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[[ファイル:Lynyrd Skynyrd band (1973).jpg|thumb|250px|レーナード・スキナード(1973年)]]
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'''レーナード・スキナード''' ('''Lynyrd Skynyrd''' {{IPA-en|ˈlɛnərd ˈskɪnərd|}}) は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[サザン・ロック]]のバンド。
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'''レーナード・スキナード''' ('''Lynyrd Skynyrd''' {{IPAc-en|ˌ|l|ɛ|n|ər|d|_|ˈ|s|k|ɪ|n|ər|d}} {{respell|LEN|ərd|SKIN|ərd}}<ref>Pronunciation from album ''[[レーナード・スキナード (アルバム)|(Pronounced 'Lĕh-'nérd 'Skin-'nérd)]]''.</ref>) は、[[アメリカ合衆国]]の[[サザン・ロック]]バンド。1964年に[[フロリダ州]][[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]で「マイ・バックヤード ''My Backyard''」として結成され、その後「ノーブル・ファイブ ''The Noble Five''」「ワン・パーセント ''One Percent''」の名で活動、1969年に「レーナード・スキナード」と改名した。バンドはそのライブパフォーマンスや「[[スウィート・ホーム・アラバマ]]」「[[フリー・バード]]」と言った代表曲でその認知度を高めていったが、成功のピークであった1977年に飛行機事故でメンバー2人とバックアップシンガーが死亡、人気の絶頂時に活動を停止した。バンドはアメリカ合衆国で2,800万枚のレコード販売を記録した。


生き残ったメンバーは1987年に、リードボーカルに[[ジョニー・ヴァン・ザント]](バンドの創設者、[[ロニー・ヴァン・ザント]]の弟)を迎えリユニオン・ツアーを行った。バンドは現在ももう一人の創設者である[[ゲイリー・ロッシントン]]、ジョニー・ヴァン・ザントと[[リッキー・メドロック]](1996年にバンドに復帰する前、1971年から72年にかけて曲を書きレコーディングに参加していた。)でツアーやレコーディングを行っている。もう一人の創設者、[[ラリー・ヤンストロム]]は70年代に加入していた[[エド・キング]]、[[アーティマス・パイル]]と共に音楽活動を続けているが、もはやバンドとはツアーやレコーディングを行っていない。[[マイケル・カーテロン]]は1999年以来バンドの主たるドラマーとしてレコーディング、ツアーを行っている。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第95位。


レーナード・スキナードは2006年3月13日に[[ロックの殿堂]]入りを果たした<ref>{{cite web | url=http://www.rockhall.com/inductees/byyear/2006/ |title= Rock and Roll Hall of Fame, Inductees by Year: 2006 |publisher=Rockhall.com |date= |accessdate= April 1, 2013}}</ref>。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第95位に選ばれている。
== ==
[[1964年]]の夏に[[フロリダ州]][[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]で、ロニー・ヴァン・ザント、ゲイリー・ロッシントン、ボブ・バーンズ、アレン・コリンズ、ラリー・ヤンストロムの5名により結成。結成当初のバンド名は「Bob's Backyard」。これはボブ・バーンズの自宅車庫で練習していたことに由来する。[[1968年]]にバンド・コンテストで優勝し、地元のローカル・レーベルからデビューした。[[1970年]]にバンド名をレーナード・スキナードに改名。この奇妙な名は、メンバーのハイスクール時代の体育教師「レオナルド・スキナー」が長髪の生徒に対して厳しかったため、彼の名前をもじったものである<ref>[http://www.allmusic.com/artist/lynyrd-skynyrd-mn0000170369/biography Lynyrd Skynyrd : AllMusic] - Biography by Stephen Thomas Erlewine - 2012年12月1日閲覧</ref>。また当時、2人目のドラマーとしてリッキー・メドロック(後にレーナードでギターを担当する)が加入。リッキーとボブ・バーンズはそれぞれ脱退・再加入を経つつ、時にツインドラムでの演奏も披露した。さらにラリー・ヤンストロムが脱退後、[[1972年]]にはベーシストとしてレオン・ウィルクソンが、またレオンの友人で当時レーナードのローディだったビリー・パウエルが正式なキーボード担当として加入した。


==歴==
やがてバンドは[[アル・クーパー]]に見出され、[[1973年]]に[[MCAレコード]]からアルバム『[[レーナード・スキナード (アルバム)|レーナード・スキナード]]』でデビューした。同アルバムのレコーディング時にベーシストのレオンは一時脱退(リリース後に復帰)、その際ベースとギターを手伝ったエド・キングはレコーディング後に3人目のギタリストとして正式加入している。[[1974年]]にはアルバム『[[セカンド・ヘルピング]]』からのシングル「[[スウィート・ホーム・アラバマ]]」が大ヒット。この曲は[[ニール・ヤング]]の「[[アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ|サザン・マン]]」「アラバマ」といった曲への[[アンサーソング]]として知られている<ref>[http://www.soundonsound.com/sos/jan08/articles/classictracks_0108.htm Lynyrd Skynyrd 'Sweet Home Alabama' | Classic Tracks] - soundonsound.com - 2012年12月1日閲覧</ref>。また、同年にはデビュー・アルバムから「[[フリー・バード]] (Free Bird)」がシングル・カットされてヒットした。サード・アルバム『[[ナッシン・ファンシー]]』からは「[[サタデイ・ナイト・スペシャル]]」が[[バート・レイノルズ]]主演の映画『[[ロンゲスト・ヤード (1974年の映画)|ロンゲスト・ヤード]]』の挿入歌に採用された。トリプルリードギターを擁する重厚な音を特徴とし、[[オールマン・ブラザーズ・バンド]]やアトランタ・リズム・セクションと並ぶサザン・ロックの旗手として、ライヴでは多数の観客を動員する人気バンドとなった。
===初期===
1964年の夏、[[フロリダ州]][[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]で[[ロニー・ヴァン・ザント]]、[[ボブ・バーンズ (ドラマー)|ボブ・バーンズ]]、[[アレン・コリンズ]]、[[ゲイリー・ロッシントン]]、[[ラリー・ヤンストロム]]の5名により結成。結成当初のバンド名は「Bob's Backyard」。これはボブ・バーンズの自宅車庫で練習していたことに由来する。その後「The Noble Five」と改名した<ref name=Name_Changes>{{cite web |author= |url=http://www.lynyrdskynyrdhistory.com/less2.html |title=The Official Lynyrd Skynyrd History Website - History Lessons |publisher=Lynyrdskynyrdhistory.com |date= |accessdate=2015-04-04}}</ref>。彼らはまた、1968年まで「One Percent」というバンド名を使用した<ref name=Name_Changes/>。


[[1968年]]にバンド・コンテストで優勝し、地元のローカル・レーベルからデビューした。1969年にヴァン・ザントは新しいバンド名、「レーナード・スキナード ''Leonard Skinnerd''」を思いついた<ref>{{cite web |last=Soergel |first=Matt |url=http://chronicle.augusta.com/stories/2009/01/26/met_509196.shtml |title=Honoring a namesake |publisher=Chronicle.augusta.com |date= |accessdate=2011-09-14}}</ref>。この奇妙な名は、メンバーがフロリダ州ジャクソンビルの[[:w:en:Robert E. Lee High School (Jacksonville)|ロバート・E・リー高校]]に通っていたときの体育教師、[[レオナルド・スキナー]]が頭髪に関する校則を厳しく守らせていたことで有名であり、彼の名前をもじったものである<ref name=RELee>[https://web.archive.org/web/20080524030503/http://www.dreamsbeginhere.org/lee/history.html Robert E. Lee High School history (archived)]. dreamsbeginhere.org </ref><ref>[http://www.allmusic.com/artist/lynyrd-skynyrd-mn0000170369/biography Lynyrd Skynyrd : AllMusic] - Biography by Stephen Thomas Erlewine - 2012年12月1日閲覧</ref>。ロッシントンは学校を辞め、髪の毛に悩まされることに飽き足りた<ref>{{cite web |url=http://www.lynyrdskynyrdhistory.com/less2.html |title=The Official Lynyrd Skynyrd History Website - History Lessons |publisher=Lynyrdskynyrdhistory.com |date= |accessdate=2011-11-02}}</ref>。また、特徴的なスペル「"Lynyrd Skynyrd"」は少なくとも1970年代に使用されていた。バンドは高校時代に対して批判していたにもかかわらず、彼らは後にスキナーと友好的な関係を築き、[[ジャクソンビル・コロシアム]]で行ったコンサートにスキナーを招待したりもしている<ref>https://web.archive.org/web/20080625193759/http://lynyrdskynyrddixie.com/2006/06/02/skynyrd-namesake-in-brevard/</ref>。スキナーはまた、バンドが3枚目のアルバムの内側に自分のサインの写真を使用することを許可した<ref>{{cite news |title=Leonard Skinner, Rock Band Muse, Dies at 77 |date= September 21, 2010 |accessdate= September 22, 2010 |agency=Associated Press |url=https://www.nytimes.com/2010/09/21/arts/music/21skinner.html}}</ref>。
[[1975年]]にエド・キングが脱退した後、バンドはしばらくツインギター編成で活動し、その後[[レスリー・ウェスト]](元[[マウンテン (バンド)|マウンテン]])やバリー・ハーウッド(後にゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズらと共にロッシントン・コリンズ・バンドで活動)がキングの後任候補となるが、最終的にはバンドのバックアップ・ボーカリストであった[[キャシー・ゲインズ]]の弟スティーヴ・ゲインズが加入した<ref>{{Cite web |url=http://www.guitarworld.com/gary-rossington-discusses-one-more-fans-and-his-life-and-times-lynyrd-skynyrd |last=Drozdowski |first=Ted |title=Gary Rossington Discusses 'One More for the Fans!' and His Life and Times with Lynyrd Skynyrd |publisher=NewBay Media |work=Guitar World |date=2015-06-26 |accessdate=2016-03-15}}</ref>。最盛期(1976年前後)には南部でのライヴにおいて[[カルロス・サンタナ]]を前座とするほどの人気を誇った。


1970年までにレーナード・スキナードはジャクソンビルのトップバンドとなり、地元のコンサートで頭角を現し、いくつかの国内での活動を開始した。ジャクソンビル出身で[[メイコン (ジョージア州)|メイコン]]を拠点とするハスラーズ社のパートナーであるパット・アームストロングと、[[フィル・ウォルデン]]の弟である[[アラン・ウォルデン]]がバンドのマネージャーとなった。アームストロングはその後間もなく自らの代理店を立ち上げるためにハスラーズ社を離れた。ウォルデンは1974年までマネージャーを務め、その後ピーター・ラッジがマネージャーとなった。バンドは70年代初期に南部全域で演奏を続け、ハードな[[ブルースロック]]のサウンドとイメージをさらに発展させ、スタジオでの実験的なレコーディングを行った。彼らはこの独特な「サザン」サウンドを、カントリー、ブルース、そしてブリティッシュロックの影響を少しばかり取り入れ、ブレンドさせて作り出した<ref>[http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/A2267092?q=lynyrd+skynyrd&search=quick&pos=1&_start=1#firsthit Oxford Music Online] {{link note|note=Registration required}}</ref>。

この頃、バンドは初めてラインナップの変更を経験した。ヤンストロムが脱退して[[グレッグ・T・ウォーカー]]がベースを担当した。また当時、2人目のドラマーとしてリッキー・メドロック(後にレーナードでギターを担当する)が加入。リッキーとボブ・バーンズはそれぞれ脱退・再加入を経つつ、時にツインドラムでの演奏も披露した。メドロックの祖父[[ショーティー・メドロック]]は「[[カーティス・ロウのバラード]]」の執筆に影響を与えた。バンドの歴史が書かれたいくつかの文献ではこの頃バーンズはバンドを短期間離れていたとされる。1971年、バンドは[[マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ]]で、ウォーカーとメドロックがリズムセクションを担当し、バーンズ抜きでいくつかの録音を残している{{cn|date=September 2014}}。

メドロックとウォーカーはバンドを離れ、[[ブラックフット]]に加入した。バンドは1972年に再びマッスル・ショールズでレコーディングを行い、バーンズがドラムを担当、[[レオン・ウィルクソン]]がベースを担当した。またこの年、レオンの友人で当時レーナードのローディだった[[ビリー・パウエル]]が正式なキーボード担当として加入した。メドロックはその後再びバンドに復帰している。メドロックとウォーカーは1978年にリリースされたコンピレーション「''[[:w:en:Skynyrd's First and... Last|First and... Last]]''」まで、どのアルバムにも参加しなかった。

===絶頂期 (1973-1977)===
1972年にバンド(ヴァン・ザント、コリンズ、ロッシントン、バーンズ、ウィルクソン、パウエル)は[[ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ]]の[[アル・クーパー]]に見いだされた。クーパーはアトランタのFunocchio'sで彼らのステージを見た。そして[[MCAレコード]]傘下の自らのサウンズ・オブ・ザ・サウスレーベルと彼らを契約させ、ファーストアルバム『[[レーナード・スキナード (アルバム)|レーナード・スキナード]]』をプロデュースした。ウィルクソンはこのアルバムのレコーディングセッション初期にバンドを離れていたため、参加したのは2曲のみである。彼はアルバムリリース直後にヴァン・ザントの誘いでバンドに復帰し{{Citation needed|date=November 2007}}、アルバムカバーのジャケット写真にも写っている。ウィルクソン不在時にベースとギターを手伝った[[ストロベリー・アラーム・クロック]]のギタリスト、[[エド・キング]]はレコーディング後に3人目のギタリストとして正式加入し、バンドはライブにおいてスタジオでの3つのギターセクションを再現できるようになった。アルバムは1973年8月13日にリリースされ<ref>{{cite web |url=http://www.lynyrdskynyrd.com/board_posts/pronounced |title=Lynyrd Skynyrd Discography |publisher=Lynyrdskynyrd.com |date= |accessdate=2011-09-14}}</ref>、100万枚を超える売上を記録、[[アメリカレコード協会|RIAA]]の[[ゴールドディスク]]となった<ref name="The Book of Golden Discs">{{cite book
|first= Joseph
|last= Murrells
|year= 1978
|title= The Book of Golden Discs
|edition= 2nd
|publisher= Barrie and Jenkins Ltd
|location= London
|page= 1330
|isbn= 0-214-20512-6}}</ref>。シングル「[[フリー・バード]]」は全国放送され<ref> Butler, J. Michael. "Lynyrd Skynyrd." Grove Music Online. N.p., 3 Sept. 2014.</ref>、最終的に[[Billboard Hot 100]]の19位を記録した{{cn|date=September 2014}}。

バンドのファン層は1973年に急速に成長し続けた。これは[[ザ・フー]]の『[[四重人格]]』ツアーで前座を務めたことによる。[[1974年]]のセカンドアルバム『[[セカンド・ヘルピング]]』ではキング、コリンズ、ロッシントンがそれぞれヴァン・ザントとのコラボレーションで曲を書き、バンドのブレークスルーを強固なものとした。[[ニール・ヤング]]の「[[アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ|サザン・マン]]」への[[アンサーソング]]であるシングル「[[スウィート・ホーム・アラバマ]]」<ref>[http://www.soundonsound.com/sos/jan08/articles/classictracks_0108.htm Lynyrd Skynyrd 'Sweet Home Alabama' | Classic Tracks] - soundonsound.com - 2012年12月1日閲覧</ref>は、8月のチャートで8位に達した。(ヤングとヴァン・ザントはライバルではなく、お互いの音楽のファンであり、友人であった。ヤングは彼らのために「[[:w:en:Powderfinger (song)|パウダーフィンガー]]」を書いたが、彼らはそれを録音しなかった<ref>Simmons, p. 135.</ref>。)絶頂期における彼らのレコードはそれぞれ100万枚を超える売り上げを記録したが、「スウィート・ホーム・アラバマ」はトップ10に入った唯一のシングルであった<ref>Butler, J. Michael. "Lynyrd Skynyrd." Grove Music Online. N.p., 3 Sept. 2014.</ref>。『[[セカンド・ヘルピング]]』は1974年に12位を達成し、最終的にはマルチプラチナとなった。その年の7月、レーナード・スキナードは[[ミズーリ州]][[セダリア (ミズーリ州)|セダリア]]の[[ミズーリ・ステート・フェア]]で行われた[[オザーク・ミュージックフェスティバル]]のヘッドライナーの一人であった{{cn|date=September 2014}}。

トリプルリードギターを擁する重厚な音を特徴とし、[[オールマン・ブラザーズ・バンド]]やアトランタ・リズム・セクションと並ぶサザン・ロックの旗手として、ライヴでは多数の観客を動員する人気バンドとなった。

1975年1月にバーンズがバンドを去り、代わってケンタッキー出身の[[アーティマス・パイル]]が加入した。バンドの3枚目のアルバム『[[ナッシン・ファンシー]]』は17日で録音された<ref>{{cite news|last1=Hunt|first1=Dennis|title=Ups and Downs of Lynyrd Skynyrd: More Pop News|url=http://search.proquest.com.ezproxy1.library.arizona.edu/docview/157771298/49CAEBCB7E4F44D3PQ/15?accountid=8360|accessdate=2014-10-03|publisher=Los Angeles Times|date=September 15, 1975}}</ref>。クーパーとバンドはアルバムリリース前に相互の合意によって袂を分かち、クーパーはテープのミックスを完成させてバンドから離れた<ref>Al Kooper: Backstage Passes & Backstabbing Bastards: Memoirs of a Rock 'N' Roll Survivor (1998)</ref>。このサードアルバムは前作よりも売り上げが低かった。エド・キングはツアーの途中で、疲労を理由にバンドを離れた。1976年1月、正式メンバーとはみなされなかったが、バックアップシンガーの[[レスリー・ホーキンス]]、[[キャシー・ゲインズ]]、[[ジョジョ・ビリングズリー]](3人は「ホンケッテス」として知られる)が加入した。『[[ナッシン・ファンシー]]』からは「[[サタデイ・ナイト・スペシャル]]」が[[バート・レイノルズ]]主演の映画『[[ロンゲスト・ヤード (1974年の映画)|ロンゲスト・ヤード]]』の挿入歌に採用された。キングが脱退した後、バンドはしばらくツインギター編成で活動し、4枚目のアルバム『[[ギミー・バック・マイ・ブレッツ]]』は1976年にリリースされたが、前作同様ファースト、セカンドほどの成功は収められなかった。ヴァン・ザントとコリンズは、バンドの初期の特徴であったトリプルリードギターの特性が失われていると真剣に感じていた。その後バンドは[[レスリー・ウェスト]](元[[マウンテン (バンド)|マウンテン]])やバリー・ハーウッド(後にゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズらと共にロッシントン・コリンズ・バンドで活動)を含む何名かのギタリストのオーディションを行ったが、最終的には[[キャシー・ゲインズ]]の弟[[スティーヴ・ゲインズ]]がキングの後任として加入した<ref>{{Cite web |url=http://www.guitarworld.com/gary-rossington-discusses-one-more-fans-and-his-life-and-times-lynyrd-skynyrd |last=Drozdowski |first=Ted |title=Gary Rossington Discusses 'One More for the Fans!' and His Life and Times with Lynyrd Skynyrd |publisher=NewBay Media |work=Guitar World |date=2015-06-26 |accessdate=2016-03-15}}</ref>。最盛期(1976年前後)には南部でのライヴにおいて[[カルロス・サンタナ]]を前座とするほどの人気を誇った。

ゲインズは自身のバンド、クロウダッド(スキナードの「サタディ・ナイト・スペシャル」をしばしば演奏していた)を率いていたが、1976年5月11日にカンザスシティで行われたコンサートに、オーディションがてら招待された。バンドはまたゲインズと非公式のジャムを数回行い、ゲインズは6月に正式加入した。ゲインズが新たに加わったバンドは[[アトランタ]]の[[フォックス・シアター (アトランタ)|フォックス・シアター]]で行われたライブを録音、2枚組ライブアルバム『[[ワン・モア・フロム・ザ・ロード]]』としてリリースし、その後[[ネブワース・フェスティバル]]に出演した{{cn|date=September 2014}}。

[[File:Lynyrd Skynyrd (1977).jpg|thumb|left|1977年]]
コリンズとロッシントンは1976年の[[レイバー・デー (アメリカ合衆国)|レイバー・デー]]の週末に重大な交通事故を起こし、次のアルバムの製作が遅れた上、いくつかのコンサートがキャンセルとなった。ロッシントンの事故は、不吉な「[[:w:en:That Smell|ザット・スメル]]」に影響を与えた。それは明らかに彼ともう一人のバンドメンバーに対する薬物乱用についての警告であった。ロッシントンは、酔っ払って[[クオルード]]を飲用し、オークの木に車をぶつけた「魅力的な」曲であることを何度も認めている。ヴァン・ザントは少なくとも自分の行動を抑制し、スキナードの評判の一部であった騒々しい喧嘩のサイクルを抑えるための真剣な試みを試していた{{cn|date=September 2014}}。

1977年の『[[ストリート・サヴァイヴァーズ]]』は[[スティーヴ・ゲインズ]]のギタリスト/ボーカリストとしてのショーケースとなった。ゲインズは1年前にバンドに参加し、今回スタジオ盤でのデビューとなる。ヴァン・ザントは公私にわたってゲインズの複数の才能に驚き、バンドは "いつかは彼の影の中にいる"と述べた<ref>{{cite web|title=Lynyrd Skynyrd - L.A. Times|url=http://www.theuncool.com/journalism/lynyrd-sknyrd-l-a-times/|website=The Uncool - The Official Site for Everything Cameron Crowe|accessdate=17 October 2015}}</ref>。ゲインズの貢献はヴァン・ザントと共作し、共にリードボーカルを担当した「"You Got That Right"」や、加入前に作ったギターブギの「"I Know a Little"」などがある。ゲインズのこのアルバムにおける(そしていくつかのコンサートにおける)リーダー性は、彼の手によるブルース「"Ain't No Good Life"」に示される。アルバムにはまた、ヒットシングル「"[[What's Your Name (Lynyrd Skynyrd Album)|What's Your Name]]"」「"[[That Smell]]"」も含まれた。バンドは自身最大のツアーのための準備を行い、ショーは象徴的なロック・アンセム「[[フリー・バード]]」がハイライトとなった<ref>{{cite web |url=http://www.wolfgangsvault.com/lynyrd-skynyrd |title=Freebird |publisher=Wolfgangsvault.com |date= |accessdate=2011-09-14}}</ref>。11月、バンドはヴァン・ザントの生涯にわたる夢であった[[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]でのコンサートを実現する予定だった{{cn|date=September 2014}}。

===飛行機事故 (1977)===
{{Main|1977年のコンベアCV-240機墜落事故}}
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音楽的には当時隆盛の[[ブルース・ロック]]をはじめとするブリティッシュ・ロックに強い影響を受けつつも、[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]土着の[[カントリー・ミュージック|カントリー]]のセンスを保持し、後にサザン・ロックと呼ばれる音を作り上げた。また、ヴィジュアル・イメージに[[アメリカ連合国の国旗|南軍旗]]を使うなど、アメリカ南部の、悪く言えば[[レッドネック]]のイメージを強く持っていたが、それが南部ではバンドへの根強い支持に繋がっていた。
音楽的には当時隆盛の[[ブルース・ロック]]をはじめとするブリティッシュ・ロックに強い影響を受けつつも、[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]土着の[[カントリー・ミュージック|カントリー]]のセンスを保持し、後にサザン・ロックと呼ばれる音を作り上げた。また、ヴィジュアル・イメージに[[アメリカ連合国の国旗|南軍旗]]を使うなど、アメリカ南部の、悪く言えば[[レッドネック]]のイメージを強く持っていたが、それが南部ではバンドへの根強い支持に繋がっていた。


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* [http://www.artimuspyle.com Official Artimus Pyle site] - アーティマス・パイル公式サイト
* [http://www.artimuspyle.com Official Artimus Pyle site] - アーティマス・パイル公式サイト
* [http://www.edking.net Official Ed King site] - エド・キング公式サイト
* [http://www.edking.net Official Ed King site] - エド・キング公式サイト

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2017年8月5日 (土) 14:53時点における版

レーナード・スキナード
1973年
基本情報
出身地 フロリダ州ジャクソンビル
ジャンル
活動期間
  • 1964年 (1964)-1977年 (1977)
  • 1979
  • 1987年 (1987)-現在
レーベル
共同作業者
公式サイト lynyrdskynyrd.com
メンバー
旧メンバー See band members section and members list

レーナード・スキナード (Lynyrd Skynyrd [ˌlɛnərd ˈskɪnərd] LEN-ərd-SKIN-ərd[2]) は、アメリカ合衆国サザン・ロックバンド。1964年にフロリダ州ジャクソンビルで「マイ・バックヤード My Backyard」として結成され、その後「ノーブル・ファイブ The Noble Five」「ワン・パーセント One Percent」の名で活動、1969年に「レーナード・スキナード」と改名した。バンドはそのライブパフォーマンスや「スウィート・ホーム・アラバマ」「フリー・バード」と言った代表曲でその認知度を高めていったが、成功のピークであった1977年に飛行機事故でメンバー2人とバックアップシンガーが死亡、人気の絶頂時に活動を停止した。バンドはアメリカ合衆国で2,800万枚のレコード販売を記録した。

生き残ったメンバーは1987年に、リードボーカルにジョニー・ヴァン・ザント(バンドの創設者、ロニー・ヴァン・ザントの弟)を迎えリユニオン・ツアーを行った。バンドは現在ももう一人の創設者であるゲイリー・ロッシントン、ジョニー・ヴァン・ザントとリッキー・メドロック(1996年にバンドに復帰する前、1971年から72年にかけて曲を書きレコーディングに参加していた。)でツアーやレコーディングを行っている。もう一人の創設者、ラリー・ヤンストロムは70年代に加入していたエド・キングアーティマス・パイルと共に音楽活動を続けているが、もはやバンドとはツアーやレコーディングを行っていない。マイケル・カーテロンは1999年以来バンドの主たるドラマーとしてレコーディング、ツアーを行っている。

レーナード・スキナードは2006年3月13日にロックの殿堂入りを果たした[3]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第95位に選ばれている。

歴史

初期

1964年の夏、フロリダ州ジャクソンビルロニー・ヴァン・ザントボブ・バーンズアレン・コリンズゲイリー・ロッシントンラリー・ヤンストロムの5名により結成。結成当初のバンド名は「Bob's Backyard」。これはボブ・バーンズの自宅車庫で練習していたことに由来する。その後「The Noble Five」と改名した[4]。彼らはまた、1968年まで「One Percent」というバンド名を使用した[4]

1968年にバンド・コンテストで優勝し、地元のローカル・レーベルからデビューした。1969年にヴァン・ザントは新しいバンド名、「レーナード・スキナード Leonard Skinnerd」を思いついた[5]。この奇妙な名は、メンバーがフロリダ州ジャクソンビルのロバート・E・リー高校に通っていたときの体育教師、レオナルド・スキナーが頭髪に関する校則を厳しく守らせていたことで有名であり、彼の名前をもじったものである[6][7]。ロッシントンは学校を辞め、髪の毛に悩まされることに飽き足りた[8]。また、特徴的なスペル「"Lynyrd Skynyrd"」は少なくとも1970年代に使用されていた。バンドは高校時代に対して批判していたにもかかわらず、彼らは後にスキナーと友好的な関係を築き、ジャクソンビル・コロシアムで行ったコンサートにスキナーを招待したりもしている[9]。スキナーはまた、バンドが3枚目のアルバムの内側に自分のサインの写真を使用することを許可した[10]

1970年までにレーナード・スキナードはジャクソンビルのトップバンドとなり、地元のコンサートで頭角を現し、いくつかの国内での活動を開始した。ジャクソンビル出身でメイコンを拠点とするハスラーズ社のパートナーであるパット・アームストロングと、フィル・ウォルデンの弟であるアラン・ウォルデンがバンドのマネージャーとなった。アームストロングはその後間もなく自らの代理店を立ち上げるためにハスラーズ社を離れた。ウォルデンは1974年までマネージャーを務め、その後ピーター・ラッジがマネージャーとなった。バンドは70年代初期に南部全域で演奏を続け、ハードなブルースロックのサウンドとイメージをさらに発展させ、スタジオでの実験的なレコーディングを行った。彼らはこの独特な「サザン」サウンドを、カントリー、ブルース、そしてブリティッシュロックの影響を少しばかり取り入れ、ブレンドさせて作り出した[11]

この頃、バンドは初めてラインナップの変更を経験した。ヤンストロムが脱退してグレッグ・T・ウォーカーがベースを担当した。また当時、2人目のドラマーとしてリッキー・メドロック(後にレーナードでギターを担当する)が加入。リッキーとボブ・バーンズはそれぞれ脱退・再加入を経つつ、時にツインドラムでの演奏も披露した。メドロックの祖父ショーティー・メドロックは「カーティス・ロウのバラード」の執筆に影響を与えた。バンドの歴史が書かれたいくつかの文献ではこの頃バーンズはバンドを短期間離れていたとされる。1971年、バンドはマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで、ウォーカーとメドロックがリズムセクションを担当し、バーンズ抜きでいくつかの録音を残している[要出典]

メドロックとウォーカーはバンドを離れ、ブラックフットに加入した。バンドは1972年に再びマッスル・ショールズでレコーディングを行い、バーンズがドラムを担当、レオン・ウィルクソンがベースを担当した。またこの年、レオンの友人で当時レーナードのローディだったビリー・パウエルが正式なキーボード担当として加入した。メドロックはその後再びバンドに復帰している。メドロックとウォーカーは1978年にリリースされたコンピレーション「First and... Last」まで、どのアルバムにも参加しなかった。

絶頂期 (1973-1977)

1972年にバンド(ヴァン・ザント、コリンズ、ロッシントン、バーンズ、ウィルクソン、パウエル)はブラッド・スウェット・アンド・ティアーズアル・クーパーに見いだされた。クーパーはアトランタのFunocchio'sで彼らのステージを見た。そしてMCAレコード傘下の自らのサウンズ・オブ・ザ・サウスレーベルと彼らを契約させ、ファーストアルバム『レーナード・スキナード』をプロデュースした。ウィルクソンはこのアルバムのレコーディングセッション初期にバンドを離れていたため、参加したのは2曲のみである。彼はアルバムリリース直後にヴァン・ザントの誘いでバンドに復帰し[要出典]、アルバムカバーのジャケット写真にも写っている。ウィルクソン不在時にベースとギターを手伝ったストロベリー・アラーム・クロックのギタリスト、エド・キングはレコーディング後に3人目のギタリストとして正式加入し、バンドはライブにおいてスタジオでの3つのギターセクションを再現できるようになった。アルバムは1973年8月13日にリリースされ[12]、100万枚を超える売上を記録、RIAAゴールドディスクとなった[13]。シングル「フリー・バード」は全国放送され[14]、最終的にBillboard Hot 100の19位を記録した[要出典]

バンドのファン層は1973年に急速に成長し続けた。これはザ・フーの『四重人格』ツアーで前座を務めたことによる。1974年のセカンドアルバム『セカンド・ヘルピング』ではキング、コリンズ、ロッシントンがそれぞれヴァン・ザントとのコラボレーションで曲を書き、バンドのブレークスルーを強固なものとした。ニール・ヤングの「サザン・マン」へのアンサーソングであるシングル「スウィート・ホーム・アラバマ[15]は、8月のチャートで8位に達した。(ヤングとヴァン・ザントはライバルではなく、お互いの音楽のファンであり、友人であった。ヤングは彼らのために「パウダーフィンガー」を書いたが、彼らはそれを録音しなかった[16]。)絶頂期における彼らのレコードはそれぞれ100万枚を超える売り上げを記録したが、「スウィート・ホーム・アラバマ」はトップ10に入った唯一のシングルであった[17]。『セカンド・ヘルピング』は1974年に12位を達成し、最終的にはマルチプラチナとなった。その年の7月、レーナード・スキナードはミズーリ州セダリアミズーリ・ステート・フェアで行われたオザーク・ミュージックフェスティバルのヘッドライナーの一人であった[要出典]

トリプルリードギターを擁する重厚な音を特徴とし、オールマン・ブラザーズ・バンドやアトランタ・リズム・セクションと並ぶサザン・ロックの旗手として、ライヴでは多数の観客を動員する人気バンドとなった。

1975年1月にバーンズがバンドを去り、代わってケンタッキー出身のアーティマス・パイルが加入した。バンドの3枚目のアルバム『ナッシン・ファンシー』は17日で録音された[18]。クーパーとバンドはアルバムリリース前に相互の合意によって袂を分かち、クーパーはテープのミックスを完成させてバンドから離れた[19]。このサードアルバムは前作よりも売り上げが低かった。エド・キングはツアーの途中で、疲労を理由にバンドを離れた。1976年1月、正式メンバーとはみなされなかったが、バックアップシンガーのレスリー・ホーキンスキャシー・ゲインズジョジョ・ビリングズリー(3人は「ホンケッテス」として知られる)が加入した。『ナッシン・ファンシー』からは「サタデイ・ナイト・スペシャル」がバート・レイノルズ主演の映画『ロンゲスト・ヤード』の挿入歌に採用された。キングが脱退した後、バンドはしばらくツインギター編成で活動し、4枚目のアルバム『ギミー・バック・マイ・ブレッツ』は1976年にリリースされたが、前作同様ファースト、セカンドほどの成功は収められなかった。ヴァン・ザントとコリンズは、バンドの初期の特徴であったトリプルリードギターの特性が失われていると真剣に感じていた。その後バンドはレスリー・ウェスト(元マウンテン)やバリー・ハーウッド(後にゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズらと共にロッシントン・コリンズ・バンドで活動)を含む何名かのギタリストのオーディションを行ったが、最終的にはキャシー・ゲインズの弟スティーヴ・ゲインズがキングの後任として加入した[20]。最盛期(1976年前後)には南部でのライヴにおいてカルロス・サンタナを前座とするほどの人気を誇った。

ゲインズは自身のバンド、クロウダッド(スキナードの「サタディ・ナイト・スペシャル」をしばしば演奏していた)を率いていたが、1976年5月11日にカンザスシティで行われたコンサートに、オーディションがてら招待された。バンドはまたゲインズと非公式のジャムを数回行い、ゲインズは6月に正式加入した。ゲインズが新たに加わったバンドはアトランタフォックス・シアターで行われたライブを録音、2枚組ライブアルバム『ワン・モア・フロム・ザ・ロード』としてリリースし、その後ネブワース・フェスティバルに出演した[要出典]

1977年

コリンズとロッシントンは1976年のレイバー・デーの週末に重大な交通事故を起こし、次のアルバムの製作が遅れた上、いくつかのコンサートがキャンセルとなった。ロッシントンの事故は、不吉な「ザット・スメル」に影響を与えた。それは明らかに彼ともう一人のバンドメンバーに対する薬物乱用についての警告であった。ロッシントンは、酔っ払ってクオルードを飲用し、オークの木に車をぶつけた「魅力的な」曲であることを何度も認めている。ヴァン・ザントは少なくとも自分の行動を抑制し、スキナードの評判の一部であった騒々しい喧嘩のサイクルを抑えるための真剣な試みを試していた[要出典]

1977年の『ストリート・サヴァイヴァーズ』はスティーヴ・ゲインズのギタリスト/ボーカリストとしてのショーケースとなった。ゲインズは1年前にバンドに参加し、今回スタジオ盤でのデビューとなる。ヴァン・ザントは公私にわたってゲインズの複数の才能に驚き、バンドは "いつかは彼の影の中にいる"と述べた[21]。ゲインズの貢献はヴァン・ザントと共作し、共にリードボーカルを担当した「"You Got That Right"」や、加入前に作ったギターブギの「"I Know a Little"」などがある。ゲインズのこのアルバムにおける(そしていくつかのコンサートにおける)リーダー性は、彼の手によるブルース「"Ain't No Good Life"」に示される。アルバムにはまた、ヒットシングル「"What's Your Name"」「"That Smell"」も含まれた。バンドは自身最大のツアーのための準備を行い、ショーは象徴的なロック・アンセム「フリー・バード」がハイライトとなった[22]。11月、バンドはヴァン・ザントの生涯にわたる夢であったニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでのコンサートを実現する予定だった[要出典]

飛行機事故 (1977)

音楽的には当時隆盛のブルース・ロックをはじめとするブリティッシュ・ロックに強い影響を受けつつも、アメリカ南部土着のカントリーのセンスを保持し、後にサザン・ロックと呼ばれる音を作り上げた。また、ヴィジュアル・イメージに南軍旗を使うなど、アメリカ南部の、悪く言えばレッドネックのイメージを強く持っていたが、それが南部ではバンドへの根強い支持に繋がっていた。

1977年10月20日、ツアー中の飛行機(コンベア240)がミズーリ州マッカム近郊で燃料切れにより[23]墜落し、ロニー・ヴァン・ザント、スティーヴ・ゲインズ、キャシー・ゲインズらが死亡。バンドは解散した。飛行機墜落事故の同年には、ロニーの弟であるドニー・ヴァン・ザントが率いる38スペシャルがデビューしており、しばらくはレーナード・スキナードの後継を名乗り、コンサートでもレーナード・スキナードの曲を演奏するなどしていた。

残ったメンバーのゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズ、ビリー・パウエルらは1980年にロッシントン・コリンズ・バンドを結成し活動を続けたが、アレン・コリンズは1986年に交通事故で下半身不随となり、その4年後に漫性肺炎により死去した。

1987年、ロニーのもう一人の弟であるジョニー・ヴァン・ザントと共に、レーナード・スキナードとしてバンドを再結成。2006年にはロックの殿堂入りを果たした[24]

2009年には初期メンバーのビリー・パウエルが心臓麻痺で死去したが、バンドは現在も活動を続けている。

2015年4月3日、初期メンバーのボブ・バーンズが交通事故で死去。

メンバー

初期

  • ロニー・ヴァン・ザント (Ronnie Van Zant) - ヴォーカル(1977年、飛行機事故により死亡)
  • ゲイリー・ロッシントン (Gary Rossington) - ギター
  • アレン・コリンズ (Allen Collins) - ギター (1990年、慢性肺炎により死亡)
  • エド・キング (Ed King) - ギター(1975年脱退)
  • スティーヴ・ゲインズ (Steve Gaines) - ギター(1975年加入、1977年飛行機事故により死亡)
  • ビリー・パウエル (Billy Powell) - キーボード
  • ラリー・ヤンストロム (Larry Junstrom) - ベース(1972年脱退)
  • レオン・ウィルクソン (Leon Wilkeson) - ベース(1972年加入)
  • ボブ・バーンズ (Bob Burns) - ドラムス(1975年脱退、2015年交通事故により死亡)
  • アーティマス・パイル (Artimus Pyle) - ドラムス(1975年加入)

再結成時

  • ジョニー・ヴァン・ザント (Johnny Van Zant) - ヴォーカル
  • ゲイリー・ロッシントン (Gary Rossington) - ギター
  • ビリー・パウエル (Billy Powell) - キーボード
  • レオン・ウィルクソン (Leon Wilkeson) - ベース
  • リッキー・メドロック (Rickey Medlocke) - ギター
  • ヒューイ・トマソン (Hughie Thomasson) - ギター
  • マイケル・カーテロン (Michael Cartellone) - ドラムス

ディスコグラフィー

  • 1973年:レーナード・スキナード (Pronounced Leh-nerd Skin-nerd)
  • 1974年:セカンド・ヘルピング Seconed Helping
  • 1975年:ナッシン・ファンシー Nuthin' Fancy
  • 1976年:ギミー・バック・マイ・ブレッツ Gimme Back My Bullets
  • 1977年:ストリート・サヴァイヴァーズ Street Survivors
  • 1978年:Skynyd's First And … Last
  • 1987年:伝説 Legend
  • 1991年:Lynyrd Skynyrd 1991
  • 1993年:The Last Rebel
  • 1994年:エンデインジャード・スピーシーズ Endangered Spacies
  • 1997年:トゥエンティ Twenty
  • 1998年:スキナーズ・ファースト〜コンプリート・マッスル・ショールズ・アルバム Skynyrd's First
  • 1999年:エッジ・オブ・フォエヴァー Edge Of Forever
  • 2000年:Christmas Time Again
  • 2003年:Vicious Cycle
  • 2009年:神と銃 God & Guns
  • 2012年:ラスト・オブ・ア・ダイイン・ブリード Last Of A Dyin' Breed

ライブアルバム

  • 1976年:ワン・モア・フロム・ザ・ロード One More From The Road
  • 1988年:サザン・バイ・ザ・グレイス・オブ・ゴッド Southern By The Grace Of God
  • 1998年:ライヴ・フロム・スティール・タウン Lyve From Steel Town
  • 2010年:ライヴ・フロム・フリーダム・ホール Live From Freedom Hall

その他

  • 1979年:Gold & Platinum
  • 1982年:Best Of The Rest
  • 1989年:Skynyrds' Innyrds
  • 2000年:Then And Now

ソロ

  • 1986年:Rossington / Returned To Scene Of The Crime

日本公演

その他

関連項目

参考文献

  1. ^ Erlewine, Stephen Thomas. Artist Biography by Stephen Thomas Erlewine - オールミュージック. 2016年6月15日閲覧。
  2. ^ Pronunciation from album (Pronounced 'Lĕh-'nérd 'Skin-'nérd).
  3. ^ Rock and Roll Hall of Fame, Inductees by Year: 2006”. Rockhall.com. 2013年4月1日閲覧。
  4. ^ a b The Official Lynyrd Skynyrd History Website - History Lessons”. Lynyrdskynyrdhistory.com. 2015年4月4日閲覧。
  5. ^ Soergel, Matt. “Honoring a namesake”. Chronicle.augusta.com. 2011年9月14日閲覧。
  6. ^ Robert E. Lee High School history (archived). dreamsbeginhere.org
  7. ^ Lynyrd Skynyrd : AllMusic - Biography by Stephen Thomas Erlewine - 2012年12月1日閲覧
  8. ^ The Official Lynyrd Skynyrd History Website - History Lessons”. Lynyrdskynyrdhistory.com. 2011年11月2日閲覧。
  9. ^ https://web.archive.org/web/20080625193759/http://lynyrdskynyrddixie.com/2006/06/02/skynyrd-namesake-in-brevard/
  10. ^ “Leonard Skinner, Rock Band Muse, Dies at 77”. Associated Press. (2010年9月21日). https://www.nytimes.com/2010/09/21/arts/music/21skinner.html 2010年9月22日閲覧。 
  11. ^ Oxford Music Online (Registration required)
  12. ^ Lynyrd Skynyrd Discography”. Lynyrdskynyrd.com. 2011年9月14日閲覧。
  13. ^ Murrells, Joseph (1978). The Book of Golden Discs (2nd ed.). London: Barrie and Jenkins Ltd. p. 1330. ISBN 0-214-20512-6 
  14. ^ Butler, J. Michael. "Lynyrd Skynyrd." Grove Music Online. N.p., 3 Sept. 2014.
  15. ^ Lynyrd Skynyrd 'Sweet Home Alabama' | Classic Tracks - soundonsound.com - 2012年12月1日閲覧
  16. ^ Simmons, p. 135.
  17. ^ Butler, J. Michael. "Lynyrd Skynyrd." Grove Music Online. N.p., 3 Sept. 2014.
  18. ^ Hunt, Dennis (1975年9月15日). “Ups and Downs of Lynyrd Skynyrd: More Pop News”. Los Angeles Times. http://search.proquest.com.ezproxy1.library.arizona.edu/docview/157771298/49CAEBCB7E4F44D3PQ/15?accountid=8360 2014年10月3日閲覧。 
  19. ^ Al Kooper: Backstage Passes & Backstabbing Bastards: Memoirs of a Rock 'N' Roll Survivor (1998)
  20. ^ Drozdowski, Ted (2015年6月26日). “Gary Rossington Discusses 'One More for the Fans!' and His Life and Times with Lynyrd Skynyrd”. Guitar World. NewBay Media. 2016年3月15日閲覧。
  21. ^ Lynyrd Skynyrd - L.A. Times”. The Uncool - The Official Site for Everything Cameron Crowe. 2015年10月17日閲覧。
  22. ^ Freebird”. Wolfgangsvault.com. 2011年9月14日閲覧。
  23. ^ NTSB. “事故報告書” (英語). 2008年2月2日閲覧。
  24. ^ Lynyrd Skynyrd: inducted in 2006 | The Rock and Roll Hall of Fame and Museum - 2012年12月1日閲覧

外部リンク