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「後藤田正晴」の版間の差分

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|退任日9 = [[1972年]][[6月24日]]
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[[ファイル:Gotouda.JPG|300px|thumb|衆議院議員選挙当時のポスター(徳島県阿南市)]]
'''後藤田 正晴'''(ごとうだ まさはる、[[1914年]][[8月9日]] - [[2005年]][[9月19日]])は、日本の[[内務省 (日本)|内務]]・[[建設省|建設]]・[[警察庁|警察]]・[[防衛省|防衛]]・[[自治省|自治]][[官僚]]、政治家。官僚機構の頂点に立った後、政界に転身し内閣官房長官を長らく務め、「'''カミソリ後藤田'''」、「'''日本の[[ユーリ・アンドロポフ|アンドロポフ]]'''」、「'''日本の[[ジョゼフ・フーシェ]]'''」などの異名を取った。
'''後藤田 正晴'''(ごとうだ まさはる、[[1914年]][[8月9日]] - [[2005年]][[9月19日]])は、日本の[[内務省 (日本)|内務]]・[[建設省|建設]]・[[警察庁|警察]]・[[防衛省|防衛]]・[[自治省|自治]][[官僚]]、政治家。官僚機構の頂点に立った後、政界に転身し内閣官房長官を長らく務め、「'''カミソリ後藤田'''」、「'''日本の[[ユーリ・アンドロポフ|アンドロポフ]]'''」、「'''日本の[[ジョゼフ・フーシェ]]'''」などの異名を取った。


[[警察庁長官]](第6代)、[[衆議院議員]](7期・[[徳島県全県区]])、[[自治大臣]]([[第2次大平内閣|第27代]])、[[国家公安委員会委員長]]([[第2次大平内閣|第37代]])、[[北海道開発庁|北海道開発庁長官]](第42代)、[[内閣官房長官]](第[[第1次中曽根内閣|45]]・[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|47]]・[[第3次中曽根内閣|48]]代)、[[行政管理庁長官]](第47代)、[[総務庁|総務庁長官]](初代)、[[法務大臣]]([[宮澤内閣 (改造)|第55代]])、[[副総理]]([[宮澤内閣 (改造)|宮澤改造内閣]])などを歴任した。
[[警察庁長官]](第6代)、[[衆議院議員]](7期・[[徳島県全県区]])、[[自治大臣]]([[第2次大平内閣|第27代]])、[[国家公安委員会委員長]]([[第2次大平内閣|第37代]])、[[北海道開発庁|北海道開発庁長官]](第42代)、[[内閣官房長官]](第[[第1次中曽根内閣|45]]・[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|47]]・[[第3次中曽根内閣|48]]代)、[[行政管理庁長官]](第47代)、[[総務庁|総務庁長官]](初代)、[[法務大臣]]([[宮澤内閣 (改造)|第55代]])、[[副総理]]([[宮澤内閣 (改造)|宮澤改造内閣]])などを歴任した。


==来歴・人物==
==来歴==
===生い立ち===
===生い立ち===
1914年8月9日、[[徳島県]][[麻植郡]][[東山村 (徳島県)|東山村]](現在の[[吉野川市]][[美郷 (吉野川市)|美郷]])に生まれる。後藤田家は[[忌部氏]]の流れを汲むとされており、[[江戸時代]]には[[庄屋]]を務めた家柄である。
1914年8月9日、[[徳島県]][[麻植郡]][[東山村 (徳島県)|東山村]](現在の[[吉野川市]][[美郷 (吉野川市)|美郷]])に生まれる。後藤田家は[[忌部氏]]の流れを汲むとされており、[[江戸時代]]には[[庄屋]]を務めた家柄である。
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父親の後藤田増三郎は、[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]の壮士として出発し、[[徳島県議会]]議員、麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった。
父親の後藤田増三郎は、[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]の壮士として出発し、[[徳島県議会]]議員、麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった。


[[1921年]]に[[腎臓]]病で父を、[[1923年]]に母を相次いで失い、姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた。
しかし、[[1922年]]に父を、[[1923年]]に母を相次いで失い、のちに姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}


[[徳島県立富岡西高等学校|富岡中学]]を経て、[[1932年]]に[[水戸高等学校 (旧制)|旧制水戸高等学校]]に入学。[[1935年]]に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]][[法学|法律学科]]に入学(1学期修了後に[[政治学|政治学科]]へ転科)した。早くから[[官吏]]を志望していたが、[[外地]]勤務の思いも強く、[[南満州鉄道]]が第一希望だったといわれる。しかし[[1937年]]の満鉄入社試験では東大卒者と[[京都大学|京大]]卒者それぞれに設けられた入社試験日を間違えて断念。[[高等文官試験]]にも失敗した。翌[[1938年]]には高文に8番の席次で合格、翌[[1939年]]に東京帝大法学部政治学科を卒業すると、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省した。入省同期には後に[[防衛省|防衛]][[官僚]]の事実上トップになる[[海原治]]がおり、両者は交流があった
[[徳島県立富岡西高等学校|富岡中学]]を経て、[[1932年]]に[[水戸高等学校 (旧制)|旧制水戸高等学校]](乙類)に入学{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[1935年]]に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]][[法学|法律学科]]に入学(1学期修了後に[[政治学|政治学科]]へ転科)した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。早くから[[官吏]]を志望していたが、[[外地]]勤務の思いも強く、[[南満州鉄道]]が第一希望だったといわれる。しかし[[1937年]]の満鉄入社試験では東大卒者と[[京都大学|京大]]卒者それぞれに設けられた入社試験日を間違えて断念。[[高等文官試験]]にも失敗した。翌[[1938年]]には高文に8番の席次で合格、翌[[1939年]]に東京帝大法学部政治学科を卒業すると、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省した。入省同期には、同じ徳島出身で後に[[防衛省|防衛]][[官僚]]の事実上トップになる[[海原治]]がいる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}


===官僚時代===
=== 官僚時代 ===
[[内務省 (日本)|内務省]]では、土木局道路課に振出し配属される。[[1940年]]1月に[[富山県警察部]]労政課長に出向。3月に[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に[[徴兵]]され、4月に[[歩兵連隊#台湾歩兵連隊|台湾歩兵第二連隊]]に陸軍[[二等兵]]として入営し、5月に[[歩兵連隊#台湾歩兵連隊|台湾歩兵第一連隊]]に配属される。内務省の[[高等官]]であった点と、[[幹部候補生 (日本軍)|甲種幹部候補生]]に合格したため、[[陸軍経理学校]]で学び<ref>後藤田正晴回顧録「情と理」49頁</ref>、[[兵科#経理部|経理部]][[将校]]候補生として陸軍[[軍曹]]を経て翌年の[[1941年]]10月には陸軍主計[[少尉]]に任官した。[[1945年]]に主計[[大尉]](ポツダム任官)で[[日本の降伏|終戦]]を迎え、[[台北]]で台湾人らが[[爆竹]]を鳴らして喜ぶ姿を目当たりにする。[[日本統治時代の台湾|台湾]]に[[国民革命軍|中国国民政府軍]]が進駐し、翌年の[[1946年]]4月まで[[捕虜]]生活を送った
[[内務省 (日本)|内務省]]では、土木局道路課に振出し配属される。[[1940年]]1月に[[富山県警察部]]労政課長に出向{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。3月に[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に[[徴兵]]され、4月に[[歩兵連隊#台湾歩兵連隊|台湾歩兵第二連隊]]に陸軍[[二等兵]]として入営し{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、5月に[[歩兵連隊#台湾歩兵連隊|台湾歩兵第一連隊]]に配属される。内務省の[[高等官]]であった点と、[[幹部候補生 (日本軍)|甲種幹部候補生]]に合格したため、[[陸軍経理学校]]で学び<ref>後藤田正晴回顧録「情と理」49頁</ref>、[[兵科#経理部|経理部]][[将校]]候補生として陸軍[[軍曹]]を経て翌年の[[1941年]]10月には陸軍主計[[少尉]]に任官した{{sfn|『私後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}


[[1945年]]3月に結婚{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、同年8月に主計[[大尉]](ポツダム任官)で[[日本の降伏|終戦]]を迎え、[[台北]]で悲嘆に暮れる日本人と対照的に[[爆竹]]を鳴らして喜ぶ台湾人の姿を目の当たりにする{{refnest|group=注釈|後藤田は最後となった訪中で[[清華大学]]で講演した際にこのエピソードに触れ、「部下の中には台湾人がたくさんいて、とても仲が良く、私は日本人と台湾人ということで何の隔たりも感じていなかった。日本人は、台湾の統治は朝鮮とは違うと思っていた。温和な統治であったし、台湾人も十分協力的であった。しかし一九四五年八月十五日、日本が敗戦した日のことである。日本人が運命に困惑し、悲しみの淵に落とされたその晩、台北の町には爆竹が鳴り響き、人々は手に手を取って踊り、勝った!勝った!と喜びの声を上げていた。これで私は夢から覚めた。武力で異民族を統治するのは所詮無理な話であると完全に悟った。なぜなら彼らの心までは征服できないからだ。これは私のような、台湾人に対して差別的感情がない者で、台湾人のことを信じきっていた日本人を震撼させる現実だった」と語っている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=179}}。}}。[[日本統治時代の台湾|台湾]]に[[国民革命軍|中国国民政府軍]]が進駐し、翌年の[[1946年]]4月まで[[捕虜]]生活を送った。
1946年5月、[[復員]]すると共に内務省に復職し、[[神奈川県]]経済部商政課長、10月 本省に戻り地方局に配属された。又、同時期に内務省職員組合委員長となっている。[[1947年]]8月の[[警視庁 (内務省)|警視庁]]保安部経済第二課長をきっかけに主に[[日本の警察|警察]]畑を歩み、内務省廃止後は[[警察庁]]に所属して警察官僚となった。


1946年5月、[[復員]]すると共に内務省に復職し{{refnest|group=注釈|[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]が後藤田について「軍務勤務はあるが、主計の将校として通常の業務をこなしていただけで、諜報謀略とは無縁だ。六年間、兵役に行っているため、内務省の色もついていない」と[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に報告したこともあって、[[公職追放]]は免れた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=93-94}}。}}、5月付で[[神奈川県]]経済部商政課長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、10月に本省へ戻り、11月に地方局事務官となる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。又、同時期に内務省職員組合委員長となっている。[[1947年]]8月の[[警視庁 (内務省)|警視庁]]保安部経済第二課長をきっかけに主に[[日本の警察|警察]]畑を歩み、内務省廃止後は[[警察庁]]に所属して警察官僚となった。
[[1949年]]3月、[[東京警察管区]]本部刑事部長。[[1950年]]8月、[[警察予備隊]]本部警務局警備課長兼調査課長。[[1952年]](昭和27年)8月、[[国家地方警察]]本部警備部警邏交通課長。[[1955年]]7月、[[警察庁長官官房]]会計課長。[[1959年]]、[[自治庁]]税務局長の[[小林與三次]]らの引きで、自治庁長官官房長、税務局長を歴任した。なお“[[軍隊]]ではない”という建前の警察予備隊の階級呼称(尉官相当=警察士など)を考案したことは、警察予備隊時代の後藤田の携わった仕事の一つである。


[[1949年]]3月、[[東京警察管区]]本部刑事部長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[1950年]]8月、[[警察予備隊]]本部警務局警備課長兼調査課長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[1952年]](昭和27年)8月、[[国家地方警察]]本部警備部警邏交通課長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[1955年]]7月、[[警察庁長官官房]]会計課長。[[1959年]]3月、[[自治庁]]税務局長の[[小林與三次]]らの引きで、自治庁長官官房長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、同年10月に税務局長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。なお“[[軍隊]]ではない”という建前の警察予備隊の階級呼称(尉官相当=警察士など)を考案したことは、警察予備隊時代の後藤田の携わった仕事の一つである。
[[自治事務次官]]に就いた小林の慰留を振り切り、[[1962年]]5月に警察庁に復帰、長官官房長、[[警備局]]長、警務局長、[[警察庁次長]]を経て、[[1969年]][[警察庁長官]]に就任。長官時代は、[[よど号ハイジャック事件]](よど号乗っ取り事件)を始め、[[極左暴力集団]]によるテロ、[[ハイジャック]]、[[成田空港予定地の代執行]]、[[東峰十字路事件]]、[[あさま山荘事件]]、爆弾事件などの対処に追われた。


[[自治事務次官]]に就いた小林の慰留を振り切り、[[1962年]]5月に警察庁に復帰し長官官房長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、[[1963年]]8月に[[警備局]]長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、1965年3月警務局長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}・同年5月[[警察庁次長]]を経て{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、[[1969年]]8月[[警察庁長官]]に就任{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。長官時代は、[[よど号ハイジャック事件]](よど号乗っ取り事件)を始め、[[極左暴力集団]]によるテロ・[[ハイジャック]]・[[成田空港予定地の代執行]]([[東峰十字路事件]])・[[あさま山荘事件]]・爆弾事件などの対処に追われた。
この頃の部下の一人が、後に初代[[内閣安全保障室]]長を務める[[佐々淳行]]である。佐々の著作によれば、当時[[要人]][[テロリズム]]を警戒して、[[セキュリティポリス|護衛]]をつけて欲しいと再三促されたが、「有り難う。でも私は結構」<ref group="注釈">一方、佐々は別の著書ではその際に「いらんッ、君はまちがってるよ。[[日本の警察官|警官]]が警官守ってどうする、[[駆逐艦]]が駆逐艦守ってどうする?警察は国民を守り、駆逐艦は商船守るんだ。ワシを守る余裕があったら犯人をつかまえろ!!」と激しく叱咤されたとも語っている。</ref>と、頑なに断り続けたという。なお、後藤田は実際に[[土田・日石・ピース缶爆弾事件]]の標的の1人となっている。


この頃の部下の一人が、後に初代[[内閣安全保障室]]長を務める[[佐々淳行]]である。佐々の著作によれば、当時[[要人]][[テロリズム]]を警戒して、[[セキュリティポリス|護衛]]をつけて欲しいと再三促されたが、「有り難う。でも私は結構」<ref group="注釈">一方、佐々は別の著書{{Full citation needed|date=2019年11月27日}}ではその際に「いらんッ、君はまちがってるよ。[[日本の警察官|警官]]が警官守ってどうする、[[駆逐艦]]が駆逐艦守ってどうする?警察は国民を守り、駆逐艦は商船守るんだ。ワシを守る余裕があったら犯人をつかまえろ!!」と激しく叱咤されたとも語っている。</ref>と、頑なに断り続けたという。なお、後藤田は実際に[[土田・日石・ピース缶爆弾事件]]の標的の1人となり、[[郵便爆弾]]が途中で暴発したことで難を逃れているが、このとき郵便局員が重傷を負っている。
[[1972年]]に警察庁長官を辞任した。同年7月、[[第1次田中角栄内閣]]の[[内閣官房副長官]](事務)に就任。田中の懐刀として辣腕を揮った。なお、田中は後藤田を引き入れる際に、[[内閣改造]]の暁には大臣にすることを約束したが、後藤田は選挙民の洗礼を受けなければ、そういうポストには就けないとして、[[国務大臣]]就任を断っている<ref name="hosaka">保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』(中公文庫、2009年)</ref>。

[[1972年]]6月に警察庁長官を辞任した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。同年7月、[[第1次田中角栄内閣]]の[[内閣官房副長官]](事務)に就任{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。田中の懐刀として辣腕を揮った。なお、田中は後藤田を引き入れる際に、[[内閣改造]]の暁には大臣にすることを約束したが、後藤田は選挙民の洗礼を受けなければ、そういうポストには就けないとして、[[国務大臣]]就任を断っている<ref name="hosaka">保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』(中公文庫、2009年)</ref>。また、議員バッチのないまま要職につくことの限界を感じた後藤田は[[第33回衆議院議員総選挙]]に出馬することを希望したが、「この内閣は、君で持っているのだ。選挙戦で官邸がカラになったら、内閣は潰れてしまう」と田中に慰留され、機会を逃した<ref name=":2">{{Cite web|title=田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(中)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Weeklyjn_21000/|website=エキサイトニュース|accessdate=2019-12-16|date=2019-12-09|author=小林吉弥}}</ref>。


===政治家時代===
===政治家時代===
政界に進出すべく、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]]に郷里の[[徳島県選挙区]]から立候補する事を決めた。しかし、徳島は、現職に田中内閣の副総理であった[[三木武夫]]の城代家老と言われた[[久次米健太郎]]がから、問題が複雑になる。[[自由民主党 (日本)|自民党]]公認を巡り、調整の果、後藤田公認をたが、これに三木陣営が反発。選挙戦は三角代理戦争・[[阿波戦争]]と呼ばれる熾烈なものとなった。選挙戦は、当初、後藤田に有利と見られたが、結果は、久次米19万6210票に対し、後藤田は15万3388票で敗北した。また、選挙後、後藤田陣営から268人もの[[選挙違反]]者が、[[徳島県警察]]によって[[逮捕 (日本法)|検挙]]された。そして「金権腐敗選挙」強く非難された。後に後藤田「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。更に強力な後ろ盾であった[[田中角栄]]も[[田中金脈問題]]をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継[[自由民主党総裁|総裁]]に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた
後藤田は、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]]に郷里の徳島県から立候補する事を決めた。しかし、1人区である[[徳島県選挙区]]では、[[三木武夫]](当時副総理)の城代家老と言われた[[久次米健太郎]]が現職であっことから、[[自由民主党 (日本)|自民党]]公認を巡って党内が紛糾する。局田中が押し切って後藤田公認を与えたが、これに[[番町政策研究所|三木派]]が反発。久次米は無所属で立候補したため、県内で保守が真っ二つとなり、選挙戦は[[阿波戦争]](三角代理戦争)と呼ばれる熾烈なものとなった<ref>{{Cite web|title=阿波戦争とは|url=https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E6%88%A6%E4%BA%89-881890|website=コトバンク|accessdate=2019-12-18|publisher=}}</ref>

当初は党主流派の支援を受けた後藤田が有利と見られていた。しかし結果は、久次米が19万6210票を取得したのに対し、後藤田は15万3388票で及ばず、敗北であった。さらに、後藤田が選挙に不慣れであったこともあって、陣営から268人もが[[徳島県警察]]によって[[選挙違反]]で[[逮捕 (日本法)|検挙]]されることとなり、「金権腐敗選挙」と強く非難される憂き目を見た。後藤田はお詫び行脚に奔走するとともに逮捕者には[[弁護士]]を手配した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=380}}。後に後藤田は、「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。更に強力な後ろ盾であった[[田中角栄]]も[[田中金脈問題]]をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継[[自由民主党総裁|総裁]]に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた。一方で後藤田は、このときの落選とその後の地道な選挙活動で、自分自身の世の中を見る目に甘さがあることに気づき、自分自身も変わったと述べている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=176}}。

[[1976年]]の[[第34回衆議院議員総選挙]]に[[徳島県全県区]](当時)から立候補し、ときの内閣総理大臣である三木武夫との直接対決となった。[[ロッキード事件]]に絡めた[[ネガティブ・キャンペーン]]も受けたが、後藤田が落選以来地道に続けてきた地元への行脚が功を奏し、6万8990票を獲得して三木に続く2位当選を果たした。一方で、前回の参院選挙で後藤田を支援してくれた[[秋田大助]]と少年期に寝食を共にした甥の[[井上普方]](社会党)が、最後の1議席を巡って5位争いをすることとなり、気まずい選挙でもあった(結果は、秋田が落選){{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=37・266-269}}。

{{要出典範囲|この頃、徳島の闇社会のドンである[[山口組]]の[[尾崎彰春]]を評して、「尾崎君は紳士だ」と警察官僚のトップにいた後藤田が発言したとして、世人の眉を顰めさせた。|date=2019年12月}}


[[1976年]]の[[第34回衆議院議員総選挙]]に[[徳島県全県区]](当時)から立候補し、三木武夫と直接対決となった。[[ロッキード事件]]に絡めたネガティブキャンペーンも受けたが地道に続けてきた地元の行脚が功を奏し、6万8990票を獲得して三木に続く2位当選を果たした。この頃、徳島の闇社会のドンである[[山口組]]の[[尾崎彰春]]を評して、「尾崎君は紳士だ」と警察官僚のトップにいた後藤田が発言したとして、世人の眉を顰めさせた。以後、自民党[[木曜クラブ|田中派]]に所属し、田中の庇護の下、当選回数が少ないにも拘らず、顕職を歴任した。
以後、自民党[[木曜クラブ|田中派]]に所属し、田中の庇護の下、当選回数が少ないにも拘らず、顕職を歴任した。


[[1978年]]の[[自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]において、田中派は[[大平正芳]]を支持したが、自民党史上となる国民参加型(一般党員・党友に投票権付与)による予備選挙が導入されていため、現職の[[福田赳夫]]が優勢と見られていたしかしこの選挙戦の指揮を執った後藤田は、党員名簿を調達し、[[東京都]]の一般党員・党友に対して、[[ヘリコプター]]まで利用した戸別訪問を行うなどのローラー作戦を敢行した。予備選挙の結果は大平748点、福田638点。福田は「天の声にも変な声もたまにはある」と発言して本選挙を辞退、大平正芳内閣が成立した。[[1979年]]11月、[[第2次大平内閣]]の[[自治大臣]]兼[[国家公安委員会委員長]]兼[[北海道開発庁|北海道開発庁長官]]として初入閣した。この時当選回数僅か2回であり、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。
めての国民参加型(一般党員・党友に投票権付与)による予備選挙が導入された[[1978年自由民主党総裁選挙]]において田中派は現職の[[福田赳夫]]に挑む[[大平正芳]]を支持。選挙戦の指揮を執った後藤田は、党員名簿を調達し、[[東京都]]の一般党員・党友に対して、[[ヘリコプター]]まで利用した戸別訪問を行うなどのローラー作戦を敢行した。予備選挙の結果は、福田優勢との当初の下馬評を覆して、大平748点、福田638点。福田は「天の声にも変な声もたまにはある」と発言して本選挙を辞退、大平正芳内閣が成立した。[[1979年]]11月、[[第2次大平内閣]]の[[自治大臣]]兼[[国家公安委員会委員長]]兼[[北海道開発庁|北海道開発庁長官]]として初入閣した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。この時当選回数僅か2回であり、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。1981年11月、[[鈴木善幸改造内閣]]で選挙制度調査会会長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}


[[1982年]]11月、首班指名を受けた[[中曽根康弘]]に請われて、[[第1次中曽根内閣]]で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。首相派閥から選出することが慣例である内閣官房長官人事を他派閥から選出したこともあるが、これはロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、自派の人材難に悩む一方で内務省の後輩として後藤田の手腕と実力をよく知る中曽根本人の強い求めによるものであった。
[[1982年]]11月、首班指名を受けた[[中曽根康弘]]に請われて、[[第1次中曽根内閣]]で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。首相派閥から選出することが慣例である内閣官房長官人事を他派閥から選出したこともあるが、これはロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、自派の人材難に悩む一方で内務省の後輩として後藤田の手腕と実力をよく知る中曽根本人の強い求めによるものであった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=21}}


当初、後藤田は、『今まで“君付け”していた者の下には就けない』(内務省入省年次では[[1939年]]入省の後藤田は、[[1941年]]入省の中曽根より先輩に当たる)と就任に難色を示していた。しかし、中曽根は、自派の人材難に加え、[[行政改革]]の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知し、情報収集能力を持つ後藤田を必要とした。更に、長期的な視野で見れば田中派に対して中曽根が打ち込んだ楔でもあった。こうして、官房長官となった後藤田は、[[1983年]]1月の[[中川一郎]]の自殺事件、同年9月の[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]による[[大韓航空機撃墜事件]]、[[三原山]]噴火による住民の全島避難の際に優れた[[危機管理]]能力を発揮[[1985年]][[日本航空123便墜落事故]]当時は、初代[[総務庁長官]]として、首相・中曽根を支えた。[[日中友好会館]]会長<ref>{{Cite news|url=http://www.china-embassy.or.jp/jpn/jbwzlm/zrgx/t511580.htm|title=日中友好会館が本館落成20周年祝賀会|work=|newspaper=[[駐日中華人民共和国大使館]]|date=2008-09-06|accessdate=2017-11-20}}</ref>を務めるなど[[中華人民共和国]]に対する太いパイプをもち、当時の[[中国共産党]]首脳が比較的親日的なこともあり、内閣官房長官在任中の[[日中関係史|日中関係]]は[[靖国神社問題]]や[[光華寮訴訟]]に関する摩擦もあったが総じて比較的良好な状態だった。
当初、後藤田は、『今まで“君付け”していた者の下には就けない』(内務省入省年次では[[1939年]]入省の後藤田は、[[1941年]]入省の中曽根より先輩に当たる)と就任に難色を示していた。しかし、中曽根は、自派の人材難に加え、[[行政改革]]の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知し、情報収集能力を持つ後藤田を必要とした{{refnest|group=注釈|中曽根は[[平沢勝栄]]に「なぜ後藤田さんのような一言居士で口うるさく、使いにくい、煙たい人物を官房長官に起用したのか」と問われた時、「理由は二つ。一つは行政改革を断行するには、てきぱきと判断できて官僚を抑えられる人物が必要なこと。もう一つは、関東大震災級の震災が起きた場合の危機管理ができる政治は後藤田さん以外にいないと考えたからだ」と答えている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=234}}。}}。更に、長期的な視野で見れば田中派に対して中曽根が打ち込んだ楔でもあった。こうして、官房長官となった後藤田は、1982年12月の[[レフチェンコ事件]]{{refnest|group=注釈|アメリカでの[[スタニスラフ・レフチェンコ]]の証言を受けて事態の重大性を認識した後藤田は日本独自の検証を指示する一方、無自覚にソ連への情報提供者となった人物に配慮するとともに機密保護法の制定については慎重な立場を示した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=217-222}}。}}や、[[1983年]]1月の[[中川一郎]]の自殺事件、同年9月の[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]による[[大韓航空機撃墜事件]]{{refnest|group=注釈|この事件への対応で後藤田は[[自衛隊]]の機密情報であったソ連軍通信の傍受記録を公表する決断を下すとともに、航路を逸脱して事件を誘発し日本人の犠牲者を出した大韓航空の責任を追及している{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=223-229}}。}}、[[三原山]]噴火による住民の全島避難の際に優れた[[危機管理]]能力を発揮[[1985年]]8月12日に起きた[[日本航空123便墜落事故]]当時は、初代[[総務庁長官]]として、首相・中曽根を支えた。


=== 行革推進 ===
=== 行革推進 ===
中曽根内閣が最大の課題とした[[行政改革]]では、[[行政管理庁長官]]、新設された[[総務庁|総務庁長官]]として、3公社民営化などを推進した。[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根第2次改造内閣]]・[[第3次中曽根内閣]]では内閣官房長官に再任され、単なる内閣官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。
中曽根内閣が最大の課題とした[[行政改革]]では、1983年12月に[[行政管理庁長官]]{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}1984年7月に新設された[[総務庁|総務庁長官]]として{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、3公社民営化などを推進した。[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根第2次改造内閣]]・[[第3次中曽根内閣]]では内閣官房長官に再任され{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、単なる内閣官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。


[[イラン・イラク戦争]]終結に当たり、[[海上自衛隊]]の[[掃海艇]]を[[ペルシャ湾]]に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対し、中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。中曽根政権の5年間、一貫して閣僚を務めたのは後藤田だけである。
[[イラン・イラク戦争]]終結に当たり、[[海上自衛隊]]の[[掃海艇]]を[[ペルシャ湾]]に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対し、中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。中曽根政権の5年間、一貫して閣僚を務めたのは後藤田だけである。
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===副総理===
===副総理===
[[宮澤内閣 (改造)|宮澤改造内閣]]で[[法務大臣]]に就任。[[第3次中曽根内閣]]で内閣官房長官を務めて以来、久々の入閣であった。[[1993年]]4月、[[副総理]]兼[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[渡辺美智雄]]が病気辞任したため、法相としては異例ながら副総理を兼務し、大物大臣として閣内において存在感を示した。{{要出典|date=2018年2月|当時すでに高齢であった後藤田の入閣に対し、政策研究の手間を取らせないため、官僚時代から精通していた治安系の官庁のトップである法務大臣として入閣したと見られる。}}
[[1992年]]12月に[[宮澤内閣 (改造)|宮澤改造内閣]]で[[法務大臣]]に就任{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[第3次中曽根内閣]]で内閣官房長官を務めて以来、久々の入閣であった。[[1993年]]4月、[[副総理]]兼[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[渡辺美智雄]]が病気辞任したため、法相としては異例ながら副総理を兼務し、大物大臣として閣内において存在感を示した。{{要出典|date=2018年2月|当時すでに高齢であった後藤田の入閣に対し、政策研究の手間を取らせないため、官僚時代から精通していた治安系の官庁のトップである法務大臣として入閣したと見られる。}}


法相在任中は、1989年11月の[[日本における死刑|死刑]]執行から死刑執行停止状態(モラトリアム)が続いていたことについて「[[法治国家]]として望ましくない」との主旨の発言をし、1993年3月に3年4ヶ月ぶりに3人の[[死刑囚]]に対する死刑執行命令を発令した。法相在任中に、警察庁長官として事件解決に携わった[[連合赤軍]]事件の[[永田洋子]]と[[坂口弘]]の死刑が確定した時期であったことも注目された。また[[金丸信]]摘発にあたり、かつて田中の公判検事であった[[吉永祐介]]を[[検事総長]]に起用するという過去の恩讐を越えた人事を行い話題を呼んだ。またカミソリといわれた官僚時代と異なり、法相就任後は好々爺の雰囲気をかもし出し国民からも親しまれた。
法相在任中は、1989年11月の[[日本における死刑|死刑]]執行から死刑執行停止状態(モラトリアム)が続いていたことについて「[[法治国家]]として望ましくない」との主旨の発言をし、1993年3月に3年4ヶ月ぶりに3人の[[死刑囚]]に対する死刑執行命令を発令した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=245-252}}。法相在任中に、警察庁長官として事件解決に携わった[[連合赤軍]]事件の[[永田洋子]]と[[坂口弘]]の死刑が確定した時期であったことも注目された。また[[金丸信]]摘発にあたり、かつて田中の公判検事であった[[吉永祐介]]を[[検事総長]]に起用するという過去の恩讐を越えた人事を行い話題を呼んだ。またカミソリといわれた官僚時代と異なり{{refnest|group=注釈|政界進出後の後藤田は「そんなことしたら、票が減る」と"カミソリ"と呼ばれるのを嫌い、「ワシは女性票が取れなくてね」とかつての峻厳なイメージが残っていることを気にかけていた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=51-52}}。}}、法相就任後は好々爺の雰囲気をかもし出し国民からも親しまれた。


しかし、選挙制度改革をめぐり、かつて政治改革に共に取り組んだ羽田孜らのグループの造反により宮澤内閣不信任決議案が可決される。羽田、[[小沢一郎]]らは自民党を離党し、[[新生党]]を結党。また、同じく政治改革を推進してきた[[武村正義]]、[[鳩山由紀夫]]らのグループは、内閣不信任案には反対票を投じたものの、羽田らに次いで離党し、[[新党さきがけ]]を結党した。解散総選挙の結果、自民党は羽田派の集団離党により過半数を割り、[[三塚博]]を中心に後藤田をポスト宮澤に推す動きがあったが、[[新生党]]の小沢一郎に機先を制され、[[細川護熙]]首班の[[非自民]][[連立政権]]が成立した。宮澤の後任の自民党総裁には、後藤田が最も寵愛していた[[河野洋平]]が就任。後藤田は河野の指南役を務め、自民党の最高実力者となった。
しかし、選挙制度改革をめぐり、かつて政治改革に共に取り組んだ羽田孜らのグループの造反により宮澤内閣不信任決議案が可決される。羽田、[[小沢一郎]]らは自民党を離党し、[[新生党]]を結党。また、同じく政治改革を推進してきた[[武村正義]]、[[鳩山由紀夫]]らのグループは、内閣不信任案には反対票を投じたものの、羽田らに次いで離党し、[[新党さきがけ]]を結党した。解散総選挙の結果、自民党は羽田派の集団離党により過半数を割り、[[三塚博]]を中心に後藤田をポスト宮澤に推す動きがあったが、[[新生党]]の小沢一郎に機先を制され、[[細川護熙]]首班の[[非自民]][[連立政権]]が成立した。宮澤の後任の自民党総裁には、後藤田が最も寵愛していた[[河野洋平]]が就任。後藤田は河野の指南役を務め、自民党の最高実力者となった。


===政治家引退後===
===政治家引退後===
最初の[[小選挙区制]]の選挙となった[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙|総選挙]]には、高齢を理由として出馬せず、政治の第一線を退いた。その後も政治改革、行政改革、外交、安全保障問題などで積極的に発言を続けた。
最初の[[小選挙区制]]の選挙となった[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙|総選挙]]には、高齢を理由として出馬せず、政治の第一線を退いた。引退する旨を3人の子供に伝えた時、二世議員にならないよう頼んだという{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=349}}。その後も政治改革、行政改革、外交、安全保障問題などで積極的に発言を続けた。


[[河野洋平]]を非常に可愛がり、[[与党]]の対中外交に影響を与えた。また、「[[新しい歴史教科書をつくる会|つくる会]]」の新しい歴史教科書([[扶桑社]]発行)の採択には、一貫して反対の立場をとった。
[[河野洋平]]を非常に可愛がり、[[与党]]の対中外交に影響を与えた。


「[[新しい歴史教科書をつくる会|つくる会]]」の新しい歴史教科書([[扶桑社]]発行)の採択には、一貫して反対の立場をとった。
[[イラク戦争]]における[[自衛隊海外派遣|自衛隊派遣]]に反対した。[[小泉純一郎]]内閣に対して「過度の[[ポピュリズム]]が目立ち、危険だ」と批判した。また、小泉内閣のスローガンでもあった、「官から民へ」について、「利潤を美徳とする民間企業が引き受けられる限度を明示せずに、官から民へは乱暴である」と発言した。後藤田の死後、当時[[民進党代表|民主党代表]]の[[前原誠司]]は国会質問でこの発言を引用した。

[[イラク戦争]]における[[自衛隊海外派遣|自衛隊派遣]]に反対した。[[小泉純一郎]]内閣に対して「過度の[[ポピュリズム]]が目立ち、危険だ」と批判した。また、小泉内閣のスローガンでもあった、「官から民へ」について、「利潤を美徳とする民間企業が引き受けられる限度を明示せずに、官から民へは乱暴である」と発言した{{refnest|group=注釈|後藤田の死後、当時[[民進党代表|民主党代表]]の[[前原誠司]]は国会質問でこの発言を引用した<ref>{{Cite web|title=第163回国会 本会議 第4号(平成17年9月28(水曜日))|url=http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000116320050928004.htm|website=www.shugiin.go.jp|accessdate=2019-12-15}}</ref>。}}。また、小泉政権への牽制役として期待をかけていた[[野中広務]]が政界引退を表明したときには、自ら出向いて「日本にとって今が一番重要なときなんだ。恥をかかすことになるけれども『後藤田が止めた』と言って、あと三年頑張ってくれ」と頭を下げた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=30}}。


佐々の著書によると、引退後も後藤田は現職の首相をはじめとする政権中枢に安全保障にかかわる問題や災害対応についてアドバイスを与えていた。また、佐々などかつての部下を[[総理大臣官邸]]に送って、処理の補助を行わせていたという<ref name=waga404>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、404〜406頁</ref>。
佐々の著書によると、引退後も後藤田は現職の首相をはじめとする政権中枢に安全保障にかかわる問題や災害対応についてアドバイスを与えていた。また、佐々などかつての部下を[[総理大臣官邸]]に送って、処理の補助を行わせていたという<ref name=waga404>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、404〜406頁</ref>。


引退後の後藤田は、しばしば[[右翼|右派]]勢力から「[[左翼]]」と罵らたが、後藤田は自分は[[保守]]的政治家であるとし「自分が左派扱されるのは、日本[[右傾]]化過ぎていのではないのか」と反駁した。
引退後の後藤田は、しばしば[[右翼|右派]]勢力から「ハト派」「親中派」と目され、身辺での威圧や嫌がらせを受けていた。後藤田は病弱妻を気遣って、夫人はむろ「もう遠慮すことも失うこともないはず。言いたいことをどんどん言って下さい」と勧めという{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=45}}

後藤田は自分は[[保守]]的な政治家であるとし「自分が左派扱いされるのは、日本が[[右傾]]化し過ぎているのではないのか」と反駁した。


政界のご意見番的な立場で[[TBSテレビ|TBS]]の『[[時事放談]]』に出演していたこともある。
政界のご意見番的な立場で[[TBSテレビ|TBS]]の『[[時事放談]]』に出演していたこともある。
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[[2005年]][[9月19日]]、[[肺炎]]のため死去、91歳だった。喪はしばらく伏せられた。その経歴に比して、ごく質素な葬儀だったという。
[[2005年]][[9月19日]]、[[肺炎]]のため死去、91歳だった。喪はしばらく伏せられた。その経歴に比して、ごく質素な葬儀だったという。


==後藤田五訓==
== 人物 ==

=== 治安維持 ===
学生運動が盛んであった警察庁次長時代、警官を殺しかねないような暴れ方をしていた学生が逮捕されると「お巡りさん、[[タバコ]]くれませんか」などと態度を一変させるという情報を得た後藤田は、「基本的には革命など起こるわけがない」と確信した。対処にあたる警官には能力がありながらも経済的に進学できなかった若者が多かったのに対し、暴れる学生ほど家庭に恵まれており、精鋭化した暴徒学生は所詮は社会のはぐれ者にしかならないと見抜いたのである<ref name="hosaka" />。

[[成田空港予定地の代執行|成田空港予定地での第一次代執行]]直後にヘリコプターで現地を視察した後藤田は、反対派について「ありゃあ蟷螂の斧じゃのう」と言い帰京したという。運輸[[政務次官]]として[[成田空港問題]]に対処していた[[佐藤文生]]は、後藤田は現場を勇気づける意味で言ったのだろうとしながらも、東峰十字路事件が発生した第二次代執行において警察庁の指示で警察の動員数が千葉県警が作成した当初計画より削減されたことへの一つの説として、このエピソードが警察庁幹部に影響したといわれているとしている<ref>{{Cite book|author=[[佐藤文生]]|title=はるかなる三里塚|date=|year=1978|accessdate=|publisher=講談社|pages=108-109}}</ref>。

[[警備業]]の黎明期にあった1970年代、[[特別防衛保障]]をはじめとする警備会社の不当事案が社会問題化していた。[[警備業法]]の制定など規制強化が図られる中、後藤田は警察庁長官として「プライベートポリスの思想、これは我が国においては認めたくないというのが私の基本的な考え方でございます」としながらも、警備会社は「必要悪」であるとの認識を示した<ref name="minkei">[[猪瀬直樹]]『民警』[[扶桑社]]、2016年 ISBN 978-4594074432、204p-205p</ref><ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/068/0050/06805180050026c.html|title=衆議院会議録情報 第068回国会 地方行政委員会 第26号|accessdate=2018-04-19|website=kokkai.ndl.go.jp}}</ref>。

===後藤田五訓===
中曽根内閣で創設された内閣官房6室制度発足の場で、内閣官房長官の後藤田が、部下である初代の内閣五室長の[[的場順三]](内閣内政審議室)、国広道彦([[内閣外政審議室]])、[[佐々淳行]]([[内閣安全保障室]])、谷口守正([[内閣情報調査室]])、[[宮脇磊介]](内閣広報官室)に対して与えた訓示を、「後藤田五訓」という。長年仕え、初代内閣安全保障室長を務めた[[佐々淳行]]が自著に記したことで世に明らかとなった。内容は次のとおり。
中曽根内閣で創設された内閣官房6室制度発足の場で、内閣官房長官の後藤田が、部下である初代の内閣五室長の[[的場順三]](内閣内政審議室)、国広道彦([[内閣外政審議室]])、[[佐々淳行]]([[内閣安全保障室]])、谷口守正([[内閣情報調査室]])、[[宮脇磊介]](内閣広報官室)に対して与えた訓示を、「後藤田五訓」という。長年仕え、初代内閣安全保障室長を務めた[[佐々淳行]]が自著に記したことで世に明らかとなった。内容は次のとおり。
#出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え
#出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え
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本人はこの訓示を忘れていたらしく、佐々のところへ「今、人が来て『後藤田五訓を揮毫してくれ』と言うんだが、後藤田五訓とは何ぞ」と聞きに来て、佐々が説明すると「ワシ、そんな事言うたかな?どうせ君があることないこと吹聴しとるんじゃろう」と佐々が書いたメモを片手に帰っていったという<ref>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、152頁</ref>。
本人はこの訓示を忘れていたらしく、佐々のところへ「今、人が来て『後藤田五訓を揮毫してくれ』と言うんだが、後藤田五訓とは何ぞ」と聞きに来て、佐々が説明すると「ワシ、そんな事言うたかな?どうせ君があることないこと吹聴しとるんじゃろう」と佐々が書いたメモを片手に帰っていったという<ref>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、152頁</ref>。


==官房長官談話==
===官房長官談話===
:[[中曽根康弘]]総理大臣の[[靖国神社問題|靖国神社公式参拝]]中止時の談話
:[[中曽根康弘]]総理大臣の[[靖国神社問題|靖国神社公式参拝]]中止時の談話


「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有する[[A級戦犯]]に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の[[戦争]]への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「[[内閣総理大臣]]の[[靖国神社]]への公式参拝は差し控えることとした」
「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有する[[A級戦犯]]に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の[[戦争]]への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「[[内閣総理大臣]]の[[靖国神社]]への公式参拝は差し控えることとした」


またこの件を、「非常に残念だ。参拝というのは純粋に素直な気持ちで行えばいい。それを公人、私人といった分け方で言うのはおかしい。」と話した。
またこの件を、「非常に残念だ。参拝というのは純粋に素直な気持ちで行えばいい。それを公人、私人といった分け方で言うのはおかしい。」と話した。つまり、戦争で逝った人たちを悼むという素朴な気持ちこそが大切である、というのであった。
つまり、戦争で逝った人たちを悼むという素朴な気持ちこそが大切である、というのであった。


なお、内閣総理大臣在任中の小泉純一郎による靖国神社参拝が問題になっていた頃、参拝に反対する自民党議員の勉強会に講師として呼ばれた後藤田は「くだらない負け惜しみは言わない方がいい」と発言している{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=147-148}}。
==政治家引退の時の演説==

===阪神・淡路大震災への対応===
[[阪神・淡路大震災]]発生翌日に首相官邸を訪ね、「総理、地震は天災だから防ぎようがない、しかしこれからは、まかりまちがうと人災になる。しっかりやってくれ」と[[村山富市]]を叱咤激励した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=124}}。

その後、竹下登の要請を受けて阪神・淡路復興委員会の特別顧問に就任<ref name=":1">{{Cite web|title=復興へ 第18部 この国 震災3年の決算|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/03/rensai/199801/0005609972.shtml|website=神戸新聞NEXT|accessdate=2019-12-16|date=1998-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|title=衆議院会議録情報 第132回国会 議院運営委員会 第7号|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/132/0440/13202170440007c.html|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2019-12-16}}</ref><ref>{{Cite web|title=参議院会議録情報 第132回国会 議院運営委員会 第5号|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/132/1440/13202171440005c.html|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2019-12-16|publisher=国立国会図書館}}</ref>。震災への対応にあたる村山内閣を補佐し、社会党への批判が集まる中、「誰が代わりにやれば出来ると言うんだ?自民党政権だって出来ないよ」と庇った<ref>{{Cite web|title=昭和偉人伝|url=https://archives.bs-asahi.co.jp/ijinden/prg_029.html|website=BS朝日|accessdate=2019-12-16}}</ref>。

後藤田は[[運輸大臣]]の[[亀井静香]]に[[神戸港]]の復旧を最優先にするよう指示したとするが<ref name=":1" />、その一方で復興委員会第1回会合では「焼け太りは認められない」<ref>{{Cite web|title=阪神大震災から22年で思い出す3人|url=https://www.sankei.com/west/news/170116/wst1701160047-n1.html|website=産経WEST|accessdate=2019-12-16|author=[[鹿間孝一]]}}</ref>、第2回会合では「計画は物理的、社会的、財政的にぎりぎりの線でやってほしい。それを超すと理想倒れになる」「政府としては個人の損失に直接補償しない建前だ」と発言し<ref>{{Cite web|title=災の国~問われる「覚悟」~ |(3)被災地の夢 政と官の壁手も足も出ず|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/20/rensai/201501/0007631885.shtml|website=神戸新聞NEXT|accessdate=2019-12-16|date=2015-01-04}}</ref>、公平性などの観点から国からの支援はインフラの復旧までであり、それ以上の計画については原則地元の責任と資金で行うべきであるとの方針を示した。この「'''後藤田ドクトリン'''」によって復興予算が削減されたことが、震災前までは[[コンテナ]]取扱量で世界第3位であった神戸港が[[釜山港]]に水をあけられて[[国際競争]]に敗れた原因であるとする主張がある<ref>{{Cite web|title=震災20年 復興の課題と成果は 有識者に聞く|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/20/201501/0007632092.shtml|website=神戸新聞NEXT|accessdate=2019-12-16|date=2015-01-04}}</ref><ref>{{Cite journal|author=[[五百籏頭真]]|date=2014-10-16|title=特別講演Ⅰ 「大震災の時代に生きる」|url=https://redcross.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=17&item_id=5844&item_no=1|journal=日赤医学|volume=66|pages=31–33}}</ref><ref>{{Cite web|title=【対韓 最後通牒】GSOMIA破棄までする韓国…有事の際はどうなる!? 「軍事境界線」近いソウルや仁川、日本人の滞在・旅行は減らすべき 空港や港湾のハブを奪還せよ|url=https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190828/pol1908280002-n1.html|website=zakzak|accessdate=2019-12-16|author=[[八幡和郎]]|date=2019-08-28}}</ref>。

後藤田は後日のインタビューで、当時としては最大級の予算を[[大蔵省]]から引き出したとしつつ、復興委員会では都市建設や開発に論議が集中しており、職を失った人たちへの手当て等の生活の復旧についての議論が足りなかったと述べた<ref name=":1" />。

===政治家引退の時の演説===
[[警察庁長官]]から政界に進出し、[[内閣官房長官]]まで務めた後藤田が公職から退く際、演説を行った。その中で後藤田は「私には心残りがある」と語り、その一つは政治改革を掲げつつそれが単なる選挙制度改革で終わってしまったこと、そしてまた一つは、警察官僚として部下に犠牲を強いてしまったことだという。警察庁時代に「のべ600万人の[[日本の警察官|警察官]]を動員した[[安保闘争|第二次安保]]警備で、『殺すなかれ』『極力自制にせよ』と指示した結果、こちら側に1万2000名もの死傷者を出してしまった。いまでも私は、その遺族の方々や、生涯治ることのない[[身体障害|ハンデキャップ]]を背負った方々に対して、本当に心が重い。これが私の生涯の悔いである」と語っている<ref>佐々淳行 『日本の警察』 PHP新書、1999年、54頁</ref>。
[[警察庁長官]]から政界に進出し、[[内閣官房長官]]まで務めた後藤田が公職から退く際、演説を行った。その中で後藤田は「私には心残りがある」と語り、その一つは政治改革を掲げつつそれが単なる選挙制度改革で終わってしまったこと、そしてまた一つは、警察官僚として部下に犠牲を強いてしまったことだという。警察庁時代に「のべ600万人の[[日本の警察官|警察官]]を動員した[[安保闘争|第二次安保]]警備で、『殺すなかれ』『極力自制にせよ』と指示した結果、こちら側に1万2000名もの死傷者を出してしまった。いまでも私は、その遺族の方々や、生涯治ることのない[[身体障害|ハンデキャップ]]を背負った方々に対して、本当に心が重い。これが私の生涯の悔いである」と語っている<ref>佐々淳行 『日本の警察』 PHP新書、1999年、54頁</ref>。


後藤田の警察庁時代は[[日本の学生運動|学生運動]]が過激化し、[[極左]][[過激派]]によるテロや[[暴動]]が頻発していた時期であり、[[警備]]などに従事していた警察官に多くの死傷者が出て、後藤田はこれへの対処に追われた。例として、後藤田が警察庁長官であった[[1971年]][[9月]]、[[三里塚闘争]]渦中の[[成田空港予定地の代執行]](第二次代執行)中に起きた[[東峰十字路事件]]では、後方警備に従事していた[[機動隊#第二機動隊(方面機動隊・特別機動隊)|特別機動隊]]が過激派などの空港反対派の集団によるゲリラ襲撃を受け、機動隊員に[[火炎瓶]]が投げ付けられ、火だるまになり、のた打ち回っている所を[[鉄パイプ]]や[[角材]]、[[竹槍|竹ヤリ]]などで滅多打ちにされて隊員3名が死亡し、約100名が重軽傷を負った。負傷した若い隊員の中にはあごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫い、一時重体となった隊員もいた<ref>読売新聞 2007年12月26日付記事</ref>。警察庁時代の後藤田の部下であった[[佐々淳行]]は著書の中で、これら悲痛な思い出が、後藤田に引退の際の台詞を言わせたのではないかと語っている<ref>佐々淳行 『日本の警察』 PHP新書、1999年、54,55頁</ref>。
後藤田の警察庁時代は[[日本の学生運動|学生運動]]が過激化し、[[極左]][[過激派]]によるテロや[[暴動]]が頻発していた時期であり、[[警備]]などに従事していた警察官に多くの死傷者が出て、後藤田はこれへの対処に追われた。例として、後藤田が警察庁長官であった[[1971年]][[9月]]、[[三里塚闘争]]渦中の[[成田空港予定地の代執行]](第二次代執行)中に起きた[[東峰十字路事件]]では、後方警備に従事していた[[機動隊#第二機動隊(方面機動隊・特別機動隊)|特別機動隊]]が過激派などの空港反対派の集団によるゲリラ襲撃を受け、機動隊員に[[火炎瓶]]が投げ付けられ、火だるまになり、のた打ち回っている所を[[鉄パイプ]]や[[角材]]、[[竹槍|竹ヤリ]]などで滅多打ちにされて隊員3名が死亡し、約100名が重軽傷を負った。負傷した若い隊員の中にはあごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫い、一時重体となった隊員もいた<ref>読売新聞 2007年12月26日付記事</ref>。警察庁時代の後藤田の部下であった[[佐々淳行]]は著書の中で、これら悲痛な思い出が、後藤田に引退の際の台詞を言わせたのではないかと語っている<ref>佐々淳行 『日本の警察』 PHP新書、1999年、54,55頁</ref>。


=== 憲法と安全保障 ===
==エピソード==
警察予備隊本部課長時代、[[福知山市]]で水害が生じたときに駐屯地の司令が手続きを踏まずに独断で部隊を出動させる出来事があった。このとき後藤田は「実力をもった部隊の独断専行は絶対、許すべきではない」「こういうときこそ、将来のため、現在において厳しい躾をしておかなくてはならない」と、[[文民統制]]徹底の観点から厳しい姿勢で臨んでいる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=199-200}}。
*学生運動が盛んであった警察庁次長時代、警官を殺しかねないような暴れ方をしていた学生が逮捕されると「お巡りさん、[[タバコ]]くれませんか」などと態度を一変すると言う情報を得た後藤田は、「基本的には革命など起こるわけがない」と確信した。対処にあたる警官には能力がありながらも経済的に進学できなかった若者が多かったのに対し、暴れる学生ほど家庭に恵まれており、精鋭化した暴徒学生は所詮は社会のはぐれ者にしかならないと見抜いたのである<ref name="hosaka" />。

*[[警備業]]の黎明期にあった1970年代、[[特別防衛保障]]をはじめとする警備会社の不当事案が社会問題化していた。[[警備業法]]の制定など規制強化が図られる中、後藤田は警察庁長官として「プライベートポリスの思想、これは我が国においては認めたくないというのが私の基本的な考え方でございます」としながらも、警備会社は「必要悪」であるとの認識を示した<ref name="minkei">[[猪瀬直樹]]『民警』[[扶桑社]]、2016年 ISBN 978-4594074432、204p-205p</ref><ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/068/0050/06805180050026c.html|title=衆議院会議録情報 第068回国会 地方行政委員会 第26号|accessdate=2018-04-19|website=kokkai.ndl.go.jp}}</ref>。
後年は安全保障や憲法の問題に関してはハト派寄りの発言が多いことで知られたが、[[日本国憲法第9条|憲法第9条]]について問われた時、「いまのような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか、将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」と自衛隊への理解や憲法改正の容認を示し<ref name="hosaka" />、「書きすぎの感がある」「賞味期限がきているのではないか」とも述べていた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=49}}。後藤田自身は1項については保持し、2項については「領域外での武力行使は行わない」と明記すべきとの考えであったといわれる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=49}}。すなわち、独立・自存のための[[自衛権]]は憲法以前の[[自然権]]としていずれの国でも認められるものであり、最低限の武力装置を備えておくのは当然であるが、海外派兵に関するあらゆる方便を排除するために海外での武力行使禁止を明示すべきであるというのが後藤田の基本的考えであった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=360・363}}。
*[[成田空港予定地の代執行|成田空港予定地での第一次代執行]]直後にヘリコプターで現地を視察した後藤田は、反対派について「ありゃあ蟷螂の斧じゃのう」と言い帰京したという。運輸[[政務次官]]として[[成田空港問題]]に対処していた[[佐藤文生]]は、後藤田は現場を勇気づける意味で言ったのだろうとしながらも、東峰十字路事件が発生した第二次代執行において警察庁の指示で警察の動員数が千葉県警が作成した当初計画より削減されたことへの一つの説として、このエピソードが警察庁幹部に影響したといわれているとしている<ref>{{Cite book|author=[[佐藤文生]]|title=はるかなる三里塚|date=|year=1978|accessdate=|publisher=講談社|pages=108-109|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。

*{{要出典範囲|政界進出後、警察官僚時代を振り返り[[社会党]]と[[民社党]]は警察庁のマークの対象外だったとし「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは[[共産党]]と[[公明党]]だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」としていた。|date=2018年3月}}
[[日本国憲法]]そのものについては、「生まれは決して良いとは言えない」「本来は占領終了直後に日本人の手によってつくり直すべき筋合いのものであった」としながらも、「人類が将来向かっていくべき理想を掲げている」とその意義を認めている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=360}}。

[[冷戦]]終結後は米軍への基地供与には消極的であり、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]を平和友好条約に変換すべきとの考えも持っていたが{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=125}}{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=362}}、[[普天間基地移設問題]]に関して[[岡本行夫]]から[[辺野古]]移設について説明を受けたときには否定も肯定もしなかった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=134}}。

=== 経済政策 ===
「土地の[[私的所有権|私有権]]はそりゃあ大事だろう。だがそのうえに胡座をかいていていいのか。社会生活や[[国民経済]]にプラスに働くように、土地の私有権と言うものを使っていかなければいかないのではないか。私有権ばかりを重視していては国民生活はどうなるのか」<ref name="hosaka"/>と[[公共の福祉]]と[[財産権]]のバランスを取るべきとの認識を示すとともに、「政府の経済政策の基本原則は、国民が自分の持ち家を持って、家族が一家団欒で生活できるようにすることだが、こんなに不動産が上がったら、それが不可能になるだろう」と地価の上昇とそれを煽る銀行の姿勢に懸念を表明し、官房長官として銀行局長に指示を出したのがきっかけで、[[住宅金融専門会社]]ができた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=101-102}}。

「競争社会にしないと世界的な競争に耐えられないということはわかるんだけれども、競争社会の中で落ちていく人のことをどうするんだということをぜひ考えてもらいたい」と述べ、[[格差社会]]に対する警鐘を鳴らしている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=169}}。

=== 中国との関係 ===
内閣官房長官在任中の中曽根政権時代の[[日中関係史|日中関係]]は、中曽根の参拝が発端となった[[靖国神社問題]]や[[光華寮訴訟]]に関する摩擦もあったが、当時の[[中国共産党]]首脳が比較的親日的であったこともあり、総じて良好な状態だった。

後藤田は1994年に[[日中友好会館]]会長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}<ref>{{Cite news|url=http://www.china-embassy.or.jp/jpn/jbwzlm/zrgx/t511580.htm|title=日中友好会館が本館落成20周年祝賀会|work=|newspaper=[[駐日中華人民共和国大使館]]|date=2008-09-06|accessdate=2017-11-20}}</ref>を務め[[中華人民共和国]]に対する太いパイプをもち、後藤田自身も「[[一つの中国]]」を支持するなど中華人民共和国に対しては基本的に融和的な姿勢を示していた{{refnest|group=注釈|清華大学での講演で「台湾人は台湾人であっても、心はそれぞれ福建人、広東人、客家人、であり、それはつまり中国人だということである。台湾人の心は、自分は中国人であり、自分の祖国は中国であり、中国はひとつの国家だということである」と述べている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=179}}。}}。

一方で、[[江沢民]]による厳しい対日政策が行われていた1999年には、中国の要人を前に「両国関係で最も重要なのは、双方の国民感情が良い方向へ向かうことだ。そのためには、指導者、報道機関などが、つねに友好を育てる方向を向いていなければならない」と苦言を呈することもあった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=186}}。

=== 人間関係 ===
==== 田中角栄 ====

1952年の暮れに、後藤田が「第二機動隊構想」の腹案を実現するため、翌年度予算での警察予算の増額を衆院予算委員会のメンバーであった田中に陳情したことから交流が始まった。田中は引き受けた陳情は必ず実現し、両者の信頼関係は深まっていた<ref name=":3">{{Cite web|title=田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(上)|url=https://wjn.jp/article/detail/8812136/|website=週刊実話|accessdate=2019-12-16|author=小林吉弥}}</ref>。

阿波戦争で破れたことは田中へのダメージとなったが、田中は「ワシのことは気にせんでいい」と後藤田を気遣った<ref name=":2" />。

後藤田は政界の頂点に上り詰めた田中に対してはっきりと直言し、田中もそれを許容した<ref name=":3" />。

後年、「田中派には二階堂(進)、[[江崎真澄|江崎(真澄)]]、後藤田という3人の首相候補がいる。順番を間違ってはいかんッ」と田中が言ったことがある。これは独自の動きを見せ始めた竹下登を牽制してのことであるが、同時に田中の後藤田に対する信頼の厚さが伺える。田中派の大部分が竹下派になびいた後も、後藤田は組せずに田中への筋を通した<ref>{{Cite web|title=田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(下)|url=https://news.nifty.com/article/domestic/government/12151-499776/|website=ニフティニュース|accessdate=2019-12-16|author=小林吉弥|date=2019-12-16}}</ref>。

後藤田は「私が政界入りしてすぐ大臣になったり官房長官として長く政府の中枢にいるなど厚遇されたのも、田中さんのお陰である。(中略)そういう意味で私は田中さんに恩義を感じている」と述べている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=174}}。

==== 中曽根康弘 ====
大戦後半に米軍の台湾上陸に備えて防衛体制構築が図られ、後藤田は陸軍の資材獲得の任務についたが、海軍も同様に資材を求めて競争となり、相手の手強さに辟易としていた。戦後、中曽根と懐旧談をしていたときに実はその指揮を取っていた海軍主計将校が中曽根であったことがわかり、お互い笑って握手し健闘を讃えた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=25}}。

==== 村山富市 ====
[[日本社会党委員長]]に就任した直後の[[村山富市]]と会食を持ち、「自衛隊の認否については貴方の党と私の考えは違う。それは仕方がないとしても、武装した自衛隊を海外に出さないということについては一致するのではないか。是非この一線だけはお互いに守っていきたい」と話した。村山が首相となった後も[[阪神・淡路大震災]]などの折に触れて後藤田はアドバイスや激励を送り、村山も耳を傾けていた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=-122-126}}。

===エピソード===

*{{要出典範囲|政界進出後、警察官僚時代を振り返り[[社会党]]と[[民社党]]は警察庁のマークの対象外だったとし「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは[[共産党]]と[[公明党]]だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」としていた。|date=2018年3月}}。一方で、晩年に[[不破哲三]]から著書を送られたときには丁寧な書状を返しており、そのうち一通は死の一週間前に書かれたものであった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=254-256}}。
*中曽根は組閣に際して田中にトイレで「後藤田を貸してもらえませんか?」と官房長官登用を交渉したといわれるが<ref>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』 文春文庫、2002年、232頁</ref>、中曽根自身の回顧では[[九段]]の料亭で田中と会食したときに申し入れたとされている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=21}}。
*{{要出典範囲|最初の選挙で逮捕者を出して以降、講演会の出納簿を予算性に変え、後藤田が自らチェックを行った。|date=2018年3月}}
*{{要出典範囲|最初の選挙で逮捕者を出して以降、講演会の出納簿を予算性に変え、後藤田が自らチェックを行った。|date=2018年3月}}
*{{要出典範囲|当時政局の焦点となっていた[[ロッキード事件]]の公判の前日、内閣官房長官の記者会見の席上で「ときに、裁判のある日はいつでしたかね」と問いかけ、記者たちを唖然とさせた。|date=2018年3月}}
*{{要出典範囲|当時政局の焦点となっていた[[ロッキード事件]]の公判の前日、内閣官房長官の記者会見の席上で「ときに、裁判のある日はいつでしたかね」と問いかけ、記者たちを唖然とさせた。|date=2018年3月}}
*官房長官の初仕事である閣僚名簿の発表の際、閣僚の名前を読み間違えることがあった(例えば[[羽田孜]][[農林水産大臣]]を「はだしゅう」、[[鈴木省吾 (政治家)|鈴木省吾]]法務大臣を「すずきしょうご」、[[河野洋平]][[科学技術庁長官]]を「かわのようへい」等と読み間違えた)。これは、通常であれば最初に決まる官房長官ポストの調整が難航し、後藤田が各閣僚の名前の読みを確認する時間がなかったためである<ref>後藤田正晴 『情と理㊦ カミソリ後藤田回顧録』 講談社α文庫 p148-149</ref>。
*官房長官就任に際し、中曽根は田中にトイレで「後藤田を貸してもらえませんか?」と交渉したという<ref>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』 文春文庫、2002年、232頁</ref>。
*[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンであり、自ら入場券を購入して一般のファンと一緒に観戦した。[[明治神宮野球場]]で[[ファウルボール]]に危うく当たりかけたことがある。「ジャイアンツは駄目だ。あんなデブばっかりそろえて非常識だ。勝てるわけないじゃろ」と苦言を呈し、スター選手ばかりを集めて若手の育成を怠るジャイアンツの行く末を心配していた。同じ徳島出身の[[上田利治]]を参院選出馬に勧誘したことがある{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=261・321-323}}。
*官房長官の初仕事である閣僚名簿の発表の際、閣僚の名前を読み間違えることがあった(例えば[[羽田孜]][[農林水産大臣]]を「はだしゅう」、[[鈴木省吾 (政治家)|鈴木省吾]]法務大臣を「すずきしょうご」、[[河野洋平]][[科学技術庁長官]]を「かわのようへい」等と読み間違えた)。これは、通常であれば最初に決まる官房長官ポストの調整が難航し、後藤田が各閣僚の名前の読みを確認する時間がなかったためである。<ref>後藤田正晴 『情と理㊦ カミソリ後藤田回顧録』 講談社α文庫 p148-149</ref>
*後藤田の自宅には毎日深夜に右翼から電話がかかってきていた。それを聞いた[[板東英二]]が電話番号を変えるよう進言すると、「バカ、そんなことをしたら誰が彼らの話を聞いてやるんだ」と取り合わなかった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=262}}。
*{{要出典範囲|1993年に[[村山富市]]が[[日本社会党委員長]]に就任時、「[[自衛隊]]について社会党と意見の違いはあるけど、自衛隊が武装して海外に出ていくことには反対しなければならない。その点は同じ考えです」と話した。「自衛隊の[[自衛隊海外派遣|海外派遣]]や[[集団的自衛権]]の行使など、憲法が認めないことがなし崩しになることに危惧を抱いていた」と評価していた。首相時代の村山にとって後藤田は良き相談相手の一人であった。|date=2018年3月}}
*[[東京ディズニーランド]]の開園準備を行っていた[[高橋政知]]・[[加賀見俊夫]]ら[[オリエンタルランド]]・[[三井不動産]]・[[京成電鉄]]の経営陣の相談役であった。オープンに立ち会った後藤田はいたく気に入り、その後もアトラクションのオープンやイベントの開催に立ち会った{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=278-279}}。
*安全保障や憲法の問題に関してはハト派寄りの発言が多いことで知られるが、[[日本国憲法第9条|憲法第9条]]について問われた時、「いまのような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか、将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」と自衛隊への理解や憲法改正の容認を示す発言をしている。ただし、自身を含む[[太平洋戦争]]に関わった世代は徒に憲法改正を口にすべきではないという持論であった<ref name="hosaka"/>。
*部下には「雷」を落としまくっていた後藤田であったが、自然現象の[[雷]]は苦手だった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=308-309}}。
*[[石附弘]]に[[西郷隆盛]]と[[大久保利通]]のどちらが好きか尋ねられると、「そんなこと決まってるじゃないか。大久保だよ、君。近代日本の基礎は、大半大久保がつくったんだ」と答えた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=315}}。
* [[昭和天皇]]にご進講をすることが何度かあり、厳しくも温かい叱責を受けることがあった。夫人が一人で[[園遊会]]に出席したときには、昭和天皇自ら「後藤田長官は大変だね」「長官によろしくね」と声がけした。昭和天皇の最初の体調異変と言われる、1987年の誕生日の祝宴での嘔吐にいち早く気づき、夫人を伝令役にして[[山本悟 (侍従長)|山本悟]]宮内庁次長に事態を伝えている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=381-382}}。
*警察官の増員については、警察官の使い方に無駄が多く組織運営の合理化・効率化をするべきとして長らく認めなかったが、1995年に[[オウム真理教]]のテロなど警察事象の増加や治安の悪化が深刻になると一転して大増員を承諾し、各省庁への根回しを行った{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=302}}。
*内務官僚出身の後藤田は「[[内務省 (日本)|内務省]]を復活させなければ死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、警察庁でコンビを組んでいた[[渡部正郎]]が、前述の発言は後藤田のものだと証言している<ref>田原総一朗 『警察官僚の時代』 講談社文庫 p.17</ref>。なお、同じく内務官僚出身だった中曽根は、内閣総理大臣の時に'''内政省'''の名で復活を検討したが、後に断念して代わりに[[総務庁]]が設置されて後藤田は初代長官となった。
*内務官僚出身の後藤田は「[[内務省 (日本)|内務省]]を復活させなければ死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、警察庁でコンビを組んでいた[[渡部正郎]]が、前述の発言は後藤田のものだと証言している<ref>田原総一朗 『警察官僚の時代』 講談社文庫 p.17</ref>。なお、同じく内務官僚出身だった中曽根は、内閣総理大臣の時に'''内政省'''の名で復活を検討したが、後に断念して代わりに[[総務庁]]が設置されて後藤田は初代長官となった。


==語録==
===語録===

*「われわれの任務は、この[[安田講堂]]だけで終わるわけではない。治安というのは、長期的に見て取り組まなければならない。必要なのは、彼らに敵対心だけを与えないことだ。いずれ彼らも善良な市民として育っていくわけだから、そういうしこりをのこすと長い目でみれば不利になる。今、必要なのは彼らの行動を国民から浮き上がらせてしまうことだ。なんと愚かなことをしているのか、と理解してもらうことだ。少々対応が遅れて、警察は何をやっている、と非難されても構わない。われわれは軍隊とは異なるのだから…」 - [[東大安田講堂事件]]に際して<ref name="hosaka"/>
==== 官僚時代 ====
*「過激派のテロで、第一線の若い警察官が殉職するのは気の毒であり、対策を急がねばならないが、本当に怖いのは過激派ではなくて、違法な手段で政権奪取を狙う共産党だ」<ref name="hosaka"/>

*「こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこい」 - 東峰十字路事件の責任を取ろうと[[辞表]]を持参した千葉県警本部長に対して<ref name="hosaka"/>
*「われわれの任務は、この[[安田講堂]]だけで終わるわけではない。治安というのは、長期的に見て取り組まなければならない。必要なのは、彼らに敵対心だけを与えないことだ。いずれ彼らも善良な市民として育っていくわけだから、そういうしこりをのこすと長い目でみれば不利になる。今、必要なのは彼らの行動を国民から浮き上がらせてしまうことだ。なんと愚かなことをしているのか、と理解してもらうことだ。少々対応が遅れて、警察は何をやっている、と非難されても構わない。われわれは軍隊とは異なるのだから…」 - [[東大安田講堂事件]]に際して<ref name="hosaka" />
*「過激派のテロで、第一線の若い警察官が殉職するのは気の毒であり、対策を急がねばならないが、本当に怖いのは過激派ではなくて、違法な手段で政権奪取を狙う共産党だ」<ref name="hosaka" />
*「こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこい」 - 東峰十字路事件の責任を取ろうと[[辞表]]を持参した千葉県警本部長に対して<ref name="hosaka" />
*「新聞は警察官が過激派の火炎びんを浴びて殉職すると『死亡』と書く。どうして『殺人』と書かないんだ。あれは誤報だ」<ref name="hosaka" />
*「新聞は警察官が過激派の火炎びんを浴びて殉職すると『死亡』と書く。どうして『殺人』と書かないんだ。あれは誤報だ」<ref name="hosaka" />
*「[[羽仁五郎]]のように若い過激派をおだてて原稿料を稼ぐやつほど、この世で悪いやつはいない。お金になるといえば、何をやってもいいのか」<ref name="hosaka" />
*「[[羽仁五郎]]のように若い過激派をおだてて原稿料を稼ぐやつほど、この世で悪いやつはいない。お金になるといえば、何をやってもいいのか」<ref name="hosaka" />
*「[[ゴルフ]]なんて簡単ですよ。ボールを馬鹿な政治家か意地の悪い[[新聞記者]]の頭だと思ってひっぱたけばよく飛びますよ」<ref name="hosaka"/>
*「[[ゴルフ]]なんて簡単ですよ。ボールを馬鹿な政治家か意地の悪い[[新聞記者]]の頭だと思ってひっぱたけばよく飛びますよ」<ref name="hosaka" />
*「君、そんな馬鹿な・・・」 - [[山岳ベース事件]]により連合赤軍のメンバー12人がすでに殺されていたという報告を受けて<ref>{{Cite book|author=久能靖|title=浅間山荘事件の真実|date=|year=2002|accessdate=|publisher=河出文庫|page=351}}</ref>。
*「君、そんな馬鹿な・・・」 - [[山岳ベース事件]]により連合赤軍のメンバー12人がすでに殺されていたという報告を受けて<ref>{{Cite book|author=久能靖|title=浅間山荘事件の真実|date=|year=2002|accessdate=|publisher=河出文庫|page=351}}</ref>。
*「君らに迷惑がかからんように夕刊の締め切り時間も調べておいたんだ」 - 新聞記者らに自身の警察庁長官辞任を伝えたときのことについて<ref name="hosaka"/>
*「君らに迷惑がかからんように夕刊の締め切り時間も調べておいたんだ」 - 新聞記者らに自身の警察庁長官辞任を伝えたときのことについて<ref name="hosaka" />

*「土地の[[私的所有権|私有権]]はそりゃあ大事だろう。だがそのうえに胡座をかいていていいのか。社会生活や[[国民経済]]にプラスに働くように、土地の私有権と言うものを使っていかなければいかないのではないか。私有権ばかりを重視していては国民生活はどうなるのか」<ref name="hosaka"/>
==== 田中政権 ====

*「本当に俺は世の中を知らないと思った。俺が見てきたのは、せいぜい『制度の中の悪人』だけだった。あいつら言葉巧みで、思わず俺も騙されたんだよ。まあでも、俺を騙せたんだから大したもんだ」 - 最初の選挙での失敗を振り返って<ref>{{Cite news|title=あの田中角栄が惚れ込んだ最強の官房長官「カミソリ後藤田」の素顔(週刊現代)|url=http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48711?page=2|accessdate=2018-04-05|language=ja-JP|work=現代ビジネス}}</ref>
*「本当に俺は世の中を知らないと思った。俺が見てきたのは、せいぜい『制度の中の悪人』だけだった。あいつら言葉巧みで、思わず俺も騙されたんだよ。まあでも、俺を騙せたんだから大したもんだ」 - 最初の選挙での失敗を振り返って<ref>{{Cite news|title=あの田中角栄が惚れ込んだ最強の官房長官「カミソリ後藤田」の素顔(週刊現代)|url=http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48711?page=2|accessdate=2018-04-05|language=ja-JP|work=現代ビジネス}}</ref>
*「総理、あなたはいま昇り龍だからいいが、下り龍になったら相手を見て物を言わんと足をすくわれますよ」 - 後藤田の前で「警察なんてチョロイ」と口を滑らせた田中角栄に対して<ref name=":3" />。

==== 中曽根政権 ====

*「修繕して担いだらどうだ。ダメになったら捨てたらいい」 - 総裁選で中曽根を推すことについて「あんなボロみこし担げない」といった金丸信に対して<ref>{{Cite web|title=時の在りか:長期政権を作ったふたり|url=https://mainichi.jp/articles/20191207/ddm/005/070/008000c|website=毎日新聞|accessdate=2019-12-18|author=伊藤智永|date=2019-12-07}}</ref>。
*「写真週刊誌の取材の行き過ぎもあり、'''ビート君'''の気持ちはよくわかる。かといって直接行動に及ぶのは許されることではない」 - 官房長官当時に発生した[[ビートたけし]]による[[フライデー襲撃事件]]について。たけしの暴力行為を批判しつつ[[写真週刊誌]]の姿勢を牽制した<ref>{{Cite news|title=事件から30年 「フライデー事件」が問いかけるもの(てれびのスキマ) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/tvnosukima/20161209-00065267/|accessdate=2018-04-05|language=ja-JP|work=Yahoo!ニュース 個人}}</ref>。
*「写真週刊誌の取材の行き過ぎもあり、'''ビート君'''の気持ちはよくわかる。かといって直接行動に及ぶのは許されることではない」 - 官房長官当時に発生した[[ビートたけし]]による[[フライデー襲撃事件]]について。たけしの暴力行為を批判しつつ[[写真週刊誌]]の姿勢を牽制した<ref>{{Cite news|title=事件から30年 「フライデー事件」が問いかけるもの(てれびのスキマ) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/tvnosukima/20161209-00065267/|accessdate=2018-04-05|language=ja-JP|work=Yahoo!ニュース 個人}}</ref>。

*「どんな立派な堤防でもアリが穴を開けたら、そこから水がちょろちょろ出て、いずれ堤全体が崩れることになる。」 - [[自衛隊ペルシャ湾派遣]]を牽制して<ref>{{Cite book|last=英治|first=大下|title=内閣官房長官秘録|url=https://www.worldcat.org/oclc/893833852|date=2014|publisher=Īsutopuresu|isbn=9784781650371|location=Tōkyō|last2=大下英治.|oclc=893833852}}</ref>。
==== その他 ====
*「江田君、死刑判決を下すのは司法だ。だが、辛い執行を行うのはわれわれ法務省だ。死刑判決を下すのであるならば、君ら裁判所が執行すればいい」 - 法務大臣時代、死刑廃止を申し入れてきた[[裁判官]]出身の[[江田五月]]に対し<ref name=":0">{{Cite book|author=堀川惠子|title=教誨師|date=|year=2014|accessdate=|publisher=講談社|isbn=4062187418|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。
*「No.2はNo.1の地位を狙ってはいかん。[[周恩来]]を見い。不倒翁といわれた周恩来は、決してNo.1になろうとせず、No.2に徹したから、[[毛沢東]]は安心してやれたし、[[林彪]]や[[鄧小平]]の競争心からの敵意も招かなかった。ワシはNo.2に徹する。名参謀総長じゃよ。トップを狙う野心がないから、中途入社の自民党でもワシのいる場所があったのだ」 - 竹下政権の後任として自民党総裁選に出馬するよう求めた内閣五室長に対して{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=78-79}}。
*「どんな立派な堤防でもアリが穴を開けたら、そこから水がちょろちょろ出て、いずれ堤全体が崩れることになる。」 - [[自衛隊ペルシャ湾派遣]]を牽制して<ref>{{Cite book|last=英治|first=大下|title=内閣官房長官秘録|url=https://www.worldcat.org/oclc/893833852|date=2014|publisher=Īsutopuresu|isbn=9784781650371|location=Tōkyō|last2=大下英治.|oclc=893833852}}</ref>。後藤田は自衛隊の海外派遣を牽制する際、しばしばこの「蟻の一穴」論を用いた。
* 「全公務員が楽しみにしている給料を値切るなんて悪い奴は地獄へ行け」 - 人事院勧告を受けた公務員給与改善を財政的事情で削減する案を説明に来た的場順三に対して。その後、折衝の結果バランスが取れた実施案に修正された{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=100-101}}。
*「江田君、死刑判決を下すのは司法だ。だが、辛い執行を行うのはわれわれ法務省だ。死刑判決を下すのであるならば、君ら裁判所が執行すればいい」 - 法務大臣時代、死刑廃止を申し入れてきた[[裁判官]]出身の[[江田五月]]に対し<ref name=":0">{{Cite book|author=堀川惠子|title=教誨師|date=|year=2014|accessdate=|publisher=講談社|isbn=4062187418}}</ref>。
* 「[[団塊の世代]]か。君らには悩まされた。君らは、数が多く、死ぬまで競い合い、バイタリティも能力もある。しかし、壊すことは得意だが、つくることは下手」 - [[細川興一]]が昭和22年生まれとわかり{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=109}}。
*「君たち一生懸命、勉強しろよ。それから誰にも負けない専門分野を持って一日三十分でもいいから本を読みなさい。もう一点。新聞社の名刺があるから、誰でも相手してくれることを忘れてはいかん。錯覚してはいかんよ」 - 取材に来る記者らに対し{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=236}}。
* 「自分を含め政治家は、いつも(刑務所の)塀の上を歩いている。常に十分に注意しないと内側に落ちる」{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=292}}

==== 引退後 ====

*「実際に国民の安全を守る責任を負う側としては可能な限り幅広く、強力、かつテロリスト側の様々な手法に弾力的に対処・運用できる法律が望ましいだろうが、それは同時に社会を暗くしやせんか。(中略)[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカ同時多発テロ]]のような大きな事件があった直後は国民は怒りと恐怖から強いリーダーシップを求め、何でもありの強権的措置を容認し、不自由さをも甘受する。しかしこれは長続きしない。事態が膠着し思うような結果が出ないとき、国民がどこまで我慢するか。リーダーは国民のテンションが高いときには逆に冷静に、抑制的になるように努めることだ。日本のような国でも権力がその気になって突っ走ると、これを止めるのは容易なことではない。権力が暴走するとき、法は権力に都合よく運用される。なればこそ、今ある法律や仕組みの中に権力を抑制するための先人の工夫が入っている。世の中の動きにつれ、方や制度が変わるのは当然だが、時として十分な議論もなく安易に方が改変され運用解釈が変えられていくのをみると、心配だ」{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=222}}
*「菅だけは絶対に総理にしてはいかん。」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」 - 厚生大臣としてマスコミで持ち上げられていた[[菅直人]]について。しかし、[[自社さ]]政権時の発言として連立政権への影響を考えて、御厨貴がオーラルヒストリーした際にオフレコだとして当時は削除させた<ref>「知の格闘: 掟破りの政治学講義 」p61,御厨貴 ,ちくま新書 ,2014年1月7日</ref>。
*「菅だけは絶対に総理にしてはいかん。」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」 - 厚生大臣としてマスコミで持ち上げられていた[[菅直人]]について。しかし、[[自社さ]]政権時の発言として連立政権への影響を考えて、御厨貴がオーラルヒストリーした際にオフレコだとして当時は削除させた<ref>「知の格闘: 掟破りの政治学講義 」p61,御厨貴 ,ちくま新書 ,2014年1月7日</ref>。
**なお、当の菅は後に総理大臣となって官房長官に[[仙谷由人]](菅同様に[[全学共闘会議|全共闘運動]]に参加し、ピース缶爆弾事件の弁護人を務めた過去があり、後藤田と同じ徳島県出身でもある)を起用した際、「よく中曽根政権の後藤田先生の名前が出るが、そうした力を持つ方でなければならない」と後藤田を引き合いに出し、仙谷も「官房長官の中では戦後最も実績を挙げた」と後藤田について言及している<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/premium/news/150830/prm1508300031-n1.html|title=【番頭の時代】第4部・永田町のキーマン(3) 「後藤田五訓」官僚の省益戒め 後藤田正晴元官房長官|accessdate=2018-12-06|last=INC|first=SANKEI DIGITAL|date=2015-08-30|website=産経ニュース|publisher=|language=ja}}</ref>。
**なお、当の菅は後に総理大臣となって官房長官に[[仙谷由人]](菅同様に[[全学共闘会議|全共闘運動]]に参加し、ピース缶爆弾事件の弁護人を務めた過去があり、後藤田と同じ徳島県出身でもある)を起用した際、「よく中曽根政権の後藤田先生の名前が出るが、そうした力を持つ方でなければならない」と後藤田を引き合いに出し、仙谷も「官房長官の中では戦後最も実績を挙げた」と後藤田について言及している<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/premium/news/150830/prm1508300031-n1.html|title=【番頭の時代】第4部・永田町のキーマン(3) 「後藤田五訓」官僚の省益戒め 後藤田正晴元官房長官|accessdate=2018-12-06|date=2015-08-30|website=産経ニュース}}</ref>。
*「『行政改革』『構造改革』等と言葉が大きくなりすぎて、国家すなわち中央省庁に有為な人材が集まらなくなった時、将来どうなるかが心配だ」 - 晩年、「今は役人暗黒時代で、役人イジメがひどすぎる」と嘆いた[[渡辺秀央]]に対して{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=69}}。

=== 評価 ===
* [[中曽根康弘]]「官僚出身でありながら、頑なに硬直せず、酸いも甘いも噛み分け、平生は温顔の政治家だった。然し、万般に亘り自己の定見を堅持し、時期を選んで国民に訴えておられた。その中身は公式や既成の所論に惑わされず、庶民、謂わば日本国民全般の世論を洞察し、また、日本のアジア諸国に対する、長期的将来的立場も洞察した上での緻密な思想の上での柔軟的発言であった。前歴が警察からの出身であるので、日本の一般大衆の心理への洞察と同時に、戦争の経験を経て日本の平和国家としての立場を些かも崩さずに、ややもすれば左右に傾こうとする日本の政治軌道を中央ラインに維持させることに懸命の努力を払っていたと思う{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=24}}」
* [[筑紫哲也]]「あくまでも大変なエリートでありますから、国家ということを軸に考えました。しかし、その国家の中身がかなり後藤田さん的であった。つまり、国家のために国民が犠牲になるとか、そういう形の国家の捉え方を非常に嫌った、国民があっての国なんだということをたえず考えた。旧内務官僚というのは大変戦前いろいろ悪評が高いわけですけれども、一方で主体的には自分たちが民を護るんだという『護民官』の意識が非常に強かったのだろうとわたしは思っております{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=46}}」
*[[ジェラルド・カーティス]]「私の後藤田氏のイメージを一つの言葉で言うならば、その言葉は『権力者』である。優れた政治家の特徴は、目的を実現するために権力を使いこなすだけではない。同時に重要なのは[[国家権力]]の怖さを知り、権力を慎重に扱うことである。彼は、公人としての長い人生経験から、政治指導者が自分の力を買いかぶって権力を乱用したり、間違った目的のために権力を使用することがどれほど危険であるかということを身にしみるほどわかっていたと思う。また、後藤田氏のいろんな発言を振り返ってみると、民主主義国においては国民の支持を得たうえではじめて正当な権力を発揮できるということを固く信じていたとわかる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=56}}」


==栄典==
==栄典==
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== 関連書籍 ==
== 関連書籍 ==
* [[保阪正康]]後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』(文藝春秋、1993年、[[文春文庫]]、1998年)
*{{Citation|和書|author=[[保阪正康]]|title=後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡|year=1993|publisher=[[文]]|isbn=978-4902127157|edition=}}
**改訂版後藤田正晴』([[中公文庫]](新編)、2009年、ちくま文庫(定本)、2017年) 
** 改訂版:{{Citation|和書|author=[[保阪正康]]|title=後藤田正晴|year=2009|publisher=[[中公文庫]]|isbn=978-4902127157|edition=}}
* [[佐々淳行]]わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』([[文藝春秋]]、2000年、文春文庫、2002年) ISBN 4167560097
*{{Citation|和書|author=[[佐々淳行]]|title=わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト|year=2000|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163561806|edition=}}
* 佐々淳行後藤田正晴と十二人の総理たち もう鳴らないゴット・フォン』(文藝春秋、2006年、文春文庫、2008年) ISBN 4167560151。続編
*{{Citation|和書|author=[[佐々淳行]]|title=後藤田正晴と十二人の総理たち もう鳴らないゴット・フォン|year=2006|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163681207|edition=}}
* [[津守滋]]後藤田正晴の遺訓 国と国民を思い続けた官房長官』([[ランダムハウス講談社]]、2007年)
*{{Citation|和書|author=[[津守滋]]|title=後藤田正晴の遺訓 国と国民を思い続けた官房長官|year=2007|publisher=[[ランダムハウス講談社]]|isbn=4270001941|edition=}}
*:著者は外務省出身で官房長官時代の秘書官。ISBN 4270001941
** 著者は外務省出身で官房長官時代の秘書官
* 『私の後藤田正晴』(同編纂委員会編、講談社、[[2007年]]9月)。[[三回忌]]に刊行
*{{Citation|和書|title=私の後藤田正晴|year=2007|publisher=講談社|isbn=4062139340|editor=『私の後藤田正晴』編纂委員会}}
*:[[政界]]官界関係者から[[岡本行夫]][[ジェラルド・カーティス]]・[[大宅映子]]等、関りのあった様々な立場の著名人三十名が執筆している。ISBN 4062139340
**後藤田と縁が深かった報道関係者が中心となり、[[三回忌]]となる2007年9月に刊行。[[政界]]官界関係者をはじめ、関りのあった様々な立場の著名人三十名が執筆している。
* [[御厨貴]]後藤田正晴と矢口洪一の統率力』([[朝日新聞出版]]、2010年) 
*{{Citation|和書|author=[[御厨貴]]|title=後藤田正晴と矢口洪一の統率力|year=2010|publisher=[[朝日新聞出版]]|isbn=978-4022507099|edition=}}
**改題後藤田正晴と[[矢口洪一]] 戦後を作った警察・司法官僚』([[ちくま文庫]]、2016年)。ISBN 4480433775
**改題:{{Citation|和書|author=[[御厨貴]]|title=後藤田正晴と[[矢口洪一]] 戦後を作った警察・司法官僚|year=2016|publisher=[[ちくま文庫]]|isbn=4480433775|edition=}}


== 演じた俳優 ==
== 演じた俳優 ==
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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2019年12月26日 (木) 18:53時点における版

後藤田 正晴
ごとうだ まさはる
生年月日 1914年8月9日
出生地 日本の旗 日本 徳島県吉野川市
没年月日 (2005-09-19) 2005年9月19日(91歳没)
出身校 東京帝国大学法学部政治学科卒業
所属政党 自由民主党
称号 陸軍主計大尉
正三位
勲一等旭日大綬章
法学士
親族 父・後藤田増三郎
甥・井上普方
大甥・後藤田正純

内閣 宮澤改造内閣
在任期間 1993年4月8日 - 1993年8月9日

日本の旗 第55代 法務大臣
内閣 宮澤改造内閣
在任期間 1992年12月12日 - 1993年8月9日

日本の旗 第47-48代 内閣官房長官
内閣 第2次中曽根第2次改造内閣
第3次中曽根内閣
在任期間 1985年12月28日 - 1987年11月6日

内閣 第2次中曽根内閣
第2次中曽根第1次改造内閣
在任期間 1984年7月1日 - 1985年12月28日

日本の旗 第45代 内閣官房長官
内閣 第1次中曽根内閣
在任期間 1982年11月27日 - 1983年12月27日

その他の職歴
日本の旗 第47代 行政管理庁長官
第2次中曽根内閣

(1983年12月27日 - 1984年6月30日
日本の旗 第27代 自治大臣
第37代 国家公安委員会委員長
第42代 北海道開発庁長官
第2次大平内閣

1979年11月9日 - 1980年7月17日
日本の旗 衆議院議員
1976年12月10日 - 1996年9月27日
日本の旗 第6代 警察庁長官
1969年8月12日 - 1972年6月24日
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後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年8月9日 - 2005年9月19日)は、日本の内務建設警察防衛自治官僚、政治家。官僚機構の頂点に立った後、政界に転身し内閣官房長官を長らく務め、「カミソリ後藤田」、「日本のアンドロポフ」、「日本のジョゼフ・フーシェ」などの異名を取った。

警察庁長官(第6代)、衆議院議員(7期・徳島県全県区)、自治大臣第27代)、国家公安委員会委員長第37代)、北海道開発庁長官(第42代)、内閣官房長官(第454748代)、行政管理庁長官(第47代)、総務庁長官(初代)、法務大臣第55代)、副総理宮澤改造内閣)などを歴任した。

来歴

生い立ち

1914年8月9日、徳島県麻植郡東山村(現在の吉野川市美郷)に生まれる。後藤田家は忌部氏の流れを汲むとされており、江戸時代には庄屋を務めた家柄である。

父親の後藤田増三郎は、自由党の壮士として出発し、徳島県議会議員、麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった。

しかし、1922年に父を、1923年に母を相次いで失い、のちに姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた[1]

富岡中学を経て、1932年旧制水戸高等学校(乙類)に入学[1]1935年東京帝国大学法学部法律学科に入学(1学期修了後に政治学科へ転科)した[1]。早くから官吏を志望していたが、外地勤務の思いも強く、南満州鉄道が第一希望だったといわれる。しかし1937年の満鉄入社試験では東大卒者と京大卒者それぞれに設けられた入社試験日を間違えて断念。高等文官試験にも失敗した。翌1938年には高文に8番の席次で合格、翌1939年に東京帝大法学部政治学科を卒業すると、内務省に入省した。入省同期には、同じ徳島出身で後に防衛官僚の事実上トップになる海原治がいる[1]

官僚時代

内務省では、土木局道路課に振出し配属される。1940年1月に富山県警察部労政課長に出向[1]。3月に陸軍徴兵され、4月に台湾歩兵第二連隊に陸軍二等兵として入営し[1]、5月に台湾歩兵第一連隊に配属される。内務省の高等官であった点と、甲種幹部候補生に合格したため、陸軍経理学校で学び[2]経理部将校候補生として陸軍軍曹を経て翌年の1941年10月には陸軍主計少尉に任官した[1]

1945年3月に結婚[1]、同年8月に主計大尉(ポツダム任官)で終戦を迎え、台北で悲嘆に暮れる日本人と対照的に爆竹を鳴らして喜ぶ台湾人の姿を目の当たりにする[注釈 1]台湾中国国民政府軍が進駐し、翌年の1946年4月まで捕虜生活を送った。

1946年5月、復員すると共に内務省に復職し[注釈 2]、5月付で神奈川県経済部商政課長[1]、10月に本省へ戻り、11月に地方局事務官となる[1]。又、同時期に内務省職員組合委員長となっている。1947年8月の警視庁保安部経済第二課長をきっかけに主に警察畑を歩み、内務省廃止後は警察庁に所属して警察官僚となった。

1949年3月、東京警察管区本部刑事部長[1]1950年8月、警察予備隊本部警務局警備課長兼調査課長[1]1952年(昭和27年)8月、国家地方警察本部警備部警邏交通課長[1]1955年7月、警察庁長官官房会計課長。1959年3月、自治庁税務局長の小林與三次らの引きで、自治庁長官官房長[1]、同年10月に税務局長[1]。なお“軍隊ではない”という建前の警察予備隊の階級呼称(尉官相当=警察士など)を考案したことは、警察予備隊時代の後藤田の携わった仕事の一つである。

自治事務次官に就いた小林の慰留を振り切り、1962年5月に警察庁に復帰し長官官房長[1]1963年8月に警備局[1]、1965年3月警務局長[1]・同年5月警察庁次長を経て[1]1969年8月警察庁長官に就任[1]。長官時代は、よど号ハイジャック事件(よど号乗っ取り事件)を始め、極左暴力集団によるテロ・ハイジャック成田空港予定地の代執行東峰十字路事件)・あさま山荘事件・爆弾事件などの対処に追われた。

この頃の部下の一人が、後に初代内閣安全保障室長を務める佐々淳行である。佐々の著作によれば、当時要人テロリズムを警戒して、護衛をつけて欲しいと再三促されたが、「有り難う。でも私は結構」[注釈 3]と、頑なに断り続けたという。なお、後藤田は実際に土田・日石・ピース缶爆弾事件の標的の1人となり、郵便爆弾が途中で暴発したことで難を逃れているが、このとき郵便局員が重傷を負っている。

1972年6月に警察庁長官を辞任した[1]。同年7月、第1次田中角栄内閣内閣官房副長官(事務)に就任[1]。田中の懐刀として辣腕を揮った。なお、田中は後藤田を引き入れる際に、内閣改造の暁には大臣にすることを約束したが、後藤田は選挙民の洗礼を受けなければ、そういうポストには就けないとして、国務大臣就任を断っている[5]。また、議員バッチのないまま要職につくことの限界を感じた後藤田は第33回衆議院議員総選挙に出馬することを希望したが、「この内閣は、君で持っているのだ。選挙戦で官邸がカラになったら、内閣は潰れてしまう」と田中に慰留され、機会を逃した[6]

政治家時代

後藤田は、1974年7月の第10回参議院議員通常選挙に郷里の徳島県から立候補する事を決めた。しかし、1人区である徳島県選挙区では、三木武夫(当時副総理)の城代家老と言われた久次米健太郎が現職であったことから、自民党公認を巡って党内が紛糾する。結局田中が押し切って後藤田に公認を与えたが、これに三木派が反発。久次米は無所属で立候補したため、県内で保守が真っ二つとなり、選挙戦は阿波戦争(三角代理戦争)と呼ばれる熾烈なものとなった[7]

当初は党主流派の支援を受けた後藤田が有利と見られていた。しかし結果は、久次米が19万6210票を取得したのに対し、後藤田は15万3388票で及ばず、敗北であった。さらに、後藤田が選挙に不慣れであったこともあって、陣営から268人もが徳島県警察によって選挙違反検挙されることとなり、「金権腐敗選挙」と強く非難される憂き目を見た。後藤田はお詫び行脚に奔走するとともに逮捕者には弁護士を手配した[8]。後に後藤田は、「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。更に強力な後ろ盾であった田中角栄田中金脈問題をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継総裁に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた。一方で後藤田は、このときの落選とその後の地道な選挙活動で、自分自身の世の中を見る目に甘さがあることに気づき、自分自身も変わったと述べている[9]

1976年第34回衆議院議員総選挙徳島県全県区(当時)から立候補し、ときの内閣総理大臣である三木武夫との直接対決となった。ロッキード事件に絡めたネガティブ・キャンペーンも受けたが、後藤田が落選以来地道に続けてきた地元への行脚が功を奏し、6万8990票を獲得して三木に続く2位当選を果たした。一方で、前回の参院選挙で後藤田を支援してくれた秋田大助と少年期に寝食を共にした甥の井上普方(社会党)が、最後の1議席を巡って5位争いをすることとなり、気まずい選挙でもあった(結果は、秋田が落選)[10]

この頃、徳島の闇社会のドンである山口組尾崎彰春を評して、「尾崎君は紳士だ」と警察官僚のトップにいた後藤田が発言したとして、世人の眉を顰めさせた。[要出典]

以後、自民党田中派に所属し、田中の庇護の下、当選回数が少ないにも拘らず、顕職を歴任した。

初めての国民参加型(一般党員・党友に投票権付与)による予備選挙が導入された1978年自由民主党総裁選挙において、田中派は現職の福田赳夫に挑む大平正芳を支持。選挙戦の指揮を執った後藤田は、党員名簿を調達し、東京都の一般党員・党友に対して、ヘリコプターまで利用した戸別訪問を行うなどのローラー作戦を敢行した。予備選挙の結果は、福田優勢との当初の下馬評を覆して、大平748点、福田638点。福田は「天の声にも変な声もたまにはある」と発言して本選挙を辞退、大平正芳内閣が成立した。1979年11月、第2次大平内閣自治大臣国家公安委員会委員長北海道開発庁長官として初入閣した[1]。この時当選回数僅か2回であり、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。1981年11月、鈴木善幸改造内閣で選挙制度調査会会長[1]

1982年11月、首班指名を受けた中曽根康弘に請われて、第1次中曽根内閣で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。首相派閥から選出することが慣例である内閣官房長官人事を他派閥から選出したこともあるが、これはロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、自派の人材難に悩む一方で内務省の後輩として後藤田の手腕と実力をよく知る中曽根本人の強い求めによるものであった[11]

当初、後藤田は、『今まで“君付け”していた者の下には就けない』(内務省入省年次では1939年入省の後藤田は、1941年入省の中曽根より先輩に当たる)と就任に難色を示していた。しかし、中曽根は、自派の人材難に加え、行政改革の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知し、情報収集能力を持つ後藤田を必要とした[注釈 4]。更に、長期的な視野で見れば田中派に対して中曽根が打ち込んだ楔でもあった。こうして、官房長官となった後藤田は、1982年12月のレフチェンコ事件[注釈 5]や、1983年1月の中川一郎の自殺事件、同年9月のソ連軍による大韓航空機撃墜事件[注釈 6]三原山噴火による住民の全島避難の際に優れた危機管理能力を発揮。1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故当時は、初代総務庁長官として、首相・中曽根を支えた。

行革推進

中曽根内閣が最大の課題とした行政改革では、1983年12月に行政管理庁長官[1]、1984年7月に新設された総務庁長官として[1]、3公社民営化などを推進した。第2次中曽根第2次改造内閣第3次中曽根内閣では内閣官房長官に再任され[1]、単なる内閣官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。

イラン・イラク戦争終結に当たり、海上自衛隊掃海艇ペルシャ湾に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対し、中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。中曽根政権の5年間、一貫して閣僚を務めたのは後藤田だけである。

今日では明らかとなっているが、1987年(昭和62年)の東芝機械ココム違反事件では、通商産業省は半ば黙認し、公訴時効になりかけた外為法違反を、外事課・生活安全課へ圧力をかけて、事件とさせたのは後藤田である。日米の摩擦が激化、中曽根首相が訪米した時期と併せての政治的判断であった。

こうした後藤田の重用は、自民党内、なかんずく出身母体の田中派の議員の激しいねたみを招いた。のちに首相となった橋本龍太郎は、後藤田よりかなり年下だが、当選回数が自分より遥かに少ない事から、一時期「後藤田クン」と呼び、内務省のエリート官僚である後藤田の誇りを傷つけたという。

これに加え、田中派が膨張策を取り、外様の議員が幅を利かせるようになり、元来田中直系ともいうべき、小沢一郎梶山静六羽田孜渡部恒三ら中堅若手は、世代交代を標榜する竹下登金丸信を担いで創政会を旗揚げした。その中で、田中は脳梗塞で倒れる。後藤田は、田中派が竹下派と二階堂進グループに分かれた際は、どちらにも与せず無派閥となる。

総裁候補

竹下内閣成立後は、暫く表舞台から退くが、リクルート事件の発覚により竹下首相が退陣を表明し、竹下同様の疑惑を抱えた派閥領袖が軒並み逼塞を余儀なくされる中、リクルート事件に無縁だった伊東正義田村元、福田赳夫、河本敏夫坂田道太らの長老と共に後継総裁候補に名前が挙がったが、後藤田は「私は総理にならないほうがいい。第一に警察出身者。二に田中角栄に見出してもらい、三に最初の選挙のとき陣営からたくさんの選挙違反者を出している。この三つでダーティイメージになってしまった。四に中曽根に五年仕えたことで、彼の影が拭えない。五番目は糖尿病だ。私は総大将には向かないのだよ」と述べ、総裁就任を固辞した。結局竹下は外務大臣宇野宗佑に白羽の矢を立てたが、リクルート事件や消費税導入、宇野首相の女性問題もあって短命に終わった。

宇野の後を受けた海部俊樹内閣では、伊東正義を本部長に擁する自民党政治改革推進本部の本部長代理となり、伊東や「ミスター政治改革」の異名をとる羽田孜らと共に小選挙区制導入に執念を燃やした。後藤田の案は後に導入された小選挙区比例代表並立制であったが、実際の案との大きな違いは、1票制であることだった。これは、小選挙区に投じた候補の政党が、そのまま比例区の政党票になるというものである。従って、野党各党が比例票を稼ぐには、共倒れを承知で小選挙区に独自候補を立てる必要があるというものだった。その性質上、野党選挙協力を封じる効果があり、自民党に極めて有利な内容だった。加えて、比例代表区は都道府県別に分割され、県によっては比例区の意味のない定数1となるところもあり、これまた第1党の自民党に極めて有利な内容だった。

1990年湾岸戦争が勃発し、アメリカからの自衛隊派遣の要請ないし圧力がかけられたときには一貫して反対姿勢を貫いた。

この時は結局、小泉純一郎ら自民党内の改革慎重派など、自民党内の反改革勢力によって政治改革法案が廃案に追い込まれ、「(政治)改革に政治生命を賭ける」と明言していた海部が首相続投を断念したために実を結ばなかったが、武村正義北川正恭など三塚派若手を中心とした改革積極派との間に強い信頼関係を築き、1993年に自民党下野の際、後継首班候補として後藤田の名があがる伏線となった。

副総理

1992年12月に宮澤改造内閣法務大臣に就任[1]第3次中曽根内閣で内閣官房長官を務めて以来、久々の入閣であった。1993年4月、副総理外務大臣渡辺美智雄が病気辞任したため、法相としては異例ながら副総理を兼務し、大物大臣として閣内において存在感を示した。当時すでに高齢であった後藤田の入閣に対し、政策研究の手間を取らせないため、官僚時代から精通していた治安系の官庁のトップである法務大臣として入閣したと見られる。[要出典]

法相在任中は、1989年11月の死刑執行から死刑執行停止状態(モラトリアム)が続いていたことについて「法治国家として望ましくない」との主旨の発言をし、1993年3月に3年4ヶ月ぶりに3人の死刑囚に対する死刑執行命令を発令した[15]。法相在任中に、警察庁長官として事件解決に携わった連合赤軍事件の永田洋子坂口弘の死刑が確定した時期であったことも注目された。また金丸信摘発にあたり、かつて田中の公判検事であった吉永祐介検事総長に起用するという過去の恩讐を越えた人事を行い話題を呼んだ。またカミソリといわれた官僚時代と異なり[注釈 7]、法相就任後は好々爺の雰囲気をかもし出し国民からも親しまれた。

しかし、選挙制度改革をめぐり、かつて政治改革に共に取り組んだ羽田孜らのグループの造反により宮澤内閣不信任決議案が可決される。羽田、小沢一郎らは自民党を離党し、新生党を結党。また、同じく政治改革を推進してきた武村正義鳩山由紀夫らのグループは、内閣不信任案には反対票を投じたものの、羽田らに次いで離党し、新党さきがけを結党した。解散総選挙の結果、自民党は羽田派の集団離党により過半数を割り、三塚博を中心に後藤田をポスト宮澤に推す動きがあったが、新生党の小沢一郎に機先を制され、細川護熙首班の非自民連立政権が成立した。宮澤の後任の自民党総裁には、後藤田が最も寵愛していた河野洋平が就任。後藤田は河野の指南役を務め、自民党の最高実力者となった。

政治家引退後

最初の小選挙区制の選挙となった1996年総選挙には、高齢を理由として出馬せず、政治の第一線を退いた。引退する旨を3人の子供に伝えた時、二世議員にならないよう頼んだという[17]。その後も政治改革、行政改革、外交、安全保障問題などで積極的に発言を続けた。

河野洋平を非常に可愛がり、与党の対中外交に影響を与えた。

つくる会」の新しい歴史教科書(扶桑社発行)の採択には、一貫して反対の立場をとった。

イラク戦争における自衛隊派遣に反対した。小泉純一郎内閣に対して「過度のポピュリズムが目立ち、危険だ」と批判した。また、小泉内閣のスローガンでもあった、「官から民へ」について、「利潤を美徳とする民間企業が引き受けられる限度を明示せずに、官から民へは乱暴である」と発言した[注釈 8]。また、小泉政権への牽制役として期待をかけていた野中広務が政界引退を表明したときには、自ら出向いて「日本にとって今が一番重要なときなんだ。恥をかかすことになるけれども『後藤田が止めた』と言って、あと三年頑張ってくれ」と頭を下げた[19]

佐々の著書によると、引退後も後藤田は現職の首相をはじめとする政権中枢に安全保障にかかわる問題や災害対応についてアドバイスを与えていた。また、佐々などかつての部下を総理大臣官邸に送って、処理の補助を行わせていたという[20]

引退後の後藤田は、しばしば右派勢力から「ハト派」「親中派」と目され、身辺での威圧や嫌がらせを受けていた。後藤田は病弱な妻を気遣っていたが、夫人はむしろ「もう遠慮することも失うこともないはず。言いたいことをどんどん言って下さい」と勧めたという[21]

後藤田は自分は保守的な政治家であるとし「自分が左派扱いされるのは、日本が右傾化し過ぎているのではないのか」と反駁した。

政界のご意見番的な立場でTBSの『時事放談』に出演していたこともある。

2005年9月19日肺炎のため死去、91歳だった。喪はしばらく伏せられた。その経歴に比して、ごく質素な葬儀だったという。

人物

治安維持

学生運動が盛んであった警察庁次長時代、警官を殺しかねないような暴れ方をしていた学生が逮捕されると「お巡りさん、タバコくれませんか」などと態度を一変させるという情報を得た後藤田は、「基本的には革命など起こるわけがない」と確信した。対処にあたる警官には能力がありながらも経済的に進学できなかった若者が多かったのに対し、暴れる学生ほど家庭に恵まれており、精鋭化した暴徒学生は所詮は社会のはぐれ者にしかならないと見抜いたのである[5]

成田空港予定地での第一次代執行直後にヘリコプターで現地を視察した後藤田は、反対派について「ありゃあ蟷螂の斧じゃのう」と言い帰京したという。運輸政務次官として成田空港問題に対処していた佐藤文生は、後藤田は現場を勇気づける意味で言ったのだろうとしながらも、東峰十字路事件が発生した第二次代執行において警察庁の指示で警察の動員数が千葉県警が作成した当初計画より削減されたことへの一つの説として、このエピソードが警察庁幹部に影響したといわれているとしている[22]

警備業の黎明期にあった1970年代、特別防衛保障をはじめとする警備会社の不当事案が社会問題化していた。警備業法の制定など規制強化が図られる中、後藤田は警察庁長官として「プライベートポリスの思想、これは我が国においては認めたくないというのが私の基本的な考え方でございます」としながらも、警備会社は「必要悪」であるとの認識を示した[23][24]

後藤田五訓

中曽根内閣で創設された内閣官房6室制度発足の場で、内閣官房長官の後藤田が、部下である初代の内閣五室長の的場順三(内閣内政審議室)、国広道彦(内閣外政審議室)、佐々淳行内閣安全保障室)、谷口守正(内閣情報調査室)、宮脇磊介(内閣広報官室)に対して与えた訓示を、「後藤田五訓」という。長年仕え、初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行が自著に記したことで世に明らかとなった。内容は次のとおり。

  1. 出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え
  2. 悪い、本当の事実を報告せよ
  3. 勇気を以って意見具申せよ
  4. 自分の仕事でないと言うなかれ
  5. 決定が下ったら従い、命令は実行せよ

佐々によれば、この五訓を裏返すと、まさに危機管理最悪の敵の「官僚主義」になるという[25]。 本人はこの訓示を忘れていたらしく、佐々のところへ「今、人が来て『後藤田五訓を揮毫してくれ』と言うんだが、後藤田五訓とは何ぞ」と聞きに来て、佐々が説明すると「ワシ、そんな事言うたかな?どうせ君があることないこと吹聴しとるんじゃろう」と佐々が書いたメモを片手に帰っていったという[26]

官房長官談話

中曽根康弘総理大臣の靖国神社公式参拝中止時の談話

「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「内閣総理大臣靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」

またこの件を、「非常に残念だ。参拝というのは純粋に素直な気持ちで行えばいい。それを公人、私人といった分け方で言うのはおかしい。」と話した。つまり、戦争で逝った人たちを悼むという素朴な気持ちこそが大切である、というのであった。

なお、内閣総理大臣在任中の小泉純一郎による靖国神社参拝が問題になっていた頃、参拝に反対する自民党議員の勉強会に講師として呼ばれた後藤田は「くだらない負け惜しみは言わない方がいい」と発言している[27]

阪神・淡路大震災への対応

阪神・淡路大震災発生翌日に首相官邸を訪ね、「総理、地震は天災だから防ぎようがない、しかしこれからは、まかりまちがうと人災になる。しっかりやってくれ」と村山富市を叱咤激励した[28]

その後、竹下登の要請を受けて阪神・淡路復興委員会の特別顧問に就任[29][30][31]。震災への対応にあたる村山内閣を補佐し、社会党への批判が集まる中、「誰が代わりにやれば出来ると言うんだ?自民党政権だって出来ないよ」と庇った[32]

後藤田は運輸大臣亀井静香神戸港の復旧を最優先にするよう指示したとするが[29]、その一方で復興委員会第1回会合では「焼け太りは認められない」[33]、第2回会合では「計画は物理的、社会的、財政的にぎりぎりの線でやってほしい。それを超すと理想倒れになる」「政府としては個人の損失に直接補償しない建前だ」と発言し[34]、公平性などの観点から国からの支援はインフラの復旧までであり、それ以上の計画については原則地元の責任と資金で行うべきであるとの方針を示した。この「後藤田ドクトリン」によって復興予算が削減されたことが、震災前まではコンテナ取扱量で世界第3位であった神戸港が釜山港に水をあけられて国際競争に敗れた原因であるとする主張がある[35][36][37]

後藤田は後日のインタビューで、当時としては最大級の予算を大蔵省から引き出したとしつつ、復興委員会では都市建設や開発に論議が集中しており、職を失った人たちへの手当て等の生活の復旧についての議論が足りなかったと述べた[29]

政治家引退の時の演説

警察庁長官から政界に進出し、内閣官房長官まで務めた後藤田が公職から退く際、演説を行った。その中で後藤田は「私には心残りがある」と語り、その一つは政治改革を掲げつつそれが単なる選挙制度改革で終わってしまったこと、そしてまた一つは、警察官僚として部下に犠牲を強いてしまったことだという。警察庁時代に「のべ600万人の警察官を動員した第二次安保警備で、『殺すなかれ』『極力自制にせよ』と指示した結果、こちら側に1万2000名もの死傷者を出してしまった。いまでも私は、その遺族の方々や、生涯治ることのないハンデキャップを背負った方々に対して、本当に心が重い。これが私の生涯の悔いである」と語っている[38]

後藤田の警察庁時代は学生運動が過激化し、極左過激派によるテロや暴動が頻発していた時期であり、警備などに従事していた警察官に多くの死傷者が出て、後藤田はこれへの対処に追われた。例として、後藤田が警察庁長官であった1971年9月三里塚闘争渦中の成田空港予定地の代執行(第二次代執行)中に起きた東峰十字路事件では、後方警備に従事していた特別機動隊が過激派などの空港反対派の集団によるゲリラ襲撃を受け、機動隊員に火炎瓶が投げ付けられ、火だるまになり、のた打ち回っている所を鉄パイプ角材竹ヤリなどで滅多打ちにされて隊員3名が死亡し、約100名が重軽傷を負った。負傷した若い隊員の中にはあごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫い、一時重体となった隊員もいた[39]。警察庁時代の後藤田の部下であった佐々淳行は著書の中で、これら悲痛な思い出が、後藤田に引退の際の台詞を言わせたのではないかと語っている[40]

憲法と安全保障

警察予備隊本部課長時代、福知山市で水害が生じたときに駐屯地の司令が手続きを踏まずに独断で部隊を出動させる出来事があった。このとき後藤田は「実力をもった部隊の独断専行は絶対、許すべきではない」「こういうときこそ、将来のため、現在において厳しい躾をしておかなくてはならない」と、文民統制徹底の観点から厳しい姿勢で臨んでいる[41]

後年は安全保障や憲法の問題に関してはハト派寄りの発言が多いことで知られたが、憲法第9条について問われた時、「いまのような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか、将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」と自衛隊への理解や憲法改正の容認を示し[5]、「書きすぎの感がある」「賞味期限がきているのではないか」とも述べていた[42]。後藤田自身は1項については保持し、2項については「領域外での武力行使は行わない」と明記すべきとの考えであったといわれる[42]。すなわち、独立・自存のための自衛権は憲法以前の自然権としていずれの国でも認められるものであり、最低限の武力装置を備えておくのは当然であるが、海外派兵に関するあらゆる方便を排除するために海外での武力行使禁止を明示すべきであるというのが後藤田の基本的考えであった[43]

日本国憲法そのものについては、「生まれは決して良いとは言えない」「本来は占領終了直後に日本人の手によってつくり直すべき筋合いのものであった」としながらも、「人類が将来向かっていくべき理想を掲げている」とその意義を認めている[44]

冷戦終結後は米軍への基地供与には消極的であり、日米安保条約を平和友好条約に変換すべきとの考えも持っていたが[45][46]普天間基地移設問題に関して岡本行夫から辺野古移設について説明を受けたときには否定も肯定もしなかった[47]

経済政策

「土地の私有権はそりゃあ大事だろう。だがそのうえに胡座をかいていていいのか。社会生活や国民経済にプラスに働くように、土地の私有権と言うものを使っていかなければいかないのではないか。私有権ばかりを重視していては国民生活はどうなるのか」[5]公共の福祉財産権のバランスを取るべきとの認識を示すとともに、「政府の経済政策の基本原則は、国民が自分の持ち家を持って、家族が一家団欒で生活できるようにすることだが、こんなに不動産が上がったら、それが不可能になるだろう」と地価の上昇とそれを煽る銀行の姿勢に懸念を表明し、官房長官として銀行局長に指示を出したのがきっかけで、住宅金融専門会社ができた[48]

「競争社会にしないと世界的な競争に耐えられないということはわかるんだけれども、競争社会の中で落ちていく人のことをどうするんだということをぜひ考えてもらいたい」と述べ、格差社会に対する警鐘を鳴らしている[49]

中国との関係

内閣官房長官在任中の中曽根政権時代の日中関係は、中曽根の参拝が発端となった靖国神社問題光華寮訴訟に関する摩擦もあったが、当時の中国共産党首脳が比較的親日的であったこともあり、総じて良好な状態だった。

後藤田は1994年に日中友好会館会長[1][50]を務め中華人民共和国に対する太いパイプをもち、後藤田自身も「一つの中国」を支持するなど中華人民共和国に対しては基本的に融和的な姿勢を示していた[注釈 9]

一方で、江沢民による厳しい対日政策が行われていた1999年には、中国の要人を前に「両国関係で最も重要なのは、双方の国民感情が良い方向へ向かうことだ。そのためには、指導者、報道機関などが、つねに友好を育てる方向を向いていなければならない」と苦言を呈することもあった[51]

人間関係

田中角栄

1952年の暮れに、後藤田が「第二機動隊構想」の腹案を実現するため、翌年度予算での警察予算の増額を衆院予算委員会のメンバーであった田中に陳情したことから交流が始まった。田中は引き受けた陳情は必ず実現し、両者の信頼関係は深まっていた[52]

阿波戦争で破れたことは田中へのダメージとなったが、田中は「ワシのことは気にせんでいい」と後藤田を気遣った[6]

後藤田は政界の頂点に上り詰めた田中に対してはっきりと直言し、田中もそれを許容した[52]

後年、「田中派には二階堂(進)、江崎(真澄)、後藤田という3人の首相候補がいる。順番を間違ってはいかんッ」と田中が言ったことがある。これは独自の動きを見せ始めた竹下登を牽制してのことであるが、同時に田中の後藤田に対する信頼の厚さが伺える。田中派の大部分が竹下派になびいた後も、後藤田は組せずに田中への筋を通した[53]

後藤田は「私が政界入りしてすぐ大臣になったり官房長官として長く政府の中枢にいるなど厚遇されたのも、田中さんのお陰である。(中略)そういう意味で私は田中さんに恩義を感じている」と述べている[54]

中曽根康弘

大戦後半に米軍の台湾上陸に備えて防衛体制構築が図られ、後藤田は陸軍の資材獲得の任務についたが、海軍も同様に資材を求めて競争となり、相手の手強さに辟易としていた。戦後、中曽根と懐旧談をしていたときに実はその指揮を取っていた海軍主計将校が中曽根であったことがわかり、お互い笑って握手し健闘を讃えた[55]

村山富市

日本社会党委員長に就任した直後の村山富市と会食を持ち、「自衛隊の認否については貴方の党と私の考えは違う。それは仕方がないとしても、武装した自衛隊を海外に出さないということについては一致するのではないか。是非この一線だけはお互いに守っていきたい」と話した。村山が首相となった後も阪神・淡路大震災などの折に触れて後藤田はアドバイスや激励を送り、村山も耳を傾けていた[56]

エピソード

  • 政界進出後、警察官僚時代を振り返り社会党民社党は警察庁のマークの対象外だったとし「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは共産党公明党だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」としていた。[要出典]。一方で、晩年に不破哲三から著書を送られたときには丁寧な書状を返しており、そのうち一通は死の一週間前に書かれたものであった[57]
  • 中曽根は組閣に際して田中にトイレで「後藤田を貸してもらえませんか?」と官房長官登用を交渉したといわれるが[58]、中曽根自身の回顧では九段の料亭で田中と会食したときに申し入れたとされている[11]
  • 最初の選挙で逮捕者を出して以降、講演会の出納簿を予算性に変え、後藤田が自らチェックを行った。[要出典]
  • 当時政局の焦点となっていたロッキード事件の公判の前日、内閣官房長官の記者会見の席上で「ときに、裁判のある日はいつでしたかね」と問いかけ、記者たちを唖然とさせた。[要出典]
  • 官房長官の初仕事である閣僚名簿の発表の際、閣僚の名前を読み間違えることがあった(例えば羽田孜農林水産大臣を「はだしゅう」、鈴木省吾法務大臣を「すずきしょうご」、河野洋平科学技術庁長官を「かわのようへい」等と読み間違えた)。これは、通常であれば最初に決まる官房長官ポストの調整が難航し、後藤田が各閣僚の名前の読みを確認する時間がなかったためである[59]
  • 巨人ファンであり、自ら入場券を購入して一般のファンと一緒に観戦した。明治神宮野球場ファウルボールに危うく当たりかけたことがある。「ジャイアンツは駄目だ。あんなデブばっかりそろえて非常識だ。勝てるわけないじゃろ」と苦言を呈し、スター選手ばかりを集めて若手の育成を怠るジャイアンツの行く末を心配していた。同じ徳島出身の上田利治を参院選出馬に勧誘したことがある[60]
  • 後藤田の自宅には毎日深夜に右翼から電話がかかってきていた。それを聞いた板東英二が電話番号を変えるよう進言すると、「バカ、そんなことをしたら誰が彼らの話を聞いてやるんだ」と取り合わなかった[61]
  • 東京ディズニーランドの開園準備を行っていた高橋政知加賀見俊夫オリエンタルランド三井不動産京成電鉄の経営陣の相談役であった。オープンに立ち会った後藤田はいたく気に入り、その後もアトラクションのオープンやイベントの開催に立ち会った[62]
  • 部下には「雷」を落としまくっていた後藤田であったが、自然現象のは苦手だった[63]
  • 石附弘西郷隆盛大久保利通のどちらが好きか尋ねられると、「そんなこと決まってるじゃないか。大久保だよ、君。近代日本の基礎は、大半大久保がつくったんだ」と答えた[64]
  • 昭和天皇にご進講をすることが何度かあり、厳しくも温かい叱責を受けることがあった。夫人が一人で園遊会に出席したときには、昭和天皇自ら「後藤田長官は大変だね」「長官によろしくね」と声がけした。昭和天皇の最初の体調異変と言われる、1987年の誕生日の祝宴での嘔吐にいち早く気づき、夫人を伝令役にして山本悟宮内庁次長に事態を伝えている[65]
  • 警察官の増員については、警察官の使い方に無駄が多く組織運営の合理化・効率化をするべきとして長らく認めなかったが、1995年にオウム真理教のテロなど警察事象の増加や治安の悪化が深刻になると一転して大増員を承諾し、各省庁への根回しを行った[66]
  • 内務官僚出身の後藤田は「内務省を復活させなければ死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、警察庁でコンビを組んでいた渡部正郎が、前述の発言は後藤田のものだと証言している[67]。なお、同じく内務官僚出身だった中曽根は、内閣総理大臣の時に内政省の名で復活を検討したが、後に断念して代わりに総務庁が設置されて後藤田は初代長官となった。

語録

官僚時代

  • 「われわれの任務は、この安田講堂だけで終わるわけではない。治安というのは、長期的に見て取り組まなければならない。必要なのは、彼らに敵対心だけを与えないことだ。いずれ彼らも善良な市民として育っていくわけだから、そういうしこりをのこすと長い目でみれば不利になる。今、必要なのは彼らの行動を国民から浮き上がらせてしまうことだ。なんと愚かなことをしているのか、と理解してもらうことだ。少々対応が遅れて、警察は何をやっている、と非難されても構わない。われわれは軍隊とは異なるのだから…」 - 東大安田講堂事件に際して[5]
  • 「過激派のテロで、第一線の若い警察官が殉職するのは気の毒であり、対策を急がねばならないが、本当に怖いのは過激派ではなくて、違法な手段で政権奪取を狙う共産党だ」[5]
  • 「こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこい」 - 東峰十字路事件の責任を取ろうと辞表を持参した千葉県警本部長に対して[5]
  • 「新聞は警察官が過激派の火炎びんを浴びて殉職すると『死亡』と書く。どうして『殺人』と書かないんだ。あれは誤報だ」[5]
  • 羽仁五郎のように若い過激派をおだてて原稿料を稼ぐやつほど、この世で悪いやつはいない。お金になるといえば、何をやってもいいのか」[5]
  • ゴルフなんて簡単ですよ。ボールを馬鹿な政治家か意地の悪い新聞記者の頭だと思ってひっぱたけばよく飛びますよ」[5]
  • 「君、そんな馬鹿な・・・」 - 山岳ベース事件により連合赤軍のメンバー12人がすでに殺されていたという報告を受けて[68]
  • 「君らに迷惑がかからんように夕刊の締め切り時間も調べておいたんだ」 - 新聞記者らに自身の警察庁長官辞任を伝えたときのことについて[5]

田中政権

  • 「本当に俺は世の中を知らないと思った。俺が見てきたのは、せいぜい『制度の中の悪人』だけだった。あいつら言葉巧みで、思わず俺も騙されたんだよ。まあでも、俺を騙せたんだから大したもんだ」 - 最初の選挙での失敗を振り返って[69]
  • 「総理、あなたはいま昇り龍だからいいが、下り龍になったら相手を見て物を言わんと足をすくわれますよ」 - 後藤田の前で「警察なんてチョロイ」と口を滑らせた田中角栄に対して[52]

中曽根政権

  • 「修繕して担いだらどうだ。ダメになったら捨てたらいい」 - 総裁選で中曽根を推すことについて「あんなボロみこし担げない」といった金丸信に対して[70]
  • 「写真週刊誌の取材の行き過ぎもあり、ビート君の気持ちはよくわかる。かといって直接行動に及ぶのは許されることではない」 - 官房長官当時に発生したビートたけしによるフライデー襲撃事件について。たけしの暴力行為を批判しつつ写真週刊誌の姿勢を牽制した[71]

その他

  • 「No.2はNo.1の地位を狙ってはいかん。周恩来を見い。不倒翁といわれた周恩来は、決してNo.1になろうとせず、No.2に徹したから、毛沢東は安心してやれたし、林彪鄧小平の競争心からの敵意も招かなかった。ワシはNo.2に徹する。名参謀総長じゃよ。トップを狙う野心がないから、中途入社の自民党でもワシのいる場所があったのだ」 - 竹下政権の後任として自民党総裁選に出馬するよう求めた内閣五室長に対して[72]
  • 「どんな立派な堤防でもアリが穴を開けたら、そこから水がちょろちょろ出て、いずれ堤全体が崩れることになる。」 - 自衛隊ペルシャ湾派遣を牽制して[73]。後藤田は自衛隊の海外派遣を牽制する際、しばしばこの「蟻の一穴」論を用いた。
  • 「全公務員が楽しみにしている給料を値切るなんて悪い奴は地獄へ行け」 - 人事院勧告を受けた公務員給与改善を財政的事情で削減する案を説明に来た的場順三に対して。その後、折衝の結果バランスが取れた実施案に修正された[74]
  • 「江田君、死刑判決を下すのは司法だ。だが、辛い執行を行うのはわれわれ法務省だ。死刑判決を下すのであるならば、君ら裁判所が執行すればいい」 - 法務大臣時代、死刑廃止を申し入れてきた裁判官出身の江田五月に対し[75]
  • 団塊の世代か。君らには悩まされた。君らは、数が多く、死ぬまで競い合い、バイタリティも能力もある。しかし、壊すことは得意だが、つくることは下手」 - 細川興一が昭和22年生まれとわかり[76]
  • 「君たち一生懸命、勉強しろよ。それから誰にも負けない専門分野を持って一日三十分でもいいから本を読みなさい。もう一点。新聞社の名刺があるから、誰でも相手してくれることを忘れてはいかん。錯覚してはいかんよ」 - 取材に来る記者らに対し[77]
  • 「自分を含め政治家は、いつも(刑務所の)塀の上を歩いている。常に十分に注意しないと内側に落ちる」[78]

引退後

  • 「実際に国民の安全を守る責任を負う側としては可能な限り幅広く、強力、かつテロリスト側の様々な手法に弾力的に対処・運用できる法律が望ましいだろうが、それは同時に社会を暗くしやせんか。(中略)アメリカ同時多発テロのような大きな事件があった直後は国民は怒りと恐怖から強いリーダーシップを求め、何でもありの強権的措置を容認し、不自由さをも甘受する。しかしこれは長続きしない。事態が膠着し思うような結果が出ないとき、国民がどこまで我慢するか。リーダーは国民のテンションが高いときには逆に冷静に、抑制的になるように努めることだ。日本のような国でも権力がその気になって突っ走ると、これを止めるのは容易なことではない。権力が暴走するとき、法は権力に都合よく運用される。なればこそ、今ある法律や仕組みの中に権力を抑制するための先人の工夫が入っている。世の中の動きにつれ、方や制度が変わるのは当然だが、時として十分な議論もなく安易に方が改変され運用解釈が変えられていくのをみると、心配だ」[79]
  • 「菅だけは絶対に総理にしてはいかん。」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」 - 厚生大臣としてマスコミで持ち上げられていた菅直人について。しかし、自社さ政権時の発言として連立政権への影響を考えて、御厨貴がオーラルヒストリーした際にオフレコだとして当時は削除させた[80]
    • なお、当の菅は後に総理大臣となって官房長官に仙谷由人(菅同様に全共闘運動に参加し、ピース缶爆弾事件の弁護人を務めた過去があり、後藤田と同じ徳島県出身でもある)を起用した際、「よく中曽根政権の後藤田先生の名前が出るが、そうした力を持つ方でなければならない」と後藤田を引き合いに出し、仙谷も「官房長官の中では戦後最も実績を挙げた」と後藤田について言及している[81]
  • 「『行政改革』『構造改革』等と言葉が大きくなりすぎて、国家すなわち中央省庁に有為な人材が集まらなくなった時、将来どうなるかが心配だ」 - 晩年、「今は役人暗黒時代で、役人イジメがひどすぎる」と嘆いた渡辺秀央に対して[82]

評価

  • 中曽根康弘「官僚出身でありながら、頑なに硬直せず、酸いも甘いも噛み分け、平生は温顔の政治家だった。然し、万般に亘り自己の定見を堅持し、時期を選んで国民に訴えておられた。その中身は公式や既成の所論に惑わされず、庶民、謂わば日本国民全般の世論を洞察し、また、日本のアジア諸国に対する、長期的将来的立場も洞察した上での緻密な思想の上での柔軟的発言であった。前歴が警察からの出身であるので、日本の一般大衆の心理への洞察と同時に、戦争の経験を経て日本の平和国家としての立場を些かも崩さずに、ややもすれば左右に傾こうとする日本の政治軌道を中央ラインに維持させることに懸命の努力を払っていたと思う[83]
  • 筑紫哲也「あくまでも大変なエリートでありますから、国家ということを軸に考えました。しかし、その国家の中身がかなり後藤田さん的であった。つまり、国家のために国民が犠牲になるとか、そういう形の国家の捉え方を非常に嫌った、国民があっての国なんだということをたえず考えた。旧内務官僚というのは大変戦前いろいろ悪評が高いわけですけれども、一方で主体的には自分たちが民を護るんだという『護民官』の意識が非常に強かったのだろうとわたしは思っております[84]
  • ジェラルド・カーティス「私の後藤田氏のイメージを一つの言葉で言うならば、その言葉は『権力者』である。優れた政治家の特徴は、目的を実現するために権力を使いこなすだけではない。同時に重要なのは国家権力の怖さを知り、権力を慎重に扱うことである。彼は、公人としての長い人生経験から、政治指導者が自分の力を買いかぶって権力を乱用したり、間違った目的のために権力を使用することがどれほど危険であるかということを身にしみるほどわかっていたと思う。また、後藤田氏のいろんな発言を振り返ってみると、民主主義国においては国民の支持を得たうえではじめて正当な権力を発揮できるということを固く信じていたとわかる[85]

栄典

親族

著作

御厨貴らによる聞き書き・監修、文庫化に際し「情と理―カミソリ後藤田回顧録」に改題
上.ISBN 4062091135/下.ISBN 4062091143
文庫版 ISBN 406281028XISBN 4062810298 
内田健三佐々木毅早野透による全7回のインタビュー集
加藤周一と対談。国正武重によるインタビュー・解説。

関連書籍

  • 保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』文藝春秋、1993年。ISBN 978-4902127157 
  • 佐々淳行『わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』文藝春秋、2000年。ISBN 978-4163561806 
  • 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち もう鳴らないゴット・フォン』文藝春秋、2006年。ISBN 978-4163681207 
  • 津守滋『後藤田正晴の遺訓 国と国民を思い続けた官房長官』ランダムハウス講談社、2007年。ISBN 4270001941 
    • 著者は外務省出身で官房長官時代の秘書官
  • 『私の後藤田正晴』編纂委員会 編『私の後藤田正晴』講談社、2007年。ISBN 4062139340 
    • 後藤田と縁が深かった報道関係者が中心となり、三回忌となる2007年9月に刊行。政界官界関係者をはじめ、関りのあった様々な立場の著名人三十名が執筆している。
  • 御厨貴『後藤田正晴と矢口洪一の統率力』朝日新聞出版、2010年。ISBN 978-4022507099 

演じた俳優

脚注

注釈

  1. ^ 後藤田は最後となった訪中で清華大学で講演した際にこのエピソードに触れ、「部下の中には台湾人がたくさんいて、とても仲が良く、私は日本人と台湾人ということで何の隔たりも感じていなかった。日本人は、台湾の統治は朝鮮とは違うと思っていた。温和な統治であったし、台湾人も十分協力的であった。しかし一九四五年八月十五日、日本が敗戦した日のことである。日本人が運命に困惑し、悲しみの淵に落とされたその晩、台北の町には爆竹が鳴り響き、人々は手に手を取って踊り、勝った!勝った!と喜びの声を上げていた。これで私は夢から覚めた。武力で異民族を統治するのは所詮無理な話であると完全に悟った。なぜなら彼らの心までは征服できないからだ。これは私のような、台湾人に対して差別的感情がない者で、台湾人のことを信じきっていた日本人を震撼させる現実だった」と語っている[3]
  2. ^ 鈴木俊一が後藤田について「軍務勤務はあるが、主計の将校として通常の業務をこなしていただけで、諜報謀略とは無縁だ。六年間、兵役に行っているため、内務省の色もついていない」とGHQに報告したこともあって、公職追放は免れた[4]
  3. ^ 一方、佐々は別の著書[要文献特定詳細情報]ではその際に「いらんッ、君はまちがってるよ。警官が警官守ってどうする、駆逐艦が駆逐艦守ってどうする?警察は国民を守り、駆逐艦は商船守るんだ。ワシを守る余裕があったら犯人をつかまえろ!!」と激しく叱咤されたとも語っている。
  4. ^ 中曽根は平沢勝栄に「なぜ後藤田さんのような一言居士で口うるさく、使いにくい、煙たい人物を官房長官に起用したのか」と問われた時、「理由は二つ。一つは行政改革を断行するには、てきぱきと判断できて官僚を抑えられる人物が必要なこと。もう一つは、関東大震災級の震災が起きた場合の危機管理ができる政治は後藤田さん以外にいないと考えたからだ」と答えている[12]
  5. ^ アメリカでのスタニスラフ・レフチェンコの証言を受けて事態の重大性を認識した後藤田は日本独自の検証を指示する一方、無自覚にソ連への情報提供者となった人物に配慮するとともに機密保護法の制定については慎重な立場を示した[13]
  6. ^ この事件への対応で後藤田は自衛隊の機密情報であったソ連軍通信の傍受記録を公表する決断を下すとともに、航路を逸脱して事件を誘発し日本人の犠牲者を出した大韓航空の責任を追及している[14]
  7. ^ 政界進出後の後藤田は「そんなことしたら、票が減る」と"カミソリ"と呼ばれるのを嫌い、「ワシは女性票が取れなくてね」とかつての峻厳なイメージが残っていることを気にかけていた[16]
  8. ^ 後藤田の死後、当時民主党代表前原誠司は国会質問でこの発言を引用した[18]
  9. ^ 清華大学での講演で「台湾人は台湾人であっても、心はそれぞれ福建人、広東人、客家人、であり、それはつまり中国人だということである。台湾人の心は、自分は中国人であり、自分の祖国は中国であり、中国はひとつの国家だということである」と述べている[3]

出典

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  80. ^ 「知の格闘: 掟破りの政治学講義 」p61,御厨貴 ,ちくま新書 ,2014年1月7日
  81. ^ 【番頭の時代】第4部・永田町のキーマン(3) 「後藤田五訓」官僚の省益戒め 後藤田正晴元官房長官”. 産経ニュース (2015年8月30日). 2018年12月6日閲覧。
  82. ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会 2007, p. 69.
  83. ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会 2007, p. 24.
  84. ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会 2007, p. 46.
  85. ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会 2007, p. 56.

関連項目


公職
先代
渡辺美智雄
日本の旗 国務大臣副総理
1993年
次代
羽田孜
先代
田原隆
日本の旗 法務大臣
第55代:1992年 - 1993年
次代
三ヶ月章
先代
宮澤喜一
藤波孝生
日本の旗 内閣官房長官
第45代:1982年 - 1983年
第47・48代:1985年 - 1987年
次代
藤波孝生
小渕恵三
先代
創設
日本の旗 総務庁長官
初代:1984年 - 1985年
次代
江崎真澄
先代
斎藤邦吉
日本の旗 行政管理庁長官
第43代:1983年 - 1984年
次代
廃止
先代
渋谷直蔵
日本の旗 自治大臣
第27代:1979年 - 1980年
次代
石破二朗
先代
渋谷直蔵
日本の旗 国家公安委員会委員長
第37代:1979年 - 1980年
次代
石破二朗
先代
渋谷直蔵
日本の旗 北海道開発庁長官
第42代:1979年 - 1980年
次代
原健三郎
官職
先代
小池欣一
日本の旗 内閣官房副長官(事務担当)
1972年 - 1973年
次代
川島廣守
先代
新井裕
日本の旗 警察庁長官
第6代:1969年 - 1972年
次代
高橋幹夫