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「ヴォルプスヴェーデ」の版間の差分

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de:Worpswede (7. Oktober 2020, 19:32 UTC. URL: https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Worpswede&oldid=204351300) より訳出・微調整。
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{{Infobox GER Gemeinde
{{出典の明記|date=2017-05-17}}
| 紋章 = Wappen Gemeinde Worpswede.jpg
'''ヴォルプスヴェーデ''' ('''Worpswede''') は、北[[ドイツ]]、[[ブレーメン]]から東に15キロメートルくらいのところにある[[芸術家]][[村]]。周囲10数キロメートルに渡り、[[悪魔]]の沼地と呼ばれる湿地帯がある。[[雨]]が続くと、ここから周囲に増水し、[[交通]]が遮断される。
| 郡の位置 = Locator map OHZ in Germany.svg
| 郡内の位置 = Worpswede in OHZ.svg
| 行政管区 =
| 郡 =
| ザムトゲマインデ =
| 市町村連合 =
| 緯度_度 = 53 | 緯度_分 = 13 | 緯度_秒 = 20
| 経度_度 = 08 | 経度_分 = 55 | 経度_秒 = 40
| 標高 = 20
| 郵便番号 = 27726
| 市外局番 = 04792, 04794
| ナンバープレート = OHZ
| 自治体コード = 03356011
| 行政庁舎の住所 = Bauernreihe 1 <br /> 27726 Worpswede
| ウェブサイト = [https://www.worpswede.de/ www.worpswede.de]
| 首長_転写 = シュテファン・シュヴェンケ
| 首長 = Stefan Schwenke
| 地図のズーム = 10
}}
'''ヴォルプスヴェーデ''' ({{lang-de|Worpswede}}, {{IPA-de|vɔrps&#712;veːdə}}<ref>{{cite book|editor=Max Mangold|title=Duden, Aussprachewörterbuch|edition=6|publisher=Dudenverl|ISBN=978-3-411-04066-7|year=2005|page=842}}</ref>, {{lang-nds|Worpsweed}}) は、[[ドイツ連邦共和国]][[ニーダーザクセン州]][[オスターホルツ郡]]に属す町村である。この町は、[[ブレーメン]]の北東、{{仮リンク|ハンメ川|de|Hamme (Fluss)|en|Hamme (river)}}に面しており、トイフェルスモーア(泥湿地)の中に位置している。この町は州の保養地に指定されている。町は平地に囲まれた高さ 54.4 m の丘陵ヴァイヤーベルク沿いに位置する。最初の入植は[[青銅器時代]]にまで遡る。

この町は芸術家の生活・創作共同体としての{{仮リンク|ヴォルプスヴェーデ芸術家コロニー|de|Künstlerkolonie Worpswede}}で知れられている。ヴォルプスヴェーデ芸術家の家奨学金機構は、2009年までドイツ最大級の奨学金団体の1つであった。ヴォルプスヴェーデには数多くの文化施設やギャラリーがある。

== 地理 ==
=== 自治体の構成と町村合併 ===
現在の自治体ヴォルプスヴェーデの町域には、元々23の村落があり、それぞれが独立した自治体を形成していた。1920年代と1936年に多くの自治体が合併し、自治体の数は8町村にまで減少した。1974年3月1日に他の7つの町村がヴォルプスヴェーデに合併した<ref>{{cite book|editor=Statistisches Bundesamt|title=Historisches Gemeindeverzeichnis für die Bundesrepublik Deutschland. Namens-, Grenz- und Schlüsselnummernänderungen bei Gemeinden, Kreisen und Regierungsbezirken vom 27.5.1970 bis 31.12.1982|publisher=W. Kohlhammer|location=Stuttgart/Mainz|year=1983|ISBN=978-3-17-003263-7|page=244}}</ref>。この8つの旧町村は現在ヴォルプスヴェーデのオルトシャフト(地区)を形成している<ref>{{cite web|url=https://www.gemeinde-worpswede.de/rathaus/ortschaften/|title=Die Ortschaften der Gemeinde Worpswede &#124; Gemeinde Worpswede|accessdate=2020-10-08}}</ref>。
* ヴォルプスヴェーデ(ベルゲドルフ、ノルトヴェーデ、ジュートヴェーデ、ヴァイヤーデーレン、ヴァイヤーモーア、ヴェルペダール、ヴォルプハイムを含む)
* ヒュッテンブッシュ(フュンフハウゼン、ホイドルフ、ヒュッテンドルフを含む)
* メーヴェンシュテット
* ノイ・ザンクト・ユルゲン
* オスターゾーデ(マイナースハーゲン、ノルトゾーデを含む)
* シュルースドルフ
* ユーバーハム
* ヴァークハウゼン(フィーラントを含む)

=== 隣接する市町村 ===
ヴォルプスヴェーデに隣接する市町村は、北東が[[グナレンブルク]]、東が[[ザムトゲマインデ・タルムシュテット]]に属す[[ブレッドルフ]]、[[ヘプシュテット]]、[[タルムシュテット]]、南が[[グラスベルク]]と[[リリエンタール]]、西が[[オスターホルツ=シャルムベック]]、北西が[[ザムトゲマインデ・ハムベルゲン]]に属す[[フォラーゾーデ]]である。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 中世 ===
[[Image:Niedersachsenstein Worpswede.jpg|thumb|250px|ニーダーザクセンシュタイン]]
[[11世紀]]に、オスターホルツ修道院の所領内に漁村が形成された。この集落の最初の文献記録は[[1218年]]である。
[[1889年]]、2人の青年画家[[フリッツ・マッケンゼン]]と[[オットー・モーダーゾーン]]がこの小さな村に住み、共同生活と製作活動を始めたことから芸術家村として生まれ変わった。[[ハインリッヒ・フォーゲラー]]、[[ハンス・アム・エンデ]]([[ミヒャエル・エンデ]]の父親とは別人。あちらはエドガー・エンデ)、[[フリッツ・オーヴァーベック]]などが住み、1898年には、フォーゲラーがイタリア旅行で知り合った[[ライナー・マリア・リルケ]]がここに移り住み、1903年には彼が「ヴォルプスヴェーデ」と題する美術評論を書いたことから、一躍その名を世間に知られるようになった。

=== 1600年から1750年まで ===
[[三十年戦争]]の間、[[1627年]]からヴォルプスヴェーデは{{仮リンク|ブレーメン大司教領|de|Erzstift und Herzogtum Bremen|en|Prince-Archbishopric of Bremen|label=ブレーメン大司教}}のカトリック・皇帝軍に支配された。[[1630年]]に[[スウェーデン]]がヴォルプスヴェーデ周辺地域の軍事力を獲得した。[[1648年]]、ヴォルプスヴェーデは{{仮リンク|フリードリヒ (ヘッセン=エシュヴェーデ方伯)|de|Friedrich (Hessen-Eschwege)|en|Frederick, Landgrave of Hesse-Eschwege|label=ヘッセン=エシュヴェーゲ方伯フリードリヒ}}に譲渡された。

=== 1750年から1850年まで ===
[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯]]の依頼によりユルゲン・クリスティアン・フィンドルフが[[1750年]]頃からトイフェルスモーアの大規模な干拓と植民に着手した。これにより、ホイドルフ(1756年)、ヒュッテンドルフ(1776年)、シュルースドルフ(1800年)といった集落が形成された。[[1764年]]に13の耕作地があったノルトヴェーデ村は、最初の入植者が仕立屋 ({{lang-de|Schneider|link=no}}) であったため、地元では"Sniederdorp"(現代ドイツ語で Schneiderdorf = 仕立屋の村)と呼ばれた<ref>{{cite web|url=http://www.worpswede-moordoerfer.de/nordwede.htm|title=Erinnerungen aus der Vergangenheit Nordwedes|accessdate=2020-10-08}}</ref>。

=== 1850年から現代 ===
[[1889年]]にヴォルプスヴェーデ芸術家コロニーが形成された。

[[国家社会主義]]はヴォルプスヴェーデにおいても地盤を固めた。[[1933年3月ドイツ国会選挙|1933年3月の国会議員選挙]]において、ヴォルプスヴェーデでは 66 % の票が [[国家社会主義ドイツ労働者党|NSDAP]] と[[戦線 黒白赤]]に投じられた(同じ選挙でのドイツ平均の得票率は 52 % であった)。これに対して、[[ドイツ社会民主党|社会民主党]]や[[ドイツ共産党|共産党]]の得票率は 16 % に留まった(全国平均は 31 %)。こうした発展は、ヴォルプスヴェーデにおいては、民族思想に忠実で国家社会主義思想に共感した[[フリッツ・マッケンゼン]]、カール・ウプホフ、マルタ・フォーゲラー(旧姓シュレーダー)といった芸術家たちの郷土や自然を崇拝するカルト思想によって強化されていった。一方、[[ハインリヒ・フォーゲラー]]やフォーゲラーの娘マリーと結婚した{{仮リンク|グスタフ・レグラー|de|Gustav Regler|en|Gustav Regler}}といった左派思想家は移住を余儀なくされた。郷土・自然崇拝のカルトは、最終的に「ドイツ精神史の保守的で国家主義的潮流に回帰する」、「その起点には[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]や[[ロマン主義|ロマン主義者]]がある」と[[低地ドイツ語]]学者クラウス・シュッペンハウアーは書いている。そしてシュトローマイヤー/アルティンガー/クロークマンは2000年に『[[血と土]]』という[[スローガン]]に象徴される無条件の純血信仰の倒錯について研究を行った<ref>{{cite book|author1=Arn Strohmeyer|author2=Kai Artinger|author3=Ferdinand Krogmann|title=Landschaft, Licht und Niederdeutscher Mythos. Die Worpsweder Kunst und der Nationalsozialismus|publisher=VDG Weimar|location=Weimar|year=2000|ISBN=978-3-89739-126-0}}</ref><ref>{{cite book|author=Ferdinand Krogmann|title=Worpswede im Dritten Reich 1933–1945|publisher=Donat-Verlag|location=Bremen|year=2011|ISBN 978-3-938275-89-4}}</ref><ref>{{cite book|author=Arn Strohmeyer|title=Der Mitläufer. Manfred Hausmann und der Nationalsozialismus|location=Bremen|year=1999}}</ref>。こうした状況や[[ユダヤ人|ユダヤ系住民]]の排斥については、アニング・レーメンジーク著の "Juden in Worpswede" に詳述されている<ref>{{cite book|author=Anning Lehmensiek|title=Juden in Worpswede|location=Bremen|publisher=Donat|year=2014|ISBN=978-3-943425-35-2}}</ref>。

[[1976年]]11月9日、ヴォルプスヴェーデ地区は、州指定の保養地に登録された。

== 住民 ==
<!-- 人口推移は1910年と1939年だけなので省略 -->
=== 宗教 ===
ヴォルプスヴェーデの住民の多くは、[[福音主義]]=[[ルター派]]{{仮リンク|福音主義=ルター派ハノーファー教会|de|Evangelisch-lutherische Landeskirche Hannovers|en|Evangelical-Lutheran Church of Hanover|ハノーファー地方教会}}に属している。[[カトリック教会|ローマ=カトリック]]を信仰する住民は、ヴォルプスヴェーデのマリア・フリーデン[[礼拝堂]]が属すオスターホルツ=シャルムベックの聖家族教会区に組織されている。この他に、これらに属さないキリスト教系グループや自由教会がある。たとえば、[[バプテスト|バプテスト教会]]、[[プリマス・ブレザレン]]、{{仮リンク|新使徒教会|de|Neuapostolische Kirche|en|New Apostolic Church}}、[[ムスリム|イスラム教徒]]である。また、無宗教のグループが増えつつある。

== 行政 ==
=== 議会 ===
[[File:2020-09-14 Worpswede Rathaus pan.jpg|right|360px|thumb|ヴォルプスヴェーデの町役場]]
ヴォルプスヴェーデの町議会は24議席からなる。これは人口9,001人から10,000人の自治体に対する議員定数である<ref>{{cite web|url=http://www.nds-voris.de/jportal/portal/t/4uf/page/bsvorisprod.psml/action/portlets.jw.MainAction?p1=1h&eventSubmit_doNavigate=searchInSubtreeTOC&showdoccase=1&doc.hl=0&doc.id=jlr-KomVerfGNDV1P46&doc.part=S&toc.poskey=#focuspoint|title=Niedersächsisches Kommunalverfassungsgesetz (NKomVG) Vom 17. Dezember 2010 - § 46 Zahl der Abgeordneten|accessdate=2020-10-08}}</ref>。24人の議員は5年ごとに改選される。

町議会では、上位の議員の他に町長が投票権を有している。

=== 首長 ===
ヴォルプスヴェーデの町長は、2001年から無所属の法律家シュテファン・シュヴェンケが務めている<ref>{{cite web|url=https://www.teufelsmoor.eu/region/worpswede/schwenke-stefan/|title=Schwenke, Stefan|accessdate=2020-10-09}}</ref>。2014年の町長選挙では、対立候補がおらず、80.5 % の支持票を獲得して再選された。この選挙の投票率は 49.3 % であった<ref>{{cite web|url=http://www.landeswahlleiter.niedersachsen.de/download/87577/Einzelergebnisse_der_Direktwahlen_am_25._Mai_2014.pdf#page=112|title=Bürgermeister/Bürgermeisterin in Worpswede|accessdate=2020-10-09}}</ref>シュヴェンケは、2014年11月1日に再び町長に就任した。

=== 紋章 ===
図柄: [[アージェント (紋章学)|白地]]。基部は三峰の[[ヴァート (紋章学)|緑]]の山。その山の中に、底の丸い[[ギュールズ|赤い]][[インエスカッシャン|小楯]]がある。小楯の中にはさらに小さな銀の楯が3つ配置されている。頂部は赤で、その中に銀の[[フルール・ド・リュス|ユリ]]、その両側にそれぞれ4つ菱形状に配置された[[オーア (紋章学)|金色]]の木組みの家が描かれている<ref>{{cite web|format=PDF|url=https://www.gemeinde-worpswede.de/downloads/datei/OTA4MDAxMzcwOy07L3Vzci9sb2NhbC9odHRwZC92aHRkb2NzL29zdGVyaG9sei93b3Jwc3dlZGUvbWVkaWVuL2Rva3VtZW50ZS93YXBwZW5lcmtsYWVydW5nLnBkZg%3D%3D|title=Wappen der Gemeinde Worpswede|accessdate=2020-10-09}}</ref>。

解説: この紋章にはヴォルプスヴェーデの歴史が反映されている。1223年にザクセン公およびライン宮中伯ハインリヒは、オスターホルツ修道院に4つの農場を寄贈した。1225年頃にはブランデンブルク辺境伯マルガレーテはオスターホルツの教会にヴォルプスヴェーデ半島の4つの農場を寄進した。これらの8つのヴォルプスヴェーデの農場は、紋章頂部の赤地に金色の家屋として描かれている。8つの家屋は、ヴォルプスヴェーデの8つの地区を象徴してもいる。ユリはオスターホルツのマリエン修道院を象徴している。緑色で表現されたヴァイヤーベルクは銀地によって頂部から配色上分離されている。1884年のフリッツ・マッケンゼンによる芸術上のヴォルプスヴェーデの発見は、ヴァイヤーベルクの中に銀色で縁取られた芸術家の[[ツンフト]]の紋章によって表現されている。芸術家のツンフトの紋章には、建築家、画家、彫刻家の3つの芸術を表す小さな楯が描かれている。

=== 姉妹自治体 ===
ヴォルプスヴェーデは、ニーダーザクセン/ブレーメン自治体連合に加盟している。

== 文化と見所 ==
[[File:Niedersachsenstein Worpswede.jpg|right|220px|thumb|ニーダーザクセンシュタイン]]
=== ニーダーザクセンシュタイン ===
ヴァイヤーベルクに設置されている高さ 18 m のレンガ製のモニュメントであるニーダーザクセンシュタインは、遠くから見ると[[鷲 (紋章)|鷲]]の様にも見える。このモニュメントは、[[第一次世界大戦]]で戦没したこの地域の兵士を記念している。このモニュメントは1922年に建築家[[ベルンハルト・ヘトガー]]のデザインに基づいて製作された作品で、ドイツで唯一の表現主義による大型造形作品として、芸術史上重要な作品である。ニーダーザクセンシュタインの建設は、大変に困窮し、食料品にも事欠く時代に行われたため、当時は賛否両論であったが、現代においても元々の戦争記念碑という役割のために議論となっている<ref>{{cite journal|author=Dietrich Schubert|title=Die Wandlung eines expressionistischen Krieger-Denkmals: Bernhard Hoetgers „Niedersachsenstein“ 1915-1922|journal=Wallraf-Richartz-Jahrbuch|volume=44|year=1983|url=http://archiv.ub.uni-heidelberg.de/artdok/2235/1/Schubert_Die_Wandlung_eines_expressionistischen_Kriegerdenkmals_1983.pdf|accessdate=2020-10-09}}</ref>。
[[File:Worpswede Barkenhoff.jpg|right|220px|thumb|バルケンホフ]]
=== バルケンホフ ===
元々はヴォルプスヴェーデの農場であったバルケンホフ ({{lang-de|Barkenhoff|link=no}}、{{lang-nds|Birkenhof|link=no}}) は、1895年に芸術家[[ハインリヒ・フォーゲラー]]が購入し、数年のうちに[[ユーゲント・シュティール|ユーゲントシュティール様式]]の印象的な建物に改築した。この建物はすぐにヴォルプスヴェーデ芸術運動の中心地となり、「ヴォルプスヴェーデ芸術家コロニー」が形成された。第一次世界大戦後、バルケンホフは1919年に「Kommune und Arbeitsschule Barkenhoff」となり、1923年からは、1932年に閉鎖されるまでローテ・ヒルフェの「子供の家」として使われていた。

1932年にバルケンホフは[[造園家]]で[[人智学|人智学者]]のマックス・カール・シュヴァルツに買い上げられた。彼は生活改革者の[[レベレヒト・ミッゲ]]を介してヴォルプスヴェーデにやって来た。彼はここで1932年から1936年までエンジニアのマルティン・シュミット(1892年 - 1964年)とともに造園および入植学校ヴォルプスヴェーデを運営した。この学校では人智学指向の教師とともにバイオダイナミック農法を学び、研究した、シュヴァルツは、[[バイオダイナミック農法]]および造園業、[[堆肥化]]のパイオニアとみなされており、ゲルトナーホーフ(直訳: 庭園農場)思想の発案者で奨励者であるとされている。シュヴァルツは、1954年に[[ドルナッハ|ドルナハ]]の[[ゲーテアヌム]]の景観庭園を造園した。

その後この邸宅は荒廃し、1981年に公的機関の手に渡った。2003年/2004年に根本的な修復がなされた。これ以後この建物は、博物館および催事スペースとして利用されている。隣接する倉庫は、2009年末までバルケンホフ財団の奨学生のアトリエとして利用されていた<ref>{{cite web|url=https://www.worpswede-museen.de/barkenhoff/barkenhoff-stiftung.html|title=Barkenhoff-Stiftung &#124; Worpswede Museen|accessdate=2020-10-10}}</ref>。
[[File:Haus im Schluh.jpg|right|220px|thumb|ハウス・イム・シュルーの建物。画面左奥が住居、右が工房である]]
=== ハウス・イム・シュルー ===
元々湿地の村リューニングゼーに建つ小屋だったハウス・イム・シュルーは、1920年に、ハインリヒ・フォーゲラーの最初の妻であったマルタ・フォーゲラーによってシュルーに移築され、その経済的援助により改築された。この頃彼女はバルケンホフを離れ、3人の娘マリールイーゼ、ベッティーナ、マルタと、友人のルートヴィヒ・ボイマーとともにハウス・イム・シュルーに移り住んだ。現在ここには3棟の葦葺の建物が建っている。マルタ・フォーゲラーの住居、工房(この建物は1937年にグラスドルフからシュルーに移築され、娘ベッティーナの作業場となった)、現在は[[ペンション]]となっている一番小さな建物の3棟である。住居と織布工房では、バルケンホフからの調度品、絵画、[[エッチング]]、陶器、家具がハインリヒ=フォーゲラー・コレクションの主要部分を形成している。ハインリヒ・フォーゲラーの作品やこの地域の工芸品の入れ替え展示が、コレクションを補完している。
[[File:Worpsweder Kunsthalle Friedrich Netzel Fassade.jpg|right|220px|thumb|ヴォルプスヴェーデ・クンストハレ]]
=== ヴォルプスヴェーデ・クンストハレ ===
地元の製本家フリードリヒ・ネッツェルは、彼の店と隣のスペースをヴォルプスヴェーデの芸術家たちが展示・販売目的で利用できるように最初に提供した。その息子のフリードリヒ・ネッツェル2世は、1919年にベルク通りに一軒家を建設し、現代美術を展示するギャラリーとした。美術商のかたわら、美術コレクションが形成された。このギャラリー・オーナーが1945年に亡くなった後、その妻は、戦後の困難な時代に経営を続け、息子のフリードリヒ・ネッツェル3世に引き継いだ。ここでは、家族が三世代で形成したコレクションの他に、ヴォルプスヴェーデを全国的に有名にしている特別展示を開催している。たとえば、1972年、1973年、1989年には、当時としては初公開となる[[ソヴィエト連邦|ソヴィエト]]時代の作品を含む[[ハインリヒ・フォーゲラー]]の作品展を開催し、1976年には[[パウラ・モーダーゾーン=ベッカー]]の生誕100周年を記念した大規模な展覧会を、1989年には芸術家村100周年記念特別展を開催した。

ギャラリーのオーナーでコレクターであったフリードリヒ・ネッツェルの死後、その希望によりコレクションを将来にわたって維持する財団が設立された。「ヴォルプスヴェーデ芸術財団フリードリヒ・ネッツェル」は個人ベースの協力者やボランティアによって運営されている。ヴォルプスヴェーデ・[[クンストハレ]]のコレクションの中には、たとえば、[[フリッツ・マッケンゼン]]、[[オットー・モーダーゾーン]]、[[ハンス・アム・エンデ]]、[[フリッツ・オーヴァーベック]]、[[ハインリヒ・フォーゲラー]]の作品や、現代芸術家オッッティリー・ライレンダー作品の大規模な長期貸与品が含まれている。芸術家第二世代では、ゲオルク・タッペルト、アルベルト・シューストル=アーディング、ウード・ペータース、アルフレート・コルマー、テティウス・テューゲル、{{仮リンク|ブラム・ヴァン・ヴェルデ|de|Bram van Velde|en|Bram van Velde}}、リーゼル・オッペル、{{仮リンク|リヒャルト・エルツェ|de|Richard Oelze|en|Richard Oelze}}らの作品が展示される。[[フリードリヒ・メクセペル]]、ハイニ・リンクスヘンダー、ウーヴェ・へスラーといった現代のヴォルプスヴェーデの芸術家の作品も展示されている<ref>{{cite web|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131105233202/http://www.worpswede24.de/kunsthalle-netzel-worpswede.htm|url=http://www.worpswede24.de/kunsthalle-netzel-worpswede.htm|archivedate=2013-11-05|title=www.worpswede24.de - Worpswede von A bis Z - Worpsweder Kunsthalle|accessdate=2020-10-10}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.worpswede-museen.de/worpsweder-kunsthalle/worpsweder-kunsthalle.html|title=Worpsweder Kunsthalle &#124; Worpswede Museen|accessdate=2020-10-10}}</ref>。
[[File:Kaffee Worpswede Panorama.jpg|right|300px|thumb|カフェ・ヴォルプスヴェーデ]]
=== カフェ・ヴォルプスヴェーデ ===
カフェ・ヴォルプスヴェーデは、ヴァイヤーベルクの麓にある[[表現主義|表現主義様式]]の建築である。この建物は、グローセ・クンストシャウ(次項参照)を含むレンガ建築アンサンブルの一部をなしており、1925年からカフェおよびレストランとして利用されている。1970年代までこのカフェはホテルと接続していた。この建物は地元では「カフェ・フェアリュックト」(直訳: カフェ・クレージー)とも呼ばれる。それは、建築家で芸術家のベルンハルト・ヘトガーが、きちんとした設計図なしに、直角の角がない建物を建て始めたため、ヴォルプスヴェーデの人たちには「いかれた建物」と思われ、それ以後これがあだ名となったのである。ヘトガーはこのプロジェクトのために10万帝国マルクの資金を調達し、独創的な建造物を建設した。このカフェは、2002年にドイツ文化財保護協会によって修復された。これにより、重要な細部が復元された<ref>{{cite journal|title=Monumente|journal=Magazin für Denkmalkultur in Deutschland|issue=09|volume=125|pages=8–15}}</ref>。このカフェは2019年の2月から閉鎖されている<ref>{{cite news|url=https://www.weser-kurier.de/region/wuemme-zeitung_artikel,-kaffee-worpswede-schliesst-nach-20-jahren-_arid,1806876.html|title=Kaffee Worpswede schließt nach 20 Jahren|author=Lars Fischer|newspaer=Weser Kurier|date=2019-02-15|accessdate=2020-10-10}}</ref>。
[[File:Worpswede Roselius Museum.jpg|right|220px|thumb|ロゼリウス美術館]]
=== グローセ・クンストシャウ・ヴォルプスヴェーデ ===
グローセ・クンストシャウ・ヴォルプスヴェーデは、ヴァイヤーベルクの麓にある、カフェ・ヴォルプスヴェーデを含む表現主義様式のレンガ建築アンサンブルの一部である。常設展示では、ヴォルプスヴェーデの芸術家の作品が部分的に入れ替えながら選抜展示されている。グローセ・クンストシャウ・ヴォルプスヴェーデは、2008年に改修を終えて再開された。クンストシャウの建物の隣に建つ1971年製の旧ロゼリウス美術館は改修・拡張され、新築されたガラス張りの接続棟とともに2011年から現代・近代芸術の展示スペースとなっている<ref>{{cite web|url=https://www.worpswede-museen.de/grosse-kunstschau/grosse-kunstschau.html|title=Große Kunstschau &#124; Worpswede Museen|accessdate=2020-10-10}}</ref>。

=== モーダーゾーン=ハウス美術館 ===
モーダーゾーン=ハウス美術館は、ヘムベルガー通り19番地の、画家のオットー・モーダーゾーンとパウラ・モーダーゾーン=ベッカーがかつて住んだ家に入居している。ここには、モーダーゾーン=ベッカーの作品やいくつかの調度品などが展示されている。近代的な増築部分は、ヴォルプスヴェーデ第一世代の画家たちの作品を展示するためにも用いられている。
[[File:Worpswede Bonze des Lachens.jpg|right|160px|thumb|ボンツェ・デス・フモールス]]
=== ボンツェ・デス・フモールス ===
ボンツェ・デス・フモールス(直訳: ユーモアの僧侶)は笑っている[[仏陀]]の像で、カフェ・ヴォルプスヴェーデ横の駐車場近くにある。この石造りのモニュメントは、カフェ・ヴォルプスヴェーデやニーダーザクセンシュタインと同じくベルント・ヘトガーによって1914年にデザインされた。この像は、15のマジョリカ陶器のシリーズから創られた。ヘトガーは、[[ダルムシュタット]]のマチルデの丘で活動していた頃、対比のペアのシリーズを創作していた。これによって彼は、たとえば善、信仰、希望といった陽の面と、貪欲、怒り、憎悪といった陰の面からなる、人間の「陽と陰」を表現しようとした。この仏陀は陽の面を表現した像である。陰の面である怒りの像(同じく石像である)は、わずかな距離にあるグローセ・クンストシャウ・ヴォルプスヴェーデの階段脇にある。この2体の像は、当初、ヘトガーのヴォルプスヴェーデにおける最初の住まいであるブルネンホーフの公園に設置された。ここでは、オラングとウータンという名前で住民に知られていた。ブルネンホーフは1923年に焼失し、1924年にその跡地に所有者の夫の名にちなんでディードリヒスホーフとよばれる新しい建物が建設された。この建物は1953年からブレーメン郷土協会に属している<ref>{{cite web|url=https://www.diedrichshof.de/|title=Diedrichshof, Worpswede|accessdate=2020-10-10}}</ref>。数多くの像を有する庭園は、手入れや修復がなされ、後に芸術家の栄誉をたたえてヘトガー=ガルテンと呼ばれるようになった<ref>{{cite web|url=https://www.worpswede-museen.de/museumsverbund/der-hoetger-garten.html|title=Der Hoetger-Garten &#124; Worpswede Museen|accessdate=2020-10-10}}</ref>。ボンツェをはじめとするいくつかの立像は他の場所に移された。
[[File:Kaufhaus Stolte in Worpswede.jpg|right|220px|thumb|カウフハウス・シュトルテ]]
=== カウフハウス・シュトルテ ===
フィンドルフ通りのカウフハウス・シュトルテ(直訳: シュトルテ商店)は、およそ200年の伝統を持つこの村で最も古い商店である。創業は1824年である。ヴォルプスヴェーデの初代の牧師の子孫が、教会の麓の牧師倉庫にあった店を手放して建設させたものである。多くの教会参拝者がこの建物を食堂や日曜日の買い物に利用した。ヴォルプスヴェーデがさほど重要性のない泥湿地の村から世界的に知られる芸術家コロニーに発展したのは、商人のシュトルテ家、特に娘のエミリー・シュトルテ(愛称: ミミ)のおかげである。ミミ・シュトルテは1884年に[[デュッセルドルフ]]で知り合った画学生フリッツ・マッケンゼンを両親の家に招待した。最初の訪問から何度も訪問を重ね、マッケンゼンは画家仲間とともに1889年からここに住み着いた。これを核として芸術家コロニーが形成された。建物の入り口に設置された案内板とマッケンゼンの肖像が、こうした歴史を物語っている。
[[File:Kaeseglocke.jpg|right|220px|thumb|ケーゼグロッケ]]
=== ケーゼグロッケ ===
ヴォルプスヴェーデのケーゼグロッケは、ヴァイヤーベルクに建つドーム型の建物で、1926年に作家のエドヴィン・ケーネマンが建設した。建築家[[ブルーノ・タウト]]は、1921年に[[マクデブルク]]の住居と職場のための中部ドイツ展覧会の設計を雑誌「Frühlicht」に発表した。この中でケーネマンが改築したこのアトリエの建物も紹介されている。
[[File:Zionskirche Worpswede South.JPG|right|220px|thumb|ヴォルプスヴェーデのシオン教会]]
=== シオン教会と教会墓地 ===
ヴァイヤーベルクのシオン教会は、[[七年戦争]]中の1757年から1758年に建設された。[[ハノーファー]]の宮廷建築家ヨハン・パウル・ホイマンの設計に基づき、泥湿地開発技師のユルゲン・クリスティアン・フィンドルフが施工を担当した<ref>{{cite web|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120127033000/http://www.worpswede.de/kunst-kultur/zionskirche|url=http://www.worpswede.de/kunst-kultur/zionskirche|archivedate=2012-01-27|title=Zionskirche - Worpswede|accessdate=2020-10-10}}</ref>。ハノーファー選帝侯でイングランド王の[[ジョージ2世 (イギリス王)|ゲオルク2世]]が資金援助を行った。簡素な外観のこの{{仮リンク|ザールキルヒェ|de|Saalkirche|en|Aisleless church}}には、[[ロココ]]装飾が施された説教壇が設けられている。注目すべきは、2階席の柱の間に描かれた天使の[[プット]]や花の装飾模様である。これは当時画学生であった[[クララ・ヴェストホフ|クララ・リルケ=ヴェストホフ]]や[[パウラ・モーダーゾーン=ベッカー]]の罰として課題であった。二人は、1900年に教会の鐘を打ち鳴らし、これが火災の警報と誤認されたのであった。1762年にディートリヒ・クリストフ・グロガーが[[オルガン]]を製作した。このオルガンは現存していないが、2011年/12年にグロガーのコンセプトに従いヘンドリーク・アーレントによってオルガンが再建設された<ref>{{cite web|url=http://www.dieneueorgel.de/|title=Neue Orgel in Worpswede|accessdate=2020-10-10}}</ref><ref>{{cite journal|author=Helmut Stelljes|title=„Königin der Kirchenmusik“ in der Worpsweder Zionskirche|journal=Heimat-Rundblick. Geschichte, Kultur, Natur|volume=100|issue=1|year=2012|publisher=Druckerpresse-Verlag|ISSN=2191-4257|pages=16–17}}</ref>。この新しいオルガンは22の[[ストップ (オルガン)|ストップ]]を備えている。[[バロック|バロック様式]]の尖頭部の下にある白いカラーが遠くからも見ることができる教会塔は1798年に教会の東側に建設された。この教会塔は、他の教会と同じように、ヴォルプスヴェーデ芸術家コロニーの画家たちにとって不可欠のモチーフとなった。

フィンドルフが設計、施工した墓地が、現在も使われている教会墓地である。美しい立地と姿から多くの訪問客の目的地となっている。約80人の重要な画家、作家、音楽家、美術商がここに最後の安息の場を見いだした。その中には、ヴォルプスヴェーデを芸術家村として発見したフリッツ・マッケンゼンやパウラ・モーダーゾーン=ベッカーも含まれている。

彫刻家、デザイナー、画家でさらに建築家でもあるベルンハルト・ヘトガーによって1916年から1919年に製作された、1907年に早逝したパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの墓碑は、ヴォルプスヴェーデの墓地を訪れる人に特別な魅力を放っている。この墓碑は、石製の、半裸の、沈み込んだ、等身大の婦人像を戴いている。婦人像の腰の上には両手でリンゴを持つ小さな裸の子供がいる。この像は、子供の誕生の数日後に亡くなったこの女流画家の運命を表現しており、成長と衰退のサイクルを象徴している。
[[File:2020-09-14 Worpswede Mühle (4).jpg|right|160px|thumb|ヴォルプスヴェーデの風車]]
=== 風車 ===
ヴォルプスヴェーデからハンメへ向かう町外れに1701年から、[[ライムギ]]専用の臼を備えた回転台付きの風車があった。1838年に現在も完全に稼働可能なオランダ式風車に建て替えられた。この新しくて大きな風車は、ライムギ、[[コムギ]]、ひき割り麦用の3つの臼を備えていた。この風車は1888年に製粉業者シュヴェンケ家の所有となった。厳しさを増す競合を勝ち抜くため、何度もオーバーホールが行われ、その時々の近代的な技術水準に合致してきた。1986年の操業停止以後は、フロインデ・ヴォルプスヴェーデ e.V. がこの風車を管理している。このヴォルプスヴェーデの象徴的建造物は、画家たちのモチーフとして用いられた。

=== ノイ=ヘルゴラント展望塔 ===
高さ 9 m のノイ=ヘルゴラント展望塔は、ヴォルプスヴェーデの西約 2.5 km、ベーク川が合流する直前のハンメ川北岸の、ノイ=ヘルゴラントから近い場所にある。この展望塔は、[[オスターホルツ=シャルムベック]]に建てられたアン・デン・ポストヴィーゼン展望塔、イン・デン・リンテラー・ヴァイデ展望とに次ぐ、プロジェクト・ハンメニーデルングに伴い鋼鉄製の第三の塔として建設された。展望塔からは、ヴォルプスヴェーデ、ヴァイヤーベルク、およびハンメニーデルングやトイフェルスモーアさらにはブライテス・ヴァッサー自然保護区といった周辺の自然や風景を一望することができる<ref>{{cite web|url=https://www.worpswede24.de/neu/Detail.html?&&aid=4913|title=Aussichtsturm bei Neu Helgoland Worpswede Detail Worpswede24|accessdate=2020-10-10}}</ref>。

=== フィンドルフ記念碑 ===
キルヒベルク(教会の丘)に隣接するヴァイヤーベルクの丘にユルゲン・クリスティアン・フィンドルフの記念碑がある。この[[オベリスク]]型の記念碑は「全ての泥湿地開発の父」がこの地域で成し遂げた特別な功績に感謝し、語り継ぐものとして建立された。たとえば、ブレーマーフェルデ、オスターホルツ、オッタースベルクの間の多くの村落の建設は、ハノーファー選帝侯でイングランド王ゲオルク2世および[[ジョージ3世 (イギリス王)|ゲオルク3世]]治世下の湿地開発委員であったフィンドルフの成果である。彼はオスターホルツ港と港湾運河を建設し、ハンメ=オステ運河を開削した。ヴォルプスヴェーデのシオン教会建設の際には自ら建築を指導した。隣接する[[グラスベルク]]や[[グナレンブルク]]の教会の建設計画も彼によって立案された。
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File:2020-09-14 Worpswede Modersohn-Haus (2).jpg|モーダーゾーン=ハウス美術館
File:2020-09-14 Worpswede Modersohn Grab (6).jpg|シオン教会にあるベルンハルト・ヘトガーによるパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの墓碑
File:Worpswede Findorff-Denkmal Juli-2015 IMG 5397.JPG|フィンドルフ記念碑
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== 経済と社会資本 ==
=== 交通 ===
==== 鉄道とヴォルプスヴェーデ駅 ====
[[File:Bahnhof Worpswede.jpg|right|220px|thumb|ヴォルプスヴェーデ駅]]
ヴォルプスヴェーデ駅は、鉄道[[シュターデ]] - [[オスターホルツ=シャルムベック]]線(モーアエクスプレス)の駅である。列車は、5月から10月シーズンの土日祝祭日にのみ、シュターデから[[ブレーマーフェルデ]]、[[グナレンブルク]]、ヴォルプスヴェーデ、オスターホルツ=シャルムベックを経由して{{仮リンク|ブレーメン中央駅|de|Bremen Hauptbahnhof|en|Bremen Hauptbahnhof}}まで運行している。

駅舎は、1910年にハインリヒ・フォーゲラーによって[[ユーゲント・シュティール|ユーゲントシュティール様式]]で設計され、建設された。フォーゲラーは建物の建設だけでなく、内装全体(家具、工芸品、絵画)までデザインした。ヴォルプスヴェーデ駅は1978年に完全に修復され、建設当初の状態に戻された。現在ここにはレストランが入居している。

==== バス交通 ====
ブレーメン/ニーダーザクセン交通連盟 (VBN) の地域バス 670号線がヴォルプスヴェーデとブレーメンとを結んでいる<ref>{{cite web|url=https://www.vbn.de/fahrplaner/|title=FahrPlaner - VBN|accessdate=2020-10-11}}</ref>。週末の夜間には、N67号線が1時間ごとに運行し、ファルケンベルクで[[ブレーメン市電]]4号線に接続している。

この他にオスターホルツ=シャルムベックからブレーマーフェルデへ向かうバス路線 640号線がヴォルプスヴェーデを通っている。


2010年11月15日から、住民バス612号線と616号線がヴォルプスヴェーデと[[グラスベルク]]の一部とを結んでいる。このバスは、月曜から金曜の日中に2時間間隔で運行している。
芸術家村として、週末は[[観光]]客などが訪れる。[[ハンブルク]]からも[[自動車|車]]でなら遠くない。現在も芸術家のアトリエが多数あり、[[カフェ]]・ヴォルプスヴェーデ、[[クンストハレ]]、バルケンホフなどがある。


== ニーダーザクセンシュタイン ==
ヴォルプスヴェーデにある、[[煉瓦]]で覆われた[[チョウ|蝶]]が羽根を広げたようなデザインをしている、戦没者[[慰霊碑]]。[[1922年]]に[[ベルンハルト・ヘトガー]]によって建設されたもので、建設の計画自体は[[第一次世界大戦]]中から存在したが敗北を喫したため、規模が縮小されて建設が行われた。


== ヴォルプスヴェーデを訪れた画家の作品 ==
== ヴォルプスヴェーデを訪れた画家の作品 ==
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== 関連項目 ==
== 関連図書 ==
=== 実用書 ===
* [[ニーダーザクセン州]]
* {{cite book|editor=Katharina Groth, Björn Herrmann, Die Worpsweder Museen|title=Mythos und Moderne. 125 Jahre Künstlerkolonie Worpswede|publisher=Wienand|location=Köln|year=2014|ISBN=978-3-86832-203-3}}
* {{cite book|author=Anning Lehmensiek|title=Juden in Worpswede|publisher=Donat|location=Bremen|year=2014|ISBN=978-3-943425-35-2}}
* {{cite book|author=Jürgen Teumer|title=Spaziergänge in Worpswede|edition=Überarb. Neuauflage|publisher=Schünemann-Verlag|location=Bremen|year=2013|ISBN=978-3-7961-1009-2}}
* {{cite book|author=Ferdinand Krogmann|title=Worpswede im Dritten Reich 1933–1945|publisher=Donat Verlag|locaiton=Bremen|year=2012|ISBN=978-3-938275-89-4}}
* {{cite book|author=Friederike Schmidt-Möbus|title=Worpswede. Leben in einer Künstlerkolonie|publisher=Reclam|location=Stuttgart|year=2012|ISBN=978-3-15-010744-7}}
* {{cite book|author=Björn Bischoff|title=Worpswede A–Z – Das Künstlerdorf|edition=1|publisher=Edition Falkenberg|location=Bremen|year=2017|ISBN=978-3-95494-113-1}}
* {{cite book|author=Jürgen Teumer|title=Friedhof und Kirche in Worpswede. Ein Rundgang durch Gegenwart und Vergangenheit|publisher=Landschaftsverband Stade|location=Stade|year=2007|ISBN=978-3-931879-32-7}}
* {{cite book|author1=Anna Brenken|author2=Fritz Dressler|title=Worpswede und das Teufelsmoor|publisher=Ellert & Richter Verlag|location=Hamburg|year=2003|ISBN=978-3-8319-0135-7}}
* {{cite book|author1=Arn Strohmeyer|author2=Kai Artinger|author3=Ferdinand Krogmann|title=Landschaft, Licht und Niederdeutscher Mythos. Die Worpsweder Kunst und der Nationalsozialismus|publisher=VDG Weimar|location=Weimar|year=2000|ISBN=978-3-89739-126-0}}
* {{cite book|author=Peter Groth|title=Martha Vogelers Haus im Schluh|publisher=Worpsweder Verlag|location=Lilienthal|year=1995|ISBN=978-3-89299-139-7}}
* {{cite book|author=Bernd Küster|title=Das Barkenhoff-Buch|publisher=Worpsweder Verlag|location=Lilienthal|year=1989|978-3-922516-86-6}}
* {{cite book|author=Bernd Küster|title=Das Barkenhoff-Buch|publisher=Donat Verlag|locate=Bremen|year=2020|ISBN=978-3-943425-81-9}}
* {{cite book|author=Helmut Stelljes|title=Worpsweder Almanach. Dichtung, Erzählung, Dokumente|publisher=Schünemann Verlag|location=Bremen|year=1989|ISBN=978-3-7961-1798-5}}
* {{cite book|author=Rainer Maria Rilke|title=Worpswede – Fritz Mackensen • Otto Modersohn • Fritz Overbeck • Hans am Ende • Heinrich Vogeler|publisher=Insel-Verlag|location=Frankfurt am Main|edition=1|year=1987|ISBN=978-3-458-32711-0}}
* {{cite book|editor=Rainer Schomann|author=Urs Boeck|chapter=Gärten des Barkenhoffs, Worpswede|title=Historische Gärten in Niedersachsen, Katalog zur Landesausstellung, Eröffnung am 9. Juni 2000 im Foyer des Niedersächsischen Landtages in Hannover|locaiton=Hannover|year=2000|pages=174–175}}
=== 雑誌 ===
* {{cite journal|author=Bettina Vaupel|title=Weites Land für große Kunst; Bernhard Hoetger in Worpswede und Bremen|journal=Monumente|ISSN=0941-7125|year=2009|issue=1|page=8–15|url=https://www.monumente-online.de/de/ausgaben/2009/1/weites-land-fuer-grosse-kunst.php|accessdate=2020-10-11}}
=== フィクション ===
* {{cite book|author=Anning Lehmensiek|title=Juden in Worpswede|publisher=Donat Verlag|location=Bremen|year=2014|ISBN=978-3-943425-35-2}}
* {{cite book|author=Klaus Modick|title=Konzert ohne Dichter|publisher=Kiepenheuer & Witsch|location=Köln|year=2015|ISBN=978-3-462-04741-7}}
* {{cite book|author=Moritz Rinke|title=Der Mann, der durch das Jahrhundert fiel|publisher=Kiepenheuer & Witsch|location=Köln|year=2011|ISBN=978-3-462-04342-6}}
=== 日本語 ===
* {{cite book|title=ドイツ|author=池内紀|year=1992|ISBN=9784106018336}}


== 参考文献 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
* 『ドイツ』 - 池内紀、1992年、ISBN 9784106018336
=== 出典 ===
<references responsive />


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Worpswede}}
* [http://www.sakai.zaq.ne.jp/letgo/ds_ns_aaa.htm ニーダーザクセン州の紹介]
* [http://www.gemeinde-worpswede.de/ ヴォルプスヴェーデの町のウェブサイト]
* [https://www.worpswede.de/ Worpswede – Das Künstlerdorf]
* [https://www.worpsweder-gegenwartskunst.de/ Worpsweder Gegenwartskunst]
* [https://www.freunde-worpswedes.de/ Die Freunde Worpswedes]


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2020年10月11日 (日) 02:31時点における版

紋章 地図
(郡の位置)
基本情報
連邦州: ニーダーザクセン州
緯度経度: 北緯53度13分20秒 東経08度55分40秒 / 北緯53.22222度 東経8.92778度 / 53.22222; 8.92778座標: 北緯53度13分20秒 東経08度55分40秒 / 北緯53.22222度 東経8.92778度 / 53.22222; 8.92778
標高: 海抜 20 m
面積: 76.38 km2
人口:

9,687人(2021年12月31日現在) [1]

人口密度: 127 人/km2
郵便番号: 27726
市外局番: 04792, 04794
ナンバープレート: OHZ
自治体コード:

03 3 56 011

行政庁舎の住所: Bauernreihe 1
27726 Worpswede
ウェブサイト: www.worpswede.de
首長: シュテファン・シュヴェンケ (Stefan Schwenke)
郡内の位置
地図
地図

ヴォルプスヴェーデ (ドイツ語: Worpswede, ドイツ語発音: [vɔrpsˈveːdə][2], 低地ドイツ語: Worpsweed) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州オスターホルツ郡に属す町村である。この町は、ブレーメンの北東、ハンメ川ドイツ語版英語版に面しており、トイフェルスモーア(泥湿地)の中に位置している。この町は州の保養地に指定されている。町は平地に囲まれた高さ 54.4 m の丘陵ヴァイヤーベルク沿いに位置する。最初の入植は青銅器時代にまで遡る。

この町は芸術家の生活・創作共同体としてのヴォルプスヴェーデ芸術家コロニードイツ語版で知れられている。ヴォルプスヴェーデ芸術家の家奨学金機構は、2009年までドイツ最大級の奨学金団体の1つであった。ヴォルプスヴェーデには数多くの文化施設やギャラリーがある。

地理

自治体の構成と町村合併

現在の自治体ヴォルプスヴェーデの町域には、元々23の村落があり、それぞれが独立した自治体を形成していた。1920年代と1936年に多くの自治体が合併し、自治体の数は8町村にまで減少した。1974年3月1日に他の7つの町村がヴォルプスヴェーデに合併した[3]。この8つの旧町村は現在ヴォルプスヴェーデのオルトシャフト(地区)を形成している[4]

  • ヴォルプスヴェーデ(ベルゲドルフ、ノルトヴェーデ、ジュートヴェーデ、ヴァイヤーデーレン、ヴァイヤーモーア、ヴェルペダール、ヴォルプハイムを含む)
  • ヒュッテンブッシュ(フュンフハウゼン、ホイドルフ、ヒュッテンドルフを含む)
  • メーヴェンシュテット
  • ノイ・ザンクト・ユルゲン
  • オスターゾーデ(マイナースハーゲン、ノルトゾーデを含む)
  • シュルースドルフ
  • ユーバーハム
  • ヴァークハウゼン(フィーラントを含む)

隣接する市町村

ヴォルプスヴェーデに隣接する市町村は、北東がグナレンブルク、東がザムトゲマインデ・タルムシュテットに属すブレッドルフヘプシュテットタルムシュテット、南がグラスベルクリリエンタール、西がオスターホルツ=シャルムベック、北西がザムトゲマインデ・ハムベルゲンに属すフォラーゾーデである。

歴史

中世

11世紀に、オスターホルツ修道院の所領内に漁村が形成された。この集落の最初の文献記録は1218年である。

1600年から1750年まで

三十年戦争の間、1627年からヴォルプスヴェーデはブレーメン大司教ドイツ語版英語版のカトリック・皇帝軍に支配された。1630年スウェーデンがヴォルプスヴェーデ周辺地域の軍事力を獲得した。1648年、ヴォルプスヴェーデはヘッセン=エシュヴェーゲ方伯フリードリヒドイツ語版英語版に譲渡された。

1750年から1850年まで

ハノーファー選帝侯の依頼によりユルゲン・クリスティアン・フィンドルフが1750年頃からトイフェルスモーアの大規模な干拓と植民に着手した。これにより、ホイドルフ(1756年)、ヒュッテンドルフ(1776年)、シュルースドルフ(1800年)といった集落が形成された。1764年に13の耕作地があったノルトヴェーデ村は、最初の入植者が仕立屋 (ドイツ語: Schneider) であったため、地元では"Sniederdorp"(現代ドイツ語で Schneiderdorf = 仕立屋の村)と呼ばれた[5]

1850年から現代

1889年にヴォルプスヴェーデ芸術家コロニーが形成された。

国家社会主義はヴォルプスヴェーデにおいても地盤を固めた。1933年3月の国会議員選挙において、ヴォルプスヴェーデでは 66 % の票が NSDAP戦線 黒白赤に投じられた(同じ選挙でのドイツ平均の得票率は 52 % であった)。これに対して、社会民主党共産党の得票率は 16 % に留まった(全国平均は 31 %)。こうした発展は、ヴォルプスヴェーデにおいては、民族思想に忠実で国家社会主義思想に共感したフリッツ・マッケンゼン、カール・ウプホフ、マルタ・フォーゲラー(旧姓シュレーダー)といった芸術家たちの郷土や自然を崇拝するカルト思想によって強化されていった。一方、ハインリヒ・フォーゲラーやフォーゲラーの娘マリーと結婚したグスタフ・レグラードイツ語版英語版といった左派思想家は移住を余儀なくされた。郷土・自然崇拝のカルトは、最終的に「ドイツ精神史の保守的で国家主義的潮流に回帰する」、「その起点にはヘルダーロマン主義者がある」と低地ドイツ語学者クラウス・シュッペンハウアーは書いている。そしてシュトローマイヤー/アルティンガー/クロークマンは2000年に『血と土』というスローガンに象徴される無条件の純血信仰の倒錯について研究を行った[6][7][8]。こうした状況やユダヤ系住民の排斥については、アニング・レーメンジーク著の "Juden in Worpswede" に詳述されている[9]

1976年11月9日、ヴォルプスヴェーデ地区は、州指定の保養地に登録された。

住民

宗教

ヴォルプスヴェーデの住民の多くは、福音主義ルター派福音主義=ルター派ハノーファー教会ドイツ語版英語版に属している。ローマ=カトリックを信仰する住民は、ヴォルプスヴェーデのマリア・フリーデン礼拝堂が属すオスターホルツ=シャルムベックの聖家族教会区に組織されている。この他に、これらに属さないキリスト教系グループや自由教会がある。たとえば、バプテスト教会プリマス・ブレザレン新使徒教会ドイツ語版英語版イスラム教徒である。また、無宗教のグループが増えつつある。

行政

議会

ヴォルプスヴェーデの町役場

ヴォルプスヴェーデの町議会は24議席からなる。これは人口9,001人から10,000人の自治体に対する議員定数である[10]。24人の議員は5年ごとに改選される。

町議会では、上位の議員の他に町長が投票権を有している。

首長

ヴォルプスヴェーデの町長は、2001年から無所属の法律家シュテファン・シュヴェンケが務めている[11]。2014年の町長選挙では、対立候補がおらず、80.5 % の支持票を獲得して再選された。この選挙の投票率は 49.3 % であった[12]シュヴェンケは、2014年11月1日に再び町長に就任した。

紋章

図柄: 白地。基部は三峰のの山。その山の中に、底の丸い赤い小楯がある。小楯の中にはさらに小さな銀の楯が3つ配置されている。頂部は赤で、その中に銀のユリ、その両側にそれぞれ4つ菱形状に配置された金色の木組みの家が描かれている[13]

解説: この紋章にはヴォルプスヴェーデの歴史が反映されている。1223年にザクセン公およびライン宮中伯ハインリヒは、オスターホルツ修道院に4つの農場を寄贈した。1225年頃にはブランデンブルク辺境伯マルガレーテはオスターホルツの教会にヴォルプスヴェーデ半島の4つの農場を寄進した。これらの8つのヴォルプスヴェーデの農場は、紋章頂部の赤地に金色の家屋として描かれている。8つの家屋は、ヴォルプスヴェーデの8つの地区を象徴してもいる。ユリはオスターホルツのマリエン修道院を象徴している。緑色で表現されたヴァイヤーベルクは銀地によって頂部から配色上分離されている。1884年のフリッツ・マッケンゼンによる芸術上のヴォルプスヴェーデの発見は、ヴァイヤーベルクの中に銀色で縁取られた芸術家のツンフトの紋章によって表現されている。芸術家のツンフトの紋章には、建築家、画家、彫刻家の3つの芸術を表す小さな楯が描かれている。

姉妹自治体

ヴォルプスヴェーデは、ニーダーザクセン/ブレーメン自治体連合に加盟している。

文化と見所

ニーダーザクセンシュタイン

ニーダーザクセンシュタイン

ヴァイヤーベルクに設置されている高さ 18 m のレンガ製のモニュメントであるニーダーザクセンシュタインは、遠くから見るとの様にも見える。このモニュメントは、第一次世界大戦で戦没したこの地域の兵士を記念している。このモニュメントは1922年に建築家ベルンハルト・ヘトガーのデザインに基づいて製作された作品で、ドイツで唯一の表現主義による大型造形作品として、芸術史上重要な作品である。ニーダーザクセンシュタインの建設は、大変に困窮し、食料品にも事欠く時代に行われたため、当時は賛否両論であったが、現代においても元々の戦争記念碑という役割のために議論となっている[14]

バルケンホフ

バルケンホフ

元々はヴォルプスヴェーデの農場であったバルケンホフ (ドイツ語: Barkenhoff、低地ドイツ語: Birkenhof) は、1895年に芸術家ハインリヒ・フォーゲラーが購入し、数年のうちにユーゲントシュティール様式の印象的な建物に改築した。この建物はすぐにヴォルプスヴェーデ芸術運動の中心地となり、「ヴォルプスヴェーデ芸術家コロニー」が形成された。第一次世界大戦後、バルケンホフは1919年に「Kommune und Arbeitsschule Barkenhoff」となり、1923年からは、1932年に閉鎖されるまでローテ・ヒルフェの「子供の家」として使われていた。

1932年にバルケンホフは造園家人智学者のマックス・カール・シュヴァルツに買い上げられた。彼は生活改革者のレベレヒト・ミッゲを介してヴォルプスヴェーデにやって来た。彼はここで1932年から1936年までエンジニアのマルティン・シュミット(1892年 - 1964年)とともに造園および入植学校ヴォルプスヴェーデを運営した。この学校では人智学指向の教師とともにバイオダイナミック農法を学び、研究した、シュヴァルツは、バイオダイナミック農法および造園業、堆肥化のパイオニアとみなされており、ゲルトナーホーフ(直訳: 庭園農場)思想の発案者で奨励者であるとされている。シュヴァルツは、1954年にドルナハゲーテアヌムの景観庭園を造園した。

その後この邸宅は荒廃し、1981年に公的機関の手に渡った。2003年/2004年に根本的な修復がなされた。これ以後この建物は、博物館および催事スペースとして利用されている。隣接する倉庫は、2009年末までバルケンホフ財団の奨学生のアトリエとして利用されていた[15]

ハウス・イム・シュルーの建物。画面左奥が住居、右が工房である

ハウス・イム・シュルー

元々湿地の村リューニングゼーに建つ小屋だったハウス・イム・シュルーは、1920年に、ハインリヒ・フォーゲラーの最初の妻であったマルタ・フォーゲラーによってシュルーに移築され、その経済的援助により改築された。この頃彼女はバルケンホフを離れ、3人の娘マリールイーゼ、ベッティーナ、マルタと、友人のルートヴィヒ・ボイマーとともにハウス・イム・シュルーに移り住んだ。現在ここには3棟の葦葺の建物が建っている。マルタ・フォーゲラーの住居、工房(この建物は1937年にグラスドルフからシュルーに移築され、娘ベッティーナの作業場となった)、現在はペンションとなっている一番小さな建物の3棟である。住居と織布工房では、バルケンホフからの調度品、絵画、エッチング、陶器、家具がハインリヒ=フォーゲラー・コレクションの主要部分を形成している。ハインリヒ・フォーゲラーの作品やこの地域の工芸品の入れ替え展示が、コレクションを補完している。

ヴォルプスヴェーデ・クンストハレ

ヴォルプスヴェーデ・クンストハレ

地元の製本家フリードリヒ・ネッツェルは、彼の店と隣のスペースをヴォルプスヴェーデの芸術家たちが展示・販売目的で利用できるように最初に提供した。その息子のフリードリヒ・ネッツェル2世は、1919年にベルク通りに一軒家を建設し、現代美術を展示するギャラリーとした。美術商のかたわら、美術コレクションが形成された。このギャラリー・オーナーが1945年に亡くなった後、その妻は、戦後の困難な時代に経営を続け、息子のフリードリヒ・ネッツェル3世に引き継いだ。ここでは、家族が三世代で形成したコレクションの他に、ヴォルプスヴェーデを全国的に有名にしている特別展示を開催している。たとえば、1972年、1973年、1989年には、当時としては初公開となるソヴィエト時代の作品を含むハインリヒ・フォーゲラーの作品展を開催し、1976年にはパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの生誕100周年を記念した大規模な展覧会を、1989年には芸術家村100周年記念特別展を開催した。

ギャラリーのオーナーでコレクターであったフリードリヒ・ネッツェルの死後、その希望によりコレクションを将来にわたって維持する財団が設立された。「ヴォルプスヴェーデ芸術財団フリードリヒ・ネッツェル」は個人ベースの協力者やボランティアによって運営されている。ヴォルプスヴェーデ・クンストハレのコレクションの中には、たとえば、フリッツ・マッケンゼンオットー・モーダーゾーンハンス・アム・エンデフリッツ・オーヴァーベックハインリヒ・フォーゲラーの作品や、現代芸術家オッッティリー・ライレンダー作品の大規模な長期貸与品が含まれている。芸術家第二世代では、ゲオルク・タッペルト、アルベルト・シューストル=アーディング、ウード・ペータース、アルフレート・コルマー、テティウス・テューゲル、ブラム・ヴァン・ヴェルデドイツ語版英語版、リーゼル・オッペル、リヒャルト・エルツェドイツ語版英語版らの作品が展示される。フリードリヒ・メクセペル、ハイニ・リンクスヘンダー、ウーヴェ・へスラーといった現代のヴォルプスヴェーデの芸術家の作品も展示されている[16][17]

カフェ・ヴォルプスヴェーデ

カフェ・ヴォルプスヴェーデ

カフェ・ヴォルプスヴェーデは、ヴァイヤーベルクの麓にある表現主義様式の建築である。この建物は、グローセ・クンストシャウ(次項参照)を含むレンガ建築アンサンブルの一部をなしており、1925年からカフェおよびレストランとして利用されている。1970年代までこのカフェはホテルと接続していた。この建物は地元では「カフェ・フェアリュックト」(直訳: カフェ・クレージー)とも呼ばれる。それは、建築家で芸術家のベルンハルト・ヘトガーが、きちんとした設計図なしに、直角の角がない建物を建て始めたため、ヴォルプスヴェーデの人たちには「いかれた建物」と思われ、それ以後これがあだ名となったのである。ヘトガーはこのプロジェクトのために10万帝国マルクの資金を調達し、独創的な建造物を建設した。このカフェは、2002年にドイツ文化財保護協会によって修復された。これにより、重要な細部が復元された[18]。このカフェは2019年の2月から閉鎖されている[19]

ロゼリウス美術館

グローセ・クンストシャウ・ヴォルプスヴェーデ

グローセ・クンストシャウ・ヴォルプスヴェーデは、ヴァイヤーベルクの麓にある、カフェ・ヴォルプスヴェーデを含む表現主義様式のレンガ建築アンサンブルの一部である。常設展示では、ヴォルプスヴェーデの芸術家の作品が部分的に入れ替えながら選抜展示されている。グローセ・クンストシャウ・ヴォルプスヴェーデは、2008年に改修を終えて再開された。クンストシャウの建物の隣に建つ1971年製の旧ロゼリウス美術館は改修・拡張され、新築されたガラス張りの接続棟とともに2011年から現代・近代芸術の展示スペースとなっている[20]

モーダーゾーン=ハウス美術館

モーダーゾーン=ハウス美術館は、ヘムベルガー通り19番地の、画家のオットー・モーダーゾーンとパウラ・モーダーゾーン=ベッカーがかつて住んだ家に入居している。ここには、モーダーゾーン=ベッカーの作品やいくつかの調度品などが展示されている。近代的な増築部分は、ヴォルプスヴェーデ第一世代の画家たちの作品を展示するためにも用いられている。

ボンツェ・デス・フモールス

ボンツェ・デス・フモールス

ボンツェ・デス・フモールス(直訳: ユーモアの僧侶)は笑っている仏陀の像で、カフェ・ヴォルプスヴェーデ横の駐車場近くにある。この石造りのモニュメントは、カフェ・ヴォルプスヴェーデやニーダーザクセンシュタインと同じくベルント・ヘトガーによって1914年にデザインされた。この像は、15のマジョリカ陶器のシリーズから創られた。ヘトガーは、ダルムシュタットのマチルデの丘で活動していた頃、対比のペアのシリーズを創作していた。これによって彼は、たとえば善、信仰、希望といった陽の面と、貪欲、怒り、憎悪といった陰の面からなる、人間の「陽と陰」を表現しようとした。この仏陀は陽の面を表現した像である。陰の面である怒りの像(同じく石像である)は、わずかな距離にあるグローセ・クンストシャウ・ヴォルプスヴェーデの階段脇にある。この2体の像は、当初、ヘトガーのヴォルプスヴェーデにおける最初の住まいであるブルネンホーフの公園に設置された。ここでは、オラングとウータンという名前で住民に知られていた。ブルネンホーフは1923年に焼失し、1924年にその跡地に所有者の夫の名にちなんでディードリヒスホーフとよばれる新しい建物が建設された。この建物は1953年からブレーメン郷土協会に属している[21]。数多くの像を有する庭園は、手入れや修復がなされ、後に芸術家の栄誉をたたえてヘトガー=ガルテンと呼ばれるようになった[22]。ボンツェをはじめとするいくつかの立像は他の場所に移された。

カウフハウス・シュトルテ

カウフハウス・シュトルテ

フィンドルフ通りのカウフハウス・シュトルテ(直訳: シュトルテ商店)は、およそ200年の伝統を持つこの村で最も古い商店である。創業は1824年である。ヴォルプスヴェーデの初代の牧師の子孫が、教会の麓の牧師倉庫にあった店を手放して建設させたものである。多くの教会参拝者がこの建物を食堂や日曜日の買い物に利用した。ヴォルプスヴェーデがさほど重要性のない泥湿地の村から世界的に知られる芸術家コロニーに発展したのは、商人のシュトルテ家、特に娘のエミリー・シュトルテ(愛称: ミミ)のおかげである。ミミ・シュトルテは1884年にデュッセルドルフで知り合った画学生フリッツ・マッケンゼンを両親の家に招待した。最初の訪問から何度も訪問を重ね、マッケンゼンは画家仲間とともに1889年からここに住み着いた。これを核として芸術家コロニーが形成された。建物の入り口に設置された案内板とマッケンゼンの肖像が、こうした歴史を物語っている。

ケーゼグロッケ

ケーゼグロッケ

ヴォルプスヴェーデのケーゼグロッケは、ヴァイヤーベルクに建つドーム型の建物で、1926年に作家のエドヴィン・ケーネマンが建設した。建築家ブルーノ・タウトは、1921年にマクデブルクの住居と職場のための中部ドイツ展覧会の設計を雑誌「Frühlicht」に発表した。この中でケーネマンが改築したこのアトリエの建物も紹介されている。

ヴォルプスヴェーデのシオン教会

シオン教会と教会墓地

ヴァイヤーベルクのシオン教会は、七年戦争中の1757年から1758年に建設された。ハノーファーの宮廷建築家ヨハン・パウル・ホイマンの設計に基づき、泥湿地開発技師のユルゲン・クリスティアン・フィンドルフが施工を担当した[23]。ハノーファー選帝侯でイングランド王のゲオルク2世が資金援助を行った。簡素な外観のこのザールキルヒェドイツ語版英語版には、ロココ装飾が施された説教壇が設けられている。注目すべきは、2階席の柱の間に描かれた天使のプットや花の装飾模様である。これは当時画学生であったクララ・リルケ=ヴェストホフパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの罰として課題であった。二人は、1900年に教会の鐘を打ち鳴らし、これが火災の警報と誤認されたのであった。1762年にディートリヒ・クリストフ・グロガーがオルガンを製作した。このオルガンは現存していないが、2011年/12年にグロガーのコンセプトに従いヘンドリーク・アーレントによってオルガンが再建設された[24][25]。この新しいオルガンは22のストップを備えている。バロック様式の尖頭部の下にある白いカラーが遠くからも見ることができる教会塔は1798年に教会の東側に建設された。この教会塔は、他の教会と同じように、ヴォルプスヴェーデ芸術家コロニーの画家たちにとって不可欠のモチーフとなった。

フィンドルフが設計、施工した墓地が、現在も使われている教会墓地である。美しい立地と姿から多くの訪問客の目的地となっている。約80人の重要な画家、作家、音楽家、美術商がここに最後の安息の場を見いだした。その中には、ヴォルプスヴェーデを芸術家村として発見したフリッツ・マッケンゼンやパウラ・モーダーゾーン=ベッカーも含まれている。

彫刻家、デザイナー、画家でさらに建築家でもあるベルンハルト・ヘトガーによって1916年から1919年に製作された、1907年に早逝したパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの墓碑は、ヴォルプスヴェーデの墓地を訪れる人に特別な魅力を放っている。この墓碑は、石製の、半裸の、沈み込んだ、等身大の婦人像を戴いている。婦人像の腰の上には両手でリンゴを持つ小さな裸の子供がいる。この像は、子供の誕生の数日後に亡くなったこの女流画家の運命を表現しており、成長と衰退のサイクルを象徴している。

ヴォルプスヴェーデの風車

風車

ヴォルプスヴェーデからハンメへ向かう町外れに1701年から、ライムギ専用の臼を備えた回転台付きの風車があった。1838年に現在も完全に稼働可能なオランダ式風車に建て替えられた。この新しくて大きな風車は、ライムギ、コムギ、ひき割り麦用の3つの臼を備えていた。この風車は1888年に製粉業者シュヴェンケ家の所有となった。厳しさを増す競合を勝ち抜くため、何度もオーバーホールが行われ、その時々の近代的な技術水準に合致してきた。1986年の操業停止以後は、フロインデ・ヴォルプスヴェーデ e.V. がこの風車を管理している。このヴォルプスヴェーデの象徴的建造物は、画家たちのモチーフとして用いられた。

ノイ=ヘルゴラント展望塔

高さ 9 m のノイ=ヘルゴラント展望塔は、ヴォルプスヴェーデの西約 2.5 km、ベーク川が合流する直前のハンメ川北岸の、ノイ=ヘルゴラントから近い場所にある。この展望塔は、オスターホルツ=シャルムベックに建てられたアン・デン・ポストヴィーゼン展望塔、イン・デン・リンテラー・ヴァイデ展望とに次ぐ、プロジェクト・ハンメニーデルングに伴い鋼鉄製の第三の塔として建設された。展望塔からは、ヴォルプスヴェーデ、ヴァイヤーベルク、およびハンメニーデルングやトイフェルスモーアさらにはブライテス・ヴァッサー自然保護区といった周辺の自然や風景を一望することができる[26]

フィンドルフ記念碑

キルヒベルク(教会の丘)に隣接するヴァイヤーベルクの丘にユルゲン・クリスティアン・フィンドルフの記念碑がある。このオベリスク型の記念碑は「全ての泥湿地開発の父」がこの地域で成し遂げた特別な功績に感謝し、語り継ぐものとして建立された。たとえば、ブレーマーフェルデ、オスターホルツ、オッタースベルクの間の多くの村落の建設は、ハノーファー選帝侯でイングランド王ゲオルク2世およびゲオルク3世治世下の湿地開発委員であったフィンドルフの成果である。彼はオスターホルツ港と港湾運河を建設し、ハンメ=オステ運河を開削した。ヴォルプスヴェーデのシオン教会建設の際には自ら建築を指導した。隣接するグラスベルクグナレンブルクの教会の建設計画も彼によって立案された。

経済と社会資本

交通

鉄道とヴォルプスヴェーデ駅

ヴォルプスヴェーデ駅

ヴォルプスヴェーデ駅は、鉄道シュターデ - オスターホルツ=シャルムベック線(モーアエクスプレス)の駅である。列車は、5月から10月シーズンの土日祝祭日にのみ、シュターデからブレーマーフェルデグナレンブルク、ヴォルプスヴェーデ、オスターホルツ=シャルムベックを経由してブレーメン中央駅ドイツ語版英語版まで運行している。

駅舎は、1910年にハインリヒ・フォーゲラーによってユーゲントシュティール様式で設計され、建設された。フォーゲラーは建物の建設だけでなく、内装全体(家具、工芸品、絵画)までデザインした。ヴォルプスヴェーデ駅は1978年に完全に修復され、建設当初の状態に戻された。現在ここにはレストランが入居している。

バス交通

ブレーメン/ニーダーザクセン交通連盟 (VBN) の地域バス 670号線がヴォルプスヴェーデとブレーメンとを結んでいる[27]。週末の夜間には、N67号線が1時間ごとに運行し、ファルケンベルクでブレーメン市電4号線に接続している。

この他にオスターホルツ=シャルムベックからブレーマーフェルデへ向かうバス路線 640号線がヴォルプスヴェーデを通っている。

2010年11月15日から、住民バス612号線と616号線がヴォルプスヴェーデとグラスベルクの一部とを結んでいる。このバスは、月曜から金曜の日中に2時間間隔で運行している。


ヴォルプスヴェーデを訪れた画家の作品

関連図書

実用書

  • Katharina Groth, Björn Herrmann, Die Worpsweder Museen, ed (2014). Mythos und Moderne. 125 Jahre Künstlerkolonie Worpswede. Köln: Wienand. ISBN 978-3-86832-203-3 
  • Anning Lehmensiek (2014). Juden in Worpswede. Bremen: Donat. ISBN 978-3-943425-35-2 
  • Jürgen Teumer (2013). Spaziergänge in Worpswede (Überarb. Neuauflage ed.). Bremen: Schünemann-Verlag. ISBN 978-3-7961-1009-2 
  • Ferdinand Krogmann (2012). Worpswede im Dritten Reich 1933–1945. Donat Verlag. ISBN 978-3-938275-89-4 
  • Friederike Schmidt-Möbus (2012). Worpswede. Leben in einer Künstlerkolonie. Stuttgart: Reclam. ISBN 978-3-15-010744-7 
  • Björn Bischoff (2017). Worpswede A–Z – Das Künstlerdorf (1 ed.). Bremen: Edition Falkenberg. ISBN 978-3-95494-113-1 
  • Jürgen Teumer (2007). Friedhof und Kirche in Worpswede. Ein Rundgang durch Gegenwart und Vergangenheit. Stade: Landschaftsverband Stade. ISBN 978-3-931879-32-7 
  • Anna Brenken; Fritz Dressler (2003). Worpswede und das Teufelsmoor. Hamburg: Ellert & Richter Verlag. ISBN 978-3-8319-0135-7 
  • Arn Strohmeyer; Kai Artinger; Ferdinand Krogmann (2000). Landschaft, Licht und Niederdeutscher Mythos. Die Worpsweder Kunst und der Nationalsozialismus. Weimar: VDG Weimar. ISBN 978-3-89739-126-0 
  • Peter Groth (1995). Martha Vogelers Haus im Schluh. Lilienthal: Worpsweder Verlag. ISBN 978-3-89299-139-7 
  • Bernd Küster (1989). Das Barkenhoff-Buch. Lilienthal: Worpsweder Verlag 
  • Bernd Küster (2020). Das Barkenhoff-Buch. Donat Verlag. ISBN 978-3-943425-81-9 
  • Helmut Stelljes (1989). Worpsweder Almanach. Dichtung, Erzählung, Dokumente. Bremen: Schünemann Verlag. ISBN 978-3-7961-1798-5 
  • Rainer Maria Rilke (1987). Worpswede – Fritz Mackensen • Otto Modersohn • Fritz Overbeck • Hans am Ende • Heinrich Vogeler (1 ed.). Frankfurt am Main: Insel-Verlag. ISBN 978-3-458-32711-0 
  • Urs Boeck (2000). “Gärten des Barkenhoffs, Worpswede”. In Rainer Schomann. Historische Gärten in Niedersachsen, Katalog zur Landesausstellung, Eröffnung am 9. Juni 2000 im Foyer des Niedersächsischen Landtages in Hannover. pp. 174–175 

雑誌

フィクション

日本語

脚注

出典

  1. ^ Landesamt für Statistik Niedersachsen, LSN-Online Regionaldatenbank, Tabelle A100001G: Fortschreibung des Bevölkerungsstandes, Stand 31. Dezember 2021
  2. ^ Max Mangold, ed (2005). Duden, Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverl. p. 842. ISBN 978-3-411-04066-7 
  3. ^ Statistisches Bundesamt, ed (1983). Historisches Gemeindeverzeichnis für die Bundesrepublik Deutschland. Namens-, Grenz- und Schlüsselnummernänderungen bei Gemeinden, Kreisen und Regierungsbezirken vom 27.5.1970 bis 31.12.1982. Stuttgart/Mainz: W. Kohlhammer. p. 244. ISBN 978-3-17-003263-7 
  4. ^ Die Ortschaften der Gemeinde Worpswede | Gemeinde Worpswede”. 2020年10月8日閲覧。
  5. ^ Erinnerungen aus der Vergangenheit Nordwedes”. 2020年10月8日閲覧。
  6. ^ Arn Strohmeyer; Kai Artinger; Ferdinand Krogmann (2000). Landschaft, Licht und Niederdeutscher Mythos. Die Worpsweder Kunst und der Nationalsozialismus. Weimar: VDG Weimar. ISBN 978-3-89739-126-0 
  7. ^ Ferdinand Krogmann (2011). Worpswede im Dritten Reich 1933–1945. Bremen: Donat-Verlag 
  8. ^ Arn Strohmeyer (1999). Der Mitläufer. Manfred Hausmann und der Nationalsozialismus. Bremen 
  9. ^ Anning Lehmensiek (2014). Juden in Worpswede. Bremen: Donat. ISBN 978-3-943425-35-2 
  10. ^ Niedersächsisches Kommunalverfassungsgesetz (NKomVG) Vom 17. Dezember 2010 - § 46 Zahl der Abgeordneten”. 2020年10月8日閲覧。
  11. ^ Schwenke, Stefan”. 2020年10月9日閲覧。
  12. ^ Bürgermeister/Bürgermeisterin in Worpswede”. 2020年10月9日閲覧。
  13. ^ Wappen der Gemeinde Worpswede” (PDF). 2020年10月9日閲覧。
  14. ^ Dietrich Schubert (1983). “Die Wandlung eines expressionistischen Krieger-Denkmals: Bernhard Hoetgers „Niedersachsenstein“ 1915-1922”. Wallraf-Richartz-Jahrbuch 44. http://archiv.ub.uni-heidelberg.de/artdok/2235/1/Schubert_Die_Wandlung_eines_expressionistischen_Kriegerdenkmals_1983.pdf 2020年10月9日閲覧。. 
  15. ^ Barkenhoff-Stiftung | Worpswede Museen”. 2020年10月10日閲覧。
  16. ^ www.worpswede24.de - Worpswede von A bis Z - Worpsweder Kunsthalle”. 2013年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月10日閲覧。
  17. ^ Worpsweder Kunsthalle | Worpswede Museen”. 2020年10月10日閲覧。
  18. ^ “Monumente”. Magazin für Denkmalkultur in Deutschland 125 (09): 8–15. 
  19. ^ Lars Fischer (2019年2月15日). “Kaffee Worpswede schließt nach 20 Jahren”. https://www.weser-kurier.de/region/wuemme-zeitung_artikel,-kaffee-worpswede-schliesst-nach-20-jahren-_arid,1806876.html 2020年10月10日閲覧。 
  20. ^ Große Kunstschau | Worpswede Museen”. 2020年10月10日閲覧。
  21. ^ Diedrichshof, Worpswede”. 2020年10月10日閲覧。
  22. ^ Der Hoetger-Garten | Worpswede Museen”. 2020年10月10日閲覧。
  23. ^ Zionskirche - Worpswede”. 2012年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月10日閲覧。
  24. ^ Neue Orgel in Worpswede”. 2020年10月10日閲覧。
  25. ^ Helmut Stelljes (2012). “„Königin der Kirchenmusik“ in der Worpsweder Zionskirche”. Heimat-Rundblick. Geschichte, Kultur, Natur (Druckerpresse-Verlag) 100 (1): 16–17. ISSN 2191-4257. 
  26. ^ Aussichtsturm bei Neu Helgoland Worpswede Detail Worpswede24”. 2020年10月10日閲覧。
  27. ^ FahrPlaner - VBN”. 2020年10月11日閲覧。

外部リンク