受けている生活環境がさらに悪化することは必至である。したがって市として国鉄に対し強く公害対策を要望するように」との意見が出た{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}。この沿線住民の要望を受け、名古屋市は同年5月 - 1972年(昭和47年)5月にかけ、国鉄岐阜工事局長に対し、以下6点を要望した{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}。
# 列車開通時の騒音・振動対策{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}
# 工事中の公害対策{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}
# 沿線住民に対する説明{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}
# 列車開通時のテレビ障害対策{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}
# [[鋼橋|鋼桁]]の騒音対策{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}
# 夜間運行の減少{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}
それらの要望に対し、国鉄は[[遮音壁|防音壁]]の設置・[[ロングレール]]の使用などといった対策を示したが{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}、1972年7月には名古屋新幹線公害対策同盟の会員が中心となって「南方貨物線公害追放委員会」を結成した{{Sfn|船橋晴俊|長谷川公一|畠中宗一|勝田晴美|1985|p=27}}。「追放委員会」は国鉄に対し、「南方貨物線の建設を否定するものではないが、沿線住民が納得できる公害対策を要望する」と表明{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}。同年8月、[[名古屋市長]]{{Efn2|1972年時点では[[杉戸清]](第20 - 22代)が名古屋市長を務めていた。}}は国鉄本社で担当常務理事に対し、南方貨物線の公害対策について要望した{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=199}}。これに対し、国鉄側は「深夜運行の禁止は実施困難だが、鋼桁橋は[[プレストレスト・コンクリート橋|コンクリート橋]]に変更して騒音対策を実施する。その他の騒音・振動対策も実施・努力する」と回答した{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|pp=199-200}}。


1973年(昭和48年)4月には、[[名古屋市立明治小学校]]<ref group="注" name="明治小学校"/>(南区)にて開かれた住民大会で、「市は南方貨物線問題について、公害防止協定を国鉄との間で締結してほしい」との要望が出されたため、同年7月に名古屋市は国鉄に対し「沿線の生活環境を良好に維持できる公害防止協定の考え方を示すこと」「公害防止協定が締結されるまで、工事を一時中止すること」を要望した{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=200}}。国鉄側は「公害防止協定については全国的な問題であるため、関係方面と打ち合わせに向けて努力するが、工事の一時中止はできない」と回答{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=200}}したが、同月には一部の工事が中止された{{Efn2|名古屋市 (1998) では「工事中断時期は1973年(昭和48年)5月以降」とされている{{Sfn|名古屋市|1998|p=672}}。}}{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}。名古屋市長{{Efn2|name="本山市長"|1973年9月および1980年1月時点では[[本山政雄]](第23 - 25代)が名古屋市長を務めていた。}}は同年9月に再び国鉄本社へ出向き、国鉄総裁{{Efn2|1973年9月時点では第6代・[[磯崎叡]](同月21日まで)および第7代・[[藤井松太郎]](22日以降)。}}に対し「緩衝地帯の設置」「夜間の運行速度の提言」「軌道構造による騒音振動防止」「沿線住民との公害防止協定の締結」を改めて要望した{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=200}}。同年以降、工事は事実上中止され{{Efn2|また、名古屋市は1974年6月に改めて「住民の理解と納得を得るまで工事再開を見合わせてほしい」と要望している{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=200}}。}}{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=200}}、翌1974年(昭和49年)3月に地元住民から提訴された[[名古屋新幹線訴訟|新幹線の減速・損害賠償請求訴訟]]のあおりも受けたことで、工事は大幅に遅延{{Efn2|会計監査院は1977年度(昭和52年度)決算検査報告で、当路線について「建設費は184億円、開通時期は1971年10月」と報告していたが、1978年(昭和53年)9月には「建設費357.8億円、開通見込みは1982年(昭和57年)10月」と、建設費が大幅に増え、完成予定も大幅に遅れた{{Sfn|会計検査院|1979|pp=232-233}}{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。}}{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。住民による環境対策面での合意{{Efn2|公害防止協定の締結、緩衝地帯の設置、新幹線公害訴訟で係争されていた(騒音・振動に関する)差止請求値の遵守など{{Sfn|船橋晴俊|長谷川公一|畠中宗一|勝田晴美|1985|p=27}}。1975年(昭和50年)5月には当時の「名古屋新幹線公害対策同盟連合会」会長・「名古屋新幹線公害訴訟原告団」団長や、「南方貨物線公害追放会」会長を務めていた千草恒男が、南方貨物線の建設・公害防止をめぐり、16項目にわたって国鉄と協定を結ぼうとしたが、その協定内容と、内部での合意形成が不十分である点を問題視した他の原告団リーダーや弁護団がその判断を問題視{{Sfn|船橋晴俊|長谷川公一|畠中宗一|勝田晴美|1985|p=27}}。批判を受けた千草は連合会・原告団の代表を辞任することとなった{{Sfn|日本計画行政学会中部支部|1995|p=27}}。}}が成立するまで、工事は中断された{{Sfn|船橋晴俊|長谷川公一|畠中宗一|勝田晴美|1985|p=27}}。国鉄側は公害防止対策・環境保全対策に加え、いったん提出した[[土地収用法]]に基づく事業認定の申請を取り下げるなどの措置を講じたが、地元住民の理解を得るには至らず、用地買収なども著しく難航した{{Sfn|会計検査院|1979|p=233}}。
だが、国鉄における貨物シェアが[[貨物自動車|トラック]]の普及や労使紛争の影響で激減し、貨客混合の複線のままでも充分になったことにより路線の建設意義が薄くなってしまったことや{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}{{Sfn|川島|2010|pages=316-318}}、地元から[[騒音]]・[[振動]]の[[公害]]を懸念して建設反対運動([[名古屋新幹線訴訟]])が起こったことから1973年(昭和48年)に東海道新幹線と並行する区間の工事が中断され<ref name="読売新聞1985-11-20">『読売新聞』1985年11月20日東京朝刊第14版第一社会面「工事凍結2年『南方貨物線』 国鉄300億円の“お荷物” 利息だけで年20億 解決策、新会社まかせ 全長26キロ、完成まであと1.3キロだけ」</ref>、[[1975年]](昭和50年)には工事が事実上凍結された{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。その後、1979年(昭和54年)暮れには環境対策で住民らとの和解が成立したため[[1980年]](昭和55年)にいったん工事が再開されたが、完成間近となった1982年(昭和57年)9月に国鉄が「安全確保対策を除き原則として設備投資を停止する」と[[閣議 (日本)|閣議]]決定したため、翌1983年(昭和58年)1月には名古屋市内の未着工部分約1.3kmを残して再び工事が中止された<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。


結局、工事が凍結されていた笠寺 - 八田貨物駅間の工事は、裁判闘争も踏まえながら、国鉄が名古屋市と環境対策について交渉を続けた{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。その後、国鉄は名古屋市および「公害追放委員会」と公害防止協定の締結に向けて議論したが、具体的な進展がなかったため、それに代わる措置として、名古屋市が国鉄に対し[[環境アセスメント]]の実施を求めた{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|pp=200-201}}。国鉄もこれに応じ、名古屋市が開発・指導した新型の防音壁を採用したところ、大幅な騒音低減効果が得られたため{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=201}}、1979年(昭和54年)暮れには環境対策で住民らとの和解が成立<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。[[1980年]](昭和55年)1月には国鉄から名古屋市長<ref group="注" name="本山市長"/>宛てのアセスメント書{{Efn2|アセスメント書では「今後も騒音提言のための技術開発に努める」「開業前には運行計画などについて名古屋市へ提出する」などの旨が表明されていた{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=201}}。}}が提出され、同年2月から工事が再開された{{Efn2|名古屋市 (1998) では工事再開時期は1978年(昭和53年)とされている{{Sfn|名古屋市|1998|p=672}}。}}{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=201}}。名古屋市公害対策局 (1982) はこのような経緯で建設再開の合意に至った南方貨物線の事例について、「(沿線の)住民、国鉄、[[地方公共団体]]が三位一体となって(住民合意に向けて)努力した成果であり、全国的に見てもめずらしいケース」と述べている{{Sfn|名古屋市公害対策局|1982|p=201}}。
1983年の工事凍結時点で用地買収は100%完了していたほか、その大半が高架橋である路盤も未完成部分の路盤わずか約500mを除き<ref name="読売新聞1996-01-05"/>、工費約345億円(用地買収費用を含む)をかけてほぼ全線の工事(名古屋貨物ターミナル - 笠寺間の[[高架橋]]部分12.7km、全体の約90%)が完成しており{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>、「完成部分は線路を敷くだけ」といった状況まで進捗していた{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}<ref name="読売新聞1996-01-05"/>。


また、同年10月には八田貨物駅(建設期間約12年{{Efn2|name="八田貨物"|八田貨物駅(現:名古屋貨物ターミナル駅)は1968年3月に着工{{Sfn|愛知県|1973|p=622}}。同年から用地買収が開始され、1972年から本体工事に着手、1980年10月に「名古屋貨物ターミナル駅』として開業{{Sfn|名古屋市|1998|p=672}}。}}・総工費約300億円)が「名古屋貨物ターミナル駅」として開業{{Sfn|名古屋市|1998|p=672}}。[[東海旅客鉄道東海鉄道事業本部|名古屋鉄道管理局]]は1981年(昭和56年)に発表した『PLAN80』で、名古屋貨物ターミナル駅を[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]基地・笹島駅<ref group="注" name="笹島駅"/>を[[車扱貨物]]基地として位置付けると同時に、南方貨物線を「名古屋圏での貨客分離を実現する機関ルートとして、早期竣工する」と表明し、[[名古屋臨海鉄道|名古屋]]・[[衣浦臨海鉄道|衣浦]]の両臨海鉄道と南方貨物線を直結する輸送体系の確立も求めていた{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。
名古屋貨物ターミナル駅は1980年に開業したものの、その先の南方貨物線が開業しなかったことから、同駅から東海道本線[[東京貨物ターミナル駅|東京]]方面への貨物列車が稲沢操車場まで[[スイッチバック]]を強いられることとなった結果{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}、東京貨物ターミナル駅までの所要時間は当初の予定より約1時間長くなるタイムロスが発生することとなった<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。また名古屋貨物ターミナル駅北方には同駅と[[関西本線]][[四日市駅|四日市]]方面を連絡する連絡線を敷設し、関西本線と西名古屋港線の[[デルタ線]]を形成する計画が存在したが、この計画も建設途中で中止されている。


=== 建設再開計画の迷走 ===
=== 国鉄の財政難による建設凍結 ===
しかし、国鉄の財政悪化や、鉄道貨物需要の激減により{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}、同年以降は十分な予算を獲得できなくなった{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。また、1982年(昭和57年)9月24日に出された[[閣議 (日本)|閣議]]決定「日本国有鉄道の事業の再建を図るために当面緊急に講ずべき対策について」{{Sfn|大蔵省印刷局|1984|p=192}}<ref>{{Cite web|url=https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M2013011517550862171|title=日本国有鉄道の事業の再建を図るために当面緊急に講ずべき対策について(昭和57年9月24日 閣議決定)|accessdate=2021-01-18|publisher=[[国立公文書館]]|date=1982-09-24|website=[https://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館デジタルアーカイブ]|language=ja}} - [[国立公文書館]]本館に所蔵あり。</ref>では、「老朽設備取替、安全対策及び環境保全のための投資のうち特に緊急度の高いもの{{Efn2|同閣議決定後、「緊急を要するもの」として停止されなかった設備投資は、安全投資のほか、[[東北新幹線]]の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]以南の工事、[[埼京線|通勤新線]]の工事など<ref name="行政改革">{{Cite web|url=http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/souron/7.pdf#page=14|title=1 日本国有鉄道 > (2) 当面の緊急対策の具体的推進|accessdate=2021-01-18|publisher=[[国立社会保障・人口問題研究所]]|date=1983-05-24|format=PDF|work=【1983年5月24日】臨時行政調査会の最終答申後における行政改革の具体化方策について(新行政改革大綱) 閣議決定|pages=14-15|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210118143827/http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/souron/7.pdf#page=14|archivedate=2021-01-18}}</ref>。}}を除き、(設備投資は)原則として停止する。」とされた{{Sfn|大蔵省印刷局|1984|p=193}}。
[[会計検査院]]は工事凍結中の[[1985年]](昭和60年)11月までに「これまでに建設のため投入された資金はすべて借金で、金利だけで毎年約20億円ずつ増えている状況だ。国民経済上大きな損失となっているため、早急に何らかの改善が図られるべきだ」と事態の進展を求めていたが、国鉄建設局はこれに対し「着工当時と比較して貨物輸送が激減しており、新たな貨物線の建設は無意味だ。今後のことは[[国鉄分割民営化]]で同線を継承するだろう新会社(後のJR東海)が決めるが、それまでは工事凍結となり金利が累積することもやむを得ない」と回答していた<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。また、当時『読売新聞』の取材に対し北井良吉・国鉄開発工事課長は「着工から20年近く経過しても未完成なのは残念だが、国鉄を取り巻く諸情勢が変化して国の方針で建設が中止されたことも理解していただきたい。巨費を投じて鉄道路線として建設した以上、将来的にはぜひ鉄道路線として利用したいと願っている」とコメントしていた<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。


南方貨物線は当時、完成後の使用見通しについて、[[単線]]営業化、旅客化などが検討されていたが、当時の大府 - 名古屋間は旅客・貨物とも輸送量が横ばいないし減少傾向{{Efn2|1961年度(昭和36年度)の大府 - 名古屋間は旅客輸送実績が98,173人/日キロ、貨物輸送実績が59,564トン/日キロだった一方、1982年度(昭和57年度、4月 - 9月)には前者が60,072人/日キロ(1961年度の61%)、後者も29,674トン/日キロ(1961年度の50%)に落ち込んでいた{{Sfn|大蔵省印刷局|1984|p=15}}。}}にあり、「当面これらが大幅に増加する状況も考えられない」とされた{{Sfn|大蔵省印刷局|1984|p=14}}。そのため、当初の投資目的(客貨輸送の増に対応)からみて「緊急性に乏しい工事」とされ{{Sfn|大蔵省印刷局|1984|p=14}}、翌1983年(昭和58年)1月に再び工事が中止されることとなった<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。当時は用地買収が100%完了し<ref name="読売新聞1996-01-05"/>、未着工部分は名古屋市内の約1.3&nbsp;kmを残すのみで{{Efn2|路盤の未完成部分は約500&nbsp;m<ref name="読売新聞1996-01-05">『[[読売新聞]]』1996年1月5日中部朝刊一面1頁「中部新空港 鉄道アクセス新ルート浮上 南方貨物線→名古屋臨海鉄道→名鉄常滑線」([[読売新聞中部支社]])</ref>。}}<ref name="読売新聞1985-11-20">『読売新聞』1985年11月20日東京朝刊第14版第一社会頁「工事凍結2年『南方貨物線』 国鉄300億円の“お荷物” 利息だけで年20億 解決策、新会社まかせ 全長26キロ、完成まであと1.3キロだけ」([[読売新聞東京本社]])</ref>、笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間の下部工事は8割方完成していた{{Efn2|一方、架橋が後回しになった道路上などの跨線橋は完成しておらず、高架橋がぶつ切れになっている区間もあった<ref>『中日新聞』2002年7月27日夕刊特集三面3頁「工費300億円 フイに 『幻の鉄路』 無念の終着 工事凍結の南方貨物線 本年度中に撤去開始」(中日新聞社 文:田中宏明)</ref>。}}状態で、全線開通までに必要な予算は約100億円が見込まれていた{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。この時点までに投じられた工費は約345億円(用地買収費用を含む)<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。
名古屋貨物ターミナル - 大府間の19.5kmは1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化で「処分対象資産」とされて土地・高架橋の多くが[[日本国有鉄道清算事業団]]の所有となった<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。1992年時点で(南方貨物線・西名古屋港線に並行する)東海道線名古屋 - 笠寺間を走る貨物列車の数は1日上下各60本ほどだったが、貨客混合の同区間のダイヤは既に過密状態で増発が困難な状況となっていた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。


名古屋貨物ターミナル駅の開業後、大阪方面から同駅に発着する貨物列車は稲沢線を経由し、名古屋貨物ターミナル駅に直接入線できるようになった{{Sfn|祖田圭介|2000|p=46}}。一方、その先の南方貨物線(笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間)が開業しなかったことから、名古屋貨物ターミナル駅の開業後も<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>、同駅と東海道本線の[[静岡貨物駅|静岡]]・[[東京貨物ターミナル駅|東京]]方面の相互に発着する貨物列車は{{Sfn|祖田圭介|2008|loc=巻頭グラビア}}、いったん稲沢へ向かい、稲沢駅で[[スイッチバック]]することとなった{{Sfn|祖田圭介|2000|p=46}}。その結果、名古屋貨物ターミナル - 東京間の所要時間は(南方貨物線が開業した場合に比べ)約1時間長くなっていた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。
その後、1991年(平成3年)2月15日の[[衆議院]]連絡委員会では[[運輸省]](現:[[国土交通省]])の審議官が「南方貨物線を旅客線として活用したい」との意向を示したが、2月20日の記者会見で[[東海旅客鉄道]](JR東海)社長の[[須田寬]]は「議事録を精読したが『JR東海に売る』とまで踏み込んだ答弁内容ではなかったと認識している。旅客線として活用しても採算が合わない見込みが強く、活用するとなれば(この時点で)さらに百数十億円の投資が必要であり、とても当社の手に負える代物ではない。買い取る意思は全くない」と述べ、運営に関わりを持つことを否定した<ref>『[[中日新聞]]』1991年2月21日朝刊1面「買い取る意思ない JR東海社長 南方貨物線で表明」</ref>。

[[会計検査院]]は、工事凍結後の[[1985年]](昭和60年)11月までに、「これまでに建設のため投入された資金はすべて借金で、金利だけで毎年約20億円ずつ増えている状況だ。国民経済上大きな損失となっているため、早急に何らかの改善が図られるべきだ」として、国鉄建設局に対し事態の進展を求めていた<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。しかし、国鉄建設局はこれに対し「着工当時と比較して貨物輸送が激減しており、新たな貨物線の建設は無意味だ。今後のことは[[国鉄分割民営化]]で同線を継承するだろう新会社(後のJR東海)が決めるが、それまでは工事凍結となり金利が累積することもやむを得ない」と回答していた{{Efn2|当時『読売新聞』の取材に対し、北井良吉・国鉄開発工事課長は「着工から20年近く経過しても未完成なのは残念だが、国鉄を取り巻く諸情勢が変化して国の方針で建設が中止されたことも理解していただきたい。巨費を投じて鉄道路線として建設した以上、将来的にはぜひ鉄道路線として利用したいと願っている」とコメントしていた<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。}}<ref name="読売新聞1985-11-20"/>。また、国鉄側は南方貨物線の今後の処遇について、「貨物会社[後の[[日本貨物鉄道]](JR貨物)]が継承する」「東海会社(後のJR東海)が継承する」「清算事業団に継承する」の3案で検討していたが、貨物会社案は「当面、現在の東海道線だけで十分貨物輸送が賄える」との理由で除外され<ref name="中日新聞1986-10-12"/>、旅客会社(JR東海)の中核となった名古屋鉄道管理局も、毎年20億円の金利負担・採算性を問題視し、引き受けを拒んでいた{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。[[日本国政府]]が[[衆議院]]国鉄改革特別委員会に出した国鉄分割民営化後の経営見通しを示す資料でも、南方貨物線の今後については言及されていなかったため、1986年(昭和61年)10月13日には衆院特別委員会で[[草川昭三]]議員([[公明党]]・国民会議、[[愛知県第2区|愛知2区]])がこの問題を追及した<ref name="中日新聞1986-10-12">『中日新聞』1986年10月12日朝刊第12版第一社会面23頁「名古屋-大府の国鉄南方貨物線 未完成、借金の山 行き先なし“お荷物線” 金利 年に20億円 民営化資料も触れず 国会で追及へ」(中日新聞社)</ref>。これに対し、[[橋本龍太郎]][[運輸大臣]]は「使用中の区間(名古屋貨物ターミナル - 名古屋駅間:約6&nbsp;km)は東海会社に継承させる」との意向を示した一方、それ以外の区間については「東海会社の経営状態や、(鉄道としての)利用可能性を考えて結論を出したいが、現時点では未定」と答弁していた<ref>『中日新聞』1986年10月14日朝刊第12版二面2頁「国鉄南方貨物線 使用区間は東海会社に 運輸省が答弁 凍結部は処理検討」(中日新聞社)</ref>。

1987年(昭和62年)4月に国鉄分割民営化が行われ{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}、その際に名古屋 - 名古屋貨物ターミナル間(西名古屋港線<ref group="注" name="あおなみ線"/>・約6&nbsp;km)はJR東海に移管され、JR貨物が利用した<ref name="中日新聞2002-03-30"/>。一方、未完成区間である名古屋貨物ターミナル - 大府間の19.5&nbsp;kmは「処分対象資産」とされ<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>、大半の区間(大府 - 笠寺間の既開業区間を除く約12.2&nbsp;km)が[[日本国有鉄道清算事業団]]{{Efn2|name="清算事業団"|国鉄清算事業団は1998年(平成10年)10月22日に解散し、同事業団が保有していた資産は日本鉄道建設公団に継承されたが、同公団は2003年(平成15年)10月1日に[[運輸施設整備事業団]]と統合され、[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] (JRTT) となった。}}[現:[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] (JRTT) ]の所有となった{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}。

=== 建設再開計画の迷走 ===
[[File:Plan about transportation network in Nagoya Metropolitan Area in 1992.png|thumb|right|300px|運輸政策審議会答申12号]]
1991年(平成3年)2月15日の[[衆議院]]連絡委員会では、[[運輸省]](現:[[国土交通省]])の審議官が「南方貨物線を旅客線として活用したい」との意向を示したが、[[東海旅客鉄道]](JR東海)社長の[[須田寬]]は同年2月20日の記者会見で「議事録を精読したが、『JR東海に売る』とまで踏み込んだ答弁内容ではなかったと認識している。旅客線として活用しても、採算が合わない見込みが強く、活用するとなれば(この時点で)さらに百数十億円の投資が必要であり、とても当社の手に負える代物ではない。買い取る意思は全くない」と述べ、運営に関わりを持つことを否定した<ref name="中日新聞1991-02-21">『[[中日新聞]]』1991年2月21日朝刊一面1頁「買い取る意思ない JR東海社長 南方貨物線で表明」([[中日新聞社]])</ref>。一方、須田の発言を受けて愛知県交通対策室長・中村真は「県としては、貨物線として再生してほしいという従来の姿勢に変わりはない。その望みが薄いなら、清算事業団自らが新会社を作るなり、主導的に有効利用に知恵を絞ってもらいたい」とコメントしたが<ref name="中日新聞1991-02-21"/>、土地・高架橋を保有していた国鉄清算事業団は「(我々は)資産を処分するのが役割で、建設主体になるのはあり得ない」という反応を示していた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。


翌[[1992年]](平成4年)1月10日、[[運輸政策審議会]]答申12号([[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について]])にて運輸省[[事務次官]]・中村徹から「東海道線の混雑緩和を目的に西名古屋港線<ref>[[2004年]]に[[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線]](通称「あおなみ線」)として旅客開業した</ref>とともに旅客線として開業させてはどうだろうか?」と提案が出され<ref name="中日新聞1992-01-11">『中日新聞』1992年1月11日朝刊3面「南方貨物線を旅客線に 中村運輸次官 活用の意向を示す」</ref>、「鉄道貨物輸送力増強の必要性、旅客輸送動向などを勘案して検討する」とされた<ref>『中日新聞』1993年3月6日朝刊東海総合面19「南方貨物線 完成急げ 経団連物流部会 地元財界と懇談」</ref>。しかし[[東海道 (名古屋地区)|名古屋地区]]第二のターミナルであ[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]を経由せず名古屋 - [[熱田駅]]間を迂回している上同区間の当時の混雑率(約135%)は意義は薄」とされ見送られ{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}<ref>『日新聞』1992年64日朝刊東海総合面19面「名古屋圏交通網整備推進協の初 上飯田連絡線 実務者級で検討 地下鉄4号上飯田連絡次期路で準備」</ref>。西名古屋港線の旅客化工事の際には南方貨物線が分岐できる構造となっていた高架橋がそ阻害とたた該当撤去された{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}。
運輸省[[事務次官]]・中村徹は翌[[1992年]](平成4年)1月10日、[[運輸政策審議会]]答申12号([[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について]])にて、「[[東海道線 (名古屋地区)|東海道線名古屋地区]]の混雑緩和を目的に、南方貨物線を西名古屋港線{{Efn2|name="あおなみ線"|西名古屋港線は後に旅客線として整備され、[[2004年]](平成16年)10月6日名古屋 - [[金城ふ頭駅|金城ふ頭]]間([[営業キロ]]15.2&nbsp;km)が[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線]](通称「あおなみ線」)として旅客開業した<ref>{{Cite web|url=https://www.aonamiline.co.jp/pc/brief.html|title=あおなみ線の概要|accessdate=2021-01-28|publisher=[[名古屋臨海高速鉄道]]|website=[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]] ホームページ|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201108212707/https://www.aonamiline.co.jp/pc/brief.html|archivedate=2021-01-28}}</ref>。}}とともに旅客線として開業させてはどうだろうか?」と提案<ref name="中日新聞1992-01-11">『中日新聞』1992年1月11日朝刊3頁「南方貨物線を旅客線に 中村運輸次官 活用の意向を示す」(中日新聞社)</ref>、同答申では「鉄道貨物輸送力増強の必要性、旅客輸送動向などを勘案して検討する」とされた<ref name="中日新聞1993-03-06">『中日新聞』1993年3月6日朝刊東海総合面19「南方貨物線 完成急げ 経団連物流部会 地元財界と懇談」(中日新聞社)</ref>。同年時点で(南方貨物・西名古屋港線に並行す)東海道線名古屋 - 笠寺間を貨物列車の数は下それぞれ約60本/日だったが、貨客混合の同区間のダイヤは既に過密状態、増発が困難な状況となっていた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>一方、このころには[[貨物自動車|トラック]]輸送業界の運転手不足・[[大気汚染]]・[[交通渋滞]]による遅配などの問題から<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>、(特に長距離貨物輸送で)<ref name="朝日新聞1992-07-19">『[[朝日新聞]]』1992年719名古屋朝刊第一経済7頁「無用の長物」南方貨物線生かせ 陸運界、完成働きかけ【名古屋】」([[朝日新聞名古屋本社]])</ref>[[モーダルシフト]](鉄道・[[海運]]などへの輸送形態の変化)がんでいた{{Efn2|[[日本放送協会]] (NHK) 解説委員だった[[藤吉洋一郎]]は1992年に放送されたNHKの番組で「南方貨物を当初計画通り整備する必要がある。さらに[[東海道物流新幹線構想|東京 - 大阪間に貨物専用を新たに敷く]]と、(南方貨物線の整と併せて)2兆円を超す経費がかかるが、貨物列車がその分増発でき、トラックから輸送転換ができると訴えていた<ref>『読売新聞』1995年9月27日大阪朝刊特集面23頁「モーダルシフト・フォーラム95 社会と調和した物流を=特集」([[読売新聞大阪本社]])</ref>。}}<ref name="中日新聞1992-06-05"/>。そのため、中部運輸局が関係者を集めて「幹事会」を組織し、南方貨物線・西名古屋港線の旅客化に向けた勉強会を開始した<ref name="中日新聞1993-01-26"/>ほか、同年6月5日に開かれた鉄道貨物協会名古屋支部の通常総会で南方貨物線の早期開業を国に働掛け決議がされるなど<ref name="中日新聞1992-06-05">『中日新聞』1992年6月5日朝刊地域経済面11頁「「旧南方線の早期開通を」 鉄道貨物協会名支部が総会」(中日新聞社)</ref>、陸運業界を中心に、南方貨物線開業への期待が高まっていた{{Efn2|当時、[[西濃運輸]]会長[[田口利夫]]は「関係機関へんとか完成を働き掛けい」と述べてい<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>ほか[[日本経済団体連合会|経団連]]物流会の江里正義会長(当時:[[センコーグループホールディングス|センコー]]会長)も1993年3月5日に名古屋市内で地元経済人らと懇談し、南方貨物線を視察した際に「(南方貨物線未完成のまま)放置されているのは国家的損失。地元も挙げて(開業に向けて)取り組むべきだ」という認識を示してい<ref name="中日新聞1993-03-06"/>。また、藤田素弘([[名古屋工業大学]]社会開発工学科講師)も1995年に「[[三大都市圏]]のうち、名古屋だけ貨物列車の専用迂回線が都市部にない。南方貨物線を建設して名古屋地区の(線路)容量不足を解消し、貨物のモーダルシフトが滞らないように配慮すべきだ」と指摘していた{{Sfn|日本計画行政学会中部支部|1995|=236}}。}}<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>


当時、仮に南方貨物線を旅客・貨物併用線として工事を再開した場合の事業費は約165億円と概算されており<ref name="中日新聞1993-01-26">『中日新聞』1993年1月26日朝刊東海総合面15頁「東海TODAY/実現高まる中部新空港 西名古屋港線 旅客線化へ機運 南方貨物線 アクセスの手段に 沿線開発計画も 幹事会組織 「問題は資金」」(中日新聞社 社会部記者:中西英夫)</ref>、その建設費の捻出方法については「トラック運送業界や関係自治体(愛知県・名古屋市など)、JR東海・JR貨物などで[[第三セクター]]を設立するしかない」との見方が強かった<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。しかし、1992年当時の名古屋駅 - [[熱田駅]]間{{Efn2|大府駅 - 名古屋駅間は既設線経由で19.5&nbsp;km、南方貨物線経由で26.1&nbsp;kmと{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}、南方貨物線経由は遠回りである{{Sfn|川島令三|2003|p=205}}上、名古屋地区第二のターミナル駅である[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]を経由しない。}}の混雑率は約135%で、南方貨物線の旅客化は「意義が薄い」とされ{{Sfn|川島令三|1996|p=170}}{{Sfn|川島令三|2003|pp=204-205}}、見送られた{{Efn2|JR東海・須田社長は1992年6月4日に開かれた「名古屋圏交通網整備推進協議会」の会合で、「南方貨物線の貨物路線化・旅客化は直ちに必要ではない」と報告した<ref>『中日新聞』1992年6月4日朝刊東海総合面19頁「名古屋圏交通網整備推進協の初会合 上飯田連絡線 実務者級で検討 地下鉄4号、上飯田連絡線 次期路線で準備」(中日新聞社)</ref>。}}。1997年(平成9年)6月には、JR貨物の完全民営化のための基本問題懇談会で、南方貨物線について「将来、少なくとも貨物鉄道としてその有効活用を図ることが適当であると考えるが、種々解決すべき課題が残されていることから、今後、さらに関係者間において必要な検討・調整を進めていく必要がある」という意見が出た{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}が、JR貨物{{Efn2|JR貨物は仮に南方貨物線が開業した場合、同線を利用して[[貨物列車]]を運行することが想定されていたが、「開業に必要な建設費は我々ではとても負担できない」という反応を示していた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。}}・JR東海・名古屋市・愛知県など関係機関は、いずれも「自ら事業主体となることは考えられない」という姿勢を示しており、活用に向けた事業化は極めて難しい状況になっていた{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}。
このころにはトラック輸送業界の人手不足・[[大気汚染]]・[[交通渋滞]]による遅配などから[[モーダルシフト]]が進み特に長距離の貨物輸送にて鉄道貨物輸送が見直されてきていたため<ref name="中日新聞1993-01-26">『中日新聞』1993年1月26日朝刊東海総合面15面「東海TODAY/実現高まる中部新空港 西名古屋港線 旅客線化へ機運 南方貨物線 アクセスの手段に 沿線開発計画も 幹事会組織 『問題は資金』」</ref>、陸運業界を中心に開業への期待が高まっていた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。
* [[日本放送協会]] (NHK) 解説委員だった[[藤吉洋一郎]]は1992年に放送されたNHKの番組で「南方貨物線を当初計画通り整備する必要がある。さらに[[東海道物流新幹線構想|東京 - 大阪間に貨物専用線を新たに敷くと]]2兆円を超す経費が掛かるが、貨物列車がその分増発できトラックから輸送転換ができる」として南方貨物線の建設再開の必要性を訴えていた<ref>『読売新聞』1995年9月27日大阪朝刊特集面23面「モーダルシフト・フォーラム95 社会と調和した物流を=特集」</ref>。
* また「開業による所要時間短縮で東京方面まで本来より約1時間のタイムロスが解消できる」との期待からも<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>、1992年6月5日に[[名古屋商工会議所]]ホールで開かれた鉄道貨物協会名古屋支部の通常総会では[南方貨物線の早期開業を国に働き掛ける決議」がなされ<ref>『中日新聞』1992年6月5日朝刊地域経済面11面「『旧南方線の早期開通を』 鉄道貨物協会名支部が総会」</ref>、[[西濃運輸]]会長だった[[田口利夫]]も「関係機関へなんとか完成をの働き掛けたい」と述べていた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。
しかし「課題点だった建設費の資金難については、幹事会でも『トラック運送業界や愛知県・名古屋市など関係自治体、JR東海・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)などで[[第三セクター]]を設立するしかない』と意見こそ一致していたが<ref name="中日新聞1993-01-26"/><ref name="朝日新聞1992-07-19">『朝日新聞』1992年7月19日朝刊7面「『無用の長物』南方貨物線生かせ 陸運界、完成働きかけ【名古屋】」</ref>、資金負担を巡って思うように計画が進まなかった上、開業後に南方貨物線を利用して[[貨物列車]]を運行することが予想されたJR貨物も「開業に必要な建設費は我々ではとても負担できない」と反応したほか、土地・高架橋を保有していた日本国有鉄道清算事業団(現:[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])も「資産を処分するのが役割で、建設主体になるのはあり得ない」という反応だった<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。


それ以外にも、[[常滑市|常滑]]沖に建設された[[中部国際空港]](セントレア)への[[空港連絡鉄道]]として活用する案{{Efn2|名古屋市南区[[氷室町 (名古屋市)|氷室]]地区に南方貨物線と[[名鉄常滑線]][[道徳駅]]を連絡する短絡線を敷設し、JR名古屋駅から中部国際空港へ向かう列車を運行する構想や{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}、南方貨物線および笠寺駅で接続する[[名古屋臨海鉄道]]の路線([[名古屋臨海鉄道東港線|東港線]]・[[名古屋臨海鉄道南港線|南港線]])を経由し、[[新舞子駅]]([[知多市]])付近で名鉄常滑線に直通する案など<ref name="読売新聞1996-01-05"/>。}}も出されたが{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}、これも実現しなかった。一方、西名古屋港線の旅客化工事の際には、南方貨物線が分岐できる構造となっていた高架橋がその阻害となったため、該当部分が撤去された{{Efn2|1998年10月、[[名古屋臨海高速鉄道]](西名古屋港線の旅客化後の運営主体)が西名古屋港線の旅客化に伴い、南方貨物線の用地の一部を購入することを希望したため、清算事業団は2000年度(平成12年度)に約0.2&nbsp;[[ヘクタール|ha]]を処分した{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=158}}。}}{{Sfn|川島令三|2003|pp=209-210}}。
その後も西名古屋港線の[[金城ふ頭駅]]から[[海底トンネル]]で空港まで結ぶ案とともに[[笠寺駅]]で接続する[[名古屋臨海鉄道]][[名古屋臨海鉄道東港線|東港線]]・[[名古屋臨海鉄道南港線|南港線]]経由で[[名鉄常滑線]]と接続し、[[常滑市]]沖に建設された[[中部国際空港]](セントレア)への[[空港連絡鉄道]]として活用する」という案も出されたが<ref name="中日新聞1993-01-26"/><ref name="読売新聞1996-01-05"/>、この計画も実現しなかった。[[2000年]](平成12年)には国鉄清算事業本部が改めてJR東海・JR貨物両社に引き受けを打診するも拒否され、翌[[2001年]](平成13年)5月には愛知県・名古屋市両者にも活用案を断られた<ref name="中日新聞2002-03-30"/><ref name="朝日新聞2002-03-28"/>。


=== 開業断念・高架橋解体 ===
=== 開業断念・高架橋解体 ===
[[File:Railway viaduct of Nanpō Freight Line 10.jpg|thumb|right|300px|老朽化した高架橋の補修]]
2001年8月、[[中部運輸局]]は南方貨物線の鉄道路線としての利用を断念し、撤去費総額300億円を前提に[[2002年]](平成14年)度の撤去費用46億円を予算要求した<ref name="公害訴訟2003"/>。
その一方で高架橋の高欄(主にブロック造)は建設から20数年が経過し、経年劣化による[[老朽化]]が進んだことで{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=159}}、剥離・落下する危険な状況となっていた{{Efn2|1999年(平成11年)8月に国鉄清算事業本部長に就任した宮﨑達彦は{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=22}}、「自分が南方貨物線を視察した際、完成済みの高架橋から偶然コンクリートが落ち、(高架下の)駐車場に止めてある車を壊していたことがあった。当時、[[福岡トンネルコンクリート塊落下事故|新幹線のトンネルで天井からコンクリートが落下する事故]]があり、『人身事故でも起こすと大変なことになる。鉄道として使うか否かを早く決めなければならない』と思った」と述べている{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=25}}。}}{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=104}}。このため、[[日本鉄道建設公団]]国鉄清算事業本部(旧:清算事業団の事業を継承)<ref group="注" name="清算事業団"/>は1999年(平成11年)10月 - 2001年(平成13年)5月にかけ、高欄の撤去工事を行った{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=159}}。鉄建公団国鉄清算事業本部は[[2000年]]度(平成12年度)以降、南方貨物線の最終的な処理方法{{Efn2|利用方法としては鉄道路線としての活用のほか、高架橋を整備し直して[[新交通システム]]路線・[[サイクリングロード]]などとして活用する案もあった{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=26}}。}}を決定するため、関係する事業者などへの最終意向確認を行った{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=159}}。この時、国鉄清算事業本部は高架橋の撤去費用に数百億円が必要となることを踏まえ、「仮に撤去しなくて済むような整備をして鉄道・道路などに使う者がいる場合、約100億円を助成する」「鉄道路線として活用する場合は高架橋などをある程度完成させてから引き渡す」などの提案を含め、[[日本貨物鉄道東海支社|JR貨物東海支社]]などに打診した{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=26}}。しかし、いずれの関係先も「鉄道としても、鉄道以外の利用にしても、自ら取得することは考えられない」と回答した{{Efn2|国鉄清算事業本部は2000年に改めてJR東海・JR貨物両社に引き受けを打診したが、いずれも拒否され、翌[[2001年]](平成13年)5月には愛知県・名古屋市両者にも活用案を断られた<ref name="朝日新聞2002-03-28"/>。}}{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=159}}。これにより、同年6月には日本鉄道建設公団国鉄清算本部<ref group="注" name="清算事業団"/>により、鉄道利用の可能性が皆無であることが最終確認され{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|pp=103-104}}、同本部は鉄道としての利用を断念することを決めた{{Sfn|貨物鉄道百三十年史(中巻)|2007|p=824}}。


景観の改善・[[老朽化]]による崩壊危険性から2002年より{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}{{Sfn|川島|2010|pages=316-318}}、笠寺駅・[[大高駅]]周辺どJR東海に移管され約8kmを除く未開通区間の高架橋約12km分解体費用約300億円をかけて撤去し更地土地を[[一般競争入札]]で売却することが決定された<ref name="中日新聞2002-03-30"/><ref name="朝日新聞2002-03-28">『朝日新聞』2002年3月28日朝刊社会面35「345億円投入、撤去へ300億円 旧国鉄がムダ35年【名古屋】」</ref>。2002年3月27日成立し国の新年度当初予算で2002年度分の撤去費用とし46億円が計上されたが、[[バブル経済]]崩壊による地価下落の影響・幅10mほどの細長い土地形状という事情から、撤去費との差額分にも国費が負担されることとなった<ref name="中日新聞2002-03-30">『中日新聞』2002年3月30日夕刊11面「建設345億+撤去300億 名古屋南部 - 大府南方貨物線の未開通20キロ 凍結20年再び国費 新年度投入」</ref>。結局、河川上かった橋梁の撤去費用除いても、約13kmの高架橋を更地化する経費として約200億円が必要になったのに対し、売却で回収できる金額は約40億円程度にまることになった<ref>『読売新聞』2002年11月8日東京朝刊2面「旧国鉄用地、売却完了時200億円の赤字 有効な処分方法求める/検査員試算」</ref>。
2001年8月、[[中部運輸局]]は南方貨物線鉄道路線としての利用を断念し、撤去費総額300億円{{Efn2|name="撤去費用"|JRTTは当初、高架橋などの全ての撤去費用を約300億円と試算したが、2008年に「高架橋付土地売却を積極的に進めた結果、約100億円の経費が削減される見込み」と報告している<ref name="JRTT 2008"/>。}}を前提に、[[2002年]](平成14年)度の撤去費用46億円を予算要求した{{Efn2|2002年3月27日に成立した国の新年度当初予算で、2002年度分の撤去費用として46億円が計上された<ref name="中日新聞2002-03-30"/>。}}<ref name="公害訴訟2003"/>。老朽化による崩壊の危険性があることに加え、景観の改善も兼ね{{Sfn|川島令三|2010|p=318}}、2002年度から不用とた高架橋などを撤去し更地{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|pp=103-104}}、土地を[[一般競争入札]]で売却することが決まった<ref name="中日新聞2002-03-30"/><ref name="朝日新聞2002-03-28">『朝日新聞』2002年3月28日名古屋朝刊第一社会面35「345億円投入、撤去へ300億円 旧国鉄がムダ35年【名古屋】」(朝日新聞名古屋本社)</ref>。これより、JR東海に移管され約8&nbsp;km(笠寺駅・大高駅周辺など)を除き未開通区間高架橋約12&nbsp;km分については、莫大な解体費用<ref group="注" name="撤去費用"/>をかけ撤去されることとなったが、[[バブル経済]]崩壊による地価下落の影響・幅10&nbsp;mほどの細長い土地形状という事情から、撤去費との差額分にも国費が負担されることとなった<ref name="中日新聞2002-03-30">『中日新聞』2002年3月30日夕刊第一社会11頁「建設345億+撤去300億 名古屋南部 - 大府南方貨物線の未開通20キロ 凍結20年再び国費 新年度投入」(中日新聞社)</ref>。鉄建公団は土地処分当たり、経費削減の観点ら構造物付での処分を進めたが{{Efn2|撤去工事を行う箇所は構造物付での処分が困難だったり、剥離されている箇所{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=104}}。一部高架橋が著しく劣化していた箇所については、2002年12月 - 2003年(平成15年)5月にかけて撤去工事を実施した{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=159}}。また、河川橋梁・道路上跨線橋も撤去することとなり{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=31}}、山崎川橋梁は2003年5月 - 2004年(平成16年)3月中旬までに上部工(PC桁スパン27&nbsp;m)撤去した{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=160}}。}}{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=104}}、約13&nbsp;kmの高架橋を更地化する経費として約200億円{{Efn2|河川上に架かった橋梁の撤去費用を除く<ref name="読売新聞2002-11-08"/>。}}が必要になった一方、売却で回収できる金額は約40億円程度にとどまることになった<ref name="読売新聞2002-11-08">『読売新聞』2002年11月8日東京朝刊2頁「旧国鉄用地、売却完了時200億円の赤字 有効な処分方法求める/検査員試算」(読売新聞東京本社)</ref>。国鉄清算事業本部は、南方貨物線および「[[梅田信号場#梅田貨物駅|梅田]]・[[吹田信号場#吹田貨物ターミナル駅|吹田]]」{{Efn2|梅田貨物駅の吹田地区への全面移転計画{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=134}}。}}「[[武蔵野操車場]]」の土地処分を「'''三大プロジェクト'''」と呼んでいる{{Sfn|国鉄清算事業本部|2003|p=25}}。このうち、南区内の「豊代児童遊園地」は無償で名古屋市へ譲渡されたほか、[[名古屋市立明治小学校|市立明治小学校]]横の土地<ref name="公害訴訟2009"/>(1,094.48[[平方メートル|㎡]] / 331.66坪){{Efn2|name="明治小学校"|明治小学校は1967年ごろ、貨物線の建設に協力する形で2,800万円で校地の一部を旧国鉄に売却したが、後に[[名古屋市会]]議員・横井利明がJRTT側に「明治小に土地を返してほしい」と要請<ref name="横井"/>。土地は[[名古屋市教育委員会]]により<ref name="公害訴訟2009"/>、3,600万円(坪10万円)で買い戻された<ref name="横井"/>。}}<ref name="横井"/>は[[名古屋市教育委員会]]が有償で取得<ref name="公害訴訟2009">{{Cite web|url=http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai38/240.html|title=公害弁連第38回総会議案書 名古屋新幹線公害訴訟(和解後)の報告|accessdate=2021-01-18|publisher=全国公害弁護団連絡会議|author=名古屋新幹線公害訴訟弁護団 弁護士 高木輝雄|date=2009-03-29|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210118152423/http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai38/240.html|archivedate=2021-01-18}}</ref>し、2010年(平成22年)1月には同校の運動場として利用が開始された<ref name="横井">{{Cite web|url=http://blog.livedoor.jp/minami758/archives/1236960.html|title=南方貨物線跡地が小学校の運動場に生まれ変わった。|accessdate=2021-01-18|author=[[名古屋市会]]議員 横井利明|date=2010-01-31|website=[http://blog.livedoor.jp/minami758/ 横井利明オフィシャルブログ(名古屋市会)]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210118151903/http://blog.livedoor.jp/minami758/archives/1236960.html|archivedate=2021-01-18}}</ref>。


大府 - 笠寺間(東海道線並行区間)は土地幅が狭く、JR東海が継承した土地(東海道線敷地)内にJRTTに帰属した構造物が存在するなど複雑な要因が絡み合っていることなどから、土地処分が困難とみなされたため、JRTTはJR東海に一括での土地取得を要請<ref name="JRTT 2008">{{Cite web|url=http://www.jrtt.go.jp/01Organization/Plan/pdf/cmzh19_1-2-6.pdf|title=国鉄清算業務|accessdate=2021-01-22|publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT)|date=2008-06|format=PDF|pages=150-151|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130221080755/http://www.jrtt.go.jp/01Organization/Plan/pdf/cmzh19_1-2-6.pdf#page=10|archivedate=2013-02-21|deadlinkdate=2021-01-22}}([https://web.archive.org/web/20190730132127/https://www.jrtt.go.jp/01Organization/Plan/plan-hokoku1.html 第1期中期目標に係る事業報告書] > 2.国民に対して提供するサービスその他の業務の質の向上に関する目標を達成するためとるべき措置)</ref>。その結果、JR東海は2006年(平成18年)12月に、JRTT側が必要な措置{{Efn2|不用橋梁の撤去<ref>{{Cite web|url=http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/pdf/singi10-1.pdf|title=平成19年度資産処分業務の実施状況の報告|accessdate=2021-01-22|publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT)|date=2008-07-25|format=PDF|page=4|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130217034718/http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/pdf/singi08-1.pdf#page=4|archivedate=2013-02-17|deadlinkdate=2021-01-22}}([https://web.archive.org/web/20170408201240/http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/settle-singiGiji08.html 第8回資産処分審議会議事録] > 資料-1 平成19年度資産処分業務の実施状況の報告について)</ref>、高架橋補修・軌道撤去などの工事<ref>{{Cite web|url=http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/pdf/singi10-1.pdf|title=平成21年度資産処分業務の実施状況の報告|accessdate=2021-01-22|publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT)|date=2010-07-28|format=PDF|page=4|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130217031458/http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/pdf/singi10-1.pdf#page=4|archivedate=2013-02-17|deadlinkdate=2021-01-22}}([https://web.archive.org/web/20170408002024/http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/settle-singiGiji10.html 第10回資産処分審議会議事録] > 資料-1 平成21年度資産処分業務の実施状況の報告について)</ref>。}}を講ずることを前提に要請を引き受ける旨を回答し<ref name="JRTT 2008"/>、土地・構造物は2010年(平成22年)7月にJRTTからJR東海へ引き渡された<ref>{{Cite web|url=http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/pdf/singi11-1.pdf|title=平成22年度資産処分業務の実施状況の報告|accessdate=2021-01-22|publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT)|date=2011-07-26|format=PDF|page=4|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130217084937/http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/pdf/singi11-1.pdf#page=4|archivedate=2013-02-17|deadlinkdate=2021-01-22}}([https://web.archive.org/web/20170408073243/http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/settle-singiGiji11.html 第11回資産処分審議会議事録] > 資料-1 平成22年度資産処分業務の実施状況の報告について)</ref>。これにより、南方貨物線の土地処分は完了したため、JRTTは同年11月に国鉄清算事業東日本支社中部事務所を廃止した<ref>{{Cite press release|title=第44・45回 鉄道建設・運輸施設整備支援機構債券 債券内容説明書 証券情報の部|date=2012-02-10|url=https://www.jrtt.go.jp/ir/asset/kikousai_44_45_1.pdf#page=20|format=PDF|language=ja|accessdate=2021-01-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210122151920/https://www.jrtt.go.jp/ir/asset/kikousai_44_45_1.pdf#page=20|archivedate=2021-01-22}}</ref>。
南方貨物線の建設中止について、名古屋新幹線訴訟の弁護団は「南方貨物線の撤去はそれ自体朗報であった」<ref name="公害訴訟2003">{{Cite web |url=http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai32/nagoyashinkansen.html |title=名古屋新幹線公害訴訟(和解後)の報告 |publisher=名古屋新幹線公害訴訟弁護団(全国公害弁護団連絡会議) |date=2003-03-21 |accessdate=2017-10-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171019024000/http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai32/nagoyashinkansen.html |archivedate=2017-10-19 }}</ref>「これを廃線に追い込んだことは周辺住民の生活環境保全にプラスである」としている<ref name="公害訴訟2004">{{Cite web |url=http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai33/nagoyashinkansen.html |title=名古屋新幹線公害訴訟(和解後)の報告 |publisher=名古屋新幹線公害訴訟弁護団(全国公害弁護団連絡会議) |date=2004-03-21 |accessdate=2017-10-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171019024002/http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai33/nagoyashinkansen.html |archivedate=2017-10-19 }}</ref>。


南方貨物線の建設中止について、名古屋新幹線訴訟の弁護団は「南方貨物線の撤去はそれ自体朗報であった」<ref name="公害訴訟2003">{{Cite web|url=http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai32/nagoyashinkansen.html|title=名古屋新幹線公害訴訟(和解後)の報告(公害弁連第32回総会議案書)|publisher=名古屋新幹線公害訴訟弁護団(全国公害弁護団連絡会議)|date=2003-03-21|accessdate=2017-10-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171019024000/http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai32/nagoyashinkansen.html|archivedate=2017-10-19}}</ref>「これを廃線に追い込んだことは周辺住民の生活環境保全にプラスである」という見解を示している<ref name="公害訴訟2004">{{Cite web|url=http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai33/nagoyashinkansen.html|title=名古屋新幹線公害訴訟(和解後)の報告(公害弁連第33回総会議案書)|publisher=名古屋新幹線公害訴訟弁護団(全国公害弁護団連絡会議)|date=2004-03-21|accessdate=2017-10-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171019024002/http://www.kogai-net.com/archives2013/sokai/sokai33/nagoyashinkansen.html|archivedate=2017-10-19}}</ref>。
[[2010年]](平成22年)現在、高架橋の撤去はその莫大な撤去費用故にあまり進んでいないが{{Sfn|川島|2010|pages=316-318}}、貸借関係のない部分から先に行われており、高架下を[[事務所]]、[[駐車場]]等に賃貸している部分はそのまま残っている場合が多い。また、大高駅付近のように現在の東海道本線の高架橋と一体で建設されている部分については高架橋の撤去はされず、橋脚の[[耐震工事|耐震補強]]が行われている。ただし施工は東海旅客鉄道(JR東海)ではなく所有者の鉄道建設・運輸施設整備支援機構による。


== ルート ==
== ルート ==
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{{BS5|tSTR+l|tSTRq|KRZt|KRZt|KRZt|||[[近畿日本鉄道|近鉄]]:[[近鉄名古屋線|名古屋線]]}}
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{{BS|xKRZt|||[[名古屋市交通局|名市交]]:[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]}}
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{{BS3||exSTR|STR+l|||JR東海:東海道新幹線}}
{{BS3||exSTR|STR+l|||JR東海:東海道新幹線}}
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* [[名古屋貨物ターミナル駅]] - ([[名古屋港線]]交点) - [[笠寺駅]] - [[大府駅]]
* [[名古屋貨物ターミナル駅]] - ([[名古屋港線]]交点) - [[笠寺駅]] - [[大府駅]]
大府 - 共和間(約5.2&nbsp;km)は盛土式{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=278}}、共和 - 天白川橋梁間(約4.7&nbsp;km)は盛土および擁壁式(約3.8&nbsp;km)+高架橋(約0.9&nbsp;km)、天白川橋梁 - 笠寺間(約2.6&nbsp;km)は擁壁式{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=279}}、笠寺 - 八田貨物駅間(約7.4&nbsp;km)および八田貨物駅 - 名古屋間(約5.7&nbsp;km)は高架橋で設計されていた{{Sfn|岐阜工事局|1970|p=280}}。
<!--参考文献では笠寺方面から追っていますが、本項では名貨タ方面からとなります-->


大府駅 - 笠寺駅間は途中の区間(大高駅付近)を高架化した上で、東海道本線と並行する形で複線の線路を敷設(線路別複々線化){{Sfn|川島令三|1996|p=167}}{{Sfn|川島令三|2003|p=202}}。笠寺駅の名古屋寄りで東海道新幹線の高架橋をアンダークロスして東海道本線と分岐し{{Sfn|森口誠之|2002|p=106}}、そこからは[[スラブ軌道|スラブ]]高架で臨海地区を抜ける{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}。笠寺駅を出ると、山崎川を橋梁で渡河してから東海道新幹線の高架橋と斜めに交差(アンダークロス)する{{Sfn|川島令三|2010|pp=316-317}}。南区豊田二丁目(東海道新幹線とのアンダークロス地点付近)からは東海道新幹線と並行し、[[国道247号]]・[[名鉄常滑線]]とオーバークロスする{{Sfn|森口誠之|2002|p=106}}。[[堀川 (名古屋市)|堀川]]を渡河し、[[六番町駅]]([[名古屋市営地下鉄名城線]])の南側で東海道新幹線と別れ{{Sfn|森口誠之|2002|pp=106-107}}、南郊運河<ref group="注" name="南郊運河"/>に並行して{{Sfn|森口誠之|2002|p=103}}、西進する{{Sfn|川島令三|2010|p=316}}。[[名古屋市立東海小学校]]の付近で[[名古屋港線]]([[名古屋港駅 (JR貨物)|名古屋港駅]]へ向かう東海道本線の貨物支線)とオーバークロスし{{Efn2|name="名古屋港線"|南方貨物線と名古屋港線の交点の南西には、名古屋港線(名古屋港駅方面) - 南方貨物線(名古屋貨物ターミナル駅・笹島駅方面)を連絡する単線の短絡線が建設されていたが、南方貨物線とともに途中で建設が放棄されている{{Sfn|森口誠之|2002|pp=106-107}}。}}、[[中部鋼鈑]]の工場付近(港区正保町)で北向きに進路を変えると同時に[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|西名古屋港線]]<ref group="注" name="あおなみ線"/>{{Efn2|name="あおなみ線改良"|西名古屋港線(現:あおなみ線)は南方貨物線との接続を想定し、1983年に名古屋貨物ターミナル駅 - [[東海通 (名古屋市)|東海通]](現在の[[名古屋競馬場前駅]]付近)間(約3.4&nbsp;km)を高架化しており{{Sfn|森口誠之|2002|p=107}}(一部はスラブ軌道化された){{Sfn|川島令三|1996|p=167}}、名古屋貨物ターミナル - 名古屋間(約3.9&nbsp;km)は1998年時点で一部区間を除き、高架化・複線化が完了していた{{Sfn|徳田耕一|1998|p=97}}。また、JR貨物の負担([[運輸施設整備事業団]]の認定事業)により{{Sfn|徳田耕一|1998|p=97}}、1998年3月30日には名古屋貨物ターミナル - 名古屋間が電化されていた<ref>{{Cite news|title=JR貨物 稲沢-名古屋貨タ間が電化 東海道線スピードアップ|newspaper=[[交通新聞]]|date=1998-04-03|publisher=交通新聞社|page=5|language=ja}}</ref>。一方、[[荒子駅]]付近以南の西名古屋港線(貨物本線・現在の[[金城ふ頭駅]]方面)は2001年時点でも単線だったが、西名古屋港線は旅客化(2004年に開業)に当たり、最終的に名古屋 - (名古屋貨物ターミナル方面への分岐点) - 金城ふ頭間の全線が複線化された<ref>{{Cite book|和書|title=想定時刻表付き 未来鉄道2020年 新線鉄道計画徹底ガイド 西日本編|publisher=[[山海堂 (出版社)|山海堂]]|date=2001-07-10|pages=72-73|author=川島令三|edition=第1刷発行|isbn=978-4381103895|chapter=西名古屋港線とその先の貨物側線を旅客化 名古屋臨海高速鉄道の建設}}</ref>。}}{{Efn2|南方貨物線下り線の高架路盤は、西名古屋港線の高架線の直上に設置されるよう設計されていたが、建設途中で放置された{{Sfn|森口誠之|2002|p=107}}。}}と連絡して名古屋貨物ターミナル駅に至るルートだった{{Sfn|森口誠之|2002|pp=106-107}}。そして、名古屋貨物ターミナル駅<ref group="注" name="関西線"/> - 名古屋駅間 (6.3&nbsp;km) は在来の西名古屋港線(単線)を下り線とし、上り線を増設する{{Sfn|日本鉄道建設業協会|1990|p=486}}。これによって西名古屋港線を複線化・高架化<ref group="注" name="あおなみ線改良"/>(一部スラブ軌道化)し{{Sfn|川島令三|1996|p=167}}{{Sfn|川島令三|2003|p=203}}、名古屋駅で「[[稲沢線]]」<ref group="注" name="稲沢線"/>(名古屋 - 稲沢間の複々線)に接続する予定だった{{Sfn|日本鉄道建設業協会|1990|p=486}}。
計画は、当時貨物の[[操車場 (鉄道)|操車場]]が設けられていた[[稲沢駅]]の手前より笹島駅まで完成していた、事実上東海道本線の[[複々線]]である貨物用別線「[[稲沢線]]」と、笹島駅から南に伸びて西名古屋港駅までの間を結び、稲沢線と一体になっていた貨物支線「[[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線|西名古屋港線]]」を活用する形であった{{sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{sfn|川島|2003|pages=202-209}}。

当時[[単線]]・[[非電化]]であった西名古屋港線を[[複線|複線化]]・[[鉄道の電化|電化]]・[[高架化]]して一部[[スラブ軌道]]化し<ref group="注釈">名古屋貨物ターミナル駅北方に西名古屋港線名古屋貨物ターミナル駅方面⇔[[関西本線]][[四日市駅|四日市]]方面の連絡線も設置し、関西本線と西名古屋港線のデルタ線を形成する計画だった。</ref>、西名古屋港線の途中に設けられる名古屋貨物ターミナル駅の南より分岐して{{sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{sfn|川島|2003|pages=202-209}}、左カーブして東進、[[名古屋港駅 (JR貨物)|名古屋港駅]]へ向かう貨物支線([[名古屋港線]])と立体交差し<ref group="注釈">名古屋貨物ターミナル方面⇔[[名古屋港駅 (JR貨物)|名古屋港駅]]方面への連絡線も設置する予定だった。</ref>、そして[[堀川 (名古屋市)|堀川]]付近からスラブ軌道の高架で[[東海道新幹線]]の西側を並行{{sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{sfn|川島|2003|pages=202-209}}して[[名古屋鉄道]](名鉄)[[名鉄常滑線|常滑線]]を跨ぎ、さらに右カーブして東海道新幹線を2度アンダークロスし、笠寺駅の手前で東海道本線に合流し、そこから先は東海道本線と並行する線路別複々線化を行い、ルート上にある大高駅付近を高架化した上で{{sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{sfn|川島|2003|pages=202-209}}、大府駅に至るものであった{{sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{sfn|川島|2003|pages=202-209}}{{Sfn|川島|2010|pages=316-318}}。


=== 高架線の現況 ===
=== 高架線の現況 ===
大府駅 - 笠寺駅間の早期に完成した路盤は先行して使用され、1967年(昭和42年)9月には[[共和駅]]構内 (0.7&nbsp;km) {{Efn2|下り線の待避線(3番線)として利用されている{{Sfn|森口誠之|2002|p=105}}。}}が、1982年3月には笠寺駅構内 (1.2&nbsp;km) {{Efn2|駅構内の側線の一部{{Sfn|森口誠之|2002|p=105}}。}}がそれぞれ供用を開始した{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。また[[大高駅]]付近(約2.4&nbsp;km)は本線の高架化に合わせ、1974年3月から約4年間にわたり{{Efn2|1978年(昭和53年)7月まで{{Sfn|日本鉄道建設業協会|1990|p=486}}。}}、[[仮線]]として活用されていた{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。
[[大高駅]] - 笠寺駅間では東海道本線の[[天白川 (愛知県)|天白川]]橋梁が老朽化したため、東海道本線の線路を南方貨物線側に振り替えているが速度制限はかからず、120km/hにて走行できる{{sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{sfn|川島|2003|pages=202-209}}。また、大府駅南方の東海道本線および[[武豊線]]それぞれにおける、旅客線と貨物線の分岐と立体交差は南方貨物線計画の一環として建設され、この部分は本来の目的通りに使用されている<ref name="rp20008-045">{{Cite_journal|和書|title=国鉄 - JR東海 名古屋圏の線路配線の興味|author=祖田圭介|date=2000-08|publisher=電気車研究会|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|issue=689|page=45}}</ref>。

大高駅 - 笠寺駅間では、東海道本線の[[天白川 (愛知県)|天白川]]橋梁が老朽化したため、1986年(昭和61年)1月からは東海道本線の線路を南方貨物線側に振り替えている{{Efn2|ただし、この区間は速度制限はなく、120&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]で走行できる。}}{{Sfn|森口誠之|2002|p=105}}。また、大府駅南方の東海道本線および[[武豊線]]それぞれにおける、旅客線と貨物線の分岐と立体交差は、南方貨物線計画の一環として建設され{{Efn2|大府駅の武豊線との接続部は1976年(昭和51年)7月から供用開始{{Sfn|森口誠之|2002|p=104}}。1999年(平成11年)に武豊線の名古屋直通列車が大幅に増発されたことにより、この立体交差が真価を発揮するようになった{{Sfn|森口誠之|2002|p=105}}。}}、この部分は本来の目的通りに使用されている{{Sfn|祖田圭介|2000|p=45}}。


また、西名古屋港線の[[中島駅 (愛知県)|中島駅]]からしばらく高架橋に沿って歩くと、上り線は南方貨物線当時に建設されたものを利用した部分があるかる。単線高架橋の並列となっており、上り線は[[鉄板]]で耐震補強してあるが、下り線は当初から[[耐震基準]]に沿った高架橋のため、鉄板がないためであるが、これは西名古屋港線に乗車したままでは分からない。また、西名古屋港線と南方貨物線が分岐する予定だった地点には[[中部鋼鈑]]の工場敷地の一部と隣地に[[橋脚]]が残されている。西名古屋港線の車窓から、中部鋼鈑の工場越しにそのまま残された高架橋が、近隣工場の[[駐車場#立体駐車場|立体駐車場]]として利用されているかる。
なおあおなみ線(西名古屋港線の[[中島駅 (愛知県)|中島駅]]からしばらく高架橋に沿って歩くと、上り線は南方貨物線当時に建設されたものを利用した部分があることかる。単線高架橋の並列となっており、上り線は[[鉄板]]で耐震補強してあるが、下り線は当初から[[耐震基準]]に沿った高架橋のため、鉄板がないだし、これはあおなみ線に乗車したままでは分からない。また、あおなみ線と南方貨物線が分岐する予定だった地点には中部鋼鈑の工場敷地の一部と隣地に[[橋脚]]が残されている。あおなみ線の車窓から、中部鋼鈑の工場越しにそのまま残された高架橋が、近隣工場の[[駐車場#立体駐車場|立体駐車場]]として利用されていることかる。


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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|title=第3次愛知県地方計画|publisher=第3次愛知県地方計画委員会(愛知県企画部企画課内)|year=1970|ref={{SfnRef|愛知県|1970}}|month=1|pages=245-254|chapter=第1節交通体系の整備 > 第3項 鉄道}}
* {{Cite book|和書|title=岐阜工事局五十年史 |author=日本国有鉄道岐阜工事局(編) |publisher=日本国有鉄道岐阜工事局 |date=1970 |ref={{Sfnref|岐阜工事局|1970}} }}
* {{Cite book |和書|title=幻の鉄路を追う 未開業新線再生への提言 |author=[[川島令三]] |publisher=[[中央書院]] |date=1996-12-25 |isbn=978-4887320307 |pages=167-174 |ref={{Sfnref|川島|1996|pages=167-174}} }}
* {{Cite book|和書|title=岐阜工事局五十年史|author=[[日本国有鉄道]]岐阜[[工事局]](編)|publisher=日本国有鉄道岐阜工事局|date=1970-03-31|ref={{SfnRef|岐阜工事局|1970}}}}
* {{Cite book|和書|title=名古屋商工会議所九十年史|publisher=[[名古屋商工会議所]](編著・発行者)|date=1971-10-01|pages=643-644|ref={{SfnRef|名古屋商工会議所|1971}}|chapter=南方貨物線建設工期促進方に関する要望}} - [[愛知県図書館]]・[[名古屋市図書館]]([[名古屋市鶴舞中央図書館|鶴舞中央図書館]]など)に蔵書。非売品。
* {{Cite book |和書|title=幻の鉄路を追う 未開業新線はこうすれば実現する! |author=[[川島令三]] |publisher=[[PHP文庫]] |date=2003-03-17 |edition=初版 |isbn=978-4569579115 |pages=202-209 |ref={{Sfnref|川島|2003|pages=202-209}}}}
* {{Cite book |和書|title=<図解>超新説 全国未完成鉄道路線 ますます複雑化する鉄道計画の真実 |author=[[川島令三]] |publisher=[[講談社+α文庫]] |date=2010-02-20 |edition=第1刷 |isbn=9784062813471 |pages=316-318 |ref={{Sfnref|川島|2010|pages=316-318}} }}
* {{Cite book|和書|title=愛知県昭和史|publisher=愛知県(編集・発行)|date=1973-03-20|pages=621-622|ref={{SfnRef|愛知県|1973}}|volume=下巻}}
* {{Cite book|和書|title=決算検査報告(昭和52年度)|publisher=[[大蔵省]][[印刷局]]|date=1979-02-10|pages=232-234|ref={{SfnRef|会計検査院|1979}}|editor=[[会計検査院]]|chapter=第3章 第2節 第2 日本国有鉄道}}
* {{Cite book|和書|title=PLAN'80 国鉄名古屋 今後の名古屋圏国鉄への提言|publisher=交通日本社|date=1981-02-15|ref={{SfnRef|PLAN'80|1980}}|editor=[[東海旅客鉄道東海鉄道事業本部|名鉄局]]「PLAN'80」研究会}} - 愛知県図書館・名古屋市鶴舞中央図書館・[[幸田町立図書館]]に蔵書。
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* {{Cite book|和書|title=日本鉄道請負業史 昭和(後期)篇|publisher=日本鉄道建設業協会|date=1990-03-01|pages=485-487|ref={{SfnRef|日本鉄道建設業協会|1990}}|chapter=第2編 建設工事 > 第4章 中部地区 > 6. 東海道本線(南方貨物線) 大府・名古屋間|doi=10.11501/2527361}}
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* {{Cite book|和書|title=幻の鉄路を追う 未開業新線再生への提言|author=[[川島令三]]|publisher=[[中央書院]]|date=1996-12-25|edition=初版|chapter=名古屋市内の高架線――南方貨物線 貨物の衰退で放棄された|isbn=978-4887320307|pages=167-174|ref={{SfnRef|川島令三|1996}}}}
** {{Cite book|和書|title=幻の鉄道路線を追う 未開業新線はこうすれば実現する!|publisher=[[PHP文庫]]|date=2003-03-17|ref={{SfnRef|川島令三|2003}}|author=川島令三|edition=第1版第1刷|isbn=978-4569579115|pages=202-210|chapter=名古屋市内の高架線――南方貨物線 貨物の衰退で放棄された}} - [[文庫本]]版
* {{Cite book|和書|title=新修 名古屋市史|publisher=名古屋市|date=1998-03-31|ref={{SfnRef|名古屋市|1998}}|editor=新修名古屋市史編集委員会|pages=671-672|volume=第七巻}}
* {{Cite book|和書|title=鉄道廃線跡を歩く〈5〉 消えた鉄道実地踏査60|publisher=[[JTB]]|date=1998-06|ref={{SfnRef|徳田耕一|1998}}|author=[[徳田耕一]]|editor=[[宮脇俊三]](編著者)|edition=初版|series=[[JTBキャンブックス]]|isbn=978-4533030024|pages=95-97|chapter=南方貨物線(未成線)【大府~笠寺~名古屋貨物ターミナル】}}
* {{Cite journal|和書|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|author=祖田圭介|title=国鉄 - JR東海 名古屋圏の線路配線の興味|volume=50|page=45|date=2000-08-01|issue=8|publisher=[[電気車研究会]]|doi=10.11501/3294824|ref={{SfnRef|祖田圭介|2000}}}} - 2000年8月号・通号689
* {{Cite book|和書|title=鉄道未成線を歩く〈国鉄編〉 夢破れて消えた鉄道計画線 実地踏査|publisher=JTB|date=2002-06-01|ref={{SfnRef|森口誠之|2002}}|author=森口誠之|edition=初版|series=JTBキャンブックス|isbn=978-4533042089|pages=102-107|chapter=南方貨物線【大府~笠寺~名古屋貨物ターミナル】}}
* {{Cite book|和書|title=国鉄清算事業本部史 1998-2003|publisher=日本鉄道建設公団国鉄清算事業本部(監修・発行)|date=2003-09-30|ref={{SfnRef|国鉄清算事業本部|2003}}|editor=日本鉄道建設公団国鉄清算事業本部管理部管理課}}
* {{Cite book|和書|title=貨物鉄道百三十年史|publisher=日本貨物鉄道|date=2007-06|pages=824-825|ref={{SfnRef|貨物鉄道百三十年史(中巻)|2007}}|editor=日本貨物鉄道株式会社 貨物鉄道百三十年史編纂委員会|series=貨物鉄道百三十年史|chapter=第7章 実現しなかった貨物輸送計画 > 第5節 中京圏・関西圏の貨物別線計画|volume=中巻}}
* {{Cite book|和書|title=貨物鉄道百三十年史|publisher=日本貨物鉄道|date=2007-06|pages=|ref={{SfnRef|貨物鉄道百三十年史(下巻)|2007}}|editor=日本貨物鉄道株式会社 貨物鉄道百三十年史編纂委員会|series=貨物鉄道百三十年史|chapter=|volume=下巻}}
* {{Cite journal|和書|journal=鉄道ピクトリアル|author=祖田圭介|title=東京・大阪・名古屋の貨物線|volume=58|page=14|date=2008-09-01|issue=9|publisher=電気車研究会|ref={{SfnRef|祖田圭介|2008}}}} - 2008年9月号・通号808
* {{Cite book|和書|title=<図解>超新説 全国未完成鉄道路線 ますます複雑化する鉄道計画の真実|author=川島令三|publisher=[[講談社+α文庫]]|date=2010-02-20|edition=第1刷|isbn=9784062813471|pages=316-318|ref={{SfnRef|川島令三|2010}}|issue=G 181-3}} - 原著『<図解>超新説 全国未完成鉄道路線 ますます複雑化する鉄道計画の真実』(単行本版)は2007年10月25日に第一刷発行。
* {{Cite book|和書|title=鉄道による貨物輸送の変遷―操車場配線回顧―|publisher=富士コンテム|date=2010-04-01|ref={{SfnRef|太田幸夫|2010}}|edition=第1刷発行|isbn=978-4893916570}}
* {{Cite book|和書|title=中川運河再生計画 歴史をつなぎ、未来を創る運河~名古屋を支えた水辺に新たな息吹を~|publisher=[[名古屋市]]住宅都市局 都市整備部 臨海開発推進室、[[名古屋港管理組合]] 建設部 総合開発室 再開発担当|date=2012-10|ref={{SfnRef|名古屋港管理組合|2012}}|url=https://www.port-of-nagoya.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/097/keikakusyo.pdf#page=13|format=PDF|edition=パンフレット|accessdate=2021-01-27|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210127153700/https://www.port-of-nagoya.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/097/keikakusyo.pdf|archivedate=2021-01-27}}


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2021年1月30日 (土) 13:53時点における版

南方貨物線
建設途中で放棄された高架橋
建設途中で放棄された高架橋[注 1](2012年4月)
概要
系統 東海道本線名古屋地区
現況 未開業
所在地 日本の旗 日本愛知県大府市名古屋市
起終点 起点:大府駅[1]
終点:八田貨物駅(仮称)[注 2][1]
路線 東海道本線
運営
所有者
路線構造 高架橋(笠寺駅 - 八田貨物駅間)[1]
路線諸元
路線総延長 約19.5 km(大府駅 - 八田貨物駅間)[1]
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流1,500 V 架空電車線方式
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南方貨物線(なんぽうかもつせん)とは、日本国有鉄道(国鉄)が愛知県内で東海道本線大府駅 - 名古屋駅間:約26.1 km)の複線線増(複々線化)として建設していた貨物支線未成線[1]。本項目では主に、未成区間となった大府駅 - 笠寺駅 - 名古屋貨物ターミナル駅間(約19.5 km)[1]について解説する。

東海道本線と武豊線[ともに現在は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄路線]が合流する大府駅(大府市)から、笠寺駅(名古屋市南区)まで東海道本線に線路別複々線の形で並走し、笠寺駅で分岐してからは東海道新幹線高架橋や南郊運河[注 4]に並行して、名古屋貨物ターミナル駅(同市中川区・1980年開設 / 仮称:「八田貨物駅」)[注 2]に至る[注 5][3]。そして同駅から名古屋駅まで(約6.2 km)[注 6][1]は、「西名古屋港線[注 7]および「稲沢線[注 8]を充当し[6][1]、西名古屋港線(名古屋貨物ターミナル駅 - 名古屋駅間)に並行して1線を増設[7](複線化)[注 9]することで、名古屋駅[6]稲沢駅稲沢操車場)方面へ至る計画だった[8]。この路線が完成すれば、大府 - 名古屋 - 稲沢間は稲沢線(名古屋 - 稲沢間)と併せ、客貨分離がなされる予定だった[注 10][1]

名古屋付近の東海道線の輸送力強化を図るため[10]1967年昭和42年)から建設が開始されたが、並行する東海道新幹線騒音公害訴訟問題によって工事は中断し[8]1983年(昭和58年)には国鉄の財政難・鉄道貨物輸送需要の激減を受け、建設が凍結された[11]。それまでに高架橋の大半が完成していたが、工事は再開されず、2002年平成14年)から完成していた高架橋の解体が行われた[12]

概要

昭和30年代後半の鉄道貨物輸送の好調[注 11]により、大都市付近の国鉄路線では旅客輸送の増加と相まって輸送力の不足が目立ち始めた[7]。特に、「南方貨物線」の建設が決まった1966年(昭和41年)当時、名古屋地区の東海道線は名古屋 - 稲沢間 (11.1 km) が(貨物専用線の「稲沢線[注 8]により)複々線化されていた一方、名古屋以東は複線のままで、長距離旅客列車名古屋圏通勤電車と貨物列車が混在して列車本数が多くなっており、東海道線で最大の隘路区間となっていた[14]。そのため、圏内輸送は幹線直通輸送の合間を縫って行うような状態が続き、圏内輸送機関として大きい役割を果たすことができなかった[15]。そこで大府 - 名古屋間 (19.5 km) を複々線化し、貨物列車を新線(南方貨物線)に移すことで、名古屋駅を中心に客貨分離を行い[16]、同区間の輸送量増強[17]・旅客輸送の改善が図られた[16]

また、名古屋地区における貨物ターミナル駅は、名古屋駅の裏側に設けられていた笹島駅[注 12]であったが、同駅と東海道線(および名古屋港線・西名古屋港線[注 7])や関西線との接続には、道駅から約11 km北側に位置する稲沢操車場を経由する必要があったため、折り返し運転などのために無駄な時間を必要としていた[19]。そこで、同駅の南方約3.9 km(西名古屋港線の沿線)へターミナル機能を移転する形で[20]名古屋貨物ターミナル駅(仮称:「八田貨物駅」)[注 2]を開設することになった[11]。笹島駅発着の上り(東京方面行)貨物列車は当時、稲沢経由で折り返し運転を強いられていたが[20]、この新貨物駅は「南方貨物線」上に位置するため[16]、南方貨物線が完成すれば、名古屋貨物ターミナル駅・笹島駅とも同線上の駅となることで[21]、稲沢での折り返し運転が解消されることになり、上下列車のスルー運転・物流システムの効率化が期待された[20]。また、同時に名古屋港線[注 13]・西名古屋港線とも結びかえを行い[注 5]、南方貨物線(貨物輸送ルートの基幹)から分岐する線形とすることで、能率的な輸送体型が整備されることも期待された[21]。しかし、「南方貨物線」の大府 - 笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間は未成に終わり、名古屋貨物ターミナル駅発着の上り貨物列車は、同駅が開業した1980年(昭和55年)以降も稲沢経由のままとなっている[20]

国鉄は南方貨物線の建設と併せ、日本鉄道建設公団が建設していた岡多線瀬戸線[注 14]を利用し、東海道線の岡崎 - 稲沢間を迂回する形で貨物複線を設ける「北方貨物線」[注 15]計画も有していたが、こちらも貨物輸送需要の減少を受け、1987年(昭和62年)3月の国鉄分割民営化に伴い、新たに発足した日本貨物鉄道(JR貨物)が計画を放棄した[28]

路線データ

  • 路線距離:大府駅 - 名古屋駅間(約26.1 km、うち大府駅 - 八田貨物駅間は約19.5 km)[1]
    • 大府駅 - 笠寺駅間(東海道本線との並走区間):約12.1 km[注 16][1]
    • 笠寺駅 - 八田貨物駅間(別線線増区間):約7.4 km[1][6]
    • 八田貨物駅 - 名古屋駅間(西名古屋港線):約6.2 km[注 6][1]
  • 電化区間:全線(直流1,500 V
  • 複線区間:全線(大府駅 - 笠寺駅間は東海道本線の線路別複々線区間)
    • 三線区間:八田貨物駅(仮称) - 名古屋港線交点(仮称)

歴史

名古屋付近鉄道総合改良計画

南方貨物線の原型は1939年(昭和14年)に鉄道省岐阜工事事務所(後の国鉄岐阜工事局)が立案した名古屋付近鉄道総合改良計画にある。当時、日中戦争勃発後の軍需輸送増大により稲沢操車場の貨車中継能力が限界に達しており、同計画では貨物輸送増強策の一環として新たに八田、勝川、大府に操車場を設けることが構想されていた。付随する貨物線の新設も検討され、それぞれ南方貨物線(八田)、北方貨物線(勝川)、東方貨物線(大府)と呼ばれていた[30]。この中では八田操車場と南方貨物線がもっとも有力視され、1941年(昭和16年)から翌年にかけて東海道本線大府 - 枇杷島間の線増扱いで測量費が予算計上され、地形測量が実施された[31][32]

一方、鉄道省名古屋鉄道局運輸部でも岐阜工事事務所の計画と前後して貨車中継の改良計画を立てていたが、むやみに操車場を新設するのは貨車の輸送効率の面で不利であり、同局では稲沢操車場にハンプを2か所設ける一大ヤードとする案を推していた[33]。このため八田操車場の新設は省内も賛否両論であったが、最終的には稲沢・八田の2操車場案でまとまり、1943年(昭和18年)以降も南方貨物線・八田操車場の建設を推進することとなった。しかし、戦争の激化により同年以降は予算計上できず、計画はいったん棚上げとなった[31][34]

計画の再開からルート選定まで

南方貨物線のルート選定(赤線が最終決定案)

終戦後はただちに測量が再開され、1946年(昭和21年)4月には当時の計画線28 kmの測量を終えた[32]。同年9月には天白川 - 枇杷島間の用地設計案を運輸省に上申し、翌年には鉄施第645号として承認された[32]。その後、南方貨物線計画は名古屋市の都市復興計画と連動して構想された名古屋付近鉄道復興計画(鉄施第1492号)に組み込まれた[35][32]。当時の計画ルートは最終決定案とやや異なり、関西本線を跨ぎ越して市街地を北上し、庄内川を渡り五条川信号場付近で稲沢線[注 8]に合流するという、後に「中村ルート」と呼ばれるルート案に近いものであった[32]

南方貨物線は東海道本線の線増を目的としていたが、同様の目的を別の形で推し進める新幹線建設計画が立ち上げられるとそちらが優先され、貨物線の分離のみを目的とする南方貨物線計画は再び停滞する。不要不急論に対し、当時名古屋港東岸(東臨港)の貨物線整備が不十分であったため、臨港地域の貨物集約機能を南方貨物線に付加する案も出された(「海岸線ルート」)[32][29]。種々検討の結果、ルートを大府 - 笠寺 - 八田 - 笹島に変更し、さらに貨物専用ではなく旅客輸送も行う計画に修正されたが、これも1961年(昭和36年)の東港線の建設決定(のちに臨海鉄道方式に移行)により廃案となる[32]

このように構想と中断を繰り返した南方貨物線だが、完全に中止されることは無く、1962年(昭和37年)2月には国鉄常務会(第234回)の承認を経て新幹線並行区間(笠寺・堀川間)の用地が新幹線用地と共に買収され[32]1964年(昭和39年)に企画された第3次長期計画(1965年を初年度とする7か年計画)にも東海道本線大府 - 名古屋間複々線化工事として予算計上されていた[36]。その後、計画ルートの選定も新幹線工事の進捗と共に最終段階となり、区間別に以下のような比較検討が行われた[32]。起点が大府駅(東海道本線と武豊線の合流点)とされたのは、知多半島の東岸にある衣浦臨海工業地帯からの貨物列車や、名古屋駅に直通する旅客列車が増加することを想定し、武豊線の複線化が企画されていたためであった[8]

大府 - 笠寺間
臨港貨物集約機能を兼ねる「海岸線ルート」が比較検討されたが、大きく迂回し地盤も悪いことから建設費が膨大となるため、当初案通り本線併設ルートが選定され[29]、既設線沿いの盛り土に敷設された[8]。新設線については貨客併用案・貨物専用案・(既設線とともに)方向別複々線として運用する案が検討されたが、貨物専用線として運用されることが決まった[8]。これにより、新設線の「南方貨物線」は完成後、貨物専用線として24時間走行が予定され[37]、並行する既設線は旅客線として運用されることとなった[38]
笠寺 - 名古屋間
笠寺以北の併設は市街地のため建設費が高くつくこと、同区間も併設にすると八田操車場と連絡できないことから、この区間は笠寺・八田間の「運河ルート」が選定された[29]。なお、堀川・八田間約2 km区間については1963年(昭和38年)にルートの再検討が名古屋市との間で行われ、南郊・小碓運河利用案と東海通直上高架案の二案が提示されていた。これも比較検討の結果、埋め立て計画により用地取得が容易になる南郊・小碓運河利用案が採用された[32]
八田 - 枇杷島間
この区間を「中村ルート」にすれば瀬戸線ともども名古屋駅を経由する必要がなくなり[注 17]貨客分離の観点からもメリットがあった。しかし中村区の家屋密集地域を縦貫するため、市との設計協議さえ困難な状況であった。建設費の高騰も予想されたため、結局、国鉄用地のみでほぼ建設可能な名古屋経由ルートが選定された[39]

選定ルート案は1966年(昭和41年)4月の常務会で承認され、同年5月の設備投資計画に盛り込まれた(用地費52億円、主体工事費114億円、付帯電気工事費25億円で総額191億円)[32]。同年、運輸大臣が建設計画を認可[40]。新幹線開業後も東海道本線名古屋付近の列車回数はほとんど減少せず、その後も大幅な輸送量の増加が見込まれていた[41]名古屋商工会議所[注 18] (1971) は、南方貨物線の建設効果について「名古屋付近の線路容量の限界が解消され、同時に計画された八田操車場(現:名古屋貨物ターミナル駅)の新設が稲沢操車ヤード[注 19]の行詰りを解決することとなり、更に今後名古屋港南部及びに西部、四日市地区、衣浦地区と臨海地帯の発展に対応し、また関西線[注 5]、名古屋臨港線[注 13]の発着貨車の操配運用効率を高める効果など名古屋付近の鉄道輸送は画期的な改善をみせるものと期待される。」と述べている[43]

着工

当工事は東海道本線の線増工事として企画されたもので、鉄道敷設法の予定線としては取り扱われていなかったため、日本鉄道建設公団ではなく国鉄が自ら工事を担当した[8]1967年(昭和42年)2月から用地買収が開始され、同年3月からは天白川橋梁の工事も着手された[8]。また、1968年(昭和43年)11月からは八田貨物駅の測量工事も開始された[8]。総工事費は約三百数十億円[注 20]が見込まれ[注 21][45]、国鉄は1972年(昭和47年)10月の全面使用開始を目指して工事を進めた[注 22][32]1969年(昭和44年)度末時点で、工事進捗率は36%(用地57%、主体工事30%)に至っていた[32]。沿線は迷惑施設である貨物線の受け入れ条件として、駅の高架化と旅客列車の運動を要望していたが、用地全体を4 m嵩上げすることで代替された[8]

環境問題による工事中断

南区豊田付近の新幹線並行区間(1977年10月)。工事中断により高架橋は途中で途切れている。
帰属:国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」
配布元:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス

しかし、南(大府方面)から開始された工事が名古屋市内に進んできた1971年(昭和46年)ごろから、沿線住民たちが南方貨物線の建設を「新幹線公害との複合公害になる」と問題視していた[46]。当該区間は東海道新幹線と並行して敷設される予定だった南区豊田山崎川付近)から熱田区四番町にかけての区間(約2.9 km)で、これらの地域住民の間では、以前から新幹線の騒音振動への不満が高まっていたところ、貨物線の騒音に対する懸念や、土地を奪われることへの反発も重なり[8]、公害反対運動が活発化していた[40]。同年4月、名古屋市政懇談会にて「新幹線公害反対運動が行われている地域に新幹線と並行して南方貨物線の建設が進められているが、これが開通すれば、すでに新幹線で被害を受けている生活環境がさらに悪化することは必至である。したがって市として国鉄に対し強く公害対策を要望するように」との意見が出た[40]。この沿線住民の要望を受け、名古屋市は同年5月 - 1972年(昭和47年)5月にかけ、国鉄岐阜工事局長に対し、以下6点を要望した[40]

  1. 列車開通時の騒音・振動対策[40]
  2. 工事中の公害対策[40]
  3. 沿線住民に対する説明[40]
  4. 列車開通時のテレビ障害対策[40]
  5. 鋼桁の騒音対策[40]
  6. 夜間運行の減少[40]

それらの要望に対し、国鉄は防音壁の設置・ロングレールの使用などといった対策を示したが[40]、1972年7月には名古屋新幹線公害対策同盟の会員が中心となって「南方貨物線公害追放委員会」を結成した[46]。「追放委員会」は国鉄に対し、「南方貨物線の建設を否定するものではないが、沿線住民が納得できる公害対策を要望する」と表明[40]。同年8月、名古屋市長[注 23]は国鉄本社で担当常務理事に対し、南方貨物線の公害対策について要望した[40]。これに対し、国鉄側は「深夜運行の禁止は実施困難だが、鋼桁橋はコンクリート橋に変更して騒音対策を実施する。その他の騒音・振動対策も実施・努力する」と回答した[47]

1973年(昭和48年)4月には、名古屋市立明治小学校[注 24](南区)にて開かれた住民大会で、「市は南方貨物線問題について、公害防止協定を国鉄との間で締結してほしい」との要望が出されたため、同年7月に名古屋市は国鉄に対し「沿線の生活環境を良好に維持できる公害防止協定の考え方を示すこと」「公害防止協定が締結されるまで、工事を一時中止すること」を要望した[48]。国鉄側は「公害防止協定については全国的な問題であるため、関係方面と打ち合わせに向けて努力するが、工事の一時中止はできない」と回答[48]したが、同月には一部の工事が中止された[注 25][1]。名古屋市長[注 26]は同年9月に再び国鉄本社へ出向き、国鉄総裁[注 27]に対し「緩衝地帯の設置」「夜間の運行速度の提言」「軌道構造による騒音振動防止」「沿線住民との公害防止協定の締結」を改めて要望した[48]。同年以降、工事は事実上中止され[注 28][48]、翌1974年(昭和49年)3月に地元住民から提訴された新幹線の減速・損害賠償請求訴訟のあおりも受けたことで、工事は大幅に遅延[注 29][8]。住民による環境対策面での合意[注 30]が成立するまで、工事は中断された[46]。国鉄側は公害防止対策・環境保全対策に加え、いったん提出した土地収用法に基づく事業認定の申請を取り下げるなどの措置を講じたが、地元住民の理解を得るには至らず、用地買収なども著しく難航した[51]

結局、工事が凍結されていた笠寺 - 八田貨物駅間の工事は、裁判闘争も踏まえながら、国鉄が名古屋市と環境対策について交渉を続けた[11]。その後、国鉄は名古屋市および「公害追放委員会」と公害防止協定の締結に向けて議論したが、具体的な進展がなかったため、それに代わる措置として、名古屋市が国鉄に対し環境アセスメントの実施を求めた[52]。国鉄もこれに応じ、名古屋市が開発・指導した新型の防音壁を採用したところ、大幅な騒音低減効果が得られたため[53]、1979年(昭和54年)暮れには環境対策で住民らとの和解が成立[45]1980年(昭和55年)1月には国鉄から名古屋市長[注 26]宛てのアセスメント書[注 31]が提出され、同年2月から工事が再開された[注 32][53]。名古屋市公害対策局 (1982) はこのような経緯で建設再開の合意に至った南方貨物線の事例について、「(沿線の)住民、国鉄、地方公共団体が三位一体となって(住民合意に向けて)努力した成果であり、全国的に見てもめずらしいケース」と述べている[53]

また、同年10月には八田貨物駅(建設期間約12年[注 2]・総工費約300億円)が「名古屋貨物ターミナル駅」として開業[38]名古屋鉄道管理局は1981年(昭和56年)に発表した『PLAN80』で、名古屋貨物ターミナル駅をコンテナ基地・笹島駅[注 12]車扱貨物基地として位置付けると同時に、南方貨物線を「名古屋圏での貨客分離を実現する機関ルートとして、早期竣工する」と表明し、名古屋衣浦の両臨海鉄道と南方貨物線を直結する輸送体系の確立も求めていた[11]

国鉄の財政難による建設凍結

しかし、国鉄の財政悪化や、鉄道貨物需要の激減により[1]、同年以降は十分な予算を獲得できなくなった[11]。また、1982年(昭和57年)9月24日に出された閣議決定「日本国有鉄道の事業の再建を図るために当面緊急に講ずべき対策について」[54][55]では、「老朽設備取替、安全対策及び環境保全のための投資のうち特に緊急度の高いもの[注 33]を除き、(設備投資は)原則として停止する。」とされた[57]

南方貨物線は当時、完成後の使用見通しについて、単線営業化、旅客化などが検討されていたが、当時の大府 - 名古屋間は旅客・貨物とも輸送量が横ばいないし減少傾向[注 34]にあり、「当面これらが大幅に増加する状況も考えられない」とされた[59]。そのため、当初の投資目的(客貨輸送の増に対応)からみて「緊急性に乏しい工事」とされ[59]、翌1983年(昭和58年)1月に再び工事が中止されることとなった[45]。当時は用地買収が100%完了し[60]、未着工部分は名古屋市内の約1.3 kmを残すのみで[注 35][45]、笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間の下部工事は8割方完成していた[注 36]状態で、全線開通までに必要な予算は約100億円が見込まれていた[11]。この時点までに投じられた工費は約345億円(用地買収費用を含む)[62]

名古屋貨物ターミナル駅の開業後、大阪方面から同駅に発着する貨物列車は稲沢線を経由し、名古屋貨物ターミナル駅に直接入線できるようになった[63]。一方、その先の南方貨物線(笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間)が開業しなかったことから、名古屋貨物ターミナル駅の開業後も[62]、同駅と東海道本線の静岡東京方面の相互に発着する貨物列車は[64]、いったん稲沢へ向かい、稲沢駅でスイッチバックすることとなった[63]。その結果、名古屋貨物ターミナル - 東京間の所要時間は(南方貨物線が開業した場合に比べ)約1時間長くなっていた[62]

会計検査院は、工事凍結後の1985年(昭和60年)11月までに、「これまでに建設のため投入された資金はすべて借金で、金利だけで毎年約20億円ずつ増えている状況だ。国民経済上大きな損失となっているため、早急に何らかの改善が図られるべきだ」として、国鉄建設局に対し事態の進展を求めていた[45]。しかし、国鉄建設局はこれに対し「着工当時と比較して貨物輸送が激減しており、新たな貨物線の建設は無意味だ。今後のことは国鉄分割民営化で同線を継承するだろう新会社(後のJR東海)が決めるが、それまでは工事凍結となり金利が累積することもやむを得ない」と回答していた[注 37][45]。また、国鉄側は南方貨物線の今後の処遇について、「貨物会社[後の日本貨物鉄道(JR貨物)]が継承する」「東海会社(後のJR東海)が継承する」「清算事業団に継承する」の3案で検討していたが、貨物会社案は「当面、現在の東海道線だけで十分貨物輸送が賄える」との理由で除外され[65]、旅客会社(JR東海)の中核となった名古屋鉄道管理局も、毎年20億円の金利負担・採算性を問題視し、引き受けを拒んでいた[11]日本国政府衆議院国鉄改革特別委員会に出した国鉄分割民営化後の経営見通しを示す資料でも、南方貨物線の今後については言及されていなかったため、1986年(昭和61年)10月13日には衆院特別委員会で草川昭三議員(公明党・国民会議、愛知2区)がこの問題を追及した[65]。これに対し、橋本龍太郎運輸大臣は「使用中の区間(名古屋貨物ターミナル - 名古屋駅間:約6 km)は東海会社に継承させる」との意向を示した一方、それ以外の区間については「東海会社の経営状態や、(鉄道としての)利用可能性を考えて結論を出したいが、現時点では未定」と答弁していた[66]

1987年(昭和62年)4月に国鉄分割民営化が行われ[11]、その際に名古屋 - 名古屋貨物ターミナル間(西名古屋港線[注 7]・約6 km)はJR東海に移管され、JR貨物が利用した[67]。一方、未完成区間である名古屋貨物ターミナル - 大府間の19.5 kmは「処分対象資産」とされ[62]、大半の区間(大府 - 笠寺間の既開業区間を除く約12.2 km)が日本国有鉄道清算事業団[注 3][現:鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT) ]の所有となった[1]

建設再開計画の迷走

運輸政策審議会答申12号

1991年(平成3年)2月15日の衆議院連絡委員会では、運輸省(現:国土交通省)の審議官が「南方貨物線を旅客線として活用したい」との意向を示したが、東海旅客鉄道(JR東海)社長の須田寬は同年2月20日の記者会見で「議事録を精読したが、『JR東海に売る』とまで踏み込んだ答弁内容ではなかったと認識している。旅客線として活用しても、採算が合わない見込みが強く、活用するとなれば(この時点で)さらに百数十億円の投資が必要であり、とても当社の手に負える代物ではない。買い取る意思は全くない」と述べ、運営に関わりを持つことを否定した[68]。一方、須田の発言を受けて愛知県交通対策室長・中村真は「県としては、貨物線として再生してほしいという従来の姿勢に変わりはない。その望みが薄いなら、清算事業団自らが新会社を作るなり、主導的に有効利用に知恵を絞ってもらいたい」とコメントしたが[68]、土地・高架橋を保有していた国鉄清算事業団は「(我々は)資産を処分するのが役割で、建設主体になるのはあり得ない」という反応を示していた[62]

運輸省事務次官・中村徹は翌1992年(平成4年)1月10日、運輸政策審議会答申12号(名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について)にて、「東海道線名古屋地区の混雑緩和を目的に、南方貨物線を西名古屋港線[注 7]とともに、旅客線として開業させてはどうだろうか?」と提案し[70]、同答申では「鉄道貨物輸送力増強の必要性、旅客輸送動向などを勘案して検討する」とされた[71]。同年時点で、(南方貨物線・西名古屋港線に並行する)東海道線名古屋 - 笠寺間を走る貨物列車の数は上下それぞれ約60本/日だったが、貨客混合の同区間のダイヤは既に過密状態で、増発が困難な状況となっていた[62]一方、このころにはトラック輸送業界の運転手不足・大気汚染交通渋滞による遅配などの問題から[62]、(特に長距離貨物輸送で)[62]モーダルシフト(鉄道・海運などへの輸送形態の変化)が進んでいた[注 38][73]。そのため、中部運輸局が関係者を集めて「幹事会」を組織し、南方貨物線・西名古屋港線の旅客線化に向けた勉強会を開始した[74]ほか、同年6月5日に開かれた鉄道貨物協会名古屋支部の通常総会では、南方貨物線の早期開業を国に働き掛ける決議がなされるなど[73]、陸運業界を中心に、南方貨物線開業への期待が高まっていた[注 39][62]

当時、仮に南方貨物線を旅客・貨物併用線として工事を再開した場合の事業費は約165億円と概算されており[74]、その建設費の捻出方法については「トラック運送業界や関係自治体(愛知県・名古屋市など)、JR東海・JR貨物などで第三セクターを設立するしかない」との見方が強かった[62]。しかし、1992年当時の名古屋駅 - 熱田駅[注 40]の混雑率は約135%で、南方貨物線の旅客化は「意義が薄い」とされ[77][78]、見送られた[注 41]。1997年(平成9年)6月には、JR貨物の完全民営化のための基本問題懇談会で、南方貨物線について「将来、少なくとも貨物鉄道としてその有効活用を図ることが適当であると考えるが、種々解決すべき課題が残されていることから、今後、さらに関係者間において必要な検討・調整を進めていく必要がある」という意見が出た[1]が、JR貨物[注 42]・JR東海・名古屋市・愛知県など関係機関は、いずれも「自ら事業主体となることは考えられない」という姿勢を示しており、活用に向けた事業化は極めて難しい状況になっていた[1]

それ以外にも、常滑沖に建設された中部国際空港(セントレア)への空港連絡鉄道として活用する案[注 43]も出されたが[11]、これも実現しなかった。一方、西名古屋港線の旅客化工事の際には、南方貨物線が分岐できる構造となっていた高架橋がその阻害となったため、該当部分が撤去された[注 44][80]

開業断念・高架橋解体

老朽化した高架橋の補修

その一方で高架橋の高欄(主にブロック造)は建設から20数年が経過し、経年劣化による老朽化が進んだことで[81]、剥離・落下する危険な状況となっていた[注 45][84]。このため、日本鉄道建設公団国鉄清算事業本部(旧:清算事業団の事業を継承)[注 3]は1999年(平成11年)10月 - 2001年(平成13年)5月にかけ、高欄の撤去工事を行った[81]。鉄建公団国鉄清算事業本部は2000年度(平成12年度)以降、南方貨物線の最終的な処理方法[注 46]を決定するため、関係する事業者などへの最終意向確認を行った[81]。この時、国鉄清算事業本部は高架橋の撤去費用に数百億円が必要となることを踏まえ、「仮に撤去しなくて済むような整備をして鉄道・道路などに使う者がいる場合、約100億円を助成する」「鉄道路線として活用する場合は高架橋などをある程度完成させてから引き渡す」などの提案を含め、JR貨物東海支社などに打診した[85]。しかし、いずれの関係先も「鉄道としても、鉄道以外の利用にしても、自ら取得することは考えられない」と回答した[注 47][81]。これにより、同年6月には日本鉄道建設公団国鉄清算本部[注 3]により、鉄道利用の可能性が皆無であることが最終確認され[87]、同本部は鉄道としての利用を断念することを決めた[7]

2001年8月、中部運輸局は南方貨物線の鉄道路線としての利用を断念し、撤去費総額300億円[注 48]を前提に、2002年(平成14年)度の撤去費用46億円を予算要求した[注 49][89]。老朽化による崩壊の危険性があることに加え、景観の改善も兼ね[90]、2002年度から不用となった高架橋などを撤去して更地化し[87]、土地を一般競争入札で売却することが決まった[67][86]。これにより、JR東海に移管された約8 km(笠寺駅・大高駅周辺など)を除き、未開通区間の高架橋約12 km分については、莫大な解体費用[注 48]をかけて撤去されることとなったが、バブル経済崩壊による地価下落の影響・幅10 mほどの細長い土地形状という事情から、撤去費との差額分にも国費が負担されることとなった[67]。鉄建公団は土地処分に当たり、経費削減の観点から構造物付での処分を進めたが[注 50][84]、約13 kmの高架橋を更地化する経費として約200億円[注 51]が必要になった一方、売却で回収できる金額は約40億円程度にとどまることになった[93]。国鉄清算事業本部は、南方貨物線および「梅田吹田[注 52]武蔵野操車場」の土地処分を「三大プロジェクト」と呼んでいる[83]。このうち、南区内の「豊代児童遊園地」は無償で名古屋市へ譲渡されたほか、市立明治小学校横の土地[95](1,094.48 / 331.66坪)[注 24][96]名古屋市教育委員会が有償で取得[95]し、2010年(平成22年)1月には同校の運動場として利用が開始された[96]

大府 - 笠寺間(東海道線並行区間)は土地幅が狭く、JR東海が継承した土地(東海道線敷地)内にJRTTに帰属した構造物が存在するなど複雑な要因が絡み合っていることなどから、土地処分が困難とみなされたため、JRTTはJR東海に一括での土地取得を要請[88]。その結果、JR東海は2006年(平成18年)12月に、JRTT側が必要な措置[注 53]を講ずることを前提に要請を引き受ける旨を回答し[88]、土地・構造物は2010年(平成22年)7月にJRTTからJR東海へ引き渡された[99]。これにより、南方貨物線の土地処分は完了したため、JRTTは同年11月に国鉄清算事業東日本支社中部事務所を廃止した[100]

南方貨物線の建設中止について、名古屋新幹線訴訟の弁護団は「南方貨物線の撤去はそれ自体朗報であった」[89]「これを廃線に追い込んだことは周辺住民の生活環境保全にプラスである」という見解を示している[37]

ルート

大府 - 共和間(約5.2 km)は盛土式[29]、共和 - 天白川橋梁間(約4.7 km)は盛土および擁壁式(約3.8 km)+高架橋(約0.9 km)、天白川橋梁 - 笠寺間(約2.6 km)は擁壁式[101]、笠寺 - 八田貨物駅間(約7.4 km)および八田貨物駅 - 名古屋間(約5.7 km)は高架橋で設計されていた[6]

大府駅 - 笠寺駅間は途中の区間(大高駅付近)を高架化した上で、東海道本線と並行する形で複線の線路を敷設(線路別複々線化)[102][103]。笠寺駅の名古屋寄りで東海道新幹線の高架橋をアンダークロスして東海道本線と分岐し[104]、そこからはスラブ高架で臨海地区を抜ける[8]。笠寺駅を出ると、山崎川を橋梁で渡河してから東海道新幹線の高架橋と斜めに交差(アンダークロス)する[105]。南区豊田二丁目(東海道新幹線とのアンダークロス地点付近)からは東海道新幹線と並行し、国道247号名鉄常滑線とオーバークロスする[104]堀川を渡河し、六番町駅名古屋市営地下鉄名城線)の南側で東海道新幹線と別れ[106]、南郊運河[注 4]に並行して[8]、西進する[107]名古屋市立東海小学校の付近で名古屋港線名古屋港駅へ向かう東海道本線の貨物支線)とオーバークロスし[注 13]中部鋼鈑の工場付近(港区正保町)で北向きに進路を変えると同時に西名古屋港線[注 7][注 9][注 54]と連絡して名古屋貨物ターミナル駅に至るルートだった[106]。そして、名古屋貨物ターミナル駅[注 5] - 名古屋駅間 (6.3 km) は在来の西名古屋港線(単線)を下り線とし、上り線を増設する[112]。これによって西名古屋港線を複線化・高架化[注 9](一部スラブ軌道化)し[102][113]、名古屋駅で「稲沢線[注 8](名古屋 - 稲沢間の複々線)に接続する予定だった[112]

高架線の現況

大府駅 - 笠寺駅間の早期に完成した路盤は先行して使用され、1967年(昭和42年)9月には共和駅構内 (0.7 km) [注 55]が、1982年3月には笠寺駅構内 (1.2 km) [注 56]がそれぞれ供用を開始した[11]。また大高駅付近(約2.4 km)は本線の高架化に合わせ、1974年3月から約4年間にわたり[注 57]仮線として活用されていた[11]

大高駅 - 笠寺駅間では、東海道本線の天白川橋梁が老朽化したため、1986年(昭和61年)1月からは東海道本線の線路を南方貨物線側に振り替えている[注 58][114]。また、大府駅南方の東海道本線および武豊線それぞれにおける、旅客線と貨物線の分岐と立体交差は、南方貨物線計画の一環として建設され[注 59]、この部分は本来の目的通りに使用されている[115]

なお、あおなみ線(西名古屋港線)の中島駅からしばらく高架橋に沿って歩くと、上り線は南方貨物線当時に建設されたものを利用した部分があることがわかる。単線高架橋の並列となっており、上り線は鉄板で耐震補強してあるが、下り線は当初から耐震基準に沿った高架橋のため、鉄板がない。ただし、これはあおなみ線に乗車したままでは分からない。また、あおなみ線と南方貨物線が分岐する予定だった地点には中部鋼鈑の工場敷地の一部と隣地に橋脚が残されている。あおなみ線の車窓から、中部鋼鈑の工場越しにそのまま残された高架橋が、近隣工場の立体駐車場として利用されていることがわかる。

脚注

注釈

  1. ^ 写真の高架橋は名古屋市熱田区五番町3番地にあった(現在は撤去済み)。
  2. ^ a b c d 八田貨物駅(現:名古屋貨物ターミナル駅)は1968年3月に着工[44]。同年から用地買収が開始され、1972年から本体工事に着手、1980年10月に「名古屋貨物ターミナル駅』として開業[38]
  3. ^ a b c d 国鉄清算事業団は1998年(平成10年)10月22日に解散し、同事業団が保有していた資産は日本鉄道建設公団に継承されたが、同公団は2003年(平成15年)10月1日に運輸施設整備事業団と統合され、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT) となった。
  4. ^ a b 南郊運河(延長約0.2 km)は中川運河の横堀(支流[2]。水運の減少によって一部が埋め立てられ、埋立地の一部は南郊公園など緑地として活用されている[2]
  5. ^ a b c d e 名古屋貨物ターミナル駅構内では、南方貨物線の下り線から線路2本が分岐し、関西本線(四日市亀山方面)へ向かう連絡線となる計画だった[22][23]。この連絡線が完成していた場合、関西本線と西名古屋港線のデルタ線が形成されることとなっていたが、その計画も未成に終わっており、用地は住宅用地として売却されている[24]
  6. ^ a b 岐阜工事局 (1970) によれば八田・名古屋間は約5.7 km[6]
  7. ^ a b c d e f 西名古屋港線は後に旅客線として整備され、2004年(平成16年)10月6日に名古屋 - 金城ふ頭間(営業キロ15.2 km)が名古屋臨海高速鉄道あおなみ線(通称「あおなみ線」)として旅客開業した[69]
  8. ^ a b c d 「稲沢線」は東海道本線の名古屋・稲沢間に敷設された貨物列車専用の複線[4]1925年大正14年)に単線で開業し、1936年(昭和11年)に複線化(東海道本線の名古屋 - 稲沢間が複々線化)された[5][4]
  9. ^ a b c 西名古屋港線(現:あおなみ線)は南方貨物線との接続を想定し、1983年に名古屋貨物ターミナル駅 - 東海通(現在の名古屋競馬場前駅付近)間(約3.4 km)を高架化しており[108](一部はスラブ軌道化された)[102]、名古屋貨物ターミナル - 名古屋間(約3.9 km)は1998年時点で一部区間を除き、高架化・複線化が完了していた[109]。また、JR貨物の負担(運輸施設整備事業団の認定事業)により[109]、1998年3月30日には名古屋貨物ターミナル - 名古屋間が電化されていた[110]。一方、荒子駅付近以南の西名古屋港線(貨物本線・現在の金城ふ頭駅方面)は2001年時点でも単線だったが、西名古屋港線は旅客化(2004年に開業)に当たり、最終的に名古屋 - (名古屋貨物ターミナル方面への分岐点) - 金城ふ頭間の全線が複線化された[111]
  10. ^ また、第3次愛知県地方計画 (1970) では「名古屋都市圏の通勤通学需要の増大と、名古屋 - 北陸、名古屋 - 高山方面への都市間および観光輸送が急速に増大しつつあるため、昭和53年度(1978年度)までに稲沢 - 米原間の複々線化を進め、客貨分離による輸送力の増大を図る。」と計画されていた[9]
  11. ^ 鉄道による輸送は旅客・貨物とも、終戦直後に急増し、それ以降も1970年代まではほぼ漸増傾向にあった[13]
  12. ^ a b 笹島駅(広さ160,000 )は名古屋地区貨物駅の中心的役割を果たしてきたが、周囲を東海道本線・関西本線・中川運河に挟まれており、狭隘だった[18]。1968年(昭和43年)10月にはコンテナ取扱設備を増強したが[18]、1980年に名古屋貨物ターミナル駅(コンテナ基地)が開業して以降は車扱貨物主体の駅となり[11]、1986年(昭和61年)11月1日に廃止された[18](跡地はグローバルゲートとして再開発済み)。
  13. ^ a b c d 南方貨物線と名古屋港線の交点の南西には、名古屋港線(名古屋港駅方面) - 南方貨物線(名古屋貨物ターミナル駅・笹島駅方面)を連絡する単線の短絡線が建設されていたが、南方貨物線とともに途中で建設が放棄されている[106]
  14. ^ その後、岡多線(岡崎 - 瀬戸市間)および瀬戸線(瀬戸市 - 高蔵寺間)は愛知環状鉄道線として、瀬戸線(勝川 - 枇杷島間)は東海交通事業城北線として、それぞれ開業している[25]。一方、瀬戸線のうち中央線に並行する区間(高蔵寺 - 勝川間)は建設されず、買収済みだった敷地は国鉄清算事業団に譲渡され[26]、1999年度 - 2001年度にかけて売却された[27]。また、瀬戸線(城北線)の小田井駅 - 稲沢間の貨物線も未成に終わり、こちらも買収済みだった敷地は住宅用地として売却された[26]
  15. ^ 大阪府兵庫県内にある東海道本線の貨物支線「北方貨物線」(吹田貨物ターミナル - 尼崎間)とは別物。
  16. ^ 岐阜工事局 (1970) によれば大府・笠寺間は約12.5 km[29]
  17. ^ 名古屋駅経由ルートを採用した場合、名古屋駅の構内に無理が生じるほか、瀬戸線の名古屋駅乗り入れにも問題が生じることが懸念されていた[29]
  18. ^ 同所は1962年(昭和37年)6月末、国鉄関係方面へ南方貨物線の建設工期短縮について、地元関係者の熱望に応えるよう要望していた[42]
  19. ^ 当時、稲沢操車場の能力は限界に来ており、貨物輸送力の増強が求められていた[42]
  20. ^ 愛知県 (1973) によれば、南方貨物線の建設+八田貨物駅(名古屋貨物ターミナル駅)の建設による総事業費は約390億円[44]
  21. ^ 1983年の工事凍結時点までに費やされた300億円はすべて借金(金利年約20億円)で賄われた[45]
  22. ^ 愛知県 (1973) によれば、南方貨物線・八田貨物駅ともに1976年(昭和51年)3月の完成を予定していた[44]
  23. ^ 1972年時点では杉戸清(第20 - 22代)が名古屋市長を務めていた。
  24. ^ a b 明治小学校は1967年ごろ、貨物線の建設に協力する形で2,800万円で校地の一部を旧国鉄に売却したが、後に名古屋市会議員・横井利明がJRTT側に「明治小に土地を返してほしい」と要請[96]。土地は名古屋市教育委員会により[95]、3,600万円(坪10万円)で買い戻された[96]
  25. ^ 名古屋市 (1998) では「工事中断時期は1973年(昭和48年)5月以降」とされている[38]
  26. ^ a b 1973年9月および1980年1月時点では本山政雄(第23 - 25代)が名古屋市長を務めていた。
  27. ^ 1973年9月時点では第6代・磯崎叡(同月21日まで)および第7代・藤井松太郎(22日以降)。
  28. ^ また、名古屋市は1974年6月に改めて「住民の理解と納得を得るまで工事再開を見合わせてほしい」と要望している[48]
  29. ^ 会計監査院は1977年度(昭和52年度)決算検査報告で、当路線について「建設費は184億円、開通時期は1971年10月」と報告していたが、1978年(昭和53年)9月には「建設費357.8億円、開通見込みは1982年(昭和57年)10月」と、建設費が大幅に増え、完成予定も大幅に遅れた[49][8]
  30. ^ 公害防止協定の締結、緩衝地帯の設置、新幹線公害訴訟で係争されていた(騒音・振動に関する)差止請求値の遵守など[46]。1975年(昭和50年)5月には当時の「名古屋新幹線公害対策同盟連合会」会長・「名古屋新幹線公害訴訟原告団」団長や、「南方貨物線公害追放会」会長を務めていた千草恒男が、南方貨物線の建設・公害防止をめぐり、16項目にわたって国鉄と協定を結ぼうとしたが、その協定内容と、内部での合意形成が不十分である点を問題視した他の原告団リーダーや弁護団がその判断を問題視[46]。批判を受けた千草は連合会・原告団の代表を辞任することとなった[50]
  31. ^ アセスメント書では「今後も騒音提言のための技術開発に努める」「開業前には運行計画などについて名古屋市へ提出する」などの旨が表明されていた[53]
  32. ^ 名古屋市 (1998) では工事再開時期は1978年(昭和53年)とされている[38]
  33. ^ 同閣議決定後、「緊急を要するもの」として停止されなかった設備投資は、安全投資のほか、東北新幹線大宮以南の工事、通勤新線の工事など[56]
  34. ^ 1961年度(昭和36年度)の大府 - 名古屋間は旅客輸送実績が98,173人/日キロ、貨物輸送実績が59,564トン/日キロだった一方、1982年度(昭和57年度、4月 - 9月)には前者が60,072人/日キロ(1961年度の61%)、後者も29,674トン/日キロ(1961年度の50%)に落ち込んでいた[58]
  35. ^ 路盤の未完成部分は約500 m[60]
  36. ^ 一方、架橋が後回しになった道路上などの跨線橋は完成しておらず、高架橋がぶつ切れになっている区間もあった[61]
  37. ^ 当時『読売新聞』の取材に対し、北井良吉・国鉄開発工事課長は「着工から20年近く経過しても未完成なのは残念だが、国鉄を取り巻く諸情勢が変化して国の方針で建設が中止されたことも理解していただきたい。巨費を投じて鉄道路線として建設した以上、将来的にはぜひ鉄道路線として利用したいと願っている」とコメントしていた[45]
  38. ^ 日本放送協会 (NHK) 解説委員だった藤吉洋一郎は、1992年に放送されたNHKの番組で「南方貨物線を当初計画通り整備する必要がある。さらに東京 - 大阪間に貨物専用線を新たに敷くと、(南方貨物線の整備と併せて)2兆円を超す経費がかかるが、貨物列車がその分増発でき、トラックから輸送転換ができる」と訴えていた[72]
  39. ^ 当時、西濃運輸会長の田口利夫は「関係機関へなんとか完成を働き掛けたい」と述べていた[62]ほか、経団連物流部会の江里正義会長(当時:センコー会長)も1993年3月5日に名古屋市内で地元経済人らと懇談し、南方貨物線を視察した際に「(南方貨物線が未完成のまま)放置されているのは国家的損失。地元も挙げて(開業に向けて)取り組むべきだ」という認識を示していた[71]。また、藤田素弘(名古屋工業大学社会開発工学科講師)も1995年に「三大都市圏のうち、名古屋だけ貨物列車の専用迂回線が都市部にない。南方貨物線を建設して名古屋地区の(線路)容量不足を解消し、貨物のモーダルシフトが滞らないように配慮すべきだ」と指摘していた[75]
  40. ^ 大府駅 - 名古屋駅間は既設線経由で19.5 km、南方貨物線経由で26.1 kmと[1]、南方貨物線経由は遠回りである[76]上、名古屋地区第二のターミナル駅である金山駅を経由しない。
  41. ^ JR東海・須田社長は1992年6月4日に開かれた「名古屋圏交通網整備推進協議会」の会合で、「南方貨物線の貨物路線化・旅客化は直ちに必要ではない」と報告した[79]
  42. ^ JR貨物は仮に南方貨物線が開業した場合、同線を利用して貨物列車を運行することが想定されていたが、「開業に必要な建設費は我々ではとても負担できない」という反応を示していた[62]
  43. ^ 名古屋市南区氷室地区に南方貨物線と名鉄常滑線道徳駅を連絡する短絡線を敷設し、JR名古屋駅から中部国際空港へ向かう列車を運行する構想や[11]、南方貨物線および笠寺駅で接続する名古屋臨海鉄道の路線(東港線南港線)を経由し、新舞子駅知多市)付近で名鉄常滑線に直通する案など[60]
  44. ^ 1998年10月、名古屋臨海高速鉄道(西名古屋港線の旅客化後の運営主体)が西名古屋港線の旅客化に伴い、南方貨物線の用地の一部を購入することを希望したため、清算事業団は2000年度(平成12年度)に約0.2 haを処分した[1]
  45. ^ 1999年(平成11年)8月に国鉄清算事業本部長に就任した宮﨑達彦は[82]、「自分が南方貨物線を視察した際、完成済みの高架橋から偶然コンクリートが落ち、(高架下の)駐車場に止めてある車を壊していたことがあった。当時、新幹線のトンネルで天井からコンクリートが落下する事故があり、『人身事故でも起こすと大変なことになる。鉄道として使うか否かを早く決めなければならない』と思った」と述べている[83]
  46. ^ 利用方法としては鉄道路線としての活用のほか、高架橋を整備し直して新交通システム路線・サイクリングロードなどとして活用する案もあった[85]
  47. ^ 国鉄清算事業本部は2000年に改めてJR東海・JR貨物両社に引き受けを打診したが、いずれも拒否され、翌2001年(平成13年)5月には愛知県・名古屋市両者にも活用案を断られた[86]
  48. ^ a b JRTTは当初、高架橋などの全ての撤去費用を約300億円と試算したが、2008年に「高架橋付土地売却を積極的に進めた結果、約100億円の経費が削減される見込み」と報告している[88]
  49. ^ 2002年3月27日に成立した国の新年度当初予算で、2002年度分の撤去費用として46億円が計上された[67]
  50. ^ 撤去工事を行う箇所は構造物付での処分が困難だったり、剥離されている箇所[84]。一部高架橋が著しく劣化していた箇所については、2002年12月 - 2003年(平成15年)5月にかけて撤去工事を実施した[81]。また、河川橋梁・道路上の跨線橋も撤去することとなり[91]、山崎川橋梁は2003年5月 - 2004年(平成16年)3月中旬までに上部工(PC桁スパン27 m)を撤去した[92]
  51. ^ 河川上に架かった橋梁の撤去費用を除く[93]
  52. ^ 梅田貨物駅の吹田地区への全面移転計画[94]
  53. ^ 不用橋梁の撤去[97]、高架橋補修・軌道撤去などの工事[98]
  54. ^ 南方貨物線下り線の高架路盤は、西名古屋港線の高架線の直上に設置されるよう設計されていたが、建設途中で放置された[108]
  55. ^ 下り線の待避線(3番線)として利用されている[114]
  56. ^ 駅構内の側線の一部[114]
  57. ^ 1978年(昭和53年)7月まで[112]
  58. ^ ただし、この区間は速度制限はなく、120 km/hで走行できる。
  59. ^ 大府駅の武豊線との接続部は1976年(昭和51年)7月から供用開始[11]。1999年(平成11年)に武豊線の名古屋直通列車が大幅に増発されたことにより、この立体交差が真価を発揮するようになった[114]

出典

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