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|画像説明 = 増田次郎
|画像説明 = 増田次郎
|生年月日 =[[慶應]]4年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]](新暦:[[1868年]][[3月19日]])
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|生誕地 = [[駿河国]][[志太郡]][[西益津村|稲川村]]<br />(現・[[静岡県]][[藤枝市]])
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1868|3|19|1951|1|14}}
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|死没地 = [[東京都]][[渋谷区]]上智町
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|職業 = [[実業家]]、[[政治家]]
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|栄誉 = [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]・[[正六位]]
}}
}}
{{政治家
'''増田 次郎'''(ますだ じろう、[[慶応]]4年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1868年]][[3月19日]]) - [[1951年]](昭和26年)[[1月14日]])は、[[明治]]末期から[[大正]]、[[昭和]]初期にかけて活動した[[日本]]の[[実業家]]、[[政治家]]。
|人名 = 増田 次郎
|各国語表記 = ますだ じろう
|国略称 = {{JPN}}
|前職 = [[後藤新平]]秘書
|所属政党 = 無所属→[[公友倶楽部]]→[[公正会]]
|国旗 = JPN
|職名 = [[衆議院|衆議院議員]]
|選挙区 = 静岡県郡部選挙区
|当選回数 = 1回
|就任日 = [[1915年]][[3月25日]]
|退任日 = [[1917年]][[1月25日]]
}}
'''増田 次郎'''(ますだ じろう、[[慶応]]4年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]〈[[1868年]][[3月19日]]〉 - [[1951年]]〈昭和26年〉[[1月14日]])は、[[明治]]末期から[[大正]]、[[昭和]]初期にかけて活動した[[日本]]の[[実業家]]、[[政治家]]である。


[[駿河国]](現・[[静岡県]])出身。[[後藤新平]]秘書から[[衆議院]]議員となり、さらに実業界に転じて[[電力会社|電気事業]]に参加。[[大同電力]]社長、[[日本発送電]](日発)初代総裁、[[台湾電力]](台電)社長などを務めた。
[[後藤新平]]秘書から[[衆議院]]議員となり、さらに実業界に転じて[[電力会社|電気事業]]に参加。[[大同電力]]社長、[[日本発送電]](日発)初代総裁、[[台湾電力]](台電)社長などを務めた。[[駿河国]](現・[[静岡県]])出身


== 秘書・政治家時代 ==
== 経歴 ==
=== 前半生 ===
=== 前半生 ===
増田次郎は[[慶応]]4年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[明治元年]]、新暦:[[1868年]][[3月19日]])、[[駿河国]][[志太郡]][[西益津村|稲川村]](現・[[静岡県]][[藤枝市]])に増田儀右衛門の次男として生まれた<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]1頁</ref>。生家は120[[俵 (単位)|俵]]あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は[[戸長]]に選ばれる村の有力者であった<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、3-4頁</ref>。
増田次郎は[[慶応]]4年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[明治元年]]、新暦:[[1868年]][[3月19日]])、[[駿河国]][[志太郡]][[西益津村|稲川村]](現・[[静岡県]][[藤枝市]])に増田儀右衛門の次男として生まれた<ref name="jijoden-1">[[#jijoden|『自叙伝』]]1-4・12-13頁</ref>。生家は120[[俵 (単位)|俵]]あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は[[戸長]]に選ばれるような村の有力者であった<ref name="jijoden-1"/>。


小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき[[丁稚|丁稚奉公]]に出され[[六合村 (静岡県志太郡)|六合村]]にあった親類の商家に預けられた<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、4・12頁</ref>。しかし父が事業に失敗したので16歳のとき実家へ戻され、農作業に従事する<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]18-20頁</ref>。父は再起を図るものの失敗続きで、次郎が20歳のとき伝来の家屋敷を手放さざるを得なくなった<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、25頁</ref>。それでも父は次郎に東京で学問をするよう勧めるので、次郎は上京して[[東洋英和学校]]、次いで有得館に入り、語学を学んだ<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]28-32頁</ref>。
小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき[[丁稚|奉公]]に出され[[六合村 (静岡県志太郡)|六合村]]にあった親類の商家に預けられた<ref name="jijoden-1"/>。しかし父が事業に失敗したため16歳のとき実家へ戻され、農作業に従事する<ref name="jijoden-18">[[#jijoden|『自叙伝』]]18-20・25-27頁</ref>。父は再起を図るものの失敗続きで、次郎が20歳のとき伝来の家屋敷を手放さざるを得なくなった<ref name="jijoden-18"/>。それでも父は次郎に東京で学問をするよう勧めるので、次郎は上京して[[東洋英和学校]]、次いで有得館に入り、語学を学んだ<ref name="jijoden-28">[[#jijoden|『自叙伝』]]28-43頁</ref>。


東京には1年余り滞在したが、父儀右衛門が病気になったので急遽帰郷。看病に努めたが父は翌[[1890年]](明治23年)11月に死去する<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、33-34頁</ref>。兄が既に死去していたため家を継ぎ、家族とともに[[静岡市]]に転居してここで親類の男とともに[[印刷会社|印刷所]]を買い取って開業した<ref name="jijoden_p37">[[#jijoden|『自叙伝』]]、37-41頁</ref>。県議会の議事録や警察関係の印刷を引き受けており、県庁や警察方面に知人ができて仕事が順調に進むようになったが、[[1892年]](明治25年)12月、市内の大火に巻き込まれて印刷所が全焼してしまう<ref name="jijoden_p37"/>。
東京には1年余り滞在したが、父儀右衛門が病気になったので急遽帰郷<ref name="jijoden-28"/>。看病に努めたが父は翌[[1890年]](明治23年)11月に死去する<ref name="jijoden-28"/>。兄が既に死去していたため家を継ぎ、家族とともに[[静岡市]]に転居してここで親類の男とともに[[印刷会社|印刷所]]を買い取って開業した<ref name="jijoden-28"/>。印刷所で県議会の議事録や警察関係の印刷を引き受けた関係から県庁や警察方面に知人ができて仕事が順調に進むようになったが、[[1892年]](明治25年)12月、市内の大火に巻き込まれて印刷所が全焼してしまう<ref name="jijoden-28"/>。印刷所の再建を断念し今度は[[静岡新聞|静岡民友新聞]]の広告取りを始めたものの、印刷所時代の借金の返済に苦しみ新婚早々ではあるが[[夜逃げ]]を決意する<ref name="jijoden-28"/>。印刷所の関係で顔なじみとなった県会議員に紹介してもらい、[[伊豆半島]]の[[松崎町]]にあった妻の縁者が経営する小料理屋へと落ち延びた<ref name="jijoden-28"/><ref name="jijoden-44">[[#jijoden|『自叙伝』]]44-48・55-63頁</ref>。小料理屋にて居候の身になり、買い出しや料理の手伝いをする傍ら、金がないので店の屋根裏に設けられていた[[賭場]]にも出入りし、賭場の手伝いもしたという<ref name="jijoden-44"/>。


=== 後藤新平秘書となる ===
印刷所を断念し[[静岡新聞|静岡民友新聞]]の広告取りを始めたものの、印刷所時代の借金の返済に苦しみ、[[夜逃げ]]を決意する<ref name="jijoden_p42">[[#jijoden|『自叙伝』]]、42-46頁</ref>。印刷所の関係で顔なじみとなった県会議員に紹介してもらい、[[伊豆半島]]の[[松崎町]]にあった新婚の妻の縁者が経営する小料理屋へと落ち延びた<ref name="jijoden_p42"/>。小料理屋にて居候の身になり、買い出しや料理の手伝いをする傍ら、金がないので店の屋根裏に設けられていた[[賭場]]にも出入りし、賭場の手伝いもしたという<ref name="jijoden_p42"/>。
[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|thumb|upright|秘書官として仕えた[[後藤新平]]]]


しばらく松崎で小料理屋生活を送っていたところ、町を訪れた先述の県会議員に紹介されて[[1895年]](明治28年)からは小学校に書記として勤め始めた<ref name="jijoden-44"/>。その県会議員に今度は[[賀茂郡]]の郡長池田忠一(内務官僚[[池田宏 (内務官僚)|池田宏]]の父)を紹介され、[[1896年]](明治29年)、[[下田市|下田町]]にあった賀茂郡役所に職を得た<ref name="jijoden-44"/>。次いで翌[[1897年]](明治30年)、[[沼津市|沼津町]]に転任し、[[駿東郡]]役所の書記に登用される<ref name="jijoden-44"/>。周囲の者に勧められて[[1898年]](明治31年)に[[普通試験|普通文官試験]]を受験して合格し、[[判任官]]となった<ref name="jijoden-44"/>。
=== 後藤新平秘書官となる ===
[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|thumb|秘書官として仕えた[[後藤新平]]]]


駿東郡役所では郡長[[岡本武輝]]に引き立てられた<ref name="jijoden-64">[[#jijoden|『自叙伝』]]64-65・81-88頁</ref>。岡本が沼津から[[台湾]]へと転任する際、増田も台湾で一旗揚げてはどうかと同行するよう誘われ、岡本の計らいにより増田は[[1899年]](明治32年)7月、台湾樟脳局(後の[[台湾総督府専売局]])へと転任した<ref name="jijoden-64"/>。1902年版の職員録には専売局脳務課勤務の書記とある<ref>『職員録』明治35年(甲)813頁。{{NDLJP|779782/431}}</ref>。
しばらく小料理屋生活を送っていたところ、[[1895年]](明治28年)、松崎町に訪れた顔なじみの県会議員に仕事を紹介され、小学校に書記として勤め始めた<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、47-48頁</ref>。その県会議員に今度は[[賀茂郡]]の郡長[[池田忠一]]を紹介され、[[1896年]](明治29年)、[[下田市|下田町]]にあった賀茂郡郡役所に職を得た<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、55-56頁</ref>。次いで翌[[1897年]](明治30年)、[[沼津市|沼津町]]に転任し、[[駿東郡]]郡役所の書記に登用される<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、60頁</ref>。周囲の者に勧められて[[1898年]](明治31年)に[[普通試験|普通文官試験]]を受験して合格し、[[判任官]]となった<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、61-63頁</ref>。


増田が台湾で勤めていた頃、[[台湾総督府]]民政長官は[[後藤新平]]であった(1898年より1906年まで)。末端の役人であった増田は民政長官と接する機会がなかったが、[[1902年]](明治35年)に専売局長の[[祝辰巳]]に随行して上京する際、たまたま議会に出席するため後藤が同じ船に乗船していたので、祝の紹介で知遇を得ることができた<ref name="jijoden-64"/>。その後後藤の秘書官が他に転ずることとなったので、祝らが後任秘書官として増田を推薦した結果、[[1905年]](明治38年)4月、台湾総督府民政長官秘書官に抜擢された<ref name="jijoden-64"/>。同年5月時点の職員録には総督府秘書課(課長[[大津麟平]])属の秘書官とある<ref>『職員録』明治38年(甲)598頁。{{NDLJP|779788/326}}</ref>。
駿東郡郡役所では郡長[[岡本武輝]]に引き立てられたが、岡本が沼津から[[台湾]]へと転任する際、増田も台湾で一旗揚げてはどうかと同行するよう誘われた<ref name="jijoden_p64">[[#jijoden|『自叙伝』]]、64-65頁</ref>。岡本の計らいにより増田は[[1899年]](明治32年)7月、台湾樟脳局(後の[[台湾総督府専売局]])へと赴任した<ref name="jijoden_p64"/>。


[[1906年]](明治39年)11月、後藤新平は台湾総督府から[[南満州鉄道|南満洲鉄道株式会社]](満鉄)の初代総裁へと転ずる。増田も後藤に随って満鉄へと移り、翌[[1907年]](明治40年)2月には後藤の一行とともに満洲の[[大連市]]へ入った<ref name="jijoden-109">[[#jijoden|『自叙伝』]]109-119頁</ref>。しばらく経った後[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]となったので単身帰国して療養生活を送る<ref name="jijoden-109"/>。[[1908年]](明治41年)7月に[[第2次桂内閣|第2次桂太郎内閣]]が成立し後藤が満鉄総裁から転じて[[逓信省|逓信大臣]]兼[[鉄道省|内閣鉄道院]]総裁となると、増田も異動して鉄道院に転ずる<ref name="jijoden-123">[[#jijoden|『自叙伝』]]123-131頁</ref>。鉄道院では当初秘書課(課長[[松木幹一郎]])勤務の書記であったが<ref>『職員録』明治42年(甲)8頁。{{NDLJP|779796/34}}</ref>、[[1910年]](明治43年)3月24日付で[[高等官]]七等に叙され鉄道院総裁秘書兼任となる<ref name="kanpo19100325">「叙任及辞令」『[[官報]]』第8023号、1910年3月25日付。{{NDLJP|2951374/10}}</ref>。さらに同年12月28日付で高等官六等に昇格した<ref>「叙任及辞令」『官報』第8258号、1910年12月29日付。{{NDLJP|2951611/2}}</ref>。
増田が台湾で勤めていた頃、[[台湾総督府]]民政長官は[[後藤新平]]であった(1898年より1906年まで)。末端の役人であった増田は民政長官と接する機会がなかったが、[[1902年]](明治35年)に専売局長の[[祝辰巳]]に随行して上京する際、たまたま議会に出席するため後藤が同じ船に乗船していたので、祝の紹介で知遇を得ることができた<ref name="jijoden_p81">[[#jijoden|『自叙伝』]]、81-82頁</ref>。その後後藤の秘書官が他に転ずることとなったので、祝らが後任秘書官として増田を推薦した結果、[[1905年]](明治38年)4月、専売局属官から台湾総督府民政長官秘書官に抜擢された<ref name="jijoden_p81"/>。


[[1911年]](明治44年)8月、桂内閣総辞職に伴い後藤が鉄道院総裁から退任する。増田は9月1日付で鉄道院総裁秘書の兼官を解かれたが<ref name="kanpo19110902">「叙任及辞令」『官報』第8461号、1911年9月2日付。{{NDLJP|2951818/2}}</ref>、鉄道院自体には引き留められ[[交通博物館|鉄道博物館掛]]に任ぜられた<ref name="jijoden-123"/>。同年12月28日付で鉄道院書記から鉄道院副参事に昇格する<ref>「叙任及辞令」『官報』第8559号、1911年12月29日付。{{NDLJP|2951916/5}}</ref>。しかし鉄道院から辞職するつもりでいたため4か月にわたってほとんど出勤せず<ref name="jijoden-123"/>、翌[[1912年]](明治45年)1月11日付で鉄道院副参事からの依願免官が認められた<ref name="kanpo19120112">「叙任及辞令」『官報』第8566号、1912年1月12日付。{{NDLJP|2951923/1}}</ref>。
[[1906年]](明治39年)11月、後藤新平は台湾総督府から[[南満州鉄道|南満洲鉄道株式会社]](満鉄)の初代総裁へと転ずる。増田も後藤に随って満鉄へと移り、翌[[1907年]](明治40年)2月には後藤の一行とともに満洲の[[大連市]]へ入った<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、114頁</ref>。しばらく経った後[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]となったので単身帰国して療養生活を送る<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、118-119頁</ref>。[[1908年]](明治41年)7月に[[第2次桂内閣|第2次桂太郎内閣]]が成立し後藤が満鉄総裁から転じて[[逓信大臣]]兼[[内閣鉄道院]]総裁となると、増田は鉄道院総裁秘書に任ぜられた<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、123頁</ref>。

[[1911年]](明治44年)8月に桂内閣が総辞職し後藤も鉄道院総裁を退任する。一方増田は鉄道院に引き留められ、[[交通博物館|鉄道博物館掛]]となるものの、ほとんど出勤せず翌[[1912年]](明治45年)1月に辞職が認められた<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、129-130頁</ref>。


=== 政界入り ===
=== 政界入り ===
退官直後の1912年2月28日、台湾の[[竹北市|竹北]]に設立された[[製糖]]会社・南日本製糖株式会社の[[取締役]]に選出された<ref name="kanpo19120419">「商業登記」『官報』第8647号附録、1912年4月19日付。{{NDLJP|2952004/24}}</ref>。増田がこれに参加したのは旧知の[[秋山一裕]]に勧誘されたためで、常務としてしばらく台湾に赴任した<ref name="jijoden-123"/>。しかし1年半後の[[1913年]](大正2年)12月22日付で同社取締役から退いた<ref name="kanpo19140123">「商業登記」『官報』第444号附録、1914年1月23日付。{{NDLJP|2952544/16}}</ref>。会社設立時の期待に反して業績不振が続いており、社長[[竹内綱]]・専務山本久顕とともに引責辞任したことによる<ref>[[#toma|『事業及人物』]]31-36頁。{{NDLJP|954781/45}}</ref>。南日本製糖は3年後の[[1916年]](大正5年)に[[帝国製糖]]へと合併され消滅している<ref>「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00220424&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 集約的耕作に成功せる帝国製糖株式会社]」『[[萬朝報]]』1919年1月3日付(神戸大学附属図書館「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html 新聞記事文庫]」収録)</ref>。
鉄道院を辞職した頃、台湾に[[製糖]]工場を建設すべく南日本製糖株式会社の設立が企画されており、これに誘われて1912年2月同社の常務取締役に就任した<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、130-131頁</ref>。台湾に再度渡りしばらく[[苗栗県|苗栗]]に滞在するが<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、132頁</ref>、時の首相[[桂太郎]]が後藤新平らと新党[[立憲同志会]]の創立を目論むと、[[1913年]](大正2年)1月この創立幹事に選ばれた<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、135頁</ref>。


1913年2月、時の首相[[桂太郎]]が新党「[[立憲同志会]]」の結成を発表した(正式な結党式は同年12月)<ref name="minsei">[[#minsei|『立憲民政党史』]]211-225頁。{{NDLJP|1280837/120}}</ref>。後藤新平が結党に参加することとなったため増田も加わり<ref name="jijoden-132">[[#jijoden|『自叙伝』]]132-143頁</ref>、[[安達謙蔵]]などとともに幹事に名を連ねた<ref name="minsei"/>。ところが10月に桂が死去すると後藤は[[加藤高明]]と対立して同志会から離脱する<ref name="jijoden-132"/>。増田も後藤に従って同志会幹事を辞職した<ref name="jijoden-132"/>。
桂の死後、後藤が同志会から離脱したので増田もそれに従って脱退し、しばらく浪人となる<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、136頁</ref>。そうしているうちに遊んでいるのならばと声をかけられ、[[1915年]](大正4年)3月の[[第12回衆議院議員総選挙]]に立候補することとなった<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、137頁</ref>。郷里静岡県から立候補して後藤らの後援で当選、[[衆議院]]議員となったが、増田本人曰く[[陣笠議員]]の一人に過ぎず特記するような議員活動はないという<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、141-142頁</ref>。


その後はしばらく浪人生活を送るが、郷里静岡県の関係者から声をかけられて[[衆議院]]議員への転身を図る<ref name="jijoden-132"/>。そして[[1915年]](大正4年)3月25日実施の[[第12回衆議院議員総選挙|第12回総選挙]]に静岡県郡部選挙区(定員9人)から出馬し、第5位となる得票数3024票にて当選を果たした<ref name="shuin12">[[#shuin|『衆議院議員総選挙一覧』自第七回至第十三回]]56頁。{{NDLJP|1337792/35}}</ref>。選挙では無所属であったが<ref name="shuin12"/>、当選後[[大隈重信]]に頼まれて無所属団、後の[[公友倶楽部]]に加入する<ref name="jijoden-132"/><ref name="toseki">[[#toseki|『衆議院議員党籍録』]]164-179頁。{{NDLJP|1337224/86}}</ref>。翌[[1916年]](大正5年)11月からは[[公正会]]に移った<ref name="toseki"/>。増田本人曰く、衆議院議員となったものの[[陣笠議員]]の一人に過ぎず特記するような議員活動はないという<ref name="jijoden-132"/>。
[[1917年]](大正6年)1月衆議院が[[衆議院解散|解散]]され、[[第13回衆議院議員総選挙|第13回総選挙]]に臨んだが、[[加藤高明]]が後援する[[鈴木富士彌]]に敗れて落選した<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、142-143頁</ref>。


[[1917年]](大正6年)1月衆議院が[[衆議院解散|解散]]され、同年4月[[第13回衆議院議員総選挙|第13回総選挙]]が実施された。増田は前回と同じく静岡県郡部選挙区(定員9人)から無所属で出馬するが、得票数2110票と立候補者13人中12位の票しか得られず落選した<ref name="shuin13">[[#shuin|『衆議院議員総選挙一覧』自第七回至第十三回]]88頁。{{NDLJP|1337792/51}}</ref>。落選を機に政界の道を断念しており、衆議院議員在任は1期のみである<ref name="jijoden-132"/>。

== 実業家転身後 ==
=== 電気事業へ参入 ===
=== 電気事業へ参入 ===
[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 45-year-old.jpg|thumb|木曽川開発を主宰した[[福澤桃介]]]]
[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 45-year-old.jpg|thumb|upright|木曽川開発を主宰した[[福澤桃介]]]]


議員となった頃、後藤新平から[[福澤桃介]]を紹介され、福澤の事務所を訪ねて面会した。これが増田の電気事業に関係するようになった契機である<ref name="jijoden_p145">[[#jijoden|『自叙伝』]]、145-146頁</ref>。
議員となった頃、後藤新平から[[福澤桃介]]を紹介され、福澤の事務所を訪ねて面会した。これが増田の電気事業に関係するようになった契機である<ref name="jijoden-144">[[#jijoden|『自叙伝』]]144-152頁</ref>。


福澤が関与していた企業の一つに、[[愛知県]]の電力会社[[名古屋電灯]]があった。福澤は1913年1月に同社常務取締役に就任して経営権を掌握し、翌[[1914年]](大正3年)に社長となっていた<ref name="asano">[[#asano1209|「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業」]]31-34頁</ref>。名古屋電灯では以前から[[木曽川]]において水利権を獲得していたが、福澤が経営権を握ると木曽川開発を本格化させる<ref name="asano"/>。そして木曽川全体の開発計画を取り纏め、1915年9月に[[逓信省]]へその許可を申請、10月には許可済みの取水量を増加するべく[[長野県]]当局へと申請を行った<ref name="asano"/>。しかしこれらの申請が許可されるには、[[帝室林野局|帝室林野管理局]]の了承を取り付ける必要があった<ref name="asano"/>。木曽川上流域には帝室林野管理局が管理する[[神宮備林|木曽御料林]]があり、この御料林で伐採された木材の輸送を木曽川の河水を用いて行っていた([[木材流送]])ためである<ref name="asano"/>。
福澤が関与していた企業の一つに、[[愛知県]]の電力会社[[名古屋電灯]]があった。福澤は1913年1月に同社常務取締役に就任して経営権を掌握し、翌[[1914年]](大正3年)に社長昇る<ref name="asano">[[#asano|浅野伸一「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業」]]31-34頁</ref>。名古屋電灯では以前から[[木曽川]]において水利権を獲得していたが、福澤が経営権を握ると木曽川開発を本格化させる<ref name="asano"/>。そして木曽川全体の開発計画を取り纏め、1915年9月に[[逓信省]]へその許可を申請、10月には許可済みの取水量を増加するべく[[長野県]]当局へと申請を行った<ref name="asano"/>。しかしこれらの申請が許可されるには、[[帝室林野局|帝室林野管理局]]の了承を取り付ける必要があった<ref name="asano"/>。木曽川上流域には帝室林野管理局が管理する[[神宮備林|木曽御料林]]があり、この御料林で伐採された木材の輸送を木曽川の河水を用いて行っていた([[木材流送]])ためである<ref name="asano"/>。


福澤は帝室林野管理局との問題を解決するにあたり、逓信大臣時代に臨時発電水力調査局を設置して全国の河川を調査させるなど水力開発に熱心であった後藤新平に支援を求めた<ref name="daido_p13">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]12-13頁</ref>。後藤はこれを受け入れるとともに、手伝う人があった方が良いだろうということで増田次郎をその役に推薦した<ref name="daido_p13"/>。増田は福澤に面会するとすぐさま名古屋電灯の嘱託となり、帝室林野管理局との交渉を受け持つこととなった<ref name="jijoden_p145"/>。中央の大臣から地方の役人まで幅広く交渉を進めるにあたって、世故に長け性格は円満という交渉役に適材なことが買われての電力業界入りであったという<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]406-407頁</ref>。
福澤は帝室林野管理局との問題を解決するにあたり、逓信大臣時代に臨時発電水力調査局を設置して全国の河川を調査させるなど水力開発に熱心であった後藤新平に支援を求めた<ref name="daido-12">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]12-14頁</ref>。後藤はこれを受け入れるとともに、手伝う人があった方が良いだろうということで増田次郎をその役に推薦した<ref name="daido-12"/>。増田は福澤に面会するとすぐさま名古屋電灯の嘱託となり、帝室林野管理局との交渉役に任ぜられる<ref name="jijoden-144"/>。中央の大臣から地方の役人まで幅広く交渉を進めるにあたって、世故に長け性格は円満という交渉役に適材なことが買われての電力業界入りであったという<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]406-407頁</ref>。


帝室林野管理局との交渉は、最終的に木材輸送の代替交通機関として[[森林鉄道]]を敷設し、その資金を電力会社側が出すという条件で纏まった<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、150-152頁</ref>。御料材輸送の問題が解決して木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯は開発部門を分離して[[1918年]](大正7年)9月に新会社[[木曽電気製鉄|木曽電気製鉄株式会社]](後の木曽電気興業)を設立する<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、14頁</ref>。社長に福澤桃介、副社長に[[下出民義]]が就任し、増田も常務取締役に名を列ねた<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]、71頁</ref>。
帝室林野管理局との交渉は、最終的に木材輸送の代替交通機関として[[森林鉄道]]を敷設し、その資金を電力会社側が出すという条件で纏まった<ref name="asano"/>。御料材輸送の問題が解決して木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯は開発部門を分離して[[1918年]](大正7年)9月に新会社[[木曽電気製鉄|木曽電気製鉄株式会社]](後の木曽電気興業)を設立する<ref name="daido-12"/>。社長に福澤桃介、副社長に[[下出民義]]が就任し、増田も常務取締役に名を列ねた<ref name="steel-69">[[#steel|『大同製鋼50年史』]]69-72頁</ref>。木曽電気製鉄では常務と兼任で[[東京海上日動ビルディング|東京海上ビル]]に入る東京支店の支店長を務めた<ref>[[#kaisha27|『日本全国諸会社役員録』第27回]]下編137頁。{{NDLJP|936467/544}}</ref>。続いて[[1919年]](大正8年)11月木曽電気興業と[[京阪電気鉄道]]の合弁により[[近畿地方|関西地方]]への送電を目指して大阪送電株式会社が新設される<ref name="daido-35">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]35-38頁</ref>。同社でも福澤が社長に就き、その下で増田は常務取締役に名を連ねた<ref name="daido-35"/>。

この時期には木曽電気製鉄の他にも福澤系企業の役員を務めた。一つは愛知県内での鉄道建設のため福澤を社長として設立された[[東海道電気鉄道]]で<ref name="meitetsu">[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]166-168頁</ref>、1919年9月の会社設立とともに取締役に就いた<ref>「商業登記」『官報』第2200号、1919年12月3日付。{{NDLJP|2954313/22}}</ref>。ただし同社は開業に至ることなく3年後の[[1922年]](大正11年)7月に[[愛知電気鉄道]]へと合併されている<ref name="meitetsu"/>。もう一つは福澤が社長を務める[[香川県]]の電力会社[[四国水力電気]]で、1916年12月より[[監査役]]となった<ref name="shisui">[[#shisui|『四水三十年史』]]301-305頁。{{NDLJP|1176966/187}}</ref>。

=== 大同電力発足 ===
[[ファイル:Masuta Bridge.jpg|thumb|増田の名にちなんで命名された「満寿太橋」(長野県)。元は木製のつり橋]]

[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]の終わりを告げる1920年春の[[戦後恐慌]]発生を機に、福澤系の木曽電気興業・大阪送電に[[山本条太郎]]が社長を務める[[日本水力]]を加えた3社の合併案が浮上<ref name="daido-45">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]45-54頁</ref>。交渉の末に[[1921年]](大正10年)2月25日付で合併が成立、資本金1億円の[[大同電力|大同電力株式会社]]が発足した<ref name="daido-45"/>。社長は大阪送電から引き続いて福澤桃介が務め、副社長には日本水力から[[宮崎敬介 (実業家)|宮崎敬介]]が就任、その下の常務取締役には増田や京阪電気鉄道の[[太田光凞]]、技術者の[[三根正亮]]・[[近藤茂 (技術者)|近藤茂]]・[[関口寿]]の計5人が選任された<ref name="daido-45"/>。1923年の役員録には企画課長を兼ねるとある<ref>[[#nenkan8|『電気年鑑』大正12年]]191頁。{{NDLJP|948319/147}}</ref>。

大同電力発足後、木曽川には[[読書発電所]]や[[大井ダム|大井発電所]]などの水力発電所が相次いで完成した。発電所群のうち1921年に着工、翌年に竣工した長野県の[[須原発電所 (長野県)|須原発電所]]では、資材運搬のため発電所前に架橋された木曽川のつり橋が増田にちなんで「満寿太橋」と名づけられた<ref>[[#mizutotomoni|『水とともに』No.59]] 29-30頁</ref>。木曽川開発を進める大同電力にあって、増田は他の事業者や金融機関との間の対外交渉を担当する<ref name="jijoden-159">[[#jijoden|『自叙伝』]]159-169頁</ref>。[[関東大震災]]後の国内の金融逼迫に際して[[外債]]募集の話が浮上し、福澤が[[アメリカ合衆国]]へ渡った際には留守役を務めた<ref name="jijoden-159"/>。

[[1924年]](大正13年)9月15日、大同電力の臨時株主総会にて[[代表取締役]]に選出され<ref name="reportD11">「大同電力株式会社大正13年下半期第11期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、常務取締役から代表取締役副社長に昇格した<ref name="daido-62">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]62-65頁(「役員一覧表」)</ref>。この時点では宮崎敬介も副社長である(1928年10月在任のまま死去)が、代表権を持つ副社長は増田だけである<ref name="daido-62"/>。増田の副社長昇格は、福澤の渡米で成立した外債の本社債券を発行するに際して社長または副社長の署名が必要であるため、福澤の代役として増田が署名を任されたことによる<ref>[[#moroo|『事業金融人物』]]168-176頁。{{NDLJP|1274904/102}}</ref>。この経緯から増田は当時「署名副社長」とあだ名された<ref name="yamaura">[[#yamaura|山浦貫一『近衛時代の人物』]]283-287頁。{{NDLJP|1262412/152}}</ref>。同年11月8日秘書を伴って[[横浜港]]を出港、[[ニューヨーク]]で社債券への署名を済ませ第2回外債の準備をしたのち翌[[1925年]](大正14年)2月1日に帰国した<ref name="jijoden-170">[[#jijoden|『自叙伝』]]170-185・249頁</ref>。同年発行の第2回外債は社長印を捺印した福澤の写刷署名と特命代表者の代理署名で済まされたため、秘書の師尾誠治が渡米しただけで福澤や増田は渡米していない<ref>[[#moroo|『事業金融人物』]]271-273頁。{{NDLJP|1274904/153}}</ref>。

常務・副社長時代には大同電力傍系会社の役員も数多く兼ねた。1921年11月、大同電力は兼業部門を独立させて[[大同肥料]](後の大同化学工業)と大同製鋼([[大同特殊鋼]]の前身)を設立する<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]77-81頁</ref>。増田は設立と同時に大同肥料の取締役に就任し<ref name="kanpo19220128">「商業登記 株式会社設立」『官報』第2845号附録、1922年1月28日付。{{NDLJP|2954961/30}}</ref>、翌[[1922年]](大正11年)7月に大同製鋼が[[木曽川電力|電気製鋼所]]の事業を譲り受けて大同電気製鋼所となるにあたって同社でも監査役に就任した<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]83-89頁</ref>。1922年8月[[日本コークス工業|三井鉱山]]との共同出資による開発会社[[神岡水電]]が発足すると取締役に就任<ref name="kamisui">[[#kamisui|「神岡水電株式会社の回顧」]]221-225頁</ref>。1925年8月、[[大阪府]]内の事業を分割し[[大阪電力]]が設立されると初代社長となり、[[1927年]](昭和2年)1月までこれを務めている<ref name="daido-340">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]340-349頁</ref>。[[1926年]](大正15年)3月設立の[[天竜川]]開発を目的とする[[天竜川電力]]では取締役に就任し<ref name="daido-367">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]367-371頁</ref>、同年12月設立の[[北陸地方]]における電源開発を目的とする[[昭和電力]]では初代社長に収まった<ref name="jinteki-235">[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]235-239頁。{{NDLJP|1458891/142}}</ref>。同年には[[富山県]]にある傍系会社[[立山水力電気]]の社長にも就いている<ref name="hokuriku">[[#hokuriku|『北陸地方電気事業百年史』]]149・247頁</ref>。

会社経営の傍ら、1926年12月に司法保護団体「帝国更新会」の副会長に就任した<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]249頁</ref>。同会は大審院検事の[[宮城長五郎]]を会長として設立された、[[起訴猶予処分|起訴猶予者]]や[[執行猶予]]者を保護し更生を援助するための団体で、増田は人に誘われてこれに協力することとなった<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]202-207頁</ref>。


=== 大同電力社長就任 ===
=== 大同電力社長就任 ===
[[ファイル:Masuta Bridge.jpg|thumb|増田の名にちなんで命名された「満寿太橋」(野県)。元は木製のつり橋。]]
[[ファイル:Murase Sueichi.jpg|thumb|upright|大同電力副社[[村瀬末一]]]]


[[1928年]](昭和3年)6月、福澤桃介から健康が優れず引退したいので自分の後を継いでもらえないかと依頼され、大同電力の2代目社長に就任することとなった<ref name="jijoden-191">[[#jijoden|『自叙伝』]]191-192頁。括弧内は引用。</ref>。6月9日付で福澤は大同電力社長を辞任<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]年譜23頁</ref>。そして増田は26日後任社長に就任した<ref name="reportD19">「大同電力株式会社昭和3年下半期第19期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)<br />[[#nenkan14|『電気年鑑』昭和4年]]87頁。{{NDLJP|1139383/96}}</ref>。増田の社長昇格と同時に[[村瀬末一]]と太田光凞が副社長に昇格している<ref name="reportD19"/>。社長就任について増田は後年自叙伝にて、「大同電力の事業は全く福澤さんの天稟の才にあるもの」でそれに従って働きさえすれば良かったのであり、自分と交代するのは「[[金]]と[[黄銅|真鍮]]を替えたようなものだろう」、と書いている<ref name="jijoden-191"/>。同年9月、大同肥料においても福澤の後任社長に就いた<ref name="reportH14">「大同肥料株式会社第14回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。
木曽電気興業の設立後、[[近畿地方|関西地方]]への送電を目指して福澤とともに[[京阪電気鉄道]]の[[太田光熈]]らと交渉し話を纏め<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、155-156頁</ref>、両社の合弁で[[1919年]](大正8年)11月に大阪送電株式会社を設立した<ref name="daido_p35">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、35-38頁</ref>。社長は福澤で、増田は4人の常務取締役の一人となった<ref name="daido_p35"/>。さらに[[1921年]](大正10年)2月、この大阪送電と木曽電気興業に[[山本条太郎]]が社長を務める[[日本水力]]が加わって3社の合併により資本金1億円の[[大同電力|大同電力株式会社]]が発足する<ref name="daido_p53">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、45・53-54頁</ref>。社長は引き続き福澤桃介が務め、副社長には日本水力から[[宮崎敬介 (実業家)|宮崎敬介]]が就任、常務取締役には増田ら計5人が選任された<ref name="daido_p53"/>。


大同電力は社長就任前後の1926年から1929年にかけて営業の最盛期を迎えていたが、翌[[1930年]](昭和5年)以降は[[世界恐慌]]の影響が波及して収入が減退し、[[配当|配当率]]を年率10パーセントから順次引き下げざるを得なくなった<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]280・313-314・320-321頁</ref>。その渦中の[[1931年]](昭和6年)11月、減配と役員改選が重なったことで副社長村瀬末一の排斥騒動が起こる<ref name="chugai19311111">「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00057383&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 大同電更生策 思い切った重役整理の経緯 村瀬君が排斥されるまで]」『[[中外商業新報]]』1931年11月11日付(神戸大学附属図書館「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/ 新聞記事文庫]」収録)</ref>。村瀬は福澤の腹心で、増田は将来的に社長の座を譲る意向であったというが、太田光凞や取締役の[[寺田甚与茂]]らが村瀬の専横を非難してその排斥を図ったため、増田も副社長制の廃止を余儀なくされた<ref name="chugai19311111"/>。同年12月、村瀬・太田両名は副社長から外れる<ref name="daido-62"/>。これで一旦副社長・常務とも不在となるが、のちに[[藤波収]]・[[永松利熊]]が常務となっている<ref name="daido-62"/>。
大同電力発足後、木曽川には[[読書発電所]]や[[大井ダム|大井発電所]]など大同電力の水力発電所が相次いで完成した。発電所群のうち1921年に着工、翌年に竣工した長野県の[[須原発電所 (長野県)|須原発電所]]では、資材運搬のため発電所前に架橋された木曽川のつり橋が増田にちなんで「満寿太橋」と名づけられた<ref>[[#mizutotomoni|『水とともに』No.59]]、29-30頁</ref>。木曽川開発を進める大同電力にあって、増田は他の事業者や金融機関との間の対外交渉を担当する<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、158-161頁</ref>。[[関東大震災]]後の国内の金融逼迫に際して[[外債]]募集の話が浮上し福澤が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ渡った際には留守役を務める<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、166-167頁</ref>。第1回外債成立(1924年8月)後の[[1924年]](大正13年)9月、増田は常務取締役から昇格し代表取締役副社長に就任した<ref name="daido_p62">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、62頁(「役員一覧表」)</ref>。副社長に推薦されたのは成立した外債の券面に署名する役目を務めるためで、第2回外債の下準備も兼ねて同年11月に渡米<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、170-171頁</ref>、翌年2月に帰国した<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、249頁</ref>。


不況による収入減が続く中、1931年12月の[[金解禁|金輸出が再禁止]]を機に急激な円安が進行すると、大同電力では外債の利払費・償還費が急騰して多額の為替差損も抱えることになり、深刻な経営難に陥った<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]303-305頁</ref>。[[1933年]](昭和8年)上期には膨大な為替差損に押されて無配に転落する<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]321頁</ref>。経営再建のため同社は1933年11月に会社更生計画を発表し、1934年下期まで4期2年間無配を続けて財務整理に傾注した<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]364-370頁</ref>。増田は後年自叙伝にて、大同電力の苦境について「前途は暗雲低迷、どうなることかと生きた心地もなかった」と述べ、業績の回復については「決して私の微力の致すところではない。福沢初代社長の余光と、先輩の後押し、従業員諸君の一致協力と、世間様の同情があったればこそである」と述べている<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]216頁。括弧内は引用。</ref>。
[[1928年]](昭和3年)、福澤桃介から健康が優れず引退したいので自分の後を継いでもらえないかと依頼され、大同電力の2代目社長に就任することとなった<ref name="jijoden_p191">[[#jijoden|『自叙伝』]]、191-192頁。カッコ内は引用。</ref>。そして同年6月、福澤の社長辞任とともに増田は後任の代表取締役社長に就任した<ref name="daido_p62"/>。増田は後年自叙伝にて、「大同電力の事業は全く福澤さんの天稟の才にあるもの」でそれに従って働きさえすれば良かったのであり、自分と交代するのは「[[金]]と[[黄銅|真鍮]]を替えたようなものだろう」、と書いている<ref name="jijoden_p191"/>。


経営不振の最中にあった1933年、大同電力では財務整理の一環として社長の増田に傍系会社の代表者を兼任させてその統制と整理に努めるという方針を立てた<ref name="iyo">[[#iyo|伊予鉄道電気『五十年史』]]747-759頁。{{NDLJP|1230175/393}}</ref>。同年5月、まず梼原水力電気の社長{{Refnest|group=注釈|梼原水力電気は[[四万十川]]支流[[梼原川]]([[高知県]])の開発を目的とする会社で、[[山下亀三郎|山下汽船]]系であったものを1928年に大同電力が買収していた<ref name="iyo"/>。1934年3月供給先の[[伊予鉄道電気]]へと株式が売却されたことで増田を含む大同系の役員は総辞職<ref name="iyo"/>。}}に就任<ref name="jijoden-250">[[#jijoden|『自叙伝』]]250-253頁</ref>。6月大阪電力の社長に復帰{{Refnest|group=注釈|ただし大阪電力は1934年11月末に大同電力へ吸収された<ref name="daido-340"/>。}}したほか<ref name="daido-340"/>、大同電力副社長を更迭された村瀬末一に席を譲っていた昭和電力社長にも復帰し(村瀬は副社長となる)<ref name="jinteki-235"/><ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]363-367頁</ref>、[[木曽発電]]社長にも就いた<ref name="kiso">[[#kiso|『木曽発電株式会社沿革史』]]110-111頁・164-167頁(巻末年譜)。{{NDLJP|1059703/78}}</ref>。三井鉱山との合弁会社神岡水電では三井鉱山関係者が長く会長を務めたが<ref name="kamisui"/>、[[1938年]](昭和13年)3月になって増田が会長に就任している<ref name="reportK32">「神岡水電株式会社第32期業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。
社長就任前後の1926年から1929年にかけて大同電力は営業の最盛期を迎えていたが<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、313-314頁</ref>、翌[[1930年]](昭和5年)以降は[[世界恐慌]]の影響が波及して収入が減退し、[[配当|配当率]]を10%から順次引き下げざるを得なくなった<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、280・320-321頁</ref>。さらに[[1931年]](昭和6年)12月に[[金解禁|金輸出が再禁止]]されて以降、急激な円安が進むにつれて外債の利払費および償還費が急騰し、不況による収入減と多額の為替差損という二重の圧迫により大同電力は深刻な経営難に陥った<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、303-305頁</ref>。[[1933年]](昭和8年)上期には膨大な為替差損に押されて無配に転落してしまう<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、321頁</ref>。再建のため同社は1933年11月に会社更生計画を発表し、財務整理や未活動資産の活用を行うこととなった<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]、364-366頁</ref>。


他の電力会社と共同設立した発電会社でも社長職を歴任した。関西の電力会社4社(大同電力のほか[[日本電力]]・[[宇治川電気]]・[[京都電灯]])による共同出資で1931年7月に[[火力発電]]会社[[関西共同火力発電]]が設立されると<ref name="kansai-354">[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]354-358頁</ref>、まずは取締役に就任<ref name="kanpo19311030">「商業登記 株式会社設立」『官報』第1452号、1931年10月30日付。{{NDLJP|2957920/14}}</ref>。出資4社の代表者が1年ずつ輪番で社長を務めると取り決められたことから、増田も2度にわたって社長となった<ref name="kansai-354"/>。木曽川の[[今渡ダム|今渡発電所]]建設を目的に[[東邦電力]]と[[1935年]](昭和10年)7月に設立した愛岐水力でも東邦電力社長[[松永安左エ門]]と1年ごとに交替で社長を務めた<ref name="daido-374">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]374-375頁</ref>。
4期2年間の無配を経て、経営の好転により[[1935年]](昭和10年)上期より復配となった<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、314・322頁</ref>。増田は後年自叙伝にて、大同電力の苦境について「前途は暗雲低迷、どうなることかと生きた心地もなかった」と述べ、業績の回復については「決して私の微力の致すところではない。福沢初代社長の余光と、先輩の後押し、従業員諸君の一致協力と、世間様の同情があったればこそである」と述べている<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、216頁。カッコ内は引用。</ref>。


気事業以外では、[[1936年]](昭和10)に[[日本精鉱]]の社長に就任し中瀬鉱山(兵庫県)の開発に取り組んだ<ref name="seiko">[[#seiko|日本精鉱『五十年史』]]15-16・123頁</ref>。また事業傍ら、[[1926年]](大正15年)12月に司法保護団体「帝国更新会」の副会長に就任した<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、249頁。</ref>。同会大審院検事の[[宮城長五郎]]を会長として設立された、[[起訴猶予処分|起訴猶予者]]や[[執行猶予]]者を保護し更生を援助するため団体で、増田は人に誘われてこれに協力することなった<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、202-207頁</ref>。
大同力関連以外では、[[1936年]](昭和11)2月15日、中瀬鉱業と天美鉱業が合併し発足した[[日本精鉱]]の社長に就任した<ref name="kanpo19360410">「中瀬鉱業株式会社変更・日本精鉱株式会社合併」『官報』第2779号、1936年4月10日付。{{NDLJP|2959259/25}}</ref><ref name="seiko">[[#seiko|日本精鉱『五十年史』]]15-16・123頁</ref>。前身うち天美鉱業は増田が社を務めていた会社<ref name="keiki">[[#keiki|『一九三七年の景気と投資』]]60-61頁。{{NDLJP|1096593/35}}</ref>。日本精鉱では[[中瀬鉱山]](兵庫県)開発に取り組み<ref name="seiko"/>、増田はこれを電気事業次ぐ自身の終生の事業して社業育成に努める意向であったという<ref name="keiki"/>。


=== 日発総裁・台電社長 ===
=== 日送電総裁へ転ずる ===
[[1936年]](昭和11年)に時の内閣が打ち出した電力国家管理の方針は[[日中戦争]]下で具体化され、[[1938年]](昭和13年)4月、[[電力管理法]]ほか3法公布されるに至った。電力の国家管理を担う国策会社[[日本発送電|日本発送電株式会社]](日発)は翌[[1939年]](昭和14年)[[41日]]付で設立されたがこれに先立つ1938年8月大同電力は一部設備出資命令受けた<ref name="kansai_p450">[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]450-451頁</ref>。この時点での出資範囲は主要火力発電設備および送電線のみで水力発電設備・配電設備は含まれていなかったが、出資を命令された設備は固定資産の4割を占めていた<ref name="kansai_p450"/>。加えて、大同電力は電力供給の9割が他の電気事業者への卸売りであり、国家管理実施の上はその大部分が日発への卸売りとなって料金が低く抑えられる予定であったため、大同電力は営業の大部分を失い存続が困難となった<ref name="kansai_p450"/>。政府から残余資産の出資を推奨されたこともあり、大同電力では1938年12月事業および資産・負債一切の日発への移譲を決定し、日発発足翌日の1939年4月2日付で[[解散]]した<ref name="kansai_p450"/>。
1936年に時の内閣が打ち出した電気事業を政府の管理下に置くという電力国家管理の方針は[[日中戦争]]下で急速に具体化され、[[1938年]](昭和13年)4月、[[電力管理法]]ほか3法公布という形で法制化に至。電力の国家管理を担う国策会社[[日本発送電|日本発送電株式会社]](日発)は翌[[1939年]](昭和14年)4月設立と決定され、1938年8月全国の主要事業者に対して政府から設備出資命令が発出された。大同電力も日本発送への設備出資を命ぜられ事業者の一つである<ref name="kansai-450">[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]450-451頁</ref>。


日本発送電設立の段階では、各事業者が同社への出資を命ぜられた設備は主要火力発電設備と主要送電線のみで水力発電設備や配電設備は含まれていなかったが、大同電力の場合その限られた範囲でも出資対象設備は全[[固定資産]]額の4割を占める規模であった<ref name="kansai-450"/>。加えて、大同電力は電力供給の9割を他の電気事業者への卸売りに充てており、国家管理実施の上はその大部分が日発への卸売りとなって料金が低く抑えられる予定であったため、大同電力は営業の大部分を失う見通しとなり会社存続が困難となった<ref name="kansai-450"/>。政府から残余資産の出資を推奨されたこともあり、大同電力では1938年12月事業および資産・負債一切の日発への移譲を決定<ref name="kansai-450"/>。日発発足翌日にあたる1939年4月2日付で[[解散]]した<ref name="kansai-450"/>。増田は解散日まで大同電力の代表取締役社長を務め、解散とともに[[清算人]]へと転じた<ref name="daido-453">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]453・454頁</ref>。
日発設立の準備が進んでいた1930年代末には業界の長老とみなされていた増田は、電力国家管理案に当初反対していたものの、大同電力が全資産の日発への出資を決定した後は日発設立に協力する立場となった<ref name="sogo_p70"/>。これらに加え、当時の内閣総理大臣[[平沼騏一郎]]や逓信大臣[[塩野季彦]]とも司法保護事業を通じて旧知の間柄であったため、日発の総裁職引き受けを依頼された<ref name="sogo_p70">[[#nippatsu_sogo|『日本発送電社史』綜合編]]、70頁</ref>。1939年4月1日、日発は創立総会を開催し発足、増田を初代総裁に任命した<ref>[[#nippatsu_sogo|『日本発送電社史』綜合編]]、79-82頁</ref>。


日発設立の準備が進んでいた1930年代末には業界の長老とみなされていた増田は、電力国家管理案に当初反対していたものの、大同電力が全資産の日発への出資を決定した後は日発設立に協力する立場となった<ref name="hassoden1-70">[[#hassoden1|『日本発送電社史』綜合編]]70頁</ref>。こうした業界内での地位に加え、当時の内閣総理大臣[[平沼騏一郎]]や逓信大臣[[塩野季彦]]とも司法保護事業を通じて旧知の間柄であったため、日発の総裁職引き受けを依頼された<ref name="hassoden1-70"/>。増田本人は大同電力の処理が決まったころに郷里に帰り隠居する旨を語っており、総裁就任を予想していなかったという<ref name="jinteki-1">[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]1-14頁。{{NDLJP|1458891/21}}</ref>。1939年4月1日、日発は創立総会を開催し発足、増田を初代総裁に任命した<ref>[[#hassoden1|『日本発送電社史』綜合編]]79-82頁</ref>。副総裁には逓信次官から転じた[[小野猛]]が任ぜられ、その下の常務理事には元大同電力常務の藤波収・永松利熊らが名を連ねた<ref name="jinteki-1"/>。日本発送電の総裁は原則兼業禁止([[日本発送電株式会社法]]第21条)であり<ref>「日本発送電株式会社法」『官報』第3375号、1938年4月6日付。{{NDLJP|2959865/2}}</ref>、増田は総裁就任にあたって同年3月27日付で大同電力以外の会社役員すべてを辞任している<ref name="jijoden-250"/>(大同電力清算人就任については逓信大臣より特認<ref name="daido-453"/>)。
電力を低廉豊富に供給すると謳って発足した日発であったが、発足早々に[[近畿地方|近畿]]・[[中国地方]]での異常[[渇水]]に見舞われ[[水力発電]]が麻痺する事態に直面する<ref name="sogo_p88"/>。これを補給する[[火力発電]]も[[石炭]]不足で機能不全となり、送電の休止まで至ったため近畿地方を中心に工業地帯の生産活動に支障を来す結果となった<ref name="sogo_p88"/>。この事態の責任をとり、[[1941年]](昭和16年)1月、増田は日発の総裁を辞任した<ref name="sogo_p88">[[#nippatsu_sogo|『日本発送電社史』綜合編]]、88-89頁</ref>。後任には[[日本電力]]の[[池尾芳蔵]]が任命された<ref>[[#nippatsu_sogo|『日本発送電社史』綜合編]]、122-123頁</ref>。


日発の総裁となった増田であるが、逓信省の外局として新設された電気庁の規制が強く、自由な活動ができなかったという<ref name="yamaura"/>。日発がうたう公約は電力の低廉豊富な供給というものであったが、実際には発足早々に[[近畿地方|近畿]]・[[中国地方]]での異常[[渇水]]に見舞われ水力発電が麻痺する事態に直面する<ref name="hassoden1-88">[[#hassoden1|『日本発送電社史』綜合編]]88-89頁</ref>。これを補給する[[火力発電]]も[[石炭]]不足で機能不全となり、送電の休止まで至ったため近畿地方を中心に工業地帯の生産活動に支障を来す結果となった<ref name="hassoden1-88"/>。こうした事態の責任をとる形で増田は辞意を固め<ref name="hassoden1-88"/>、[[1940年]](昭和15年)11月初旬に[[村田省蔵]]逓信大臣へと辞意を伝え、翌[[1941年]](昭和16年)1月9日辞表を提出する旨を正式に通告<ref>「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00057082&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 発送電総裁更迭]」『[[大阪朝日新聞]]』1941年1月10日付(神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録)</ref>。1月15日付で辞表を提出、即日受理され、後任総裁には日本電力社長[[池尾芳蔵]]が任命された<ref>「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00057090&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 日発の今後はどうなる 増田、池尾両氏リレーの意義]」『[[大阪毎日新聞]]』1941年1月15日付(神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録)</ref>。
日発辞任後は小閑を得たが、1941年11月に台湾総督[[長谷川清]]に依頼されて台湾の電力会社[[台湾電力|台湾電力株式会社]](台電)の社長に就任した<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、235-236頁</ref>。12月、南日本製糖の常務として渡航して以来30年ぶりに台湾へ到着<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、239頁</ref>。専任の社長として同社を経営し、[[大甲渓]]での電源開発や台湾島内の電力統合などに携わった<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、240-242頁</ref>。[[1945年]](昭和20年)1月、長谷川の台湾総督解任にあわせて社長を辞職し、台湾から引き上げた<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、244-245頁</ref>。


日発辞任後は一時小閑を得たが、台湾総督[[長谷川清]]に依頼され1941年11月20日付で台湾の電力会社[[台湾電力|台湾電力株式会社]](台電)の社長に任命された<ref name="jijoden-235">[[#jijoden|『自叙伝』]]235-245頁</ref><ref name="jijoden-254">[[#jijoden|『自叙伝』]]254-256頁</ref>。[[太平洋戦争]]開戦直後の12月、南日本製糖の常務として渡航して以来30年ぶりに台湾へ到着<ref name="jijoden-235"/>。専任の社長として同社を経営し、[[大甲渓]]での電源開発や台湾島内の電力統合などに携わった<ref name="jijoden-235"/>。台湾では台湾電力のほか台湾総督府評議員会など総督府関連の職や台湾商工経済会会頭など商工団体の役員も務めている<ref name="jijoden-254"/>。自身を推薦した長谷川の台湾総督離任を機に台湾電力からの退社を決め、[[1945年]](昭和20年)1月23日付で社長を辞職、台湾から引き上げた<ref name="jijoden-235"/><ref name="jijoden-254"/>。
第二次世界大戦後の[[1951年]](昭和26年)[[1月14日]]、[[東京都]][[渋谷区]]上智町にて死去<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、256頁</ref>。満82歳没。

戦後の[[1951年]](昭和26年)[[1月14日]]、[[東京都]][[渋谷区]]上智町の自邸にて死去<ref name="jijoden-254"/>。満82歳没。

== 年譜 ==
<!--在任期間の短い取締役・監査役は省略-->
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
|colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[慶應]]4年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]<br />(新暦:[[1868年]][[3月19日]])
|[[駿河国]][[志太郡]][[西益津村|稲川村]](現・[[静岡県]][[藤枝市]])に出生<ref name="jijoden-1"/>。
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[1896年]]([[明治]]29年)
|&nbsp;
|[[賀茂郡]]役所勤務<ref name="jijoden-44"/>。
|-
|[[1897年]](明治30年)
|&nbsp;
|[[駿東郡]]役所勤務<ref name="jijoden-44"/>
|-
|[[1899年]](明治32年)
|7月
|台湾樟脳局(後の[[台湾総督府専売局]])勤務<ref name="jijoden-64"/>。
|-
|[[1905年]](明治38年)
|4月
|[[後藤新平]]の秘書となる<ref name="jijoden-64"/>。
|-
|[[1910年]](明治43年)
|[[3月24日]]
|[[高等官]]に叙され[[鉄道省|内閣鉄道院]]総裁秘書に<ref name="kanpo19100325"/>。
|-
|[[1911年]](明治44年)
|[[9月1日]]
|内閣鉄道院総裁秘書免官<ref name="kanpo19110902"/>。鉄道院[[交通博物館|鉄道博物館掛]]に<ref name="jijoden-123"/>。
|-
|rowspan="2"|[[1912年]](明治45年)
|[[1月11日]]
|内閣鉄道院から退官<ref name="kanpo19120112"/>。
|-
|[[2月28日]]
|南日本製糖([[台湾]]・[[竹北市|竹北]])設立に伴い[[取締役]]就任<ref name="kanpo19120419"/>。
|-
|rowspan="2"|[[1913年]]([[大正]]2年)
|2月
|[[立憲同志会]]幹事就任<ref name="minsei"/>(後に離党<ref name="jijoden-132"/>)。
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[12月22日]]
|南日本製糖取締役辞任<ref name="kanpo19140123"/>。
|-
|[[1915年]](大正4年)
|[[3月25日]]
|[[第12回衆議院議員総選挙|第12回総選挙]]に当選し[[衆議院]]議員となる<ref name="shuin12"/><ref name="toseki"/>。
|-
|[[1916年]](大正5年)
|[[12月25日]]
|[[四国水力電気]][[監査役]]就任<ref name="shisui"/>。
|-
|[[1917年]](大正6年)
|[[1月25日]]
|[[衆議院解散]]<ref name="toseki"/>。4月の[[第13回衆議院議員総選挙|第13回総選挙]]では落選<ref name="shuin13"/>。
|-
|[[1918年]](大正7年)
|[[9月8日]]
|[[木曽電気製鉄]](後の木曽電気興業)設立に伴い常務取締役就任<ref name="steel-69"/>。
|-
|[[1919年]](大正8年)
|[[11月8日]]
|大阪送電設立に伴い常務取締役就任<ref name="daido-35"/>。
|-
|rowspan="2"|[[1921年]](大正10年)
|[[2月25日]]
|大阪送電・木曽電気興業・[[日本水力]]の合併で[[大同電力]]発足。引き続き常務取締役在任<ref name="daido-45"/>。
|-
|[[11月17日]]
|[[大同肥料]](後の大同化学工業)設立に伴い取締役就任<ref name="kanpo19220128"/>。
|-
|rowspan="3"|[[1922年]](大正11年)
|[[7月28日]]
|[[大同特殊鋼|大同電気製鋼所]]監査役就任<ref name="steel-list">[[#steel|『大同製鋼50年史』]]巻末「役員在任期間一覧表」</ref>。
|-
|[[8月1日]]
|[[神岡水電]]設立に伴い取締役就任<ref name="kamisui"/>。
|-
|[[8月25日]]
|[[豊国セメント]]監査役就任<ref>「商業登記 豊国セメント株式会社合併及変更」『官報』第3058号附録、1922年10月9日付。{{NDLJP|2955176/24}}</ref>。
|-
|[[1923年]](大正12年)
|[[6月23日]]
|[[立山水力電気]]取締役就任<ref>「商業登記 立山水力電気株式会社変更」『官報』第3480号附録、1924年4月2日付。{{NDLJP|2955628/29}}</ref>(1926年より社長<ref name="hokuriku"/>)。
|-
|rowspan="2"|[[1924年]](大正13年)
|[[9月15日]]
|大同電力[[代表取締役]]副社長就任<ref name="reportD11"/><ref name="daido-62"/>。
|-
|[[11月8日]]
|[[横浜港]]より大同電力社債券署名のため[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク]]へ出発<ref name="jijoden-170"/>。
|-
|rowspan="2"|[[1925年]](大正14年)
|[[2月1日]]
|アメリカより帰国<ref name="jijoden-170"/>。
|-
|[[8月15日]]
|[[大阪電力]]設立に伴い代表取締役社長就任<ref name="daido-340"/>。
|-
|[[1926年]](大正15年)
|[[3月5日]]
|[[天竜川電力]]設立に伴い取締役就任<ref name="daido-367"/>。
|-
|1926年([[昭和]]元年)
|[[12月27日]]
|[[昭和電力]]設立に伴い代表取締役社長就任<ref>「昭和電力創立」『[[東京朝日新聞]]』1926年12月28日朝刊</ref>。
|-
|[[1927年]](昭和2年)
|[[1月17日]]
|大阪電力代表取締役退任<ref>「商業登記 大阪電力株式会社変更」『官報』第83号附録、1927年4月12日付。{{NDLJP|2956542/21}}</ref>。
|-
|rowspan="2"|[[1928年]](昭和3年)
|[[6月26日]]
|大同電力代表取締役社長就任<ref name="daido-62"/><ref name="reportD19"/>。
|-
|[[9月6日]]
|大同肥料代表取締役社長就任<ref name="reportH14"/>。
|-
|rowspan="3"|[[1931年]](昭和6年)
|[[7月28日]]
|[[関西共同火力発電]]設立に伴い取締役就任<ref name="kanpo19311030"/>(のちに親会社4社による輪番制の社長にも就任<ref name="kansai-354"/>)。
|-
|[[11月17日]]
|[[矢作水力]]と天竜川電力の合併に伴い矢作水力取締役に転ずる<ref>「商業登記 矢作水力株式会社変更」『官報』第1506号、1932年1月11日付。{{NDLJP|2957975/22}}</ref>。
|-
|[[12月28日]]
|昭和電力代表取締役辞任、監査役に転任<ref>「商業登記 昭和電力株式会社変更」『官報』第1598号、1932年5月2日付。{{NDLJP|2958069/14}}</ref>。
|-
|rowspan="5"|[[1933年]](昭和8年)
|[[5月20日]]
|梼原水力電気代表取締役就任<ref>「商業登記 梼原水力電気株式会社変更」『官報』第1959号、1933年7月13日付。{{NDLJP|2958431/18}}</ref>。
|-
|[[6月16日]]
|昭和電力代表取締役社長再任<ref>「昭和電力株式会社昭和8年下期第14期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。
|-
|6月23日
|[[木曽発電]]代表取締役社長就任<ref name="kiso"/>。
|-
|[[6月27日]]
|大阪電力代表取締役社長再任<ref>「大阪電力株式会社第17期報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>(ただし1934年11月末大同電力と合併<ref name="daido-340"/>)。
|-
|[[10月31日]]
|豊国セメント監査役辞任<ref>「商業登記 豊国セメント株式会社変更」『官報』第2093号、1933年12月21日付。{{NDLJP|2958566/24}}</ref>。
|-
|rowspan="3"|[[1934年]](昭和9年)
|[[3月16日]]
|梼原水力電気代表取締役退任<ref>「商業登記 梼原水力電気株式会社変更」『官報』第2208号、1934年5月15日付。{{NDLJP|2958683/26}}</ref>(大同電力傘下からの離脱に伴う<ref name="iyo"/>)。
|-
|6月26日
|四国水力電気監査役辞任<ref>「商業登記 四国水力電気株式会社変更」『官報』第2276号、1934年8月2日付。{{NDLJP|2958752/38}}</ref>。
|-
|[[10月20日]]
|大同電気製鋼所監査役退任<ref name="steel-list"/>。
|-
|[[1935年]](昭和10年)
|[[7月20日]]
|[[今渡ダム|愛岐水力]]設立に伴い取締役就任<ref>「商業登記 株式会社設立」『官報』第2642号、1935年10月22日付。{{NDLJP|2959121/26}}</ref>([[松永安左エ門]]と交替で社長にも就任<ref name="daido-374"/>)。
|-
|rowspan="2"|[[1936年]](昭和11年)
|[[2月15日]]
|[[日本精鉱]]代表取締役社長就任<ref name="seiko"/>。
|-
|[[10月6日]]
|矢作水力取締役辞任<ref>「商業登記 矢作水力株式会社変更」『官報』第2980号、1936年12月7日付。{{NDLJP|2959462/23}}</ref>。
|-
|[[1937年]](昭和12年)
|[[4月27日]]
|矢作水力監査役就任<ref>「矢作水力株式会社第37回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。
|-
|rowspan="2"|[[1938年]](昭和13年)
|[[1月10日]]
|立山水力電気代表取締役辞任<ref>「商業登記 立山水力電気株式会社変更」『官報』第3347号、1938年3月3日付。{{NDLJP|2959836/31}}</ref>(大同電力傘下からの離脱に伴う<ref name="hokuriku"/>)
|-
|[[3月26日]]
|神岡水電代表取締役会長就任<ref name="reportK32"/>。
|-
|rowspan="3"|[[1939年]](昭和14年)
|[[3月27日]]
|昭和電力代表取締役<ref>「商業登記 昭和電力株式会社変更」『官報』第3787号、1939年8月19日付。{{NDLJP|2960281/44}}</ref>・神岡水電代表取締役<ref>「商業登記 神岡水電株式会社変更」『官報』第3786号、1939年8月18日付。{{NDLJP|2960280/26}}</ref>・木曽発電代表取締役<ref name="kiso"/><!--官報 {{NDLJP|2960244/56}}-->・愛岐水力代表取締役<ref>「商業登記 愛岐水力株式会社変更」『官報』第3785号、1939年8月17日付。{{NDLJP|2960279/28}}</ref>・大同化学工業代表取締役<ref>「商業登記 大同化学工業株式会社変更」『官報』第3745号、1939年7月1日付。{{NDLJP|2960239/37}}</ref>・日本精鉱代表取締役<ref>「商業登記 日本精鉱株式会社変更」『官報』第3785号、1939年8月17日付。{{NDLJP|2960279/27}}</ref>・関西共同火力発電取締役<ref>「商業登記 関西共同火力発電株式会社変更」『官報』第3751号、1939年7月8日付。{{NDLJP|2960245/65}}</ref>・矢作水力監査役辞任<ref>「商業登記 矢作水力株式会社変更」『官報』第3750号、1939年7月7日付。{{NDLJP|2960244/55}}</ref>。
|-
|[[4月1日]]
|[[日本発送電]]総裁就任<ref name="hassoden1-449">[[#hassoden1|『日本発送電社史』綜合編]]449頁</ref>。
|-
|[[4月2日]]
|大同電力解散に伴い代表取締役社長退任<ref name="daido-453"/>。
|-
|rowspan="2"|[[1941年]](昭和16年)
|[[1月15日]]
|日本発送電総裁辞任<ref name="hassoden1-449"/>。
|-
|[[11月20日]]
|[[台湾電力]]社長就任<ref name="jijoden-254"/>。
|-
|[[1945年]](昭和20年)
|[[1月23日]]
|台湾電力社長退任<ref name="jijoden-254"/>。
|-
|[[1951年]](昭和26年)
|[[1月14日]]
|[[東京都]][[渋谷区]]上智町の自邸にて死去<ref name="jijoden-254"/>。
|}


== 人物 ==
== 人物 ==
=== 人物評 ===
増田は温和な人柄だというのが定評であった<ref>[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]、5-7頁、{{NDLJP|1458891/24}}</ref>。日発の総裁に就任した頃、次のような人物評が書かれた。
増田は温和な人柄だというのが定評であった<ref name="jinteki-1"/>。日本発送電総裁に就任した頃、次のような人物評が書かれた。
{{Quote|「後藤氏と言ひ、福澤氏と言ひ、二人ともその方面での変り者であった。その変り者に見込まれたと云ふのだから、一見少しも変ったところのない増田氏にも亦、どこか偉いところがあるに違ひない。増田氏は未だ曽て怒ったり、渋い顔をしたことはないと言はれて居る。いつも、春風駘蕩、どんな困難に直面しても平然として、自然の間にそれを乗り切って行く。所謂窮すれば通ずの教訓を体得した人と言へやう」| [[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]5-7頁}}
{{Quote|「[[後藤新平|後藤氏]]と言ひ、[[福澤桃介|福澤氏]]と言ひ、二人ともその方面での変り者であった。その変り者に見込まれたと云ふのだから、一見少しも変ったところのない増田氏にも亦、どこか偉いところがあるに違ひない。増田氏は未だ曽て怒ったり、渋い顔をしたことはないと言はれて居る。いつも、春風駘蕩、どんな困難に直面しても平然として、自然の間にそれを乗り切って行く。所謂窮すれば通ずの教訓を体得した人と言へやう」| [[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]5-7頁}}


== 主な役職 ==
=== 親族 ===
* 妻こまとの間に実子はなく、養女せつ子を迎える<ref name="koshin12">[[#koshin12|『人事興信録』第12版]]マ52頁。{{NDLJP|1072991/759}}</ref>。その婿養子となった[[増田完五]]は1908年静岡県に生まれ、1943年[[東亞合成]]入社<ref>[[#koshin15|『人事興信録』第15版]]マ14頁。{{NDLJP|2997935/178}}</ref>、以後1989年に死去するまで東亞合成の取締役・常務・副社長・社長・会長を歴任した<ref>[[#toa|『東亞合成五十年史』]]238-239頁</ref>。
<!-- 取締役・監査役は省略 -->
* 実弟の吉田英治は日本精鉱取締役を務めた<ref name="koshin12"/>。
* [[衆議院]]議員:1915年3月当選([[第12回衆議院議員総選挙|第12回総選挙]])、1917年4月解散失職
* [[大同電力|大同電力株式会社]](旧・大阪送電)役員:
** 常務取締役:1919年11月 - 1924年9月
** 代表取締役副社長:1924年9月 - 1928年6月
** 代表取締役社長:1928年6月 - 1939年4月
* 大同電力関係会社役員
** [[大阪電力|大阪電力株式会社]]代表取締役社長:1925年8月 - 1927年1月、1933年6月 - 1934年11月<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、340-349頁</ref>
** [[昭和電力|昭和電力株式会社]]取締役社長:1926年12月 - 1932年1月、1933年5月 - 1939年3月<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]、363-367頁</ref><ref>[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]、235-239頁、{{NDLJP|1458891/142}}</ref>
** [[木曽発電|木曽発電株式会社]]取締役社長:1933年6月 - 1939年3月<ref>[[#kiso|『木曽発電株式会社沿革史』]]、111頁、{{NDLJP|1059703/78}}</ref>
* [[関西共同火力発電|関西共同火力発電株式会社]]取締役社長:1932年9月 - 1933年9月<ref>[[#jijoden|『自叙伝』]]、250-251頁</ref>
* [[日本精鉱|日本精鉱株式会社]]取締役社長:1936年2月 - 1939年4月<ref name="seiko"/>
* [[日本発送電|日本発送電株式会社]]総裁:1939年4月1日 - 1941年1月15日<ref>[[#nippatsu_sogo|『日本発送電社史』綜合編]]、449頁</ref>
* [[台湾電力|台湾電力株式会社]]社長:1941年11月 - 1945年1月


== 栄典 ==
== 栄典 ==
* 191012[[正七位]]に叙せられる<ref>[[#jijoden|自叙伝]]247頁</ref>。
* 1911(明治44年)310日 - [[正七位]]に叙れる<ref>「叙任及辞令」官報第8313号1911年3月11日付。{{NDLJP|2951668/11}}</ref>。
* 1916年4[[勲四等瑞宝章]]受章<ref>[[#jijoden|『自]]248頁</ref>。
* 1916年(大正5年)41日 - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]受章<ref>任及辞令」『官報第1218号1916年8月21日付。{{NDLJP|2953328/8}}</ref>。
* 1940年11[[正六位]]に叙せられる<ref>[[#jijoden|自叙伝]]254頁</ref>。
* 1940年(昭和15年)1110日 - [[正六位]]に叙れる<ref>「叙任及辞令」官報第4157号1940年11月13日付。{{NDLJP|2960655/13}}</ref>。


== 自伝 ==
== 自伝 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{Commonscat|Masuda Jiro}}
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* 伝記・人物評
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* {{Cite book|和書|author=大西理平(編) |title=福澤桃介翁伝 |publisher=福澤桃介翁伝編纂所 |year=1939 |ref=momo }}
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** {{Cite book|和書|author=増田完五(編)|title=増田次郎自叙伝 |publisher=増田完五 |year=1964 |ref=jijoden }}
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** {{Cite book|和書|author=[[山浦貫一]] |title=近衛時代の人物 |publisher=高山書院 |year=1940 |id={{NDLJP|1262412}} |ref=yamaura }}
* 企業史
* {{Cite book|和書|author=大同電力社史編纂事務所(編) |title=大同電力株式会社沿革史 |publisher=大同電力社史編纂事務所 |year=1941 |ref=daido}}
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** {{Cite book|和書|author=[[大同特殊鋼|大同製鋼]](編)|title=大同製鋼50年史 |publisher=大同製鋼 |year=1967 |ref=steel }}
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** {{Cite book|和書|author=大同電力社史編纂事務所)|title=大同電力株式会社沿革史 |publisher=大同電力社史編纂事務所 |year=1941 |ref=daido }}
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* その他書籍
** {{Cite book|和書|author=商業興信所 |title=日本全国諸会社役員録 |volume=第27回 |publisher=商業興信所 |year=1919 |id={{NDLJP|936467}} |ref=kaisha27 }}
** {{Cite book|和書|author=人事興信所 |title=人事興信録 |volume=第12版 |publisher=人事興信所 |year=1939 |ref=koshin12 }}
** {{Cite book|和書|author=人事興信所 |title=人事興信録 |volume=第15版 |publisher=人事興信所 |year=1948 |ref=koshin15 }}
** {{Cite book|和書|author=電気之友社(編)|title=電気年鑑 |volume=大正12年 |publisher=電気之友社 |year=1923 |id={{NDLJP|948319}} |ref=nenkan8 }}
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** {{Cite book|和書|author=遠間平一郎 |title=事業及人物 |publisher=中央評論社 |year=1915 |id={{NDLJP|954781}} |ref=toma }}
** {{Cite book|和書|author=日本景気研究所(編)|title=一九三七年の景気と投資 |publisher=日本景気研究所 |year=1937 |id={{NDLJP|1096593}} |ref=keiki }}
** {{Cite book|和書|author=松下伝吉 |title=人的事業大系 |volume=電力篇 |publisher=中外産業調査会 |year=1939 |id={{NDLJP|1458891}} |ref=jinteki }}
** {{Cite book|和書|author=[[水資源機構]]広報課(監修)|title=水とともに |volume=No.59 |publisher=水資源協会 |date=2008-08 |url=http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/2008/pdf/0808.pdf |ref=mizutotomoni }}
** {{Cite book|和書|author=師尾誠治 |title=事業金融人物 大同電力二十年金融史考 |publisher=師尾誠治 |year=1940 |id={{NDLJP|1274904}} |ref=moroo }}
** {{Cite book|和書|author=立憲民政党史編纂部(編)|title=立憲民政党史 |publisher=立憲民政党史編纂部 |year=1934 |id={{NDLJP|1280837}} |ref=minsei }}
** {{Cite book|和書|author= |title=衆議院議員総選挙一覧 |volume=自第七回至第十三回 |publisher=[[衆議院事務局]] |year=1918 |id={{NDLJP|1337792}} |ref=shuin }}
** {{Cite book|和書|author= |title=衆議院議員党籍録 |volume=自第一回議会至第四十八回議会 |publisher=衆議院事務局 |year=1924 |id={{NDLJP|1337224}} |ref=toseki }}
* 記事
** {{Cite journal|和書|author=浅野伸一 |title=木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業:木曽電気製鉄から大同電力へ |journal=経営史学 |volume=47 |number=2 |publisher=経営史学会 |date=2012-09 |pages=30-48 |ref=asano }}
** {{Cite journal|和書|author=余川久太郎 |title=神岡水電株式会社の回顧 |journal=三井金属修史論叢 |volume=5 |publisher=三井金属鉱業修史委員会事務局 |date=1971-04 |pages=219-241 |ref=kamisui }}

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2022年3月15日 (火) 13:47時点における版

増田 次郎
増田次郎
生誕 慶應4年2月26日1868年3月19日
駿河国志太郡稲川村
(現・静岡県藤枝市
死没 (1951-01-14) 1951年1月14日(82歳没)
東京都渋谷区上智町
職業 実業家政治家
栄誉 勲四等瑞宝章正六位
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増田 次郎
ますだ じろう
前職 後藤新平秘書
所属政党 無所属→公友倶楽部公正会

選挙区 静岡県郡部選挙区
当選回数 1回
在任期間 1915年3月25日 - 1917年1月25日
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増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日1868年3月19日〉 - 1951年〈昭和26年〉1月14日)は、明治末期から大正昭和初期にかけて活動した日本実業家政治家である。

後藤新平秘書から衆議院議員となり、さらに実業界に転じて電気事業に参加。大同電力社長、日本発送電(日発)初代総裁、台湾電力(台電)社長などを務めた。駿河国(現・静岡県)出身。

秘書・政治家時代

前半生

増田次郎は慶応4年2月26日明治元年、新暦:1868年3月19日)、駿河国志太郡稲川村(現・静岡県藤枝市)に増田儀右衛門の次男として生まれた[1]。生家は120あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は戸長に選ばれるような村の有力者であった[1]

小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄・太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき奉公に出され六合村にあった親類の商家に預けられた[1]。しかし父が事業に失敗したため16歳のとき実家へ戻され、農作業に従事する[2]。父は再起を図るものの失敗続きで、次郎が20歳のとき伝来の家屋敷を手放さざるを得なくなった[2]。それでも父は次郎に東京で学問をするよう勧めるので、次郎は上京して東洋英和学校、次いで有得館に入り、語学を学んだ[3]

東京には1年余り滞在したが、父儀右衛門が病気になったので急遽帰郷[3]。看病に努めたが父は翌1890年(明治23年)11月に死去する[3]。兄が既に死去していたため家を継ぎ、家族とともに静岡市に転居してここで親類の男とともに印刷所を買い取って開業した[3]。印刷所で県議会の議事録や警察関係の印刷を引き受けた関係から県庁や警察方面に知人ができて仕事が順調に進むようになったが、1892年(明治25年)12月、市内の大火に巻き込まれて印刷所が全焼してしまう[3]。印刷所の再建を断念し今度は静岡民友新聞の広告取りを始めたものの、印刷所時代の借金の返済に苦しみ新婚早々ではあるが夜逃げを決意する[3]。印刷所の関係で顔なじみとなった県会議員に紹介してもらい、伊豆半島松崎町にあった妻の縁者が経営する小料理屋へと落ち延びた[3][4]。小料理屋にて居候の身になり、買い出しや料理の手伝いをする傍ら、金がないので店の屋根裏に設けられていた賭場にも出入りし、賭場の手伝いもしたという[4]

後藤新平秘書となる

秘書官として仕えた後藤新平

しばらく松崎で小料理屋生活を送っていたところ、町を訪れた先述の県会議員に紹介されて1895年(明治28年)からは小学校に書記として勤め始めた[4]。その県会議員に今度は賀茂郡の郡長池田忠一(内務官僚池田宏の父)を紹介され、1896年(明治29年)、下田町にあった賀茂郡役所に職を得た[4]。次いで翌1897年(明治30年)、沼津町に転任し、駿東郡役所の書記に登用される[4]。周囲の者に勧められて1898年(明治31年)に普通文官試験を受験して合格し、判任官となった[4]

駿東郡役所では郡長岡本武輝に引き立てられた[5]。岡本が沼津から台湾へと転任する際、増田も台湾で一旗揚げてはどうかと同行するよう誘われ、岡本の計らいにより増田は1899年(明治32年)7月、台湾樟脳局(後の台湾総督府専売局)へと転任した[5]。1902年版の職員録には専売局脳務課勤務の書記とある[6]

増田が台湾で勤めていた頃、台湾総督府民政長官は後藤新平であった(1898年より1906年まで)。末端の役人であった増田は民政長官と接する機会がなかったが、1902年(明治35年)に専売局長の祝辰巳に随行して上京する際、たまたま議会に出席するため後藤が同じ船に乗船していたので、祝の紹介で知遇を得ることができた[5]。その後後藤の秘書官が他に転ずることとなったので、祝らが後任秘書官として増田を推薦した結果、1905年(明治38年)4月、台湾総督府民政長官秘書官に抜擢された[5]。同年5月時点の職員録には総督府秘書課(課長大津麟平)属の秘書官とある[7]

1906年(明治39年)11月、後藤新平は台湾総督府から南満洲鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁へと転ずる。増田も後藤に随って満鉄へと移り、翌1907年(明治40年)2月には後藤の一行とともに満洲の大連市へ入った[8]。しばらく経った後神経衰弱となったので単身帰国して療養生活を送る[8]1908年(明治41年)7月に第2次桂太郎内閣が成立し後藤が満鉄総裁から転じて逓信大臣内閣鉄道院総裁となると、増田も異動して鉄道院に転ずる[9]。鉄道院では当初秘書課(課長松木幹一郎)勤務の書記であったが[10]1910年(明治43年)3月24日付で高等官七等に叙され鉄道院総裁秘書兼任となる[11]。さらに同年12月28日付で高等官六等に昇格した[12]

1911年(明治44年)8月、桂内閣総辞職に伴い後藤が鉄道院総裁から退任する。増田は9月1日付で鉄道院総裁秘書の兼官を解かれたが[13]、鉄道院自体には引き留められ鉄道博物館掛に任ぜられた[9]。同年12月28日付で鉄道院書記から鉄道院副参事に昇格する[14]。しかし鉄道院から辞職するつもりでいたため4か月にわたってほとんど出勤せず[9]、翌1912年(明治45年)1月11日付で鉄道院副参事からの依願免官が認められた[15]

政界入り

退官直後の1912年2月28日、台湾の竹北に設立された製糖会社・南日本製糖株式会社の取締役に選出された[16]。増田がこれに参加したのは旧知の秋山一裕に勧誘されたためで、常務としてしばらく台湾に赴任した[9]。しかし1年半後の1913年(大正2年)12月22日付で同社取締役から退いた[17]。会社設立時の期待に反して業績不振が続いており、社長竹内綱・専務山本久顕とともに引責辞任したことによる[18]。南日本製糖は3年後の1916年(大正5年)に帝国製糖へと合併され消滅している[19]

1913年2月、時の首相桂太郎が新党「立憲同志会」の結成を発表した(正式な結党式は同年12月)[20]。後藤新平が結党に参加することとなったため増田も加わり[21]安達謙蔵などとともに幹事に名を連ねた[20]。ところが10月に桂が死去すると後藤は加藤高明と対立して同志会から離脱する[21]。増田も後藤に従って同志会幹事を辞職した[21]

その後はしばらく浪人生活を送るが、郷里静岡県の関係者から声をかけられて衆議院議員への転身を図る[21]。そして1915年(大正4年)3月25日実施の第12回総選挙に静岡県郡部選挙区(定員9人)から出馬し、第5位となる得票数3024票にて当選を果たした[22]。選挙では無所属であったが[22]、当選後大隈重信に頼まれて無所属団、後の公友倶楽部に加入する[21][23]。翌1916年(大正5年)11月からは公正会に移った[23]。増田本人曰く、衆議院議員となったものの陣笠議員の一人に過ぎず特記するような議員活動はないという[21]

1917年(大正6年)1月衆議院が解散され、同年4月第13回総選挙が実施された。増田は前回と同じく静岡県郡部選挙区(定員9人)から無所属で出馬するが、得票数2110票と立候補者13人中12位の票しか得られず落選した[24]。落選を機に政界の道を断念しており、衆議院議員在任は1期のみである[21]

実業家転身後

電気事業へ参入

木曽川開発を主宰した福澤桃介

議員となった頃、後藤新平から福澤桃介を紹介され、福澤の事務所を訪ねて面会した。これが増田の電気事業に関係するようになった契機である[25]

福澤が関与していた企業の一つに、愛知県の電力会社名古屋電灯があった。福澤は1913年1月に同社常務取締役に就任して経営権を掌握し、翌1914年(大正3年)に社長へと昇る[26]。名古屋電灯では以前から木曽川において水利権を獲得していたが、福澤が経営権を握ると木曽川開発を本格化させる[26]。そして木曽川全体の開発計画を取り纏め、1915年9月に逓信省へその許可を申請、10月には許可済みの取水量を増加するべく長野県当局へと申請を行った[26]。しかしこれらの申請が許可されるには、帝室林野管理局の了承を取り付ける必要があった[26]。木曽川上流域には帝室林野管理局が管理する木曽御料林があり、この御料林で伐採された木材の輸送を木曽川の河水を用いて行っていた(木材流送)ためである[26]

福澤は帝室林野管理局との問題を解決するにあたり、逓信大臣時代に臨時発電水力調査局を設置して全国の河川を調査させるなど水力開発に熱心であった後藤新平に支援を求めた[27]。後藤はこれを受け入れるとともに、手伝う人があった方が良いだろうということで増田次郎をその役に推薦した[27]。増田は福澤に面会するとすぐさま名古屋電灯の嘱託となり、帝室林野管理局との交渉役に任ぜられる[25]。中央の大臣から地方の役人まで幅広く交渉を進めるにあたって、世故に長け性格は円満という交渉役に適材なことが買われての電力業界入りであったという[28]

帝室林野管理局との交渉は、最終的に木材輸送の代替交通機関として森林鉄道を敷設し、その資金を電力会社側が出すという条件で纏まった[26]。御料材輸送の問題が解決して木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯は開発部門を分離して1918年(大正7年)9月に新会社木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立する[27]。社長に福澤桃介、副社長に下出民義が就任し、増田も常務取締役に名を列ねた[29]。木曽電気製鉄では常務と兼任で東京海上ビルに入る東京支店の支店長を務めた[30]。続いて1919年(大正8年)11月、木曽電気興業と京阪電気鉄道の合弁により関西地方への送電を目指して大阪送電株式会社が新設される[31]。同社でも福澤が社長に就き、その下で増田は常務取締役に名を連ねた[31]

この時期には木曽電気製鉄の他にも福澤系企業の役員を務めた。一つは愛知県内での鉄道建設のため福澤を社長として設立された東海道電気鉄道[32]、1919年9月の会社設立とともに取締役に就いた[33]。ただし同社は開業に至ることなく3年後の1922年(大正11年)7月に愛知電気鉄道へと合併されている[32]。もう一つは福澤が社長を務める香川県の電力会社四国水力電気で、1916年12月より監査役となった[34]

大同電力発足

増田の名にちなんで命名された「満寿太橋」(長野県)。元は木製のつり橋

大戦景気の終わりを告げる1920年春の戦後恐慌発生を機に、福澤系の木曽電気興業・大阪送電に山本条太郎が社長を務める日本水力を加えた3社の合併案が浮上[35]。交渉の末に1921年(大正10年)2月25日付で合併が成立、資本金1億円の大同電力株式会社が発足した[35]。社長は大阪送電から引き続いて福澤桃介が務め、副社長には日本水力から宮崎敬介が就任、その下の常務取締役には増田や京阪電気鉄道の太田光凞、技術者の三根正亮近藤茂関口寿の計5人が選任された[35]。1923年の役員録には企画課長を兼ねるとある[36]

大同電力発足後、木曽川には読書発電所大井発電所などの水力発電所が相次いで完成した。発電所群のうち1921年に着工、翌年に竣工した長野県の須原発電所では、資材運搬のため発電所前に架橋された木曽川のつり橋が増田にちなんで「満寿太橋」と名づけられた[37]。木曽川開発を進める大同電力にあって、増田は他の事業者や金融機関との間の対外交渉を担当する[38]関東大震災後の国内の金融逼迫に際して外債募集の話が浮上し、福澤がアメリカ合衆国へ渡った際には留守役を務めた[38]

1924年(大正13年)9月15日、大同電力の臨時株主総会にて代表取締役に選出され[39]、常務取締役から代表取締役副社長に昇格した[40]。この時点では宮崎敬介も副社長である(1928年10月在任のまま死去)が、代表権を持つ副社長は増田だけである[40]。増田の副社長昇格は、福澤の渡米で成立した外債の本社債券を発行するに際して社長または副社長の署名が必要であるため、福澤の代役として増田が署名を任されたことによる[41]。この経緯から増田は当時「署名副社長」とあだ名された[42]。同年11月8日秘書を伴って横浜港を出港、ニューヨークで社債券への署名を済ませ第2回外債の準備をしたのち翌1925年(大正14年)2月1日に帰国した[43]。同年発行の第2回外債は社長印を捺印した福澤の写刷署名と特命代表者の代理署名で済まされたため、秘書の師尾誠治が渡米しただけで福澤や増田は渡米していない[44]

常務・副社長時代には大同電力傍系会社の役員も数多く兼ねた。1921年11月、大同電力は兼業部門を独立させて大同肥料(後の大同化学工業)と大同製鋼(大同特殊鋼の前身)を設立する[45]。増田は設立と同時に大同肥料の取締役に就任し[46]、翌1922年(大正11年)7月に大同製鋼が電気製鋼所の事業を譲り受けて大同電気製鋼所となるにあたって同社でも監査役に就任した[47]。1922年8月三井鉱山との共同出資による開発会社神岡水電が発足すると取締役に就任[48]。1925年8月、大阪府内の事業を分割し大阪電力が設立されると初代社長となり、1927年(昭和2年)1月までこれを務めている[49]1926年(大正15年)3月設立の天竜川開発を目的とする天竜川電力では取締役に就任し[50]、同年12月設立の北陸地方における電源開発を目的とする昭和電力では初代社長に収まった[51]。同年には富山県にある傍系会社立山水力電気の社長にも就いている[52]

会社経営の傍ら、1926年12月に司法保護団体「帝国更新会」の副会長に就任した[53]。同会は大審院検事の宮城長五郎を会長として設立された、起訴猶予者執行猶予者を保護し更生を援助するための団体で、増田は人に誘われてこれに協力することとなった[54]

大同電力社長就任

大同電力副社長村瀬末一

1928年(昭和3年)6月、福澤桃介から健康が優れず引退したいので自分の後を継いでもらえないかと依頼され、大同電力の2代目社長に就任することとなった[55]。6月9日付で福澤は大同電力社長を辞任[56]。そして増田は26日後任社長に就任した[57]。増田の社長昇格と同時に村瀬末一と太田光凞が副社長に昇格している[57]。社長就任について増田は後年自叙伝にて、「大同電力の事業は全く福澤さんの天稟の才にあるもの」でそれに従って働きさえすれば良かったのであり、自分と交代するのは「真鍮を替えたようなものだろう」、と書いている[55]。同年9月、大同肥料においても福澤の後任社長に就いた[58]

大同電力は社長就任前後の1926年から1929年にかけて営業の最盛期を迎えていたが、翌1930年(昭和5年)以降は世界恐慌の影響が波及して収入が減退し、配当率を年率10パーセントから順次引き下げざるを得なくなった[59]。その渦中の1931年(昭和6年)11月、減配と役員改選が重なったことで副社長村瀬末一の排斥騒動が起こる[60]。村瀬は福澤の腹心で、増田は将来的に社長の座を譲る意向であったというが、太田光凞や取締役の寺田甚与茂らが村瀬の専横を非難してその排斥を図ったため、増田も副社長制の廃止を余儀なくされた[60]。同年12月、村瀬・太田両名は副社長から外れる[40]。これで一旦副社長・常務とも不在となるが、のちに藤波収永松利熊が常務となっている[40]

不況による収入減が続く中、1931年12月の金輸出が再禁止を機に急激な円安が進行すると、大同電力では外債の利払費・償還費が急騰して多額の為替差損も抱えることになり、深刻な経営難に陥った[61]1933年(昭和8年)上期には膨大な為替差損に押されて無配に転落する[62]。経営再建のため同社は1933年11月に会社更生計画を発表し、1934年下期まで4期2年間無配を続けて財務整理に傾注した[63]。増田は後年自叙伝にて、大同電力の苦境について「前途は暗雲低迷、どうなることかと生きた心地もなかった」と述べ、業績の回復については「決して私の微力の致すところではない。福沢初代社長の余光と、先輩の後押し、従業員諸君の一致協力と、世間様の同情があったればこそである」と述べている[64]

経営不振の最中にあった1933年、大同電力では財務整理の一環として社長の増田に傍系会社の代表者を兼任させてその統制と整理に努めるという方針を立てた[65]。同年5月、まず梼原水力電気の社長[注釈 1]に就任[66]。6月大阪電力の社長に復帰[注釈 2]したほか[49]、大同電力副社長を更迭された村瀬末一に席を譲っていた昭和電力社長にも復帰し(村瀬は副社長となる)[51][67]木曽発電社長にも就いた[68]。三井鉱山との合弁会社神岡水電では三井鉱山関係者が長く会長を務めたが[48]1938年(昭和13年)3月になって増田が会長に就任している[69]

他の電力会社と共同設立した発電会社でも社長職を歴任した。関西の電力会社4社(大同電力のほか日本電力宇治川電気京都電灯)による共同出資で1931年7月に火力発電会社関西共同火力発電が設立されると[70]、まずは取締役に就任[71]。出資4社の代表者が1年ずつ輪番で社長を務めると取り決められたことから、増田も2度にわたって社長となった[70]。木曽川の今渡発電所建設を目的に東邦電力1935年(昭和10年)7月に設立した愛岐水力でも東邦電力社長松永安左エ門と1年ごとに交替で社長を務めた[72]

大同電力関連以外では、1936年(昭和11年)2月15日、中瀬鉱業と天美鉱業が合併し発足した日本精鉱の社長に就任した[73][74]。前身のうち天美鉱業は増田が社長を務めていた会社にあたる[75]。日本精鉱では中瀬鉱山(兵庫県)の開発に取り組み[74]、増田はこれを電気事業に次ぐ自身の終生の事業として社業育成に努める意向であったという[75]

日本発送電総裁へ転ずる

1936年に時の内閣が打ち出した電気事業を政府の管理下に置くという電力国家管理の方針は、日中戦争下で急速に具体化され、1938年(昭和13年)4月、電力管理法ほか3法の公布という形で法制化に至る。電力の国家管理を担う国策会社日本発送電株式会社(日発)は翌1939年(昭和14年)4月設立と決定され、1938年8月全国の主要事業者に対して政府から設備出資命令が発出された。大同電力も日本発送電への設備出資を命ぜられた事業者の一つである[76]

日本発送電設立の段階では、各事業者が同社への出資を命ぜられた設備は主要火力発電設備と主要送電線のみで水力発電設備や配電設備は含まれていなかったが、大同電力の場合その限られた範囲でも出資対象設備は全固定資産額の4割を占める規模であった[76]。加えて、大同電力は電力供給の9割を他の電気事業者への卸売りに充てており、国家管理実施の上はその大部分が日発への卸売りとなって料金が低く抑えられる予定であったため、大同電力は営業の大部分を失う見通しとなり会社存続が困難となった[76]。政府から残余資産の出資を推奨されたこともあり、大同電力では1938年12月事業および資産・負債一切の日発への移譲を決定[76]。日発発足翌日にあたる1939年4月2日付で解散した[76]。増田は解散日まで大同電力の代表取締役社長を務め、解散とともに清算人へと転じた[77]

日発設立の準備が進んでいた1930年代末には業界の長老とみなされていた増田は、電力国家管理案に当初反対していたものの、大同電力が全資産の日発への出資を決定した後は日発設立に協力する立場となった[78]。こうした業界内での地位に加え、当時の内閣総理大臣平沼騏一郎や逓信大臣塩野季彦とも司法保護事業を通じて旧知の間柄であったため、日発の総裁職引き受けを依頼された[78]。増田本人は大同電力の処理が決まったころに郷里に帰り隠居する旨を語っており、総裁就任を予想していなかったという[79]。1939年4月1日、日発は創立総会を開催し発足、増田を初代総裁に任命した[80]。副総裁には逓信次官から転じた小野猛が任ぜられ、その下の常務理事には元大同電力常務の藤波収・永松利熊らが名を連ねた[79]。日本発送電の総裁は原則兼業禁止(日本発送電株式会社法第21条)であり[81]、増田は総裁就任にあたって同年3月27日付で大同電力以外の会社役員すべてを辞任している[66](大同電力清算人就任については逓信大臣より特認[77])。

日発の総裁となった増田であるが、逓信省の外局として新設された電気庁の規制が強く、自由な活動ができなかったという[42]。日発がうたう公約は電力の低廉豊富な供給というものであったが、実際には発足早々に近畿中国地方での異常渇水に見舞われ水力発電が麻痺する事態に直面する[82]。これを補給する火力発電石炭不足で機能不全となり、送電の休止まで至ったため近畿地方を中心に工業地帯の生産活動に支障を来す結果となった[82]。こうした事態の責任をとる形で増田は辞意を固め[82]1940年(昭和15年)11月初旬に村田省蔵逓信大臣へと辞意を伝え、翌1941年(昭和16年)1月9日辞表を提出する旨を正式に通告[83]。1月15日付で辞表を提出、即日受理され、後任総裁には日本電力社長池尾芳蔵が任命された[84]

日発辞任後は一時小閑を得たが、台湾総督長谷川清に依頼され1941年11月20日付で台湾の電力会社台湾電力株式会社(台電)の社長に任命された[85][86]太平洋戦争開戦直後の12月、南日本製糖の常務として渡航して以来30年ぶりに台湾へ到着[85]。専任の社長として同社を経営し、大甲渓での電源開発や台湾島内の電力統合などに携わった[85]。台湾では台湾電力のほか台湾総督府評議員会など総督府関連の職や台湾商工経済会会頭など商工団体の役員も務めている[86]。自身を推薦した長谷川の台湾総督離任を機に台湾電力からの退社を決め、1945年(昭和20年)1月23日付で社長を辞職、台湾から引き上げた[85][86]

戦後の1951年(昭和26年)1月14日東京都渋谷区上智町の自邸にて死去[86]。満82歳没。

年譜

慶應4年2月26日
(新暦:1868年3月19日
駿河国志太郡稲川村(現・静岡県藤枝市)に出生[1]
1896年明治29年)   賀茂郡役所勤務[4]
1897年(明治30年)   駿東郡役所勤務[4]
1899年(明治32年) 7月 台湾樟脳局(後の台湾総督府専売局)勤務[5]
1905年(明治38年) 4月 後藤新平の秘書となる[5]
1910年(明治43年) 3月24日 高等官に叙され内閣鉄道院総裁秘書に[11]
1911年(明治44年) 9月1日 内閣鉄道院総裁秘書免官[13]。鉄道院鉄道博物館掛[9]
1912年(明治45年) 1月11日 内閣鉄道院から退官[15]
2月28日 南日本製糖(台湾竹北)設立に伴い取締役就任[16]
1913年大正2年) 2月 立憲同志会幹事就任[20](後に離党[21])。
12月22日 南日本製糖取締役辞任[17]
1915年(大正4年) 3月25日 第12回総選挙に当選し衆議院議員となる[22][23]
1916年(大正5年) 12月25日 四国水力電気監査役就任[34]
1917年(大正6年) 1月25日 衆議院解散[23]。4月の第13回総選挙では落選[24]
1918年(大正7年) 9月8日 木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)設立に伴い常務取締役就任[29]
1919年(大正8年) 11月8日 大阪送電設立に伴い常務取締役就任[31]
1921年(大正10年) 2月25日 大阪送電・木曽電気興業・日本水力の合併で大同電力発足。引き続き常務取締役在任[35]
11月17日 大同肥料(後の大同化学工業)設立に伴い取締役就任[46]
1922年(大正11年) 7月28日 大同電気製鋼所監査役就任[87]
8月1日 神岡水電設立に伴い取締役就任[48]
8月25日 豊国セメント監査役就任[88]
1923年(大正12年) 6月23日 立山水力電気取締役就任[89](1926年より社長[52])。
1924年(大正13年) 9月15日 大同電力代表取締役副社長就任[39][40]
11月8日 横浜港より大同電力社債券署名のためアメリカニューヨークへ出発[43]
1925年(大正14年) 2月1日 アメリカより帰国[43]
8月15日 大阪電力設立に伴い代表取締役社長就任[49]
1926年(大正15年) 3月5日 天竜川電力設立に伴い取締役就任[50]
1926年(昭和元年) 12月27日 昭和電力設立に伴い代表取締役社長就任[90]
1927年(昭和2年) 1月17日 大阪電力代表取締役退任[91]
1928年(昭和3年) 6月26日 大同電力代表取締役社長就任[40][57]
9月6日 大同肥料代表取締役社長就任[58]
1931年(昭和6年) 7月28日 関西共同火力発電設立に伴い取締役就任[71](のちに親会社4社による輪番制の社長にも就任[70])。
11月17日 矢作水力と天竜川電力の合併に伴い矢作水力取締役に転ずる[92]
12月28日 昭和電力代表取締役辞任、監査役に転任[93]
1933年(昭和8年) 5月20日 梼原水力電気代表取締役就任[94]
6月16日 昭和電力代表取締役社長再任[95]
6月23日 木曽発電代表取締役社長就任[68]
6月27日 大阪電力代表取締役社長再任[96](ただし1934年11月末大同電力と合併[49])。
10月31日 豊国セメント監査役辞任[97]
1934年(昭和9年) 3月16日 梼原水力電気代表取締役退任[98](大同電力傘下からの離脱に伴う[65])。
6月26日 四国水力電気監査役辞任[99]
10月20日 大同電気製鋼所監査役退任[87]
1935年(昭和10年) 7月20日 愛岐水力設立に伴い取締役就任[100]松永安左エ門と交替で社長にも就任[72])。
1936年(昭和11年) 2月15日 日本精鉱代表取締役社長就任[74]
10月6日 矢作水力取締役辞任[101]
1937年(昭和12年) 4月27日 矢作水力監査役就任[102]
1938年(昭和13年) 1月10日 立山水力電気代表取締役辞任[103](大同電力傘下からの離脱に伴う[52]
3月26日 神岡水電代表取締役会長就任[69]
1939年(昭和14年) 3月27日 昭和電力代表取締役[104]・神岡水電代表取締役[105]・木曽発電代表取締役[68]・愛岐水力代表取締役[106]・大同化学工業代表取締役[107]・日本精鉱代表取締役[108]・関西共同火力発電取締役[109]・矢作水力監査役辞任[110]
4月1日 日本発送電総裁就任[111]
4月2日 大同電力解散に伴い代表取締役社長退任[77]
1941年(昭和16年) 1月15日 日本発送電総裁辞任[111]
11月20日 台湾電力社長就任[86]
1945年(昭和20年) 1月23日 台湾電力社長退任[86]
1951年(昭和26年) 1月14日 東京都渋谷区上智町の自邸にて死去[86]

人物

人物評

増田は温和な人柄だというのが定評であった[79]。日本発送電総裁に就任した頃、次のような人物評が書かれた。

後藤氏と言ひ、福澤氏と言ひ、二人ともその方面での変り者であった。その変り者に見込まれたと云ふのだから、一見少しも変ったところのない増田氏にも亦、どこか偉いところがあるに違ひない。増田氏は未だ曽て怒ったり、渋い顔をしたことはないと言はれて居る。いつも、春風駘蕩、どんな困難に直面しても平然として、自然の間にそれを乗り切って行く。所謂窮すれば通ずの教訓を体得した人と言へやう」

親族

  • 妻こまとの間に実子はなく、養女せつ子を迎える[112]。その婿養子となった増田完五は1908年静岡県に生まれ、1943年東亞合成入社[113]、以後1989年に死去するまで東亞合成の取締役・常務・副社長・社長・会長を歴任した[114]
  • 実弟の吉田英治は日本精鉱取締役を務めた[112]

栄典

自伝

  • 『増田次郎自叙伝』 - 台湾電力社長辞任までの半生を纏めた自叙伝。死後、遺品の草稿を養子の増田完五が編集して1964年に発行。

脚注

注釈

  1. ^ 梼原水力電気は四万十川支流梼原川高知県)の開発を目的とする会社で、山下汽船系であったものを1928年に大同電力が買収していた[65]。1934年3月供給先の伊予鉄道電気へと株式が売却されたことで増田を含む大同系の役員は総辞職[65]
  2. ^ ただし大阪電力は1934年11月末に大同電力へ吸収された[49]

出典

  1. ^ a b c d 『自叙伝』1-4・12-13頁
  2. ^ a b 『自叙伝』18-20・25-27頁
  3. ^ a b c d e f g 『自叙伝』28-43頁
  4. ^ a b c d e f g h 『自叙伝』44-48・55-63頁
  5. ^ a b c d e f 『自叙伝』64-65・81-88頁
  6. ^ 『職員録』明治35年(甲)813頁。NDLJP:779782/431
  7. ^ 『職員録』明治38年(甲)598頁。NDLJP:779788/326
  8. ^ a b 『自叙伝』109-119頁
  9. ^ a b c d e 『自叙伝』123-131頁
  10. ^ 『職員録』明治42年(甲)8頁。NDLJP:779796/34
  11. ^ a b 「叙任及辞令」『官報』第8023号、1910年3月25日付。NDLJP:2951374/10
  12. ^ 「叙任及辞令」『官報』第8258号、1910年12月29日付。NDLJP:2951611/2
  13. ^ a b 「叙任及辞令」『官報』第8461号、1911年9月2日付。NDLJP:2951818/2
  14. ^ 「叙任及辞令」『官報』第8559号、1911年12月29日付。NDLJP:2951916/5
  15. ^ a b 「叙任及辞令」『官報』第8566号、1912年1月12日付。NDLJP:2951923/1
  16. ^ a b 「商業登記」『官報』第8647号附録、1912年4月19日付。NDLJP:2952004/24
  17. ^ a b 「商業登記」『官報』第444号附録、1914年1月23日付。NDLJP:2952544/16
  18. ^ 『事業及人物』31-36頁。NDLJP:954781/45
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  25. ^ a b 『自叙伝』144-152頁
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  56. ^ 『福澤桃介翁伝』年譜23頁
  57. ^ a b c 「大同電力株式会社昭和3年下半期第19期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
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参考文献

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    • 増田完五(編)『増田次郎自叙伝』増田完五、1964年。 
    • 山浦貫一『近衛時代の人物』高山書院、1940年。NDLJP:1262412 
  • 企業史
    • 伊予鉄道電気(編)『五十年史』伊予鉄道電気、1936年。NDLJP:1230175 
    • 関西地方電気事業百年史編纂委員会(編)『関西地方電気事業百年史』関西地方電気事業百年史編纂委員会、1987年。 
    • 四国水力電気(編)『四水三十年史』四国水力電気、1928年。NDLJP:1176966 
    • 大同製鋼(編)『大同製鋼50年史』大同製鋼、1967年。 
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    • 東亞合成株式会社50周年記念事業委員会(編)『東亞合成五十年史』東亞合成、1995年。 
    • 名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会(編)『名古屋鉄道社史』名古屋鉄道、1961年。 
    • 日本精鉱(編)『五十年史』日本精鉱、1986年。 
    • 日本発送電解散記念事業委員会(編)『日本発送電社史』 綜合編、日本発送電株式会社解散記念事業委員会、1954年。 
    • 北陸地方電気事業百年史編纂委員会(編)『北陸地方電気事業百年史』北陸電力、1998年。 
    • 宮川茂(編)『木曽発電株式会社沿革史』宮川茂、1944年。NDLJP:1059703 
  • その他書籍
    • 商業興信所『日本全国諸会社役員録』 第27回、商業興信所、1919年。NDLJP:936467 
    • 人事興信所『人事興信録』 第12版、人事興信所、1939年。 
    • 人事興信所『人事興信録』 第15版、人事興信所、1948年。 
    • 電気之友社(編)『電気年鑑』 大正12年、電気之友社、1923年。NDLJP:948319 
    • 電気之友社(編)『電気年鑑』 昭和4年、電気之友社、1929年。NDLJP:1139383 
    • 遠間平一郎『事業及人物』中央評論社、1915年。NDLJP:954781 
    • 日本景気研究所(編)『一九三七年の景気と投資』日本景気研究所、1937年。NDLJP:1096593 
    • 松下伝吉『人的事業大系』 電力篇、中外産業調査会、1939年。NDLJP:1458891 
    • 水資源機構広報課(監修)『水とともに』 No.59、水資源協会、2008年8月http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/2008/pdf/0808.pdf 
    • 師尾誠治『事業金融人物 大同電力二十年金融史考』師尾誠治、1940年。NDLJP:1274904 
    • 立憲民政党史編纂部(編)『立憲民政党史』立憲民政党史編纂部、1934年。NDLJP:1280837 
    • 『衆議院議員総選挙一覧』 自第七回至第十三回、衆議院事務局、1918年。NDLJP:1337792 
    • 『衆議院議員党籍録』 自第一回議会至第四十八回議会、衆議院事務局、1924年。NDLJP:1337224 
  • 記事
    • 浅野伸一「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業:木曽電気製鉄から大同電力へ」『経営史学』第47巻第2号、経営史学会、2012年9月、30-48頁。 
    • 余川久太郎「神岡水電株式会社の回顧」『三井金属修史論叢』第5巻、三井金属鉱業修史委員会事務局、1971年4月、219-241頁。 
ビジネス
先代
福澤桃介
大同電力社長
第2代:1928年 - 1939年
次代
(会社解散)
先代
(会社設立)
日本発送電総裁
初代:1939 - 1941年
次代
池尾芳蔵
先代
林安繁
台湾電力社長
第6代:1941年 - 1945年
次代
松本虎太