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「中村橋派出所警官殺害事件」の版間の差分

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{{Infobox 事件・事故
{{Infobox 事件・事故
| 名称 = 中村橋派出所警察官殺害事件
| 名称 = 中村橋派出所警察官殺害事件
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| 場所 = {{JPN}}・[[東京都]][[練馬区]][[中村北]]四丁目2番4号「[[警視庁]][[練馬警察署]] [[中村橋]][[派出所]]」{{Refnest|group="注"|name="交番"|2020年4月1日現在は「中村橋[[交番]]」<ref>{{Cite web|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/shokai/ichiran/kankatsu/nerima/koban/07.html|title=練馬警察署 中村橋交番|accessdate=2020-04-01|publisher=警視庁|date=2018-02-28|website=警視庁公式ウェブサイト|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200401154111/https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/shokai/ichiran/kankatsu/nerima/koban/07.html|archivedate=2020-04-01}}</ref>。[[西武池袋線]]・[[中村橋駅]]から南へ約20メートル離れた[[東京都道439号椎名町上石神井線]](通称:千川通り)沿いに位置する交番で、周囲は事件当時から商店・マンションが立ち並び<ref name="読売新聞1989-05-16 1">『[[読売新聞]]』1989年5月16日東京夕刊第一社会面19頁「『おまわりさん』襲った凶行 ぼう然・怒りの住民 『親切な仕事ぶりだった』」([[読売新聞東京本社]])</ref>、深夜も人通りが絶えない場所だった<ref name="読売新聞1989-05-16"/>。}}{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}
| 場所 = [[東京都]][[練馬区]]
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| 時間 = 2時50分ごろ{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}
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| 時間帯 = [[UTC+9]]〈[[日本標準時]]・JST〉
| 概要 = 加害者の男が銀行強盗などにより大金を得ることを企て、そのための手段として警察官を襲撃して拳銃を奪うことを考えた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。そして事件当日に中村橋派出所で執務中の警察官2人をサバイバルナイフで襲撃して刺殺したが、拳銃強奪の目的は達せなかった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。
| 概要 = [[強盗致死傷罪|強盗殺人事件]]
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| 手段 = [[ナイフ#サバイバルナイフ|サバイバルナイフ]]で刺突する{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}
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| 武器 = サバイバルナイフ(刃体の長さ約17&nbsp;[[センチメートル|cm]] / 平成元年押第1132号の6){{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}
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| 攻撃人数 = 1人
| 標的 = 現場派出所勤務の[[日本の警察官|警察官]]([[巡査]]A・[[巡査部長]]B{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}} / 事件後に2階級特進<ref name="読売新聞1989-05-17"/>)
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| 犯人 = 元[[自衛官|陸上自衛官]]の男(20歳)
| 犯人 = 元[[自衛官|陸上自衛官]]の男S(事件当時20・店員{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人}}
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| 動機 = [[銀行強盗]]をするための[[拳銃]]奪取{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}
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| 防御 = 被害者・巡査部長Bが拳銃を3発発砲{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}
| 防御 =
| 対処 = 加害者Sを警視庁が[[逮捕 (日本法)|逮捕]]<ref name="毎日新聞1989-06-09">『[[毎日新聞]]』1989年6月9日東京朝刊第一社会面27頁「2警官刺殺事件で元自衛官を逮捕 『銃奪おうと』と自供」([[毎日新聞東京本社]])</ref> / [[東京地方検察庁]]が[[起訴]]<ref>『読売新聞』1989年6月30日東京朝刊第一社会面31頁「警官殺しの『S』を起訴/東京・練馬の中村橋派出所事件」(読売新聞東京本社)</ref>
| 対処 = [[警視庁]]が[[逮捕 (日本法)|逮捕]]。[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[上告]][[棄却]]、[[日本における死刑|死刑]]確定
| 刑事訴訟 = [[日本における死刑|死刑]]{{Sfn|東京地裁|1991|loc=主文}}([[上告]][[棄却]]により[[確定判決|確定]] / [[日本における収監中の死刑囚の一覧|未執行]]){{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=255}}
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| 管轄 = 警視庁([[刑事部|捜査一課]]・練馬署)<ref name="読売新聞1989-05-16">『[[読売新聞]]』1989年5月16日東京夕刊一面1頁「未明の東京・練馬の派出所で2警官が刺殺される 酔っ払い風の若い男追う」([[読売新聞東京本社]])</ref> / 東京地検
| 謝罪 = 捜査段階で被害者への謝罪の言葉を述べ<ref name="読売新聞1989-06-11"/>、公判でも反省の言葉を述べた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=量刑の理由}}
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'''中村橋派出所警官殺害事件'''(なかむらばしはしゅつじょけいかんさつがいじけん)は、[[1989年]]([[平成]]元年)[[5月16日]]に発生した元[[自衛官|陸上自衛官]]の男が[[拳銃]]を奪取目的で[[日本の警察官|警察官]]2殺害した[[強盗致死傷罪|強盗殺人事件]]でる。
'''中村橋派出所警官殺害事件'''(なかむらばしはしゅつじょけいかんさつがいじけん)は、[[1989年]]([[平成]]元年)[[5月16日]]未明[[東京都]][[練馬区]][[中村北]]で発生した[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]・[[公務の執行を妨害する罪|公務執行妨害]]・[[銃砲刀剣類所持等取締法]](銃刀法)違反事件{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。元[[自衛官|陸上自衛官]]の男S(事件当時20歳)銀行強盗などのために[[拳銃]]を奪取しようと{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至経緯}}[[警視庁]][[練馬警察署]]の「中村橋[[派出所]]」<ref group="注" name="交番"/>を襲撃し、勤務していた[[日本の警察官|警察官]]2人([[巡査]]A・[[巡査部長]]B)を[[ナイフ#サバイバルナイフ|サバイバルナイフ]]で刺殺したが、被害者らの抵抗に遭い拳銃強奪は未遂に終わった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となべき事実}}


[[警察庁]]によれば、派出所勤務中の警察官2人が同時に殺害され[[殉職]]した事件は1955年(昭和30年)以降では初で<ref name="毎日新聞1989-05-16">『毎日新聞』1989年5月16日東京夕刊一面1頁「東京練馬の派出所で警官2人、刺殺される 職質の若い男、逃走」(毎日新聞東京本社)</ref>、1979年(昭和54年)以降の10年間で勤務中の警察官が一度に複数人殺害され殉職した事例も[[三菱銀行人質事件]](1979年1月26日発生)以来2件目だった<ref name="読売新聞1989-05-16 1"/>。
== 概要 ==
=== 事件 ===
1989年5月16日午前2時50分ごろ、[[東京都]][[練馬区]]にある[[警視庁]][[練馬警察署]]中村橋[[派出所]](現在の[http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/10/nerima/koban/koban/nakamura.htm 中村橋交番]。[[西武池袋線]][[中村橋駅]]南口近く)で、勤務中の[[巡査]](当時30歳、[[殉職]]により[[警部補]]へ二階級特進)が派出所脇にあった放置[[オートバイ]]を移動させていた際に近づいてきた若い男に[[職務質問]]していたところ格闘になり、[[サバイバルナイフ]]で刺された。そこへ警ら勤務から戻ってきた[[巡査部長]](当時35歳、殉職により[[警部]]へ二階級特進)が叫び声を聞いて駆けつけたが、胸や背中などを刺して何も取らずに逃走した。巡査部長は拳銃を3発発射したあと、派出所に戻り非常ベルを押したところで力尽きた。2名の警察官は病院に運ばれたが、[[出血多量]]で死亡した。


== 加害者・死刑囚S ==
犯人の逃走経路には凶器となったサバイバルナイフや[[双眼鏡]]のキャップ、軍用の特殊な[[軍手]]や着衣などの遺留品が捨てられていた。また事件後、警察官殺しを祝す[[犯行声明|声明文]]が送られるなど、挑戦的な行動がみられた。
本事件の加害者'''S・S'''(イニシャル / 以下、姓のイニシャル「S」で表記)は[[1969年]]([[昭和]]44年)[[1月1日]]生まれ(現在{{年数|1969|1|1}}歳){{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=255}}。事件当時は東京都[[中野区]][[上鷺宮]]三丁目14番13号のアパート{{Refnest|group="注"|name="アパート"|Sが住んでいたアパートは現場派出所から西方へ約500メートル離れた場所にあり<ref>『読売新聞』1989年6月9日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺『S』逮捕 執念で迫った『緑の軍手』 自衛隊内部の“専売品”」(読売新聞東京本社)</ref>、自衛官時代の1988年夏から「本の置き場所にする」との理由で借りていた<ref name="毎日新聞1989-06-09"/>。}}に居住していた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。
なお、この時に現場に残された双眼鏡のキャップは同年4月に発売されたばかりの製品でまだ販売数が少なかった。逮捕後、[[池袋]]の家電量販店で購入された事が判明した。


[[2019年]]([[令和]]元年)10月1日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=275}}[[死刑囚]]として[[東京拘置所]]に[[日本における収監中の死刑囚の一覧|収監されている]]{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=255}}<!--←の記述は「2019年10月1日時点」→『年報・死刑廃止2019』p.275と、「東京拘置所に収監されている」→同書p.255と関連付けられた記述です。出典を置き去りにして本文の日付などだけを書き換えないでください(日付を更新したければより新しい出典を探してください)。-->。
=== 犯人 ===
警視庁は[[被疑者]]として元[[陸上自衛隊]][[士 (自衛隊)|陸士長]](当時20歳)の男を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した。被疑者の自宅[[アパート]]は現場となった派出所まで500mの距離であった。[[捜査]]段階で被疑者が述べた動機は、[[銀行強盗]]で大金を得ていい生活がしたかった、[[現金輸送車]]を襲撃する準備として警察官の拳銃を奪おうとしたというものであった。被疑者は[[自動車運転免許]]を取得したり、[[大型自動二輪車|大型二輪車]]を購入するなどの準備をしていた。犯行時には前日から派出所裏で待ち伏せし、警察官が一人になる機会をうかがっていたことも明らかになった。


=== Sの生い立ち ===
被疑者の家庭環境は複雑であり、9歳で両親が[[離婚]]して母親に引き取られ、後に母親が別の男性と再婚したが喧嘩が絶えず、[[高等学校|高校]]卒業直前にまたも離婚した為、[[大学]]進学をあきらめ[[自衛官]]に任官した。教育訓練後、[[静岡県]][[御殿場市]]の[[滝ヶ原駐屯地|滝が原駐屯地]]に配属され、「粘り強く攻撃能力に優れている」と評価される真面目な自衛官であったが退職した。その後は東京都内で[[フリーター]]をしていたが、貧乏生活から抜け出す為に本件犯行を計画した。
Sは東京都[[板橋区]]出身で{{Refnest|group="注"|[[本籍]]地は「東京都板橋区船渡一丁目1番地」{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人}}。}}{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人}}、板橋区内の保育園を経て1975年(昭和50年)4月に[[板橋区立志村第六小学校]]へ入学したが、母親Xが仕事上で様々な苦労を抱え、父親Y(プラスチック加工会社の社員)も次第にギャンブルに凝ったことなどから家庭内の諍いが絶えず、1977年(昭和52年 / 当時8歳)ごろに妹とともに母Xに連れられて実父Yと別居した{{Refnest|group="注"|その後、1978年9月11日付でY・X夫婦は協議離婚(子供2人の親権者は母X)した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。}}{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。


その後、母Xは自身が所長を務めていた[[ポーラ (企業)|ポーラ化粧品]]株式会社志村橋営業所の部屋でSやその妹とともに3人で生活していたが、相談相手の男性Z(トラック運転手)と懇意になり、1978年(昭和53年 / Sは当時9歳)夏ごろにSやその妹とともに[[埼玉県]][[戸田市]]内のZ宅{{Refnest|group="注"|Sが母親Xや妹+男性Zとその長男の計5人で生活していた当時の居宅は2間(6畳+4畳半)のアパートだった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。1983年にアパートを出て近くの一戸建てに移住したが、その後も特異な同居生活は好転せずさらに深刻さを増すばかりだった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。}}に転居した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。Sは戸田市立喜沢小学校へ転校したが、ZにはSと保育園から一緒で折り合いの悪い長男がいたことに加え、SはZから度々いじめられていたほか、ZがSの実母Xや自身の長男に対し些細なことで暴力をふるう姿を目の当たりにさせられていたことなどから、次第にZ父子との同居生活に不快感を募らせていた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。しかし粗暴なZに対する恐怖心から反抗もできず、それに耐える日々を送っていたが{{Refnest|group="注"|その間、Sは1981年(昭和56年 / 当時12歳)に小学校を卒業して戸田市立喜沢中学校へ進学し、1984年(昭和59年 / 当時15歳)で浦和市立南高校へ入学した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。}}、1983年(昭和58年 / 当時14歳)ごろには母Xが仕事上の悩み・Zの[[ドメスティック・バイオレンス|暴力的な振る舞い]]などによる心労が積み重なったことにより[[うつ病]]に罹患し、症状が重い際には家事もできず終日家に閉じこもるようになってしまったため、Sは妹やZとともに自ら食事の支度などをする生活を余儀なくされた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。
=== 裁判 ===
[[検察官|検察]]は、多額の金銭を獲得する為に行った卑劣な行為であるとして[[日本における死刑|死刑]]を[[求刑]]した。一審の[[東京地方裁判所]]は[[1991年]][[5月27日]]に死刑判決を下し、[[判決 (日本法)|判決]]文では[[被告人]]の生育環境などが屈折した考え方を持つ原因になったとしたうえで、犯行は自己中心的なもので社会的影響が大きいとして死刑しかないとした。


このような特異な同棲生活は浦和市立南高等学校(現:[[さいたま市立浦和南高等学校]])卒業直前の1986年(昭和61年 / 当時17歳)11月に母XがZとの同棲を解消したことで終わったが、Sはそのような8年余りの特異な生活体験から「すべての不快な事態は自分なりの理屈で解釈し、それが説明できるときはそれなりに納得する一方、説明できないときは『そもそも不快な事態ではない』などと思い込む」ようになり、様々な生活関係による憤懣・不安の念などの感情を表面に出さず心中で押し殺すことで外見上の平静さを保とうとするようになった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。その結果、元来の明朗な性格は鳴りを潜めて神経質・自閉的な性格傾向を深め、次第に友人も少なくなっていった{{Refnest|group="注"|Sの人物像は周囲から見ると「真面目で温厚だが、無口で感情を表さず、暗い感じの孤独を好むタイプ」と受け取られるようになっていた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。}}{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。そのような生活の中で1985年(昭和60年 / 当時16歳)ごろからは漠然と「自分の不幸な家庭生活はすべて貧困に起因するものだ。金さえあれば嫌な人に頭を下げたり一緒に生活する必要はないから、大人になったらとにかく大金が欲しい。しかし真面目に働いても『お人よし』で終わるだけで幸福にはなれないから、大金を手に入れるためには[[銀行]]・ギャンブル場([[競馬場]]など)のように金の集まるところを襲うしかない」などといった特異な生き方を考えるようになった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。
その後、[[弁護人|弁護]]側は被告人には[[精神障害]]があり、犯行時には心神喪失か心神耗弱の状態にあったとして[[控訴]]、さらに[[上告]]したが、証拠隠滅を図るなど計画的犯行であったとして、いずれも認められず、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は[[1998年]][[9月17日]]に上告を[[棄却]]し死刑が確定した。[[2003年]]に犯行時心神耗弱であり精神状態の再鑑定が必要であるなどと主張し[[再審]]請求している。


また少年時代から武器に興味があり、中学時代には玩具の銃に強い興味を示していたほか、中学1年生の時にはプラスチック弾を発射するライフル銃([[エアソフトガン]])を何度か学校に持ち込んで他生徒に見せびらかし、教師から叱られたこともあった<ref>『朝日新聞』1989年6月9日夕刊第一社会面17頁「警官刺殺事件、犯人の動機追及 少年時代から銃マニア」(朝日新聞社)</ref>。
[[2019年]]現在、[[東京拘置所]]に[[収監]]されている。

=== 陸上自衛隊時代 ===
1987年(昭和62年)1月、当時18歳だったSは母親X・妹とともにZ父子と別れて初めて水入らずの正月を迎えたが、同年3月に高校を卒業すると同時に「母親Xから離れて自活しよう」と考え{{Refnest|group="注"|Sは化粧品セールスをしていた母親Xが借金を抱えていたために大学進学を断念しており、自衛隊を就職先に選んだ理由は「心身の鍛錬になり、職場として安定しているから」だった<ref name="毎日新聞1989-06-09"/>。}}、2任期4年間の勤務を志して自衛隊への就職を志望した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。1987年3月25日付で[[陸上自衛隊]][[士 (自衛隊)|二等陸士]]として採用され、その直後には[[滝ヶ原駐屯地]]([[静岡県]][[御殿場市]])所在の[[普通科教導連隊]]に教育入隊した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。その後、約4か月間の新隊員前期・後期課程を経て、同年9月には同連隊第二中隊に小銃手として配置され、19歳になった1988年(昭和63年)1月1日には一等陸士に昇進し、20歳になった1989年(昭和64年)1月1日には陸士長へ昇進した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。自衛官時代は上官・同じ班の者からは「物静かで真面目なごく普通の隊員」として評価されていたが{{Refnest|group="注"|自衛官時代は賞罰ともなかった<ref name="毎日新聞1989-06-09"/>。}}、S自身は隊内での生活になじめず、他人に束縛されずに働けるフリーターを希望するようになったため、1989年(平成元年)3月24日には[[除隊]]後の就職斡旋の話に応じず、1任期満了で陸上自衛隊を除隊した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=被告人の身上・経歴}}。

== 事件の経緯 ==
=== 犯行計画の立案 ===
[[File:Map of Nakamurabashi Police killing case.png|thumb|400x400px|事件現場(赤色「×」)周辺の航空写真。加害者Sは◎(自宅アパート)<ref group="注" name="アパート"/>から車を運転して「P」付近に路上駐車し{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}、「※」から被害者巡査Aの動向を観察した上で襲撃した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。|代替文=]]
陸上自衛隊除隊後、Sは母親と全く連絡を取らずに事件当時の住居だったアパートの居室へ転居し、同年4月9日 - 25日まで[[山形県]]内の自動車教習所で合宿教習を受けて[[日本の運転免許|普通自動車免許・自動二輪車免許]]を取得したほか、同年5月2日にはアルバイト情報誌で知ったコーヒー豆挽き売り店(東京都[[杉並区]][[荻窪 (杉並区)|荻窪]])でアルバイト店員として働き始めた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。このころは特段生活に困窮する状態ではなかったが{{Refnest|group="注"|自衛隊時代に120万円を貯金し、除隊時に約43万円の退職金を受け取った<ref name="朝日新聞1989-06-10">『朝日新聞』1989年6月10日夕刊第一社会面15頁「犯行前に貯金使う 東京・練馬の警官刺殺犯、ナナハン購入」(朝日新聞社)</ref>。その後、750 ccオートバイの購入や運転免許取得などにより約90万円を遣ったが<ref name="朝日新聞1989-06-10"/>、逮捕時には額面約80万円の預金通帳を持っていた<ref name="毎日新聞1989-06-09"/>。}}、16歳(高校2年生)時から抱いていた大金入手の願望が再び頭をよぎるようになり、「まともに働いていたら何年かかっても大金は手に入らない。大金を得るためには銀行・ギャンブル場へ強盗に入るなど、法に触れることを覚悟しなければいけない」という思いが次第に強くなり、やがて「どうすればうまく大金を奪えるか?」などと思いを巡らすようになった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。

また、アルバイト先に務めて最初の定休日(火曜日)となる5月9日にはレンタカー{{Refnest|group="注"|この時には(14 - 18時30分まで)犯行時と同じ営業所で同じ白いカローラを借りており、走行距離も犯行当日の距離数(48キロメートル)とほぼ同じ(46キロメートル)だった<ref name="読売新聞1989-06-10"/>。当時Sは運転免許を取得したばかりの初心者だったため、特捜本部は「Sは犯行後の逃走用に車を使うことを計画し、あらかじめ走行コースを決めた上で目立たず運転しやすい昼間を選び、下見を兼ねて試走・練習していた」と推測した<ref name="読売新聞1989-06-10"/>。}}を運転して約2年ぶりに埼玉県[[浦和市]](現:[[さいたま市]][[浦和区]])内の母親X宅を訪れたが、その際にはXと今後同居するつもりがないことを察せられるやり取りを残して自宅アパートに戻ったほか、このころには「銀行強盗などをして大金を奪うためにはまず拳銃を入手しなければいけない。そのためには常時拳銃を腰に着装している警察官を襲うしかない」などと考え、警察官を標的とした具体的な拳銃強取方法を考えるようになった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。

5月11日ごろ、Sは「自宅アパート(中野区上鷺宮三丁目14番13号 / 画像中の黄色「◎」)<ref group="注" name="アパート"/>の近くにあり、犯行後の逃走が容易だ」との理由から現場となった「中村橋派出所」<ref group="注" name="交番"/>(練馬区中村北四丁目2番4号 / 画像中の赤色「×」)を実行場所として狙いを付けたほか{{Refnest|group="注"|Sの自宅アパートから最も近かった派出所は[[野方警察署]]上鷺宮駐在所だったが、同駐在所は夜間に駐在員がいなかった<ref name="読売新聞1989-06-10">『読売新聞』1989年6月10日東京朝刊第一社会面31頁「警官刺殺の1週間前 『S』、同一の車借りレンタカーで下見も」(読売新聞東京本社)</ref>。}}、拳銃強奪の具体的実行方法として「人通りの少ない深夜に警察官が1人で派出所にいる隙を狙う。先端が鋭利なサバイバルナイフで警察官を背後から突き刺して殺し、拳銃を奪ってそのまま自宅アパートに逃げ帰る」という方法を考え付いた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。そしてその決行の日については『犯行の翌日に勤務先の者と会わない日』として、翌週の勤務先の定休日(火曜日)の前夜である5月15日夜 - 翌16日未明にかけて敢行することを決めたほか、凶器は事件2年前(1987年 / 昭和62年)に東京・[[上野]]のモデルガンショップで購入していた鋼製両刃・刃体の長さ約17センチメートルのサバイバルナイフ(平成元年押第1132号の6 / [[ガーバー]]社製「マークII」){{Refnest|group="注"|事件3年前(1986年)に[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]の輸入代理店が輸入し<ref name="読売新聞1989-05-23">『読売新聞』1989年5月23日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺から1週間 300人の大捜査網で追う 犯人は現場付近に土地カン」(読売新聞東京本社)</ref>、「[[アメヤ横丁]]」のナイフ専門店にて1987年(昭和62年)6月以降に販売されていた<ref>『毎日新聞』1989年5月24日東京朝刊第一社会面27頁「2警官刺殺事件のナイフはアメヤ横丁で販売」(毎日新聞東京本社)</ref>。現場で発見されたナイフケース(鞘)とセットになったサバイバルナイフは「マークII」以外に片刃の「コマンドII」もあったが、2種類とも1986年(昭和61年)に計百数十本を日本へ代理店などを通じて輸出しただけで<ref>『毎日新聞』1989年5月21日東京朝刊第一社会面27頁「ナイフケースなど遺留品公開--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社)</ref>、1987年11月以降は製造されていなかった<ref name="読売新聞1989-05-21"/>。}}を使用することにした{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。

決行予定日の1989年5月15日、Sは「中村橋派出所」を車内から見張るために使用する自動車を用意するため、9時ごろに[[ニッポンレンタカー]]東京株式会社鷺宮営業所(中野区鷺宮)でレンタカーの借用を予約し、13時 - 16時ごろまでの間は北としまえん自動車教習所(東京都練馬区)で継続して受講中の二輪免許限定条件解除のための教習を受けた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。その後、18時ごろにレンタカー1台([[トヨタ・カローラ]])を借用した上で見張りに用いる双眼鏡を購入するため、カローラを運転して[[豊島区]][[東池袋]]の「[[ビックカメラ]]本店」{{Refnest|group="注"|東京地裁(1991)ではビックカメラ東口店(本店)の住所が「東京都豊島区東池袋一丁目11番7号」となっているが、同住所は2020年4月時点で「ビックカメラ アウトレット池袋東口店」の所在地になっており<ref>{{Cite web|url=https://www.biccamera.com/bc/i/shop/shoplist/shop002.jsp|title=ビックカメラアウトレット池袋東口店|accessdate=2020-04-01|publisher=ビックカメラ|website=ビックカメラ 公式ウェブサイト|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200401163625/https://www.biccamera.com/bc/i/shop/shoplist/shop002.jsp|archivedate=2020-04-01}}</ref>、本店(池袋本店)の住所は「東池袋一丁目41番5号」である<ref>{{Cite web|url=https://www.biccamera.com/bc/i/shop/shoplist/shop007.jsp|title=ビックカメラ池袋本店|accessdate=2020-04-01|publisher=ビックカメラ|website=ビックカメラ 公式ウェブサイト|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200401163834/https://www.biccamera.com/bc/i/shop/shoplist/shop007.jsp|archivedate=2020-04-01}}</ref>。}}へ赴き、18時58分ごろに同店地下2階売場で双眼鏡1台(本体・ケース・レンズ部分のキャップのセット){{Refnest|group="注"|双眼鏡本体は「平成元年押第1132号の8」、ケースは「同号の9」、キャップは「同号の7」{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。双眼鏡は倍率10倍([[ケンコー・トキナー|ケンコー]]社製)で、1989年4月中旬に発売されて以降同店で10台前後しか売れていなかった<ref name="読売新聞1989-05-31">『読売新聞』1989年5月31日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の警官殺し遺留品 特殊双眼鏡のカバー 最新型、販売10個だけ」(読売新聞東京本社)</ref>。}}を購入した上でアパートに戻った{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。

アパートに戻ったSは犯行時の服装についても特に目立たない色彩の物{{Refnest|group="注"|黒色のジャケット・ズボンおよび縦縞シャツなど{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。}}を用意し、24時ごろに着替えて身支度を整えると、犯行現場へ携行する物を入れるため双眼鏡を購入したビックカメラの手提げ紙袋1袋(平成元年押第1132号の1)を用意し、その袋の中にサバイバルナイフ・双眼鏡と緑色軍手片方{{Refnest|group="注"|左手のみに着用するため{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。}}、タオル1枚{{Refnest|group="注"|血液・指紋を拭き取るため{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。}}を入れて準備を完了し、アパート前に駐車してあったレンタカーにその紙袋を積み込んだ上でレンタカーを運転して中村橋派出所へ向かい、派出所内部が偵察できる場所に駐車すべく走行・移動した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。

その後、Sは派出所の東方約87.5メートル(m)に位置する「[[西友]] 中村橋店」(練馬区中村北三丁目15番6号 / 画像中の黄色「P」)の南側商品搬入口に車の後部を乗り入れた状態で路上駐車し、車内から双眼鏡で派出所の様子を偵察した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。しかし当時は警察官2人が見張り勤務に立っており{{Refnest|group="注"|同派出所では15日16時から被害者2人(巡査A・巡査部長B)のほか別の巡査1人が勤務していたが、この巡査は事件当時派出所2階で仮眠中だった<ref name="読売新聞1989-05-16"/>。}}、かなりの時間が経過しても警察官が1人になる気配が一向に感じられなかったため「派出所に近づいて1人になったところを隙を見て襲うしかない」と判断した上で、双眼鏡を車の後部座席に置き、サバイバルナイフなどの入った手提げ袋を持って車を降りた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。Sはそのまま徒歩でいったん派出所まで接近したが、容易に襲撃の機会を見出すことができなかったため、警察官に気付かれないよう派出所付近の路上を行きつ戻りつしながらも執拗に警察官を襲撃する機会を窺った{{Sfn|東京地裁|1991|loc=本件犯行に至る経緯}}。一方で2時すぎ - 2時50分ごろには派出所近くで少年3人が職務質問されていたが、A・B両被害者とも当時派出所にいた<ref name="毎日新聞1989-05-22"/>。

=== 警察官2人を殺害 ===
1989年5月16日2時50分ごろ、加害者Sは「中村橋派出所」裏側路上で警察官から拳銃を強取する目的でA・B両警察官をサバイバルナイフで襲い、2人を刺して殺害することで両警察官の職務の執行を妨害したほか([[強盗致死傷罪|強盗殺人罪]]および[[公務の執行を妨害する罪|公務執行妨害罪]])、派出所裏側路上で正当な理由なく凶器のサバイバルナイフ1本を携帯した([[銃砲刀剣類等所持取締法]]違反){{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。

事件発生時刻ごろ、Sは派出所の西方約70メートルに位置する「練馬区中村橋集会所」(中村北四丁目2番8号 / 画像中の黄色「※」)前路上に差し掛かった際、執務中の被害者・[[巡査]]A(警視庁練馬警察署警邏第三係巡査・{{没年齢|1959|4|29|1989|5|16}}){{Refnest|group="注"|巡査Aは1959年(昭和34年)4月29日生まれ{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。}}が派出所出入り口前(東側)に一時保管していた遺留自動二輪者を派出所裏側(西側)の遺留自転車等保管場所{{Refnest|group="注"|派出所とその西側の「中村橋歩道橋」との間にある空き地{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。}}へ移動作業中であることを確認し、巡査Aの動静を窺った{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。

するとAが保管場所で自動二輪車の出し入れをしており、その背後が全く無防備になっていたため、Sは「この機会にAを殺害して拳銃を強奪しよう」と決意して東進し、派出所と集会所の間(中村北四丁目2番8号)にあった飲食店脇の電柱(中村24)の陰に身を隠し、所持した手提げ紙袋の中から凶器として用いるサバイバルナイフを取り出して右順手に持った{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。Sは用意した軍手片方を左手に着用する余裕もないまま小走りに巡査Aへ背後から近づき、背中をサバイバルナイフで突き刺したが、Aが振り向いて「やめろ」と言いながら両手でSの上腕部を掴み、その場に倒れ込む格好となった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。さらにAは上半身を起こし、なおもSの身体から手を放そうとしなかったため、Sは正対したままAの胸部などを力任せにサバイバルナイフで突き刺してAをその場に仰向けに倒れさせた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。そしてSはAに致命傷を負わせると、そのままAが着装していた拳銃を奪おうと右腰あたりの拳銃ケースに手を掛けたが、Aが拳銃を奪われまいと抵抗したことに加え、S自身も慌てていたためケースカバーを外せず、拳銃を奪うことには失敗した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。

そのころ、派出所内で執務していた被害者・[[巡査部長]]B(練馬署警邏第三係巡査部長・{{没年齢|1954|2|26|1989|5|16}}){{Refnest|group="注"|巡査Aは1954年(昭和29年)2月26日生まれ{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。}}が同僚Aの急を察知してSがAを襲っていた派出所裏へ駆けつけ、警棒を振り上げながらSに対し「おい!」と声を掛けた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。その場で立ち上がったSは咄嗟に「このままでは捕まる」と考えたため「いっそのことBも殺して、拳銃を奪って逃げよう」と決意し、Bが振り下ろした警棒を左手で払いのけ、右手に持ったサバイバルナイフでBの胸部を力任せに突き刺した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。BはひるまずSと組み合い、路上に転倒したまま揉み合ったが、SはBの胸部などをサバイバルナイフで数回にわたり力任せに突き刺して致命傷を負わせ、Bが着装していた拳銃ケース(「平成元年押第1132号の17」)に手を掛けて拳銃を強奪しようとしたが、Bの激しい抵抗に遭い失敗に終わった{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。Sはそのまま逃走したが、BはなおSに対し拳銃を3発発射して威嚇したほか、最後の力を振り絞って派出所へ戻り、事件発生を電話連絡した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=量刑の理由}}。

犯行後、Sは凶器のサバイバルナイフ・犯行時に着用した衣服・靴・軍手などを<ref name="読売新聞1989-05-22"/>[[武蔵関公園]]内の池{{Refnest|group="注"|派出所から西方約6キロメートル地点の「富士見池」<ref name="読売新聞1989-05-22">『読売新聞』1989年5月22日東京朝刊第一社会面31頁「警官刺殺のナイフ発見 現場から6キロ、公園の池で 血ついた服、靴も/東京」(読売新聞東京本社)</ref>。}}に投棄して罪証隠滅工作を図った{{Sfn|東京地裁|1991|loc=弁護人の主張に対する判断}}。また犯行5時間後の5月16日8時ごろにはレンタカー営業所へレンタカーを返却したが{{Refnest|group="注"|この時点では事件当時目撃された黒い服装ではなく、白いワイシャツ・ジーンズ姿だったため、犯行後に車内で着替えたものと推測された<ref name="読売新聞1989-06-09夕刊"/>。}}、その際には車の左側ドア・右後部パンパ―など数か所がへこんでおり、Sは係員に対し「近くの路地に入り込んでしまい、何回かぶつけてしまった」と説明した<ref name="読売新聞1989-06-09夕刊">『読売新聞』1989年6月9日東京夕刊第一社会面19頁「東京・練馬の2警官殺害の『S』 犯行直前にレンタカー 偽装?警察へ事故届」(読売新聞東京本社)</ref>。そのため営業所側は保険請求手続きの必要性から警察に届けるように求め、Sは自ら近くの野方署鷺宮駅前派出所へ出頭し、同署内にいた警官を伴ってレンタカー会社へ一緒に戻り、車を見せながら事情を詳しく説明していた<ref name="読売新聞1989-06-09夕刊"/>。

== 捜査 ==
一連の刺突行為により巡査A・巡査部長Bともに致命傷を負い、Bは同日3時55分ごろに[[帝京大学医学部附属病院]]にて右肺・肝臓への刺創(刺し傷)に基づく失血などにより死亡したほか、Aも同日4時18分ごろに[[東京医科大学病院]]にて心臓・肝臓などの刺切創(刺し傷および切り傷)による失血などにより死亡した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=罪となるべき事実}}。警視庁捜査一課・練馬署は[[殺人罪 (日本)|殺人]]事件として特別捜査本部を設置し<ref name="読売新聞1989-05-16"/>、警視庁は同日付で[[殉職]]した被害者の警察官2人を(巡査Aを警部補・巡査部長Bを警部に)それぞれ2階級特進させたほか、[[警察庁]]も両被害者の遺族に[[警察勲功章]]を贈った<ref name="読売新聞1989-05-17">『読売新聞』1989年5月17日東京朝刊第一社会面31頁「警官殺し犯 ビル侵入男と酷似 88年、近くで逮捕歴 シンナー常習、恨みか」(読売新聞東京本社)</ref>。

被害者・巡査Aが倒れていた派出所北側の歩道にはサバイバルナイフの鞘(ナイフケース)・タオル・手袋の入った「ビックカメラ」の紙袋が残されており<ref name="毎日新聞1989-05-17">『毎日新聞』1989年5月17日東京朝刊第一社会面27頁「派出所そば歩道にナイフケース入り紙袋 2警官刺殺の犯人遺留か」(毎日新聞東京本社)</ref>、紙袋からは指紋が複数個検出された<ref>『毎日新聞』1989年5月17日東京夕刊第一社会面15頁「遺留の紙袋から指紋--東京・練馬の警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)</ref>。また、派出所から約200メートル西方の十字路まで約3メートル間隔で靴などによる血痕が残されていたほか、そこから右折して約30メートル先の道路脇にあった水道洗い場(クリーニング店敷地内)数か所や300メートル先の工場社員寮の門{{Refnest|group="注"|現場から約600メートル離れた自動車部品会社の男子寮敷地内<ref name="読売新聞1989-05-23"/>。}}からも血痕が検出され<ref>『毎日新聞』1989年5月18日東京朝刊第一社会面27頁「東京・練馬区の警官刺殺犯人、現場近くの水道使う 洗い場に血痕」(毎日新聞東京本社)</ref>、5月21日には武蔵関公園・富士見池(逃走経路の延長線上)にて犯人が着用していた衣服や靴・凶器のサバイバルナイフ<ref name="読売新聞1989-05-22"/>・双眼鏡のレンズカバーが発見された<ref name="読売新聞1989-05-31"/>。なお21日には当時[[未解決事件|未解決]]だった[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]{{Refnest|group="注"|同年8月に加害者・[[宮崎勤]]が逮捕され解決した。}}の犯人が名乗っていた「今田勇子」の偽名で警察官殺しを祝うような[[犯行声明|声明文]]が派出所裏にばら撒かれたが、この件に関しては事件に便乗した第三者による[[愉快犯]]とみられている<ref name="読売新聞1989-06-05">『読売新聞』1989年6月5日東京夕刊第一社会面19頁「警官刺殺の派出所裏に怪文書まく いたずら?『今田勇子』名/東京・練馬」(読売新聞東京本社)</ref>。

特捜本部は被害者の刺し傷が心臓に達するほど深いものだったことから「最初から生命を奪うことを目的にした刺し方」と判断し<ref name="毎日新聞1989-05-27"/>、「犯人は現場付近に居住するか土地勘のある者だ」として{{Refnest|group="注"|血痕から犯人が分かりにくい路地を巧みに右左折したことが判明したことに加え<ref name="読売新聞1989-05-23"/>、凶器などが投棄された富士見池は地元の人間以外はほとんど知らない場所だったため<ref>『毎日新聞』1989年5月22日東京朝刊第一社会面27頁「公園の池に凶器、衣類 2警官刺殺現場から6キロ--東京・練馬」(毎日新聞東京本社)</ref>。}}遺留品(計13点)などを詳細に調査した<ref name="読売新聞1989-06-08">『読売新聞』1989年6月8日東京夕刊一面1頁「東京・練馬の2警官刺殺事件 元自衛官が自供」(読売新聞東京本社)</ref>。しかし本事件は遺留品の数そのものは豊富だったが、それらの販売元をくまなく調べてもどこの店員も販売した客について全く覚えていなかったことに加え<ref name="AERA"/>、事件直後に加害者Sが巧みな罪証隠滅工作を図ったこともあり、事件解決には時間を要した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=弁護人の主張に対する判断}}。その間に以下のような犯人像が推測された。
* 現場周辺の不審者説 - 事件前日未明(3時40分ごろ)には現場付近でタクシー運転手がナイフを持った男に襲撃される事件が発生していた点から、同事件と同一犯である可能性が指摘された<ref>『毎日新聞』1989年5月18日東京夕刊第一社会面15頁「現場近くでタクシー運転手がナイフ男に襲われる--警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)</ref>。
* [[逆恨み]]説・顔見知り説 - 最初に巡査Aが背後から刺されていた点から「練馬署・同派出所で過去に職務質問・検挙された者が被害者たちを逆恨みし、計画的に犯行に及んだ」と推測された{{Refnest|group="注"|1988年12月初めに派出所近くの雑居ビルにあった女子トイレに侵入して巡査部長Bら派出所の警官2人に現行犯逮捕されたシンナー常習者の若い男や<ref name="読売新聞1989-05-17"/>微罪で派出所の警官に職質された人物なども捜査線上に挙がっていた<ref name="毎日新聞1989-05-27">『毎日新聞』1989年5月27日東京朝刊第一社会面27頁「警官刺殺事件、不審者数人に絞る 計画的犯行と判断--捜査本部」(毎日新聞東京本社)</ref>。}}<ref>『毎日新聞』1989年5月19日東京朝刊第一社会面27頁「恨みの可能性も 中村橋派出所警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)</ref>。また屈強な警察官2人が無抵抗同然の形で刺殺された点から「2人とも犯人の様子から凶行を全く予想し得なかったか、犯人と顔見知りで無警戒だった可能性がある」「犯人は警察官2人がいることを承知した上で犯行に及んだ」とも推測された<ref name="毎日新聞1989-05-22">『毎日新聞』1989年5月22日東京夕刊第一社会面10頁「練馬の刺殺事件、両警官とも派出所にいた 無警戒、顔見知り?」(毎日新聞東京本社)</ref>。
* 過激派説 - 一部の過激派[[セクト (新左翼)|セクト]]に属する活動家が護身用として常時大型ナイフを所持していたため、警視庁[[公安部]]が「過激派メンバーによる犯行の可能性もある」と関心を寄せていた{{Refnest|group="注"|1987年7月には過激派非公然部隊の武器製造アジトが現場付近で摘発されていた<ref name="毎日新聞1989-05-17"/>。}}<ref name="毎日新聞1989-05-17"/>。
その後、「事件直前の2時45分ごろに派出所裏の歩道橋段下付近(紙袋が遺されていた場所)に黒っぽい上下の服を着た男が潜んでいた」という目撃情報があり、事件10分前から待ち伏せていたことが「計画的犯行」説を補強することに加え、目撃された男は人相・着衣や犯人像(20歳前後で黒い上下の服を着た男)とも一致した<ref>『毎日新聞』1989年5月31日東京朝刊第一社会面27頁「2警官刺殺事件の派出所裏に男がいた 犯行10分前に目撃」(毎日新聞東京本社)</ref>。

また遺留品となった凶器のサバイバルナイフ・着衣などから犯人像は「ナイフにこだわる趣向を持つ若者でミリタリーマニア」<ref name="毎日新聞1989-05-26">『毎日新聞』1989年5月26日東京夕刊第二社会面14頁「犯人はミリタリーマニア?東京・2警官刺殺事件から10日」(毎日新聞東京本社)</ref>もしくは「サバイバルゲームの愛好者」という線が浮上した<ref name="AERA">{{Cite journal|journal=[[AERA]]|author=社会部・警視庁クラブ|title=遺留品に期待できない都会の事件(先週今週・調査)|volume=2|page=64|year=1989|issue=25|publisher=[[朝日新聞社]]}}(※通巻第57号・1989年6月20日号)</ref>。これに加え、犯行現場と武蔵関公園にはそれぞれ緑色の軍手が片方ずつ残されていたが「双方は色・糸が違う別製品で、うち武蔵関公園に投棄されていた軍手はほとんどが自衛隊駐屯地内の売店で販売されていた」という事実も判明した{{Refnest|group="注"|もう1つの濃い緑色の軍手(派出所付近に遺留)は雑貨店・作業衣店などで販売されていたが、一般向けにはほとんど売れず、自衛隊などに大量に納入されていた<ref name="読売新聞1989-05-21">『読売新聞』1989年5月21日東京朝刊第一社会面31頁「警官刺殺の米国製ナイフ、輸入は百数十丁だけ」(読売新聞東京本社)</ref>。}}<ref name="読売新聞1989-06-09"/>。そのため特捜本部は「犯人は自衛隊関係者の可能性が高い」と絞り込み<ref name="読売新聞1989-06-08"/>、現場周辺で聞き込み捜査を続けたところSが浮上し<ref name="読売新聞1989-06-09">『読売新聞』1989年6月9日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺『S』逮捕 執念で追った『緑の軍手』 自衛隊内部の“専売品”」(読売新聞東京本社)</ref>、「犯人像と酷似していた上に事件当時のアリバイがなく、凶器と同じサバイバルナイフを持っていたことがある」点から犯人として断定される格好となった<ref name="読売新聞1989-06-08"/>。

特捜本部は1989年6月8日早朝に加害者Sのアパート居室へ出向き、Sを任意同行したが、その部屋には犯行後に発見された2種類の軍手のそれぞれ片方ずつが遺されていた<ref name="読売新聞1989-06-09"/>。Sは取り調べに対し「大金欲しさに銀行強盗をやろうと拳銃を狙った」と犯行を自供したため<ref name="読売新聞1989-06-08"/>、特捜本部は事件発生から23日目となる同日午後(警視庁による公葬の前日)に[[被疑者]]Sを殺人容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref name="毎日新聞1989-06-09"/>。後の家宅捜索では富士見池に投棄されていたレンズカバー(キャップ)と同じ種類の双眼鏡の本体も発見されたほか<ref>『読売新聞』1989年6月12日東京夕刊第二社会面18頁「警視庁中村橋派出所2警官刺殺事件 S宅で双眼鏡を発見」(読売新聞東京本社)</ref>、Sは犯行時の経緯について「派出所裏に潜んで様子を窺い、巡査Aが派出所脇に置いてあった自転車を整理しようと1人で外に出てきたところを背後から襲った」と述べたほか、動機について「なぜ危険を冒してまで拳銃を奪うことにこだわったのか?」と追及されると「[[銀行強盗]]では窓口で100万円単位の金しか奪えないから、億単位の金を手に入れるためには[[三億円事件]]などのように[[現金輸送車]]を襲撃するしかないと思った」と供述した<ref>『[[朝日新聞]]』1989年6月15日朝刊第一社会面19頁「現金輸送車狙うため『警察の銃』と自供 練馬の警官殺人事件」([[朝日新聞社]])</ref>。

特捜本部は6月9日午後に被疑者Sを殺人容疑で[[東京地方検察庁]]に[[送致|身柄送検]]したほか<ref name="読売新聞1989-06-09夕刊"/>、警視庁は同日に殉職した被害者2人の公葬を行い、[[金澤昭雄]][[警察庁長官]]・[[大堀太千男]][[警視総監]]・[[鈴木俊一]][[東京都知事]]ら警察・東京都の代表者らが列席した<ref>『毎日新聞』1989年6月10日東京朝刊第一社会面27頁「遺児の姿、悲しみ新た 逮捕の翌日、東京・練馬の刺殺2警官公葬」(毎日新聞東京本社)</ref>。なお本事件は「警視庁創立140年特別展」の来館者らに対し実施された「みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート(2014年1月10日 - 5月6日に実施)<ref>{{Cite web|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/welcome/welcome/rank_top/|title=警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件|accessdate=2020-04-27|publisher=警視庁|date=|website=警視庁公式ウェブサイト|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427144929/https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/welcome/welcome/rank_top/|archivedate=2020-04-27}}</ref>にて30票を得票し、第60位(うち警視庁職員の投票による順位では19位)に選出された<ref>{{Cite web|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/welcome/welcome/rank_top/rank51_100.html|title=警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件 > アンケート結果 第51位から100位まで|accessdate=2020-04-27|publisher=警視庁|date=2016-03-31|website=警視庁公式ウェブサイト|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427144451/https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/welcome/welcome/rank_top/rank51_100.html|archivedate=2020-04-27}}</ref>。

== 刑事裁判 ==
[[東京地方検察庁]]は1989年6月10日付で被疑者Sの容疑を強盗殺人・公務執行妨害・[[銃砲刀剣類所持等取締法]](銃刀法)違反に切り替え<ref name="読売新聞1989-06-11">『読売新聞』1989年6月11日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺の『S』10日間拘置」(読売新聞東京本社)</ref>、1989年6月29日に被疑者Sを強盗殺人・公務執行妨害・銃刀法違反の罪で[[東京地方裁判所]]へ[[起訴]]し<ref>『[[朝日新聞]]』1989年6月30日朝刊第二社会面30頁「東京・練馬の2警官殺しで男を起訴」([[朝日新聞社]])</ref>、同年10月18日に東京地裁刑事第2部([[中山善房]][[裁判長]])で[[被告人]]Sの初[[公判]]が開かれた<ref>『朝日新聞』1989年10月19日朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺事件の被告、殺意を否定 東京地裁で初公判」(朝日新聞社)</ref>。初公判で行われた罪状認否にて被告人Sは被害者への殺意を否認したほか、[[弁護人]]も「傷害の故意はあるが殺意はない」として傷害致死罪の成立を主張した上で、動機について「理解困難。ごく普通の青年がこのような犯行に及んだ経緯を解明するには生育の経緯・心理構造の解明が必要だ」と述べた<ref>『毎日新聞』1989年10月19日東京朝刊第一社会面31頁「S被告が殺意を否認--練馬の2警官殺し初公判の罪状認否で」(毎日新聞東京本社)</ref>。一方で東京地検の検察官は1991年(平成3年)2月15日に開かれた論告求刑公判で被告人Sに[[日本における死刑|死刑]]を[[求刑]]した<ref>『読売新聞』1991年2月16日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の2警官殺害事件 検察側が元自衛官に死刑を求刑」(読売新聞東京本社)</ref>。

1991年5月27日に判決公判が開かれ、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は東京地検の求刑通り被告人Sに死刑判決を言い渡した{{Sfn|東京地裁|1991|loc=主文}}<ref>『読売新聞』1991年5月28日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の派出所2警官刺殺 元自衛官に死刑判決/東京地裁」(読売新聞東京本社)</ref>。判決理由で同地裁は弁護人の「被告人Sは被害者2人への殺意を有しておらず傷害致死罪に該当する。また[[統合失調症|精神分裂病]]の遺伝的素因を有している疑いがあり、犯行当時は偽躁うつ病型分裂病による心神喪失ないし心神耗弱状態だった」とする主張を退け「被害者の受けた傷はいずれも身体枢要部に達するもので、『拳銃を奪う』という動機に照らせば捜査段階における『殺意を有した上で計画的にやった』という供述は十分信用できる。犯行後に周到な罪証隠滅工作を行っていることなどを考慮すればぜひ弁識能力・行動統御能力の面に異常は認められず、刑事[[責任能力]]に問題はない」と[[事実認定]]したほか{{Sfn|東京地裁|1991|loc=弁護人の主張に対する判断}}、量刑についても「社会の秩序維持のために勤務中の警察官2人の生命が奪われた、法治国家における秩序に対する反逆・挑戦ともいうべき事件だ。被告人Sは自衛隊で国の安全を守るための必要な教育訓練を受けた経歴を有するにも拘らず、除隊後わずか2か月で『拳銃を奪い強盗を行う』ために凶悪・身勝手な犯行に及んでおり、酌量の余地はない。社会に与えた衝撃の大きさや被害者の無念・遺族の峻烈な処罰感情などを考慮すれば極刑をもって臨むほかない」と結論付けた{{Sfn|東京地裁|1991|loc=量刑の理由}}。

被告人S側は判決を不服として[[東京高等裁判所]]へ即日[[控訴]]し<ref>『毎日新聞』1991年5月28日東京朝刊第二社会面22頁「警視庁練馬署派出所の2警官を刺殺 元自衛官に死刑--東京地裁判決」(毎日新聞東京本社)</ref>、控訴審では「被告人Sは犯行当時は[[精神障害]]で[[責任能力]]を失った(心神喪失の)状態だった」と主張したが<ref>『[[毎日新聞]]』1994年2月24日東京夕刊第一社会面11頁「一審判決を支持 控訴審も死刑--練馬の2警官刺殺」([[毎日新聞東京本社]])</ref>、東京高裁第10刑事部([[小林充]]裁判長){{Sfn|東京高裁|1994}}は1994年(平成6年)2月24日に開かれた控訴審判決公判で第一審・死刑判決を支持して被告人Sの控訴を棄却する判決を言い渡した<ref name="読売新聞1994-02-24">『読売新聞』1994年2月24日東京夕刊第二社会面18頁「練馬の2警官刺殺事件 『非情な犯行』と元自衛官に二審も死刑/東京高裁」(読売新聞東京本社)</ref>。同高裁は判決理由で「被告人Sは恵まれない環境で育ったために人格の偏向があることはうかがえるが、精神障害は認められない」と認定し<ref>『毎日新聞』1994年2月24日東京夕刊第一社会面11頁「一審判決を支持 控訴審も死刑--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社)</ref>、量刑理由についても「拳銃を奪う目的のために警察官を犠牲にすることもいとわず、他人の生命に対する一片の配慮もうかがえない非情な犯行に及んだ。被害者遺族の被害感情も考慮すれば、死刑制度が存置されているわが国の法制下では極刑もやむを得ない」と結論付けた<ref name="読売新聞1994-02-24"/>。

弁護人は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ[[上告]]し、上告審でも「被告人Sの犯行当時の責任能力には疑問があり、再度の[[精神鑑定]]が必要だ」と主張したが、最高裁第一[[小法廷]]([[井嶋一友]]裁判長)は1998年(平成10年)9月17日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人S・弁護人の上告を[[棄却]]する判決を言い渡したため、死刑が確定した<ref>『読売新聞』1998年9月18日東京朝刊第一社会面35頁「元自衛官の2警官刺殺に死刑確定 S被告の上告棄却/最高裁」(読売新聞東京本社)</ref>。<!--{{要出典|死刑囚Sは[[2003年]](平成15年)に「犯行時は心神耗弱であり精神状態の再鑑定が必要である」などと主張して[[再審]]請求している。|date=2020-04-02}}-->

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
'''出典'''
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
'''刑事裁判の判決文・法務省発表'''
*「別冊[[歴史読本]] 殺人百科データファイル-」、[[新人物往来社]]、2005年、198~199頁
* 第一審 - {{Cite 判例検索システム|裁判所=[[東京地方裁判所]]刑事第2部|裁判形式=判決|事件番号=平成1年(合わ)第96号|事件名=[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]、[[公務の執行を妨害する罪|公務執行妨害]]、[[銃砲刀剣類所持等取締法]]違反被告事件|裁判年月日=1991年(平成3年)5月27日|判例集=『D1-Law.com』([[第一法規]]法情報総合データベース)判例体系 ID:28166310|判示事項=|裁判要旨=|url=|ref={{SfnRef|東京地裁|1991}}}}<!--<div style="border: 1px solid #aaa; margin-left: 25px; padding: 2px; background: #eee; font-size: 90%;"></div>-->
** [[裁判官]]:[[中山善房]]([[裁判長]])・[[杉田宗久]]・山本由利子
** 判決内容:[[日本における死刑|死刑]]・押収品2点を[[没収]](求刑:死刑 / 被告人・弁護人側控訴)
*** 押収品:サバイバルナイフ1本(平成元年押第1132号の6)・サバイバルナイフケース1本(平成元年押第1132号の2)
** 検察官:杉山茂久
* 控訴審 - {{Cite 判例検索システム|裁判所=[[東京高等裁判所]]第10刑事部|裁判形式=判決|事件番号=平成3年(う)第709号|事件名=強盗殺人、公務執行妨害、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件|裁判年月日=1994年(平成6年)2月24日|判例集=『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28166997(本文は未収録)|判示事項=|裁判要旨=|url= |ref={{SfnRef|東京高裁|1994}}}}
:* 裁判官:[[小林充]](裁判長)・中野保昭・宮嶋英世
:* 判決内容:被告人・弁護人側控訴棄却(死刑判決支持 / 被告人・弁護人側上告)
* 上告審 - {{Cite 判例検索システム|法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一小法廷|裁判形式=判決|事件番号=平成6年(あ)第341号|事件名=強盗殺人、公務執行妨害、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件 / 死刑事件(練馬区中村橋派出所二警察官殺人事件)|裁判年月日=1998年(平成10年)9月17日|判例集=『[[判例集|最高裁判所裁判集刑事編]]』(集刑)第273号915頁・『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28202255|判示事項=|裁判要旨=|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57993|ref={{SfnRef|最高裁第一小法廷|1998}}}}
** [[最高裁判所裁判官]]:[[井嶋一友]](裁判長)・[[小野幹雄]]・[[遠藤光男]]・[[藤井正雄]]・[[大出峻郎]]
** 判決内容:被告人・弁護人側上告棄却(死刑判決支持・確定)
** 検察官・弁護人
*** 検察官:松尾邦弘
*** 弁護人:二瓶茂・石田道明
'''書籍'''
* {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=オウム大虐殺 13人執行の残したもの 年報・死刑廃止2019|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/286|publisher=[[インパクト出版会]]|date=2019-10-25|edition=初版第1刷発行|editor=(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・[[安田好弘]]・深田卓)|pages=263頁, 275頁|isbn=978-4755402982|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2019}}}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[勝田清孝事件]] - 同事件では1982年(昭和57年)10月に犯人・勝田清孝(2000年に死刑執行)が本事件の死刑囚Sと同様に強盗目的で警察官からの拳銃強奪を試み成功。勝田は後にその拳銃を用い、翌1983年1月に逮捕されるまでの間に連続強盗殺傷事件([[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]113号事件)を起こした。
*[[東村山警察署旭が丘派出所警察官殺害事件]]
* [[東村山警察署旭が丘派出所警察官殺害事件]] - 1992年(平成4年)に本事件と同じく東京都内([[清瀬市]])で発生した警察官殺害・拳銃強奪事件(警察官1人死亡)。2007年(平成19年)に[[公訴時効]]が成立し[[未解決事件]]になった。
*[[日本における収監中の死刑囚の一覧]]
* [[富山市奥田交番襲撃事件]] - 2018年(平成30年)に[[富山県]][[富山市]]で発生した警察官殺害・拳銃強奪事件(警察官・警備員の計2人死亡)。同事件の加害者は本事件の死刑囚Sと同様に元陸上自衛官だった。


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2020年4月29日 (水) 07:49時点における版

中村橋派出所警察官殺害事件
地図
場所 日本の旗 日本東京都練馬区中村北四丁目2番4号「警視庁練馬警察署 中村橋派出所[注 1][4]
座標
北緯35度44分10.378秒 東経139度38分17.254秒 / 北緯35.73621611度 東経139.63812611度 / 35.73621611; 139.63812611座標: 北緯35度44分10.378秒 東経139度38分17.254秒 / 北緯35.73621611度 東経139.63812611度 / 35.73621611; 139.63812611
標的 現場派出所勤務の警察官巡査A・巡査部長B[4] / 事件後に2階級特進[5]
日付 1989年平成元年)5月16日[4]
2時50分ごろ[4] (UTC+9日本標準時・JST〉)
概要 加害者の男が銀行強盗などにより大金を得ることを企て、そのための手段として警察官を襲撃して拳銃を奪うことを考えた[6]。そして事件当日に中村橋派出所で執務中の警察官2人をサバイバルナイフで襲撃して刺殺したが、拳銃強奪の目的は達せなかった[4]
攻撃手段 サバイバルナイフで刺突する[4]
攻撃側人数 1人
武器 サバイバルナイフ(刃体の長さ約17 cm / 平成元年押第1132号の6)[4]
死亡者 2人[4]
犯人陸上自衛官の男S(事件当時20歳・店員)[7]
動機 銀行強盗をするための拳銃奪取[6]
防御者 被害者・巡査部長Bが拳銃を3発発砲[4]
対処 加害者Sを警視庁が逮捕[8] / 東京地方検察庁起訴[9]
謝罪 捜査段階で被害者への謝罪の言葉を述べ[10]、公判でも反省の言葉を述べた[11]
刑事訴訟 死刑[12]上告棄却により確定 / 未執行[13]
管轄 警視庁(捜査一課・練馬署)[3] / 東京地検
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中村橋派出所警官殺害事件(なかむらばしはしゅつじょけいかんさつがいじけん)は、1989年平成元年)5月16日未明に東京都練馬区中村北で発生した強盗殺人公務執行妨害銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反事件[4]。元陸上自衛官の男S(事件当時20歳)が銀行強盗などのために拳銃を奪取しようと[6]警視庁練馬警察署の「中村橋派出所[注 1]を襲撃し、勤務していた警察官2人(巡査A・巡査部長B)をサバイバルナイフで刺殺したが、被害者らの抵抗に遭い拳銃強奪は未遂に終わった[4]

警察庁によれば、派出所勤務中の警察官2人が同時に殺害され殉職した事件は1955年(昭和30年)以降では初で[14]、1979年(昭和54年)以降の10年間で勤務中の警察官が一度に複数人殺害され殉職した事例も三菱銀行人質事件(1979年1月26日発生)以来2件目だった[2]

加害者・死刑囚S

本事件の加害者S・S(イニシャル / 以下、姓のイニシャル「S」で表記)は1969年昭和44年)1月1日生まれ(現在55歳)[13]。事件当時は東京都中野区上鷺宮三丁目14番13号のアパート[注 2]に居住していた[6]

2019年令和元年)10月1日時点で[16]死刑囚として東京拘置所収監されている[13]

Sの生い立ち

Sは東京都板橋区出身で[注 3][7]、板橋区内の保育園を経て1975年(昭和50年)4月に板橋区立志村第六小学校へ入学したが、母親Xが仕事上で様々な苦労を抱え、父親Y(プラスチック加工会社の社員)も次第にギャンブルに凝ったことなどから家庭内の諍いが絶えず、1977年(昭和52年 / 当時8歳)ごろに妹とともに母Xに連れられて実父Yと別居した[注 4][17]

その後、母Xは自身が所長を務めていたポーラ化粧品株式会社志村橋営業所の部屋でSやその妹とともに3人で生活していたが、相談相手の男性Z(トラック運転手)と懇意になり、1978年(昭和53年 / Sは当時9歳)夏ごろにSやその妹とともに埼玉県戸田市内のZ宅[注 5]に転居した[17]。Sは戸田市立喜沢小学校へ転校したが、ZにはSと保育園から一緒で折り合いの悪い長男がいたことに加え、SはZから度々いじめられていたほか、ZがSの実母Xや自身の長男に対し些細なことで暴力をふるう姿を目の当たりにさせられていたことなどから、次第にZ父子との同居生活に不快感を募らせていた[17]。しかし粗暴なZに対する恐怖心から反抗もできず、それに耐える日々を送っていたが[注 6]、1983年(昭和58年 / 当時14歳)ごろには母Xが仕事上の悩み・Zの暴力的な振る舞いなどによる心労が積み重なったことによりうつ病に罹患し、症状が重い際には家事もできず終日家に閉じこもるようになってしまったため、Sは妹やZとともに自ら食事の支度などをする生活を余儀なくされた[17]

このような特異な同棲生活は浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)卒業直前の1986年(昭和61年 / 当時17歳)11月に母XがZとの同棲を解消したことで終わったが、Sはそのような8年余りの特異な生活体験から「すべての不快な事態は自分なりの理屈で解釈し、それが説明できるときはそれなりに納得する一方、説明できないときは『そもそも不快な事態ではない』などと思い込む」ようになり、様々な生活関係による憤懣・不安の念などの感情を表面に出さず心中で押し殺すことで外見上の平静さを保とうとするようになった[17]。その結果、元来の明朗な性格は鳴りを潜めて神経質・自閉的な性格傾向を深め、次第に友人も少なくなっていった[注 7][17]。そのような生活の中で1985年(昭和60年 / 当時16歳)ごろからは漠然と「自分の不幸な家庭生活はすべて貧困に起因するものだ。金さえあれば嫌な人に頭を下げたり一緒に生活する必要はないから、大人になったらとにかく大金が欲しい。しかし真面目に働いても『お人よし』で終わるだけで幸福にはなれないから、大金を手に入れるためには銀行・ギャンブル場(競馬場など)のように金の集まるところを襲うしかない」などといった特異な生き方を考えるようになった[17]

また少年時代から武器に興味があり、中学時代には玩具の銃に強い興味を示していたほか、中学1年生の時にはプラスチック弾を発射するライフル銃(エアソフトガン)を何度か学校に持ち込んで他生徒に見せびらかし、教師から叱られたこともあった[18]

陸上自衛隊時代

1987年(昭和62年)1月、当時18歳だったSは母親X・妹とともにZ父子と別れて初めて水入らずの正月を迎えたが、同年3月に高校を卒業すると同時に「母親Xから離れて自活しよう」と考え[注 8]、2任期4年間の勤務を志して自衛隊への就職を志望した[17]。1987年3月25日付で陸上自衛隊二等陸士として採用され、その直後には滝ヶ原駐屯地静岡県御殿場市)所在の普通科教導連隊に教育入隊した[17]。その後、約4か月間の新隊員前期・後期課程を経て、同年9月には同連隊第二中隊に小銃手として配置され、19歳になった1988年(昭和63年)1月1日には一等陸士に昇進し、20歳になった1989年(昭和64年)1月1日には陸士長へ昇進した[17]。自衛官時代は上官・同じ班の者からは「物静かで真面目なごく普通の隊員」として評価されていたが[注 9]、S自身は隊内での生活になじめず、他人に束縛されずに働けるフリーターを希望するようになったため、1989年(平成元年)3月24日には除隊後の就職斡旋の話に応じず、1任期満了で陸上自衛隊を除隊した[17]

事件の経緯

犯行計画の立案

事件現場(赤色「×」)周辺の航空写真。加害者Sは◎(自宅アパート)[注 2]から車を運転して「P」付近に路上駐車し[6]、「※」から被害者巡査Aの動向を観察した上で襲撃した[4]

陸上自衛隊除隊後、Sは母親と全く連絡を取らずに事件当時の住居だったアパートの居室へ転居し、同年4月9日 - 25日まで山形県内の自動車教習所で合宿教習を受けて普通自動車免許・自動二輪車免許を取得したほか、同年5月2日にはアルバイト情報誌で知ったコーヒー豆挽き売り店(東京都杉並区荻窪)でアルバイト店員として働き始めた[6]。このころは特段生活に困窮する状態ではなかったが[注 10]、16歳(高校2年生)時から抱いていた大金入手の願望が再び頭をよぎるようになり、「まともに働いていたら何年かかっても大金は手に入らない。大金を得るためには銀行・ギャンブル場へ強盗に入るなど、法に触れることを覚悟しなければいけない」という思いが次第に強くなり、やがて「どうすればうまく大金を奪えるか?」などと思いを巡らすようになった[6]

また、アルバイト先に務めて最初の定休日(火曜日)となる5月9日にはレンタカー[注 11]を運転して約2年ぶりに埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)内の母親X宅を訪れたが、その際にはXと今後同居するつもりがないことを察せられるやり取りを残して自宅アパートに戻ったほか、このころには「銀行強盗などをして大金を奪うためにはまず拳銃を入手しなければいけない。そのためには常時拳銃を腰に着装している警察官を襲うしかない」などと考え、警察官を標的とした具体的な拳銃強取方法を考えるようになった[6]

5月11日ごろ、Sは「自宅アパート(中野区上鷺宮三丁目14番13号 / 画像中の黄色「◎」)[注 2]の近くにあり、犯行後の逃走が容易だ」との理由から現場となった「中村橋派出所」[注 1](練馬区中村北四丁目2番4号 / 画像中の赤色「×」)を実行場所として狙いを付けたほか[注 12]、拳銃強奪の具体的実行方法として「人通りの少ない深夜に警察官が1人で派出所にいる隙を狙う。先端が鋭利なサバイバルナイフで警察官を背後から突き刺して殺し、拳銃を奪ってそのまま自宅アパートに逃げ帰る」という方法を考え付いた[6]。そしてその決行の日については『犯行の翌日に勤務先の者と会わない日』として、翌週の勤務先の定休日(火曜日)の前夜である5月15日夜 - 翌16日未明にかけて敢行することを決めたほか、凶器は事件2年前(1987年 / 昭和62年)に東京・上野のモデルガンショップで購入していた鋼製両刃・刃体の長さ約17センチメートルのサバイバルナイフ(平成元年押第1132号の6 / ガーバー社製「マークII」)[注 13]を使用することにした[6]

決行予定日の1989年5月15日、Sは「中村橋派出所」を車内から見張るために使用する自動車を用意するため、9時ごろにニッポンレンタカー東京株式会社鷺宮営業所(中野区鷺宮)でレンタカーの借用を予約し、13時 - 16時ごろまでの間は北としまえん自動車教習所(東京都練馬区)で継続して受講中の二輪免許限定条件解除のための教習を受けた[6]。その後、18時ごろにレンタカー1台(トヨタ・カローラ)を借用した上で見張りに用いる双眼鏡を購入するため、カローラを運転して豊島区東池袋の「ビックカメラ本店」[注 14]へ赴き、18時58分ごろに同店地下2階売場で双眼鏡1台(本体・ケース・レンズ部分のキャップのセット)[注 15]を購入した上でアパートに戻った[6]

アパートに戻ったSは犯行時の服装についても特に目立たない色彩の物[注 16]を用意し、24時ごろに着替えて身支度を整えると、犯行現場へ携行する物を入れるため双眼鏡を購入したビックカメラの手提げ紙袋1袋(平成元年押第1132号の1)を用意し、その袋の中にサバイバルナイフ・双眼鏡と緑色軍手片方[注 17]、タオル1枚[注 18]を入れて準備を完了し、アパート前に駐車してあったレンタカーにその紙袋を積み込んだ上でレンタカーを運転して中村橋派出所へ向かい、派出所内部が偵察できる場所に駐車すべく走行・移動した[6]

その後、Sは派出所の東方約87.5メートル(m)に位置する「西友 中村橋店」(練馬区中村北三丁目15番6号 / 画像中の黄色「P」)の南側商品搬入口に車の後部を乗り入れた状態で路上駐車し、車内から双眼鏡で派出所の様子を偵察した[6]。しかし当時は警察官2人が見張り勤務に立っており[注 19]、かなりの時間が経過しても警察官が1人になる気配が一向に感じられなかったため「派出所に近づいて1人になったところを隙を見て襲うしかない」と判断した上で、双眼鏡を車の後部座席に置き、サバイバルナイフなどの入った手提げ袋を持って車を降りた[6]。Sはそのまま徒歩でいったん派出所まで接近したが、容易に襲撃の機会を見出すことができなかったため、警察官に気付かれないよう派出所付近の路上を行きつ戻りつしながらも執拗に警察官を襲撃する機会を窺った[6]。一方で2時すぎ - 2時50分ごろには派出所近くで少年3人が職務質問されていたが、A・B両被害者とも当時派出所にいた[28]

警察官2人を殺害

1989年5月16日2時50分ごろ、加害者Sは「中村橋派出所」裏側路上で警察官から拳銃を強取する目的でA・B両警察官をサバイバルナイフで襲い、2人を刺して殺害することで両警察官の職務の執行を妨害したほか(強盗殺人罪および公務執行妨害罪)、派出所裏側路上で正当な理由なく凶器のサバイバルナイフ1本を携帯した(銃砲刀剣類等所持取締法違反)[4]

事件発生時刻ごろ、Sは派出所の西方約70メートルに位置する「練馬区中村橋集会所」(中村北四丁目2番8号 / 画像中の黄色「※」)前路上に差し掛かった際、執務中の被害者・巡査A(警視庁練馬警察署警邏第三係巡査・30歳没)[注 20]が派出所出入り口前(東側)に一時保管していた遺留自動二輪者を派出所裏側(西側)の遺留自転車等保管場所[注 21]へ移動作業中であることを確認し、巡査Aの動静を窺った[4]

するとAが保管場所で自動二輪車の出し入れをしており、その背後が全く無防備になっていたため、Sは「この機会にAを殺害して拳銃を強奪しよう」と決意して東進し、派出所と集会所の間(中村北四丁目2番8号)にあった飲食店脇の電柱(中村24)の陰に身を隠し、所持した手提げ紙袋の中から凶器として用いるサバイバルナイフを取り出して右順手に持った[4]。Sは用意した軍手片方を左手に着用する余裕もないまま小走りに巡査Aへ背後から近づき、背中をサバイバルナイフで突き刺したが、Aが振り向いて「やめろ」と言いながら両手でSの上腕部を掴み、その場に倒れ込む格好となった[4]。さらにAは上半身を起こし、なおもSの身体から手を放そうとしなかったため、Sは正対したままAの胸部などを力任せにサバイバルナイフで突き刺してAをその場に仰向けに倒れさせた[4]。そしてSはAに致命傷を負わせると、そのままAが着装していた拳銃を奪おうと右腰あたりの拳銃ケースに手を掛けたが、Aが拳銃を奪われまいと抵抗したことに加え、S自身も慌てていたためケースカバーを外せず、拳銃を奪うことには失敗した[4]

そのころ、派出所内で執務していた被害者・巡査部長B(練馬署警邏第三係巡査部長・35歳没)[注 22]が同僚Aの急を察知してSがAを襲っていた派出所裏へ駆けつけ、警棒を振り上げながらSに対し「おい!」と声を掛けた[4]。その場で立ち上がったSは咄嗟に「このままでは捕まる」と考えたため「いっそのことBも殺して、拳銃を奪って逃げよう」と決意し、Bが振り下ろした警棒を左手で払いのけ、右手に持ったサバイバルナイフでBの胸部を力任せに突き刺した[4]。BはひるまずSと組み合い、路上に転倒したまま揉み合ったが、SはBの胸部などをサバイバルナイフで数回にわたり力任せに突き刺して致命傷を負わせ、Bが着装していた拳銃ケース(「平成元年押第1132号の17」)に手を掛けて拳銃を強奪しようとしたが、Bの激しい抵抗に遭い失敗に終わった[4]。Sはそのまま逃走したが、BはなおSに対し拳銃を3発発射して威嚇したほか、最後の力を振り絞って派出所へ戻り、事件発生を電話連絡した[11]

犯行後、Sは凶器のサバイバルナイフ・犯行時に着用した衣服・靴・軍手などを[29]武蔵関公園内の池[注 23]に投棄して罪証隠滅工作を図った[30]。また犯行5時間後の5月16日8時ごろにはレンタカー営業所へレンタカーを返却したが[注 24]、その際には車の左側ドア・右後部パンパ―など数か所がへこんでおり、Sは係員に対し「近くの路地に入り込んでしまい、何回かぶつけてしまった」と説明した[31]。そのため営業所側は保険請求手続きの必要性から警察に届けるように求め、Sは自ら近くの野方署鷺宮駅前派出所へ出頭し、同署内にいた警官を伴ってレンタカー会社へ一緒に戻り、車を見せながら事情を詳しく説明していた[31]

捜査

一連の刺突行為により巡査A・巡査部長Bともに致命傷を負い、Bは同日3時55分ごろに帝京大学医学部附属病院にて右肺・肝臓への刺創(刺し傷)に基づく失血などにより死亡したほか、Aも同日4時18分ごろに東京医科大学病院にて心臓・肝臓などの刺切創(刺し傷および切り傷)による失血などにより死亡した[4]。警視庁捜査一課・練馬署は殺人事件として特別捜査本部を設置し[3]、警視庁は同日付で殉職した被害者の警察官2人を(巡査Aを警部補・巡査部長Bを警部に)それぞれ2階級特進させたほか、警察庁も両被害者の遺族に警察勲功章を贈った[5]

被害者・巡査Aが倒れていた派出所北側の歩道にはサバイバルナイフの鞘(ナイフケース)・タオル・手袋の入った「ビックカメラ」の紙袋が残されており[32]、紙袋からは指紋が複数個検出された[33]。また、派出所から約200メートル西方の十字路まで約3メートル間隔で靴などによる血痕が残されていたほか、そこから右折して約30メートル先の道路脇にあった水道洗い場(クリーニング店敷地内)数か所や300メートル先の工場社員寮の門[注 25]からも血痕が検出され[34]、5月21日には武蔵関公園・富士見池(逃走経路の延長線上)にて犯人が着用していた衣服や靴・凶器のサバイバルナイフ[29]・双眼鏡のレンズカバーが発見された[27]。なお21日には当時未解決だった東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件[注 26]の犯人が名乗っていた「今田勇子」の偽名で警察官殺しを祝うような声明文が派出所裏にばら撒かれたが、この件に関しては事件に便乗した第三者による愉快犯とみられている[35]

特捜本部は被害者の刺し傷が心臓に達するほど深いものだったことから「最初から生命を奪うことを目的にした刺し方」と判断し[36]、「犯人は現場付近に居住するか土地勘のある者だ」として[注 27]遺留品(計13点)などを詳細に調査した[38]。しかし本事件は遺留品の数そのものは豊富だったが、それらの販売元をくまなく調べてもどこの店員も販売した客について全く覚えていなかったことに加え[39]、事件直後に加害者Sが巧みな罪証隠滅工作を図ったこともあり、事件解決には時間を要した[30]。その間に以下のような犯人像が推測された。

  • 現場周辺の不審者説 - 事件前日未明(3時40分ごろ)には現場付近でタクシー運転手がナイフを持った男に襲撃される事件が発生していた点から、同事件と同一犯である可能性が指摘された[40]
  • 逆恨み説・顔見知り説 - 最初に巡査Aが背後から刺されていた点から「練馬署・同派出所で過去に職務質問・検挙された者が被害者たちを逆恨みし、計画的に犯行に及んだ」と推測された[注 28][41]。また屈強な警察官2人が無抵抗同然の形で刺殺された点から「2人とも犯人の様子から凶行を全く予想し得なかったか、犯人と顔見知りで無警戒だった可能性がある」「犯人は警察官2人がいることを承知した上で犯行に及んだ」とも推測された[28]
  • 過激派説 - 一部の過激派セクトに属する活動家が護身用として常時大型ナイフを所持していたため、警視庁公安部が「過激派メンバーによる犯行の可能性もある」と関心を寄せていた[注 29][32]

その後、「事件直前の2時45分ごろに派出所裏の歩道橋段下付近(紙袋が遺されていた場所)に黒っぽい上下の服を着た男が潜んでいた」という目撃情報があり、事件10分前から待ち伏せていたことが「計画的犯行」説を補強することに加え、目撃された男は人相・着衣や犯人像(20歳前後で黒い上下の服を着た男)とも一致した[42]

また遺留品となった凶器のサバイバルナイフ・着衣などから犯人像は「ナイフにこだわる趣向を持つ若者でミリタリーマニア」[43]もしくは「サバイバルゲームの愛好者」という線が浮上した[39]。これに加え、犯行現場と武蔵関公園にはそれぞれ緑色の軍手が片方ずつ残されていたが「双方は色・糸が違う別製品で、うち武蔵関公園に投棄されていた軍手はほとんどが自衛隊駐屯地内の売店で販売されていた」という事実も判明した[注 30][44]。そのため特捜本部は「犯人は自衛隊関係者の可能性が高い」と絞り込み[38]、現場周辺で聞き込み捜査を続けたところSが浮上し[44]、「犯人像と酷似していた上に事件当時のアリバイがなく、凶器と同じサバイバルナイフを持っていたことがある」点から犯人として断定される格好となった[38]

特捜本部は1989年6月8日早朝に加害者Sのアパート居室へ出向き、Sを任意同行したが、その部屋には犯行後に発見された2種類の軍手のそれぞれ片方ずつが遺されていた[44]。Sは取り調べに対し「大金欲しさに銀行強盗をやろうと拳銃を狙った」と犯行を自供したため[38]、特捜本部は事件発生から23日目となる同日午後(警視庁による公葬の前日)に被疑者Sを殺人容疑で逮捕した[8]。後の家宅捜索では富士見池に投棄されていたレンズカバー(キャップ)と同じ種類の双眼鏡の本体も発見されたほか[45]、Sは犯行時の経緯について「派出所裏に潜んで様子を窺い、巡査Aが派出所脇に置いてあった自転車を整理しようと1人で外に出てきたところを背後から襲った」と述べたほか、動機について「なぜ危険を冒してまで拳銃を奪うことにこだわったのか?」と追及されると「銀行強盗では窓口で100万円単位の金しか奪えないから、億単位の金を手に入れるためには三億円事件などのように現金輸送車を襲撃するしかないと思った」と供述した[46]

特捜本部は6月9日午後に被疑者Sを殺人容疑で東京地方検察庁身柄送検したほか[31]、警視庁は同日に殉職した被害者2人の公葬を行い、金澤昭雄警察庁長官大堀太千男警視総監鈴木俊一東京都知事ら警察・東京都の代表者らが列席した[47]。なお本事件は「警視庁創立140年特別展」の来館者らに対し実施された「みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート(2014年1月10日 - 5月6日に実施)[48]にて30票を得票し、第60位(うち警視庁職員の投票による順位では19位)に選出された[49]

刑事裁判

東京地方検察庁は1989年6月10日付で被疑者Sの容疑を強盗殺人・公務執行妨害・銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反に切り替え[10]、1989年6月29日に被疑者Sを強盗殺人・公務執行妨害・銃刀法違反の罪で東京地方裁判所起訴[50]、同年10月18日に東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)で被告人Sの初公判が開かれた[51]。初公判で行われた罪状認否にて被告人Sは被害者への殺意を否認したほか、弁護人も「傷害の故意はあるが殺意はない」として傷害致死罪の成立を主張した上で、動機について「理解困難。ごく普通の青年がこのような犯行に及んだ経緯を解明するには生育の経緯・心理構造の解明が必要だ」と述べた[52]。一方で東京地検の検察官は1991年(平成3年)2月15日に開かれた論告求刑公判で被告人Sに死刑求刑した[53]

1991年5月27日に判決公判が開かれ、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は東京地検の求刑通り被告人Sに死刑判決を言い渡した[12][54]。判決理由で同地裁は弁護人の「被告人Sは被害者2人への殺意を有しておらず傷害致死罪に該当する。また精神分裂病の遺伝的素因を有している疑いがあり、犯行当時は偽躁うつ病型分裂病による心神喪失ないし心神耗弱状態だった」とする主張を退け「被害者の受けた傷はいずれも身体枢要部に達するもので、『拳銃を奪う』という動機に照らせば捜査段階における『殺意を有した上で計画的にやった』という供述は十分信用できる。犯行後に周到な罪証隠滅工作を行っていることなどを考慮すればぜひ弁識能力・行動統御能力の面に異常は認められず、刑事責任能力に問題はない」と事実認定したほか[30]、量刑についても「社会の秩序維持のために勤務中の警察官2人の生命が奪われた、法治国家における秩序に対する反逆・挑戦ともいうべき事件だ。被告人Sは自衛隊で国の安全を守るための必要な教育訓練を受けた経歴を有するにも拘らず、除隊後わずか2か月で『拳銃を奪い強盗を行う』ために凶悪・身勝手な犯行に及んでおり、酌量の余地はない。社会に与えた衝撃の大きさや被害者の無念・遺族の峻烈な処罰感情などを考慮すれば極刑をもって臨むほかない」と結論付けた[11]

被告人S側は判決を不服として東京高等裁判所へ即日控訴[55]、控訴審では「被告人Sは犯行当時は精神障害責任能力を失った(心神喪失の)状態だった」と主張したが[56]、東京高裁第10刑事部(小林充裁判長)[57]は1994年(平成6年)2月24日に開かれた控訴審判決公判で第一審・死刑判決を支持して被告人Sの控訴を棄却する判決を言い渡した[58]。同高裁は判決理由で「被告人Sは恵まれない環境で育ったために人格の偏向があることはうかがえるが、精神障害は認められない」と認定し[59]、量刑理由についても「拳銃を奪う目的のために警察官を犠牲にすることもいとわず、他人の生命に対する一片の配慮もうかがえない非情な犯行に及んだ。被害者遺族の被害感情も考慮すれば、死刑制度が存置されているわが国の法制下では極刑もやむを得ない」と結論付けた[58]

弁護人は最高裁判所上告し、上告審でも「被告人Sの犯行当時の責任能力には疑問があり、再度の精神鑑定が必要だ」と主張したが、最高裁第一小法廷井嶋一友裁判長)は1998年(平成10年)9月17日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人S・弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑が確定した[60]

脚注

注釈

  1. ^ a b c 2020年4月1日現在は「中村橋交番[1]西武池袋線中村橋駅から南へ約20メートル離れた東京都道439号椎名町上石神井線(通称:千川通り)沿いに位置する交番で、周囲は事件当時から商店・マンションが立ち並び[2]、深夜も人通りが絶えない場所だった[3]
  2. ^ a b c Sが住んでいたアパートは現場派出所から西方へ約500メートル離れた場所にあり[15]、自衛官時代の1988年夏から「本の置き場所にする」との理由で借りていた[8]
  3. ^ 本籍地は「東京都板橋区船渡一丁目1番地」[7]
  4. ^ その後、1978年9月11日付でY・X夫婦は協議離婚(子供2人の親権者は母X)した[17]
  5. ^ Sが母親Xや妹+男性Zとその長男の計5人で生活していた当時の居宅は2間(6畳+4畳半)のアパートだった[17]。1983年にアパートを出て近くの一戸建てに移住したが、その後も特異な同居生活は好転せずさらに深刻さを増すばかりだった[17]
  6. ^ その間、Sは1981年(昭和56年 / 当時12歳)に小学校を卒業して戸田市立喜沢中学校へ進学し、1984年(昭和59年 / 当時15歳)で浦和市立南高校へ入学した[17]
  7. ^ Sの人物像は周囲から見ると「真面目で温厚だが、無口で感情を表さず、暗い感じの孤独を好むタイプ」と受け取られるようになっていた[17]
  8. ^ Sは化粧品セールスをしていた母親Xが借金を抱えていたために大学進学を断念しており、自衛隊を就職先に選んだ理由は「心身の鍛錬になり、職場として安定しているから」だった[8]
  9. ^ 自衛官時代は賞罰ともなかった[8]
  10. ^ 自衛隊時代に120万円を貯金し、除隊時に約43万円の退職金を受け取った[19]。その後、750 ccオートバイの購入や運転免許取得などにより約90万円を遣ったが[19]、逮捕時には額面約80万円の預金通帳を持っていた[8]
  11. ^ この時には(14 - 18時30分まで)犯行時と同じ営業所で同じ白いカローラを借りており、走行距離も犯行当日の距離数(48キロメートル)とほぼ同じ(46キロメートル)だった[20]。当時Sは運転免許を取得したばかりの初心者だったため、特捜本部は「Sは犯行後の逃走用に車を使うことを計画し、あらかじめ走行コースを決めた上で目立たず運転しやすい昼間を選び、下見を兼ねて試走・練習していた」と推測した[20]
  12. ^ Sの自宅アパートから最も近かった派出所は野方警察署上鷺宮駐在所だったが、同駐在所は夜間に駐在員がいなかった[20]
  13. ^ 事件3年前(1986年)に大阪府大阪市西区の輸入代理店が輸入し[21]、「アメヤ横丁」のナイフ専門店にて1987年(昭和62年)6月以降に販売されていた[22]。現場で発見されたナイフケース(鞘)とセットになったサバイバルナイフは「マークII」以外に片刃の「コマンドII」もあったが、2種類とも1986年(昭和61年)に計百数十本を日本へ代理店などを通じて輸出しただけで[23]、1987年11月以降は製造されていなかった[24]
  14. ^ 東京地裁(1991)ではビックカメラ東口店(本店)の住所が「東京都豊島区東池袋一丁目11番7号」となっているが、同住所は2020年4月時点で「ビックカメラ アウトレット池袋東口店」の所在地になっており[25]、本店(池袋本店)の住所は「東池袋一丁目41番5号」である[26]
  15. ^ 双眼鏡本体は「平成元年押第1132号の8」、ケースは「同号の9」、キャップは「同号の7」[6]。双眼鏡は倍率10倍(ケンコー社製)で、1989年4月中旬に発売されて以降同店で10台前後しか売れていなかった[27]
  16. ^ 黒色のジャケット・ズボンおよび縦縞シャツなど[6]
  17. ^ 左手のみに着用するため[6]
  18. ^ 血液・指紋を拭き取るため[6]
  19. ^ 同派出所では15日16時から被害者2人(巡査A・巡査部長B)のほか別の巡査1人が勤務していたが、この巡査は事件当時派出所2階で仮眠中だった[3]
  20. ^ 巡査Aは1959年(昭和34年)4月29日生まれ[4]
  21. ^ 派出所とその西側の「中村橋歩道橋」との間にある空き地[4]
  22. ^ 巡査Aは1954年(昭和29年)2月26日生まれ[4]
  23. ^ 派出所から西方約6キロメートル地点の「富士見池」[29]
  24. ^ この時点では事件当時目撃された黒い服装ではなく、白いワイシャツ・ジーンズ姿だったため、犯行後に車内で着替えたものと推測された[31]
  25. ^ 現場から約600メートル離れた自動車部品会社の男子寮敷地内[21]
  26. ^ 同年8月に加害者・宮崎勤が逮捕され解決した。
  27. ^ 血痕から犯人が分かりにくい路地を巧みに右左折したことが判明したことに加え[21]、凶器などが投棄された富士見池は地元の人間以外はほとんど知らない場所だったため[37]
  28. ^ 1988年12月初めに派出所近くの雑居ビルにあった女子トイレに侵入して巡査部長Bら派出所の警官2人に現行犯逮捕されたシンナー常習者の若い男や[5]微罪で派出所の警官に職質された人物なども捜査線上に挙がっていた[36]
  29. ^ 1987年7月には過激派非公然部隊の武器製造アジトが現場付近で摘発されていた[32]
  30. ^ もう1つの濃い緑色の軍手(派出所付近に遺留)は雑貨店・作業衣店などで販売されていたが、一般向けにはほとんど売れず、自衛隊などに大量に納入されていた[24]

出典

出典

  1. ^ 練馬警察署 中村橋交番”. 警視庁公式ウェブサイト. 警視庁 (2018年2月28日). 2020年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月1日閲覧。
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  21. ^ a b c 『読売新聞』1989年5月23日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺から1週間 300人の大捜査網で追う 犯人は現場付近に土地カン」(読売新聞東京本社)
  22. ^ 『毎日新聞』1989年5月24日東京朝刊第一社会面27頁「2警官刺殺事件のナイフはアメヤ横丁で販売」(毎日新聞東京本社)
  23. ^ 『毎日新聞』1989年5月21日東京朝刊第一社会面27頁「ナイフケースなど遺留品公開--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社)
  24. ^ a b 『読売新聞』1989年5月21日東京朝刊第一社会面31頁「警官刺殺の米国製ナイフ、輸入は百数十丁だけ」(読売新聞東京本社)
  25. ^ ビックカメラアウトレット池袋東口店”. ビックカメラ 公式ウェブサイト. ビックカメラ. 2020年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月1日閲覧。
  26. ^ ビックカメラ池袋本店”. ビックカメラ 公式ウェブサイト. ビックカメラ. 2020年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月1日閲覧。
  27. ^ a b 『読売新聞』1989年5月31日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の警官殺し遺留品 特殊双眼鏡のカバー 最新型、販売10個だけ」(読売新聞東京本社)
  28. ^ a b 『毎日新聞』1989年5月22日東京夕刊第一社会面10頁「練馬の刺殺事件、両警官とも派出所にいた 無警戒、顔見知り?」(毎日新聞東京本社)
  29. ^ a b c 『読売新聞』1989年5月22日東京朝刊第一社会面31頁「警官刺殺のナイフ発見 現場から6キロ、公園の池で 血ついた服、靴も/東京」(読売新聞東京本社)
  30. ^ a b c 東京地裁 1991, 弁護人の主張に対する判断.
  31. ^ a b c d 『読売新聞』1989年6月9日東京夕刊第一社会面19頁「東京・練馬の2警官殺害の『S』 犯行直前にレンタカー 偽装?警察へ事故届」(読売新聞東京本社)
  32. ^ a b c 『毎日新聞』1989年5月17日東京朝刊第一社会面27頁「派出所そば歩道にナイフケース入り紙袋 2警官刺殺の犯人遺留か」(毎日新聞東京本社)
  33. ^ 『毎日新聞』1989年5月17日東京夕刊第一社会面15頁「遺留の紙袋から指紋--東京・練馬の警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)
  34. ^ 『毎日新聞』1989年5月18日東京朝刊第一社会面27頁「東京・練馬区の警官刺殺犯人、現場近くの水道使う 洗い場に血痕」(毎日新聞東京本社)
  35. ^ 『読売新聞』1989年6月5日東京夕刊第一社会面19頁「警官刺殺の派出所裏に怪文書まく いたずら?『今田勇子』名/東京・練馬」(読売新聞東京本社)
  36. ^ a b 『毎日新聞』1989年5月27日東京朝刊第一社会面27頁「警官刺殺事件、不審者数人に絞る 計画的犯行と判断--捜査本部」(毎日新聞東京本社)
  37. ^ 『毎日新聞』1989年5月22日東京朝刊第一社会面27頁「公園の池に凶器、衣類 2警官刺殺現場から6キロ--東京・練馬」(毎日新聞東京本社)
  38. ^ a b c d 『読売新聞』1989年6月8日東京夕刊一面1頁「東京・練馬の2警官刺殺事件 元自衛官が自供」(読売新聞東京本社)
  39. ^ a b 社会部・警視庁クラブ (1989). “遺留品に期待できない都会の事件(先週今週・調査)”. AERA (朝日新聞社) 2 (25): 64. (※通巻第57号・1989年6月20日号)
  40. ^ 『毎日新聞』1989年5月18日東京夕刊第一社会面15頁「現場近くでタクシー運転手がナイフ男に襲われる--警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)
  41. ^ 『毎日新聞』1989年5月19日東京朝刊第一社会面27頁「恨みの可能性も 中村橋派出所警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)
  42. ^ 『毎日新聞』1989年5月31日東京朝刊第一社会面27頁「2警官刺殺事件の派出所裏に男がいた 犯行10分前に目撃」(毎日新聞東京本社)
  43. ^ 『毎日新聞』1989年5月26日東京夕刊第二社会面14頁「犯人はミリタリーマニア?東京・2警官刺殺事件から10日」(毎日新聞東京本社)
  44. ^ a b c 『読売新聞』1989年6月9日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺『S』逮捕 執念で追った『緑の軍手』 自衛隊内部の“専売品”」(読売新聞東京本社)
  45. ^ 『読売新聞』1989年6月12日東京夕刊第二社会面18頁「警視庁中村橋派出所2警官刺殺事件 S宅で双眼鏡を発見」(読売新聞東京本社)
  46. ^ 朝日新聞』1989年6月15日朝刊第一社会面19頁「現金輸送車狙うため『警察の銃』と自供 練馬の警官殺人事件」(朝日新聞社
  47. ^ 『毎日新聞』1989年6月10日東京朝刊第一社会面27頁「遺児の姿、悲しみ新た 逮捕の翌日、東京・練馬の刺殺2警官公葬」(毎日新聞東京本社)
  48. ^ 警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件”. 警視庁公式ウェブサイト. 警視庁. 2020年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月27日閲覧。
  49. ^ 警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件 > アンケート結果 第51位から100位まで”. 警視庁公式ウェブサイト. 警視庁 (2016年3月31日). 2020年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月27日閲覧。
  50. ^ 朝日新聞』1989年6月30日朝刊第二社会面30頁「東京・練馬の2警官殺しで男を起訴」(朝日新聞社
  51. ^ 『朝日新聞』1989年10月19日朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺事件の被告、殺意を否定 東京地裁で初公判」(朝日新聞社)
  52. ^ 『毎日新聞』1989年10月19日東京朝刊第一社会面31頁「S被告が殺意を否認--練馬の2警官殺し初公判の罪状認否で」(毎日新聞東京本社)
  53. ^ 『読売新聞』1991年2月16日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の2警官殺害事件 検察側が元自衛官に死刑を求刑」(読売新聞東京本社)
  54. ^ 『読売新聞』1991年5月28日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の派出所2警官刺殺 元自衛官に死刑判決/東京地裁」(読売新聞東京本社)
  55. ^ 『毎日新聞』1991年5月28日東京朝刊第二社会面22頁「警視庁練馬署派出所の2警官を刺殺 元自衛官に死刑--東京地裁判決」(毎日新聞東京本社)
  56. ^ 毎日新聞』1994年2月24日東京夕刊第一社会面11頁「一審判決を支持 控訴審も死刑--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社
  57. ^ 東京高裁 1994.
  58. ^ a b 『読売新聞』1994年2月24日東京夕刊第二社会面18頁「練馬の2警官刺殺事件 『非情な犯行』と元自衛官に二審も死刑/東京高裁」(読売新聞東京本社)
  59. ^ 『毎日新聞』1994年2月24日東京夕刊第一社会面11頁「一審判決を支持 控訴審も死刑--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社)
  60. ^ 『読売新聞』1998年9月18日東京朝刊第一社会面35頁「元自衛官の2警官刺殺に死刑確定 S被告の上告棄却/最高裁」(読売新聞東京本社)

参考文献

刑事裁判の判決文・法務省発表

  • 第一審 - 東京地方裁判所刑事第2部判決 1991年(平成3年)5月27日 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28166310、平成1年(合わ)第96号、『強盗殺人公務執行妨害銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件』。
    • 裁判官中山善房裁判長)・杉田宗久・山本由利子
    • 判決内容:死刑・押収品2点を没収(求刑:死刑 / 被告人・弁護人側控訴)
      • 押収品:サバイバルナイフ1本(平成元年押第1132号の6)・サバイバルナイフケース1本(平成元年押第1132号の2)
    • 検察官:杉山茂久
  • 控訴審 - 東京高等裁判所第10刑事部判決 1994年(平成6年)2月24日 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28166997(本文は未収録)、平成3年(う)第709号、『強盗殺人、公務執行妨害、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件』。
  • 裁判官:小林充(裁判長)・中野保昭・宮嶋英世
  • 判決内容:被告人・弁護人側控訴棄却(死刑判決支持 / 被告人・弁護人側上告)

書籍

  • 年報・死刑廃止編集委員会 著、(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) 編『オウム大虐殺 13人執行の残したもの 年報・死刑廃止2019』(初版第1刷発行)インパクト出版会、2019年10月25日、263頁, 275頁頁。ISBN 978-4755402982http://impact-shuppankai.com/products/detail/286 

関連項目

  • 勝田清孝事件 - 同事件では1982年(昭和57年)10月に犯人・勝田清孝(2000年に死刑執行)が本事件の死刑囚Sと同様に強盗目的で警察官からの拳銃強奪を試み成功。勝田は後にその拳銃を用い、翌1983年1月に逮捕されるまでの間に連続強盗殺傷事件(警察庁広域重要指定113号事件)を起こした。
  • 東村山警察署旭が丘派出所警察官殺害事件 - 1992年(平成4年)に本事件と同じく東京都内(清瀬市)で発生した警察官殺害・拳銃強奪事件(警察官1人死亡)。2007年(平成19年)に公訴時効が成立し未解決事件になった。
  • 富山市奥田交番襲撃事件 - 2018年(平成30年)に富山県富山市で発生した警察官殺害・拳銃強奪事件(警察官・警備員の計2人死亡)。同事件の加害者は本事件の死刑囚Sと同様に元陸上自衛官だった。