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「ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2020年3月}}
{{基礎情報 皇族・貴族
{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = ヨランド・ド・ポラストロン
| 人名 = ガブリエル・ド・ポリニャック
| 各国語表記 = Yolande de Polastron
| 各国語表記 = Gabrielle de Polignac
| 家名・爵位 =
| 家名・爵位 =
| 画像 = Duchess de Polignac.jpg
| 画像 = Gabrielle de Polastron.jpg
| 画像サイズ = 240px
| 画像サイズ = 240px
| 画像説明 = ポリニャック爵夫人 <br>[[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン|ヴィジェ=ルブラン]]画、[[ヴェルサイユ宮殿美術館]]蔵、1782
| 画像説明 = ポリニャック爵夫人<br>[[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン|ヴィジェ=ルブラン]]画、{{仮リンク|ワデスドン・マナー|en|Waddesdon Manor}}蔵、1783
| 在位 =
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| 続柄 =
| 続柄 =
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| 埋葬日 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = ポリニャックジュール{{enlink|Jules, 1st Duke of Polignac|a=on}}
| 配偶者1 = [[ジュール・ド・ポリニャック (1746-1817)|ジュール・ド・ポリニャック]]
| 子女 = アグラエ・ルイーズンソワーズ<br>アルマンド・ジューリー・エラクレス<br>[[ジュール・ド・ポリニャック|ジュール・オーギュスト・アルマンド・マリー]]<br>カミーユ・アンリ・メルオール
| 子女 = [[アグラエ・ポリニャック|アグエ]]<br>[[アルマンド・ポリニャック|アルマン]]<br>[[ジュール・ド・ポリニャック|ジュール]]<br>メルオール
| 家名 = ポラストロン家
| 家名 = {{仮リンク|ポラストロン家|fr|Famille de Polastron}}
| 父親 = ポラストロン伯ジャン・フランソワ・ガブリエル
| 父親 = ジャン・フランソワ・ガブリエル・ド・ポラストロン
| 母親 = ジャンヌ・シャルロット・エロ・ド・ヴォクレソン
| 母親 = ジャンヌ・シャルロット・エロ・ド・ヴォクレソン
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| 役職 =
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| サイン =
| サイン =
}}
}}
'''ポリニャック伯爵夫人'''ことポリニャック伯爵夫人(公爵夫人)およびマンチーニ侯爵夫人'''ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン'''({{lang-fr-short|Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini}}, [[1749年]][[9月8日]] - [[1793年]][[12月9日]])は、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の王妃[[マリー・アントワネット]]の取り巻きである
'''ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン'''({{lang-fr-short|Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini}}, [[1749年]][[9月8日]] - [[1793年]][[12月9日]])は、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の王妃[[マリー・アントワネット]]の寵臣。ポリニャック伯爵夫人、ち公爵夫。[[ブルボン朝]]末期の上流社交界最高の美女の1人と言われ、寵臣として得た富や特権の独占と浪費によって多くの敵を作った<ref>{{cite book|author=Schama, S.|title=Citizens: A Chronicle of the French Revolution|pages= 181–3}}</ref><ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5|pages=121–4}}</ref>


== 生涯 ==
寵臣として様々な恩恵を王家から引き出したことで悪名高い、とされている。奇しくも[[ランバル公妃マリー・ルイーズ]]とは婚姻年及び生年月日が同じである。
=== 出生と結婚 ===
ジャン・フランソワ・ガブリエル・ド・ポラストロン伯爵(1722年 - 1794年)とその最初の妻ジャンヌ・シャルロット・エロー・ド・ヴォークレソン(1726年 - 1756年)<ref>[[フランス革命]]期の[[国民公会]]議長{{仮リンク|マリー=ジャン・エロー・ド・セシェル|en|Marie-Jean Hérault de Séchelles}}とは遠縁のいとこにあたる。</ref>の間の長女として、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]治下のパリで生まれた。貴族の子女は複数の洗礼名を授けられる習いであり、ヨランド・マルティーヌ・ガブリエルと名付けられたが、最も後ろにあるガブリエルで呼ばれた<ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5}} Chapter 15: "The New Society".</ref>。ポラストロン家は由緒ある名家だったが、その高貴な家柄にもかからわず、ガブリエルが誕生したころには借金まみれになっており、暮らしぶりは豪華さとは程遠いものだった<ref>{{cite book|author= Lever, E.|title=Marie-Antoinette: The Last Queen of France|pages= 99–100}}</ref>。


父は南仏[[ラングドック|ラングドック州]]{{仮リンク|ヌエイユ|en|Noueilles}}、{{仮リンク|ヴネルク|en|Venerque}}及び{{仮リンク|グレピアック|en|Grépiac}}の領主だった。ガブリエルが非常に幼い頃、両親はパリでの生活が経済的に苦しくなり、所領のある田舎のヌエイユ城に引っ込んだ。3歳の時に母が亡くなると、父の姉のアンドロー伯爵夫人マリー・アンリエット・ド・ポラストロン(1716年頃 - 1792年)の手許で養育され、相応の年齢になると修道院の寄宿学校に入った。
== 略歴 ==
ポラストロン伯ジャン・フランソワ・ガブリエルとジャンヌ・シャルロット・エロ・ド・ヴォクレッソンとの間に[[パリ]]で生まれる。しかし、彼女が生まれるまでに伝統ある貴族の家系にも関わらず、重い債務や担保でポラストロン伯爵家の家計は傾いており、その生活は豪華絢爛・豪奢とは程遠かった。幼少期に両親共々、現在の[[オート=ガロンヌ県]]の[[トゥールーズ]]南方{{仮リンク|ヌエイユ|fr|Noueilles}}の居城に越した。<!--英語版 Yolande de Polastron 15:59, 26 September 2016‎ TeekeeyMisha より-->


1767年7月7日、17歳の時に[[ジュール・ド・ポリニャック (1746-1817)|ジュール・ド・ポリニャック]]伯爵と結婚する<ref>[http://www.worldroots.com/cgi-bin/gasteldb?@I20938@ Gastel Family Database] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120218212121/http://www.worldroots.com/cgi-bin/gasteldb?@I20938@ |date=2012-02-18 }}</ref>。婚家ポリニャック家は実家ポラストロン家と同様、「毛並み」は良いが経済的には手元不如意であった。夫の主な収入源は所属する{{仮リンク|第1竜騎兵連隊 (フランス)|label=第1竜騎兵連隊|fr|1er régiment de dragons}}から給与として支給される4000リーヴルだった<ref>{{cite book|author=Cronin, V.|title=Louis and Antoinette|page= 133}}</ref>。
[[ファイル:Gabrielle_de_Polastron.jpg|thumb|150px|ポリニャック公爵夫人、ヴィジェ=ルブラン画、1783年]]
[[1767年]]、16歳の時に婚約した[[許婚]]であるポリニャック伯爵ジュール{{enlink|Jules, 1st Duke of Polignac|a=on}}と結婚した。嫁ぎ先の[[ポリニャック|ポリニャック家]]は代々[[ブルボン家|ブルボン王家]]に仕えた家柄で、特に<!--メル「シ」オールから、メル「キ」オールに変更しました。-->メルキオール[[枢機卿]]{{enlink|Melchior de Polignac|a=on}}は[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の代表的な外交官として重用された。しかし、ルイ14世の寵姫の[[モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス|モンテスパン侯爵夫人]]が[[1678年]]に起こした[[黒ミサ]]事件に関与者を出し、またメルキオール自身も[[ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン|メーヌ公爵夫人]]の幼君ルイ15世[[摂政]]の地位に関わる[[クーデター]]計画事件に関与して失脚したため、家運は衰退していた。


=== 外見 ===
[[ファイル:Gabrielle de Polastron Duchess of Polignac.jpg|thumb|150px|同、ヴィジェ=ルブラン画、1787年]]
現存する肖像画の大半が彼女の際立った美しさを伝えている。ある歴史家は、[[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン|E・ヴィジェ=ルブラン]]の手になる肖像画の中のガブリエルについて、「穫れたてのいい香りのする果物みたい」と形容している<ref>{{cite book|author=Schama|title=Citizens|page= 183}}</ref>。ガブリエルは暗めのブルネットの髪、目立って白い肌、そしておそらく非常に珍しいことだが、「ライラック色」とか「スミレ色」と形容された、薄紫色に光る眼を持っていた<ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5|page=124}}</ref>。
家運を回復するというもくろみを持って、機転の利くポリニャック伯爵夫人はマリー・アントワネットに近づいて取り入り、彼女の寵愛を手にした。以降はマリー・アントワネットが愛した[[小トリアノン宮殿|プチ・トリアノン宮殿]]に招かれる王妃の数少ないお気に入りの取り巻きの一人となり、遂に[[ランバル公妃マリー・ルイーズ]]に代わり女官長(ないし女官総監)の地位に就いた。


ガブリエルに関する同時代人の批評をまとめたある現代史家に要約させれば、彼女の物理的な外見は次のようになる。{{quote|「きわめて自然な」印象を与える若々しい美貌…豊かな黒髪、大きな目、通った鼻筋、真珠のように輝くきれいな歯は、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の描く[[聖母マリア|マドンナ]]を思わせた<ref>{{cite book|author=Fraser, Lady Antonia |title=Marie Antoinette: The Journey|page=155}}。訳文は、日本語訳版である[[アントニア・フレイザー]]著、野中邦子訳『マリー・アントワネット(上)』早川書房、2006年、P283を参照。</ref>。}}
ポリニャック伯爵夫人は夫のポリニャック伯爵ジュールともども国王夫妻の友人として権勢をほしいままにし、[[1782年]]にジュールは初代ポリニャック'''公'''爵に陞爵した。ポリニャック家には年金および下賜金として年間50万[[リーヴル]]、後には70万リーヴルもの大金が与えられた。同様に、[[マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス|マリー・テレーズ]]、[[ルイ17世|ルイ=シャルル]]ら国王子女の養育係に就いた。


=== ヴェルサイユ ===
しかし1789年、[[フランス革命]]が起きると、その他の貴族同様に亡命を余儀なくされ、ポリニャック公爵夫人は国王夫妻を真っ先に見捨てた恰好で[[スイス]]を経て[[オーストリア帝国|オーストリア]]に亡命した。しかし、滞在先の[[ウィーン]]で急死した。
[[File:Gabrielle de Polastron Duchess of Polignac.jpg|upright|thumb|ポリニャック夫人を初めて見たマリー・アントワネットの目は「眩んだ」という。]]
宮廷女官となった義妹の[[ディアーヌ・ド・ポリニャック]]の招待を受け、ガブリエルと夫は1775年のある日、[[ヴェルサイユ宮殿]]鏡の間で行われた公的なレセプションに出席した。そこで彼女を初めて紹介された王妃マリー・アントワネットは、ガブリエルのあまりの美しさに衝撃を受けて目が「眩み」<ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5|page=122}}</ref>、ヴェルサイユに永住するよう彼女に懇願した。ヴェルサイユ宮廷で暮らすことは非常に高額な出費を伴ったため、ガブリエルは自分の夫には宮廷に部屋を維持するだけの収入がないと正直に答えた<ref>{{cite book|author=Cronin|title=Louis and Antoinette|page= 132}}</ref>。新しいお気に入りを自分のそば近くに置いておきたい王妃は、すぐさまポリニャック一族の抱える借金を清算してやり、ガブリエルの夫に実入りのよい官職(王妃主馬頭の襲職権保有者)を与えた。


ガブリエルは王妃のアパルトマンの近くの快適な部屋を与えられた。彼女はさらに王妃と仲の良い王弟[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯爵]]と友人になったし、他ならぬ国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]が、有力門閥間の権力闘争とは無縁の新しい妻の友人の出現に安心し、王妃がガブリエルと友情を育むことに賛成してくれた<ref>{{cite book|author= Hardman, J.|title=Louis XVI: The Silent King}}</ref><ref>{{cite book|author=Fraser, Lady Antonia |title=Marie Antoinette: The Journey|pages= 155–6}}</ref>。しかしガブリエルの登場は、国王夫妻の他の側近たちからは反感を持たれた。特に王妃の聴罪司祭{{仮リンク|マチュー=ジャック・ド・ヴェルモン|fr|Mathieu-Jacques de Vermond|label=ヴェルモン}}神父、及び王妃と実家との連絡役を務める駐仏オーストリア大使[[フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャントー|メルシー]]伯爵は強い敵意を抱き、メルシーは王妃の母親[[マリア・テレジア]]皇后に宛てた手紙に、「こんな短い期間にこんな巨額の金がただ一つの家族にあたえられたためしはありません」と書き送った<ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5|page=121}}訳文は、日本語訳版であるシュテファン・ツヴァイク著、関楠生訳『マリー・アントワネット(上)』河出書房新社、1989年、P182を参照。</ref>。
伯爵[[オノーレ・ミラボー]]はマリー・アントワネットのポリニャック家への偏愛を苦々しく思い、こんな言葉を皮肉として残している。「ダサス家 (アサス家、[[:fr:Famille d'Assas|fr]]) の家族には国家を救った手柄により1000[[エキュ]]、ポリニャック家には国家を滅ぼした手柄によって100万エキュ!!」


カリスマと圧倒的な美貌をそなえたガブリエルは、瞬く間に王妃のごく内輪の取り巻きサークル「プチ・キャビネ(petit cabinets)」の最有力者となり、彼女の同意がなければ「プチ・キャビネ」の仲間入りをすることはほぼ不可能となった<ref>{{cite book|author=Foreman|title=Georgiana|pages= 166–7}}</ref><ref>{{cite book|author=Mossiker|title=The Queen's Necklace|pages=132–3}}</ref>。ガブリエルは多くの友人たちから、洗練されており、立ち居振る舞いが優雅で、愛嬌があって、楽しませてくれる人、という評判を得ていた<ref>{{cite book|author=Cronin|title=Louis and Antoinette|pages= 149–150}}</ref>。
== 子女・系譜 ==
{{see also|ポリニャック}}
*長女 - アグラエ・ルイーズ・フランソワーズ ([[:fr:Aglaé de Polignac|fr]], 1768年 - 1803年) - 1780年、12歳で[[ヴェルサイユ宮殿|ヴェルサイユ]]でグラモン・ゲメネ公爵(もしくはギーシュ公爵)と結婚。
*長男 - アルマンド・ジュール・マリー・エラクレス (1771年 - 1847年) - 第2代ポリニャック公爵。
*次男 - [[ジュール・ド・ポリニャック|ジュール・オーギュスト・アルマンド・マリー]] (1780年 - 1847年) - [[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]時代の[[フランス復古王政|フランス王国]]首相。中道的なマルティニャックに代わって首相就任後、徹底的な反動政策で民衆の恨みを買い、[[フランス7月革命]]の一因になったとされている。
** {{仮リンク|エドモン・ド・ポリニャック|fr|Edmond de Polignac}}(1834年 - 1901年) - ジュールの子。作曲家。妻は[[ウィナレッタ・シンガー]]。パッシー(現在の[[16区 (パリ)|パリ16区]])トロカデロ界隈の{{仮リンク|ジョルジュ=マンデル大通り|fr|Avenue Georges-Mandel}}43番地に居住。後年、同地から裏手{{仮リンク|シェフェール通り|fr|Rue Scheffer}}46番地界隈まで、1943年妻シンガーが亡くなってのち、[[メセナ]]を行う[[公施設法人]]のシンガー・ポリニャック財団 ([[:fr:Fondation Singer-Polignac|Fondation Singer-Polignac]]) になり現在まで活動を行っている。
*三男 - カミーユ・アンリ・メルキオール (1781年 - 1855年) - ポリニャック伯爵。
** 子孫の[[ピエール・ド・ポリニャック|ピエール]]は、[[モナコ統治者の一覧|モナコ公]] [[ルイ2世 (モナコ公)|ルイ2世]]の長女[[シャルロット・ド・モナコ|シャルロット]]と結婚し[[レーニエ3世]]をもうけた。ポリニャック家は現在のモナコ公家の男系先祖となっている。
** 子孫のジャンは、 [[ランバン|LANVIN]]創業者[[ジャンヌ・ランバン]]とピエトロ伯エミリオとの子マリー=ブランシュ(1897年 - 1958年)と結婚した<!--https://gw.geneanet.org/connexion/?from=view_limit_redirect&url=http%3A%2F%2Fgw.geneanet.org%2Fgarric%3Flang%3Dfr%26p%3Dmarguerite%26n%3Ddi%2Bpietroで夫ジャンの系譜を辿るとヨランドの三男メルキオールに行く。また、フランス語版 :fr:Maison de Chalencon も参照-->。


王妃の恐ろしいほどの気前のよさのおかげで、ポリニャック家の一族は例外なく美味しい思いをした。しかしこの依怙贔屓をかさに着た一族の富貴と贅沢、そして宮廷を牛耳るかのような傲慢さは、多くの貴族家門の怨嗟の的となる。さらにポリニャック家に対する王妃の寵愛は、一部の平民(特にパリ市民)や自由主義を信奉する貴族たちが王妃を憎悪し、誹謗中傷を始める原因の一つとなった<ref name="Road">{{cite book |title=The Road from Versailles: Louis XVI, Marie Antoinette, and the Fall of the French Monarchy |last=Price |first=Munro |authorlink= |year=2003 |publisher=Macmillan |isbn=0-312-26879-3 |pages=14–15, 72 |url=https://books.google.com/books?id=u7GTMH8lFA8C&pg=PA169&dq=%22marquise+de+tourzel%22+varennes }}</ref>。
*義姉 - ポラストロン伯爵夫人ルイーズ ([[:fr:Louise d'Esparbès de Lussan|fr]], 1764年 - 1804年) - 王妃マリー・アントワネット付き女官。1780年にポリニャック公爵夫人の異父兄ドニ・アドマール・ド・ポラストロン子爵(のちすぐに伯爵、[[:fr:Denis Gabriel Adhémar de Polastron|fr]])と結婚したが、ヴェルサイユの中庭でルイ16世の弟アルトワ伯爵(のちの[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]])に見そめられて愛人に。1804年にルイーズが39歳で亡くなった時にはアルトワ伯爵は深く哀しみ、以降カトリックの教義に専念した。


[[File:Yolande Gabrielle Martine (1749-93), duchesse de Polignac (verso schets van een staande vrouw met sluier), SK-A-3898.jpg|thumb|left|180px|ポリニャック公爵夫人、ヴィジェ=ルブラン画、[[アムステルダム国立美術館]]蔵]]
== その他 ==
1780年はガブリエルとポリニャック家に恩恵が降り注ぐ年となった。腹違いの弟妹に有利な条件の結婚をさせたうえ、7月11日に12歳の長女[[アグラエ・ド・ポリニャック|アグラエ]]を国内でも指折りの大貴族の1人グラモン公爵の後継者[[アントワーヌ=ルイ=マリー・ド・グラモン|ギーシュ公爵]]に嫁がせた。この幼い花嫁のために国王が下賜した婚資が80万リーヴルの巨額であったこと<ref>ジャン=クリスチャン・プティフィス著、[[小倉孝誠]]監修『ルイ十六世(上)』中央公論新社、2008年、P344。</ref>、そして花婿に国王が下賜した地所に70万ドゥカート相当の価値があったことで、宮廷に衝撃が走った。さらに5月14日に次男[[ジュール・ド・ポリニャック|ジュール]]を無事出産したことに対する王室からの祝いとして、9月20日に夫がポリニャック公爵に昇叙された<ref>アンドレ・カストロ著、村上光彦訳『マリ=アントワネット(1)』みすず書房、1972年、P172。</ref>。ガブリエルが「公爵夫人」と呼ばれるようになったことは、宮廷人たちのさらなる苛立ちを招いた。
* 漫画『[[ベルサイユのばら#貴族たち|ベルサイユのばら]]』にフルネーム「ポリニャック伯夫人(マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポリニャック)」として登場し、TVアニメ版では少女時代の名は「マルティーヌ・ガブリエル」、結婚後にファーストネームを「シャロン」に変えた人物として登場するキャラクターのモデルである。
* TVアニメ『[[ラ・セーヌの星]]』では、名前だけで登場する人物のモデルである。


1780年代後半までに、王妃とガブリエルが[[レズビアン]]の恋人関係にあり、[[貝合わせ (性技)|トリバディズム]]などの性交渉をしているという内容を含んだ、何千もの[[ポルノグラフィ|ポルノ]]色の強い中傷パンフレットが出回った。2人が同性愛関係にあるという非難には何の証拠もなかったが<ref>{{cite book|author=Fraser|title=Marie Antoinette|page= 131}}</ref><ref>{{cite book|author=Cronin, V.|title=Louis and Antoinette|pages=138–9}}</ref><ref>{{cite book|author=Mossiker|title=The Queen's Necklace|page=167}}</ref>、性的な中傷の数々は絶対王政の権威に測り知れないほどの深刻なダメージを与え、特にブルジョワ階層と都市部の労働者階級に2人の同性愛が事実だと思い込ませた<ref>{{cite book|author=Hunt, Lynn|title=Eroticism and the Body Politic|publisher=Johns Hopkins University Press|date= 1991}}</ref>。
== 関連項目 ==

一部の歴史家は、例えばガブリエルが14年の宮廷生活の間に蕩尽した金額は、ルイ15世の愛妾[[ポンパドゥール夫人]]のそれとほぼ同額である、といった彼女の濫費に関する記録は、大げさに誇張されたものだとしている<ref>{{cite book|author=Cronin, V.|title=Louis and Antoinette|page= 139}}</ref>。他の大半の歴史家は、性的に乱脈だったとする中傷は事実ではなかったものの、その他の点で悪評を買ったことについては、彼女に非があると主張している。彼女は冷淡で、自己中心的で、自分に甘く、優しげな声色と欠点のない振る舞いの裏側に、噂や陰謀を好む性格を隠していた、というのである。こうした論調のポリニャック評の中で最も影響力があったのは、[[シュテファン・ツヴァイク]]の(王妃に関する)伝記である。<blockquote>[[マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ|マントノン]]やポンパドゥールでさえ、天使のような伏し目のお気に入り、つつましやかでおとなしいポリニャックほど金を使わせはしなかったのである。[ポリニャック家への寵愛という]この渦に巻き込まれなかった人々は、呆然とたちつくすのみ…[王妃の]手をまた見えないところであやつっているのが、すみれ色の目をした女、美しい、もの静かなポリニャック夫人なのだった<ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5|pages=122 and 124}}。訳文は、日本語訳版であるS・ツヴァイク著、関楠生訳『マリー・アントワネット』河出書房新社、1989年、P182-183を参照。</ref>。</blockquote>

=== ポリニャック一族 ===
ガブリエルは夫との間に4人の子を生んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20120218212121/http://www.worldroots.com/cgi-bin/gasteldb?@I20938@ Gastel Family Database]</ref>。
*[[アグラエ・ド・ポリニャック|'''アグラエ'''・ルイーズ・フランソワーズ・ガブリエル・ド・ポリニャック]](1768年 - 1803年) - 愛称「ギシェット(Guichette)」、1780年ギーシュ公爵[[アントワーヌ=ルイ=マリー・ド・グラモン]]と結婚。
*[[アルマン・ド・ポリニャック|'''アルマン'''・ジュール・マリー・エラクリュス・ド・ポリニャック]](1771年 - 1847年) - 第2代ポリニャック公爵、王政復古期の王室主馬頭。
*[[ジュール・ド・ポリニャック|'''ジュール'''・オーギュスト・アルマン・マリー・ド・ポリニャック]](1780年 - 1847年) - 第3代ポリニャック公爵、王政復古期のフランス首相、現在のポリニャック公爵の先祖。
*カミーユ・アンリ・'''メルシオール'''・ド・ポリニャック(1781年 - 1855年) - 伯爵、王政復古期の[[フォンテーヌブロー宮殿]]総監、モナコ公[[アルベール2世 (モナコ公)|アルベール2世]]の先祖。

ガブリエルが王妃の寵愛を得て以降、夫ジュールの大叔父にあたる{{仮リンク|メルシオール・ド・ポリニャック|en|Melchior de Polignac}}枢機卿の失脚後長く権力から遠ざかっていた{{仮リンク|ポリニャック家|en|Polignac family}}は、再び宮廷で重きをなすことができた。

一方、実家の{{仮リンク|ポラストロン家|fr|Famille de Polastron}}とその親類縁者も、ガブリエルのおかげで宮廷で華やぐことになった。父のポラストロン伯爵(後に恐怖政治下でギロチンの犠牲となる)はベルン駐在大使に取り立てられた<ref>プティフィス、P345。</ref>。腹違いの弟妹も次々に条件の良い結婚をした。
*{{仮リンク|ドニ・ド・ポラストロン|fr|Denis Gabriel Adhémar de Polastron|label='''ドニ'''・ガブリエル・アデマール・ド・ポラストロン}}(1758年 - 1821年) - ポラストロン子爵。1780年、女子相続人[[ルイーズ・デスパルベス・ド・リュサン]]と結婚。妻は王弟アルトワ伯爵の愛妾となった。
*マルティーヌ・'''アデライード'''・ド・ポラストロン(1760年 - 1795年) - 1780年、[[ヴィルヘルム・フォン・ツヴァイブリュッケン|ギヨーム・ド・ドゥ=ポン]]子爵と結婚。ドゥ=ポンはフランスの盟邦[[プファルツ=ツヴァイブリュッケン]]の公爵[[カール3世アウグスト・クリスティアン (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公)|カール・アウグスト]]の従弟。
*'''アンリエット'''・ナタリー・ド・ポラストロン(生没年不詳) - ベルナール・ド・ラ・トゥール・ド・ランドルトと結婚。

ガブリエルの母親代わりだった伯母アンドロー伯爵夫人マリー・アンリエットは、若い頃に[[マリー・アデライード・ド・フランス|マダム・アデライード]]の養育係女官をしていたが、当時14歳の王女にポルノ小説を読ませたことを王女の兄[[ルイ・フェルディナン (フランス王太子)|ドーファン]]に見とがめられて宮中を追われた過去があった<ref>J・ハスリップ著、櫻井郁恵訳『マリー・アントワネット』近代文芸社、P161。</ref>。ガブリエルは伯母を宮廷に呼び戻し、伯母が政府から年額6000リーヴルの年金を受け取れるよう取り計らった<ref>[[エドガール・フォール|E・フォール]]著、渡辺恭彦『チュルゴーの失脚(下)』法政大学出版局、2007年、P810年</ref>。アンドロー伯爵夫人の娘と息子、義理の娘も宮廷に迎えられ、王妃の取り巻きに名を連ねた。
*{{仮リンク|フレデリック・アントワーヌ・マルク・ダンドロー|fr|Frédéric-Antoine-Marc d'Andlau}}(1736年 - 1820年) - アンドロー伯爵。妻のジュヌヴィエーヴ・アデライード(1754年 - 1817年)は啓蒙思想家[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス|エルヴェシウス]]の娘。ケルン駐在公使<ref>プティフィス、P345。</ref>、ブリュッセル駐在大使の職を得た。
*{{仮リンク|ジャンヌ・フランソワーズ・アグラエ・ダンドロー|fr|Jeanne Françoise Aglaé d'Andlau}}(1746年 - 1825年) - シャロン伯爵夫人。美貌の持ち主で、王妃の取り巻きの1人{{仮リンク|フランソワ・アンリ・ド・フランケトー・ド・コワニー|en|François-Henri de Franquetot de Coigny|label=コワニー公爵}}に言い寄られ<ref>カストロ、P172。</ref>、夫の死後の1795年にコワニーと再婚する。

[[オノーレ・ミラボー]]は王妃のポリニャック一族への偏愛に対する皮肉として、次のような警句を放った。{{quote|{{仮リンク|ニコラ=ルイ・ダサス|en|Nicolas-Louis d'Assas|label=ダサス}} の家族には国を救った手柄により1000[[エキュ]]、ポリニャックの家族には国を滅ぼした手柄により100万エキュ!}}

=== 王家のガヴァネス ===
[[Image:Duchess de Polignac.jpg|left|thumb|ポリニャック公爵夫人、王家のガヴァネスに就任した1782年の肖像、ヴィジェ=ルブラン画、[[ヴェルサイユ宮殿美術館]]蔵]]
1782年、王家のガヴァネス(王家養育係主任女官)だった[[ヴィクトワール・ド・ロアン|ゲメネ夫人]]が、投資詐欺に巻き込まれた夫の破産スキャンダルのために辞職した。王妃はゲメネ夫人の後任にガブリエルを任命した。この人事は、(次代の王を育てる)その役職の重要さを考えるとポリニャック家のような平凡な家柄の者が務めるのは分不相応だ、ということで、またもや宮廷人の反感を買った<ref>{{cite book|author=Fraser|title=Marie Antoinette|page= 239}}</ref>。

新たに得た地位に付帯する特権により、ガブリエルはヴェルサイユ宮殿内に13の部屋から成るアパルトマンを与えられた。この特権自体は宮廷儀礼の範疇に収まる措置であったものの、13という部屋数の多さは常に人口過密のヴェルサイユ宮殿にあっては前例のないことだった。王家のガヴァネスに割り当てられるアパルトマンの部屋数は通常4部屋から5部屋ほどであった。ガブリエルはまた、1780年代に[[小トリアノン宮殿]]の敷地内に造営された王妃の田園風の隠遁所「[[ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ|王妃の村里]]」の中にコテージを与えられた。

ガブリエルの結婚生活は因習的な貴族同士の結婚であり、夫と心が通うこともなく、家庭は幸福とは言えなかった。長年、夫の遠縁で近衛部隊所属の陸軍大尉だった{{仮リンク|ジョゼフ・イアサント・フランソワ=ド=ポール・ド・リゴー|en|Joseph Hyacinthe François de Paule de Rigaud, Comte de Vaudreuil|label=ヴォドゥロイユ伯爵}}と愛人関係にあると見られていた。一方で、ガブリエルが仲間入りした世界では、ヴォドゥロイユは暴力的すぎ、礼儀をわきまえなさすぎるため、2人の交際は相応しくないと周囲からは思われていた<ref name="Campan">{{cite book |title=Memoirs of the Private Life of Marie Antoinette: To which are Added Personal Recollections Illustrative of the Reigns of Louis XIV, Louis XV, and Louis XVI|last=Campan |first=Jeanne-Louise-Henriette |authorlink= |author2=Jean François Barrière |year=1823 |publisher=H. Young and Sons |location=University of Michigan |isbn=1-933698-00-4 |pages=195–196, 185–191 |url=https://books.google.com/books?id=V8JnAAAAMAAJ&q=The+Private+Life+of+Marie-Antoinette:+A+confidante+account&dq=The+Private+Life+of+Marie-Antoinette:+A+confidante+account&pgis=1 }}</ref>。ガブリエルがヴェルサイユ宮廷に来てから産んだ下の息子たちは、実父はヴォドゥロイユだと噂されていた。しかし、ガブリエルとヴォドゥロイユとの間の関係がどのような類のものだったかについては一部の歴史家の間で議論になっており<ref>John Hardman, ''Marie-Antoinette: The Making of a French Queen'' (New Haven: Yale University Press, 2019), pp. 83-88, は、ヴォドゥロイユをガブリエルと肉体関係を持っていたと判断している。一方、Vincent Cronin, ''Louis and Antoinette'' (London: Collins, 1973), pp. 220-221, 316, は、2人の関係は肉体関係に発展しないプラトニックなものだったと考えている。</ref>、2人の関係に性交渉が介在したかについて疑問が呈されている。このプラトニック説は近年、カトリックの歴史作家{{仮リンク|エレナ・マリア・ヴィダル|en|Elena Maria Vidal}}によって復活した<ref>{{cite web|website=Tea At Trianon|url=http://teaattrianon.blogspot.com/2007/12/madame-de-polignac-and-politics-of.html|title=Madame de Polignac and Politics|accessdate=2020-10-17}}</ref>。恋人同士と言われ続けていたにもかかわらず、人を巧みに操るヴォドゥロイユを王妃が毛嫌いし、ヴォドゥロイユの存在が自分の得た地位を脅かす恐れが生じると、ガブリエルは何のためらいもなく彼を見捨てたからである。

ヴォドゥロイユとガブリエルの間で交わされた手紙は現在のところ発見されていないが、それは2人の関係が絶えたころにはお互いをもう必要としなくなっていたためなのか、それとも政治的配慮から2人のやりとりを隠して行っていたためなのかは、判然としない。もし手紙が交わされていたとしても、それは一方、あるいは両方、あるいは第三者が、用心のために破棄してしまったからだと考えられる<ref>Cronin, ''Louis and Antoinette'', p. 394</ref>。

次男の[[ルイ17世|ノルマンディー公爵]]を出産した1785年頃から、ヴォドゥロイユが無礼で苛立たしい人物だと気づいた王妃は彼に対する嫌悪感を募らせ、それにつれてガブリエルの王妃に対する影響力は衰えていった<ref>カンパン夫人によれば、ヴォドゥロイユがガブリエルのアパルトマンで王妃が与えた象牙製のビリヤードのキューをふざけて叩き壊して以降、彼に対して感じよく振舞おうとする努力を完全に放棄したという。王妃は、自分の取り巻きたちが自分の軽蔑するある政治家に地位をあたえようとした際、彼らの野心に辟易するようになったという。{{cite book|author= Madame Campan|title=The Private Life of Marie Antoinette: A Confidante's Account}} Chapter XII.p. 195-6.</ref>。王妃の侍女頭[[アンリエット・カンパン|カンパン夫人]]によれば、王妃はポリニャック一族に対して自分が感じる「強い不満感にお苦しみあそばされた」。カンパン夫人は述べている、「王后陛下は、『君主が自分の宮廷で寵臣をつくるということは、君主自身に対抗するもう一人の専制君主をつくるということなのね』と私に仰せになった<ref name="Campan"/>」。

王妃に煙たがられていると感じたガブリエルは、イングランドの友人たち、特に親友の1人でロンドン上流社交界の指導者的存在だった[[ジョージアナ・キャヴェンディッシュ (デヴォンシャー公爵夫人)|デヴォンシャー公爵夫人]]を訪ねにイングランドへ旅立った<ref>{{cite book|author=Foreman, A. |title=Georgiana: Duchess of Devonshire|page= 195}}</ref>。同国滞在中、ガブリエルはひ弱な体質のために「ちっちゃなポー(Little Po)」という呼び名で知られた。

=== 革命 ===
[[File:Pamphlet - Adieux de Madame la Duchesse de Polignac - 1789 - Text.jpg|thumb|right|ポリニャック夫人に対する中傷パンフレット『フランス人民からポリニャック公爵夫人に告げる別れの言葉』は、1789年に夫人がスイスに亡命した後に出版された。]]
1789年初夏に[[三部会]]から自由主義派の[[憲法制定国民議会]]が分離して[[フランス革命]]が勃発すると、王妃とポリニャック夫人の結合は再び強まったかに見えた。ガブリエルはヴェルサイユ宮廷内の超王党派として活動し、王弟アルトワ伯爵と共に同派の中心人物となった<ref name="Road"/><ref name="Bombelles">{{cite book |title=Journal: marquis de Bombelles |last=Bombelles |first=Marc Marie |authorlink= |author2=Grassion, Jean |author3=Durif, Frans |year=1977 |publisher=Droz |location=Genève |isbn=2-600-00677-X |url= |page=297 }}</ref>。{{仮リンク|マルク=マリー・ド・ボンベル|en|Marc Marie, Marquis de Bombelles|label=ボンベル}}侯爵は、ガブリエルがたゆむことなく反革命の活動に専心していたと証言している。彼女はボンベルの政治上の師[[ルイ・オーギュスト・ル・トノリエ・ド・ブルトゥイユ|ブルトゥイユ]]男爵及びアルトワ伯と一緒になって、革命派に人気のある財務総監[[ジャック・ネッケル]]を罷免するよう国王を説得すべきだ、と王妃を掻き口説いた。しかし彼らの努力が実らぬうちに、7月14日パリで[[バスティーユ襲撃]]事件が起きてネッケルは引責辞任した。

バスティーユ襲撃後、暴徒化したパリ民衆はポリニャック一族の殺害を声高に求めるようになった。ガブリエルはヴェルサイユに留まることを望んだが王妃の説得を受けて7月16日の夜、家族でヴェルサイユを離れた<ref>ハスリップ、P360。</ref>。馬車に乗る際に受け取った王妃からの言付には、当座の生活費代わりの500ルイ金貨とともに、次のような手紙があった。{{quote|さようなら、たいせつなお友だち。おそろしい言葉ですけれど、どうしてもそう書かないわけにはいかないのです。馬をつける命令はもう出してあります。私にはもう、あなたを抱きしめる力しか残ってはいません<ref>ツヴァイク、P326。</ref><ref>ハスリップ、P361。</ref>。}}

召使に変装したガブリエルは逃避行中、[[サンス]]で御者に正体を見破られるなど危険な目にもあったが<ref>ハスリップ、P360。</ref>、何とか無事にスイスに到着した。その後、彼女は家族と共に放浪生活に入り、トリノ、ローマ、ヴェネツィア(この地で彼女は長男をバタヴィア帰りの成金の娘と結婚させた)を経由してウィーンに落ち着いた。1791年6月の[[ヴァレンヌ事件]]の際には[[南ネーデルラント|低地地方]]の国境地帯で国王一家の到着を待っていたと言われる。1791年7月には、[[コブレンツ]]のエミグレ亡命宮廷に姿を現し、並み居る貴婦人の中で最も華やかな装いをしていたと記録されている<ref name="Langlade, Émile">Langlade, Émile. Rose Bertin: Creator of Fashion at the Court of Marie Antoinette (London: John Long, 1913).</ref>。1792年の[[ヴァルミーの戦い]]後にこの亡命宮廷が解散すると、再びウィーンに戻った。

ガブリエルはスイス滞在時すでに病気になっており、その後数年間ほぼ間違いなく病と闘っていた。1793年12月、ガブリエルは44歳の若さで世を去った。遺族は突然の心臓発作で亡くなったと発表した。大半の歴史家は死因は[[癌]]だったとしているが、王党派の歴史家だけは死因は[[結核]]だったとする傾向がある。

== フィクション ==
=== 文芸作品 ===
*[[池田理代子]]の漫画・アニメーション『[[ベルサイユのばら#貴族たち|ベルサイユのばら]]』(1972年 - 1973年)の主要な登場人物の1人である。
*{{仮リンク|シャンタル・トマ|fr|Chantal Thomas}}作の小説『{{仮リンク|王妃に別れをつげて|fr|Les Adieux à la reine}}』(2002年)の主要な登場人物の1人である。
*[[ジャン=フランソワ・パロ]]作のミステリー小説「[[王立警察 ニコラ・ル・フロック]]」シリーズに登場する。

=== 映画 ===
*[[マルセル・レルビエ]]監督の映画『{{仮リンク|マリー・アントワネットの首飾り (1946年の映画)|label=マリー・アントワネットの首飾り|en|The Queen's Necklace (1946 film)}}』(1946年)では、{{仮リンク|エレーヌ・ベランジェ|fr|Hélène Bellanger}}が演じた。
*{{仮リンク|ジャン・ドラノワ|en|Jean Delannoy}}監督の映画『{{仮リンク|マリー・アントワネット (1955年の映画)|label=マリー・アントワネット|en|Marie Antoinette Queen of France}}』(1955年)では、{{仮リンク|マリーナ・ベルティ|en|Marina Berti}}が演じた。
*[[ジャック・ドゥミ]]監督の映画『{{仮リンク|ベルサイユのばら (映画)|label=ベルサイユのばら|en|Lady Oscar (film)}}』(1978年)では、{{仮リンク|スー・ロイド|en|Sue Lloyd}}が演じた。
*[[ロベール・アンリコ]]及び[[リチャード・T・ヘフロン]]監督の映画『{{仮リンク|フランス革命 (映画)|label=フランス革命|en|La Révolution française (film)}}』(1989年)では、[[クラウディア・カルディナーレ]]が演じた。
*[[ソフィア・コッポラ]]監督の映画『[[マリー・アントワネット (映画)|マリー・アントワネット]]』(2006年)では、[[ローズ・バーン]]が演じた。
*[[ブノワ・ジャコ]]監督の映画『[[マリー・アントワネットに別れをつげて]]』では、[[ヴィルジニー・ルドワイヤン]]が演じた。

==関連項目==
*[[ポリニャック]]

==引用・脚注==
{{Reflist|2}}

== 外部リンク ==
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* マルル館 ([[:fr:Hôtel de Marle|Hôtel de Marle]]) - ポリニャック公爵夫人が居住した館。現在の[[3区 (パリ)|パリ3区]]にあたる[[ル・マレ|マレ地区]]ペイエンヌ通り ([[:fr:Rue Payenne|Rue Payenne]]) 11番地にある。<!--当通りフランス語版参照-->


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2020年10月31日 (土) 03:35時点における版

ガブリエル・ド・ポリニャック
Gabrielle de Polignac
ポリニャック公爵夫人
ヴィジェ=ルブラン画、ワデスドン・マナー英語版蔵、1783年

称号 ポリニャック公爵夫人
出生 (1749-09-08) 1749年9月8日
フランス王国パリ
死去 (1793-12-09) 1793年12月9日(44歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーン
配偶者 ジュール・ド・ポリニャック
子女 アグラエ
アルマン
ジュール
メルシオール
家名 ポラストロン家フランス語版
父親 ジャン・フランソワ・ガブリエル・ド・ポラストロン
母親 ジャンヌ・シャルロット・エロー・ド・ヴォークレソン
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ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン: Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini, 1749年9月8日 - 1793年12月9日)は、フランスルイ16世の王妃マリー・アントワネットの寵臣。ポリニャック伯爵夫人、のち公爵夫人。ブルボン朝末期の上流社交界最高の美女の1人と言われ、寵臣として得た富や特権の独占と浪費によって多くの敵を作った[1][2]

生涯

出生と結婚

ジャン・フランソワ・ガブリエル・ド・ポラストロン伯爵(1722年 - 1794年)とその最初の妻ジャンヌ・シャルロット・エロー・ド・ヴォークレソン(1726年 - 1756年)[3]の間の長女として、ルイ15世治下のパリで生まれた。貴族の子女は複数の洗礼名を授けられる習いであり、ヨランド・マルティーヌ・ガブリエルと名付けられたが、最も後ろにあるガブリエルで呼ばれた[4]。ポラストロン家は由緒ある名家だったが、その高貴な家柄にもかからわず、ガブリエルが誕生したころには借金まみれになっており、暮らしぶりは豪華さとは程遠いものだった[5]

父は南仏ラングドック州ヌエイユ英語版ヴネルク英語版及びグレピアック英語版の領主だった。ガブリエルが非常に幼い頃、両親はパリでの生活が経済的に苦しくなり、所領のある田舎のヌエイユ城に引っ込んだ。3歳の時に母が亡くなると、父の姉のアンドロー伯爵夫人マリー・アンリエット・ド・ポラストロン(1716年頃 - 1792年)の手許で養育され、相応の年齢になると修道院の寄宿学校に入った。

1767年7月7日、17歳の時にジュール・ド・ポリニャック伯爵と結婚する[6]。婚家ポリニャック家は実家ポラストロン家と同様、「毛並み」は良いが経済的には手元不如意であった。夫の主な収入源は所属する第1竜騎兵連隊フランス語版から給与として支給される4000リーヴルだった[7]

外見

現存する肖像画の大半が彼女の際立った美しさを伝えている。ある歴史家は、E・ヴィジェ=ルブランの手になる肖像画の中のガブリエルについて、「穫れたてのいい香りのする果物みたい」と形容している[8]。ガブリエルは暗めのブルネットの髪、目立って白い肌、そしておそらく非常に珍しいことだが、「ライラック色」とか「スミレ色」と形容された、薄紫色に光る眼を持っていた[9]

ガブリエルに関する同時代人の批評をまとめたある現代史家に要約させれば、彼女の物理的な外見は次のようになる。

「きわめて自然な」印象を与える若々しい美貌…豊かな黒髪、大きな目、通った鼻筋、真珠のように輝くきれいな歯は、ラファエロの描くマドンナを思わせた[10]

ヴェルサイユ

ポリニャック夫人を初めて見たマリー・アントワネットの目は「眩んだ」という。

宮廷女官となった義妹のディアーヌ・ド・ポリニャックの招待を受け、ガブリエルと夫は1775年のある日、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われた公的なレセプションに出席した。そこで彼女を初めて紹介された王妃マリー・アントワネットは、ガブリエルのあまりの美しさに衝撃を受けて目が「眩み」[11]、ヴェルサイユに永住するよう彼女に懇願した。ヴェルサイユ宮廷で暮らすことは非常に高額な出費を伴ったため、ガブリエルは自分の夫には宮廷に部屋を維持するだけの収入がないと正直に答えた[12]。新しいお気に入りを自分のそば近くに置いておきたい王妃は、すぐさまポリニャック一族の抱える借金を清算してやり、ガブリエルの夫に実入りのよい官職(王妃主馬頭の襲職権保有者)を与えた。

ガブリエルは王妃のアパルトマンの近くの快適な部屋を与えられた。彼女はさらに王妃と仲の良い王弟アルトワ伯爵と友人になったし、他ならぬ国王ルイ16世が、有力門閥間の権力闘争とは無縁の新しい妻の友人の出現に安心し、王妃がガブリエルと友情を育むことに賛成してくれた[13][14]。しかしガブリエルの登場は、国王夫妻の他の側近たちからは反感を持たれた。特に王妃の聴罪司祭ヴェルモンフランス語版神父、及び王妃と実家との連絡役を務める駐仏オーストリア大使メルシー伯爵は強い敵意を抱き、メルシーは王妃の母親マリア・テレジア皇后に宛てた手紙に、「こんな短い期間にこんな巨額の金がただ一つの家族にあたえられたためしはありません」と書き送った[15]

カリスマと圧倒的な美貌をそなえたガブリエルは、瞬く間に王妃のごく内輪の取り巻きサークル「プチ・キャビネ(petit cabinets)」の最有力者となり、彼女の同意がなければ「プチ・キャビネ」の仲間入りをすることはほぼ不可能となった[16][17]。ガブリエルは多くの友人たちから、洗練されており、立ち居振る舞いが優雅で、愛嬌があって、楽しませてくれる人、という評判を得ていた[18]

王妃の恐ろしいほどの気前のよさのおかげで、ポリニャック家の一族は例外なく美味しい思いをした。しかしこの依怙贔屓をかさに着た一族の富貴と贅沢、そして宮廷を牛耳るかのような傲慢さは、多くの貴族家門の怨嗟の的となる。さらにポリニャック家に対する王妃の寵愛は、一部の平民(特にパリ市民)や自由主義を信奉する貴族たちが王妃を憎悪し、誹謗中傷を始める原因の一つとなった[19]

ポリニャック公爵夫人、ヴィジェ=ルブラン画、アムステルダム国立美術館

1780年はガブリエルとポリニャック家に恩恵が降り注ぐ年となった。腹違いの弟妹に有利な条件の結婚をさせたうえ、7月11日に12歳の長女アグラエを国内でも指折りの大貴族の1人グラモン公爵の後継者ギーシュ公爵に嫁がせた。この幼い花嫁のために国王が下賜した婚資が80万リーヴルの巨額であったこと[20]、そして花婿に国王が下賜した地所に70万ドゥカート相当の価値があったことで、宮廷に衝撃が走った。さらに5月14日に次男ジュールを無事出産したことに対する王室からの祝いとして、9月20日に夫がポリニャック公爵に昇叙された[21]。ガブリエルが「公爵夫人」と呼ばれるようになったことは、宮廷人たちのさらなる苛立ちを招いた。

1780年代後半までに、王妃とガブリエルがレズビアンの恋人関係にあり、トリバディズムなどの性交渉をしているという内容を含んだ、何千ものポルノ色の強い中傷パンフレットが出回った。2人が同性愛関係にあるという非難には何の証拠もなかったが[22][23][24]、性的な中傷の数々は絶対王政の権威に測り知れないほどの深刻なダメージを与え、特にブルジョワ階層と都市部の労働者階級に2人の同性愛が事実だと思い込ませた[25]

一部の歴史家は、例えばガブリエルが14年の宮廷生活の間に蕩尽した金額は、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人のそれとほぼ同額である、といった彼女の濫費に関する記録は、大げさに誇張されたものだとしている[26]。他の大半の歴史家は、性的に乱脈だったとする中傷は事実ではなかったものの、その他の点で悪評を買ったことについては、彼女に非があると主張している。彼女は冷淡で、自己中心的で、自分に甘く、優しげな声色と欠点のない振る舞いの裏側に、噂や陰謀を好む性格を隠していた、というのである。こうした論調のポリニャック評の中で最も影響力があったのは、シュテファン・ツヴァイクの(王妃に関する)伝記である。

マントノンやポンパドゥールでさえ、天使のような伏し目のお気に入り、つつましやかでおとなしいポリニャックほど金を使わせはしなかったのである。[ポリニャック家への寵愛という]この渦に巻き込まれなかった人々は、呆然とたちつくすのみ…[王妃の]手をまた見えないところであやつっているのが、すみれ色の目をした女、美しい、もの静かなポリニャック夫人なのだった[27]

ポリニャック一族

ガブリエルは夫との間に4人の子を生んだ[28]

ガブリエルが王妃の寵愛を得て以降、夫ジュールの大叔父にあたるメルシオール・ド・ポリニャック英語版枢機卿の失脚後長く権力から遠ざかっていたポリニャック家英語版は、再び宮廷で重きをなすことができた。

一方、実家のポラストロン家フランス語版とその親類縁者も、ガブリエルのおかげで宮廷で華やぐことになった。父のポラストロン伯爵(後に恐怖政治下でギロチンの犠牲となる)はベルン駐在大使に取り立てられた[29]。腹違いの弟妹も次々に条件の良い結婚をした。

ガブリエルの母親代わりだった伯母アンドロー伯爵夫人マリー・アンリエットは、若い頃にマダム・アデライードの養育係女官をしていたが、当時14歳の王女にポルノ小説を読ませたことを王女の兄ドーファンに見とがめられて宮中を追われた過去があった[30]。ガブリエルは伯母を宮廷に呼び戻し、伯母が政府から年額6000リーヴルの年金を受け取れるよう取り計らった[31]。アンドロー伯爵夫人の娘と息子、義理の娘も宮廷に迎えられ、王妃の取り巻きに名を連ねた。

オノーレ・ミラボーは王妃のポリニャック一族への偏愛に対する皮肉として、次のような警句を放った。

ダサス英語版 の家族には国を救った手柄により1000エキュ、ポリニャックの家族には国を滅ぼした手柄により100万エキュ!

王家のガヴァネス

ポリニャック公爵夫人、王家のガヴァネスに就任した1782年の肖像、ヴィジェ=ルブラン画、ヴェルサイユ宮殿美術館

1782年、王家のガヴァネス(王家養育係主任女官)だったゲメネ夫人が、投資詐欺に巻き込まれた夫の破産スキャンダルのために辞職した。王妃はゲメネ夫人の後任にガブリエルを任命した。この人事は、(次代の王を育てる)その役職の重要さを考えるとポリニャック家のような平凡な家柄の者が務めるのは分不相応だ、ということで、またもや宮廷人の反感を買った[34]

新たに得た地位に付帯する特権により、ガブリエルはヴェルサイユ宮殿内に13の部屋から成るアパルトマンを与えられた。この特権自体は宮廷儀礼の範疇に収まる措置であったものの、13という部屋数の多さは常に人口過密のヴェルサイユ宮殿にあっては前例のないことだった。王家のガヴァネスに割り当てられるアパルトマンの部屋数は通常4部屋から5部屋ほどであった。ガブリエルはまた、1780年代に小トリアノン宮殿の敷地内に造営された王妃の田園風の隠遁所「王妃の村里」の中にコテージを与えられた。

ガブリエルの結婚生活は因習的な貴族同士の結婚であり、夫と心が通うこともなく、家庭は幸福とは言えなかった。長年、夫の遠縁で近衛部隊所属の陸軍大尉だったヴォドゥロイユ伯爵英語版と愛人関係にあると見られていた。一方で、ガブリエルが仲間入りした世界では、ヴォドゥロイユは暴力的すぎ、礼儀をわきまえなさすぎるため、2人の交際は相応しくないと周囲からは思われていた[35]。ガブリエルがヴェルサイユ宮廷に来てから産んだ下の息子たちは、実父はヴォドゥロイユだと噂されていた。しかし、ガブリエルとヴォドゥロイユとの間の関係がどのような類のものだったかについては一部の歴史家の間で議論になっており[36]、2人の関係に性交渉が介在したかについて疑問が呈されている。このプラトニック説は近年、カトリックの歴史作家エレナ・マリア・ヴィダル英語版によって復活した[37]。恋人同士と言われ続けていたにもかかわらず、人を巧みに操るヴォドゥロイユを王妃が毛嫌いし、ヴォドゥロイユの存在が自分の得た地位を脅かす恐れが生じると、ガブリエルは何のためらいもなく彼を見捨てたからである。

ヴォドゥロイユとガブリエルの間で交わされた手紙は現在のところ発見されていないが、それは2人の関係が絶えたころにはお互いをもう必要としなくなっていたためなのか、それとも政治的配慮から2人のやりとりを隠して行っていたためなのかは、判然としない。もし手紙が交わされていたとしても、それは一方、あるいは両方、あるいは第三者が、用心のために破棄してしまったからだと考えられる[38]

次男のノルマンディー公爵を出産した1785年頃から、ヴォドゥロイユが無礼で苛立たしい人物だと気づいた王妃は彼に対する嫌悪感を募らせ、それにつれてガブリエルの王妃に対する影響力は衰えていった[39]。王妃の侍女頭カンパン夫人によれば、王妃はポリニャック一族に対して自分が感じる「強い不満感にお苦しみあそばされた」。カンパン夫人は述べている、「王后陛下は、『君主が自分の宮廷で寵臣をつくるということは、君主自身に対抗するもう一人の専制君主をつくるということなのね』と私に仰せになった[35]」。

王妃に煙たがられていると感じたガブリエルは、イングランドの友人たち、特に親友の1人でロンドン上流社交界の指導者的存在だったデヴォンシャー公爵夫人を訪ねにイングランドへ旅立った[40]。同国滞在中、ガブリエルはひ弱な体質のために「ちっちゃなポー(Little Po)」という呼び名で知られた。

革命

ポリニャック夫人に対する中傷パンフレット『フランス人民からポリニャック公爵夫人に告げる別れの言葉』は、1789年に夫人がスイスに亡命した後に出版された。

1789年初夏に三部会から自由主義派の憲法制定国民議会が分離してフランス革命が勃発すると、王妃とポリニャック夫人の結合は再び強まったかに見えた。ガブリエルはヴェルサイユ宮廷内の超王党派として活動し、王弟アルトワ伯爵と共に同派の中心人物となった[19][41]ボンベル英語版侯爵は、ガブリエルがたゆむことなく反革命の活動に専心していたと証言している。彼女はボンベルの政治上の師ブルトゥイユ男爵及びアルトワ伯と一緒になって、革命派に人気のある財務総監ジャック・ネッケルを罷免するよう国王を説得すべきだ、と王妃を掻き口説いた。しかし彼らの努力が実らぬうちに、7月14日パリでバスティーユ襲撃事件が起きてネッケルは引責辞任した。

バスティーユ襲撃後、暴徒化したパリ民衆はポリニャック一族の殺害を声高に求めるようになった。ガブリエルはヴェルサイユに留まることを望んだが王妃の説得を受けて7月16日の夜、家族でヴェルサイユを離れた[42]。馬車に乗る際に受け取った王妃からの言付には、当座の生活費代わりの500ルイ金貨とともに、次のような手紙があった。

さようなら、たいせつなお友だち。おそろしい言葉ですけれど、どうしてもそう書かないわけにはいかないのです。馬をつける命令はもう出してあります。私にはもう、あなたを抱きしめる力しか残ってはいません[43][44]

召使に変装したガブリエルは逃避行中、サンスで御者に正体を見破られるなど危険な目にもあったが[45]、何とか無事にスイスに到着した。その後、彼女は家族と共に放浪生活に入り、トリノ、ローマ、ヴェネツィア(この地で彼女は長男をバタヴィア帰りの成金の娘と結婚させた)を経由してウィーンに落ち着いた。1791年6月のヴァレンヌ事件の際には低地地方の国境地帯で国王一家の到着を待っていたと言われる。1791年7月には、コブレンツのエミグレ亡命宮廷に姿を現し、並み居る貴婦人の中で最も華やかな装いをしていたと記録されている[46]。1792年のヴァルミーの戦い後にこの亡命宮廷が解散すると、再びウィーンに戻った。

ガブリエルはスイス滞在時すでに病気になっており、その後数年間ほぼ間違いなく病と闘っていた。1793年12月、ガブリエルは44歳の若さで世を去った。遺族は突然の心臓発作で亡くなったと発表した。大半の歴史家は死因はだったとしているが、王党派の歴史家だけは死因は結核だったとする傾向がある。

フィクション

文芸作品

映画

関連項目

引用・脚注

  1. ^ Schama, S.. Citizens: A Chronicle of the French Revolution. pp. 181–3 
  2. ^ Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator) (1938). Marie Antoinette: The portrait of an average woman (1988 ed.). London: Cassell Biographies. pp. 121–4. ISBN 0-304-31476-5 
  3. ^ フランス革命期の国民公会議長マリー=ジャン・エロー・ド・セシェル英語版とは遠縁のいとこにあたる。
  4. ^ Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator) (1938). Marie Antoinette: The portrait of an average woman (1988 ed.). London: Cassell Biographies. ISBN 0-304-31476-5  Chapter 15: "The New Society".
  5. ^ Lever, E.. Marie-Antoinette: The Last Queen of France. pp. 99–100 
  6. ^ Gastel Family Database Archived 2012-02-18 at the Wayback Machine.
  7. ^ Cronin, V.. Louis and Antoinette. p. 133 
  8. ^ Schama. Citizens. p. 183 
  9. ^ Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator) (1938). Marie Antoinette: The portrait of an average woman (1988 ed.). London: Cassell Biographies. p. 124. ISBN 0-304-31476-5 
  10. ^ Fraser, Lady Antonia. Marie Antoinette: The Journey. p. 155 。訳文は、日本語訳版であるアントニア・フレイザー著、野中邦子訳『マリー・アントワネット(上)』早川書房、2006年、P283を参照。
  11. ^ Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator) (1938). Marie Antoinette: The portrait of an average woman (1988 ed.). London: Cassell Biographies. p. 122. ISBN 0-304-31476-5 
  12. ^ Cronin. Louis and Antoinette. p. 132 
  13. ^ Hardman, J.. Louis XVI: The Silent King 
  14. ^ Fraser, Lady Antonia. Marie Antoinette: The Journey. pp. 155–6 
  15. ^ Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator) (1938). Marie Antoinette: The portrait of an average woman (1988 ed.). London: Cassell Biographies. p. 121. ISBN 0-304-31476-5 訳文は、日本語訳版であるシュテファン・ツヴァイク著、関楠生訳『マリー・アントワネット(上)』河出書房新社、1989年、P182を参照。
  16. ^ Foreman. Georgiana. pp. 166–7 
  17. ^ Mossiker. The Queen's Necklace. pp. 132–3 
  18. ^ Cronin. Louis and Antoinette. pp. 149–150 
  19. ^ a b Price, Munro (2003). The Road from Versailles: Louis XVI, Marie Antoinette, and the Fall of the French Monarchy. Macmillan. pp. 14–15, 72. ISBN 0-312-26879-3. https://books.google.com/books?id=u7GTMH8lFA8C&pg=PA169&dq=%22marquise+de+tourzel%22+varennes 
  20. ^ ジャン=クリスチャン・プティフィス著、小倉孝誠監修『ルイ十六世(上)』中央公論新社、2008年、P344。
  21. ^ アンドレ・カストロ著、村上光彦訳『マリ=アントワネット(1)』みすず書房、1972年、P172。
  22. ^ Fraser. Marie Antoinette. p. 131 
  23. ^ Cronin, V.. Louis and Antoinette. pp. 138–9 
  24. ^ Mossiker. The Queen's Necklace. p. 167 
  25. ^ Hunt, Lynn (1991). Eroticism and the Body Politic. Johns Hopkins University Press 
  26. ^ Cronin, V.. Louis and Antoinette. p. 139 
  27. ^ Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator) (1938). Marie Antoinette: The portrait of an average woman (1988 ed.). London: Cassell Biographies. pp. 122 and 124. ISBN 0-304-31476-5 。訳文は、日本語訳版であるS・ツヴァイク著、関楠生訳『マリー・アントワネット』河出書房新社、1989年、P182-183を参照。
  28. ^ Gastel Family Database
  29. ^ プティフィス、P345。
  30. ^ J・ハスリップ著、櫻井郁恵訳『マリー・アントワネット』近代文芸社、P161。
  31. ^ E・フォール著、渡辺恭彦『チュルゴーの失脚(下)』法政大学出版局、2007年、P810年
  32. ^ プティフィス、P345。
  33. ^ カストロ、P172。
  34. ^ Fraser. Marie Antoinette. p. 239 
  35. ^ a b Campan, Jeanne-Louise-Henriette; Jean François Barrière (1823). Memoirs of the Private Life of Marie Antoinette: To which are Added Personal Recollections Illustrative of the Reigns of Louis XIV, Louis XV, and Louis XVI. University of Michigan: H. Young and Sons. pp. 195–196, 185–191. ISBN 1-933698-00-4. https://books.google.com/books?id=V8JnAAAAMAAJ&q=The+Private+Life+of+Marie-Antoinette:+A+confidante+account&dq=The+Private+Life+of+Marie-Antoinette:+A+confidante+account&pgis=1 
  36. ^ John Hardman, Marie-Antoinette: The Making of a French Queen (New Haven: Yale University Press, 2019), pp. 83-88, は、ヴォドゥロイユをガブリエルと肉体関係を持っていたと判断している。一方、Vincent Cronin, Louis and Antoinette (London: Collins, 1973), pp. 220-221, 316, は、2人の関係は肉体関係に発展しないプラトニックなものだったと考えている。
  37. ^ Madame de Polignac and Politics”. Tea At Trianon. 2020年10月17日閲覧。
  38. ^ Cronin, Louis and Antoinette, p. 394
  39. ^ カンパン夫人によれば、ヴォドゥロイユがガブリエルのアパルトマンで王妃が与えた象牙製のビリヤードのキューをふざけて叩き壊して以降、彼に対して感じよく振舞おうとする努力を完全に放棄したという。王妃は、自分の取り巻きたちが自分の軽蔑するある政治家に地位をあたえようとした際、彼らの野心に辟易するようになったという。Madame Campan. The Private Life of Marie Antoinette: A Confidante's Account  Chapter XII.p. 195-6.
  40. ^ Foreman, A.. Georgiana: Duchess of Devonshire. p. 195 
  41. ^ Bombelles, Marc Marie; Grassion, Jean; Durif, Frans (1977). Journal: marquis de Bombelles. Genève: Droz. p. 297. ISBN 2-600-00677-X 
  42. ^ ハスリップ、P360。
  43. ^ ツヴァイク、P326。
  44. ^ ハスリップ、P361。
  45. ^ ハスリップ、P360。
  46. ^ Langlade, Émile. Rose Bertin: Creator of Fashion at the Court of Marie Antoinette (London: John Long, 1913).

外部リンク