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「沖大東島」の版間の差分

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'''沖大東島'''(おきだいとうじま)は、[[大東諸島]]の[[島]]である。別名'''ラサ島'''(ラサとう、Rasa Island)。「ラサ」とは、[[ラテン語]]で「平坦な」という意味の rasa に由来。行政区画は、全島が[[沖縄県]][[島尻郡]][[北大東村]]に属する。住所は郵便番号 901-3900、沖縄県島尻郡北大東村大字ラサ。[[沖ノ鳥島]]から一番近い島でもある。


{{読み仮名|'''沖大東島'''|おきだいとうじま}}は、[[大東諸島]]に所属する島である。別名{{読み仮名|'''ラサ島'''|ラサじま|{{lang-en-short|Rasa Island}}}}{{refnest|group="注釈"|name="ラサ島の読み"|ラサ島の読みについては、1915年6月4日付官報第851号p.98において、「ラサジマ」とのルビが振られていることから「ラサじま」とする<ref name="官報851">“[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2952957?tocOpened=1 『官報』第851号(1915年6月4日)]”. 国立国会図書館デシタルコレクション。</ref>
== 地理 ==
}}。行政区画は全島が[[沖縄県]][[島尻郡]][[北大東村]]に属する。
[[那覇市]]の南東408km、[[南大東島]]の南約150kmの[[太平洋]]上にあるハマグリ状の[[隆起]][[サンゴ礁|珊瑚礁]]の[[無人島]]。周囲は珊瑚礁に囲まれている。[[北大東島]]や南大東島によく似た地形だが、これらの島に見られる中心部の盆地状の起伏は見られず、沿岸は岩礁で囲まれている。島のほとんどが、鳥の糞と珊瑚の石灰質とが化学変化してできた糞化石質[[リン|燐鉱石]]([[グアノ]])からなる。そのため、[[衛星画像|衛星写真]]もしくは[[空中写真|航空写真]]を見ると、地表が白く見える。


==島の概観==
南大東島や北大東島と異なり、[[ラサ工業]]が[[大日本帝国]]政府から本島の払い下げを受けた1937年([[昭和]]12年)以来、一貫して同社の私有地である。[[1972年]](昭和47年)の[[沖縄返還]]時には誤って[[国有地]]とされてしまったが、翌1973年(昭和48年)には、ラサ工業の所有権が確認された。
沖大東島は[[南大東島]]の南、約160キロメートル、[[那覇市]]の南東約408キロメートルにある、周囲約4.34キロメートル、面積約1.19平方キロメートルの隆起サンゴ礁の島である<ref name="北大東村誌a651">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.651.]]</ref><ref name="沖大東島の第四紀地殻変動58">[[#沖大東島の第四紀地殻変動|河名、大出(1993)、p.58.]]</ref>。島の形は[[北大東島]]と似た三角形をしており、最高所は島内北部にあって標高31.1メートルである。南東部から北、そして南東部から北西に向かってやや標高が高い地域となっており、島の中央部は周囲から10メートルから15メートル標高が低い凹地となっている<ref name="北大東村誌a655">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.655.]]</ref><ref name="沖大東島の第四紀地殻変動58"></ref>。また島の海岸線は断崖となっており、周囲は[[サンゴ礁]]で囲まれている<ref name="北大東村誌a655"></ref>。


沖大東島の気候は、戦前の観測記録によれば年平均気温は24.0度。年間降水量は1296.6ミリメートルである。寒暖の差は小さく、夏季はにわか雨が多いものの降水量は比較的少ない<ref name="北大東村誌a655-656">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、pp.655-656.]]</ref>。また7月から10月は台風シーズンであり、[[ラサ島鉱業所]]によるリン鉱山が稼働していた戦前期、7月から10月にかけては鉱石の輸送等が困難となることが多かった<ref name="燐礦事情6">[[#燐礦事情|阿曾(1925)、p.6.]]</ref>。
[[1970年代]]には、ラサ工業による再開発計画もあり、残存している燐鉱石を採掘しつつ、島内に[[石油備蓄基地]]を設ける計画もあったが、空対地爆撃射撃場(後述)が返還されないこと、燐鉱埋蔵量が不透明などといった理由から消滅している。[[1980年]](昭和55年)には燐鉱床の探鉱が行われ、[[リン鉱石|燐鉱石]]が約300万t残存していることが確認されたが、ラサ工業は1983年(昭和58年)にリン酸肥料を含む[[化学肥料]]事業から撤退した。全島が[[ラサ工業]]の[[所有権|所有]]であり、また[[在日米軍]]の[[沖大東島射爆撃場]]として利用されていることから、本島に一般人が上陸することはできない。


==島の形成とリン鉱石鉱床==
かつて[[大日本帝国海軍]]の[[気象台]]があり、1945年(昭和20年)に[[アメリカ軍]]の[[空襲]]で焼失するまで、日本の[[台風]]観測上重要な位置を占めていた。
沖大東島は[[フィリピン海]]北西部にある沖大東海嶺の最高部である。フィリピン海には沖大東海嶺の他、南大東島、北大東島がある大東海嶺、そして大東海嶺の北側には奄美海台があり、それぞれ[[琉球海溝]]に直交するように北西から南東方向へ[[九州・パラオ海嶺]]まで延びている<ref name="沖大東島の第四紀地殻変動58"></ref><ref name="九州・沖縄地方410">[[#九州・沖縄地方|日本地質学会(2010)、p.410.]]</ref>。沖大東海嶺は島弧を形成する地殻が沈降したものと考えられており、基盤は[[白亜紀]]後期の[[深成岩]]などによって形成されている。沖大東海嶺は[[始新世]]には浅い海であったと考えられ、浅海性の石灰岩が広く堆積した。その後[[鮮新世]]になると遠洋性である石灰質の[[泥岩]]が堆積している<ref name="沖大東島の第四紀地殻変動58"></ref><ref name="九州・沖縄地方411">[[#九州・沖縄地方|日本地質学会(2010)、p.411.]]</ref>。


[[フィリピン海プレート]]の移動に伴って沖大東海嶺は北西方向へと移動している。フィリピン海プレートは沈み込み帯である琉球海溝に近づくと屈曲し、その影響で「海溝周縁隆起帯」と呼ばれる隆起帯が形成される。沖大東島、そして南大東島、北大東島はそれぞれ、プレートの移動によって海溝周縁隆起帯に差し掛かったため隆起して陸化した<ref name="沖大東島の第四紀地殻変動65-66">[[#沖大東島の第四紀地殻変動|河名、大出(1993)、pp.65-66.]]</ref>。南大東島、北大東島は約160万年前から200万年前に海溝周縁隆起帯に入って陸化したものと考えられているが、沖大東島はそれよりも遅く、約50万年前から60万年前に海溝周縁隆起帯に入って陸化したと見られている<ref name="沖大東島の第四紀地殻変動66-67">[[#沖大東島の第四紀地殻変動|河名、大出(1993)、pp.66-67.]]</ref>。
== 歴史 ==
[[1543年]]に[[スペイン帝国|スペイン]]の[[ベルナンド・デ・ラ・トーレ]]が発見する<ref name ="hitouzukan">{{Cite book|和書
|author = 清水浩史
|year = 2015
|title = 秘島図鑑
|publisher = 河出書房新社
|isbn = 978-4-309-27615-1
|pages = pp.026-029
}}</ref><ref name = "kokkyou">{{Cite book|和書
|author = 浦野起央
|year = 2013
|title = 日本の国境:分析・資料・文献
|publisher = 三和書籍
|isbn = 9784862511522
|pages = pp.136-139
}}</ref>。[[1807年]]に[[フランス第一帝政|フランス]]の[[軍艦]]カノニエルにより、ラサ島と命名された<ref name ="hitouzukan" /><ref name = "kokkyou" />。


南大東島、北大東島は[[環礁]]が隆起した隆起環礁であり、中央部に礁湖の跡である明確な凹地が形成されている<ref name="九州・南西諸島278-279">[[#九州・南西諸島|町田ら(2001)、pp.278-279.]]</ref>。一方、沖大東島は中央部に凹地があるものの周囲の高地との高低差は10メートルから15メートル程度で、元来、環礁のような礁湖があったものと推定されているが、その規模は小さく水深も浅かったと考えられている。しかし礁湖が無いサンゴ礁の隆起地形である隆起卓礁とするのは、礁湖の跡である凹地が形成されているため不適切であり、隆起環礁と隆起卓礁の中間的性質の隆起準卓礁に分類されている<ref name="沖大東島の第四紀地殻変動62">[[#沖大東島の第四紀地殻変動|河名、大出(1993)、p.62.]]</ref>。
[[1898年]]9月、[[南鳥島]]を開拓した[[水谷新六]]の指揮の下、[[永勝丸]]によって調査が行われた<ref name ="hasegawa1">{{Cite book|和書
|author = 長谷川亮一
|year = 2011
|title = 地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち
|publisher = 吉川弘文館
|isbn = 978-4-642-05722-6
|pages = pp.161-163
}}</ref>。更に[[1899年]]6月には、[[沖縄県|沖縄]]の[[実業家]]・[[中村十作]]が調査を行い同島の借用を求めた<ref name ="hasegawa1" />。[[1900年]][[9月20日]]、'''沖大東島'''と命名し日本領とすることが閣議決定され<ref name = "kokkyou" /><ref name ="hasegawa1" />、[[9月26日]]の内務大臣訓令 訓第913號<ref name = "kokkyou" />及び[[10月17日]]の沖縄県告示第95号<ref name ="hasegawa1" />によって日本領編入が宣言された。しかしながら当初沖大東島の開拓許可を願い出た中村の計画は、実行されることなく立ち消えてしまった<ref name ="hasegawa1" />。[[1901年]]9月には、[[的矢丸]]で再び沖大東島に向かった水谷新六が[[暴風雨]]によって漂流するという事故が起きている<ref name ="hasegawa1" />。


隆起が進む中で沖大東島では[[海岸段丘]]が形成され、[[更新世]]の4つの段丘面が確認できる。これははっきりとした段丘面が形成されていない南大東島、北大東島の地形との大きな違いのひとつである。沖大東島で海岸段丘が発達したのは、南大東島、北大東島と比べて海山部分の傾斜が緩やかであったからと考えられている。急斜面の南大東島、北大東島では隆起に伴って段差が生じにくいのに対して、傾斜が緩やかであるため段丘面が形成されたのである<ref name="沖大東島の第四紀地殻変動58-62">[[#沖大東島の第四紀地殻変動|河名、大出(1993)、pp.58-62.]]</ref>。
[[1906年]][[3月22日]]付で[[南大東島]]・[[北大東島]]を開拓した[[玉置半右衛門]]が沖大東島の開拓許可を願い出て、同年[[4月14日]]に15年間の無償開拓が許可された<ref name = "kokkyou" /><ref name ="hasegawa2">{{Cite book|和書
|author = 長谷川亮一
|year = 2011
|title = 地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち
|publisher = 吉川弘文館
|isbn = 978-4-642-05722-6
|pages = pp.183-164
}}</ref>。玉置は沖大東島に調査団を派遣し、その際に採取された岩石標本が[[農商務省 (日本)|農商務省]]元官吏の[[恒藤規隆]]に送られた<ref name ="hasegawa2" />。この岩石標本が良質な[[燐鉱石]]であったことから、沖大東島の開発競争が熾烈になる。玉置・恒藤に加えて、過去に沖大東島を調査した水谷、[[三重県]][[四日市市]]の[[実業家]]、[[九鬼紋七]]らによる熾烈な獲得競争が起こった<ref name ="hasegawa2" />。この獲得競争の末、[[1907年]]9月には恒藤が玉置・九鬼と合同で島内の調査を行った<ref name = "kokkyou" /><ref name ="hasegawa2" />。恒藤による調査上陸時には沖大東島は鬱蒼とした[[アダン]]の密林に覆われており、島の内部には入ることすら困難であったとされ、恒藤らは灌木のうち約16.5[[ヘクタール|ha]]を焼き払った<ref name ="hitouzukan" />。この際に豊富な[[グアノ|燐鉱石]]が発見された<ref name ="hitouzukan" />。この後には、[[東沙諸島]]・東沙島を開拓していた[[西沢吉治]]が水谷と合同で沖大東島の利権獲得に動き、失敗に終わっている<ref name ="hasegawa2" />。[[1910年]]10月には沖大東島の開発を目的に、恒藤によって日本産業商会が設立される<ref name ="hasegawa2" />。同年11月に恒藤、玉置、九鬼による第2回目の合同調査が実施されている<ref name ="hasegawa2" />。この後、合同で開発を進めていた恒藤が全ての利権を獲得<ref name ="hasegawa2" />。玉置と九鬼は沖大東島開発からは手を引くこととなった<ref name ="hasegawa2" />。恒藤は[[1911年]]にラサ島燐礦(りんこう)合資會社を設立、大正2年にはラサ島燐礦株式會社(のちに[[ラサ工業]])に改組され、燐鉱石から過リン酸石灰(肥料・[[火薬]]の原料)が製造された<ref name = "kokkyou" />。しかし、[[1929年]]には[[世界恐慌]]の煽りを受けて操業を中止している<ref name = "kokkyou" />。[[1937年]]に日本政府よりラサ工業に沖大東島が譲渡され、正式にラサ工業の私有地となる<ref name ="hitouzukan" />。[[1941年]]に[[太平洋戦争]]勃発にともなう燐鉱資源逼迫により採掘を再開した<ref name = "kokkyou" />。太平洋戦争中は陸軍守備隊も置かれたが、すでに資源枯渇が明白になっていた事と、空襲や艦砲射撃が増加しつつあった事から、[[1945年]]に民間人は終戦を待たずに[[奄美諸島]]などに引き揚げ、陸軍守備隊のみが駐屯するようになる<ref name ="hitouzukan" />。同年8月には太平洋戦争終結に伴い、陸軍守備隊も引き揚げ、無人島となる<ref name ="hitouzukan" />。


陸化が進む中で沖大東島では多くの海鳥が生息するようになった。海鳥の糞が堆積して[[グアノ]]が生成され、更にグアノ中のリン酸が石灰岩と反応することによってリン鉱石が形成されていった<ref name="リン鉱石とリン資源394">[[#リン鉱石とリン資源|小田部(1997)、p.394.]]</ref><ref name="ラサ島燐礦調査報告216">[[#ラサ島燐礦調査報告2|大井上(1926)、p.16.]]</ref><ref name="北大東村誌a673">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.653.]]</ref>。沖大東島では1911年から1944年にかけて約160万トンのリン鉱石が採掘された<ref name="ラサ工業80年史126">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、p.126.]]</ref>。1978年の調査によれば、リン鉱石の残存推定埋蔵量は約350万トンである<ref name="恒藤規隆博士と日本の燐酸資源65">[[#恒藤規隆博士と日本の燐酸資源|熊沢(1983)、p.65.]]</ref>。
太平洋戦争終結後は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ合衆国の施政下]]に置かれる。[[1956年]]に[[沖大東島射爆撃場]]が設置され、島全域が[[アメリカ海軍]]の管理下に置かれるようになり、[[1958年]]よりアメリカ海軍の射爆撃場としての使用が開始された<ref name ="hitouzukan" /><ref name = "kokkyou" />。[[1972年]]の[[沖縄返還|沖縄県の日本復帰]]に伴い、[[沖縄県]][[島尻郡]][[北大東村]]に編入された<ref name = "kokkyou" />。返還に際して一度は国有地とされたが、沖大東島の唯一の地権者であるラサ工業の所有が確認され、企業私有地と認定された<ref name = "kokkyou" />。以後も継続してアメリカ海軍の射爆撃場として使用されている。[[1975年]]には[[ラサ工業]]による上陸調査が[[海上自衛隊]]などの協力により行われた<ref name ="hitouzukan" />。[[1989年]]には、北大東村と[[南大東村]]の村長らが[[劣化ウラン弾]]調査のため上陸している<ref name ="hitouzukan" />。これ以来、一般人の上陸は行われていない<ref name ="hitouzukan" />。[[2012年]] 地図・海図に記載される名称として、沖大東島南西部沖合の小島([[岩礁]])が'''南西小島'''と命名された<ref>2012年3月2日 首相官邸[[総合海洋政策本部]]「排他的経済水域(EEZ)外縁を根拠付ける離島の地図・海図に記載する名称の決定について」より</ref><ref>[http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=131.18488888873&latitude=24.462237898921 南西小島の位置 国土地理院25,000分の1地形図、沖大東島]</ref>。


そして1911年から1944年にかけてのリン鉱石採掘によって沖大東島の地形は大きく改変された。元来、島の中心部は標高約15メートル程度で比較的平坦であったものが、大きな陥没を生じて最底部からは海水がしみ出すようになっており、また島内の地形全体も表層のリン鉱石採掘によって岩石が林立した凹凸が激しい地形となっている<ref name="北大東村誌a671">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.651.]]</ref><ref name="北大東村誌b624">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.624.]]</ref>。
== 燐鉱山としての沖大東島 ==

==生物相==
===植物相===
沖大東島の植物相の調査報告については、1912年、[[ラサ島鉱業所]]によるリン鉱石採掘が始まった直後にリン鉱石の採掘状況等の視察を行った、[[盛岡高等農林学校]]教授山田玄太郎の報告書内の記述<ref name="沖大東島の植物相と現存植生65-66">[[#沖大東島の植物相と現存植生|宮城(1992)、pp.65-66.]]</ref>。そして1989年の[[琉球大学]]教授の宮城康一によるもの<ref name="北大東村誌b626">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.626.]]</ref>。その他、1903年の沖縄県知事[[奈良原繁]]による大東諸島視察時のものが知られている<ref name="北大東村誌a657">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.657.]]</ref><ref name="沖大東島の植物相と現存植生68">[[#沖大東島の植物相と現存植生|宮城(1992)、p.68.]]</ref>。

1903年の奈良原知事率いる調査団の報告書では、海岸部の断崖のすぐ内側は荒れた草地であるが、その奥には[[アダン]]林、そして[[ビロウ]]林となっているとしている<ref name="北大東村誌a657"></ref><ref name="小瀬佳太郎b767">[[#小瀬佳太郎b|小瀬(1903b)、p.767.]]</ref>。1912年の山田教授の報告によれば、海水が掛かる場所にはほとんど植物がみられず、わずかに[[スベリヒユ]]などが見られるのみであり、その内側には[[クサトベラ]]林やアダン林が広がり、島の中心部にはビロウの純林が広がっていた。なお、アダン林とビロウ林の間には[[アカテツ]]、[[アコウ]]、[[ムクイヌビワ]]など広葉樹が生育していた<ref name="ラサ島燐礦事業時報312">[[#ラサ島燐礦事業時報3|ラサ島燐礦合資會社(1912)、p.12.]]</ref><ref name="沖大東島の植物相と現存植生68"></ref>。

島の中心部に広がっていたビロウの純林は、昼なお暗く下草はほとんど見られなかった。密生している場所ではビロウは一坪に約1本半の割合で生えており、高いものでは14.5メートルになったという<ref name="ラサ島燐礦事業時報312-13">[[#ラサ島燐礦事業時報3|ラサ島燐礦合資會社(1912)、pp.12-13.]]</ref><ref name="沖大東島の植物相と現存植生67-70">[[#沖大東島の植物相と現存植生|宮城(1992)、pp.67-70.]]</ref>。

1912年の山田の調査によれば、[[種子植物]]42種、[[シダ植物]]2種を確認し、植物の種類ははなはだ少ないとしている<ref name="ラサ島燐礦事業時報311-12">[[#ラサ島燐礦事業時報3|ラサ島燐礦合資會社(1912)、pp.11-12.]]</ref><ref name="沖大東島の植物相と現存植生67">[[#沖大東島の植物相と現存植生|宮城(1992)、p.67.]]</ref>。宮城康一の分析によれば、沖大東島の原植生は島が小さなこと湖沼や湿地帯のような水系を持たないことから貧弱なものではあったが、基本的には[[南大東島]]、北大東島の植生と似たものであったと考えられる<ref name="沖大東島の植物相と現存植生70">[[#沖大東島の植物相と現存植生|宮城(1992)、p.70.]]</ref>。

ラサ島鉱業所によるリン鉱石採掘は島の植生を激変させていく。1925年に沖大東島を視察した記録によれば、かつて鬱蒼たるビロウ林に覆われていたが、リン鉱石採掘が進むにつれて伐採されて鉱業所の事務所付近に点在するのみになっており、西海岸を除いて樹木が稀であると報告されている<ref name="ラサ島燐礦調査報告14-15">[[#ラサ島燐礦調査報告|大井上(1925)、pp.14-15.]]</ref>。そして1944年、ラサ島鉱業所によるリン鉱石採掘最終期には、島内には高さ5メートル以下のビロウが13本残っているのみで、職員住宅と海岸部に多少の草地があるものの、残りはリン鉱石採掘後の凸凹した岩石が連なり、草木が見られない状態となっていた<ref name="ラサ島守備隊記74-75">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.74-75.]]</ref>。

1989年の宮城康一の調査によれば沖大東島では41種の植物が確認された。植物相は貧弱であり、確認された植物の多くが海岸部に生育するもので、また帰化移入種は15種と30パーセントを超えた。沖縄にある[[鳩間島]]、[[屋嘉比島]]、[[久場島 (沖縄県石垣市)|久場島]]といった約1平方キロメートルの、沖大東島とほぼ同面積の島と比較してみると、種の数は少なく、帰化移入種の割合は高い。帰化移入種の割合が高い理由は戦前のリン鉱石の採掘による植生の破壊や土壌の減少、そして戦後は射爆場となって爆撃の影響を受けるなど、大きな人為的な攪乱を受けたことが原因と考えられている<ref name="沖大東島の植物相と現存植生66-70">[[#沖大東島の植物相と現存植生|宮城(1992)、pp.66-70.]]</ref>。

また1989年の調査によればビロウ、ムクイヌビワが確認できず、これらの種は人為的な攪乱が原因で沖大東島では絶滅したものと考えられている<ref name="沖大東島の植物相と現存植生67"></ref>。島内には樹林帯は皆無で、草本性の植物の中にわずかにクサトベラ、アダンなどの低木が見られるのみである<ref name="沖大東島の植物相と現存植生68"></ref>。

===動物相===
前述した1912年の山田玄太郎の報告によれば動物の種類は少なく、爬虫類、哺乳類は全く見られない。つまり南大東島、北大東島に生息している[[ダイトウオオコウモリ]]は沖大東島には生息していなかったと考えられる<ref name="ラサ島燐礦事業時報310">[[#ラサ島燐礦事業時報3|ラサ島燐礦合資會社(1912)、p.10.]]</ref><ref name="北大東村誌b625-626">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、pp.625-626.]]</ref>。

また島内には[[メジロ]]が多く、人間を恐れないので容易に捕まえることが出来た。また季節によっては[[アホウドリ]]などが飛来して繁殖していたという<ref name="ラサ島燐礦事業時報310"></ref><ref name="北大東村誌b625-626"></ref>。

昆虫類はチョウ、ガ、バッタ、トンボなどが見られ、人間に伴うと考えられる蠅や蚊、ノミも見られた。一方島内では[[ヤシガニ]]が生息しているが、美味であるため乱獲され、ラサ島鉱業所開所約1年にしてその数が減少していたという<ref name="ラサ島燐礦事業時報310-11">[[#ラサ島燐礦事業時報3|ラサ島燐礦合資會社(1912)、pp.10-11.]]</ref><ref name="北大東村誌b625-626"></ref>。

==発見と命名==
沖大東島についての記録としては、1543年にスペイン人、ベルナルド・デ・ラ・トーレがマル・アブリゴ(Mal Abrigo)と命名している<ref name="沖大東島の領土確定432
-433">[[#沖大東島の領土確定|平岡(1992)、pp.432-433.]]</ref><ref name="北大東村誌b629">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.629.]]</ref>。その後、オランダ人のアジア方面の進出が盛んになる中でアムステルダムと呼ばれるようになった<ref name="沖大東島の領土確定433">[[#沖大東島の領土確定|平岡(1992)、p.433.]]</ref>。また18世紀後半に北アメリカ大陸北西部の太平洋岸を探検したことで知られる、アメリカ合衆国の[[ジョン・ケンドリック]]にちなんで、ケンドリック島と書かれた資料もあり、これはケンドリックが航海中に沖大東島を通りかかったことによるものと考えられている<ref name="北大東村誌b629"></ref>。

1807年、フランスの軍艦カノニエル号が「ラサ島」と命名した。なお、もともと難破したイギリス船がラサ島の名付け親であるとの説もある。ラサの語源ははっきりしていないが、[[スペイン語]]などラテン語系の言語では「ラサ」とは平らなという意味であり、沖大東島の比較的平坦な地形から名付けられたとする説が有力である<ref name="北大東村誌b630">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.630.]]</ref>。なお、ラサ島という名称は正式名称が沖大東島と決定された後も使用され続けている<ref name="北大東村誌b630">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.630.]]</ref>。

==日本領への編入==
1885年、[[北大東島]]、[[南大東島]]の両島は日本領に編入される。しかし同じ大東諸島に属しながら、この時沖大東島の日本領編入は行われなかった<ref name="沖大東島の領土確定434">[[#沖大東島の領土確定|平岡(1992)、p.434.]]</ref>。その後、南方への関心が高まっていく中で南北大東島の開拓への動きが見え始めた1891年に、アメリカ船籍の船、キットセップが大東諸島付近で遭難して南大東島に乗組員が漂着した。漂着後、船長以下4名が[[カッター (船)|カッター]]に乗って沖縄本島に辿り着いて救援を要請し、要請を受けて沖縄県は南大東島に救援船を派遣する。この事件をきっかけとして沖縄県は[[海軍省]]に南方探検を目的とした軍艦派遣を要請した<ref name="小瀬佳太郎a693">[[#小瀬佳太郎a|小瀬(1903a)、p.693.]]</ref><ref name="沖大東島の領土確定434">[[#沖大東島の領土確定|平岡(1992)、p.434.]]</ref>。

沖縄県側の要請は受け入れられ、1892年8月に海軍艦船[[海門 (スループ)|海門]]が派遣された。那覇に来航した海門の艦長[[柴山矢八]]に対し、沖縄県側は南北大東島や[[尖閣諸島]]に属する島々は既に探検が行われているとして、未調査のラサ島と[[南波照間島]]を優先的に探検するよう要請した<ref name="北大東村誌b630"></ref><ref name="帝国日本の拡大190">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.190.]]</ref>。しかし海門は那覇を出港するとまず南大東島へ行って7名が上陸して調査を行わせ、その後ラサ島に向かって3名を上陸させて約1時間半の調査を行った後、再び南大東島に戻って上陸調査中の7名を帰船させると、北大東島は上陸すらせず洋上からの視察で終え、帰途についた<ref name="帝国日本の拡大190">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.190.]]</ref><ref name="北大東村誌b630-631">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、pp.630-631.]]</ref>。

この短期間の海軍艦船海門による大東諸島「探検」について、[[笹森儀助]]は職務を忘れ、探検の精神をおろそかにしたものであると痛烈に批判した<ref name="南嶋探験334-340">[[#南嶋探験|笹森(1983)、pp.334-340.]]</ref>。なお、わずか1時間半の上陸であったが[[山下源太郎]]大尉ら上陸者は、「ラサ島探見報告」を艦長の柴山に提出した。山下らはラサ島は台風による高波の影響からか沿岸部に草木が無いものの、内陸部は草木が鬱蒼と生い茂り歩くのも困難であること、そして[[アホウドリ]]の群れが巣作りしていて小鳥は人間を恐れる気配が全くないこと。また、水源は無さそうで漂流民やその他人が住んだ形跡は全くないと報告した<ref name="山下源太郎伝88-90">[[#山下源太郎伝|山下伝記編纂委員会(1941)、pp.88-90.]]</ref><ref name="北大東村誌b631-632">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、pp.631-632.]]</ref>。

1898年9月、[[南鳥島]]の開発を行っていた水谷新六がラサ島を探検している。水谷の目的はアホウドリの羽毛採取であった<ref name="小瀬佳太郎a695">[[#小瀬佳太郎a|小瀬(1903a)、p.695.]]</ref><ref name="帝国日本の拡大191">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.191.]]</ref>。1899年6月、今度は[[宮古島]]で[[人頭税]]の廃止に向けて活躍した[[中村十作]]がラサ島を探検する<ref name="大世積綾舟305">[[#大世積綾舟|山内(1983)、p.305.]]</ref>。

中村は1900年6月、[[内務省 (日本)|内務省]]にラサ島の借用願いを提出した。提出を受けた内務省はラサ島についての情報が全く無くて困惑した。そこで内務省は海軍省[[水路部 (日本海軍)|水路部]]に尋ねてみたところ、水路部からは1892年の海門による調査等の資料が届けられた。島の実在を確認した内務省は、沖縄県にラサ島を沖縄県[[島尻郡]]に編入する手続きを行いたいが意見を聞きたいとの照会文を送付した。内務省からの照会文に対し、沖縄県知事奈良原繁は「沖縄県の管轄として島尻郡に編入すべきである」と回答した<ref name="大世積綾舟305-309">[[#大世積綾舟|山内(1983)、pp.305-309.]]</ref>。

1900年9月11日、内務大臣の[[西郷従道]]は、中村十作による借用願いが提出された所属未決定の島であるラサ島の所属を決定すべきであるとして、正式に日本領として沖縄県島尻郡に編入し、島名を「沖大東島」とする案件を閣議に諮った。西郷の提案は了承され、新たに沖大東島と名付けられた島は沖縄県島尻郡に属することが閣議決定された<ref name="帝国日本の拡大192">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.192.]]</ref>。閣議決定を受けて西郷内務大臣は沖縄県に訓令を発し、それを受けて県は10月17日、沖大東島を正式に沖縄県島尻郡に編入する告示を行った<ref name="帝国日本の拡大192"></ref>。

なお、沖大東島の日本領編入のきっかけとなった中村十作の借用願いは返戻扱いとなったため、借用は行われなかった<ref name="北大東村誌b636">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.636.]]</ref>。

===奈良原県知事の視察===
[[ファイル:Narahara Shigeru.jpg|150px|thumb|奈良原繁。]]
1903年、沖縄県土地整理事務局はこれまで不正確であった大東諸島の形状、面積を実測することになった<ref name="小瀬佳太郎a690-691">[[#小瀬佳太郎a|小瀬(1903a)、pp.690-691.]]</ref>。6月15日、沖縄県土地整理事務局の長官である県知事奈良原繁自ら調査団を率い、島尻[[郡長]]、事務官、測量員、漁業関係の視察者らが[[那覇港]]から大東諸島へと向かった<ref name="小瀬佳太郎a697">[[#小瀬佳太郎a|小瀬(1903a)、p.697.]]</ref>。

6月17日朝、沖大東島沖に到着し、調査員は艀に乗って沖大東島に上陸した。島内の草地ではおびただしい数の海鳥が産卵し、雛を育てていたという。11時から測量を行い、午後3時半には測量を終え、撤収作業の後、午後7時には沖大東島を離れた<ref name="小瀬佳太郎a700-701">[[#小瀬佳太郎a|小瀬(1903a)、pp.700-701.]]</ref>。

測量の結果、島の面積は北大東島の約12分の1に過ぎないとした。北西部が最も標高が高く、そこから北東方向と南東方向に丘陵地が延びていて、その間は比較的平坦になっていた。また海岸部は全て断崖となっていて、海岸線にはサンゴ礁が発達していた<ref name="小瀬佳太郎b766">[[#小瀬佳太郎a|小瀬(1903a)、p.766.]]</ref>。

==リン鉱石鉱山時代==
{{main|ラサ島鉱業所}}
{{main|ラサ島鉱業所}}
[[ファイル:Rasa Island14.jpg|350px|thumb|リン鉱山が操業していた1938年頃の沖大東島全景。]]
1945年以前に移出した燐鉱石は 160万tにのぼり、島の表土はほとんどなくなったといわれる。採掘された燐鉱石は、[[貨物船]]で[[東京都]]、[[大阪市]]、[[岩手県]][[宮古市]]の工場まで運搬された。
日本領編入後の沖大東島はリン鉱山として開発が始められて発展し、一企業による経営、統治が行われた。戦前期は大東諸島の南大東島、北大東島とともに町村制は施行されず、沖縄県からは国税や県税の徴収事務に関わる吏員が派遣された。また1927年に衆議院議員の選挙権は与えられたものの、戦前は沖縄県議会議員の選挙権は無かった<ref name="黒柳69-70">[[#米軍軍政下の大東諸島|黒柳(2017)、pp.69-70.]]</ref>。


===水谷新六と玉置半右衛門の開発願い===
南北大東島同様、沿岸部は断崖と浅瀬で囲まれているため、[[デリック]]やクレーンによって人及び物資の乗降が行われていた。燐鉱石の積み出し用にトロッコのレールが埠頭まで敷設されていた<ref name ="hitouzukan" />。
沖大東島が正式に日本領に編入された後、南鳥島の開発事業を行っていた[[水谷新六]]が沖縄県に開発願いを提出し、1901年5月11日に認可が下りた<ref name="小瀬佳太郎b768">[[#小瀬佳太郎b|小瀬(1903b)、p.768.]]</ref>。水谷は南鳥島で鳥類の捕獲事業を行っていたが、乱獲によって鳥類は激減していて撤退を考え始めていた<ref name="帝国日本の拡大48-49">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、pp.48-49.]]</ref>。1901年9月、水谷は羽毛採取を目的として沖大東島へ向かったものの、船が台湾、フィリピン方面に漂流してしまい、結局沖大東島に辿り着けずに帰還した<ref name="小瀬佳太郎a695">[[#小瀬佳太郎a|小瀬(1903a)、p.695.]]</ref><ref name="帝国日本の拡大192">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.192.]]</ref>。


開発願いは数年間開発に着手しない場合取り消されることになっており、水谷の場合も1903年6月6日に認可が取り消された<ref name="小瀬佳太郎b768"></ref>。1902年頃には、1893年頃に沖大東島を発見して借地権を得ているとする人物が、資金と人材を集めようとした詐欺事件が起きている<ref name="地図から消えた島々163">[[#地図から消えた島々|長谷川(2011)、p.163.]]</ref>。
[[八丈島]](南北大東島の開拓民の中心でもあった)を中心とする[[伊豆諸島]]からの[[出稼ぎ|出稼ぎ者]]と沖縄県からの出稼ぎ者が燐鉱石採掘に従事した。支給される食料は米飯や味噌汁、たくあんといった物に限られ(このほかに労働者が持ち込んだラードや味噌を使って[[アンダンスー]]が食べられていたという)、野菜類は極度に不足していた。水はもっぱら天水が頼りで(風呂には[[海水]]を用いた)、貯水タンクが粗末であった事から[[伝染病]]が幾度か発生していた。島には娯楽と呼べるものは無く、会社から酒や少量の菓子類が支給されたが、飲酒によるトラブルが頻発した。大正時代には、伊豆諸島出身者との間に賃金や待遇に格差が設けられていた事から、沖縄県出身労働者による待遇改善を要求する[[暴動]]が発生した事もあった。


水谷新六の認可取り消し後、1906年には[[玉置半右衛門]]が開墾と羽毛採取の目的で沖大東島の15年間の開発権を取得した<ref name="南島夜話71">[[#南島夜話|秦(1917)、p.71.]]</ref><ref name="帝国日本の拡大192-193">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、pp.192-193.]]</ref>。玉置は1899年10月に南大東島、北大東島両島の開発権を取得していた<ref name="小瀬佳太郎b768"></ref>。1906年当時、南大東島の開墾にかかり切りの状況で、北大東島はほとんど手つかずのままであった。つまり実際問題として開発権取得時の玉置には沖大東島の本格開発に着手する余裕は無かった<ref name="沖大東島の領土確定438">[[#沖大東島の領土確定|平岡(1992)、p.438.]]</ref>。
南北大東島と同様に町村制が布かれず、もっぱら企業による自治が続いていた。ただし、1929年までは島に住めるのは成人男性のみであり<ref name ="hitouzukan" />、南北大東島のそれに比べて極めて簡略化されていた。沖縄県警から[[請願巡査]]が派遣されており、時としては労働者の騒乱鎮圧などにもあたった。[[1930年代]]以降は夫婦の労働者が優先的に雇用されるようになり、最盛期の人口は2000人を超えた<ref name ="hitouzukan" />。そのため、島内に小規模な会社立の[[青年学校]]が開校されたりした。また、鉱山施設の他、体育館や公会堂、購買所、[[山の神#鉱山における山神|山神社]]も島内に建てられた。この頃には、鉱山労働者の大半は沖縄県出身者によって占められていた。この時期には前述のような待遇格差は無くなり、労働環境は依然過酷であるものの、賃金や待遇が大幅に改善された事から出稼ぎの応募者が増加したという。
それでも玉置は開発権を取得した後、沖大東島の調査のために船を派遣した。その船には水谷新六の甥が水夫として乗船していた。その水谷の甥は水谷新六から沖大東島の岩石や土砂を持って帰るように依頼を受けていた<ref name="予と燐礦の発見28">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、p.28.]]</ref>。


===ラサ島鉱業所操業まで===
数少ない表土のある長屋には畑が作られ、会社所有のボートでごく小規模な漁も行われていた。この他、会社によって[[養豚]]も行なわれていたともいわれる(このほかに、家庭によっては[[鶏]]や[[ウサギ]]も飼育されていた)。食糧・日用品などはこうした小規模な自給の他、本土や沖縄本島において会社による買い付けも行われていた。こうした物品は、市価の半値で住民に供給されており、物資の面では沖縄本島よりも水準の高い生活が可能だった。子供のいる世帯では、人形や玩具類もカタログによって注文購入する事ができたという。
[[ファイル:Noritaka-Tsuneto.jpg|200px|thumb|ラサ島鉱業所を設立した恒藤規隆]]
水谷新六はリン資源開発、確保をライフワークとしていた[[恒藤規隆]]から沖大東島の岩石や土砂の入手を依頼されていた<ref name="予と燐礦の発見27">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、p.27.]]</ref><ref name="恒藤規隆博士と日本の燐酸資源28">[[#恒藤規隆博士と日本の燐酸資源|熊沢(1983)、p.28.]]</ref>。恒藤はリン資源発見を目指して全国各地を調査していた。その中で1902年に部下を南鳥島に派遣して、高品位の[[グアノ]]を発見していた<ref name="予と燐礦の発見20-22">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.20-22.]]</ref>。


南鳥島で鳥類の捕獲事業を行っていた水谷新六は、グアノの発見後、グアノ採掘へと事業転換する。採掘されたグアノは全国肥料取次所で肥料として製造販売した<ref name="予と燐礦の発見23">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、p.23.]]</ref><ref name="帝国日本の拡大49">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.49.]]</ref>。全国肥料取次所で技術指導を行っていたのが恒藤であった<ref name="全国肥料取次所の成立148">[[#全国肥料取次所の成立|坂根(2016)、p.148.]]</ref>。南鳥島でのグアノ発見、全国肥料取次所での肥料製造などを通じて恒藤は水谷新六と知り合った。南鳥島でのグアノ発見以後、南方の島々でのリン資源探査に意欲を高めていた恒藤は、水谷が南方の島々でしばしば鳥類の捕獲を行っていることを知り、捕鳥のついでに岩石を持って帰るよう依頼していた<ref name="予と燐礦の発見23-26">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.23-26.]]</ref>。中でも強い興味を持ったのが沖大東島であった。水谷から沖大東島の話を聞くと、機会があったら岩石や土砂を持ち帰って来るように頼んでいた<ref name="予と燐礦の発見26-27">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.26-27.]]</ref>。
1956年からは島全域がアメリカ海軍による空対地爆撃射撃場(沖大東島射爆撃場)として使用されており、現在でも島の表土はほとんどなく緑が全くない。ラサ工業に対してはその代償として毎年借地料が支払われているが、同社はその額については非公開としている。


水谷の甥は[[股引]]に沖大東島の石を入れて持ち帰った。恒藤は沖大東島の石を一目見てリン鉱石であると判断した<ref name="予と燐礦の発見28">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、p.28.]]</ref>。ラサ島でのリン鉱石発見後、恒藤の他、肥料商の[[九鬼紋七]]、沖大東島の開発権を握っていた玉置半右衛門、そして水谷新六が鉱業権を主張した<ref name="予と燐礦の発見28-29">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.28-29.]]</ref>。さらに1909年には[[東沙諸島]]の開発から撤退した[[西沢吉治]]が沖大東島開発に乗り出そうと画策するなど泥沼の争いとなった<ref name="帝国日本の拡大193">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.193.]]</ref>。
== 出身者 ==
* [[仲宗根幸市]](沖縄民謡研究家)


そのような中で恒藤は1907年8月に沖大東島へリン鉱石の資源調査団を派遣し、1910年10月には日本産業商会を設立して理事長に就任する<ref name="予と燐礦の発見36-38">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.36-38.]]</ref>。そして日本産業商会設立直後の11月には第二回の資源調査隊を派遣した<ref name="予と燐礦の発見38-39">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.38-39.]]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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国内での権利問題が解決しない中、沖大東島のリン資源に外国資本が食指を伸ばしだした。外圧を背景に恒藤は権利獲得に奔走し、1911年初頭に沖大東島の開発権の掌握に成功する。2月28日にはラサ島燐鉱合資会社を設立して社長に就任する<ref name="予と燐礦の発見39-40">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.39-40.]]</ref>。社長就任後の4月、恒藤は自らが陣頭指揮を執って沖大東島に第三回の資源探査を行った<ref name="予と燐礦の発見41">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、p.41.]]</ref>。探査の結果、予想を上回る有望なリン鉱石鉱床を確認したため、5月1日にラサ島鉱業所を創業した<ref name="予と燐礦の発見49-50">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.49-50.]]</ref>。
== 関連項目 ==
* [[北大東村]]
* [[ラサ工業]]
* [[日本の地理]]
* [[日本の島の一覧]]


===ラサ島鉱業所の盛衰===
== 外部リンク ==
[[ファイル:Rasa Island7.jpg|250px|thumb|ビロウ森の伐採。]]
* [https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do;jsessionid=08897F6F174FC65D0ACE57962C542220#1 沖大東島の空中写真] - 地図・空中写真閲覧サービス([[国土地理院]])
ラサ島鉱業所の操業開始後、様々な困難が立ちはだかった。まず鉱山本体の開発とともに、孤島である沖大東島で鉱山経営を進め鉱石を輸送するために桟橋の建設を進めたものの、8月から9月に台風が襲来してほとんどの建設済み設備が破壊された。また労働者たちは慣れない亜熱帯の気候と台風被害によってその多くが離島を希望するに至り、現場の判断で労働者たちの離島を認めざるを得なかった<ref name="ラサ島探検当時の始末15-18">[[#ラサ島探検当時の始末|恒藤(1917)、pp.15-18.]]</ref>。結局1912年2月からは沖縄県で労働者の募集を開始し、沖大東島では沖縄県出身の労働者が主力になっていく<ref name="ラサ島燐礦事業時報33">[[#ラサ島燐礦事業時報3|ラサ島燐礦合資會社(1912)、p.3.]]</ref>。
* [https://maps.gsi.go.jp/#15/24.468731/131.188131/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 沖大東島周辺の地図] - 地理院地図(国土地理院)

台風の被害からの復旧が終わり、1911年末からリン鉱石の輸送が始まったものの、肥料会社各社が沖大東島のリン鉱石の不買同盟を結成したため、鉱石は売れなかった。この問題は社長恒藤の決断で自社で沖大東島産のリン鉱石を原料とした肥料製造を開始したことによって突破口が開かれ、鉱石が売れるようになった<ref name="予と燐礦の発見54-55">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.54-55.]]</ref><ref name="恒藤規隆博士と日本の燐酸資源49">[[#恒藤規隆博士と日本の燐酸資源|熊沢(1983)、p.49.]]</ref>。そして1913年5月にはラサ島燐礦株式会社が設立された<ref name="予と燐礦の発見55-56">[[#予と燐礦の発見|恒藤(1936)、pp.55-56.]]</ref>。

株式会社化の後、様々な困難が立ちはだかりながらもリン鉱石の産出量は増大していった<ref name="ラサ工業80年史35-36">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、pp.35-36.]]</ref>。まず大きな課題となったのは水の問題であり、その他、台風による船舶の遭難、腸チフスの流行、そして労働者が暴動寸前の不穏状態になるなど労働問題も発生した<ref name="ラサ島探検当時の始末64">[[#ラサ島探検当時の始末|恒藤(1917)、p.64.]]</ref><ref name="ラサ工業80年史35">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、p.35.]]</ref>。

1916年3月には台風襲来にも耐えられるコンクリート製の突堤が完成した。島内には倉庫、発電所、診療所、宿舎などの施設整備も進んだ。また1915年6月には無線電信局が開局されて外部との情報のやりとりが可能となり、同年、中央気象台から気象機器の貸与を受けて気象観測も始められた<ref name="ラサ工業80年史36">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、p.36.]]</ref>。

[[ファイル:Rasa Island20.jpg|250px|thumb|ラサ島鉱業所事務所。]]
1914年の[[第一次世界大戦]]開戦後、船舶不足によってリン鉱石の輸入が滞るようになった。その上、空前の好景気となって肥料の売り上げ自体も好調で、沖大東島のリン鉱石は増産されていった<ref name="恒藤規隆博士と日本の燐酸資源50">[[#恒藤規隆博士と日本の燐酸資源|熊沢(1983)、p.50.]]</ref><ref name="ラサ工業80年史37">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、p.37.]]</ref>。1918年にはラサ島鉱業所は18万トンあまりのリン鉱石を採掘し、鉱山労働者も約2000名と最盛期を迎えた<ref name="恒藤規隆博士と日本の燐酸資源50"></ref><ref name="ラサ工業80年史36"></ref>。面積1平方キロメートルあまりの狭い沖大東島に約2000名の鉱山労働者たちが生活し、鉱山労働に従事する状況は、長崎県の[[端島 (長崎県)|端島]]と同様の海上に浮かぶ一つの鉱業空間であった<ref name="帝国日本の拡大197-198">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、pp.197-198.]]</ref>。

地方自治が敷かれなかった沖大東島は、ラサ島燐鉱株式会社やその後進企業の運営下に置かれた。学校、病院、船便、通信、郵便といった業務は企業が担っていて、経済面も会社が発行する「物品交換券」が流通するなど会社のコントロール下に置かれた。治安を守る巡査も会社側からの依頼を受けて那覇署から[[請願巡査]]が派遣されていた。島で働く労働者たちは国税、県税を納め、男子には徴兵もあったが、地方自治が行われていなかったため沖大東島に転入の手続き自体が出来ず、全ての島民は出稼ぎ者扱いであった<ref name="黒柳74">[[#米軍軍政下の大東諸島|黒柳(2017)、p.74.]]</ref>。

第一次世界大戦後の戦後不況の影響で、肥料の消費は減退して価格も暴落する。その結果、ラサ島鉱業所は生産体制の縮小を余儀なくされる<ref name="帝国日本の拡大197">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.197.]]</ref>。その後大正末期には地下に新たな有望なリン鉱石鉱床が発見され、生産高もいったんは盛り返す<ref name="予と燐礦の探検59-60">[[#予と燐礦の探検|恒藤(1936)、pp.59-60.]]</ref>。しかし不況の継続による会社の経営難はより厳しさを増していき、その上、採掘条件が良い鉱石が減少したため、1928年末には休山となった<ref name="予と燐礦の探検60-61">[[#予と燐礦の探検|恒藤(1936)、pp.60-61.]]</ref><ref name="ラサ工業80年史60-61">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、pp.60-61.]]</ref>。

その後、戦時体制が強化されていく中で日本経済は長い不況から脱していく。しかも国際関係の緊張が高まってリン鉱石の輸入に不安材料が出てきた。そのような情勢下で1933年、ラサ島鉱業所は操業を再開する<ref name="ラサ工業80年史69-70">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、pp.69-70.]]</ref><ref name="帝国日本の拡大201">[[#帝国日本の拡大|平岡(2012)、p.201.]]</ref>。再開後のラサ島鉱業所は、リン鉱石の輸入が困難となっていく中で[[農林水産省]]から増産を強く要請されるようになり、重要産業にも指定されて物資の供給や人材の確保において優遇措置が講じられた<ref name="北大東村誌a688-692">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、pp.688-692.]]</ref>。なおラサ島鉱業所の操業再開後の1937年、沖大東島は3748円で[[ラサ工業]]に払い下げられている{{refnest|group="注釈"|name="社名変更"|1913年に発足したラサ島燐礦株式会社は、1934年3月に「ラサ工業株式会社」に社名を変更した<ref name="ラサ工業80年史68">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、p.68.]]</ref>。その後鯛生産業との合併によって1941年9月には「鯛生産業株式会社」、1944年6月には「東亜鉱工株式会社」と社名を変更する<ref name="ラサ工業80年史123">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、p.123.]]</ref>。戦後、1949年3月に「ラサ工業株式会社」の社名に戻った<ref name="ラサ工業80年史152">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、p.152.]]</ref>。}}<ref name="沖大東島の歴史的背景40">[[#沖大東島の歴史的背景|中山(1991)、p.40.]]</ref>。

しかし優遇措置を受けていたとはいえ、戦時下の人員不足は深刻でリン鉱石採掘に必要な人員を揃えるのは無理であった<ref name="北大東村誌a692">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.692.]]</ref>。しかも肝心のリン鉱石の品位も低下していった<ref name="帝国日本の拡大201"></ref>。その上、戦況の悪化につれて海上輸送が困難となっていった<ref name="恒藤規隆博士と日本の燐酸資源56">[[#恒藤規隆博士と日本の燐酸資源|熊沢(1983)、p.56.]]</ref>。それでも1938年から1944年にかけて、ラサ島鉱業所は日本領内トップの約32万トンのリン鉱石を採掘した<ref name="恒藤規隆博士と日本の燐酸資源56"></ref>。

==ラサ島守備隊==
[[ファイル:Rasa Island28.jpg|250px|thumb|1940年に開設された中央気象台沖大東測候所。]]
1935年9月から1938年4月まで、海軍水路部の移動観測班が南大東島で気象観測を行った。その結果、大東諸島での気象観測の重要性が認められて、1938年には南大東島と沖大東島に気象観測所の新設が決定された<ref name="沖縄戦場の記憶48-49">[[#沖縄戦場の記憶|洪(2016)、pp.48-49.]]</ref>。1940年1月、中央気象台が管轄する沖大東測候所が開設された。1942年8月には海軍の望楼が建設され、海軍軍人8名と観測員9名が常駐するようになる<ref name="北大東村誌b649">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.649.]]</ref>。その後沖大東島の海軍兵力として1944年11月には見張要員29名と他の任務を担う2名の計31名が新たに来島した<ref name="ラサ島守備隊記155-156">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.155-156.]]</ref>。

[[大本営]]は大東諸島を軍事的要衝と判断して防衛体制の強化を図った<ref name="北大東島の沖縄戦15">[[#北大東島の沖縄戦|吉浜(2016)、p.15.]]</ref>。1944年3月24日、大本営は第85兵站警備隊を[[歩兵第36連隊]]に編入の上、大東諸島への展開を命じた。南大東島には歩兵第36連隊の連隊本部と第1、第3大隊、大東島支隊。北大東島には第2大隊。そして沖大東島には第4中隊が配備されることになった<ref name="沖縄戦場の記憶44-46">[[#沖縄戦場の記憶|洪(2016)、pp.44-46.]]</ref><ref name="沖縄戦場の記憶54">[[#沖縄戦場の記憶|洪(2016)、p.54.]]</ref>。

1944年2月25日、沖大東島はアメリカ軍による艦砲射撃の攻撃を受けた。4月16日には荷役作業中の船が潜水艦による攻撃を受け、ほぼ全乗組員が死亡する。そのような緊迫した情勢下、4月26日に陸軍のラサ島守備隊が上陸した<ref name="北大東村誌b649"></ref>。

進駐してきたラサ島守備隊は、ラサ島鉱業所の全面的なバックアップのもとで強固な陣地を造り上げていった<ref name="ラサ島守備隊記89-91">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.89-91.]]</ref><ref name="ラサ島守備隊記103-106">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.103-106.]]</ref>。9月29日には初の空襲を受け、危険性が高まる中で、4月以降始まっていたラサ島鉱業所の従業員の順次退島に拍車がかかることになった<ref name="北大東村誌b649"></ref>。

リン鉱石を採掘するラサ島鉱業所は食糧増産の鍵であり、全面撤退の決定はなかなか下りなかった。しかしラサ島のリン鉱石は品位が低下していて外国産の優良な鉱石と混ぜなければ利用できず、しかも海上輸送が困難となったために島内には採掘された鉱石が貯まってこれ以上貯鉱が出来ない状況となっており、結局1944年末に全面撤退の決定が下りた<ref name="ラサ島守備隊記157-161">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.157-161.]]</ref>。1945年1月22日、ラサ島鉱業所の従業員は全員沖大東島を離島して、ラサ島鉱業所は閉山となった<ref name="ラサ島守備隊記166-167">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.166-167.]]</ref>。

ラサ島鉱業所の閉鎖後、アメリカ軍は艦砲射撃や空襲を加えてきた<ref name="ラサ島守備隊記166-170">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.166-170.]]</ref><ref name="ラサ島守備隊記176-183">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.176-183.]]</ref>。3月11日には補給船が来島したが、その補給船が最後となり、終戦後まで補給は完全に絶たれた<ref name="ラサ島守備隊記198-199">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.198-199.]]</ref>。補給が断たれた後、ラサ島守備隊はサツマイモの栽培や魚を獲るなどして持久作戦を取ることになった<ref name="ラサ島守備隊記213-215">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.213-215.]]</ref>。

その後も米軍による空襲は断続的に続けられた<ref name="ラサ島守備隊記216-226">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.216-226.]]</ref>。米軍が投下した不発弾を海中で爆破して魚を気絶させる漁は、守備隊員たちから「[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]給与」と呼ばれるようになった<ref name="ラサ島守備隊記241-242">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.241-242.]]</ref>。補給が断たれる中、何とか持久作戦を続けてきた守備隊であったが、8月頃には[[脚気]]患者が増え始めていた<ref name="ラサ島守備隊記248">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、p.248.]]</ref>。

8月15日の終戦後、25日になって正式な降伏命令がラサ島守備隊のもとに届けられた<ref name="ラサ島守備隊記250-255">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.250-255.]]</ref>。10月12日には米軍が沖大東島に上陸し、武装解除、そして10月14日にはラサ島守備隊は撤収した。ラサ島守備隊員の戦死者は7名であった<ref name="ラサ島守備隊記259-261">[[#ラサ島守備隊記|森田(1968)、pp.259-261.]]</ref>。撤収後、沖大東島はラサ島鉱業所の操業開始以前の無人島に戻った<ref name="北大東村誌b651">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.651.]]</ref>。

==戦後の沖大東島==
戦後、沖縄を統治した米軍軍政は、肥料となるリン鉱石を産出する沖大東島、北大東島を擁する大東諸島に着目し、「沖縄の宝庫」の筆頭に位置付けていた。1946年6月、米軍軍政当局は大東諸島に沖大東島、北大東島のリン鉱石調査を名目とした調査団を派遣した<ref name="黒柳76">[[#米軍軍政下の大東諸島|黒柳(2017)、p.76.]]</ref>。

リン鉱石の調査が目的とされた調査団であったが、実際には大東諸島の政治行政、経済面の多岐に渡っての調査を行った。この調査中の1946年6月12日、沖縄民政府の指示により大東諸島に村制が施行された<ref name="黒柳76"></ref>。大東諸島の村制施行に伴って沖大東島は北大東村に属することになった。なぜ北大東村に属することになったかについては資料が残っていないが、地理的な観点からではなく産業面、すなわちリン鉱石の産地である北大東島、沖大東島とも、リン鉱石資源再開発を行うことを考慮したものと推測されている<ref name="北大東村誌a699">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.699.]]</ref><ref name="北大東村誌b663">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.663.]]</ref><ref name="黒柳87">[[#米軍軍政下の大東諸島|黒柳(2017)、p.87.]]</ref>。なお、[[沖縄返還]]後の1973年8月18日、沖大東島は北大東村字ラサと字の区域設定が行われた<ref name="北大東村誌b663"></ref>。

1950年の[[朝鮮戦争]]開戦後、鉄くず需要が高まる中で沖大東島に、放棄されたラサ島鉱業所の機械類やレール、そしてラサ島守備隊が残したスクラップ類を回収するため、スクラップ業者がやって来るようになった。1954年にはスクラップ回収のために沖大東島に向かった12名の労働者が、派遣先の経営不振のため迎えの船を出せずに置き去りにされた事件が起きている<ref name="北大東村誌a700-702">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、pp.700-702.]]</ref><ref name="北大東村誌b664-667">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、pp.664-667.]]</ref>。

1956年4月16日、沖大東島はアメリカ海軍の艦対地射爆撃訓練及び空対地射爆撃訓練を行う[[沖大東島射爆撃場]]となった。利用条件としては訓練は月15日以内、年間180日以内とされている。1972年の沖縄返還後も基地利用は継続している<ref name="北大東村誌a702-704">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、pp.702-704.]]</ref>。なお沖縄返還後、沖大東島はいったん国有地とされたが、1937年にラサ工業に払い下げられた事実が確認されたため、1973年10月12日に民有地に訂正されている<ref name="北大東村誌a704">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.704.]]</ref>。ラサ工業には基地使用のための借地料が支払われているが、1984年度の借地料は3億3000万円であった<ref name="北大東村誌a703">[[#北大東村誌a|北大東村誌編集委員会(1986)、p.703.]]</ref>。その後借地料は公表されないようになったが、1991年の北大東村当局者の推定によれば約5億円である<ref name="沖大東島の歴史的背景33">[[#沖大東島の歴史的背景|中山(1991)、p.33.]]</ref>。

1979年1月、ラサ工業株式会社はラサ島をリン鉱山として再開発するとともに、採掘終了後は石油備蓄基地とする計画を策定する。同年7月、[[広島大学]]の沖村雄二教授を団長として、ラサ工業と防衛施設庁合同でラサ島のリン鉱石調査が実施された。調査の結果、リン鉱石の埋蔵量は約350万トンと推定された<ref name="恒藤規隆博士と日本の燐酸資源65"></ref><ref name="ラサ工業80年史237-238">[[#ラサ工業80年史|ラサ工業株式会社社史編纂室(1993)、pp.237-238.]]</ref>。そのような中でラサ工業とラサ島が属する[[北大東村]]は、射爆場としての契約解除とラサ工業側への返還を求めたが、国は基地契約解除と返還に同意せず実現しなかった<ref name="北大東村誌b669">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、p.669.]]</ref>。沖大東島は米軍の射爆場として一般人の立ち入りが禁止されている状況が続いている<ref name="自然環境の保全に関する指針 沖縄島周辺諸島及び大東諸島編">“[https://www.pref.okinawa.jp/okinawa_kankyo/shizen_hogo/hozen_chiiki/shishin/syuuhen_hozen_shishin/html/syuuhen_riku_shizen.html 『自然環境の保全に関する指針 沖縄島周辺諸島及び大東諸島編』沖縄県ホームページ]”</ref>。

1989年5月、北大東村、[[南大東村]]共同で沖大東島の現況ならびに漁業調査が行われ、両村の職員、[[沖縄県議会]]議員3名、漁業関係者、[[琉球大学]]教授ら、66名が参加した。島内に海鳥は見られず、ラサ島鉱業所時代の遺構としてはコンクリート製の桟橋、貯水槽の残骸、そしてわずかにトロッコの敷設跡が残っている程度で、射爆場の爆撃による穴や薬莢、そして不発弾も見られた。その一方、島の周囲は魚影が豊富で豊かな水産資源に恵まれていることも把握された<ref name="沖大東島の歴史的背景33-34">[[#沖大東島の歴史的背景|中山(1991)、pp.33-34.]]</ref><ref name="北大東村誌b670-671">[[#北大東村誌b|北大東村誌編集委員会(2017)、pp.670-671.]]</ref>。

2012年 地図・海図に記載される名称として、沖大東島南西部沖合の小島([[岩礁]])が'''南西小島'''と命名された<ref>2012年3月2日 首相官邸[[総合海洋政策本部]]「排他的経済水域(EEZ)外縁を根拠付ける離島の地図・海図に記載する名称の決定について」より</ref><ref>[http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=131.18488888873&latitude=24.462237898921 南西小島の位置 国土地理院25,000分の1地形図、沖大東島]</ref>。

==関連項目==
*[[北大東村]]
*[[ラサ工業]]
*[[日本の地理]]
*[[日本の島の一覧]]

==外部リンク==
*[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do;jsessionid=08897F6F174FC65D0ACE57962C542220#1 沖大東島の空中写真] - 地図・空中写真閲覧サービス([[国土地理院]])
*[https://maps.gsi.go.jp/#15/24.468731/131.188131/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 沖大東島周辺の地図] - 地理院地図(国土地理院)

==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
<references group="注釈" />
===出典===
{{Reflist|colwidth=30em|2}}


==参考文献==
*{{Anchors|燐礦事情}}阿曾八和太『燐礦事情 東洋及南洋方面』東洋製糖株式會社東京出張所、1925
*{{Anchors|ラサ島燐礦調査報告}}大井上義近「土壌肥料新報」(194)『ラサ島燐礦調査報告』大日本土壌肥料講究會、1925
*{{Anchors|ラサ島燐礦調査報告2}}大井上義近「土壌肥料新報」(195)『ラサ島燐礦調査報告2』大日本土壌肥料講究會、1926
*{{Anchors|沖大東島の第四紀地殻変動}}河名俊男、大出茂「琉球大学教育学部紀要」43『沖大東島(隆起準卓礁)の第四紀地殻変動に関する一考察』琉球大学教育学部、1993
*{{Anchors|北大東村誌a}}北大東村誌編集委員会『北大東村誌』、北大東村、1986
*{{Anchors|北大東村誌b}}北大東村誌編集委員会『北大東村誌』、北大東村、2017
*{{Anchors|恒藤規隆博士と日本の燐酸資源}}熊沢喜久雄「肥料化学」6、『恒藤規隆博士と日本の燐酸資源』肥料化学研究所、1983
*{{Anchors|米軍軍政下の大東諸島}}黒柳保則「沖縄法学」(45)『米軍軍政下の大東諸島における「自治」制度の施行と展開』沖縄国際大学法学会、2017
*{{Anchors|小瀬佳太郎a}}小瀬佳太郎「地学雑誌」15(9)『大東島探検記事』東京地學協會、1903a
*{{Anchors|小瀬佳太郎b}}小瀬佳太郎「地学雑誌」15(10)『大東島探検記事 承前』東京地學協會、1903b
*{{Anchors|リン鉱石とリン資源}}小田部廣男『リン鉱石とリン資源』日本燐資源研究所、1997
*{{Anchors|全国肥料取次所の成立}}坂根嘉博「松山大学論集」28(4)『全国肥料取次所の成立』 、松山大学総合研究所、2016
*{{Anchors|南嶋探験}}笹森儀助『南嶋探験』平凡社、1983
* {{Anchors|地図から消えた島々}}長谷川亮一『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』、[[吉川弘文館]]、2011、ISBN 978-4-642-05722-6
*{{Anchors|ラサ島探検当時の始末}}恒藤規隆『ラサ島探検当時の始末 事業創始以後の事業及沿革』ラサ島燐礦株式會社、1917
*{{Anchors|予と燐礦の探検}}恒藤規隆『予と燐礦の探検』東京堂、1936
*{{Anchors|沖大東島の歴史的背景}}中山満「神・村・人 琉球弧論叢」『沖大東島(ラサ島)の歴史的背景と島嶼としての存在意義について』第一書房、1991、ISBN 4-8042-0009-6
*{{Anchors|南島夜話}}秦蔵吉『南島夜話』沖縄実業時報社、1916
*{{Anchors|九州・沖縄地方}}日本地質学会『日本地方地質誌8 九州・沖縄地方』朝倉書店、2010、ISBN 978-4-254-16788-7
*{{Anchors|沖大東島の領土確定}}平岡昭利「長崎県立大学論集」25(3、4)『沖大東島(ラサ島)の領土の確定と燐鉱採掘』 、長崎県立大学学術研究会、1992
*{{Anchors|帝国日本の拡大}}平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大 南洋の島々への進出から侵略へ』、明石書店、2012、ISBN 978-4-7503-3700-5
*{{Anchors|沖縄戦場の記憶}}洪玧伸『沖縄戦場の記憶と慰安婦』、インパクト出版、2016、ISBN 978-4-7554-0259-3
*{{Anchors|九州・南西諸島}}町田洋、太田陽子、河名俊男、森脇広、長岡信治『日本の地形7 九州・南西諸島』東京大学出版会、2001、ISBN 4-13-064717-2
*{{Anchors|沖大東島の植物相と現存植生}}宮城康一「沖縄生物学会誌」30『沖大東島の植物相と現存植生』沖縄生物学会、1992
*{{Anchors|ラサ島守備隊記}}森田芳雄『ラサ島守備隊記』、文研出版、1968
*{{Anchors|大世積綾舟}}山内玄三郎『大世積綾舟』、言叢社、1983
*{{Anchors|山下源太郎伝}}山下伝記編纂委員会『海軍大将山下源太郎伝』、山下伝記編纂委員会、1941
*{{Anchors|北大東島の沖縄戦}}吉浜忍「大東諸島調査報告書」『北大東島の沖縄戦 歩兵第36連隊第2大隊の軍事資料を中心に』沖縄国際大学南島文化研究所、2016
*{{Anchors|ラサ工業80年史}}ラサ工業株式会社社史編纂室『ラサ工業80年史』、ラサ工業株式会社、1993
*{{Anchors|ラサ島燐礦事業時報3}}ラサ島燐礦合資會社『ラサ島燐礦事業時報第参号』、ラサ島燐礦合資會社、1912


{{大東諸島}}
{{大東諸島}}

2020年10月18日 (日) 06:13時点における版

沖大東島
愛称: ラサ島
航空写真(1978年)
沖大東島の位置(南西諸島内)
沖大東島
地理
場所 フィリピン海太平洋
座標 北緯24度27分57秒 東経131度11分23秒 / 北緯24.46583度 東経131.18972度 / 24.46583; 131.18972
諸島 大東諸島
面積 1.19 km2 (0.46 sq mi)
海岸線 4.34 km (2.697 mi)
最高標高 31.1 m (102 ft)
行政
都道府県 沖縄県
島尻郡
市町村 北大東村
人口統計
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南北大東島と沖大東島の位置

沖大東島おきだいとうじまは、大東諸島に所属する島である。別名ラサ島ラサじま: Rasa Island[注釈 1]。行政区画は全島が沖縄県島尻郡北大東村に属する。

島の概観

沖大東島は南大東島の南、約160キロメートル、那覇市の南東約408キロメートルにある、周囲約4.34キロメートル、面積約1.19平方キロメートルの隆起サンゴ礁の島である[2][3]。島の形は北大東島と似た三角形をしており、最高所は島内北部にあって標高31.1メートルである。南東部から北、そして南東部から北西に向かってやや標高が高い地域となっており、島の中央部は周囲から10メートルから15メートル標高が低い凹地となっている[4][3]。また島の海岸線は断崖となっており、周囲はサンゴ礁で囲まれている[4]

沖大東島の気候は、戦前の観測記録によれば年平均気温は24.0度。年間降水量は1296.6ミリメートルである。寒暖の差は小さく、夏季はにわか雨が多いものの降水量は比較的少ない[5]。また7月から10月は台風シーズンであり、ラサ島鉱業所によるリン鉱山が稼働していた戦前期、7月から10月にかけては鉱石の輸送等が困難となることが多かった[6]

島の形成とリン鉱石鉱床

沖大東島はフィリピン海北西部にある沖大東海嶺の最高部である。フィリピン海には沖大東海嶺の他、南大東島、北大東島がある大東海嶺、そして大東海嶺の北側には奄美海台があり、それぞれ琉球海溝に直交するように北西から南東方向へ九州・パラオ海嶺まで延びている[3][7]。沖大東海嶺は島弧を形成する地殻が沈降したものと考えられており、基盤は白亜紀後期の深成岩などによって形成されている。沖大東海嶺は始新世には浅い海であったと考えられ、浅海性の石灰岩が広く堆積した。その後鮮新世になると遠洋性である石灰質の泥岩が堆積している[3][8]

フィリピン海プレートの移動に伴って沖大東海嶺は北西方向へと移動している。フィリピン海プレートは沈み込み帯である琉球海溝に近づくと屈曲し、その影響で「海溝周縁隆起帯」と呼ばれる隆起帯が形成される。沖大東島、そして南大東島、北大東島はそれぞれ、プレートの移動によって海溝周縁隆起帯に差し掛かったため隆起して陸化した[9]。南大東島、北大東島は約160万年前から200万年前に海溝周縁隆起帯に入って陸化したものと考えられているが、沖大東島はそれよりも遅く、約50万年前から60万年前に海溝周縁隆起帯に入って陸化したと見られている[10]

南大東島、北大東島は環礁が隆起した隆起環礁であり、中央部に礁湖の跡である明確な凹地が形成されている[11]。一方、沖大東島は中央部に凹地があるものの周囲の高地との高低差は10メートルから15メートル程度で、元来、環礁のような礁湖があったものと推定されているが、その規模は小さく水深も浅かったと考えられている。しかし礁湖が無いサンゴ礁の隆起地形である隆起卓礁とするのは、礁湖の跡である凹地が形成されているため不適切であり、隆起環礁と隆起卓礁の中間的性質の隆起準卓礁に分類されている[12]

隆起が進む中で沖大東島では海岸段丘が形成され、更新世の4つの段丘面が確認できる。これははっきりとした段丘面が形成されていない南大東島、北大東島の地形との大きな違いのひとつである。沖大東島で海岸段丘が発達したのは、南大東島、北大東島と比べて海山部分の傾斜が緩やかであったからと考えられている。急斜面の南大東島、北大東島では隆起に伴って段差が生じにくいのに対して、傾斜が緩やかであるため段丘面が形成されたのである[13]

陸化が進む中で沖大東島では多くの海鳥が生息するようになった。海鳥の糞が堆積してグアノが生成され、更にグアノ中のリン酸が石灰岩と反応することによってリン鉱石が形成されていった[14][15][16]。沖大東島では1911年から1944年にかけて約160万トンのリン鉱石が採掘された[17]。1978年の調査によれば、リン鉱石の残存推定埋蔵量は約350万トンである[18]

そして1911年から1944年にかけてのリン鉱石採掘によって沖大東島の地形は大きく改変された。元来、島の中心部は標高約15メートル程度で比較的平坦であったものが、大きな陥没を生じて最底部からは海水がしみ出すようになっており、また島内の地形全体も表層のリン鉱石採掘によって岩石が林立した凹凸が激しい地形となっている[19][20]

生物相

植物相

沖大東島の植物相の調査報告については、1912年、ラサ島鉱業所によるリン鉱石採掘が始まった直後にリン鉱石の採掘状況等の視察を行った、盛岡高等農林学校教授山田玄太郎の報告書内の記述[21]。そして1989年の琉球大学教授の宮城康一によるもの[22]。その他、1903年の沖縄県知事奈良原繁による大東諸島視察時のものが知られている[23][24]

1903年の奈良原知事率いる調査団の報告書では、海岸部の断崖のすぐ内側は荒れた草地であるが、その奥にはアダン林、そしてビロウ林となっているとしている[23][25]。1912年の山田教授の報告によれば、海水が掛かる場所にはほとんど植物がみられず、わずかにスベリヒユなどが見られるのみであり、その内側にはクサトベラ林やアダン林が広がり、島の中心部にはビロウの純林が広がっていた。なお、アダン林とビロウ林の間にはアカテツアコウムクイヌビワなど広葉樹が生育していた[26][24]

島の中心部に広がっていたビロウの純林は、昼なお暗く下草はほとんど見られなかった。密生している場所ではビロウは一坪に約1本半の割合で生えており、高いものでは14.5メートルになったという[27][28]

1912年の山田の調査によれば、種子植物42種、シダ植物2種を確認し、植物の種類ははなはだ少ないとしている[29][30]。宮城康一の分析によれば、沖大東島の原植生は島が小さなこと湖沼や湿地帯のような水系を持たないことから貧弱なものではあったが、基本的には南大東島、北大東島の植生と似たものであったと考えられる[31]

ラサ島鉱業所によるリン鉱石採掘は島の植生を激変させていく。1925年に沖大東島を視察した記録によれば、かつて鬱蒼たるビロウ林に覆われていたが、リン鉱石採掘が進むにつれて伐採されて鉱業所の事務所付近に点在するのみになっており、西海岸を除いて樹木が稀であると報告されている[32]。そして1944年、ラサ島鉱業所によるリン鉱石採掘最終期には、島内には高さ5メートル以下のビロウが13本残っているのみで、職員住宅と海岸部に多少の草地があるものの、残りはリン鉱石採掘後の凸凹した岩石が連なり、草木が見られない状態となっていた[33]

1989年の宮城康一の調査によれば沖大東島では41種の植物が確認された。植物相は貧弱であり、確認された植物の多くが海岸部に生育するもので、また帰化移入種は15種と30パーセントを超えた。沖縄にある鳩間島屋嘉比島久場島といった約1平方キロメートルの、沖大東島とほぼ同面積の島と比較してみると、種の数は少なく、帰化移入種の割合は高い。帰化移入種の割合が高い理由は戦前のリン鉱石の採掘による植生の破壊や土壌の減少、そして戦後は射爆場となって爆撃の影響を受けるなど、大きな人為的な攪乱を受けたことが原因と考えられている[34]

また1989年の調査によればビロウ、ムクイヌビワが確認できず、これらの種は人為的な攪乱が原因で沖大東島では絶滅したものと考えられている[30]。島内には樹林帯は皆無で、草本性の植物の中にわずかにクサトベラ、アダンなどの低木が見られるのみである[24]

動物相

前述した1912年の山田玄太郎の報告によれば動物の種類は少なく、爬虫類、哺乳類は全く見られない。つまり南大東島、北大東島に生息しているダイトウオオコウモリは沖大東島には生息していなかったと考えられる[35][36]

また島内にはメジロが多く、人間を恐れないので容易に捕まえることが出来た。また季節によってはアホウドリなどが飛来して繁殖していたという[35][36]

昆虫類はチョウ、ガ、バッタ、トンボなどが見られ、人間に伴うと考えられる蠅や蚊、ノミも見られた。一方島内ではヤシガニが生息しているが、美味であるため乱獲され、ラサ島鉱業所開所約1年にしてその数が減少していたという[37][36]

発見と命名

沖大東島についての記録としては、1543年にスペイン人、ベルナルド・デ・ラ・トーレがマル・アブリゴ(Mal Abrigo)と命名している[38][39]。その後、オランダ人のアジア方面の進出が盛んになる中でアムステルダムと呼ばれるようになった[40]。また18世紀後半に北アメリカ大陸北西部の太平洋岸を探検したことで知られる、アメリカ合衆国のジョン・ケンドリックにちなんで、ケンドリック島と書かれた資料もあり、これはケンドリックが航海中に沖大東島を通りかかったことによるものと考えられている[39]

1807年、フランスの軍艦カノニエル号が「ラサ島」と命名した。なお、もともと難破したイギリス船がラサ島の名付け親であるとの説もある。ラサの語源ははっきりしていないが、スペイン語などラテン語系の言語では「ラサ」とは平らなという意味であり、沖大東島の比較的平坦な地形から名付けられたとする説が有力である[41]。なお、ラサ島という名称は正式名称が沖大東島と決定された後も使用され続けている[41]

日本領への編入

1885年、北大東島南大東島の両島は日本領に編入される。しかし同じ大東諸島に属しながら、この時沖大東島の日本領編入は行われなかった[42]。その後、南方への関心が高まっていく中で南北大東島の開拓への動きが見え始めた1891年に、アメリカ船籍の船、キットセップが大東諸島付近で遭難して南大東島に乗組員が漂着した。漂着後、船長以下4名がカッターに乗って沖縄本島に辿り着いて救援を要請し、要請を受けて沖縄県は南大東島に救援船を派遣する。この事件をきっかけとして沖縄県は海軍省に南方探検を目的とした軍艦派遣を要請した[43][42]

沖縄県側の要請は受け入れられ、1892年8月に海軍艦船海門が派遣された。那覇に来航した海門の艦長柴山矢八に対し、沖縄県側は南北大東島や尖閣諸島に属する島々は既に探検が行われているとして、未調査のラサ島と南波照間島を優先的に探検するよう要請した[41][44]。しかし海門は那覇を出港するとまず南大東島へ行って7名が上陸して調査を行わせ、その後ラサ島に向かって3名を上陸させて約1時間半の調査を行った後、再び南大東島に戻って上陸調査中の7名を帰船させると、北大東島は上陸すらせず洋上からの視察で終え、帰途についた[44][45]

この短期間の海軍艦船海門による大東諸島「探検」について、笹森儀助は職務を忘れ、探検の精神をおろそかにしたものであると痛烈に批判した[46]。なお、わずか1時間半の上陸であったが山下源太郎大尉ら上陸者は、「ラサ島探見報告」を艦長の柴山に提出した。山下らはラサ島は台風による高波の影響からか沿岸部に草木が無いものの、内陸部は草木が鬱蒼と生い茂り歩くのも困難であること、そしてアホウドリの群れが巣作りしていて小鳥は人間を恐れる気配が全くないこと。また、水源は無さそうで漂流民やその他人が住んだ形跡は全くないと報告した[47][48]

1898年9月、南鳥島の開発を行っていた水谷新六がラサ島を探検している。水谷の目的はアホウドリの羽毛採取であった[49][50]。1899年6月、今度は宮古島人頭税の廃止に向けて活躍した中村十作がラサ島を探検する[51]

中村は1900年6月、内務省にラサ島の借用願いを提出した。提出を受けた内務省はラサ島についての情報が全く無くて困惑した。そこで内務省は海軍省水路部に尋ねてみたところ、水路部からは1892年の海門による調査等の資料が届けられた。島の実在を確認した内務省は、沖縄県にラサ島を沖縄県島尻郡に編入する手続きを行いたいが意見を聞きたいとの照会文を送付した。内務省からの照会文に対し、沖縄県知事奈良原繁は「沖縄県の管轄として島尻郡に編入すべきである」と回答した[52]

1900年9月11日、内務大臣の西郷従道は、中村十作による借用願いが提出された所属未決定の島であるラサ島の所属を決定すべきであるとして、正式に日本領として沖縄県島尻郡に編入し、島名を「沖大東島」とする案件を閣議に諮った。西郷の提案は了承され、新たに沖大東島と名付けられた島は沖縄県島尻郡に属することが閣議決定された[53]。閣議決定を受けて西郷内務大臣は沖縄県に訓令を発し、それを受けて県は10月17日、沖大東島を正式に沖縄県島尻郡に編入する告示を行った[53]

なお、沖大東島の日本領編入のきっかけとなった中村十作の借用願いは返戻扱いとなったため、借用は行われなかった[54]

奈良原県知事の視察

奈良原繁。

1903年、沖縄県土地整理事務局はこれまで不正確であった大東諸島の形状、面積を実測することになった[55]。6月15日、沖縄県土地整理事務局の長官である県知事奈良原繁自ら調査団を率い、島尻郡長、事務官、測量員、漁業関係の視察者らが那覇港から大東諸島へと向かった[56]

6月17日朝、沖大東島沖に到着し、調査員は艀に乗って沖大東島に上陸した。島内の草地ではおびただしい数の海鳥が産卵し、雛を育てていたという。11時から測量を行い、午後3時半には測量を終え、撤収作業の後、午後7時には沖大東島を離れた[57]

測量の結果、島の面積は北大東島の約12分の1に過ぎないとした。北西部が最も標高が高く、そこから北東方向と南東方向に丘陵地が延びていて、その間は比較的平坦になっていた。また海岸部は全て断崖となっていて、海岸線にはサンゴ礁が発達していた[58]

リン鉱石鉱山時代

リン鉱山が操業していた1938年頃の沖大東島全景。

日本領編入後の沖大東島はリン鉱山として開発が始められて発展し、一企業による経営、統治が行われた。戦前期は大東諸島の南大東島、北大東島とともに町村制は施行されず、沖縄県からは国税や県税の徴収事務に関わる吏員が派遣された。また1927年に衆議院議員の選挙権は与えられたものの、戦前は沖縄県議会議員の選挙権は無かった[59]

水谷新六と玉置半右衛門の開発願い

沖大東島が正式に日本領に編入された後、南鳥島の開発事業を行っていた水谷新六が沖縄県に開発願いを提出し、1901年5月11日に認可が下りた[60]。水谷は南鳥島で鳥類の捕獲事業を行っていたが、乱獲によって鳥類は激減していて撤退を考え始めていた[61]。1901年9月、水谷は羽毛採取を目的として沖大東島へ向かったものの、船が台湾、フィリピン方面に漂流してしまい、結局沖大東島に辿り着けずに帰還した[49][53]

開発願いは数年間開発に着手しない場合取り消されることになっており、水谷の場合も1903年6月6日に認可が取り消された[60]。1902年頃には、1893年頃に沖大東島を発見して借地権を得ているとする人物が、資金と人材を集めようとした詐欺事件が起きている[62]

水谷新六の認可取り消し後、1906年には玉置半右衛門が開墾と羽毛採取の目的で沖大東島の15年間の開発権を取得した[63][64]。玉置は1899年10月に南大東島、北大東島両島の開発権を取得していた[60]。1906年当時、南大東島の開墾にかかり切りの状況で、北大東島はほとんど手つかずのままであった。つまり実際問題として開発権取得時の玉置には沖大東島の本格開発に着手する余裕は無かった[65]。 それでも玉置は開発権を取得した後、沖大東島の調査のために船を派遣した。その船には水谷新六の甥が水夫として乗船していた。その水谷の甥は水谷新六から沖大東島の岩石や土砂を持って帰るように依頼を受けていた[66]

ラサ島鉱業所操業まで

ラサ島鉱業所を設立した恒藤規隆

水谷新六はリン資源開発、確保をライフワークとしていた恒藤規隆から沖大東島の岩石や土砂の入手を依頼されていた[67][68]。恒藤はリン資源発見を目指して全国各地を調査していた。その中で1902年に部下を南鳥島に派遣して、高品位のグアノを発見していた[69]

南鳥島で鳥類の捕獲事業を行っていた水谷新六は、グアノの発見後、グアノ採掘へと事業転換する。採掘されたグアノは全国肥料取次所で肥料として製造販売した[70][71]。全国肥料取次所で技術指導を行っていたのが恒藤であった[72]。南鳥島でのグアノ発見、全国肥料取次所での肥料製造などを通じて恒藤は水谷新六と知り合った。南鳥島でのグアノ発見以後、南方の島々でのリン資源探査に意欲を高めていた恒藤は、水谷が南方の島々でしばしば鳥類の捕獲を行っていることを知り、捕鳥のついでに岩石を持って帰るよう依頼していた[73]。中でも強い興味を持ったのが沖大東島であった。水谷から沖大東島の話を聞くと、機会があったら岩石や土砂を持ち帰って来るように頼んでいた[74]

水谷の甥は股引に沖大東島の石を入れて持ち帰った。恒藤は沖大東島の石を一目見てリン鉱石であると判断した[66]。ラサ島でのリン鉱石発見後、恒藤の他、肥料商の九鬼紋七、沖大東島の開発権を握っていた玉置半右衛門、そして水谷新六が鉱業権を主張した[75]。さらに1909年には東沙諸島の開発から撤退した西沢吉治が沖大東島開発に乗り出そうと画策するなど泥沼の争いとなった[76]

そのような中で恒藤は1907年8月に沖大東島へリン鉱石の資源調査団を派遣し、1910年10月には日本産業商会を設立して理事長に就任する[77]。そして日本産業商会設立直後の11月には第二回の資源調査隊を派遣した[78]

国内での権利問題が解決しない中、沖大東島のリン資源に外国資本が食指を伸ばしだした。外圧を背景に恒藤は権利獲得に奔走し、1911年初頭に沖大東島の開発権の掌握に成功する。2月28日にはラサ島燐鉱合資会社を設立して社長に就任する[79]。社長就任後の4月、恒藤は自らが陣頭指揮を執って沖大東島に第三回の資源探査を行った[80]。探査の結果、予想を上回る有望なリン鉱石鉱床を確認したため、5月1日にラサ島鉱業所を創業した[81]

ラサ島鉱業所の盛衰

ビロウ森の伐採。

ラサ島鉱業所の操業開始後、様々な困難が立ちはだかった。まず鉱山本体の開発とともに、孤島である沖大東島で鉱山経営を進め鉱石を輸送するために桟橋の建設を進めたものの、8月から9月に台風が襲来してほとんどの建設済み設備が破壊された。また労働者たちは慣れない亜熱帯の気候と台風被害によってその多くが離島を希望するに至り、現場の判断で労働者たちの離島を認めざるを得なかった[82]。結局1912年2月からは沖縄県で労働者の募集を開始し、沖大東島では沖縄県出身の労働者が主力になっていく[83]

台風の被害からの復旧が終わり、1911年末からリン鉱石の輸送が始まったものの、肥料会社各社が沖大東島のリン鉱石の不買同盟を結成したため、鉱石は売れなかった。この問題は社長恒藤の決断で自社で沖大東島産のリン鉱石を原料とした肥料製造を開始したことによって突破口が開かれ、鉱石が売れるようになった[84][85]。そして1913年5月にはラサ島燐礦株式会社が設立された[86]

株式会社化の後、様々な困難が立ちはだかりながらもリン鉱石の産出量は増大していった[87]。まず大きな課題となったのは水の問題であり、その他、台風による船舶の遭難、腸チフスの流行、そして労働者が暴動寸前の不穏状態になるなど労働問題も発生した[88][89]

1916年3月には台風襲来にも耐えられるコンクリート製の突堤が完成した。島内には倉庫、発電所、診療所、宿舎などの施設整備も進んだ。また1915年6月には無線電信局が開局されて外部との情報のやりとりが可能となり、同年、中央気象台から気象機器の貸与を受けて気象観測も始められた[90]

ラサ島鉱業所事務所。

1914年の第一次世界大戦開戦後、船舶不足によってリン鉱石の輸入が滞るようになった。その上、空前の好景気となって肥料の売り上げ自体も好調で、沖大東島のリン鉱石は増産されていった[91][92]。1918年にはラサ島鉱業所は18万トンあまりのリン鉱石を採掘し、鉱山労働者も約2000名と最盛期を迎えた[91][90]。面積1平方キロメートルあまりの狭い沖大東島に約2000名の鉱山労働者たちが生活し、鉱山労働に従事する状況は、長崎県の端島と同様の海上に浮かぶ一つの鉱業空間であった[93]

地方自治が敷かれなかった沖大東島は、ラサ島燐鉱株式会社やその後進企業の運営下に置かれた。学校、病院、船便、通信、郵便といった業務は企業が担っていて、経済面も会社が発行する「物品交換券」が流通するなど会社のコントロール下に置かれた。治安を守る巡査も会社側からの依頼を受けて那覇署から請願巡査が派遣されていた。島で働く労働者たちは国税、県税を納め、男子には徴兵もあったが、地方自治が行われていなかったため沖大東島に転入の手続き自体が出来ず、全ての島民は出稼ぎ者扱いであった[94]

第一次世界大戦後の戦後不況の影響で、肥料の消費は減退して価格も暴落する。その結果、ラサ島鉱業所は生産体制の縮小を余儀なくされる[95]。その後大正末期には地下に新たな有望なリン鉱石鉱床が発見され、生産高もいったんは盛り返す[96]。しかし不況の継続による会社の経営難はより厳しさを増していき、その上、採掘条件が良い鉱石が減少したため、1928年末には休山となった[97][98]

その後、戦時体制が強化されていく中で日本経済は長い不況から脱していく。しかも国際関係の緊張が高まってリン鉱石の輸入に不安材料が出てきた。そのような情勢下で1933年、ラサ島鉱業所は操業を再開する[99][100]。再開後のラサ島鉱業所は、リン鉱石の輸入が困難となっていく中で農林水産省から増産を強く要請されるようになり、重要産業にも指定されて物資の供給や人材の確保において優遇措置が講じられた[101]。なおラサ島鉱業所の操業再開後の1937年、沖大東島は3748円でラサ工業に払い下げられている[注釈 2][105]

しかし優遇措置を受けていたとはいえ、戦時下の人員不足は深刻でリン鉱石採掘に必要な人員を揃えるのは無理であった[106]。しかも肝心のリン鉱石の品位も低下していった[100]。その上、戦況の悪化につれて海上輸送が困難となっていった[107]。それでも1938年から1944年にかけて、ラサ島鉱業所は日本領内トップの約32万トンのリン鉱石を採掘した[107]

ラサ島守備隊

1940年に開設された中央気象台沖大東測候所。

1935年9月から1938年4月まで、海軍水路部の移動観測班が南大東島で気象観測を行った。その結果、大東諸島での気象観測の重要性が認められて、1938年には南大東島と沖大東島に気象観測所の新設が決定された[108]。1940年1月、中央気象台が管轄する沖大東測候所が開設された。1942年8月には海軍の望楼が建設され、海軍軍人8名と観測員9名が常駐するようになる[109]。その後沖大東島の海軍兵力として1944年11月には見張要員29名と他の任務を担う2名の計31名が新たに来島した[110]

大本営は大東諸島を軍事的要衝と判断して防衛体制の強化を図った[111]。1944年3月24日、大本営は第85兵站警備隊を歩兵第36連隊に編入の上、大東諸島への展開を命じた。南大東島には歩兵第36連隊の連隊本部と第1、第3大隊、大東島支隊。北大東島には第2大隊。そして沖大東島には第4中隊が配備されることになった[112][113]

1944年2月25日、沖大東島はアメリカ軍による艦砲射撃の攻撃を受けた。4月16日には荷役作業中の船が潜水艦による攻撃を受け、ほぼ全乗組員が死亡する。そのような緊迫した情勢下、4月26日に陸軍のラサ島守備隊が上陸した[109]

進駐してきたラサ島守備隊は、ラサ島鉱業所の全面的なバックアップのもとで強固な陣地を造り上げていった[114][115]。9月29日には初の空襲を受け、危険性が高まる中で、4月以降始まっていたラサ島鉱業所の従業員の順次退島に拍車がかかることになった[109]

リン鉱石を採掘するラサ島鉱業所は食糧増産の鍵であり、全面撤退の決定はなかなか下りなかった。しかしラサ島のリン鉱石は品位が低下していて外国産の優良な鉱石と混ぜなければ利用できず、しかも海上輸送が困難となったために島内には採掘された鉱石が貯まってこれ以上貯鉱が出来ない状況となっており、結局1944年末に全面撤退の決定が下りた[116]。1945年1月22日、ラサ島鉱業所の従業員は全員沖大東島を離島して、ラサ島鉱業所は閉山となった[117]

ラサ島鉱業所の閉鎖後、アメリカ軍は艦砲射撃や空襲を加えてきた[118][119]。3月11日には補給船が来島したが、その補給船が最後となり、終戦後まで補給は完全に絶たれた[120]。補給が断たれた後、ラサ島守備隊はサツマイモの栽培や魚を獲るなどして持久作戦を取ることになった[121]

その後も米軍による空襲は断続的に続けられた[122]。米軍が投下した不発弾を海中で爆破して魚を気絶させる漁は、守備隊員たちから「トルーマン給与」と呼ばれるようになった[123]。補給が断たれる中、何とか持久作戦を続けてきた守備隊であったが、8月頃には脚気患者が増え始めていた[124]

8月15日の終戦後、25日になって正式な降伏命令がラサ島守備隊のもとに届けられた[125]。10月12日には米軍が沖大東島に上陸し、武装解除、そして10月14日にはラサ島守備隊は撤収した。ラサ島守備隊員の戦死者は7名であった[126]。撤収後、沖大東島はラサ島鉱業所の操業開始以前の無人島に戻った[127]

戦後の沖大東島

戦後、沖縄を統治した米軍軍政は、肥料となるリン鉱石を産出する沖大東島、北大東島を擁する大東諸島に着目し、「沖縄の宝庫」の筆頭に位置付けていた。1946年6月、米軍軍政当局は大東諸島に沖大東島、北大東島のリン鉱石調査を名目とした調査団を派遣した[128]

リン鉱石の調査が目的とされた調査団であったが、実際には大東諸島の政治行政、経済面の多岐に渡っての調査を行った。この調査中の1946年6月12日、沖縄民政府の指示により大東諸島に村制が施行された[128]。大東諸島の村制施行に伴って沖大東島は北大東村に属することになった。なぜ北大東村に属することになったかについては資料が残っていないが、地理的な観点からではなく産業面、すなわちリン鉱石の産地である北大東島、沖大東島とも、リン鉱石資源再開発を行うことを考慮したものと推測されている[129][130][131]。なお、沖縄返還後の1973年8月18日、沖大東島は北大東村字ラサと字の区域設定が行われた[130]

1950年の朝鮮戦争開戦後、鉄くず需要が高まる中で沖大東島に、放棄されたラサ島鉱業所の機械類やレール、そしてラサ島守備隊が残したスクラップ類を回収するため、スクラップ業者がやって来るようになった。1954年にはスクラップ回収のために沖大東島に向かった12名の労働者が、派遣先の経営不振のため迎えの船を出せずに置き去りにされた事件が起きている[132][133]

1956年4月16日、沖大東島はアメリカ海軍の艦対地射爆撃訓練及び空対地射爆撃訓練を行う沖大東島射爆撃場となった。利用条件としては訓練は月15日以内、年間180日以内とされている。1972年の沖縄返還後も基地利用は継続している[134]。なお沖縄返還後、沖大東島はいったん国有地とされたが、1937年にラサ工業に払い下げられた事実が確認されたため、1973年10月12日に民有地に訂正されている[135]。ラサ工業には基地使用のための借地料が支払われているが、1984年度の借地料は3億3000万円であった[136]。その後借地料は公表されないようになったが、1991年の北大東村当局者の推定によれば約5億円である[137]

1979年1月、ラサ工業株式会社はラサ島をリン鉱山として再開発するとともに、採掘終了後は石油備蓄基地とする計画を策定する。同年7月、広島大学の沖村雄二教授を団長として、ラサ工業と防衛施設庁合同でラサ島のリン鉱石調査が実施された。調査の結果、リン鉱石の埋蔵量は約350万トンと推定された[18][138]。そのような中でラサ工業とラサ島が属する北大東村は、射爆場としての契約解除とラサ工業側への返還を求めたが、国は基地契約解除と返還に同意せず実現しなかった[139]。沖大東島は米軍の射爆場として一般人の立ち入りが禁止されている状況が続いている[140]

1989年5月、北大東村、南大東村共同で沖大東島の現況ならびに漁業調査が行われ、両村の職員、沖縄県議会議員3名、漁業関係者、琉球大学教授ら、66名が参加した。島内に海鳥は見られず、ラサ島鉱業所時代の遺構としてはコンクリート製の桟橋、貯水槽の残骸、そしてわずかにトロッコの敷設跡が残っている程度で、射爆場の爆撃による穴や薬莢、そして不発弾も見られた。その一方、島の周囲は魚影が豊富で豊かな水産資源に恵まれていることも把握された[141][142]

2012年 地図・海図に記載される名称として、沖大東島南西部沖合の小島(岩礁)が南西小島と命名された[143][144]

関連項目

外部リンク

脚注

注釈

  1. ^ ラサ島の読みについては、1915年6月4日付官報第851号p.98において、「ラサジマ」とのルビが振られていることから「ラサじま」とする[1]
  2. ^ 1913年に発足したラサ島燐礦株式会社は、1934年3月に「ラサ工業株式会社」に社名を変更した[102]。その後鯛生産業との合併によって1941年9月には「鯛生産業株式会社」、1944年6月には「東亜鉱工株式会社」と社名を変更する[103]。戦後、1949年3月に「ラサ工業株式会社」の社名に戻った[104]

出典

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参考文献

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