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「イースタン航空401便墜落事故」の版間の差分

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'''イースタン航空401便墜落事故'''(イースタンこうくう401びんついらくじこ、{{lang-en|''' Eastern Air Lines Flight 401'''}})は、[[1972年]][[12月29日]]に[[アメリカ合衆国南部|アメリカ合衆国南東部]][[フロリダ州]]の[[エバーグレーズ]]で起きた[[航空事故]]である。
'''イースタン航空401便墜落事故'''(イースタンこうくう401びんついらくじこ、{{lang-en-short|''' Eastern Air Lines Flight 401'''}})は、[[1972年]][[12月29日]]に[[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]]の[[エバーグレーズ]]で起きた[[航空事故]]である。


[[イースタン航空]]の[[ロッキード L-1011 トライスター|ロッキードL-1011「トライスター」]]が[[マイアミ国際空港]]へ着陸するため[[降着装置]]を下ろしたところ、前脚がロックされたことを示す表示灯が点灯しなかった。進入を中断して[[自動操縦装置]]で空港付近を旋回し、前脚の状態を確認することにした。その際に機長が意図せず[[操縦桿|操縦輪]]に力をかけたことで自動操縦の高度保持機能が解除され、緩やかな降下が始まった。操縦室の全員が前脚の問題に集中してしまい、誰も飛行状態を監視しない状況が生じた。その結果、手遅れになるまで降下に気付かず、そのまま湿地帯に墜落した。搭乗者176名中101名が死亡した。
== 概要 ==
[[イースタン航空]]の[[ロッキード L-1011 トライスター]]が、運航乗務員の不注意により[[マイアミ国際空港]]付近にある[[エバーグレーズ国立公園]]の湿地帯に墜落し、全176名(乗客163名、乗員13名)中101名が死亡した。史上初の[[ワイドボディ機]]の全損事故であり、また[[ヒューマンエラー]]による事故の代表例として有名である。


再発防止策として危険な高度の航空機に管制官が警告できるように[[最低安全高度警報]] (MSAW) が開発された。また、本事故以前の[[CFIT]]事故の教訓と合わせて[[対地接近警報装置]] (GPWS) の開発が促された。さらに、本事故と類似の[[ヒューマンファクター|人的要因]]が関わる事故が続いたことで[[クルー・リソース・マネジメント|CRM]]{{efn|name=CRM}}が提唱されることになった。
マイアミ国際空港への着陸に備え車輪を出したものの、前輪が出たことを示すランプが点燈しなかったために、自動操縦で空港付近を旋回し、その間に操縦席床下にある確認用の穴から前輪が出ているかを運航乗務員が確認した。


== 事故当日のEA401便 ==
確認作業中に意図せず機長が操縦桿に触れたために自動操縦が解除され、その後の旋回中に高度が低下した。しかし、運航乗務員の皆が前輪の確認とランプの交換に集中していたために降下に気付かず、その後も高度の低下を続けて、そのまま沼地へ墜落した。
{{Location map+ |USA
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|caption=EA401便の出発地である[[ジョン・F・ケネディ国際空港]] (JFK) と目的地であった[[マイアミ国際空港]] (MIA) の位置。事故機はマイアミ空港の近くに墜落した。
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イースタン航空401便(以下、EA401便)は、[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]発、[[マイアミ国際空港]]行きの定期旅客便だった{{sfn|加藤|2001|pp=98–99}}{{sfn|NTSB|1973|p=3}}。


1972年12月29日のEA401便は、[[ロッキード L1011 トライスター|ロッキードL-1011]]型機「トライスター」で運航された{{sfn|加藤|2001|p=97}}。トライスターは、この年に就航開始したばかりの新鋭機で{{sfn|加藤|2001|p=97}}、左右の主翼下と機体尾部にそれぞれ1発ずつ、計3発の[[ターボファンエンジン]]を備えた[[ワイドボディ機|ワイドボディ旅客機]]である<ref>{{Citation |和書 |title=3発機リスペクト : TRIJET STORY. |publisher=イカロス出版 |year=2015 |series=イカロスMOOK |isbn=978-4-8022-0079-0}}</ref>。使用機材の[[機体記号]]は「N310EA」だった{{sfn|NTSB|1973|p=30}}。この飛行機は同年8月に[[イースタン航空]]に納入され、事故までの飛行時間は936時間、飛行回数は502回だった{{sfn|NTSB|1973|p=30}}。
== 事故当日のイースタン航空401便 ==
* 使用機材:[[ロッキード]] [[ロッキード L-1011 トライスター|L-1011 トライスター]]([[機体記号|機体番号]]:N310EA) - トライスターは製造番号が1001から付されているが、この機体は11号機であったためトライスターの正式名称L-1011と同じ1011号機であった。
* [[コールサイン]]:Eastern 401
* 予定フライトプラン:[[ニューヨーク]]・[[ジョン・F・ケネディ国際空港]](始点)→[[マイアミ国際空港]](終点)
* 乗員乗客:176人
** コックピットクルー:所定の3人の他に整備士1名が同乗。
*** [[機長]]:ロバート(ボブ)・A・ロフト(55歳、墜落後、間もなく死亡<ref group="注">機長は救助隊が発見した時にはショック状態に陥るほどの重体だったが意識はあった。その後、息を引き取った。</ref>)
*** [[副操縦士]]:アルバート・J・ストックスティル(39歳、即死)
*** [[航空機関士]]:ドナルド(ドン)・A・リポ(51歳、搬送先の病院で死亡<ref group="注">ブラックボックスの発見後、死亡。</ref>)
*** [[航空整備士|整備士]]:アンジェロ・ドナディオ(47歳)
** [[客室乗務員]]:9人
** 乗客:163人


EA401便の運航乗務員は[[機長]]、[[副操縦士]](ファースト・オフィサー)、[[航空機関士]](セカンド・オフィサー)の3名だった{{sfn|加藤|2001|p=99}}{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。
== 経過 ==
[[File:N310EA.png|thumb|280px|right|[[着陸復行]]してから墜落に至るまでのイースタン航空401便の飛行経路。[[国家運輸安全委員会|NTSB]]の事故報告書より転載。]]


機長は55歳で、1940年にイースタン航空に入社した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。1942年に[[旅客機]]の乗務資格を取得し、1951年に機長に昇格した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。複数機種の乗務資格を経て、1972年の春から夏にかけてトライスターの乗務資格を取得した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。彼は総飛行時間が29,700時間というベテランパイロットで{{sfn|柳田|1975|p=127}}、トライスターでの飛行時間は280時間だった{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。
1972年12月29日の21時20分([[東部標準時|アメリカ東部標準時]])にニューヨークを発ったイースタン航空401便は順調に飛行を続け、29日深夜にマイアミ国際空港へ[[着陸|着陸進入]]を行った。操縦していたのは39歳のストックスティル副操縦士であり、55歳で29,000時間もの操縦歴を持つベテランのロフト機長は、[[降着装置|脚]]や[[補助翼]]の操作、[[航空管制官|管制官]]との交信を行っていた。また[[コックピット]]にはドン・リポ航空機関士とドナディオ整備士らも搭乗していた<ref group="注">整備士の同乗は就役直後の新型機のためで、通常は3名乗務。</ref>。事故当日の天候は良く、[[視程]]も良好であり、401便は[[計器着陸装置|ILS]]の誘導に従い降下していた。


副操縦士は39歳で、[[アメリカ空軍]]での経験を経て1959年にイースタン航空に入社した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。当初は航空機関士として乗務し、1971年12月に副操縦士となった{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。翌1972年にトライスターへの転換訓練を受けて6月に完了した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。総飛行時間は5,800時間、トライスターでの飛行時間は306時間だった{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。
ところが、いよいよ着陸態勢に入ってロフト機長が脚を降ろすレバーを操作したところ、前脚が降りたことを示す緑ランプが点灯しなかった。このため、機長は[[着陸復行]]を行うことを管制に告げ、航空機関士に床下へ入って前脚が降りているかどうかを調べるよう命じた。この時401便は高度900フィート(約270メートル)まで降下していたが、管制官の指示に従って2000フィート(約600メートル)まで上昇して滑走路上を通過した。その後、左へ旋回して再び進入コースへ向かった。


航空機関士は51歳で、1947年に航空整備士としてイースタン航空に採用された{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。1955年に航空機関士の資格を取得し、1972年10月から12月にかけてトライスターへの転換訓練を完了した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。総飛行時間は15,700時間、うちトライスターでの飛行は53時間だった{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。
しかし、401便は急に2000フィートから高度を下げ始めた。しばらく他の航空機との交信に気を取られていたチャーリー・ジョンソン管制官<ref group="注">この時[[ナショナル航空]]607便の車輪にトラブルが発生しており、地上に緊急車両が待機する中、緊急着陸が行われていた。</ref> は、23時41分40秒にレーダーが表示している401便の高度が900フィートになったことに気付いて<ref group="注">エバーグレーズ国立公園上空は野生動物への騒音被害を防止するため、高度を1500フィート(約450メートル)以下に下げてはならない規則が設けられていた。</ref>、「イースタン401、そちらの状況はどうですか?」("Eastern,ah,four oh one,how are things comin' along there?")と尋ねたが、ロフト機長からは「大丈夫だ。旋回をしてそれから戻ります。」("Okay,we'd like to turn around and come,come back in.")という返事しかなかった。


加えてこの日は、整備技術者1名がコックピットの補助席に同乗していた{{sfn|加藤|2001|pp=97–99}}{{sfn|柳田|1975|p=118}}{{sfn|NTSB|1973|p=7}}。[[客室乗務員]]は10名、乗客は163名(前述の整備技術者を含む)が搭乗していた{{sfn|NTSB|1973|pp=6–7}}{{sfn|加藤|2001|p=106}}。
[[File:Eastern 401 wreckage.jpg|thumb|right|墜落現場の写真。白く見えるのは機体の一部である。]]


== 事故の経過 ==
その後、401便は左旋回の許可を求め、管制も承認した<ref group="注">当時マイアミ国際空港に導入されていたレーダー装置は最新式で、今では当たり前になっている航空機の便名・高度が表示されるものであった。しかし、しばしば誤表示が発生したため、管制官は機長の「大丈夫だ」という返答から、高度が誤って表示されたものと思い、旋回を承認した。</ref>。しかし、この時既に401便の高度は300フィート(約90メートル)しかなかった。23時42分(東部標準時)に、401便は左主翼をエバーグレーズ国立公園の地表に激突させて墜落した。機体は分解しながら進行し、残骸が幅百m、長さ数百mに亘って散乱した。原形を留めていたのは尾翼部分だけだった。
=== 表示灯の不具合 ===
[[東部標準時]]21時20分に[[ニューヨーク]]の[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]を離陸したEA401便は、順調に飛行して目的地の[[マイアミ国際空港]]への進入を開始した{{sfn|加藤|2001|pp=98–99}}。副操縦士が[[操縦桿|操縦輪]]を操作し、機長は交信や[[降着装置]]等の操作を担当していた{{sfn|柳田|1975|p=114}}{{sfn|Besco|1990|pp=3–4}}。マイアミ空港付近は晴れており視程は10[[マイル]](約16キロメートル)と良好だったが、月はなく暗闇の中の飛行だった{{sfn|遠藤|2019|p=165}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。


着陸のため機長が[[降着装置]]を下ろす操作をしたところ、前脚が下げ位置でロックされたことを示す表示灯が点灯しなかった{{sfn|遠藤|2019|p=165}}{{sfn|柳田|1975|pp=114–115}}。表示灯が点かない原因として考えられるのは、脚が正常に下りていないか、表示灯が故障したかのいずれかである{{sfn|オーウェン|2003|p=169}}。機長は脚下げ操作をやり直したが、表示灯はつかなかった{{sfn|柳田|1975|pp=114–115}}。
偶然近くでボートに乗ってカエル漁をしていた地元住民ボブ・マーキスが炎を発見し、ボートを利用して15分ほどで現場に到着し、溺れそうになっていた数十人の乗客を助け出した<ref group="注">住民は近年になってその功績が認められ、生存者やその家族などから表彰等を受けている。</ref>。


23時34分05秒、機長はマイアミ空港の[[管制塔]](タワー)を呼び出し、前脚の表示灯が点かないため旋回する必要がある旨を伝えた{{sfn|加藤|2001|p=100}}{{sfn|柳田|1975|p=115}}{{sfn|NTSB|1973|p=3}}。タワーは了解し、高度2,000[[フィート]](約610メートル)に上昇して[[進入・ターミナルレーダー管制|進入管制]](アプローチ・コントロール)に無線周波数を合わせるようEA401便に指示した{{sfn|加藤|2001|p=100}}。EA401便はこれを了承し、上昇して空港上空を通過した{{sfn|加藤|2001|p=101}}{{sfn|NTSB|1973|p=37}}。
墜落から30分以内に[[アメリカ沿岸警備隊]]のヘリコプターが到着したものの、[[ジェット燃料]]が流出していた上に、ワニやヘビなども生息していた湿地帯での[[捜索救難|救助活動]]は難航した。しかし、速度と高度が低かったこと、地面が柔らかい湿地帯であったこと、トライスターの座席が床に頑丈に取り付けられていたことなどが幸いし、機体が大破した事故にもかかわらず生存者は多かった。ただ、湿地帯の泥は墜落時の衝撃を和らげる役割を果たしたが、逆に泥に含まれる有害な細菌が傷口から入り、[[ガス壊疽]]などの感染症を引き起こして入院を余儀無くされた者も数名いた。また、救助に当たった住民及び生存者達は漏れ出たジェット燃料により、皮膚に[[薬傷]]を負った。なお、機長は救助活動時には瀕死の状態で生存していたが、間もなく息を引き取った。


== 事故原因 ==
=== 周回コースへ ===
[[File:N310EA.svg|thumb|280px|right|進入を中断してから墜落に至るまでのEA401便の飛行経路。[[国家運輸安全委員会|NTSB]]の事故調査報告書より転載。中央下にある白抜きの領域がマイアミ空港の滑走路。]]
当時最新鋭の旅客機であり<ref group="注">トライスターは、事故が起きた[[1972年]]の[[4月26日]]にイースタン航空が初就航させており、401便の機体も導入されたばかりの新型機であった。</ref>、高度な[[オートパイロット|自動操縦装置]]を備えていたトライスターが、何の異変の連絡も無く墜落した原因は人為的なものだった。
23時35分09秒、EA401便は進入管制に無線をつなぎ、高度2,000フィートに達したことと、前脚の表示灯を確認する必要があることを伝えた{{sfn|柳田|1975|p=115}}{{sfn|加藤|2001|p=101}}。これに対し進入管制は、左に90度旋回するよう返信した{{sfn|柳田|1975|p=115}}。空港付近の決められたコースを周回して再度進入コースへ戻るためであった{{sfn|柳田|1975|p=115}}。EA401便はこれを了承して左旋回を開始した{{sfn|柳田|1975|p=115}}。


23時36分04秒、操縦を担当していた副操縦士に[[オートパイロット]](自動操縦装置)を作動させるよう機長が指示した{{sfn|加藤|2001|p=101}}{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。トライスターは当時最新鋭のオートパイロットを備えており、方位や高度、速度などをセットすると、それに沿って自動で飛行できた{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。副操縦士はオートパイロットを作動させると、管制から指示された飛行方位をセットした{{sfn|加藤|2001|p=101}}{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。
着陸復行をした際、副操縦士は方向と高度を自動操縦装置に入力し自動操縦にセットしていた。トライスターは、方向と高度をダイヤルで入力するだけで希望通りのコースを飛ぶことが出来る機能を備えており、これは当時としては最も進んだ機能を備えたハイテク旅客機であった<ref group="注">現代の[[ボーイング]]や[[エアバス]]の最新型旅客機でも、着陸の接地時にはパイロットが機首を引き起こす操作をする必要があるが、トライスターはそれさえ必要なく、パイロットはただ計器を監視するだけで良い、というほど優れた自動操縦装置を備えていた。</ref>。したがって、自動操縦が正常に作動していれば何の問題もなかったはずである。しかし、[[フライトレコーダー]]と[[ボイスレコーダー]]を解析したところ、思わぬ事実が明らかになった。


副操縦士は、自動操縦を設定してからすぐに、点燈しなかったランプを外して調べていランプは球切れていた<ref>『機長真実』 デヴィッド・ビーティー / 小西進(訳)講談社 2002年 ISBN 4062111195 P100</ref>また、副操縦士はランプを戻そうとしたが、その際誤って取り付けてしまった。一方機長、後ろを振り向いて航空機関士床下へ入って前脚が降りているどうかを調べるよう指示した。
続いて副操縦士が前脚の表示灯取り外して調べたところ、ランプ切れていた{{sfn|柳田|1975|p=116}}。問題はそ後だった。副操縦士が表示灯元に戻そうとして誤っ向き差し込んでしまった{{sfn|柳田|1975|p=116}}表示灯中途半端ってなくなっ{{sfn|柳田|1975|p=116}}


23時37分08秒、機長は航空機関士に対して、操縦室の床下にある電子機器室(エレクトロニクス・ベイ)に入って前脚の状態を目視確認するよう指示した{{sfn|加藤|2001|p=102}}{{sfn|柳田|1975|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|p=4}}。電子機器室には前脚の機構の一部が見える「のぞき窓」があり、脚が正しく降りたか確認できるようになっていた{{sfn|加藤|2001|p=102}}{{sfn|柳田|1975|p=116}}。
この時なぜか自動操縦が解除され、わずかに高度が低下していたことが事故後の調査から明らかになっているが、2人ともそのことに気付いていなかった。トライスターに限らずアメリカ合衆国製の旅客機は、[[操縦桿]]を押すと自動操縦が解除されるようになっている。実はこの時機長が誤って肘か何かで操縦桿を押していたのであった。操縦桿が押されたため自動操縦が解除され、高度が1900フィートに低下したが、乗務員達はランプを元通りに取り付けることに気を取られて気付かなかった。


=== 不自然な降下 ===
墜落の2分40秒ほど前に速度を落とすためにエンジンの出力が絞られた。これも高度を下げる原因となったが、2人はまだランプに気を取られていた。高度が1750フィート(約525メートル)を切った際に警報音が鳴ったものの<ref group="注">トライスターは、管制の承認高度から250フィート降下するごとに自動的に警報音が鳴り、警告ランプが点燈するようになっていた。ただし、着陸寸前でランプが何度も点滅するとパイロットを惑わせるとのイースタン航空側の要望で警告ランプは点燈しないようにされていた。</ref>、2人が気付いた形跡は無く、相変わらずランプの取り付け方について会話を交わしていた。もし、401便が市街地の上を飛んでいれば、街の灯りでクルー達は高度が低下していることに気付いたかも知れないが、実際の機体の下は真っ暗闇の湿原であり、気が付くことは出来なかった<ref group="注">機長の遺体を解剖したところ、[[脳腫瘍]]を患っていたことが判明した。これにより、機長の視野が狭くなっていた可能性があるものの、[[国家運輸安全委員会|NTSB]]は、事故原因との直接的な関連性は無いと判断している。</ref>。
23時37分24秒、EA401便は緩やかに降下を始めた{{sfn|加藤|2001|p=102}}。その24秒後、西に変針するように進入管制から連絡が入る{{sfn|加藤|2001|p=102}}。EA401便はこれを了承して旋回し、同時に降下も止まった{{sfn|加藤|2001|p=102}}。この間の降下量は100フィート(約30メートル)だった{{sfn|加藤|2001|p=102}}。


機長と副操縦士は表示灯を直そうとしていたが成功しなかった{{sfn|加藤|2001|p=102}}{{sfn|柳田|1975|p=116}}。23時38分46秒、機長は進入管制官を呼び出し、ランプを取り付けられるか確認するため、もう少し西へ飛びたいと要請した{{sfn|加藤|2001|p=103}}{{sfn|柳田|1975|p=117}}{{sfn|NTSB|1973|p=4}}。進入管制はこの要求を許可した{{sfn|加藤|2001|p=103}}。
墜落の32秒前に高度の異常に気付いた管制官が呼びかけた際も、機長は前脚のトラブルのことを聞かれているものと思い、「大丈夫だ」と答えていた。ここで管制官が具体的に高度が下っていることを警告すれば事故は防げた可能性もあったが、その最後のチャンスも失われた。


23時38分56秒から、機長と副操縦士は表示灯の再取り付けについて議論を続けた{{sfn|加藤|2001|p=103}}{{sfn|柳田|1975|pp=117–118}}。飛行機は、23時40分頃から再び高度を下げ始めた{{sfn|加藤|2001|p=120}}{{sfn|柳田|1975|p=118}}。23時40分38秒、副操縦士が話している最中に0.5秒間の警報音が鳴った{{sfn|加藤|2001|p=103}}{{sfn|柳田|1975|pp=117–118}}{{sfn|Besco|1990|p=4}}。この警報音は、オートパイロットの設定高度から250フィート(約76メートル)外れたことを知らせるものだった{{sfn|加藤|2001|p=103}}{{sfn|柳田|1975|pp=117–118}}。しかし、2人のパイロットはこの音に言及せず、高度の修正操作も行われなかった{{sfn|加藤|2001|p=103}}{{sfn|遠藤|2019|pp=165–166}}。
高度が低いまま、401便が左へ180度旋回を始めた後の、墜落7秒前になって、ようやく副操縦士が高度の異常に気付いた。


23時41分、床下に入っていた航空機関士が頭を出し、「見えない。真っ暗で小さな光を当てた程度では何もわからない」と報告した{{sfn|加藤|2001|p=103}}{{sfn|遠藤|2019|pp=165–166}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。ここで、コックピットに同乗していた整備技術者が脚格納室の照明の点灯方法についてパイロットと会話してから、航空機関士を手伝うため床下に入った{{sfn|加藤|2001|p=104}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。
: 副操縦士「高度をいじりました?」("We did something to the altitude.")
: 機長「何?」("What?")
: 副操縦士「2000フィートですよね?」("We're still at 2000, right?")
: 機長「おい、一体どうなってるんだ!」("Hey — what's happening here?")


=== 墜落 ===
機長が叫んだ直後に着陸復行が可能な高度(30m)を切った事を知らせる警報が鳴ったものの、既に手遅れであった。乗務員達は自動操縦装置が作動しているものと思い込んでいたため、ランプの交換に没頭して約4分もの間、計器の確認を一切していなかったのである<ref group="注">エンジンの推力を絞った際にも、おそらく副操縦士は高度計を見ていなかったものと推測されている。</ref>。こうして、たった1つのランプ<ref group="注">ランプの値段は、わずか12ドル(当時の日本円で約3700円)であった。</ref> に気を取られ、また自動操縦装置を過信していたために、多くの人命が失われた。
そうこうしている間に、EA401便の高度は下がり続けた{{sfn|柳田|1975|p=118}}。マイアミ空港の進入管制は、[[レーダー]]画面に表示されるEA401便の高度が900フィート(約270メートル)になっていることに気づいた{{sfn|加藤|2001|p=104}}{{sfn|柳田|1975|p=118}}。ただし当時は、一時的に高度が誤表示されることが珍しくなかった{{sfn|加藤|2001|p=104}}{{sfn|遠藤|2019|p=168}}。一方この時、EA401便は管制官の管轄空域の境界に近づいていた{{sfn|加藤|2001|p=104}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。


23時41分40秒、この管制官はEA401便に以下のように呼びかけた{{sfn|加藤|2001|p=104}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。
この事故は、ハイテク旅客機の思わぬ落とし穴を認識させた。事故を調査した[[国家運輸安全委員会]] (NTSB) は、自動化された装置に依存し、より手の掛かる作業に気を取られてしまう危険性があると警告を発している。
:「イースタン、エー、401、そちらはどんな具合か?」(Eastern, ah, four oh one how are things comin' along out there?)


管制官の問いかけに対し、機長はすぐに返答した{{sfn|柳田|1975|pp=118–120}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。
== 事故の影響 ==
: 「オーケー、一回りして戻りたい」(Okay, we'd like to turn around and come, come back in)
事故原因の調査結果を受けて、その後の旅客機では、事故教訓を元に自動操縦が解除されたことを警報で知らせる機能が加えられた<ref group="注">その後の旅客機では[[対地接近警報装置]](GPWS)も搭載されるようになった。</ref>。


23時41分47秒、アプローチコントロールはこれを了承し、方位180(真南)に左旋回するよう指示した{{sfn|遠藤|2019|pp=166–167}}{{sfn|柳田|1975|p=118}}。EA401便は了解して旋回を開始した{{sfn|加藤|2001|p=105}}。
また、このイースタン航空401便墜落事故に加えて、[[ユナイテッド航空173便燃料切れ墜落事故]]と[[テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故]]も、コックピット内の人間関係が事故原因とされた。同様の原因での事故発生を防止するべく、[[クルー・リソース・マネジメント]](CRM)が研究されるきっかけになった。その後CRMは、世界中の航空会社が訓練に取り入れるようになっていった。


レーダーの誤表示ではなく、実際にEA401便は高度を落としていた{{sfn|鈴木|2014|p=167}}{{sfn|柳田|1975|p=121}}。そのことに最初に気付いたのは副操縦士だったが、墜落までに残された時間は7秒しかなかった{{sfn|鈴木|2014|p=166}}{{sfn|柳田|1975|p=121}}。23時42分05秒以降の[[ブラックボックス (航空)|コックピット・ボイス・レコーダー]](CVR)には以下の音声が記録されている{{sfn|加藤|2001|pp=104–105}}{{sfn|柳田|1975|p=121}}{{sfn|遠藤|2019|pp=166–167}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。
なお、イースタン航空は、401便の事故の後も続けて航空事故を起こした。同社の業績は悪化し、[[1991年]]にイースタン航空が倒産した要因の1つとなった。


: 副操縦士「我々は高度に何かしました」(We did something to the altitude.)
== 映像化 ==
: 機長「何?」(What?)
* [[メーデー!:航空機事故の真実と真相]] 第5シーズン第9話「Fatal Distraction」
: 副操縦士「我々はまだ2,000フィートにいるはずですよね?」(We're still at two thousand, right?)
: 機長は叫んだ「おい、これは何が起きているんだ?」(Hey, what's happening here?)
: 23時42分10秒、[[着陸復行]]できる限界高度(30メートル)を切ったことを知らせる警報音がなる
: 2秒間に警報音が6回鳴り、続けて地面との衝突音


[[File:Eastern 401 wreckage.jpg|thumb|墜落現場の写真。白く見えるのは機体の一部である。]]
== 幽霊騒ぎ ==
23時42分42秒、旋回のため左に28度傾いていたEA401便は左主翼から地面に衝突した{{sfn|加藤|2001|pp=105–106}}{{sfn|NTSB|1973|p=8}}。機体は次々と分解し、およそ幅90メートル、長さ490メートルの範囲に残骸が散乱した{{sfn|加藤|2001|pp=105–106}}。墜落時に飛散した燃料により火災が発生し、その一部は客室部分に及んだ{{sfn|加藤|2001|pp=105–106}}。墜落地点はマイアミ空港の西北西18.7マイル(約35キロメートル)、[[エバーグレーズ]](草の海)と呼ばれる平坦で柔らかな湿地帯だった{{sfn|加藤|2001|pp=105–106}}。
事故当時、トライスターは導入されて間もない新鋭機だったためスペアの部品が不足していたこともあり、事故機の部品のうち、使える物は同社の別のトライスターに取り付けられた。それ以降、その部品が取り付けられたトライスターでは、搭乗した客室乗務員や乗客の間で「401便に搭乗し死亡した機長や航空機関士などの乗務員の幽霊を機内で見た」という話が数多く出るようになった。この「幽霊」を目撃した客室乗務員や乗客は、部品の流用の事実を知らなかった。そして、これらの目撃談が地元の新聞に掲載されるにまで至った。これを気にしたイースタン航空が部品を外した結果、その後このような話は一切聞かれなくなったという。この話を元に『The Ghost of Flight 401』(401便の幽霊)と言う題名の小説が執筆された。『The Ghost of Flight 401』は、[[1978年]]、[[アーネスト・ボーグナイン]]主演でテレビ映画化されその後邦題「エア・サスペリア/401便の幽霊」として日本で放映されている。


== 注釈 ==
== 救助活動 ==
マイアミ空港ではレーダー画面からEA401便の機影が消え、無線の呼び出しにも応答がなかったことから、管制官が[[アメリカ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]に捜索を要請した{{sfn|柳田|1975|pp=121–122}}。沿岸警備隊の[[ヘリコプター]]が出動し、15分から20分ほどで墜落現場が特定された{{sfn|柳田|1975|pp=121–122}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。生存者が確認され、直ちに救出活動が始まった{{sfn|柳田|1975|pp=121–122}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。
{{reflist|group="注"}}

また、偶然近くでボートに乗ってカエル漁をしていた地元住民が墜落を目撃していた<ref name=witness>{{Cite web |title=Crash Survivors Honor Everglades Hero |date=2007-12-07 |work=PRWeb |url=http://www.prweb.com/releases/2007/12/prweb574587.htm |accessdate=2021-03-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200805074739/http://www.prweb.com/releases/2007/12/prweb574587.htm |archivedate=2020-08-05}}</ref>。この目撃者も墜落現場に駆けつけ、救助隊と協力して生存者をボートで搬送した{{r|witness}}{{efn|この目撃者は、事故の生存者たちから後に表彰を受けている{{r|witness}}}}。暗い夜であり湿地での活動となった上、生存者が広範囲に散らばっていたものの、約4時間で生存者全員が病院に搬送された{{sfn|柳田|1975|pp=121–122}}{{sfn|NTSB|1973|p=5}}。

乗員176名のうち、99名が死亡、77名が重軽傷を負いながらも生存した{{sfn|加藤|2001|p=106}}{{sfn|NTSB|1973|p=6}}。機長と副操縦士は墜落現場で死亡、航空機関士は病院へ搬送された後に死亡した{{sfn|オーウェン|2003|pp=170–172}}。コックピットに同乗していた整備技術者は生存した{{sfn|オーウェン|2003|pp=170–172}}。

犠牲者の主な死因は衝撃による胸部外傷だった{{sfn|NTSB|1973|p=11}}。負傷の多くは骨折で、14名が火傷を負った{{sfn|NTSB|1973|p=6}}。17名は入院を必要としない軽症だった{{sfn|加藤|2001|p=106}}。2名の生存者は事故後7日以上経過してから死亡した{{sfn|NTSB|1973|p=6}}。米国[[連邦規則集]]の規定上は、この2人は生存者として集計されているが、本事故による怪我が死因である{{sfn|NTSB|1973|p=6}}。

この事故は、ジェット旅客機の墜落事故としては珍しく生存率が高かった{{sfn|柳田|1975|p=122}}{{sfn|NTSB|1973|p=6}}。生存者のほとんどは、散乱した残骸の前方と後方にいた{{sfn|NTSB|1973|p=6}}。後に発行された事故調査報告書では、生存率が高かった理由を説明することは難しいとしつつ、以下のように示している{{sfn|NTSB|1973|p=15}}。

胴体が分解する過程で生存者の多くは、かなり低速になるか停止するまで胴体の主要部に留まっていた{{sfn|NTSB|1973|p=15}}{{sfn|柳田|1975|p=122}}。そして、飛散した機体構造が生存者を押し潰さずに済んだ{{sfn|NTSB|1973|p=15}}{{sfn|柳田|1975|p=122}}。トライスターの座席は、支えの部分に[[ショックアブソーバー|ショック・アブソーバー]]の機構を備えていたことに加えて、機体構造に強固に取り付けられていた{{sfn|NTSB|1973|p=15}}{{sfn|柳田|1975|p=122}}。この座席構造は生存率に寄与したと考えられる{{sfn|NTSB|1973|p=15}}。

{{gallery
|height=120
|title=墜落現場の写真
|File:Eastern Flight 401 wreckage 1.jpg|
|File:Eastern Flight 401 wreckage 2.jpg|
|File:Eastern Flight 401 wreckage 3.jpg|
|File:Eastern Flight 401 wreckage 4.jpg|
}}

== 事故調査 ==
米国の[[国家運輸安全委員会]] (NTSB) が事故調査にあたった{{sfn|遠藤|2019|pp=163–164}}。

墜落現場で発見された前脚は、下げ位置でロックされていた{{sfn|NTSB|1973|p=9}}。脚の表示灯も残骸の中から発見された{{sfn|オーウェン|2003|pp=171–172}}。表示灯は、縦と横を間違えて押し込まれており動かなくなっていた{{sfn|加藤|2001|p=122}}{{sfn|NTSB|1973|p=9}}{{sfn|柳田|1975|p=117}}。表示灯の二つの電球はいずれも切れていた{{sfn|加藤|2001|p=122}}{{sfn|NTSB|1973|p=9}}。

事故機に搭載されていたコックピット・ボイス・レコーダー (CVR) と[[ブラックボックス (航空)|フライト・データ・レコーダー]] (FDR) が回収されて分析された{{sfn|NTSB|1973|p=8}}。CVRからは、マイアミ空港の管制塔(タワー)を呼び出した時点からの音声が復元できた{{sfn|NTSB|1973|p=8}}。FDRからは飛行速度、高度、方位、姿勢、加速度のほか、エンジン推力や各[[動翼|操縦翼面]]の状態が取得でき、飛行の経過を包括的かつ詳細に解析することができた{{sfn|NTSB|1973|p=8}}。

各種調査や試験の結果から、機体の構造、エンジン、システムには故障や不具合は認められなかった{{sfn|柳田|1975|p=122}}{{sfn|加藤|2001|p=122}}{{sfn|NTSB|1973|pp=14, 22–23}}。飛行中に火災や爆発が起きた痕跡もなかった{{sfn|NTSB|1973|p=8}}。したがって、事故機はなぜ降下したか、そして乗員がなぜそれに気づかなかったかが調査の焦点となった{{sfn|柳田|1975|p=122}}{{sfn|加藤|2001|p=110}}。

=== オートパイロットの設定 ===
[[File:Lockheed L-1011 Tristar simulator cockpit RAF museum.jpg|thumb|トライスターのコックピット。オートパイロットの設定はグレア・シールド(窓下の中央にある横長のパネル)で行われる{{sfn|加藤|2001|p=112}}]]
EA401便が進入を中断して空港を周回する際に、副操縦士はオートパイロットを作動させた{{sfn|加藤|2001|pp=115–116}}。

トライスターのオートパイロットには二つのモードが備わっていて、状況に応じて使い分けることになっていた{{sfn|加藤|2001|pp=112–113}}。基本のモードは「コントロール・ホイール・ステアリング」(以下、CWS)モードと呼ばれる{{sfn|加藤|2001|p=112}}{{sfn|NTSB|1973|p=12}}。CWSモードでは、パイロットが操縦輪を操作して飛行機の姿勢を変えられる{{sfn|加藤|2001|p=112}}{{sfn|NTSB|1973|p=12}}。そして手を離すと、その姿勢を維持するようにオートパイロットは機を安定させる{{sfn|加藤|2001|p=112}}{{sfn|NTSB|1973|p=12}}。

方位・高度・上昇率などの目標値を与えて自動で追従させたい場合は「コマンドモード」を用いる{{sfn|加藤|2001|pp=112–113}}{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。コマンドモードの目標値は、コックピットのボタンやダイヤルで入力する{{sfn|加藤|2001|pp=112–113}}{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。

事故当時のオートパイロットがどういう設定だったかは一意に特定できなかったものの、FDRの記録や公聴会で得たパイロットたちの証言を元に事故調査委員会は次のように推定した{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|pp=16–17}}。副操縦士は、コマンドモードでオートパイロットを作動させ、高度を維持するアルティチュード・ホールドと指定した方位へ飛ぶヘディング・セレクトを有効にした{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|pp=16–17}}。これは、通常の手順通りの操作である{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|pp=16–17}}。そして、維持する高度は2,000フィートにセットされたと考えられる{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|pp=16–17}}。残骸から発見された事故機のオートパイロットにも、高度2,000フィートがセットされていた{{sfn|柳田|1975|p=123}}{{sfn|オーウェン|2003|p=171}}。

=== 意図せず降下が始まった ===
それでは、なぜ事故機は降下したのか。

空港の周回コースに入ってから最初に高度の異変を生じたのは、墜落の4分48秒前である{{sfn|柳田|1975|pp=123–124}}{{sfn|加藤|2001|p=116}}。FDRには下向きに0.04G(Gは[[重力加速度]])の加速度が記録され、緩やかな降下が始まっていた{{sfn|加藤|2001|p=102}}。事故機のシステムには異常が認められなかったため、この縦の動きの変化は、オートパイロットの高度維持が解除されたためと推測されている{{sfn|加藤|2001|pp=116-117}}{{sfn|柳田|1975|pp=123–124}}。

トライスターのオートパイロットは、コマンドモードで作動中であっても軽い力で操縦輪を操作でき、パイロットが操縦を上書きできるよう設計されていた{{sfn|加藤|2001|pp=113–114}}。さらに、操縦輪に一定以上の力がかかると、コマンドモードが解除されてCWSモードの姿勢維持に切り替わる{{sfn|加藤|2001|pp=113–114}}。操舵力の向きに応じて、コマンドの解除は縦([[ピッチング|ピッチ]])と横(方位)のそれぞれで行われる{{sfn|加藤|2001|p=113}}。これは、設計上の安全策の一つであった{{sfn|加藤|2001|pp=113–114}}。

では、なぜ高度維持が解除されたのか。

CVRの記録によると降下が始まったのは、航空機関士に脚を目視確認するよう機長が指示したところだった{{sfn|柳田|1975|p=124}}{{sfn|オーウェン|2003|p=172}}。航空機関士の席はパイロット席の後ろにある{{sfn|オーウェン|2003|p=172}}。航空機関士に話しかけるため、機長が後ろを振り向いた様子があった{{sfn|オーウェン|2003|p=172}}{{sfn|柳田|1975|pp=123–124}}。そして、その際に意図せず操縦輪を押してしまい、高度維持を解除するだけの力がかかったと事故調査委員会は推定した{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|柳田|1975|p=124}}。

=== 乗員が気づいた様子がなかった ===
高度維持が解除されると、オートパイロットがCWSモードに切り替わる{{sfn|加藤|2001|p=114}}。ただし、高度維持機能には独特な仕様があった{{sfn|加藤|2001|p=114}}。計器パネルにコマンドモードが解除されたことが明示的に表示されず、モードを選択するレバーも元のまま(すなわちコマンドモード)で維持されたのである{{sfn|加藤|2001|p=114}}。それでも高度維持を意味する「ALT」の文字が表示パネルから消えることから、パネルをよく見れば解除に気づけたはずである{{sfn|加藤|2001|pp=114, 117}}{{sfn|柳田|1975|p=125}}。しかし、機長と副操縦士がそれに気づいた様子はなかった{{sfn|加藤|2001|p=117}}{{sfn|柳田|1975|p=125}}。

管制指示で方位を変えた際に、一度は水平飛行に戻ったものの、墜落の2分40秒前から再び高度を下げだした{{sfn|加藤|2001|pp=116, 120}}。二度目の降下の際には、わずかな機首下げとエンジン推力の減少が起きている{{sfn|加藤|2001|p=120}}。FDRによると推力は断続的に調整されており、その動きはオートスロットル(自動推力調整装置)では起こり得ないものだった{{sfn|加藤|2001|p=120}}。事故調査委員会は、いくつかの可能性を検討した上で、乗員による意図的な推力操作があったと判断した{{sfn|加藤|2001|p=121}}{{sfn|NTSB|1973|p=20}}。

姿勢を変えずにCWSモードで推力を絞ると、機体の運動は降下する方向に向かう{{sfn|加藤|2001|pp=98, 120}}{{sfn|NTSB|1973|p=18}}。通常であれば、推力操作の際に高度計も参考にする{{sfn|柳田|1975|p=125}}。しかし、もし自動操縦によって高度が維持されると乗員が思い込んでいたならば、高度計を確認せず推力を調整することも十分あり得た{{sfn|加藤|2001|p=121}}{{sfn|NTSB|1973|p=20}}。

墜落の2分4秒前、自動操縦の設定高度から逸脱したことを注意喚起する警報音が鳴っていた{{sfn|加藤|2001|pp=103, 120}}{{sfn|柳田|1975|p=118}}。乗員はここで計器を確認して降下に気づくべきだった{{sfn|加藤|2001|p=122}}。しかし、2人のパイロットは表示灯についての議論の最中にあり、誰もこの警報音に言及せず、飛行機の姿勢修正も行われなかった{{sfn|加藤|2001|p=103}}{{sfn|遠藤|2019|pp=165–166}}。

事故調査報告書は次のように述べている{{efn|原文 {{harv|NTSB|1973|p=20}} は以下の通り。日本語訳は{{harvtxt|加藤|2001|pp=121–122}}を参考とした。
{{Quote|Regardless of the way in which the status of the autoflight system was indicated to the flightcrew, or the manner in which the thrust reduction occurred, the flight instruments (altimeters, vertical speed indicators, airspeed indicators, pitch attitude indicators, and the autopilot vertical speed selector) would have indicated abnormally for a level-flight condition.}}
}}。
{{Quote|オートパイロットの表示がどうなっていたか、あるいは推力減少がどのように生じたかによらず、飛行計器(高度計、昇降計、速度計、姿勢指示計、オートパイロットのバーティカル・スピード・セレクター)は水平飛行状態としては異常であることを示していたはずである}}
しかし、これまでに記した通り、墜落直前までの4分間、乗員が高度に注意を払った様子はなかった{{sfn|柳田|1975|pp=125–126}}{{sfn|加藤|2001|p=122}}。

=== 除外された要因 ===
なぜ乗員が降下に気づかなかったか、調査検討を経て最終的に事故原因から除外された要因が二つある。

==== 機長の脳腫瘍 ====
事故後の解剖によって機長に脳腫瘍があったことが分かった{{sfn|加藤|2001|p=107}}{{sfn|NTSB|1973|p=6}}。機長の腫瘍は視力、特に周辺視野に影響を及ぼしうるものだった{{sfn|加藤|2001|p=107}}{{sfn|NTSB|1973|p=16}}。視野に異常があれば、機長が計器を見落とした可能性もある{{sfn|加藤|2001|p=107}}{{sfn|NTSB|1973|p=16}}。しかし、実際に視野障害があったのか、そして、あったとすればどの程度の欠損があったかを病変から特定することは不可能だった{{sfn|加藤|2001|p=107}}{{sfn|NTSB|1973|p=16}}。機長の家族や同僚らの証言によると、機長の仕事や日常動作には視野障害の兆候が認められなかった{{sfn|加藤|2001|p=107}}{{sfn|NTSB|1973|p=16}}。したがって、NTSBは機長の腫瘍を事故原因から除外した{{sfn|加藤|2001|p=107}}{{sfn|NTSB|1973|p=16}}。

==== オートパイロットの不一致 ====
トライスターのオートパイロットは[[冗長化|二重化]]されており、AとBの二つのシステムが備わっていた{{sfn|加藤|2001|p=112}}{{sfn|NTSB|1973|p=12}}。Aシステムは機長席、Bシステムは副操縦士席に繋がっていて、事故時の飛行状況においては、どちらか一方のシステムを作動させる仕組みだった{{sfn|加藤|2001|p=112}}{{sfn|NTSB|1973|p=12}}。

事故機の両システムの間には、ある不一致があったことが事故調査によって見つかった{{sfn|加藤|2001|pp=114–115}}{{sfn|NTSB|1973|p=13}}。高度維持が解除される操舵力がAとBで異なっていたのである{{sfn|加藤|2001|pp=114–115}}{{sfn|NTSB|1973|p=13}}。この不一致により、もし機長側のAシステムが作動していて一定範囲の操舵力がかかると、高度維持が解除されるにも拘らず、副操縦士側では高度維持が作動中と表示される状況が起こり得た{{sfn|加藤|2001|pp=115, 117}}{{sfn|NTSB|1973|pp=17–18}}。そうなると、副操縦士は高度維持が解除されたことを認識できない{{sfn|加藤|2001|pp=115, 117}}{{sfn|NTSB|1973|pp=17–18}}。

ただし、NTSBは各種調査を踏まえて副操縦士側のBシステムが作動していたと推定した{{sfn|加藤|2001|pp=117–118}}{{sfn|NTSB|1973|pp=17–18}}。この場合には、高度維持の誤表示は起こらない{{sfn|NTSB|1973|pp=17–18}}。したがって、両システムの不一致は事故の主要因にはならないと判断された{{sfn|加藤|2001|pp=117–118}}{{sfn|NTSB|1973|pp=17–18}}。

=== なぜ降下に気づかなかったか ===
それでは、なぜ乗員は高度を気にせず飛行したのか。この点について事故調査委員会は、二つの要因を挙げた{{sfn|NTSB|1973|pp=20–21}}。

一点目は、CWSモードに対する乗員の理解不足である{{sfn|NTSB|1973|pp=20–21}}。CWSモードで操縦輪やスロットルを操作した際の挙動について、事故機の乗員が十分に理解していない様子があった{{sfn|NTSB|1973|pp=20–21}}。さらに事故調査によって、このCWSモードに対する理解不足は事故機の乗員に限らないことが判明した{{sfn|NTSB|1973|pp=20–21}}。実は、イースタン航空の運航手順では、運航中にCWSモードを使用することを認めていなかった{{sfn|NTSB|1973|pp=20–21}}{{r|lal}}。事故調査報告書は、このCWSモードを禁止する会社方針によって、CWSモードに対するパイロットの理解不足が生じた可能性があると指摘している{{sfn|NTSB|1973|pp=20–21}}。

二点目は、自動化システムへの過度の依存である{{sfn|柳田|1975|p=126}}{{sfn|NTSB|1973|p=21}}。アビオニクスの高度化やシステムの自動化が進展し、機器の信頼性が向上するにつれて、多くのパイロットはそれらのシステムへの依存度を高めつつあった{{sfn|柳田|1975|pp=126–127}}{{sfn|NTSB|1973|p=21}}。それによって、目の前にある手のかかる作業にパイロットの注意力が奪われ、基本的な操縦や飛行状況の監視が疎かになる{{sfn|柳田|1975|pp=126–127}}{{sfn|NTSB|1973|p=21}}{{sfn|遠藤|2019|p=167}}。公聴会で得られた証言によると、設計当初や認証時の想定を超えて、パイロットはオートパイロットの信頼性や性能を過信していた{{sfn|NTSB|1973|p=21}}{{sfn|柳田|1975|p=126}}。

これらの要因を指摘した上で、さらに事故調査報告書は以下のように強調している{{efn|原文 {{harv|NTSB|1973|pp=21–22}} は以下の通り。日本語訳は{{harvtxt|柳田|1975|p=128}}による。
{{Quote|It is obvious that this accident, as well as others, was not the final consequence of a single error, but was the cumulative result of several minor deviations from normal operating procedures which triggered a sequence of events with disastrous results.}}
}}
{{Quote|明らかなことは、この事故は、ほかの多くの事故の場合もそうなのだが、たった一つの過失によって致命的な結果がもたらされたのではなく、航空機を運航する正規の手順からはずれた些細な逸脱行為が積み重なって一連の事態を引き起こし、ついに惨事に至った、ということである}}

=== 推定原因 ===
1973年6月14日にNTSBは事故調査報告書を発行した{{sfn|NTSB|1973|pp=23–24}}。報告書で結論された事故原因の要旨は次のとおりである{{efn|原文 {{harv|NTSB|1973|pp=23–24}} は以下の通りである。
{{quote|The National Transportation Safety Board determines that the probable cause of this accident was the failure of the flightcrew to monitor the flight instruments during the final 4 minutes of flight, and to detect an unexpected descent soon enough to prevent impact with the ground. Preoccupation with a malfunction of the nose landing gear position indicating system distracted the crew's attention from the instruments and allowed the descent to go unnoticed. }}
}}
{{Quote|本事故の推定原因は、最後の4分間、運航乗務員が飛行計器を監視しなかったことであり、意図せず降下していたことに手遅れになるまで気づかなかったことである。前輪の表示灯の不具合に拘泥したことで乗員の注意が計器に払われず、降下が見過ごされた。}}

== 管制官の対応とコミュニケーション ==
推定原因には含まなかったものの、事故調査報告書では管制官の対応に関しても指摘している。

EA401便を担当していた管制官は、レーダー画面に示された同機の高度が900フィート(約270メートル)に下がっていることに気づいていた{{sfn|加藤|2001|p=97}}。フロリダ空港の管制情報システムは当時の最新式だったが導入されて日が浅く、一時的に実際と異なる高度が表示されることがしばしばあった{{sfn|加藤|2001|p=104}}{{sfn|柳田|1975|pp=118–120, 128}}{{sfn|鈴木|2014|p=170}}。さらに、管制官が事故機に状況を問い合わせたところ、すぐに乗員から応答があった{{sfn|加藤|2001|p=104}}{{sfn|NTSB|1973|p=14}}。したがって、この管制官は、事故機に危険が迫っているとは考えず、管轄していた他機の管制を続けた{{sfn|加藤|2001|p=104}}{{sfn|遠藤|2019|p=168}}{{sfn|NTSB|1973|p=14}}。事故後の調査において、EA401便に問い合わせたのは同機が管轄空域の境界に近づいたからだったと管制官は証言している{{sfn|加藤|2001|p=104}}。

当時の管制情報システムは、対地間隔情報を提供するようには設計されていなかった{{sfn|加藤|2001|pp=109–110}}{{sfn|NTSB|1973|p=14}}。また、そのような情報提供を管制官が行うための業務手順を[[連邦航空局]] (FAA) は定めていなかった{{sfn|加藤|2001|pp=109–110}}{{sfn|NTSB|1973|p=14}}。事故調査委員会はこのことを認識した上で、それでも次の見解を示している{{sfn|加藤|2001|pp=109–110}}{{sfn|NTSB|1973|p=14}}。

「航空機の総合的な管制業務に関わる者であれば、明らかに危険な状況にある者に警告を行う本質的な責任がある。たとえそれが主たる職務でなくともである」{{sfn|加藤|2001|pp=109–110}}{{sfn|NTSB|1973|p=14}}。

また、管制官と乗員の意思疎通がうまくいっていなかった。管制官の「そちらはどんな具合か?」という表現は非常に曖昧だった{{sfn|柳田|1975|pp=127–128}}。EA401便のパイロットは、表示灯のことを尋ねられたと思い込んだ可能性がある{{sfn|柳田|1975|pp=127–128}}{{sfn|Besco|1991|p=1}}。そして、機長がすぐに「大丈夫だ」と返答してしまったことで、管制官はその返事を信用して危険はないと考えてしまった{{sfn|柳田|1975|p=120}}{{sfn|加藤|2001|p=109}}。

== 事故後の対策 ==
この事故の教訓から、さまざまな再発防止対策が取られた。

もし、迅速に前脚を目視できていれば、この事故は防げた可能性がある{{sfn|鈴木|2014|pp=169–170}}。夜間だったので脚格納室の照明を点灯する必要があったが、乗員は脚扉が開けば照明が常につくと考えていた様子があった{{r|lal}}。照明スイッチはのぞき窓から遠い機長席のパネルにあり、実際に点灯操作が行われたのかはっきりしない{{sfn|NTSB|1973|pp=39–40}}。NTSBは、再発防止のためには目視を行いやすくする必要があると考え、脚格納室の照明スイッチをのぞき窓の近くに設置するようFAAに勧告した{{sfn|NTSB|1973|pp=39–40}}{{sfn|鈴木|2014|pp=169–170}}。この勧告に沿って、トライスターの改修が行われた{{sfn|ゲロー|1997|p=115}}。

事故機が設定高度から250フィート逸脱した際に、0.5秒間の警報音が鳴っていた{{sfn|NTSB|1973|p=40}}。実は、高度逸脱を警告する手段として、トライスターには警報音だけでなく点滅式のランプがコックピットに備わっていた{{sfn|NTSB|1973|p=40}}{{sfn|鈴木|2014|p=170}}。しかし、イースタン航空では、このランプが作動しないようにしていた{{sfn|鈴木|2014|p=170}}。NTSBはこの点を問題視し、ランプでも適切に警告するようイースタン航空に求めた{{sfn|鈴木|2014|p=170}}{{sfn|NTSB|1973|p=40}}{{r|asn}}。この警告に対してイースタン航空が改善案を立てたものの、NTSBは受け入れ不可とした{{r|asn}}。

NTSBは、事故時の生存率を上げるための勧告も発行した。本事故の前に起きた2件の事故の教訓も踏まえて、客室乗務員席に肩掛け式シートベルトを装備し、離着陸時における着用を確実にするよう求めた{{r|asn}}{{sfn|NTSB|1973|pp=43–46}}。また、緊急脱出に備えて客室の誘導灯や非常灯を改善すること、そして携帯型照明を客室に搭載することを求めた{{r|asn}}{{sfn|NTSB|1973|pp=43–46}}。

本事故は、操縦可能でありながら意図せず降下して墜落に至った[[CFIT]]事故である{{sfn|遠藤|2019|pp=164–168}}。本事故の前からジェット旅客機のCFIT事故が問題になっており、既に1970年代初頭の時点で[[対地接近警報装置]] (GPWS) を開発するようNTSBが勧告していた{{sfn|遠藤|2019|pp=163–164}}。その中で本事故が発生したことからNTSBは、GPWSを義務化する規則改正を急ぐようFAAに求めた{{sfn|遠藤|2019|p=168}}{{sfn|NTSB|1973|p=24}}。そうして本事故からちょうど2年後の1974年12月に[[連邦規則集]]が改正され、航空会社のジェット機にGPWSの装備を義務付ける要件が盛り込まれた{{sfn|遠藤|2019|p=168}}<ref>{{Citation |title=Installation of Terrain Awareness and Warning System (TAWS) Approved for Part 23 Airplanes, Advisory Circular 23-18 |publisher=Federal Aviation Administration, U.S. Department of Transportation |date=2,000-06-14 |accessdate=2021-02-07 |url=https://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgAdvisoryCircular.nsf/0/7ca84861d31651a5862569b2006dbcfe/$FILE/AC%2023-18.pdf}}</ref>。

事故機の異常な高度低下に気づきながら管制官の対応が消極的だったのは、レーダーの表示高度を十分に信頼できないという事情があった{{sfn|鈴木|2014|p=170}}{{sfn|遠藤|2019|p=168}}。NTSBは、当時のレーダーシステムには航空機が地表に異常接近した際の警報機能がないことを問題視し、著しく高度を逸脱した際に管制官が助言できるようにレーダー情報処理システムを見直すようFAAに勧告した{{sfn|遠藤|2019|p=168}}{{sfn|NTSB|1973|p=24}}。これを受けて、レーダー情報システムの追加ソフトウェアとして、航空機が地表に異常接近した際に管制官に警告する「[[最低安全高度警報]]」(MSAW) が開発され、1976年11月から運用が開始された{{sfn|遠藤|2019|p=168}}<ref>{{Citation |title=FAA Historical Chronology, 1926-1996 |publisher=Federal Aviation Administration |url=https://www.faa.gov/about/history/chronolog_history/ |accessdate=2021-03-13}}</ref>。

この事故では、乗員の注意配分が適切になされず、同乗の整備技術者を含めて全員が前脚の問題に集中してしまった{{sfn|遠藤|2019|p=167}}{{sfn|宮城|1998|pp=153–156}}{{r|lal}}。事故機では、機長の指示によって副操縦士が表示灯を取り外すことになったが、それまで副操縦士が行なっていた飛行状況の監視を誰が行うのか明確にされず、結局だれも監視しない状況が生じた{{sfn|Besco|1991|p=1}}。この事故から6年後、脚下げ表示灯のトラブルをきっかけに、またも操縦室内の業務配分に失敗して墜落した事故([[ユナイテッド航空173便燃料切れ墜落事故]])が発生した{{sfn|オーウェン|2003|pp=173–178}}。また、同時期に乗員のコミュニケーションや[[ヒューマンファクター|人的要因]]に起因する[[テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故]]も発生した{{sfn|鈴木|2014|p=175–183}}。これらの事故を契機として[[クルー・リソース・マネジメント|CRM]]{{efn|name=CRM|当初はコックピット・リソース・マネジメントと呼ばれたが、のちにクルー・リソース・マネジメントへと発展する。詳細は[[クルー・リソース・マネジメント]]を参照。}}の概念が提唱され乗員の訓練に組み込まれることになる{{sfn|鈴木|2014|p=175–183}}{{sfn|遠藤|2019|p=167}}。

== 乗員の幽霊 ==
事故後しばらくして、事故機の乗員の幽霊をトライスター機内で見たという噂がイースタン航空従業員の間で流れた<ref name="Jenkins, Greg 2005 pp 35-40">Jenkins, Greg. (2005) ''Florida's Ghostly Legends and Haunted Folklore, Vol 1" pp 35-40 Sarasota, FL: Pineapple Press, Inc.''</ref><ref name="Floyd, E. Randall 2002 pp 64-67">Floyd, E. Randall. (2002) ''In the Realm of Ghosts and Hauntings" pp 64-67 Boyne City, Michigan: Harbor House''</ref><ref name="Hauck, Dennis William 2002">Hauck, Dennis William. (2002) ''Haunted Places" London: Penguin''</ref>。噂では、事故機から使える部品が回収され、同社の他のトライスターを修理するために使われたと憶測され<ref name="Jenkins, Greg 2005 pp 35-40"/><ref>Floyd, E. Randall. (2002) "In the Realm of Ghosts and Hauntings" pp 64-70 Boyne City, Michigan: Harbor House</ref>、その部品を取り付けた機体だけに幽霊が現れると伝わった<ref name="Jenkins, Greg 2005 pp 35-40"/><ref name="Floyd, E. Randall 2002 pp 64-67"/>。この幽霊目撃談はイースタン航空全体に広がり、ことによっては噂を広めた者を解雇すると経営陣が警告する事態となった<ref name="Floyd, E. Randall 2002 pp 64-67"/>。イースタン航空は幽霊の出現を公式に否定するとともに、同社のトライスターから事故機の部品を全て取り外したとの報道もされた<ref name="Hauck, Dennis William 2002"/>。

本事故とその余波は、1976年に{{仮リンク|ジョン・G・フラー|en|John G. Fuller}}によって『The Ghost of Flight 401』という題名で書籍化された<ref name="story">{{Cite web |title=Survivor Stories & Memorial |work=Official Eastern Air Lines Flight 401 - History, Photos, Survivors and Tribute |url=https://sites.google.com/site/eastern401/epilogue |accessdate=2021-02-23 |archivedate=2020-10-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201025045916/https://sites.google.com/site/eastern401/epilogue}}</ref>。フラーはその著書で、イースタン航空機で起きた超常現象を、そして、それが事故機から回収された部品によって起きたとする物語を記した<ref>{{cite web|url=http://www.goodreads.com/book/show/1542032.The_Ghost_of_Flight_401|title=The Ghost of Flight 401|website=Goodreads|access-date=July 22, 2017}}</ref>。同書を元にした同名のテレビ映画も作られ、1978年に放映された。この映画では、特に幽霊の逸話に焦点があてられた{{r|story}}。

ミュージシャンの[[ボブ・ウェルチ (ミュージシャン)|ボブ・ウェルチ]]は、1979年に発表したアルバム『Three Hearts』にて、「The Ghost of Flight 401」と名付けた楽曲を収録した<ref>{{Cite web |title=Three Hearts - Bob Welch | Songs, Reviews, Credits |work=AllMusic |url=https://www.allmusic.com/album/mw0000187208 |accessdate=2021-02-23}}</ref>。

イースタン航空の[[最高経営責任者]] (CEO) でかつて[[アポロ計画]]の[[宇宙飛行士]]も務めた[[フランク・ボーマン]]は、墜落にまつわる幽霊話を「ごみ」だと呼んだ<ref name="Serling 1990">{{cite book | title=From the Captain to the Colonel: An Informal History of Eastern Airlines | author=Serling, Robert J. | publisher=Doubleday | year=1980 | isbn=0-385-27047-X | oclc=5447734 |pages=490–491}}</ref>。イースタン航空は、名誉毀損に当たる内容があるとして訴訟を検討したが、むしろ同書の[[ストライサンド効果|宣伝]]になってしまうと考えたボーマンは提訴しなかった<ref name="Serling 1990" />。一方で機長の妻子は、機長の[[人格権]]と[[プライバシー権]]の侵害、および精神的苦痛を与えられたとしてフラーを訴えた。しかし、この訴訟は却下された<ref>{{cite court |litigants=Loft v. Fuller |vol=408 |reporter=So. 2nd |opinion=619 |court=Fla. App. |date=1981-12-16 |url=http://www.leagle.com/xmlResult.aspx?xmldoc=19811027408So2d619_2982.xml&docbase=CSLWAR1-1950-1985 |access-date=October 9, 2012 }}</ref>。

1980年に発行された{{仮リンク|ロバート・J. サーリング|en|Robert J. Serling}}の『Captain to the Colonel: An Informal History of Eastern Airlines』によると、EA401便の残骸から部品が流用され後に撤去されたという話は事実ではなく、さらに噂のような幽霊を見たと主張するイースタン航空の従業員もいなかったという。{{仮リンク|ブライアン・ダニング|en|Brian Dunning (author)}}によると、幽霊目撃話の起源は、イースタン航空のとある機長が緊急着陸した際に「EA401便の航空機関士の幽霊が搭乗していた」と語ったジョークだという<ref name="Serling 1990" /><ref name="Skeptoid">{{cite podcast |url= https://skeptoid.com/episodes/4563 |title= Grounding the Ghost of Flight 401. |website= Skeptoid Podcast |publisher= Skeptoid Media |last= Dunning |first= Brian |date=2017-03-21 |access-date= 30 July 2020}}</ref>。

== 本事故を主題とした書籍や映像作品 ==
ジャーナリストのロブ・エルダーとサラ・エルダーによる本事故を主題とした書籍『Crash』が1977年に出版された<ref>{{cite book | title=Crash | author1=Elder, Rob | author2=Elder, Sarah | year=1977 | publisher=Atheneum, New York | isbn=0-689-10758-7 | url-access=registration | url=https://archive.org/details/crash0000elde }}</ref>。同書に基づいて脚色を加えたテレビ映画『Crash』も制作され、1978年に放映された{{r|story}}。

[[ナショナルジオグラフィック (テレビチャンネル)|ナショナルジオグラフィック]]による[[ドキュメンタリー]]シリーズ[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]]では、第5シーズン第9話「Fatal Distraction」で本事故が特集されている<ref>{{Cite web |title=メーデー!5:航空機事故の真実と真相|番組紹介 |work=ナショナル ジオグラフィック (TV) |url=https://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/67 |accessdate=2021-02-23}}</ref><ref name="Mayday">{{Cite episode |title=Fatal Distraction |series=Mayday |network=Discovery Channel Canada / National Geographic Channel |season=5 |year=2007}}</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|refs=
}}

=== 出典 ===
{{Reflist|3|refs=
<ref name="asn">{{Cite web
|title=ASN Aircraft accident Lockheed L-1011-385-1 TriStar 1 N310EA Everglades, FL
|publisher=Aviation Safety Network
|url=https://aviation-safety.net/database/record.php?id=19721229-0
|accessdate=2021-02-13}}</ref>
<ref name=lal>{{Cite web
|title=Lessons Learned (Lockheed Model L-1011 Eastern Airlines Flight 401, N310EA)
|work=Lessons Learned From Civil Aviation Accidents
|publisher=Federal Aviation Administration
|url=https://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=1&LLID=8&LLTypeID=9
|accessdate=2021-03-14}}</ref>
}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 事故調査報告書 ===
{{参照方法|section=1|date=2017-09-16}}
* {{Citation
{{Reflist}}
|author=National Transportation Safety Board (NTSB)
* [[柳田邦男]]『[[マッハの恐怖|続・マッハの恐怖]]』(1986年 新潮文庫)
|title=Aircraft Accident Report: Eastern Air Lines, Inc., L-1011, N310EA, Miami, Florida, December 29, 1972
* 柳田邦男『航空事故』(1980年 [[中公新書]])
|date=1973-06-14
|id=NTSB-AAR-73-14
|format=PDF
|url=https://www.ntsb.gov/investigations/AccidentReports/Reports/AAR7314.pdf
|ref={{sfnref|NTSB|1973}}
}}

=== 書籍・雑誌記事等 ===
*{{Citation |和書
|last1=遠藤 |first1=信介
|editor=日本航空技術協会
|title=航空輸送100年 : 安全性向上の歩み
|year=2019
|publisher=日本航空技術協会
|isbn=9784909612038
|ref=harv}}
*{{Citation |和書
|last1=加藤 |first1=寛一郎
|title=新システムの悪夢
|year=2001
|series=墜落
|volume=2
|publisher=講談社
|isbn=4062106027
|ref=harv}}
*{{Citation |和書
|last=鈴木 |first=真二
|title=落ちない飛行機への挑戦 : 航空機事故ゼロの未来へ
|publisher=化学同人
|year=2014
|series=DOJIN選書
|issue=57
|isbn=9784759813579
|ref=harv}}
*{{Citation |和書
|author1=デイヴィッド・オーウェン
|author2=青木謙知(訳)
|title=墜落事故 : 機体が語る墜落のシナリオ
|year=2003
|publisher=原書房
|isbn=978-4562036127
|ref={{sfnref|オーウェン|2003}}}}
*{{Citation |和書
|author1=デイビッド・ゲロー
|author2=清水保俊(訳)
|title=航空事故 : 人類は航空事故から何を学んできたか?
|publisher=イカロス出版
|year=1997
|edition=増改訂
|isbn=4-87149-099-8
|ref={{sfnref|ゲロー|1997}}}}
*{{Citation |和書
|last1=宮城 |first1=雅子
|title=大事故の予兆をさぐる : 事故へ至る道筋を断つために
|year=1998
|number=B-1209
|series=ブルーバックス
|publisher=講談社
|isbn=978-4062572095
|ref=harv}}
*{{Citation |和書
|last1=柳田 |first1=邦男
|title=航空事故 : その証跡に語らせる
|year=1975
|number=390
|series=中公新書
|edition=22
|publisher=中央公論社
|isbn=412100390X
|ref=harv}}


== 関連項目 ==
=== オンライン資料 ===
*{{Citation
* [[バリュージェット航空592便墜落事故]] - 1996年に同じエバーグレーズで発生した墜落事故。
|last1=Besco |first1=Robert O
* [[CFIT]]
|title=Aircraft Accidents Aren’t—Part One
* [[ファーストエア6560便墜落事故]]
|journal=Accident Prevention
* [[アエロフロート機ネヴァ川不時着水事故]]
|volume=47
|number=12
|year=1990
|url=https://www.flightsafety.org/ap/ap_dec90.pdf
|accessdate=2021-03-07
|ref=harv}}
*{{Citation
|last1=Besco |first1=Robert O
|title=Aircraft Accidents Aren’t—Part Two
|journal=Accident Prevention
|volume=48
|number=1
|year=1991
|url=https://www.flightsafety.org/ap/ap_jan91.pdf
|accessdate=2021-03-07
|ref=harv}}
* {{Cite web
|title=ASN Aircraft accident Lockheed L-1011-385-1 TriStar 1 N310EA Everglades, FL
|publisher=Aviation Safety Network
|url=https://aviation-safety.net/database/record.php?id=19721229-0
|accessdate=2021-02-13}}
* {{Cite web
|title=Lockheed Model L-1011 Eastern Airlines Flight 401, N310EA
|work=Lessons Learned From Civil Aviation Accidents
|publisher=Federal Aviation Administration
|url=https://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=1&LLID=8&LLTypeID=0
|accessdate=2021-03-14}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2021年3月27日 (土) 16:39時点における版

イースタン航空401便墜落事故
事故機のイースタン航空 ロッキード L-1011-1(N310EA) 1972年3月
事故の概要
日付 1972年12月29日
概要 CFITパイロットエラー
現場 フロリダ州エバーグレーズ
乗客数 163
乗員数 13
負傷者数 75
死者数 101
生存者数 75
機種 ロッキード L-1011 トライスター
運用者 イースタン航空
機体記号 N310EA
出発地 ジョン・F・ケネディ国際空港
目的地 マイアミ国際空港
テンプレートを表示

イースタン航空401便墜落事故(イースタンこうくう401びんついらくじこ、: Eastern Air Lines Flight 401)は、1972年12月29日アメリカ合衆国フロリダ州エバーグレーズで起きた航空事故である。

イースタン航空ロッキードL-1011「トライスター」マイアミ国際空港へ着陸するため降着装置を下ろしたところ、前脚がロックされたことを示す表示灯が点灯しなかった。進入を中断して自動操縦装置で空港付近を旋回し、前脚の状態を確認することにした。その際に機長が意図せず操縦輪に力をかけたことで自動操縦の高度保持機能が解除され、緩やかな降下が始まった。操縦室の全員が前脚の問題に集中してしまい、誰も飛行状態を監視しない状況が生じた。その結果、手遅れになるまで降下に気付かず、そのまま湿地帯に墜落した。搭乗者176名中101名が死亡した。

再発防止策として危険な高度の航空機に管制官が警告できるように最低安全高度警報 (MSAW) が開発された。また、本事故以前のCFIT事故の教訓と合わせて対地接近警報装置 (GPWS) の開発が促された。さらに、本事故と類似の人的要因が関わる事故が続いたことでCRM[注釈 1]が提唱されることになった。

事故当日のEA401便

イースタン航空401便墜落事故の位置(アメリカ合衆国内)
JFK
JFK
MIA
MIA
EA401便の出発地であるジョン・F・ケネディ国際空港 (JFK) と目的地であったマイアミ国際空港 (MIA) の位置。事故機はマイアミ空港の近くに墜落した。

イースタン航空401便(以下、EA401便)は、ジョン・F・ケネディ国際空港発、マイアミ国際空港行きの定期旅客便だった[1][2]

1972年12月29日のEA401便は、ロッキードL-1011型機「トライスター」で運航された[3]。トライスターは、この年に就航開始したばかりの新鋭機で[3]、左右の主翼下と機体尾部にそれぞれ1発ずつ、計3発のターボファンエンジンを備えたワイドボディ旅客機である[4]。使用機材の機体記号は「N310EA」だった[5]。この飛行機は同年8月にイースタン航空に納入され、事故までの飛行時間は936時間、飛行回数は502回だった[5]

EA401便の運航乗務員は機長副操縦士(ファースト・オフィサー)、航空機関士(セカンド・オフィサー)の3名だった[6][7]

機長は55歳で、1940年にイースタン航空に入社した[7]。1942年に旅客機の乗務資格を取得し、1951年に機長に昇格した[7]。複数機種の乗務資格を経て、1972年の春から夏にかけてトライスターの乗務資格を取得した[7]。彼は総飛行時間が29,700時間というベテランパイロットで[8]、トライスターでの飛行時間は280時間だった[7]

副操縦士は39歳で、アメリカ空軍での経験を経て1959年にイースタン航空に入社した[7]。当初は航空機関士として乗務し、1971年12月に副操縦士となった[7]。翌1972年にトライスターへの転換訓練を受けて6月に完了した[7]。総飛行時間は5,800時間、トライスターでの飛行時間は306時間だった[7]

航空機関士は51歳で、1947年に航空整備士としてイースタン航空に採用された[7]。1955年に航空機関士の資格を取得し、1972年10月から12月にかけてトライスターへの転換訓練を完了した[7]。総飛行時間は15,700時間、うちトライスターでの飛行は53時間だった[7]

加えてこの日は、整備技術者1名がコックピットの補助席に同乗していた[9][10][11]客室乗務員は10名、乗客は163名(前述の整備技術者を含む)が搭乗していた[12][13]

事故の経過

表示灯の不具合

東部標準時21時20分にニューヨークジョン・F・ケネディ国際空港を離陸したEA401便は、順調に飛行して目的地のマイアミ国際空港への進入を開始した[1]。副操縦士が操縦輪を操作し、機長は交信や降着装置等の操作を担当していた[14][15]。マイアミ空港付近は晴れており視程は10マイル(約16キロメートル)と良好だったが、月はなく暗闇の中の飛行だった[16][17]

着陸のため機長が降着装置を下ろす操作をしたところ、前脚が下げ位置でロックされたことを示す表示灯が点灯しなかった[16][18]。表示灯が点かない原因として考えられるのは、脚が正常に下りていないか、表示灯が故障したかのいずれかである[19]。機長は脚下げ操作をやり直したが、表示灯はつかなかった[18]

23時34分05秒、機長はマイアミ空港の管制塔(タワー)を呼び出し、前脚の表示灯が点かないため旋回する必要がある旨を伝えた[20][21][2]。タワーは了解し、高度2,000フィート(約610メートル)に上昇して進入管制(アプローチ・コントロール)に無線周波数を合わせるようEA401便に指示した[20]。EA401便はこれを了承し、上昇して空港上空を通過した[22][23]

周回コースへ

進入を中断してから墜落に至るまでのEA401便の飛行経路。NTSBの事故調査報告書より転載。中央下にある白抜きの領域がマイアミ空港の滑走路。

23時35分09秒、EA401便は進入管制に無線をつなぎ、高度2,000フィートに達したことと、前脚の表示灯を確認する必要があることを伝えた[21][22]。これに対し進入管制は、左に90度旋回するよう返信した[21]。空港付近の決められたコースを周回して再度進入コースへ戻るためであった[21]。EA401便はこれを了承して左旋回を開始した[21]

23時36分04秒、操縦を担当していた副操縦士にオートパイロット(自動操縦装置)を作動させるよう機長が指示した[22][24]。トライスターは当時最新鋭のオートパイロットを備えており、方位や高度、速度などをセットすると、それに沿って自動で飛行できた[24]。副操縦士はオートパイロットを作動させると、管制から指示された飛行方位をセットした[22][24]

続いて副操縦士が前脚の表示灯を取り外して調べたところ、ランプが切れていた[25]。問題はその後だった。副操縦士が表示灯を元に戻そうとして誤った向きに差し込んでしまった[25]。表示灯は中途半端に嵌って動かなくなった[25]

23時37分08秒、機長は航空機関士に対して、操縦室の床下にある電子機器室(エレクトロニクス・ベイ)に入って前脚の状態を目視確認するよう指示した[26][25][27]。電子機器室には前脚の機構の一部が見える「のぞき窓」があり、脚が正しく降りたか確認できるようになっていた[26][25]

不自然な降下

23時37分24秒、EA401便は緩やかに降下を始めた[26]。その24秒後、西に変針するように進入管制から連絡が入る[26]。EA401便はこれを了承して旋回し、同時に降下も止まった[26]。この間の降下量は100フィート(約30メートル)だった[26]

機長と副操縦士は表示灯を直そうとしていたが成功しなかった[26][25]。23時38分46秒、機長は進入管制官を呼び出し、ランプを取り付けられるか確認するため、もう少し西へ飛びたいと要請した[28][29][27]。進入管制はこの要求を許可した[28]

23時38分56秒から、機長と副操縦士は表示灯の再取り付けについて議論を続けた[28][30]。飛行機は、23時40分頃から再び高度を下げ始めた[31][10]。23時40分38秒、副操縦士が話している最中に0.5秒間の警報音が鳴った[28][30][32]。この警報音は、オートパイロットの設定高度から250フィート(約76メートル)外れたことを知らせるものだった[28][30]。しかし、2人のパイロットはこの音に言及せず、高度の修正操作も行われなかった[28][33]

23時41分、床下に入っていた航空機関士が頭を出し、「見えない。真っ暗で小さな光を当てた程度では何もわからない」と報告した[28][33][17]。ここで、コックピットに同乗していた整備技術者が脚格納室の照明の点灯方法についてパイロットと会話してから、航空機関士を手伝うため床下に入った[34][17]

墜落

そうこうしている間に、EA401便の高度は下がり続けた[10]。マイアミ空港の進入管制は、レーダー画面に表示されるEA401便の高度が900フィート(約270メートル)になっていることに気づいた[34][10]。ただし当時は、一時的に高度が誤表示されることが珍しくなかった[34][35]。一方この時、EA401便は管制官の管轄空域の境界に近づいていた[34][17]

23時41分40秒、この管制官はEA401便に以下のように呼びかけた[34][17]

「イースタン、エー、401、そちらはどんな具合か?」(Eastern, ah, four oh one how are things comin' along out there?)

管制官の問いかけに対し、機長はすぐに返答した[36][17]

「オーケー、一回りして戻りたい」(Okay, we'd like to turn around and come, come back in)

23時41分47秒、アプローチコントロールはこれを了承し、方位180(真南)に左旋回するよう指示した[37][10]。EA401便は了解して旋回を開始した[38]

レーダーの誤表示ではなく、実際にEA401便は高度を落としていた[39][40]。そのことに最初に気付いたのは副操縦士だったが、墜落までに残された時間は7秒しかなかった[41][40]。23時42分05秒以降のコックピット・ボイス・レコーダー(CVR)には以下の音声が記録されている[42][40][37][17]

副操縦士「我々は高度に何かしました」(We did something to the altitude.)
機長「何?」(What?)
副操縦士「我々はまだ2,000フィートにいるはずですよね?」(We're still at two thousand, right?)
機長は叫んだ「おい、これは何が起きているんだ?」(Hey, what's happening here?)
23時42分10秒、着陸復行できる限界高度(30メートル)を切ったことを知らせる警報音がなる
2秒間に警報音が6回鳴り、続けて地面との衝突音
墜落現場の写真。白く見えるのは機体の一部である。

23時42分42秒、旋回のため左に28度傾いていたEA401便は左主翼から地面に衝突した[43][44]。機体は次々と分解し、およそ幅90メートル、長さ490メートルの範囲に残骸が散乱した[43]。墜落時に飛散した燃料により火災が発生し、その一部は客室部分に及んだ[43]。墜落地点はマイアミ空港の西北西18.7マイル(約35キロメートル)、エバーグレーズ(草の海)と呼ばれる平坦で柔らかな湿地帯だった[43]

救助活動

マイアミ空港ではレーダー画面からEA401便の機影が消え、無線の呼び出しにも応答がなかったことから、管制官が沿岸警備隊に捜索を要請した[45]。沿岸警備隊のヘリコプターが出動し、15分から20分ほどで墜落現場が特定された[45][17]。生存者が確認され、直ちに救出活動が始まった[45][17]

また、偶然近くでボートに乗ってカエル漁をしていた地元住民が墜落を目撃していた[46]。この目撃者も墜落現場に駆けつけ、救助隊と協力して生存者をボートで搬送した[46][注釈 2]。暗い夜であり湿地での活動となった上、生存者が広範囲に散らばっていたものの、約4時間で生存者全員が病院に搬送された[45][17]

乗員176名のうち、99名が死亡、77名が重軽傷を負いながらも生存した[13][47]。機長と副操縦士は墜落現場で死亡、航空機関士は病院へ搬送された後に死亡した[48]。コックピットに同乗していた整備技術者は生存した[48]

犠牲者の主な死因は衝撃による胸部外傷だった[49]。負傷の多くは骨折で、14名が火傷を負った[47]。17名は入院を必要としない軽症だった[13]。2名の生存者は事故後7日以上経過してから死亡した[47]。米国連邦規則集の規定上は、この2人は生存者として集計されているが、本事故による怪我が死因である[47]

この事故は、ジェット旅客機の墜落事故としては珍しく生存率が高かった[50][47]。生存者のほとんどは、散乱した残骸の前方と後方にいた[47]。後に発行された事故調査報告書では、生存率が高かった理由を説明することは難しいとしつつ、以下のように示している[51]

胴体が分解する過程で生存者の多くは、かなり低速になるか停止するまで胴体の主要部に留まっていた[51][50]。そして、飛散した機体構造が生存者を押し潰さずに済んだ[51][50]。トライスターの座席は、支えの部分にショック・アブソーバーの機構を備えていたことに加えて、機体構造に強固に取り付けられていた[51][50]。この座席構造は生存率に寄与したと考えられる[51]

事故調査

米国の国家運輸安全委員会 (NTSB) が事故調査にあたった[52]

墜落現場で発見された前脚は、下げ位置でロックされていた[53]。脚の表示灯も残骸の中から発見された[54]。表示灯は、縦と横を間違えて押し込まれており動かなくなっていた[55][53][29]。表示灯の二つの電球はいずれも切れていた[55][53]

事故機に搭載されていたコックピット・ボイス・レコーダー (CVR) とフライト・データ・レコーダー (FDR) が回収されて分析された[44]。CVRからは、マイアミ空港の管制塔(タワー)を呼び出した時点からの音声が復元できた[44]。FDRからは飛行速度、高度、方位、姿勢、加速度のほか、エンジン推力や各操縦翼面の状態が取得でき、飛行の経過を包括的かつ詳細に解析することができた[44]

各種調査や試験の結果から、機体の構造、エンジン、システムには故障や不具合は認められなかった[50][55][56]。飛行中に火災や爆発が起きた痕跡もなかった[44]。したがって、事故機はなぜ降下したか、そして乗員がなぜそれに気づかなかったかが調査の焦点となった[50][57]

オートパイロットの設定

トライスターのコックピット。オートパイロットの設定はグレア・シールド(窓下の中央にある横長のパネル)で行われる[58]

EA401便が進入を中断して空港を周回する際に、副操縦士はオートパイロットを作動させた[59]

トライスターのオートパイロットには二つのモードが備わっていて、状況に応じて使い分けることになっていた[60]。基本のモードは「コントロール・ホイール・ステアリング」(以下、CWS)モードと呼ばれる[58][61]。CWSモードでは、パイロットが操縦輪を操作して飛行機の姿勢を変えられる[58][61]。そして手を離すと、その姿勢を維持するようにオートパイロットは機を安定させる[58][61]

方位・高度・上昇率などの目標値を与えて自動で追従させたい場合は「コマンドモード」を用いる[60][24]。コマンドモードの目標値は、コックピットのボタンやダイヤルで入力する[60][24]

事故当時のオートパイロットがどういう設定だったかは一意に特定できなかったものの、FDRの記録や公聴会で得たパイロットたちの証言を元に事故調査委員会は次のように推定した[62][63]。副操縦士は、コマンドモードでオートパイロットを作動させ、高度を維持するアルティチュード・ホールドと指定した方位へ飛ぶヘディング・セレクトを有効にした[62][63]。これは、通常の手順通りの操作である[62][63]。そして、維持する高度は2,000フィートにセットされたと考えられる[62][63]。残骸から発見された事故機のオートパイロットにも、高度2,000フィートがセットされていた[64][65]

意図せず降下が始まった

それでは、なぜ事故機は降下したのか。

空港の周回コースに入ってから最初に高度の異変を生じたのは、墜落の4分48秒前である[66][62]。FDRには下向きに0.04G(Gは重力加速度)の加速度が記録され、緩やかな降下が始まっていた[26]。事故機のシステムには異常が認められなかったため、この縦の動きの変化は、オートパイロットの高度維持が解除されたためと推測されている[67][66]

トライスターのオートパイロットは、コマンドモードで作動中であっても軽い力で操縦輪を操作でき、パイロットが操縦を上書きできるよう設計されていた[68]。さらに、操縦輪に一定以上の力がかかると、コマンドモードが解除されてCWSモードの姿勢維持に切り替わる[68]。操舵力の向きに応じて、コマンドの解除は縦(ピッチ)と横(方位)のそれぞれで行われる[69]。これは、設計上の安全策の一つであった[68]

では、なぜ高度維持が解除されたのか。

CVRの記録によると降下が始まったのは、航空機関士に脚を目視確認するよう機長が指示したところだった[70][71]。航空機関士の席はパイロット席の後ろにある[71]。航空機関士に話しかけるため、機長が後ろを振り向いた様子があった[71][66]。そして、その際に意図せず操縦輪を押してしまい、高度維持を解除するだけの力がかかったと事故調査委員会は推定した[62][70]

乗員が気づいた様子がなかった

高度維持が解除されると、オートパイロットがCWSモードに切り替わる[72]。ただし、高度維持機能には独特な仕様があった[72]。計器パネルにコマンドモードが解除されたことが明示的に表示されず、モードを選択するレバーも元のまま(すなわちコマンドモード)で維持されたのである[72]。それでも高度維持を意味する「ALT」の文字が表示パネルから消えることから、パネルをよく見れば解除に気づけたはずである[73][74]。しかし、機長と副操縦士がそれに気づいた様子はなかった[75][74]

管制指示で方位を変えた際に、一度は水平飛行に戻ったものの、墜落の2分40秒前から再び高度を下げだした[76]。二度目の降下の際には、わずかな機首下げとエンジン推力の減少が起きている[31]。FDRによると推力は断続的に調整されており、その動きはオートスロットル(自動推力調整装置)では起こり得ないものだった[31]。事故調査委員会は、いくつかの可能性を検討した上で、乗員による意図的な推力操作があったと判断した[77][78]

姿勢を変えずにCWSモードで推力を絞ると、機体の運動は降下する方向に向かう[79][80]。通常であれば、推力操作の際に高度計も参考にする[74]。しかし、もし自動操縦によって高度が維持されると乗員が思い込んでいたならば、高度計を確認せず推力を調整することも十分あり得た[77][78]

墜落の2分4秒前、自動操縦の設定高度から逸脱したことを注意喚起する警報音が鳴っていた[81][10]。乗員はここで計器を確認して降下に気づくべきだった[55]。しかし、2人のパイロットは表示灯についての議論の最中にあり、誰もこの警報音に言及せず、飛行機の姿勢修正も行われなかった[28][33]

事故調査報告書は次のように述べている[注釈 3]

オートパイロットの表示がどうなっていたか、あるいは推力減少がどのように生じたかによらず、飛行計器(高度計、昇降計、速度計、姿勢指示計、オートパイロットのバーティカル・スピード・セレクター)は水平飛行状態としては異常であることを示していたはずである

しかし、これまでに記した通り、墜落直前までの4分間、乗員が高度に注意を払った様子はなかった[82][55]

除外された要因

なぜ乗員が降下に気づかなかったか、調査検討を経て最終的に事故原因から除外された要因が二つある。

機長の脳腫瘍

事故後の解剖によって機長に脳腫瘍があったことが分かった[83][47]。機長の腫瘍は視力、特に周辺視野に影響を及ぼしうるものだった[83][84]。視野に異常があれば、機長が計器を見落とした可能性もある[83][84]。しかし、実際に視野障害があったのか、そして、あったとすればどの程度の欠損があったかを病変から特定することは不可能だった[83][84]。機長の家族や同僚らの証言によると、機長の仕事や日常動作には視野障害の兆候が認められなかった[83][84]。したがって、NTSBは機長の腫瘍を事故原因から除外した[83][84]

オートパイロットの不一致

トライスターのオートパイロットは二重化されており、AとBの二つのシステムが備わっていた[58][61]。Aシステムは機長席、Bシステムは副操縦士席に繋がっていて、事故時の飛行状況においては、どちらか一方のシステムを作動させる仕組みだった[58][61]

事故機の両システムの間には、ある不一致があったことが事故調査によって見つかった[85][86]。高度維持が解除される操舵力がAとBで異なっていたのである[85][86]。この不一致により、もし機長側のAシステムが作動していて一定範囲の操舵力がかかると、高度維持が解除されるにも拘らず、副操縦士側では高度維持が作動中と表示される状況が起こり得た[87][88]。そうなると、副操縦士は高度維持が解除されたことを認識できない[87][88]

ただし、NTSBは各種調査を踏まえて副操縦士側のBシステムが作動していたと推定した[89][88]。この場合には、高度維持の誤表示は起こらない[88]。したがって、両システムの不一致は事故の主要因にはならないと判断された[89][88]

なぜ降下に気づかなかったか

それでは、なぜ乗員は高度を気にせず飛行したのか。この点について事故調査委員会は、二つの要因を挙げた[90]

一点目は、CWSモードに対する乗員の理解不足である[90]。CWSモードで操縦輪やスロットルを操作した際の挙動について、事故機の乗員が十分に理解していない様子があった[90]。さらに事故調査によって、このCWSモードに対する理解不足は事故機の乗員に限らないことが判明した[90]。実は、イースタン航空の運航手順では、運航中にCWSモードを使用することを認めていなかった[90][91]。事故調査報告書は、このCWSモードを禁止する会社方針によって、CWSモードに対するパイロットの理解不足が生じた可能性があると指摘している[90]

二点目は、自動化システムへの過度の依存である[92][93]。アビオニクスの高度化やシステムの自動化が進展し、機器の信頼性が向上するにつれて、多くのパイロットはそれらのシステムへの依存度を高めつつあった[94][93]。それによって、目の前にある手のかかる作業にパイロットの注意力が奪われ、基本的な操縦や飛行状況の監視が疎かになる[94][93][95]。公聴会で得られた証言によると、設計当初や認証時の想定を超えて、パイロットはオートパイロットの信頼性や性能を過信していた[93][92]

これらの要因を指摘した上で、さらに事故調査報告書は以下のように強調している[注釈 4]

明らかなことは、この事故は、ほかの多くの事故の場合もそうなのだが、たった一つの過失によって致命的な結果がもたらされたのではなく、航空機を運航する正規の手順からはずれた些細な逸脱行為が積み重なって一連の事態を引き起こし、ついに惨事に至った、ということである

推定原因

1973年6月14日にNTSBは事故調査報告書を発行した[96]。報告書で結論された事故原因の要旨は次のとおりである[注釈 5]

本事故の推定原因は、最後の4分間、運航乗務員が飛行計器を監視しなかったことであり、意図せず降下していたことに手遅れになるまで気づかなかったことである。前輪の表示灯の不具合に拘泥したことで乗員の注意が計器に払われず、降下が見過ごされた。

管制官の対応とコミュニケーション

推定原因には含まなかったものの、事故調査報告書では管制官の対応に関しても指摘している。

EA401便を担当していた管制官は、レーダー画面に示された同機の高度が900フィート(約270メートル)に下がっていることに気づいていた[3]。フロリダ空港の管制情報システムは当時の最新式だったが導入されて日が浅く、一時的に実際と異なる高度が表示されることがしばしばあった[34][97][98]。さらに、管制官が事故機に状況を問い合わせたところ、すぐに乗員から応答があった[34][99]。したがって、この管制官は、事故機に危険が迫っているとは考えず、管轄していた他機の管制を続けた[34][35][99]。事故後の調査において、EA401便に問い合わせたのは同機が管轄空域の境界に近づいたからだったと管制官は証言している[34]

当時の管制情報システムは、対地間隔情報を提供するようには設計されていなかった[100][99]。また、そのような情報提供を管制官が行うための業務手順を連邦航空局 (FAA) は定めていなかった[100][99]。事故調査委員会はこのことを認識した上で、それでも次の見解を示している[100][99]

「航空機の総合的な管制業務に関わる者であれば、明らかに危険な状況にある者に警告を行う本質的な責任がある。たとえそれが主たる職務でなくともである」[100][99]

また、管制官と乗員の意思疎通がうまくいっていなかった。管制官の「そちらはどんな具合か?」という表現は非常に曖昧だった[101]。EA401便のパイロットは、表示灯のことを尋ねられたと思い込んだ可能性がある[101][102]。そして、機長がすぐに「大丈夫だ」と返答してしまったことで、管制官はその返事を信用して危険はないと考えてしまった[103][104]

事故後の対策

この事故の教訓から、さまざまな再発防止対策が取られた。

もし、迅速に前脚を目視できていれば、この事故は防げた可能性がある[105]。夜間だったので脚格納室の照明を点灯する必要があったが、乗員は脚扉が開けば照明が常につくと考えていた様子があった[91]。照明スイッチはのぞき窓から遠い機長席のパネルにあり、実際に点灯操作が行われたのかはっきりしない[106]。NTSBは、再発防止のためには目視を行いやすくする必要があると考え、脚格納室の照明スイッチをのぞき窓の近くに設置するようFAAに勧告した[106][105]。この勧告に沿って、トライスターの改修が行われた[107]

事故機が設定高度から250フィート逸脱した際に、0.5秒間の警報音が鳴っていた[108]。実は、高度逸脱を警告する手段として、トライスターには警報音だけでなく点滅式のランプがコックピットに備わっていた[108][98]。しかし、イースタン航空では、このランプが作動しないようにしていた[98]。NTSBはこの点を問題視し、ランプでも適切に警告するようイースタン航空に求めた[98][108][109]。この警告に対してイースタン航空が改善案を立てたものの、NTSBは受け入れ不可とした[109]

NTSBは、事故時の生存率を上げるための勧告も発行した。本事故の前に起きた2件の事故の教訓も踏まえて、客室乗務員席に肩掛け式シートベルトを装備し、離着陸時における着用を確実にするよう求めた[109][110]。また、緊急脱出に備えて客室の誘導灯や非常灯を改善すること、そして携帯型照明を客室に搭載することを求めた[109][110]

本事故は、操縦可能でありながら意図せず降下して墜落に至ったCFIT事故である[111]。本事故の前からジェット旅客機のCFIT事故が問題になっており、既に1970年代初頭の時点で対地接近警報装置 (GPWS) を開発するようNTSBが勧告していた[52]。その中で本事故が発生したことからNTSBは、GPWSを義務化する規則改正を急ぐようFAAに求めた[35][112]。そうして本事故からちょうど2年後の1974年12月に連邦規則集が改正され、航空会社のジェット機にGPWSの装備を義務付ける要件が盛り込まれた[35][113]

事故機の異常な高度低下に気づきながら管制官の対応が消極的だったのは、レーダーの表示高度を十分に信頼できないという事情があった[98][35]。NTSBは、当時のレーダーシステムには航空機が地表に異常接近した際の警報機能がないことを問題視し、著しく高度を逸脱した際に管制官が助言できるようにレーダー情報処理システムを見直すようFAAに勧告した[35][112]。これを受けて、レーダー情報システムの追加ソフトウェアとして、航空機が地表に異常接近した際に管制官に警告する「最低安全高度警報」(MSAW) が開発され、1976年11月から運用が開始された[35][114]

この事故では、乗員の注意配分が適切になされず、同乗の整備技術者を含めて全員が前脚の問題に集中してしまった[95][115][91]。事故機では、機長の指示によって副操縦士が表示灯を取り外すことになったが、それまで副操縦士が行なっていた飛行状況の監視を誰が行うのか明確にされず、結局だれも監視しない状況が生じた[102]。この事故から6年後、脚下げ表示灯のトラブルをきっかけに、またも操縦室内の業務配分に失敗して墜落した事故(ユナイテッド航空173便燃料切れ墜落事故)が発生した[116]。また、同時期に乗員のコミュニケーションや人的要因に起因するテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故も発生した[117]。これらの事故を契機としてCRM[注釈 1]の概念が提唱され乗員の訓練に組み込まれることになる[117][95]

乗員の幽霊

事故後しばらくして、事故機の乗員の幽霊をトライスター機内で見たという噂がイースタン航空従業員の間で流れた[118][119][120]。噂では、事故機から使える部品が回収され、同社の他のトライスターを修理するために使われたと憶測され[118][121]、その部品を取り付けた機体だけに幽霊が現れると伝わった[118][119]。この幽霊目撃談はイースタン航空全体に広がり、ことによっては噂を広めた者を解雇すると経営陣が警告する事態となった[119]。イースタン航空は幽霊の出現を公式に否定するとともに、同社のトライスターから事故機の部品を全て取り外したとの報道もされた[120]

本事故とその余波は、1976年にジョン・G・フラー英語版によって『The Ghost of Flight 401』という題名で書籍化された[122]。フラーはその著書で、イースタン航空機で起きた超常現象を、そして、それが事故機から回収された部品によって起きたとする物語を記した[123]。同書を元にした同名のテレビ映画も作られ、1978年に放映された。この映画では、特に幽霊の逸話に焦点があてられた[122]

ミュージシャンのボブ・ウェルチは、1979年に発表したアルバム『Three Hearts』にて、「The Ghost of Flight 401」と名付けた楽曲を収録した[124]

イースタン航空の最高経営責任者 (CEO) でかつてアポロ計画宇宙飛行士も務めたフランク・ボーマンは、墜落にまつわる幽霊話を「ごみ」だと呼んだ[125]。イースタン航空は、名誉毀損に当たる内容があるとして訴訟を検討したが、むしろ同書の宣伝になってしまうと考えたボーマンは提訴しなかった[125]。一方で機長の妻子は、機長の人格権プライバシー権の侵害、および精神的苦痛を与えられたとしてフラーを訴えた。しかし、この訴訟は却下された[126]

1980年に発行されたロバート・J. サーリング英語版の『Captain to the Colonel: An Informal History of Eastern Airlines』によると、EA401便の残骸から部品が流用され後に撤去されたという話は事実ではなく、さらに噂のような幽霊を見たと主張するイースタン航空の従業員もいなかったという。ブライアン・ダニング英語版によると、幽霊目撃話の起源は、イースタン航空のとある機長が緊急着陸した際に「EA401便の航空機関士の幽霊が搭乗していた」と語ったジョークだという[125][127]

本事故を主題とした書籍や映像作品

ジャーナリストのロブ・エルダーとサラ・エルダーによる本事故を主題とした書籍『Crash』が1977年に出版された[128]。同書に基づいて脚色を加えたテレビ映画『Crash』も制作され、1978年に放映された[122]

ナショナルジオグラフィックによるドキュメンタリーシリーズメーデー!:航空機事故の真実と真相では、第5シーズン第9話「Fatal Distraction」で本事故が特集されている[129][130]

脚注

注釈

  1. ^ a b 当初はコックピット・リソース・マネジメントと呼ばれたが、のちにクルー・リソース・マネジメントへと発展する。詳細はクルー・リソース・マネジメントを参照。
  2. ^ この目撃者は、事故の生存者たちから後に表彰を受けている[46]
  3. ^ 原文 (NTSB 1973, p. 20) は以下の通り。日本語訳は加藤 (2001, pp. 121–122)を参考とした。
    Regardless of the way in which the status of the autoflight system was indicated to the flightcrew, or the manner in which the thrust reduction occurred, the flight instruments (altimeters, vertical speed indicators, airspeed indicators, pitch attitude indicators, and the autopilot vertical speed selector) would have indicated abnormally for a level-flight condition.
  4. ^ 原文 (NTSB 1973, pp. 21–22) は以下の通り。日本語訳は柳田 (1975, p. 128)による。
    It is obvious that this accident, as well as others, was not the final consequence of a single error, but was the cumulative result of several minor deviations from normal operating procedures which triggered a sequence of events with disastrous results.
  5. ^ 原文 (NTSB 1973, pp. 23–24) は以下の通りである。
    The National Transportation Safety Board determines that the probable cause of this accident was the failure of the flightcrew to monitor the flight instruments during the final 4 minutes of flight, and to detect an unexpected descent soon enough to prevent impact with the ground. Preoccupation with a malfunction of the nose landing gear position indicating system distracted the crew's attention from the instruments and allowed the descent to go unnoticed.

出典

  1. ^ a b 加藤 2001, pp. 98–99.
  2. ^ a b NTSB 1973, p. 3.
  3. ^ a b c 加藤 2001, p. 97.
  4. ^ 『3発機リスペクト : TRIJET STORY.』イカロス出版〈イカロスMOOK〉、2015年。ISBN 978-4-8022-0079-0 
  5. ^ a b NTSB 1973, p. 30.
  6. ^ 加藤 2001, p. 99.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l NTSB 1973, pp. 27–28.
  8. ^ 柳田 1975, p. 127.
  9. ^ 加藤 2001, pp. 97–99.
  10. ^ a b c d e f 柳田 1975, p. 118.
  11. ^ NTSB 1973, p. 7.
  12. ^ NTSB 1973, pp. 6–7.
  13. ^ a b c 加藤 2001, p. 106.
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参考文献

事故調査報告書

書籍・雑誌記事等

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  • 宮城雅子『大事故の予兆をさぐる : 事故へ至る道筋を断つために』B-1209、講談社〈ブルーバックス〉、1998年。ISBN 978-4062572095 
  • 柳田邦男『航空事故 : その証跡に語らせる』390号(22版)、中央公論社〈中公新書〉、1975年。ISBN 412100390X 

オンライン資料

外部リンク