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{{Infobox scientist
{{出典の明記|date=2012年3月|ソートキー=人1909年没}}
[[Image:Simon Newcomb 01.jpg|thumb|サイモン・ニューカム]]
|name = サイモン・ニューカム
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'''サイモン・ニューカム'''(''Simon Newcomb''、[[1835年]][[3月12日]] - [[1909年]][[7月11日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[天文学者]]、[[数学者]]である。一般読者向けの多くの啓蒙書の著者、初期の[[サイエンス・フィクション|SF]]の作者でもあり、経済学に関する著書もある。
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|caption = サイモン・ニューカム(1905年ごろ)
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'''サイモン・ニューカム'''(Simon Newcomb、[[1835年]][[3月12日]] - [[1909年]][[7月11日]])は、カナダ系[[アメリカ人]]の[[天文学]]者、[[応用数学]]者である。[[アメリカ海軍]]と[[ジョンズ・ホプキンス大学]]で数学の教授を務めた<ref>[[John Maynard Keynes]] (1930). ''A Treatise on Money.'' Vol. 1, p. 233</ref>。


彼は従来の学校教育はほとんど受けていなかったが、[[計時]]、および[[経済学]]や[[統計学]]などの応用数学の分野において重要な貢献をしたほか、SF小説の執筆を行った。
== 経歴 ==

現[[カナダ]]の[[ノバスコシア州]]に教師の息子に生まれる。貧しく教育を受けていないが、独学で数学、物理を学びアメリカ合衆国[[メリーランド州]]の郡の学校教師になった。[[1857年]]に[[天文航法]]に使われる航海歴を発行するアメリカ海事局?(Nautical Almanac Office)の計算係として雇われ、そのころ[[ハーバード大学]]のローレンス科学学校を卒業した。ちょうど[[南北戦争]]が始まろうとする時で、南部同盟に同情する海軍の軍人が職場を去ったおかげもあって、[[アメリカ海軍天文台]]の数学、天文学の教授の地位を占めることができた。惑星の位置の計測や惑星運動の理論の研究を行った。[[1875年]]から[[ハーバード大学天文台]]の所長、[[1884年]]から[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の数学と天文学の教授になった。
==生涯==
===若年期===
サイモン・ニューカムは、[[カナダ]]・[[ノバスコシア州]]{{仮リンク|ウォレス (ノバスコシア州)|en|Wallace, Nova Scotia|label=ウォレス}}で生まれた。父は学校の教師ジョン・バートン・ニューカム、母は[[ニューブランズウィック州]]の判事の娘エミリー・プリンスだった。父はノバスコシア州と[[プリンスエドワードアイランド州]]を中心としてカナダの様々な地域で教職を転々としていた。カナダ連合の父である{{仮リンク|ウィリアム・スティーブズ|en|William Steeves}}は母方の親戚である。

ニューカムは、父からの教育と、1851年にニューブランズウィック州の{{仮リンク|薬草療法|en|Herbal medicine|preserve=1}}師のフォシェイのもとで短期間[[徒弟]]となっていたくらいで、通常の学校教育をほとんど受けていないようである。しかし、彼が父から受けた教育は、彼の将来の研究のための重要な基礎となった。ニューカムがフォシェイに弟子入りしたのは彼が16歳の時だった。5年の見習い期間で薬草療法の修行をするという契約だった。しかし、その2年後、ニューカムはフォシェイの非科学的なやり方に不満と幻滅を感じるようになり、彼がペテン師であることに気付いた。彼は契約を破棄してフォシェイのもとから離れることを決意した。彼は[[メイン州]][[カレス (メイン州)|カレス]]の港まで190キロ歩き、船の船長にお願いして、先に渡米していた父が住んでいる[[マサチューセッツ州]][[セイラム (マサチューセッツ州)|セイラム]]まで連れて行ってもらった。1854年ごろにセーラムで父と合流し、二人は一緒に[[メリーランド州]]に移り住んだ。

ニューカムは、1854年から1856年までの2年間、メリーランド州[[ケント郡 (メリーランド州)|ケント郡]]のマッシーズ・クロス・ローズの学校で、その後、メリーランド州[[クイーンアンズ郡 (メリーランド州)|クイーンアンズ郡]]の{{仮リンク|サドラーズビル (メリーランド州)|en|Sudlersville, Maryland|label=サドラーズビル}}近郊の学校で1年間教師となった。彼は余暇を利用して、政治経済や宗教などの様々な分野の研究をしたが、特に数学や天文学について深く研究した。当時彼はニュートンの『[[プリンキピア]]』を読んでいた。1856年、[[ワシントンD.C.]]近郊で家庭教師の職を得て、彼は数学を勉強するためにワシントンD.C.各地の図書館を巡った。彼はスミソニアン協会の図書館から、{{仮リンク|ナサニエル・バウディッチ|en|Nathaniel Bowditch}}が翻訳した[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]の"''Traité de mécanique céleste''"(天体力学論)を借りることができたが、そこで使われている数学は、彼の手に負えないものであった<ref name="DSB">[http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Biographies/Newcomb.html Newcomb biography]. dcs.st-and.ac.uk</ref>。

ニューカムは[[数学]]と[[物理学]]を独学し、教職に就いた後、1857年にマサチューセッツ州[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]の[[アメリカ海軍天文台|航海年鑑局]]で[[計算手]]になった。ほぼ同時期に[[ハーバード大学]]のローレンス科学スクール(理工学専攻)に入学し、1858年に[[学士(理学)|理学の学士号]]を取得した<ref name="DSB"/>。

===パース家===
ニューカムは[[ベンジャミン・パース]]に数学を学び、あまりお金を持っていないニューカムはしばしばパースの家に招かれていた<ref>Brent (1993) p. 288</ref>。しかし、後にベンジャミンの息子である[[チャールズ・サンダース・パース]]に嫌悪感を抱くようになったと言われており、ニューカムはチャールズのキャリアを「見事に台無しにした」と非難されている<ref>Brent (1993) p. 128</ref>。特に、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]学長の{{仮リンク|ダニエル・コイト・ギルマン|en|Daniel Coit Gilman}}は、チャールズに[[テニュア]](終身雇用資格)を与えようとしていたが、ニューカムが裏で介入してそれを阻止したとされている<ref>Brent (1993) pp. 150–153</ref>。約20年後、ニューカムは、チャールズのライフワークを出版する最後のチャンスを阻止するために、[[アンドリュー・カーネギー]]自身、[[セオドア・ルーズベルト]]、[[ウィリアム・ジェームズ]]などからのチャールズに対する推薦の手紙があったにも関わらず、[[カーネギー研究所]]の評議会にカーネギー助成金のチャールズへの支給を拒否するよう影響を与えたとされている<ref>Brent (1993) pp. 287–289</ref>。

===天文学における業績===
[[南北戦争]]の前兆として、[[アメリカ連合国]](南軍)を支持した多くの[[米海軍]]軍人が退役したことにより、1861年、ニューカムは空席となった[[アメリカ海軍天文台]]の数学・天文学の教授に就任した。ニューカムは[[天文航法]]に使用するための[[惑星]]の位置の観測に取り組み、[[軌道 (力学)|惑星運動]]の理論に興味を持つようになった<ref name="DSB"/>。

1870年にニューカムが[[パリ]]を訪問した時、[[ペーター・ハンゼン]]が計算した月計算表(月の位置の表)の誤りに気付いた。彼はパリで、ハンゼンが使用した1750年から1838年までのデータに加えて、1672年まで遡ったデータがあることに気付いた。しかし、彼がパリを訪れたのは、[[普仏戦争]]でフランス皇帝[[ナポレオン3世]]が敗北し、[[フランス第二帝政]]を終わらせることになるクーデターが起こった時期で、パリでゆっくり分析している時間はなかった。ニューカムは、[[パリ・コミューン]]の結成と[[パリ天文台]]も巻き込まれた暴動の中をなんとか脱出した。ニューカムは新しいデータを使ってハンゼンの表を修正した<ref name="DSB"/>。

彼は1875年に[[ハーバード大学天文台]]台長のポストを提示されたが、彼の興味が天体観測よりも数学に移っていたことから、それを辞退した<ref name="DSB"/>。

===航海年鑑局長===
1877年に航海年鑑局長に就任し、[[ジョージ・ウィリアム・ヒル]]の支援を受けて、全ての主要な{{仮リンク|天文定数|en|Astronomical constants}}を再計算する計画に着手した。1884年からは[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の数学と天文学の教授を兼任し、多くの求められる仕事を抱える中で、彼は{{仮リンク|アーサー・マシュー・ウェルド・ダウニング|en|Arthur Matthew Weld Downing}}と共に、この問題に関する多くの国際的な混乱を解決するための計画を考案した。

彼が参加した1896年5月にパリで開催された標準化会議において、全ての[[天体暦]]はニューカムの計算結果、すなわち、{{仮リンク|ニューカムの太陽表|en|Newcomb's Tables of the Sun}}に基づくべきであるという国際的なコンセンサスが得られた。1950年後半に開催された会議では、ニューカムの定数が国際標準であることが確認された<ref name="DSB"/>。

===私生活===
[[File:Newcomb Simon.jpg|right|thumb|アーリントン国立墓地のニューカムの墓]]
ニューカムは[[1863年]][[8月4日]]にメアリー・キャロライン・ハスラーと結婚した。2人の間には娘が3人と夭折した息子が1人いた<ref>Carter & Carter (2006) p. 191</ref>。メアリーの父はアメリカ海軍の外科医チャールズ・オーガスタス・ハスラー、彼女の祖父は海岸測量局の初代監督官{{仮リンク|フェルディナンド・ルドルフ・ハスラー|en|Ferdinand Rudolph Hassler}}だった<ref>Campbell, W. W. (1924). [https://archive.org/stream/memoirsofnationa17nati#page/14/mode/2up ''Simon Newcomb'']. Memoirs of the National Academy of Sciences. p. 18</ref>。ニューカムは膀胱癌のためワシントンD.C.で死亡した。葬儀には[[ウィリアム・タフト]]大統領が出席し、[[アーリントン国立墓地]]に軍人としての名誉をもって埋葬された<ref name="DSB"/>。

娘の{{仮リンク|アニータ・ニューカム・マギー|en|Anita Newcomb McGee}}は医学博士であり、{{仮リンク|アメリカ陸軍看護隊|en|United States Army Nurse Corps}}の創設者だった。彼女は[[米西戦争]]での功績により、{{仮リンク|スペイン戦争功労勲章|en|Spanish War Service Medal}}を授与された。日本での功績によって、[[宝冠章]]、[[日本赤十字社|日本赤十字]]勲章、[[従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]([[日露戦争]]の従軍記章)を授与された。彼女は、父の隣に軍人としての名誉をもって埋葬されている<ref>{{Cite web|url=http://www.medicalmuseum.mil/index.cfm?p=exhibits.past.mcgee.page_01|title=National Museum of Health and Medicine (NMHM): American Angels of Mercy: Dr. Anita Newcomb McGee's Pictorial Record of the Russo–Japanese War, 1904: Dr. Anita Newcomb McGee, 1864–1940|website=www.medicalmuseum.mil|access-date=2016-09-30}}</ref>。

娘の{{仮リンク|ジョセファ・ニューカム・ホイットニー|en|Josepha Newcomb Whitney}}は美術学校[[アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク]]で学んだ<ref name=":0">{{Cite web|url=http://cornwallhistoricalsociety.org/exhibits/women/whitney.html|title=Josepha Newcomb Whitney|website=cornwallhistoricalsociety.org|access-date=2016-09-30}}</ref>。彼女は女性参政権運動で活躍した。1912年には、女性の選挙権を支持する最初の集会を組織した<ref name=":0" />。彼女は司法次官補の{{仮リンク|エドワード・ボウルドイン・ホイットニー|en|Edward Baldwin Whitney}}と結婚した。エドワードの父は言語学者の[[ウィリアム・ドワイト・ホイットニー]]であり、祖父にはアメリカ上院議員でコネチカット州知事の{{仮リンク|ロジャー・シャーマン・ボールドウィン|en|Roger Sherman Baldwin}}や数学者の[[ハスラー・ホイットニー]]がいる<ref>{{cite journal|last=Chern|first=Shiing-Shen|title=Hassler Whitney (23 March 1907-10 May 1989)|journal=Proceedings of the American Philosophical Society|date=September 1994|volume=138|issue=3|pages=464–467|jstor=986754}}</ref>。


==業績==
==業績==
===光速度===
ニューカムは[[航海暦]]を編纂し惑星と月の正確な運行表を制作した。[[イブン・ユーヌス]]らの古い観測記録の月の運動に見られるずれの原因が地球の自転が少しずつ遅くなってきたためであることを指摘した。
1878年、ニューカムは多くの天文定数の正確な値の算出に必要となる、新しく正確な[[光速度]]の測定を計画していた。彼が[[レオン・フーコー]]の方法を改良した方法の開発を始めていたとき、同様の測定を計画していた若い海軍士官で物理学者の[[アルバート・マイケルソン]]から手紙を受け取った。ここから、ニューカムとマイケルソンの長い協力関係と友情が始まった。1880年、マイケルソンは{{仮リンク|フォート・マイヤー|en|Fort Myer}}と当時[[ポトマック川]]河畔にあったアメリカ海軍天文台に設置した装置でニューカムの最初の測定に協力した。しかし、海軍天文台と[[ワシントン記念塔]]の間で行われた2回目の測定のときには、マイケルソンは自分の計画を始めるためにニューカムの元を去っていた。マイケルソンは1880年に最初の測定値を発表したが、ニューカムの測定値はこれとかなり違っていた。1883年、マイケルソンは自身の測定値をニューカムの測定値に近い値に修正した<ref name="DSB"/>。


====
===ベンフォード法則===
1881年、ニューカムは、彼は、当時対数計算のために使っていた対数表の本が、最初の方のページが最後の方のページに比べて明らかに摩耗していることに気づいた。彼はこのことから、任意のデータセットから取り出した数字のリストでは、最初の桁が"1"である傾向が高いという法則を導いた。これは、現在[[ベンフォードの法則]]として知られている統計学の原理である<ref>Newcomb (1881)</ref>。
航空史においては、「機械が飛ぶことは科学的に不可能」と述べた科学者としてニューカムは語られることになった。[[ライト兄弟]]の飛ぶ1年半ほど前の[[1902年]]に“Flight by machines heavier than air is unpractical and insignificant, if not utterly impossible. ”と述べた。


===チャンドラー・ウォブル===
初期のSF小説作家としては[[1900年]]の『''His wisdom the defender''』や、日本で[[黒岩涙香]]によって訳され[[萬朝報]]に連載された[[終末もの|破滅SF]]『暗黒星』 (''The End of the World'') などがある。
1891年、[[セス・チャンドラー]]が14ヶ月周期の地軸の振動([[チャンドラー・ウォブル]])を発見してから数ヶ月以内に、ニューカムは、観測された運動と予測された振動の周期との間の明らかな矛盾を解明した。チャンドラーの理論では地球が完全な[[剛体]]であると仮定していたが、実際の地球にはわずかに[[弾性]]がある。ニューカムは、緯度の観測値の変動から地球の弾性を推定し、地球の弾性は鋼鉄よりもわずかに高いことを発見した<ref>Newcomb (1902) p. 116</ref>。


===その他の分野===
==賞・叙勲等==
ニューカムは、[[独学]]者であり、様々な分野に通じた[[博学者]]であった。彼は[[経済学]]について書いており、彼の1885年の著書"''Principles of political economy''"(政治経済の原理)は、[[ジョン・メイナード・ケインズ]]が「オーソドックスなものを読みすぎたことによる変質をしていない新鮮で科学的な心が、経済学のような中途半端なテーマで時折生み出すことができる、独創的な作品の一つである」と評している。[[アーヴィング・フィッシャー]]は、[[貨幣数量説]]に用いられる貨幣と商品の間の[[フィッシャーの交換方程式|交換方程式]]について最初に言及したのはニューカムであるとしている<ref>Fisher (1909).</ref>。
'''賞'''

* イギリス[[王立天文学会ゴールドメダル]]([[1874年]])
彼は[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[スウェーデン語]]を話すことができた。一般読者向けの多くの啓蒙書の著者であり、初期の[[サイエンス・フィクション|SF]]小説作家として[[1900年]]の『''His wisdom the defender''』や、日本で[[黒岩涙香]]によって訳され[[萬朝報]]に連載された[[終末もの|破滅SF]]『暗黒星』 (''The End of the World'') などを著した<ref name="DSB"/>。
* ロンドン[[王立協会]]外国人会員 ([[1877年]])<ref name="RS">{{FRS |code = NA6276 |title = Newcomb; Simon (1835 - 1909) |accessdate = 2012-03-20 }}</ref>

* [[ホイヘンス・メダル]](Haarlem Academy of Sciences) ([[1878年]])
===天文学の状況について===
* [[コプリ・メダル]] ([[1890年]])<ref name="RS" />
1888年にニューカムは「我々は天文学について知ることができる全ての限界に近づいている」と書いた。

1900年には、アメリカン・ブック・カンパニーから''Elements of Astronomy''(天文学の要素)を刊行した。

しかし、1903年までに彼の考えは変わっていた。『サイエンス』の記事で、彼は次のように書いた。「我々の目の前にあるのは広大な分野であり、その存在は10年前にはほとんど疑われていなかった。その探求は、我々の物理学の研究室や多くの天文観測者・研究者の活動を吸収することになるかもしれない。電気科学を現在の状態にまで発展させるために必要とされる何世代にもわたって。」<ref>{{citation|title=The Universe as an Organism|first=S.|last=Newcomb|journal=[[Science (journal)|Science]]|series=(N.S.)|volume=17|issue=421|date=January 23, 1903|pages=121–129|jstor=1631452|doi=10.1126/science.17.421.121|bibcode = 1903Sci....17..121N |url=https://zenodo.org/record/1447868}}. The quote is in the final paragraph, on [https://books.google.com/books?id=nlg9AQAAMAAJ&pg=PA129 p.&nbsp;129].</ref>

===空飛ぶ機械の不可能性について===
ニューカムは、「空飛ぶ機械」を作ることは{{仮リンク|認識的可能性|en|Epistemic possibility|label=不可能だと信じていた}}ことで有名である。彼は"Is the Airship Possible?"(飛行船は可能か?)という記事の冒頭で、「それは、まず第一に、必要な科学的発見を我々がするかどうかにかかっている」と述べている。彼は最後に、「一人の人間であっても、あちこちの場所へ好きなように運ぶことができるような空飛ぶ乗り物の構築には、何か新しい金属か、新しい力の発見が必要である」と述べている<ref>{{cite journal|last=Newcomb|first=Simon|title=Is the Airship Coming?|journal=McClure's Magazine|date=September 1901|volume=17|issue=5|pages=432–435|publisher=S. S. McClure, Limited|url=http://invention.psychology.msstate.edu/library/Magazines/Airship_Coming.html}}</ref>。

[[インデペンデント]]紙の1903年10月22日号において、ニューカムはよく知られた次のような発言をしている。「我々[[力学]]者たちは、空中飛行は人間が決して対処できない大きな問題の一つであることを認めざるを得なくなり、それに対処するためのあらゆる試みをあきらめざるを得なくなるのではないだろうか?」<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=PPPQzhTA9RsC&pg=PA74|title=When Hull Freezes Over: Historic Winter Tales from the Massachusetts Shore|first=John|last=Galluzzo|date=19 July 2018|publisher=History Press|accessdate=19 July 2018|via=Google Books|isbn=9781596290990}}</ref><ref>{{cite journal|title=The Outlook for the Flying Machine|journal=The Independent|date=October 22, 1903|volume=55|issue=2864|page=2509|url=https://books.google.com/books?id=gJvVH4AjAyIC&pg=PA2509#v=onepage&q&f=false|accessdate=26 April 2015}}</ref>「一度速度を緩めると、彼は落ち始める。一旦停止すると、彼は死の塊として落下する。」ニューカムには[[翼型]]の概念がなかった。彼の「飛行機」は傾斜した「薄い平らな板」だった。そのため、彼はそれが人間の体重を運ぶことはできないと結論づけた。

ニューカムは、特に[[サミュエル・ラングレー]]の研究を批判していた。ラングレーは[[蒸気機関]]を動力源とする飛行機械を作ることができると主張したが、彼の最初の公開の飛行実験は失敗に終わった<ref>{{cite book|title=A scientist's voice in American culture: Simon Newcomb and the rhetoric of scientific method|url=https://archive.org/details/isbn_0520076893_0|url-access=registration|date=1992 |publisher=University of California Press|author=Albert E. Moyer|page=[https://archive.org/details/isbn_0520076893_0/page/187 187]}}</ref>。

しかし、1903年には、ニューカムは次のように語った「おそらく20世紀には、鳥をはるかに超える速度で大陸から大陸へ飛ぶことを可能にする自然の力を目にすることになるだろう。しかし、現在の我々の知識の状態で、我々が持っているような材料、鉄、布、針金の組み合わせで、電気や蒸気の力で動かして、飛行機械を作ることができるかどうかを問うとき、見通しは全く異なるかもしれない」<ref name="Indep103-374">{{cite journal|title=What Did Newcomb Say?|journal=The Independent|date=September 25, 1920|volume=103|issue=3738|url=https://books.google.com/books?id=TvXlAAAAMAAJ&pg=PA374|page=374|publisher=Independent Corporation|location=New York}}</ref>

ニューカムは、あまり人に知られないうちに行われていた[[ライト兄弟]]の成果を明らかに知らず(1906年にパリで[[アルベルト・サントス=デュモン]]が飛行実験を行ったとき、「人類初の飛行」と報じられていた)、内燃機関のより優れた[[パワーウェイトレシオ]]を明らかに知らなかった。1908年にライト兄弟の飛行を聞いたニューカムは、すぐにそれを受け入れた<ref>{{cite news|url=https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F50A11F8395C1B728DDDA90A94DC405B898DF1D3| title=Simon Newcomb on Flying. He did not take the gasoline engine into account in his writings|author=Anita Newcomb McGee|date=April 20, 1919|work=New York Times|accessdate=2011-01-25}}</ref>。ニューカムは、回転翼([[ヘリコプター]])や空中に浮かぶ飛行船([[軟式飛行船]])の開発に好意を示した。

それから数十年のうちに、飛行船がヨーロッパとアメリカの間で定期的に乗客を輸送し、飛行船「[[LZ 127 (飛行船)|グラーフ・ツェッペリン]]」は地球を一周した<ref>[[Time (magazine)|Time magazine]]: [http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,737828,00.html Los Angeles to Lakehurst], 1929-09-09</ref>。

===心霊現象研究===
ニューカムは、{{仮リンク|アメリカ心霊現象研究協会|en|American Society for Psychical Research}}の初代会長だった<ref>Campbell, W. W. (1924). [https://archive.org/stream/memoirsofnationa17nati#page/14/mode/2up ''Simon Newcomb'']. Memoirs of the National Academy of Sciences. p. 14</ref>。[[超感覚的知覚]](ESP)や[[超常現象]]に懐疑的であったが、彼はこのテーマは研究する価値があると信じていた。1889年までには、彼の研究は否定的なものとなり、彼の懐疑心は高まった。伝記作家アルバート・E・モイヤーは、ニューカムが「方法論的な理由から、心理学的研究は科学的に行き詰まるものだと確信し、他の人を納得させようとしていた」と述べている<ref>Moyer, Albert E. (1998). ''Simon Newcomb: Astronomer with an Attitude''. ''[[Scientific American]]'' 279 (4): 88-93.</ref>。

==賞・栄誉・役職==
* [[米国科学アカデミー]]会員([[1869年]])。複数の役職を経験している。
* [[王立天文学会ゴールドメダル]]([[1874年]])
* [[スウェーデン王立科学アカデミー]]会員([[1875年]])
* [[王立協会]]外国人会員 ([[1877年]])<ref name="RS">{{FRS |code = NA6276 |title = Newcomb; Simon (1835 - 1909) |accessdate = 2012-03-20 }}</ref>
* ハールレム科学アカデミー [[ホイヘンス・メダル]]([[1878年]])
* {{仮リンク|American Journal of Mathematics|en|American Journal of Mathematics}}編集者([[1885年]] - [[1900年]])
* 王立協会 [[コプリ・メダル]]([[1890年]])<ref name="RS" />
* [[レジオンドヌール勲章]]シュヴァリエ章 ([[1893年]])
* [[レジオンドヌール勲章]]シュヴァリエ章 ([[1893年]])
* [[アメリカ数学会]]会長 ([[1897年]] - [[1898年]])
* [[アメリカ数学会]]会長 ([[1897年]] - [[1898年]])
* [[ブルース・メダル]] ([[1898年]])
* {{仮リンク|太平洋天文学会|en|Astronomical Society of the Pacific}} [[ブルース・メダル]]([[1898年]])
* [[アメリカ天文学会]]創立会員・初代会長([[1899年]] - [[1905年]])
'''命名'''
* [[オランダ王立芸術科学アカデミー]]外国人会員([[1898年]])<ref>{{cite web|author= |url=http://www.dwc.knaw.nl/biografie/pmknaw/?pagetype=authorDetail&aId=PE00002058 |title=Simon Newcomb (1835–1909) |publisher=Royal Netherlands Academy of Arts and Sciences |date= |accessdate=26 July 2015}}</ref>
* 小惑星:(855) [[ニューカミア (小惑星)|Newcombia]]
* {{仮リンク|偉大なアメリカ人の殿堂|en|Hall of Fame for Great Americans}}殿堂入り
* 月のクレータ


==ニューカムに因むもの==
== 出典 ==
* [[小惑星]](855)[[ニューカミア (小惑星)|ニューカミア]](Newcombia)は彼の名に因む。
* [[月]]のクレーター{{仮リンク|ニューカム (月のクレーター)|en|Newcomb (lunar crater)|label=ニューカム}}や、[[火星]]のクレーター{{仮リンク|ニューカム (火星のクレーター)|en|Newcomb (lunar crater)|label=ニューカム}}は彼の名に因む<ref>{{citation
| first1=Joe S. | last1=Tenn | date=November 11, 2015
| title=Simon Newcomb | work=The Bruce Medalists
| url=http://www.phys-astro.sonoma.edu/brucemedalists/newcomb/
| accessdate=2017-11-18 | postscript=. }}</ref>。
* アメリカ海軍天文台の報時部門のビルは、サイモン・ニューカム研究所と名付けられている。
* 米海軍の[[掃海艇]]「サイモン・ニューカム」(YMS 263)は1942年に進水し、第二次世界大戦中に太平洋戦線で活動し、1949年に退役した。

==著書==
*Newcomb, S (1878) ''[https://archive.org/details/cihm_19050 Research on the Motion of the Moon, Part I]''
*Newcomb, S (1878) ''[https://archive.org/details/popularastronomy031620mbp Popular Astronomy]''
*Newcomb, S (1879) ''[https://archive.org/details/astronomyforscho00newcrich Astronomy for schools and colleges]''
*{{cite journal | doi=10.2307/2369148 | author=Newcomb, S | date=1881 | title=Note on the frequency of use of the different digits in natural numbers | jstor=2369148 | journal=American Journal of Mathematics | volume=4 | pages=39–40 | issue=1| bibcode=1881AmJM....4...39N }}
*Newcomb, S (1885) [https://archive.org/details/principlesofpoli00newcuoft ''Principles of Political Economy''] (Internet Archive)
*Newcomb, S (1887) ''The ABC Of Finance''
*Newcomb, S (1890) ''[https://archive.org/details/elementsofastron00newcrich Elements of Astronomy]''
*Newcomb, S (1900) ''[https://archive.org/details/hiswisdomdefende00newcrich His Wisdom the Defender]''—Science Fiction novel.
*Newcomb, S (1901) ''[https://archive.org/details/starsstudyofuniv00newciala The Stars]''
*Newcomb, S (1902) ''[https://archive.org/details/astronomyforever00newc Astronomy for Everybody]''
*Newcomb, S (1903) ''[https://archive.org/details/reminiscencesofa00newc The Reminiscences of an Astronomer]''—His autobiography. (Reissued by [[Cambridge University Press]], 2010. {{ISBN|978-1-108-01391-8}})
*Newcomb, S (1903) [http://www.garfield.library.upenn.edu/essays/v3p167y1977-78.pdf ''The Outlook for the Flying Machine"], The Independent, 22 October 1903, pp 2508–12
*Newcomb, S (1906) ''[https://archive.org/details/cu31924004071688 Compendium of Spherical Astronomy]''
*Newcomb, S (1907) ''[https://archive.org/details/investigationofi00newcuoft Investigation of Inequalities in the Motion of the Moon Produced by the Action of the Planets]''
*Newcomb, S (1912) ''[https://archive.org/details/cihm_19051 Research on the Motion of the Moon, Part II]''

*{{cite web |url=http://ad.usno.navy.mil/pub/pub_astpapers.html |title=Astronomical Papers Prepared For The Use Of The American Ephemeris And Nautical Almanac |accessdate=2009-02-24 |work=U.S. Naval Observatory |publisher=The Nautical Almanac Office |date=2008-08-12 }} - 1882年から1912年の間に書かれた天文学、物理学、数学の論文の多くが掲載されている。

==脚注==
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==関連文献==
* {{cite book | author=Brent, J. | title=Charles Sanders Peirce: A Life | publisher=Indiana University Press | location=Bloomington | isbn=0-253-31267-1 | date=1993}}
* {{cite book | author=Carter, W.| author2=Carter M. S.| last-author-amp=yes | date=2006 | title=Simon Newcomb, America's Unofficial Astronomer Royal | publisher=Mantanzas Publishing | location=St. Augustine | isbn=1-59113-803-5}}
* [[Gerald Maurice Clemence|Clemence, G. M.]] (2001) "Newcomb, Simon", ''[[Encyclopædia Britannica]]'', Deluxe CDROM edition
* Fisher, Irving (1909). "Obituary. Simon Newcomb" ''Economic Journal'', 19, pp.&nbsp;641–44.
* [[Milton Friedman|Friedman, Milton]] (1987) "Newcomb, Simon," ''[[The New Palgrave: A Dictionary of Economics]]'', v. 3, 651–52.
* Marsden, B. (1981) "Newcomb, Simon" in {{cite book | editor=Gillespie, C.C. | date=1981 | location=New York | title=Dictionary of Scientific Biography | publisher=Charles Screibner's Sons | isbn=0-684-16970-3 | volume=10 | pages=33–36}}
* [http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Biographies/Newcomb.html Simon Newcomb Biography]

==外部リンク==
{{commons category}}
* [http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=6961 Biography at the ''Dictionary of Canadian Biography Online'']
* [http://www.physics.csbsju.edu/astro/newcomb/Newcomb.Times.Obit.gif Obituary from ''The Times'']
* {{MacTutor Biography|id=Newcomb}}
* [http://www.phys-astro.sonoma.edu/BruceMedalists/Newcomb/index.html 1898 Bruce Medalist]
* {{Gutenberg author |id=Newcomb,+Simon | name=Simon Newcomb}}
* {{Internet Archive author |sname=Simon Newcomb}}
* [https://web.archive.org/web/20041126025315/http://socserv2.socsci.mcmaster.ca/~econ/ugcm/3ll3/newcomb/index.htm Simon Newcomb], links to Newcomb's economic writings at ''Archive for the History of Economic Thought''
* [http://www.ns1763.ca/cumberco/newcombplq.html Historic Site & Memorial at Wallace Bridge, Nova Scotia (1935)]
* {{Biographical Memoirs|newcomb-simon}}

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2020年4月17日 (金) 22:46時点における版

Simon Newcomb
サイモン・ニューカム
サイモン・ニューカム(1905年ごろ)
生誕 (1835-03-12) 1835年3月12日
カナダの旗 カナダ ノバスコシア州ウォレス英語版
死没 1909年7月11日(1909-07-11)(74歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
市民権 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
国籍 カナダの旗 カナダ
研究分野 天文学
数学
出身校 ハーバード大学 (BSc, 1858)
指導教員 ベンジャミン・パース
博士課程
指導学生
ヘンリー・ラッドウェル・ムーア英語版
主な受賞歴 コプリ・メダル (1890)
ブルース・メダル (1898)
配偶者
Mary Caroline Hassler (m. 1863)
子供 アニータ・ニューカム・マギー英語版など4人
プロジェクト:人物伝
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サイモン・ニューカム(Simon Newcomb、1835年3月12日 - 1909年7月11日)は、カナダ系アメリカ人天文学者、応用数学者である。アメリカ海軍ジョンズ・ホプキンス大学で数学の教授を務めた[1]

彼は従来の学校教育はほとんど受けていなかったが、計時、および経済学統計学などの応用数学の分野において重要な貢献をしたほか、SF小説の執筆を行った。

生涯

若年期

サイモン・ニューカムは、カナダノバスコシア州ウォレス英語版で生まれた。父は学校の教師ジョン・バートン・ニューカム、母はニューブランズウィック州の判事の娘エミリー・プリンスだった。父はノバスコシア州とプリンスエドワードアイランド州を中心としてカナダの様々な地域で教職を転々としていた。カナダ連合の父であるウィリアム・スティーブズ英語版は母方の親戚である。

ニューカムは、父からの教育と、1851年にニューブランズウィック州の薬草療法英語版師のフォシェイのもとで短期間徒弟となっていたくらいで、通常の学校教育をほとんど受けていないようである。しかし、彼が父から受けた教育は、彼の将来の研究のための重要な基礎となった。ニューカムがフォシェイに弟子入りしたのは彼が16歳の時だった。5年の見習い期間で薬草療法の修行をするという契約だった。しかし、その2年後、ニューカムはフォシェイの非科学的なやり方に不満と幻滅を感じるようになり、彼がペテン師であることに気付いた。彼は契約を破棄してフォシェイのもとから離れることを決意した。彼はメイン州カレスの港まで190キロ歩き、船の船長にお願いして、先に渡米していた父が住んでいるマサチューセッツ州セイラムまで連れて行ってもらった。1854年ごろにセーラムで父と合流し、二人は一緒にメリーランド州に移り住んだ。

ニューカムは、1854年から1856年までの2年間、メリーランド州ケント郡のマッシーズ・クロス・ローズの学校で、その後、メリーランド州クイーンアンズ郡サドラーズビル英語版近郊の学校で1年間教師となった。彼は余暇を利用して、政治経済や宗教などの様々な分野の研究をしたが、特に数学や天文学について深く研究した。当時彼はニュートンの『プリンキピア』を読んでいた。1856年、ワシントンD.C.近郊で家庭教師の職を得て、彼は数学を勉強するためにワシントンD.C.各地の図書館を巡った。彼はスミソニアン協会の図書館から、ナサニエル・バウディッチ英語版が翻訳したラプラスの"Traité de mécanique céleste"(天体力学論)を借りることができたが、そこで使われている数学は、彼の手に負えないものであった[2]

ニューカムは数学物理学を独学し、教職に就いた後、1857年にマサチューセッツ州ケンブリッジ航海年鑑局計算手になった。ほぼ同時期にハーバード大学のローレンス科学スクール(理工学専攻)に入学し、1858年に理学の学士号を取得した[2]

パース家

ニューカムはベンジャミン・パースに数学を学び、あまりお金を持っていないニューカムはしばしばパースの家に招かれていた[3]。しかし、後にベンジャミンの息子であるチャールズ・サンダース・パースに嫌悪感を抱くようになったと言われており、ニューカムはチャールズのキャリアを「見事に台無しにした」と非難されている[4]。特に、ジョンズ・ホプキンス大学学長のダニエル・コイト・ギルマン英語版は、チャールズにテニュア(終身雇用資格)を与えようとしていたが、ニューカムが裏で介入してそれを阻止したとされている[5]。約20年後、ニューカムは、チャールズのライフワークを出版する最後のチャンスを阻止するために、アンドリュー・カーネギー自身、セオドア・ルーズベルトウィリアム・ジェームズなどからのチャールズに対する推薦の手紙があったにも関わらず、カーネギー研究所の評議会にカーネギー助成金のチャールズへの支給を拒否するよう影響を与えたとされている[6]

天文学における業績

南北戦争の前兆として、アメリカ連合国(南軍)を支持した多くの米海軍軍人が退役したことにより、1861年、ニューカムは空席となったアメリカ海軍天文台の数学・天文学の教授に就任した。ニューカムは天文航法に使用するための惑星の位置の観測に取り組み、惑星運動の理論に興味を持つようになった[2]

1870年にニューカムがパリを訪問した時、ペーター・ハンゼンが計算した月計算表(月の位置の表)の誤りに気付いた。彼はパリで、ハンゼンが使用した1750年から1838年までのデータに加えて、1672年まで遡ったデータがあることに気付いた。しかし、彼がパリを訪れたのは、普仏戦争でフランス皇帝ナポレオン3世が敗北し、フランス第二帝政を終わらせることになるクーデターが起こった時期で、パリでゆっくり分析している時間はなかった。ニューカムは、パリ・コミューンの結成とパリ天文台も巻き込まれた暴動の中をなんとか脱出した。ニューカムは新しいデータを使ってハンゼンの表を修正した[2]

彼は1875年にハーバード大学天文台台長のポストを提示されたが、彼の興味が天体観測よりも数学に移っていたことから、それを辞退した[2]

航海年鑑局長

1877年に航海年鑑局長に就任し、ジョージ・ウィリアム・ヒルの支援を受けて、全ての主要な天文定数を再計算する計画に着手した。1884年からはジョンズ・ホプキンス大学の数学と天文学の教授を兼任し、多くの求められる仕事を抱える中で、彼はアーサー・マシュー・ウェルド・ダウニング英語版と共に、この問題に関する多くの国際的な混乱を解決するための計画を考案した。

彼が参加した1896年5月にパリで開催された標準化会議において、全ての天体暦はニューカムの計算結果、すなわち、ニューカムの太陽表英語版に基づくべきであるという国際的なコンセンサスが得られた。1950年後半に開催された会議では、ニューカムの定数が国際標準であることが確認された[2]

私生活

アーリントン国立墓地のニューカムの墓

ニューカムは1863年8月4日にメアリー・キャロライン・ハスラーと結婚した。2人の間には娘が3人と夭折した息子が1人いた[7]。メアリーの父はアメリカ海軍の外科医チャールズ・オーガスタス・ハスラー、彼女の祖父は海岸測量局の初代監督官フェルディナンド・ルドルフ・ハスラー英語版だった[8]。ニューカムは膀胱癌のためワシントンD.C.で死亡した。葬儀にはウィリアム・タフト大統領が出席し、アーリントン国立墓地に軍人としての名誉をもって埋葬された[2]

娘のアニータ・ニューカム・マギー英語版は医学博士であり、アメリカ陸軍看護隊英語版の創設者だった。彼女は米西戦争での功績により、スペイン戦争功労勲章英語版を授与された。日本での功績によって、宝冠章日本赤十字勲章、明治三十七八年従軍記章日露戦争の従軍記章)を授与された。彼女は、父の隣に軍人としての名誉をもって埋葬されている[9]

娘のジョセファ・ニューカム・ホイットニー英語版は美術学校アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで学んだ[10]。彼女は女性参政権運動で活躍した。1912年には、女性の選挙権を支持する最初の集会を組織した[10]。彼女は司法次官補のエドワード・ボウルドイン・ホイットニー英語版と結婚した。エドワードの父は言語学者のウィリアム・ドワイト・ホイットニーであり、祖父にはアメリカ上院議員でコネチカット州知事のロジャー・シャーマン・ボールドウィン英語版や数学者のハスラー・ホイットニーがいる[11]

業績

光速度

1878年、ニューカムは多くの天文定数の正確な値の算出に必要となる、新しく正確な光速度の測定を計画していた。彼がレオン・フーコーの方法を改良した方法の開発を始めていたとき、同様の測定を計画していた若い海軍士官で物理学者のアルバート・マイケルソンから手紙を受け取った。ここから、ニューカムとマイケルソンの長い協力関係と友情が始まった。1880年、マイケルソンはフォート・マイヤー英語版と当時ポトマック川河畔にあったアメリカ海軍天文台に設置した装置でニューカムの最初の測定に協力した。しかし、海軍天文台とワシントン記念塔の間で行われた2回目の測定のときには、マイケルソンは自分の計画を始めるためにニューカムの元を去っていた。マイケルソンは1880年に最初の測定値を発表したが、ニューカムの測定値はこれとかなり違っていた。1883年、マイケルソンは自身の測定値をニューカムの測定値に近い値に修正した[2]

ベンフォードの法則

1881年、ニューカムは、彼は、当時対数計算のために使っていた対数表の本が、最初の方のページが最後の方のページに比べて明らかに摩耗していることに気づいた。彼はこのことから、任意のデータセットから取り出した数字のリストでは、最初の桁が"1"である傾向が高いという法則を導いた。これは、現在ベンフォードの法則として知られている統計学の原理である[12]

チャンドラー・ウォブル

1891年、セス・チャンドラーが14ヶ月周期の地軸の振動(チャンドラー・ウォブル)を発見してから数ヶ月以内に、ニューカムは、観測された運動と予測された振動の周期との間の明らかな矛盾を解明した。チャンドラーの理論では地球が完全な剛体であると仮定していたが、実際の地球にはわずかに弾性がある。ニューカムは、緯度の観測値の変動から地球の弾性を推定し、地球の弾性は鋼鉄よりもわずかに高いことを発見した[13]

その他の分野

ニューカムは、独学者であり、様々な分野に通じた博学者であった。彼は経済学について書いており、彼の1885年の著書"Principles of political economy"(政治経済の原理)は、ジョン・メイナード・ケインズが「オーソドックスなものを読みすぎたことによる変質をしていない新鮮で科学的な心が、経済学のような中途半端なテーマで時折生み出すことができる、独創的な作品の一つである」と評している。アーヴィング・フィッシャーは、貨幣数量説に用いられる貨幣と商品の間の交換方程式について最初に言及したのはニューカムであるとしている[14]

彼はフランス語ドイツ語イタリア語スウェーデン語を話すことができた。一般読者向けの多くの啓蒙書の著者であり、初期のSF小説作家として1900年の『His wisdom the defender』や、日本で黒岩涙香によって訳され萬朝報に連載された破滅SF『暗黒星』 (The End of the World) などを著した[2]

天文学の状況について

1888年にニューカムは「我々は天文学について知ることができる全ての限界に近づいている」と書いた。

1900年には、アメリカン・ブック・カンパニーからElements of Astronomy(天文学の要素)を刊行した。

しかし、1903年までに彼の考えは変わっていた。『サイエンス』の記事で、彼は次のように書いた。「我々の目の前にあるのは広大な分野であり、その存在は10年前にはほとんど疑われていなかった。その探求は、我々の物理学の研究室や多くの天文観測者・研究者の活動を吸収することになるかもしれない。電気科学を現在の状態にまで発展させるために必要とされる何世代にもわたって。」[15]

空飛ぶ機械の不可能性について

ニューカムは、「空飛ぶ機械」を作ることは不可能だと信じていた英語版ことで有名である。彼は"Is the Airship Possible?"(飛行船は可能か?)という記事の冒頭で、「それは、まず第一に、必要な科学的発見を我々がするかどうかにかかっている」と述べている。彼は最後に、「一人の人間であっても、あちこちの場所へ好きなように運ぶことができるような空飛ぶ乗り物の構築には、何か新しい金属か、新しい力の発見が必要である」と述べている[16]

インデペンデント紙の1903年10月22日号において、ニューカムはよく知られた次のような発言をしている。「我々力学者たちは、空中飛行は人間が決して対処できない大きな問題の一つであることを認めざるを得なくなり、それに対処するためのあらゆる試みをあきらめざるを得なくなるのではないだろうか?」[17][18]「一度速度を緩めると、彼は落ち始める。一旦停止すると、彼は死の塊として落下する。」ニューカムには翼型の概念がなかった。彼の「飛行機」は傾斜した「薄い平らな板」だった。そのため、彼はそれが人間の体重を運ぶことはできないと結論づけた。

ニューカムは、特にサミュエル・ラングレーの研究を批判していた。ラングレーは蒸気機関を動力源とする飛行機械を作ることができると主張したが、彼の最初の公開の飛行実験は失敗に終わった[19]

しかし、1903年には、ニューカムは次のように語った「おそらく20世紀には、鳥をはるかに超える速度で大陸から大陸へ飛ぶことを可能にする自然の力を目にすることになるだろう。しかし、現在の我々の知識の状態で、我々が持っているような材料、鉄、布、針金の組み合わせで、電気や蒸気の力で動かして、飛行機械を作ることができるかどうかを問うとき、見通しは全く異なるかもしれない」[20]

ニューカムは、あまり人に知られないうちに行われていたライト兄弟の成果を明らかに知らず(1906年にパリでアルベルト・サントス=デュモンが飛行実験を行ったとき、「人類初の飛行」と報じられていた)、内燃機関のより優れたパワーウェイトレシオを明らかに知らなかった。1908年にライト兄弟の飛行を聞いたニューカムは、すぐにそれを受け入れた[21]。ニューカムは、回転翼(ヘリコプター)や空中に浮かぶ飛行船(軟式飛行船)の開発に好意を示した。

それから数十年のうちに、飛行船がヨーロッパとアメリカの間で定期的に乗客を輸送し、飛行船「グラーフ・ツェッペリン」は地球を一周した[22]

心霊現象研究

ニューカムは、アメリカ心霊現象研究協会英語版の初代会長だった[23]超感覚的知覚(ESP)や超常現象に懐疑的であったが、彼はこのテーマは研究する価値があると信じていた。1889年までには、彼の研究は否定的なものとなり、彼の懐疑心は高まった。伝記作家アルバート・E・モイヤーは、ニューカムが「方法論的な理由から、心理学的研究は科学的に行き詰まるものだと確信し、他の人を納得させようとしていた」と述べている[24]

賞・栄誉・役職

ニューカムに因むもの

  • 小惑星(855)ニューカミア(Newcombia)は彼の名に因む。
  • のクレーターニューカム英語版や、火星のクレーターニューカム英語版は彼の名に因む[27]
  • アメリカ海軍天文台の報時部門のビルは、サイモン・ニューカム研究所と名付けられている。
  • 米海軍の掃海艇「サイモン・ニューカム」(YMS 263)は1942年に進水し、第二次世界大戦中に太平洋戦線で活動し、1949年に退役した。

著書

  • Newcomb, S (1878) Research on the Motion of the Moon, Part I
  • Newcomb, S (1878) Popular Astronomy
  • Newcomb, S (1879) Astronomy for schools and colleges
  • Newcomb, S (1881). “Note on the frequency of use of the different digits in natural numbers”. American Journal of Mathematics 4 (1): 39–40. Bibcode1881AmJM....4...39N. doi:10.2307/2369148. JSTOR 2369148. 
  • Newcomb, S (1885) Principles of Political Economy (Internet Archive)
  • Newcomb, S (1887) The ABC Of Finance
  • Newcomb, S (1890) Elements of Astronomy
  • Newcomb, S (1900) His Wisdom the Defender—Science Fiction novel.
  • Newcomb, S (1901) The Stars
  • Newcomb, S (1902) Astronomy for Everybody
  • Newcomb, S (1903) The Reminiscences of an Astronomer—His autobiography. (Reissued by Cambridge University Press, 2010. ISBN 978-1-108-01391-8)
  • Newcomb, S (1903) The Outlook for the Flying Machine", The Independent, 22 October 1903, pp 2508–12
  • Newcomb, S (1906) Compendium of Spherical Astronomy
  • Newcomb, S (1907) Investigation of Inequalities in the Motion of the Moon Produced by the Action of the Planets
  • Newcomb, S (1912) Research on the Motion of the Moon, Part II

脚注

  1. ^ John Maynard Keynes (1930). A Treatise on Money. Vol. 1, p. 233
  2. ^ a b c d e f g h i Newcomb biography. dcs.st-and.ac.uk
  3. ^ Brent (1993) p. 288
  4. ^ Brent (1993) p. 128
  5. ^ Brent (1993) pp. 150–153
  6. ^ Brent (1993) pp. 287–289
  7. ^ Carter & Carter (2006) p. 191
  8. ^ Campbell, W. W. (1924). Simon Newcomb. Memoirs of the National Academy of Sciences. p. 18
  9. ^ National Museum of Health and Medicine (NMHM): American Angels of Mercy: Dr. Anita Newcomb McGee's Pictorial Record of the Russo–Japanese War, 1904: Dr. Anita Newcomb McGee, 1864–1940”. www.medicalmuseum.mil. 2016年9月30日閲覧。
  10. ^ a b Josepha Newcomb Whitney”. cornwallhistoricalsociety.org. 2016年9月30日閲覧。
  11. ^ Chern, Shiing-Shen (September 1994). “Hassler Whitney (23 March 1907-10 May 1989)”. Proceedings of the American Philosophical Society 138 (3): 464–467. JSTOR 986754. 
  12. ^ Newcomb (1881)
  13. ^ Newcomb (1902) p. 116
  14. ^ Fisher (1909).
  15. ^ Newcomb, S. (January 23, 1903), “The Universe as an Organism”, Science, (N.S.) 17 (421): 121–129, Bibcode1903Sci....17..121N, doi:10.1126/science.17.421.121, JSTOR 1631452, https://zenodo.org/record/1447868 . The quote is in the final paragraph, on p. 129.
  16. ^ Newcomb, Simon (September 1901). “Is the Airship Coming?”. McClure's Magazine (S. S. McClure, Limited) 17 (5): 432–435. http://invention.psychology.msstate.edu/library/Magazines/Airship_Coming.html. 
  17. ^ Galluzzo, John (19 July 2018). When Hull Freezes Over: Historic Winter Tales from the Massachusetts Shore. History Press. ISBN 9781596290990. https://books.google.com/books?id=PPPQzhTA9RsC&pg=PA74 2018年7月19日閲覧。 
  18. ^ “The Outlook for the Flying Machine”. The Independent 55 (2864): 2509. (October 22, 1903). https://books.google.com/books?id=gJvVH4AjAyIC&pg=PA2509#v=onepage&q&f=false 2015年4月26日閲覧。. 
  19. ^ Albert E. Moyer (1992). A scientist's voice in American culture: Simon Newcomb and the rhetoric of scientific method. University of California Press. p. 187. https://archive.org/details/isbn_0520076893_0 
  20. ^ “What Did Newcomb Say?”. The Independent (New York: Independent Corporation) 103 (3738): 374. (September 25, 1920). https://books.google.com/books?id=TvXlAAAAMAAJ&pg=PA374. 
  21. ^ Anita Newcomb McGee (1919年4月20日). “Simon Newcomb on Flying. He did not take the gasoline engine into account in his writings”. New York Times. https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F50A11F8395C1B728DDDA90A94DC405B898DF1D3 2011年1月25日閲覧。 
  22. ^ Time magazine: Los Angeles to Lakehurst, 1929-09-09
  23. ^ Campbell, W. W. (1924). Simon Newcomb. Memoirs of the National Academy of Sciences. p. 14
  24. ^ Moyer, Albert E. (1998). Simon Newcomb: Astronomer with an Attitude. Scientific American 279 (4): 88-93.
  25. ^ a b "Newcomb; Simon (1835 - 1909)". Record (英語). The Royal Society. 2012年3月20日閲覧
  26. ^ Simon Newcomb (1835–1909)”. Royal Netherlands Academy of Arts and Sciences. 2015年7月26日閲覧。
  27. ^ Tenn, Joe S. (November 11, 2015), “Simon Newcomb”, The Bruce Medalists, http://www.phys-astro.sonoma.edu/brucemedalists/newcomb/ 2017年11月18日閲覧。. 

関連文献

外部リンク