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'''戊号輸送'''(ぼごうゆそう)とは、1943年12月から1944年1月にかけて日本軍が行なっ[[独立混成第一連隊]]の[[ニューアイルランド島]]への輸送である。
'''戊号輸送'''(ぼごうゆそう)とは、[[第二次世界大戦]]の[[太平洋戦争]]において、1943年(昭和18年)12月から1944年(昭和19年)1初旬にかけて日本軍が実施した[[ニューアイルランド島]][[カビエン]]への輸送である{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=525|ps=五 戊号輸送}}。[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[大日本帝国陸軍連隊一覧#独立混成連隊|独立混成第1連隊]]を<ref>[[#決裁案、第8方面軍兵力増加要望]] p.3</ref>、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の艦艇が輸送した{{Sfn|戦史叢書06|1967|pp=204a-205|ps=独立混成第一聯隊の編成と同部隊の南東方面転用}}


== 概要 ==
1943年中に連合国軍はソロモン諸島方面では[[ブーゲンビル島の戦い|ブーゲンビル島に上陸]]、ニューギニア方面では[[フィンシュハーフェンの戦い|フィンシュハーフェン]]に上陸し、連合国軍の[[ダンピール海峡]]突破も時間の問題となっていた。連合国軍の進攻目標は[[ラバウル]]と考えられ、ニューアイルランド島の防衛も重要であったが、その防備は貧弱であった。そのため兵力増強が要請され、宇都宮で編成された独立混成第一連隊が派遣されることとなった。その輸送が戊号輸送と呼称された。内地から急速、安全に輸送するため、輸送は海軍艦艇によって行なわれた。輸送部隊の編制は以下の通りであった。
1943年中盤、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]][[連合参謀本部|軍]]は[[カートホイール作戦]]を発動し、同年末には日本軍の南東方面の[[キーストーン#比喩的用法|要]]であった[[ビスマルク諸島]]の攻略を開始した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=199|ps=第29図 1943年~1944年3月までの連合軍の作戦}}。[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の守備隊を増強するための輸送作戦を'''戊号輸送'''と呼称し、日本海軍の艦艇が投入された{{Sfn|戦史叢書06|1967|pp=204a-205|ps=独立混成第一聯隊の編成と同部隊の南東方面転用}}。ニューアイルランド島に派遣される陸軍部隊は、[[日本列島]]を出発後、[[チューク諸島|トラック泊地]]を経由して1943年(昭和18年)12月末から1944年(昭和19年)1月初旬にかけて、ニューアイルランド島の[[カビエン]]に到着した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=446}}。なお輸送作戦に従事していた戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]が[[12月25日]]にアメリカ潜水艦[[スケート (潜水艦)|スケート]] (''{{lang|en|USS Skate, SS-305}}'') の雷撃で小破している{{Sfn|写真日本の軍艦(1)戦艦(I)|1989|p=18}}。
* 戊一号輸送部隊(横須賀から[[チューク諸島|トラック]]への輸送、指揮官:「大和」艦長):戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」、駆逐艦「[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]」、「[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]」、「[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]」
* 戊二号輸送部隊(呉から[[カビエン]]への輸送、指揮官:[[第五戦隊]]司令官):重巡洋艦「[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]」、「[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]」、「[[利根 (重巡洋艦)|利根]]」、駆逐艦「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」、「[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]」
* 戊三号輸送部隊(トラックからカビエンへの輸送、指揮官:[[第七戦隊]]司令官):重巡洋艦「[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]」、「[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]」、軽巡洋艦「[[能代]]」、「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」、駆逐艦「秋雲」、「谷風」、「山雲」、「[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]」、「[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]」


連合国軍は[[パプアニューギニア]]の[[制空権]]を握るためビスマルク諸島の日本軍航空基地に空襲を実施しており{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=262}}、この時は[[アメリカ海軍]]の[[機動部隊|空母機動部隊]]に所属する空母2隻([[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]、[[モンテレー (空母)|モンテレー]])から[[艦上機]]が出撃した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=487}}{{Efn|二、戊号輸送と敵機動部隊カビエン空襲{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=461a-467|ps=戊号輸送計画}}。}}。カビエン空襲と同時に、三次にわたる輸送作戦に従事していた日本海軍の[[巡洋艦]]や[[駆逐艦]]を攻撃する{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=262}}。しかし、カビエンの日本海軍基地航空隊は[[第二航空戦隊]]から派遣された[[戦闘機]]で増強されていた{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=464a|ps=我が軍の対策}}。アメリカ側の攻撃隊は[[零式艦上戦闘機|零戦]]の邀撃や各艦の対空砲火により戦果をあげられず{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=536-537|ps=(付録)南東方面海軍航空作戦経過概要、昭和19年1月}}、日本軍による戊号輸送作戦は成功した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=463a|ps=戊二号・戊三号輸送部隊のトラック出撃}}。なおカビエンに進出した独立混成第一連隊の一部は[[鼠輸送]]によって[[アドミラルティ諸島]]に派遣され{{Sfn|駆逐艦野分物語|2004|p=97}}、[[アドミラルティ諸島の戦い]]で壊滅した{{Sfn|マッカーサー回顧録|2003|pp=184-186}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=490a-492|ps=アドミラルティ諸島の失陥}}。
戊一号輸送部隊(「大和」、「谷風」、「山雲」)は1943年12月20日に横須賀から出発。12月25日に「大和」がアメリカ海軍潜水艦「[[スケート (潜水艦)|スケート(SS-305)]]」の雷撃を受け魚雷1本を被雷した。同日、トラックに到着。「大和」から戊三号輸送部隊への移載が行なわれた。


== 作戦背景 ==
戊三号輸送部隊は第一部隊と第二部隊の二つに分かれていた。第一部隊(「熊野」、「鈴谷」、「谷風」、「満潮」)は12月26日にトラックから出発したが、前日にカビエン空襲があったことから一時延期が命じられ、引き返した。第一部隊は12月29日に再度出発し、12月31日にカビエン到着。揚陸完了後、1944年1月1日にトラックへ戻った。
[[オーストラリア]]の[[委任統治#ニューギニア|信託統治領]]であった[[ニューギニア]]や[[ビスマルク諸島]]は、[[第二次世界大戦]]の[[太平洋戦争]]で日本軍の攻略目標となった{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=25-29|ps=浮かび上がったラバウル}}。1942年(昭和17年)1月、日本海軍の[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]](南洋部隊)が[[ラバウルの戦い|ラバウル攻略作戦]]を発動し、[[南雲忠一|南雲]][[第一航空艦隊#空母艦隊|機動部隊]]の支援下で{{Sfn|ニミッツ|1962|p=41}}、ビスマルク諸島([[ニューブリテン島]]、[[ニューアイルランド島]])を[[占領]]した{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|pp=87-88|ps=南方進出開始と米海軍の反撃}}{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=29-33|ps=容易だった占領}}。[[ラバウル]]は[[ソロモン諸島]]方面進出の拠点、[[パプアニューギニア]]方面進出の拠点、[[日本のオーストラリア空襲|オーストラリアへの空襲]]を支援する拠点になった{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=44-47|ps=主攻撃目標はポートモレスビー}}。その後、南東方面の作戦を担当するため日本海軍の[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=75-81}}や[[南東方面艦隊]]{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=248-249}}、日本陸軍の[[第8方面軍_(日本軍)|第8方面軍]](司令官[[今村均]]陸軍中将)が新編された{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=171-172}}。


1943年(昭和18年)中盤に[[カートホイール作戦]]を発動した連合国軍は、まず中部ソロモン諸島方面における[[ニュージョージア島の戦い|ニュージョージア島諸島攻防戦]]に勝利し{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=167-176|ps=中部ソロモン諸島作戦}}、次に[[ブーゲンビル島]]に[[ブーゲンビル島の戦い|上陸]]した{{Sfn|マッカーサー回顧録|2003|pp=162-165}}。日本海軍の反撃は、[[ブーゲンビル島沖海戦]]および[[ラバウル空襲]]と[[ブーゲンビル島沖航空戦|同方面航空戦]]([[ろ号作戦]])で撃退される{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=176-189|ps=ブーゲンヴィル作戦}}{{Sfn|淵田、奥宮|1992|pp=209-214|ps=「ろ号作戦」~ ラバウルにまた一航戦投入}}。連合軍はブーゲンビル島の飛行場を整備すると、ここから発進する戦闘機と爆撃機によってラバウルを無力化し、制空権と制海権の両方を握った{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=195-197|ps=ラバウルの無力化}}。だがニューアイルランド島のカビエンは[[アメリカ陸軍航空軍]]の戦闘機の航続距離外だったので、爆撃機は護衛なしでの攻撃を余儀なくされる{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=262}}。そこで[[第3艦隊_(アメリカ軍)|第3艦隊]]([[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]提督)から[[機動部隊|空母機動部隊]]が選抜され、マッカーサー軍に協力してカビエンを攻撃することになった{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=262}}。任務部隊の指揮官は[[フレデリック・C・シャーマン|“テッド”シャーマン]]少将、[[エセックス級航空母艦|正規空母]][[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]] (''{{lang|en|USS Bunker Hill, CV-9}}'') 、[[インディペンデンス級航空母艦|軽空母]][[モンテレー (空母)|モンテレー]] (''{{lang|en|USS Monterey, CVL-26}}'') が選ばれた{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=447}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=450-452|ps=米空母機カビエンを空襲}}。
第二部隊(「能代」、「大淀」、「秋月」、「山雲」)は12月30日にトラックから出発。1944年1月1日にカビエンへ到着。同日、揚陸完了後にアメリカ海軍第37.2任務群の空母「[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]」、「[[モンテレー (空母)|モンテレー]]」艦載機による攻撃を受け「能代」、「大淀」、「山雲」に被害が生じた。「能代」、「山雲」は1月2日に、「大淀」、「秋月」は1月4日にトラックへ戻った。


ニューギニア方面の[[ニューギニアの戦い|攻防戦]]では、[[ダグラス・マッカーサー]]総司令官の指揮下で[[:en:South_West_Pacific_Area_(command)|南西太平洋方面軍]]が長距離爆撃機([[B-17 (航空機)|B-17]]など)を活用しつつ{{Sfn|マッカーサー回顧録|2003|p=155|ps=1943年9月連合軍のラエ攻撃}}、日本軍を追い詰めていた{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=189-194|ps=ニューギニア戦線}}。10月に[[フォン半島]][[フィンシュハーフェン]]に[[フィンシュハーフェンの戦い|上陸作戦]]をおこない{{Sfn|ニミッツ|1962|p=191}}、[[ダンピール海峡]]突破も時間の問題となっていた{{Sfn|マッカーサー回顧録|2003|pp=161-162}}。12月15日にはニューブリテン島西端の[[グロスター岬]]に連合国軍先遣隊が上陸し、同月26日には[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]が上陸した{{Sfn|マッカーサー回顧録|2003|pp=165-166}}{{Sfn|戦史叢書06|1967|pp=193-194|ps=連合軍のダンピール海峡突破}}([[グロスター岬の戦い|グロスター岬攻防戦]]){{Sfn|ニミッツ|1962|p=193}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=452-453|ps=連合軍の作戦計画}}。
戊二号輸送部隊(「妙高」、「羽黒」、「利根」、「[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]」、「白露」)は12月24日に内海西部から出発。「藤波」は「時雨」が漁船と衝突したため、その代替。トラック経由(12月29日着、1月2日発)で1月4日にカビエンへ到着。揚陸を行い1月5日にトラックへ戻った。対潜警戒のためラバウルから派遣された駆逐艦「[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]」、「[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]」<!--戦史叢書第62巻、527ページによれば「皐月」、「[[水無月 (睦月型駆逐艦)|]]」、「[[長月 (睦月型駆逐艦)|]]」だが、「長月」はこれ以前に失われているためおそらく誤記-->が1月4日に第37.2任務群による空襲で被害を受けている。


日本側は、連合国軍の進攻目標についてラバウルと考えていたし、マッカーサー将軍もそのつもりだった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=192}}。実際に連合国軍がニューブリテン島西部に[[グロスター岬の戦い|上陸作戦を開始]]し、日本軍はビスマルク諸島全域の防備を増強せねばならなくなる{{Sfn|戦史叢書06|1967|pp=204a-205|ps=独立混成第一聯隊の編成と同部隊の南東方面転用}}。[[カビエン]]港を擁するニューアイルランド島の防衛も重要であり、守備隊(第十四根拠地隊)に対する兵力増強が要請された{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=461b-462|ps=陸軍兵力増派の決定}}。[[小笠原諸島]]への派遣を予定して{{Sfn|戦史叢書06|1967|pp=174-175|ps=中部太平洋方面陸軍部隊進出状況(昭和十八年十一月中旬)}}、[[栃木県]][[宇都宮市|宇都宮]]の留守[[第51師団 (日本軍)|第51師団]]で11月22日に編成を完了した'''独立混成第一連隊'''(連隊長[[坂本康一]]大佐)が派遣される{{Sfn|戦史叢書06|1967|p=205}}。その輸送を'''戊号輸送'''と呼称する{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=525|ps=五 戊号輸送}}。内地から急速、安全に輸送するため、輸送は海軍艦艇によって行なわれた{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=446}}。この時点で日本側は再建したばかりの[[第一航空戦隊]]の[[艦上機|母艦航空部隊]]を[[航空戦]]に投入して大損害を受けており{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|pp=150-152|ps=幻の大戦果}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=419-421}}、[[航空母艦]]は内地に戻っている{{Sfn|勇将小沢治三郎生涯|1997|pp=130-133|ps=激戦つづくソロモン海戦}}。このため基地航空部隊が上空援護を担当し、[[第二航空戦隊]]から零戦を派遣して航空戦力を増強した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=464a|ps=我が軍の対策}}{{Sfn|淵田、奥宮|1992|pp=214-224|ps=ラバウル航空隊の消滅}}。
この輸送作戦時、カビエンには空母「[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]」、「[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]」の戦闘機が進出し、1月1日の空襲時には迎撃に参加している。


== 部隊編成 ==
独立混成第一連隊の第二大隊はこのあと[[アドミラルティ諸島]]へ送られ、[[アドミラルティ諸島の戦い]]で壊滅している。
連合艦隊が下令した輸送部隊の編成<!-- 編制とは違う -->は以下の通りであった{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=526}}。参加艦艇は[[連合艦隊]]および[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]と第三艦隊から抽出された。各艦の輸送物件は、巡洋艦は人員600名と物件1,500立方メートル、[[秋月型駆逐艦]]は人員200名と物件150立方メートル、駆逐艦は人員100名と物件100立方メートル、合計4,200名と物件6,200立方メートルと推定された{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=462-463|ps=輸送計画}}。

* 戊一号輸送部隊(指揮官:大和艦長[[大野竹二]]少将)(横須賀から[[チューク諸島|トラック泊地]]への輸送):戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=171}}、駆逐艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]、[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]{{Efn|12月19日付で除かれ、輸送作戦に参加していない<ref>[[#S1812第十戦隊日誌(1)]] p.10〔 (四)麾下艦船部隊ノ行動 〕- p.32〔 19 0903(将旗)GF(宛略)GF電令作第863号 第十駆逐隊(秋雲)ヲ戊號輸送部隊ヨリ除ク 〕、[[#S1812熊野日誌(1)]] p.40(聯合艦隊電令作第八六三號)</ref>。}}
* 戊二号輸送部隊(指揮官:[[妙高型重巡洋艦|第五戦隊]]司令官[[橋本信太郎]]少将)(呉からカビエンへの輸送):重巡洋艦[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]](旗艦)、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]、[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]](内海で[[漁船]]と衝突して損傷、不参加){{Sfn|戦史叢書62|1973|p=527}}、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[藤波 (駆逐艦)|藤波]](修理のため離脱した時雨の代艦){{Sfn|戦史叢書62|1973|p=527}}
* 戊三号輸送部隊(指揮官:[[最上型重巡洋艦|第七戦隊]]司令官[[西村祥治]]少将)(戊一号輸送部隊のトラック着後、トラックからカビエンへの輸送、第1部隊と第2部隊にわかれている){{Sfn|戦史叢書62|1973|p=526}}
** 戊三号輸送部隊、第1部隊(指揮官:第七戦隊司令官):重巡洋艦[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]](旗艦)、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、駆逐艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]
** 戊三号輸送部隊、第2部隊(指揮官:[[第二水雷戦隊]]司令官[[早川幹夫]]少将):軽巡洋艦[[能代 (軽巡洋艦)|能代]](旗艦)、[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]、駆逐艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]

カビエン方面には12月1日付で新編された第十四根拠地隊(司令官[[大田実|大田實]]少将、第83警備隊、第88警備隊など)が配置されていた{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=443-44|ps=カビエン等の防備強化/第十四根拠地隊の新編}}。ビスマルク諸島に対する連合軍の攻勢に対し、連合艦隊は12月15日から空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]所属の零戦全力と[[第五五二海軍航空隊]](トラック所在、艦爆隊)をラバウルに派遣する{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=446|ps=艦爆隊・艦戦隊の増勢}}。だが連日の[[航空戦]]により、ラバウルの航空戦力は急速に消耗していった{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=456-457|ps=十二月のラバウル防空作戦}}。そこで東南アジア方面よりトラック泊地に移動した[[第二航空戦隊]](司令官[[城島高次]]少将)から{{Efn|(昭和18年12月11日記事)《南西方面陸攻隊ノ一部東正面ニ転用ニ関シ、応急ノタメ第二航空戦隊ハ西方ニ残シオクヲ可トスル旨中央ノ所見ヲ示セルモ、聯合艦隊ハ予令通リ実施ス》{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=161}}。}}、空母[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]と軽空母[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]の[[艦上戦闘機]]36機がカビエンに派遣された{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=464a|ps=我が軍の対策}}{{Efn|二航戦の空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]は11月上旬に[[豊後水道]]で潜水艦[[ハリバット_(潜水艦)|ハリバット]] (''{{lang|en|USS Halibut, SS-232}}'') に雷撃され中破、内地で修理中だった{{Sfn|丸写真第4巻、空母(II)|1989|p=42|ps=航空母艦『隼鷹』行動年表}}。}}{{Efn|二航戦(龍鳳、飛鷹)も[[シンガポール]]で訓練したあと12月上旬に同地出発{{Sfn|淵田、奥宮|1992|pp=207-208|ps=「油」を求めてシンガポールへ}}、[[インドネシア]]の[[タラカン市|タラカン]]{{Sfn|丸写真第4巻、空母(II)|1989|pp=108a-109|ps=航空母艦◇龍鳳◇行動年表}}、[[パラオ]]を経由して{{Sfn|丸写真第4巻、空母(II)|1989|p=43a|ps=航空母艦『飛鷹』行動年表}}、第21駆逐隊に護衛されて21日トラック泊地着{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=181}}。}}。
二航戦の零戦部隊(龍鳳飛行長[[進藤三郎]]少佐)と{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=215}}、基地航空部隊([[南東方面艦隊|南東方面部隊]])の零戦が、戊三号輸送部隊の上空援護を担当した<ref>[[#S1812熊野日誌(1)]] pp.43-44〔 二五日一四二一|二五日一八〇四|聯合艦隊電令作第八七四號 第二航空戰戰斗機隊(約三〇機)ヲ南東方面部隊ニ編入ス 南東方面部隊指揮官ハ右ヲ主トシテ戊號輸送部隊ノ警戒ニ從事セシムベシ|無電 〕〔 二六日二〇二五|[[南雲忠一|第一艦隊司令長官]](宛略)[[第一艦隊_(日本海軍)|第一艦隊]]信電令作第三二五號 聯合艦隊電令作第八七四號ニ依ル飛行機隊 第六空襲部隊ニ編入ス 配備基地「カビエン」 任務 戊號輸送隊ノ上空警戒及「カビエン」方面敵邀撃|無電 〕</ref>。
母艦(龍鳳、飛鷹)と護衛部隊([[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]])は12月27日にトラック泊地を出発<ref>[[#S1812第十戦隊日誌(1)]] p.7〔 (レ)濱風二七日「トラツク」発 呉行龍鳳、飛鷹ノ護衛ニ任ズ 〕、同戦時日誌 pp.34-35(GF機密第231103番電、GF電令作第870号) 、同戦時日誌 p.49(昭和18年12月27日)〔 二七(天候略)一三〇〇 浜風 呉ニ向ケ トラツク発 〕</ref>、カビエンに飛行機隊を派遣したのち{{Sfn|丸写真第4巻、空母(II)|1989|p=43b}}{{Sfn|丸写真第4巻、空母(II)|1989|pp=108b-109}}、内地へ戻っていった<ref>[[#S1812呉防戦日誌(1)]] pp.65-66〔 三十日一五三〇呉防戰司令官|三十日一九〇六豊後防備部隊(伯空司令)〔 呉鎭長官 50Sf司令官 飛鷹艦長 龍鳳艦長 雷、響、浜風 〕|呉防戰機密第三〇一五三〇番電 電令作第一四四號 飛鷹龍鳳及駆逐艦三隻一月一日一二〇〇豊後水道外端着(以下略) 〕</ref>。

また輸送部隊のカビエン入港時における掃海・対潜警戒のため{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=527}}、[[南東方面艦隊]]([[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]、[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]])から掃海部隊や駆逐艦(皐月、文月)が派遣された{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|pp=139-141|ps=「皐月」と「文月」の損傷}}。第五空襲部隊も[[陸上攻撃機]]を極力動かして、ニューアイルランド島東方海面の索敵を実施した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=464a|ps=我が軍の対策}}。

== 作戦経過 ==
戊一号輸送部隊(大和、谷風、山雲)は1943年12月20日に横須賀から出発{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=526}}{{Sfn|写真日本の軍艦(1)戦艦(I)|1989|pp=42a-43|ps=戦艦『大和・武蔵』行動年表 ◇大和◇}}。12月25日未明にトラック泊地西方{{coor dm|10|05|N|150|32|E|}})地点で{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=184}}、アメリカ潜水艦[[スケート (潜水艦)|スケート]] (''{{lang|en|USS Skate, SS-305}}'') が大和部隊を発見、雷撃をおこなう{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=307a-309|ps=被雷時にみせた大和・武蔵の恐るべき実力◇大和}}{{Efn|スケートは12月21日にもタンカー照川丸(駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]護衛)を雷撃して撃沈し、日本側は救援のため救難隊(能代、浜風、電、響)などを派遣している{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=531}}。}}。
大和の右舷後方(三番主砲付近)に魚雷1本が命中{{Sfn|写真日本の軍艦(1)戦艦(I)|1989|p=18}}、4度傾斜したので770トンを注水し復元する<ref>[[#S18.12.16~31経過概要]] p.25(昭和18年12月)〔 25|04-21|「トラック」ノNW150′ニテ大和ハ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|南洋|三番砲塔右舷ニ三本命中 同上部火薬庫及其ノ附近ニ浸水 傾斜4°ニ達セシモ770t注水20ktニテ「トラツク」ニ向ケ航行中 〕</ref>。大和は26[[ノット]]に増速したが、特に異常はなかった{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|pp=190-191}}。戦死者は大和乗組員や陸軍の将兵ともに皆無で、乗組員達は被雷したことに気付かなかったという{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=308}}{{Efn|大和の当直将校は、艦が若干右舷に傾斜したことに気付いた{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=386-387}}。さらに護衛の駆逐艦から「貴艦の右舷側に水柱があがった、雷撃のようだ」と注意され、艦内の調査をおこなっている{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=308}}。}}{{Efn|{{Quotation|◎「大和」ノ被雷ノ話 日出約一時間前、艦長ハ三回ノ振動音ヲ聴キ、先キニ仝様ノ経験ヨリ潜水艦ノ[[機雷]]カ[[爆雷]]カト思ヒシモ、誰レモ魚雷ヲ受ケシトハ知ラザリキ。航海中第二配備ノミデアツタガ、コノ振動音ニヨリ総員配置ニツケシ処、三塔ノ火薬庫員ガ火薬庫ニ入リシニ側壁ヨリ水ガ流レ込ンデヰルヲ発見、之モ魚雷命中トハ思ハザリシモ、防水シ得ズニ上部火薬庫満水セリ。後チニ聴ケバ後部見張員ノ一人ハ右舷後部ニ水柱挙リ火炎ヲ認メシモ、アレゝト云ヒテ報告シ得ズ、隣ノ見張員ガソレニヨリ艦橋ニ報告セリ。約五分ヲ要セリ。即チ第一回音ヨリ八分ナリシト。他ノ二音ハ魚雷ノ自爆音ナルベシ。艦ハソノマヽ航行、26[[ノット|kt]]ヲ出シテ見タガ支障ナシ。入港后検ベタガ未ダヨク判明セザルモ、10[[メートル|m]]×8mノ破口アリ。鋼鈑ハ少シツギ目ガズレテヰル様子ニテ之ガ修理ニ一番手間取ルベシ。アトハ火薬庫ノ防熱鈑ヲ換ヘネバナラヌ。庫<!-- 原文まま -->主砲[[方位盤]]、指揮官観測鏡プリズム偏移シ、方位盤作動重クナル、[[レンジファインダー|15m測距儀]]モ変調セリト。上部ニ振動アリシ様子ナリ。之モスグニ魚雷ヲウケシトワカラヌ処ニオカシサアリ。|高松宮日記、第七巻、190-191頁{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|pp=190-191}}(昭和十八年十二月二十七日)}}}}。
同日、トラックに到着する<ref>[[#S1812第十戦隊日誌(1)]] p.41〔 25 1500(宛略)大和谷風山雲トラック着 〕</ref>。大和に熊野や鈴谷{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=188}}、大淀や能代が接舷{{Sfn|小淵守男|2011|p=177}}し、兵員や車輌や物資の移載が行なわれた<ref>[[#S1812熊野日誌(1)]] p.10(昭和18年12月26日、経過概要)、同艦同日誌(1) p.41(聯合艦隊機密第二四一一三五番電)</ref>。大和を護衛してきた山雲と満潮は、そのまま戊二号輸送部隊と戊三号輸送部隊の護衛部隊に編入される。大和は工作艦[[明石 (工作艦)|明石]]の世話になって応急修理を実施{{Sfn|塩山、変わりダネ軍艦|2017|pp=9-10|ps=驚くべき大和の強靭さ}}、戊号輸送終了後の1月中旬に内地へ帰投した{{Sfn|写真日本の軍艦(1)戦艦(I)|1989|pp=42b-43}}{{Efn|[[大和型戦艦]]の舷側装甲板取り付けに構造的な不備があり、大和では被雷の衝撃で[[バイタルパート]]に約3,000トンの浸水があった{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=318-319|ps=大小数千の改良を実施}}。内地帰投後、被雷箇所の修理、防御構造の改善、高角砲や対空機銃の増設をおこなっている{{Sfn|写真日本の軍艦(1)戦艦(I)|1989|p=18}}{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=310-313|ps=全艦いたるところに大小無数の対空兵器}}。}}

アメリカ軍の方では、シャーマン少将の第37.2任務群(大型空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]、軽空母[[モンテレー (空母)|モンテレー]]、[[フレッチャー級駆逐艦]]6隻)が[[エスピリトゥサント島]]を出撃し{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=262}}、12月25日にカビエンを空襲した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=450-452|ps=米空母機カビエンを空襲}}{{Efn|アメリカ駆逐艦6隻の詳細は、[[チャレット (駆逐艦)|チャレット]] (''{{lang|en|USS Charrette, DD-581}}'') 、[[:en:USS Conner (DD-582)|コナー]] (''{{lang|en|USS Conner, DD-582}}'') 、[[:en:USS_Bell_(DD-587)|ベル]] (''{{lang|en|USS Bell, DD-587}}'') 、[[:en:USS_Bradford_(DD-545)|ブラッドフォード]] (''{{lang|en|USS Bradford, DD-545}}'') 、[[:en:USS_Brown_(DD-546)|ブラウン]] (''{{lang|en|USS Brown, DD-546}}'') 、[[:en:USS Cowell (DD-547)|コーウェル]] (''{{lang|en|USS Cowell, DD-547}}'') 。}}。奇襲には成功したが戦果は乏しく{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=262}}、日本軍の輸送船天竜丸が沈没{{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=186}}、輸送船[[清澄丸_(特設巡洋艦)|清澄丸]]および[[第二十一号掃海艇|第21号掃海艇]]と[[第二十二号掃海艇|第22号掃海艇]]などが損傷した<ref>[[#S18.12.16~31経過概要]] p.26(昭和18年12月)〔 25|0545及0604/1140|「カビエン」ニfb fo計120来襲 83kg/南東方面艦隊司令長官ハ「カビエン」ノ東方洋上索敵実施下令/「カビエン」ノ63°260′附近ニA大×1 A小×1(大巡ナルヤモ知レズ)ヲ基幹トスル部隊東航|南東|同方面ニ(機動部隊)行動中ノ算大 f×3撃墜(地上砲火) 被害沈没天竜丸(呉運) 大破21w 中小破22w及清澄丸(GF) 〕</ref>。

シャーマン部隊に対し、ハルゼー提督は再びカビエンを空襲するよう命じた{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=463b|ps=米機動部隊の動向}}。「日本軍の巡洋艦部隊がカビエンに接近中」という情報により、反覆攻撃をおこなう{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=448}}。ただし護衛部隊が駆逐艦6隻だけだったので、[[ノースカロライナ級戦艦]]2隻([[ワシントン (BB-56)|ワシントン]]、[[ノースカロライナ (戦艦)|ノースカロライナ]])と駆逐艦4隻が追加された{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=262}}{{Efn|駆逐艦4隻の艦名は、[[:en:USS_Lang_(DD-399)|ラング]]、[[:en:USS_Burns_(DD-588)|バーンズ]]、[[:en:USS_Izard|イザード]]、[[:en:USS_Wilson|ウィルソン]]であった。}}。[[ウィリス・A・リー]]少将が指揮する6隻は25日にエスピリサント島を出発、31日に空母2隻や補給艦と合流する{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=263}}。シャーマン部隊の誰もが、自分たちが日本軍の勢力圏に踏み込み過ぎていると感じ、不安になっていたという{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=263}}。リー少将や将兵たちは「我々は[[イギリス海軍]]の[[キング・ジョージ5世級戦艦|戦艦]][[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]] (''{{lang|en|HMS Prince of Wales}}'') 、[[レナウン級巡洋戦艦|巡洋戦艦]][[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]] (''{{lang|en|HMS Repulse}}'') と同じ立場だった。[[マレー沖海戦]]も[[戦艦]]2隻と[[駆逐艦]]4隻だった。」と回想している{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=264}}。

戊三号輸送部隊は第一部隊と第二部隊の二つに分かれていた{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=463a|ps=戊二号・戊三号輸送部隊のトラック出撃}}。第一部隊(熊野<!-- 旗艦 -->、鈴谷、谷風、満潮)は12月26日午後にトラックから出発した<ref>[[#S1812熊野日誌(1)]] p.44〔 二十六日一六一五 第七戰隊司令官(宛略)第七戰隊機密第二六一六一五番電 戊号第三號輸送部隊第一部隊(熊野 鈴谷 谷風 満潮)二六日二〇〇〇「カビエン」ニ向ケ「トラック」發|無電 〕</ref>。前日にカビエン空襲があったことから一時延期が命じられ引き返し<ref>[[#S1812第十戦隊日誌(1)]] p.40(昭和18年12月27日)〔 二七 一〇四五(GF長官)(宛略)|GF機密第二七一〇四五番電 GF電令作第八七六號 戊三號輸送ヲ一時延期 戊三號輸送第一部隊ハ「トラック」ニ皈投セヨ|無電 〕</ref>、28日にもどった<ref>[[#S1812熊野日誌(1)]] p.17〔 戊第三號輸送部隊行動圖 自昭和十八年十二月二十六日二〇〇〇 至同 年十二月二十八日〇六〇〇(海圖第二一〇五號ト同尺度) 〕</ref>。第一部隊は12月29日に再度出発し{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=527}}、12月31日にカビエン到着<ref>[[#S1812熊野日誌(1)]] pp.19-21〔 戊第三號輸送第一部隊行動圖 (自昭和十八年十二月二十九日一三一五 至昭和十九年一月一日)(海図第一八〇八号ト同尺度) 〕</ref>。揚陸完了後、1944年1月1日にトラックへ戻った<ref>[[#S1812熊野日誌(2)]] p.21〔 一日二〇三〇 第七戰隊司令官|一日二〇三〇 南東方面艦隊司令長官 第十四特根司令官|第七戰隊機密第〇一二〇三〇番電 戊第三號第一部隊一四〇〇「トラツク」着|無電 〕</ref>。

第二部隊(能代、大淀、秋月、山雲)は12月末にトラックから出発{{Sfn|軽巡二十五隻|2014|pp=284-285|ps=カビエン沖で受けた洗礼}}。1944年1月1日にカビエンへ到着、揚陸を実施する{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|pp=199-202|ps=長十センチ高角砲の威力}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=464b-465|ps=第二次カビエン空襲(一月一日)}}。作業完了直後{{Sfn|小淵守男|2011|pp=182-187}}、シャーマン少将の空母機動部隊(バンカー・ヒル、モンテレー)から飛来した[[艦上機]]に襲撃された{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=527}}。二航戦派遣隊を含む零戦が米軍攻撃隊([[F6F (航空機)|F6F]]| 40機、[[SBD (航空機)|SBD]] 50機、[[TBF (航空機)|TBF]] 16機)を邀撃し、24機撃墜を記録して零戦6機を失った{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=464c-465}}。洋上の対空戦闘では能代と山雲が小破、大淀に軽微な被害が生じ{{Sfn|小淵守男|2011|pp=187-198|ps=これぞ「大淀」の対空戦闘だ}}、秋月は無傷だった{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=464c-465}}{{Sfn|山本平弥ほか、秋月型|2015|pp=22-25|ps=おそるべき対空兵装の威力}}。4隻はトラック泊地に引き揚げる<ref name="S1812十戦隊(2)p4">[[#S1812第十戦隊日誌(2)]] pp.4-5〔 (二)我軍ノ情況(略)(ロ)谷風二日「トラツク」発清澄丸ノ救難ニ任ズ/(ハ)山雲能代ト共ニ戊三號輸送ニ從事中ノ所二日「トラツク」着(中略)(ワ)朝雲一〇日「トラツク」発呉迄大和ノ護衛ニ任ズ 〕</ref>。先行してトラックに戻った能代と山雲のうち<ref>[[#S1812熊野日誌(2)]] p.22〔 二日一九〇〇 第二水雷戰隊司令官|二日二〇四五 聯合艦隊司令長官外(第十四特根司令官外)|第二水雷戰隊機密第二一九〇〇番電 戊第三號輸送部隊第二部隊(能代 山雲)「トラツク」着|無電 〕</ref>、能代は工作艦[[明石 (工作艦)|明石]]の世話になり、応急修理を実施した{{Sfn|塩山、変わりダネ軍艦|2017|p=10}}。日本側は基地航空隊でシャーマン隊を攻撃しようとしたが、捕捉できずに帰投した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=464c-465}}。

その頃、カビエンからトラック泊地にむかっていた特設巡洋艦[[清澄丸_(特設巡洋艦)|清澄丸]]と護衛部隊([[夕凪_(2代神風型駆逐艦)|夕凪]]、第22号掃海艇)は、アメリカ潜水艦[[バラオ (潜水艦)|バラオ]] (''{{lang|en|USS Balao, SS-285}}'') に襲撃された。清澄丸が被雷して航行不能になる{{Sfn|トラック大空襲|1987|p=96}}。帰投中の第二部隊より大淀と秋月が分離し、トラック泊地から来た救難部隊(軽巡[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=449}}、駆逐艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]<ref name="S1812十戦隊(2)p4" />)に協力した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=527}}。清澄丸は那珂(第十四戦隊、[[伊藤賢三]]少将)に曳航されて、1月8日トラック泊地に帰投した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=493}}。明石側は内地帰投を薦めたが、清澄丸側は明石による本格的な修理を希望して、しばらくトラック泊地に残ることになったという{{Sfn|塩山、変わりダネ軍艦|2017|p=11}}。

戊二号輸送部隊(妙高、羽黒、利根、藤波、白露)は12月24日に内海西部から出発する<ref>[[#S1812呉防戦日誌(1)]] pp.13-14(護衛概要)〔 二三|五戰隊 利根|(護衛兵力、護衛区域略)〕、同部隊戦時日誌 pp.54,78</ref>{{Efn|(七)<ref name="八戦隊(8)p27">[[#第八戦隊日誌(8)]] p.27</ref> 十日聯合艦隊電令作第八五七號及機動部隊機密第一〇一七〇〇番電ニ依リ8S(利根)5S、27dg(時雨白露)ハ二十三日迄ニ横須賀ニ回航、陸軍部隊ヲ南東方面ニ輸送ノ豫定ナリシトコロ一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊ノコトトナリ豫定変更十六日聯合艦隊電令作第八六一號ニ依リ5S利根27dg(時雨白露)ヲ以テ戊二號輸送部隊ヲ編制、5S司令官之ヲ指揮シ二十二日呉ニ於テ大海機密第一五一一一番電ノ人員物件ヲ搭載「トラック」経由「カビエン」ニ向ケ二十四日一三〇〇内海西部ヲ出撃二十九日「トラック」着尚利根ハ二十五日附ヲ以テ遊撃部隊ニ編入セラル/(八)昭和十九年一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊セラレ、筑摩及利根ハ第七戰隊ニ編入セラル }}。
時雨(二水戦、第27駆逐隊)が漁船と衝突したため、[[藤波 (駆逐艦)|藤波]](二水戦、第32駆逐隊)が代艦として護衛部隊に加わっており、12月29日トラック着<ref name="八戦隊(8)p27" /><ref>[[#S1812利根日誌]] p.25〔 二十九日一六〇一(司令官)5S(宛略)5S利根一一〇〇藤波白露(敵潜制圧後)一五三〇「トラツク」着 〕</ref>。1944年1月2日発、1月4日カビエンに到着<ref>[[#S1901利根日誌]] pp.3-4(昭和19年1月、経過概要)、同艦日誌 p.18〔 四日〇四〇四、14ABg司令|GF長官 NTF長官〔5S司令官〕|14ABg機密第〇四〇四〇〇番電 戊二號輸送部隊〇三三〇「カビエン」着 〕</ref>。利根(艦長[[黛治夫]]大佐)<!-- 12月1日発令、4日着任 -->では迅速に揚陸するため[[三八式歩兵銃]]を纏めて梱包したため、陸軍側は抵抗感をもったという{{Sfn|砲術艦長黛治夫|1996|pp=125-127}}。戊二号輸送部隊の揚陸は順調に進み、午前6時頃にトラック泊地への帰途についた{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=465a-466|ps=第三次カビエン空襲(一月四日)}}。

この日、シャーマン部隊(バンカー・ヒル、モンテレー)から艦上機が飛来してカビエンを攻撃する{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=265}}。戊二号輸送部隊はスコールに逃げ込んだので発見されず{{Sfn|砲術艦長黛治夫|1996|pp=125-127}}、米軍攻撃隊はカビエン周辺の艦艇を攻撃した{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|pp=139-141|ps=「皐月」と「文月」の損傷}}{{Efn|name="S190104カビエン"|(昭和19年1月4日カビエン対空戦闘概要)<ref>[[#S19.01.01~15経過概要]] pp.10-11</ref>〔 4|0550|「ヌグリヤ」島(「ブカ」北方)ノE150′ニKdB発見|南東 751fg/25Sf|A×2 B×2 C×3 d×2針路320°速力24kt 〕、〔 4|0710|右KdBヨリ[[艦上機|f(小)]]×70「カビエン」ニ来襲(TBF×40 SBD×16 F6F×20) 敵ハ同港出港直後ノ戊二號輸送隊(妙高、羽黒、利根、d×2)ヲ発見シ得ズ 「ステフェン」水道南口ニ来着セル22dg攻撃ヲ集中 輸送隊ノ上空直衛fcハ之ヲ邀撃(2Sf 6AB)|南東 3F派遣隊|「カビエン」戰果 撃墜TBF×1 相当ノ損害SBD×2 被害fc×1不時着 Fc o×1着陸時大破/「ステフェン」水道戰果 撃墜f×11 被害 文月 浸水若干 戰死4 重傷20 皐月 船体機関相当大ナル被害(最大速力24kt)艦長航海長重傷其他死傷多数 〕}}。
対潜警戒のためカビエンで揚陸作業を掩護していた第22駆逐隊([[水雷戦隊#第三水雷戦隊|第三水雷戦隊]])の[[睦月型駆逐艦|駆逐艦]]2隻([[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]、[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]])が{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|p=363}}、カビエンからラバウルに戻る途中で空襲に遭遇した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=465b-466}}{{Efn|『[[戦史叢書]]』第62巻、527ページには、駆逐艦3隻(皐月、[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]、[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]])と記載する。ただし「長月」は1943年7月6日の[[クラ湾夜戦]]により[[コロンバンガラ島]]で座礁し、沈没した{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|pp=130-131|ps=●「長月」の座礁と最期}}。}}。文月は機銃掃射で死傷者多数を出し、皐月も至近弾や機銃掃射でかなりの被害をうけ{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=140}}、[[飯野忠男]]艦長戦死など人的被害も甚大であった{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|pp=364-365}}。

空襲を実施したシャーマン部隊も、日本軍の索敵機に幾度か発見されていた<ref>[[#S1901利根日誌]] p.19〔 四日一四四七 NTF長官|四日一六一〇 5S|NTF機密第〇四一四四七番電 四日一一四五飛行機ノ報告ニ依レバ敵空母二隻 駆逐艦六隻又「ラバウル」ノ三五七度二一五浬ニ在リ針路八〇度速力二十五節一一四五 〕</ref>{{Efn|(昭和19年1月4日){{Sfn|高松宮日記7巻|1997|p=206}}〔 ○飛行機(四-〇五〇〇)一、空母二ヲ含ム敵大部、「カビエン」ノ87°178′(空母二、戦艦二、巡洋艦駆逐艦五)。○〃(四-一〇二〇)敵戦艦二、巡洋艦二、駆逐艦二見ユ。「ラボール」ヨリ55°200′、Co.0° Sp.18kt。)}}。シャーマン部隊は反撃を怖れて退避し、1月7日にエスピリサント島に戻った{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|p=265}}。

== その後 ==
シャーマン部隊から戊三号輸送部隊を守り抜いた[[ラバウル航空隊]]だが、連日の航空戦により急速に消耗していった{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=473-475|ps=ラバウル上空邀撃戦}}。二航戦のカビエン派遣隊(零戦36機)は作戦で8機を失い、14機が南東方面に転用され、残りは原隊に復帰した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=467|ps=二航戦機のトラック復帰}}。ところがラバウルの第二十六航空戦隊をトラック泊地に後退させるかわりにラバウル進出を命じられ、二航戦(戦闘機62、艦爆18、艦攻17)は再び南東方面に移動した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=475|ps=第二航空戦隊(母艦欠)の南東方面部隊進出}}。トラック空襲後にトラック泊地へ撤退したが、[[セント・ジョージ岬沖海戦#海戦の後|基地要員は輸送船が撃沈されて]]全員行方不明となった{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=482|ps=航空部隊の引き揚げ}}。

戊三号輸送部隊に参加した各艦のうち、大和と駆逐艦3隻(朝雲、満潮、藤波)は呉に帰投した<ref name="S1812十戦隊(2)p4" /><ref>[[#S1812呉防戦日誌(2)]] p.12(1月15日大和着)、pp.33-34〔 十二日二〇〇〇呉防戰司令官|十一日二三四〇豊後防備部隊〔大和 満潮 藤波 朝雲 GF長官 呉鎭長官 〕|呉防戰機密第一二二〇〇番電 電令作第一四六號 大和及駆逐艦三隻十五日一二三〇豊後水道東掃海水路着北上ス(以下略) 〕</ref>{{Efn|大和は1月10日にトラック出発、1月16日に呉入港、2月より本格的修理と改造工事を実施した{{Sfn|写真日本の軍艦(1)戦艦(I)|1989|pp=42b-43}}。}}。大和は23ノットという巡航速力で内地にむかった{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=386-387}}。途中でアメリカ潜水艦[[ハリバット_(潜水艦)|ハリバット]] (''{{lang|en|USS Halibut, SS-232}}'') が大和を狙うが、追いつけなかった。
戊二号輸送部隊の代わりに米軍機動部隊艦上機の攻撃を吸収した第22駆逐隊のうち{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=527}}、文月はトラック泊地で明石により応急修理をうけたあと、ラバウルに進出して最前線の任務に従事した{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|pp=142-43|ps=「文月」の損傷}}。皐月は機関部に損傷が及んだため本格的修理が必要となり、応急修理をおこなったあと、佐世保に帰投した{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|pp=141-142|ps=「皐月」の修理}}。

1月下旬、独立混成第一連隊の第二大隊(大隊長岩上泰一郎少佐、約750名)は第4駆逐隊(司令[[磯久研磨]]大佐{{Sfn|駆逐艦野分物語|2004|p=97}}:山雲、野分、舞風)などによる[[鼠輸送]]によって[[アドミラルティ諸島]]([[マヌス島]]の[[:en:Lorengau|ロレンガウ]])へ送られ、マヌス島と[[ロスネグロス島]]の守備隊を増強した{{Sfn|駆逐艦野分物語|2004|pp=101-102}}{{Efn|野分と舞風は国洋丸を護衛してトラックに移動、次に駆逐艦2隻(山雲、[[秋風 (駆逐艦)|秋風]])がラバウル~ロレンガウ輸送を実施した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=487-488|ps=一月、二月の駆逐艦輸送}}。}}。その後、1944年2月下旬にマッカーサー軍([[:en:5th_Cavalry_Regiment|第5騎兵師団]]、[[第7艦隊_(アメリカ軍)|第7艦隊]])が実施した[[アドミラルティ諸島の戦い|上陸作戦]]により、同諸島の日本軍守備隊は全滅している{{Sfn|マッカーサー回顧録|2003|pp=184-186}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=490a-492|ps=アドミラルティ諸島の失陥}}。
トラック泊地も{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=481|ps=トラック被空襲}}、[[2月17日]]と[[2月18日|18日]]にアメリカ海軍機動部隊の襲撃で[[トラック島空襲|大打撃]]をうけた{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=246-247}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=621-622|ps=トラック空襲による被害}}。この空襲にはバンカー・ヒルも[[第38任務部隊|第58任務部隊]]として参加し{{Sfn|駆逐艦野分物語|2004|pp=121-122}}、香取船団(軽巡[[香取 (練習巡洋艦)|香取]]、駆逐艦[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、特設巡洋艦[[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]])を攻撃している{{Sfn|駆逐艦野分物語|2004|p=134}}{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=513-516|ps=香取、米戦艦と悲壮な戦い}}。他にも軽巡[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]を撃沈した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=518-519|ps=那珂、沈没(二月十七日)}}。カビエン空襲を生き延びた特設巡洋艦[[清澄丸_(特設巡洋艦)|清澄丸]]と{{Sfn|トラック大空襲|1987|p=97}}、駆逐艦[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]も沈没した{{Sfn|トラック大空襲|1987|pp=217-218}}{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|pp=366-367}}。それと前後して[[ギルバート諸島]]と[[マーシャル諸島]]も[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い|失陥]]した{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|pp=164-168|ps=マーシャル諸島を失う}}。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- 著者五十音順 -->
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:* {{smaller|当時「秋月」二代目艦長・海軍中佐}}緒方友兄『二代目艦長が綴る駆逐艦「秋月」の奮戦 {{smaller|被雷損傷修理をおえ新艦長を迎えて前線復帰した後の精鋭艦の航跡}}』
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:* (95-99頁)「直撃弾の大穴」< ― 特説巡洋艦・清澄丸 ― >、(216-222頁)「いつの日にか」< ― 駆逐艦「文月」の捜索 ― >
* <!-- レキシグンゾウ2008-05 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|date=2008-05|chapter=|pages=|title=睦月型駆逐艦 {{smaller|真実の艦艇史4 ― 謎多き艦隊型駆逐艦の実相}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第64巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=978-4-05-605091-2|ref={{SfnRef|歴群64、睦月型|2008}} }}
*Robert Cressman, ''[http://books.google.com/books?vid=ISBN1682471543 The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II]'', Naval Institute Press, 2016, ISBN 9781682471548
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071053200|title=上奏関係書類綴 巻2 昭和18年(防衛省防衛研究所)決裁案 第8方面軍ノ兵力増加要望ニ関スル件|ref=決裁案、第8方面軍兵力増加要望}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120637900|title=昭和18.8.15~昭和18.12.31 太平洋戦争経過概要 その6(防衛省防衛研究所)18年12月16日~18年12月31日|ref=S18.12.16~31経過概要}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120638400|title=昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年1月1日~19年1月15日|ref=S19.01.01~15経過概要}}

== 関連項目 ==
* [[茨城県護国神社]] - 独立混成第一連隊の慰霊碑が建立されている。
* [[カートホイール作戦]]
* [[アドミラルティ諸島の戦い]]

== 外部リンク ==
* [https://ibaraki-gokokujinja.jp/ 茨城県護国神社公式HP]


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[[Category:第二次世界大戦の輸送船団]]
[[Category:太平洋戦争の作戦と戦い]]
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[[Category:1943年12月]]
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戊号輸送(ぼごうゆそう)とは、第二次世界大戦太平洋戦争において、1943年(昭和18年)12月から1944年(昭和19年)1月初旬にかけて日本軍が実施したニューアイルランド島カビエンへの輸送である[1]日本陸軍独立混成第1連隊[2]日本海軍の艦艇が輸送した[3]

概要

1943年中盤、連合国カートホイール作戦を発動し、同年末には日本軍の南東方面のであったビスマルク諸島の攻略を開始した[4]日本陸軍の守備隊を増強するための輸送作戦を戊号輸送と呼称し、日本海軍の艦艇が投入された[3]。ニューアイルランド島に派遣される陸軍部隊は、日本列島を出発後、トラック泊地を経由して1943年(昭和18年)12月末から1944年(昭和19年)1月初旬にかけて、ニューアイルランド島のカビエンに到着した[5]。なお輸送作戦に従事していた戦艦大和12月25日にアメリカ潜水艦スケート (USS Skate, SS-305) の雷撃で小破している[6]

連合国軍はパプアニューギニア制空権を握るためビスマルク諸島の日本軍航空基地に空襲を実施しており[7]、この時はアメリカ海軍空母機動部隊に所属する空母2隻(バンカー・ヒルモンテレー)から艦上機が出撃した[8][注釈 1]。カビエン空襲と同時に、三次にわたる輸送作戦に従事していた日本海軍の巡洋艦駆逐艦を攻撃する[7]。しかし、カビエンの日本海軍基地航空隊は第二航空戦隊から派遣された戦闘機で増強されていた[10]。アメリカ側の攻撃隊は零戦の邀撃や各艦の対空砲火により戦果をあげられず[11]、日本軍による戊号輸送作戦は成功した[12]。なおカビエンに進出した独立混成第一連隊の一部は鼠輸送によってアドミラルティ諸島に派遣され[13]アドミラルティ諸島の戦いで壊滅した[14][15]

作戦背景

オーストラリア信託統治領であったニューギニアビスマルク諸島は、第二次世界大戦太平洋戦争で日本軍の攻略目標となった[16]。1942年(昭和17年)1月、日本海軍の第四艦隊(南洋部隊)がラバウル攻略作戦を発動し、南雲機動部隊の支援下で[17]、ビスマルク諸島(ニューブリテン島ニューアイルランド島)を占領した[18][19]ラバウルソロモン諸島方面進出の拠点、パプアニューギニア方面進出の拠点、オーストラリアへの空襲を支援する拠点になった[20]。その後、南東方面の作戦を担当するため日本海軍の第八艦隊[21]南東方面艦隊[22]、日本陸軍の第8方面軍(司令官今村均陸軍中将)が新編された[23]

1943年(昭和18年)中盤にカートホイール作戦を発動した連合国軍は、まず中部ソロモン諸島方面におけるニュージョージア島諸島攻防戦に勝利し[24]、次にブーゲンビル島上陸した[25]。日本海軍の反撃は、ブーゲンビル島沖海戦およびラバウル空襲同方面航空戦ろ号作戦)で撃退される[26][27]。連合軍はブーゲンビル島の飛行場を整備すると、ここから発進する戦闘機と爆撃機によってラバウルを無力化し、制空権と制海権の両方を握った[28]。だがニューアイルランド島のカビエンはアメリカ陸軍航空軍の戦闘機の航続距離外だったので、爆撃機は護衛なしでの攻撃を余儀なくされる[7]。そこで第3艦隊ハルゼー提督)から空母機動部隊が選抜され、マッカーサー軍に協力してカビエンを攻撃することになった[7]。任務部隊の指揮官は“テッド”シャーマン少将、正規空母バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV-9) 、軽空母モンテレー (USS Monterey, CVL-26) が選ばれた[29][30]

ニューギニア方面の攻防戦では、ダグラス・マッカーサー総司令官の指揮下で南西太平洋方面軍が長距離爆撃機(B-17など)を活用しつつ[31]、日本軍を追い詰めていた[32]。10月にフォン半島フィンシュハーフェン上陸作戦をおこない[33]ダンピール海峡突破も時間の問題となっていた[34]。12月15日にはニューブリテン島西端のグロスター岬に連合国軍先遣隊が上陸し、同月26日には第1海兵師団が上陸した[35][36]グロスター岬攻防戦[37][38]

日本側は、連合国軍の進攻目標についてラバウルと考えていたし、マッカーサー将軍もそのつもりだった[39]。実際に連合国軍がニューブリテン島西部に上陸作戦を開始し、日本軍はビスマルク諸島全域の防備を増強せねばならなくなる[3]カビエン港を擁するニューアイルランド島の防衛も重要であり、守備隊(第十四根拠地隊)に対する兵力増強が要請された[40]小笠原諸島への派遣を予定して[41]栃木県宇都宮の留守第51師団で11月22日に編成を完了した独立混成第一連隊(連隊長坂本康一大佐)が派遣される[42]。その輸送を戊号輸送と呼称する[1]。内地から急速、安全に輸送するため、輸送は海軍艦艇によって行なわれた[5]。この時点で日本側は再建したばかりの第一航空戦隊母艦航空部隊航空戦に投入して大損害を受けており[43][44]航空母艦は内地に戻っている[45]。このため基地航空部隊が上空援護を担当し、第二航空戦隊から零戦を派遣して航空戦力を増強した[10][46]

部隊編成

連合艦隊が下令した輸送部隊の編成は以下の通りであった[47]。参加艦艇は連合艦隊および第二艦隊と第三艦隊から抽出された。各艦の輸送物件は、巡洋艦は人員600名と物件1,500立方メートル、秋月型駆逐艦は人員200名と物件150立方メートル、駆逐艦は人員100名と物件100立方メートル、合計4,200名と物件6,200立方メートルと推定された[48]

カビエン方面には12月1日付で新編された第十四根拠地隊(司令官大田實少将、第83警備隊、第88警備隊など)が配置されていた[52]。ビスマルク諸島に対する連合軍の攻勢に対し、連合艦隊は12月15日から空母瑞鶴所属の零戦全力と第五五二海軍航空隊(トラック所在、艦爆隊)をラバウルに派遣する[53]。だが連日の航空戦により、ラバウルの航空戦力は急速に消耗していった[54]。そこで東南アジア方面よりトラック泊地に移動した第二航空戦隊(司令官城島高次少将)から[注釈 3]、空母飛鷹と軽空母龍鳳艦上戦闘機36機がカビエンに派遣された[10][注釈 4][注釈 5]。 二航戦の零戦部隊(龍鳳飛行長進藤三郎少佐)と[61]、基地航空部隊(南東方面部隊)の零戦が、戊三号輸送部隊の上空援護を担当した[62]。 母艦(龍鳳、飛鷹)と護衛部隊(浜風)は12月27日にトラック泊地を出発[63]、カビエンに飛行機隊を派遣したのち[64][65]、内地へ戻っていった[66]

また輸送部隊のカビエン入港時における掃海・対潜警戒のため[51]南東方面艦隊第十一航空艦隊第八艦隊)から掃海部隊や駆逐艦(皐月、文月)が派遣された[67]。第五空襲部隊も陸上攻撃機を極力動かして、ニューアイルランド島東方海面の索敵を実施した[10]

作戦経過

戊一号輸送部隊(大和、谷風、山雲)は1943年12月20日に横須賀から出発[47][68]。12月25日未明にトラック泊地西方北緯10度05分 東経150度32分 / 北緯10.083度 東経150.533度 / 10.083; 150.533)地点で[69]、アメリカ潜水艦スケート (USS Skate, SS-305) が大和部隊を発見、雷撃をおこなう[70][注釈 6]。 大和の右舷後方(三番主砲付近)に魚雷1本が命中[6]、4度傾斜したので770トンを注水し復元する[72]。大和は26ノットに増速したが、特に異常はなかった[73]。戦死者は大和乗組員や陸軍の将兵ともに皆無で、乗組員達は被雷したことに気付かなかったという[74][注釈 7][注釈 8]。 同日、トラックに到着する[76]。大和に熊野や鈴谷[77]、大淀や能代が接舷[78]し、兵員や車輌や物資の移載が行なわれた[79]。大和を護衛してきた山雲と満潮は、そのまま戊二号輸送部隊と戊三号輸送部隊の護衛部隊に編入される。大和は工作艦明石の世話になって応急修理を実施[80]、戊号輸送終了後の1月中旬に内地へ帰投した[81][注釈 9]

アメリカ軍の方では、シャーマン少将の第37.2任務群(大型空母バンカー・ヒル、軽空母モンテレーフレッチャー級駆逐艦6隻)がエスピリトゥサント島を出撃し[7]、12月25日にカビエンを空襲した[30][注釈 10]。奇襲には成功したが戦果は乏しく[7]、日本軍の輸送船天竜丸が沈没[84]、輸送船清澄丸および第21号掃海艇第22号掃海艇などが損傷した[85]

シャーマン部隊に対し、ハルゼー提督は再びカビエンを空襲するよう命じた[86]。「日本軍の巡洋艦部隊がカビエンに接近中」という情報により、反覆攻撃をおこなう[87]。ただし護衛部隊が駆逐艦6隻だけだったので、ノースカロライナ級戦艦2隻(ワシントンノースカロライナ)と駆逐艦4隻が追加された[7][注釈 11]ウィリス・A・リー少将が指揮する6隻は25日にエスピリサント島を出発、31日に空母2隻や補給艦と合流する[88]。シャーマン部隊の誰もが、自分たちが日本軍の勢力圏に踏み込み過ぎていると感じ、不安になっていたという[88]。リー少将や将兵たちは「我々はイギリス海軍戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) 、巡洋戦艦レパルス (HMS Repulse) と同じ立場だった。マレー沖海戦戦艦2隻と駆逐艦4隻だった。」と回想している[89]

戊三号輸送部隊は第一部隊と第二部隊の二つに分かれていた[12]。第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)は12月26日午後にトラックから出発した[90]。前日にカビエン空襲があったことから一時延期が命じられ引き返し[91]、28日にもどった[92]。第一部隊は12月29日に再度出発し[51]、12月31日にカビエン到着[93]。揚陸完了後、1944年1月1日にトラックへ戻った[94]

第二部隊(能代、大淀、秋月、山雲)は12月末にトラックから出発[95]。1944年1月1日にカビエンへ到着、揚陸を実施する[96][97]。作業完了直後[98]、シャーマン少将の空母機動部隊(バンカー・ヒル、モンテレー)から飛来した艦上機に襲撃された[51]。二航戦派遣隊を含む零戦が米軍攻撃隊(F6F| 40機、SBD 50機、TBF 16機)を邀撃し、24機撃墜を記録して零戦6機を失った[99]。洋上の対空戦闘では能代と山雲が小破、大淀に軽微な被害が生じ[100]、秋月は無傷だった[99][101]。4隻はトラック泊地に引き揚げる[102]。先行してトラックに戻った能代と山雲のうち[103]、能代は工作艦明石の世話になり、応急修理を実施した[104]。日本側は基地航空隊でシャーマン隊を攻撃しようとしたが、捕捉できずに帰投した[99]

その頃、カビエンからトラック泊地にむかっていた特設巡洋艦清澄丸と護衛部隊(夕凪、第22号掃海艇)は、アメリカ潜水艦バラオ (USS Balao, SS-285) に襲撃された。清澄丸が被雷して航行不能になる[105]。帰投中の第二部隊より大淀と秋月が分離し、トラック泊地から来た救難部隊(軽巡那珂[106]、駆逐艦谷風[102])に協力した[51]。清澄丸は那珂(第十四戦隊、伊藤賢三少将)に曳航されて、1月8日トラック泊地に帰投した[107]。明石側は内地帰投を薦めたが、清澄丸側は明石による本格的な修理を希望して、しばらくトラック泊地に残ることになったという[108]

戊二号輸送部隊(妙高、羽黒、利根、藤波、白露)は12月24日に内海西部から出発する[109][注釈 12]。 時雨(二水戦、第27駆逐隊)が漁船と衝突したため、藤波(二水戦、第32駆逐隊)が代艦として護衛部隊に加わっており、12月29日トラック着[110][111]。1944年1月2日発、1月4日カビエンに到着[112]。利根(艦長黛治夫大佐)では迅速に揚陸するため三八式歩兵銃を纏めて梱包したため、陸軍側は抵抗感をもったという[113]。戊二号輸送部隊の揚陸は順調に進み、午前6時頃にトラック泊地への帰途についた[114]

この日、シャーマン部隊(バンカー・ヒル、モンテレー)から艦上機が飛来してカビエンを攻撃する[115]。戊二号輸送部隊はスコールに逃げ込んだので発見されず[113]、米軍攻撃隊はカビエン周辺の艦艇を攻撃した[67][注釈 13]。 対潜警戒のためカビエンで揚陸作業を掩護していた第22駆逐隊(第三水雷戦隊)の駆逐艦2隻(皐月文月)が[117]、カビエンからラバウルに戻る途中で空襲に遭遇した[118][注釈 14]。文月は機銃掃射で死傷者多数を出し、皐月も至近弾や機銃掃射でかなりの被害をうけ[120]飯野忠男艦長戦死など人的被害も甚大であった[121]

空襲を実施したシャーマン部隊も、日本軍の索敵機に幾度か発見されていた[122][注釈 15]。シャーマン部隊は反撃を怖れて退避し、1月7日にエスピリサント島に戻った[115]

その後

シャーマン部隊から戊三号輸送部隊を守り抜いたラバウル航空隊だが、連日の航空戦により急速に消耗していった[124]。二航戦のカビエン派遣隊(零戦36機)は作戦で8機を失い、14機が南東方面に転用され、残りは原隊に復帰した[125]。ところがラバウルの第二十六航空戦隊をトラック泊地に後退させるかわりにラバウル進出を命じられ、二航戦(戦闘機62、艦爆18、艦攻17)は再び南東方面に移動した[126]。トラック空襲後にトラック泊地へ撤退したが、基地要員は輸送船が撃沈されて全員行方不明となった[127]

戊三号輸送部隊に参加した各艦のうち、大和と駆逐艦3隻(朝雲、満潮、藤波)は呉に帰投した[102][128][注釈 16]。大和は23ノットという巡航速力で内地にむかった[75]。途中でアメリカ潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) が大和を狙うが、追いつけなかった。 戊二号輸送部隊の代わりに米軍機動部隊艦上機の攻撃を吸収した第22駆逐隊のうち[51]、文月はトラック泊地で明石により応急修理をうけたあと、ラバウルに進出して最前線の任務に従事した[129]。皐月は機関部に損傷が及んだため本格的修理が必要となり、応急修理をおこなったあと、佐世保に帰投した[130]

1月下旬、独立混成第一連隊の第二大隊(大隊長岩上泰一郎少佐、約750名)は第4駆逐隊(司令磯久研磨大佐[13]:山雲、野分、舞風)などによる鼠輸送によってアドミラルティ諸島マヌス島ロレンガウ)へ送られ、マヌス島とロスネグロス島の守備隊を増強した[131][注釈 17]。その後、1944年2月下旬にマッカーサー軍(第5騎兵師団第7艦隊)が実施した上陸作戦により、同諸島の日本軍守備隊は全滅している[14][15]。 トラック泊地も[133]2月17日18日にアメリカ海軍機動部隊の襲撃で大打撃をうけた[134][135]。この空襲にはバンカー・ヒルも第58任務部隊として参加し[136]、香取船団(軽巡香取、駆逐艦舞風野分、特設巡洋艦赤城丸)を攻撃している[137][138]。他にも軽巡那珂を撃沈した[139]。カビエン空襲を生き延びた特設巡洋艦清澄丸[140]、駆逐艦文月も沈没した[141][142]。それと前後してギルバート諸島マーシャル諸島失陥した[143]

脚注

注釈

  1. ^ 二、戊号輸送と敵機動部隊カビエン空襲[9]
  2. ^ 12月19日付で除かれ、輸送作戦に参加していない[50]
  3. ^ (昭和18年12月11日記事)《南西方面陸攻隊ノ一部東正面ニ転用ニ関シ、応急ノタメ第二航空戦隊ハ西方ニ残シオクヲ可トスル旨中央ノ所見ヲ示セルモ、聯合艦隊ハ予令通リ実施ス》[55]
  4. ^ 二航戦の空母隼鷹は11月上旬に豊後水道で潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) に雷撃され中破、内地で修理中だった[56]
  5. ^ 二航戦(龍鳳、飛鷹)もシンガポールで訓練したあと12月上旬に同地出発[57]インドネシアタラカン[58]パラオを経由して[59]、第21駆逐隊に護衛されて21日トラック泊地着[60]
  6. ^ スケートは12月21日にもタンカー照川丸(駆逐艦天霧護衛)を雷撃して撃沈し、日本側は救援のため救難隊(能代、浜風、電、響)などを派遣している[71]
  7. ^ 大和の当直将校は、艦が若干右舷に傾斜したことに気付いた[75]。さらに護衛の駆逐艦から「貴艦の右舷側に水柱があがった、雷撃のようだ」と注意され、艦内の調査をおこなっている[74]
  8. ^
    ◎「大和」ノ被雷ノ話 日出約一時間前、艦長ハ三回ノ振動音ヲ聴キ、先キニ仝様ノ経験ヨリ潜水艦ノ機雷爆雷カト思ヒシモ、誰レモ魚雷ヲ受ケシトハ知ラザリキ。航海中第二配備ノミデアツタガ、コノ振動音ニヨリ総員配置ニツケシ処、三塔ノ火薬庫員ガ火薬庫ニ入リシニ側壁ヨリ水ガ流レ込ンデヰルヲ発見、之モ魚雷命中トハ思ハザリシモ、防水シ得ズニ上部火薬庫満水セリ。後チニ聴ケバ後部見張員ノ一人ハ右舷後部ニ水柱挙リ火炎ヲ認メシモ、アレゝト云ヒテ報告シ得ズ、隣ノ見張員ガソレニヨリ艦橋ニ報告セリ。約五分ヲ要セリ。即チ第一回音ヨリ八分ナリシト。他ノ二音ハ魚雷ノ自爆音ナルベシ。艦ハソノマヽ航行、26ktヲ出シテ見タガ支障ナシ。入港后検ベタガ未ダヨク判明セザルモ、10×8mノ破口アリ。鋼鈑ハ少シツギ目ガズレテヰル様子ニテ之ガ修理ニ一番手間取ルベシ。アトハ火薬庫ノ防熱鈑ヲ換ヘネバナラヌ。庫主砲方位盤、指揮官観測鏡プリズム偏移シ、方位盤作動重クナル、15m測距儀モ変調セリト。上部ニ振動アリシ様子ナリ。之モスグニ魚雷ヲウケシトワカラヌ処ニオカシサアリ。 — 高松宮日記、第七巻、190-191頁[73](昭和十八年十二月二十七日)
  9. ^ 大和型戦艦の舷側装甲板取り付けに構造的な不備があり、大和では被雷の衝撃でバイタルパートに約3,000トンの浸水があった[82]。内地帰投後、被雷箇所の修理、防御構造の改善、高角砲や対空機銃の増設をおこなっている[6][83]
  10. ^ アメリカ駆逐艦6隻の詳細は、チャレット (USS Charrette, DD-581) 、コナー (USS Conner, DD-582) 、ベル (USS Bell, DD-587) 、ブラッドフォード (USS Bradford, DD-545) 、ブラウン (USS Brown, DD-546) 、コーウェル (USS Cowell, DD-547) 。
  11. ^ 駆逐艦4隻の艦名は、ラングバーンズイザードウィルソンであった。
  12. ^ (七)[110] 十日聯合艦隊電令作第八五七號及機動部隊機密第一〇一七〇〇番電ニ依リ8S(利根)5S、27dg(時雨白露)ハ二十三日迄ニ横須賀ニ回航、陸軍部隊ヲ南東方面ニ輸送ノ豫定ナリシトコロ一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊ノコトトナリ豫定変更十六日聯合艦隊電令作第八六一號ニ依リ5S利根27dg(時雨白露)ヲ以テ戊二號輸送部隊ヲ編制、5S司令官之ヲ指揮シ二十二日呉ニ於テ大海機密第一五一一一番電ノ人員物件ヲ搭載「トラック」経由「カビエン」ニ向ケ二十四日一三〇〇内海西部ヲ出撃二十九日「トラック」着尚利根ハ二十五日附ヲ以テ遊撃部隊ニ編入セラル/(八)昭和十九年一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊セラレ、筑摩及利根ハ第七戰隊ニ編入セラル
  13. ^ (昭和19年1月4日カビエン対空戦闘概要)[116]〔 4|0550|「ヌグリヤ」島(「ブカ」北方)ノE150′ニKdB発見|南東 751fg/25Sf|A×2 B×2 C×3 d×2針路320°速力24kt 〕、〔 4|0710|右KdBヨリf(小)×70「カビエン」ニ来襲(TBF×40 SBD×16 F6F×20) 敵ハ同港出港直後ノ戊二號輸送隊(妙高、羽黒、利根、d×2)ヲ発見シ得ズ 「ステフェン」水道南口ニ来着セル22dg攻撃ヲ集中 輸送隊ノ上空直衛fcハ之ヲ邀撃(2Sf 6AB)|南東 3F派遣隊|「カビエン」戰果 撃墜TBF×1 相当ノ損害SBD×2 被害fc×1不時着 Fc o×1着陸時大破/「ステフェン」水道戰果 撃墜f×11 被害 文月 浸水若干 戰死4 重傷20 皐月 船体機関相当大ナル被害(最大速力24kt)艦長航海長重傷其他死傷多数 〕
  14. ^ 戦史叢書』第62巻、527ページには、駆逐艦3隻(皐月、水無月長月)と記載する。ただし「長月」は1943年7月6日のクラ湾夜戦によりコロンバンガラ島で座礁し、沈没した[119]
  15. ^ (昭和19年1月4日)[123]〔 ○飛行機(四-〇五〇〇)一、空母二ヲ含ム敵大部、「カビエン」ノ87°178′(空母二、戦艦二、巡洋艦駆逐艦五)。○〃(四-一〇二〇)敵戦艦二、巡洋艦二、駆逐艦二見ユ。「ラボール」ヨリ55°200′、Co.0° Sp.18kt。)
  16. ^ 大和は1月10日にトラック出発、1月16日に呉入港、2月より本格的修理と改造工事を実施した[81]
  17. ^ 野分と舞風は国洋丸を護衛してトラックに移動、次に駆逐艦2隻(山雲、秋風)がラバウル~ロレンガウ輸送を実施した[132]

出典

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  • 塩山策一ほか『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』潮書房光人社、2017年7月。ISBN 978-4-7698-1647-8 
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  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第七巻 昭和十八年十月一日〜昭和十九年十二月三十一日』中央公論社。ISBN 4-12-403397-4 
  • 寺崎隆治「第四章 激化する米軍の反攻」『最後の連合艦隊司令長官 勇将小沢治三郎の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、1997年12月(原著1972年)。ISBN 4-7698-2180-8 
  • 中島親孝「第五章 運命の決断〈 聯合艦隊参謀時代(一) 〉」『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社〈光人社NF文庫〉、2008年10月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2175-1 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
  • 当時大淀航海長・海軍中佐内田信雄『艦隊司令部用旗艦大淀の航跡 連合艦隊旗艦としても栄光をになった名艦の生涯を綴る航海長の手記
  • 当時「秋月」二代目艦長・海軍中佐緒方友兄『二代目艦長が綴る駆逐艦「秋月」の奮戦 被雷損傷修理をおえ新艦長を迎えて前線復帰した後の精鋭艦の航跡
  • (写真・文)吉村朝之<水中カメラマン>『トラック大空襲 海底写真に見る連合艦隊泊地の悲劇』光人社、1987年3月。ISBN 4-7698-0337-0 
  • (95-99頁)「直撃弾の大穴」< ― 特説巡洋艦・清澄丸 ― >、(216-222頁)「いつの日にか」< ― 駆逐艦「文月」の捜索 ― >
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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関連項目

外部リンク