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|最終出場 = 1962年9月16日
|最終出場 = 1962年9月16日
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* [[香川県立観音寺第一高等学校]]
* [[香川県立観音寺第一高等学校]]{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}
* [[中日ドラゴンズ]] (1954 - 1960)
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* [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]] (1961 - 1962)
* [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]] (1961 - 1962) {{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}
}}
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'''大矢根 博臣'''(おおやね ひろおみ、{{by|1935年}}〈[[昭和]]10年〉[[7月1日]] - ){{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}は、[[香川県]][[三豊郡]][[仁尾町]](現:[[三豊市]]仁尾町)出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])<ref name="中日新聞 広瀬いくと">{{Cite news|title=64年前の連続無失点記録ピッチャー・大矢根博臣の足跡:達人に訊け!>広瀬いくとの発掘!B面ドラゴンズ史|newspaper=[[中日新聞|中日新聞Web]]|date=2020-10-26|author=広瀬いくと|url=https://plus.chunichi.co.jp/blog/hirose/article/762/9755/|accessdate=2020-11-25|publisher=[[中日新聞社]]|language=ja|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-1125-0011-29/https://plus.chunichi.co.jp:443/blog/hirose/article/762/9755/|archivedate=2020年11月25日}}</ref>。右投右打。
'''大矢根 博臣'''(おおやね ひろおみ、[[1935年]][[7月1日]] - )は、[[日本]]の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。

現役時代は[[日本野球機構|NPB]]([[セントラル・リーグ]])の[[中日ドラゴンズ]]で[[先発投手]]として活躍し、在籍7年間({{by|1954年}} - {{by|1960年}})で84[[勝利投手|勝]]52[[敗戦投手|敗]]を記録した{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}<ref name="スポーツ報知2020-11-24"/>。特に{{by|1956年}}には中日のエースとして20勝を挙げ、{{by|1958年}}には自己最多の24勝{{Efn2|name="24勝"|中日の投手でシーズン24勝以上を挙げた投手は、大矢根以外では服部・杉下・[[権藤博]]・[[小川健太郎]]の計4人のみである<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。このうち服部は現役時代の背番号10を中日球団の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]に指定されている<ref>{{Cite news|title=渋谷真コラム・龍の背に乗って[強竜列伝・服部受弘] 奇跡の代打逆転満塁本塁打…しかもそのままマウンド上がって“勝ち投手”に 中日の永久欠番「10」の歴史|newspaper=[[中日スポーツ]]|date=2020-09-18|author=渋谷真|url=https://www.chunichi.co.jp/article/123088|accessdate=2020-11-27|publisher=[[中日新聞社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201127141737/https://www.chunichi.co.jp/article/123088|archivedate=2020年11月27日}}</ref>ほか、杉下・権藤・小川の3名はいずれも[[沢村栄治賞]](沢村賞)を受賞したことがある{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2005|p=153}}<ref>{{Cite news|title=渋谷真コラム・龍の背に乗って 実は今季「世界で最も完投」…大野雄のカギは“防御率と奪三振” 中日で憲伸以来16年ぶり沢村賞なるか|newspaper=中日スポーツ|date=2020-10-30|author=渋谷真|url=https://www.chunichi.co.jp/article/146087|accessdate=2020-11-27|publisher=中日新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201127141949/https://www.chunichi.co.jp/article/146087|archivedate=2020年11月27日}}</ref>。なお、服部は1リーグ時代({{by|1949年}})に24勝を挙げている{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2005|p=33}}{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=89}}。}}を挙げた<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。

'''中日時代の通算[[防御率]]は1.99'''、通算[[勝率]]は0.618<ref name="通算記録"/>。{{by|2020年}}シーズン終了時点で、前者は'''中日の球団記録'''であり、後者も[[杉下茂]]・[[服部受弘]]・[[吉見一起]]に次ぐ球団史上4位(いずれも通算[[投球回]]1000イニング以上の投手に限る)である<ref name="通算記録">{{Cite web|url=http://dragons.jp/teamdata/mostrecord/record02.html|title=記録集 > ドラゴンズ投手通算リーダーズ(在籍通算)|accessdate=2020-12-18|publisher=中日ドラゴンズ|website=中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218130310/http://dragons.jp/teamdata/mostrecord/record02.html|archivedate=2020-12-18}}</ref>。


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
=== プロ入り前 ===
[[香川県]][[三豊郡]][[仁尾町]](現 [[三豊市]]仁尾町)出身。[[香川県立観音寺第一高等学校]]卒業。
[[明治]]から続く[[刃物]]製造業者の実家に三男として産まれたが、小学生のころに[[第二次世界大戦|戦争]]が激化し、野球を始めた時期は高校入学後だった<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。


[[香川県立観音寺第一高等学校]]時代は甲子園には出場できず、[[全国高等学校野球選手権香川大会|2年生夏の県予選]]{{Efn2|この大会前にはクラス対抗のリレー大会に参加したが、その際に腰に全治3か月の重傷を追っていたため、野球の練習はほとんどできていなかった<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。}}({{by|1953年}}〈昭和28年〉)で準決勝まで進んだのが最高位で、[[香川県立志度高等学校|志度商業高校]]相手に敗退{{Efn2|もし同試合で勝利して決勝戦に進出していた場合、空谷の所属する松山商業高校と対戦するはずだった<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。}}<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。同じ[[ 全国高等学校野球選手権大会北四国大会|北四国ブロック]]に在籍していた[[愛媛県立松山商業高等学校|松山商業高校]]([[全国高等学校野球選手権大会 (愛媛県勢)|愛媛]])には、後に[[中日ドラゴンズ]]で同僚となる空谷泰([[児玉泰]]・[[第35回全国高等学校野球選手権大会|1953年夏の甲子園]]優勝投手)がいたが{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|pp=43-44}}、大矢根は県内屈指の好投手として知られ<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>、「空谷以上の快[[速球]]を投げる投手」という評価も得ていた{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}。
観音寺一高では[[1953年]](昭和28年)[[全国高等学校野球選手権香川大会|夏の甲子園県予選]]準決勝に進むが、[[香川県立志度高等学校|志度商]]に惜敗。[[1954年]](昭和29年)に中日ドラゴンズに入団。同年9月23日の対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋松竹ロビンス]]戦でプロ初先発で完封勝利、最終戦でも大洋松竹に勝ち、2勝を挙げた。


本人は大学進学を希望{{Efn2|[[慶應義塾大学野球部|慶應義塾大学]]・[[早稲田大学野球部|早稲田大学]]が近隣でキャンプを張った際には志願して参加していた<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。}}しており、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋松竹ロビンス(洋松ロビンス)]]からの勧誘も固辞していたが、中日の[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]][[プロ野球監督|監督]]・宮坂達雄の熱意にほだされた父親から勧められ<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>、{{by|1954年}}(昭和29年)に空谷とともに中日に入団{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}。当時の中日[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]]スタッフは監督とマネージャーのみで、一軍の投手[[プロ野球コーチ|コーチ]]も[[捕手]]の[[野口明]]が兼任していた{{Efn2|大矢根自身は2016年に『[[中日新聞]]』記者から取材を受けた際、「(現在と比べて)コーチが少なかった」と述べている<ref name="中日新聞2016-03-30"/>。}}<ref name="中日新聞2016-03-30"/>。プロ入り当時の[[野球の背番号|背番号]]は'''37'''{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=125}}。
どんな場面も緊張せず、伸びのある快速球を内角高目にどんどん投げ込むのがスタイル。これにキレ味鋭い外角へのスライダーと速いシュート、今で言うツーシームを混ぜて勝負した。[[1956年]](昭和31年)に先発ローテーションに定着すると、20勝、リーグ3位の防御率1.53の活躍を見せた<ref>『日本プロ野球偉人伝 第4弾』(ベースボール・マガジン社)(2013年) 58頁</ref>。


=== 中日時代 ===
翌[[1957年]](昭和32年)には、ヒジ痛もあって12勝と勝ち星が減り、最後まで調子が上がらなかったが、同年10月12日の対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]戦でノーヒットノーランを達成した。「調子はよくなかったが、その分慎重に投げたのがよかった」と振り返る通り、三振わずか2での快挙だった<ref>『朝日新聞』昭和32年10月13日付朝刊 (12版、9面)</ref>。
プロ入り当初は同期の空谷に比べ、甲子園出場経験のない大矢根への注目度は低かったが、1年目(1954年)は二軍([[新日本リーグ]])で下積みを重ねた<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。その後、[[リリーフ#敗戦処理|敗戦処理]]で一軍登板の機会を得ると、次第に[[天知俊一]][[プロ野球監督|監督]]の信頼を勝ち得て<ref name="中日新聞2016-03-30"/>、同年9月23日の対洋松ロビンス戦([[ダブルヘッダー]]第2試合){{Efn2|第109試合・中日球場{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=100}}。}}でプロ初先発{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2005|p=47}}。洋松打線を3安打に抑え、2対0で[[完封]]勝利を記録する{{Efn2|この試合は途中まで[[完全試合|パーフェクト]]で抑えていたが、「早いうちに大記録を出すと潰れる」という言い伝えを聞いていた天知監督は7回ごろ、大矢根に「ヒット打たれろ」と指示<ref name="中日新聞2016-03-30"/>。これを受けて大矢根はノーサインで真ん中に投げるようになり、9回に初被安打を記録した直後に杉下に交代した<ref name="中日新聞2016-03-30"/>。}}{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2005|p=47}}。リーグ最終戦(10月25日・[[ナゴヤ球場|中日球場]])でも洋松に勝ち{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=100}}、2勝を挙げて中日の[[1954年の中日ドラゴンズ|球団史上初のセ・リーグ優勝]]に貢献した{{Efn2|その後、チームは[[1954年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]を下し、球団史上初の日本一に輝いたが、シリーズでは大矢根の登板機会はなかった{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|pp=84-85}}。}}<ref name="中日新聞2016-03-30"/>。しかし同シーズン終了後に天知は突然辞意を表明し、後任の監督には[[野口明]]が就任した{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=88}}。野口体制で迎えたプロ2年目({{by|1955年}})に背番号を'''19'''に変更し{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=125}}、同年は[[先発ローテーション]]に定着して<ref name="スポーツ報知2020-11-24"/>6勝を挙げた<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。


{{by|1956年}}(昭和31年)はエースの[[杉下茂]]から「自分の決め球を作れ」という助言を受け、決め球となる「沈む[[シュート (球種)|シュート]]」(ツーシーム)を習得{{Efn2|シュートの習得時期は1957年とする文献もある{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2005|p=47}}。シュートを投げ始めた動機は、ライバルの空谷が「[[野茂英雄|野茂(英雄)]]のような投げ方」で、「スピードでは(空谷に)勝てない」と考えたためだった<ref name="中日新聞2016-03-30"/>。}}<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。同年は杉下が14勝14敗と貯金を作れず{{Efn2|ただし、防御率は2.00だった{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=89}}。}}、チームはセ・リーグ3位に終わったが、自身は[[中山俊丈]]{{Efn2|同年は中山も20勝を挙げ、リーグ4位の防御率1.61を記録したほか、空谷も規定投球回には到達しなかったものの、初の2桁勝利となる11勝を挙げ、防御率1.75を記録した{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=41}}。}}(左腕)とともに左右の両輪として活躍{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=41}}。20勝13敗(21[[完投]])<ref name="中日スポーツ2002-10-23"/>・防御率1.53(セ・リーグ3位){{Efn2|[[渡辺省三]](大阪タイガース・防御率1.45)、[[堀内庄]](巨人・防御率1.46)に次ぐ<ref>{{Cite web|url=https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1956.html|title=年度別成績 1956年 セントラル・リーグ|accessdate=2020-12-02|publisher=日本野球機構|year=1956|website=NPB.jp 日本野球機構|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201202113239/https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1956.html|archivedate=2020-12-02}}</ref>。}}を記録する活躍を見せ{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2013|p=58}}、杉下に代わる中日のエースとして認められるようになった<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。また同年には40回1/3の連続イニング無失点記録{{Efn2|この間、8月5日(対[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]戦) - 同月19日(対[[広島東洋カープ|広島カープ]]戦)の5回まで(計5試合)で、3回の完封勝利を記録した<ref name="スポーツ報知2020-11-24"/>。なおこの無失点記録の継続中、奪三振数は最多でも1試合あたり6だった<ref name="中日スポーツ2002-10-23"/>。}}を樹立したが<ref name="スポーツ報知2020-11-24">{{Cite news|title=【中日】大野雄大が45回連続無失点の球団新…前記録保持者・大矢根投手はどんな選手?|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2020-10-23|url=https://hochi.news/articles/20201023-OHT1T50058.html|accessdate=2020-11-24|publisher=[[報知新聞社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201124141350/https://hochi.news/articles/20201023-OHT1T50058.html|archivedate=2020年11月24日}}</ref>、これは{{by|2020年}}10月14日に[[大野雄大]]が更新{{Efn2|大野は最終的に45イニング(同シーズン時点でNPB単独12位)まで連続無失点記録を伸ばし<ref>{{Cite news|title=中日大野雄大、連続イニング無失点記録45で止まる|newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]]|date=2020-10-29|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010290000651.html|accessdate=2020-11-24|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201124142332/https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010290000651.html|archivedate=2020年11月24日}}</ref>、同年の沢村賞を受賞した<ref>『[[中日新聞]]』2020年11月24日朝刊一面1頁「大野雄 初の沢村賞」(中日新聞社)</ref>。}}するまで、64年間にわたり中日の球団記録だった<ref>{{Cite news|title=5度目の完封勝利の中日・大野雄は無失点36イニングに 34イニング超え球団64年ぶり 31イニング超えは11年浅尾以来|newspaper=中日スポーツ|date=2020-10-14|url=https://www.chunichi.co.jp/article/137155|accessdate=2020-11-24|publisher=中日新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201124141345/https://www.chunichi.co.jp/article/137155|archivedate=2020年11月24日}}</ref>。
[[1958年]](昭和33年)には、シュート中心にスライダーも交えたコーナーワーク、さらに沈むシュートを多投して、自己最多の24勝を挙げて3年連続で2ケタ勝利に到達、オールスターゲームにも出場している<ref>『新プロ野球人国記 第2巻』(ベースボール・マガジン社)(1987年) 185頁</ref>。


翌{{by|1957年}}(昭和32年)は肘痛に苦しみ{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}、[[規定投球回]]には到達できず{{Efn2|同年の規定投球回到達者は中山(23勝・防御率はリーグ3位の1.82)と空谷の2人{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=42}}。}}{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=42}}、12勝に終わったが{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}、同年10月12日の対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]23回戦([[阪神甲子園球場|甲子園球場]])で[[ノーヒットノーラン]]<ref name="朝日新聞1957-10-13"/>(2リーグ制施行以降ではセ・リーグ史上9回目)を達成した<ref name="ノーヒットノーラン">{{Cite web|url=https://npb.jp/history/alltime/nohitnorun.html|title=無安打無得点試合 (ノーヒットノーラン) | 各種記録達成者一覧 | 達成記録|accessdate=2020-11-24|publisher=[[日本野球機構]]|website=NPB.jp 日本野球機構|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201124145832/https://npb.jp/history/alltime/nohitnorun.html|archivedate=2020-11-24}}</ref>。この試合における与四死球は3、奪三振はわずか2で<ref name="ノーヒットノーラン"/>、本人は試合後に「調子はよくなかったが、その分慎重に投げたのがよかった」と振り返っていた<ref name="朝日新聞1957-10-13">『[[朝日新聞]]』1957年10月13日東京朝刊第12版9頁「大矢根(中日)もノーヒットノーラン 対阪神 セ・リーグ六人目 中日3-0阪神 甲子園(23回戦中日14勝8敗1分)」([[朝日新聞東京本社]])</ref>。
しかし、翌[[1959年]](昭和34年)5勝と不振。同年5月3日の対巨人戦では先発登板が発表されていたが、試合前にブルペンで腰痛を発症し出場を回避したが登板は記録された<ref>『プロ野球記録大鑑(昭和11年-平成4年)』(宇佐美徹也著:ベースボール・マガジン社) 776頁</ref>。[[1960年]](昭和35年)には、15勝で復調の兆し見せ、〝1年置きのエース〟とも言われた<ref>『日本プロ野球偉人伝 第4弾』(ベースボール・マガジン社)(2013年) 76頁</ref>。


{{by|1958年}}(昭和33年)はエース杉下が衰えて11勝{{Efn2|大矢根に次ぐチーム2位の勝利数である{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=91}}。}}に終わったが{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2005|p=47}}、自身は[[シュート (球種)|シュート]]中心の技巧派投手に転向し、自己最多の24勝<ref group="注" name="24勝"/>を挙げた{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}。また、防御率1.61は[[金田正一]]([[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]・防御率1.30)、[[藤田元司]]([[読売ジャイアンツ]]〈巨人〉・防御率1.53)に次ぐセ・リーグ投手成績3位だった<ref>{{Cite web|url=https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1958.html|title=年度別成績 1958年 セントラル・リーグ|accessdate=2020-12-02|publisher=日本野球機構|year=1958|website=NPB.jp 日本野球機構|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201024182427/https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1958.html|archivedate=2020-12-02}}</ref>。同年は[[1958年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第2戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])にも出場したが、4回表に[[中西太]](西鉄)から3点本塁打を打たれている<ref>{{Cite web|url=https://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1958_2.html|title=1958年度オールスター・ゲーム 試合結果(第2戦)|accessdate=2020-12-02|publisher=日本野球機構|date=1958-07-29|website=NPB.jp 日本野球機構|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201202112256/https://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1958_2.html|archivedate=2020-12-02}}</ref>。杉下は同年限りで現役を引退し、翌1959年 - 1960年に中日の監督を務めた{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|pp=92-93}}が、1961年に[[千葉ロッテマリーンズ|毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)]]で現役復帰した{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=91}}。
1960年(昭和35年)11月26日に滋賀県の国道1号線を自動車で走行中に交通事故を起こし同乗者2名が死亡し、自身も頭蓋骨骨折の大怪我を負った<ref>『朝日新聞』昭和35年11月26日付夕刊 (3版、7面)</ref>。同年12月に[[小淵泰輔]]とのトレードで[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]への移籍が発表された<ref>『朝日新聞』昭和35年12月18日付朝刊 (12版、9面)</ref>。背番号も「1」に変え、出直しを期したが、わずか2勝に終わり、[[1962年]](昭和37年)限りで現役を引退した。


杉下が監督に就任した{{by|1959年}}(昭和34年)は{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=92}}、春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]中盤に腰を痛め、12試合登板・5勝と不振に終わる<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。同年5月3日の対巨人戦では先発登板が発表されていたが、試合前にブルペンで腰痛を発症し、出場を回避した{{Efn2|中山俊丈が代わりにリリーフ扱いで登板{{Sfn|宇佐美徹也|1993|p=776}}。ただし大矢根の登板は記録された{{Sfn|宇佐美徹也|1993|p=776}}。}}{{Sfn|宇佐美徹也|1993|p=776}}。{{by|1960年}}(昭和35年)には15勝を挙げて復調の兆しを見せ、「1年おきのエース」とも言われた{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2013|p=76}}{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}が、チームは投手陣の崩壊{{Efn2|2年目の[[板東英二]]が10勝を挙げたが、児玉(前年20勝)と中山俊丈がともに3勝に終わった{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=93}}。}}により、セ・パ分立後では初の[[Aクラス・Bクラス|Bクラス]](5位)に終わる{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=93}}。[[1960年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]では第1戦([[川崎球場]])・第3戦([[後楽園球場]])にそれぞれ登板した<ref>{{Cite web|url=https://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1960_1.html|title=1960年度オールスター・ゲーム 試合結果(第1戦)|accessdate=2020-12-02|publisher=日本野球機構|date=1960-07-25|website=NPB.jp 日本野球機構|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201202112256/https://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1960_1.html|archivedate=2020-12-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1960_3.html|title=1960年度オールスター・ゲーム 試合結果(第3戦)|accessdate=2020-12-02|publisher=日本野球機構|date=1960-07-27|website=NPB.jp 日本野球機構|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200217204524/http://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1960_3.html|archivedate=2020-12-02}}</ref>。
[[1963年]](昭和38年)に[[東海ラジオ放送]]野球解説者に就任。その後は中日ドラゴンズOB会副会長を歴任した。

==== 交通事故・トレード ====
しかし1960年11月26日、自身の運転する乗用車で[[滋賀県]][[甲賀郡]][[石部町]]石部(現:[[湖南市]])の[[国道1号]]を[[大阪]]方面に向けて運転していたところ、前方に停車していたトラックに追突<ref name="朝日新聞1960-11-26"/>。乗用車は横転し、対向車と激突して大破した<ref name="朝日新聞1960-11-26"/>。この事故により、乗用車に同乗していた女性2人(24歳・19歳)が全身強打で即死し、自身も頭蓋骨骨折の重傷を負った{{Efn2|中日では大矢根以前に[[石川緑]]も自動車事故を起こしていた<ref name="朝日新聞1960-11-26"/>。}}<ref name="朝日新聞1960-11-26">『朝日新聞』1960年11月26日東京夕刊第3版7頁「【[[水口]]=滋賀県】プロ野球選手またドライブ事故 大矢根(中日投手)が重体 乗用車横転、衝突 同乗の二女性即死」(朝日新聞東京本社)</ref>。野球の動作に関わる箇所には怪我はなかったが{{Efn2|頭蓋骨骨折に加え、左手甲ほか全身を打撲したが、右腕には大事はなく<ref name="朝日新聞1960-11-26"/>、約1か月後(西鉄へのトレード発表時)に西鉄の川崎監督は「もう大丈夫だ。(春の)キャンプからでも投げられそう」とコメントしていた<ref name="朝日新聞1960-12-18"/>。}}、この出来事で精神的ショックを受け、「[[名古屋市|名古屋]]にはいられない」と[[トレード]]を志願{{Efn2|[[ベースボール・マガジン社]] (2005) は「真のエースへの飛躍が期待されたが、交通事故などが大成を阻んだ」と{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2005|p=47}}、ベースボール・マガジン社 (2016) は「交通事故で負傷し、ショックもあって西鉄へ(トレードされた)」と述べている{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=44}}。}}<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。12月17日に[[小淵泰輔]]とのトレードで[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]へ移籍することが発表された<ref name="朝日新聞1960-12-18">『朝日新聞』1960年12月18日東京朝刊第12版9頁「【福岡】小淵と大矢根のトレードきまる」(朝日新聞東京本社)</ref>。

同年、5位に低迷した中日球団は杉下に代わり、[[濃人渉]]新監督{{Efn2|濃人は「天知カラー」の一掃を図り、同時期(1960年オフ)に[[岡嶋博治]](→[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]])・[[伊奈努]](→阪神)を相次いで放出した{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=95}}ほか、1961年オフにも[[森徹]](→[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]])・[[井上登]](→[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]])と{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=96}}、生え抜きの主力選手たちを次々と放出していた<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。また1961年オフには、児玉も捕手の[[吉沢岳男]]とともに[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]へ放出された{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=96}}。ただし、広瀬いくと (2020) は「大矢根のトレードは事故を受けて大矢根自身が志願したものであり、岡嶋・伊奈らとのトレードと同列に語られるべきではない」と述べている<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。}}の就任が決まっていたが、濃人は[[日鉄鉱業|日鉄二瀬]]([[社会人野球]])時代に師弟関係にあった小淵の獲得を希望し、投手陣の補強が課題となっていた西鉄{{Efn2|西鉄は当時、計算できる投手が[[稲尾和久]]しかいなかった{{Sfn|坪内道則|1987|p=172}}。}}にトレードを打診{{Sfn|坪内道則|1987|p=172}}。その交換相手として、中日側は12月12日に児玉(旧姓:空谷)・中山・[[河村保彦]]の3投手から1人を選ぶよう西鉄側に提示{{Sfn|坪内道則|1987|p=172}}。これに対し、西鉄側は[[西亦次郎]]球団社長らフロント最高幹部と、[[川崎徳次]]監督による協議の結果、大矢根が先述の事故から「他球団に移籍して出直したい」と志願していることを把握したため、「第1候補は児玉、第2候補は河村。2人が拒否した場合は大矢根を指名する」と決定{{Sfn|坪内道則|1987|p=173}}。直接交渉に入ると、中日側が児玉・河村のトレード要員を撤回したため、大矢根と小淵のトレードが成立した{{Efn2|大矢根は12月15日に名古屋を訪れた西鉄の川崎監督からトレードの話を聞かされて承諾し<ref name="朝日新聞1960-12-18"/>、同月19日に西鉄球団事務所でトレードに調印した<ref>『朝日新聞』1960年12月20日東京朝刊第12版9頁「【福岡】大矢根調印」(朝日新聞東京本社)</ref>。}}{{Sfn|坪内道則|1987|p=173}}。この時、中日は大矢根に対し、事故被害者への慰謝料170万円+大矢根自身への功労金200万円を支給している{{Efn2|なお、大矢根は西鉄移籍後の1961年5月11日に[[業務上過失致死傷罪|業務上過失致死]]容疑で[[福岡地方検察庁|福岡地検]]から[[起訴#在宅起訴|在宅起訴]]され<ref>『朝日新聞』1961年5月11日東京夕刊第3版7頁「【福岡】大矢根投手を起訴」(朝日新聞東京本社)</ref>、同年6月20日に[[福岡地方裁判所|福岡地裁]]にて開かれた初[[公判]]で「前から来た車のライトに目がくらみ、ブレーキを踏む余裕もなかった」と述べた<ref name="朝日新聞1961-06-20">『朝日新聞』1961年6月20日東京夕刊第3版7頁「【福岡】“ライトに目がくらむ” 大矢根投手の初公判 法廷で“ナイター問答”」(朝日新聞東京本社)</ref>。これに関し、[[被告人]]・大矢根の[[弁護人]]は「自動車の運転手は(対向車の)ライトで心神耗弱を起こす」として、交通事故の刑事裁判では初となる鑑定を申し入れた<ref name="朝日新聞1961-06-20"/>。結局、大矢根は同年7月4日に福岡地検から[[禁錮]]8月を[[求刑]]され<ref>『朝日新聞』1961年7月5日東京朝刊第12版11頁「【福岡】大矢根投手に禁錮八月求刑」(朝日新聞東京本社)</ref>、同月18日に禁錮8月・[[執行猶予]]2年の[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡された<ref>『朝日新聞』1961年7月18日東京夕刊第3版7頁「【福岡】大矢根投手に執行猶予判決」(朝日新聞東京本社)</ref>。}}{{Sfn|坪内道則|1987|p=173}}。

=== 中日退団後 ===
西鉄ライオンズ時代({{by|1961年}} - {{by|1962年}})の背番号は1<ref name="西武背番号">{{Cite web|url=https://www.seibulions.jp/expansion/history/number/|title=背番号の歴史|accessdate=2020-11-24|publisher=[[埼玉西武ライオンズ]]|year=2020|website=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト|language=ja|archiveurl=http://web.archive.org/web/20201124151745/https://www.seibulions.jp/expansion/history/number/|archivedate=2020-11-24}}</ref>。環境を変えて心機一転を図ったが<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>、西鉄では在籍2年間でわずか2勝4敗の成績に終わり{{Sfn|坪内道則|1987|p=173}}、{{by|1962年}}(昭和37年)限りで現役を引退した<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。

現役引退後は[[東海ラジオ放送]]の[[野球解説者]]に就任し、中日ドラゴンズOB会副会長も務めた{{Efn2|1999年11月28日の第32回OB会総会で副会長として新任され<ref>『中日新聞』1999年11月29日朝刊第一運動面23頁「[[渡邉博幸|渡辺]]に努力賞 中日OB会総会」(中日新聞社)</ref>、2002年11月24日の総会でも再任された(任期は2003年1月1日から2年間)<ref>『中日新聞』2002年11月25日朝刊第二運動面20頁「[[中利夫|中]]新会長を選出 中日OB会総会」(中日新聞社)</ref>。}}ほか、[[愛知県]][[名古屋市]]内で[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]を経営{{Efn2|{{by|2007年}}に中日が球団史上2回目(大矢根の入団年である1954年以来)となる日本一([[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ優勝]])を達成した際、大矢根は名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]]内で[[スナックバー (飲食店)|スナック]]を経営していた<ref>『中日新聞』2007年11月2日朝刊第一社会面39頁「07年竜 日本一 1954年日本一OB 『亡くなった仲間たちに見せたい』 『人生最良の瞬間』」(中日新聞社)</ref>。}}していた<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。{{年数|1935|7|1|2020|10|22}}歳になった{{by|2020年}}([[令和]]2年)には自身の連続無失点球団記録を大野が更新したことに伴い、中日球団の親会社である[[中日新聞社]]から取材を受け、「自身が球団記録を持っていたことは覚えていなかった」というコメントを発表した<ref name="中日スポーツ2002-10-23">{{Cite news|title=渋谷真コラム・龍の背に乗って 85歳の楽しみは野球のTV観戦…「そんな記録を私がねぇ」中日・大野雄が掘り起こした64年前の投手|newspaper=中日スポーツ|date=2020-10-23|author=渋谷真|url=https://www.chunichi.co.jp/article/141989|accessdate=2020-11-24|publisher=中日新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201124151826/https://www.chunichi.co.jp/article/141989|archivedate=2020年11月24日}}</ref>。

== 選手としての特徴 ==
思い切りよく内角を突く投球術と、曲がりながら落ちる[[シュート (球種)|シュート]]を武器に活躍した<ref name="中日新聞2016-03-30">『中日新聞』2016年3月30日朝刊第二運動面26頁「CDの系譜 1954 初の日本一 インタビュー 54年入団 大矢根博臣さん 職人と一緒で見て勉強」(中日新聞社)</ref>。プロ入り当初は[[速球]]に[[カーブ (球種)|カーブ]]を織り交ぜる投球スタイルだったが、杉下からの助言を受けてシュートを習得したことが飛躍につながった<ref name="中日新聞 広瀬いくと"/>。また[[奪三振]]は少なく、少ない球数で力よりも技で勝負する投手だった<ref name="中日スポーツ2002-10-23"/>。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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=== 記録 ===
=== 記録 ===
; 初記録
; 初記録
* 初勝利:1954年9月23日、対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋松竹ロビンス]]22回戦([[ナゴヤ球場|中日スタヂアム]])
* 初勝利:1954年9月23日、対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋松竹ロビンス]]22回戦([[ナゴヤ球場|中日スタヂアム]]){{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=84}}
; 節目の記録
* 1000投球回:1959年8月4日{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=253}}、対[[読売ジャイアンツ]]15回戦{{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=92}}(中日スタヂアム){{Sfn|中日ドラゴンズ|2016|p=253}}
; その他の記録
; その他の記録
* [[ノーヒットノーラン]]:1回 (1957年10月12日、対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]23回戦、[[阪神甲子園球場]]) ※史上26人目
* [[ノーヒットノーラン]]:1回 (1957年10月12日、対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]23回戦、[[阪神甲子園球場]])<ref name="朝日新聞1957-10-13"/> ※史上26人目([[セントラル・リーグ]]史上9回目)<ref name="ノーヒットノーラン"/>
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回 (1958年、1960年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回 (1958年、1960年)


=== 背番号 ===
=== 背番号 ===
* '''37''' (1954年)
* '''37''' (1954年){{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=125}}
* '''19''' (1955年 - 1960年)
* '''19''' (1955年 - 1960年){{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=125}}
* '''1''' (1961年 - 1962年)
* '''1''' (1961年 - 1962年)<ref name="西武背番号"/>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=風雪の中の野球半世記|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|date=1987-03-25|ref={{SfnRef|坪内道則|1987}}|author=[[坪内道典|坪内道則]]|edition=第1版第1刷|isbn=978-4583026268|pages=172-173|chapter=むずかしさ実感した大矢根、小淵のトレード}}
* {{Cite book|和書|title=プロ野球記録大鑑【昭和11年→平成4年】|publisher=[[講談社]](印刷所:[[廣済堂]])|date=1993-08-01|ref={{SfnRef|宇佐美徹也|1993}}|author=[[宇佐美徹也]]|editor=|edition=第1刷発行|series=|isbn=978-4062061087}}
* {{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡|editor=池田哲雄|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|date=2005-06-01|series=スポーツシリーズNo.234|page=47|isbn=978-4583613246|ref={{SfnRef|ベースボール・マガジン社|2005}}}} - 『B・B MOOK』350
* {{Cite book|和書|title=完全保存版 日本プロ野球偉人伝 vol.4 (1956→58編) 球史を彩るスーパースターたちの伝説 西鉄黄金時代の44人|publisher=ベースボール・マガジン社|date=2013-07-17|ref={{SfnRef|ベースボール・マガジン社|2013}}|series=球史発掘シリーズ|isbn=978-4583620107|pages=58頁, 76頁|volume=4}} - 『B・B MOOK』951
* {{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ80年史|publisher=[[中日新聞社]](発行者:[[白井文吾]])|date=2016-03-18|ref={{SfnRef|中日ドラゴンズ|2016}}|editor=中日ドラゴンズ(編集)、[[中日スポーツ]](企画協力)|url=|edition=初版第1刷|isbn=978-4806207009}}
* {{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ80年史 シリーズ3 1936-1973|editor=池田哲雄|publisher=ベースボール・マガジン社|date=2016-06-02|page=44|isbn=978-4583624440|ref={{SfnRef|ベースボール・マガジン社|2016}}}} - 『B・B MOOK』1310


== 関連項目 ==
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2021年1月4日 (月) 08:32時点における版

大矢根 博臣
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県三豊郡仁尾町(現:三豊市
生年月日 (1935-07-01) 1935年7月1日(88歳)
身長
体重
174[1] cm
69[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1954年
初出場 1954年8月28日
最終出場 1962年9月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大矢根 博臣(おおやね ひろおみ、1935年昭和10年〉7月1日 - )[1]は、香川県三豊郡仁尾町(現:三豊市仁尾町)出身の元プロ野球選手投手[2]。右投右打。

現役時代はNPBセントラル・リーグ)の中日ドラゴンズ先発投手として活躍し、在籍7年間(1954年 - 1960年)で8452を記録した[1][3]。特に1956年には中日のエースとして20勝を挙げ、1958年には自己最多の24勝[注 1]を挙げた[2]

中日時代の通算防御率は1.99、通算勝率は0.618[9]2020年シーズン終了時点で、前者は中日の球団記録であり、後者も杉下茂服部受弘吉見一起に次ぐ球団史上4位(いずれも通算投球回1000イニング以上の投手に限る)である[9]

来歴・人物

プロ入り前

明治から続く刃物製造業者の実家に三男として産まれたが、小学生のころに戦争が激化し、野球を始めた時期は高校入学後だった[2]

香川県立観音寺第一高等学校時代は甲子園には出場できず、2年生夏の県予選[注 2]1953年〈昭和28年〉)で準決勝まで進んだのが最高位で、志度商業高校相手に敗退[注 3][2]。同じ北四国ブロックに在籍していた松山商業高校愛媛)には、後に中日ドラゴンズで同僚となる空谷泰(児玉泰1953年夏の甲子園優勝投手)がいたが[10]、大矢根は県内屈指の好投手として知られ[2]、「空谷以上の快速球を投げる投手」という評価も得ていた[1]

本人は大学進学を希望[注 4]しており、大洋松竹ロビンス(洋松ロビンス)からの勧誘も固辞していたが、中日の二軍監督・宮坂達雄の熱意にほだされた父親から勧められ[2]1954年(昭和29年)に空谷とともに中日に入団[1]。当時の中日二軍スタッフは監督とマネージャーのみで、一軍の投手コーチ捕手野口明が兼任していた[注 5][11]。プロ入り当時の背番号37[12]

中日時代

プロ入り当初は同期の空谷に比べ、甲子園出場経験のない大矢根への注目度は低かったが、1年目(1954年)は二軍(新日本リーグ)で下積みを重ねた[2]。その後、敗戦処理で一軍登板の機会を得ると、次第に天知俊一監督の信頼を勝ち得て[11]、同年9月23日の対洋松ロビンス戦(ダブルヘッダー第2試合)[注 6]でプロ初先発[14]。洋松打線を3安打に抑え、2対0で完封勝利を記録する[注 7][14]。リーグ最終戦(10月25日・中日球場)でも洋松に勝ち[13]、2勝を挙げて中日の球団史上初のセ・リーグ優勝に貢献した[注 8][11]。しかし同シーズン終了後に天知は突然辞意を表明し、後任の監督には野口明が就任した[16]。野口体制で迎えたプロ2年目(1955年)に背番号を19に変更し[12]、同年は先発ローテーションに定着して[3]6勝を挙げた[2]

1956年(昭和31年)はエースの杉下茂から「自分の決め球を作れ」という助言を受け、決め球となる「沈むシュート」(ツーシーム)を習得[注 9][2]。同年は杉下が14勝14敗と貯金を作れず[注 10]、チームはセ・リーグ3位に終わったが、自身は中山俊丈[注 11](左腕)とともに左右の両輪として活躍[18]。20勝13敗(21完投[19]・防御率1.53(セ・リーグ3位)[注 12]を記録する活躍を見せ[21]、杉下に代わる中日のエースとして認められるようになった[2]。また同年には40回1/3の連続イニング無失点記録[注 13]を樹立したが[3]、これは2020年10月14日に大野雄大が更新[注 14]するまで、64年間にわたり中日の球団記録だった[24]

1957年(昭和32年)は肘痛に苦しみ[1]規定投球回には到達できず[注 15][25]、12勝に終わったが[1]、同年10月12日の対大阪タイガース23回戦(甲子園球場)でノーヒットノーラン[26](2リーグ制施行以降ではセ・リーグ史上9回目)を達成した[27]。この試合における与四死球は3、奪三振はわずか2で[27]、本人は試合後に「調子はよくなかったが、その分慎重に投げたのがよかった」と振り返っていた[26]

1958年(昭和33年)はエース杉下が衰えて11勝[注 16]に終わったが[14]、自身はシュート中心の技巧派投手に転向し、自己最多の24勝[注 1]を挙げた[1]。また、防御率1.61は金田正一国鉄スワローズ・防御率1.30)、藤田元司読売ジャイアンツ〈巨人〉・防御率1.53)に次ぐセ・リーグ投手成績3位だった[29]。同年はオールスターゲーム第2戦(広島市民球場)にも出場したが、4回表に中西太(西鉄)から3点本塁打を打たれている[30]。杉下は同年限りで現役を引退し、翌1959年 - 1960年に中日の監督を務めた[31]が、1961年に毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)で現役復帰した[28]

杉下が監督に就任した1959年(昭和34年)は[32]、春季キャンプ中盤に腰を痛め、12試合登板・5勝と不振に終わる[2]。同年5月3日の対巨人戦では先発登板が発表されていたが、試合前にブルペンで腰痛を発症し、出場を回避した[注 17][33]1960年(昭和35年)には15勝を挙げて復調の兆しを見せ、「1年おきのエース」とも言われた[34][1]が、チームは投手陣の崩壊[注 18]により、セ・パ分立後では初のBクラス(5位)に終わる[35]同年のオールスターゲームでは第1戦(川崎球場)・第3戦(後楽園球場)にそれぞれ登板した[36][37]

交通事故・トレード

しかし1960年11月26日、自身の運転する乗用車で滋賀県甲賀郡石部町石部(現:湖南市)の国道1号大阪方面に向けて運転していたところ、前方に停車していたトラックに追突[38]。乗用車は横転し、対向車と激突して大破した[38]。この事故により、乗用車に同乗していた女性2人(24歳・19歳)が全身強打で即死し、自身も頭蓋骨骨折の重傷を負った[注 19][38]。野球の動作に関わる箇所には怪我はなかったが[注 20]、この出来事で精神的ショックを受け、「名古屋にはいられない」とトレードを志願[注 21][2]。12月17日に小淵泰輔とのトレードで西鉄ライオンズへ移籍することが発表された[39]

同年、5位に低迷した中日球団は杉下に代わり、濃人渉新監督[注 22]の就任が決まっていたが、濃人は日鉄二瀬社会人野球)時代に師弟関係にあった小淵の獲得を希望し、投手陣の補強が課題となっていた西鉄[注 23]にトレードを打診[42]。その交換相手として、中日側は12月12日に児玉(旧姓:空谷)・中山・河村保彦の3投手から1人を選ぶよう西鉄側に提示[42]。これに対し、西鉄側は西亦次郎球団社長らフロント最高幹部と、川崎徳次監督による協議の結果、大矢根が先述の事故から「他球団に移籍して出直したい」と志願していることを把握したため、「第1候補は児玉、第2候補は河村。2人が拒否した場合は大矢根を指名する」と決定[43]。直接交渉に入ると、中日側が児玉・河村のトレード要員を撤回したため、大矢根と小淵のトレードが成立した[注 24][43]。この時、中日は大矢根に対し、事故被害者への慰謝料170万円+大矢根自身への功労金200万円を支給している[注 25][43]

中日退団後

西鉄ライオンズ時代(1961年 - 1962年)の背番号は1[49]。環境を変えて心機一転を図ったが[2]、西鉄では在籍2年間でわずか2勝4敗の成績に終わり[43]1962年(昭和37年)限りで現役を引退した[2]

現役引退後は東海ラジオ放送野球解説者に就任し、中日ドラゴンズOB会副会長も務めた[注 26]ほか、愛知県名古屋市内でクラブを経営[注 27]していた[2]。85歳になった2020年令和2年)には自身の連続無失点球団記録を大野が更新したことに伴い、中日球団の親会社である中日新聞社から取材を受け、「自身が球団記録を持っていたことは覚えていなかった」というコメントを発表した[19]

選手としての特徴

思い切りよく内角を突く投球術と、曲がりながら落ちるシュートを武器に活躍した[11]。プロ入り当初は速球カーブを織り交ぜる投球スタイルだったが、杉下からの助言を受けてシュートを習得したことが飛躍につながった[2]。また奪三振は少なく、少ない球数で力よりも技で勝負する投手だった[19]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1954 中日 7 2 0 0 0 2 0 -- -- 1.000 112 27.1 24 1 3 -- 2 12 2 0 8 7 2.25 0.99
1955 32 12 4 2 2 6 5 -- -- .545 577 145.0 123 3 33 2 2 75 4 0 33 25 1.55 1.08
1956 43 30 21 8 7 20 13 -- -- .606 1090 281.1 222 6 43 2 5 119 1 0 60 48 1.53 0.94
1957 29 18 10 4 1 12 7 -- -- .632 639 161.0 123 6 42 3 4 96 0 0 42 41 2.29 1.02
1958 53 38 21 6 4 24 13 -- -- .649 1286 329.2 243 15 93 11 6 147 0 0 67 59 1.61 1.02
1959 12 11 1 0 0 5 1 -- -- .833 273 62.1 66 3 16 0 1 31 0 1 27 21 3.00 1.32
1960 45 28 13 3 0 15 13 -- -- .536 880 216.2 190 15 54 4 2 85 0 0 78 69 2.86 1.13
1961 西鉄 15 11 1 0 0 2 4 -- -- .333 227 52.1 61 2 11 0 1 16 1 0 30 23 3.91 1.38
1962 11 2 0 0 0 0 0 -- -- ---- 85 21.0 24 3 2 0 0 6 1 0 13 13 5.57 1.24
通算:9年 247 152 71 23 14 86 56 -- -- .606 5169 1296.2 1076 54 297 22 23 587 9 1 358 306 2.12 1.06
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 37 (1954年)[12]
  • 19 (1955年 - 1960年)[12]
  • 1 (1961年 - 1962年)[49]

脚注

注釈

  1. ^ a b 中日の投手でシーズン24勝以上を挙げた投手は、大矢根以外では服部・杉下・権藤博小川健太郎の計4人のみである[2]。このうち服部は現役時代の背番号10を中日球団の永久欠番に指定されている[4]ほか、杉下・権藤・小川の3名はいずれも沢村栄治賞(沢村賞)を受賞したことがある[5][6]。なお、服部は1リーグ時代(1949年)に24勝を挙げている[7][8]
  2. ^ この大会前にはクラス対抗のリレー大会に参加したが、その際に腰に全治3か月の重傷を追っていたため、野球の練習はほとんどできていなかった[2]
  3. ^ もし同試合で勝利して決勝戦に進出していた場合、空谷の所属する松山商業高校と対戦するはずだった[2]
  4. ^ 慶應義塾大学早稲田大学が近隣でキャンプを張った際には志願して参加していた[2]
  5. ^ 大矢根自身は2016年に『中日新聞』記者から取材を受けた際、「(現在と比べて)コーチが少なかった」と述べている[11]
  6. ^ 第109試合・中日球場[13]
  7. ^ この試合は途中までパーフェクトで抑えていたが、「早いうちに大記録を出すと潰れる」という言い伝えを聞いていた天知監督は7回ごろ、大矢根に「ヒット打たれろ」と指示[11]。これを受けて大矢根はノーサインで真ん中に投げるようになり、9回に初被安打を記録した直後に杉下に交代した[11]
  8. ^ その後、チームは日本シリーズ西鉄ライオンズを下し、球団史上初の日本一に輝いたが、シリーズでは大矢根の登板機会はなかった[15]
  9. ^ シュートの習得時期は1957年とする文献もある[14]。シュートを投げ始めた動機は、ライバルの空谷が「野茂(英雄)のような投げ方」で、「スピードでは(空谷に)勝てない」と考えたためだった[11]
  10. ^ ただし、防御率は2.00だった[17]
  11. ^ 同年は中山も20勝を挙げ、リーグ4位の防御率1.61を記録したほか、空谷も規定投球回には到達しなかったものの、初の2桁勝利となる11勝を挙げ、防御率1.75を記録した[18]
  12. ^ 渡辺省三(大阪タイガース・防御率1.45)、堀内庄(巨人・防御率1.46)に次ぐ[20]
  13. ^ この間、8月5日(対国鉄スワローズ戦) - 同月19日(対広島カープ戦)の5回まで(計5試合)で、3回の完封勝利を記録した[3]。なおこの無失点記録の継続中、奪三振数は最多でも1試合あたり6だった[19]
  14. ^ 大野は最終的に45イニング(同シーズン時点でNPB単独12位)まで連続無失点記録を伸ばし[22]、同年の沢村賞を受賞した[23]
  15. ^ 同年の規定投球回到達者は中山(23勝・防御率はリーグ3位の1.82)と空谷の2人[25]
  16. ^ 大矢根に次ぐチーム2位の勝利数である[28]
  17. ^ 中山俊丈が代わりにリリーフ扱いで登板[33]。ただし大矢根の登板は記録された[33]
  18. ^ 2年目の板東英二が10勝を挙げたが、児玉(前年20勝)と中山俊丈がともに3勝に終わった[35]
  19. ^ 中日では大矢根以前に石川緑も自動車事故を起こしていた[38]
  20. ^ 頭蓋骨骨折に加え、左手甲ほか全身を打撲したが、右腕には大事はなく[38]、約1か月後(西鉄へのトレード発表時)に西鉄の川崎監督は「もう大丈夫だ。(春の)キャンプからでも投げられそう」とコメントしていた[39]
  21. ^ ベースボール・マガジン社 (2005) は「真のエースへの飛躍が期待されたが、交通事故などが大成を阻んだ」と[14]、ベースボール・マガジン社 (2016) は「交通事故で負傷し、ショックもあって西鉄へ(トレードされた)」と述べている[1]
  22. ^ 濃人は「天知カラー」の一掃を図り、同時期(1960年オフ)に岡嶋博治(→阪急ブレーブス)・伊奈努(→阪神)を相次いで放出した[40]ほか、1961年オフにも森徹(→大洋ホエールズ)・井上登(→南海ホークス)と[41]、生え抜きの主力選手たちを次々と放出していた[2]。また1961年オフには、児玉も捕手の吉沢岳男とともに近鉄バファローズへ放出された[41]。ただし、広瀬いくと (2020) は「大矢根のトレードは事故を受けて大矢根自身が志願したものであり、岡嶋・伊奈らとのトレードと同列に語られるべきではない」と述べている[2]
  23. ^ 西鉄は当時、計算できる投手が稲尾和久しかいなかった[42]
  24. ^ 大矢根は12月15日に名古屋を訪れた西鉄の川崎監督からトレードの話を聞かされて承諾し[39]、同月19日に西鉄球団事務所でトレードに調印した[44]
  25. ^ なお、大矢根は西鉄移籍後の1961年5月11日に業務上過失致死容疑で福岡地検から在宅起訴され[45]、同年6月20日に福岡地裁にて開かれた初公判で「前から来た車のライトに目がくらみ、ブレーキを踏む余裕もなかった」と述べた[46]。これに関し、被告人・大矢根の弁護人は「自動車の運転手は(対向車の)ライトで心神耗弱を起こす」として、交通事故の刑事裁判では初となる鑑定を申し入れた[46]。結局、大矢根は同年7月4日に福岡地検から禁錮8月を求刑され[47]、同月18日に禁錮8月・執行猶予2年の判決を言い渡された[48]
  26. ^ 1999年11月28日の第32回OB会総会で副会長として新任され[50]、2002年11月24日の総会でも再任された(任期は2003年1月1日から2年間)[51]
  27. ^ 2007年に中日が球団史上2回目(大矢根の入団年である1954年以来)となる日本一(日本シリーズ優勝)を達成した際、大矢根は名古屋市中区内でスナックを経営していた[52]

出典

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  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 広瀬いくと「64年前の連続無失点記録ピッチャー・大矢根博臣の足跡:達人に訊け!>広瀬いくとの発掘!B面ドラゴンズ史」『中日新聞Web中日新聞社、2020年10月26日。2020年11月25日閲覧。オリジナルの2020年11月25日時点におけるアーカイブ。
  3. ^ a b c d 【中日】大野雄大が45回連続無失点の球団新…前記録保持者・大矢根投手はどんな選手?」『スポーツ報知報知新聞社、2020年10月23日。2020年11月24日閲覧。オリジナルの2020年11月24日時点におけるアーカイブ。
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  5. ^ ベースボール・マガジン社 2005, p. 153.
  6. ^ 渋谷真「渋谷真コラム・龍の背に乗って 実は今季「世界で最も完投」…大野雄のカギは“防御率と奪三振” 中日で憲伸以来16年ぶり沢村賞なるか」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年10月30日。2020年11月27日閲覧。オリジナルの2020年11月27日時点におけるアーカイブ。
  7. ^ ベースボール・マガジン社 2005, p. 33.
  8. ^ ベースボール・マガジン社 2016, p. 89.
  9. ^ a b 記録集 > ドラゴンズ投手通算リーダーズ(在籍通算)”. 中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト. 中日ドラゴンズ. 2020年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月18日閲覧。
  10. ^ ベースボール・マガジン社 2016, pp. 43–44.
  11. ^ a b c d e f g h 『中日新聞』2016年3月30日朝刊第二運動面26頁「CDの系譜 1954 初の日本一 インタビュー 54年入団 大矢根博臣さん 職人と一緒で見て勉強」(中日新聞社)
  12. ^ a b c d ベースボール・マガジン社 2016, p. 125.
  13. ^ a b ベースボール・マガジン社 2016, p. 100.
  14. ^ a b c d e ベースボール・マガジン社 2005, p. 47.
  15. ^ 中日ドラゴンズ 2016, pp. 84–85.
  16. ^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 88.
  17. ^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 89.
  18. ^ a b ベースボール・マガジン社 2016, p. 41.
  19. ^ a b c d 渋谷真「渋谷真コラム・龍の背に乗って 85歳の楽しみは野球のTV観戦…「そんな記録を私がねぇ」中日・大野雄が掘り起こした64年前の投手」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年10月23日。2020年11月24日閲覧。オリジナルの2020年11月24日時点におけるアーカイブ。
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  21. ^ ベースボール・マガジン社 2013, p. 58.
  22. ^ 中日大野雄大、連続イニング無失点記録45で止まる」『nikkansports.com日刊スポーツ新聞社、2020年10月29日。2020年11月24日閲覧。オリジナルの2020年11月24日時点におけるアーカイブ。
  23. ^ 中日新聞』2020年11月24日朝刊一面1頁「大野雄 初の沢村賞」(中日新聞社)
  24. ^ 5度目の完封勝利の中日・大野雄は無失点36イニングに 34イニング超え球団64年ぶり 31イニング超えは11年浅尾以来」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年10月14日。2020年11月24日閲覧。オリジナルの2020年11月24日時点におけるアーカイブ。
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  26. ^ a b c 朝日新聞』1957年10月13日東京朝刊第12版9頁「大矢根(中日)もノーヒットノーラン 対阪神 セ・リーグ六人目 中日3-0阪神 甲子園(23回戦中日14勝8敗1分)」(朝日新聞東京本社
  27. ^ a b c 無安打無得点試合 (ノーヒットノーラン)”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年11月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月24日閲覧。
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  52. ^ 『中日新聞』2007年11月2日朝刊第一社会面39頁「07年竜 日本一 1954年日本一OB 『亡くなった仲間たちに見せたい』 『人生最良の瞬間』」(中日新聞社)
  53. ^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 84.
  54. ^ a b 中日ドラゴンズ 2016, p. 253.

参考文献

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  • 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑【昭和11年→平成4年】』(第1刷発行)講談社(印刷所:廣済堂)、1993年8月1日。ISBN 978-4062061087 
  • 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』ベースボール・マガジン社〈スポーツシリーズNo.234〉、2005年6月1日、47頁。ISBN 978-4583613246  - 『B・B MOOK』350
  • 『完全保存版 日本プロ野球偉人伝 vol.4 (1956→58編) 球史を彩るスーパースターたちの伝説 西鉄黄金時代の44人』 4巻、ベースボール・マガジン社〈球史発掘シリーズ〉、2013年7月17日、58頁, 76頁頁。ISBN 978-4583620107  - 『B・B MOOK』951
  • 中日ドラゴンズ(編集)、中日スポーツ(企画協力) 編『中日ドラゴンズ80年史』(初版第1刷)中日新聞社(発行者:白井文吾)、2016年3月18日。ISBN 978-4806207009 
  • 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ80年史 シリーズ3 1936-1973』ベースボール・マガジン社、2016年6月2日、44頁。ISBN 978-4583624440  - 『B・B MOOK』1310

関連項目

外部リンク