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{{Infobox 人物
{{存命人物の出典明記|date=2017年2月}}
|氏名 = 米村 でんじろう
'''米村 でんじろう'''(よねむら でんじろう、[[1955年]][[2月15日]] -)は、[[日本]]の[[科学|サイエンス]][[プロデューサー]]<ref name="pdf1"/>、[[サイエンスライター]]、[[タレント]]。[[有限会社]]でんじろうサイエンスプロダクション[[代表取締役]]。[[本名]]の'''米村 傳治郎'''<ref name="ref3">{{Cite web|url=http://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/34/no34.html|title=あの人に聞きたい私の選んだ道 第34回|archiveurl=http://wayback.archive.org/web/20150720224258/http://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/34/no34.html|archivedate=2015-07-20|publisher=株式会社 実業之日本社|accessdate=2017-02-24}}</ref>(読みは同じ)名義での執筆も行っている。
|ふりがな = よねむら でんじろう
弟子にサイエンスエンターテイナーの[[チャーリー西村]]、[[ジャイアン村上]]、[[市岡元気]]、[[海老谷浩]]がいる。
|画像 = {{画像募集中|cat=人物}}
|画像サイズ = <!-- 250px -->
|画像説明 =
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1955|2|15}}
|生誕地 = [[千葉県]][[市原郡]][[加茂村 (千葉県)|加茂村]](現:[[市原市]]){{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}
|出生名 = 戸山 傳治郎{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}
|没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} -->
|死没地 =
|国籍 = {{JPN}}
|別名 =
|出身校 = [[東京学芸大学]]
|職業 = 都立高校教諭、サイエンスプロデューサー{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=55}}
|受賞 = 科学技術庁長官賞(1996年、1998年){{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}
}}
'''米村 でんじろう'''(よねむら でんじろう、[[1955年]](昭和30)[[2月15日]] - )、'''米村 傳治郎'''、'''米村 伝治郎'''は、[[日本]]の[[科学|サイエンス]][[プロデューサー]]である{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=55}}。サイエンスショーの企画、演出、書籍の監修、テレビ番組の出演や監修、実験装置の開発などを手がける。元都立高校の物理教師でもある。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[千葉県]][[市原市]]出身<ref name="ref3"/>。[[千葉県立市原高等学校]]卒業<ref name="ref4">{{Cite web|url=http://www.chiba-c.ed.jp/ichihara-h/ichihara/schoolinfo.html|title=学校概要|publisher=千葉県立市原高等学校|accessdate=2017-02-24}}</ref>。高校時代は理科が嫌いだったが、これは子供たちに[[科学]]の楽しさを伝えたいと思っている理由の一つである。
[[千葉県]][[市原郡]][[加茂村 (千葉県)|加茂村]]に、4人兄弟の末っ子として生まれる{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。家は兼業農家であった{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。


1973年、[[千葉県立市原高等学校]]を卒業する{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。高校3年生の時に、父親が職場の工場で事故死したこともあって、授業料の安い国立大学を志望して受験したが、失敗した{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=57}}。浪人生活2年目、母親が見かねて「働いてみたらどうか」と勧め、6月から8月まで工場で40代から50代の労働者たちにまざって働いた{{sfn|週刊朝日 2014年8月8日号|2014|p=36}}。また9月から[[予備校]]に通うが、講義についていけずにやめた{{sfn|週刊朝日 2014年8月8日号|2014|p=36}}。3年目、母親に頼るのがつらくなり、[[新聞奨学生]]の募集を見て、[[面接]]を受けたが断られたこともあった{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=57}}。牛乳配達のアルバイトをしながら{{sfn|週刊朝日 2014年8月8日号|2014|p=36}}、3年目の宅浪をつづけ、1976年に[[東京学芸大学]]理科B類(物理)に合格、入学した{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。しかし、大学の講義でもしばしば単位を落とした{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=57}}。所属した研究室で当時は目新しかったパソコン用の理科教育ソフト作成を行い、この時、指導教官から賞賛をうけた{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=57}}。米村は、「先生から褒められたのは人生で初めて。段階を踏んでやればできると自信がうまれた」と回想している{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=57}}。
3浪ののち[[東京学芸大学]][[教育学部]]に進学し、同[[大学院]]理科教育専攻科修了<ref name="pdf1">{{Cite web |date=2005-06|url=http://www.mri.co.jp/NEWS/magazine/club/02/__icsFiles/afieldfile/2008/10/20/20050601_club04.pdf|title= 科学も芸術であり文化である|format=PDF|archiveurl=http://wayback.archive.org/web/20170224141022/http://www.mri.co.jp/NEWS/magazine/club/02/__icsFiles/afieldfile/2008/10/20/20050601_club04.pdf|archivedate=2017-02-24|publisher=三菱総合研究所|accessdate=2017-02-24}}</ref>。なお3浪もしていたのは「目的があったからここまでやれた」と述べている。


「社会に出て働きたくない」という理由で、東京学芸大学大学院(理科教育専攻)に進学した{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=57}}。大学院で知り合った女性と卒業後の1982年に結婚し、米村姓を名乗る{{efn|旧姓は「戸山」{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}}}{{efn|米村でんじろうの妻も高校の物理教師であった}}。卒業後は研究職につくことを希望し、他大学の博士課程や公務員試験を受けたが落ちたため、研究生として東京学芸大学に残る道を選んだ{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。教授の紹介で、[[学校法人自由学園 |自由学園]]の講師を務める{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。自由学園では、「教科書にとらわれず、思い通りに授業してもらって結構です」とアドバイスを受け、林で拾った木の枝からつくった炭とアルミ缶を使った「木炭電池」(後述)を生徒に披露するなど、実験重視の授業に取り組んだ{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。
[[学校法人自由学園]][[講師 (教育)|非常勤講師]]、その後[[地方公務員]]となり[[都立高等学校|都立高校]][[教諭]]を経て、公務員退職後の1998年に「米村でんじろうサイエンスプロダクション」を設立<ref name="pdf1"/>。


=== 都立高校教師時代 ===
高校の理科教師としての最初の勤務校である[[自由学園]]では実験を主体とした斬新な授業が受け入れられていたが、退職後、地方公務員=公立高校教員として都立高校へ赴任後は[[学習指導要領]]や「生徒にケガをさせては大変だ<ref>実際はさほど危険性のない実験でも、万一を考慮してできなかったという。</ref>」「くだらない実験よりも成績を上げるための授業を優先するように」という保護者や学校側の意見の多さから、教えたいと思っていた多くの実験が教えられないことを知りショックを受ける。「実験を通じて科学を好きになって欲しい」という想いを伝えられない憤りから退職、退職に際しても学校側の対応は冷ややかなものだった。
自由学園で教師の面白さを知り、1984年に東京都教員採用試験を受け合格した{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。1985年度(昭和60年度)より、[[東京都立稲城高等学校]]に理科教師(物理)として赴任した{{sfn|創立20周年記念誌|1996|p=69}}{{efn|東京都立稲城高等学校は、2004年3月に閉校。[[東京都立南野高等学校]]と統合して、2005年4月に[[東京都立若葉総合高等学校]]として再出発した。}}。


稲城高校は、米村によると「生徒は落ちこぼれ。授業中に漫画を読んだり、黒板に向かっている間に数人が教室を抜けたりして、とても授業にならなかった」という状況であった{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。また「高校進学の時期になると『あの学校は無くなってしまうらしい』という噂が中学生の間に流れるような状況であった」としている{{sfn|第39回応用物理学関係連合講演会物理教育シンポジウム報告|1992|p=229}}。このとき、生徒が理科に関心を持てるように、「百人おどし」(後述)の実験をしたり、野外観察に生徒たちを連れ出して、野草や木の実をビーカーで茹でて食べられるかどうかを、生徒たちが自主的に調べるように仕向けたりした授業を行った{{sfn|アントレ2015年9月27日号|2007|p=40}}。このころ、[[Mr.マリック]]がテレビで脚光を浴びた時期であり、生徒が米村に「超能力はあるのか?」と質問してくることもあった{{sfn|日本物理学会:秋の分科会講演予稿集|1989|p=275}}。これをヒントに授業で超能力を取り上げ、超能力について生徒に考えさせる授業方法の模索も行った{{sfn|日本物理学会:秋の分科会講演予稿集|1989|p=275}}。
それ以後、その後、自身の理念を実現したいと思い立ち、サイエンスプロデューサーという立場で活動を始めてメディアや雑誌へ出演するなど、活動は多岐にわたる。ニックネームは「でんじろう先生」。趣味は[[フライフィッシング]]。


この時期、東京学芸大学大学院の先輩で、当時、[[国際基督教大学高等学校]]で物理教師をしていた[[滝川洋二]]も、学校教育での「理科離れ」の状況に危機感を持っていた。滝川は理科離れを食い止めるためには実験による授業が重要であると考え、1986年1月に「物理教育実践検討サークル」を立ち上げた。後にサークルは「[[ガリレオ工房]]」と改称することになる。このサークルに、滝川は大学院時代の後輩である米村を誘った{{sfn|滝川、ガリレオ工房の夢|1999|p=67}}。滝川によると、米村はガリレオ工房の定例会に毎回新しく開発した実験を持ち込み披露していた{{sfn|滝川、世界初に挑戦する探究活動|2004|p=828}}。一時期は毎月1時間程度の米村講座が続くような情況であったという{{sfn|滝川、世界初に挑戦する探究活動|2004|p=828}}。
== 主な出演番組 ==
=== テレビ番組 ===
* それ行けキンキ大冒険(日本テレビ系:番組中コーナー、マメマメマンの博士として)
* それ行けキンキ大放送(同上)
* サイエンスステージ ([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])<ref name="ref2">{{Cite web|url=http://www.denjiro.co.jp/05-cast/den/d.html|title=米村でんじろうプロロフィール|archiveurl=http://wayback.archive.org/web/20160120230901/http://www.denjiro.co.jp/05-cast/den/d.html|archivedate=2016-01-20|publisher=米村でんじろうサイエンスプロダクション|accessdate=2017-02-24}}</ref>
* おれは日本のガリレオだ!! (NHK総合) <ref name="pdf1"/>
* [[やってみようなんでも実験]] ([[NHK教育テレビジョン|NHK教育]])<ref name="ref2"/>
* [[世界一受けたい授業]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<ref name="ref2"/>
* [[おしゃれカンケイ]] (日本テレビ)
* [[どうぶつ奇想天外!]] ([[TBSテレビ|TBS]])<ref name="ref2"/>
* [[学校へ行こう!MAX]] (TBS)
* [[平成教育委員会]] ([[フジテレビジョン|フジテレビ]])<ref name="ref2"/>
* [[森田一義アワー 笑っていいとも!]] (フジテレビ・2004年10月〜2005年3月、コーナーレギュラー)<ref name="ref2"/>
* [[でんじろう先生の日曜実験室 ラブラボ!]] ([[中京テレビ放送|中京テレビ]])<ref name="ref2"/>
* [[でんじろう先生のはぴエネ!]](中京テレビ)<ref name="ref2"/>
* [[日立 世界・ふしぎ発見!]](TBS・2009年5月9日~、ゲスト解答者)
* [[土曜ワイド劇場]]「[[火災調査官・紅蓮次郎]]スペシャル」([[テレビ朝日]]・2010年2月13日、本人役)
* [[熱中時代#熱中時代(2011年ドラマスペシャル)|熱中時代]](日本テレビ・2011年4月9日、教師役)
* [[世界に誇る50人の日本人 成功の遺伝史]](日本テレビ、[[2013年]][[12月30日]]、スペシャルゲスト)
* [[しくじり先生 俺みたいになるな!!]](テレビ朝日、[[2016年]][[5月2日]]、「学校が嫌いなのに教師になって生徒に迷惑をかけちゃった先生」として出演)


1993年4月より[[東京都立小金井北高等学校]]に赴任した{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。米村の回顧によると「(小金井北高校は)進学校で、実験授業は大学受験の役に立たず生徒やその父母から評判が良くなかった」という{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。また教頭に呼び出され「君が教師になったのは間違いだ」と言われたこともあった{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。
=== テレビCM ===
* [[イオングループ]]
* [[Hot Pepper]] - [[大槻義彦]]と共演。
* [[ミズノ]] ブレスサーモ
* [[花王]] クリアクリーン


このころから、米村は[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の番組製作を手伝うようになった。「[[やってみようなんでも実験]]」では自ら出演して実験を披露するようにもなった{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=59}}。また、展示内容のリニューアルを計画していた[[科学技術館]]より、サイエンスショーエリアのプロデュースが依頼された{{sfn|JSF Today 2006年10月号|2006|p=11}}{{efn|1994年、[[科学技術庁長官]]であった[[田中眞紀子]]が科学技術館を視察した際に、感想を聞かれて「(科学技術館の展示内容は)'''[[カレーライス|甘口のカレーライス]]'''」と辛口の批判を行った{{sfn|月刊 時評|1996-07|p=34}}。科学技術館の運営していた[[日本科学技術振興財団]]はこの批判を受けて、急遽リニューアルを計画し、5階フロアの実験ショースペース「ワークス」のプロデュースを米村に依頼することになった{{sfn|JSF Today 2006年10月号|2006|p=11}}。}}。
== 主なパフォーマンス実験 ==
; [[プラコップ]]の[[コンデンサ|蓄電器]]
: 二個のプラコップを重ね、その間に[[アルミ箔]]を挟むことによってできる簡易蓄電器。フランクリンが凧上げの実験に使用したライデン瓶の現代リメイク版といえる。テレビ番組で頻繁に披露している実験。充電は長い[[風船]]をわき等でこすって発生させる[[静電気]]を用いるが、充電できる電気量は少ないので[[心臓]]に持病がある人間、[[心臓ペースメーカー|ペースメーカー]]を内蔵している人間以外であれば安全。これを応用して、プラコップのアルミ箔を棒状かつ複雑な形にひねり、それに触れないようにアルミ箔の輪を通すが、誤って触れると電気ショックが起こるという実験も行われる(『[[ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!]]』の[[イライラ棒|電流イライラ棒]]に近い)。
; [[段ボール]]の[[空気砲]]
: 段ボール箱の蓋などの隙間をガムテープでめばりして、一面だけに丸い穴を開ける。両サイドを叩くと丸い穴から空気の塊が飛び出る。段ボールの中で[[線香]]を焚いておくと空気の塊(渦輪と呼ばれる円形の気流)が目視できる。
; [[厚紙]][[ブーメラン]]
: 三枚の厚紙を対称性よくブーメラン形にする。厚紙を一方向に癖付けしてやると完成。ブーメランのように投げると大きく弧を描いて自分のところに戻ってくる。米村が地方公演の時に「つかみ」として用いる実験で、大人の心をも鷲づかみにするほど盛り上がるという。
; 紙コップ[[蓄音機]]
: 紙コップの底面に粘土を介して[[爪楊枝]]を取り付け[[レコード]]型の厚紙に爪楊枝だけ触れるようにしたもの。録音する時は手で厚紙を回しながら紙コップに音を聞かせる。再生する時はそのまま厚紙を回せば良い。高度な工作技術とテクニックが必要。
; 浮く[[シャボン玉]]
: ティッシュなどとの摩擦により帯電させたパイプをシャボン玉に近づけると、シャボン玉がクーロン力を受けて運動する。シャボン液に洗濯のりを混ぜるとシャボン玉が割れにくくなる。


=== サイエンスプロデューサー ===
== 主な著書 ==
[[1996年]]3月に都立高校教師を辞し{{efn|「『東京都は今、教師余りですから、辞めてくれたら万々歳』という感じで辞表が受理された」と米村は回顧している{{sfn|アントレ2015年9月27日号|2007|p=40}}。}}、サイエンスプロデューサーとして独立する{{efn|ガリレオ工房の滝川などは、米村の独立の話に「サイエンスプロデューサーとして食べていく見通しは無いのだから、辞めない方が無難」と諭したという{{sfn|滝川、ガリレオ工房の夢|1999|p=67}}}}。同年5月に米村を追ったドキュメンター番組「おれは日本のガリレオだ!?」がNHKで放映されると、各地の学校や科学館からの講演依頼が米村のもとに殺到した{{sfn|エコノミスト2008年6月24日号|2008|p=46}}。米村は「最初のころは講演依頼に従って話をしていたが、講演だけでは時間がもたないため実験を取り入れ、次第に実験の比重が多くなり、アシスタントや実験装置が徐々に増え、実験の間に話を混ぜていくサイエンスライブショーの構成ができあがっていった」と述べている{{sfn|エコノミスト2008年6月24日号|2008|p=46}}。
* まんが アッ!とおどろく科学手品 ([[金の星社]]) ISBN 4-323-05341-X
* 米村傳治郎のおもしろ科学館 ([[オーム社]]) ISBN 9784274024788 <ref name="ref2"/>
* きみにもできる手作り電池 ([[岩波書店]]) ISBN 978-4001163186 <ref name="ref2"/>
* つくろう湯船で竜巻 ([[ポプラ社]]) ISBN 978-4-591-05991-3 <ref name="ref2"/>
* 親子で楽しむ科学実験 (宝島新書) ISBN 978-4796616171 <ref name="ref2"/>
* 親子で遊ぶ科学手品100 ([[高橋書店]]) ISBN 978-4471102630
* NHKやってみようなんでも実験 ([[青春出版社]]) ISBN 978-4652001912


米村は科学技術館の「ワークス」でサイエンスショーの実演をする一方で、地方から依頼のあったサイエンスライブショーの公演を行うようになった。[[1998年]]、科学技術館で米村の実験助手を務めていた[[チャーリー西村]]などと共に、「米村でんじろうサイエンスプロダクション」を立ち上げた{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。[[2004年]]より、岩手大学で任期付き客員教授を務めた。[[2005年]]、[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]では、長久手会場日本広場内にて「日本館わくわくエネルギー教室」を監修し、自ら出演して実演実験を行った。[[2006年]][[4月20日]]には、科学技術館を視察に訪れた内閣総理大臣[[小泉純一郎]]が、遠足で訪れていた厚木市立厚木第二小学校の小学5年生の28人と一緒に米村の実験ショーに参加した{{sfn|JSF Today 2006年7月号|2006|p=10}}<ref name="小泉総理の動き 科学技術館を視察">{{Cite web |date = 2006-04-20|url = http://www.kantei.go.jp/jp/koizumiphoto/2006/04/20kagaku.html |title = 小泉総理の動き 科学技術館を視察|publisher = 首相官邸|accessdate = 2017-06-01}}</ref>{{efn|米村の実験に参加した小泉純一郎は「科学の修行は政治の修行より難しい」などの感想を残している<ref name="小泉総理の動き 科学技術館を視察"/>。}}{{efn|[[野依良治]]、[[松田岩夫]]、[[小坂憲次]]も同席している<ref name="小泉総理の動き 科学技術館を視察"/>。}}。[[2007年]]9月には、NHKの番組撮影と[[国際協力機構]](JICA)のサポートで、[[ケニア]]の中学校、孤児院などで科学実験の授業を行った{{sfn|Monthly JICA 2008年3月号|2008|p=34}}。
== 受賞歴 ==
* 1996年 - 第1回科学技術体験活動アイデアコンテスト・科学技術庁長官賞<ref name="pdf1"/><ref name="ref2"/>
* 1998年 - 科学技術庁長官賞<ref name="pdf1"/><ref name="ref2"/>


[[2008年]]にチャーリー西村が独立したが、その後もアシスタントとして[[杉木優子]]{{efn|杉木優子も元理科教師。}}、ジャイアン村上、[[市岡元気]]などのキャスティングでサイエンスライブショーを各地で実施している。
== 関連項目 ==

* [[後藤道夫 (科学ジャーナリスト)]]
== 人物 ==
=== サイエンスプロデューサーとして ===
サイエンスプロデューサーという肩書きは、米村自身の造語で{{sfn|アントレ2015年9月27日号|2007|p=40}}、都立高校教諭を辞めるときに、科学番組の企画や教材作成など裏方の仕事を意図してつくった言葉である{{sfn|アントレ2015年9月27日号|2007|p=40}}。期せずして人前に出る仕事が多くなったが、「人前で話をするのは向いていない」と考えている{{sfn|アントレ2015年9月27日号|2007|p=40}}。

都立高校教諭という安定した仕事を辞めてサイエンスプロデューサーを選んだ理由として、「学校という枠を離れて、教育とか生徒とか、あるいは社会とかというものを考えてみたかった」と語っている{{sfn|初等教育資料2000年1月号|2000|p=42}}。同じようにテレビに出演して科学実験の実演を行っていた滝川洋二は自身について「目標はあくまで理科教育」と語るのに対し{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=59}}、「教育という視点を外してから、すごく楽になった。子供たちが、もっと驚き、もっと笑うステージにしたい。[[ドリフターズ]]が理想」とも語っている{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=59}}。

また米村は「科学は、最先端なものとか役に立つとかどうかという視点だけではなく、(古い原理のものでも)楽しんで喜んでもらえるものとして伝えていきたい」「音楽が『音を楽しむ』と書くように、科学も科学を楽しむ『科楽』として、一般の人にどう表現して、伝えられるのか追求していきたい」と述べている{{sfn|エコノミスト2008年6月24日号|2008|p=47}}。

=== 実験工作好き ===
小さなころから、[[ラジオ]]の分解、[[電磁石]]作り、自作の[[望遠鏡]]などに夢中になっていた{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=56}}。4人兄弟の末っ子であったが{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}、他の兄弟と年齢が離れていたこともあって一人で遊ぶことが多かったと回想している{{sfn|ヨミウリウイークリー 2005年10月2日号|2005|p=38}}。中学生時代には、化学部に所属し、自作の[[火縄銃]]作りに没頭した{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=56}}。山中で発射実験をしたが、この時、火薬の詰めすぎで銃筒が破裂し、左手に大怪我を負った{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=56}}。高校生時代には、廃物のオートバイの車輪を見つけて[[轆轤]]を自作し、これで壺や茶碗を作ったこともあった{{sfn|ヨミウリウイークリー 2005年10月2日号|2005|p=40}}。

大学時代には、[[フォルクローレ]]に感動し、[[竹]]をとってきて、自作の[[ケーナ]]づくりに没頭するようになった{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=57}}。さらには道具なしでも音が出せるか試行錯誤し[[手笛|ハンドオカリナ]]をマスターした{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=57}}。

=== 釣り ===
[[釣り]]は「ほぼ唯一の趣味」とも語っている{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=59}}。米村が生まれ育った加茂村には[[養老川]]の支流であった古敷川が流れており、自然豊かであった{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=253}}。そこで魚釣りをよくやっていた{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=253}}。竹筒で作った仕掛けで[[ウナギ]]をとったりしたこともあった{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=253}}。しかし、実家を離れて東京に移ると釣りからは疎遠となった。

教師を辞めてサイエンスプロデューサーになり、2001年ごろサイエンスショーのためたまたま訪れた場所で地元の人たちが釣りを楽しんでいるの見かけて、再び釣りに目覚めた{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=261}}{{efn|米村によると、「多忙のため実際に釣りに出かけることはなかなかできず、デスクの上は科学の本が消えて、釣りの本の山という状態。釣りの本を読んで、もっぱら『エアフィッシング』を楽しんでいた」という{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=262}}}}。船舶免許を取り、三浦港から一人で船を出して釣りに出たこともあった{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=262}}。その後、やはりサイエンスショーで訪問した[[北海道]]の川で[[ヤマメ]]や大型の[[ウグイ]]が釣れ、しかも北海道の川は[[漁業権]]を買わずに釣りができる川が多く、気軽に釣れる川釣りに興味が移った{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=262}}。また、旅先だけでなく、自宅近くの川でも釣りをするようになった{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=263}}。そして[[フライ・フィッシング]]に強い関心をもつようになった{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=263}}{{efn|米村によると「そうなると、デスクの上は自作したフライが並ぶようになった」と述べている{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=263}}}}。最初は[[秋川 (東京都)|秋川]]付近で釣りをしていたが、次第に上流の奥多摩地方の渓谷に一人で入るようになった{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=264}}。ザイルなども装備し、難度の高い沢登りをするような釣り場にまで行くようになったが、[[雲取山]]近くで[[ツキノワグマ]]に遭遇し、それ以後、ほどほどの場所で釣りを楽しむようになったと述べている{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=264}}。

== 米村が作った主な理科実験 ==
=== 木炭電池 ===
{{see also|空気アルミニウム電池|空気電池}}

[[木炭]]と[[アルミ箔]](または[[アルミ缶]])、食塩水で作る[[空気電池|金属空気電池]]の一種である。[[備長炭]]を用いたものを「備長炭電池」、脱臭剤などに使われている[[活性炭]]で作ったものを「活性炭電池」とも呼称する。米村が自由学園で講師として物理の授業を受け持っていたときに考案したものである{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=115}}。自由学園の伝統である新入生が自分で使う机と椅子を自作するようすをみて、米村が「これと同じ発想で、電磁気を学ぶなら電気を作るところからはじめよう」という考えが原点であった{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=115}}。

米村は最初、[[ボルタ電池]]を試した{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=117}}。もっと強力な電池が作れないものかと調べ、高校の化学の教科書に[[空気電池]]の説明が数行あるのを見つけた{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=117}}。試行錯誤の上、アルミ箔の上に食塩水で湿らせた紙を置き、その上に脱臭剤の中から取り出した活性炭をばらまき、さらにその上にアルミ箔を重ねた「活性炭電池」を考えだした{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=118}}。この「活性炭電池」を上から適度な力を加えて押し付けると模型用モーターが回る程度の電力がとりだせる{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=118}}。

この活性炭電池を授業で披露し、「[[冷蔵庫]]にある脱臭剤から電池が作れラジオの電源としても使えるので、停電のときなど非常用の電池になる」という話をした{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=120}}{{efn|都立高校教師時代にも、この活性炭電池を他の教師に披露したところ、「それがどうした」「部屋を汚さないでほしい」といった冷淡な反応であったと米村は述べている{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=119}}。}}。ところがある生徒から「ウチの冷蔵庫には脱臭剤がありません」という反応があった{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=120}}。そこで、米村は活性炭の作り方を調べたところ、[[焚き火]]のときに炭火になった薪に水をかけて火を消した消し炭が活性炭になることに気がついた{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=120}}。

米村は、焚き火で作った消し炭をアルミ缶に固く詰めた電池を作った{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=122}}。米村はこれを「リサイクル電池」と名付けた{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=122}}。この電池は、1996年、「強力なリサイクル電池の発明」として科学技術庁長官賞を受賞した{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。

=== 空気砲 ===
{{see also|空気砲}}

比較的狭い開口部から急激に空気が押し出されるときにできるドーナツ状の[[渦度|渦輪]]を発生、観察するための装置である。米村が空気砲をつくる以前は、[[たばこ]]の煙を口から吐いて渦輪をつくるのが一般的な方法であった。米村が都立高校教師時代に、アメリカへの視察でたまたま見かけたデモンストレーションからヒントを得た{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=259}}。日本に戻ってから、試行錯誤の末にミカン箱に線香の煙を入れる形が生まれた{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=259}}{{sfn|初等教育資料2000年1月号|2000|p=44}}。最初のころは渦輪の英名である「ボルティックス・リング」や「エア・バズーカ」と呼んでいた{{sfn|釣人かく語りき|2014|p=260}}。「しかし、それでは今ひとつ伝わらないと考え、流体力学の渦輪の観察に遊びの要素を加え、ドラえもんの秘密道具にあった[[空気砲]]と呼ぶようになった」と振り返っている{{sfn|初等教育資料2000年1月号|2000|p=44}}。

=== 百人おどし(静電気実験) ===
{{see also|百人おどし}}

「百人おどし」{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}、または「静電気実験」とも呼んでいる[[静電気]]を使った参加型の演示物理実験である。[[ライデン瓶]]([[コンデンサ|キャパシタ]])の材料としてプラスチックコップ2つとアルミ箔を用意。プラスチックコップにそれぞれアルミ箔を巻きつけ、それを2つ重ねてライデン瓶をつくる。[[ポリ塩化ビニル|塩化ビニル]][[パイプ]]や[[風船]]などで起こした静電気を、プラスチックコップ2個にアルミ箔を巻きつけて作ったライデン瓶に蓄えて{{efn|プラスチックコップ2個にアルミ箔を巻きつけて作ったライデン瓶の電気容量は100pF以下{{sfn|たのしくわかる物理実験事典|1998|p=444}}、帯電電圧は約10kV程度と見積もられる{{sfn|たのしくわかる物理実験事典|1998|p=444}}。}}、被験者は手をつないで輪をつくり、ライデン瓶に触れると全員に静電気が流れる実験である。

都立稲城高校の教諭時代に、物理の授業にまるで無関心な生徒に対して、少しでも関心を持ってもらうため、この実験を始めた{{sfn|アントレ2015年9月27日号|2007|p=40}}。生徒全員に手をつながせて実験をすると、授業を面白がるようになった{{sfn|アントレ2015年9月27日号|2007|p=40}}。滝川洋二の解説によると「これは米村が文献を調べ[[江戸時代]]の[[エレキテル]]が見世物として静電気実験が行われていたものを再発見して、現代にある材料で再現したもの」である{{sfn|アエラ2007年6月11日号|2007|p=58}}。

=== ペーパーブーメラン ===
米村が都立高校教師時代に、職員室にあった厚紙で[[ブーメラン]]を作ってみたところ、投げたところによく戻ってくるので、授業に取り入れることにしたという{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=102}}。授業では、生徒たちにペーパーブーメランを投げるとどうなるか答えを予想させて、実験で答え合わせをする方法をとった{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=105}}。結果、多数の生徒は予想を外した{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=105}}。「してやったり」と米村が思っていたところ、ある生徒が「先生、でも本当の答えはどうなんですか」と質問してきたこともあった{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=105}}。ペーパーブーメランを取り入れた授業について米村は「高校の物理では剛体の力学を学習していないので厳密な理解は難しいが、物理への動機付けの面では効果的である」としている{{sfn|誤解されているブーメランの原理|1988|p=247}}。

ブーメランが「なぜ投げた位置に戻ってくるのか」について、さまざまな文献にあたった米村は「正しく解説しているものは、少なくとも私が調べた範囲では一つもなかった」と書いている{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=112}}。この理由として米村は「誰も実際にブーメランを作って飛ばしたことが無いからだろう」と推測した{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=112}}。

=== 溶けた鉛に指を入れる実験 ===
{{see also|ライデンフロスト効果}}

溶けて[[液体]]となった[[鉛]](融点:約330度)にジェル状の[[アルコール]]を塗った[[指]]を一瞬入れる実験{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=174}}。1993年に、米村などがガリレオ工房の例会で報告を行った{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=175}}。一瞬であれば指に熱が伝わることはない。「[[ライデンフロスト効果]]」と呼ばれるものであるが、理由は以下による。

* [[融解熱]]に比べて[[気化熱]]は格段に大きく、液体が気化するときの気化熱に鉛の熱が使われ、指に熱が伝わらない{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=175}}
* 気体が指と鉛の間にあると、熱伝導が少なく指に熱が伝わりにくい{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=175}}

滝川洋二は「この実験を単体で行えば、ただのびっくり実験であるが、『温度と熱』の授業で他の実験(例えば[[圧気発火器]]など)も交えて、正しく取り入れれば(生徒の)内容理解に大きく貢献する」と解説している{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=175}}。滝川がこの実験を取り入れた授業では毎回クラスの半数程度は実際に挑戦した{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=174}}。さらに滝川は「実際に体験するのとしないのとでは、理解や学んだ内容への確信に雲泥の差がある」としている{{sfn|物理がおもしろい!!|1995|p=174}}。

== 受賞 ==
* 科学技術庁長官賞(1996年)
: 第1回科学技術体験活動アイデアコンテスト「強力なリサイクル電池の発明」
* 科学技術庁長官賞(1998年)
: 第1回科学技術普及啓発功績者

== 主な著作 ==
=== 論文・解説 ===
* {{Cite journal|和書|author = 米村 傳治郎|title = 誤解されているブーメランの原理(物理教育)|journal = 年会講演予稿集|publisher = 一般社団法人日本物理学会|date = 1988-03-31|volume = 43|issue = 4|page = 247|naid = 110009725780}}
* {{Cite journal|和書|author = 米村 伝治郎|title = ぶつり実験教室--ブ-メランと物理楽|journal = 数学セミナー|publisher = 日本評論社|date = 1992-06|volume = 31|issue = 6|pages = 76-80|naid = 40004889877}}
* {{Cite journal|和書|author = 米村 伝治郎|title = そして誰もいなくなった(魅力ある物理教育を目指して,1992年(平成4年)春季,第39回応用物理学関係連合講演会物理教育シンポジウム報告)|date = 1992-09-05|publisher = 日本物理教育学会|journal = 物理教育|volume = 40|issue = 3|page = 229|naid = 110007490190}}
* {{Cite journal|和書|author = 米村 伝治郎|title = ぶつり実験教室--レ-ウェンフックに挑戦|journal = 数学セミナー|publisher = 日本評論社|date = 1993-02|volume = 32|issue = 2|pages = 86-91|naid = 40004889984}}
* {{Cite journal|和書|author = 米村 伝治郎|title = ぶつり実験教室--焚火で作る「リサイクル電池」|journal = 数学セミナー|publisher = 日本評論社|date = 1993-07|volume = 32|issue = 7|pages = 69-73|naid = 40004890028}}
* {{Cite journal|和書|author = 米村 伝治郎|title = 小学生にも作れる静電気GM管 : 矢野・米村式GM管|journal = 物理教育学会年会物理教育研究大会予稿集|publisher = 物理教育学会年会物理教育研究大会予稿集 |date = 1993-08-09|issue = 10|page = 34|naid = 110003335880}}

=== 単著 ===
* {{Cite book|和書|title = きみにもできる手づくり電池|year = 1997|isbn = 978-4-00116318-6|publisher = 岩波書店}}
* {{Cite book|和書|title = 米村でんじろうのイッキによめる! おもしろ科学 小学1年生|year = 2011|isbn = 978-4-06217099-4|publisher = 講談社}}
* {{Cite book|和書|title = 米村でんじろうのイッキによめる! おもしろ科学 小学2年生|year = 2011|isbn = 978-4-06217100-7|publisher = 講談社}}
* {{Cite book|和書|title = 米村でんじろうのイッキによめる! おもしろ科学 小学3年生|year = 2011|isbn = 978-4-06217176-2|publisher=講談社}}

=== 共著 ===
* {{Cite book|和書|editor = [[工学院大学]]|author = 後藤 道夫|authorlink = 後藤道夫|author2 = 毛利 綾|author3 = 盛口 襄|author4 = 米村 傳治郎|title = おもしろ理科実験集|date = 1996|publisher = 工学院大学企画部|isbn = 4-88231008-2}}
* {{Cite book|和書|editor = 工学院大学 広報部|author = 後藤 道夫|author2 = 毛利 綾|author3 = 盛口 襄|author4 = 米村 傳治郎|title = おもしろ理科実験集〈2〉|date = 1996|publisher = シーエムシー|isbn = 4-88231038-4}}
* {{Cite book|和書|author = 米村伝治郎|author2 = 井上 雅代|title = つくろう湯船で竜巻―ふろ場の実験|date = 1999|publisher = ポプラ社|series = ガリレオ工房のおもしろ実験クラブ|isbn = 978-4-591-05991-3}}

=== 監修 ===
* {{Cite book|和書|title = 米村傳治郎のおもしろ科学館|author = 大沢 幸子|year = 2002|isbn = 978-4-27402478-8|publisher = オーム社}}
* {{Cite book|和書|title = 米村傳治郎のおもしろ科学ミュージアム|author = 大沢 幸子|year = 2005|isbn = 978-4-27420073-1|publisher = オーム社}}
* {{Cite book|和書|title = すごい!うちでもこんな実験ができるんだ!!|year = 2006|isbn = 4-391-13119-6|publisher = 主婦と生活社}}

== 主な出演テレビ番組 ==
=== ドキュメンタリー ===
* [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]] 「おれは日本のガリレオだ!?」 - 1996年5月6日
:第38回科学技術映像祭科学技術長官賞受賞
* [[MBSテレビ|毎日放送]] 「[[情熱大陸]]」{{efn|2009年1月、米村でんじろうの回を収録したDVDが発売されている。}} - 2004年8月29日
* [[NHK教育テレビジョン|NHK教育]] 「[[ETV特集]]:新“科楽”教育のススメ」 - 2005年4月9日
* NHK総合 「にんげんドキュメント『科学は“科楽”だ~実験先生・米村でんじろう』」 - 2005年07月29日
* NHK教育 「実験名人 アフリカを行く~米村でんじろうと子どもたち」 - 2007年11月2日{{sfn|Monthly JICA 2008年3月号|2008|p=34}}

=== レギュラー番組 ===
* NHK教育 「[[やってみようなんでも実験]]」 - 1995年4月から2001年1月
* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] 「[[それ行けKinKi大冒険]]」 - 1996年4月から1996年9月
* 日本テレビ 「[[それ行けKinKi大放送]]」 - 1996年10月から1998年3月
* [[サイエンスチャンネル]] 「ようこそ!米ちゃんの工作ランド」(全13回){{efn|第1回、第4回、第11回には、当時[[共同テレビジョン]]に入社したばかりであった[[滝川クリステル]]がアシスタントとして出演している。}} - 2000年
* サイエンスチャンネル 「米ちゃんのよみがえれ地球~アースプロジェクト21~」(全13回) - 2001年
* サイエンスチャンネル 「米ちゃんのWhat is “IT”?」(全10回) - 2001年
* NHK教育 「大人が遊ぶサイエンス」(全8回) - 2002年4月から2002年6月
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]] 「[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]」 - 2002年10月から2003年3月
* [[中京テレビ放送|中京テレビ]] 「[[でんじろう先生の日曜実験室 ラブラボ!]]」{{efn|同番組を収録したDVD版(全10巻)が発売されている。}} - 2006年4月から2008年3月
:特別表彰部門青少年向け番組部門最優秀賞受賞(平成18年、平成19年)
* 中京テレビ 「[[でんじろう先生のはぴエネ!]]」 - 2009年4月から現在放映中

== 外部サイト ==
* [http://www.denjiro.co.jp/ 米村でんじろうサイエンスプロダクション]
* [https://www.youtube.com/user/DenjiroScience 米村でんじろうサイエンスプロダクション(Youtube)]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references/>
{{Reflist|group="注釈"}}


== 外部リンク ==
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
* [http://www.denjiro.co.jp/index.html 米村でんじろう サイエンスプロダクション]

== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author = 米村 傳治郎|title = 誤解されているブーメランの原理|(物理教育)|journal = 年会講演予稿集|publisher = [[日本物理学会]]|date = 1988-03-31|volume = 43|issue = 4|page = 247|naid = 110009725780| ref = {{Harvid|誤解されているブーメランの原理|1988|p=247}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 米村 傳治郎|title = 4a-ZC-13 超能力と科学教育|date = 1989-09-12|publisher = 日本物理学会|journal = 秋の分科会講演予稿集|naid = 110001992646|page = 275| ref = {{Harvid|日本物理学会:秋の分科会講演予稿集|1989|p=275}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 米村 伝治郎|title = そして誰もいなくなった(魅力ある物理教育を目指して,1992年(平成4年)春季,第39回応用物理学関係連合講演会物理教育シンポジウム報告)|date = 1992-09-05|publisher = [[日本物理教育学会]]|journal = 物理教育|volume = 40|issue = 3|naid = 110007490190|page = 229| ref = {{Harvid|第39回応用物理学関係連合講演会物理教育シンポジウム報告|1992|p=229}} }}
* {{Cite book|和書|editor= 滝川 洋二|title = 物理がおもしろい!!|date = 1995|publisher = 日本評論社|isbn = 978-4-53578216-7|ref = {{Harvid|物理がおもしろい!!|1995}} }}
* {{Cite book|和書|editor = 20周年記念誌編集委員会|title = 窓:東京都立稲城高等学校-創立20周年記念誌|date = 1996|publisher = 東京都立稲城高等学校|ref = {{Harvid|創立20周年記念誌|1996}} }}
* {{Cite journal|和書|date = 1996-07|publisher = 日本評論社|journal = 月刊 時評|volume = 38|issue = 7|ncid = AN10233068| ref = {{Harvid|月刊 時評|1996-07}} }}
* {{Cite book|和書|authtor = 左巻 健男|authtor2 = 滝川 洋二|title = たのしくわかる物理実験事典|date = 1998|publisher = 東京書籍|isbn = 4-48773138-0|ref = {{Harvid|たのしくわかる物理実験事典|1998}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 滝川 洋二|authorlink = 滝川洋二|title = ガリレオ工房の科学がおもしろい--ガリレオ工房の夢|date = 1999-03|publisher = 日本評論社 |journal = 数学セミナー|volume = 38|issue = 3|naid = 40004890597|pages = 66-70| ref = {{Harvid|滝川、ガリレオ工房の夢|1999}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 米村 傳治郎|title = 教育の回廊 子供と創る実験工房|date = 2000-01|publisher = 東洋館出版社|journal = 初等教育資料|issue = 715|naid = 40001871707| ref = {{Harvid|初等教育資料2000年1月号|2000}} }}
* {{Cite book|和書|title = どうすれば「理科」を救えるのか|author = 滝川 洋二|date=2003|publisher=亜紀書房|isbn = 978-4750502045|ref = {{Harvid|どうすれば「理科」を救えるのか|2003}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 滝川 洋二|title = 世界初に挑戦する探究活動(講座:探究学習・探究活動4)|date = 2004-12|publisher = 社団法人日本化学会|journal = 化学と教育|naid =110008906471| ref = {{Harvid|滝川、世界初に挑戦する探究活動|2004}} }}
* {{Cite journal|和書|title = 家族のかたち 米村でんじろう 高校の通信簿は「1」と「2」ばかり|date = 2005-10-02|publisher = 読売新聞東京本社 |journal = ヨミウリウイークリー|volume = 64|issue = 41|naid = 40006863807| ref = {{Harvid|ヨミウリウイークリー 2005年10月2日号|2005}} }}
* {{Cite journal|和書|editor = 日本科学技術振興財団|date = 2006-07|publisher = 日本科学技術振興財団|journal = JSF Today|issue = 101| ref = {{Harvid|JSF Today 2006年7月号|2006}} }}
* {{Cite journal|和書|editor = 日本科学技術振興財団|title = 科学技術館FOREST10周年記念特集|date = 2006-10|publisher = 日本科学技術振興財団|journal = JSF Today|issue = 102|pages = 4-13| ref = {{Harvid|JSF Today 2006年10月号|2006}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 村尾 国士|title = 現代の肖像|date = 2007-06-11|publisher = 朝日新聞出版|journal = アエラ|volume = 20|issue = 26|ncid = AN10033069| ref = {{Harvid|アエラ2007年6月11日号|2007}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 伊東 里佳|title = FIELD SKETCH ケニア 実験名人でんじろう先生、アフリカを行く|date = 2008-03 |publisher = 国際協力機構|journal = Monthly JICA|volume = 30|naid = 40015897393|pages = 34-37| ref = {{Harvid|Monthly JICA 2008年3月号|2008}} }}
* {{Cite journal|和書|title = 問答有用<207>米村でんじろう サイエンスプロデューサー|date = 2008-06-24|publisher = 毎日新聞出版|journal = エコノミスト|volume = 86|issue = 35|ncid = AA12136592| ref = {{Harvid|エコノミスト2008年6月24日号|2008}} }}
* {{Cite journal|和書|title = 〈2015 大学受験〉「不合格」だったから今の私がある|date = 2014-08-08|publisher = 朝日新聞出版|journal = 週刊朝日|volume = 119|issue = 33|ncid = AA12136592| ref = {{Harvid|週刊朝日 2014年8月8日号|2014}} }}
* {{Cite book|和書|author = 世良 康|title = 釣人かく語りき|date=2014|publisher=つり人社|isbn = 978-4-86447056-8|ref = {{Harvid|釣人かく語りき|2014}} }}
* {{Cite journal|和書|title = リーダーの流儀 米村でんじろう サイエンスプロデューサー|date = 2015-09-27|publisher = リクルートホールディングス|journal = アントレ|volume = 19|issue = 3|ncid = AA12136592| ref = {{Harvid|アントレ2015年9月27日号|2015}} }}


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2017年8月28日 (月) 01:09時点における版

よねむら でんじろう

米村 でんじろう
生誕 戸山 傳治郎[1]
(1955-02-15) 1955年2月15日(69歳)
千葉県市原郡加茂村(現:市原市[1]
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京学芸大学
職業 都立高校教諭、サイエンスプロデューサー[2]
受賞 科学技術庁長官賞(1996年、1998年)[1]
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米村 でんじろう(よねむら でんじろう、1955年(昭和30)2月15日 - )、米村 傳治郎米村 伝治郎は、日本サイエンスプロデューサーである[2]。サイエンスショーの企画、演出、書籍の監修、テレビ番組の出演や監修、実験装置の開発などを手がける。元都立高校の物理教師でもある。

来歴

生い立ち

千葉県市原郡加茂村に、4人兄弟の末っ子として生まれる[1]。家は兼業農家であった[1]

1973年、千葉県立市原高等学校を卒業する[1]。高校3年生の時に、父親が職場の工場で事故死したこともあって、授業料の安い国立大学を志望して受験したが、失敗した[3]。浪人生活2年目、母親が見かねて「働いてみたらどうか」と勧め、6月から8月まで工場で40代から50代の労働者たちにまざって働いた[4]。また9月から予備校に通うが、講義についていけずにやめた[4]。3年目、母親に頼るのがつらくなり、新聞奨学生の募集を見て、面接を受けたが断られたこともあった[3]。牛乳配達のアルバイトをしながら[4]、3年目の宅浪をつづけ、1976年に東京学芸大学理科B類(物理)に合格、入学した[1]。しかし、大学の講義でもしばしば単位を落とした[3]。所属した研究室で当時は目新しかったパソコン用の理科教育ソフト作成を行い、この時、指導教官から賞賛をうけた[3]。米村は、「先生から褒められたのは人生で初めて。段階を踏んでやればできると自信がうまれた」と回想している[3]

「社会に出て働きたくない」という理由で、東京学芸大学大学院(理科教育専攻)に進学した[3]。大学院で知り合った女性と卒業後の1982年に結婚し、米村姓を名乗る[注釈 1][注釈 2]。卒業後は研究職につくことを希望し、他大学の博士課程や公務員試験を受けたが落ちたため、研究生として東京学芸大学に残る道を選んだ[1]。教授の紹介で、自由学園の講師を務める[1]。自由学園では、「教科書にとらわれず、思い通りに授業してもらって結構です」とアドバイスを受け、林で拾った木の枝からつくった炭とアルミ缶を使った「木炭電池」(後述)を生徒に披露するなど、実験重視の授業に取り組んだ[1]

都立高校教師時代

自由学園で教師の面白さを知り、1984年に東京都教員採用試験を受け合格した[1]。1985年度(昭和60年度)より、東京都立稲城高等学校に理科教師(物理)として赴任した[5][注釈 3]

稲城高校は、米村によると「生徒は落ちこぼれ。授業中に漫画を読んだり、黒板に向かっている間に数人が教室を抜けたりして、とても授業にならなかった」という状況であった[1]。また「高校進学の時期になると『あの学校は無くなってしまうらしい』という噂が中学生の間に流れるような状況であった」としている[6]。このとき、生徒が理科に関心を持てるように、「百人おどし」(後述)の実験をしたり、野外観察に生徒たちを連れ出して、野草や木の実をビーカーで茹でて食べられるかどうかを、生徒たちが自主的に調べるように仕向けたりした授業を行った[7]。このころ、Mr.マリックがテレビで脚光を浴びた時期であり、生徒が米村に「超能力はあるのか?」と質問してくることもあった[8]。これをヒントに授業で超能力を取り上げ、超能力について生徒に考えさせる授業方法の模索も行った[8]

この時期、東京学芸大学大学院の先輩で、当時、国際基督教大学高等学校で物理教師をしていた滝川洋二も、学校教育での「理科離れ」の状況に危機感を持っていた。滝川は理科離れを食い止めるためには実験による授業が重要であると考え、1986年1月に「物理教育実践検討サークル」を立ち上げた。後にサークルは「ガリレオ工房」と改称することになる。このサークルに、滝川は大学院時代の後輩である米村を誘った[9]。滝川によると、米村はガリレオ工房の定例会に毎回新しく開発した実験を持ち込み披露していた[10]。一時期は毎月1時間程度の米村講座が続くような情況であったという[10]

1993年4月より東京都立小金井北高等学校に赴任した[1]。米村の回顧によると「(小金井北高校は)進学校で、実験授業は大学受験の役に立たず生徒やその父母から評判が良くなかった」という[1]。また教頭に呼び出され「君が教師になったのは間違いだ」と言われたこともあった[1]

このころから、米村はNHK教育テレビの番組製作を手伝うようになった。「やってみようなんでも実験」では自ら出演して実験を披露するようにもなった[11]。また、展示内容のリニューアルを計画していた科学技術館より、サイエンスショーエリアのプロデュースが依頼された[12][注釈 4]

サイエンスプロデューサー

1996年3月に都立高校教師を辞し[注釈 5]、サイエンスプロデューサーとして独立する[注釈 6]。同年5月に米村を追ったドキュメンター番組「おれは日本のガリレオだ!?」がNHKで放映されると、各地の学校や科学館からの講演依頼が米村のもとに殺到した[14]。米村は「最初のころは講演依頼に従って話をしていたが、講演だけでは時間がもたないため実験を取り入れ、次第に実験の比重が多くなり、アシスタントや実験装置が徐々に増え、実験の間に話を混ぜていくサイエンスライブショーの構成ができあがっていった」と述べている[14]

米村は科学技術館の「ワークス」でサイエンスショーの実演をする一方で、地方から依頼のあったサイエンスライブショーの公演を行うようになった。1998年、科学技術館で米村の実験助手を務めていたチャーリー西村などと共に、「米村でんじろうサイエンスプロダクション」を立ち上げた[1]2004年より、岩手大学で任期付き客員教授を務めた。2005年愛知万博では、長久手会場日本広場内にて「日本館わくわくエネルギー教室」を監修し、自ら出演して実演実験を行った。2006年4月20日には、科学技術館を視察に訪れた内閣総理大臣小泉純一郎が、遠足で訪れていた厚木市立厚木第二小学校の小学5年生の28人と一緒に米村の実験ショーに参加した[15][16][注釈 7][注釈 8]2007年9月には、NHKの番組撮影と国際協力機構(JICA)のサポートで、ケニアの中学校、孤児院などで科学実験の授業を行った[17]

2008年にチャーリー西村が独立したが、その後もアシスタントとして杉木優子[注釈 9]、ジャイアン村上、市岡元気などのキャスティングでサイエンスライブショーを各地で実施している。

人物

サイエンスプロデューサーとして

サイエンスプロデューサーという肩書きは、米村自身の造語で[7]、都立高校教諭を辞めるときに、科学番組の企画や教材作成など裏方の仕事を意図してつくった言葉である[7]。期せずして人前に出る仕事が多くなったが、「人前で話をするのは向いていない」と考えている[7]

都立高校教諭という安定した仕事を辞めてサイエンスプロデューサーを選んだ理由として、「学校という枠を離れて、教育とか生徒とか、あるいは社会とかというものを考えてみたかった」と語っている[18]。同じようにテレビに出演して科学実験の実演を行っていた滝川洋二は自身について「目標はあくまで理科教育」と語るのに対し[11]、「教育という視点を外してから、すごく楽になった。子供たちが、もっと驚き、もっと笑うステージにしたい。ドリフターズが理想」とも語っている[11]

また米村は「科学は、最先端なものとか役に立つとかどうかという視点だけではなく、(古い原理のものでも)楽しんで喜んでもらえるものとして伝えていきたい」「音楽が『音を楽しむ』と書くように、科学も科学を楽しむ『科楽』として、一般の人にどう表現して、伝えられるのか追求していきたい」と述べている[19]

実験工作好き

小さなころから、ラジオの分解、電磁石作り、自作の望遠鏡などに夢中になっていた[20]。4人兄弟の末っ子であったが[1]、他の兄弟と年齢が離れていたこともあって一人で遊ぶことが多かったと回想している[21]。中学生時代には、化学部に所属し、自作の火縄銃作りに没頭した[20]。山中で発射実験をしたが、この時、火薬の詰めすぎで銃筒が破裂し、左手に大怪我を負った[20]。高校生時代には、廃物のオートバイの車輪を見つけて轆轤を自作し、これで壺や茶碗を作ったこともあった[22]

大学時代には、フォルクローレに感動し、をとってきて、自作のケーナづくりに没頭するようになった[3]。さらには道具なしでも音が出せるか試行錯誤しハンドオカリナをマスターした[3]

釣り

釣りは「ほぼ唯一の趣味」とも語っている[11]。米村が生まれ育った加茂村には養老川の支流であった古敷川が流れており、自然豊かであった[23]。そこで魚釣りをよくやっていた[23]。竹筒で作った仕掛けでウナギをとったりしたこともあった[23]。しかし、実家を離れて東京に移ると釣りからは疎遠となった。

教師を辞めてサイエンスプロデューサーになり、2001年ごろサイエンスショーのためたまたま訪れた場所で地元の人たちが釣りを楽しんでいるの見かけて、再び釣りに目覚めた[24][注釈 10]。船舶免許を取り、三浦港から一人で船を出して釣りに出たこともあった[25]。その後、やはりサイエンスショーで訪問した北海道の川でヤマメや大型のウグイが釣れ、しかも北海道の川は漁業権を買わずに釣りができる川が多く、気軽に釣れる川釣りに興味が移った[25]。また、旅先だけでなく、自宅近くの川でも釣りをするようになった[26]。そしてフライ・フィッシングに強い関心をもつようになった[26][注釈 11]。最初は秋川付近で釣りをしていたが、次第に上流の奥多摩地方の渓谷に一人で入るようになった[27]。ザイルなども装備し、難度の高い沢登りをするような釣り場にまで行くようになったが、雲取山近くでツキノワグマに遭遇し、それ以後、ほどほどの場所で釣りを楽しむようになったと述べている[27]

米村が作った主な理科実験

木炭電池

木炭アルミ箔(またはアルミ缶)、食塩水で作る金属空気電池の一種である。備長炭を用いたものを「備長炭電池」、脱臭剤などに使われている活性炭で作ったものを「活性炭電池」とも呼称する。米村が自由学園で講師として物理の授業を受け持っていたときに考案したものである[28]。自由学園の伝統である新入生が自分で使う机と椅子を自作するようすをみて、米村が「これと同じ発想で、電磁気を学ぶなら電気を作るところからはじめよう」という考えが原点であった[28]

米村は最初、ボルタ電池を試した[29]。もっと強力な電池が作れないものかと調べ、高校の化学の教科書に空気電池の説明が数行あるのを見つけた[29]。試行錯誤の上、アルミ箔の上に食塩水で湿らせた紙を置き、その上に脱臭剤の中から取り出した活性炭をばらまき、さらにその上にアルミ箔を重ねた「活性炭電池」を考えだした[30]。この「活性炭電池」を上から適度な力を加えて押し付けると模型用モーターが回る程度の電力がとりだせる[30]

この活性炭電池を授業で披露し、「冷蔵庫にある脱臭剤から電池が作れラジオの電源としても使えるので、停電のときなど非常用の電池になる」という話をした[31][注釈 12]。ところがある生徒から「ウチの冷蔵庫には脱臭剤がありません」という反応があった[31]。そこで、米村は活性炭の作り方を調べたところ、焚き火のときに炭火になった薪に水をかけて火を消した消し炭が活性炭になることに気がついた[31]

米村は、焚き火で作った消し炭をアルミ缶に固く詰めた電池を作った[33]。米村はこれを「リサイクル電池」と名付けた[33]。この電池は、1996年、「強力なリサイクル電池の発明」として科学技術庁長官賞を受賞した[1]

空気砲

比較的狭い開口部から急激に空気が押し出されるときにできるドーナツ状の渦輪を発生、観察するための装置である。米村が空気砲をつくる以前は、たばこの煙を口から吐いて渦輪をつくるのが一般的な方法であった。米村が都立高校教師時代に、アメリカへの視察でたまたま見かけたデモンストレーションからヒントを得た[34]。日本に戻ってから、試行錯誤の末にミカン箱に線香の煙を入れる形が生まれた[34][35]。最初のころは渦輪の英名である「ボルティックス・リング」や「エア・バズーカ」と呼んでいた[36]。「しかし、それでは今ひとつ伝わらないと考え、流体力学の渦輪の観察に遊びの要素を加え、ドラえもんの秘密道具にあった空気砲と呼ぶようになった」と振り返っている[35]

百人おどし(静電気実験)

「百人おどし」[1]、または「静電気実験」とも呼んでいる静電気を使った参加型の演示物理実験である。ライデン瓶(キャパシタ)の材料としてプラスチックコップ2つとアルミ箔を用意。プラスチックコップにそれぞれアルミ箔を巻きつけ、それを2つ重ねてライデン瓶をつくる。塩化ビニルパイプ風船などで起こした静電気を、プラスチックコップ2個にアルミ箔を巻きつけて作ったライデン瓶に蓄えて[注釈 13]、被験者は手をつないで輪をつくり、ライデン瓶に触れると全員に静電気が流れる実験である。

都立稲城高校の教諭時代に、物理の授業にまるで無関心な生徒に対して、少しでも関心を持ってもらうため、この実験を始めた[7]。生徒全員に手をつながせて実験をすると、授業を面白がるようになった[7]。滝川洋二の解説によると「これは米村が文献を調べ江戸時代エレキテルが見世物として静電気実験が行われていたものを再発見して、現代にある材料で再現したもの」である[1]

ペーパーブーメラン

米村が都立高校教師時代に、職員室にあった厚紙でブーメランを作ってみたところ、投げたところによく戻ってくるので、授業に取り入れることにしたという[38]。授業では、生徒たちにペーパーブーメランを投げるとどうなるか答えを予想させて、実験で答え合わせをする方法をとった[39]。結果、多数の生徒は予想を外した[39]。「してやったり」と米村が思っていたところ、ある生徒が「先生、でも本当の答えはどうなんですか」と質問してきたこともあった[39]。ペーパーブーメランを取り入れた授業について米村は「高校の物理では剛体の力学を学習していないので厳密な理解は難しいが、物理への動機付けの面では効果的である」としている[40]

ブーメランが「なぜ投げた位置に戻ってくるのか」について、さまざまな文献にあたった米村は「正しく解説しているものは、少なくとも私が調べた範囲では一つもなかった」と書いている[41]。この理由として米村は「誰も実際にブーメランを作って飛ばしたことが無いからだろう」と推測した[41]

溶けた鉛に指を入れる実験

溶けて液体となった(融点:約330度)にジェル状のアルコールを塗ったを一瞬入れる実験[42]。1993年に、米村などがガリレオ工房の例会で報告を行った[43]。一瞬であれば指に熱が伝わることはない。「ライデンフロスト効果」と呼ばれるものであるが、理由は以下による。

  • 融解熱に比べて気化熱は格段に大きく、液体が気化するときの気化熱に鉛の熱が使われ、指に熱が伝わらない[43]
  • 気体が指と鉛の間にあると、熱伝導が少なく指に熱が伝わりにくい[43]

滝川洋二は「この実験を単体で行えば、ただのびっくり実験であるが、『温度と熱』の授業で他の実験(例えば圧気発火器など)も交えて、正しく取り入れれば(生徒の)内容理解に大きく貢献する」と解説している[43]。滝川がこの実験を取り入れた授業では毎回クラスの半数程度は実際に挑戦した[42]。さらに滝川は「実際に体験するのとしないのとでは、理解や学んだ内容への確信に雲泥の差がある」としている[42]

受賞

  • 科学技術庁長官賞(1996年)
第1回科学技術体験活動アイデアコンテスト「強力なリサイクル電池の発明」
  • 科学技術庁長官賞(1998年)
第1回科学技術普及啓発功績者

主な著作

論文・解説

  • 米村 傳治郎「誤解されているブーメランの原理(物理教育)」『年会講演予稿集』第43巻第4号、一般社団法人日本物理学会、1988年3月31日、247頁、NAID 110009725780 
  • 米村 伝治郎「ぶつり実験教室--ブ-メランと物理楽」『数学セミナー』第31巻第6号、日本評論社、1992年6月、76-80頁、NAID 40004889877 
  • 米村 伝治郎「そして誰もいなくなった(魅力ある物理教育を目指して,1992年(平成4年)春季,第39回応用物理学関係連合講演会物理教育シンポジウム報告)」『物理教育』第40巻第3号、日本物理教育学会、1992年9月5日、229頁、NAID 110007490190 
  • 米村 伝治郎「ぶつり実験教室--レ-ウェンフックに挑戦」『数学セミナー』第32巻第2号、日本評論社、1993年2月、86-91頁、NAID 40004889984 
  • 米村 伝治郎「ぶつり実験教室--焚火で作る「リサイクル電池」」『数学セミナー』第32巻第7号、日本評論社、1993年7月、69-73頁、NAID 40004890028 
  • 米村 伝治郎「小学生にも作れる静電気GM管 : 矢野・米村式GM管」『物理教育学会年会物理教育研究大会予稿集』第10号、物理教育学会年会物理教育研究大会予稿集、1993年8月9日、34頁、NAID 110003335880 

単著

  • 『きみにもできる手づくり電池』岩波書店、1997年。ISBN 978-4-00116318-6 
  • 『米村でんじろうのイッキによめる! おもしろ科学 小学1年生』講談社、2011年。ISBN 978-4-06217099-4 
  • 『米村でんじろうのイッキによめる! おもしろ科学 小学2年生』講談社、2011年。ISBN 978-4-06217100-7 
  • 『米村でんじろうのイッキによめる! おもしろ科学 小学3年生』講談社、2011年。ISBN 978-4-06217176-2 

共著

  • 後藤 道夫、毛利 綾、盛口 襄、米村 傳治郎 著、工学院大学 編『おもしろ理科実験集』工学院大学企画部、1996年。ISBN 4-88231008-2 
  • 後藤 道夫、毛利 綾、盛口 襄、米村 傳治郎 著、工学院大学 広報部 編『おもしろ理科実験集〈2〉』シーエムシー、1996年。ISBN 4-88231038-4 
  • 米村伝治郎、井上 雅代『つくろう湯船で竜巻―ふろ場の実験』ポプラ社〈ガリレオ工房のおもしろ実験クラブ〉、1999年。ISBN 978-4-591-05991-3 

監修

  • 大沢 幸子『米村傳治郎のおもしろ科学館』オーム社、2002年。ISBN 978-4-27402478-8 
  • 大沢 幸子『米村傳治郎のおもしろ科学ミュージアム』オーム社、2005年。ISBN 978-4-27420073-1 
  • 『すごい!うちでもこんな実験ができるんだ!!』主婦と生活社、2006年。ISBN 4-391-13119-6 

主な出演テレビ番組

ドキュメンタリー

  • NHK総合 「おれは日本のガリレオだ!?」 - 1996年5月6日
第38回科学技術映像祭科学技術長官賞受賞
  • 毎日放送情熱大陸[注釈 14] - 2004年8月29日
  • NHK教育ETV特集:新“科楽”教育のススメ」 - 2005年4月9日
  • NHK総合 「にんげんドキュメント『科学は“科楽”だ~実験先生・米村でんじろう』」 - 2005年07月29日
  • NHK教育 「実験名人 アフリカを行く~米村でんじろうと子どもたち」 - 2007年11月2日[17]

レギュラー番組

特別表彰部門青少年向け番組部門最優秀賞受賞(平成18年、平成19年)

外部サイト

脚注

注釈

  1. ^ 旧姓は「戸山」[1]
  2. ^ 米村でんじろうの妻も高校の物理教師であった
  3. ^ 東京都立稲城高等学校は、2004年3月に閉校。東京都立南野高等学校と統合して、2005年4月に東京都立若葉総合高等学校として再出発した。
  4. ^ 1994年、科学技術庁長官であった田中眞紀子が科学技術館を視察した際に、感想を聞かれて「(科学技術館の展示内容は)甘口のカレーライス」と辛口の批判を行った[13]。科学技術館の運営していた日本科学技術振興財団はこの批判を受けて、急遽リニューアルを計画し、5階フロアの実験ショースペース「ワークス」のプロデュースを米村に依頼することになった[12]
  5. ^ 「『東京都は今、教師余りですから、辞めてくれたら万々歳』という感じで辞表が受理された」と米村は回顧している[7]
  6. ^ ガリレオ工房の滝川などは、米村の独立の話に「サイエンスプロデューサーとして食べていく見通しは無いのだから、辞めない方が無難」と諭したという[9]
  7. ^ 米村の実験に参加した小泉純一郎は「科学の修行は政治の修行より難しい」などの感想を残している[16]
  8. ^ 野依良治松田岩夫小坂憲次も同席している[16]
  9. ^ 杉木優子も元理科教師。
  10. ^ 米村によると、「多忙のため実際に釣りに出かけることはなかなかできず、デスクの上は科学の本が消えて、釣りの本の山という状態。釣りの本を読んで、もっぱら『エアフィッシング』を楽しんでいた」という[25]
  11. ^ 米村によると「そうなると、デスクの上は自作したフライが並ぶようになった」と述べている[26]
  12. ^ 都立高校教師時代にも、この活性炭電池を他の教師に披露したところ、「それがどうした」「部屋を汚さないでほしい」といった冷淡な反応であったと米村は述べている[32]
  13. ^ プラスチックコップ2個にアルミ箔を巻きつけて作ったライデン瓶の電気容量は100pF以下[37]、帯電電圧は約10kV程度と見積もられる[37]
  14. ^ 2009年1月、米村でんじろうの回を収録したDVDが発売されている。
  15. ^ 第1回、第4回、第11回には、当時共同テレビジョンに入社したばかりであった滝川クリステルがアシスタントとして出演している。
  16. ^ 同番組を収録したDVD版(全10巻)が発売されている。

出典

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  3. ^ a b c d e f g h アエラ2007年6月11日号 2007, p. 57.
  4. ^ a b c 週刊朝日 2014年8月8日号 2014, p. 36.
  5. ^ 創立20周年記念誌 1996, p. 69.
  6. ^ 第39回応用物理学関係連合講演会物理教育シンポジウム報告 1992, p. 229.
  7. ^ a b c d e f g アントレ2015年9月27日号 2007, p. 40.
  8. ^ a b 日本物理学会:秋の分科会講演予稿集 1989, p. 275.
  9. ^ a b 滝川、ガリレオ工房の夢 1999, p. 67.
  10. ^ a b 滝川、世界初に挑戦する探究活動 2004, p. 828.
  11. ^ a b c d アエラ2007年6月11日号 2007, p. 59.
  12. ^ a b JSF Today 2006年10月号 2006, p. 11.
  13. ^ 月刊 時評 & 1996-07, p. 34.
  14. ^ a b エコノミスト2008年6月24日号 2008, p. 46.
  15. ^ JSF Today 2006年7月号 2006, p. 10.
  16. ^ a b c 小泉総理の動き 科学技術館を視察”. 首相官邸 (2006年4月20日). 2017年6月1日閲覧。
  17. ^ a b Monthly JICA 2008年3月号 2008, p. 34.
  18. ^ 初等教育資料2000年1月号 2000, p. 42.
  19. ^ エコノミスト2008年6月24日号 2008, p. 47.
  20. ^ a b c アエラ2007年6月11日号 2007, p. 56.
  21. ^ ヨミウリウイークリー 2005年10月2日号 2005, p. 38.
  22. ^ ヨミウリウイークリー 2005年10月2日号 2005, p. 40.
  23. ^ a b c 釣人かく語りき 2014, p. 253.
  24. ^ 釣人かく語りき 2014, p. 261.
  25. ^ a b c 釣人かく語りき 2014, p. 262.
  26. ^ a b c 釣人かく語りき 2014, p. 263.
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  28. ^ a b 物理がおもしろい!! 1995, p. 115.
  29. ^ a b 物理がおもしろい!! 1995, p. 117.
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  32. ^ 物理がおもしろい!! 1995, p. 119.
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  34. ^ a b 釣人かく語りき 2014, p. 259.
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  39. ^ a b c 物理がおもしろい!! 1995, p. 105.
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参考文献

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  • 米村 傳治郎「4a-ZC-13 超能力と科学教育」『秋の分科会講演予稿集』、日本物理学会、1989年9月12日、275頁、NAID 110001992646 
  • 米村 伝治郎「そして誰もいなくなった(魅力ある物理教育を目指して,1992年(平成4年)春季,第39回応用物理学関係連合講演会物理教育シンポジウム報告)」『物理教育』第40巻第3号、日本物理教育学会、1992年9月5日、229頁、NAID 110007490190 
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  • 滝川 洋二『どうすれば「理科」を救えるのか』亜紀書房、2003年。ISBN 978-4750502045 
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