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{{出典の明記|date=2015年7月19日 (日) 07:52 (UTC)}}
{{統合文字|餅}}
{{統合文字|餅}}
{{基礎情報 食品・飲料
|商品名 = 兵六餅
|画像 = [[ファイル:Hyouroku mochi 002(兵六餅).jpg|200px]]
|販売会社 = [[セイカ食品]]
|種類 = [[駄菓子]]
|販売開始年 = [[1931年]](昭和6年)
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|日本での製造 = [[鹿児島県]]
|完成国 = {{JPN}}
|売上 =
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|外部リンク = https://www.seikafoods.jp/hyoroku-mochi-brandsite/
|特記事項 =
}}
[[File:Hyouroku mochi 001(兵六餅).jpg|thumb|兵六餅のパッケージ]]
[[File:Hyouroku mochi 001(兵六餅).jpg|thumb|兵六餅のパッケージ]]
'''兵六餅'''(ひょうろくもち)は、[[鹿児島県]][[鹿児島市]]に本社を置く[[セイカ食品]]が製造販売し、[[商標登録]]している[[飴|飴菓子]]である。
[[File:Hyouroku mochi 002(兵六餅).jpg|thumb|兵六餅。周囲はオブラートで包まれている]]
'''兵六餅'''(ひょうろくもち)は、[[鹿児島県]][[鹿児島市]]にある[[セイカ食品]][[株式会社]]が製造販売し、[[商標登録]]している[[飴|飴菓子]]の一種である。


== 概要 ==
== 概要 ==
セイカ食品が製造する代表商品「[[ボンタンアメ]]」同様、[[佐賀県]]と[[熊本県]]産の[[もち米]]『ヒヨクモチ』の玄米を工場で[[精米]]、研米、[[製粉]]して10度以下の冷水に一晩浸し[[寒ざらし]]にしたものを使用した[[餅]]に[[餡|白餡]]、[[麦芽糖]]、[[水飴]]を練り込み、[[海苔]]粉、鹿児島県産茶葉を使用した[[抹茶]]、[[きな粉]]を添加した柔らかな[[求肥|求肥飴]]である。原料は全て植物性で、それらを約1時間半じっくりと蒸気釜で練り上げ製造される。


[[キャラメル]]のように一口サイズの[[直方体]]に切り、[[ジャガイモ|馬鈴薯]]や[[サツマイモ|かんしょ]]の[[デンプン]]でできているシートの[[オブラート#軟質オブラート|軟質オブラート]]でひとつずつ包んでいるため、包み紙を剥がさず食べられる<ref name="Nico">{{cite web|url=http://news.nicovideo.jp/watch/nw2368065|title=マジか!? 今の若い人は“ボンタンアメ”を知らないだと…|date=2016-08-31|website=[[ニコニコニュース]]|publisher=[[ドワンゴ]]|accessdate=2021-01-02}}</ref><ref name="Bontaname">{{Cite web|url=https://www.seikafoods.jp/bontaname/|title=ボンタンアメ|accessdate=2021-01-02|website=セイカ食品株式会社|publisher=[[セイカ食品]]}}</ref>。米粉は時間がたつと硬化する性質があるが、デンプンに対し糖分の比率が高く、通常の[[求肥]]以上に日持ちする。もち米でできているため粘り気が強すぎて、そのまま詰めると箱の中でアメ同士がくっついたり、包み紙にくっついて剥がせなくなるためオブラートに包まれているが、オブラートは口溶けよく改良されており、[[令和]]3年(2021年)時点ではオブラート工場も日本全国に3ヵ所だけになっているが、今やオブラートがあってこその商品で変わらないことが支持されているため、伝統の粘りある食感を守るため使用され続けている<ref name="Oblaat">{{Cite news|和書|title=オブラートの理由は?昔懐かしい「ボンタンアメ」が進化していた|newspaper=macaroni|date=2019-03-13|url=https://macaro-ni.jp/32902|accessdate=2021-01-02|publisher=株式会社トラストリッジ}}</ref><ref name="MadeIn">{{Cite news|和書|title=<メイド・イン・九州>セイカ食品の「ボンタンアメ」|newspaper=ウォーカープラス|date=2018-11-01|author=九州ウォーカー|url=https://www.walkerplus.com/trend/matome/article/167525/|accessdate=2021-01-02|publisher=[[KADOKAWA]]}}</ref>。
セイカ食品が製造する代表商品「[[ボンタンアメ]]」と同様に[[餅]]([[佐賀県|佐賀]]・[[熊本県|熊本]]産の[[もち米]]「'''ひよくもち'''」を使用)に[[麦芽糖]][[水飴]]を練り込み[[海苔]]、[[抹茶]]、[[きな粉]]、[[餡|白餡]]を添加した柔らかな[[求肥|求肥飴]]である。[[キャラメル]]のように一口サイズの[[直方体]]に切り、[[オブラート]]でひとつずつを包んでいるため、包み紙をはがさずに食べられる。現在の一般的なものは、[[ポケット]]サイズのひと箱に14粒を包装している。


鹿児島県に古くから伝わる『{{読み仮名|大石兵六夢物語|おおいしひょうろくゆめものがたり}}』に因み、物語の世界観を味で表現しようと創られた菓子で、食感は弾力がありながらも柔らかくもちもちしており、セイカ食品も何の味かと尋ねられたら「きなこのりまっちゃ味」と答えるようにしているほど、その味付けと風味は他に類のない得もいわれぬ味で、大石兵六夢物語同様、噛めば噛むほど味わい深い<ref name="Fm">{{Cite web|url=http://blog.fmk.fm/glory-old/2012/11/post-8b18.php|title=「セイカ食品株式会社」のヒミツ|accessdate=2021-01-02|date=2012-11-22|website=FMK Morning Glory|publisher=[[エフエム熊本]]}}</ref>。兵六餅は、多少温め醤油を付けて食べられたりもする。菓子の分類上はボンタンアメ同様、キャンディー、ソフトキャンディー、キャラメルなど様々なジャンルで取扱われているが、おやつ、お土産、贈答品として鹿児島県を代表する長年愛されてきた郷土菓子の銘菓となっている。
鹿児島県内を中心に[[九州]]の[[駄菓子|駄菓子屋]]、[[小売|小売店]]、[[キヨスク]]などで売られている他、[[日本]]全国の[[ダイエー]]、[[イオングループ]]各店などでも販売されている。また、[[東京都|東京]]等にある鹿児島県の[[アンテナショップ]]では普通のサイズの箱を何箱か大き箱に入た特大サイズも売されている。また、小田急系列odakyu OXや一部駅ホでも普通サイズが発売されている。

[[村瀬義徳]]が「村瀬宜得」名義で手掛け、昭和4年([[1929年]])に巧藝社から刊行された『薩摩奇書 大石兵六夢物語』には、日本画家でもある村瀬が描いた[[日本画|彩色画]]の[[挿絵]]{{efn|Googleブックス版では、一部の挿絵が白黒で表示されている。}}が掲載されており、この挿絵が兵六餅の箱に用いられていると大石兵六関連における研究の第一人者である[[日本文学研究者|国文学者]]・伊牟田經久{{efn|洋画家・[[伊牟田經正]]の兄。[[志學館大学]]の元[[校長|学長]]かつ[[名誉教授]]で、[[鹿児島大学]]の元教育[[学部長]]かつ名誉教授。}}なども指摘している通り、兵六餅のパッケージは4種類とも村瀬の挿絵を基にセイカ食品がアレンジして作成したデザインで、兵六餅のブランドサイト等に全23話で掲載されている大石兵六夢物語の簡略化された現代語訳やブランドサイトの背景にも、村瀬の挿絵が掲載されている<ref name="PS">{{Harvnb|鹿児島県高等学校歴史部会|1972|pp=218-220|loc=「あとがき」}}</ref><ref name="Spread">{{Harvnb|伊牟田經久|2007|pp=30-34|loc=「『大石兵六夢物語』の普及」}}</ref><ref name="Hyoroku">村瀬宜得編. {{Google books|tus3NzKfhgEC|薩摩奇書 大石兵六夢物語}}</ref>。ちなみに、同書と同じ題材の彩色画<ref group="注釈">『薩摩奇書 大石兵六夢物語』での彩色画の挿絵とは、表情やポーズなど細部が異なる。</ref>と文章の[[色紙]]を横並びに繋げ[[絵巻物]]風にした『大石兵六夢物語絵巻』も制作されており、現在は[[鹿児島県立図書館]]やセイカ食品も所蔵しており、兵六餅の商品詳細サイトや、兵六餅ブランドサイトにおける「物語の真意」の写真手前や、書籍『薩摩のドン・キホーテ』のカバーや各ページにも掲載されている<ref name="Seika">{{Cite web|url=https://www.seikafoods.jp/hyoroku-mochi-brandsite/|title=南国名物 兵六餅|accessdate=2021-03-06|website=セイカ食品|publisher=[[セイカ食品]]}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.seikafoods.jp/productlist/hyoroku-mochi-rice-candy/|title=4粒 兵六餅|accessdate=2021-03-06|website=セイカ食品|publisher=[[セイカ食品]]}}</ref>{{sfn|五代夏夫|1997}}。兵六餅のパッケージ表面には[[島津氏]]の[[家紋]]である丸に十文字を模した図柄に、菓子の「菓」という文字を[[デフォルメ]]した図柄が重なったマークと、「登録商標」の文字が組み合わさった[[商標|トレードマーク]]の登録商標[[ロゴタイプ|ロゴ]]が、「南国名物 兵六餅」という文字の真上に表記され、その真下に書かれた「夢廼舎主人」のさらに下には、「謹製」と書かれた[[落款]]印がデザインされている。箱の裏面には「意匠登録」と表記されているが、昭和30年([[1955年]])に旧パッケージデザインが商標登録されて以降、パッケージデザインごと兵六餅という名称が商標登録されており、兵六餅は登録商標と[[意匠権|意匠登録]]どちらとも行われている<ref>{{Cite web|url=http://blog.higashi-pat.com/article/57417249.html|title=鹿児島のロングセラー03 兵六餅|accessdate=2021-03-06|author=東和博|date=2011-09-21|website=東 和博の弁理士つれづれ日記|publisher=東 国際特許事務所}}</ref>。

現在の一般的なものは、[[ポケット]]サイズ一箱に14粒入りで包装されている。鹿児島県内を中心に[[九州]]の[[駄菓子|駄菓子屋]]、[[小売|小売店]]、[[キヨスク]]などで売られている他、[[日本]]全国の[[ダイエー]]、[[イオングループ]]各店などでも販売されており、小田急系列odakyu OXや一部駅ホームでも普通サイズが販売されている。また、鹿児島県で土産用菓子を取り扱っている店や、[[東京都|東京]]等にある鹿児島県の[[アンテナショップ]]では、8粒入りの箱が4個詰、もしくは6個詰で大き箱に入た特大サイズも販売されており、8粒入りが5箱入った手さげ袋タイプも販売されている。また、[[大創産業|ダイソ]]や小売店などは、4粒入りの箱売されている。また、手さげ袋状タイプ付属の[[おまけ]]や[[試供品]]などに使用される2粒入りの小さなものもある。

姉妹品であるボンタンアメやさつまいもキャラメルと一緒に、3種類詰め合わせセットの『トリオ』や、各々8粒入りの箱での3種類詰め合わせセット『ミニトリオ』も販売されているほか、平成24年([[2016年]])11月から販売されている鹿児島県限定の詰め合わせセット『薩摩六菓撰』にも入っている。『トリオ』は、[[敬老の日]]用に高齢者の男女と子供の男女がデザインされ感謝の言葉が添えられたパッケージの『敬老の日ミニトリオ』のほか、NHK[[大河ドラマ]]『[[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]]』が放送される前年の[[平成]]29年([[2017年]])からは、可愛らしく[[デフォルメ]]された[[西郷隆盛]]とその愛犬ツンがデザインされた『西郷さんミニトリオ』としても販売され、[[令和]]元年([[2019年]])からは鹿児島の[[ご当地キャラクター]]である[[ぐりぶー]]に加え、その妻と7匹の子も含めた家族全員がデザインされた『ぐりぶーミニトリオ』としても、数量限定で販売されている。平成23年([[2015年]])には、ボンタンアメ、さくら餅アメと一緒に詰め合わせセットで『九州新幹線全線開通記念』パッケージとしても販売されており、平成24年には更にリンゴアメも加えた詰め合わせで『新青森~鹿児島中央間新幹線全線開通1周年記念』パッケージとしても販売されていた。

鹿児島県出身の[[タレント]]・[[大原優乃]]も、好きな食べ物は[[梅干し]]と兵六餅と語るほど、鹿児島県では取扱店が多い<ref>{{Cite news|和書|title=373ワイド 芸ナビ 大原優乃が軽快にダンス|newspaper=南日本新聞朝刊|date=2010-08-04|publisher=[[南日本新聞]]|page=13}}</ref>。印象的でレトロなパッケージの商品として、鹿児島県内外を問わず親しまれてきた兵六餅だが、昨今では郷土菓子という古めかしい印象からか、鹿児島県でも兵六餅の存在を知らない若年たちがいる状況なため、起死回生策としてデザインやイラストが好きな者に向け兵六餅の認知度向上や興味の喚起を図る目的で、[[令和]]元年([[2019年]])11月15日午後5時から12月29日午後11時59分の期間中、セイカ食品は[[ピクシブ (企業)|ピクシブ]]が運営するお絵かきコミュニケーションアプリ「[[pixiv#pixiv Sketch|pixiv Sketch]]」とコラボして、大石兵六夢物語の主人公・大石兵六を題材にした兵六餅のパッケージデザインコンテストを開催<ref>{{Cite news|和書|title=『兵六餅』6作品決定! セイカ食品|newspaper=菓子食品新聞|date=2020-03-25|url=https://www.okashi-np.com/2020/03/25/%E5%85%B5%E5%85%AD%E9%A4%85-%EF%BC%96%E4%BD%9C%E5%93%81%E6%B1%BA%E5%AE%9A-%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%AB%E9%A3%9F%E5%93%81/|accessdate=2021-01-02|publisher=菓子食品新聞株式会社}}</ref><ref name="Contest">{{Cite web|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000050715.html|title=あなたが描く現代版“大石兵六”が限定パッケージに!セイカ食品×pixiv Sketch 鹿児島の郷土菓子『兵六餅』パッケージデザインコンテスト開催|accessdate=2021-01-02|date=2019-11-13|website=PR TIMES|publisher=[[PR TIMES]]}}</ref><ref name="Design">{{Cite web|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000050715.html|title=受賞6作品を限定パッケージに採用!セイカ食品×pixiv Sketch『兵六餅』パッケージデザインコンテスト、優秀デザインを発表 2020年3月下旬より全国発売|accessdate=2021-01-02|date=2020-03-16|website=PR TIMES|publisher=[[PR TIMES]]}}</ref>。多数の応募者から審査され選ばれた最優秀賞1作品と優秀賞5作品は、14粒入り限定版パッケージとして採用され、各6000個の数量限定商品として令和2年([[2020年]])3月下旬より全国販売され、賞品として各受賞者に[[Amazon.com|Amazon]]ギフト券のコードが贈呈された<ref name="Contest" /><ref name="Design" /><ref>{{Cite tweet|author=ボンタンアメ【公式】|user=bontanametweet|number=1239389841189523457|title=「pixiv Sketch」とコラボして開催された「兵六餅」パッケージデザインコンテストの受賞作6作品をパッケージ化した「兵六餅」|date=2020-03-16|accessdate=2021-01-02}}</ref>。

兵六餅には、よもぎ餅<ref group="注釈" name="RiceCake">セイカ食品が製造している商品を指す。</ref>、きなこ餅<ref group="注釈" name="RiceCake" />、ボンタンアメをはじめ様々な姉妹品も存在する。'''{{Main2|他の姉妹品の詳細|ボンタンアメ#姉妹品}}'''


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[昭和]]6年([[1931年]])にセイカ食品の前身である鹿児島製菓から発売<ref name="Kajiya">{{Cite news|和書|title=加治屋町編4 西郷も読んだ? 兵六の物語|newspaper=朝日新聞|date=2017-02-06|author=神崎卓征|url=http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20170206470490001.html|accessdate=2021-01-02|publisher=[[朝日新聞]]}}</ref>。兵六餅のルーツはボンタンアメと同じく、幕末の薩摩でもよく作られていたという[[朝鮮飴]]<ref name="Kajiya" />。2代目社長の玉川秀一郎が、これといった土産品が少なかった当時の鹿児島県において、郷土文学普及の一助になり、観光客や帰郷した方の土産話になればと考え、「大石兵六夢物語」にちなんで商品を創り<ref name="Fm" />、商品名も秀一郎が[[毛利正直]]の[[著作]]で鹿児島の郷土文学の中で最も愛読されている「大石兵六夢物語」にちなんで「このさわやかな薩摩男児の名をしのび、昔の人々の気持ちを今に伝えていこう」と考え名付け、物語の面白さを全国に広めるため、パッケージに兵六を印刷することを思いついた<ref name="Kajiya" /><ref name="Fundoshi">{{Cite web|url=https://intojapanwaraku.com/travel/69985/|title=何者ぞ?和風キャラメル的お菓子「兵六餅」のパッケージに描かれたふんどし男の謎|accessdate=2021-01-02|author=鈴木拓也|date=2020-01-28|website=和樂web|publisher=[[小学館]]}}</ref><ref group="注釈">兵六餅が発売された昭和6年時点で、秀一郎の父である初代社長・玉川壮次郎は既に第一線から退いていた。</ref>。箱に書かれている「{{読み仮名|夢廼舎主人|ゆめのやしゅじん}}」というのは、大の兵六ファンでもある秀一郎の[[ペンネーム]]である。なお、長年箱に描かれている[[浮世絵]]風のイラストは、化け物退治に向かう主人公の大石兵六であり、他にも特大サイズの箱や手さげ袋タイプに描かれているイラストを含め、全4種類のイラストがある。鹿児島製菓時代のパッケージには、ひょうろくもちでなく「へうろくもち」と振り仮名が振られていた<ref name="Fundoshi" />。
[[1931年]]にセイカ食品の前身、'''鹿児島製菓'''が発売を開始。商品名の由来は、セイカ食品の創業者が鹿児島の郷土文学で[[毛利正直]]著作の「'''[[大石兵六]]夢物語'''」に因んで付けた。なお、長年箱に描かれている[[浮世絵]]風のイラストは、大蛇退治に立ち向かう薩摩兵児(へこ)である。


戦時中から戦後には販売を中止していた兵六餅だが、原材料の統制も外されてきたため、兵六餅の容器を印刷して昭和24年([[1949年]])に販売を再開することにしたものの、当時は士気を鼓舞する遊びや映画なども禁じられている[[アメリカ軍|米軍]]政下で、再開するに当たりパッケージに描かれた絵が原因で[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]<ref group="注釈">GHQとも呼ぶ。</ref>によって販売禁止を命じられては困るという不安があった<ref name="History">{{Cite web|url=https://www.seikafoods.jp/company/historys/|title=歴史|accessdate=2021-01-02|website=セイカ食品株式会社|publisher=[[セイカ食品]]}}</ref><ref name="Shuichiro">{{Cite book|和書|editor=玉川秀一郎遺稿集刊行会|title=正姿咲心 玉川秀一郎遺稿集|date=1990-12|publisher=セイカ食品|pages=17-18|chapter=パンツ問答}}</ref>。あらかじめ警察に行き、兵六餅の製造再開について署長に見解をうかがったところ、「腰に差している日本刀が問題だが、進駐軍も緩和してきたので確かめたほうがよい」と言われる<ref name="History" /><ref name="Shuichiro" />。販売再開を申請したい旨を署長が伝達してくれた、鹿児島市庁横の米軍政事務所に行って真剣な面持ちで容器を示し、通訳を通して奥の部屋にいる係官に「決して好戦的な内容でなく、[[ユーモア]]な内容の物語だ。当時の[[風俗]]として、昔の武士はみな刀を差している」と大石兵六夢物語の説明を伝えてもらったところ理解はしてもらえたが、進駐軍から今度は「刀はよろしい。しかしお尻丸出しの絵がよくないから、パンツを履かせることを条件に販売を許可する」と指摘され驚いたものの、その指摘には断固反対だった秀一郎は通訳に向かって「[[ふんどし]]は隠すべき所はちゃんと被せてある日本古来のジャパニーズパンツである。あなたも日本人ならわかるだろう。パンツでは格好がつかない。うまく説明してほしい」と必死に頼み込んで、再び奥の部屋へ説得しに行ってもらったところ、「よろしい、本官がいる間はよいということだ」という回答を伝えられて発売が許可され、晴れて店頭に並ぶことになった<ref name="Fm" /><ref name="Fundoshi" /><ref name="History" /><ref name="Shuichiro" />。長年にわたり販売されている歴史のある菓子は大概、パッケージデザインが何度か変更されるものだが、兵六餅については現在までほとんど変わっていない<ref name="Fundoshi" />。
また、このイラストにはこんなエピソードがある[http://www.seikafoods.jp/company.htm](パンツ問答~兵六餅 昭和24年)。戦時中から戦後に発売を中止していた兵六餅であったが、[[1949年]]に販売を再開することにした。販売再開に際しては、[[GHQ|進駐軍]]によって販売禁止になっては困るので、あらかじめ警察に行くと、「この武士の腰にさしている日本刀が士気を鼓舞する」とのこと。そこで、米軍政事務所において、通訳を通じて兵六物語の説明を行ったところ、理解はしてもらえたが、今度は薩摩兵児の[[ふんどし]]姿の尻が見えていることが問題となり、'''「パンツを履かせることを条件に販売を許可する」'''と告げられた。しかし、'''「“ふんどし”はジャパニーズパンツである。隠すべき所はちゃんと被ってある」'''と、説得したところ、発売が許可され、現在に至っている。

戦後は、都会に出た子供たちにと鹿児島の親たちがボンタンアメと共に送った<ref name="SouthWind_2001">{{Cite news|和書|title=南風録|newspaper=南日本新聞朝刊|date=2001-07-23|publisher=[[南日本新聞]]|page=1}}</ref>。

== 大石兵六物語 ==
=== 大石兵六夢物語 ===
大石兵六物語とは、[[江戸時代]]から鹿児島で広く読まれている[[戯作]]文学で、細かな内容が異なる幾つもの物語が存在しており、その中でも[[毛利正直]]が執筆した『大石兵六夢物語』は、日本児童文学の先駆者である[[巖谷小波]]が昭和初頭に出版した『小波お伽全集』第一巻の奇怪篇で、大石兵六夢物語を巻頭1番目に掲載し日本全国の青少年に読まれ、[[海音寺潮五郎]]が「職業がら、いくつもの藩の江戸時代に書かれた文学書をずいぶん読んできたが、この作品に匹敵する作品を読んだことが無い」と高く評価するなど、『{{読み仮名|日高|ひだか}}[[山伏]]物語』や『{{読み仮名|[[徳田大兵衛|日当山侏儒]]物語|ひなたやましゅじゅものがたり}}<ref group="注釈">椋鳩十が執筆したものは、昭和55年([[1980年]])7月に[[ポプラ社]]から出版された「椋鳩十全集」24巻に収録。</ref>』という古くから[[民話]]として語り継がれ[[椋鳩十]]も執筆した話をはじめとする、鹿児島に伝わる郷土文学の中でも最も評価されており、兵六餅はこの『大石兵六夢物語』にちなんで創られた<ref name="PS" /><ref name="Rekihaku">{{Cite journal|和書|author=伊藤慎吾|date=2001-05-30|title=連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」 『大石兵六物語絵巻』について|journal=REKIHAKU|issue=106|publisher=[[国立歴史民俗博物館]]|url=https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/106/witness.html|accessdate=2021-01-02}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.seikafoods.jp/productlist/hyoroku-mochi-rice-candy/|title=4粒 兵六餅|website=セイカ食品|publisher=[[セイカ食品]]|accessdate=2021-01-02}}</ref><ref name="Field">{{Harvnb|五代夏夫|1997|pp=24-40|loc=「吉野の原の狐たち」}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=[[巖谷小波]]|title=小波お伽全集|date=1928-08-11|publisher=小波お伽全集刊行会|volume=1|id={{NDLJP|1259714}}|pages=1-26|chapter=大石兵六狐退治}}</ref><ref name="100selections">{{Cite news|和書|title=かごしま文化百選 77 大石兵六夢物語|newspaper=南日本新聞朝刊|date=1981-07-10|publisher=[[南日本新聞]]|page=5}}</ref>。

『大石兵六夢物語』は、正直が[[天明]]4年([[1784年]])に移住した草牟田村池之平{{efn|現在の鹿児島市[[草牟田]]。}}で23歳頃に完成した代表作<ref name="Fundoshi" />。戯作らしい、ねじれた形式の文章が原文の面白味にもなっている<ref name="City">{{Cite book|和書|title=鹿児島市史|date=1969-02|publisher=[[鹿児島市]]|volume=第1巻|url=https://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/2012510154916.pdf|format=PDF|accessdate=2021-01-02|pages=468 - 473|chapter=第4編 近世編}}</ref>。内容は、正義感が強く典型的な薩摩男児の、いわゆる血気盛んな{{読み仮名|兵児二才|へこにせ}}{{efn|name="Nise"|{{読み仮名|二才|にせ}}とは、15、16歳から24、25歳までの男子<ref>{{cite web|url=https://blogs.mbc.co.jp/rekishi-no-chikara/583|title=郷中教育28|date=2018-04-25|website=南日本放送|work=薩摩の教え|publisher=[[南日本放送]]|accessdate=2021-03-06}}</ref>。}}のボッケモン<ref group="注釈">鹿児島弁で、勇猛果敢な者のこと。</ref>である主人公「大石兵六」は、二才{{efn|name="Nise"}}同士の仲間との会話中に、近ごろ狐の化け物が約4里<ref group="注釈">約15km。</ref>離れた[[吉野 (鹿児島市)|吉野]]の野原に現れ、通行人を脅したり騙したり坊主頭にしたりすると聞き、退治してやると口にしたものの内心ではしまったと思いながら、村人に悪さをする化け物を退治するため一人で吉野へ向かうも、これを知った[[キツネ|野狐]]たちにより、狐が化けた様々な[[妖怪]]から命からがら逃げ延びたり、父に化けた狐に騙されたり、[[和尚]]らに化けた狐から吉野の寺山地区で、[[風呂]]と騙された[[肥溜め]]に入り顔などを洗ったり、頭を坊主にされたりと、時には脅され時には騙されつつ、最終的には道端の地蔵に化けていた狐2匹の急所を刀で刺し貫いて仕留め、村へ帰ってくるという物語<ref name="Kajiya" /><ref name="Fundoshi" />。兵六は間が抜けており、当初の威勢とは裏腹に化け物に出遭うごとに怖れをなし、妖怪に立ち向かう場面も多くない<ref name="Kajiya" /><ref name="Rekihaku" />。薩摩の支配階級である武士が、野狐にたぶらかされ、さんざんな目にあい失態を重ね、その権威の象徴である頭の[[月代]]を丸坊主にされ武士の権威を失墜するパロディ作品であり、[[ドン・キホーテ]]とは共通点が多く似ているところがある物語だと評価されている<ref name="Field" />{{sfn|五代夏夫|1997|pp=11-22|loc=「序にかえて」}}。

『大石兵六夢物語』は正直の完全なオリジナル作品ではなく、それ以前から大きな筋立ては似ているが内容が異なる『大石兵六物語』が幾つも存在している<ref name="Fundoshi" /><ref name="Rekihaku" /><ref name="Shigakukan">{{Cite journal|和書|author=伊牟田經久|date=2000-01-31|title=『大石兵六夢物語』の新出写本二種|journal=志學館大学文学部研究紀要|volume=21|issue=2|pages=183-206|publisher=[[志學館大学]]|issn=13460234|url=https://shigakukan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=623&file_id=14&file_no=1|format=PDF|accessdate=2021-01-02}}</ref>。『大石兵六夢物語』の正直が書いた序文によると、大石兵六夢物語は亡き[[賢者|賢人]]と正直が仰ぐ川上先生{{efn|[[延享]]2年([[1745年]])頃から[[実学]]を伝え、共鳴者たちの討議は政治批判の色彩を帯び、[[藩]]の施策に干渉したとして[[寛延]]3年([[1750年]])12月、弟子10人と共に[[流罪|遠島]]になった{{読み仮名|川上親埤|かわかみちかます}}だと言われており、川上はこのとき死亡したと言われている{{sfn|伊牟田經久|2007|p=41|loc=「第二部『大石兵六夢物語』(本文・現代語訳・注)」}}。}}の著書であり、正直は公務で出張していた[[鹿屋市|鹿屋]]の中名村で、[[百姓]]の諸右衛門が持っていた兵六物語を読み、誤りが多いことに驚き、中には{{読み仮名|中神怡顔斎|なかがみがんさい}}による正しく伝えられた優れている書はあるものの、世に広まる過程での異説や[[誤謬]]を正して師の真意を伝えるためには書き改めねばと決意し、執筆したと述べている<ref name="Fundoshi" /><ref name="City" />{{efn|他の中神による作品は、「薩藩叢書 第三篇」と同書を復刻した『新薩藩叢書4』の「中神集」に収録。}}。大石兵六研究の第一人者である伊牟田は、『大石兵六物語』は川上先生の[[原作]]、正直が書いた以前のものと思われ『大石兵六夢物語』と共通点が多い書は中神怡顔斎の原作で、それを毛利正直が整えたという推測もできなくはないが確証はないと分析しており、鹿児島県立図書館所蔵の嘉永6年([[1853年]])正月に書かれた写本のあとがきにも、それと似た見解が述べられている{{sfn|伊牟田經久|2007|p=23|loc=「『大石兵六夢物語』の成立と作者」}}<ref name="Formation">{{Harvnb|五代夏夫|1997|pp=41-53|loc=「『大石兵六夢物語』の成立」}}</ref>。

狐や大ガニなどの妖怪は、不正を行う役人などを風刺したものとも言われている<ref name="Kajiya" />。物語の登場人物たちに、礼儀知らずの若い武士、軟弱な若者、金に抜け目のない町人、賄賂好きな役人、贅沢を好む者、偽者の学者、口だけは達者な堕落した僧侶といった、社会に対する批判を語らせるなど、物語の裏には社会への風刺の要素が含まれているが、正直が執筆した年は[[薩摩藩]]が幕府に命じられた[[宝暦治水事件|木曽川の治水工事]]により財政難にあえぎ、島津重豪が当時の京都などの生活文化を導入したり、商人の進出による商業の繁栄などをはかった[[安永]]という時代の直後であり、それに便乗して政治を行なう権力者への批判を口にすることができない時代でもあったため、江戸時代の事件を題材としながらも、[[徳川将軍家]]に遠慮して人物や背景が[[鎌倉時代]]や[[室町時代]]になっている[[仮名手本忠臣蔵]]のように、改変するにあたり正直は、実際には正直が生きている時代の鹿児島の社会を描写しながらも、時代設定を元々の[[寛永]]元年([[1624年]])8月下旬ではなく、主に『[[太平記]]』を参照しつつ略応<ref group="注釈">虚構の元号。</ref>元年に変更して、辛らつな批判をぼかしながら笑いと風刺を織り交ぜている<ref name="Fundoshi" /><ref name="Rekihaku" /><ref name="City" />。正直が直筆した本として毛利家に受け継がれ、現在は[[尚古集成館]]が所蔵している兵六夢物語には、[[署名]]した日付は天明4年霜月猫の日、作者は薮原実房とぼかして書かれているが、この作者名は正直のペンネームといわれている<ref name="City" />{{sfn|伊牟田經久|2007|pp=40-47|loc=「第二部『大石兵六夢物語』(本文・現代語訳・注) 自序」}}。[[写本]]の中には、まえがきやあとがきを多くの人々が書き記しているが、元々は当時の薩摩藩の家臣たちが、藩主に媚びへつらい堕落していることを憂いたことから書いた意見書が原作だったが、藩から厳重注意を受けた著者が、兵六と狐になぞらえた物語に修正して難を逃れた作品という噂や、藩の批判や武士の堕落についての風刺や暗示がある内容だった大石兵六夢物語が話題になり、その一冊を殿様に差し出すよう命じられた正直は、当たり障りの無いよう藩の家臣を狐に例え[[パロディ]]として一夜で書き改め提出したが、その内容が今残って定着している物語だという噂が書かれているものもある<ref name="100selections" /><ref name="Formation" />。ただし、写本に書かれた噂は大作や名作にはつきものの、あまり信用ならないこじつけ話と断じる意見もある<ref name="Formation" />。ちなみに、兵六が[[忠臣蔵]]の主人公である[[大石良雄|大石内蔵助]]の子孫だと語っているのも、正直の理想とする武士像を反映したのだろうと『鹿児島市史』では解説されている<ref name="City" />。

寛政6年([[1795年]])に[[木版印刷]]による[[刊本]]が出た『大石兵六夢物語』は、『大石兵六物語』よりも現存している数が多く、当時から城下の武士や民だけにとどまらず広く薩摩藩内で読まれ、多くの写本が作られ出回るほど好評で、[[芝居]]や[[狂言]]などでも親しまれ、明治以降も何度か出版され、鹿児島の郷土文学として長年読み継がれてきた<ref name="Kajiya" /><ref name="Fundoshi" /><ref name="Rekihaku" />。

兵六餅のパッケージに描かれている、刀を腰に差して歩く勇ましい兵六の姿は、第二話「兵六吉野の原へと向かう話」の場面であり、この絵以外にも特大サイズの箱や手さげ袋タイプには、飛びかかってきた[[ヒキガエル科|ガマ]]の妖怪「牛わく丸」に、驚きへたり込む兵六を描いた、第十話「牛わく丸に襲われ危機一髪の話」の場面、巨大な赤い[[カニ]]の妖怪「山辺赤蟹」の鋏に片足を捕まれ、あわてふためく兵六を描いた、第十一話「山辺赤蟹と歌合戦をする話」の場面、狐の上に乗って取り押さえようとする兵六を描いた、第十三話「父に化けた狐にたぶらかされる話」の場面を含めた全4種類のパッケージイラストがあり、どのパッケージイラストも赤い狐火が宙に漂っている。パッケージ裏<ref group="注釈">4粒入りと手さげ袋状タイプは側面。</ref>には縦書きで「{{読み仮名|五百年來世上人|ごやくねんらいせぜうのひと}}」「{{読み仮名|見來皆是野狐身|みきたればみなこれやこのしん}}」「{{読み仮名|鐘聲不破夜半夢|せうせいやぶらずやはんのゆめ}}」「{{読み仮名|兵六争知無意眞|ひょうろくいかでかむいの志んを志らん}}」という[[漢詩]]が書かれているが、これは第二十三話「長々し夜の夢物語」において、狐が化けた和尚が語っている「500年来ずっと世間の人を見てきたが、みんな野狐の性を備えている。鐘の声によって夜半の夢から覚めないのに、兵六がどうして真相を知ることができようか」という言葉であり、セイカ食品の資料ではその意味を、「宇宙の出来事全ては理にかなって事が運ばれているにもかかわらず、人間社会は割り切れないことの何と多いことか。譲歩、妥協、契約、かけひき、善悪。誰も誠とは何かを知ることはできない」と解説されている<ref name="Fundoshi" />。また、8粒入りの箱が複数詰められ大きな箱に入った特大サイズの箱の裏面には、『大石兵六夢物語』をなぜ選んだのかという理由を、夢廼舎主人こと秀一郎が記した文章が掲載されている。

セイカ食品は色彩豊かな巻物を所蔵しており、門外不出の宝として厳重に保管されている<ref name="Kajiya" />。兵六餅のウェブサイトでは、物語が[[挿絵]]入りで二十三話に分けられ掲載されている。セイカ食品では現在も、挿絵入りの物語を23種類のしおりにして、おまけとして付けたり、物語の解説冊子を希望者に送るなど、普及に力を入れている<ref name="Kajiya" />。

=== 作品の特徴 ===
大きく分けると『大石兵六物語』と『大石兵六夢物語』に[[分類]]できるが、双方とも細かな内容が異なる幾つもの巻物、写本、刊本が存在しており、いずれも怖い内容というよりユーモアあふれる[[冒険]]談である<ref name="Fundoshi" /><ref name="Rekihaku" /><ref name="Shigakukan" />。さながら[[ギャグ漫画]]のような内容や、笑うには[[和歌]]の知識が必要なパロディなどもあり、写本によって細かな筋立てや内容が異なっている<ref name="Kajiya" />{{sfn|伊牟田經久|2007|pp=12-21|loc=「「兵六夢物語』の二種類の写本」}}。[[弘文堂]]の『日本昔話事典』では、[[ウマ|馬]][[糞]]を食べる、風呂だと思い肥溜めに入る、[[和尚]]の仲裁で弟子入りし丸坊主にされる、剃られた痛さで正気に戻る、もしくは丸坊主になった頭の冷えで気付くというのは、狐退治の敗北[[型]]として全国様々な地域に語り継がれ、広く流布している話だと指摘されているが、この作品は狐にまつわる様々な民話を素材にして創作された物語だろうと、国文学者の波多江種一は「大石兵六夢物語序説」で分析している<ref name="Formation" /><ref name="Field" />。また、勝手な添削や加筆がなされ細かな内容が異なる写本が無数に存在していることについて波多野は、その多くはこの物語の素材になった[[説話]]を多くの人が熟知しており、地理も建造物も人物なども知っている身近な郷土の記述であることから、自分の記憶に照らして、これはこうだ、あれはああだと少しずつ加筆訂正したり、文章を補完していったためだろうと分析している<ref name="Field" />。正直の孫にあたる毛利元永は、明治18年([[1885年]])2月に麑城館から大石兵六夢物語にとって初の[[印刷機]]による[[活字]]本となる刊本『毛利正直先生著 大石兵六夢物語』上下巻を著作[[相続]]人として発行しているが、文章を担当した伊加倉某{{efn|伊加倉某とは、『鹿児島外史』の著者・伊加倉俊貞だと考えられている<ref name="Spread" />。}}は、物語に新たな文を挿入したり本文の一部が抜け落ちたりするなど改訂を行っている<ref name="Spread" /><ref>{{Cite book|和書|author=川崎大十|title=さつまの姓氏|date=2000-03|publisher=高城書房|pages=802-803}}</ref><ref name="Iwaya1">{{Cite book|和書|editor=伊加倉|title=毛利正直先生著 大石兵六夢物語|date=1885-06-28|publisher=麑城館|volume=上|id={{NDLJP|880271}}}}</ref><ref name="Iwaya2">{{Cite book|和書|editor=伊加倉|title=毛利正直先生著 大石兵六夢物語|date=1886-02|publisher=麑城館|volume=下|id={{NDLJP|880272}}}}</ref>。それ以降の活字本も、多くの改訂、文章の増減、間違いを含んでおり、いずれの本も江戸時代からの写本に忠実な内容ではないことを、大石兵六研究の第一人者である伊牟田は指摘しており、伊牟田は著書で毛利家が所蔵していた本を基に、現存する写本を校訂して江戸時代後期から明治初期に読まれた内容を[[再構 (言語学)|再建]]した文章と、その現代語訳を掲載している<ref name="Spread" />{{sfn|伊牟田經久|2007|pp=38-39|loc=「第二部『大石兵六夢物語』(本文・現代語訳・注)」}}。

物語は、兵六が同じ二才{{efn|name="Nise"}}同士の仲間と会話して出発してから吉野の山で一夜の苦難を経て、日が昇り帰還するまでの24時間以内の出来事である。作中の舞台も、狐が化けた和尚に騙され兵六が髪の毛を剃られた寺は、現在の鹿児島市内にあたる地に実在した[[曹洞宗]]の寺院「[[心岳寺]]」であり、[[甲突川五石橋]]より古い鹿児島県最古の石橋で、[[長崎市]]の[[眼鏡橋 (長崎市)|眼鏡橋]]と同時代の寛永に架けられたが、すぐ近くの団地が役所の許可で行う造成工事に対する危惧が、6月の新聞に投書された平成5年([[1993年]])に発生した[[平成5年8月豪雨|8.6水害]]で流失した「{{読み仮名|実方[[アーチ橋#太鼓橋|太鼓橋]]|さねかたたいこばし}}」も作中に登場するなど、実在する場所で起きた内容になっている<ref>{{Cite web|url=https://blogs.mbc.co.jp/anohi/3246/|title=県内最古の石橋・実方太鼓橋(鹿児島市)(1980・1986)|accessdate=2020-03-06|date=2019-11-13|website=南日本放送|work=MBCアーカイブス「あの日のふるさと」|publisher=[[南日本放送]]}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=ひろば(投書欄) 実方太鼓橋は大丈夫なのか|newspaper=南日本新聞|date=1993-06-25|publisher=[[南日本新聞]]|page=5}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=県内最古、市民散策の場 実方太鼓橋流出|newspaper=南日本新聞|date=1993-08-08|publisher=[[南日本新聞]]|page=21}}</ref><ref name="Map">{{Harvnb|鹿児島県高等学校歴史部会|1972|p=221|loc=「兵六夢物語の舞台となった吉野付近」}}</ref>。また、兵六が目的を達成して帰還した際には、[[宴会|酒盛り]]や美しい[[稚児]]を世話する<ref group="注釈">若く美しい男子を斡旋する。</ref>ことを二才{{efn|name="Nise"}}同士の仲間が口にする場面があるなど、作風の中に当時の[[風習]]が見られる。

[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の最中、[[豊臣秀吉]]の命によって[[島津義弘]]たちが2頭の[[トラ]]を仕留め、塩漬けにして献上した[[武勇伝]]を記した『虎狩物語』、薩摩に伝わる[[故事]]、[[軍記物]]、偉人、奇人、[[怪談]]を[[国学|国学者]]・白尾国柱がまとめた『{{読み仮名|倭文麻環|しずのおだまき}}』、[[島津忠良]]が考えた[[いろは歌]]で、薩摩における[[郷中]]教育の基本となった『島津日新公いろは歌』などと同様、明治時代の青少年たちにも暗記するほど親しまれ、庶民に親しまれた物語だが、上級武士にも読まれていたらしく豪華な装丁の[[巻物]]も存在している<ref name="PS" /><ref name="Kajiya" />。

『大石兵六夢物語』では、[[茨木童子|茨城童子]]の幽霊、{{読み仮名|重富一眼坊|しげとみいちがんぼう}}、[[ろくろ首|抜け首]]、{{読み仮名|三つ眼の旧猿坊|みつめのきゅうえんぼう}}、{{読み仮名|闇間小坊主|くらまこぼうず}}、ぬっぺっ坊、{{読み仮名|牛わく丸|うしわくまる}}、{{読み仮名|山辺赤蟹|やまべのあかかに}}、[[山姥]]といった妖怪に狐が化けるが、『大石兵六物語』ではぬっぺっ坊には化けるものの、他は{{読み仮名|宇蛇|うじゃ}}、{{読み仮名|蓑姥尉|みのばじょう}}、{{読み仮名|三眼猿猴|みつめこうえん}}、[[ぬらりひょん]]、{{読み仮名|頬紅太郎|ほおべにたろう}}、てれめんちっぺい、このつきとっこう{{efn|「此月とつくわう」「此月とつくはう」と表記される書もある。[[薩摩藩]]では[[フクロウ]]の鳴き声と[[方言]]での名前を「このつきとっこう」「この月とつくわう」と表現していた<ref>{{Cite book|和書|author=菅原浩|title=図説日本鳥名由来辞典|date=1993-03-25|publisher=[[柏書房]]|isbn=4-7601-0746-0|pages=188,382-383}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=小林祥次郎|title=日本古典博物事典 動物篇|date=2009-08-10|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=978-4-585-06066-6|page=306}}}</ref>。}}といった妖怪に化けている<ref name="Rekihaku" /><ref name="Table">{{Harvnb|五代夏夫|1997|p=58|loc=「別表」}}</ref>。『大石兵六夢物語』では、[[玉藻前]]に化けた[[九尾の狐]]が、殺され姿を変えた[[殺生石]]を砕かれて九州の[[筑紫地域]]まで逃げ延びて吉野の原に移り住み、千年以上生きたため[[天狐]]になったという白髪の生えた老狐を総大将として、[[軍師]]の「城ケ谷の丈高狐」や「一白」「二赤」「四天狐」「{{読み仮名|背|せな}}はげ」などの狐を筆頭に、支援部隊には野元の岡、[[紫原]]、[[小野 (鹿児島市)|小野]]、[[原良]]、[[永吉 (鹿児島市)|永吉]]のほか、[[春山町 (鹿児島市)|春山]]、{{読み仮名|青色野|おしきの}}<ref group="注釈">[[蒲生町 (鹿児島県)|蒲生町]]の地域。</ref>、[[比志島]]、福山、御牧の一族と、それに[[鹿児島城]]下へ[[忍者|忍びの者]]として投入している狐も加えた総勢数万の野狐軍団がいるほか、総大将に兵六のことを急いで[[注進]]する「稲荷山のまだら狐」という存在も語られている<ref name="Field" />。2体の地蔵に化け兵六に討たれた2匹については、「大木が1本倒れると周囲の小木1000本の痛みになると例えられている如く「虎の威を借る狐」状態だった仲間たちは、後ろ盾を失い勢いも衰え逃げ去った」という意味の表現しかされておらず、後ろ盾と例えられるほどの狐のいずれかということしか窺い知れない。ちなみに、正直の孫である元永の本『毛利正直先生著 大石兵六夢物語』では「三黒」「五斑」という名の筆頭の狐が書き加えられており、挿絵では「赤丸」「黒房」「虎毛」という筆頭の狐が描かれていることに加え、総大将の老弧にも「狐王天白狐」という名が付けられている<ref name="Iwaya1" />{{sfn|五代夏夫|1997|pp=38-39|loc=「[別表]大石兵六と妖狐との攻防」}}。『大石兵六物語』では、兵六と対決する筆頭の[[妖狐]]が6匹おり、「二里塚の首玉」「{{読み仮名|[[馬追い|苙]]|おろ}}の元の{{読み仮名|黒坊|くろぼう}}」「{{読み仮名|平川|ひらかわ}}の背はげ」「{{読み仮名|菖蒲|あやめ}}谷の{{読み仮名|鼻白|はなしろ}}」「{{読み仮名|三船|みふね}}の赤丸」「{{読み仮名|白銀|しらかね}}の{{読み仮名|尾切|をきれ}}」と、いずれの狐にも土地の名前がついているほか、6体の地蔵に化け、その中から兵六に討たれたのも「平川の背はげ」と「菖蒲谷の鼻白」となっている<ref name="Rekihaku" /><ref name="Table" />{{sfn|伊牟田經久|2007|pp=235-258|loc=「【翻刻1】『大石兵六物語』(絵巻)」}}。

他にも、『大石兵六夢物語』では兵六たちは鹿児島城下に住んでおり、略応元年8月下旬に出発し、兵六を捕らたのは庄屋と吉野村の村人で、最後に帰還した際には嘲笑する友人に兵六が自慢する内容だが、『大石兵六物語』では兵六の名前は「大石兵六友治」で、兵六たちは吉田郷に住んでおり、寛永の初め頃8月10日あまりに出発し、兵六を捕らたのは[[侍]]たちで、最後に帰還した際には2匹だけようやく捕らえたことを情けなく思い面目ないという兵六を、仲間が称賛して朝食を振舞ったという内容になっている<ref name="Rekihaku" /><ref name="Table" />。兵六の[[出家]]名や二才{{efn|name="Nise"}}同士の仲間の名前も『大石兵六夢物語』と『大石兵六物語』では異なっており、滑稽さと怪奇な内容が特徴の『大石兵六物語』に対し、『大石兵六夢物語』ではさらに古典や社会風刺などもある内容が特徴<ref name="Table" />。

=== 派生 ===
鹿児島県と[[宮崎県]]では、[[日本伝統芸能|伝統芸能]]の『兵六踊り』が、[[出水市]]高尾野の[[紫尾神社 (出水市)|紫尾神社]]、[[阿久根市]]脇本古里集落、[[薩摩川内市]][[東郷町藤川]]の[[菅原神社 (薩摩川内市東郷町藤川)|藤川天神]]、薩摩川内市[[湯田町 (薩摩川内市)|湯田町]]下湯田集落の諏訪神社、薩摩川内市[[水引町]]の射勝神社、[[さつま町]]船木、薩摩川内市[[高城町 (薩摩川内市)|高城町]]の高城神社、[[都城市]]下水流町の諏訪神社など数ヶ所の地域で伝承され続けている<ref name="Spread" /><ref name="Rekihaku" />。高尾野の紫尾神社では併せて兵六[[太鼓]]も奉納されている。このうち、出水市の紫尾神社と国分市毛梨野地区で行われる兵六踊りが、昭和37年([[1962年]])10月24日に鹿児島県の[[無形文化財]]に指定されており{{efn|国分市毛梨地区の兵六踊りは、近年では敬老会で披露されたことがある程度の状態まで廃れている。}}、薩摩川内市下湯田集落の兵六踊り保存会では、平成29年([[2017年]])から兵六踊りを模した「兵六かかし祭り」を行っている<ref name="Spread" /><ref name="Rekihaku" /><ref>{{Cite web|url=https://www.pref.kagoshima.jp/ba08/documents/5897_20120116105642-1.pdf|title=高尾野町の兵六踊|accessdate=2021-01-02|format=PDF|website=鹿児島県|publisher=[[鹿児島県]]}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://yuda.info/yudakuchi/kakasi/index.html|title=兵六踊りを模した兵六かかし祭り|accessdate=2021-01-02|website=湯田町情報発信交流サイト|publisher=湯田地区コミニティー}}</ref>。

[[鹿児島県立鹿児島中央高等学校]]正門の道路向かい側にある、[[加治屋町 (鹿児島市)|加治屋町]]の毛利家があった毛利正直生誕の場所には、彫刻家の[[中村晋也]]により制作された[[石碑]]「兵六夢物語の碑」が鹿児島市により昭和54年([[1979年]])3月31日に設置された<ref>{{Cite web|url=http://kagoshima.digital-museum.jp/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=40360&data_id=7000021|title=兵六夢物語の碑|accessdate=2021-01-02|website=かごしまデジタルミュージアム|publisher=[[鹿児島市]]}}</ref>。鹿児島市吉野の「御召覧公園」には、野間口泉により制作され鹿児島市が平成3年([[1991年]])3月1日に設置した銅像で、第十三話「父に化けた狐にたぶらかされる話」における、兵六が狐を捕まえたところに父の兵部左衛門に化けた狐が現れ、無益な殺生をしないように諭す場面の「大石兵六夢物語の像」があり、父のお尻には尻尾がある<ref>{{Cite web|url=http://www.digital-museum.jp/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=282400&data_id=7000054|title=大石兵六夢物語の像|accessdate=2021-01-02|website=かごしまデジタルミュージアム|publisher=[[鹿児島市]]}}</ref>。

現代の地理に作中での出来事を表記した地図も製作されている<ref name="Map" />。吉野地区の住民らによる吉野兵六会は、物語を後世に伝えようと地域と学校が手を組み、[[鹿児島県立鹿児島東高等学校]]のダンス部が考案した「兵六[[盆踊り|音頭]]」や、[[京都府]]からの[[茂山千五郎家|茂山一門]]の[[網谷正美]]に指導を受け、「第30回[[国民文化祭]]・かごしま2015」から始められた新作[[狂言]]「吉野兵六どん」などが披露される地域のイベント「吉野兵六ゆめまつり」や、[[スタンプラリー]]形式で地図を片手に、大将級の野狐たちが集結して作戦会議を行ったり三つ目の旧猿坊に遭遇したあたりの{{読み仮名|苙の元|おろのもと}}{{efn|[[鹿児島市立吉野中学校]]の近く。}}など、吉野兵六会による物語の解説看板が常時設置されている、物語に出てくる場所などを巡る{{efn|かつては、[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]に登録された[[寺山炭窯跡]]も巡っていた。}}「よしの兵六歴史街道ウォーク」などのイベントも開催するなど、物語の世界のみに留まらず現実でも芸能や菓子など様々なものを通して鹿児島の民俗と繋がりを持った、近世の薩摩における文学を代表する作品でもある<ref name="Rekihaku" /><ref name="City" /><ref>{{Cite news|和書|title=鹿東高生徒ら兵六盛り上げ ダンス部「音頭」披露、美術部はマップ絵|newspaper=南日本新聞|date=2016-10-02|publisher=[[南日本新聞]]|page=16}}</ref>

[[戦前]]には、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]設立の大正12年([[1923年]])より前にあたる大正9年([[1920年]])に、日本の[[アニメーション]]における先駆者の一人である[[幸内純一]]<ref group="注釈">同じく日本のアニメにおける先駆者の一人で、幼少期には鹿児島にも住んでいた[[下川凹天]]とは、下川がプロ漫画家として初めて出版した本にコメント入りのイラストが掲載された仲。</ref>が製作した、武士の兵六が僧侶に化けた狐に騙される内容の短篇アニメーション映画『兵六武者修行』が上映され<ref>{{Cite news|和書|title=みなみの本棚 BOOKナビ 記者の一冊 にっぽんアニメ創生期 [[渡辺泰]]、松本夏樹、フレデリック・S・リッテン著|newspaper=南日本新聞|date=2020-06-28|publisher=[[南日本新聞]]|page=9}}</ref>{{efn|昭和48年([[1973年]])6月に[[日本放送協会|NHK]]で放送された番組「文化展望・日本のアニメーション」でも放映された<ref>{{Cite web|url=http://www.style.fm/as/05_column/gomi/gomi59.shtml|title=アニメーション思い出がたり[五味洋子] その59 この頃のアニ同|accessdate=2021-03-06|website=[[アニメスタイル|WEBアニメスタイル]]|publisher=株式会社スタイル}}</ref>。}}、[[戦中]]の昭和18年([[1943年]])4月1日には、主演・エノケンこと[[榎本健一]]、作・[[獅子文六]]、監督・[[青柳信雄]]、製作主任・[[市川崑]]、特殊技術・[[円谷英二]]<ref group="注釈">本名の圓谷英一として参加。</ref>という、そうそうたる顔ぶれで[[東宝]]により『兵六夢物語』として[[画面アスペクト比#スタンダードサイズ|スタンダードサイズ]]の[[モノクローム|白黒]]で実写映画化されたほか<ref group="注釈">この映画は[[令和]]になってからも[[衛星放送]]で放送されている。</ref>、鹿児島県では[[ラジオ]]ドラマや舞台でも上演されている<ref name="Fundoshi" /><ref name="100selections" />。実写映画の原作者である獅子は、鹿児島や薩摩の文化に詳しく、当時は新聞連載などの小説をはじめ、映画やラジオ放送にも名を連ねた売れっ子作家であり、『獅子文六全集』では「兵六夢物語」と題し、兵六餅を目にして大石兵六夢物語に興味を持ち調べたことや、簡単な作品紹介を交えた感想を執筆している<ref>{{Cite book|和書|author=[[獅子文六]]|title=獅子文六全集|year=1969|publisher=[[朝日新聞]]|volume=12|pages=82-88|chapter=兵六夢物語}}</ref>。また、鹿児島の[[ローカルヒーロー]]『[[薩摩剣士隼人]]』では、大石兵六物語の中で起きた出来事や兵六が重要な役を担っており、登場する大石兵六物語の妖怪5匹も、当初は脅かすだけの存在だったが後に世界を滅ぼすほどの存在にもなるなど、物語に深く関与している。

== 広告 ==
鹿児島テレビ(KTS)で[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]の放送直前に放送されている30秒[[アニメ]][[コマーシャルメッセージ|CM]]「セイカのおいしい昔話」において、「大石兵六夢物語の巻」が不定期で放送されており、30秒アニメCMのリニューアル前までは「[[鹿児島テレビ放送#セイカ劇場|セイカ劇場]]」という名称で「大石兵六夢物語」が不定期で放送されていた。このアニメにおける物語の結末はどちらも、狐を懲らしめるだけに留めている。[[YouTube]]のセイカ食品公式チャンネル『なかよし時間』では、「セイカのおいしい昔話」や「セイカ劇場」をはじめとした、大石兵六夢物語の動画が公開されている{{efn|「セイカ劇場」の動画は「サザエさんも観てね」と締めくくる最後の部分がカットされている。}}。

鹿児島県と宮崎県において、かつては子供が兵六餅を食べる顔が代わるがわる写され「ときどき、ずっと、兵六餅」というナレーションで締めくくるCM<ref group="注釈">同時期に、ボンタンアメでも同様のCMを放送していた。</ref>などが放送されていたが、2010年代からはボンタンアメのCMにおいて、最後にボンタンアメ、さつまいもキャラメル、むらさきいもソフトキャラメルと共に商品が表示されるだけになっている。

昭和までは様々な[[ホーロー看板]]も各地に設置されていた。平成30年([[2018年]])からは、セイカ食品により[[鹿児島空港]]国内線2階出発ロビーのディスプレイにおいて、兵六餅と共に大石兵六、吉野の原の狐、茨城童子、重富一眼坊、抜け首、三つ眼の旧猿坊、闇間小坊主、ぬっぺっ坊、牛わく丸、山辺赤蟹、吉野の山姥、女狐のお菊が一堂に会する「大石兵六夢物語」の立体造形物に加え、ディスプレイ展示ケースの下部に第十三話「父に化けた狐にたぶらかされる話」において、兵六が狐を取り押さえる瞬間を描いた[[回転のぞき絵]]や「大石兵六夢物語」の簡単な短い解説が合わせて設置されている<ref>{{Cite tweet|author=ボンタンアメ【公式】|user=bontanametweet|number=1060803897831223296|title=鹿児島空港のディスプレイが「大石兵六夢物語」になりました!|date=2018-11-09|accessdate=2021-01-02}}</ref>。他にも、[[鹿児島中央駅]]や[[都城駅]]や[[熊本駅]]などに設置されている、ボンタンアメと兵六餅の[[ベンチ]]広告をはじめ、現在は、鹿児島県や宮崎県や[[熊本県]]の駅、[[鹿児島空港]]、[[天文館]]など、様々な場所に広告が設置されており、[[くるり]]が歌う「[[奇跡 (くるりの曲)|奇跡]]」の[[ミュージック・ビデオ]]でも、鹿児島中央駅に設置されている広告が確認できる<ref>{{cite video|date=2011-05-26|title=くるり - 奇跡|url=https://www.youtube.com/watch?v=ivbDtyfrc_w|medium=ミュージック・ビデオ|publisher=[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]]|accessdate=2021-01-02|time=0m5s}}</ref>。


== 関連商品 ==
== 関連商品 ==
* [[ボンタンアメ]]
* [[ボンタンアメ]]
* [[さつまいもキャラメル]]
* [[さつまいもキャラメル]]

* [[大石兵六]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=伊牟田經久|title=『大石兵六夢物語』のすべて|date=2007-03-20|publisher=[[南方新社]]|isbn=978-4-86124-102-4|ref={{SfnRef|伊牟田經久|2007}}}}
* {{Cite book|和書|author=鹿児島県高等学校歴史部会|title=大石兵六夢物語|date=1972-07-20|publisher=南日本出版文化協会|ref={{SfnRef|鹿児島県高等学校歴史部会|1972}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[五代夏夫]]|title=薩摩のドン・キホーテ 現代語訳著・大石兵六夢物語|date=1997-11-10|publisher=春苑堂出版|series=かごしま文庫|volume=42|isbn=4-915093-49-2|ref={{SfnRef|五代夏夫|1997}}}}

== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.seikafoods.jp/ カ食品株式会社]
* [https://www.seikafoods.jp/hyoroku-mochi-brandsite/ 南国名物 兵六餅(ブランドサト)]
* [https://www.seikafoods.jp/service_category/hyoroku-mochi/ 南国名物兵六餅] - セイカ食品株式会社
* {{YouTube channel|seikabontaname|なかよし時間|セイカ食品, Corp.}}


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2021年3月28日 (日) 09:35時点における版

兵六餅
販売会社 セイカ食品
種類 駄菓子
販売開始年 1931年(昭和6年)
日本での製造 鹿児島県
完成国 日本の旗 日本
外部リンク https://www.seikafoods.jp/hyoroku-mochi-brandsite/
テンプレートを表示
兵六餅のパッケージ

兵六餅(ひょうろくもち)は、鹿児島県鹿児島市に本社を置くセイカ食品が製造、販売し、商標登録している飴菓子である。

概要

セイカ食品が製造する代表商品「ボンタンアメ」同様、佐賀県熊本県産のもち米『ヒヨクモチ』の玄米を工場で精米、研米、製粉して10度以下の冷水に一晩浸し寒ざらしにしたものを使用した白餡麦芽糖水飴を練り込み、海苔粉、鹿児島県産茶葉を使用した抹茶きな粉を添加した柔らかな求肥飴である。原料は全て植物性で、それらを約1時間半じっくりと蒸気釜で練り上げ製造される。

キャラメルのように一口サイズの直方体に切り、馬鈴薯かんしょデンプンでできているシートの軟質オブラートでひとつずつ包んでいるため、包み紙を剥がさず食べられる[1][2]。米粉は時間がたつと硬化する性質があるが、デンプンに対し糖分の比率が高く、通常の求肥以上に日持ちする。もち米でできているため粘り気が強すぎて、そのまま詰めると箱の中でアメ同士がくっついたり、包み紙にくっついて剥がせなくなるためオブラートに包まれているが、オブラートは口溶けよく改良されており、令和3年(2021年)時点ではオブラート工場も日本全国に3ヵ所だけになっているが、今やオブラートがあってこその商品で変わらないことが支持されているため、伝統の粘りある食感を守るため使用され続けている[3][4]

鹿児島県に古くから伝わる『大石兵六夢物語おおいしひょうろくゆめものがたり』に因み、物語の世界観を味で表現しようと創られた菓子で、食感は弾力がありながらも柔らかくもちもちしており、セイカ食品も何の味かと尋ねられたら「きなこのりまっちゃ味」と答えるようにしているほど、その味付けと風味は他に類のない得もいわれぬ味で、大石兵六夢物語同様、噛めば噛むほど味わい深い[5]。兵六餅は、多少温め醤油を付けて食べられたりもする。菓子の分類上はボンタンアメ同様、キャンディー、ソフトキャンディー、キャラメルなど様々なジャンルで取扱われているが、おやつ、お土産、贈答品として鹿児島県を代表する長年愛されてきた郷土菓子の銘菓となっている。

村瀬義徳が「村瀬宜得」名義で手掛け、昭和4年(1929年)に巧藝社から刊行された『薩摩奇書 大石兵六夢物語』には、日本画家でもある村瀬が描いた彩色画挿絵[注釈 1]が掲載されており、この挿絵が兵六餅の箱に用いられていると大石兵六関連における研究の第一人者である国文学者・伊牟田經久[注釈 2]なども指摘している通り、兵六餅のパッケージは4種類とも村瀬の挿絵を基にセイカ食品がアレンジして作成したデザインで、兵六餅のブランドサイト等に全23話で掲載されている大石兵六夢物語の簡略化された現代語訳やブランドサイトの背景にも、村瀬の挿絵が掲載されている[6][7][8]。ちなみに、同書と同じ題材の彩色画[注釈 3]と文章の色紙を横並びに繋げ絵巻物風にした『大石兵六夢物語絵巻』も制作されており、現在は鹿児島県立図書館やセイカ食品も所蔵しており、兵六餅の商品詳細サイトや、兵六餅ブランドサイトにおける「物語の真意」の写真手前や、書籍『薩摩のドン・キホーテ』のカバーや各ページにも掲載されている[9][10][11]。兵六餅のパッケージ表面には島津氏家紋である丸に十文字を模した図柄に、菓子の「菓」という文字をデフォルメした図柄が重なったマークと、「登録商標」の文字が組み合わさったトレードマークの登録商標ロゴが、「南国名物 兵六餅」という文字の真上に表記され、その真下に書かれた「夢廼舎主人」のさらに下には、「謹製」と書かれた落款印がデザインされている。箱の裏面には「意匠登録」と表記されているが、昭和30年(1955年)に旧パッケージデザインが商標登録されて以降、パッケージデザインごと兵六餅という名称が商標登録されており、兵六餅は登録商標と意匠登録どちらとも行われている[12]

現在の一般的なものは、ポケットサイズ一箱に14粒入りで包装されている。鹿児島県内を中心に九州駄菓子屋小売店キヨスクなどで売られている他、日本全国のダイエーイオングループ各店などでも販売されており、小田急系列odakyu OXや一部駅ホームでも普通サイズが販売されている。また、鹿児島県で土産用菓子を取り扱っている店や、東京等にある鹿児島県のアンテナショップでは、8粒入りの箱が4個詰、もしくは6個詰で大きな箱に入った特大サイズも販売されており、8粒入りが5箱入った手さげ袋タイプも販売されている。また、ダイソーや小売店などでは、4粒入りの箱も販売されている。また、手さげ袋状タイプ付属のおまけ試供品などに使用される2粒入りの小さなものもある。

姉妹品であるボンタンアメやさつまいもキャラメルと一緒に、3種類詰め合わせセットの『トリオ』や、各々8粒入りの箱での3種類詰め合わせセット『ミニトリオ』も販売されているほか、平成24年(2016年)11月から販売されている鹿児島県限定の詰め合わせセット『薩摩六菓撰』にも入っている。『トリオ』は、敬老の日用に高齢者の男女と子供の男女がデザインされ感謝の言葉が添えられたパッケージの『敬老の日ミニトリオ』のほか、NHK大河ドラマ西郷どん』が放送される前年の平成29年(2017年)からは、可愛らしくデフォルメされた西郷隆盛とその愛犬ツンがデザインされた『西郷さんミニトリオ』としても販売され、令和元年(2019年)からは鹿児島のご当地キャラクターであるぐりぶーに加え、その妻と7匹の子も含めた家族全員がデザインされた『ぐりぶーミニトリオ』としても、数量限定で販売されている。平成23年(2015年)には、ボンタンアメ、さくら餅アメと一緒に詰め合わせセットで『九州新幹線全線開通記念』パッケージとしても販売されており、平成24年には更にリンゴアメも加えた詰め合わせで『新青森~鹿児島中央間新幹線全線開通1周年記念』パッケージとしても販売されていた。

鹿児島県出身のタレント大原優乃も、好きな食べ物は梅干しと兵六餅と語るほど、鹿児島県では取扱店が多い[13]。印象的でレトロなパッケージの商品として、鹿児島県内外を問わず親しまれてきた兵六餅だが、昨今では郷土菓子という古めかしい印象からか、鹿児島県でも兵六餅の存在を知らない若年たちがいる状況なため、起死回生策としてデザインやイラストが好きな者に向け兵六餅の認知度向上や興味の喚起を図る目的で、令和元年(2019年)11月15日午後5時から12月29日午後11時59分の期間中、セイカ食品はピクシブが運営するお絵かきコミュニケーションアプリ「pixiv Sketch」とコラボして、大石兵六夢物語の主人公・大石兵六を題材にした兵六餅のパッケージデザインコンテストを開催[14][15][16]。多数の応募者から審査され選ばれた最優秀賞1作品と優秀賞5作品は、14粒入り限定版パッケージとして採用され、各6000個の数量限定商品として令和2年(2020年)3月下旬より全国販売され、賞品として各受賞者にAmazonギフト券のコードが贈呈された[15][16][17]

兵六餅には、よもぎ餅[注釈 4]、きなこ餅[注釈 4]、ボンタンアメをはじめ様々な姉妹品も存在する。

歴史

昭和6年(1931年)にセイカ食品の前身である鹿児島製菓から発売[18]。兵六餅のルーツはボンタンアメと同じく、幕末の薩摩でもよく作られていたという朝鮮飴[18]。2代目社長の玉川秀一郎が、これといった土産品が少なかった当時の鹿児島県において、郷土文学普及の一助になり、観光客や帰郷した方の土産話になればと考え、「大石兵六夢物語」にちなんで商品を創り[5]、商品名も秀一郎が毛利正直著作で鹿児島の郷土文学の中で最も愛読されている「大石兵六夢物語」にちなんで「このさわやかな薩摩男児の名をしのび、昔の人々の気持ちを今に伝えていこう」と考え名付け、物語の面白さを全国に広めるため、パッケージに兵六を印刷することを思いついた[18][19][注釈 5]。箱に書かれている「夢廼舎主人ゆめのやしゅじん」というのは、大の兵六ファンでもある秀一郎のペンネームである。なお、長年箱に描かれている浮世絵風のイラストは、化け物退治に向かう主人公の大石兵六であり、他にも特大サイズの箱や手さげ袋タイプに描かれているイラストを含め、全4種類のイラストがある。鹿児島製菓時代のパッケージには、ひょうろくもちでなく「へうろくもち」と振り仮名が振られていた[19]

戦時中から戦後には販売を中止していた兵六餅だが、原材料の統制も外されてきたため、兵六餅の容器を印刷して昭和24年(1949年)に販売を再開することにしたものの、当時は士気を鼓舞する遊びや映画なども禁じられている米軍政下で、再開するに当たりパッケージに描かれた絵が原因で進駐軍[注釈 6]によって販売禁止を命じられては困るという不安があった[20][21]。あらかじめ警察に行き、兵六餅の製造再開について署長に見解をうかがったところ、「腰に差している日本刀が問題だが、進駐軍も緩和してきたので確かめたほうがよい」と言われる[20][21]。販売再開を申請したい旨を署長が伝達してくれた、鹿児島市庁横の米軍政事務所に行って真剣な面持ちで容器を示し、通訳を通して奥の部屋にいる係官に「決して好戦的な内容でなく、ユーモアな内容の物語だ。当時の風俗として、昔の武士はみな刀を差している」と大石兵六夢物語の説明を伝えてもらったところ理解はしてもらえたが、進駐軍から今度は「刀はよろしい。しかしお尻丸出しの絵がよくないから、パンツを履かせることを条件に販売を許可する」と指摘され驚いたものの、その指摘には断固反対だった秀一郎は通訳に向かって「ふんどしは隠すべき所はちゃんと被せてある日本古来のジャパニーズパンツである。あなたも日本人ならわかるだろう。パンツでは格好がつかない。うまく説明してほしい」と必死に頼み込んで、再び奥の部屋へ説得しに行ってもらったところ、「よろしい、本官がいる間はよいということだ」という回答を伝えられて発売が許可され、晴れて店頭に並ぶことになった[5][19][20][21]。長年にわたり販売されている歴史のある菓子は大概、パッケージデザインが何度か変更されるものだが、兵六餅については現在までほとんど変わっていない[19]

戦後は、都会に出た子供たちにと鹿児島の親たちがボンタンアメと共に送った[22]

大石兵六物語

大石兵六夢物語

大石兵六物語とは、江戸時代から鹿児島で広く読まれている戯作文学で、細かな内容が異なる幾つもの物語が存在しており、その中でも毛利正直が執筆した『大石兵六夢物語』は、日本児童文学の先駆者である巖谷小波が昭和初頭に出版した『小波お伽全集』第一巻の奇怪篇で、大石兵六夢物語を巻頭1番目に掲載し日本全国の青少年に読まれ、海音寺潮五郎が「職業がら、いくつもの藩の江戸時代に書かれた文学書をずいぶん読んできたが、この作品に匹敵する作品を読んだことが無い」と高く評価するなど、『日高ひだか山伏物語』や『日当山侏儒物語ひなたやましゅじゅものがたり[注釈 7]』という古くから民話として語り継がれ椋鳩十も執筆した話をはじめとする、鹿児島に伝わる郷土文学の中でも最も評価されており、兵六餅はこの『大石兵六夢物語』にちなんで創られた[6][23][24][25][26][27]

『大石兵六夢物語』は、正直が天明4年(1784年)に移住した草牟田村池之平[注釈 8]で23歳頃に完成した代表作[19]。戯作らしい、ねじれた形式の文章が原文の面白味にもなっている[28]。内容は、正義感が強く典型的な薩摩男児の、いわゆる血気盛んな兵児二才へこにせ[注釈 9]のボッケモン[注釈 10]である主人公「大石兵六」は、二才[注釈 9]同士の仲間との会話中に、近ごろ狐の化け物が約4里[注釈 11]離れた吉野の野原に現れ、通行人を脅したり騙したり坊主頭にしたりすると聞き、退治してやると口にしたものの内心ではしまったと思いながら、村人に悪さをする化け物を退治するため一人で吉野へ向かうも、これを知った野狐たちにより、狐が化けた様々な妖怪から命からがら逃げ延びたり、父に化けた狐に騙されたり、和尚らに化けた狐から吉野の寺山地区で、風呂と騙された肥溜めに入り顔などを洗ったり、頭を坊主にされたりと、時には脅され時には騙されつつ、最終的には道端の地蔵に化けていた狐2匹の急所を刀で刺し貫いて仕留め、村へ帰ってくるという物語[18][19]。兵六は間が抜けており、当初の威勢とは裏腹に化け物に出遭うごとに怖れをなし、妖怪に立ち向かう場面も多くない[18][23]。薩摩の支配階級である武士が、野狐にたぶらかされ、さんざんな目にあい失態を重ね、その権威の象徴である頭の月代を丸坊主にされ武士の権威を失墜するパロディ作品であり、ドン・キホーテとは共通点が多く似ているところがある物語だと評価されている[25][30]

『大石兵六夢物語』は正直の完全なオリジナル作品ではなく、それ以前から大きな筋立ては似ているが内容が異なる『大石兵六物語』が幾つも存在している[19][23][31]。『大石兵六夢物語』の正直が書いた序文によると、大石兵六夢物語は亡き賢人と正直が仰ぐ川上先生[注釈 12]の著書であり、正直は公務で出張していた鹿屋の中名村で、百姓の諸右衛門が持っていた兵六物語を読み、誤りが多いことに驚き、中には中神怡顔斎なかがみがんさいによる正しく伝えられた優れている書はあるものの、世に広まる過程での異説や誤謬を正して師の真意を伝えるためには書き改めねばと決意し、執筆したと述べている[19][28][注釈 13]。大石兵六研究の第一人者である伊牟田は、『大石兵六物語』は川上先生の原作、正直が書いた以前のものと思われ『大石兵六夢物語』と共通点が多い書は中神怡顔斎の原作で、それを毛利正直が整えたという推測もできなくはないが確証はないと分析しており、鹿児島県立図書館所蔵の嘉永6年(1853年)正月に書かれた写本のあとがきにも、それと似た見解が述べられている[33][34]

狐や大ガニなどの妖怪は、不正を行う役人などを風刺したものとも言われている[18]。物語の登場人物たちに、礼儀知らずの若い武士、軟弱な若者、金に抜け目のない町人、賄賂好きな役人、贅沢を好む者、偽者の学者、口だけは達者な堕落した僧侶といった、社会に対する批判を語らせるなど、物語の裏には社会への風刺の要素が含まれているが、正直が執筆した年は薩摩藩が幕府に命じられた木曽川の治水工事により財政難にあえぎ、島津重豪が当時の京都などの生活文化を導入したり、商人の進出による商業の繁栄などをはかった安永という時代の直後であり、それに便乗して政治を行なう権力者への批判を口にすることができない時代でもあったため、江戸時代の事件を題材としながらも、徳川将軍家に遠慮して人物や背景が鎌倉時代室町時代になっている仮名手本忠臣蔵のように、改変するにあたり正直は、実際には正直が生きている時代の鹿児島の社会を描写しながらも、時代設定を元々の寛永元年(1624年)8月下旬ではなく、主に『太平記』を参照しつつ略応[注釈 14]元年に変更して、辛らつな批判をぼかしながら笑いと風刺を織り交ぜている[19][23][28]。正直が直筆した本として毛利家に受け継がれ、現在は尚古集成館が所蔵している兵六夢物語には、署名した日付は天明4年霜月猫の日、作者は薮原実房とぼかして書かれているが、この作者名は正直のペンネームといわれている[28][35]写本の中には、まえがきやあとがきを多くの人々が書き記しているが、元々は当時の薩摩藩の家臣たちが、藩主に媚びへつらい堕落していることを憂いたことから書いた意見書が原作だったが、藩から厳重注意を受けた著者が、兵六と狐になぞらえた物語に修正して難を逃れた作品という噂や、藩の批判や武士の堕落についての風刺や暗示がある内容だった大石兵六夢物語が話題になり、その一冊を殿様に差し出すよう命じられた正直は、当たり障りの無いよう藩の家臣を狐に例えパロディとして一夜で書き改め提出したが、その内容が今残って定着している物語だという噂が書かれているものもある[27][34]。ただし、写本に書かれた噂は大作や名作にはつきものの、あまり信用ならないこじつけ話と断じる意見もある[34]。ちなみに、兵六が忠臣蔵の主人公である大石内蔵助の子孫だと語っているのも、正直の理想とする武士像を反映したのだろうと『鹿児島市史』では解説されている[28]

寛政6年(1795年)に木版印刷による刊本が出た『大石兵六夢物語』は、『大石兵六物語』よりも現存している数が多く、当時から城下の武士や民だけにとどまらず広く薩摩藩内で読まれ、多くの写本が作られ出回るほど好評で、芝居狂言などでも親しまれ、明治以降も何度か出版され、鹿児島の郷土文学として長年読み継がれてきた[18][19][23]

兵六餅のパッケージに描かれている、刀を腰に差して歩く勇ましい兵六の姿は、第二話「兵六吉野の原へと向かう話」の場面であり、この絵以外にも特大サイズの箱や手さげ袋タイプには、飛びかかってきたガマの妖怪「牛わく丸」に、驚きへたり込む兵六を描いた、第十話「牛わく丸に襲われ危機一髪の話」の場面、巨大な赤いカニの妖怪「山辺赤蟹」の鋏に片足を捕まれ、あわてふためく兵六を描いた、第十一話「山辺赤蟹と歌合戦をする話」の場面、狐の上に乗って取り押さえようとする兵六を描いた、第十三話「父に化けた狐にたぶらかされる話」の場面を含めた全4種類のパッケージイラストがあり、どのパッケージイラストも赤い狐火が宙に漂っている。パッケージ裏[注釈 15]には縦書きで「五百年來世上人ごやくねんらいせぜうのひと」「見來皆是野狐身みきたればみなこれやこのしん」「鐘聲不破夜半夢せうせいやぶらずやはんのゆめ」「兵六争知無意眞ひょうろくいかでかむいの志んを志らん」という漢詩が書かれているが、これは第二十三話「長々し夜の夢物語」において、狐が化けた和尚が語っている「500年来ずっと世間の人を見てきたが、みんな野狐の性を備えている。鐘の声によって夜半の夢から覚めないのに、兵六がどうして真相を知ることができようか」という言葉であり、セイカ食品の資料ではその意味を、「宇宙の出来事全ては理にかなって事が運ばれているにもかかわらず、人間社会は割り切れないことの何と多いことか。譲歩、妥協、契約、かけひき、善悪。誰も誠とは何かを知ることはできない」と解説されている[19]。また、8粒入りの箱が複数詰められ大きな箱に入った特大サイズの箱の裏面には、『大石兵六夢物語』をなぜ選んだのかという理由を、夢廼舎主人こと秀一郎が記した文章が掲載されている。

セイカ食品は色彩豊かな巻物を所蔵しており、門外不出の宝として厳重に保管されている[18]。兵六餅のウェブサイトでは、物語が挿絵入りで二十三話に分けられ掲載されている。セイカ食品では現在も、挿絵入りの物語を23種類のしおりにして、おまけとして付けたり、物語の解説冊子を希望者に送るなど、普及に力を入れている[18]

作品の特徴

大きく分けると『大石兵六物語』と『大石兵六夢物語』に分類できるが、双方とも細かな内容が異なる幾つもの巻物、写本、刊本が存在しており、いずれも怖い内容というよりユーモアあふれる冒険談である[19][23][31]。さながらギャグ漫画のような内容や、笑うには和歌の知識が必要なパロディなどもあり、写本によって細かな筋立てや内容が異なっている[18][36]弘文堂の『日本昔話事典』では、を食べる、風呂だと思い肥溜めに入る、和尚の仲裁で弟子入りし丸坊主にされる、剃られた痛さで正気に戻る、もしくは丸坊主になった頭の冷えで気付くというのは、狐退治の敗北として全国様々な地域に語り継がれ、広く流布している話だと指摘されているが、この作品は狐にまつわる様々な民話を素材にして創作された物語だろうと、国文学者の波多江種一は「大石兵六夢物語序説」で分析している[34][25]。また、勝手な添削や加筆がなされ細かな内容が異なる写本が無数に存在していることについて波多野は、その多くはこの物語の素材になった説話を多くの人が熟知しており、地理も建造物も人物なども知っている身近な郷土の記述であることから、自分の記憶に照らして、これはこうだ、あれはああだと少しずつ加筆訂正したり、文章を補完していったためだろうと分析している[25]。正直の孫にあたる毛利元永は、明治18年(1885年)2月に麑城館から大石兵六夢物語にとって初の印刷機による活字本となる刊本『毛利正直先生著 大石兵六夢物語』上下巻を著作相続人として発行しているが、文章を担当した伊加倉某[注釈 16]は、物語に新たな文を挿入したり本文の一部が抜け落ちたりするなど改訂を行っている[7][37][38][39]。それ以降の活字本も、多くの改訂、文章の増減、間違いを含んでおり、いずれの本も江戸時代からの写本に忠実な内容ではないことを、大石兵六研究の第一人者である伊牟田は指摘しており、伊牟田は著書で毛利家が所蔵していた本を基に、現存する写本を校訂して江戸時代後期から明治初期に読まれた内容を再建した文章と、その現代語訳を掲載している[7][40]

物語は、兵六が同じ二才[注釈 9]同士の仲間と会話して出発してから吉野の山で一夜の苦難を経て、日が昇り帰還するまでの24時間以内の出来事である。作中の舞台も、狐が化けた和尚に騙され兵六が髪の毛を剃られた寺は、現在の鹿児島市内にあたる地に実在した曹洞宗の寺院「心岳寺」であり、甲突川五石橋より古い鹿児島県最古の石橋で、長崎市眼鏡橋と同時代の寛永に架けられたが、すぐ近くの団地が役所の許可で行う造成工事に対する危惧が、6月の新聞に投書された平成5年(1993年)に発生した8.6水害で流失した「実方太鼓橋さねかたたいこばし」も作中に登場するなど、実在する場所で起きた内容になっている[41][42][43][44]。また、兵六が目的を達成して帰還した際には、酒盛りや美しい稚児を世話する[注釈 17]ことを二才[注釈 9]同士の仲間が口にする場面があるなど、作風の中に当時の風習が見られる。

朝鮮出兵の最中、豊臣秀吉の命によって島津義弘たちが2頭のトラを仕留め、塩漬けにして献上した武勇伝を記した『虎狩物語』、薩摩に伝わる故事軍記物、偉人、奇人、怪談国学者・白尾国柱がまとめた『倭文麻環しずのおだまき』、島津忠良が考えたいろは歌で、薩摩における郷中教育の基本となった『島津日新公いろは歌』などと同様、明治時代の青少年たちにも暗記するほど親しまれ、庶民に親しまれた物語だが、上級武士にも読まれていたらしく豪華な装丁の巻物も存在している[6][18]

『大石兵六夢物語』では、茨城童子の幽霊、重富一眼坊しげとみいちがんぼう抜け首三つ眼の旧猿坊みつめのきゅうえんぼう闇間小坊主くらまこぼうず、ぬっぺっ坊、牛わく丸うしわくまる山辺赤蟹やまべのあかかに山姥といった妖怪に狐が化けるが、『大石兵六物語』ではぬっぺっ坊には化けるものの、他は宇蛇うじゃ蓑姥尉みのばじょう三眼猿猴みつめこうえんぬらりひょん頬紅太郎ほおべにたろう、てれめんちっぺい、このつきとっこう[注釈 18]といった妖怪に化けている[23][47]。『大石兵六夢物語』では、玉藻前に化けた九尾の狐が、殺され姿を変えた殺生石を砕かれて九州の筑紫地域まで逃げ延びて吉野の原に移り住み、千年以上生きたため天狐になったという白髪の生えた老狐を総大将として、軍師の「城ケ谷の丈高狐」や「一白」「二赤」「四天狐」「せなはげ」などの狐を筆頭に、支援部隊には野元の岡、紫原小野原良永吉のほか、春山青色野おしきの[注釈 19]比志島、福山、御牧の一族と、それに鹿児島城下へ忍びの者として投入している狐も加えた総勢数万の野狐軍団がいるほか、総大将に兵六のことを急いで注進する「稲荷山のまだら狐」という存在も語られている[25]。2体の地蔵に化け兵六に討たれた2匹については、「大木が1本倒れると周囲の小木1000本の痛みになると例えられている如く「虎の威を借る狐」状態だった仲間たちは、後ろ盾を失い勢いも衰え逃げ去った」という意味の表現しかされておらず、後ろ盾と例えられるほどの狐のいずれかということしか窺い知れない。ちなみに、正直の孫である元永の本『毛利正直先生著 大石兵六夢物語』では「三黒」「五斑」という名の筆頭の狐が書き加えられており、挿絵では「赤丸」「黒房」「虎毛」という筆頭の狐が描かれていることに加え、総大将の老弧にも「狐王天白狐」という名が付けられている[38][48]。『大石兵六物語』では、兵六と対決する筆頭の妖狐が6匹おり、「二里塚の首玉」「おろの元の黒坊くろぼう」「平川ひらかわの背はげ」「菖蒲あやめ谷の鼻白はなしろ」「三船みふねの赤丸」「白銀しらかね尾切をきれ」と、いずれの狐にも土地の名前がついているほか、6体の地蔵に化け、その中から兵六に討たれたのも「平川の背はげ」と「菖蒲谷の鼻白」となっている[23][47][49]

他にも、『大石兵六夢物語』では兵六たちは鹿児島城下に住んでおり、略応元年8月下旬に出発し、兵六を捕らたのは庄屋と吉野村の村人で、最後に帰還した際には嘲笑する友人に兵六が自慢する内容だが、『大石兵六物語』では兵六の名前は「大石兵六友治」で、兵六たちは吉田郷に住んでおり、寛永の初め頃8月10日あまりに出発し、兵六を捕らたのはたちで、最後に帰還した際には2匹だけようやく捕らえたことを情けなく思い面目ないという兵六を、仲間が称賛して朝食を振舞ったという内容になっている[23][47]。兵六の出家名や二才[注釈 9]同士の仲間の名前も『大石兵六夢物語』と『大石兵六物語』では異なっており、滑稽さと怪奇な内容が特徴の『大石兵六物語』に対し、『大石兵六夢物語』ではさらに古典や社会風刺などもある内容が特徴[47]

派生

鹿児島県と宮崎県では、伝統芸能の『兵六踊り』が、出水市高尾野の紫尾神社阿久根市脇本古里集落、薩摩川内市東郷町藤川藤川天神、薩摩川内市湯田町下湯田集落の諏訪神社、薩摩川内市水引町の射勝神社、さつま町船木、薩摩川内市高城町の高城神社、都城市下水流町の諏訪神社など数ヶ所の地域で伝承され続けている[7][23]。高尾野の紫尾神社では併せて兵六太鼓も奉納されている。このうち、出水市の紫尾神社と国分市毛梨野地区で行われる兵六踊りが、昭和37年(1962年)10月24日に鹿児島県の無形文化財に指定されており[注釈 20]、薩摩川内市下湯田集落の兵六踊り保存会では、平成29年(2017年)から兵六踊りを模した「兵六かかし祭り」を行っている[7][23][50][51]

鹿児島県立鹿児島中央高等学校正門の道路向かい側にある、加治屋町の毛利家があった毛利正直生誕の場所には、彫刻家の中村晋也により制作された石碑「兵六夢物語の碑」が鹿児島市により昭和54年(1979年)3月31日に設置された[52]。鹿児島市吉野の「御召覧公園」には、野間口泉により制作され鹿児島市が平成3年(1991年)3月1日に設置した銅像で、第十三話「父に化けた狐にたぶらかされる話」における、兵六が狐を捕まえたところに父の兵部左衛門に化けた狐が現れ、無益な殺生をしないように諭す場面の「大石兵六夢物語の像」があり、父のお尻には尻尾がある[53]

現代の地理に作中での出来事を表記した地図も製作されている[44]。吉野地区の住民らによる吉野兵六会は、物語を後世に伝えようと地域と学校が手を組み、鹿児島県立鹿児島東高等学校のダンス部が考案した「兵六音頭」や、京都府からの茂山一門網谷正美に指導を受け、「第30回国民文化祭・かごしま2015」から始められた新作狂言「吉野兵六どん」などが披露される地域のイベント「吉野兵六ゆめまつり」や、スタンプラリー形式で地図を片手に、大将級の野狐たちが集結して作戦会議を行ったり三つ目の旧猿坊に遭遇したあたりの苙の元おろのもと[注釈 21]など、吉野兵六会による物語の解説看板が常時設置されている、物語に出てくる場所などを巡る[注釈 22]「よしの兵六歴史街道ウォーク」などのイベントも開催するなど、物語の世界のみに留まらず現実でも芸能や菓子など様々なものを通して鹿児島の民俗と繋がりを持った、近世の薩摩における文学を代表する作品でもある[23][28][54]

戦前には、ディズニー設立の大正12年(1923年)より前にあたる大正9年(1920年)に、日本のアニメーションにおける先駆者の一人である幸内純一[注釈 23]が製作した、武士の兵六が僧侶に化けた狐に騙される内容の短篇アニメーション映画『兵六武者修行』が上映され[55][注釈 24]戦中の昭和18年(1943年)4月1日には、主演・エノケンこと榎本健一、作・獅子文六、監督・青柳信雄、製作主任・市川崑、特殊技術・円谷英二[注釈 25]という、そうそうたる顔ぶれで東宝により『兵六夢物語』としてスタンダードサイズ白黒で実写映画化されたほか[注釈 26]、鹿児島県ではラジオドラマや舞台でも上演されている[19][27]。実写映画の原作者である獅子は、鹿児島や薩摩の文化に詳しく、当時は新聞連載などの小説をはじめ、映画やラジオ放送にも名を連ねた売れっ子作家であり、『獅子文六全集』では「兵六夢物語」と題し、兵六餅を目にして大石兵六夢物語に興味を持ち調べたことや、簡単な作品紹介を交えた感想を執筆している[57]。また、鹿児島のローカルヒーロー薩摩剣士隼人』では、大石兵六物語の中で起きた出来事や兵六が重要な役を担っており、登場する大石兵六物語の妖怪5匹も、当初は脅かすだけの存在だったが後に世界を滅ぼすほどの存在にもなるなど、物語に深く関与している。

広告

鹿児島テレビ(KTS)でサザエさんの放送直前に放送されている30秒アニメCM「セイカのおいしい昔話」において、「大石兵六夢物語の巻」が不定期で放送されており、30秒アニメCMのリニューアル前までは「セイカ劇場」という名称で「大石兵六夢物語」が不定期で放送されていた。このアニメにおける物語の結末はどちらも、狐を懲らしめるだけに留めている。YouTubeのセイカ食品公式チャンネル『なかよし時間』では、「セイカのおいしい昔話」や「セイカ劇場」をはじめとした、大石兵六夢物語の動画が公開されている[注釈 27]

鹿児島県と宮崎県において、かつては子供が兵六餅を食べる顔が代わるがわる写され「ときどき、ずっと、兵六餅」というナレーションで締めくくるCM[注釈 28]などが放送されていたが、2010年代からはボンタンアメのCMにおいて、最後にボンタンアメ、さつまいもキャラメル、むらさきいもソフトキャラメルと共に商品が表示されるだけになっている。

昭和までは様々なホーロー看板も各地に設置されていた。平成30年(2018年)からは、セイカ食品により鹿児島空港国内線2階出発ロビーのディスプレイにおいて、兵六餅と共に大石兵六、吉野の原の狐、茨城童子、重富一眼坊、抜け首、三つ眼の旧猿坊、闇間小坊主、ぬっぺっ坊、牛わく丸、山辺赤蟹、吉野の山姥、女狐のお菊が一堂に会する「大石兵六夢物語」の立体造形物に加え、ディスプレイ展示ケースの下部に第十三話「父に化けた狐にたぶらかされる話」において、兵六が狐を取り押さえる瞬間を描いた回転のぞき絵や「大石兵六夢物語」の簡単な短い解説が合わせて設置されている[58]。他にも、鹿児島中央駅都城駅熊本駅などに設置されている、ボンタンアメと兵六餅のベンチ広告をはじめ、現在は、鹿児島県や宮崎県や熊本県の駅、鹿児島空港天文館など、様々な場所に広告が設置されており、くるりが歌う「奇跡」のミュージック・ビデオでも、鹿児島中央駅に設置されている広告が確認できる[59]

関連商品

脚注

注釈

  1. ^ Googleブックス版では、一部の挿絵が白黒で表示されている。
  2. ^ 洋画家・伊牟田經正の兄。志學館大学の元学長かつ名誉教授で、鹿児島大学の元教育学部長かつ名誉教授。
  3. ^ 『薩摩奇書 大石兵六夢物語』での彩色画の挿絵とは、表情やポーズなど細部が異なる。
  4. ^ a b セイカ食品が製造している商品を指す。
  5. ^ 兵六餅が発売された昭和6年時点で、秀一郎の父である初代社長・玉川壮次郎は既に第一線から退いていた。
  6. ^ GHQとも呼ぶ。
  7. ^ 椋鳩十が執筆したものは、昭和55年(1980年)7月にポプラ社から出版された「椋鳩十全集」24巻に収録。
  8. ^ 現在の鹿児島市草牟田
  9. ^ a b c d e 二才にせとは、15、16歳から24、25歳までの男子[29]
  10. ^ 鹿児島弁で、勇猛果敢な者のこと。
  11. ^ 約15km。
  12. ^ 延享2年(1745年)頃から実学を伝え、共鳴者たちの討議は政治批判の色彩を帯び、の施策に干渉したとして寛延3年(1750年)12月、弟子10人と共に遠島になった川上親埤かわかみちかますだと言われており、川上はこのとき死亡したと言われている[32]
  13. ^ 他の中神による作品は、「薩藩叢書 第三篇」と同書を復刻した『新薩藩叢書4』の「中神集」に収録。
  14. ^ 虚構の元号。
  15. ^ 4粒入りと手さげ袋状タイプは側面。
  16. ^ 伊加倉某とは、『鹿児島外史』の著者・伊加倉俊貞だと考えられている[7]
  17. ^ 若く美しい男子を斡旋する。
  18. ^ 「此月とつくわう」「此月とつくはう」と表記される書もある。薩摩藩ではフクロウの鳴き声と方言での名前を「このつきとっこう」「この月とつくわう」と表現していた[45][46]
  19. ^ 蒲生町の地域。
  20. ^ 国分市毛梨地区の兵六踊りは、近年では敬老会で披露されたことがある程度の状態まで廃れている。
  21. ^ 鹿児島市立吉野中学校の近く。
  22. ^ かつては、世界文化遺産に登録された寺山炭窯跡も巡っていた。
  23. ^ 同じく日本のアニメにおける先駆者の一人で、幼少期には鹿児島にも住んでいた下川凹天とは、下川がプロ漫画家として初めて出版した本にコメント入りのイラストが掲載された仲。
  24. ^ 昭和48年(1973年)6月にNHKで放送された番組「文化展望・日本のアニメーション」でも放映された[56]
  25. ^ 本名の圓谷英一として参加。
  26. ^ この映画は令和になってからも衛星放送で放送されている。
  27. ^ 「セイカ劇場」の動画は「サザエさんも観てね」と締めくくる最後の部分がカットされている。
  28. ^ 同時期に、ボンタンアメでも同様のCMを放送していた。

出典

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参考文献

  • 伊牟田經久『『大石兵六夢物語』のすべて』南方新社、2007年3月20日。ISBN 978-4-86124-102-4 
  • 鹿児島県高等学校歴史部会『大石兵六夢物語』南日本出版文化協会、1972年7月20日。 
  • 五代夏夫『薩摩のドン・キホーテ 現代語訳著・大石兵六夢物語』 42巻、春苑堂出版〈かごしま文庫〉、1997年11月10日。ISBN 4-915093-49-2 

外部リンク