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「明応の政変」の版間の差分

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'''明応の政変'''(めいおうのせいへん)は、[[室町時代]]の[[明応]]2年([[1493年]]に起こた[[足利将軍家|足利]][[征夷大将軍|将軍]]廃立事件である。なお、近年の日本史学界においては[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の始期をこの事件に求める説がある
'''明応の政変'''(めいおうのせいへん)は、[[室町時代]]の[[明応]]2年([[1493年]])4月[[細川政元]]が起こた[[室町幕府]]における[[征夷大将軍|将軍]]の擁廃立事件。

この政変により、将軍は[[足利義稙|足利義材]](義稙)から[[足利義澄|足利義遐]](義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の[[日本史]]学界においては[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の始期をこの事件に求める説がある。


== 経緯 ==
== 経緯 ==
=== 将軍位を巡る争い ===
=== 将軍位を巡る争い ===
[[File:Ashikaga Yoshitane statue.jpg|thumb|right|230px|足利義材]]
[[足利義稙|足利義材]]は、[[応仁の乱]]で西軍の盟主に擁立された[[足利義視|義視]]の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に[[土岐成頼]]を頼って[[美濃国|美濃]]へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍[[足利義尚|義尚]]は[[守護大名]]や[[奉公衆]]を率い、[[六角高頼]]討伐([[長享・延徳の乱]])のため[[近江国|近江]]へ親征するが、果たせないまま[[長享]]3年([[1489年]])3月に近江で病死する。
[[足利義稙|足利義材]]は、[[応仁の乱]]で西軍の盟主に擁立された[[足利義視|義視]]の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に[[土岐成頼]]を頼って[[美濃国|美濃]]へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍[[足利義尚|義尚]]は[[守護大名]]や[[奉公衆]]を率い、[[六角高頼|六角行高]](高頼)討伐([[長享・延徳の乱]])のため[[近江国|近江]]へ[[親征]]するが、果たせないまま[[長享]]3年([[1489年]])3月に近江で病死する。


義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍[[足利義政]]や[[細川政元]]などは、[[堀越公方]][[足利政知]]の子で[[天龍寺]]香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃([[足利義澄]])を推す。しかし、[[日野富子]]が甥(妹の子)である義材を後援し、翌[[延徳]]2年([[1490年]])に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定する。
義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍[[足利義政]]や[[管領]][[細川政元]]などは、[[堀越公方]][[足利政知]]の子で[[天龍寺]]香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃([[足利義澄]])を推す。しかし、[[日野富子]]が甥(妹の子)である義材を後援し、翌[[延徳]]2年([[1490年]])正月に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定し、7月5日に正式に[[朝廷]]から将軍に任命された<ref name=“山田2016-57”>山田、57頁</ref>。日野富子は義政の御台所、義尚の生母であり、将軍家に嫁いで40年近くになり、その間将軍に代わって政務を取り仕切ることもあった<ref name=“山田2016-55”>山田、55頁</ref>。将軍家を代表するような人物でもあった彼女の支持は義稙の将軍就任に大きな意味を持ち<ref name=“山田2016-55”/>、実際に義材の家督継承を朝廷へ報告したのも彼女であった<ref name=“山田2016-54”>山田、54頁</ref>


この決定に反対した政元や[[伊勢貞宗]]らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した<ref>伊勢貞宗は前将軍足利義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし日野富子の信任が厚かった。また、その父[[伊勢貞親]]は[[文正の政変]]の際に義尚のために義視殺を計画したことがあり、義材の将軍就任後に後難を恐れたためと言われている。これは、応仁の乱で義尚を支持した人々が共有する危機感であった。</ref>。ところが奇しくも同じ日に日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川殿を譲渡することを決めた。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、翌月には富子に無断で小川殿を破却した。富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。
この決定に反対した政元や[[伊勢貞宗]]らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した貞宗は前将軍義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし日野富子の信任が厚かった。また、その父[[伊勢貞親]]は[[文正の政変]]の際に義尚のために義視殺義政に進言したことがあり<ref name=“山田2016-26”>山田、26頁</ref>、義材の将軍就任後に後難を恐れたためと言われている。これは、応仁の乱で義尚を支持した人々が共有する危機感であった。


ところが奇しくも同じ日、日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた[[小川御所]](小川殿)を譲渡することを決めた<ref name=“山田2016-56”>山田、56頁</ref>。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、翌月には富子に無断で小川御所を破却し、その所領を差し押さえた<ref name=“山田2016-55”/>。富子が清晃のために小川御所を譲渡しようとした背景には、いきなり権力の座に就いた義材や義視が暴走しないように牽制する意図があったとされる<ref name=“山田2016-55”/>。その後、富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。
義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、[[丹波国|丹波]]、[[山城国|山城]]など、畿内における[[国一揆]]に対応するため、延徳3年([[1491年]])に政元の反対を押し切って近江国の六角高頼討伐を再開するなど軍事的強化を図った。


=== クーデター ===
=== 六角征伐と河内征伐===
義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、[[丹波国|丹波]]、[[山城国|山城]]など、畿内における[[国一揆]]に対応するため、延徳3年([[1491年]])4月に近江の六角行高討伐の大号令を発し、軍事的強化を図った。この六角征伐は細川一門をはじめ多くの大名が参加し、圧倒的な武力で行高を甲賀へ、さらに伊勢へと追い払い、成功裡に終わった<ref>山田、61-66頁</ref>。また、政元がこの征伐に反対したことや<ref>『大乗院寺社雑事記』延徳3年8月7日条</ref>、征伐中に政元の武将・[[安富元家]]が六角軍に大敗したことから、義材は政元への依存を減らすため、以後はほかの大名を頼るようになった<ref name=“山田2016-93”>山田、93頁</ref>。
明応2年(1493年)、元[[管領]][[畠山政長]]は敵対する[[畠山義豊|畠山基家]]([[畠山義就]]の子)の討伐のため、義材に[[河内国|河内]]親征を要請する。政元は先の近江親征に続いてこの討伐にも反対するが、[[畠山氏]]の家督問題を政長優位の下で解決させるため、2月15日に義材は討伐軍を進発させた。このため、義材と政元の対立が深刻化し、後に義材はかつて政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して近江出兵と河内出兵と2度も大規模な軍事作戦を行ったことで、今度は義材が政元を討つという話が出たためにクーデターが起きたという説<ref>『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月10日条。</ref>が記録されている。


[[明応]]2年([[1493年]])正月、義材は[[河内国|河内]]の[[畠山義豊|畠山基家]](義豊)を討伐するために大号令を発し、再び大名たちへ出兵を要請した<ref name=“山田2016-67”>山田、67頁</ref>。そして、京には義稙の命令を受けた大名が多数参陣したが、政元は河内征伐に反対し、この出兵に応じなかった<ref name=“山田2016-67”/><ref name=“山田2016-92”>山田、92頁</ref>。
政元は、義材に不満を抱き始めた富子や[[赤松政則]]、伊勢貞宗を抱き込み、4月22日夜に清晃を還俗させて11代将軍に擁立して[[クーデター]]を決行、更に富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って(「悉皆指南被申」<ref>『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月4日条。</ref>。)、政元に京都を制圧させ、その兵に義材の弟[[周嘉|慈照院周嘉]]らが殺害された。この報によって義材勢は動揺し、その上伊勢貞宗から義材に同行する守護や奉公衆・奉行衆に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」<ref>[[近衛政家]]『[[後法興院記]]』明応2年6月11日条。</ref>が送られると、27日までに義材の側近であった者も含めてほとんどが京都に帰還してしまい、義材勢は崩壊してしまった<ref>『[[親長卿記]]』明応2年4月26日条及び『後法興院記』・『[[蔭凉軒日録]]』明応2年4月27日条。</ref>。


これは元管領であった[[畠山政長]]が敵対する基家の討伐のため、義材に河内への親征を要請したことに起因する。政長は応仁の乱で従兄弟の[[畠山義就]]と家督をめぐって激しく争い、義就の死後はその息子の基家と争いを続けるなど、畠山氏は一族・家臣が尾州家と総州家で二分して争っていた<ref name=“山田2016-94”>山田、94頁</ref>。義材は二分された畠山氏の家督問題を政長優位の下で解決させるため、そして政元への依存を減らすため、政長の願いを聞き入れる形でこの出兵に応じた<ref>山田、93-94頁</ref>。
一方、この報が朝廷に届けられると、[[後土御門天皇]]は[[申次]][[白川忠富王|白川忠富]]に命じて、[[勧修寺教秀]]・[[甘露寺親長]]・[[三条西実隆]]という3名の老臣を招集した。天皇はこの事態に憤慨するとともに[[後柏原天皇|勝仁親王]]も成人したので譲位をしたいと述べた。これに忠富と親長が反対し、親長は今回の件は武家(幕府)の問題なので朝廷が関わる事ではなく、儲君への譲位も武家側に言わせれば良いと述べたために天皇らも同意した<ref>『親長卿記』明応2年4月23日条</ref>。朝廷は4月24日から5日間の阿弥陀経談義を予定通り開催し、天皇も聴聞することを理由に政変に対する判断を先送りし、28日になって細川政元が御訪(必要経費の献金)を行ったことで、清晃改め義遐は従五位下に叙された。この時、宣下に関わった親長は「御訪を給わざれば相い従うべからず」と述べて御訪300疋と引換に[[叙位]]は行ったものの、政元が将軍宣下に必要な費用までは揃えられなかったためにこちらは見送られた<ref>『親長卿記』明応2年4月28日条</ref>。当時は朝廷の運営に御訪は不可欠で、政元が掌握した幕府からの御訪なくしては天皇の譲位は実現できない反面、政元と言えども御訪が揃えられないと朝廷を動かせなかったという公武関係の実情を伺わせている。


政元は先の六角征伐に続いてこの討伐にも反対していたが、それには次のような理由があった。畠山氏は細川氏と同じ管領に就任しうる有力な大名家であるが、その畠山氏が二分され勢力が減退してゆくのは政元ら細川氏にとって好都合であった。そのため、応仁の乱で政元の父・[[細川勝元|勝元]]はこの家督争いに介入、尾州家の政長を支持して総州家の義就と争わせることで畠山氏の力を削ごうとした。だが、義材の河内征伐により、政長のもとで畠山氏が再統一されると、再び強大化した畠山氏が細川氏を脅かす可能性があった<ref name=“山田2016-92”/>。再統一された畠山氏は同じく畿内に勢力を持つ政元にとって、「新たなる強敵」の出現に他ならなかった<ref name=“山田2016-92”/>。
閏4月に入って[[若狭国]]の[[武田元信]]が上洛して政元に合流し、赤松政則と[[大内義興]]<ref>[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]守護・[[大内政弘]]の子。父の名代として河内出兵に参加していた。なお、閏4月1日に京都にいた義興の実妹が武田元信配下に誘拐される事件が発生しており(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)、細川政元・武田元信が応仁の乱の時に義視・義材父子を擁して最後まで西軍として戦った大内政弘が義材に加担するのを阻止するために、義興の妹(=政弘の娘)を人質に取って、政変に同意させたとする説もある(藤井崇『大内義興』戎光祥出版、2014年、P40-41)。</ref>が義遐を義材の猶子にして後を継がせる仲介案を出して事態の収拾を図ろうとして失敗している<ref>『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月19日条。</ref>。同月25日に政元の攻撃によって政長が敗死すると、政長とともに正覚寺にて抵抗を続けていた義材は足利家伝来の「御小袖」(甲冑)と「御剣」を携えて[[上原元秀]]の陣に投降して京都[[龍安寺]]にて幽閉されることとなった。また、父以来の側近であった公家の[[葉室光忠]]も処刑された。


結局、義材は政元の反対を振り切り、2月15日に討伐軍を京から河内に進発させた<ref name=“山田2016-67”/>。そして、2月24日に義材は河内の[[正覚寺 (大阪市平野区)|正覚寺]]に入り、ここを本陣とした<ref name=“山田2016-67”/>。大名らもまた、畠山基家が籠城している[[高屋城]](誉田城)周辺に陣を敷き、城を包囲した。そのため、基家方の小城は次々に陥落し、3月の段階で基家は孤立を余儀なくされ、義材や政長の勝利は目前となった<ref>山田、61頁</ref>。
同年6月、幽閉されていた義材は、側近らの手引きで[[越中国|越中]][[射水郡]][[放生津]]へ下向し、政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・[[神保長誠]]を頼った。さらに、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従った([[越中公方]])。


だが、政元は畠山氏の再統一を避けるため、政長の宿敵たる基家と結託した。すでに政元は河内征伐の開始直前までに基家の家臣と接触しており、[[興福寺]]の[[尋尊]]の記録では基家の重臣が河内征伐の直前、「将軍が攻めてきてもこちらは何ら問題はない。なぜならば、伊勢貞宗以下、大名らとはすでに話がついているからだ」と豪語していたと記している(『大乗院寺社雑事記』明応2年2月23日条)<ref>山田、72頁</ref>。また、義材に不満を抱き始めた伊勢貞宗をはじめ、[[赤松政則]]といった大名、そして日野富子までを味方に引き入れ、クーデター計画を着々と練っていた。
== 影響 ==
この政変で政元は幕政を掌握し、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊し傀儡化した将軍権力は、幕府公権の二分化により弱体化した。これにより、二流に分かれた将軍家を擁した抗争が各地で続くこととなった<ref>明応の政変以後の将軍家には「義稙系(義材/義稙-(義維)-義栄)」と「義澄系(義澄-義晴-義輝-義昭)」の2系統が成立していずれも足利将軍家当主の別称である「室町殿」「公方」「大樹」などと呼称され、その分裂は幕府末期まで継続される。</ref>。以後、幕政は[[細川氏]]の権力により支えられる事となる。ただし、その後政変を推進し、[[伊勢氏]]との協調を唱えてきた細川氏重臣[[上原元秀]]が[[暗殺]]されるなど、細川氏内部でも政変に対する動揺が発生していた。


==経過==
その一方で、幕府[[政所]]頭人で山城[[守護]][[伊勢貞陸]](貞宗の子)が京都に残留した幕府の官僚組織を掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の[[奉書]]作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。これに関連して明応の政変直後に貞陸が義材派の反撃に対抗することを名目に[[山城国一揆]]を主導してきた[[国人]]層を懐柔して山城の[[一円支配]]を目指し、政元も対抗策として同様の措置を採った。このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆は解散に追い込まれる事になった。
===政元のクーデター===
[[File:Hosokawa Masamoto.jpg|thumb|right|230px|細川政元]]
4月22日夜、政元はついに挙兵、[[クーデター]]を決行した。清晃をすぐ遊初軒に向かえ入れて保護し、義材の関係者邸宅へと兵を向けた<ref name=“山田2016-74”>山田、74頁</ref>。その兵によって、23日には義材の関係者邸宅のみならず、義材の弟や妹の入寺する寺院が襲撃・破壊され<ref name=“山田2016-74”/>、弟の一人[[周嘉|慈照院周嘉]]らが殺害された。更に当時の記録によると、富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って<ref>『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月4日条には、「悉皆指南被申」とある。</ref>、政元に京都を制圧させたと記録されている。


同日、政元は義材を廃して清晃を新将軍に擁立すること、また政長を河内守護職から解任すること公表し、事態を収めようとした<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=zMMyAQAAIAAJ&q=%E6%94%BF%E9%95%B7 大阪市の歴史]、113頁</ref>。そして、4月28日に政元は清晃を還俗させて義遐(よしとお)と名乗らせ、11代将軍として擁立した<ref name=“山田2016-74”/>。義遐はのちに名を義高、義澄と改めている。
さらに近年では、同年に発生した[[今川氏親]]の家臣伊勢宗瑞([[北条早雲]])の[[伊豆国|伊豆]]侵攻が、義澄に叛逆した異母兄である堀越公方[[足利茶々丸]]を倒すために、政元や[[上杉定正]]と連携して行われたとする見方が有力になっている(早雲と伊勢貞宗は従兄弟に当たる)。


この報を聞いた義材や諸大名、奉公衆・奉行衆ら将軍直臣は激しく動揺し、その上伊勢貞宗から義材に同行する大名や奉公衆ら将軍直臣に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」<ref>[[近衛政家]]『[[後法興院記]]』明応2年6月11日条。</ref>が送られると、大名や将軍直臣は27日までにほとんどが河内から京都に帰還してしまった<ref>『[[親長卿記]]』明応2年4月26日条及び『後法興院記』・『[[蔭凉軒日録]]』明応2年4月27日条。</ref><ref>山田、90頁</ref>。その後、直臣は京の義遐のもとへと参集し、大名も畠山政長を除いて義材を支援した者はいなかった<ref>山田、75頁</ref>。
このように、明応の政変は中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と[[下克上]]の動きを恒常化させる契機となる、重大な分岐点であり、応仁の乱と並び、戦国時代の始期とされることが多い。

赤松政則は政元のクーデター直後、先の六角征伐に積極的に協力し義材と親密な関係にあったことから、「政元ではなく義材に味方するのではないか」と囁かれていた<ref name=“山田2016-76” />。だが、政則は政元の挙兵前に彼の姉と結婚していたため、緊密な関係を構築していた。それゆえ、政則は最終的に政元へ味方することを決したのであった<ref name=“山田2016-76” />。

[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]守護・[[大内政弘]]の息子で、父の名代として河内出兵に参加していた[[大内義興]]も政元に味方している。なお、閏4月1日に京都にいた義興の実妹が[[若狭国]]の[[武田元信]]配下に誘拐される事件が発生しており(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)、細川政元・武田元信が応仁の乱の時に義視・義材父子を擁して最後まで西軍として戦った大内政弘が義材に加担するのを阻止するために、義興の妹(=政弘の娘)を人質に取って、政変に同意させたとする説もある<ref>藤井崇『大内義興』戎光祥出版、2014年、P40-41</ref>。

しかし、大名らが帰還したとはいえど、義材にはまだ政長の兵8,000がおり、残された軍勢も依然として意気盛んで、徹底抗戦の構えを見せていた<ref>山田、75-76頁</ref>。閏4月に入って武田元信が若狭から上洛して政元に合流し、赤松政則と大内義興が義遐を義材の猶子にして後を継がせる仲介案を出して事態の収拾を図ろうとしているが、これは失敗している<ref>『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月19日条。</ref>。

===朝廷の対応===
23日、政元はクーデターを朝廷へ報告した<ref name=“山田2016-91”>山田、91頁</ref>。その理由として、自分が義材に河内征伐を反対したのに受け入れられなかったことを掲げ、ゆえに挙兵して義材を廃し、義澄を擁立したのである、と説明した<ref name=“山田2016-91” />。

一方、朝廷ではこの将軍擁廃立のクーデターを受けて、[[後土御門天皇]]が[[申次]][[白川忠富王|白川忠富]]に命じて、[[勧修寺教秀]]・[[甘露寺親長]]・[[三条西実隆]]という3名の老臣を招集した。天皇は自分の任じた将軍が廃されるという事態に憤慨するとともに、[[後柏原天皇|勝仁親王]]も成人したので譲位をしたいと述べた。これに忠富と親長が反対し、親長は今回の件は武家(幕府)の問題なので朝廷が関わる事ではなく、儲君への譲位も武家側に言わせれば良いと述べたため、天皇も思いとどまった<ref>『親長卿記』明応2年4月23日条</ref>。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したからとも言われている。

朝廷は4月24日から5日間の阿弥陀経談義を予定通り開催し、天皇も聴聞することを理由に政変に対する判断を先送りし、28日になって細川政元が[[御訪]](必要経費の献金)を行ったことで、清晃改め義遐は従五位下に叙された。この時、宣下に関わった親長は「御訪を給わざれば相い従うべからず」と述べて御訪300疋と引換に[[叙位]]は行ったものの、政元が将軍宣下に必要な費用までは揃えられなかったためにこちらは見送られた<ref>『親長卿記』明応2年4月28日条</ref>。

当時、朝廷の運営に御訪は不可欠で、政元が掌握した幕府からの御訪なくしては天皇の譲位は実現できない反面、政元といえども御訪が揃えられないと朝廷を動かせなかったという公武関係の実情を伺わせている。

===政長の死・義材の降伏===
その後、閏4月7日に政元は政長討伐のため、[[上原元秀]]、安富元家からなる軍勢を京から河内へと派遣した<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=UMNMAQAAIAAJ&q=%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%85%83%E7%A7%80%E3%80%81%E5%AE%89%E5%AF%8C%E5%85%83%E5%AE%B6%E3%80%80%E6%B2%B3%E5%86%85&dq=%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%85%83%E7%A7%80%E3%80%81%E5%AE%89%E5%AF%8C%E5%85%83%E5%AE%B6%E3%80%80%E6%B2%B3%E5%86%85&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiBiPT8vP7XAhXMi7wKHY38D-8Q6AEIJzAA 戦国期歴代細川氏の研究]、17頁</ref>。また、基家も高屋城から出撃、政元に与する大名らも味方して、その兵力は4万に上ったという。

一方、義材と政長は細川軍に追い詰められ、正覚寺に籠城したが、依然として徹底抗戦の構えを貫いていた。正覚寺には100余りの櫓を立て、一番高い櫓に義材の御座所を置くなど、寺を城塞化して守りを固めていた(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月19日条)<ref name=“山田2016-76”>山田、76頁</ref>。

やがて、同月中旬に政長の両国の一つ・紀伊から数千から1万ともいわれる大軍が正覚寺城に向けて出発した<ref name=“山田2016-76”/>。だが、紀州勢はその途上の堺で、赤松政則によって足止めを喰らった<ref name=“山田2016-76” />。

その後、紀州勢はと赤松勢は堺で対峙し、「通せ」「通さぬ」の問答を始めたが、同月21日に戦闘が開始された<ref> 福島克彦[https://books.google.co.jp/books?id=TqoyAQAAIAAJ&q=%E6%94%BF%E9%95%B7+%E6%AD%A3%E8%A6%9A%E5%AF%BA+1%E4%B8%87&dq=%E6%94%BF%E9%95%B7+%E6%AD%A3%E8%A6%9A%E5%AF%BA+1%E4%B8%87&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjT3YPJ6_7XAhVHVLwKHeP3B14Q6AEILDAB 『畿内・近国の戦国合戦』]、55頁</ref><ref name=“山田2016-77”>山田、77頁</ref>。紀州勢は海に数十の軍船を並べて陸の軍勢と連携し、赤松軍を激しく攻めた。一方、赤松軍は政則自らが出陣して奮戦、数時間に及ぶ戦いの末に紀州勢が敗北した<ref name=“山田2016-77” />。

頼みの綱であった紀州勢が堺で敗北したことは、義材と政長に衝撃を与えた。紀州勢が勝利すれば政変そのもの覆させる可能性もあったが、その望みが消え去り、またすでに正覚寺城の食料も尽きかけていたこともあって、政長は大いに絶望した<ref name=“山田2016-77” />。

同月24日、包囲軍は正覚寺に総攻撃を開始し、25日朝に正覚寺城は陥落、政長は重臣らとともに自害し果てた<ref name=“山田2016-78”>山田、78頁</ref><ref> [https://books.google.co.jp/books?id=zMMyAQAAIAAJ&q=%E6%94%BF%E9%95%B7 大阪市の歴史]、113頁</ref>。政長の自害後、同日に義材とその側近らも足利家伝来の「御小袖」(甲冑)と「御剣」を携えて上原元秀の陣に投降し、その身柄は京へ送られ、[[龍安寺]]にて幽閉されることとなった<ref name=“山田2016-78”/>。

また、[[4月29日 (旧暦)|29日]]に公家の[[葉室光忠]]が政元の命を受けた上原元秀によって殺害された<ref name=“朝日日本歴史人物事典”>「葉室光忠」『朝日日本歴史人物事典』</ref>。光忠は父の義視以来の側近で、義材からも重用され、[[明応]]2年にはその奏請によって上首18人(現任8人、前官10人)を超越して権大納言に任じられるなど<ref name=“朝日日本歴史人物事典”>「葉室光忠」『朝日日本歴史人物事典』</ref>、一時的ではあるが[[摂家]]・[[寺院]]・[[管領]]などを凌ぐ権勢を握っていた。政元でさえ光忠の申次を通さずには義材に具申できない有様であり、政元にとっては政長同様に排除すべき存在でもあった。京の葉室邸もまた、政元の挙兵時に破却されている<ref name=“山田2016-74”/>。

政長の嫡子・[[畠山尚順|尚順]]は畠山家の後継者の地位から一転、父が自害する前にひとり正覚寺城から紀伊に落ちのびねばならなかった<ref name=“山田2016-78”/><ref name=“山田2016-110”>山田、110頁</ref>。正覚寺城を包囲していた細川方は尚順を捕捉することができず、同年9月10日には上原元秀が尾州家の家臣である遊佐某と婚姻関係に有った[[住吉大社]]の神主・[[津守国則]]に尚順を匿った疑いをかけて、住吉大社に放火し、国則を追放している<ref name="院記">院記</ref>。

==政変の原因==
政元が義材に反逆した最大の原因は、義材が政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して六角征伐と河内征伐と2度も大規模な軍事作戦を行ったことであった<ref name=“山田2016-95”>山田、95頁</ref>。これは政元自らが朝廷に報告したことや、尋尊の記録からうかがい知ることができる<ref name=“山田2016-91” /><ref>『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月10日条</ref>。

そもそも、河内征伐は義材が畠山政長の求めに応じて決めたことであった<ref name=“山田2016-92”/>。先述したように、政元にとって畠山氏の再統一は阻止しなければならない話であったが、義材はその反対を無視した<ref name=“山田2016-92” />。義材としては政元一人に対する依存を減らすために政長に接近、ここで彼に恩を売ってその忠誠を獲得するという思惑があった<ref name=“山田2016-93” />。そして、基家は滅亡寸前にまで追いやられ、もはや畠山氏の再統一は目前に迫っていた<ref name=“山田2016-92”/>。父の代から勢力を削ぐことに注力してきた畠山氏が畿内の有力大名として復活するのは時間の問題であり、政元はクーデターを起こしてでも河内征伐を実力で中止に追い込む必要があった<ref name=“山田2016-92” />。そのことが、政元が裏で基家と結託したことに繋がったと考えられる<ref name=“山田2016-92” />。

また、義材は政元の排除を計画していたとされ、尋尊は政変の原因に関して、義材が自分の政策に反対する政元を討とうとしたことが原因であると記している<ref>『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月10日条</ref>。実際、義材は政元の対抗馬として、細川一族の最有力庶家・阿波細川氏の当主[[細川義春]]を急速に重用していた<ref name=“山田2016-94” />。例えば、延徳3年6月、義材は義春に将軍家通字の「義」を与え、「義春」と名乗ることを許している<ref name=“山田2016-94” />。細川氏が偏諱として与えられていたのは下の字であり、阿波細川氏はもとより、京兆家の当主ですらこれまで「義」の字を名乗ることは許されていなかったのであるから、これは異例の殊遇であった<ref name=“山田2016-94” />。また、義材は三条御所から一条油小路にあった細川義春の邸宅に居を移して、その寵愛ぶりを見せ、政元の対抗馬として着実にその地位を上げさせた<ref name=“山田2016-94” />。

義春の地位の上昇のみならず、義材自身の権威の上昇も相まって政元を追い詰めていった。義材はもともと将軍になれるはずではなかったが、義尚の死で思いがけず将軍になったため、将軍直臣や大名たちとの結びつきが薄く、周囲の人々にその器量を示す必要があった<ref name=“山田2016-69”>山田、69頁</ref><ref name=“山田2016-71”>山田、71頁</ref>。それこそ、義材が政元の反対を押し切ってでも戦い続けなければならない理由でもあった。そして、義材は最前線でその武勇を示し、義尚がなしえなかった六角征伐を成功、さらには河内征伐をも成功させようとして、その権威を上昇させた<ref name=“山田2016-71”/>。その権威の上昇に伴い、天下の政治は義材を中心に回りつつあった一方、政元は周囲から孤立を深めていったことは想像に難くない<ref name=“山田2016-95”/>。そして、義材が政元を冷遇し、政長や義春に接近していったのであるから、政元がいずれ義材や政長といった与力大名らに自分が討たれるという恐怖に駆られたとしても不思議でなく、それが政元を将軍廃立のクーデターに駆り立てた直接的な理由であったとも指摘されている<ref name=“山田2016-95”/>。

大名らが六角征伐と河内征伐に参加した理由は、将軍に忠誠心を見せることができたことや、自身が危機に陥った時に将軍の名の下で諸大名からなる大軍の加勢が期待できたからであった<ref>山田、81頁</ref>。実際、[[斯波義寛]]は応仁の乱で[[朝倉氏]]に奪われた越前の奪還を要請しており、義材はこれに応じ、河内征伐の後は自ら越前征伐を実行しようとしていたといわれる<ref name=“山田2016-68”>山田、68頁</ref>。実際、義材が越前征伐の大号令を掛ければ、諸大名が動員され、朝倉氏が滅ぼされる可能性も十分にあった<ref name=“山田2016-68”/>。

だが、義材が立て続けに2度の出兵を求めたことが、大名らに莫大な戦費や兵糧の負担を強いたことは明らかであった。例えば、大内氏は六角征伐の際に国許から運び入れた兵糧が1万6千石にも及んだとされる<ref name=“山田2016-82”>山田、82頁</ref>。河内征伐の次に計画されていた越前征伐もまた、大名らに負担を強いることは目に見えていた<ref name=“山田2016-82”/>。その結果、大名らに厭戦気分が広まり、そして政元が政変を起こして二者択一の選択肢を迫られると、政長以外は皆義材から離れていったと推測される<ref name=“山田2016-82”/>。

日野富子も政変に関与し、政元の擁立した義澄の支持に回ったが、それには以下の理由があった。彼女は将軍家を代表する人物でもあり、常々義材の権力の暴走を危惧していた<ref name=“山田2016-89”>山田、89頁</ref>。父の義視が小川御所を破却した時からすでにその心配はあったが、義材は立て続けに負担の大きい外征への出兵を大名らに求めたため、大名らは次第に幕府に不満を抱いていった<ref name=“山田2016-89”/>。義材がこのまま将軍であり続けたら、越前征伐をはじめ連続して外征が行われる可能性があり、大名がさらなる不満を抱くのは必至で、長年将軍家を担ってきた富子は幕府の存立に重大な危機が迫っていることを感じだと推測される<ref name=“山田2016-89”/>。最終的に義材の廃立を決断したのは政元ではなく、富子であったとする説もある<ref name=“山田2016-89”/>。

将軍の直臣すらも義材を見捨てたのは、富子や政所の伊勢貞宗の影響があったからだという<ref name=“山田2016-89”/>。富子は先述したように、将軍家を代表する人物でもあり、義材の将軍決定もまた彼女の支持によるものであった<ref name=“山田2016-55”/>。そのため、富子が義材の廃立を決めたことは、直臣らの意思決定に大きな影響を与えたことであろうと考えられる<ref name=“山田2016-84”>山田、84頁</ref>。貞宗は政元と同様に基家の家臣と接触していたし、また河内遠征に従軍していた大名や将軍直臣が内容不明の謀書によって義材を見捨てたことは先にも取り上げた。また、政変の1か月前に基家に将軍擁廃立の陰謀が伝えられていたという記録があることから、貞宗は明らかに義澄擁立の事前工作を進めていた<ref name=“山田2016-89”/>。貞宗の行動も義澄の擁立に大きく貢献したと推測でき、実際に義澄は貞宗に「政務を全て委ねる」と言ったほどであった<ref name=“山田2016-89”/>。

政元の行為は旧来の秩序が破壊されつつあったこの時代でも明らかな反逆であり、「主従は三世の契り」という言葉があるように主君たる義材は政元にとって尊重すべき存在であった<ref name=“山田2016-86”>山田、86頁</ref>。だが、日野富子が将軍家という「家」に関にするこの行為を認めたことは大きく、政変に正当性を与え、結果的に大名や将軍直臣らが義稙を見捨て、義遐に付く流れを形成したといえよう<ref name=“山田2016-86”/>。この政変は決して政元一人で成し得たものではなく、日野富子や伊勢貞宗の協力があって成し得ることができたものであった<ref name=“山田2016-90”/>。

== 影響とその後==
この政変で政元は幕政を掌握したが、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊し傀儡化した将軍権力は以後、幕政は政元をはじめ[[細川氏]]の権力により支えられる事となる。但し、以後も幕府権力は存続していたとする見方もあり、伊勢貞宗は日野富子の意向で将軍義澄の後見役を務め、度々政元の行動を抑止している。また、政元の命を受け政変を主導していた政元家臣の京兆家内衆である丹波守護代の上原元秀が急死、京兆家内で政変に消極的な家臣が多数を占めるようになると、京兆家はなるべく幕府の意向を容認、前将軍義材派の巻き返しを用心する方向に切り替えたため、政変後の幕府と京兆家は協調関係に入っていたのではないかとする意見もある。

京都に残留した幕府の官僚組織は、政元ではなく幕府[[政所]]頭人で山城[[守護]][[伊勢貞陸]](貞宗の子)が掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の[[奉書]]作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。これに関連して明応の政変直後に貞陸が義材派の反撃に対抗することを名目に[[山城国一揆]]を主導してきた[[国人]]層を懐柔して山城の[[一円支配]]を目指し、政元も対抗策として同様の措置を採った。このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆は解散に追い込まれる事になった。

畠山氏は政長が自害したことで尾州家が没落、政元に支持された総州家の基家が家督を継承した。基家はすかさず尚順が逃げた紀伊を攻めたが、これは撃退されており、尾州家と総州家の分裂は依然として解消されなかった。

さらに近年では、同年に発生した[[今川氏親]]の家臣伊勢宗瑞([[北条早雲]])の[[伊豆国|伊豆]]侵攻が、義澄に叛逆した異母兄である堀越公方[[足利茶々丸]]を倒すために、政元や[[上杉定正]]と連携して行われたとする見方が有力になっている。早雲と伊勢貞宗は従兄弟に当たる関係で、彼は京とも緊密に連絡を取り合っていた。

同年6月29日夜、京の上原元秀の屋敷に幽閉されていた義材は、側近らの手引きで[[越中国|越中]][[射水郡]][[放生津]]へ下向し、政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・[[神保長誠]]に迎え入れられた<ref>山田、98-99頁</ref>。さらに、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従い、正光寺を御所とした([[越中公方]])。これにより、幕府公権は二分化され、二つに分かれた将軍家を擁した抗争が各地で続くこととなった。

義材は政元討伐の檄を発し、これにより能登畠山氏、越前朝倉氏、越後上杉氏、加賀富樫氏などの大名が参列して忠誠を誓い、九州の大友氏をはじめとする遠国の大名も協力の意思を示した<ref>山田、99頁</ref>。細川政元はただちに越中に軍を派遣したが、明応2年9月中旬に越中勢との戦いで大敗北を喫し、追い払われた<ref>山田、99-100頁</ref>。この結果、越中とその周辺は完全に義材方となり、京の幕府は迂闊に手を出せなくなってしまった。のち、明応7年([[1498年]])9月に義材は越中を出て、越前の朝倉氏を頼り、この際に義尹に名を改めている<ref>山田、108頁</ref>。

政元の憂慮はこれだけにとどまらなかった。正覚寺城陥落後、紀伊に逃れていた畠山尚順が政元方の基家に粘り強く抵抗しつつも力を蓄え、ついに明応8年([[1499年]])2月に基家を討ち、父の無念を晴らしたのである<ref name=“山田2016-110”/>。尚順は紀伊から河内にいたる京の南方一帯に一大勢力を築き、越前の義尹と連絡を取り合いながら京を伺うなど、細川方の脅威となった<ref name=“山田2016-110”/>。

明応8年9月以降、義材と尚順は連携してそれぞれ越前と河内から京を挟撃しようとしたが、政元は苦戦の末に義尹を破り、義材は周防の大内氏のもとへと逃げた。その後、尚順も挟撃作戦が失敗したことで紀伊へと引き上げたが<ref>山田、120頁</ref>、義尹と尚順は依然として政元の脅威であり続けた。また、政元が傀儡として擁立したはずの将軍・義澄は成長すると自ら政務を取ろうとし、両者の対立が深刻化するようになっていった<ref>山田、126頁</ref>。このように、政元はクーデターで専制を確立したはずであったが、現実はそうではなく、内憂外患に苦しめられた。

そして、政元の細川京兆家と阿波細川氏といった細川庶家の対立もまた解消されなかった。義材によって政元の対抗馬として取り立てられた阿波細川氏の細川義春は、政変から2年後に死去している。政元は[[修験道]]の没頭していたため子がおらず、阿波細川氏など庶家の台頭を恐れた彼はあえて細川氏ではなく、[[摂家]]の[[九条家]]から[[細川澄之|澄之]]を養子として迎えていた<ref name=“山田2016-133”>山田、133頁</ref>。だが、細川氏の血をひかない者を後継者としてことへの庶家の反発は強く、のちに義春の息子[[細川澄元|澄元]]を養子に迎え、澄之を廃嫡しなければならなかった<ref name=“山田2016-133”/>。だが、これが原因でのちに政元が殺害される、いわゆる[[永正の錯乱]]が発生、ひいては20年以上にわたる[[両細川の乱]]に繋がった。

明応の政変は中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と[[下克上]]の動きを恒常化させる契機となる重大な分岐点であり、応仁の乱と並び、[[戦国時代]]の始期とされることが多い。また、明応の政変以降、将軍家には「義稙系(義材/義稙-(義維)-義栄)」と「義澄系(義澄-義晴-義輝-義昭)」の2系統が成立し、いずれも足利将軍家当主の別称である「室町殿」「公方」「大樹」などと呼称された。13代将軍の[[足利義輝]]が[[三好三人衆]]、[[松永久通]]に殺害された[[永禄の変]]は、一説にこの分裂を解消する意図あったと言われている<ref>山田康弘「将軍義輝殺害に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年</ref>。結局、将軍家の分裂は諸大名や諸勢力の争いと相まって戦国時代を通して継続され、 [[織田信長]]が[[足利義昭]]を奉じて上洛したことによってようやく終結した。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 史料 ==
== 史料 ==
*『[[大乗院寺社雑事記]]』 - [[興福寺]][[別当]]の[[尋尊]]、[[政覚]]らの日記。190巻。
*『[[大乗院寺社雑事記]]』 - [[興福寺]][[別当]]の[[尋尊]]、[[政覚]]らの日記。190巻。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[山田康弘 (歴史学者)|山田康弘]]「明応の政変以後の室町幕府政治体制に関する研究序説」(初出『学習院大学人文科学論集』(1993年)/改題・補訂「明応の政変直後の幕府内体制」 所収:山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館、2000年) ISBN 978-4-642-02797-7 第一章)
<!-- *[[山田康弘 (歴史学者)|山田康弘]]「明応の政変以後の室町幕府政治体制に関する研究序説」(初出『学習院大学人文科学論集』(1993年)/改題・補訂「明応の政変直後の幕府内体制」 所収:山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館、2000年) ISBN 978-4-642-02797-7 第一章) -->
*[[山田康弘]]『足利義稙 -戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)』(戎光祥出版、2016年)
*[[藤井崇]]『大内義興』(戎光祥出版、2014年)
*[[井原今朝男]]「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」(『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1266-9 第二章)
*[[井原今朝男]]「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」(『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1266-9 第二章)
*[[福島克彦]]『畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
*[[森田恭二]]『戦国期歴代細川氏の研究』(和泉書院,、1994年 )
*山田康弘「将軍義輝殺害に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年
*大阪市史編纂所『大阪市の歴史』(創元社、1999年)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[細川政権 (戦国時代)]]
*[[細川政権 (戦国時代)|細川政権]]
*[[永正の錯乱]]
*[[永正の錯乱]]


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[[Category:室町時代の事件]]
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2017年12月27日 (水) 09:30時点における版

明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。

この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。

経緯

将軍位を巡る争い

足利義材

足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍義尚守護大名奉公衆を率い、六角行高(高頼)討伐(長享・延徳の乱)のため近江親征するが、果たせないまま長享3年(1489年)3月に近江で病死する。

義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政管領細川政元などは、堀越公方足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)正月に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定し、7月5日に正式に朝廷から将軍に任命された[1]。日野富子は義政の御台所、義尚の生母であり、将軍家に嫁いで40年近くになり、その間将軍に代わって政務を取り仕切ることもあった[2]。将軍家を代表するような人物でもあった彼女の支持は義稙の将軍就任に大きな意味を持ち[2]、実際に義材の家督継承を朝廷へ報告したのも彼女であった[3]

この決定に反対した政元や伊勢貞宗らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した。貞宗は前将軍の義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし、日野富子の信任が厚かった。また、その父伊勢貞親文正の政変の際に義尚のために義視殺害を義政に進言したことがあり[4]、義材の将軍就任後に後難を恐れたためと言われている。これは、応仁の乱で義尚を支持した人々が共有する危機感であった。

ところが奇しくも同じ日、日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川御所(小川殿)を譲渡することを決めた[5]。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、翌月には富子に無断で小川御所を破却し、その所領を差し押さえた[2]。富子が清晃のために小川御所を譲渡しようとした背景には、いきなり権力の座に就いた義材や義視が暴走しないように牽制する意図があったとされる[2]。その後、富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。

六角征伐と河内征伐

義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、丹波山城など、畿内における国一揆に対応するため、延徳3年(1491年)4月に近江の六角行高討伐の大号令を発し、軍事的強化を図った。この六角征伐は細川一門をはじめ多くの大名が参加し、圧倒的な武力で行高を甲賀へ、さらに伊勢へと追い払い、成功裡に終わった[6]。また、政元がこの征伐に反対したことや[7]、征伐中に政元の武将・安富元家が六角軍に大敗したことから、義材は政元への依存を減らすため、以後はほかの大名を頼るようになった[8]

明応2年(1493年)正月、義材は河内畠山基家(義豊)を討伐するために大号令を発し、再び大名たちへ出兵を要請した[9]。そして、京には義稙の命令を受けた大名が多数参陣したが、政元は河内征伐に反対し、この出兵に応じなかった[9][10]

これは元管領であった畠山政長が敵対する基家の討伐のため、義材に河内への親征を要請したことに起因する。政長は応仁の乱で従兄弟の畠山義就と家督をめぐって激しく争い、義就の死後はその息子の基家と争いを続けるなど、畠山氏は一族・家臣が尾州家と総州家で二分して争っていた[11]。義材は二分された畠山氏の家督問題を政長優位の下で解決させるため、そして政元への依存を減らすため、政長の願いを聞き入れる形でこの出兵に応じた[12]

政元は先の六角征伐に続いてこの討伐にも反対していたが、それには次のような理由があった。畠山氏は細川氏と同じ管領に就任しうる有力な大名家であるが、その畠山氏が二分され勢力が減退してゆくのは政元ら細川氏にとって好都合であった。そのため、応仁の乱で政元の父・勝元はこの家督争いに介入、尾州家の政長を支持して総州家の義就と争わせることで畠山氏の力を削ごうとした。だが、義材の河内征伐により、政長のもとで畠山氏が再統一されると、再び強大化した畠山氏が細川氏を脅かす可能性があった[10]。再統一された畠山氏は同じく畿内に勢力を持つ政元にとって、「新たなる強敵」の出現に他ならなかった[10]

結局、義材は政元の反対を振り切り、2月15日に討伐軍を京から河内に進発させた[9]。そして、2月24日に義材は河内の正覚寺に入り、ここを本陣とした[9]。大名らもまた、畠山基家が籠城している高屋城(誉田城)周辺に陣を敷き、城を包囲した。そのため、基家方の小城は次々に陥落し、3月の段階で基家は孤立を余儀なくされ、義材や政長の勝利は目前となった[13]

だが、政元は畠山氏の再統一を避けるため、政長の宿敵たる基家と結託した。すでに政元は河内征伐の開始直前までに基家の家臣と接触しており、興福寺尋尊の記録では基家の重臣が河内征伐の直前、「将軍が攻めてきてもこちらは何ら問題はない。なぜならば、伊勢貞宗以下、大名らとはすでに話がついているからだ」と豪語していたと記している(『大乗院寺社雑事記』明応2年2月23日条)[14]。また、義材に不満を抱き始めた伊勢貞宗をはじめ、赤松政則といった大名、そして日野富子までを味方に引き入れ、クーデター計画を着々と練っていた。

経過

政元のクーデター

細川政元

4月22日夜、政元はついに挙兵、クーデターを決行した。清晃をすぐ遊初軒に向かえ入れて保護し、義材の関係者邸宅へと兵を向けた[15]。その兵によって、23日には義材の関係者邸宅のみならず、義材の弟や妹の入寺する寺院が襲撃・破壊され[15]、弟の一人慈照院周嘉らが殺害された。更に当時の記録によると、富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って[16]、政元に京都を制圧させたと記録されている。

同日、政元は義材を廃して清晃を新将軍に擁立すること、また政長を河内守護職から解任すること公表し、事態を収めようとした[17]。そして、4月28日に政元は清晃を還俗させて義遐(よしとお)と名乗らせ、11代将軍として擁立した[15]。義遐はのちに名を義高、義澄と改めている。

この報を聞いた義材や諸大名、奉公衆・奉行衆ら将軍直臣は激しく動揺し、その上伊勢貞宗から義材に同行する大名や奉公衆ら将軍直臣に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」[18]が送られると、大名や将軍直臣は27日までにほとんどが河内から京都に帰還してしまった[19][20]。その後、直臣は京の義遐のもとへと参集し、大名も畠山政長を除いて義材を支援した者はいなかった[21]

赤松政則は政元のクーデター直後、先の六角征伐に積極的に協力し義材と親密な関係にあったことから、「政元ではなく義材に味方するのではないか」と囁かれていた[22]。だが、政則は政元の挙兵前に彼の姉と結婚していたため、緊密な関係を構築していた。それゆえ、政則は最終的に政元へ味方することを決したのであった[22]

周防長門守護・大内政弘の息子で、父の名代として河内出兵に参加していた大内義興も政元に味方している。なお、閏4月1日に京都にいた義興の実妹が若狭国武田元信配下に誘拐される事件が発生しており(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)、細川政元・武田元信が応仁の乱の時に義視・義材父子を擁して最後まで西軍として戦った大内政弘が義材に加担するのを阻止するために、義興の妹(=政弘の娘)を人質に取って、政変に同意させたとする説もある[23]

しかし、大名らが帰還したとはいえど、義材にはまだ政長の兵8,000がおり、残された軍勢も依然として意気盛んで、徹底抗戦の構えを見せていた[24]。閏4月に入って武田元信が若狭から上洛して政元に合流し、赤松政則と大内義興が義遐を義材の猶子にして後を継がせる仲介案を出して事態の収拾を図ろうとしているが、これは失敗している[25]

朝廷の対応

23日、政元はクーデターを朝廷へ報告した[26]。その理由として、自分が義材に河内征伐を反対したのに受け入れられなかったことを掲げ、ゆえに挙兵して義材を廃し、義澄を擁立したのである、と説明した[26]

一方、朝廷ではこの将軍擁廃立のクーデターを受けて、後土御門天皇申次白川忠富に命じて、勧修寺教秀甘露寺親長三条西実隆という3名の老臣を招集した。天皇は自分の任じた将軍が廃されるという事態に憤慨するとともに、勝仁親王も成人したので譲位をしたいと述べた。これに忠富と親長が反対し、親長は今回の件は武家(幕府)の問題なので朝廷が関わる事ではなく、儲君への譲位も武家側に言わせれば良いと述べたため、天皇も思いとどまった[27]。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したからとも言われている。

朝廷は4月24日から5日間の阿弥陀経談義を予定通り開催し、天皇も聴聞することを理由に政変に対する判断を先送りし、28日になって細川政元が御訪(必要経費の献金)を行ったことで、清晃改め義遐は従五位下に叙された。この時、宣下に関わった親長は「御訪を給わざれば相い従うべからず」と述べて御訪300疋と引換に叙位は行ったものの、政元が将軍宣下に必要な費用までは揃えられなかったためにこちらは見送られた[28]

当時、朝廷の運営に御訪は不可欠で、政元が掌握した幕府からの御訪なくしては天皇の譲位は実現できない反面、政元といえども御訪が揃えられないと朝廷を動かせなかったという公武関係の実情を伺わせている。

政長の死・義材の降伏

その後、閏4月7日に政元は政長討伐のため、上原元秀、安富元家からなる軍勢を京から河内へと派遣した[29]。また、基家も高屋城から出撃、政元に与する大名らも味方して、その兵力は4万に上ったという。

一方、義材と政長は細川軍に追い詰められ、正覚寺に籠城したが、依然として徹底抗戦の構えを貫いていた。正覚寺には100余りの櫓を立て、一番高い櫓に義材の御座所を置くなど、寺を城塞化して守りを固めていた(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月19日条)[22]

やがて、同月中旬に政長の両国の一つ・紀伊から数千から1万ともいわれる大軍が正覚寺城に向けて出発した[22]。だが、紀州勢はその途上の堺で、赤松政則によって足止めを喰らった[22]

その後、紀州勢はと赤松勢は堺で対峙し、「通せ」「通さぬ」の問答を始めたが、同月21日に戦闘が開始された[30][31]。紀州勢は海に数十の軍船を並べて陸の軍勢と連携し、赤松軍を激しく攻めた。一方、赤松軍は政則自らが出陣して奮戦、数時間に及ぶ戦いの末に紀州勢が敗北した[31]

頼みの綱であった紀州勢が堺で敗北したことは、義材と政長に衝撃を与えた。紀州勢が勝利すれば政変そのもの覆させる可能性もあったが、その望みが消え去り、またすでに正覚寺城の食料も尽きかけていたこともあって、政長は大いに絶望した[31]

同月24日、包囲軍は正覚寺に総攻撃を開始し、25日朝に正覚寺城は陥落、政長は重臣らとともに自害し果てた[32][33]。政長の自害後、同日に義材とその側近らも足利家伝来の「御小袖」(甲冑)と「御剣」を携えて上原元秀の陣に投降し、その身柄は京へ送られ、龍安寺にて幽閉されることとなった[32]

また、29日に公家の葉室光忠が政元の命を受けた上原元秀によって殺害された[34]。光忠は父の義視以来の側近で、義材からも重用され、明応2年にはその奏請によって上首18人(現任8人、前官10人)を超越して権大納言に任じられるなど[34]、一時的ではあるが摂家寺院管領などを凌ぐ権勢を握っていた。政元でさえ光忠の申次を通さずには義材に具申できない有様であり、政元にとっては政長同様に排除すべき存在でもあった。京の葉室邸もまた、政元の挙兵時に破却されている[15]

政長の嫡子・尚順は畠山家の後継者の地位から一転、父が自害する前にひとり正覚寺城から紀伊に落ちのびねばならなかった[32][35]。正覚寺城を包囲していた細川方は尚順を捕捉することができず、同年9月10日には上原元秀が尾州家の家臣である遊佐某と婚姻関係に有った住吉大社の神主・津守国則に尚順を匿った疑いをかけて、住吉大社に放火し、国則を追放している[36]

政変の原因

政元が義材に反逆した最大の原因は、義材が政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して六角征伐と河内征伐と2度も大規模な軍事作戦を行ったことであった[37]。これは政元自らが朝廷に報告したことや、尋尊の記録からうかがい知ることができる[26][38]

そもそも、河内征伐は義材が畠山政長の求めに応じて決めたことであった[10]。先述したように、政元にとって畠山氏の再統一は阻止しなければならない話であったが、義材はその反対を無視した[10]。義材としては政元一人に対する依存を減らすために政長に接近、ここで彼に恩を売ってその忠誠を獲得するという思惑があった[8]。そして、基家は滅亡寸前にまで追いやられ、もはや畠山氏の再統一は目前に迫っていた[10]。父の代から勢力を削ぐことに注力してきた畠山氏が畿内の有力大名として復活するのは時間の問題であり、政元はクーデターを起こしてでも河内征伐を実力で中止に追い込む必要があった[10]。そのことが、政元が裏で基家と結託したことに繋がったと考えられる[10]

また、義材は政元の排除を計画していたとされ、尋尊は政変の原因に関して、義材が自分の政策に反対する政元を討とうとしたことが原因であると記している[39]。実際、義材は政元の対抗馬として、細川一族の最有力庶家・阿波細川氏の当主細川義春を急速に重用していた[11]。例えば、延徳3年6月、義材は義春に将軍家通字の「義」を与え、「義春」と名乗ることを許している[11]。細川氏が偏諱として与えられていたのは下の字であり、阿波細川氏はもとより、京兆家の当主ですらこれまで「義」の字を名乗ることは許されていなかったのであるから、これは異例の殊遇であった[11]。また、義材は三条御所から一条油小路にあった細川義春の邸宅に居を移して、その寵愛ぶりを見せ、政元の対抗馬として着実にその地位を上げさせた[11]

義春の地位の上昇のみならず、義材自身の権威の上昇も相まって政元を追い詰めていった。義材はもともと将軍になれるはずではなかったが、義尚の死で思いがけず将軍になったため、将軍直臣や大名たちとの結びつきが薄く、周囲の人々にその器量を示す必要があった[40][41]。それこそ、義材が政元の反対を押し切ってでも戦い続けなければならない理由でもあった。そして、義材は最前線でその武勇を示し、義尚がなしえなかった六角征伐を成功、さらには河内征伐をも成功させようとして、その権威を上昇させた[41]。その権威の上昇に伴い、天下の政治は義材を中心に回りつつあった一方、政元は周囲から孤立を深めていったことは想像に難くない[37]。そして、義材が政元を冷遇し、政長や義春に接近していったのであるから、政元がいずれ義材や政長といった与力大名らに自分が討たれるという恐怖に駆られたとしても不思議でなく、それが政元を将軍廃立のクーデターに駆り立てた直接的な理由であったとも指摘されている[37]

大名らが六角征伐と河内征伐に参加した理由は、将軍に忠誠心を見せることができたことや、自身が危機に陥った時に将軍の名の下で諸大名からなる大軍の加勢が期待できたからであった[42]。実際、斯波義寛は応仁の乱で朝倉氏に奪われた越前の奪還を要請しており、義材はこれに応じ、河内征伐の後は自ら越前征伐を実行しようとしていたといわれる[43]。実際、義材が越前征伐の大号令を掛ければ、諸大名が動員され、朝倉氏が滅ぼされる可能性も十分にあった[43]

だが、義材が立て続けに2度の出兵を求めたことが、大名らに莫大な戦費や兵糧の負担を強いたことは明らかであった。例えば、大内氏は六角征伐の際に国許から運び入れた兵糧が1万6千石にも及んだとされる[44]。河内征伐の次に計画されていた越前征伐もまた、大名らに負担を強いることは目に見えていた[44]。その結果、大名らに厭戦気分が広まり、そして政元が政変を起こして二者択一の選択肢を迫られると、政長以外は皆義材から離れていったと推測される[44]

日野富子も政変に関与し、政元の擁立した義澄の支持に回ったが、それには以下の理由があった。彼女は将軍家を代表する人物でもあり、常々義材の権力の暴走を危惧していた[45]。父の義視が小川御所を破却した時からすでにその心配はあったが、義材は立て続けに負担の大きい外征への出兵を大名らに求めたため、大名らは次第に幕府に不満を抱いていった[45]。義材がこのまま将軍であり続けたら、越前征伐をはじめ連続して外征が行われる可能性があり、大名がさらなる不満を抱くのは必至で、長年将軍家を担ってきた富子は幕府の存立に重大な危機が迫っていることを感じだと推測される[45]。最終的に義材の廃立を決断したのは政元ではなく、富子であったとする説もある[45]

将軍の直臣すらも義材を見捨てたのは、富子や政所の伊勢貞宗の影響があったからだという[45]。富子は先述したように、将軍家を代表する人物でもあり、義材の将軍決定もまた彼女の支持によるものであった[2]。そのため、富子が義材の廃立を決めたことは、直臣らの意思決定に大きな影響を与えたことであろうと考えられる[46]。貞宗は政元と同様に基家の家臣と接触していたし、また河内遠征に従軍していた大名や将軍直臣が内容不明の謀書によって義材を見捨てたことは先にも取り上げた。また、政変の1か月前に基家に将軍擁廃立の陰謀が伝えられていたという記録があることから、貞宗は明らかに義澄擁立の事前工作を進めていた[45]。貞宗の行動も義澄の擁立に大きく貢献したと推測でき、実際に義澄は貞宗に「政務を全て委ねる」と言ったほどであった[45]

政元の行為は旧来の秩序が破壊されつつあったこの時代でも明らかな反逆であり、「主従は三世の契り」という言葉があるように主君たる義材は政元にとって尊重すべき存在であった[47]。だが、日野富子が将軍家という「家」に関にするこの行為を認めたことは大きく、政変に正当性を与え、結果的に大名や将軍直臣らが義稙を見捨て、義遐に付く流れを形成したといえよう[47]。この政変は決して政元一人で成し得たものではなく、日野富子や伊勢貞宗の協力があって成し得ることができたものであった[48]

影響とその後

この政変で政元は幕政を掌握したが、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊し傀儡化した将軍権力は以後、幕政は政元をはじめ細川氏の権力により支えられる事となる。但し、以後も幕府権力は存続していたとする見方もあり、伊勢貞宗は日野富子の意向で将軍義澄の後見役を務め、度々政元の行動を抑止している。また、政元の命を受け政変を主導していた政元家臣の京兆家内衆である丹波守護代の上原元秀が急死、京兆家内で政変に消極的な家臣が多数を占めるようになると、京兆家はなるべく幕府の意向を容認、前将軍義材派の巻き返しを用心する方向に切り替えたため、政変後の幕府と京兆家は協調関係に入っていたのではないかとする意見もある。

京都に残留した幕府の官僚組織は、政元ではなく幕府政所頭人で山城守護伊勢貞陸(貞宗の子)が掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の奉書作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。これに関連して明応の政変直後に貞陸が義材派の反撃に対抗することを名目に山城国一揆を主導してきた国人層を懐柔して山城の一円支配を目指し、政元も対抗策として同様の措置を採った。このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆は解散に追い込まれる事になった。

畠山氏は政長が自害したことで尾州家が没落、政元に支持された総州家の基家が家督を継承した。基家はすかさず尚順が逃げた紀伊を攻めたが、これは撃退されており、尾州家と総州家の分裂は依然として解消されなかった。

さらに近年では、同年に発生した今川氏親の家臣伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻が、義澄に叛逆した異母兄である堀越公方足利茶々丸を倒すために、政元や上杉定正と連携して行われたとする見方が有力になっている。早雲と伊勢貞宗は従兄弟に当たる関係で、彼は京とも緊密に連絡を取り合っていた。

同年6月29日夜、京の上原元秀の屋敷に幽閉されていた義材は、側近らの手引きで越中射水郡放生津へ下向し、政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・神保長誠に迎え入れられた[49]。さらに、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従い、正光寺を御所とした(越中公方)。これにより、幕府公権は二分化され、二つに分かれた将軍家を擁した抗争が各地で続くこととなった。

義材は政元討伐の檄を発し、これにより能登畠山氏、越前朝倉氏、越後上杉氏、加賀富樫氏などの大名が参列して忠誠を誓い、九州の大友氏をはじめとする遠国の大名も協力の意思を示した[50]。細川政元はただちに越中に軍を派遣したが、明応2年9月中旬に越中勢との戦いで大敗北を喫し、追い払われた[51]。この結果、越中とその周辺は完全に義材方となり、京の幕府は迂闊に手を出せなくなってしまった。のち、明応7年(1498年)9月に義材は越中を出て、越前の朝倉氏を頼り、この際に義尹に名を改めている[52]

政元の憂慮はこれだけにとどまらなかった。正覚寺城陥落後、紀伊に逃れていた畠山尚順が政元方の基家に粘り強く抵抗しつつも力を蓄え、ついに明応8年(1499年)2月に基家を討ち、父の無念を晴らしたのである[35]。尚順は紀伊から河内にいたる京の南方一帯に一大勢力を築き、越前の義尹と連絡を取り合いながら京を伺うなど、細川方の脅威となった[35]

明応8年9月以降、義材と尚順は連携してそれぞれ越前と河内から京を挟撃しようとしたが、政元は苦戦の末に義尹を破り、義材は周防の大内氏のもとへと逃げた。その後、尚順も挟撃作戦が失敗したことで紀伊へと引き上げたが[53]、義尹と尚順は依然として政元の脅威であり続けた。また、政元が傀儡として擁立したはずの将軍・義澄は成長すると自ら政務を取ろうとし、両者の対立が深刻化するようになっていった[54]。このように、政元はクーデターで専制を確立したはずであったが、現実はそうではなく、内憂外患に苦しめられた。

そして、政元の細川京兆家と阿波細川氏といった細川庶家の対立もまた解消されなかった。義材によって政元の対抗馬として取り立てられた阿波細川氏の細川義春は、政変から2年後に死去している。政元は修験道の没頭していたため子がおらず、阿波細川氏など庶家の台頭を恐れた彼はあえて細川氏ではなく、摂家九条家から澄之を養子として迎えていた[55]。だが、細川氏の血をひかない者を後継者としてことへの庶家の反発は強く、のちに義春の息子澄元を養子に迎え、澄之を廃嫡しなければならなかった[55]。だが、これが原因でのちに政元が殺害される、いわゆる永正の錯乱が発生、ひいては20年以上にわたる両細川の乱に繋がった。

明応の政変は中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となる重大な分岐点であり、応仁の乱と並び、戦国時代の始期とされることが多い。また、明応の政変以降、将軍家には「義稙系(義材/義稙-(義維)-義栄)」と「義澄系(義澄-義晴-義輝-義昭)」の2系統が成立し、いずれも足利将軍家当主の別称である「室町殿」「公方」「大樹」などと呼称された。13代将軍の足利義輝三好三人衆松永久通に殺害された永禄の変は、一説にこの分裂を解消する意図あったと言われている[56]。結局、将軍家の分裂は諸大名や諸勢力の争いと相まって戦国時代を通して継続され、 織田信長足利義昭を奉じて上洛したことによってようやく終結した。

脚注

  1. ^ 山田、57頁
  2. ^ a b c d e 山田、55頁
  3. ^ 山田、54頁
  4. ^ 山田、26頁
  5. ^ 山田、56頁
  6. ^ 山田、61-66頁
  7. ^ 『大乗院寺社雑事記』延徳3年8月7日条
  8. ^ a b 山田、93頁
  9. ^ a b c d 山田、67頁
  10. ^ a b c d e f g h 山田、92頁
  11. ^ a b c d e 山田、94頁
  12. ^ 山田、93-94頁
  13. ^ 山田、61頁
  14. ^ 山田、72頁
  15. ^ a b c d 山田、74頁
  16. ^ 『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月4日条には、「悉皆指南被申」とある。
  17. ^ 大阪市の歴史、113頁
  18. ^ 近衛政家後法興院記』明応2年6月11日条。
  19. ^ 親長卿記』明応2年4月26日条及び『後法興院記』・『蔭凉軒日録』明応2年4月27日条。
  20. ^ 山田、90頁
  21. ^ 山田、75頁
  22. ^ a b c d e 山田、76頁
  23. ^ 藤井崇『大内義興』戎光祥出版、2014年、P40-41
  24. ^ 山田、75-76頁
  25. ^ 『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月19日条。
  26. ^ a b c 山田、91頁
  27. ^ 『親長卿記』明応2年4月23日条
  28. ^ 『親長卿記』明応2年4月28日条
  29. ^ 戦国期歴代細川氏の研究、17頁
  30. ^ 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』、55頁
  31. ^ a b c 山田、77頁
  32. ^ a b c 山田、78頁
  33. ^ 大阪市の歴史、113頁
  34. ^ a b 「葉室光忠」『朝日日本歴史人物事典』
  35. ^ a b c 山田、110頁
  36. ^ 院記
  37. ^ a b c 山田、95頁
  38. ^ 『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月10日条
  39. ^ 『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月10日条
  40. ^ 山田、69頁
  41. ^ a b 山田、71頁
  42. ^ 山田、81頁
  43. ^ a b 山田、68頁
  44. ^ a b c 山田、82頁
  45. ^ a b c d e f g 山田、89頁
  46. ^ 山田、84頁
  47. ^ a b 山田、86頁
  48. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「“山田2016-90”」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  49. ^ 山田、98-99頁
  50. ^ 山田、99頁
  51. ^ 山田、99-100頁
  52. ^ 山田、108頁
  53. ^ 山田、120頁
  54. ^ 山田、126頁
  55. ^ a b 山田、133頁
  56. ^ 山田康弘「将軍義輝殺害に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年

史料

参考文献

  • 山田康弘『足利義稙 -戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)』(戎光祥出版、2016年)
  • 藤井崇『大内義興』(戎光祥出版、2014年)
  • 井原今朝男「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」(『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1266-9 第二章)
  • 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 森田恭二『戦国期歴代細川氏の研究』(和泉書院,、1994年 )
  • 山田康弘「将軍義輝殺害に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年
  • 大阪市史編纂所『大阪市の歴史』(創元社、1999年)

関連項目