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「フランシスコ・ボルハ」の版間の差分

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'''聖フランシスコ・ボルハ''' ('''{{lang-es-short|San Francisco de Borja}}''', [[1510年]][[10月28日]] - [[1572年]][[9月30日]]) は、[[スペイン]]の[[イエズス会]]士。第3代イエズス会総長。[[カトリック教会]]の[[聖人]]で祝日は[[10月10日]]。象徴は帝冠を被った頭骨。地震に対する[[守護聖人]]。
'''聖フランシスコ・デ・ボルハ''''''{{lang-es-short|San Francisco de Borja}}''', [[1510年]][[10月28日]] - [[1572年]][[9月30日]]は、[[16世紀]][[スペイン]]の貴族、軍人、政治家、聖職者。[[イエズス会]]士。第3代イエズス会総長。[[カトリック教会]]の[[聖人]]で祝日は[[10月10日]]。象徴は帝冠を被った頭骨。地震に対する[[守護聖人]]。


==生涯==
==生涯==
=== 幼少期 ===
フランシスコ・ボルハは、[[バレンシア王国]]の[[ガンディア]]近郊で生まれた。彼は第3代ガンディア公[[フアン・ボルハ|フアン・ボルハ(フアン・ボルジア)]]と[[アラゴン王国|アラゴン]]王女フアナの長男だった。母フアナの父アルフォンソは、アラゴン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]と愛妾アルドンサ・ルイス・デ・イボッラ・イ・アレマニの庶子であった。また、彼の父は、若死にしたフアン・ボルハの長男である事から、フランシスコは[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の曾孫にあたる。
1510年、[[バレンシア王国]]の[[ガンディア]]近郊で[[ボルジア家]]出身の第3代ガンディア公[[フアン・ボルハ]](フアン・ボルジア)と[[アラゴン王国|アラゴン]]王女フアナの長男として生まれた。


母方の祖父で[[サラゴサ]][[大司教]]とバレンシア大司教の{{仮リンク|アロンソ・デ・アラゴン|en|Alonso de Aragón}}(またはアルフォンソ・デ・アラゴン)は、アラゴン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]と愛妾{{仮リンク|アルドンサ・ルイス・デ・イボッラ|en|Aldonza Ruiz de Ivorra|label=アルドンサ・ルイス・デ・イボッラ・イ・アレマニ}}の庶子であった。また、父は若死にした同名の第2代ガンディア公[[フアン・ボルジア]]の長男である事から、フランシスコは[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の曾孫にあたる。父は2度の結婚でフランシスコを含む13人の子(または17人。庶子が1人いたとも)を儲け、長男フランシスコは後継者として定められ、6人の弟のうち1人は[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]][[副王]]、残りの5人は聖職者に育てられた{{refnest|group="注"|他にも、父方の祖母に当たる{{仮リンク|マリア・エンリケス・デ・ルナ|en|María Enríquez de Luna}}は夫の第2代ガンディア公没後は信仰に一生を捧げ、ガンディアの各教会を援助し、[[1509年]]に息子の第3代ガンディア公の結婚を機に引退、ガンディアの[[クララ会]]に帰依して修道女となり、[[1537年]]に{{仮リンク|サンタ・クララ修道院 (ガンディア)|en|Convent of Santa Clara of Gandia|label=サンタ・クララ修道院}}で亡くなるまで余生を送った。以後サンタ・クララ修道院はボルジア家の子孫が入門してしばしば女子修道院長を輩出、フランシスコもマリア・エンリケスから宗教的影響を強く受けていたと言われる{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=246,248}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=420-422}}。}}{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=246}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=423-424}}{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=322-323}}。
小さい頃から信仰深かったフランシスコは聖職者になりたいという望みを持っていたが、家族は彼を[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の宮廷へ送り込んだ。彼はそこで頭角を現し、皇帝に同行して幾度も従軍し、[[1526年]]9月に[[マドリード]]で[[ポルトガル]]貴族の婦人{{仮リンク|レオノール・デ・カストロ・メロ・エ・メネゼス|en|Leonor de Castro Mello y Meneses}}と結婚した。2人の間には8子が生まれた。[[1539年]]、皇后[[イザベラ・フォン・ポルトゥガル|イザベラ]]の遺体を警護して埋葬地[[グラナダ]]へ向かった。彼はそこで、美しかった皇后でも命を失えば儚く崩れていく様を見て、「2度と命ある君主に仕えまい」と決めた。しかし、まだ若い貴族だった彼は[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]の[[副王]]に命じられ、よく同地を治めた。


小さい頃から信仰深かったフランシスコは聖職者になりたいという望みを抱きながら、将来を心配した父から乗馬・狩猟・武術を勧められ田舎生活を送っていたが、[[1520年]]に衝撃的な出来事が2つ起こりそれまでの生活に別れを告げた。1つは母の死で、ショックを受けたフランシスコは自室に閉じこもり自分を責めた。もう1つは[[コムネロスの反乱]]で、戦闘の余波がガンディアにもおよんだため父や家族と共にガンディアを離れ、母方の伯父のサラゴサ大司教{{仮リンク|フアン・デ・アラゴン (サラゴサ大司教)|es|Juan de Aragón (arzobispo de Zaragoza)|label=フアン・デ・アラゴン}}に引き取られ、3年にわたり騎士・廷臣として文武両道の教育を受けて成長した{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=246-247}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=424-425}}{{sfn|西川和子|2005|p=44}}。
父が亡くなると、フランシスコは[[ガンディア]]公位を継承したが妻子と共に故郷へ隠棲し、祈りの毎日を過ごすようになった。そこで、スペインを訪れていた[[ピエール・ファーヴル]]に出会い、イエズス会の精神に大きな魅力を感じた。


[[1523年]]、13歳のフランシスコは父の意向で[[トルデシリャス]]へ赴いた。ここではフランシスコの母方の大叔母に当たる[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王[[フアナ (カスティーリャ女王)|フアナ]]が幽閉され、娘でフランシスコの従叔母に当たる[[カタリナ・デ・アウストリア|カタリナ]]と一緒に過ごしていた。フランシスコはカタリナに小姓として仕え、2年後の[[1525年]]にカタリナが[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]に嫁ぐと父の命令でサラゴサへ戻り、修辞学と哲学を修めた。[[1528年]]にカタリナの兄でフランシスコには従叔父に当たる[[神聖ローマ皇帝]]兼スペイン王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の宮廷へ出仕する頃には、美貌と騎士としての力強さおよび謙虚さを兼ね備えた若者になっていた{{sfn|西川和子|2005|p=44}}{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=247}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=425-426}}。
[[1546年]]、妻レオノールが死ぬと、フランシスコは世俗の生活を捨てて修道者となる事を決意し、イエズス会への入会を願った。彼はきちんと身辺整理をし、長子カルロスに自分が持っていた称号をすべて譲った。彼は高貴な一族の出身で、有能であり、ヨーロッパ中にその名が知れ渡っていた為、[[枢機卿]]の授与が打診されたがこれを拒み、無名の巡回説教師として生きたいと望んだ。だが、やはりもって生まれたリーダーとしての資質は隠せず、周りの人々は彼に指導的立場に立つよう求めた。[[1554年]]、フランシスコはスペインでの総長代理となり、[[1565年]]には2代総長[[ディエゴ・ライネス]]の後を継いでイエズス会総長となった。


=== 宮廷へ出仕 ===
フランシスコの総長としての目覚しい働きは、歴史家らをして「[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]以降で最高の総長」と言わしめる事になった。また、ロヨラが創設した現在の[[グレゴリアン大学]]の前身となる'''コッレギウム・ロマヌム''' (Collegium Romanum) の財政面での支援者となった。ここで多くの宣教師が養成され、世界各地へと赴いた。さらに彼は歴代のローマ教皇や王達のアドバイザーとなり、修道会全体を強力に指導した。これほどの地位にあっても、彼個人はつましい生活を送り、生前から聖人の誉れが高かった。
家族に宮廷へ送り込まれるとそこで頭角を現し、皇帝カール5世と皇后[[イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン|イサベル]]の目に留まり、[[1529年]]9月に[[マドリード]]でポルトガル貴族の婦人で皇后の女官でもある{{仮リンク|レオノール・デ・カストロ・メロ・エ・メネゼス|en|Leonor de Castro Mello y Meneses}}と結婚した。外国人と息子の結婚を嫌う父の反対に遭ったが、皇帝の執り成しで結婚の同意を得られ、2人の間には8子が生まれた。続いて皇帝夫妻から恩寵が与えられ、フランシスコは皇帝からロンベイ侯爵および王室狩猟長、皇后からは自分の馬術教師に任命され、夫婦そろって皇帝夫妻の友人として重用された。更に[[1530年]]、カール5世が外国へ行く時にフェリペ王太子(後のスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]])の個人教師と皇室執事にも任命されている{{sfn|西川和子|2005|p=44}}{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=247}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=428-429}}。


この頃、異端の疑いで[[スペイン異端審問|異端審問所]]により投獄された[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]と出会い、会話したという。フランシスコは仕事が忙しくなり、ロヨラのことはさほど印象に残らなかったが、ロヨラは釈放された後イエズス会を立ち上げることになる{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=426-428}}。
1572年9月30日に[[ローマ]]で亡くなり、[[1671年]]に[[列聖]]された。

昼夜を問わず皇帝の館へ出入りする許可を与えられたフランシスコは多忙になり、皇帝に同行して幾度も従軍し、[[1535年]]の[[チュニス征服 (1535年)|チュニス征服]]に従軍した際、[[マラリア]]に罹り長期間病床から離れられなかった。翌[[1536年]]7月に[[フランス王国|フランス]]南部[[プロヴァンス]]への遠征にも従軍したが負け戦に終わっただけでなく、友人ガルシラソ・デ・ラ・ベーガを失う痛手も負った。これとは別に皇帝の国内巡行に同行、皇帝に代わり学問に打ち込み、{{仮リンク|アロンソ・デ・サンタ=クルス|en|Alonzo de Santa Cruz}}の講義を受けてその知識を皇帝へ伝達する役目もこなし、全力で主君に尽くした結果、再度重病に倒れる羽目に陥った{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=247-248}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=429-430}}。

病気から回復した[[1539年]]、亡くなった皇后の葬儀を取り仕切り、葬儀の先頭に立つ王太子と共に遺体を警護して妻と共に埋葬地[[グラナダ]]へ向かった。フランシスコはそこで、美しかった皇后でも命を失えば儚く崩れていく様を見て「2度と命ある君主に仕えまい」と決め、隠棲を考え始めた。しかし、まだ若い貴族だった彼は皇帝からカタルーニャの副王に命じられ、4年間よく同地を治めた。ここでは盗賊と反抗的なアラゴン貴族や不正を働く官僚達を厳しく取り締まり、防衛強化と治安維持に努力した。カタルーニャ住民には好意を持たず、住民からも厳格な統治をあまり受け入れられなかったが、皇帝からの信頼は深まり財政援助のため[[サンティアゴ騎士団]]の領土を分与、騎士団幹部に任命された{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=248}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=430-434}}{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|西川和子|2005|p=42-43}}。

副王在任中の[[1541年]][[4月17日]]、ロヨラはイエズス会初代総長に選ばれた。彼が派遣した宣教師の1人アントニオ・アラオスが[[バルセロナ]]に下船、イエズス会支援を説得されたフランシスコはイエズス会士を歓迎、ロヨラと文通を交わし、イエズス会との関係がこの時期から始まった{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=248-249}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=434-435}}。

[[1542年]][[12月17日]]に父が亡くなるとガンディア公位を継承したが、翌[[1543年]]4月にバルセロナで滞在中のカール5世へカタルーニャ副王辞任を申し出た。故郷へ戻ることを希望していたフランシスコに対して皇帝は辞任を承諾したが、王太子の結婚相手である[[マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル|マリア・マヌエラ]]の家令に任じ、妻と2人の娘も女官に任命したため、一家はなかなか故郷へ戻れなかった。[[1545年]]にマリア・マヌエラが没したことを契機に妻子と共に故郷へ隠棲し、土地管理と領民の動向に気を配りつつ祈りの毎日を過ごすようになった。そこで、スペインを訪れていた[[ピエール・ファーヴル]]とアラオスに出会い、イエズス会の精神に大きな魅力を感じた。一方、1542年に疲労で隠遁を考え始めた皇帝から内心を打ち明けられたりもしている{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=249}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=435-437}}{{sfn|ウィリアム・バンガート|上智大学中世思想研究所|2004|p=28}}{{sfn|西川和子|2005|p=94}}。

=== イエズス会に入会 ===
[[1546年]][[5月27日]]に妻が死ぬと、フランシスコは世俗の生活を捨てて修道者となる事を決意し、イエズス会への入会を願った。公爵としての立場上すぐに決意を公表出来ないため、[[6月2日]]に秘密裡に入会した彼はロヨラと相談の上できちんと身辺整理をし、神学の勉強に専念しつつ普段の生活もこなし、[[1548年]]に正式に入会宣言したのを手始めに長男[[カルロス・デ・ボルハ・イ・カストロ|カルロス]]を貴族の女性と結婚させ、他の子供達の進路と縁組も纏めた。イエズス会最初の大学として{{仮リンク|ガンディア大学|es|Universidad de Gandía}}設立にこぎ着け、貧しい学生への奨学金・住居提供と[[ムーア人]]や[[ユダヤ人]]への教育支援もカトリックへの改宗を期待した上で与えた{{refnest|group="注"|フランシスコの入会にはボルジア家の悪名高さから反対の声が上がったが、ロヨラがそれを押し切って受け入れた。ロヨラの決断は彼がフランシスコを信頼していたこともあるが、フランシスコが宮廷と関係が深い点を利用した側面もあり、イエズス会はスペインの結びつきが強くなった。以後宮廷に入り込み王侯貴族の信頼を獲得して布教を上から下へ広める方法、および宮廷に受け入れやすい聖職者養成のためイエズス会士のエリート教育がイエズス会の方針になった{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=249}}{{sfn|伊藤滋子|2001|p=45-46}}。}}{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=249}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=437-440}}。

[[1550年]]に次男{{仮リンク|フアン・デ・ボルハ・イ・カストロ|en|Juan de Borja y Castro|label=フアン}}と従者を連れて[[ローマ]]を訪問、行く先々で熱烈な歓迎を受けた後にスペインへ戻った。そして翌[[1551年]][[5月23日]]、聖職者叙階で[[司祭]]となり、カール5世の了解を取り付けた上でガンディア公位をカルロスへ譲り、自らは聖職者として第2の人生を歩み出した。なおローマ訪問の時、イエズス会士養成機関でありロヨラが創設したローマ学院(またはコッレギウム・ロマヌム、現在の[[グレゴリアン大学]])へ私財を寄付、財政面での支援者となった{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=249}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=440-443}}{{sfn|ウィリアム・バンガート|上智大学中世思想研究所|2004|p=28-29}}。

フランシスコは高貴な一族の出身で、有能であり、ヨーロッパ中にその名が知れ渡っていた為、[[1552年]]に教皇[[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]]から[[枢機卿]]の授与が打診されたがこれを拒み、無名の巡回説教師として生きたいと望んだ。だが、もって生まれたリーダーとしての資質は隠せず、周りの人々は彼に指導的立場に立つよう求めた。[[1553年]]、かつて仕えていたポルトガル王妃カタリナとジョアン3世の要請で王宮説教師に迎えられ、翌[[1554年]]と[[1555年]]の2度にわたり、トルデシリャスに幽閉中のフアナの看護に尽くした。また1554年、フランシスコはロヨラの指示でスペインとポルトガルでの総長代理となり、多くの学校と修練院を開設しイエズス会普及に尽力した一方、王太子と妹でスペイン摂政[[フアナ・デ・アウストリア|フアナ]]からの信頼も獲得、教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]とカール5世の対立で板挟みに苦しみ、1556年のロヨラ死去に伴うイエズス会の危機、同年のカール5世の退位など問題が重なったが、[[1558年]]に第2代総長[[ディエゴ・ライネス (イエズス会総長)|ディエゴ・ライネス]]が選出、[[ユステ修道院]]へ隠遁したカール5世から変わらぬ信頼を保ち、引き続きスペイン・ポルトガルの活動に邁進していった{{refnest|group="注"|ポルトガルではフランシスコはカタリナを説得して孫[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]の教育をイエズス会に委託させ、それに伴いライネスが助言者としてポルトガル人のカマラ神父を任命した。後にセバスティアン1世は[[1578年]]に無謀なアフリカ遠征を行い戦死するが、それはカマラの影響が強かったからとされている{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=448-449}}。}}{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=249-250}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=443-449}}{{sfn|西川和子|2005|p=95}}。

1558年に死去したカール5世の臨終に立ち会い、遺言執行人に指名され追悼演説も行い、順調に進んだかに見えたフランシスコの人生は翌[[1559年]]になると暗転した。これはスペインの度が過ぎた[[国粋主義]]と異端審問のイエズス会に対する反感が原因であり、かつて親交のあったアラオスもフランシスコがスペインの総長代理になったことに怒り、スペイン宮廷に取り入り国粋主義を煽ったためフランシスコと{{仮リンク|ヘロニモ・ナダール|en|Jérôme Nadal}}はスペイン王に即位したフェリペ2世のスペイン人イエズス会士の出国禁止などの理不尽な命令や異端審問の弾圧に苦しめられた。1548年と1550年に書いたフランシスコの信仰に関する本は異端審問所により[[禁書目録]]に挙げられた上焚書にされ、異端審問所に監禁された[[トレド]]大司教{{仮リンク|バルトロメ・カランサ|en|Bartolomé Carranza}}に同情したことも災いし、身の危険を感じたフランシスコは一旦ポルトガルへ亡命、2年後の[[1561年]]に教皇[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]からフランシスコのローマへの召喚命令を受け取っていたライネスの要請を口実にローマへ亡命した{{refnest|group="注"|フランシスコの2人の異母弟ディエゴとフェリペが殺人事件を起こして逃亡したこともフェリペ2世の怒りを買い、ディエゴは逮捕され[[1562年]]に処刑、フェリペも逮捕されたがアフリカへ脱走した{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=250}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=451}}。}}{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=250}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=449-452}}{{sfn|ウィリアム・バンガート|上智大学中世思想研究所|2004|p=72-73}}。

=== 総長に就任、列聖へ ===
ローマに辿り着いた時ライネスは初めフランスで[[カトリーヌ・ド・メディシス]]がカトリックと[[プロテスタント]]和解のため召集した{{仮リンク|ポワシー会談|en|Colloquy of Poissy}}に参加、次いでイタリアで[[トリエント公会議]]に出席していたため不在で、総長代理として4年間務め、[[1565年]][[1月19日]]にライネスが亡くなると[[7月2日]]の総会でライネスの後を継いで第3代イエズス会総長に選出された{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=251}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=452-453}}。

フランシスコの総長在任期は翌[[1566年]]に選出された教皇[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]の在位(1566年 - 1572年)とほぼ同じで、ピウス5世の協力の下でイエズス会の会則を追加した。他にも様々な事業の整備・追加も手掛け、ローマ学院の基盤強化と修道士の教育に尽力、ローマ学院を総長の本拠地に定め、授業計画に第一課程・第二課程の学課も決めた。またイエズス会へ用地取得資金を与え、[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (枢機卿)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]枢機卿が進めた[[ジェズ教会]]建立を後押しした。これと並行して会の各支部に修練院を設け、[[1567年]]にローマの丘([[クイリナーレ]])にローマ修練院を開設、ここから熱烈な伝道者が輩出した。こうしてフランシスコの総長在任期でイエズス会は進展を遂げ、彼は第二の創設者と呼ばれることになった。会員の数も増加しロヨラ死去の時点で1000名だった人数はフランシスコの下で4000名に増加、それぞれ各地の修道院へ配属された{{refnest|group="注"|[[1568年]]にピウス5世はフランシスコの要望に応え、1日1時間の祈りと[[聖務日課]]の朗唱を修道士に義務付けた。1日1時間の祈りについて、1565年の総会から規定されていた祈りの時間延長の権限を与えられたフランシスコが前もって決めていたが、熱意不足を克服する目的で始められた祈りはロヨラの洞察と精神(イエズス会士は普段の仕事で祈りに劣らない神との絆を見出すべきと主張、個人の違いを尊重して祈りを規定で縛ることに反対した)からイエズス会が離れることになる恐れがあったが、多数派のスペイン人・ポルトガル人会員の支持により採用された。その後祈りの時間は[[1966年]]の総会でロヨラの教えに回帰する形で修正され、聖務日課の朗唱はピウス5世の次の教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]により[[1573年]]までに破棄された{{sfn|ウィリアム・バンガート|上智大学中世思想研究所|2004|p=57-60}}。}}{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=453}}{{sfn|ウィリアム・バンガート|上智大学中世思想研究所|2004|p=60,68,70}}。

更に海外宣教、特に[[アメリカ大陸]]伝道を推進、ローマ学院で養成された多くの宣教師は世界各地へと赴いた。南北アメリカへ派遣された宣教師達は明暗が分かれ、1566年から1572年にかけてスペインから[[フロリダ半島]]へ派遣された遠征隊に同行したイエズス会士は、現地で[[インディアン]]に妨害されたり殺されたりして成果を挙げられなかったが、北アメリカの難航を見た宣教師達が南アメリカへ宣教先変更をフランシスコへ進言したため、イエズス会士は1568年に[[ペルー]]へ、1572年に[[メキシコ]]へ派遣された。ペルーはフランシスコが宣教に期待を寄せていた[[ホセ・デ・アコスタ]]ら優秀な人材が現地の先住民の生活改善と布教に努力し言葉を翻訳、教会・学校などインフラ整備で成果を挙げ、メキシコのほか[[エクアドル]]([[1586年]])、[[コロンビア]]([[1589年]])、[[チリ]]([[1593年]])などフランシスコの死後新しい管区が開かれていった。フランシスコは海外宣教師へ宛てた文書で改宗者を注意深く教育することについて指摘、ピウス5世への提案に海外宣教活動を枢機卿からなる中央委員会に置くことを勧め、[[1622年]]の布教聖省([[福音宣教省]])設置に結実した{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=453-454}}{{sfn|伊藤滋子|2001|p=54-59}}{{sfn|ウィリアム・バンガート|上智大学中世思想研究所|2004|p=60,111-115}}{{sfn|樺山紘一|2004|p=169-170}}。

[[1570年]]に[[オスマン帝国]]のヨーロッパ遠征隊派遣に対抗してカトリック諸国結集を計画したピウス5世は、教皇特使を各国へ派遣することを決め、フランシスコを随行者に選んだ。フランシスコは病気で健康面に不安を抱えていたが、承諾して[[1571年]][[6月30日]]に使節団に加わって出発した{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=455-456}}。

スペインでは、かつて統治していたカタルーニャで昔と違い住民に歓迎され、異端審問所は禁書に指定していたフランシスコの本を公刊、バレンシアでも家族に迎えられた。スペインも対オスマン帝国同盟に賛成し、使節任務は進展した。しかしポルトガルは王位継承問題に直面、フランシスコは[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]とフランス王女[[マルグリット・ド・ヴァロワ|マルグリット]]の結婚を勧め、1572年に病気のため使節団に遅れてフランスを訪問したが、既にマルグリットは[[ナバラ王国|ナバラ]]王エンリケ3世(後のフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]])と結婚することが決まっていたため、フランスを対オスマン帝国同盟にも入れられず交渉は不首尾に終わった。使節と別れた後に冬の寒さで病状が悪化、心配した[[サヴォイア公国|サヴォイア]]公[[エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公)|エマヌエーレ・フィリベルト]]や[[はとこ|又従兄]]に当たる[[フェラーラ]]公[[アルフォンソ2世・デステ|アルフォンソ2世]]の配慮で駕籠や船に乗せられイタリアへ運ばれ、ローマに帰還した時は瀕死の状態で、2日後の9月30日に兄弟トマスやイエズス会の仲間達に見守られる中、自分の子供や孫達に祝福を授け、ローマで亡くなった。61歳だった{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=456-461}}。

埋葬された遺体は[[1617年]]にジェズ教会へ移されたが、フランシスコの孫でスペイン王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の寵臣のレルマ公{{仮リンク|フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス|en|Francisco Gómez de Sandoval y Rojas, 1st Duke of Lerma}}の要請で、[[1624年]]に片腕だけジェズ教会に残してマドリードでレルマ公が建立した教会へ移葬、教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]に[[列福]]された。47年後の[[1671年]]に教皇[[クレメンス10世 (ローマ教皇)|クレメンス10世]]により[[列聖]]された{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=462-463}}。

フランシスコの死から半年後の[[1573年]][[4月12日]]に総会が開かれたが、総長が3代続けてスペイン人だったことでスペイン人会士に対する他の外国人会士の反感が高まり、ピウス5世の死後選出された教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]やポルトガル王家も総長選挙に介入、紆余曲折の末[[4月23日]]に非スペイン人でベルギー人会士の{{仮リンク|エヴェラール・メルキュリアン|en|Everard Mercurian}}が第4代総長に選出された。以後メルキュリアンとイタリア人の第5代総長{{仮リンク|クラウディオ・アクアヴィーヴァ|en|Claudio Acquaviva}}はイエズス会の更なる組織整備・発展に尽くし、会士にロヨラの精神の再確認を呼びかけ、教育法規の制定で学習カリキュラムを明確な形で纏め、イエズス会をスペイン一辺倒から国際色豊かな組織に作り替えた。スペイン国粋主義と異端審問の圧力にも屈せず、イエズス会士を13000人にもおよぶ組織に成長させていった{{sfn|伊藤滋子|2001|p=48-49}}{{sfn|ウィリアム・バンガート|上智大学中世思想研究所|2004|p=60-63,117-128}}。

== 人物 ==
幼少期からの敬虔さは両親から心配されるほどだったが、行き届いた教育で優れた騎士としての技量も身に着けた。謙虚な性格で世俗よりも精神的な目標に関心を向けていたが、若い貴族の時期は任務に忠実で、カタルーニャ統治に見られるように厳格・傲慢さも垣間見えていた。しかし厳しい苦行を自らに課したことでそうした激情を制御出来たと語り、責任感と信仰で抑制されていった。1550年のローマ訪問でボルジア家の悪名とフランシスコの謙虚さが対照的に見られ、多くの人々からの注目を浴びた{{sfn|マリオン・ジョンソン|海保眞夫|1984|p=246,250}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=424,426,441}}。

また冗談好きの一面も見られ、カール5世に宛てた手紙で異常な肥満体だった自分自身をからかった文を書いたり、イエズス会が修練士の入会を拒んだ時に「公爵として生まれたことについて心から感謝する。何故なら、会の上長者たちをして私を受け入れる気にならせたものは、私には他には何一つなかったからである!」と公然と発言したりしていた{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=433-434,442-443}}。

1551年[[11月15日]]にミサを行った際に大勢の列席者が詰めかけ、フランシスコの説教は[[カスティーリャ語]]で聴衆は[[バスク語]]しか理解出来ないはずだったが、次第に聴衆は感動の渦に引き込まれて泣き出した。理由は「自分らの体内に神の啓示を感じ、その声は自分らまでは届かなかったのに、説教師の言葉を分からせてくれる無言の言葉をそこで聞いた」と答えたと言う。庶民からの人気は絶大で、スペインで民衆や[[神秘家]]として名高い[[アビラのテレサ]]に意見を求められたほか、1571年のヨーロッパ諸国訪問でも行く先々でフランシスコの評判を聞いた群衆が詰めかけるほどだった{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=443,450,456-457}}。

== 子女 ==
レオノールとの間に8人の子を儲け、彼女の死後フランシスコは子供達の進路と縁組を定め、イエズス会へ入会した{{sfn|ドナルド・アットウォーター|キャサリン・レイチェル・ジョン|山岡健|1998|p=323}}{{sfn|イヴァン・クルーラス|大久保昭男|1989|p=437-440}}。
* [[カルロス・デ・ボルハ・イ・カストロ|カルロス]](1530年 - 1592年) - 第5代ガンディア公
* イサベル(1532年 - 1566年) - デニア侯{{仮リンク|フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・スニガ|es|Francisco Gómez de Sandoval y Zúñiga}}と結婚
* {{仮リンク|フアン・デ・ボルハ・イ・カストロ|en|Juan de Borja y Castro|label=フアン}}(1533年 - 1606年) - 初代マヤルデ伯​、ポルトガル副王
* アルバロ(1535年 - 1580年) - 駐教皇庁大使
* フアナ(1535年 - 1575年) - アルカニス侯フアン・エンリケス・デ・アルマンサ・イ・ロハスと結婚
* フェルナンド(1537年 - 1587年) - [[カラトラバ騎士団]]の騎士​
* ドロテア(1538年 - 1552年) - ガンディアの{{仮リンク|サンタ・クララ修道院 (ガンディア)|en|Convent of Santa Clara of Gandia|label=サンタ・クララ修道院}}修道女
* アルフォンソ(1539年 - 1593年) - 皇帝侍従

子孫に[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の寵臣として知られるレルマ公{{仮リンク|フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス|en|Francisco Gómez de Sandoval y Rojas, 1st Duke of Lerma}}(外孫、イサベルとデニア侯の息子)、ポルトガル王[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ジョアン4世]]妃[[ルイサ・デ・グスマン]](玄孫、レルマ公の外孫)、ビジャエルモサ公でカタルーニャ副王を務めた[[カルロス・デ・アラゴン・デ・グレア・イ・デ・ボルハ]](フアンの子孫)がいる。

またフアンの息子{{仮リンク|フランシスコ・デ・ボルハ・イ・アラゴン|en|Francisco de Borja y Aragón}}はペルー副王、フェルナンドの息子{{仮リンク|フアン・ブエナベントゥラ・デ・ボルハ・イ・アルメンディア|en|Juan Buenaventura de Borja y Armendia}}はヌエバ・グラナダ総督を務め、アメリカ植民地の行政・教育の発展とイエズス会やドミニコ会が運営するコレヒオ(大学の前哨)の設立など植民地支配に深く関与した。カルロスの孫{{仮リンク|ガスパール・デ・ボルハ・イ・ベラスコ|en|Gaspar de Borja y Velasco}}はナポリ副王を務めた{{sfn|樺山紘一|2004|p=170}}。


== ボルジア家家系図 ==
== ボルジア家家系図 ==
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== 注釈 ==
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== 脚注 ==
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==参考文献==
==参考文献==
*[[ウィアムガート]]、『イエズス会歴史[[原書房]]、2004
* [[オンジョンソン]][[海保眞夫]]訳ボルジア家 悪徳と策謀一族』[[中央公論新社|中央公論社]]、1984
* [[イヴァン・クルーラス]]著、[[大久保昭男]]訳『ボルジア家』[[河出書房新社]]、1989年。
* [[ドナルド・アットウォーター]]、[[キャサリン・レイチェル・ジョン]]著、[[山岡健]]訳『聖人事典』[[三交社]]、1998年。
* [[伊藤滋子]]『幻の帝国 南米イエズス会の夢と挫折』[[同成社]]、2001年。
* [[ウィリアム・バンガート]]著、[[上智大学]]中世思想研究所監修『イエズス会の歴史』[[原書房]]、2004年。
* [[樺山紘一]]編『ヨーロッパ名家101』[[新書館]]、2004年。
* [[西川和子]]『スペイン フェリペ二世の生涯 <small>-慎重王とヨーロッパ王家の王女たち-</small>』[[彩流社]]、2005年。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[ボルジア家]] - ボルハ({{lang-es|Borja}} {{IPA-es|ˈborxa|}})は、イタリア語ではボルジア({{lang-it|Borgia}} {{IPA-it|ˈbɔrdʒa}})となる。血縁関係は上述の通り。
* [[ボルジア家]] - ボルハ({{lang-es|Borja}} {{IPA-es|ˈborxa|}})は、イタリア語ではボルジア({{lang-it|Borgia}} {{IPA-it|ˈbɔrdʒa}})となる。血縁関係は上述の通り。
* [[サン・ロッケ教会]]
* [[サルヴァドール大聖堂]]
* [[カトリック教会のエクソシスム]]


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2020年10月15日 (木) 12:45時点における版

聖フランシスコ・ボルハ
聖フランシスコ・ボルハ。アロンソ・カノ画、1624年。
生誕 1510年10月28日
バレンシア王国, バレンシアガンディア近郊
死没 (1572-09-30) 1572年9月30日(61歳没)
教皇領, ローマ
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 1624年11月23日
列福場所 マドリード
列福決定者 ウルバヌス8世
列聖日 1671年6月20日
列聖場所 ローマ
列聖決定者 クレメンス10世
記念日 10月10日
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聖フランシスコ・デ・ボルハ西: San Francisco de Borja, 1510年10月28日 - 1572年9月30日)は、16世紀スペインの貴族、軍人、政治家、聖職者。イエズス会士。第3代イエズス会総長。カトリック教会聖人で祝日は10月10日。象徴は帝冠を被った頭骨。地震に対する守護聖人

生涯

幼少期

1510年、バレンシア王国ガンディア近郊でボルジア家出身の第3代ガンディア公フアン・ボルハ(フアン・ボルジア)とアラゴン王女フアナの長男として生まれた。

母方の祖父でサラゴサ大司教とバレンシア大司教のアロンソ・デ・アラゴン英語版(またはアルフォンソ・デ・アラゴン)は、アラゴン王フェルナンド2世と愛妾アルドンサ・ルイス・デ・イボッラ・イ・アレマニ英語版の庶子であった。また、父は若死にした同名の第2代ガンディア公フアン・ボルジアの長男である事から、フランシスコはローマ教皇アレクサンデル6世の曾孫にあたる。父は2度の結婚でフランシスコを含む13人の子(または17人。庶子が1人いたとも)を儲け、長男フランシスコは後継者として定められ、6人の弟のうち1人はカタルーニャ副王、残りの5人は聖職者に育てられた[注 1][3][4][5]

小さい頃から信仰深かったフランシスコは聖職者になりたいという望みを抱きながら、将来を心配した父から乗馬・狩猟・武術を勧められ田舎生活を送っていたが、1520年に衝撃的な出来事が2つ起こりそれまでの生活に別れを告げた。1つは母の死で、ショックを受けたフランシスコは自室に閉じこもり自分を責めた。もう1つはコムネロスの反乱で、戦闘の余波がガンディアにもおよんだため父や家族と共にガンディアを離れ、母方の伯父のサラゴサ大司教フアン・デ・アラゴンスペイン語版に引き取られ、3年にわたり騎士・廷臣として文武両道の教育を受けて成長した[6][7][8]

1523年、13歳のフランシスコは父の意向でトルデシリャスへ赴いた。ここではフランシスコの母方の大叔母に当たるカスティーリャ女王フアナが幽閉され、娘でフランシスコの従叔母に当たるカタリナと一緒に過ごしていた。フランシスコはカタリナに小姓として仕え、2年後の1525年にカタリナがポルトガルジョアン3世に嫁ぐと父の命令でサラゴサへ戻り、修辞学と哲学を修めた。1528年にカタリナの兄でフランシスコには従叔父に当たる神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の宮廷へ出仕する頃には、美貌と騎士としての力強さおよび謙虚さを兼ね備えた若者になっていた[8][9][10]

宮廷へ出仕

家族に宮廷へ送り込まれるとそこで頭角を現し、皇帝カール5世と皇后イサベルの目に留まり、1529年9月にマドリードでポルトガル貴族の婦人で皇后の女官でもあるレオノール・デ・カストロ・メロ・エ・メネゼス英語版と結婚した。外国人と息子の結婚を嫌う父の反対に遭ったが、皇帝の執り成しで結婚の同意を得られ、2人の間には8子が生まれた。続いて皇帝夫妻から恩寵が与えられ、フランシスコは皇帝からロンベイ侯爵および王室狩猟長、皇后からは自分の馬術教師に任命され、夫婦そろって皇帝夫妻の友人として重用された。更に1530年、カール5世が外国へ行く時にフェリペ王太子(後のスペイン王フェリペ2世)の個人教師と皇室執事にも任命されている[8][9][11]

この頃、異端の疑いで異端審問所により投獄されたイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、会話したという。フランシスコは仕事が忙しくなり、ロヨラのことはさほど印象に残らなかったが、ロヨラは釈放された後イエズス会を立ち上げることになる[12]

昼夜を問わず皇帝の館へ出入りする許可を与えられたフランシスコは多忙になり、皇帝に同行して幾度も従軍し、1535年チュニス征服に従軍した際、マラリアに罹り長期間病床から離れられなかった。翌1536年7月にフランス南部プロヴァンスへの遠征にも従軍したが負け戦に終わっただけでなく、友人ガルシラソ・デ・ラ・ベーガを失う痛手も負った。これとは別に皇帝の国内巡行に同行、皇帝に代わり学問に打ち込み、アロンソ・デ・サンタ=クルス英語版の講義を受けてその知識を皇帝へ伝達する役目もこなし、全力で主君に尽くした結果、再度重病に倒れる羽目に陥った[13][14]

病気から回復した1539年、亡くなった皇后の葬儀を取り仕切り、葬儀の先頭に立つ王太子と共に遺体を警護して妻と共に埋葬地グラナダへ向かった。フランシスコはそこで、美しかった皇后でも命を失えば儚く崩れていく様を見て「2度と命ある君主に仕えまい」と決め、隠棲を考え始めた。しかし、まだ若い貴族だった彼は皇帝からカタルーニャの副王に命じられ、4年間よく同地を治めた。ここでは盗賊と反抗的なアラゴン貴族や不正を働く官僚達を厳しく取り締まり、防衛強化と治安維持に努力した。カタルーニャ住民には好意を持たず、住民からも厳格な統治をあまり受け入れられなかったが、皇帝からの信頼は深まり財政援助のためサンティアゴ騎士団の領土を分与、騎士団幹部に任命された[15][16][17][18]

副王在任中の1541年4月17日、ロヨラはイエズス会初代総長に選ばれた。彼が派遣した宣教師の1人アントニオ・アラオスがバルセロナに下船、イエズス会支援を説得されたフランシスコはイエズス会士を歓迎、ロヨラと文通を交わし、イエズス会との関係がこの時期から始まった[19][20]

1542年12月17日に父が亡くなるとガンディア公位を継承したが、翌1543年4月にバルセロナで滞在中のカール5世へカタルーニャ副王辞任を申し出た。故郷へ戻ることを希望していたフランシスコに対して皇帝は辞任を承諾したが、王太子の結婚相手であるマリア・マヌエラの家令に任じ、妻と2人の娘も女官に任命したため、一家はなかなか故郷へ戻れなかった。1545年にマリア・マヌエラが没したことを契機に妻子と共に故郷へ隠棲し、土地管理と領民の動向に気を配りつつ祈りの毎日を過ごすようになった。そこで、スペインを訪れていたピエール・ファーヴルとアラオスに出会い、イエズス会の精神に大きな魅力を感じた。一方、1542年に疲労で隠遁を考え始めた皇帝から内心を打ち明けられたりもしている[21][22][23][24]

イエズス会に入会

1546年5月27日に妻が死ぬと、フランシスコは世俗の生活を捨てて修道者となる事を決意し、イエズス会への入会を願った。公爵としての立場上すぐに決意を公表出来ないため、6月2日に秘密裡に入会した彼はロヨラと相談の上できちんと身辺整理をし、神学の勉強に専念しつつ普段の生活もこなし、1548年に正式に入会宣言したのを手始めに長男カルロスを貴族の女性と結婚させ、他の子供達の進路と縁組も纏めた。イエズス会最初の大学としてガンディア大学スペイン語版設立にこぎ着け、貧しい学生への奨学金・住居提供とムーア人ユダヤ人への教育支援もカトリックへの改宗を期待した上で与えた[注 2][17][21][26]

1550年に次男フアン英語版と従者を連れてローマを訪問、行く先々で熱烈な歓迎を受けた後にスペインへ戻った。そして翌1551年5月23日、聖職者叙階で司祭となり、カール5世の了解を取り付けた上でガンディア公位をカルロスへ譲り、自らは聖職者として第2の人生を歩み出した。なおローマ訪問の時、イエズス会士養成機関でありロヨラが創設したローマ学院(またはコッレギウム・ロマヌム、現在のグレゴリアン大学)へ私財を寄付、財政面での支援者となった[17][21][27][28]

フランシスコは高貴な一族の出身で、有能であり、ヨーロッパ中にその名が知れ渡っていた為、1552年に教皇ユリウス3世から枢機卿の授与が打診されたがこれを拒み、無名の巡回説教師として生きたいと望んだ。だが、もって生まれたリーダーとしての資質は隠せず、周りの人々は彼に指導的立場に立つよう求めた。1553年、かつて仕えていたポルトガル王妃カタリナとジョアン3世の要請で王宮説教師に迎えられ、翌1554年1555年の2度にわたり、トルデシリャスに幽閉中のフアナの看護に尽くした。また1554年、フランシスコはロヨラの指示でスペインとポルトガルでの総長代理となり、多くの学校と修練院を開設しイエズス会普及に尽力した一方、王太子と妹でスペイン摂政フアナからの信頼も獲得、教皇パウルス4世とカール5世の対立で板挟みに苦しみ、1556年のロヨラ死去に伴うイエズス会の危機、同年のカール5世の退位など問題が重なったが、1558年に第2代総長ディエゴ・ライネスが選出、ユステ修道院へ隠遁したカール5世から変わらぬ信頼を保ち、引き続きスペイン・ポルトガルの活動に邁進していった[注 3][17][30][31][32]

1558年に死去したカール5世の臨終に立ち会い、遺言執行人に指名され追悼演説も行い、順調に進んだかに見えたフランシスコの人生は翌1559年になると暗転した。これはスペインの度が過ぎた国粋主義と異端審問のイエズス会に対する反感が原因であり、かつて親交のあったアラオスもフランシスコがスペインの総長代理になったことに怒り、スペイン宮廷に取り入り国粋主義を煽ったためフランシスコとヘロニモ・ナダール英語版はスペイン王に即位したフェリペ2世のスペイン人イエズス会士の出国禁止などの理不尽な命令や異端審問の弾圧に苦しめられた。1548年と1550年に書いたフランシスコの信仰に関する本は異端審問所により禁書目録に挙げられた上焚書にされ、異端審問所に監禁されたトレド大司教バルトロメ・カランサ英語版に同情したことも災いし、身の危険を感じたフランシスコは一旦ポルトガルへ亡命、2年後の1561年に教皇ピウス4世からフランシスコのローマへの召喚命令を受け取っていたライネスの要請を口実にローマへ亡命した[注 4][33][35][36]

総長に就任、列聖へ

ローマに辿り着いた時ライネスは初めフランスでカトリーヌ・ド・メディシスがカトリックとプロテスタント和解のため召集したポワシー会談英語版に参加、次いでイタリアでトリエント公会議に出席していたため不在で、総長代理として4年間務め、1565年1月19日にライネスが亡くなると7月2日の総会でライネスの後を継いで第3代イエズス会総長に選出された[17][37][38]

フランシスコの総長在任期は翌1566年に選出された教皇ピウス5世の在位(1566年 - 1572年)とほぼ同じで、ピウス5世の協力の下でイエズス会の会則を追加した。他にも様々な事業の整備・追加も手掛け、ローマ学院の基盤強化と修道士の教育に尽力、ローマ学院を総長の本拠地に定め、授業計画に第一課程・第二課程の学課も決めた。またイエズス会へ用地取得資金を与え、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿が進めたジェズ教会建立を後押しした。これと並行して会の各支部に修練院を設け、1567年にローマの丘(クイリナーレ)にローマ修練院を開設、ここから熱烈な伝道者が輩出した。こうしてフランシスコの総長在任期でイエズス会は進展を遂げ、彼は第二の創設者と呼ばれることになった。会員の数も増加しロヨラ死去の時点で1000名だった人数はフランシスコの下で4000名に増加、それぞれ各地の修道院へ配属された[注 5][17][40][41]

更に海外宣教、特にアメリカ大陸伝道を推進、ローマ学院で養成された多くの宣教師は世界各地へと赴いた。南北アメリカへ派遣された宣教師達は明暗が分かれ、1566年から1572年にかけてスペインからフロリダ半島へ派遣された遠征隊に同行したイエズス会士は、現地でインディアンに妨害されたり殺されたりして成果を挙げられなかったが、北アメリカの難航を見た宣教師達が南アメリカへ宣教先変更をフランシスコへ進言したため、イエズス会士は1568年にペルーへ、1572年にメキシコへ派遣された。ペルーはフランシスコが宣教に期待を寄せていたホセ・デ・アコスタら優秀な人材が現地の先住民の生活改善と布教に努力し言葉を翻訳、教会・学校などインフラ整備で成果を挙げ、メキシコのほかエクアドル1586年)、コロンビア1589年)、チリ1593年)などフランシスコの死後新しい管区が開かれていった。フランシスコは海外宣教師へ宛てた文書で改宗者を注意深く教育することについて指摘、ピウス5世への提案に海外宣教活動を枢機卿からなる中央委員会に置くことを勧め、1622年の布教聖省(福音宣教省)設置に結実した[42][43][44][45]

1570年オスマン帝国のヨーロッパ遠征隊派遣に対抗してカトリック諸国結集を計画したピウス5世は、教皇特使を各国へ派遣することを決め、フランシスコを随行者に選んだ。フランシスコは病気で健康面に不安を抱えていたが、承諾して1571年6月30日に使節団に加わって出発した[17][46]

スペインでは、かつて統治していたカタルーニャで昔と違い住民に歓迎され、異端審問所は禁書に指定していたフランシスコの本を公刊、バレンシアでも家族に迎えられた。スペインも対オスマン帝国同盟に賛成し、使節任務は進展した。しかしポルトガルは王位継承問題に直面、フランシスコはセバスティアン1世とフランス王女マルグリットの結婚を勧め、1572年に病気のため使節団に遅れてフランスを訪問したが、既にマルグリットはナバラ王エンリケ3世(後のフランス王アンリ4世)と結婚することが決まっていたため、フランスを対オスマン帝国同盟にも入れられず交渉は不首尾に終わった。使節と別れた後に冬の寒さで病状が悪化、心配したサヴォイアエマヌエーレ・フィリベルト又従兄に当たるフェラーラアルフォンソ2世の配慮で駕籠や船に乗せられイタリアへ運ばれ、ローマに帰還した時は瀕死の状態で、2日後の9月30日に兄弟トマスやイエズス会の仲間達に見守られる中、自分の子供や孫達に祝福を授け、ローマで亡くなった。61歳だった[17][47]

埋葬された遺体は1617年にジェズ教会へ移されたが、フランシスコの孫でスペイン王フェリペ3世の寵臣のレルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス英語版の要請で、1624年に片腕だけジェズ教会に残してマドリードでレルマ公が建立した教会へ移葬、教皇ウルバヌス8世列福された。47年後の1671年に教皇クレメンス10世により列聖された[48]

フランシスコの死から半年後の1573年4月12日に総会が開かれたが、総長が3代続けてスペイン人だったことでスペイン人会士に対する他の外国人会士の反感が高まり、ピウス5世の死後選出された教皇グレゴリウス13世やポルトガル王家も総長選挙に介入、紆余曲折の末4月23日に非スペイン人でベルギー人会士のエヴェラール・メルキュリアン英語版が第4代総長に選出された。以後メルキュリアンとイタリア人の第5代総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ英語版はイエズス会の更なる組織整備・発展に尽くし、会士にロヨラの精神の再確認を呼びかけ、教育法規の制定で学習カリキュラムを明確な形で纏め、イエズス会をスペイン一辺倒から国際色豊かな組織に作り替えた。スペイン国粋主義と異端審問の圧力にも屈せず、イエズス会士を13000人にもおよぶ組織に成長させていった[49][50]

人物

幼少期からの敬虔さは両親から心配されるほどだったが、行き届いた教育で優れた騎士としての技量も身に着けた。謙虚な性格で世俗よりも精神的な目標に関心を向けていたが、若い貴族の時期は任務に忠実で、カタルーニャ統治に見られるように厳格・傲慢さも垣間見えていた。しかし厳しい苦行を自らに課したことでそうした激情を制御出来たと語り、責任感と信仰で抑制されていった。1550年のローマ訪問でボルジア家の悪名とフランシスコの謙虚さが対照的に見られ、多くの人々からの注目を浴びた[51][52]

また冗談好きの一面も見られ、カール5世に宛てた手紙で異常な肥満体だった自分自身をからかった文を書いたり、イエズス会が修練士の入会を拒んだ時に「公爵として生まれたことについて心から感謝する。何故なら、会の上長者たちをして私を受け入れる気にならせたものは、私には他には何一つなかったからである!」と公然と発言したりしていた[53]

1551年11月15日にミサを行った際に大勢の列席者が詰めかけ、フランシスコの説教はカスティーリャ語で聴衆はバスク語しか理解出来ないはずだったが、次第に聴衆は感動の渦に引き込まれて泣き出した。理由は「自分らの体内に神の啓示を感じ、その声は自分らまでは届かなかったのに、説教師の言葉を分からせてくれる無言の言葉をそこで聞いた」と答えたと言う。庶民からの人気は絶大で、スペインで民衆や神秘家として名高いアビラのテレサに意見を求められたほか、1571年のヨーロッパ諸国訪問でも行く先々でフランシスコの評判を聞いた群衆が詰めかけるほどだった[17][54]

子女

レオノールとの間に8人の子を儲け、彼女の死後フランシスコは子供達の進路と縁組を定め、イエズス会へ入会した[17][26]

子孫にフェリペ3世の寵臣として知られるレルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス英語版(外孫、イサベルとデニア侯の息子)、ポルトガル王ジョアン4世ルイサ・デ・グスマン(玄孫、レルマ公の外孫)、ビジャエルモサ公でカタルーニャ副王を務めたカルロス・デ・アラゴン・デ・グレア・イ・デ・ボルハ(フアンの子孫)がいる。

またフアンの息子フランシスコ・デ・ボルハ・イ・アラゴン英語版はペルー副王、フェルナンドの息子フアン・ブエナベントゥラ・デ・ボルハ・イ・アルメンディア英語版はヌエバ・グラナダ総督を務め、アメリカ植民地の行政・教育の発展とイエズス会やドミニコ会が運営するコレヒオ(大学の前哨)の設立など植民地支配に深く関与した。カルロスの孫ガスパール・デ・ボルハ・イ・ベラスコ英語版はナポリ副王を務めた[55]

ボルジア家家系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カリストゥス3世
 
イサベル
ルガール・イ・トーレ・デ・カナルス女領主
 
ホフレ英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヴァノッツァ・カタネイ
 
 
 
 
 
アレクサンデル6世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フアン3世
 
シャルロット
 
チェーザレ
 
フアン
 
ルクレツィア
 
ホフレ
 
ペドロ・ルイス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリップ・ド・ブルボン=ビュッセフランス語版
 
ルイーザ
 
 
 
フアン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランシスコ
 
 

注釈

  1. ^ 他にも、父方の祖母に当たるマリア・エンリケス・デ・ルナは夫の第2代ガンディア公没後は信仰に一生を捧げ、ガンディアの各教会を援助し、1509年に息子の第3代ガンディア公の結婚を機に引退、ガンディアのクララ会に帰依して修道女となり、1537年サンタ・クララ修道院英語版で亡くなるまで余生を送った。以後サンタ・クララ修道院はボルジア家の子孫が入門してしばしば女子修道院長を輩出、フランシスコもマリア・エンリケスから宗教的影響を強く受けていたと言われる[1][2]
  2. ^ フランシスコの入会にはボルジア家の悪名高さから反対の声が上がったが、ロヨラがそれを押し切って受け入れた。ロヨラの決断は彼がフランシスコを信頼していたこともあるが、フランシスコが宮廷と関係が深い点を利用した側面もあり、イエズス会はスペインの結びつきが強くなった。以後宮廷に入り込み王侯貴族の信頼を獲得して布教を上から下へ広める方法、および宮廷に受け入れやすい聖職者養成のためイエズス会士のエリート教育がイエズス会の方針になった[21][25]
  3. ^ ポルトガルではフランシスコはカタリナを説得して孫セバスティアン1世の教育をイエズス会に委託させ、それに伴いライネスが助言者としてポルトガル人のカマラ神父を任命した。後にセバスティアン1世は1578年に無謀なアフリカ遠征を行い戦死するが、それはカマラの影響が強かったからとされている[29]
  4. ^ フランシスコの2人の異母弟ディエゴとフェリペが殺人事件を起こして逃亡したこともフェリペ2世の怒りを買い、ディエゴは逮捕され1562年に処刑、フェリペも逮捕されたがアフリカへ脱走した[33][34]
  5. ^ 1568年にピウス5世はフランシスコの要望に応え、1日1時間の祈りと聖務日課の朗唱を修道士に義務付けた。1日1時間の祈りについて、1565年の総会から規定されていた祈りの時間延長の権限を与えられたフランシスコが前もって決めていたが、熱意不足を克服する目的で始められた祈りはロヨラの洞察と精神(イエズス会士は普段の仕事で祈りに劣らない神との絆を見出すべきと主張、個人の違いを尊重して祈りを規定で縛ることに反対した)からイエズス会が離れることになる恐れがあったが、多数派のスペイン人・ポルトガル人会員の支持により採用された。その後祈りの時間は1966年の総会でロヨラの教えに回帰する形で修正され、聖務日課の朗唱はピウス5世の次の教皇グレゴリウス13世により1573年までに破棄された[39]

脚注

  1. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 246,248.
  2. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 420-422.
  3. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 246.
  4. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 423-424.
  5. ^ ドナルド・アットウォーター, キャサリン・レイチェル・ジョン & 山岡健 1998, p. 322-323.
  6. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 246-247.
  7. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 424-425.
  8. ^ a b c 西川和子 2005, p. 44.
  9. ^ a b マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 247.
  10. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 425-426.
  11. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 428-429.
  12. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 426-428.
  13. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 247-248.
  14. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 429-430.
  15. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 248.
  16. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 430-434.
  17. ^ a b c d e f g h i j ドナルド・アットウォーター, キャサリン・レイチェル・ジョン & 山岡健 1998, p. 323.
  18. ^ 西川和子 2005, p. 42-43.
  19. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 248-249.
  20. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 434-435.
  21. ^ a b c d マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 249.
  22. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 435-437.
  23. ^ ウィリアム・バンガート & 上智大学中世思想研究所 2004, p. 28.
  24. ^ 西川和子 2005, p. 94.
  25. ^ 伊藤滋子 2001, p. 45-46.
  26. ^ a b イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 437-440.
  27. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 440-443.
  28. ^ ウィリアム・バンガート & 上智大学中世思想研究所 2004, p. 28-29.
  29. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 448-449.
  30. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 249-250.
  31. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 443-449.
  32. ^ 西川和子 2005, p. 95.
  33. ^ a b マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 250.
  34. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 451.
  35. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 449-452.
  36. ^ ウィリアム・バンガート & 上智大学中世思想研究所 2004, p. 72-73.
  37. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 251.
  38. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 452-453.
  39. ^ ウィリアム・バンガート & 上智大学中世思想研究所 2004, p. 57-60.
  40. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 453.
  41. ^ ウィリアム・バンガート & 上智大学中世思想研究所 2004, p. 60,68,70.
  42. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 453-454.
  43. ^ 伊藤滋子 2001, p. 54-59.
  44. ^ ウィリアム・バンガート & 上智大学中世思想研究所 2004, p. 60,111-115.
  45. ^ 樺山紘一 2004, p. 169-170.
  46. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 455-456.
  47. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 456-461.
  48. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 462-463.
  49. ^ 伊藤滋子 2001, p. 48-49.
  50. ^ ウィリアム・バンガート & 上智大学中世思想研究所 2004, p. 60-63,117-128.
  51. ^ マリオン・ジョンソン & 海保眞夫 1984, p. 246,250.
  52. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 424,426,441.
  53. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 433-434,442-443.
  54. ^ イヴァン・クルーラス & 大久保昭男 1989, p. 443,450,456-457.
  55. ^ 樺山紘一 2004, p. 170.

参考文献

関連項目

先代
フアン・ボルハ
ガンディア公英語版
1542年 - 1551年
次代
カルロス・デ・ボルハ・イ・カストロ
先代
ディエゴ・ライネス
イエズス会総長英語版
1565年 - 1572年
次代
エヴェラール・メルキュリアン英語版