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「住吉大社」の版間の差分

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{{神社
{{神社
|名称 = 住吉大社
|名称 = 住吉大社
|画像 = [[File:Sumiyoshi-taisha, keidai.jpg|280px]]<br />境内<br />(左奥から右第一・第二・第三・第四本宮)
|画像 = [[File:Sumiyoshi-taisha, keidai-2.jpg|280px]]<br />境内<br />(左奥から右第一・第二・第三・第四本宮)
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|例祭 = [[7月31日]]([[住吉祭]])
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|神事 = 踏歌神事([[1月4日]])<br />白馬神事([[1月7日]])<br />御結鎮神事([[1月13日]])<br />松苗神事([[4月3日]])<br />卯之葉神事(5月初卯日)<br />御田植神事([[6月14日]])<br />神輿洗神事(7月第3月・火曜日)<br />夏越大祓神事([[7月31日]])<br />宝之市神事([[10月17日]])
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{{座標一覧}}
{{mapplot|135.493786|34.612389|住吉大社}}
[[File:Sumiyoshi Grand Shrine in 201705 001.jpg|thumb|250px|right|{{center|境内入り口}}]]
'''住吉大社'''(すみよしたいしゃ)は、[[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]][[住吉 (大阪市)|住吉]]二丁目にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[摂津国]][[一宮]]、[[二十二社]](中七社)の一社。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
'''住吉大社'''(すみよしたいしゃ)は、[[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]]住吉にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[摂津国]][[一宮]]、[[二十二社]](中七社)の1つ。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。


全国に約2,300社ある[[住吉神社]]の総本社であるほか、下関の[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]、博多の[[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]]ととも「日本三大住吉」の一社。また毎年多くの[[初詣]]の参拝者が訪、参拝者数は近畿最多である。
全国にある[[住吉神社]]の総本社である。本殿4棟は[[国宝]]に指定さている。


== 概要 ==
別称として「住吉大神宮(すみよしのおおがみのみや)」ともいい、神社で授与される[[神札]]には「住吉大神宮」と書かれている。また、地元では「すみよしさん」または「すみよっさん」<ref>[http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/index.html 住吉大社の公式サイト](2012年12月8日閲覧)でも「新春は『すみよっさん』から」と書いている。</ref>と呼ばれる。
{{Image label begin|image=UemachiDaichiss.JPG|width=220|float=right}}
{{Image label|x=0.06|y=1.0|scale=200|text={{color|#FF0000|'''住吉大社'''}}}}
{{Image label|x=0.15|y=1.1|scale=200|text=[[File:Shinto torii icon vermillion.svg|25px]]}}
{{Image label|x=0.68|y=0.16|scale=200|text='''[[難波宮|難波宮跡]]'''}}
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{{Small|{{Center|[[上町台地]]における住吉大社の位置}}}}
{{Image label end}}
大阪市南部、[[上町台地]]基部西端において[[大阪湾]]の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは[[ヤマト王権]]の時代から外交上の要港の[[住吉津]]・[[難波津]]と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。[[古代]]には[[遣唐使]]船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、[[平安時代]]からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、[[江戸時代]]には広く庶民からも崇敬された。[[摂津国]]の[[一宮]]として大阪で代表的な神社であるのみならず、全国でも代表的な神社の1つである。

社殿は、本殿4棟が「[[住吉造]]」と称される古代日本の建築様式で[[国宝]]に指定されているほか、幣殿・石舞台・高蔵など多くの建物が国の[[重要文化財]]に指定されている。神宝としては、数少ない古代文書の1つである『[[住吉大社神代記]]』は国の重要文化財に指定され、木造舞楽面など多数が重要文化財・大阪府指定文化財に指定されている。また伝統的な神事を多く残すことでも知られ、特に御田植神事は全国でも代表的なものとして国の[[重要無形民俗文化財]]に指定、夏越大祓神事は大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。

== 社名 ==
社名は、『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では「住吉坐神社」と見えるほか、古代の史料上では「住吉神社」・「住吉社」などと見える。また『[[住吉大社神代記]]』では「住吉大社」・「住吉大明神大社」などとも記される{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。[[中世]]頃には主に「住吉大神宮」と見える{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。[[明治維新]]後には社号を「住吉神社」と定めていたが、戦後の[[昭和]]21年([[1946年]])に『住吉大社神代記』の記述にならって社号を「住吉大社」に改め、現在に至っている{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|住吉大社(日本大百科全書)}}。

「住吉」の読みは、現在は「'''スミヨシ'''」であるが、元々は「'''スミノエ'''(スミエ)」であったとされる{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|住之江・住吉(平凡社)|1986年}}{{Sfn|住吉大社(神々)|2000年}}{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}{{Sfn|前田晴人|2010年}}。例として、[[奈良時代]]以前の『[[万葉集]]』では「住吉」のほか「住江」・「墨江」・「清江」・「須美乃江」と見える一方、[[平安時代]]の『[[和名抄]]』では「須三與之」と見える{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|住之江・住吉(平凡社)|1986年}}{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}。[[本居宣長]]の『[[古事記伝]]』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」・「墨江」・「清江」・「住吉」等の各表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて[[平安時代]]頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解される{{Sfn|住之江・住吉(平凡社)|1986年}}(類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}{{Sfn|岡田精司|2011年}})。ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌学書の[[歌枕]]での扱いでは、「スミノエ」は江を指し、「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すとする{{Sfn|住之江・住吉(平凡社)|1986年}}。

元々の読みである「スミノエ」の字義について、『摂津国風土記』逸文<ref group="原" name="摂津国風土記">『釈日本紀』巻6(述義2)住吉大神条所引『摂津国風土記』逸文。 - [{{NDLDC|991097/310}} 『国史大系 第7巻』](経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)310コマ参照。</ref>では、現出した住吉大神が当地を「真住吉住吉国(真住み吉き住み吉き国)」と讃称したことを由来とする地名起源説話を載せる{{Sfn|住之江・住吉(平凡社)|1986年}}<ref name="摂津国風土記現代語訳">『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、2003年(ジャパンナレッジ版)、pp. 424-425。</ref>。一方で歴史考証上では、「清らかな入り江(= 澄み江)」を原義とする説が有力視される{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}{{Sfn|前田晴人|2010年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}。実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったとされ{{Sfn|住吉津(平凡社)|1986年}}<ref>『大阪府の歴史(県史27)』 山川出版社、1996年、pp. 62-64。</ref>、古代にその地に置かれた[[住吉津]](墨江津)は[[難波津]]とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立・発展と深く関わったとされる{{Sfn|前田晴人|2010年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}。
祭神は次の4柱<ref>[http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/outline.html あらまし](公式サイト)。</ref>。「'''住吉大神'''」と総称され[[海神|海の神]]として信仰される。また底筒男命・中筒男命・表筒男命は合わせて「[[住吉三神]]」と呼ばれる。
* 第一本宮:'''[[住吉三神|底筒男命]]'''(そこつつのおのみこと)
* 第一本宮:'''[[住吉三神|底筒男命]]'''(そこつつのおのみこと)
* 第二本宮:'''[[住吉三神|中筒男命]]'''(なかつつのおのみこと)
* 第二本宮:'''[[住吉三神|中筒男命]]'''(なかつつのおのみこと)
* 第三本宮:'''[[住吉三神|表筒男命]]'''(うつつのおのみこと)
* 第三本宮:'''[[住吉三神|表筒男命]]'''(うつつのおのみこと)
* 第四本宮:'''[[神功皇后]]'''(じんぐうこうごう) - 第14代[[仲哀天皇]]皇后。
* 第四本宮:'''[[神功皇后]]'''(じんぐうこうごう) - 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。第14代[[仲哀天皇]]皇后。
特に底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「'''住吉大神'''(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}。[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]<ref name="神名帳" group="原"/>での祭神の記載は4座{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。『[[住吉大社神代記]]』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。


=== 祭神について ===
境内の奥から第一・第二・第三本宮が縦(東西)に並び、第三本宮の向かって右(南)に第四本宮がある。
[[File:EmpressJinguInKorea.jpg|thumb|300px|right|{{Center|[[神功皇后]]の[[三韓征伐|新羅征討]]([[月岡芳年]]画)}}]]
[[File:Sumiyoshi-jinja (Shimonoseki) Honden.JPG|thumb|220px|right|{{Center|[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]([[山口県]][[下関市]])}}{{small|『日本書紀』では住吉大社とともに神功皇后による創祀とする。}}]]
主祭神の住吉三神(筒男三神)は、『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』において2つの場面で登場する神々である。1つは生誕の場面で、黄泉国から帰った[[イザナギ]](伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのため[[禊]]をすると、[[ワタツミ|綿津見三神]](海三神)と筒男三神が誕生したとし、その筒男三神について『日本書紀』では「是即ち住吉大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」とする{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}。次いで登場するのは[[神功皇后]]の朝鮮出兵の場面で、住吉神の神託もあって皇后の新羅征討が成功したとする{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}。特に『日本書紀』<ref group="原" name="神功皇后摂政前紀仲哀天皇9年12月">『日本書紀』神功皇后摂政前紀仲哀天皇9年12月辛亥(14日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref><ref group="原" name="神功皇后摂政元年2月"/>では、住吉神は皇后の朝鮮からの帰還に際しても神託したとし、それにより住吉神の[[荒魂]]を祀る祠が穴門山田邑に、[[和魂]]を祀る祠が大津渟中倉之長峡に設けられたとする{{Sfn|住吉神社(神々)|1984年}}。通説では、穴門山田邑の祠が下関の[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]([[山口県]][[下関市]])、大津渟中倉之長峡の祠が住吉大社に比定される{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。

このように住吉三神は記紀編纂時の7-8世紀には神代巻に登場する[[天津神・国津神|天神]](あまつかみ)のランクに位置づけられており{{Sfn|前田晴人|2010年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}、『[[令義解]]』<ref group="原">『令義解』巻2(神祇令)天神地祇条 凡天神地祇者神祇官皆依常典祭之({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>・『[[令集解]]』<ref group="原">『令集解』巻7(神祇令)天神地祇条 凡天神地祇者神祇官皆依常典祭之({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>でも伊勢神・山城鴨神・出雲国造斎神と並んで住吉神が天神である旨が記される{{Sfn|前田晴人|2010年}}。三神の「ツツノヲ」の字義については詳らかでなく、これまでに「津の男(津ツ男)」とする説のほか、「ツツ」を星の意とする説、船霊を納めた筒の由来とする説、対馬の豆酘(つつ)から「豆酘の男」とする説などが挙げられる{{Sfn|住吉三神(国史)}}{{Sfn|住吉大社(神々)|2000年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}。そのうち「津の男」すなわち港津の神とする説では、元々は住吉大社南側の[[住吉津]]の地主神・守護神であったとし、難波の発展に伴って[[難波津]]も含むヤマト王権の外港の守護神に位置づけられ、神功皇后紀のような外交・外征の神に発展したと推測される{{Sfn|岡田精司|2011年}}。また星の意とする説のうちでは、[[オリオン座]]中央の三つ星の[[参宿|カラスキ星]](唐鋤星、参宿)と関連づける説などがある{{Sfn|住吉大社(神々)|2000年}}。

祭神数は『延喜式』・『住吉大社神代記』から現在まで4座とされ、他の式内社の住吉神社(3座または1座)と異にするが{{Sfn|岡田精司|2011年}}、住吉大社の場合も元々の祭神は住吉三神の3座であって4座目(第四宮)は時期が下っての合祀とされる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}<ref name="摂津国風土記現代語訳"/>。第四宮については、『[[住吉大社神代記]]』では「姫神宮」と記されるほか住吉三神との密事伝承が記され、現在の社殿配置も第一・二・三宮の列とは外れる点が着目される{{Sfn|岡田精司|2011年}}。これらを基に、元々は住吉三神に奉仕していた巫女が祭られる神に発展し(巫女の神格化)、住吉三神共同の妻神として第四宮が形成され、後世(一説に[[7世紀]]以降{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}})の神功皇后伝説の形成とともに第四宮に神功皇后の神格が付与されたとする説がある{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|前田晴人|2010年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}{{Sfn|上田正昭|2013年}}。

なお、上記のように祭神の順序は『住吉大社神代記』と現在では異なるが、『二十一社記』・『廿二社本縁(二十二社本縁)』以降の[[鎌倉時代]]末から現在までは底筒男が第一とされることから、中世期に祭神の順序の変更があったとする説がある{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。中世期には祭神自体にも異説が生じ、『廿二社本縁』では筒男三神・[[玉津島神社|玉津島明神]](衣通姫)とする説(住吉社を歌神とする信仰に由来{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}})を、『二十二社註式』では天照大神・宇佐明神・筒男三神・神功皇后とする説を挙げる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。祭神の[[本地仏]]に関しても、4神を[[薬師如来]]・[[阿弥陀如来]]・[[大日如来]]・[[聖観音菩薩]]に比定する説を始めとして文献により諸説があった{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。

== 特徴 ==
=== 航海守護神としての信仰 ===
[[File:Japanese envoy to Tang Dynasty China ship 2010.jpg|thumb|240px|right|{{center|[[遣唐使]]船(イメージ)}}]]
住吉大社については、海上交通の守護神とする信仰が最もよく知られる。『[[日本書紀]]』神功皇后紀<ref group="原" name="神功皇后摂政元年2月"/>には、鎮座した筒男三神の言に「往来船(ゆきかよふふね)を看(みそこなは)さむ」<ref name="神功皇后紀"/>とあり、当時には三神を航海守護神とした認識が認められる{{Sfn|前田晴人|2010年}}。この信仰については、前述のように住吉社は元々は[[住吉津]]の地主神・守護神であったが、難波の発展に伴ってヤマト王権の外港の守護神に発展したとする説がある{{Sfn|前田晴人|2010年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}。同様の航海守護神としては[[宗像大社]]([[福岡県]][[宗像市]])も知られるが、宗像大社は在地の[[宗像氏]]の氏神であったのに対して、住吉大社の場合は特定氏族の氏神ではない点で性格を異にし(神職津守氏の氏神は摂社[[大海神社]])、[[伊勢神宮]]・[[石上神宮]]・[[鹿島神宮]]とともに古代王権にとって国家的機関の位置づけにあったとする説もある{{Sfn|岡田精司|2011年}}。

住吉社は[[律令制]]下でも[[遣唐使]]との関わりが深く、『[[延喜式]]』祝詞<ref group="原">『延喜式』巻8(祝詞)遣唐使条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、『万葉集』[[天平]]5年([[733年]])の入唐使への贈歌<ref group="原" name="4245番">『万葉集』巻19 4245番。</ref>には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている([[#登場作品|後掲]]){{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。また、[[円仁]]は『[[入唐求法巡礼行記]]』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『[[日本後紀]]』<ref group="原" name="大同元年"/>では[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『[[日本三代実録]]』<ref group="原">『日本三代実録』貞観3年(861年)2月7日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。また、神職の[[津守氏]]からも遣唐使になった者があった。

後世もこのような航海守護神としての信仰は継続し、[[江戸時代]]には廻船問屋から600基以上の石燈籠が奉納されている。

=== 禊祓の神・和歌の神としての信仰 ===
住吉大社は別の神格として、[[禊祓]]の神・[[和歌]]の神としても信仰された。禊祓の神としての信仰は、『古事記』・『日本書紀』のイザナギの禊による筒男三神の誕生神話に顕著で{{Sfn|前田晴人|2010年}}、現在も例祭の[[住吉祭]]では祓の意味を込めた神事が斎行される{{Sfn|住吉大社(日本大百科全書)}}。その性格の顕在化として難波の[[八十島祭]](平安時代-鎌倉時代の天皇即位儀礼の1つ)への住吉社の関与を指摘する説もある{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=92-108}}{{Sfn|前田晴人|2010年}}。

和歌の神としての信仰は平安時代頃から見られ、特に住吉明神のほか玉津島明神・[[柿本人麻呂]]の3柱は和歌の守護神として「和歌三神(わかさんじん)」と総称される(3神の選定には異説もある){{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。古くは[[昌泰]]元年([[898年]])<ref group="原">『扶桑略記』昌泰元年(898年)10月30日条。 - [{{NDLDC|991096/333}} 『国史大系 第6巻 日本逸史・扶桑略記』](国立国会図書館デジタルコレクション)333コマ参照。</ref>に[[宇多天皇|宇多上皇]]が住吉社に参詣した際に和歌を献じたほか、[[長元]]8年([[1035年]])には[[藤原頼通]]邸での歌合に勝った公達が住吉社に御礼参りをして和歌を詠じるなど、平安貴族が度々京都から参詣に訪れていた{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。また住吉社は『[[伊勢物語]]』、『[[源氏物語]]』[[須磨 (源氏物語)|須磨巻]]・[[明石 (源氏物語)|明石巻]]・[[澪標 (源氏物語)|澪標巻]]、『[[栄花物語]]』殿上の花見巻・松のしづ枝巻など多くの物語にも登場する{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。さらに[[院政]]期以降の熊野詣では途中に住吉社に寄って和歌を献じる例があったほか{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、住吉社神主の津守氏からも[[津守国基]]などの歌人が出ている{{Sfn|住吉大社(日本大百科全書)}}。なお住吉関係の歌では松が多く登場するが、これは住吉社の松が神木とされることに由来する{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。

そのほか、『[[万葉集]]』<ref group="原">『万葉集』巻6 1020,1021番。</ref>に見えるように神が現世に顕現するという現人神信仰があったほか(白髭の老翁として描かれることが多い){{Sfn|住吉大社(日本大百科全書)}}{{Sfn|真弓常忠|2003年|pp=44-65}}、平安時代からは祈雨の神とする信仰もあり{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、また当地の地主神として御田植神事に見られるような農耕の神とする信仰もある{{Sfn|岡田精司|2011年}}。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創建 ===
=== 創建 ===
<div class="thumb tright">
『[[日本書紀]]』[[神功皇后]]摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年<ref group="原">『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>、皇后は大和への帰還中に[[かご坂皇子|<span lang="zh">麛</span>坂皇子]]・[[忍熊皇子]]の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:[[兵庫県]][[尼崎市]]の[[武庫川]]河口東岸に比定)で占うと住吉三神が三神の[[荒魂・和魂|和魂]]を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという<ref name="神功皇后紀">『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 438-439。</ref>{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。一般にはこの「大津の渟中倉の長峡」が住吉大社の地に比定される<ref name="神功皇后紀"/>{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}<ref group="注">[[本居宣長]]は『[[古事記伝]]』において、この「大津の渟中倉の長峡」を摂津国菟原郡住吉郷(現在の[[神戸市]][[東灘区]])に比定する {{Harv|住吉大社(平凡社)|1986年}}。</ref>。一方『[[帝王編年記]]』では住吉の地における鎮祭年を神功皇后摂政11年としており{{Sfn|住吉大社(国史)}}、住吉大社側もこの年をもって鎮祭としている<ref>[http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/history.html 歴史年表](公式サイト)。</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:85%;background-color:#ffffff;text-align:center;white-space: nowrap"
|+住吉神鎮祭地の名称
|-
![[日本書紀]]
|大津渟中倉之長峡<br />{{small|(おおつのぬなくらのながお)}}
|-
!摂津国風土記逸文
|沼名椋之長岡之前<br />{{small|(ぬなくらのながおかのさき)}}
|-
![[住吉大社神代記]]
|渟中椋長岡玉出峡<br />{{small|(ぬなくらのながおかのたまでのお)}}
|}</div>
『[[日本書紀]]』[[神功皇后]]摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年<ref group="原" name="神功皇后摂政元年2月">『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>、皇后は大和への帰還中に[[かご坂皇子|<span lang="zh">麛</span>坂皇子]]・[[忍熊皇子]]の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:[[兵庫県]][[尼崎市]]の[[武庫川]]河口東岸に比定)で占うと住吉三神が三神の[[荒魂・和魂|和魂]]を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという<ref name="神功皇后紀">『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 438-439。</ref>{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。通説ではこの「大津渟中倉之長峡」が住吉大社の地に比定され<ref name="神功皇后紀"/>{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、この記事をもって住吉大社の鎮座とされる。『日本書紀』では創祀年を明らかとしないが、『[[帝王編年記]]』では神功皇后摂政11年辛卯としており{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|住吉大社(国史)}}、現在の住吉大社でもこの年をもって鎮祭とする<ref>[http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/history.html 住吉大社のあらまし > 歴史年表](住吉大社公式サイト)。</ref>。

また『[[住吉大社神代記]]』([[平安時代]]前期頃の成立か)によれば、住吉三神は「渟中椋長岡玉出峡(ぬなくらのながおかのたまでのお)」に住むことを欲したので、神功皇后はその地に住んでいた手搓足尼([[田裳見宿禰]])を神主として祀らせたという{{Sfn|田裳見宿禰(古代氏族)|2010年}}。この田裳見宿禰の後裔が、住吉大社の祭祀を担った[[津守氏|津守連(津守氏)]]一族とされる{{Sfn|田裳見宿禰(古代氏族)|2010年}}。そのほか『摂津国風土記』逸文<ref group="原" name="摂津国風土記"/>では、住吉社の地は「沼名椋之長岡之前(ぬなくらのながおかのさき)」と見える<ref name="摂津国風土記現代語訳"/>。


歴史考証上では、神功皇后の伝説的記事は別としても、実際にもかなり早い時期の創祀とされる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。前述のように、上古に関しては[[住吉津]]の地主神からヤマト王権の外港守護神に発展したとする説が挙げられるが{{Sfn|前田晴人|2010年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}、そのヤマト王権の崇敬を背景として神功皇后伝説と住吉神とが結びつけられたとする説がある{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。なお「大津渟中倉之長峡」には異説として、本居宣長が『古事記伝』で摂津国[[菟原郡]]住吉郷(現在の[[神戸市]][[東灘区]])に比定した説が知られる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。この説では、『古事記』仁徳天皇段の「墨江之津を定む」の際に住吉神も菟原郡から住吉郡に移されたとし{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、同地の[[本住吉神社]]も同様の創建社伝を残すが<ref>「本住吉神社」『日本歴史地名大系 29 兵庫県の地名』 平凡社、1999年。</ref>、現在の通説では住吉大社の地に比定する見解が有力視される{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|住吉大社(神々)|2000年}}{{Sfn|古市晃|2014年}}。
また『[[住吉大社神代記]]』([[平安時代]]前期頃の成立か)によれば、住吉三神は「渟中椋(ぬなくら)の長岡の玉出峡(たまでのお)」に住むことを欲したので、神功皇后はその地に住んでいた手搓足尼([[田裳見宿禰]])を神主として祀らせたという{{Sfn|田裳見宿禰(古代氏族)|2010年}}。この田裳見宿禰の後裔が、住吉大社の祭祀を担った[[津守氏|津守連(津守氏)]]一族とされる{{Sfn|田裳見宿禰(古代氏族)|2010年}}。
<!--
第14代[[仲哀天皇]]9年、神功皇后が[[三韓征伐]]より七道の浜(現在の[[大阪府]][[堺市]][[堺区]]七道、[[南海本線]][[七道駅]]一帯)(当時は住吉郡)に帰還した時、神功皇后への[[神託]]により[[天火明命]]の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の[[田裳見宿禰]]が、住吉三神を祀ったのに始まる。その後、神功皇后も祭られる。[[応神天皇]]の頃からの大社の歴代宮司の[[津守氏]]は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよあだ、つもりのとよのごだん)を祖とする。


住吉社は古代[[大和王権]]の外交・航海に関連した神社で、[[遣隋使]]・[[遣唐使]]の守護神であり、津守氏は遣唐神主として遣唐使船に乗船した。遣隋使・遣唐使は、大社南部の[[細江川]](通称 [[細井川停留場|細井川]]。古代の[[住吉の細江]])にあった[[仁徳天皇]]が開いたとされる[[住吉津]](「墨江ノ津」「住之江津」すみのえのつ)から出発する。住吉津は、[[上代]]([[奈良時代]]・[[平安時代]]初期)は、[[シルクロード]]<ref>最終地点は奈良[[東大寺]]、『[[正倉院]]』と、捉えると妥当である。</ref> につながる主な国際港でもあった。
--><!--独自研究につきコメントアウト(要出典)-->
=== 概史 ===
=== 概史 ===
==== 古代 ====
上記の『日本書紀』神功皇后紀の伝説的記事を別とすると、確かな史料のうえでの文献上初見は『日本書紀』[[朱鳥]]元年([[686年]])条<ref group="原">『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月癸卯(5日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>で、[[紀伊国]][[日前神宮・國懸神宮|国懸神]]、飛鳥四社、住吉大神に弊が奉られたという記事になる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。その後、[[神階]]は[[延暦]]3年([[784年]])6月<ref group="原" name="延暦3年6月"/>に正三位勲三等、同年12月<ref group="原" name="延暦3年12月"/>に従二位、[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])<ref group="原" name="大同元年"/>に従一位にそれぞれ昇叙された{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。
上記の『日本書紀』神功皇后紀の伝説的記事を別とすると、確かな史料のうえでの文献上初見は『日本書紀』[[朱鳥]]元年([[686年]])条<ref group="原">『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月癸卯(5日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>で、[[紀伊国]][[日前神宮・國懸神宮|国懸神]]・飛鳥四社・住吉大神に弊が奉られたという記事になる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。持統天皇6年([[692年]])5月・12月条<ref group="原">『日本書紀』持統天皇6年(692年)5月庚寅(26日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref><ref group="原">『日本書紀』持統天皇6年(692年)12月甲申(24日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>にも、伊勢・[[大和神社|大倭]]・住吉・紀伊大神の4所への奉幣([[藤原京]]遷都に伴う奉幣)記事、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足の5社への奉幣(新羅進納調物の奉納)記事が見える{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。


前述のように住吉社は[[遣唐使]]を守る神とされ、『[[万葉集]]』<ref group="原" name="4245番"/>の[[天平]]5年([[733年]])の歌や[[円仁]]の『[[入唐求法巡礼行記]]』の記事が知られる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。[[神階]]は[[延暦]]3年([[784年]])6月<ref group="原" name="延暦3年6月"/>に正三位勲三等、同年12月<ref group="原" name="延暦3年12月"/>に従二位、[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])<ref group="原" name="大同元年"/>に従一位にそれぞれ昇叙された{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。[[平安時代]]以降は祈雨の神としても祀られ、[[承和 (日本)|承和]]3-9年([[836年|836]]-[[842年]])<ref group="原">『続日本後紀』承和3年(836年)6月癸酉(6日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。<br />『続日本後紀』承和5年(838年)8月癸丑(28日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。<br />『続日本後紀』承和6年(839年)4月戊辰(17日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。<br />『続日本後紀』承和8年(841年)4月己巳(29日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。<br />『続日本後紀』承和9年(842年)3月庚戌(15日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>・[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])<ref group="原">『日本三代実録』貞観元年(859年)9月8日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>などに祈雨祈願の奉幣記事が見える。
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では、[[摂津国]][[住吉郡]]に「住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」として、4座が[[名神大社]]に列するとともに朝廷の[[月次祭]]・[[相嘗祭]]・[[新嘗祭]]では幣帛に預かる旨が定められている{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。


[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]<ref group="原" name="神名帳">『延喜式』巻9(神名上)摂津国住吉郡条。</ref>では、[[摂津国]][[住吉郡]]に「住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」として、4座が[[名神大社]]に列するとともに朝廷の[[月次祭]]・[[相嘗祭]]・[[新嘗祭]]では幣帛に預かる旨が定められている{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。また『延喜式』臨時祭のうち、祈雨神祭条<ref group="原">『延喜式』巻3(臨時祭)祈雨神祭条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では祈雨神祭八十五座のうちに住吉社四座と見えるほか{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、名神祭条<ref group="原">『延喜式』巻3(臨時祭)名神祭条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では名神祭二百八十五座のうちに住吉神社四座が、東宮八十島祭条<ref group="原">『延喜式』巻3(臨時祭)東宮八十島祭条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では[[八十島祭]]に祀られる神に住吉神四座が見える{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。
社前は今は完全な市中だが、江戸時代までは境内馬場(現在の[[住吉公園]])は海に面し、[[白砂青松]]の風光明媚の代表地とされ、その風景の絵模様は「[[住吉模様]]」と呼ばれた。また[[紫式部]]『[[源氏物語]]』には[[明石の御方|明石の君]]に関連した重要な舞台として描かれている。また『[[一寸法師]]』は子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参り、子供を出産し、その子供が住吉津から細江川を下って大阪湾に出、淀川をのぼり、[[京都]]へ向う話である。


前述のように平安時代には和歌の神としても信仰され、『[[源氏物語]]』を始め多くの物語に描かれ、たびたび貴族の参詣もあった{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。さらに院政期には熊野詣の途次で上皇・貴族が当社に参詣している{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。また[[長暦]]3年([[1039年]])頃には[[二十二社]]の1つに位置づけられ{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、その後摂津国内では[[一宮]]に位置づけられていった<ref group="注">住吉社を一宮とする初見は、正応4年(1291年)の「六波羅施行状」(勝尾寺文書)。ただし中世期に住吉社が一宮を自称した文書は見つかっていない {{Harv|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。</ref>。
[[清和源氏]]武士団を最初に形成した[[源満仲]]は、[[摂津国|摂津]][[国司|守]]であった[[天禄]]元年([[970年]])に住吉大社に参籠し、住吉大神の神託により[[摂津国]]多田([[兵庫県]][[川西市]]多田)を源氏の本拠地としている。宮司の津守氏は神官であると共に一族は[[武士]]も輩出しており、源満仲の三男で[[河内国]]壺井([[大阪府]][[羽曳野市]]壺井)を本拠地とした[[源頼信]]を祖とする[[河内源氏]]とは[[源為義]]の頃には婚族の関係にあった。河内源氏の後裔で[[鎌倉幕府]]を開いた[[源頼朝]]が[[建久]]6年([[1195年]])[[3月 (旧暦)|3月]]の[[上洛]]の際、住吉大社に多数の[[御家人]]を集め[[流鏑馬]]を行っている。


==== 中世 ====
[[元寇]]の際は、社前の住吉の浜(住之江の浜)において海神の住吉大神に[[蒙古]]撃退の「浜祈祷」が行われた。鎌倉時代末期には幕府の公認で住吉社造営費用獲得のため、[[元 (王朝)|元]]へ交易船が派遣された([[寺社造営料唐船]])が、帰国時には幕府は滅亡しており、[[後醍醐天皇]]の綸旨をもって住吉社造営費にあてられている。
[[鎌倉時代]]には武家からも崇敬され、[[建久]]6年([[1195年]])<ref group="原">『吾妻鏡』建久6年(1195年)4月27日条。</ref>には[[源頼朝]]が[[梶原景時]]を使として住吉社に奉幣、神馬を奉納している{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。古文書ではこの頃に[[神仏習合]]の進んだ様子も見られる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。また[[元寇]]に際しては[[文永]]5-[[建治]]元年([[1268年|1268]]-[[1275年]])に[[叡尊]]がたびたび当社で異敵降伏の祈祷を行なった{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。


[[File:Emperor Go-Murakami.jpg|thumb|130px|right|{{center|[[後村上天皇]]像}}{{small|南朝第97代天皇。[[住吉行宮]]にて崩御。}}]]
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]は、宮司の[[津守氏]]の館の住之江殿(正印殿)に[[吉野朝廷|南朝]]の[[後村上天皇]]の[[住吉行宮|行宮]]が置かれ、約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つになる。次の[[長慶天皇]]は住吉で即位。また[[瀬戸内海]]の[[水軍]]系武士には住吉神を奉じる者も多く、南朝方の瀬戸内連絡網の根拠となった。
神主の津守氏は[[建保]]3年([[1215年]])以降の鎌倉時代から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて摂津守に補任され、摂津国における政治的勢力を強めた{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。さらに[[大覚寺統]]の[[北面武士|上北面]]にも任じられて大覚寺統・南朝勢力と政治的な関係を強め、その関係で南朝の[[後村上天皇]]・[[長慶天皇]]が一時期住吉大社に[[行宮]]を置いている([[住吉行宮]]){{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。


[[室町時代]]にも[[足利尊氏]]を始めとする[[室町幕府]]将軍から崇敬され、第8代将軍[[足利義政]]は社殿造営を[[細川勝元]]に命じている{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。しかし社勢は衰え、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には火災で度々焼失し{{Sfn|住吉大社(角川)|1983年}}、社殿の式年造替も遅延した{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。
南朝方であったことから足利時代は、幕府からの制圧を受け、社領も大幅に削減され、現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模とされる。


==== 近世 ====
[[明応]]2年([[1493年]])の[[明応の政変]]においては[[畠山尚順]]の家臣である遊佐某と当時の住吉大社の神主であった津守国則が婚姻関係にあった事から、尚順の潜伏先であることを疑われ、[[細川政元]]の家臣である[[上原元秀]]に社殿を放火され、津守国則も一時的に社を離れなければならなくなるという憂き目に遭ったが、元秀の死の際には帰参を許され復帰した。
[[File:Hideyori Toyotomi.jpg|thumb|150px|right|{{center|[[豊臣秀頼]]像}}]]
[[文禄]]3年([[1594年]])には[[豊臣秀吉]]の[[検地]]により[[朱印地]]として住吉郷内2,060石が定められ、[[慶長]]11年([[1606年]])には[[豊臣秀頼]]による社殿再興がなされた{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。


[[江戸時代]]には[[江戸幕府]]から崇敬され、慶長19年([[1614年]])に[[徳川家康]]から禁制を得たほか、[[元和]]元年([[1615年]])に引き続き朱印地として住吉郷内2,060石が定められた{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。造替も度々実施され、[[文化 (元号)|文化]]7年([[1810年]])には現在の本宮社殿が造営された{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。西国の大名も[[参勤交代]]時には住吉社に参詣したほか、[[松尾芭蕉]]([[元禄]]7年([[1694年]])参詣)・[[井原西鶴]]([[貞享]]元年([[1684年]])参詣)が参詣して歌を詠んだことや、[[大田南畝]]・[[曲亭馬琴|滝沢馬琴]]らの参詣も知られる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。庶民からも信仰を集め、その様子は全国各地から奉納された多数の石燈籠にうかがわれる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。
[[天正]]4年([[1576年]])には[[織田信長]]と[[大坂本願寺]]との戦い([[石山合戦]])に巻き込まれて社殿の大半を焼失するが、[[慶長]]11年([[1606年]])になって[[豊臣秀頼]]により[[片桐且元]]を奉行として本格的な復興が行われた。しかし、慶長20年([[1615年]])、[[大坂夏の陣]]の兵火によって再び灰燼に帰した。


==== 近代以降 ====
だが[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])、今度は[[江戸幕府]][[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]の命により再興される。
{{Double image aside|right|Sumiyoshi Shrine, Osaka (NYPL Hades-2360384-4044183).jpg|180|摂津住吉神社石大鳥居.jpg|180|{{center|明治末の本宮(左)と門前(右)}}}}
[[明治維新]]後、社号を「住吉神社」に定め、[[明治]]4年([[1871年]])には[[近代社格制度]]において[[官幣大社]]に列した{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。戦後は、[[昭和]]21年([[1946年]])に社号を「住吉大社」に改称{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。また[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列している。

[[平成]]18年([[2006年]])には境内域(住吉大社境内遺跡)での本格的な発掘調査が初めて実施され、調査地となった旧神宮寺跡の一角からは古墳時代末-飛鳥時代頃および中世頃の2期を中心とする多数の遺物が出土している<ref>{{PDFlink|[http://www.occpa.or.jp/ikou/gensetu/gensetu_pdf/2006_0224%20SM05-01.pdf 住吉大社境内遺跡発掘調査(SM05-1次)資料]}}(大阪文化財研究所)。</ref>。


=== 神階 ===
=== 神階 ===
* [[延暦]]3年([[784年]])6月2日、正三位勲三等 (『[[続日本紀]]』)<ref group="原" name="延暦3年6月">『続日本紀』延暦3年(784年)6月辛丑(2日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「住吉神」。
* 六国史における[[神階]]奉叙の記録{{Sfn|神道・神社史料集成}}
** [[延暦]]3年([[784年]])6月2日、正三位から正三位勲三等 (『[[続日本紀]]』)<ref group="原" name="延暦3年6月">『続日本紀』延暦3年(784年)6月辛丑(2日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「住吉神」。
* 延暦3年(784年)12月29日、従二位 (『続日本紀』)<ref group="原" name="延暦3年12月">『続日本紀』延暦3年(784年)12月丙申(29日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「住吉社」。
** 延暦3年(784年)12月29日、従二位 (『続日本紀』)<ref group="原" name="延暦3年12月">『続日本紀』延暦3年(784年)12月丙申(29日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「住吉社」。
* [[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])4月24日、従一位 (『[[日本後紀]]』)<ref group="原" name="大同元年">『日本後紀』大同元年(806年)4月丁巳(24日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「住吉大神」。
** [[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])4月24日、従一位 (『[[日本後紀]]』)<ref group="原" name="大同元年">『日本後紀』大同元年(806年)4月丁巳(24日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「住吉大神」。
* その他
** 平安時代前期頃の『[[住吉大社神代記]]』では、「従三位住吉大明神」と記載{{Sfn|岡田精司|2011年}}。
** 『津守氏古系図』では、天暦6年(952年)時点で正一位{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。


=== 式年遷宮 ===
=== 神職 ===
住吉大社の神職は、'''[[津守氏]]'''(つもりうじ、津守連のち津守宿禰)が担った。「津守」の氏名は[[住吉津]]を守ったことに由来し、それとともに住吉社を奉斎し、住吉郡の郡領も担ったとされる{{Sfn|津守氏(古代氏族)|2010年}}{{Sfn|津守(古代氏族事典)|2015年}}。出自について、『日本書紀』<ref group="原" name="神功皇后摂政前紀仲哀天皇9年12月"/>では住吉社創祀に関わる[[田裳見宿禰]](たもみのすくね、手搓足尼)を祖とするほか、『[[新撰姓氏録]]』ではさらに遡って火明命([[天火明命]])を祖として[[尾張氏]]同祖とする{{Sfn|津守氏(国史)}}{{Sfn|津守氏(古代氏族)|2010年}}{{Sfn|田裳見宿禰(古代氏族)|2010年}}。また『津守氏系図』では、手搓足尼が神功皇后の時に初めて神主となり、子の豊吾田が「津守連」の姓を賜ったとする{{Sfn|津守(古代氏族事典)|2015年}}。考証上では、特に尾張氏と同族とされる点が着目されており、尾張氏の畿内進出は[[継体天皇]](第26代)の進出以降であることから、実際の津守氏の住吉進出および住吉社掌握を[[6世紀]]初頭頃とする説がある{{Sfn|前田晴人|2010年}}{{Sfn|古市晃|2014年}}。その場合に、津守氏進出以前には[[阿曇氏]]系の海人族による住吉社の奉斎を推測する説もある{{Sfn|古市晃|2014年}}。
住吉大社は、[[式年遷宮]]の伝統を維持している。ただし、伊勢神宮のように全面的な改築を行う式年遷宮は1810年を最後に行われず、神体を仮殿に移しての大規模な修理を行う。現在は30年おきの遷宮である。

<div class="NavFrame" style="width:100%;">
津守氏の本宗は[[天武天皇]]13年([[684年]])12月に宿禰の姓を賜った{{Sfn|津守氏(国史)}}{{Sfn|津守氏(古代氏族)|2010年}}{{Sfn|津守(古代氏族事典)|2015年}}。氏人は遣唐使として派遣もされており、『日本書紀』では[[斉明天皇]]5年([[659年]])7月<ref group="原">『日本書紀』斉明天皇5年(659年)7月戊寅(3日)条。</ref>に津守連吉祥の派遣記事が、『続日本紀』では[[宝亀]]9年([[778年]])11月<ref group="原">『続日本紀』宝亀9年(778年)11月乙卯(13日)条。</ref>に主神の津守宿禰国麻呂ら(宝亀8年([[777年]])6月に渡唐か)の遣唐使船の転覆記事が見えるほか、『住吉大社神代記』では天平3年([[731年]])7月に神主の津守宿禰客人が遣唐使になったと見える{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。[[11世紀]]後半の[[津守国基]]は歌人としても知られ、津守氏中興に位置づけられる{{Sfn|津守氏(国史)}}。さらに[[長治]]2年([[1105年]])に津守広基が和泉国国司に任じられたほか(津守氏の国司補任の初見)、[[建保]]3年([[1215年]])には津守経国が摂津守に任じられ、以降の鎌倉時代の歴代神主は摂津守に補任された{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。また津守国助・国冬・国夏は[[大覚寺統]]の[[北面武士|上北面]]に任じられて大覚寺統・南朝勢力と強い政治的関係を持った{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。その後も津守氏による世襲は続き、明治期の官制施行で他の社人が他職に転じても宮司職は津守氏が継承していたが、それも[[津守國榮|津守国栄]]を最後に廃され[[大正]]13年([[1924年]])以降は他氏が任じられる{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">式年遷宮一覧</div>

<div class="NavContent" style="text-align:left;">
『住吉松葉大記』では神職として、正神主・権神主・家子・政所目代・神官・大海社司・斎童・権少祝・家司・開閤・田所・氏人・客方・侍家・伶人・勘所司・神宝所・戸方・神方・巫女・田辺宮主・出納役・小舎人役・田所役・釜殿役・木守・氏識事役・小預役・番匠役・物師役といった職名を伝える{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。正神主・権神主は両官と称されたほか、神官は神奴氏を称し正禰宜・権禰宜・正祝・権祝の4人が4社を管掌したとされる{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。この職制も明治期の官制施行で廃絶した{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。

=== 社領 ===
住吉大社の社領について、『[[新抄格勅符抄]]』[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])牒<ref name="新抄格勅符抄" group="原">『新抄格勅符抄』巻10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>によれば当時の住吉神には[[神戸 (民戸)|神戸]]として239戸が充てられており、そのうち摂津国50戸・丹波国1戸・播磨国82戸・安芸国20戸・長門国66戸であった{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。また同書所収の[[宝亀]]11年([[780年]])12月符では、住吉神について本封のほかに摂津国に新封10戸の存在も見える{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。また『住吉大社神代記』では、神戸として摂津国40烟・播磨国82烟・長門国95烟など計217烟が記載されるが、その史実性は確かではない{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。

[[保安]]元年([[1120年]])の『摂津国正税帳案』では「住吉神戸」として「五拾捌烟 租稲弐仟参佰弐拾束」とするが、社領の全体像は明らかでない{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。また文書によれば、[[長寛]]3年([[1165年]])・[[文治]]2年([[1186年]])・[[寛喜]]2年([[1230年]])・[[弘安]]9年([[1286年]])に[[四天王寺]]と阿倍野を巡って堺相論が、[[治暦]]3年([[1067年]])・[[天治]]2年([[1125年]])・[[承久]]3年([[1221年]])などに[[清水寺 (加東市)|播磨清水寺]]と相論があり、相論の根拠に『住吉大社神代記』が持ち出されることもあった{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。[[延元]]元年([[1336年]])の[[後醍醐天皇]]の[[綸旨]]では『住吉大社神代記』を基に旧領の当知行が安堵されたほか{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には津守氏が南朝勢力に属した関係で堺の地(大覚寺統荘園の堺北庄)が寄進された{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。

[[天正]]16年([[1588年]])6月には[[豊臣秀吉]]が[[大政所]]の病気平癒・延命祈願として1万石の加増を申し出たほか(実際の加増は不明){{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、[[文禄]]3年([[1594年]])には[[検地]]により社領([[朱印地]])は「欠郡住吉内」の2,060石と定められ{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}、[[江戸時代]]も幕末までこの石高で推移した{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。

=== 社殿造営 ===
住吉大社社殿には、古くから[[伊勢神宮]]([[三重県]][[伊勢市]])・[[香取神宮]]([[千葉県]][[香取市]])・[[鹿島神宮]]([[茨城県]][[鹿嶋市]])と並んで[[式年遷宮]](式年造替)の制があった{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。『[[日本後紀]]』[[弘仁]]3年([[812年]])条<ref group="原">『日本後紀』弘仁3年(812年)6月辛卯(5日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では、住吉・香取・鹿島の三神社での20年ごとの造替について社殿全ての造替から正殿のみの造替に変更すると見え、この年以前からの造替が認められる{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。同様の旨は『延喜式』臨時祭<ref name="修理" group="原">『延喜式』巻3(臨時祭)神社修理条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>にも見え、造替費用には神税・正税を充てるとする{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。なお『[[伊呂波字類抄]]』住吉神社項では、「称徳天皇御宇天平神護元年始造宮云々」として奈良時代の[[天平神護]]元年([[765年]])以来の伝統とする{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。

『[[玉葉]]』[[承安]]4年([[1174年]])条<ref group="原">『玉葉』承安4年(1174年)12月6日条。</ref>によれば大海社神殿の改築が天仁・長承・仁平・承安の約20年ごとに実施されているが、本宮本殿については不詳{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。平安時代後期からは住吉社造営役が一国平均役として賦課されており、『玉葉』[[建久]]4年([[1193年]])条<ref group="原">『玉葉』建久4年(1193年)4月29日条。</ref>では[[天永]]の宣旨(天永2年([[1111年]])の遷宮時)に明白として住吉社修造を賀茂・八幡領に賦課する旨が見える{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。[[仁平]]2年([[1152年]])の文書を初見として住吉造営役の免除もあり、建久5年([[1194年]])には広田社([[廣田神社]])の神輿が造営役免除を求めて上洛した{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。『住吉松葉大記』所収の[[正平]]9年([[1354年]])の注進状によれば、当時の賦課対象は摂津国・和泉国・河内国・丹波国・播磨国に及んだ{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。その後、[[永享]]6年([[1434年]])までで遷宮は中断し、[[永正]]18年([[1521年]])に遷宮があるも再び中断し、[[天正]]4年([[1576年]])には[[石山合戦]]で社殿は焼亡した{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。

[[慶長]]11年([[1606年]])には[[豊臣秀頼]]が住吉社造営を命じ、この時の建造物のうち反橋石桁・南門・東西楽所・石舞台は現在も残されている{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。その後、江戸時代にも数度の遷宮が実施され、[[文化 (元号)|文化]]7年([[1810年]])の遷宮では現在の本宮本殿が造営されている。

なお住吉大社側では、[[天平勝宝]]元年([[749年]])を第1回としてこれまでに次の遷宮が行われたとする<ref name="遷宮年表">[http://www.sumiyoshitaisha.net/housankai/senguu/history.html 住吉大社のあらまし > 遷宮年表](住吉大社公式サイト)。</ref>。
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|title = 遷宮一覧
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}}
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* 第1回:天平勝宝元年(749年)
* 786年 第2回遷宮
* 第10回:延長6年(928年)
* 806年 第3回遷宮
* 第14回:長和3年(1014年)
* 826年 第4回遷宮
* 第15回:長元7年(1034年)
* 846年 第5回遷宮
* 第16回:天喜元年(1053年)
* 866年 第6回遷宮
* 第17回:承保元年(1074年)
* 886年 第7回遷宮
* 第18回:嘉保元年(1094年)
* 906年 第8回遷宮
* 第19回:永久2年(1114年)
* 926年 第9回遷宮
* 第20回:長承3年(1134年)
* 954年 第10回遷宮
* 第21回:仁平3年(1153年)
* 974年 第11回遷宮
* 第22回:承安4年(1174年)
* 994年 第12回遷宮
* 第23回:建久5年(1194年)
* 1014年 第13回遷宮
* 第24回:建保2年(1214年)
* 1034年 第14回遷宮
* 第25回:文暦元年(1234年)
* 1053年 第15回遷宮
* 第26回:建長5年(1253年)
* 1074年 第16回遷宮
* 第27回:文永11年(1274年)
* 1094年 第17回遷宮
* 第28回:永仁2年(1294年)
* 1114年 第18回遷宮
* 第29回:正和3年(1314年)
* 1134年 第19回遷宮
* 第30回:建永元年(1334年)
* 1153年 第20回遷宮
* 1174年 第21回遷宮
* 1194年 第22回遷宮
* 1214年 第23回遷宮
* 1234年 第24回遷宮
* 1253年 第25回遷宮
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* 第31回:正平9年(1354年)
* 1274年 第26回遷宮
* 第32回:文中3年(1374年)
* 1294年 第27回遷宮
* 第33回:応永元年(1394年)
* 1314年 第28回遷宮
* 第34回:応永20年(1413年)
* 1334年 第29回遷宮
* 第35回:永享6年(1434年)
* 1354年 第30回遷宮
* 第36回:永正14年(1517年)
* 1374年 第31回遷宮
* 第37回:天文11年(1542年)
* 1394年 第32回遷宮
* 第38回:慶長11年(1606年) - 現在の反橋石桁・南門・東西楽所・石舞台。
* 1414年 第33回遷宮
* 第39回:元和3年(1617年)
* 1434年 第34回遷宮
* 第40回:明暦元年(1655年)
* 1446年 第35回遷宮
* 第41回:宝永6年(1709年) - 現在の摂社大海神社社殿。
* 1517年 第36回遷宮
* 第42回:宝暦8年(1758年)
* 1542年 第37回遷宮
* 第43回:文化7年(1810年) - 現在の本宮社殿。
* 1606年 第38回遷宮
* 第44回:明治11-12年(1878-1879年)
* 1618年 第39回遷宮
* 第45回:明治34-40年(1901-1907年)
* 1655年 第40回遷宮
* 第46回:昭和11年(1936年)
* 1709年 第41回遷宮
* 第47回:昭和36年(1961年)
* 1758年 第42回遷宮
* 第48回:平成3年(1991年)
* 1810年 第43回遷宮
* 第49回:平成23年(2011年)
* 1878年 第44回遷宮
* 1901年 第45回遷宮
* 1936年 第46回遷宮
* 1961年 第47回遷宮
* 1991年 第48回遷宮
2011年 第49回遷宮

.
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</div></div>


== 境内 ==
== 境内 ==
境内の広さは約3万坪{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}。[[上町台地]]の西端に位置し、古代には海に臨んだとされ、明治期も西方の住吉高燈籠から先には海が広がっていた{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。現在も本殿域の西側を正面参道とし、南側には東西楽所・石舞台、東側には高蔵・摂末社群、北側には旧神宮寺跡・摂社大海神社を置く<ref name="幣殿及び渡殿"/>。国宝の本殿4棟を始めとする多数の指定文化財のほか、石造物・池・神田・老樹なども残っており、歴史性を伝える貴重な場所であるとして、境内は大阪市指定史跡に指定されている<ref name="住吉大社境内"/>。
[[ファイル:Sumiyoshi-taisya dainihongu 1.jpg|thumb|180px|right|第一本宮の本殿前の幣殿(重要文化財)]]
[[ファイル:Sumiyoshi-taisya dainihongu 2.jpg|thumb|180px|right|第三本宮(左)・第四本宮(右)の本殿前の幣殿(重要文化財)]]
[[ファイル:Sumiyoshi Taisha Honden no haimen.jpg|thumb|180px|right|第三本宮・第四本宮の本殿の背面(国宝)]]
本殿は[[住吉造]]で4棟が並び、いずれも国宝に指定されている。住吉造の社殿は、切妻造、妻入とし、屋根は反りがなく直線的で、屋根上には[[千木]]と[[鰹木]](かつおぎ)が乗り、内部は手前と奥の2室に区切る点などが特色である。なお、4つの本殿全てで鰹木の数は5本であるが、千木は男神である住吉三神を祀る第一本宮から第三本宮は外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神である神功皇后を祀る第四本宮は内削ぎ(水平に削る)にしている。住吉大社の本殿は4棟とも檜皮葺きで、柱などの軸部と垂木、破風板を朱塗り、壁を白(胡粉)塗りとする。社殿周囲に縁を設けない点も特色である。各社殿は西を正面とし、第一・第二・第三本宮は奥(東)から手前(西)へ縦方向に並び、第四本宮は第三本宮の向かって右(南)に建つ。現存の本殿は江戸時代末期の文化7年(1810年)の建立であるが、建築形式は千木の形式などを除き古式を踏襲している。各本殿の手前には切妻造、平入の幣殿及び渡殿が接続して建つ<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝』33号(朝日新聞社、1997)、pp.'''3''' - 68 - '''3''' - 70</ref>。


=== 本宮 ===
[[石舞台]]は重要文化財に指定されており、「[[日本三舞台]]」の1つに数えられる<ref>他の舞台は、[[四天王寺]]の石舞台、[[厳島神社]]の平舞台。</ref>。卯の葉神事の時には[[雅楽]]が演じられる。なお、雅楽が演奏される回廊は[[豊臣秀頼]]の寄進である。[[住吉反橋|反橋]](太鼓橋)は、[[慶長年間]]に[[淀殿]]が寄進したもの。
[[File:Sumiyoshi-taisha, hongu-2 honden.jpg|thumb|200px|right|{{center|本殿([[国宝]])}}{{small|画像は第二本宮。「[[住吉造]]」と称される古代日本の建築様式。}}]]
[[File:Sumiyoshi-taisha, hongu-1 heiden.jpg|thumb|200px|right|{{center|幣殿([[重要文化財]])}}{{small|画像は第一本宮。桁行は五間。}}]]
本宮は海に向かって西面し、西から東に第三本宮(第三殿)・第二本宮(第二殿)・第一本宮(第一殿)が縦一列に建ち並び、第三本宮の南側に第四本宮(第四殿)が並ぶ。各本宮はほぼ同形同大の本殿・渡殿・幣殿からなり、主祭神4柱が各1柱祀られる。


'''本殿'''は4棟とも[[江戸時代]]後期の[[文化 (元号)|文化]]7年([[1810年]])の造営。「'''[[住吉造]]'''(すみよしづくり)」と称される独特の様式で、神社本殿としては[[神明造]]・[[大社造]]・[[大鳥造]]と並んで[[飛鳥時代]]まで遡る最古様式に位置づけられる<ref name="三浦"正幸/>。建物は桁行二間(側面)・梁間一間(背面)の[[切妻造]]で、妻入とし、屋根は檜皮葺で、内部は前後2室とする<ref name="三浦"正幸/>。柱は丸柱で礎石上に建てられ、正面中央の柱は省略して板扉を設ける<ref name="三浦"正幸/><ref name="住吉大社本殿"/>。屋根は反りがなく直線的で、屋根上には[[千木]](ちぎ)と[[鰹木]](かつおぎ)が乗る。鰹木の数は4棟とも5本であるが、千木は第一本宮から第三本宮は外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)、第四本宮は内削ぎ(水平に削る)。内部を2室とする様は奈良時代の橘夫人宅([[法隆寺]]東院伝法堂)・長屋王邸跡でも確認されており(ただし建物自体は平入)、上代の宮殿の間取りから発想された様式とされる<ref name="三浦"正幸>[[三浦正幸]] 『神社の本殿 -建築にみる神の空間-』 吉川弘文館、2013年、pp. 110-117, 172-173。</ref>。柱などの軸部と垂木・破風板は朱塗り、壁は白(胡粉)塗りである。また社殿周囲に縁を設けない点も古色とされる<ref name="三浦"正幸/>。本殿周囲には瑞垣・玉垣が二重に巡らされるが、これらも古色を残す<ref name="住吉大社本殿"/>。本殿4棟は[[国宝]]に指定されている<ref name="住吉大社本殿"/>。<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝』33号(朝日新聞社、1997)、pp.'''3''' - 68 - '''3''' - 70</ref>
* 誕生石 - [[薩摩藩]]祖・[[島津忠久]]の誕生したといわれる場所。
* 吉祥殿
* 住吉武道館
* 卯の花苑
* 住吉文華館
* 御文庫 - 江戸中期以降、大阪で出版された代表的な本がすべて収められている。
* 神馬舎
* 五所御前
* 神館
* 斎館
* 五月殿
* 桜畠土俵(相撲場) - 毎年10月に近畿高等学校招待相撲大会を開催。


各本殿の前面には'''渡殿'''(わたりでん)・'''幣殿'''(へいでん)が建てられており、いずれも本殿と同様に江戸時代後期の文化7年(1810年)の造営である。第一本宮の幣殿は中世には存在したとされる一方、第二・第三・第四本宮の幣殿は慶長造替以後の設置とされる。第一本宮の幣殿は桁行五間・梁間二間、切妻造で、正面千鳥破風及び軒唐破風付、屋根は檜皮葺で甍棟を積む。割拝殿形式で、中央は拭板敷馬道、左右は二間四方の部屋とする。第二・第三・第四本宮の幣殿は桁行三間であるほかは第一本宮と同様の形式。桁行三間のため左右の部屋は狭くなる。本殿・幣殿をつなぐ渡殿は「間ノ廊下」とも称され、4本宮とも同じ形式で、桁行二間・梁間一間の両下造で、屋根は檜皮葺。幣殿の馬道を伸ばして廊下とし、中間に朱塗り角柱の鳥居を付す。渡殿・幣殿は合わせて1棟として計4棟とも国の重要文化財に指定されている<ref name="幣殿及び渡殿"/>。

なお他の住吉造の本殿としては、境内摂社の[[大海神社]]本殿([[宝永]]5年([[1708年]])造営、重要文化財)、博多の[[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]]本殿([[元和]]9年([[1623年]])造営、重要文化財)が知られる<ref name="三浦"正幸/>。また古代の建築様式のうちでは、神明造を穀倉型神殿、大社造を宮殿型神殿、住吉造を祭場型神殿と見なす説がある{{Sfn|上田正昭|2013年}}。住吉造には[[大嘗宮]]正殿との関連も見られており、両者をヤマト大王の住居の名残とする説や{{Sfn|岡田精司|2011年}}、大嘗宮正殿を参考にして住吉造が創出されたとする説もある<ref name="三浦"正幸/>。
<gallery>
<gallery>
File:Sumiyoshi-taisha, hongu-2 shaden.jpg|第二本宮社殿<br />{{small|中央の本殿前面に渡殿・幣殿が接続する。}}
ファイル:Sumiyoshi-taisya Ishibutai.jpg|[[石舞台]](重要文化財)
File:Sumiyoshi-taisha, hongu-2 heiden.jpg|第二本宮幣殿<br />{{small|桁行は三間。}}
ファイル:sumiyoshi-taisya_hashi.jpg|[[住吉反橋|反橋]](太鼓橋)
File:Sumiyoshi-taisha, hongu-3&4 honden.jpg|{{small|第三本宮本殿(手前:千木は外削ぎ)・第四本宮本殿(奥:千木は内削ぎ)}}
ファイル:sumiyoshi-taisya_torii.jpg|[[住吉鳥居]]
File:Sumiyoshi-taisha, hongu-3&4 heiden.jpg|{{small|第三本宮幣殿(奥)・第四本宮幣殿(手前)}}
ファイル:Sumiyoshi Taisha Ishi-Toro.jpg|[[石燈籠]]
ファイル:住吉大社 本殿平面図.tif|本殿平面図
File:Sumi Hongu 1.jpg|第一本宮幣殿(重要文化財)
File:Sumiyoshi Taisha dai2hongu.jpg|第二本宮幣殿(重要文化財)
File:Sumi 3 u 4 vorn.jpg|第三・第四本宮拝殿(重要文化財、向かって左が第三本宮)
File:Sumi Speicher.jpg|北高蔵(重要文化財)
</gallery>
</gallery>


=== 本宮以外の社殿 ===
'''関連史跡'''
{{Double image aside|right|Sumi Speicher.jpg|120|Sumiyoshi-taisha, Minami-takakura.jpg|150|{{center|北高蔵(左)・南高蔵(右)<br />(いずれも重要文化財)}}}}
[[ファイル:Shukuin Tongu2.jpg|thumb|180px|宿院頓宮]]
第一本宮の裏手(東側)には、高蔵(たかくら)2棟が南北に並んで建てられており、それぞれ'''北高蔵'''・'''南高蔵'''と称される。いずれも桃山時代の慶長12年(1607年)の造営で、大阪府内にある指定文化財の蔵のうちでは最古になる。形式は桁行三間・梁間二間(北:5.40メートル&times;4.81メートル、南:4.85メートル&times;4.24メートル)、板校倉造の高床式倉庫で、上部は[[寄棟造]]、屋根は本瓦葺。釘を1本も使用せずに建てられており、「釘無宝庫(くぎなしほうこ)」とも称される。「津守家盛記」では高蔵4棟の造営と見えるが、他の2棟は非現存で、現在の2棟も昭和45年(1970年)の境内地内移築ののち現在地に定まった。かつては内部に神宝が収められたが、神宝は住吉文華館に移され、現在は祭具収蔵庫として使用されている。北高蔵・南高蔵の2棟は国の重要文化財に指定されている<ref name="高蔵"/><ref name="幣殿及び渡殿"/><ref name="すみよし蔵ものがたり">『[http://www.city.osaka.lg.jp/sumiyoshi/page/0000167828.html すみよし蔵ものがたり]』 大阪市住吉区役所、2012年、pp. 10-13。</ref>。
* [[住吉行宮]]跡(国の[[史跡]])

*: 住吉大社宮司の[[津守氏]]の[[住之江殿]](正印殿)にあり、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[後醍醐天皇]]の子の[[後村上天皇]]の約10年間の[[御座所]]([[住吉行宮|行宮]])であり、次の[[長慶天皇]]はここで即位。
[[File:Sumiyoshi-taisha, minami-mon.jpg|thumb|180px|right|{{center|南門(重要文化財)}}]]
* [[宿院頓宮]]
境内南側にあって境内を画する'''南門'''、およびその両側の楽所(がくしょ、'''東楽所'''・'''西楽所''')は、江戸時代初期の[[慶長]]12年([[1607年]])の[[豊臣秀頼]]の再興による造営。いずれも南面し、南門は四脚門、切妻造で、屋根は本瓦葺。太い木割や絵様には桃山時代の特色が見られる。東楽所は桁行十一間、梁間二間、東面は入母屋造、西面は切妻造で、屋根は本瓦葺。西楽所は桁行五間、梁間二間、西面は入母屋造、東面は切妻造で、屋根は本瓦葺。南門・東西楽所の3棟は国の重要文化財に指定されている<ref name="南門"/><ref name="楽所"/>。
*: 大阪府[[堺市]][[堺区]]にある、住吉大社と[[大鳥大社]]の御旅所。8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われ、境内にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われる。

* 住吉高燈籠[[File:(住吉名所)高燈籠.jpg|thumb|(住吉名所)高燈籠]]
そのほか、境内南寄りにある'''神館'''は大正4年(1915年)に大正天皇の即位記念として建てられたもので、国の登録有形文化財<ref name="神館"/>。本宮北方の旧神宮寺跡地にある'''住吉文華館'''(昭和52年(1977年)竣工)には、神宝が収蔵されている<ref name="すみよし蔵ものがたり"/>。また住吉文華館の東側には、'''御文庫'''(おぶんこ、住吉御文庫)と称される漆喰塗の建物がある。[[享保]]8年(1723年)に書籍商の発願によって建てられたもので、以来約5万冊に及ぶ写本・版本が奉納されており、「大阪最古の図書館」とも称される{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}<ref name="すみよし蔵ものがたり"/>。
*: 現存する日本最古の[[灯台]]で1794年以前の[[鎌倉時代]]創建とされる。[[1950年]]の[[ジェーン台風]]で木造の上部が破壊された。現在の高燈籠は、石垣の基壇を移動し鉄筋コンクリート造で復元したもので、[[住吉公園]]近くの国道26号線に面したところにある。燈籠内部は史料館となっている。燈籠に登ることもできる。古い絵葉書によると元々入口は東を向いていたが復元された物は南を向いている。
<gallery>
File:Sumiyoshi-taisha, Sai-kan.jpg|斎館
File:Sumi Bunko.jpg|住吉御文庫
File:Sumiyoshi-taisha, Kagura-den.jpg|神楽殿
File:Sumiyoshi Taisha Kissyoden.jpg|吉祥殿
File:Sumiyoshi Taisha Kitoden1.jpg|祈祷殿
File:Sumiyoshi Taisha Shamusho1.jpg|社務所
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=== その他の建造物 ===
[[File:Sumiyoshi-taisha, Ishi-butai.jpg|thumb|180px|right|{{center|[[石舞台]](重要文化財)}}{{small|「[[日本三舞台]]」の1つ。}}]]
[[File:Sumiyoshi-taisha, Sorihashi.jpg|thumb|180px|right|{{center|[[住吉反橋|反橋(太鼓橋)]]}}]]
第一本宮の南側には'''[[石舞台]]'''がある。南門・東西楽所と同様に慶長12年(1607年)の豊臣秀頼の再興による造営。池に架けられた石造桁橋(幅約11メートル&times;長さ約12メートル)の上に、一辺約6メートル、高さ約0.5メートルの規模で築かれている。前面に階段を付し、舞楽を演じる際には上面に木製の高欄が取り付けられる。「[[日本三舞台]]」の1つに数えられるとともに<ref group="注">「[[日本三舞台]]」は、住吉大社の石舞台のほか、[[四天王寺]](大阪市天王寺区)の石舞台、[[厳島神社]](広島県廿日市市)の平舞台とされる。</ref>{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}、国の重要文化財に指定されている<ref name="石舞台"/><ref name="南門"/>。

4本宮の外周に巡らされた瑞垣には、西側に幸禄門(西北面)・幸壽門(幸寿門、西面)・幸福門(西南面)の3門が開く。そのうち第三本宮正面の幸壽門の門前には'''角鳥居'''(かくとりい)が建てられている。「角鳥居」の名は柱が四角柱であることに由来し(本宮の渡殿内にある鳥居も同様の柱)、その独特な形式により「住吉鳥居」とも称される{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}。扁額の「住吉神社」は[[有栖川宮幟仁親王]]の筆{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}。

角鳥居から続く参道では、角鳥居前の池に'''[[住吉反橋|反橋]]'''(そりはし)が架かる。「太鼓橋(たいこばし)」とも称され、住吉大社を象徴する橋になる{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}。高さは4.4メートル<ref name="反橋(大阪観光局)">[http://www.osaka-info.jp/jp/facilities/cat20/1155.html 反橋(住吉大社の太鼓橋)](大阪観光局「OSAKA-INFO」)。</ref>。鎌倉時代の『諸神事次第記』にも橋の記述が見える{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}。現在の橋は昭和56年(1981年)の造営によるものであるが、石造の脚・梁部分は慶長年間([[1596年|1596]]-[[1615年]])の造営になり、豊臣秀頼によるものとも、淀殿の寄進によるものとも伝わる{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}<ref name="反橋(大阪観光局)"/>。反橋を舞台にした作品として[[川端康成]]の小説『反橋』がある<ref name="名所旧跡"/>。なお、この反橋付近まではかつて海であったといわれ<ref name="反橋(大阪観光局)"/>、反橋が架かる池については古代の潟湖([[ラグーン]])の痕跡とする説がある{{Sfn|古市晃|2014年}}。

参道には多数の'''石燈籠'''が建ち並び、その数は約600基にも及ぶ。最古は[[寛永]]21年([[1644年]])まで遡り{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}、その多くは江戸時代の廻船業関係者からの奉納になる{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}。
<gallery>
File:住吉大社にて 住吉鳥居 2012.10.13 - panoramio.jpg|角鳥居(住吉鳥居)・幸壽門
File:Sumiyoshi-taisha, Koufuku-mon.jpg|幸福門
File:Sumiyoshi Taisha Ishi-Toro.jpg|石燈籠
</gallery>

=== 旧跡 ===
[[File:Sumiyoshi Taisha4.jpg|thumb|180px|right|{{center|五所御前}}{{small|住吉神鎮座伝説地。}}]]
第一本宮の南側には'''五所御前'''(ごしょごぜん)という玉垣の区画があり、内側には杉の木が生育する。社伝では、神功皇后が住吉神の奉斎場所を探す際に3羽の鷺が杉の木にとまったので、この地を鎮座地に定めたという{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}<ref name="名所旧跡"/>。元々は祭神来臨の神事を行うミアレ所(御阿礼所/御生所)であったとする説もある{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}{{Sfn|真弓常忠|2003年|pp=29-43}}。現在は「高天原」とも称され、毎年5月初卯日(住吉大社創建伝承日)の卯之葉神事ではこの五所御前に卯の葉の玉串が捧げられる<ref name="名所旧跡"/>。

角鳥居近くにある'''誕生石'''(たんじょうせき)は、[[薩摩藩]]祖の[[島津忠久]]の誕生地と伝承される。その母の[[丹後局]]は、[[源頼朝]]の寵愛を受けるも[[北条政子]]に捕まるが、本田次郎親経により難を逃れて住吉社に至り、この地で忠久を産んだと伝える{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}<ref name="名所旧跡">[http://www.sumiyoshitaisha.net/place/meisyo.html 境内案内と文化財 > 名所旧跡](住吉大社公式サイト)。</ref>{{Sfn|真弓常忠|2003年|pp=80-104}}。

境内南側には、'''御田'''(おんだ)と称される神田が広がる。毎年6月14日には御田植神事(国の重要無形民俗文化財)がこの田で行われる。
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File:Sumiyoshi-taisha, Tanjou-seki.jpg|誕生石<br />{{small|[[島津忠久]]誕生伝説地。}}
File:Sumiyoshi-taisha, Onda.jpg|御田(神田)
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== 摂末社 ==
== 摂末社 ==
摂末社は、摂社4社(いずれも境内社)・末社25社(境内21社、境外4社)の計29社{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}。そのほかに祠がある<ref>[http://www.sumiyoshitaisha.net/place/massya.html 境内案内と文化財 > 末社](住吉大社公式サイト)。</ref>。

=== 摂社 ===
=== 摂社 ===
[[File:Daikai-jinja, heiden-1.jpg|thumb|180px|right|{{center|[[大海神社]]}}{{small|本殿・渡殿・幣殿は重要文化財。}}]]
[[File:Sumiyoshi-taisha, Shiga-jinja.jpg|thumb|180px|right|{{center|志賀神社}}]]
[[File:Sumiyoshi-taisha, Funatama-jinja-2.jpg|thumb|180px|right|{{center|船玉神社}}]]
[[File:Sumiyoshi-taisha, Wakamiya-hachimangu.jpg|thumb|180px|right|{{center|若宮八幡宮}}]]
; [[大海神社]]
; [[大海神社]]
:* 祭神:[[豊玉彦命]]、[[トヨタマヒメ|豊玉姫命]]
:* 社格:式内社「大海神社二座」
:* 社格:式内社「大海神社二座」
:* 例祭:10月13日
:* 祭神:[[豊玉彦命]]、[[トヨタマヒメ|豊玉姫命]]
: 「だいかいじんじゃ」。第一の摂社。境内北寄りにおいて本宮同様に西面して鎮座する({{ウィキ座標|34|36|50.05|N|135|29|37.21|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=境内摂社:大海神社}})。『延喜式』神名帳では「元名津守安人神」とあるが、これを「氏人神」と校訂して津守氏の氏神社とする説のほか、『住吉大社神代記』にも「津守安必登神」と見えるため「安人神/安必登神 = 現人神」と解釈して津守氏の現人神信仰の神社とする説がある{{Sfn|大海神社二座(式内社)|1977年}}{{Sfn|大海神社(神々)|2000年}}{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=203-217}}{{Sfn|真弓常忠|2003年|pp=152-166}}(詳細は「[[大海神社]]」を参照)。
; 若宮八幡宮
: 社殿は本宮社殿とともに西面する。本殿は本宮本殿と同様の住吉造であるが、本宮本殿よりも古い江戸時代中期の[[宝永]]5年([[1708年]])の造営で、国の重要文化財に指定されている<ref name="大海神社本殿"/>。また幣殿・渡殿(宝永5年(1708年)造営)、西門(江戸時代前期の造営)も国の重要文化財に指定<ref name="大海神社幣殿及び渡殿"/><ref name="大海神社西門"/>。社前には「玉の井」と称される井戸がある。
:* 祭神:[[応神天皇]]、[[武内宿禰]]
; 志賀神社
; 志賀神社
:* 祭神:[[ワタツミ|底津少童命、中津少童命、表津少童命]]
:* 祭神:[[ワタツミ|底津少童命]][[ワタツミ|中津少童命]][[ワタツミ|表津少童命]]
:* 例祭:9月9日
: 「しがじんじゃ」。境内北寄りの大海神社近くに西面して鎮座する({{ウィキ座標|34|36|49.53|N|135|29|36.98|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=境内摂社:志賀神社}})。祭神の綿津見三神(海三神)は住吉三神とともに禊祓で生まれた海の神で、[[阿曇氏]]祖神。[[志賀海神社]](福岡県福岡市)を本社とする<ref>[http://www.sumiyoshitaisha.net/place/sessya.html#no03 境内案内と文化財 > 摂社](住吉大社公式サイト)。</ref>{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=203-217}}。
; 船玉神社
; 船玉神社
:* 祭神:[[天鳥船命]]、[[サルタヒコ|猿田彦神]]
:* 社格:式内社「船玉神社」
:* 社格:式内社「船玉神社」
:* 例祭:10月21日
:* 祭神:[[天鳥船命]]、[[サルタヒコ|猿田彦神]]
: 「ふねたまじんじゃ」。本宮南西、瑞垣外(幸福門外)において西面して鎮座するが({{ウィキ座標|34|36|43.73|N|135|29|33.72|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=境内摂社:船玉神社}})、昭和45年(1970年)までは第四本宮の社前に鎮座した。元々の祭神を住吉神の荒魂とする説もある。『住吉大社神代記』では紀伊の志麻神・静火神・伊達神([[和歌山県]][[和歌山市]]の[[志磨神社]]・[[静火神社]]・[[伊達神社 (和歌山市)|伊達神社]])の本社とする{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=203-217}}{{Sfn|真弓常忠|2003年|pp=152-166}}。
<gallery>
; 若宮八幡宮
ファイル:Owatatsumi-jinja2.JPG|[[大海神社]](式内社、重要文化財)
:* 祭神:[[応神天皇]]、[[武内宿禰]]
File:Sumiyoshi-taisha, Funatama-jinja.jpg|船玉神社(式内社)
:* 例祭:1月12日
</gallery>
: 「わかみやはちまんぐう」。本宮南側、五所御前の南側において西面して鎮座する({{ウィキ座標|34|36|43.78|N|135|29|38.17|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=境内摂社:若宮八幡宮}})。祭神の応神天皇は神功皇后の子。1月12日の例祭では湯立神楽が奉納される{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=203-217}}{{Sfn|真弓常忠|2003年|pp=152-166}}。

なお、江戸時代には住吉大社北方の[[生根神社 (大阪市住吉区)|生根神社]]も摂社とされていたが、明治5年([[1872年]])に分離独立した<ref>「生根神社」『日本歴史地名大系 28-1 大阪府の地名』 平凡社、1986年。</ref>。


=== 末社 ===
=== 末社 ===
[[File:Sumiyoshi-taisha, Tanekashi-sha.jpg|thumb|160px|right|{{center|種貸社}}]]
[[File:Sumiyoshi-taisha, Shokon-sha.jpg|thumb|160px|right|{{center|招魂社(旧護摩堂)<br />(重要文化財)}}]]
[[File:Sumiyoshi-taisha, Asazawa-sha.jpg|thumb|160px|right|{{center|浅沢社}}{{small|[[カキツバタ]]の名所として知られる。}}]]
[[File:Shukuin Tongu2.jpg|thumb|160px|right|{{center|[[宿院頓宮]]}}{{small|[[#例祭|住吉祭]]の[[御旅所]]。}}]]

'''境内社'''
'''境内社'''
* 楯社(たてしゃ) - 祭神:[[武甕槌命]]
* 楯社(たてしゃ) - 祭神:[[武甕槌命]]。例祭:9月1日。
* 鉾社 - 祭神:[[経津主命]]
* 鉾社(ほこしゃ) - 祭神:[[経津主命]]。例祭:4月14日。
* 侍者社(おもとしゃ) - 祭神:田裳見宿、市姫命
* 侍者社(おもとしゃ) - 祭神:[[田裳見宿禰]]、市姫命。例祭:2月5日。
* 后土社(ごどしゃ) - 祭神:土御祖神
* 后土社(ごどしゃ) - 祭神:土御祖神。例祭:10月19日。
* 楠&#29690;社(なんくんしゃ) - 祭神:[[ウカノミタマ|宇迦魂命]]
* 楠&#29690;社(なんくんしゃ) - 祭神:[[ウカノミタマ|宇迦魂命]]。例祭:5月辰日。
* 市戎大国社 - 祭神:[[事代主|事代主命]]、[[大国主|大主命]]
* 市戎大国社(いちえびす・だいこくしゃ) - 祭神:[[事代主|事代主命]]、[[大国主|大主命]]。例祭:1月10日。
* 種貸社(たねかししゃ) - 祭神:[[ウカノミタマ|倉稲魂命]]。式内社
* 種貸社(たねかししゃ) - 祭神:[[ウカノミタマ|倉稲魂命]]。例祭:4月9日。
*: 元は長居町に鎮座した式内社「多米神社」で({{ウィキ座標|34|36|45.58|N|135|30|45.51|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=種貸社(式内社「多米神社」)旧社地}})、多米氏(ためうじ、多米連)の氏神とされる{{Sfn|多米神社(式内社)|1977年}}。明暦元年(1655年)に住吉大社境内に移転{{Sfn|多米神社(式内社)|1977年}}。
* 子安社 - 祭神:興台産霊神
* 児安社(こやすしゃ) - 祭神:興台産霊神。例祭:9月19日。
* 海士子社 - 祭神:[[ウガヤフキアエズ|鵜茅葺不合尊]]
* 海士子社(あまごしゃ) - 祭神:[[ウガヤフキアエズ|鵜茅葺不合尊]]。例祭:2月1日。
* 龍社 - 祭神:[[ミヅハノメ|水波野女神]]
* 八所社 - 祭神:[[スサ|素盞鳴尊]]
* (たつしゃ、御井社) - 祭神:[[ミヅハ|水波野女神]]。例祭:10月16日。
* 新宮社 - 祭神:[[イザナミ|伊邪那美命]]、事解男命、速玉男命
* 八所(はっしょしゃ) - 祭神:[[スサノオ|素盞鳴尊]]。例祭:6月15日。
* 新宮社(しんぐうしゃ) - 祭神:[[イザナミ|伊邪那美命]]、事解男命、速玉男命。例祭:5月17日。
* 立聞社 - 祭神:[[天児屋命|天児屋根命]]
* 立聞社(たちぎきしゃ、長岡社) - 祭神:[[天児屋命|天児屋根命]]。例祭:2月1日。
* 貴船社 - 祭神:[[淤加美神|高おかみ神]]
* 星宮 - 祭神:[[国之常立神|国常立命]]
* 貴船社(きふねしゃ) - 祭神:[[淤加美神|高龗神]]。例祭:6月1日。
* 星宮(ほしみや) - 祭神:[[国之常立神|国常立命]]。例祭:7月7日。
* 五社 - 祭神:大領・板屋・狛・津・高木・大宅・神奴祖神
* 五社(ごしゃ) - 祭神:大領、板屋、狛、津、高木、大宅、神奴祖神。例祭:4月初申日・11月初申日。
* 薄墨社 - 祭神:国基霊神
* 斯主社(このぬししゃ) - 祭神:国霊神
* 薄墨社(うすずみしゃ) - 祭神:国霊神(第39代神主[[津守国基]])。例祭:8月7日。
* 主社 - 祭神:国霊神
* 主社(このぬししゃ) - 祭神:国霊神(第43代神主津守国盛)。例祭:7月21日。
* 今主社(いまぬししゃ) - 祭神:国助霊神(第48代神主津守国助)。例祭:1月27日。
* 招魂社 - 祭神:諸霊神
* 招魂社(しょうこんしゃ) - 祭神:諸霊神。例祭:春分日・秋分日。
*: 社殿は元は旧神宮寺護摩堂で、鬼瓦銘から江戸時代前期の元和5年(1619年)の造営とされる。形式は桁行三間・梁間三間、[[入母屋造]]で、前面に向拝一間を付し、屋根は本瓦葺。境内に唯一残る仏教建築になる。国の重要文化財に指定されている<ref name="招魂社本殿"/><ref name="幣殿及び渡殿"/>。


'''境外社'''
'''境外社'''
* 大歳社(おおとししゃ、大阪市住吉区墨江、{{ウィキ座標|34|36|37.36|N|135|29|40.37|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=境外末社:大歳社}}) - 祭神:[[年神|大歳神]]。式内社「草津大歳神社」論社<ref group="注">式内社「草津大歳神社」について、『式内社調査報告』では[[大依羅神社]](大阪市住吉区庭井)に合祀された旧草津大歳神社の方を有力視する(真弓常忠 「草津大歳神社」『式内社調査報告 第5巻』 式内社研究会編、皇學館大学出版部、1977年)。</ref>。例祭:10月9日。
* 大歳社(おおとししゃ) - 祭神:[[年神|大年神]]
* 淺澤神社(あさじんじゃ) - 祭神:[[イチキシマヒメ|市杵島姫命]]
* 浅沢社(あさ、大阪市住吉区上住吉、{{ウィキ座標|34|36|38.56|N|135|29|40.10|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=境外末社:浅沢社}}) - 祭神:[[イチキシマヒメ|市杵島姫命]]。例祭:6月17日。
* 港住吉神社(みなとすみよしじんじゃ、大阪市港区築港、{{ウィキ座標|34|39|12.36|N|135|26|18.56|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=境外末社:港住吉神社}}) - 祭神:住吉大神。例祭:7月15日。
* 港住吉神社 - 祭神:底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后
** 港住吉神社境内社:楠玉稲荷社 - 祭神:倉稲魂神。
* [[宿院頓宮|波除住吉神社]] - 祭神:底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命
* [[宿院頓宮]](しゅくいんとんぐう、堺市堺区宿院町東、{{ウィキ座標|34|34|29.31|N|135|28|22.35|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=境外末社:宿院頓宮}}) - 祭神:住吉大神、神功皇后、大鳥大神。住吉祭の御旅所。
<gallery>
ファイル:Sumiyoshi Taisha Shokonsha1.jpg|招魂社(旧護摩堂、重要文化財)
ファイル:Sumiyoshi Taisha Omoto.jpg|侍者社
ファイル:Sumiyoshi-tanekashisya1.JPG|種貸社(式内社)
ファイル:Ootoshi-jinja Haiden.jpg|大歳社
</gallery>


=== その他 ===
=== ===
* おいとしぼし社
* おいとしぼし社 - 大歳社境内。
*: お愛し星(おいとしほし)、老年星(おいとしほし)ともいう。由来は不詳で、金龍または[[龍神]]とも、[[隕石]]を願い事の守護神として祭り始めたものとも云われている。
* 楠高社
* 楠高社
* 海龍社
* 海龍社
232行目: 348行目:
* 結乃神社
* 結乃神社
* 神馬塚
* 神馬塚
* 神宮遥拝所


=== 住吉神宮寺跡 ===
== 祭事 ==
=== 年間祭事 ===
[[天平宝字]]2年([[758年]])、住吉社の[[神宮寺]]として現在の北神苑と住吉文華館一帯の地に[[薬師如来]]を[[本尊]]とする[[新羅寺]]が建立され、以降住吉社と共に隆盛を誇り、やがては[[天台宗]]の[[寺院]]となった。
{{hidden begin
|title = 年間祭事一覧
|border = #aaa solid 1px
|titlestyle = text-align: center; ; background:lightgrey;
}}
住吉大社で年間に行われる祭事の一覧{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}。
* 毎月
** 朔日祭 (毎月1日)
** 卯之日祭 (毎月初卯日)
** 初辰祭 (毎月初辰日)
** 十五日祭 (毎月15日)
** 海上・交通安全祈願祭 (毎月20日)
* 1月
** 元旦祭 (1月1日)
** 元始祭 (1月3日)
** 踏歌神事 (1月4日)
** 白馬神事 (1月7日)
** 御結鎮神事 (1月13日)
* 2月
** 節分祭 (2月節分日)
** 紀元祭 (2月11日)
* 3月
** 祈年祭 (3月17日)<ref name="3月"/><!--神社由緒書、『式内社調査報告』、『住吉大社』(学生社)、『住吉信仰』(朱鷺書房)ではいずれも2月とするが、現在の住吉大社サイトほかでは3月とする-->
* 4月
** 松苗神事 (4月3日)
* 5月
** 卯之葉神事 (5月初卯日)
* 6月
** 御田植神事 (6月14日)
** 大祓式 (6月30日)
* 7月
** 神輿洗神事 (7月第3月曜日・火曜日)
** 宵宮祭 (7月30日)
** '''例大祭'''、夏越大祓神事 (7月31日)
* 8月
** 渡御祭、荒和大祓神事 (8月1日)
* 9-10月
** 観月祭 (中秋名月日)
* 10月
** 宝之市神事 (10月17日)
* 11月
** 明治祭 (11月3日)
** 新嘗祭 (11月23日)
* 12月
** 天長祭 (12月23日)
** 煤払式 (12月26日)
** 大祓式、除夜祭 (12月31日)
</div></div>
{{hidden end}}


=== 住吉祭 ===
[[天正]]4年([[1576年]])、[[石山合戦]]の際に住吉社の社殿と共に新羅寺の仏堂も炎上する。しかし、[[慶長]]11年([[1606年]])に[[豊臣秀頼]]により[[片桐且元]]を奉行として住吉社と共に本格的な復興が行われ、[[本堂]]・[[法華三昧堂]]・[[常行三昧堂]]・[[僧坊]]・[[鐘楼]]などの他、方形二重の[[大塔]]である東塔と西塔が造営される。
[[File:Sumiyoshi Matsuri (04) IMG 3224-2 20140801.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[住吉祭]]で[[大和川]]を渡る渡御列}}]]
住吉大社の[[例祭]](例大祭、1年で最も重要な祭)を中心とした祭は「'''[[住吉祭]]'''(すみよしさい/すみよしまつり)」と称される。大阪を祓い清める祭りとして「おはらい」とも称され{{Sfn|住吉祭(国史)}}<ref name="住吉祭"/>、「[[大阪三大夏祭り]]」の1つにも数えられる<ref group="注">「大阪三大夏祭り」は、住吉大社の住吉祭、[[大阪天満宮]]の[[天神祭]]の2つの祭りに加えて、[[生國魂神社]]の[[生玉夏祭|いくたま夏祭]]を挙げる場合と、[[四天王寺]]別院[[勝鬘院|愛染堂]]の[[愛染まつり]]を挙げる場合とがある。</ref>。かつては旧暦6月30日を中心に斎行されたが、明治7年([[1874年]])の太陽暦移行後は7月31日を中心に斎行される{{Sfn|住吉祭(国史)}}。『住吉大社神代記』に「六月御解除、開口水門姫神社」「九月御解除、田蓑嶋姫神社」と見えるうちの前者(南祭)を継承するものとされるが、後者(北祭)は現在までに廃絶している<ref group="注">九月御解除(北祭)はかつて玉出嶋祓所に神幸したもので、明治42-大正5年(1909-1916年)には松島の行宮への船渡御をして「北祭」とも称したが、現在は廃れている {{Harv|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。</ref>{{Sfn|住吉祭(国史)}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。


現在の祭儀次第は次の通り<ref name="住吉祭"/>。
慶長20年([[1615年]])、[[大坂夏の陣]]の兵火によって再び灰燼に帰すが、[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])に[[徳川秀忠]]により再興される。
* 7月第3月曜日([[海の日]])・火曜日 - 神輿洗神事
* [[7月30日]] - 住吉祭宵宮祭
* [[7月31日]] - 夏越祓神事、住吉祭例大祭
* [[8月1日]] - 渡御祭、頓宮祭、荒和大祓神事
7月第3月曜日(海の日)から翌火曜日にかけて行われる'''神輿洗神事'''(みこしあらいしんじ)は、例大祭(住吉祭)に先立って海水で神輿を祓い清める神事である。かつては6月15日宵の満潮に長峡の浦で行われたが、現在では大阪湾沖合の海水を使って住吉公園において行われ、御旅所(住吉高燈籠)で一晩奉安したのち、翌日に還御する{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}<ref name="住吉祭">[http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/natu.html 祭りと年中行事 > 住吉祭(夏祭り)](住吉大社公式サイト)。</ref>。


[[7月31日]]の'''夏越祓神事'''(なごしのはらえしんじ)では、五月殿での大祓式ののち、伝統衣装で着飾った夏越女・稚児の行列が茅の輪くぐりを行う<ref name="住吉祭"/>。この夏越祓神事は「住吉大社の夏越祭」として大阪府選択無形民俗文化財に選択されている<ref name="一覧表"/>。次いで第一本宮において'''例大祭'''(れいたいさい)が斎行され、祭典ののちに神楽「熊野舞」・住吉踊が奉納される<ref name="住吉祭"/>。
[[明治時代]]に入ると[[廃仏毀釈]]の波や[[神仏分離令]]の影響を受けて新羅寺は明治6年([[1873年]])に破却され廃寺となった。その際、一部の建物は売却され、西塔は[[阿波国]]の[[切幡寺]]の大塔に、薬医門は[[荘厳浄土寺]]の表門に、[[回廊]]の一部は[[生根神社]]の香梅殿として現存している。また、住吉大社末社招魂社は[[江戸時代]]中期までは新羅寺の[[護摩堂]]であった。


[[File:Shukuin iisajibori20160618 2.jpg|thumb|180px|right|{{center|[[宿院頓宮]]境内の飯匙堀}}]]
== 祭事 ==
翌日の[[8月1日]]には、住吉神の神霊を乗せた神輿が堺の[[宿院頓宮]](堺市堺区宿院町東)までの渡御を行う<ref name="住吉祭"/>。渡御は昭和37年([[1962年]])以降は自動車列となっていたが{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}、平成17年(2005年)からは鳳輦・神輿列が復活し、街道を練り歩き大和川では川の中を進む<ref name="住吉祭"/>。宿院頓宮に到着後は頓宮境内の飯匙堀(いいがいぼり)において'''荒和大祓神事'''(あらにごのおおはらいしんじ)を行う<ref name="住吉祭"/>。この飯匙堀は海幸山幸神話の潮干珠を埋めたところと伝わる場所で、この地で本社で行なったのと同様の茅の輪くぐりを行う。
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<gallery>
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">年間祭事一覧</div>
File:Osaka-zu byobu Sumiyoshi jinjja.jpg|豊臣期大坂図屏風で描かれる荒和大祓神事
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
</gallery>
* 卯之葉神事

* 御田植神事
=== 特殊神事 ===
* 神輿洗神事(住吉祭の神事始め)
; 踏歌神事
* [[住吉祭]](夏越祓神事、神輿渡御祭、荒和大祓神事) - [[例祭]]。7月[[海の日]]-[[8月1日]]。
: 「とうかしんじ」。1月4日。大地を踏みしめて五穀豊穣を祈る神事。中国の隋・唐で流行した群集歌舞に由来するもので、かつては宮中でも1月中旬に[[踏歌節会]]が催されて「阿良礼走(あらればしり)」とも称されたが<ref>蒲生美津子 「踏歌」『国史大辞典』 吉川弘文館。</ref>、現在は当社と[[熱田神宮]]([[愛知県]][[名古屋市]])に残るのみといわれる{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。
* 松苗神事
: 神事では、第一本宮での祝詞奏上後、直垂を着用した所役2人(言吹<ごんすい>・袋持)が、それぞれ梅の枝(言吹)・袋(袋持)を持って斎庭で向かい合って立ち、3度声を掛け合ったのち袋持が神前に餅を供える。その後神楽女が白拍子舞、熊野舞を奉納して、餅まきを行う{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}<ref name="1月">[http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/no01.html 祭りと年中行事 > 1月](住吉大社公式サイト)。</ref>。
* 宝之市神事
; 白馬神事
* 初辰まいり
: 「あおうましんじ」。1月7日。白馬が各本宮を巡拝して邪気を祓う神事。年初に白馬(青馬)を見れば年中の邪気が祓われるとする中国の信仰に由来するもので、かつては宮中でも1月7に[[白馬節会]](青馬節会)が催され、現在は当社のほか[[賀茂別雷神社]]([[京都府]][[京都市]])・[[鹿島神宮]]([[茨城県]][[鹿嶋市]])などに残る<ref>中村義雄 「白馬節会」『国史大辞典』 吉川弘文館。</ref>。
* 白馬神事
: 神事では、祝詞奏上後、神馬と奉行2人・神馬舎人が各本宮で拝礼したのち全本宮を外周する{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}<ref name="1月"/>。
* 御結鎮神事
* 踏歌神事
; 御結鎮神事
: 「みけちしんじ」。1月13日。弓矢で除魔招福を祈願する神事。神事では、第一本宮での祭典・饗膳後、射場で古式による弓十番が行われる{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}<ref name="1月"/>。
* 観月祭
; 松苗神事
* 埴使
: 「まつなえしんじ」。4月3日。松の苗の植樹と俳句披露を行う神事。住吉大社の松は歌枕の「住吉の松」として古来著名であったが、江戸時代の天明期([[1781年|1781]]-[[1788年]])に枯死が目立った。そのために当時の俳人が松苗献木と俳句献詠を募り『松苗集』として住吉御文庫に奉納した、という故事に因む{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}<ref name="4月">[http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/no04.html 祭りと年中行事 > 4月](住吉大社公式サイト)。</ref>。
</div></div>
; 卯之葉神事
: 「うのはしんじ」。5月初卯日。鎮座伝承日(神功皇后摂政11年辛卯年卯月上卯日)に因み鎮座を記念する神事{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。旧暦では4月(卯月)、太陽暦移行後は5月に斎行される。
: 神事では、鎮座伝承地の五所御前に卯の葉の玉串を捧げる。その祭典後、石舞台で舞楽が奉納されるとともに、卯の花苑の一般公開も行われる{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}<ref name="5月">[http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/no05.html 祭りと年中行事 > 5月](住吉大社公式サイト)。</ref>。
; 御田植神事
: 「おたうえしんじ」。6月14日。御田(神田)で盛大に田植えを催す神事。住吉大社鎮座時に、神功皇后が長門国から植女を召して田を作らせたのが始まりと伝える{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}。
: 神事では、まず神館で植女の粉黛・戴盃式を行なったのち、石舞台で全員の修祓、第一本宮で豊穣の祭典を行い、神前の早苗が植女に授けられる。そして御田に向かい、替植女による植付けが始まるが、その植付けの間に舞台や畦で田舞・神田代舞・風流武者行事・棒打合戦・田植踊・住吉踊といった芸能が催される{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}<ref name="御田植神事">[http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/otaue.html 祭りと年中行事 > 御田植神事](住吉大社公式サイト)。</ref>。
: 御田植行事は各地に残るが、住吉大社の御田植は規模が大きく代表的なものであるとされ、「住吉の御田植」として国の[[重要無形民俗文化財]]に指定されているほか<ref name="御田植"/>、芸能は国の[[選択無形民俗文化財]]に選択されている<ref name="御田植神事の芸能"/>。
; 宝之市神事
: 「たからのいちしんじ」。10月17日。神功皇后が三韓の貢物・百貨をもって市を立てて庶人に分かった故事に因むと伝えるが、五穀を神前に供えたのち庶人に分かったのが本旨ともされる。神事では、御田の刈り取りののち、本宮にて初穂や升に入れた五穀を供える祭典が行われるほか、近日日曜日に相撲大会が催される。かつては升が多く売られたことから「升の市」とも称され、その時に参詣した松尾芭蕉は句を残している{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}<ref name="10月">[http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/no10.html 祭りと年中行事 > 10月](住吉大社公式サイト)。</ref>。

そのほか、3月初旬頃・11月初旬頃には'''埴使'''(はにつかい)と称される神事が行われる。これは祈年祭・新嘗祭に先立って、[[奈良県]]の[[畝傍山]]で埴土(はにつち:両祭での供献土器を作る材料とする土)を採取する神事である。『住吉大社神代記』で住吉大神が神功皇后に詔をして[[天香久山|天香山]]の埴土で天平瓮を作らせたとする記事との関連が推測されるほか、『日本書紀』神武天皇即位前紀では[[神武天皇]]が天香山の埴土で祭器を作らせて丹生川上での祭祀に使用したと見えることから、畝傍山や天香山の埴土が古代氏族の祭祀権に関係したことが示唆される。神事では、住吉大社の神職が雲名梯神社([[河俣神社]])・[[畝火山口神社]](いずれも奈良県[[橿原市]])で祭典を行なったのち、畝傍山山頂で三握半の土を採取する{{Sfn|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}<ref name="3月">[http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/no03.html 祭りと年中行事 > 3月](住吉大社公式サイト)。</ref><ref name="11月">[http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/no11.html 祭りと年中行事 > 11月](住吉大社公式サイト)。</ref>。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
[[File:Sumi 3 und 4.jpg|thumb|200px|第三・第四本宮本殿(国宝、手前が第三本宮)]]
[[ファイル:sumiyoshi-taisya_dainihongu.jpg|thumb|200px|第二本宮の幣殿(重要文化財)。後方にある朱塗の柱の建物が住吉造の本殿]]
=== 国宝 ===
=== 国宝 ===
* 住吉大社本殿 4棟(附 瑞垣及び門)(建造物) - 明治35年4月17日に旧国宝(のち重要文化財)指定、昭和28年11月14日に国宝指定<ref>{{国指定文化財等データベース|102|2090|住吉神社本殿}}</ref>。
* 住吉大社本殿 4棟(附 瑞垣及び門)(建造物)
*: 4棟とも江戸時代後期、文化7年(1810年)の造営。
*: 明治35年(1902年)4月17日に[[古社寺保存法]]に基づき特別保護建造物に指定、昭和25年(1950年)の[[文化財保護法]]施行により国の重要文化財に指定、昭和28年(1953年)11月14日に国宝に指定<ref name="住吉大社本殿">{{国指定文化財等データベース|102|2090|住吉大社本殿(第一殿)}}<br />{{国指定文化財等データベース|102|2091|住吉大社本殿(第二殿)}}<br />{{国指定文化財等データベース|102|2092|住吉大社本殿(第三殿)}}<br />{{国指定文化財等データベース|102|2093|住吉大社本殿(第四殿)}}</ref>。


=== 重要文化財(国指定) ===
=== 重要文化財(国指定) ===
* 住吉大社 13棟(附 住吉松葉大記19冊)(建造物)
* 住吉大社 13棟(建造物)
*: 下記のうち南門・東楽所・西楽所・石舞台の4棟は昭和49年5月21日指定、それ以外の9棟は平成22年12月24日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|102|2095|住吉大社}}</ref>
*: 内訳は以。昭和49年(1974年)5月21日に南門・東楽所・西楽所・石舞台の4棟指定、平成22年(2010年)12月24日にその他9棟を追加指定。
** 南門 - 桃山時代、慶長12年(1607年)の造営<ref name="南門">{{国指定文化財等データベース|102|2095|南門}}(詳細解説あり)</ref>。
** 南門
** 東楽所 - 同上<ref name="楽所">{{国指定文化財等データベース|102|2096|東楽所}}<br />{{国指定文化財等データベース|102|2097|西楽所}}</ref>。
** 東楽所
** 西楽所
** 西楽所 - 同上<ref name="楽所"/>。
** 石舞台 - 同上<ref name="石舞台">{{国指定文化財等データベース|102|2098|石舞台}}</ref>。
** 石舞台
** 幣殿及び渡殿(第一殿) - 江戸時代後期、文化7年(1810年)の造営<ref name="幣殿及び渡殿">{{国指定文化財等データベース|102|00004488|幣殿及び渡殿(四棟)(第一殿)}}(詳細解説あり)<br />{{国指定文化財等データベース|102|00004489|幣殿及び渡殿(四棟)(第二殿)}}<br />{{国指定文化財等データベース|102|00004490|幣殿及び渡殿(四棟)(第三殿)}}<br />{{国指定文化財等データベース|102|00004491|幣殿及び渡殿(四棟)(第四殿)}}</ref>。
** 幣殿及び渡殿(第一殿)
** 幣殿及び渡殿(第二殿)
** 幣殿及び渡殿(第二殿) - 同上<ref name="幣殿及び渡殿"/>。
** 幣殿及び渡殿(第三殿)
** 幣殿及び渡殿(第三殿) - 同上<ref name="幣殿及び渡殿"/>。
** 幣殿及び渡殿(第四殿)
** 幣殿及び渡殿(第四殿) - 同上<ref name="幣殿及び渡殿"/>。
** 南高蔵 - 桃山時代、慶長12年(1607年)の造営<ref name="高蔵">{{国指定文化財等データベース|102|00004492|南高蔵}}<br />{{国指定文化財等データベース|102|00004493|北高蔵}}</ref>。
** 南高蔵
** 北高蔵
** 北高蔵 - 同上<ref name="高蔵"/>。
** 摂社大海神社幣殿及び渡殿 - 江戸時代中期、宝永5年(1708年)の造営<ref name="大海神社幣殿及び渡殿">{{国指定文化財等データベース|102|00004494|摂社大海神社幣殿及び渡殿}}</ref>。
** 摂社大海神社幣殿及び渡殿
** 摂社大海神社西門 - 江戸時代前期の造営<ref name="大海神社西門">{{国指定文化財等データベース|102|00004495|摂社大海神社西門}}</ref>。
** 摂社大海神社西門
** 末社招魂社本殿(旧護摩堂) - 江戸時代前期、元和5年(1619年)の造営<ref name="招魂社本殿">{{国指定文化財等データベース|102|00004496|末社招魂社本殿(旧護摩堂)}}</ref>。
** 末社招魂社本殿(元は住吉大社神宮寺新羅寺護摩堂)
** (附指定)住吉松葉大記 19冊
* 住吉大社摂社大海神社本殿 - 昭和39年5月26日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|102|2094|住吉大社摂社大海神社本殿}}</ref>。
* 住吉大社摂社大海神社本殿(建造物)
* 木造舞楽面 9面(彫刻) - 平安時代から鎌倉時代。昭和43年4月25日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|4917|木造舞楽面}}</ref>。
*: 江戸時代中期、宝永5年(1708年)の造営。昭和39年(1964年)5月26日指定<ref name="大海神社本殿">{{国指定文化財等データベース|102|2094|住吉大社摂社大海神社本殿}}</ref>。
** 内訳:綾切4、抜頭1、貴徳番子1、皇仁庭1、秦王1、納曽利1。
* 木造舞楽面 9面(彫刻)
* 太刀 銘守家 1口(工芸品) - 鎌倉時代。大正15年4月19日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|10505|太刀(銘守家)}}</ref>。
* 刀 銘小野繁慶 奉納接州住吉大明神御宝前 1口(工芸品) - 江戸時代。昭和3569日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|6636|刀(銘小野繁慶 奉納接州住吉大明神御宝前)}}</ref>。
*: 内訳は以下。平安時代から鎌倉時代の作。昭和43(1968年)425日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|4917|木造舞楽面}}</ref>。
** 綾切4、抜頭1、貴徳番子1、皇仁庭1、秦王1、納曽利1
* [[住吉大社神代記|住吉神代記]](書跡) - 「住吉大社神代記」とも。平安時代。昭和29年3月20日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|9539|住吉神代記}}</ref>。
* 太刀 銘守家 1口(工芸品)
*: 鎌倉時代の作。大正15年(1926年)4月19日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|10505|太刀(銘守家)}}</ref>。
* 刀 銘小野繁慶 奉納接州住吉大明神御宝前 1口(工芸品)
*: 江戸時代の作。昭和35年(1960年)6月9日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|6636|刀(銘小野繁慶 奉納接州住吉大明神御宝前)}}</ref>。
* [[住吉大社神代記|住吉神代記]](書跡)
*: 平安時代の作。昭和29年(1954年)3月20日指定<ref name="住吉神代記">{{国指定文化財等データベース|201|9539|住吉神代記}}</ref>。


=== 重要無形民俗文化財(国指定) ===
=== 重要無形民俗文化財(国指定) ===
* [[住吉の御田植]] - 昭和54年2月3日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|302|103|住吉の御田植}}</ref>。
* [[住吉の御田植]] - 昭和54年(1979年)2月3日指定<ref name="御田植">{{国指定文化財等データベース|302|103|住吉の御田植}}</ref>。


=== 選択無形民俗文化財(国選択) ===
=== 選択無形民俗文化財(国選択) ===
* 住吉の御田植神事の芸能 - 昭和46年11月11日選択<ref>{{国指定文化財等データベース|312|424|住吉の御田植神事の芸能}}</ref>。
* 住吉の御田植神事の芸能 - 昭和46年(1971年)11月11日選択<ref name="御田植神事の芸能">{{国指定文化財等データベース|312|424|住吉の御田植神事の芸能}}</ref>。


=== 国の史跡 ===
=== 国の史跡 ===
* [[住吉行宮|住吉行宮跡]] - 昭和14年3月7日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|401|1783|住吉行宮跡}}</ref>。
* [[住吉行宮|住吉行宮跡]] - 昭和14年(1939年)3月7日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|401|1783|住吉行宮跡}}</ref>。


=== 登録有形文化財(国登録) ===
=== 登録有形文化財(国登録) ===
* 住吉大社神館(建造物) - 平成18年10月18日登録<ref>{{国指定文化財等データベース|101|00005757|住吉大社神館}}</ref>。
* 住吉大社神館(建造物) - 大正4年(1915年)の造営。平成18年(2006年)10月18日登録<ref name="神館">{{国指定文化財等データベース|101|00005757|住吉大社神館}}</ref>。


=== 大阪府指定文化財 ===
=== 大阪府指定文化財 ===
* 有形文化財
* 有形文化財
** 住吉大社太刀 銘国輝 1口(附 鳥頚太刀拵)(工芸品) - 昭和46年3月31日指定。
** 住吉大社太刀 銘国輝 1口(附 鳥頚太刀拵)(工芸品) - 昭和46年(1971年)3月31日指定<ref name="一覧表">[http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/hunai-siteiichiran.html 大阪府内指定文化財一覧表](大阪府ホームページ)の大阪市ファイルより。</ref>
** 住吉大社刀 銘治国 1口(附 金梨子地衛府太刀拵)(工芸品) - 昭和46年3月31日指定。
** 住吉大社刀 銘治国 1口(附 金梨子地衛府太刀拵)(工芸品) - 昭和46年(1971年)3月31日指定<ref name="一覧表"/>
** 住吉大社剣 銘吉道 1口(工芸品) - 昭和53年8月4日指定。
** 住吉大社剣 銘吉道 1口(工芸品) - 昭和53年(1978年)8月4日指定<ref name="一覧表"/>
** 住吉大社太刀 銘有続(陰陽太刀) 2口(附 松鷺蒔絵糸太刀拵(陰刀)、雲龍蒔絵太刀拵(陽刀))(工芸品) - 昭和53年8月4日指定。
** 住吉大社太刀 銘有続(陰陽太刀) 2口(附 松鷺蒔絵糸太刀拵(陰刀)、雲龍蒔絵太刀拵(陽刀))(工芸品) - 昭和53年(1978年)8月4日指定<ref name="一覧表"/>
** 住吉大社鉄砲 銘野田善清尭 1口(工芸品) - 昭和53年8月4日指定。
** 住吉大社鉄砲 銘野田善清尭 1口(工芸品) - 昭和53年(1978年)8月4日指定<ref name="一覧表"/>

* 無形民俗文化財
以上のほか、住吉大社3棟(南高蔵、北高蔵、末社招魂社本殿、附 住吉松葉大記)が平成11年(1999年)2月5日に大阪府指定有形文化財(建造物)に指定されていた(平成22年(2010年)12月24日に国の重要文化財に指定)。
** 住吉大社の夏越祭 - 昭和47年3月31日指定。

=== 大阪府選択無形民俗文化財 ===
* 住吉大社の夏越祭 - 昭和47年(1972年)3月31日選択<ref name="一覧表"/>。


=== 大阪市指定文化財 ===
=== 大阪市指定文化財 ===
* 史跡
* 史跡
** 住吉大社境内<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008875.html 住吉大社境内](大阪市ホームページ)。</ref> - 平成13年12月21日指定
** 住吉大社境内 - 平成13年(2001年)12月21日指定<ref name="一覧表"/><ref name="住吉大社境内">[http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008875.html 住吉大社境内](大阪市ホームページ)。</ref>。

=== 関連文化財 ===
* 切幡寺大塔
*: 国の重要文化財(建造物)。旧住吉大社神宮寺西塔で、明治初年に[[切幡寺]](徳島県阿波市)に移築。江戸時代前期の元和4年(1618年)の造営。1975年(昭和50年)6月23日指定<ref name="切幡寺大塔">{{国指定文化財等データベース|102|3268|切幡寺大塔}}</ref>。

== 関係事項 ==
=== 住吉大社神代記 ===
住吉大社に伝わる神宝のうち最も有名なものとして、'''『[[住吉大社神代記]]』'''(すみよしたいしゃじんだいき)がある{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}。住吉大社司の解文の形で住吉大社の縁起・神宝・社領などを記した古文書で、[[天平]]3年([[731年]])7月の奥書を持つが、実際には[[平安時代]]前期以降の作とする説が有力視される{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}。内容には『日本書紀』・『古事記』と同様の伝承に加えて、他の文書には見られない独自所伝も記載するため、数少ない古代史料・上代史料の1つとして重要視される{{Sfn|住吉大社神代記(国史)}}(詳細は「[[住吉大社神代記]]」を参照)。

この住吉大社神代記の文献上初見は[[寛喜]]2年([[1230年]])<ref group="原">『明月記』寛喜2年(1230年)5月3日条。</ref>で、その際も含め中世期の土地相論では神代記の記述が持ち出された{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=67-84}}。その後は神宝として第一本宮に秘蔵され門外不出とされていたが、明治頃から内容が公開された{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=67-84}}{{Sfn|岡田精司|2011年}}。現在原本は「住吉神代記」として国の重要文化財に指定されている<ref name="住吉神代記"/>。

=== 住吉神宮寺 ===
住吉大社境内では、かつて[[神宮寺]]が営まれていた。『[[古今著聞集]]』では[[本地仏]]の高貴徳王菩薩の託宣があったとし、『住吉松葉大記』では[[天平宝字]]2年([[758年]])の創建とし、新羅渡来の[[薬師寺]]を本尊としたため「'''新羅寺'''」とも称されたとする{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。ただし貞観8年(866年)<ref group="原">『日本三代実録』貞観8年(866年)2月16日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>には住吉社での読経の際に朝廷から僧11人が派遣されているため、この時点までの神宮寺の存在は必ずしも確かではない{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。

『[[扶桑略記]]』などでは、[[天慶]]3年([[940年]])11月21日には住吉神宮寺で[[藤原純友]]調伏の祈祷が行われたと見える{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。その後、[[天喜]]元年([[1053年]])に焼失したが、[[津守国基]]による再建で西塔が建立され、[[承久]]元年([[1219年]])には三綱が置かれた{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。江戸時代の『住吉松葉大記』では、諸堂宇として本堂・東塔・西塔・東法華三昧堂・西常行三昧堂・大日堂・救聞持堂・護摩堂・食堂・東西両僧坊の記載が見える{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=203-217}}。しかし明治初年の神仏分離で破却・廃寺となり{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}、伽藍のうち護摩堂は境内末社の招魂社本殿に転用されたほか<ref name="招魂社本殿"/>、西塔は[[切幡寺]](徳島県阿波市)に移築された(切幡寺大塔:国の重要文化財)<ref name="切幡寺大塔"/>。現在の神宮寺の跡地には住吉文華館が建てられている{{Sfn|住吉大社(学生社)|2002年|pp=13-25}}。

その他の住吉大社関係寺院としては、津守氏氏寺と見られる津守寺(廃寺)・[[荘厳浄土寺]]がある{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=68-70}}。住吉神宮寺・津守寺・荘厳浄土寺は住吉の三大寺に数えられたという<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009354.html 住吉神宮寺跡](大阪市ホームページ)。</ref>
* 津守寺(跡地は大阪市住吉区墨江)
*: 『[[中右記]]』[[永長]]元年([[1096年]])条<ref group="原">『中右記』永長元年(1096年)3月16日条。</ref>では、住吉社神主の津守国基が大伽藍を建立したと見える{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。「住吉社神主并一族系図」によれば、津守氏は神主を勤めたのち晩年に津守寺別当・塔別当になる例であった{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}。明治初年の神仏分離で破却・廃寺{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}{{Sfn|千躰村(平凡社)|1986年}}。
* [[荘厳浄土寺]](大阪市住吉区帝塚山東)
*: 住吉大社の東に位置する。創建は不詳。『摂陽群談』によれば、[[応徳]]元年([[1084年]])に住吉社神主の津守国基が勅命によって再興し、その際に土中から出土した金札の銘の「七宝荘厳極楽浄土云々」により寺号を下賜されたといい、[[永長]]元年([[1096年]])に諸堂宇の建立と落慶供養とがなされたという{{Sfn|荘厳浄土寺(平凡社)|1986年}}(詳細は「[[荘厳浄土寺]]」を参照)。
<gallery>
File:Kirihataji 06.JPG|[[切幡寺]]大塔(徳島県阿波市)
File:Shogon jyodoji hondo.jpg|[[荘厳浄土寺]]
</gallery>

=== 住吉行宮 ===
[[File:Sumiyoshi-no-angu, sekihi.jpg|thumb|220px|right|{{center|[[住吉行宮|住吉行宮跡]]伝承地(国の[[史跡]])}}{{small|津守氏邸内の正印殿跡地。}}]]
南北朝時代の住吉大社には、南朝の行宮(天皇の仮の御所)の1つである'''[[住吉行宮]]'''(すみよしのあんぐう/すみよしあんぐう)が置かれた{{Sfn|住吉行宮(国史)}}。行宮とした天皇は、[[後村上天皇]](2度)・[[長慶天皇]]{{Sfn|住吉行宮(国史)}}。

文献では後村上天皇は住吉社神主の津守国夏の「住吉殿」を行宮としたと見えるが、この住吉殿(住之江殿)とは現在の住吉大社の南方に位置する正印殿(しょういんでん)跡地にあたると伝承される(ただし確証は無い{{Sfn|住吉行宮(国史)}})。この正印殿は住吉大社の神印が納め置かれた建物といわれるが{{Sfn|住吉大社畧記|1999年}}、建物は非現存。跡地は「住吉行宮跡」として国の史跡に指定されている(詳細は「[[住吉行宮]]」を参照)。

なお、現在の住吉大社では[[4月6日]]に後村上天皇を偲んで正印殿祭が斎行される<ref name="4月"/>。

=== 住吉苗裔神 ===
{{座標一覧|節=住吉苗裔神}}
{{Location map+|Japan|width=230|float=right|caption={{Center|住吉神社([[式内社]]に限定)の分布}}|places=
{{Location map~|Japan|lat_deg=34|lat_min=36|lat_sec=44.60|lon_deg=135|lon_min=29|lon_sec=37.63|position=right|mark=Red pog.svg|marksize=8|label={{color|#FF0000|'''住吉大社'''}}}}<!--摂津-->
{{Location map~|Japan|lat_deg=36|lat_min=58|lat_sec=29.08|lon_deg=140|lon_min=52|lon_sec=58.94|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--陸奥-->
{{Location map~|Japan|lat_deg=34|lat_min=58|lat_sec=0.38|lon_deg=135|lon_min=3|lon_sec=34.42|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--播磨-->
{{Location map~|Japan|lat_deg=33|lat_min=59|lat_sec=58.75|lon_deg=130|lon_min=57|lon_sec=23.70|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--長門-->
{{Location map~|Japan|lat_deg=33|lat_min=35|lat_sec=9.26|lon_deg=130|lon_min=24|lon_sec=49.33|position=bottom|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--筑前-->
{{Location map~|Japan|lat_deg=33|lat_min=47|lat_sec=18.53|lon_deg=129|lon_min=42|lon_sec=23.43|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--壱岐-->
{{Location map~|Japan|lat_deg=34|lat_min=16|lat_sec=8.03|lon_deg=129|lon_min=18|lon_sec=54.18|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--対馬-->
}}
『延喜式』神名帳には、次に示すような住吉神の関係社が各地に確認される{{Sfn|岡田精司|2011年}}。
{| class="wikitable" style="background:#ffffff; white-space:nowrap; font-size:85%"
!colspan=3|延喜式
!colspan=3|比定社
!rowspan=2|備考
|-
!国郡
!社名
!格
!社名
!所在地
!座標
|-
|[[陸奥国]][[磐城郡]]||'''住吉神社'''||小||住吉神社||[[福島県]][[いわき市]]小名浜住吉||{{ウィキ座標|36|58|29.08|N|140|52|58.94|E|region:JP-07_type:landmark|位置|name=住吉神社(陸奥国磐城郡)}}||
|-
|rowspan=3|[[播磨国]][[賀茂郡 (播磨国)|賀茂郡]]||rowspan=3|'''住吉神社'''||rowspan=3|小||(論)[[住吉神社 (加東市上鴨川)|住吉神社]]||[[兵庫県]][[加東市]]上鴨川||{{ウィキ座標|34|58|0.38|N|135|3|34.42|E|region:JP-28_type:landmark|位置|name=住吉神社(播磨国賀茂郡論社)}}||rowspan=3|
|-
|(論)住吉神社||兵庫県加東市下久米||{{ウィキ座標|34|55|17.80|N|135|1|7.96|E|region:JP-28_type:landmark|位置|name=住吉神社(播磨国賀茂郡論社)}}
|-
|(論)[[住吉神社 (小野市)|住吉神社]]||兵庫県[[小野市]]垂井町||{{ウィキ座標|34|50|8.08|N|134|56|9.05|E|region:JP-28_type:landmark|位置|name=住吉神社(播磨国賀茂郡論社)}}
|-
|[[長門国]][[豊浦郡]]||'''住吉坐荒御魂神社三座'''||並名神大||[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]||[[山口県]][[下関市]]一の宮住吉||{{ウィキ座標|33|59|58.75|N|130|57|23.70|E|region:JP-35_type:landmark|位置|name=住吉神社(長門国豊浦郡)}}||長門国一宮
|-
|[[筑前国]][[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]||'''住吉神社三座'''||並名神大||[[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]]||[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]住吉||{{ウィキ座標|33|35|9.26|N|130|24|49.33|E|region:JP-40_type:landmark|位置|name=住吉神社(筑前国那珂郡)}}||筑前国一宮
|-
|[[壱岐国|壱岐島]][[壱岐郡]]||'''住吉神社'''||名神大||[[住吉神社 (壱岐市)|住吉神社]]||[[長崎県]][[壱岐市]]芦辺町住吉東触||{{ウィキ座標|33|47|18.53|N|129|42|23.43|E|region:JP-42_type:landmark|位置|name=住吉神社(壱岐島壱岐郡)}}||
|-
|rowspan=2|[[対馬国|対馬島]][[下県郡]]||rowspan=2|'''住吉神社'''||rowspan=2|名神大||(論)住吉神社||長崎県[[対馬市]]美津島町鶏知||{{ウィキ座標|34|16|8.03|N|129|18|54.18|E|region:JP-42_type:landmark|位置|name=住吉神社(対馬国下県郡論社)}}||rowspan=2|
|-
|(論)住吉神社||長崎県対馬市美津島町鴨居瀬||{{ウィキ座標|34|20|20.28|N|129|23|24.58|E|region:JP-42_type:landmark|位置|name=住吉神社(対馬国下県郡論社)}}
|}
これらの社の分布には朝鮮航路との関連が指摘される{{Sfn|岡田精司|2011年}}。特に分布の背景として、住吉神がヤマト王権の国家的機関に位置づけられたことから、王権によって航路の各要所に住吉神が配置されたとする説もある{{Sfn|岡田精司|2011年}}。なお陸奥国の社については、[[蝦夷]]追討との関連が推測される{{Sfn|岡田精司|2011年}}。

また『住吉大社神代記』では、住吉大神の宮は9箇処にあるとして、「摂津国住吉大社四前」のほか8箇処が次のように記載される{{Sfn|岡田精司|2011年}}。
{| class="wikitable" style="background:#ffffff; white-space:nowrap; font-size:85%"
!rowspan=2|住吉大社神代記
!colspan=2|比定社
!rowspan=2|備考
|-
!社名
!所在地
|-
|'''摂津国西成郡座摩社二前'''||[[坐摩神社]]||[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]久太郎町||古代に住吉大社勢力下にあったかは確かでない{{Sfn|岡田精司|2011年}}
|-
|'''摂津国菟原郡社三前'''||[[本住吉神社]]||[[兵庫県]][[神戸市]][[東灘区]]住吉宮町||
|-
|'''播磨国賀茂郡住吉酒見社三前'''||[[住吉神社 (加西市)|住吉神社]]||[[兵庫県]][[加西市]]北条町北条||
|-
|rowspan=2|'''長門国豊浦郡住吉忌宮一前'''||[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]||[[山口県]][[下関市]]一の宮住吉||rowspan=2|いずれか一社または両社一体を指したか{{Sfn|岡田精司|2011年}}
|-
|[[忌宮神社]]||山口県下関市長府宮の内
|-
|'''筑前国那珂郡住吉社三前'''||[[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]]||[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]住吉||
|-
|'''紀伊国伊都郡<br />丹生川上天手力男意気続々流住吉大神'''||colspan=2|(不明)||
|-
|-
|'''大唐国一処住吉大神社三前'''||colspan=2 style="text-align:center"|(不明)||rowspan=2|古代に国外に住吉神社が祀られた事実は無い{{Sfn|岡田精司|2011年}}
|-
|'''新羅国一処住吉荒魂三前'''||colspan=2 style="text-align:center"|(不明)
|}
『住吉大社神代記』では、以上に続けて部類神・[[御子神|子神]]として多くの神々が記載されるが、その内容については疑義が強い{{Sfn|岡田精司|2011年}}。

その後、後世には全国各地で分祠の[[住吉神社]]が祀られている(大社側では全国に2,000社以上とする<ref>[http://www.sumiyoshitaisha.net/dictionary/faq_sumi.html よくある質問 > 住吉大社の由緒・伝統について](住吉大社公式サイト)。</ref>)。
<gallery>
File:Kamikamogawa Sumiyoshi Jinja 03.JPG|[[住吉神社 (加東市上鴨川)|住吉神社]](播磨国賀茂郡式内社論社)
File:Sumiyoshi-jinjya haiden.jpg|[[住吉神社 (小野市)|住吉神社]](播磨国賀茂郡式内社論社)
File:Sumiyoshi-jinja (Shimonoseki) Haiden.JPG|[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]](長門国豊浦郡式内社)
File:Sumiyoshi-jinja (Fukuoka) haiden-1.JPG|[[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]](筑前国那珂郡式内社)
File:Sumiyoshi-jinja (Iki), haiden.jpg|[[住吉神社 (壱岐市)|住吉神社]](壱岐島壱岐郡式内社)
File:Sumiyoshi-jinja (Kechi, Tsushima), haiden.jpg|住吉神社(対馬島下県郡式内社論社)
</gallery>


== 関連人物 ==
== 登場作品 ==
* 『[[万葉集]]』より3首
* [[松尾芭蕉]]
{{Cquote|{{small|[[石上乙麻呂]]卿配土佐国之時歌三首(そのうち1首)}}<br />大君の 命(みこと)恐(かしこ)み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我が背の君を かけまくも ゆゆし恐し '''住吉'''(すみのえ)'''の 現人神''' 船舳に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 寄りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風にあはせず つつみなく 病あらせず 速(すむや)けく 帰したまはね 本(もと)の国辺に|20px||『[[万葉集]]』巻6 1020,1021番(連続した歌とする解釈に従って掲載)<ref>『新編日本古典文学全集 7 萬葉集 (2)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 156-157。</ref><ref name="山口大学"/>}}
*: [[江戸時代|江戸期]]の[[俳人]]である松尾芭蕉は、元禄7年([[1694年]])の[[9月13日]]に住吉社を参詣、その折に次のような[[句]]を詠んでいる。
{{Cquote|{{small|民部少輔[[多治比土作|多治比真人土作]]歌一首}}<br />住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と 行くとも来(く)とも 船は早けむ|20px||『万葉集』巻19 4243番<ref name="万葉集">『新編日本古典文学全集 9 萬葉集 (4)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 341-343。</ref><ref name="山口大学"/>}}
{{cquote2|升買うて 分別かはる 月見かな}}
{{Cquote|{{small|天平五年贈入唐使歌一首}}<br />そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 三津(みつ)に船乗り 直(ただ)渡り 日の入る国に 遣はさる 我が背の君を かけまくの ゆゆし恐き '''住吉'''(すみのえ)'''の 我が大御神''' 船舳(ふなのへ)に うしはきいまし 船艫(ふなども)に み立たしまして さし寄らむ 磯の崎々 漕ぎ泊てむ 泊まり泊まりに 荒き風 波にあはせず 平(たひら)けく 率(ゐ)て帰りませ もとの朝廷(みかど)に|20px||『万葉集』巻19 4245番<ref name="万葉集"/><ref name="山口大学">[http://ds26.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ 万葉集検索](山口大学)より。</ref>}}
* [[藤原俊成]]
* [[元禄]]7年([[1694年]])9月13日、[[松尾芭蕉]]が宝の市に詣でて詠んだ歌{{Sfn|住吉大社(平凡社)|1986年}}
*: [[平安時代|平安]]-[[鎌倉時代|鎌倉]]期の[[歌人]]たる藤原俊成は、嘉応2年([[1170年]])に住吉社の秋の歌合(うたあわせ)に参加。後年には歌の道の究めのために17日間を住吉社に籠ることになった。<ref>『全国一の宮めぐり―ビジュアル神社総覧』 〔ISBN 4056032726〕 P.108 - [[日本アート・センター]]</ref>
{{Cquote|升買うて 分別かはる 月見かな|20px||[[松尾芭蕉]]}}
* [[川端康成]]
*: 大阪を舞台にした短編「反橋」の一節を刻み込んだ文学碑がある。


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
332行目: 639行目:
* 鉄道
* 鉄道
** [[阪堺電気軌道]](阪堺電車)
** [[阪堺電気軌道]](阪堺電車)
*** [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]] [[住吉鳥居前停留場]] (徒歩0分
*** [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]] [[住吉鳥居前停留場]] (徒歩すぐ
*** [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]・[[阪堺電気軌道上町線|上町線]] [[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]] (徒歩4分)
*** [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]・[[阪堺電気軌道上町線|上町線]] [[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]] (徒歩4分)
** [[南海電気鉄道]](南海電車)
** [[南海電気鉄道]](南海電車)
339行目: 646行目:
* 車
* 車
** 駐車場:有り
** 駐車場:有り

[[File:Sumiyoshi Taka-dourou, zenkei.jpg|thumb|200px|right|{{center|住吉高燈籠}}]]
'''周辺'''
* [[生根神社 (大阪市住吉区)|生根神社]] - 元摂社。
* 住吉高燈籠


== 脚注 ==
== 脚注 ==
352行目: 664行目:


== 参考文献・サイト ==
== 参考文献・サイト ==
<!--記事執筆に使用した文献-->
{{small|(記事執筆に使用した文献)}}
* 境内説明板

'''書籍'''
'''書籍'''
* 住吉大社編集書籍
* 住吉大社編『住吉大社 <small>改訂版</small>』[[学生社]]、平成14年。 - 歴史と行事・伝承を紹介した公式の案内本。
** {{Cite book|和書|editor=住吉大社社務所編|year=1999|title=住吉大社畧記 改訂版|publisher=住吉大社社務所|isbn=|ref={{Harvid|住吉大社畧記|1999年}}}} - 神社由緒書。
* [[真弓常忠]]編『住吉大社事典』[[国書刊行会]]、平成21年3月。 - 編者は宮司(平成14年11月就任)。
** {{Cite book|和書|editor=住吉大社編|year=2002|title=住吉大社 改訂新版|publisher=[[学生社]]|isbn=4311407119|ref={{Harvid|住吉大社(学生社)|2002年}}}}
* 『住吉大社 日本の古社』[[岡野弘彦]]文、[[三好和義]]写真、[[淡交社]]、平成16年。
* 事典類
* 『住吉大社の祭事記 登野城弘写真集』[[東方出版]]、平成13年。
* {{Cite book|和書|author=[[真弓常忠]]|chapter=住吉大社|year=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref={{Harvid|住吉大社(国史)}}}}
** {{Cite book|和書|author=|chapter=|year=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=[[真弓常忠]] 「住吉大社」|ref={{Harvid|住吉大社(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=[[田中卓]] 「住吉大社神代記」|ref={{Harvid|住吉大社神代記(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=[[村田正志]] 「住吉行宮」|ref={{Harvid|住吉行宮(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=真弓常忠 「住吉三神」|ref={{Harvid|住吉三神(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=真弓常忠 「住吉祭」|ref={{Harvid|住吉祭(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=吉井良隆 「津守氏」|ref={{Harvid|津守氏(国史)}}}}。
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1986|chapter=住吉大社|title=[[日本歴史地名大系]] 28-1 大阪府の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=458249028X|ref={{Harvid|住吉大社(平凡社)|1986年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=田裳見宿禰|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642014588|ref={{Harvid|田裳見宿禰(古代氏族)|2010年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=|chapter=|title=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|publisher=[[小学館]]|isbn=|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=[[谷省吾]] 「住吉大社」|ref={{Harvid|住吉大社(日本大百科全書)}}}}、{{Wikicite|reference=[[吉井巌]] 「住吉神」|ref={{Harvid|住吉神(日本大百科全書)}}}}、{{Wikicite|reference=[[佐藤和彦]] 「津守氏」|ref={{Harvid|津守氏(日本大百科全書)}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1986|chapter=|title=[[日本歴史地名大系]] 28-1 大阪府の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=458249028X|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=「住之江・住吉」|ref={{Harvid|住之江・住吉(平凡社)|1986年}}}}、{{Wikicite|reference=「住吉津」|ref={{Harvid|住吉津(平凡社)|1986年}}}}、{{Wikicite|reference=「住吉大社」|ref={{Harvid|住吉大社(平凡社)|1986年}}}}、{{Wikicite|reference=「荘厳浄土寺」|ref={{Harvid|荘厳浄土寺(平凡社)|1986年}}}}、{{Wikicite|reference=「千躰村」|ref={{Harvid|千躰村(平凡社)|1986年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1983|chapter=|title=[[角川日本地名大辞典]] 27 大阪府|publisher=[[角川書店]]|isbn=4040012704|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=「住吉大社」|ref={{Harvid|住吉大社(角川)|1983年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642014588|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=「田裳見宿禰」|ref={{Harvid|田裳見宿禰(古代氏族)|2010年}}}}、{{Wikicite|reference=「津守氏」|ref={{Harvid|津守氏(古代氏族)|2010年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=[[佐伯有清]]編|author=|year=2015|chapter=津守|title=日本古代氏族事典 新装版|publisher=[[雄山閣]]|isbn=978-4639023791|ref={{Harvid|津守(古代氏族事典)|2015年}}}}
* その他
** {{Cite book|和書|editor=式内社研究会編|author=|year=1977|chapter=|title=式内社調査報告 第5巻|publisher=[[皇學館大学]]出版部|page=|isbn=|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=[[真弓常忠]] 「住吉坐神社四座」|ref={{Harvid|住吉坐神社四座(式内社)|1977年}}}}、{{Wikicite|reference=奥野茂寿 「大海神社二座」|ref={{Harvid|大海神社二座(式内社)|1977年}}}}、{{Wikicite|reference=奥野茂寿 「多米神社」|ref={{Harvid|多米神社(式内社)|1977年}}}}、{{Wikicite|reference=真弓常忠 「船玉神社」|ref={{Harvid|船玉神社(式内社)|1977年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]編|author=|year=2000|chapter=|title=日本の神々 -神社と聖地- 3 摂津・河内・和泉・淡路 <新装復刊版>|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560025031|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=[[大和岩雄]] 「住吉大社」|ref={{Harvid|住吉大社(神々)|2000年}}}}、{{Wikicite|reference=大和岩雄 「大海神社」|ref={{Harvid|大海神社(神々)|2000年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=中世諸国一宮制研究会編|author=|year=2000|chapter=|title=中世諸国一宮制の基礎的研究|publisher=岩田書院|pages=68-70|isbn=978-4872941708|ref={{Harvid|中世諸国一宮制|2000年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=[[真弓常忠]]|year=2003|chapter=|title=住吉信仰|publisher=朱鷺書房|isbn=978-4886021878|ref={{Harvid|真弓常忠|2003年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=『歴史読本』編集部編|author=前田晴人|year=2010|chapter=王権の勢力伸長に伴う外征 <住吉大社>|title=八百万神をめぐる古代王権の謎(新人物文庫111)|publisher=[[中経出版]]|isbn=978-4404039323|pages=114-123|ref={{Harvid|前田晴人|2010年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=[[岡田精司]]|year=2011|chapter=航海と外征の神 <宗像と住吉>|title=新編 神社の古代史|publisher=[[学生社]]|isbn=978-4311203022|pages=72-109|ref={{Harvid|岡田精司|2011年}}}}
** {{Cite book|和書|author=[[上田正昭]]|year=2013|chapter=住吉大社|title=古社巡拝 -私のこころの神々-|publisher=[[学生社]]|isbn=978-4311203480|pages=225-233|ref={{Harvid|上田正昭|2013年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=『歴史読本』編集部編|author=古市晃|year=2014|chapter=住吉大社|title=神社の古代史(新人物文庫)|publisher=[[中経出版]]|isbn=978-4046001368|pages=124-137|ref={{Harvid|古市晃|2014年}}}}


'''サイト'''
'''サイト'''
* {{Cite web|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/050101.html|author=|title=住吉坐神社四座(摂津国住吉郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2015-5-31|ref={{Harvid|神道・神社史料集成}}}}
* {{Cite web|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/050101.html|author=|title=住吉坐神社四座(摂津国住吉郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2017-8-21|ref={{Harvid|神道・神社史料集成}}}}


== 関連文献 ==
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<!--記事執筆に使用していない文献-->
{{small|(記事執筆に使用していない関連文献)}}
* 『[[古事類苑]]』神宮司庁編、住吉神社項
* 『[[古事類苑]]』 神宮司庁編、住吉神社項
** [{{NDLDC|1873551/135}} 『古事類苑 第9冊』](国立国会図書館デジタルコレクション)135-154コマ参照。
** [{{NDLDC|1873551/135}} 『古事類苑 第9冊』](国立国会図書館デジタルコレクション)135-154コマ参照。
* {{Cite book|和書|editor=|author=[[田中卓]]|year=1963-1994年|chapter=|title=住吉大社史(上巻・中巻・下巻)|publisher=住吉大社奉賛会|isbn=|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=住吉大社編|author=|year=2003|chapter=|title=住吉大社御文庫目録|publisher=大阪書林御文庫講・大阪出版協会・日本書籍出版協会大阪支部|isbn=479242397X|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=[[真弓常忠]]編|author=|year=2009|chapter=|title=住吉大社事典|publisher=[[国書刊行会]]|isbn=978-4336051004|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=田中卓|year=2012|chapter=|title=古代の住吉大社(田中卓著作集 続2)|publisher=[[国書刊行会]]|isbn=978-4336054609|ref=}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[住吉三神]]
* [[住吉三神]]
* [[住吉行宮]]
* [[住吉神社]]
* [[住吉造]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.sumiyoshitaisha.net/ 住吉大社] - 公式サイト
* [http://www.sumiyoshitaisha.net/ 住吉大社] - 公式サイト
* [http://www.jinjacho-osaka.net/osakafunai-no-jinjya/dai9sibu/sumiyosi-ku/m01u_01_sumiyosi_sumiyosi.html 住吉大社] - 大阪府神社庁
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/050101.html 住吉坐神社四座] - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/050101.html 住吉坐神社四座] - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」


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[[Category:大阪市の神社]]
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[[Category:住吉区の歴史]]
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2017年8月28日 (月) 22:51時点における版

住吉大社

境内
(左奥から右に第一・第二・第三・第四本宮)
所在地 大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89
位置 北緯34度36分44.60秒 東経135度29分37.63秒 / 北緯34.6123889度 東経135.4937861度 / 34.6123889; 135.4937861 (住吉大社)
主祭神 底筒男命
中筒男命
表筒男命
神功皇后
社格 式内社名神大4座)
摂津国一宮
二十二社(中七社)
官幣大社
別表神社
創建 (伝)神功皇后摂政11年
本殿の様式 住吉造4棟
札所等 神仏霊場巡拝の道42番(大阪1番)
例祭 7月31日住吉祭
主な神事 踏歌神事(1月4日
白馬神事(1月7日
御結鎮神事(1月13日
松苗神事(4月3日
卯之葉神事(5月初卯日)
御田植神事(6月14日
神輿洗神事(7月第3月・火曜日)
夏越大祓神事(7月31日
宝之市神事(10月17日
地図
住吉大社の位置(大阪府内)
住吉大社
住吉大社

住吉大社の位置(大阪市内)
住吉大社
住吉大社
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境内入り口

住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社式内社名神大社)、摂津国一宮二十二社(中七社)の1つ。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。

概要

大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くはヤマト王権の時代から外交上の要港の住吉津難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、全国でも代表的な神社の1つである。

社殿は、本殿4棟が「住吉造」と称される古代日本の建築様式で国宝に指定されているほか、幣殿・石舞台・高蔵など多くの建物が国の重要文化財に指定されている。神宝としては、数少ない古代文書の1つである『住吉大社神代記』は国の重要文化財に指定され、木造舞楽面など多数が重要文化財・大阪府指定文化財に指定されている。また伝統的な神事を多く残すことでも知られ、特に御田植神事は全国でも代表的なものとして国の重要無形民俗文化財に指定、夏越大祓神事は大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。

社名

社名は、『延喜式神名帳では「住吉坐神社」と見えるほか、古代の史料上では「住吉神社」・「住吉社」などと見える。また『住吉大社神代記』では「住吉大社」・「住吉大明神大社」などとも記される[1]中世頃には主に「住吉大神宮」と見える[1]明治維新後には社号を「住吉神社」と定めていたが、戦後の昭和21年(1946年)に『住吉大社神代記』の記述にならって社号を「住吉大社」に改め、現在に至っている[2][1][3]

「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」であるが、元々は「スミノエ(スミエ)」であったとされる[1][4][5][6][7]。例として、奈良時代以前の『万葉集』では「住吉」のほか「住江」・「墨江」・「清江」・「須美乃江」と見える一方、平安時代の『和名抄』では「須三與之」と見える[1][4][6]本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」・「墨江」・「清江」・「住吉」等の各表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解される[4](類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>[6][8])。ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌学書の歌枕での扱いでは、「スミノエ」は江を指し、「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すとする[4]

元々の読みである「スミノエ」の字義について、『摂津国風土記』逸文[原 1]では、現出した住吉大神が当地を「真住吉住吉国(真住み吉き住み吉き国)」と讃称したことを由来とする地名起源説話を載せる[4][9]。一方で歴史考証上では、「清らかな入り江(= 澄み江)」を原義とする説が有力視される[10][6][7][8]。実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったとされ[11][12]、古代にその地に置かれた住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立・発展と深く関わったとされる[7][8]

祭神

現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る[2]

  • 第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
  • 第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
  • 第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
  • 第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) - 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。第14代仲哀天皇皇后。

特に底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される[2]延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳[原 2]での祭神の記載は4座[1]。『住吉大社神代記』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する[1]

祭神について

『日本書紀』では住吉大社とともに神功皇后による創祀とする。

主祭神の住吉三神(筒男三神)は、『古事記』・『日本書紀』において2つの場面で登場する神々である。1つは生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのためをすると、綿津見三神(海三神)と筒男三神が誕生したとし、その筒男三神について『日本書紀』では「是即ち住吉大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」とする[10][8]。次いで登場するのは神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神の神託もあって皇后の新羅征討が成功したとする[10][8]。特に『日本書紀』[原 3][原 4]では、住吉神は皇后の朝鮮からの帰還に際しても神託したとし、それにより住吉神の荒魂を祀る祠が穴門山田邑に、和魂を祀る祠が大津渟中倉之長峡に設けられたとする[13]。通説では、穴門山田邑の祠が下関の住吉神社山口県下関市)、大津渟中倉之長峡の祠が住吉大社に比定される[10]

このように住吉三神は記紀編纂時の7-8世紀には神代巻に登場する天神(あまつかみ)のランクに位置づけられており[7][8]、『令義解[原 5]・『令集解[原 6]でも伊勢神・山城鴨神・出雲国造斎神と並んで住吉神が天神である旨が記される[7]。三神の「ツツノヲ」の字義については詳らかでなく、これまでに「津の男(津ツ男)」とする説のほか、「ツツ」を星の意とする説、船霊を納めた筒の由来とする説、対馬の豆酘(つつ)から「豆酘の男」とする説などが挙げられる[14][5][8]。そのうち「津の男」すなわち港津の神とする説では、元々は住吉大社南側の住吉津の地主神・守護神であったとし、難波の発展に伴って難波津も含むヤマト王権の外港の守護神に位置づけられ、神功皇后紀のような外交・外征の神に発展したと推測される[8]。また星の意とする説のうちでは、オリオン座中央の三つ星のカラスキ星(唐鋤星、参宿)と関連づける説などがある[5]

祭神数は『延喜式』・『住吉大社神代記』から現在まで4座とされ、他の式内社の住吉神社(3座または1座)と異にするが[8]、住吉大社の場合も元々の祭神は住吉三神の3座であって4座目(第四宮)は時期が下っての合祀とされる[10][9]。第四宮については、『住吉大社神代記』では「姫神宮」と記されるほか住吉三神との密事伝承が記され、現在の社殿配置も第一・二・三宮の列とは外れる点が着目される[8]。これらを基に、元々は住吉三神に奉仕していた巫女が祭られる神に発展し(巫女の神格化)、住吉三神共同の妻神として第四宮が形成され、後世(一説に7世紀以降[10])の神功皇后伝説の形成とともに第四宮に神功皇后の神格が付与されたとする説がある[10][7][8][15]

なお、上記のように祭神の順序は『住吉大社神代記』と現在では異なるが、『二十一社記』・『廿二社本縁(二十二社本縁)』以降の鎌倉時代末から現在までは底筒男が第一とされることから、中世期に祭神の順序の変更があったとする説がある[1]。中世期には祭神自体にも異説が生じ、『廿二社本縁』では筒男三神・玉津島明神(衣通姫)とする説(住吉社を歌神とする信仰に由来[16])を、『二十二社註式』では天照大神・宇佐明神・筒男三神・神功皇后とする説を挙げる[10]。祭神の本地仏に関しても、4神を薬師如来阿弥陀如来大日如来聖観音菩薩に比定する説を始めとして文献により諸説があった[1][16]

特徴

航海守護神としての信仰

遣唐使船(イメージ)

住吉大社については、海上交通の守護神とする信仰が最もよく知られる。『日本書紀』神功皇后紀[原 4]には、鎮座した筒男三神の言に「往来船(ゆきかよふふね)を看(みそこなは)さむ」[17]とあり、当時には三神を航海守護神とした認識が認められる[7]。この信仰については、前述のように住吉社は元々は住吉津の地主神・守護神であったが、難波の発展に伴ってヤマト王権の外港の守護神に発展したとする説がある[7][8]。同様の航海守護神としては宗像大社福岡県宗像市)も知られるが、宗像大社は在地の宗像氏の氏神であったのに対して、住吉大社の場合は特定氏族の氏神ではない点で性格を異にし(神職津守氏の氏神は摂社大海神社)、伊勢神宮石上神宮鹿島神宮とともに古代王権にとって国家的機関の位置づけにあったとする説もある[8]

住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞[原 7]では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか[1][10]、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈歌[原 8]には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている(後掲[1][10]。また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀[原 9]では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録[原 10]では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える[10]。また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。

後世もこのような航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から600基以上の石燈籠が奉納されている。

禊祓の神・和歌の神としての信仰

住吉大社は別の神格として、禊祓の神・和歌の神としても信仰された。禊祓の神としての信仰は、『古事記』・『日本書紀』のイザナギの禊による筒男三神の誕生神話に顕著で[7]、現在も例祭の住吉祭では祓の意味を込めた神事が斎行される[3]。その性格の顕在化として難波の八十島祭(平安時代-鎌倉時代の天皇即位儀礼の1つ)への住吉社の関与を指摘する説もある[18][7]

和歌の神としての信仰は平安時代頃から見られ、特に住吉明神のほか玉津島明神・柿本人麻呂の3柱は和歌の守護神として「和歌三神(わかさんじん)」と総称される(3神の選定には異説もある)[10]。古くは昌泰元年(898年[原 11]宇多上皇が住吉社に参詣した際に和歌を献じたほか、長元8年(1035年)には藤原頼通邸での歌合に勝った公達が住吉社に御礼参りをして和歌を詠じるなど、平安貴族が度々京都から参詣に訪れていた[10]。また住吉社は『伊勢物語』、『源氏物語須磨巻明石巻澪標巻、『栄花物語』殿上の花見巻・松のしづ枝巻など多くの物語にも登場する[10]。さらに院政期以降の熊野詣では途中に住吉社に寄って和歌を献じる例があったほか[10]、住吉社神主の津守氏からも津守国基などの歌人が出ている[3]。なお住吉関係の歌では松が多く登場するが、これは住吉社の松が神木とされることに由来する[10]

そのほか、『万葉集[原 12]に見えるように神が現世に顕現するという現人神信仰があったほか(白髭の老翁として描かれることが多い)[3][19]、平安時代からは祈雨の神とする信仰もあり[10]、また当地の地主神として御田植神事に見られるような農耕の神とする信仰もある[8]

歴史

創建

住吉神鎮祭地の名称
日本書紀 大津渟中倉之長峡
(おおつのぬなくらのながお)
摂津国風土記逸文 沼名椋之長岡之前
(ぬなくらのながおかのさき)
住吉大社神代記 渟中椋長岡玉出峡
(ぬなくらのながおかのたまでのお)

日本書紀神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年[原 4]、皇后は大和への帰還中に坂皇子忍熊皇子の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:兵庫県尼崎市武庫川河口東岸に比定)で占うと住吉三神が三神の和魂を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという[17][10]。通説ではこの「大津渟中倉之長峡」が住吉大社の地に比定され[17][10]、この記事をもって住吉大社の鎮座とされる。『日本書紀』では創祀年を明らかとしないが、『帝王編年記』では神功皇后摂政11年辛卯としており[1][20]、現在の住吉大社でもこの年をもって鎮祭とする[21]

また『住吉大社神代記』(平安時代前期頃の成立か)によれば、住吉三神は「渟中椋長岡玉出峡(ぬなくらのながおかのたまでのお)」に住むことを欲したので、神功皇后はその地に住んでいた手搓足尼(田裳見宿禰)を神主として祀らせたという[22]。この田裳見宿禰の後裔が、住吉大社の祭祀を担った津守連(津守氏)一族とされる[22]。そのほか『摂津国風土記』逸文[原 1]では、住吉社の地は「沼名椋之長岡之前(ぬなくらのながおかのさき)」と見える[9]

歴史考証上では、神功皇后の伝説的記事は別としても、実際にもかなり早い時期の創祀とされる[10]。前述のように、上古に関しては住吉津の地主神からヤマト王権の外港守護神に発展したとする説が挙げられるが[7][8]、そのヤマト王権の崇敬を背景として神功皇后伝説と住吉神とが結びつけられたとする説がある[10]。なお「大津渟中倉之長峡」には異説として、本居宣長が『古事記伝』で摂津国菟原郡住吉郷(現在の神戸市東灘区)に比定した説が知られる[10]。この説では、『古事記』仁徳天皇段の「墨江之津を定む」の際に住吉神も菟原郡から住吉郡に移されたとし[10]、同地の本住吉神社も同様の創建社伝を残すが[23]、現在の通説では住吉大社の地に比定する見解が有力視される[10][5][24]

概史

古代

上記の『日本書紀』神功皇后紀の伝説的記事を別とすると、確かな史料のうえでの文献上初見は『日本書紀』朱鳥元年(686年)条[原 13]で、紀伊国国懸神・飛鳥四社・住吉大神に弊が奉られたという記事になる[10]。持統天皇6年(692年)5月・12月条[原 14][原 15]にも、伊勢・大倭・住吉・紀伊大神の4所への奉幣(藤原京遷都に伴う奉幣)記事、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足の5社への奉幣(新羅進納調物の奉納)記事が見える[10]

前述のように住吉社は遣唐使を守る神とされ、『万葉集[原 8]天平5年(733年)の歌や円仁の『入唐求法巡礼行記』の記事が知られる[10]神階延暦3年(784年)6月[原 16]に正三位勲三等、同年12月[原 17]に従二位、大同元年(806年[原 9]に従一位にそれぞれ昇叙された[10]平安時代以降は祈雨の神としても祀られ、承和3-9年(836-842年[原 18]貞観元年(859年[原 19]などに祈雨祈願の奉幣記事が見える。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳[原 2]では、摂津国住吉郡に「住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」として、4座が名神大社に列するとともに朝廷の月次祭相嘗祭新嘗祭では幣帛に預かる旨が定められている[10]。また『延喜式』臨時祭のうち、祈雨神祭条[原 20]では祈雨神祭八十五座のうちに住吉社四座と見えるほか[10]、名神祭条[原 21]では名神祭二百八十五座のうちに住吉神社四座が、東宮八十島祭条[原 22]では八十島祭に祀られる神に住吉神四座が見える[10]

前述のように平安時代には和歌の神としても信仰され、『源氏物語』を始め多くの物語に描かれ、たびたび貴族の参詣もあった[10]。さらに院政期には熊野詣の途次で上皇・貴族が当社に参詣している[10]。また長暦3年(1039年)頃には二十二社の1つに位置づけられ[10]、その後摂津国内では一宮に位置づけられていった[注 1]

中世

鎌倉時代には武家からも崇敬され、建久6年(1195年[原 23]には源頼朝梶原景時を使として住吉社に奉幣、神馬を奉納している[10]。古文書ではこの頃に神仏習合の進んだ様子も見られる[10]。また元寇に際しては文永5-建治元年(1268-1275年)に叡尊がたびたび当社で異敵降伏の祈祷を行なった[10]

南朝第97代天皇。住吉行宮にて崩御。

神主の津守氏は建保3年(1215年)以降の鎌倉時代から南北朝時代にかけて摂津守に補任され、摂津国における政治的勢力を強めた[10]。さらに大覚寺統上北面にも任じられて大覚寺統・南朝勢力と政治的な関係を強め、その関係で南朝の後村上天皇長慶天皇が一時期住吉大社に行宮を置いている(住吉行宮[10]

室町時代にも足利尊氏を始めとする室町幕府将軍から崇敬され、第8代将軍足利義政は社殿造営を細川勝元に命じている[10]。しかし社勢は衰え、戦国時代には火災で度々焼失し[25]、社殿の式年造替も遅延した[10]

近世

文禄3年(1594年)には豊臣秀吉検地により朱印地として住吉郷内2,060石が定められ、慶長11年(1606年)には豊臣秀頼による社殿再興がなされた[10]

江戸時代には江戸幕府から崇敬され、慶長19年(1614年)に徳川家康から禁制を得たほか、元和元年(1615年)に引き続き朱印地として住吉郷内2,060石が定められた[10]。造替も度々実施され、文化7年(1810年)には現在の本宮社殿が造営された[10]。西国の大名も参勤交代時には住吉社に参詣したほか、松尾芭蕉元禄7年(1694年)参詣)・井原西鶴貞享元年(1684年)参詣)が参詣して歌を詠んだことや、大田南畝滝沢馬琴らの参詣も知られる[10]。庶民からも信仰を集め、その様子は全国各地から奉納された多数の石燈籠にうかがわれる[10]

近代以降

明治末の本宮(左)と門前(右) 明治末の本宮(左)と門前(右)
明治末の本宮(左)と門前(右)

明治維新後、社号を「住吉神社」に定め、明治4年(1871年)には近代社格制度において官幣大社に列した[1]。戦後は、昭和21年(1946年)に社号を「住吉大社」に改称[1]。また神社本庁別表神社に列している。

平成18年(2006年)には境内域(住吉大社境内遺跡)での本格的な発掘調査が初めて実施され、調査地となった旧神宮寺跡の一角からは古墳時代末-飛鳥時代頃および中世頃の2期を中心とする多数の遺物が出土している[26]

神階

  • 六国史における神階奉叙の記録[27]
  • その他
    • 平安時代前期頃の『住吉大社神代記』では、「従三位住吉大明神」と記載[8]
    • 『津守氏古系図』では、天暦6年(952年)時点で正一位[1]

神職

住吉大社の神職は、津守氏(つもりうじ、津守連のち津守宿禰)が担った。「津守」の氏名は住吉津を守ったことに由来し、それとともに住吉社を奉斎し、住吉郡の郡領も担ったとされる[28][29]。出自について、『日本書紀』[原 3]では住吉社創祀に関わる田裳見宿禰(たもみのすくね、手搓足尼)を祖とするほか、『新撰姓氏録』ではさらに遡って火明命(天火明命)を祖として尾張氏同祖とする[30][28][22]。また『津守氏系図』では、手搓足尼が神功皇后の時に初めて神主となり、子の豊吾田が「津守連」の姓を賜ったとする[29]。考証上では、特に尾張氏と同族とされる点が着目されており、尾張氏の畿内進出は継体天皇(第26代)の進出以降であることから、実際の津守氏の住吉進出および住吉社掌握を6世紀初頭頃とする説がある[7][24]。その場合に、津守氏進出以前には阿曇氏系の海人族による住吉社の奉斎を推測する説もある[24]

津守氏の本宗は天武天皇13年(684年)12月に宿禰の姓を賜った[30][28][29]。氏人は遣唐使として派遣もされており、『日本書紀』では斉明天皇5年(659年)7月[原 24]に津守連吉祥の派遣記事が、『続日本紀』では宝亀9年(778年)11月[原 25]に主神の津守宿禰国麻呂ら(宝亀8年(777年)6月に渡唐か)の遣唐使船の転覆記事が見えるほか、『住吉大社神代記』では天平3年(731年)7月に神主の津守宿禰客人が遣唐使になったと見える[10]11世紀後半の津守国基は歌人としても知られ、津守氏中興に位置づけられる[30]。さらに長治2年(1105年)に津守広基が和泉国国司に任じられたほか(津守氏の国司補任の初見)、建保3年(1215年)には津守経国が摂津守に任じられ、以降の鎌倉時代の歴代神主は摂津守に補任された[16]。また津守国助・国冬・国夏は大覚寺統上北面に任じられて大覚寺統・南朝勢力と強い政治的関係を持った[10]。その後も津守氏による世襲は続き、明治期の官制施行で他の社人が他職に転じても宮司職は津守氏が継承していたが、それも津守国栄を最後に廃され大正13年(1924年)以降は他氏が任じられる[1]

『住吉松葉大記』では神職として、正神主・権神主・家子・政所目代・神官・大海社司・斎童・権少祝・家司・開閤・田所・氏人・客方・侍家・伶人・勘所司・神宝所・戸方・神方・巫女・田辺宮主・出納役・小舎人役・田所役・釜殿役・木守・氏識事役・小預役・番匠役・物師役といった職名を伝える[16]。正神主・権神主は両官と称されたほか、神官は神奴氏を称し正禰宜・権禰宜・正祝・権祝の4人が4社を管掌したとされる[1][16]。この職制も明治期の官制施行で廃絶した[1][16]

社領

住吉大社の社領について、『新抄格勅符抄大同元年(806年)牒[原 26]によれば当時の住吉神には神戸として239戸が充てられており、そのうち摂津国50戸・丹波国1戸・播磨国82戸・安芸国20戸・長門国66戸であった[10][16]。また同書所収の宝亀11年(780年)12月符では、住吉神について本封のほかに摂津国に新封10戸の存在も見える[10]。また『住吉大社神代記』では、神戸として摂津国40烟・播磨国82烟・長門国95烟など計217烟が記載されるが、その史実性は確かではない[10]

保安元年(1120年)の『摂津国正税帳案』では「住吉神戸」として「五拾捌烟 租稲弐仟参佰弐拾束」とするが、社領の全体像は明らかでない[10][16]。また文書によれば、長寛3年(1165年)・文治2年(1186年)・寛喜2年(1230年)・弘安9年(1286年)に四天王寺と阿倍野を巡って堺相論が、治暦3年(1067年)・天治2年(1125年)・承久3年(1221年)などに播磨清水寺と相論があり、相論の根拠に『住吉大社神代記』が持ち出されることもあった[16]延元元年(1336年)の後醍醐天皇綸旨では『住吉大社神代記』を基に旧領の当知行が安堵されたほか[16]南北朝時代には津守氏が南朝勢力に属した関係で堺の地(大覚寺統荘園の堺北庄)が寄進された[10][16]

天正16年(1588年)6月には豊臣秀吉大政所の病気平癒・延命祈願として1万石の加増を申し出たほか(実際の加増は不明)[10]文禄3年(1594年)には検地により社領(朱印地)は「欠郡住吉内」の2,060石と定められ[10][16]江戸時代も幕末までこの石高で推移した[10][16]

社殿造営

住吉大社社殿には、古くから伊勢神宮三重県伊勢市)・香取神宮千葉県香取市)・鹿島神宮茨城県鹿嶋市)と並んで式年遷宮(式年造替)の制があった[10][16]。『日本後紀弘仁3年(812年)条[原 27]では、住吉・香取・鹿島の三神社での20年ごとの造替について社殿全ての造替から正殿のみの造替に変更すると見え、この年以前からの造替が認められる[10][16]。同様の旨は『延喜式』臨時祭[原 28]にも見え、造替費用には神税・正税を充てるとする[10][16]。なお『伊呂波字類抄』住吉神社項では、「称徳天皇御宇天平神護元年始造宮云々」として奈良時代の天平神護元年(765年)以来の伝統とする[10]

玉葉承安4年(1174年)条[原 29]によれば大海社神殿の改築が天仁・長承・仁平・承安の約20年ごとに実施されているが、本宮本殿については不詳[10]。平安時代後期からは住吉社造営役が一国平均役として賦課されており、『玉葉』建久4年(1193年)条[原 30]では天永の宣旨(天永2年(1111年)の遷宮時)に明白として住吉社修造を賀茂・八幡領に賦課する旨が見える[16]仁平2年(1152年)の文書を初見として住吉造営役の免除もあり、建久5年(1194年)には広田社(廣田神社)の神輿が造営役免除を求めて上洛した[16]。『住吉松葉大記』所収の正平9年(1354年)の注進状によれば、当時の賦課対象は摂津国・和泉国・河内国・丹波国・播磨国に及んだ[16]。その後、永享6年(1434年)までで遷宮は中断し、永正18年(1521年)に遷宮があるも再び中断し、天正4年(1576年)には石山合戦で社殿は焼亡した[16]

慶長11年(1606年)には豊臣秀頼が住吉社造営を命じ、この時の建造物のうち反橋石桁・南門・東西楽所・石舞台は現在も残されている[10]。その後、江戸時代にも数度の遷宮が実施され、文化7年(1810年)の遷宮では現在の本宮本殿が造営されている。

なお住吉大社側では、天平勝宝元年(749年)を第1回としてこれまでに次の遷宮が行われたとする[31]

遷宮一覧

境内

境内の広さは約3万坪[2]上町台地の西端に位置し、古代には海に臨んだとされ、明治期も西方の住吉高燈籠から先には海が広がっていた[10]。現在も本殿域の西側を正面参道とし、南側には東西楽所・石舞台、東側には高蔵・摂末社群、北側には旧神宮寺跡・摂社大海神社を置く[32]。国宝の本殿4棟を始めとする多数の指定文化財のほか、石造物・池・神田・老樹なども残っており、歴史性を伝える貴重な場所であるとして、境内は大阪市指定史跡に指定されている[33]

本宮

本殿(国宝
画像は第二本宮。「住吉造」と称される古代日本の建築様式。
幣殿(重要文化財
画像は第一本宮。桁行は五間。

本宮は海に向かって西面し、西から東に第三本宮(第三殿)・第二本宮(第二殿)・第一本宮(第一殿)が縦一列に建ち並び、第三本宮の南側に第四本宮(第四殿)が並ぶ。各本宮はほぼ同形同大の本殿・渡殿・幣殿からなり、主祭神4柱が各1柱祀られる。

本殿は4棟とも江戸時代後期の文化7年(1810年)の造営。「住吉造(すみよしづくり)」と称される独特の様式で、神社本殿としては神明造大社造大鳥造と並んで飛鳥時代まで遡る最古様式に位置づけられる引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です。建物は桁行二間(側面)・梁間一間(背面)の切妻造で、妻入とし、屋根は檜皮葺で、内部は前後2室とする引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です。柱は丸柱で礎石上に建てられ、正面中央の柱は省略して板扉を設ける引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です[34]。屋根は反りがなく直線的で、屋根上には千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)が乗る。鰹木の数は4棟とも5本であるが、千木は第一本宮から第三本宮は外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)、第四本宮は内削ぎ(水平に削る)。内部を2室とする様は奈良時代の橘夫人宅(法隆寺東院伝法堂)・長屋王邸跡でも確認されており(ただし建物自体は平入)、上代の宮殿の間取りから発想された様式とされる引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です。柱などの軸部と垂木・破風板は朱塗り、壁は白(胡粉)塗りである。また社殿周囲に縁を設けない点も古色とされる引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です。本殿周囲には瑞垣・玉垣が二重に巡らされるが、これらも古色を残す[34]。本殿4棟は国宝に指定されている[34][35]

各本殿の前面には渡殿(わたりでん)・幣殿(へいでん)が建てられており、いずれも本殿と同様に江戸時代後期の文化7年(1810年)の造営である。第一本宮の幣殿は中世には存在したとされる一方、第二・第三・第四本宮の幣殿は慶長造替以後の設置とされる。第一本宮の幣殿は桁行五間・梁間二間、切妻造で、正面千鳥破風及び軒唐破風付、屋根は檜皮葺で甍棟を積む。割拝殿形式で、中央は拭板敷馬道、左右は二間四方の部屋とする。第二・第三・第四本宮の幣殿は桁行三間であるほかは第一本宮と同様の形式。桁行三間のため左右の部屋は狭くなる。本殿・幣殿をつなぐ渡殿は「間ノ廊下」とも称され、4本宮とも同じ形式で、桁行二間・梁間一間の両下造で、屋根は檜皮葺。幣殿の馬道を伸ばして廊下とし、中間に朱塗り角柱の鳥居を付す。渡殿・幣殿は合わせて1棟として計4棟とも国の重要文化財に指定されている[32]

なお他の住吉造の本殿としては、境内摂社の大海神社本殿(宝永5年(1708年)造営、重要文化財)、博多の住吉神社本殿(元和9年(1623年)造営、重要文化財)が知られる引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です。また古代の建築様式のうちでは、神明造を穀倉型神殿、大社造を宮殿型神殿、住吉造を祭場型神殿と見なす説がある[15]。住吉造には大嘗宮正殿との関連も見られており、両者をヤマト大王の住居の名残とする説や[8]、大嘗宮正殿を参考にして住吉造が創出されたとする説もある引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です

本宮以外の社殿

北高蔵(左)・南高蔵(右) (いずれも重要文化財) 北高蔵(左)・南高蔵(右) (いずれも重要文化財)
北高蔵(左)・南高蔵(右)
(いずれも重要文化財)

第一本宮の裏手(東側)には、高蔵(たかくら)2棟が南北に並んで建てられており、それぞれ北高蔵南高蔵と称される。いずれも桃山時代の慶長12年(1607年)の造営で、大阪府内にある指定文化財の蔵のうちでは最古になる。形式は桁行三間・梁間二間(北:5.40メートル×4.81メートル、南:4.85メートル×4.24メートル)、板校倉造の高床式倉庫で、上部は寄棟造、屋根は本瓦葺。釘を1本も使用せずに建てられており、「釘無宝庫(くぎなしほうこ)」とも称される。「津守家盛記」では高蔵4棟の造営と見えるが、他の2棟は非現存で、現在の2棟も昭和45年(1970年)の境内地内移築ののち現在地に定まった。かつては内部に神宝が収められたが、神宝は住吉文華館に移され、現在は祭具収蔵庫として使用されている。北高蔵・南高蔵の2棟は国の重要文化財に指定されている[36][32][37]

南門(重要文化財)

境内南側にあって境内を画する南門、およびその両側の楽所(がくしょ、東楽所西楽所)は、江戸時代初期の慶長12年(1607年)の豊臣秀頼の再興による造営。いずれも南面し、南門は四脚門、切妻造で、屋根は本瓦葺。太い木割や絵様には桃山時代の特色が見られる。東楽所は桁行十一間、梁間二間、東面は入母屋造、西面は切妻造で、屋根は本瓦葺。西楽所は桁行五間、梁間二間、西面は入母屋造、東面は切妻造で、屋根は本瓦葺。南門・東西楽所の3棟は国の重要文化財に指定されている[38][39]

そのほか、境内南寄りにある神館は大正4年(1915年)に大正天皇の即位記念として建てられたもので、国の登録有形文化財[40]。本宮北方の旧神宮寺跡地にある住吉文華館(昭和52年(1977年)竣工)には、神宝が収蔵されている[37]。また住吉文華館の東側には、御文庫(おぶんこ、住吉御文庫)と称される漆喰塗の建物がある。享保8年(1723年)に書籍商の発願によって建てられたもので、以来約5万冊に及ぶ写本・版本が奉納されており、「大阪最古の図書館」とも称される[2][37]

その他の建造物

石舞台(重要文化財)
日本三舞台」の1つ。

第一本宮の南側には石舞台がある。南門・東西楽所と同様に慶長12年(1607年)の豊臣秀頼の再興による造営。池に架けられた石造桁橋(幅約11メートル×長さ約12メートル)の上に、一辺約6メートル、高さ約0.5メートルの規模で築かれている。前面に階段を付し、舞楽を演じる際には上面に木製の高欄が取り付けられる。「日本三舞台」の1つに数えられるとともに[注 2][2]、国の重要文化財に指定されている[41][38]

4本宮の外周に巡らされた瑞垣には、西側に幸禄門(西北面)・幸壽門(幸寿門、西面)・幸福門(西南面)の3門が開く。そのうち第三本宮正面の幸壽門の門前には角鳥居(かくとりい)が建てられている。「角鳥居」の名は柱が四角柱であることに由来し(本宮の渡殿内にある鳥居も同様の柱)、その独特な形式により「住吉鳥居」とも称される[2][6]。扁額の「住吉神社」は有栖川宮幟仁親王の筆[6]

角鳥居から続く参道では、角鳥居前の池に反橋(そりはし)が架かる。「太鼓橋(たいこばし)」とも称され、住吉大社を象徴する橋になる[6]。高さは4.4メートル[42]。鎌倉時代の『諸神事次第記』にも橋の記述が見える[2]。現在の橋は昭和56年(1981年)の造営によるものであるが、石造の脚・梁部分は慶長年間(1596-1615年)の造営になり、豊臣秀頼によるものとも、淀殿の寄進によるものとも伝わる[2][42]。反橋を舞台にした作品として川端康成の小説『反橋』がある[43]。なお、この反橋付近まではかつて海であったといわれ[42]、反橋が架かる池については古代の潟湖(ラグーン)の痕跡とする説がある[24]

参道には多数の石燈籠が建ち並び、その数は約600基にも及ぶ。最古は寛永21年(1644年)まで遡り[10]、その多くは江戸時代の廻船業関係者からの奉納になる[2]

旧跡

五所御前
住吉神鎮座伝説地。

第一本宮の南側には五所御前(ごしょごぜん)という玉垣の区画があり、内側には杉の木が生育する。社伝では、神功皇后が住吉神の奉斎場所を探す際に3羽の鷺が杉の木にとまったので、この地を鎮座地に定めたという[2][43]。元々は祭神来臨の神事を行うミアレ所(御阿礼所/御生所)であったとする説もある[6][44]。現在は「高天原」とも称され、毎年5月初卯日(住吉大社創建伝承日)の卯之葉神事ではこの五所御前に卯の葉の玉串が捧げられる[43]

角鳥居近くにある誕生石(たんじょうせき)は、薩摩藩祖の島津忠久の誕生地と伝承される。その母の丹後局は、源頼朝の寵愛を受けるも北条政子に捕まるが、本田次郎親経により難を逃れて住吉社に至り、この地で忠久を産んだと伝える[2][43][45]

境内南側には、御田(おんだ)と称される神田が広がる。毎年6月14日には御田植神事(国の重要無形民俗文化財)がこの田で行われる。

摂末社

摂末社は、摂社4社(いずれも境内社)・末社25社(境内21社、境外4社)の計29社[2]。そのほかに祠がある[46]

摂社

本殿・渡殿・幣殿は重要文化財。
志賀神社
船玉神社
若宮八幡宮
大海神社
「だいかいじんじゃ」。第一の摂社。境内北寄りにおいて本宮同様に西面して鎮座する(北緯34度36分50.05秒 東経135度29分37.21秒)。『延喜式』神名帳では「元名津守安人神」とあるが、これを「氏人神」と校訂して津守氏の氏神社とする説のほか、『住吉大社神代記』にも「津守安必登神」と見えるため「安人神/安必登神 = 現人神」と解釈して津守氏の現人神信仰の神社とする説がある[47][48][49][50](詳細は「大海神社」を参照)。
社殿は本宮社殿とともに西面する。本殿は本宮本殿と同様の住吉造であるが、本宮本殿よりも古い江戸時代中期の宝永5年(1708年)の造営で、国の重要文化財に指定されている[51]。また幣殿・渡殿(宝永5年(1708年)造営)、西門(江戸時代前期の造営)も国の重要文化財に指定[52][53]。社前には「玉の井」と称される井戸がある。
志賀神社
「しがじんじゃ」。境内北寄りの大海神社近くに西面して鎮座する(北緯34度36分49.53秒 東経135度29分36.98秒)。祭神の綿津見三神(海三神)は住吉三神とともに禊祓で生まれた海の神で、阿曇氏祖神。志賀海神社(福岡県福岡市)を本社とする[54][49]
船玉神社
「ふねたまじんじゃ」。本宮南西、瑞垣外(幸福門外)において西面して鎮座するが(北緯34度36分43.73秒 東経135度29分33.72秒)、昭和45年(1970年)までは第四本宮の社前に鎮座した。元々の祭神を住吉神の荒魂とする説もある。『住吉大社神代記』では紀伊の志麻神・静火神・伊達神(和歌山県和歌山市志磨神社静火神社伊達神社)の本社とする[49][50]
若宮八幡宮
「わかみやはちまんぐう」。本宮南側、五所御前の南側において西面して鎮座する(北緯34度36分43.78秒 東経135度29分38.17秒)。祭神の応神天皇は神功皇后の子。1月12日の例祭では湯立神楽が奉納される[49][50]

なお、江戸時代には住吉大社北方の生根神社も摂社とされていたが、明治5年(1872年)に分離独立した[55]

末社

種貸社
招魂社(旧護摩堂)
(重要文化財)
浅沢社
カキツバタの名所として知られる。
住吉祭御旅所

境内社

  • 楯社(たてしゃ) - 祭神:武甕槌命。例祭:9月1日。
  • 鉾社(ほこしゃ) - 祭神:経津主命。例祭:4月14日。
  • 侍者社(おもとしゃ) - 祭神:田裳見宿禰、市姫命。例祭:2月5日。
  • 后土社(ごうどしゃ) - 祭神:土御祖神。例祭:10月19日。
  • 楠珺社(なんくんしゃ) - 祭神:宇迦魂命。例祭:5月辰日。
  • 市戎・大国社(いちえびす・だいこくしゃ) - 祭神:事代主命大国主命。例祭:1月10日。
  • 種貸社(たねかししゃ) - 祭神:倉稲魂命。例祭:4月9日。
    元は長居町に鎮座した式内社「多米神社」で(北緯34度36分45.58秒 東経135度30分45.51秒)、多米氏(ためうじ、多米連)の氏神とされる[56]。明暦元年(1655年)に住吉大社境内に移転[56]
  • 児安社(こやすしゃ) - 祭神:興台産霊神。例祭:9月19日。
  • 海士子社(あまごしゃ) - 祭神:鵜茅葺不合尊。例祭:2月1日。
  • 龍社(たつしゃ、御井社) - 祭神:水波野女神。例祭:10月16日。
  • 八所社(はっしょしゃ) - 祭神:素盞鳴尊。例祭:6月15日。
  • 新宮社(しんぐうしゃ) - 祭神:伊邪那美命、事解男命、速玉男命。例祭:5月17日。
  • 立聞社(たちぎきしゃ、長岡社) - 祭神:天児屋根命。例祭:2月1日。
  • 貴船社(きふねしゃ) - 祭神:高龗神。例祭:6月1日。
  • 星宮(ほしみや) - 祭神:国常立命。例祭:7月7日。
  • 五社(ごしゃ) - 祭神:大領、板屋、狛、津、高木、大宅、神奴祖神。例祭:4月初申日・11月初申日。
  • 薄墨社(うすずみしゃ) - 祭神:国基霊神(第39代神主津守国基)。例祭:8月7日。
  • 斯主社(このぬししゃ) - 祭神:国盛霊神(第43代神主津守国盛)。例祭:7月21日。
  • 今主社(いまぬししゃ) - 祭神:国助霊神(第48代神主津守国助)。例祭:1月27日。
  • 招魂社(しょうこんしゃ) - 祭神:諸霊神。例祭:春分日・秋分日。
    社殿は元は旧神宮寺護摩堂で、鬼瓦銘から江戸時代前期の元和5年(1619年)の造営とされる。形式は桁行三間・梁間三間、入母屋造で、前面に向拝一間を付し、屋根は本瓦葺。境内に唯一残る仏教建築になる。国の重要文化財に指定されている[57][32]

境外社

  • おいとしぼし社 - 大歳社境内。
  • 楠高社
  • 海龍社
  • 御滝社
  • 姫松稲荷社
  • 吉松稲荷社
  • 結乃神社
  • 神馬塚

祭事

年間祭事

年間祭事一覧

住吉大社で年間に行われる祭事の一覧[2]

  • 毎月
    • 朔日祭 (毎月1日)
    • 卯之日祭 (毎月初卯日)
    • 初辰祭 (毎月初辰日)
    • 十五日祭 (毎月15日)
    • 海上・交通安全祈願祭 (毎月20日)
  • 1月
    • 元旦祭 (1月1日)
    • 元始祭 (1月3日)
    • 踏歌神事 (1月4日)
    • 白馬神事 (1月7日)
    • 御結鎮神事 (1月13日)
  • 2月
    • 節分祭 (2月節分日)
    • 紀元祭 (2月11日)
  • 3月
    • 祈年祭 (3月17日)[58]
  • 4月
    • 松苗神事 (4月3日)
  • 5月
    • 卯之葉神事 (5月初卯日)
  • 6月
    • 御田植神事 (6月14日)
    • 大祓式 (6月30日)
  • 7月
    • 神輿洗神事 (7月第3月曜日・火曜日)
    • 宵宮祭 (7月30日)
    • 例大祭、夏越大祓神事 (7月31日)
  • 8月
    • 渡御祭、荒和大祓神事 (8月1日)
  • 9-10月
    • 観月祭 (中秋名月日)
  • 10月
    • 宝之市神事 (10月17日)
  • 11月
    • 明治祭 (11月3日)
    • 新嘗祭 (11月23日)
  • 12月
    • 天長祭 (12月23日)
    • 煤払式 (12月26日)
    • 大祓式、除夜祭 (12月31日)

住吉祭

住吉祭大和川を渡る渡御列

住吉大社の例祭(例大祭、1年で最も重要な祭)を中心とした祭は「住吉祭(すみよしさい/すみよしまつり)」と称される。大阪を祓い清める祭りとして「おはらい」とも称され[59][60]、「大阪三大夏祭り」の1つにも数えられる[注 4]。かつては旧暦6月30日を中心に斎行されたが、明治7年(1874年)の太陽暦移行後は7月31日を中心に斎行される[59]。『住吉大社神代記』に「六月御解除、開口水門姫神社」「九月御解除、田蓑嶋姫神社」と見えるうちの前者(南祭)を継承するものとされるが、後者(北祭)は現在までに廃絶している[注 5][59][1]

現在の祭儀次第は次の通り[60]

  • 7月第3月曜日(海の日)・火曜日 - 神輿洗神事
  • 7月30日 - 住吉祭宵宮祭
  • 7月31日 - 夏越祓神事、住吉祭例大祭
  • 8月1日 - 渡御祭、頓宮祭、荒和大祓神事

7月第3月曜日(海の日)から翌火曜日にかけて行われる神輿洗神事(みこしあらいしんじ)は、例大祭(住吉祭)に先立って海水で神輿を祓い清める神事である。かつては6月15日宵の満潮に長峡の浦で行われたが、現在では大阪湾沖合の海水を使って住吉公園において行われ、御旅所(住吉高燈籠)で一晩奉安したのち、翌日に還御する[2][1][60]

7月31日夏越祓神事(なごしのはらえしんじ)では、五月殿での大祓式ののち、伝統衣装で着飾った夏越女・稚児の行列が茅の輪くぐりを行う[60]。この夏越祓神事は「住吉大社の夏越祭」として大阪府選択無形民俗文化財に選択されている[61]。次いで第一本宮において例大祭(れいたいさい)が斎行され、祭典ののちに神楽「熊野舞」・住吉踊が奉納される[60]

宿院頓宮境内の飯匙堀

翌日の8月1日には、住吉神の神霊を乗せた神輿が堺の宿院頓宮(堺市堺区宿院町東)までの渡御を行う[60]。渡御は昭和37年(1962年)以降は自動車列となっていたが[1]、平成17年(2005年)からは鳳輦・神輿列が復活し、街道を練り歩き大和川では川の中を進む[60]。宿院頓宮に到着後は頓宮境内の飯匙堀(いいがいぼり)において荒和大祓神事(あらにごのおおはらいしんじ)を行う[60]。この飯匙堀は海幸山幸神話の潮干珠を埋めたところと伝わる場所で、この地で本社で行なったのと同様の茅の輪くぐりを行う。

特殊神事

踏歌神事
「とうかしんじ」。1月4日。大地を踏みしめて五穀豊穣を祈る神事。中国の隋・唐で流行した群集歌舞に由来するもので、かつては宮中でも1月中旬に踏歌節会が催されて「阿良礼走(あらればしり)」とも称されたが[62]、現在は当社と熱田神宮愛知県名古屋市)に残るのみといわれる[1]
神事では、第一本宮での祝詞奏上後、直垂を着用した所役2人(言吹<ごんすい>・袋持)が、それぞれ梅の枝(言吹)・袋(袋持)を持って斎庭で向かい合って立ち、3度声を掛け合ったのち袋持が神前に餅を供える。その後神楽女が白拍子舞、熊野舞を奉納して、餅まきを行う[2][1][63]
白馬神事
「あおうましんじ」。1月7日。白馬が各本宮を巡拝して邪気を祓う神事。年初に白馬(青馬)を見れば年中の邪気が祓われるとする中国の信仰に由来するもので、かつては宮中でも1月7に白馬節会(青馬節会)が催され、現在は当社のほか賀茂別雷神社京都府京都市)・鹿島神宮茨城県鹿嶋市)などに残る[64]
神事では、祝詞奏上後、神馬と奉行2人・神馬舎人が各本宮で拝礼したのち全本宮を外周する[2][1][63]
御結鎮神事
「みけちしんじ」。1月13日。弓矢で除魔招福を祈願する神事。神事では、第一本宮での祭典・饗膳後、射場で古式による弓十番が行われる[2][63]
松苗神事
「まつなえしんじ」。4月3日。松の苗の植樹と俳句披露を行う神事。住吉大社の松は歌枕の「住吉の松」として古来著名であったが、江戸時代の天明期(1781-1788年)に枯死が目立った。そのために当時の俳人が松苗献木と俳句献詠を募り『松苗集』として住吉御文庫に奉納した、という故事に因む[2][1][65]
卯之葉神事
「うのはしんじ」。5月初卯日。鎮座伝承日(神功皇后摂政11年辛卯年卯月上卯日)に因み鎮座を記念する神事[1]。旧暦では4月(卯月)、太陽暦移行後は5月に斎行される。
神事では、鎮座伝承地の五所御前に卯の葉の玉串を捧げる。その祭典後、石舞台で舞楽が奉納されるとともに、卯の花苑の一般公開も行われる[2][1][66]
御田植神事
「おたうえしんじ」。6月14日。御田(神田)で盛大に田植えを催す神事。住吉大社鎮座時に、神功皇后が長門国から植女を召して田を作らせたのが始まりと伝える[1]
神事では、まず神館で植女の粉黛・戴盃式を行なったのち、石舞台で全員の修祓、第一本宮で豊穣の祭典を行い、神前の早苗が植女に授けられる。そして御田に向かい、替植女による植付けが始まるが、その植付けの間に舞台や畦で田舞・神田代舞・風流武者行事・棒打合戦・田植踊・住吉踊といった芸能が催される[2][1][67]
御田植行事は各地に残るが、住吉大社の御田植は規模が大きく代表的なものであるとされ、「住吉の御田植」として国の重要無形民俗文化財に指定されているほか[68]、芸能は国の選択無形民俗文化財に選択されている[69]
宝之市神事
「たからのいちしんじ」。10月17日。神功皇后が三韓の貢物・百貨をもって市を立てて庶人に分かった故事に因むと伝えるが、五穀を神前に供えたのち庶人に分かったのが本旨ともされる。神事では、御田の刈り取りののち、本宮にて初穂や升に入れた五穀を供える祭典が行われるほか、近日日曜日に相撲大会が催される。かつては升が多く売られたことから「升の市」とも称され、その時に参詣した松尾芭蕉は句を残している[2][1][70]

そのほか、3月初旬頃・11月初旬頃には埴使(はにつかい)と称される神事が行われる。これは祈年祭・新嘗祭に先立って、奈良県畝傍山で埴土(はにつち:両祭での供献土器を作る材料とする土)を採取する神事である。『住吉大社神代記』で住吉大神が神功皇后に詔をして天香山の埴土で天平瓮を作らせたとする記事との関連が推測されるほか、『日本書紀』神武天皇即位前紀では神武天皇が天香山の埴土で祭器を作らせて丹生川上での祭祀に使用したと見えることから、畝傍山や天香山の埴土が古代氏族の祭祀権に関係したことが示唆される。神事では、住吉大社の神職が雲名梯神社(河俣神社)・畝火山口神社(いずれも奈良県橿原市)で祭典を行なったのち、畝傍山山頂で三握半の土を採取する[1][58][71]

文化財

国宝

  • 住吉大社本殿 4棟(附 瑞垣及び門)(建造物)
    4棟とも江戸時代後期、文化7年(1810年)の造営。
    明治35年(1902年)4月17日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定、昭和28年(1953年)11月14日に国宝に指定[34]

重要文化財(国指定)

  • 住吉大社 13棟(建造物)
    内訳は以下。昭和49年(1974年)5月21日に南門・東楽所・西楽所・石舞台の4棟を指定、平成22年(2010年)12月24日にその他9棟を追加指定。
    • 南門 - 桃山時代、慶長12年(1607年)の造営[38]
    • 東楽所 - 同上[39]
    • 西楽所 - 同上[39]
    • 石舞台 - 同上[41]
    • 幣殿及び渡殿(第一殿) - 江戸時代後期、文化7年(1810年)の造営[32]
    • 幣殿及び渡殿(第二殿) - 同上[32]
    • 幣殿及び渡殿(第三殿) - 同上[32]
    • 幣殿及び渡殿(第四殿) - 同上[32]
    • 南高蔵 - 桃山時代、慶長12年(1607年)の造営[36]
    • 北高蔵 - 同上[36]
    • 摂社大海神社幣殿及び渡殿 - 江戸時代中期、宝永5年(1708年)の造営[52]
    • 摂社大海神社西門 - 江戸時代前期の造営[53]
    • 末社招魂社本殿(旧護摩堂) - 江戸時代前期、元和5年(1619年)の造営[57]
    • (附指定)住吉松葉大記 19冊
  • 住吉大社摂社大海神社本殿(建造物)
    江戸時代中期、宝永5年(1708年)の造営。昭和39年(1964年)5月26日指定[51]
  • 木造舞楽面 9面(彫刻)
    内訳は以下。平安時代から鎌倉時代の作。昭和43年(1968年)4月25日指定[72]
    • 綾切4、抜頭1、貴徳番子1、皇仁庭1、秦王1、納曽利1
  • 太刀 銘守家 1口(工芸品)
    鎌倉時代の作。大正15年(1926年)4月19日指定[73]
  • 刀 銘小野繁慶 奉納接州住吉大明神御宝前 1口(工芸品)
    江戸時代の作。昭和35年(1960年)6月9日指定[74]
  • 住吉神代記(書跡)
    平安時代の作。昭和29年(1954年)3月20日指定[75]

重要無形民俗文化財(国指定)

選択無形民俗文化財(国選択)

  • 住吉の御田植神事の芸能 - 昭和46年(1971年)11月11日選択[69]

国の史跡

登録有形文化財(国登録)

  • 住吉大社神館(建造物) - 大正4年(1915年)の造営。平成18年(2006年)10月18日登録[40]

大阪府指定文化財

  • 有形文化財
    • 住吉大社太刀 銘国輝 1口(附 鳥頚太刀拵)(工芸品) - 昭和46年(1971年)3月31日指定[61]
    • 住吉大社刀 銘治国 1口(附 金梨子地衛府太刀拵)(工芸品) - 昭和46年(1971年)3月31日指定[61]
    • 住吉大社剣 銘吉道 1口(工芸品) - 昭和53年(1978年)8月4日指定[61]
    • 住吉大社太刀 銘有続(陰陽太刀) 2口(附 松鷺蒔絵糸太刀拵(陰刀)、雲龍蒔絵太刀拵(陽刀))(工芸品) - 昭和53年(1978年)8月4日指定[61]
    • 住吉大社鉄砲 銘野田善清尭 1口(工芸品) - 昭和53年(1978年)8月4日指定[61]

以上のほか、住吉大社3棟(南高蔵、北高蔵、末社招魂社本殿、附 住吉松葉大記)が平成11年(1999年)2月5日に大阪府指定有形文化財(建造物)に指定されていた(平成22年(2010年)12月24日に国の重要文化財に指定)。

大阪府選択無形民俗文化財

  • 住吉大社の夏越祭 - 昭和47年(1972年)3月31日選択[61]

大阪市指定文化財

  • 史跡
    • 住吉大社境内 - 平成13年(2001年)12月21日指定[61][33]

関連文化財

  • 切幡寺大塔
    国の重要文化財(建造物)。旧住吉大社神宮寺西塔で、明治初年に切幡寺(徳島県阿波市)に移築。江戸時代前期の元和4年(1618年)の造営。1975年(昭和50年)6月23日指定[77]

関係事項

住吉大社神代記

住吉大社に伝わる神宝のうち最も有名なものとして、住吉大社神代記(すみよしたいしゃじんだいき)がある[2]。住吉大社司の解文の形で住吉大社の縁起・神宝・社領などを記した古文書で、天平3年(731年)7月の奥書を持つが、実際には平安時代前期以降の作とする説が有力視される[10][8]。内容には『日本書紀』・『古事記』と同様の伝承に加えて、他の文書には見られない独自所伝も記載するため、数少ない古代史料・上代史料の1つとして重要視される[78](詳細は「住吉大社神代記」を参照)。

この住吉大社神代記の文献上初見は寛喜2年(1230年[原 31]で、その際も含め中世期の土地相論では神代記の記述が持ち出された[16][79]。その後は神宝として第一本宮に秘蔵され門外不出とされていたが、明治頃から内容が公開された[79][8]。現在原本は「住吉神代記」として国の重要文化財に指定されている[75]

住吉神宮寺

住吉大社境内では、かつて神宮寺が営まれていた。『古今著聞集』では本地仏の高貴徳王菩薩の託宣があったとし、『住吉松葉大記』では天平宝字2年(758年)の創建とし、新羅渡来の薬師寺を本尊としたため「新羅寺」とも称されたとする[10][16]。ただし貞観8年(866年)[原 32]には住吉社での読経の際に朝廷から僧11人が派遣されているため、この時点までの神宮寺の存在は必ずしも確かではない[16]

扶桑略記』などでは、天慶3年(940年)11月21日には住吉神宮寺で藤原純友調伏の祈祷が行われたと見える[10][16]。その後、天喜元年(1053年)に焼失したが、津守国基による再建で西塔が建立され、承久元年(1219年)には三綱が置かれた[16]。江戸時代の『住吉松葉大記』では、諸堂宇として本堂・東塔・西塔・東法華三昧堂・西常行三昧堂・大日堂・救聞持堂・護摩堂・食堂・東西両僧坊の記載が見える[49]。しかし明治初年の神仏分離で破却・廃寺となり[10][16]、伽藍のうち護摩堂は境内末社の招魂社本殿に転用されたほか[57]、西塔は切幡寺(徳島県阿波市)に移築された(切幡寺大塔:国の重要文化財)[77]。現在の神宮寺の跡地には住吉文華館が建てられている[6]

その他の住吉大社関係寺院としては、津守氏氏寺と見られる津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺がある[16]。住吉神宮寺・津守寺・荘厳浄土寺は住吉の三大寺に数えられたという[80]

  • 津守寺(跡地は大阪市住吉区墨江)
    中右記永長元年(1096年)条[原 33]では、住吉社神主の津守国基が大伽藍を建立したと見える[10]。「住吉社神主并一族系図」によれば、津守氏は神主を勤めたのち晩年に津守寺別当・塔別当になる例であった[10]。明治初年の神仏分離で破却・廃寺[10][81]
  • 荘厳浄土寺(大阪市住吉区帝塚山東)
    住吉大社の東に位置する。創建は不詳。『摂陽群談』によれば、応徳元年(1084年)に住吉社神主の津守国基が勅命によって再興し、その際に土中から出土した金札の銘の「七宝荘厳極楽浄土云々」により寺号を下賜されたといい、永長元年(1096年)に諸堂宇の建立と落慶供養とがなされたという[82](詳細は「荘厳浄土寺」を参照)。

住吉行宮

住吉行宮跡伝承地(国の史跡
津守氏邸内の正印殿跡地。

南北朝時代の住吉大社には、南朝の行宮(天皇の仮の御所)の1つである住吉行宮(すみよしのあんぐう/すみよしあんぐう)が置かれた[83]。行宮とした天皇は、後村上天皇(2度)・長慶天皇[83]

文献では後村上天皇は住吉社神主の津守国夏の「住吉殿」を行宮としたと見えるが、この住吉殿(住之江殿)とは現在の住吉大社の南方に位置する正印殿(しょういんでん)跡地にあたると伝承される(ただし確証は無い[83])。この正印殿は住吉大社の神印が納め置かれた建物といわれるが[2]、建物は非現存。跡地は「住吉行宮跡」として国の史跡に指定されている(詳細は「住吉行宮」を参照)。

なお、現在の住吉大社では4月6日に後村上天皇を偲んで正印殿祭が斎行される[65]

住吉苗裔神

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住吉大社の位置(日本内)
住吉大社
住吉大社
住吉大社
住吉大社
住吉大社
住吉大社
住吉大社
住吉大社
住吉神社(式内社に限定)の分布

『延喜式』神名帳には、次に示すような住吉神の関係社が各地に確認される[8]

延喜式 比定社 備考
国郡 社名 社名 所在地 座標
陸奥国磐城郡 住吉神社 住吉神社 福島県いわき市小名浜住吉 北緯36度58分29.08秒 東経140度52分58.94秒
播磨国賀茂郡 住吉神社 (論)住吉神社 兵庫県加東市上鴨川 北緯34度58分0.38秒 東経135度3分34.42秒
(論)住吉神社 兵庫県加東市下久米 北緯34度55分17.80秒 東経135度1分7.96秒
(論)住吉神社 兵庫県小野市垂井町 北緯34度50分8.08秒 東経134度56分9.05秒
長門国豊浦郡 住吉坐荒御魂神社三座 並名神大 住吉神社 山口県下関市一の宮住吉 北緯33度59分58.75秒 東経130度57分23.70秒 長門国一宮
筑前国那珂郡 住吉神社三座 並名神大 住吉神社 福岡県福岡市博多区住吉 北緯33度35分9.26秒 東経130度24分49.33秒 筑前国一宮
壱岐島壱岐郡 住吉神社 名神大 住吉神社 長崎県壱岐市芦辺町住吉東触 北緯33度47分18.53秒 東経129度42分23.43秒
対馬島下県郡 住吉神社 名神大 (論)住吉神社 長崎県対馬市美津島町鶏知 北緯34度16分8.03秒 東経129度18分54.18秒
(論)住吉神社 長崎県対馬市美津島町鴨居瀬 北緯34度20分20.28秒 東経129度23分24.58秒

これらの社の分布には朝鮮航路との関連が指摘される[8]。特に分布の背景として、住吉神がヤマト王権の国家的機関に位置づけられたことから、王権によって航路の各要所に住吉神が配置されたとする説もある[8]。なお陸奥国の社については、蝦夷追討との関連が推測される[8]

また『住吉大社神代記』では、住吉大神の宮は9箇処にあるとして、「摂津国住吉大社四前」のほか8箇処が次のように記載される[8]

住吉大社神代記 比定社 備考
社名 所在地
摂津国西成郡座摩社二前 坐摩神社 大阪府大阪市中央区久太郎町 古代に住吉大社勢力下にあったかは確かでない[8]
摂津国菟原郡社三前 本住吉神社 兵庫県神戸市東灘区住吉宮町
播磨国賀茂郡住吉酒見社三前 住吉神社 兵庫県加西市北条町北条
長門国豊浦郡住吉忌宮一前 住吉神社 山口県下関市一の宮住吉 いずれか一社または両社一体を指したか[8]
忌宮神社 山口県下関市長府宮の内
筑前国那珂郡住吉社三前 住吉神社 福岡県福岡市博多区住吉
紀伊国伊都郡
丹生川上天手力男意気続々流住吉大神
(不明)
大唐国一処住吉大神社三前 (不明) 古代に国外に住吉神社が祀られた事実は無い[8]
新羅国一処住吉荒魂三前 (不明)

『住吉大社神代記』では、以上に続けて部類神・子神として多くの神々が記載されるが、その内容については疑義が強い[8]

その後、後世には全国各地で分祠の住吉神社が祀られている(大社側では全国に2,000社以上とする[84])。

登場作品

石上乙麻呂卿配土佐国之時歌三首(そのうち1首)
大君の 命(みこと)恐(かしこ)み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我が背の君を かけまくも ゆゆし恐し 住吉(すみのえ)の 現人神 船舳に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 寄りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風にあはせず つつみなく 病あらせず 速(すむや)けく 帰したまはね 本(もと)の国辺に

—『万葉集』巻6 1020,1021番(連続した歌とする解釈に従って掲載)[85][86]

民部少輔多治比真人土作歌一首
住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と 行くとも来(く)とも 船は早けむ

—『万葉集』巻19 4243番[87][86]

天平五年贈入唐使歌一首
そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 三津(みつ)に船乗り 直(ただ)渡り 日の入る国に 遣はさる 我が背の君を かけまくの ゆゆし恐き 住吉(すみのえ)の 我が大御神 船舳(ふなのへ)に うしはきいまし 船艫(ふなども)に み立たしまして さし寄らむ 磯の崎々 漕ぎ泊てむ 泊まり泊まりに 荒き風 波にあはせず 平(たひら)けく 率(ゐ)て帰りませ もとの朝廷(みかど)に

—『万葉集』巻19 4245番[87][86]

升買うて 分別かはる 月見かな

松尾芭蕉

現地情報

所在地

交通アクセス

住吉高燈籠

周辺

脚注

注釈

  1. ^ 住吉社を一宮とする初見は、正応4年(1291年)の「六波羅施行状」(勝尾寺文書)。ただし中世期に住吉社が一宮を自称した文書は見つかっていない (中世諸国一宮制 & 2000年, pp. 68–70)。
  2. ^ 日本三舞台」は、住吉大社の石舞台のほか、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、厳島神社(広島県廿日市市)の平舞台とされる。
  3. ^ 式内社「草津大歳神社」について、『式内社調査報告』では大依羅神社(大阪市住吉区庭井)に合祀された旧草津大歳神社の方を有力視する(真弓常忠 「草津大歳神社」『式内社調査報告 第5巻』 式内社研究会編、皇學館大学出版部、1977年)。
  4. ^ 「大阪三大夏祭り」は、住吉大社の住吉祭、大阪天満宮天神祭の2つの祭りに加えて、生國魂神社いくたま夏祭を挙げる場合と、四天王寺別院愛染堂愛染まつりを挙げる場合とがある。
  5. ^ 九月御解除(北祭)はかつて玉出嶋祓所に神幸したもので、明治42-大正5年(1909-1916年)には松島の行宮への船渡御をして「北祭」とも称したが、現在は廃れている (住吉坐神社四座(式内社) & 1977年)。

原典

  1. ^ a b 『釈日本紀』巻6(述義2)住吉大神条所引『摂津国風土記』逸文。 - 『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)310コマ参照。
  2. ^ a b 『延喜式』巻9(神名上)摂津国住吉郡条。
  3. ^ a b 『日本書紀』神功皇后摂政前紀仲哀天皇9年12月辛亥(14日)条(神道・神社史料集成参照)。
  4. ^ a b c 『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条(神道・神社史料集成参照)。
  5. ^ 『令義解』巻2(神祇令)天神地祇条 凡天神地祇者神祇官皆依常典祭之(神道・神社史料集成参照)。
  6. ^ 『令集解』巻7(神祇令)天神地祇条 凡天神地祇者神祇官皆依常典祭之(神道・神社史料集成参照)。
  7. ^ 『延喜式』巻8(祝詞)遣唐使条(神道・神社史料集成参照)。
  8. ^ a b 『万葉集』巻19 4245番。
  9. ^ a b c 『日本後紀』大同元年(806年)4月丁巳(24日)条(神道・神社史料集成参照)。
  10. ^ 『日本三代実録』貞観3年(861年)2月7日条(神道・神社史料集成参照)。
  11. ^ 『扶桑略記』昌泰元年(898年)10月30日条。 - 『国史大系 第6巻 日本逸史・扶桑略記』(国立国会図書館デジタルコレクション)333コマ参照。
  12. ^ 『万葉集』巻6 1020,1021番。
  13. ^ 『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月癸卯(5日)条(神道・神社史料集成参照)。
  14. ^ 『日本書紀』持統天皇6年(692年)5月庚寅(26日)条(神道・神社史料集成参照)。
  15. ^ 『日本書紀』持統天皇6年(692年)12月甲申(24日)条(神道・神社史料集成参照)。
  16. ^ a b 『続日本紀』延暦3年(784年)6月辛丑(2日)条(神道・神社史料集成参照)。
  17. ^ a b 『続日本紀』延暦3年(784年)12月丙申(29日)条(神道・神社史料集成参照)。
  18. ^ 『続日本後紀』承和3年(836年)6月癸酉(6日)条(神道・神社史料集成参照)。
    『続日本後紀』承和5年(838年)8月癸丑(28日)条(神道・神社史料集成参照)。
    『続日本後紀』承和6年(839年)4月戊辰(17日)条(神道・神社史料集成参照)。
    『続日本後紀』承和8年(841年)4月己巳(29日)条(神道・神社史料集成参照)。
    『続日本後紀』承和9年(842年)3月庚戌(15日)条(神道・神社史料集成参照)。
  19. ^ 『日本三代実録』貞観元年(859年)9月8日条(神道・神社史料集成参照)。
  20. ^ 『延喜式』巻3(臨時祭)祈雨神祭条(神道・神社史料集成参照)。
  21. ^ 『延喜式』巻3(臨時祭)名神祭条(神道・神社史料集成参照)。
  22. ^ 『延喜式』巻3(臨時祭)東宮八十島祭条(神道・神社史料集成参照)。
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出典

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参考文献・サイト

(記事執筆に使用した文献)

  • 境内説明板

書籍

  • 住吉大社編集書籍
    • 住吉大社社務所編 編『住吉大社畧記 改訂版』住吉大社社務所、1999年。  - 神社由緒書。
    • 住吉大社編 編『住吉大社 改訂新版』学生社、2002年。ISBN 4311407119{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 事典類
  • その他
    • 式内社研究会編 編『式内社調査報告 第5巻』皇學館大学出版部、1977年。 
      • 真弓常忠 「住吉坐神社四座」奥野茂寿 「大海神社二座」奥野茂寿 「多米神社」真弓常忠 「船玉神社」
    • 谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 3 摂津・河内・和泉・淡路 <新装復刊版>』白水社、2000年。ISBN 978-4560025031 
      • 大和岩雄 「住吉大社」大和岩雄 「大海神社」
    • 中世諸国一宮制研究会編 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年、68-70頁。ISBN 978-4872941708 
    • 真弓常忠『住吉信仰』朱鷺書房、2003年。ISBN 978-4886021878 
    • 前田晴人 著「王権の勢力伸長に伴う外征 <住吉大社>」、『歴史読本』編集部編 編『八百万神をめぐる古代王権の謎(新人物文庫111)』中経出版、2010年、114-123頁。ISBN 978-4404039323 
    • 岡田精司「航海と外征の神 <宗像と住吉>」『新編 神社の古代史』学生社、2011年、72-109頁。ISBN 978-4311203022 
    • 上田正昭「住吉大社」『古社巡拝 -私のこころの神々-』学生社、2013年、225-233頁。ISBN 978-4311203480 
    • 古市晃 著「住吉大社」、『歴史読本』編集部編 編『神社の古代史(新人物文庫)』中経出版、2014年、124-137頁。ISBN 978-4046001368 

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関連文献

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関連項目

外部リンク