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{{表記揺れ案内|表記1=お化け暦|表記2=おばけ暦|表記3=オバケごよみ|議論ページ=}}
'''お化け暦'''(おばけごよみ)とは、[[明治]]から[[昭和]]にかけて、民間で違法に発行された[[暦]]のことである。
'''お化け暦'''(おばけごよみ)とは、[[明治]]から[[昭和]]にかけて、民間で違法に発行された暦書([[カレンダー]])である{{Sfn|岡田・阿久根|1993|pp=353-354}}{{Sfn|澤宮|2016|p=106}}{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}。[[1872年]](明治5年)の改暦詔書に基づき[[官暦]]である[[神宮暦|本暦]]・略本暦から日の吉凶などを示す[[暦注]]が[[迷信]]として排除され{{Sfn|渡邊|1994|pp=224-225}}{{Sfn|岡田ほか|2006|pp=69-71}}、[[1910年]](明治43年)以降は[[天保暦|旧暦]]の併記も取りやめとなったため、これらを求める庶民に歓迎された{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}。単に「おばけ」{{Sfn|暦の会|1999|p=214}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|pp=331-332}}「オバケ」と略して呼ばれることもある{{Sfn|岡田|2009|p=197}}。


厳しい取り締まりと[[戦時体制]]下の紙不足によって[[1941年]](昭和16年)以降は激減した{{Sfn|暦の会|1999|pp=134-135}}。[[太平洋戦争]]終戦後には暦書類の発行が自由化されたことで{{Sfn|中牧|2017|p=17}}{{Sfn|暦の会|1999|p=116}}{{Sfn|渡邊|1994|p=219}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|pp=354-355}}、「お化け暦」という呼称は消滅した{{Sfn|澤宮|2016|p=106}}{{Sfn|暦の会|1999|p=136}}。今日、各地で販売されている[[運勢暦]]や[[開運暦]]と呼ばれるものは、お化け暦の後裔であるとされる{{Sfn|岡田・阿久根|1993|pp=353-354}}{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}。
[[1873年]](明治6年)の[[太陽暦]]採用以後、政府が発行する[[官暦]]である[[本暦]]では一切の[[迷信]]的な[[暦注]]を掲載しなくなり、明治末年には[[旧暦]]の記載も中止された。しかし、旧暦に沿った生活習慣を続けようとする一般庶民は太陽暦の導入に戸惑い、旧暦に対する要求が高かった<ref name="sawamiya">澤宮『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』、106-107頁</ref>。旧暦が併記され、吉凶判断などが記載された暦(偽暦)が大衆の需要に応えて販売されたが、旧暦の暦の販売は法に抵触していた<ref name="sawamiya"/>。発行者の記載欄は空欄にされるか、架空の住所や偽名が記載され、出版元が不明確であるこれらの暦は「お化け暦」と呼ばれるようになった<ref name="sawamiya"/>。発行人の欄には「京都市左京区鍵屋町藤の井徳兵衛」「大阪市西区新町福永嘉兵衛」といった縁起のよさそうな架空の名前が記されていた<ref name="gendai">岡田、阿久根『現代こよみ読み解き事典』、353-355頁</ref>。


== 特徴 ==
お化け暦には[[伊勢神宮]]が発行する略本暦とほぼ同一の様式が採用され、中には真正の本暦に貼付される頒暦証紙に似せたものが貼られているものもあった<ref name="gendai"/>。お化け暦には従来の暦にあった暦注のほか、[[六曜]]、[[三隣亡]]、[[九星]]などの、それまで暦に掲載されたことのない暦注が記載されるようになった<ref name="gendai"/><ref>[http://www.543life.com/campus36.html こよみの学校 第36回『おばけ暦-庶民のささやかな異議申し立て』](2017年1月閲覧)</ref>。すべてのお化け暦の旧暦([[天保暦]])の計算が正しいわけではなく、お化け暦同士で暦の食い違いが起こることもあり、特に九星、三隣亡に誤りが出ることが多かった<ref name="gendai"/>。新旧の暦注以外には太陽暦の記事、国定の祝祭日、寺社仏閣の祭礼縁日と年中行事が掲載されていた。
お化け暦には、『民用日記』や『九星方位明治日用便』、『農家便覧』などといった名称が付けられて流通した{{Sfn|岡田|2009|p=197}}。政府による摘発を逃れるために、発行所は毎年転々とし、発行人は偽名であり、正体がつかめないことから「お化け暦」と呼ばれた{{Sfn|暦の会|1999|p=214}}{{Sfn|岡田|2009|p=197}}{{Sfn|中牧|2017|p=17}}{{Sfn|渡邊|1994|pp=147-148}}。発行人名には、「藤の井徳兵衛」や「福永嘉兵衛」といった縁起のよさそうな名前が使われた{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=354}}。体裁は、[[伊勢神宮|神宮司庁]]の発行していた[[神宮暦|略本暦]]とほぼ同じで、中には、[[頒暦商社]]や神宮司庁の発行した本暦・略本暦に貼付された頒暦証紙を模したものが貼られているものまであった{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=354}}{{Sfn|岡田|2009|p=198}}。


内容は、[[グレゴリオ暦|新暦]]とともに[[天保暦|旧暦]]の日付を載せ、方位の吉凶をはじめとした[[暦注]]が記載されていたほか{{Sfn|中牧|2014}}、[[祝祭日]]や寺社の祭礼縁日、[[年中行事]]なども紹介されていた{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=354}}。また、お化け暦には暦注として[[六曜]]・[[九星]]・[[三隣亡]]などが記載されているが{{Sfn|中牧|2017|p=17}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=71}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=332}}{{Sfn|澤宮|2016|p=107}}、これらの[[選日]]は[[幕末]]から[[明治]]にかけて流行したとされており{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=354}}、それまでの暦書には掲載されたことがなかったものであった{{Sfn|暦の会|1999|p=116}}{{Sfn|渡邊|1994|p=219}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=71}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=332}}。
昭和期に入っても旧暦に基づいた行事を催す地域は多いためにお化け暦は多く出回り、歳末の[[露天商|露天]]の売り物にもなっていた<ref name="sawamiya"/>。[[太平洋戦争]]期には政府の取り締まりが強化され、用紙が不足していたためにお化け暦は大きく数を減らした<ref name="gendai"/>。[[1945年]](昭和20年)以降、暦類は一般の出版物と同じように自由に出版が行えるようになり、「お化け暦」という呼び名は使われなくなった<ref name="sawamiya"/>。各地で販売されている[[運勢暦]]、[[開運暦]]はお化け暦の子孫ともいえる<ref name="gendai"/>。

ただし、お化け暦は[[暦学]]の専門家が監修していたわけではないため必ずしも正確とはいえず、時にはお化け暦同士でも食い違いが生じることもあった{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=354}}。特に、流派によって違いのある九星や{{Sfn|中牧|2014}}日取りに曖昧な点のある三隣亡は、間違いや食い違いが多かった{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=354}}。
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| footer = 『明治17年農家便覧』(お化け暦の一つ)
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}}

== 歴史 ==
=== 背景 ===
{{Main2|詳細は「[[グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入|明治改暦]]」および「[[神宮暦]]」を}}
[[江戸時代]]、実質的な編暦の権限は[[朝廷]]の[[陰陽寮|陰陽頭]]である[[土御門家]]から[[江戸幕府|幕府]]の[[天文方]]に移り{{Sfn|中牧|2017|p=16}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=65}}、天文方が作成した暦案に陰陽頭配下の[[暦博士]]である[[幸徳井家]]が[[暦注]]を付け、それを大経師が印刷して各地の暦師が頒布した{{Sfn|岡田ほか|2006|p=65}}。[[明治維新]]を迎え江戸幕府が倒れると天文方も廃止となり{{Sfn|中牧|2017|p=16}}、[[明治]]2年([[1869年]]/[[1870年]])暦の編暦の権限は再び土御門家に与えられた{{Sfn|中牧|2017|p=16}}{{Sfn|渡邊|1994|p=143}}。暦書の発行・頒布は、それまでの暦師たちのうち土御門家の許可を受けた「弘暦者」のみに認められることになった{{Sfn|渡邊|1994|p=143}}{{Sfn|内田|2012|pp=154-155}}{{Sfn|林|2008|pp=268-267}}。翌明治3年(1870年/[[1871年]])に編暦は[[大学校 (1869年)|大学]]内の天文暦道局(のち星学局をへて[[文部省]]天文局)が行うこととなり{{Sfn|中牧|2017|p=16}}{{Sfn|林|2008|p=269}}、役所の改廃にともない[[内務省 (日本)|内務省]]地理局測量課第四部(のち地理局観測課)などに移ったあと、最終的に明治23年([[1890年]])暦以降は[[国立天文台|東京大学天文台]]が行うこととなった{{Sfn|渡邊|1994|pp=145-147}}。この過程で、土御門家の当主[[土御門晴雄|晴雄]]が明治2年(1869年)に急逝したこともあって{{Sfn|林|2008|p=268}}、明治3年(1871年)に京都星学局出張所が廃止され[[土御門晴榮|土御門和丸]]が大学出仕星学掛を解任されたことで土御門家は暦に関する権限をすべて失った{{Sfn|林|2008|pp=268-267}}{{Sfn|内田|2012|p=156}}。なお、弘暦者たちは、文部省主導の下{{Sfn|中牧|2017|p=17}}{{Sfn|暦の会|1999|p=116}}{{Sfn|岡田|2009|p=84}}、明治5年([[1872年]])に東京と大阪で[[頒暦商社]]を設立し、[[冥加|冥加金]]を納めることで[[官暦]]の頒布を独占する権限を得た{{Sfn|暦の会|1999|p=116}}{{Sfn|渡邊|1994|p=143}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=68}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=334}}。
[[ファイル:Proclamation of the Dajō-kan (No.337,1872).jpg|350px|right|thumb|改暦詔書を伝える[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]]]
明治5年(1872年)11月9日、改暦の詔書が出され、同年12月2日をもって[[天保暦]]を廃して、翌日を明治6年([[1873年]])1月1日とする[[グレゴリオ暦]]を採用することになった{{Sfn|松村|2001}}。しかし、すでに明治6年(1873年)暦は頒布された後であり{{Sfn|渡邊|1994|p=143}}{{Sfn|岡田|2009|pp=85-86}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=69}}、新暦普及のため同年の暦書については略暦に限って頒暦商社以外にも発行・頒布を認めることとした{{Sfn|渡邊|1994|p=144}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=70}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=336}}。一方、頒暦商社にとっては旧暦で発行していた明治6年(1873年)暦の返品・在庫がかさみ{{Sfn|岡田|2009|p=94}}、新暦の暦書は頒暦商社以外も発行したため、約4万円の損失を抱えることになった{{Sfn|渡邊|1994|p=144}}{{Sfn|岡田|2009|p=94}}。このため、頒暦商社には明治9年([[1876年]])暦まで3年間の官暦の[[専売制|専売権]]が認められるとともに、冥加金が免除された{{Sfn|渡邊|1994|p=144}}{{Sfn|岡田|2009|p=189}}。それでも明治6年(1873年)暦の損失を埋め合わせるには足らず、明治14年([[1881年]])暦まで5年間延長された{{Sfn|岡田|2009|p=189}}{{Sfn|渡邊|1994|p=145}}。この間、官暦の頒布を一私商社に委ねることに対する不満が各所から寄せられ、明治13年([[1880年]])には[[伊勢神宮|伊勢神宮司庁]]から頒暦権を受任したい旨の伺書が内務省に提出されたが、この時は却下されている{{Sfn|渡邊|1994|pp=145-146}}{{Sfn|岡田|2009|pp=189-190}}。しかし、頒暦商社の専売権の期限が迫っても誰に頒暦の権限を与えるかは決まらず、頒暦商社の専売権はさらに1年延長された{{Sfn|渡邊|1994|p=145}}。結局、明治16年([[1883年]])暦以降は、再度頒暦を願い出た伊勢神宮司庁が発行することになり、最終的に[[1890年]](明治23年)暦からは、編暦は東京大学天文台(のち東京天文台)、頒暦は神宮司庁(のち神宮神部署)が担う体制となった{{Sfn|渡邊|1994|pp=146-147}}。そして、これ以外の暦の発行は、一枚刷りの略暦を除いて厳禁された{{Sfn|松村|2001}}{{Sfn|渡邊|1994|p=147}}{{Sfn|暦の会|1999|p=216}}。なお、明治10年([[1877年]])暦以降、発行部数の把握と偽暦の防止を目的として、官暦には頒暦証紙が貼付されていた{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}{{Sfn|岡田|2009|p=194}}。

明治5年(1872年)11月9日の改暦詔書に「殊ニ中下段ニ掲クル所ノ如キハ率ネ妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨クルモノ少ナシトセス」、同年11月24日の[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]にも「但略歴ハ御頒行太陽暦ヲ標準ト可致旧暦中歳徳金神ノ善悪ヲ始メ中下段中掲載候不稽ノ説等増補致候儀一切不相成候」とある通り{{Sfn|渡邊|1994|pp=224-225}}、明治6年([[1873年]])の新暦以降{{Sfn|暦の会|1999|p=116}}、官暦からは日の吉凶などの[[暦注]]は[[迷信]]であるとしてすべて掲載されなくなり{{Sfn|中牧|2017|p=17}}{{Sfn|松村|2001}}{{Sfn|渡邊|1994|p=225}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=331}}、[[七曜]]や[[干支]]のほかは平均気温・湿度といった気象情報や天体の動きなどの科学的な内容のみが記載された{{Sfn|松村|2001}}{{Sfn|岡田|2009|pp=209-210}}。また、当初は旧暦が併記されたものの、官暦に記載するから新暦が普及しないという批判を受けて、明治43年([[1910年]])暦以降は記載されなくなった{{Sfn|内田|2012|pp=166-167}}。

=== 出現から終焉まで ===
[[ファイル:Japanese government gazette (No.445,pp2-3).jpg|350px|right|thumb|略本暦類似物として「お化け暦」の出版発売を差し止める[[東京府]]公示を伝える[[官報]]]]
[[官暦]]は科学的ではあったものの、庶民は[[天文学]]的な知識より[[選日|日の吉凶]]を求めた{{Sfn|暦の会|1999|p=116}}{{Sfn|中牧|2014}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=71}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=331}}。こうした需要に応えて、[[天保暦|旧暦]]や[[暦注]]などを記載した「お化け暦」が密かに刊行されるようになった{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}{{Sfn|中牧|2014}}{{Sfn|松村|2001}}{{efn2|一説では、政府が[[運勢暦]]について[[高島暦]]の[[専売制|専売]]としたことに反発した大阪の[[八卦|八卦師]]である宮崎八十八が発行を始めたともされる{{Sfn|暦の会|1999|p=214}}。}}。お化け暦は度々禁止されたものの{{Sfn|渡邊|1994|p=147}}急速に普及し{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}、取り締まりの目を逃れて大量に流通した{{Sfn|渡邊|1994|p=219}}{{Sfn|松村|2001}}。また、一枚刷りの略暦は取り締まりの対象ではなかったため{{Sfn|渡邊|1994|p=147}}{{Sfn|暦の会|1999|p=216}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=148}}、商店の名前を入れたチラシとして新旧の略暦を記載した「引札」も普及するようになった{{Sfn|松村|2001}}{{Sfn|暦の会|1999|p=216}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=148}}。さらに、明治末には「日めくり」が登場し{{Sfn|暦の会|1999|p=116}}{{Sfn|岡田|2009|p=207}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=150}}、これも取り締まりの対象外とされたため、旧暦が記載された{{Sfn|暦の会|1999|p=216}}{{Sfn|岡田ほか|2006|p=150}}{{Sfn|岡田|2009|pp=207-208}}{{efn2|ただし、「引札」「日めくり」に記載された[[天保暦|旧暦]]は、政府の目を憚って「太陰暦」「清国暦」などと称していた{{Sfn|暦の会|1999|p=130}}。}}。これらによって、官暦である[[神宮暦]]は年々頒行数を減少させていった{{Sfn|渡邊|1994|p=147}}。

お化け暦の全盛期は[[明治]]から[[大正]]にかけてであった{{Sfn|渡邊|1994|p=148}}。お化け暦は政府の取り締まりが厳しく、所持していただけでも連行されてどうやって入手したのか追及され始末書を書かされたと言われており{{Sfn|岡田|2009|p=198}}{{Sfn|暦の会|1999|p=216}}、摘発される恐れのない日めくりが普及すると、お化け暦は次第に下火になっていった{{Sfn|暦の会|1999|p=215}}。[[1941年]]([[昭和]]16年)には俗暦類の取り締まりが徹底され{{Sfn|渡邊|1994|p=148}}、また[[戦時体制]]下における紙の不足もあって、お化け暦はほぼ壊滅した{{Sfn|暦の会|1999|pp=134-135}}。そのため、この年は神宮暦の頒行数が急増した{{Sfn|渡邊|1994|p=148}}。[[1942年]](昭和17年)には、略暦・日めくりも含めて暦注の記載は全面的に禁止されている{{Sfn|渡邊|1994|p=219}}。

[[太平洋戦争]]終戦後の[[1945年]](昭和20年)12月15日、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による[[神道指令]]によって神社に対する国家の援助が禁止されると、[[国立天文台|東京天文台]]が編纂した官暦を[[伊勢神宮]]が頒行するという形も取りやめとなった{{Sfn|渡邊|1994|p=148}}。暦書類は自由に発行できるようになり{{Sfn|澤宮|2016|p=106}}{{Sfn|中牧|2017|p=17}}{{Sfn|暦の会|1999|p=116}}{{Sfn|渡邊|1994|p=219}}、神宮暦も唯一の官暦から民間暦の一つに過ぎなくなった{{Sfn|暦の会|1999|p=136}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=355}}。これにより、「お化け暦」という呼称は消滅した{{Sfn|澤宮|2016|p=106}}{{Sfn|暦の会|1999|p=136}}。

== 評価と影響 ==
=== 社会の受容 ===
[[改暦]]によって[[天保暦]]が廃され[[グレゴリオ暦]]が採用されたが、その後も[[年中行事]]をはじめとして日常生活では旧暦を使用する地域が多かった{{Sfn|澤宮|2016|p=106}}。[[昭和]]期に入っても旧暦に基づいた行事を催す地域は多かったし{{Sfn|澤宮|2016|p=106}}、[[太平洋戦争]]終戦直後に行われた[[迷信]]に関する調査でも[[お盆|盆]]や[[七夕]]を旧暦で行う地域は少なくなかった{{Sfn|中牧|2017|p=19}}。旧暦の併記廃止は、旧暦に基づく年中行事や旧暦中に亡くなった故人の[[命日]]の把握などに不便を生じ{{Sfn|暦の会|1999|p=215}}{{Sfn|岡田|2009|p=192}}、特に、[[農事暦]]として旧暦を利用していた農村では、旧暦はなくてはならないものだった{{Sfn|暦の会|1999|p=215}}。また、[[暦注]]は、迷信と言われようとも庶民の暮らしや[[伝統文化]]に根付いていた{{Sfn|中牧|2014}}。お化け暦は、こうした層に歓迎され、大量に流通した{{Sfn|澤宮|2016|p=106}}{{Sfn|暦の会|1999|p=215}}。特に、[[官暦]]に旧暦の併記がされなくなってからは、お化け暦は庶民の生活の唯一のよりどころとなった{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}。

政府による取り締まりは厳しかったが、それ以上に需要があり、必要とする庶民は、お化け暦の出版者を匿ったり、手を尽くしてお化け暦を入手しようと努めた{{Sfn|暦の会|1999|p=215}}。歳末には[[露天商|露天]]で大量のお化け暦が販売されていた{{Sfn|澤宮|2016|p=106}}。お化け暦の出版者の中には、摘発されて[[罰金]]を科せられ、それを払うためにお化け暦を発行してまた摘発されるということを繰り返し、[[前科]]43犯を数える者もいたほどであったという{{Sfn|暦の会|1999|p=215}}。

旧暦の使用や迷信の排除を進める政府に隠れてお化け暦が庶民の間で流布したことについて、[[脚本家]]の[[山本むつみ]]は「変化を急ぐお上に向けた、庶民からのささやかな『異議申し立て』だったのかもしれません」と記し、[[文化人類学|文化人類学者]]の[[中牧弘允]]は「科学や迷信の名のもとに切り捨てられない、庶民のしたたかな抵抗」と見ることもできると指摘している{{Sfn|中牧|2014}}。

=== 後世への影響 ===
[[ファイル:2014年のカレンダー (11751395856).jpg|300px|right|thumb|[[天保暦|旧暦]]や[[九星]]・[[六曜]]・[[三隣亡|三りんぼう]]などが記載された[[2014年]]([[平成]]26年)の[[カレンダー]]]]
暦書の発行が自由化されると、[[天保暦|旧暦]]の日付をはじめ、お化け暦に記載されていた[[九星]]・[[六曜]]・[[三隣亡]]・[[不成就日]]・[[一粒万倍日]]といった[[暦注]]が記載された[[カレンダー]]が再び発行されるようになった{{Sfn|渡邊|1994|p=219}}。旧暦の使用は、農漁村においても1955年(昭和30年)以降は次第に廃れていった{{Sfn|中牧|2017|p=14}}。しかし、年中行事の実施や、漁労のための潮の干満などを知るため、現在でも一定の旧暦の需要がある{{Sfn|中牧|2017|p=14}}。特に六曜は、[[結婚|ブライダル]]業界や[[葬祭業]]などに影響は大きい{{Sfn|中牧|2017|p=15}}。[[官暦]]の地位を失った[[神宮暦]]においても、戦後は旧暦の日付を併記し、附録として六曜を記載するようになっている{{Sfn|渡邊|1994|p=219}}。今日でも、年末になるとさまざまな暦注を載せた翌年の暦が店頭に並び盛況を博しているが{{Sfn|渡邊|1994|p=148}}、これら[[運勢暦]]や[[開運暦]]と呼ばれるものは、お化け暦の後裔であるとされる{{Sfn|岡田・阿久根|1993|pp=353-354}}{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}。

なお、[[国立天文台|東京天文台]]は[[1946年]]([[昭和]]21年)暦から純粋に科学的な暦として『暦象年表』を発行しており、これは『[[理科年表]]』の暦部に収録されているほか、毎年2月1日付『[[官報]]』に翌年の暦要綱が掲載されている{{Sfn|暦の会|1999|p=136}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=355}}。これらには[[二十四節気]]や[[雑節]]、月の朔望が記載されているため、旧暦の日付を求めることができ、現在民間で発行されている[[カレンダー]]の旧暦はこれらを基にしている{{Sfn|暦の会|1999|p=136}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=355}}{{efn2|ただし、[[天保暦]]が[[京都]]における[[太陽時|真太陽時]]を基準としているのに対して、今日の[[カレンダー]]に記されている[[旧暦]]は[[日本標準時|中央標準時]]を用いているなど、厳密には天保暦とは言えない{{Sfn|暦の会|1999|p=136}}{{Sfn|岡田・阿久根|1993|p=355}}}}。

また、お化け暦に貼付された偽の頒暦証紙は、その多様性から、コレクターによる[[コレクション|蒐集]]の対象となっている{{Sfn|暦の会|1999|p=134}}{{Sfn|岡田|2009|p=195}}。

=== フィクション ===
[[脚本家]]の[[山本むつみ]]は、『明治おばけ暦』で、急な[[グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入|改暦]]にあわてふためく庶民の様子を描いた{{Sfn|中牧|2014}}。『明治おばけ暦』は、[[2007年]]([[平成]]19年)に[[NHK-FM放送|NHK-FM]]の[[FMシアター]]で[[ラジオドラマ]]として放送され<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/audio/old/prog_fm_former2007.html |title=FMシアター(FM) 放送済みの作品(2007年) |accessdate=2020-09-01 |website=NHKオーディオドラマ |publisher=[[日本放送協会]]}}</ref>、[[2011年]](平成23年)から[[2012年]](平成24年)にかけて[[劇団前進座]]の創立80周年記念公演として上演されている{{Sfn|中牧|2014}}。ラジオドラマは、第34回[[放送文化基金|放送文化基金賞]]優秀賞を受賞した<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/audio/old/prog_fm_former2008.html |title=FMシアター(FM) 放送済みの作品(2008年) |accessdate=2020-09-01 |website=NHKオーディオドラマ |publisher=[[日本放送協会]]}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|内田|2012}}
* 岡田芳朗阿久根末忠編著『現代こよみ読み解き事典』[[柏書房]], 1993年3月)
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|岡田|2009}}
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|岡田ほか|2006}}
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|暦の会|1999}}
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|reference=[[澤宮優]] 『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』 [[原書房]]、[[2016年]]。ISBN 978-4-562-05298-1}}
* {{Cite web |ref={{Sfnref|中牧|2014}}
|url=http://www.543life.com/campus36.html |title=こよみの学校 第36回『おばけ暦-庶民のささやかな異議申し立て』 |accessdate=2017-01 |author=[[中牧弘允]] |date=2014-07-24 |website=暦生活 |publisher=[[新日本カレンダー]]}}
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|中牧|2017}}
|reference=中牧弘允編 『世界の暦文化事典』 [[丸善出版]]、[[2017年]]。ISBN 978-4-621-30192-0}}
* {{Cite journal |和書|ref={{Sfnref|林|2008}}
|author=[[林淳]] |title=幕末・維新期における土御門家 |year=2008 |publisher=[[愛知学院大学]]文学会 |journal=愛知学院大学文学部紀要 |issue=38 |pages=272-263 |issn=02858940 |naid=40016544113 |url=http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_01F/01__38F/01__38_272.pdf |format=PDF |accessdate=2020-09-01}}
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|url=http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/176/index.html |title=No.176 暦と暮らし |accessdate=2020-09-01 |author=[[松村利規]] |year=2001 |publisher=[[福岡市博物館]]}}
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|渡邊|1994}}
|reference=[[渡邊敏夫]] 『暦(こよみ)入門-暦のすべて-』 [[雄山閣出版]]、[[1994年]]。ISBN 4-639-01219-5}}

== 関連項目 ==
* [[日本の暦]]
* [[グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入|明治改暦]]
* [[神宮暦]]
* [[筑前竹槍一揆]] - 要求の一つに旧暦復活が含まれていたとされる


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2020年10月29日 (木) 14:30時点における版

お化け暦(おばけごよみ)とは、明治から昭和にかけて、民間で違法に発行された暦書(カレンダー)である[1][2][3]1872年(明治5年)の改暦詔書に基づき官暦である本暦・略本暦から日の吉凶などを示す暦注迷信として排除され[4][5]1910年(明治43年)以降は旧暦の併記も取りやめとなったため、これらを求める庶民に歓迎された[3]。単に「おばけ」[6][7]「オバケ」と略して呼ばれることもある[8]

厳しい取り締まりと戦時体制下の紙不足によって1941年(昭和16年)以降は激減した[9]太平洋戦争終戦後には暦書類の発行が自由化されたことで[10][11][12][13]、「お化け暦」という呼称は消滅した[2][14]。今日、各地で販売されている運勢暦開運暦と呼ばれるものは、お化け暦の後裔であるとされる[1][3]

特徴

お化け暦には、『民用日記』や『九星方位明治日用便』、『農家便覧』などといった名称が付けられて流通した[8]。政府による摘発を逃れるために、発行所は毎年転々とし、発行人は偽名であり、正体がつかめないことから「お化け暦」と呼ばれた[6][8][10][15]。発行人名には、「藤の井徳兵衛」や「福永嘉兵衛」といった縁起のよさそうな名前が使われた[16]。体裁は、神宮司庁の発行していた略本暦とほぼ同じで、中には、頒暦商社や神宮司庁の発行した本暦・略本暦に貼付された頒暦証紙を模したものが貼られているものまであった[3][16][17]

内容は、新暦とともに旧暦の日付を載せ、方位の吉凶をはじめとした暦注が記載されていたほか[18]祝祭日や寺社の祭礼縁日、年中行事なども紹介されていた[3][16]。また、お化け暦には暦注として六曜九星三隣亡などが記載されているが[10][19][20][21]、これらの選日幕末から明治にかけて流行したとされており[3][16]、それまでの暦書には掲載されたことがなかったものであった[11][12][19][20]

ただし、お化け暦は暦学の専門家が監修していたわけではないため必ずしも正確とはいえず、時にはお化け暦同士でも食い違いが生じることもあった[3][16]。特に、流派によって違いのある九星や[18]日取りに曖昧な点のある三隣亡は、間違いや食い違いが多かった[3][16]

『明治17年農家便覧』(お化け暦の一つ)

歴史

背景

江戸時代、実質的な編暦の権限は朝廷陰陽頭である土御門家から幕府天文方に移り[22][23]、天文方が作成した暦案に陰陽頭配下の暦博士である幸徳井家暦注を付け、それを大経師が印刷して各地の暦師が頒布した[23]明治維新を迎え江戸幕府が倒れると天文方も廃止となり[22]明治2年(1869年/1870年)暦の編暦の権限は再び土御門家に与えられた[22][24]。暦書の発行・頒布は、それまでの暦師たちのうち土御門家の許可を受けた「弘暦者」のみに認められることになった[24][25][26]。翌明治3年(1870年/1871年)に編暦は大学内の天文暦道局(のち星学局をへて文部省天文局)が行うこととなり[22][27]、役所の改廃にともない内務省地理局測量課第四部(のち地理局観測課)などに移ったあと、最終的に明治23年(1890年)暦以降は東京大学天文台が行うこととなった[28]。この過程で、土御門家の当主晴雄が明治2年(1869年)に急逝したこともあって[29]、明治3年(1871年)に京都星学局出張所が廃止され土御門和丸が大学出仕星学掛を解任されたことで土御門家は暦に関する権限をすべて失った[26][30]。なお、弘暦者たちは、文部省主導の下[10][11][31]、明治5年(1872年)に東京と大阪で頒暦商社を設立し、冥加金を納めることで官暦の頒布を独占する権限を得た[11][24][32][33]

改暦詔書を伝える太政官布告

明治5年(1872年)11月9日、改暦の詔書が出され、同年12月2日をもって天保暦を廃して、翌日を明治6年(1873年)1月1日とするグレゴリオ暦を採用することになった[34]。しかし、すでに明治6年(1873年)暦は頒布された後であり[24][35][36]、新暦普及のため同年の暦書については略暦に限って頒暦商社以外にも発行・頒布を認めることとした[37][38][39]。一方、頒暦商社にとっては旧暦で発行していた明治6年(1873年)暦の返品・在庫がかさみ[40]、新暦の暦書は頒暦商社以外も発行したため、約4万円の損失を抱えることになった[37][40]。このため、頒暦商社には明治9年(1876年)暦まで3年間の官暦の専売権が認められるとともに、冥加金が免除された[37][41]。それでも明治6年(1873年)暦の損失を埋め合わせるには足らず、明治14年(1881年)暦まで5年間延長された[41][42]。この間、官暦の頒布を一私商社に委ねることに対する不満が各所から寄せられ、明治13年(1880年)には伊勢神宮司庁から頒暦権を受任したい旨の伺書が内務省に提出されたが、この時は却下されている[43][44]。しかし、頒暦商社の専売権の期限が迫っても誰に頒暦の権限を与えるかは決まらず、頒暦商社の専売権はさらに1年延長された[42]。結局、明治16年(1883年)暦以降は、再度頒暦を願い出た伊勢神宮司庁が発行することになり、最終的に1890年(明治23年)暦からは、編暦は東京大学天文台(のち東京天文台)、頒暦は神宮司庁(のち神宮神部署)が担う体制となった[45]。そして、これ以外の暦の発行は、一枚刷りの略暦を除いて厳禁された[34][46][47]。なお、明治10年(1877年)暦以降、発行部数の把握と偽暦の防止を目的として、官暦には頒暦証紙が貼付されていた[3][48]

明治5年(1872年)11月9日の改暦詔書に「殊ニ中下段ニ掲クル所ノ如キハ率ネ妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨クルモノ少ナシトセス」、同年11月24日の太政官布告にも「但略歴ハ御頒行太陽暦ヲ標準ト可致旧暦中歳徳金神ノ善悪ヲ始メ中下段中掲載候不稽ノ説等増補致候儀一切不相成候」とある通り[4]、明治6年(1873年)の新暦以降[11]、官暦からは日の吉凶などの暦注迷信であるとしてすべて掲載されなくなり[10][34][49][50]七曜干支のほかは平均気温・湿度といった気象情報や天体の動きなどの科学的な内容のみが記載された[34][51]。また、当初は旧暦が併記されたものの、官暦に記載するから新暦が普及しないという批判を受けて、明治43年(1910年)暦以降は記載されなくなった[52]

出現から終焉まで

略本暦類似物として「お化け暦」の出版発売を差し止める東京府公示を伝える官報

官暦は科学的ではあったものの、庶民は天文学的な知識より日の吉凶を求めた[11][18][19][50]。こうした需要に応えて、旧暦暦注などを記載した「お化け暦」が密かに刊行されるようになった[3][18][34][注 1]。お化け暦は度々禁止されたものの[46]急速に普及し[3]、取り締まりの目を逃れて大量に流通した[12][34]。また、一枚刷りの略暦は取り締まりの対象ではなかったため[46][47][53]、商店の名前を入れたチラシとして新旧の略暦を記載した「引札」も普及するようになった[34][47][53]。さらに、明治末には「日めくり」が登場し[11][54][55]、これも取り締まりの対象外とされたため、旧暦が記載された[47][55][56][注 2]。これらによって、官暦である神宮暦は年々頒行数を減少させていった[46]

お化け暦の全盛期は明治から大正にかけてであった[58]。お化け暦は政府の取り締まりが厳しく、所持していただけでも連行されてどうやって入手したのか追及され始末書を書かされたと言われており[17][47]、摘発される恐れのない日めくりが普及すると、お化け暦は次第に下火になっていった[59]1941年昭和16年)には俗暦類の取り締まりが徹底され[58]、また戦時体制下における紙の不足もあって、お化け暦はほぼ壊滅した[9]。そのため、この年は神宮暦の頒行数が急増した[58]1942年(昭和17年)には、略暦・日めくりも含めて暦注の記載は全面的に禁止されている[12]

太平洋戦争終戦後の1945年(昭和20年)12月15日、GHQによる神道指令によって神社に対する国家の援助が禁止されると、東京天文台が編纂した官暦を伊勢神宮が頒行するという形も取りやめとなった[58]。暦書類は自由に発行できるようになり[2][10][11][12]、神宮暦も唯一の官暦から民間暦の一つに過ぎなくなった[14][60]。これにより、「お化け暦」という呼称は消滅した[2][14]

評価と影響

社会の受容

改暦によって天保暦が廃されグレゴリオ暦が採用されたが、その後も年中行事をはじめとして日常生活では旧暦を使用する地域が多かった[2]昭和期に入っても旧暦に基づいた行事を催す地域は多かったし[2]太平洋戦争終戦直後に行われた迷信に関する調査でも七夕を旧暦で行う地域は少なくなかった[61]。旧暦の併記廃止は、旧暦に基づく年中行事や旧暦中に亡くなった故人の命日の把握などに不便を生じ[59][62]、特に、農事暦として旧暦を利用していた農村では、旧暦はなくてはならないものだった[59]。また、暦注は、迷信と言われようとも庶民の暮らしや伝統文化に根付いていた[18]。お化け暦は、こうした層に歓迎され、大量に流通した[2][59]。特に、官暦に旧暦の併記がされなくなってからは、お化け暦は庶民の生活の唯一のよりどころとなった[3]

政府による取り締まりは厳しかったが、それ以上に需要があり、必要とする庶民は、お化け暦の出版者を匿ったり、手を尽くしてお化け暦を入手しようと努めた[59]。歳末には露天で大量のお化け暦が販売されていた[2]。お化け暦の出版者の中には、摘発されて罰金を科せられ、それを払うためにお化け暦を発行してまた摘発されるということを繰り返し、前科43犯を数える者もいたほどであったという[59]

旧暦の使用や迷信の排除を進める政府に隠れてお化け暦が庶民の間で流布したことについて、脚本家山本むつみは「変化を急ぐお上に向けた、庶民からのささやかな『異議申し立て』だったのかもしれません」と記し、文化人類学者中牧弘允は「科学や迷信の名のもとに切り捨てられない、庶民のしたたかな抵抗」と見ることもできると指摘している[18]

後世への影響

旧暦九星六曜三りんぼうなどが記載された2014年平成26年)のカレンダー

暦書の発行が自由化されると、旧暦の日付をはじめ、お化け暦に記載されていた九星六曜三隣亡不成就日一粒万倍日といった暦注が記載されたカレンダーが再び発行されるようになった[12]。旧暦の使用は、農漁村においても1955年(昭和30年)以降は次第に廃れていった[63]。しかし、年中行事の実施や、漁労のための潮の干満などを知るため、現在でも一定の旧暦の需要がある[63]。特に六曜は、ブライダル業界や葬祭業などに影響は大きい[64]官暦の地位を失った神宮暦においても、戦後は旧暦の日付を併記し、附録として六曜を記載するようになっている[12]。今日でも、年末になるとさまざまな暦注を載せた翌年の暦が店頭に並び盛況を博しているが[58]、これら運勢暦開運暦と呼ばれるものは、お化け暦の後裔であるとされる[1][3]

なお、東京天文台1946年昭和21年)暦から純粋に科学的な暦として『暦象年表』を発行しており、これは『理科年表』の暦部に収録されているほか、毎年2月1日付『官報』に翌年の暦要綱が掲載されている[14][60]。これらには二十四節気雑節、月の朔望が記載されているため、旧暦の日付を求めることができ、現在民間で発行されているカレンダーの旧暦はこれらを基にしている[14][60][注 3]

また、お化け暦に貼付された偽の頒暦証紙は、その多様性から、コレクターによる蒐集の対象となっている[3][65]

フィクション

脚本家山本むつみは、『明治おばけ暦』で、急な改暦にあわてふためく庶民の様子を描いた[18]。『明治おばけ暦』は、2007年平成19年)にNHK-FMFMシアターラジオドラマとして放送され[66]2011年(平成23年)から2012年(平成24年)にかけて劇団前進座の創立80周年記念公演として上演されている[18]。ラジオドラマは、第34回放送文化基金賞優秀賞を受賞した[67]

脚注

注釈

  1. ^ 一説では、政府が運勢暦について高島暦専売としたことに反発した大阪の八卦師である宮崎八十八が発行を始めたともされる[6]
  2. ^ ただし、「引札」「日めくり」に記載された旧暦は、政府の目を憚って「太陰暦」「清国暦」などと称していた[57]
  3. ^ ただし、天保暦京都における真太陽時を基準としているのに対して、今日のカレンダーに記されている旧暦中央標準時を用いているなど、厳密には天保暦とは言えない[14][60]

出典

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  2. ^ a b c d e f g h 澤宮 2016, p. 106.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 暦の会 1999, p. 134.
  4. ^ a b 渡邊 1994, pp. 224–225.
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  6. ^ a b c 暦の会 1999, p. 214.
  7. ^ 岡田・阿久根 1993, pp. 331–332.
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  11. ^ a b c d e f g h 暦の会 1999, p. 116.
  12. ^ a b c d e f g 渡邊 1994, p. 219.
  13. ^ 岡田・阿久根 1993, pp. 354–355.
  14. ^ a b c d e f 暦の会 1999, p. 136.
  15. ^ 渡邊 1994, pp. 147–148.
  16. ^ a b c d e f 岡田・阿久根 1993, p. 354.
  17. ^ a b 岡田 2009, p. 198.
  18. ^ a b c d e f g h 中牧 2014.
  19. ^ a b c 岡田ほか 2006, p. 71.
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  21. ^ 澤宮 2016, p. 107.
  22. ^ a b c d 中牧 2017, p. 16.
  23. ^ a b 岡田ほか 2006, p. 65.
  24. ^ a b c d 渡邊 1994, p. 143.
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  29. ^ 林 2008, p. 268.
  30. ^ 内田 2012, p. 156.
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  41. ^ a b 岡田 2009, p. 189.
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参考文献

関連項目