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「天霧 (駆逐艦)」の版間の差分

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{{Infobox 艦艇
<div class="thumb tright">
| 名称 = 天霧
{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff"
|colspan="2"|[[Image:Japanese Destroyer Amagiri.jpg|300px|天霧]]
| 画像 = Japanese Destroyer Amagiri.jpg
| 画像説明 = 天霧
|-
| 建造所 = [[石川島造船所]]
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
| 運用者 = {{navy|大日本帝国}}
|-
| 艦種 = [[駆逐艦]]
|発注||[[昭和2年度艦艇補充計画]]
| 級名 = [[吹雪型駆逐艦]]
|-
| 発注 = [[昭和2年度艦艇補充計画]]
|起工||[[1928年]]11月28日
| 起工 = [[1928年]]11月28日
|-
|進水||[[1930年]]2月27日
| 進水 = [[1930年]]2月27日
| 竣工 =
|-
|就役||1930年[[11月10日]]
| 就役 = 1930年[[11月10日]]
| 最後 = [[1944年]][[4月23日]]戦没
|-
|その後||[[1944年]][[423日]]戦没
| 除籍 = 1944年[[610日]]
| 基準排水量 = 1,680 t
|-
| 公試排水量 = 1,980 t
|除籍||1944年[[6月10日]]
| 全長 = 118 m
|-
| 水線長 = 115.3 m
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
| 最大幅 = 10.36 m
|-
| 吃水 = 3.2 m
|[[排水量]]||基準:1,680t 公試:1,980t
| 主缶 = [[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]]4基
|-
| 主機 = [[艦本式タービン]]2基2軸
|全長||118m (水線長:115.3m)
| 出力 = 50,000hp
|-
| 速力 = 38.0[[ノット]]
|全幅||10.36m
| 燃料 =
|-
| 航続距離 = 14ktで5,000浬
|吃水||3.2m
| 乗員 = 219名
|-
| 兵装 = 50口径12.7cm連装砲 3基6門<br />13mm単装機銃 2挺<br />61cm3連装[[魚雷発射管]] 3基
|機関||[[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]]4基<br />[[艦本式タービン]]2基2軸 50,000hp
| その他 =
|-
}}
|速力||38.0[[ノット]]
'''天霧'''(あまぎり)は<ref name="S3達132号">[[#達昭和3年9月]]pp.15-16『達第百三十二號 艦艇製造費ヲ以テ昭和三年度ニ於テ建造ノ軍艦竝驅逐艦ニ左ノ通命名ス|昭和三年九月十一日 海軍大臣 岡田啓介|艦種|艦名|建造所|二等砲艦|熱海(アタミ)|三井物産株式會社造船部玉工場|同|二見(フタミ)|株式會社藤永田造船所|一等驅逐艦|天霧(アマギリ)|株式會社東京石川島造船所|同|朝霧(アサギリ)|佐世保海軍工廠』</ref>、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]<ref name="軍艦2600天霧">[[#軍艦集2600|日本軍艦集2600年版]]コマ43(原本56頁)『一等驅逐艦 天霧(あまぎり) 基準排水量1,700噸、長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2,97米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管9門、起工昭和3年11月28日、進水昭和5年2月27日、竣工昭和5年11月10日、建造所石川島造船所 ― 所謂特型驅逐艦で、同型計23隻、この中 霧級 には天霧のほかに、'''朝霧'''、'''夕霧'''、'''狭霧'''の三隻がある。』</ref>。
|-
[[海軍省]]が定めた艦艇類別等級では[[吹雪型駆逐艦]]に属する<ref name="S11.12艦艇類別p2">[[#艦船(昭和11年12月1日現在)]]p.2〔別表〕『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|吹雪型|吹雪、白雪、初雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、天霧、狭霧、夕霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、朝霧』(註:4番艦の深雪は除籍済み)』</ref>。
|航続距離||14ktで5,000浬

|-
== 概要 ==
|乗員||219名
一等駆逐艦'''天霧'''(あまぎり)は、[[吹雪型駆逐艦]]の13番艦<ref name="S11.12艦艇類別p2" /><ref name="吹雪型24隻">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ64-66(原本88-92頁)、大正15年11月29日(内令238)、第35号型(第35,36,37,38,39,40,41,42,43号)制定。同書コマ66(原本92頁)、昭和2年4月26日(内令143)、「第44号」追加。同書コマ66(原本92頁)、昭和2年10月20日(内令341)、「第45号」追加。同書コマ66(原本92-93頁)、昭和3年6月20日(内令160、8月1日施行)、吹雪型(吹雪、白雪、初雪、深雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波)に名称変更。同書コマ66(原本93頁)、昭和3年8月6日(内令212)、「敷波」追加。同書コマ66(原本93頁)、昭和3年9月11日(内令254)、「天霧」「朝霧」追加。同書コマ66(原本93頁)、昭和3年11月23日(内令323)、「狭霧」追加。同書コマ66(原本93頁)、昭和3年12月11日(内令356)、「夕霧」追加。同書コマ67(原本94頁)、昭和4年6月20日(内令177)、「朧」追加。同書67(原本94頁)、昭和4年9月20日(内令222)、「曙」「漣」「潮」追加。同書67(原本94頁)、昭和5年3月15日(内令43)、「暁」「響」「雷」「電」追加。</ref>。
|-
吹雪型駆逐艦の15番艦とする見解・資料もある<ref>[[#歴群18|歴史群像太平洋戦史シリーズ18、特型]]19頁(狭霧写真解説)</ref><ref name="S6艦船要目公表範囲">[[#海軍制度沿革(巻11、1940)]]コマ574(原本1096-1097)、昭和6年4月29日(内令79)艦船要目公表範囲</ref>。
|兵装||50口径12.7cm連装砲 3基6門<br />13mm単装機銃 2挺<br />61cm3連装[[魚雷発射管]] 3基
特型駆逐艦としてはII型<ref>[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]235頁『四種の艦型にわけられる"特型"』</ref>。
|}
霧級(きりクラス)の1隻<ref name="軍艦2600天霧" /><ref>[[#P年鑑1937|ポケット海軍年鑑(1937)]]コマ48(原本78頁)『一等驅逐艦"狭霧 さぎり"  全要目{排水量1,700噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工昭和4年3月 竣工昭和6年1月 建造所浦賀船渠會社} 特型驅逐艦はわが海軍驅逐艦の中堅主要部隊である。わが驅逐艦名のゆかしさは世界に比類のない、外國の追随を許さぬ詩的なものであるが、"吹雪"より始る特型驅逐艦は "吹雪 ふぶき" "初雪 はつゆき" "白雪 しらゆき" 雪級3隻(深雪が除籍された) 雲級4隻 "浦波 うらなみ" "磯波 いそなみ" "綾波 あやなみ" "敷波 しきなみ" 波級4隻 "天霧 あまぎり" "朝霧 あさぎり" "夕霧 ゆうぎり" 霧級4隻 外に"朧" "曙"等一文字名のものが8隻、合計23隻で各大體4隻づゝをもつて驅逐隊一隊を編制、時には水雷戰隊となり、或ひは航空戰隊に加はり、また警備戰隊に入つて活躍する。』</ref>。
</div>
天霧は[[石川島造船所]]において、[[1927年]](昭和3年)11月に起工、[[1930年]](昭和5年)2月27日に進水<ref name="艦船要目天霧" />、同年11月に竣工<ref name="軍艦2600天霧" /><ref>[[#幕末史実|幕末以降帝国海軍軍艦写真と史実]]コマ160(原本251頁)『<ins>吹雪型(十六隻)</ins> <ins>艦種</ins>一等驅逐艦 <ins>艦名考</ins>風波等気象に採る。(略)天霧 (起工)昭和3-11-28 (進水)5-2-27 (竣工)5-11-10 (建造所)石川島造船所』</ref>。
'''天霧'''(あまぎり)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]。[[吹雪型駆逐艦|吹雪型]](特型)の15番艦(綾波型の5番艦)[[石川島造船所]]で[[1928年]](昭和3年)[[11月28日]]に起工、[[1930年]](昭和5年)[[2月27日]]進水、[[1930年]](昭和5年)[[11月10日]]竣工。[[太平洋戦争]]中の[[1944年]](昭和19年)[[4月23日]]に触雷し沈没した。

[[1941年]](昭和16年)12月の大東亜戦争開戦時、霧級4隻(天霧、朝霧、夕霧、狭霧)は引き続き'''第20駆逐隊'''(第三水雷戦隊所属)を編成しており、[[南方作戦]]([[マレー作戦]]、[[蘭印作戦]])に従事した<ref name="陽炎型2014朝霧">[[#陽炎型(2014)]]280頁『朝霧(あさぎり)』</ref><ref name="陽炎型2014天霧">[[#陽炎型(2014)]]280頁『天霧(あまぎり)』</ref>。
[[1942年]](昭和17年)3月の[[セイロン沖海戦|インド洋通商破壊作戦]]、6月上旬の[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]](戦艦部隊護衛)<ref name="叢書四三188" />に従事する。
同年[[8月28日]]、第20駆逐隊は[[ガダルカナル島の戦い]]に伴う輸送作戦従事中に空襲を受け<ref>[[#第八艦隊日誌(1)]]p.60『二十八日(天候略)一木川口支隊ノ第一回増援隊発進シタルモ敵機空襲ニ依リ中止朝霧沈没夕霧白雲大破ス』</ref>、僚艦[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]が沈没<ref name="陽炎型2014朝霧" />、[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]<ref name="陽炎型2014白雲">[[#陽炎型(2014)]]275頁『白雲(しらくも)』</ref>と[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]<ref name="陽炎型2014夕霧">[[#陽炎型(2014)]]280-281頁『夕霧(ゆうぎり)』</ref>が損傷、のちに解隊された<ref name="S17内令1824" />。
健在だった天霧は、重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]([[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]旗艦)や睦月型駆逐艦[[望月 (駆逐艦)|望月]]等と共に[[ガダルカナル島]]周辺の作戦に参加([[ヘンダーソン基地艦砲射撃|ヘンダーソン飛行場砲撃]]、[[第三次ソロモン海戦]]等)。また外南洋部隊増援部隊として[[鼠輸送|駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)]]に<ref name="陽炎型2014天霧" />、挺身輸送隊として[[蟻輸送|大発動艇輸送作戦(蟻輸送)]]にも従事した<ref name="叢書八三183" />。

[[1943年]](昭和18年)2月25日、霧級2隻(天霧、夕霧)は'''第11駆逐隊'''に編入される<ref name="S18内令312号" />。天霧は外南洋部隊の僚艦(駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[望月 (駆逐艦)|望月]]等)と共に[[ソロモン諸島]]各地への輸送作戦、[[ニュージョージア島の戦い|ニュージョージア島攻防戦]]や[[ブーゲンビル島の戦い|ブーゲンビル島攻防戦]]に伴う数々の作戦および海戦に参加。
8月2日には、[[ジョン・F・ケネディ]]中尉(のちアメリカ大統領)が指揮する[[魚雷艇]]を衝突により撃沈した<ref name="陽炎型2014天霧" /><ref>[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]173頁(天霧写真解説より)</ref>。同時期、ソロモン海で行動中の第11駆逐隊僚艦(白雪、初雪、夕霧)は次々に撃沈され、第11駆逐隊は12月15日附で解隊された<ref name="S18内令2688" />。この直前、天霧は駆逐艦[[秋風 (駆逐艦)|秋風]]に衝突<ref name="叢書九六442" /><ref name="S1812三水戦(1)36" />。艦首を損傷し<ref name="S1812三水戦(2)29" />、内地にもどった<ref name="S1812三水戦(1)11" />。

[[1944年]](昭和19年)[[1月15日]]に呉到着後、修理に従事<ref>[[#S18.12三水戦日誌(6)]]p.65〔昭和19年1月〕『一五(天候略)一.天霧一二三〇呉着(以下略)(略)二.天霧呉ニテ修理ニ從事ス』</ref>。2月末に修理完了後、船団護衛任務に従事<ref>[[#S19.02三水戦日誌(1)]]p.22『10.任務實施概要及成果(略)天霧|自二.二九|南西方面行船團護衛』</ref>。
[[3月1日]]、天霧は'''第19駆逐隊'''に編入される<ref name="S19内令388" />。シンガポールに進出後の[[4月23日]]<ref name="陽炎型2014天霧" />、第十六戦隊([[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[大井 (軽巡洋艦)|大井]])と共に輸送作戦従事中、天霧はマカッサル海峡で[[機雷]]に触雷、沈没した<ref name="青葉行動">[[#ハンディ11|ハンディ判艦艇写真集11巻]]p.104(重巡洋艦『青葉』行動年表)</ref><ref name="木俣軽巡521">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]521-522頁『渾作戦と第十六戦隊(六月)』</ref>。

艦名は[[海上自衛隊]]の護衛艦[[あまぎり (護衛艦)|あまぎり]]に引き継がれた。


==艦歴==
==艦歴==
=== 建造 ===
「天霧」は[[1935年]](昭和10年)9月26日、第四艦隊に所属して演習のため[[三陸]]沖を航行中、[[台風]]により小破した。この時は第四艦隊に所属していたほかの艦もほとんどが損傷した([[第四艦隊事件]])。
[[1928年]](昭和3年)[[9月11日]]、建造予定の[[巡洋艦|一等巡洋艦]]1隻、[[砲艦]]2隻、[[駆逐艦]]2隻に、それぞれ[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]<ref>[[#達昭和3年9月]]p.15『達第百三十一號 艦艇製造費ヲ以テ昭和三年度ニ於テ建造ノ一等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和三年九月十一日 海軍大臣 岡田啓介|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 摩耶(マヤ)』</ref><ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ203(原本366頁)『◎一等巡洋艦摩耶命名ノ件』</ref>、砲艦[[熱海 (砲艦)|熱海]]と[[二見 (砲艦)|二見]]<ref name="S3達132号" />、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]](アマギリ)と[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]](アサギリ)の艦名が与えられた<ref name="S3達132号" /><ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ203(原本366頁)『◎砲艦熱海二見及驅逐艦天霧朝霧命名ノ件』</ref>。
同日附で、各艦(摩耶、熱海、二見、天霧、朝霧)は艦艇類別等級表の各項目に類別される(天霧と朝霧は吹雪型駆逐艦)<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ66(原本93頁)『昭和三年九月十一日(内令二五四)艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 別表巡洋艦一等妙高型ノ項「鳥海」ノ下ニ「、摩耶」ヲ加フ/同砲艦二等勢多型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |熱海型|熱海、二見| 同驅逐艦一等吹雪型ノ項「敷波」ノ下ニ「、天霧、朝霧」ヲ加フ』</ref>。
天霧は、[[石川島造船所|東京石川島造船所]]で同年[[11月28日]]に起工<ref name="軍艦2600天霧" /><ref name="艦船要目天霧">[[#艦船要目(昭和11年12月1日現在)]]p.5『天霧|一等驅逐艦|(要目略)|石川島造船|3-11-28|5-2-27|5-11-10|(装備略)』</ref>。


[[1930年]](昭和5年)[[2月27日]]午後4時35分<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070326100|昭和5年2月28日(金)海軍公報 931号 p.1}}『○驅逐艦進水 株式會社東京石川島造船所ニ於テ建造ノ驅逐艦天霧本月二十七日午後四時三十五分進水セリ』</ref><ref>[[#進水]]p.3『〔軍務局〕五、二、二七、一七二〇 一七二五 中央局 築島発 着(九三一)第一課長 局員 石川島造船所 大臣、電報.天霧本日午後四時三十五分無事進水終了セリ 右 御報告ス.二十七日』</ref>、天霧は進水<ref name="軍艦2600天霧" /><ref>[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]166頁(天霧艤装中写真解説)</ref>。
[[1937年]](昭和12年)からは[[支那事変]]や[[仏印進駐]]に参加した。[[1941年]]12月太平洋戦争開戦により「天霧」は[[マレー半島]]の[[シンゴラ]]、[[コタバル]]上陸作戦を支援した。[[1942年]]1月27日にはマレー半島南部[[エンドウ]]沖で日本軍の船団を攻撃すべく出撃してきた英駆逐艦「[[サネット_(駆逐艦)|サネット]]」、豪駆逐艦「[[ヴァンパイア (駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]]」を軽巡洋艦「[[川内_(軽巡洋艦)|川内]]」、駆逐艦「[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]」、「[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]」、「[[初雪_(吹雪型駆逐艦)|初雪]]」、「[[夕霧_(吹雪型駆逐艦)|夕霧]]」、「[[朝霧_(吹雪型駆逐艦)|朝霧]]」と攻撃して「サネット」を撃沈した([[エンドウ沖海戦]])。その後も「天霧」は[[スマトラ島]]や[[アンダマン諸島]]攻略作戦などの支援に当たった。
6月20日、日本海軍は[[帖佐敬吉]]中佐(当時、駆逐艦[[羽風 (駆逐艦)|羽風]]艦長)を天霧艤装員長に任命する<ref name="kp1042">[{{NDLDC|2957509/4}} 昭和5年6月21日(土)官報第1042号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ4(原本547)帖佐補職、新美和貴少佐(補羽風艦長)</ref>。
7月2日、東京石川島造船所の天霧艤装員事務所は、事務を開始<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070327800|昭和5年7月4日(金)海軍公報 1033号 p.8}}『○事務所設置 軍艦愛宕艤装員事務所ヲ呉海軍工廠内ニ設置シ六月三十日ヨリ事務ヲ開始セリ|○事務所設置 驅逐艦天霧艤装員事務所ヲ株式會社東京石川島造船所内ニ設置シ本月二日ヨリ事務ヲ開始セリ』</ref>。
10月8日からしばらくの間、天霧艤装員事務所は[[横須賀海軍工廠]]内に移転<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070328600|昭和5年10月8日(水)海軍公報 1114号 p.30}}『○郵便物發送先 驅逐艦天霧艤装員事務所宛 十月二十六日迄ニ到達見込ノモノハ 横須賀 其ノ後ハ 東京石川島|○假事務所設置 驅逐艦天霧艤装員事務所ヲ一時横須賀海軍工廠内ニ設置シ 自十月八日 至同二十七日 執務ス』</ref>。
[[11月10日]]<ref name="写真10天霧年表">[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]254-255頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇天霧◇〕</ref>、天霧は竣工<ref name="S6艦船要目公表範囲" /><ref name="艦船要目天霧" />。
帖佐敬吉中佐は初代の天霧駆逐艦長となる<ref name="kp1161" />。主要初代幹部は、砲術長[[藤岡勝夫]]大尉、水雷長[[岡本次郎]]大尉、航海長[[山中秀夫]]大尉、機関長[[大重静]]機関大尉<ref name="kp1161">[{{NDLDC|2957628/6}} 昭和5年11月11日(火)官報第1161号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ6(原本191)</ref>。竣工と共に、天霧艤装員事務所は撤去された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070328900|昭和5年11月11日(火)海軍公報 1140号 p.30}}『○事務所撤去 驅逐艦天霧艤装員事務所ヲ株式會社東京石川島造船所内ニ設置中ノ處本月十日撤去セリ』</ref>。


=== 太平洋戦争開戦まで ===
[[1942年]](昭和17年)4月、日本軍は[[インド洋]]のイギリス艦隊攻撃のため空母機動部隊をインド洋に[[セイロン沖海戦|出撃]]させた。これに呼応して[[ベンガル湾]]で[[通商破壊]]作戦が行われ、「天霧」もそれに参加した。作戦部隊は3つに分けられ、「天霧」は重巡洋艦「[[三隈_(重巡洋艦)|三隈]]」、「[[最上_(重巡洋艦)|最上]]」とともに4月6日商船5隻を沈めた。
[[1930年]](昭和5年)[[12月1日]]、天霧と姉妹艦[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]](昭和5年6月30日竣工)<ref name="S6艦船要目公表範囲" /><ref name="写真10朝霧年表">[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]254頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇朝霧◇〕</ref>により、'''第8駆逐隊'''が編成される([[横須賀鎮守府]]籍)<ref name="S5内令229">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]原本94-95、昭和5年12月1日(内令229)</ref><ref>[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]167頁(天霧写真解説より)</ref>。初代の第8駆逐隊司令は、[[郷田喜一郎]]大佐<ref name="kp1179">[{{NDLDC|2957646/9}} 昭和5年12月2日(火)官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ9(原本49)</ref>。
郷田司令は、初代の司令駆逐艦を天霧に指定した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070329400|昭和5年12月9日(火)海軍公報 1164号 pp.1-2}}『○司令驅逐艦指定 第八驅逐隊司令ハ本月六日司令驅逐艦ヲ天霧ニ指定セリ』</ref>。
12月3日、姉妹艦[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]が[[舞鶴海軍工廠]]で竣工する<ref name="S6艦船要目公表範囲" /><ref name="写真10夕霧年表">[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]255頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇夕霧◇〕</ref>。夕霧は同日附で第8駆逐隊に編入され、8駆は吹雪型3隻(天霧、朝霧、夕霧)となる<ref>[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]158頁(狭霧写真解説より)</ref><ref name="S5内令265">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]原本95、昭和5年12月3日(内令265)</ref>。


1931年(昭和6年)1月31日、姉妹艦[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]]が[[浦賀船渠]]で竣工<ref name="S6艦船要目公表範囲" /><ref name="写真10狭霧年表">[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]255頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇狭霧◇〕</ref>。狭霧は同日附で第8駆逐隊に編入され、8駆は定数4隻(天霧、朝霧、夕霧、狭霧)を揃えた<ref name="S6内令9">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]原本95、昭和6年1月31日(内令9)</ref>。
その後日本に戻った「天霧」は5月29日[[ミッドウェー島]]攻略作戦のため戦艦「[[大和_(戦艦)|大和]]」、「[[長門_(戦艦)|長門]]」などからなる主力部隊に所属して[[瀬戸内海]][[柱島]]を出撃した。6月5日から7日にかけて行われた[[ミッドウェー海戦]]では日本軍は空母4隻を失って敗北した。
12月1日、第二艦隊・第二水雷戦隊に編入<ref name="S6内令214">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]原本49、昭和6年12月1日(内令214)</ref>。だが狭霧は第8駆逐隊から除かれ<ref name="写真10狭霧年表" />、8駆は3隻(天霧、朝霧、夕霧)編制となった(翌年より[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]]、[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]、[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]で第10駆逐隊を編成)<ref name="海軍制度4巻68">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]p.68『昭和六、一二、一(内令二一五)|横須賀鎮守府|第二艦隊|第八驅逐隊|天霧、朝霧、夕霧|昭和六、一二、一(内令二一五)驅逐隊編制本表ノ通改定セラル(略)昭和七、五、一九(内令一六七)横鎮ノ部隊第九驅逐隊ノ次ニ第十驅逐隊(狭霧、漣)ヲ加フ/(略)/昭和七、一一、三〇(内令三七〇)第十驅逐隊ニ暁ヲ加フ』</ref>。
同日附で、帖佐敬吉中佐(天霧艦長)は第9駆逐隊司令へ転任<ref name="kp1478" />。広瀬末人中佐(当時、海軍水雷学校教官)が天霧駆逐艦長となる<ref name="kp1478">[{{NDLDC|2957946/11}} 昭和6年12月2日(水)官報第1478号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ11(原本52)</ref>。


1932年(昭和7年)5月16日、広瀬末人中佐(天霧艦長)は第16駆逐隊司令に任命される<ref name="kp1612" />。[[金桝義夫]]少佐(当時、姉妹艦[[深雪 (駆逐艦)|深雪]]艦長兼[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]艦長)が天霧駆逐艦長に補職<ref name="kp1612" />。[[中原達平]]中佐(当時、姉妹艦[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]艦長)は従来職に加えて深雪艦長と初雪艦長の兼務を命じられ、吹雪型3隻(白雪、深雪、初雪)艦長となった<ref name="kp1612">[{{NDLDC|2958083/5}} 昭和7年5月18日(水)官報第1612号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ5(原本461)</ref>。
8月7日、アメリカ軍は日本軍が飛行場を建設していた[[ソロモン諸島]]の[[ガダルカナル島]]などへ上陸し占領した。[[第二次ソロモン海戦]]で日本軍は輸送船によるガダルカナル島への増援部隊の輸送に失敗し、その後は駆逐艦による輸送を行うようになった。「天霧」も8月以降何度もガダルカナル島への輸送に従事した。10月13日、日本軍は戦艦「[[金剛_(戦艦)|金剛]]」、「[[榛名_(戦艦)|榛名]]」によりガダルカナル島[[ヘンダーソン基地艦砲射撃|ヘンダーソン飛行場砲撃]]をおこなった。その翌日「天霧」は重巡洋艦「[[鳥海_(重巡洋艦)|鳥海]]」、「[[衣笠_(重巡洋艦)|衣笠]]」、駆逐艦「[[望月_(駆逐艦)|望月]]」とともに2度目の飛行場砲撃を行った。
12月1日附で、[[中原達平]]中佐(白雪および深雪艦長)は駆逐艦[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]艦長へ転任<ref name="kp1778" />。金桝義夫中佐(天霧艦長)は[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]駆逐艦長に、[[大森正直]]中佐(当時、姉妹艦[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]艦長)が[[深雪 (駆逐艦)|深雪]]駆逐艦長に、それぞれ補職<ref name="kp1778" />。日本海軍は[[博義王|伏見宮博義王]]少佐(当時、駆逐艦[[沖風 (駆逐艦)|沖風]]艦長)を、天霧駆逐艦長に任命した<ref name="kp1778">[{{NDLDC|2958249/9}} 昭和7年12月2日(金)官報第1778号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ9(原本49)金桝免職、コマ10(原本50)博義王補職</ref>。


1933年(昭和8年)10月11日、[[博義王]]少佐(天霧艦長)は海軍大学校選科学生となり、天霧を離れる<ref name="kp2029" />。[[佐藤俊美]]中佐(当時、駆逐艦[[菊月 (睦月型駆逐艦)|菊月]]艦長)が天霧艦長に、[[鈴木田幸造]]中佐(当時、第23駆逐隊司令)が23駆司令と菊月艦長の職務を兼務した<ref name="kp2029">[{{NDLDC|2958507/4}} 昭和8年10月11日(水)官報第2035号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ4(原本259)</ref>。
[[1943年]](昭和18年)2月、日本軍はガダルカナル島から撤退([[ケ号作戦]])し戦場はソロモン諸島中部に移っていった。7月5日にはアメリカ軍は[[ニュージョージア島]]に上陸した。同日「天霧」は[[コロンバンガラ島]]への増援部隊の輸送のため駆逐艦「[[新月_(駆逐艦)|新月]]」等と共に[[ショートランド]]を出撃した。コロンバンガラ島沖で日本艦隊はアメリカ軍の軽巡洋艦3隻、駆逐艦4隻からなる艦隊に攻撃され「新月」が集中攻撃を受けて沈没した。「天霧」はアメリカ艦隊に対し雷撃を行うが命中せず、その後コロンバンガラ島への揚陸を行って帰投中に米駆逐艦「[[ニコラス (DD-449)|ニコラス]]」、「[[ラドフォード_(DD-446)|ラドフォード]]」の攻撃を受けて損傷した。この時も魚雷を発射したが命中はしていない([[クラ湾夜戦]])。
11月15日、第8駆逐隊は第二水雷戦隊から外れる<ref name="S8内令351">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]原本53-55、昭和8年11月15日(内令351)</ref>。12月11日より、横須賀警備戦隊所属となる<ref name="S8内令403">[[#海軍制度沿革4-1(1971)]]原本59-60、昭和8年12月11日(内令403)</ref>。


1935年(昭和10年)9月26日、第四艦隊に所属して演習のため[[三陸]]沖を航行中、[[台風]]により小破した。この時は第四艦隊に所属していたほかの艦もほとんどが損傷した([[第四艦隊事件]])。10月15日、佐藤俊美中佐(天霧艦長)は装甲巡洋艦[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]副長へ転任<ref name="kp2638" />。[[中川浩]]中佐(当時、姉妹艦[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]]艦長)が、後任の天霧駆逐艦長に補職される<ref name="kp2638">[{{NDLDC|2959117/3}} 昭和10年10月16日(水)官報第2638号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ3(原本432)佐藤免職・中川補職・[[森可久]]少佐(潮駆逐艦長)兼補朧駆逐艦長</ref>。
8月1日、「天霧」はコロンバンガラ島への輸送作戦で駆逐艦「[[萩風_(駆逐艦)|萩風]]」等と共に[[ブーゲンビル島]][[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]を出撃し、2日[[ブラケット海峡]]で魚雷艇「[[:en:Motor Torpedo Boat PT-109|PT-109]]」(艇長:[[ジョン・F・ケネディ]]中尉・後に第35代[[アメリカ合衆国大統領]])と衝突、沈没させた。
10月24日、損傷した夕霧は第8駆逐隊から除籍、8駆は吹雪型2隻(天霧、朝霧)になった<ref name="S10内令412">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]原本101、昭和10年10月24日(内令412)</ref>。
11月15日、第二艦隊・第二水雷戦隊に編入<ref name="S10内令458">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]原本57-58、昭和10年11月15日(内令458)</ref>。


1936年(昭和11年)12月1日、夕霧の復帰により第8駆逐隊は3隻(天霧、朝霧、夕霧)に戻る<ref name="S11内令471">[[#海軍制度沿革4-1(1971)]]原本104、昭和11年12月1日(内令471)</ref>。
11月1日、アメリカ軍はソロモン諸島西部のブーゲンビル島に上陸した。日本軍は逆上陸を企図し重巡洋艦「[[妙高_(重巡洋艦)|妙高]]」、「[[羽黒_(重巡洋艦)|羽黒]]」などからなる艦隊を[[ラバウル]]から出撃させた。「天霧」は輸送隊として出撃したが途中で上陸作戦は中止となったため、「天霧」を含む輸送隊は引き返すことになった。残りの艦隊はブーゲンビル島[[エンプレス・オーガスタ湾]]でアメリカ軍の艦隊と交戦し軽巡洋艦「[[川内_(軽巡洋艦)|川内]]」、駆逐艦「[[初風_(駆逐艦)|初風]]」を失う敗北を喫した([[ブーゲンビル島沖海戦]])。
同日附で、中川浩中佐(天霧艦長)は第16駆逐隊司令へ転任<ref name="kp2976" /><ref name="S11.12.01辞令号外">{{アジア歴史資料センター|C12070358600|昭和11年12月1日(火)海軍辭令公報號外}}p.27中川(補16dg司令)、p.29松原(補朝霧兼天霧艦長)・橘(補川内副長)</ref>。橘正雄中佐(朝霧艦長)は軽巡洋艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]副長へ転任<ref name="kp2976" /><ref name="S11.12.01辞令号外" />。海軍は[[松原博]]中佐(当時、海軍艦政本部出仕兼海軍省軍務局局員)に対し、天霧艦長と朝霧艦長の兼務を命じた<ref name="kp2976">[{{NDLDC|2959458/22}} 昭和11年12月2日(水)官報第2976号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ22(原本74)中川免職・(原本75)松原補職・橘免職</ref><ref name="S11.12.01辞令号外" />。
12月12日、[[原為一]]少佐(当時、駆逐艦[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]艦長)が天霧艦長に補職される<ref name="kp2986" />。松原博中佐(朝霧艦長兼天霧艦長)の職務は、朝霧駆逐艦長のみとなった<ref name="kp2986">[{{NDLDC|2959468/5}} 昭和11年12月14日(月)官報第2986号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ5(原本440)松原免職・原補職・[[磯久研磨]]少佐(補長月艦長)</ref>。


[[1937年]](昭和12年)からは[[支那事変]]や[[仏印進駐]]に参加した。
11月24日、「天霧」は駆逐艦「[[大波_(駆逐艦)|大波]]」、「[[巻波_(駆逐艦)|巻波]]」、「[[夕霧_(吹雪型駆逐艦)|夕霧]]」、「[[卯月_(睦月型駆逐艦)|卯月]]」と共に、ブーゲンビル島の北西にある[[ブカ島]]への兵員、物資輸送のためラバウルを出撃した。揚陸後帰投中に米駆逐艦3隻の攻撃を受け日本軍は駆逐艦3隻を失ったが「天霧」は離脱に成功した([[セント・ジョージ岬沖海戦]])。
12月1日、日本海軍は建造中の朝潮型駆逐艦[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]艤装員長だった[[阿部俊雄]]中佐を、駆逐艦[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]艦長に任命する<ref name="jirei99" />。原為一少佐(天霧駆逐艦長)は、阿部の後任として[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]艤装員長となる<ref name="jirei99" />。原少佐の後任として、[[中原義一郎]]少佐(当時、駆逐艦[[汐風 (駆逐艦)|汐風]]艦長)が天霧駆逐艦長に補職された<ref name="jirei99">{{アジア歴史資料センター|C13072072700|昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(号外)第99号 p.28阿部免職、p.34原免職・中原補職}}</ref>。


1939年(昭和14年)11月1日、日本海軍は駆逐隊の名称を変更する<ref name="海軍公報部内限3349" />。[[朝潮型駆逐艦]]4隻([[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]])で編制されていた第25駆逐隊を第8駆逐隊と改名<ref name="海軍公報部内限3349">{{アジア歴史資料センター|C12070381800|昭和14年11月1日(水)海軍公報(部内限)第3349号 p.1}}『官房第五五八七號 本月十一月一日驅逐隊編制中改正竝ニ海軍定員令中改正施行ノ際現ニ左記上欄ノ隊ノ職員タル者ハ別ニ辭令ヲ用ヒズシテ各下欄ノ相當職員ニ補セラレタル義ト心得ベシ 昭和十四年十一月一日 海軍大臣』-『(従前ノ隊名)第八驅逐隊|(新隊名)第二十驅逐隊』-『第二十五驅逐隊|第八驅逐隊』-『呉防備隊|佐伯防備隊』</ref>。
12月7日、「天霧」は[[ニューアイルランド島]][[カビエン]]の近くで駆逐艦「[[秋風_(駆逐艦)|秋風]]」と衝突し損傷した。日本に戻り修理後「天霧」は東南アジア方面で行動し、[[1944年]](昭和19年)4月23日[[マカッサル海峡]]で触雷沈没した。
吹雪型3隻([[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、天霧)の第8駆逐隊を'''第20駆逐隊'''に改称([[呉鎮守府]]に転籍)<ref name="海軍公報部内限3349" /><ref>[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]157頁(朝霧写真解説より)</ref>。呉鎮守府予備艦となった。11月15日附で、第20駆逐隊司令は[[小柳冨次]]大佐<!-- 海軍水雷学校教頭 -->から[[藤田俊造]]大佐<!-- 第29駆逐隊司令 -->に交代する<ref name="jirei402">{{アジア歴史資料センター|C13072076700|昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.30小柳免職、p.35藤田補職}}</ref>。


1940年(昭和15年)5月1日、第20駆逐隊は第一艦隊・第三水雷戦隊に転属。
6月10日、除籍。
8月1日、狭霧(元第10駆逐隊)が第20駆逐隊に編入され、同隊は吹雪型定数4隻(朝霧、夕霧、天霧、狭霧)となった<ref>[[#20dg第8回功績|支那事変第8回功績、第20駆逐隊]]p.2『狭霧 昭和十五年八月一日第二十驅逐隊ニ編入サル』</ref><ref>[[#20dg第8回功績|支那事変第8回功績、第20駆逐隊]]p.4『狭霧|功勞甲|自八月一日至八月三日|昭和十五年八月一日第二十驅逐隊ニ編入サレ浦賀 呉ニテ出師準備』</ref>。
8月11日、天霧は臨時に[[遣支艦隊#第二遣支艦隊|第二遣支艦隊]]旗艦となった(同日、重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]に復帰)<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070389500|昭和15年8月14日(水)海軍公報(部内限)3579号 p.9}}『○将旗一時移揚 第二遣支艦隊司令長官ハ八月十一日将旗ヲ一時天霧ニ移揚同日鳥海ニ復歸セリ』</ref>
9月1日、[[中原義一郎]]中佐(天霧駆逐艦長)は建造中の陽炎型駆逐艦[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]艤装員長へ転任<ref name="jirei521" />。[[蘆田部一]]少佐(当時、駆逐艦[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]艦長)が天霧駆逐艦長となる<ref name="jirei521">{{アジア歴史資料センター|C13072078800|昭和15年9月2日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第521号 p.2中原免職・蘆田補職・中俣勇少佐([[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]駆逐艦長)兼補長月駆逐艦長}}</ref>。
同時期、第三水雷戦隊(旗艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]])は[[仏印進駐|北部仏印進駐]]にともなう陸軍輸送船団護衛任務に従事した<ref>[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]39頁</ref>。

[[1941年]](昭和16年)8月11日附で、第20駆逐隊司令は藤田俊造大佐<!-- 補鶴見特務艦長 -->から[[山田雄二]]中佐<!-- 第23駆逐隊司令 -->に交代する<ref name="jirei688">{{アジア歴史資料センター|C13072081700|昭和16年8月11日(発令8月11日付)海軍辞令公報(部内限)第688号 p.23藤田免職、p.25山田補職}}</ref>。

=== 太平洋戦争緒戦 ===
[[1941年]](昭和16年)12月8日の太平洋戦争([[大東亜戦争]])開戦時、第三水雷戦隊は[[マレー半島]]の[[シンゴラ]]、[[コタバル]]上陸作戦を支援した。
12月24日、[[ボルネオ島]]攻略作戦従事中の姉妹艦[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]](第20駆逐隊)が沈没する<ref name="写真10狭霧年表" /><ref>[[#陽炎型(2014)]]281頁『狭霧(さぎり)』</ref>(翌年1月15日、第20駆逐隊より削除)<ref name="S17内令69">[[#S17.1-3内令1巻/昭和17年1月(2)]]画像15-16『内令第二千百五十九號 驅逐隊編成中左ノ通改定セラル 昭和十七年一月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十二驅逐隊ノ項中「東雲、」ヲ削ル 第二十驅逐隊ノ項中「、狭霧」ヲ削ル 第二十九驅逐隊ノ項中「疾風、」ヲ削ル 第三十驅逐隊ノ項中「如月、」ヲ削ル』</ref>。

[[1942年]](昭和17年)1月27日、マレー半島南部[[エンドウ]]沖で日本軍の船団を攻撃すべく出撃してきた英駆逐艦「[[サネット_(駆逐艦)|サネット]]」、豪駆逐艦「[[ヴァンパイア (駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]]」を、第三水雷戦隊(軽巡[[川内_(軽巡洋艦)|川内]]《旗艦》、第11駆逐隊《[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]、[[初雪_(吹雪型駆逐艦)|初雪]]》、第20駆逐隊《天霧、[[夕霧_(吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[朝霧_(吹雪型駆逐艦)|朝霧]]》)として迎撃、協同でサネットを撃沈した([[エンドウ沖海戦]])<ref name="写真10朝霧年表" />。その後も第三水雷戦隊は[[スマトラ島]]や[[アンダマン諸島]]攻略作戦などの支援作戦に従事した<ref name="写真10夕霧年表" />。

3月10日附で第12駆逐隊は解隊され<ref name="陽炎型2014白雲" />、同駆逐隊所属だった姉妹艦[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]が第20駆逐隊に編入される<ref name="S17内令413号">[[#内令昭和17年3月(1)]]p.35『内令第四百十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、叢雲」ヲ加フ |第十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「夕霧」ノ下ニ「、白雲」ヲ加フ』</ref><ref name="写真10白雲年表">[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]252頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇白雲◇〕</ref>。第20駆逐隊は定数4隻(天霧、朝霧、夕霧、白雲)を揃えた<ref name="S17内令413号" />。
4月、日本軍は[[インド洋]]のイギリス艦隊攻撃のため[[第一航空艦隊|南雲機動部隊]]をインド洋に[[セイロン沖海戦|出撃]]させた。馬來部隊指揮官[[小沢治三郎]]中将は、これに呼応して[[ベンガル湾]]で[[通商破壊]]作戦を行うことを決定する<ref name="叢書二六635">[[#叢書26|海軍進攻作戦(蘭印)]]635-638頁『馬來部隊』</ref>。作戦部隊は3つに分けられ、「天霧」は南方隊に所属する<ref name="叢書二六635" />。南方隊は三隈艦長[[崎山釈夫]]大佐が指揮し、重巡洋艦2隻([[三隈_(重巡洋艦)|三隈]]、[[最上_(重巡洋艦)|最上]])、駆逐艦1隻(天霧)という編成だった<ref name="叢書二六635" />。ベンガル湾での一連の作戦で、南方隊は商船5隻を沈めた<ref>[[#叢書26|海軍進攻作戦(蘭印)]]669頁(戦果総合表)</ref>。4月10日附で、鳥海・第七戦隊・第三水雷戦隊・龍驤・由良は馬來部隊から除かれた<ref>[[#叢書26|海軍進攻作戦(蘭印)]]668頁</ref>。

4月下旬、第三水雷戦隊各隊・各艦は内地に帰投して整備に従事する<ref name="叢書四三193">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]193頁</ref>。各隊が内海西部に集合できたのは5月中旬以降(第19駆逐隊と第20駆逐隊は5月19日)で、水雷戦隊として訓練を行う時間はなかった<ref name="叢書四三193" />。
5月下旬から6月上旬の[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]において、第三水雷戦隊(軽巡《川内》、第11駆逐隊《吹雪、白雪、初雪、叢雲》、第19駆逐隊《磯波、浦波、敷波、綾波》、第20駆逐隊《天霧、朝霧、夕霧、白雲》)は、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将直率の主力部隊(戦艦[[大和_(戦艦)|大和]]、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]])等として行動した<ref name="叢書四三188">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]188-190頁『主力部隊』</ref>。
5月29日、主力部隊は[[瀬戸内海]]を出撃<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]272頁『主力部隊進出』</ref>。
6月4日、アリューシャン方面支援の警戒部隊(指揮官[[高須四郎]]第一艦隊司令長官)は、山本長官直率の主隊と分離する<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]276頁『警戒部隊の分離』</ref>。第20駆逐隊は警戒部隊に所属していた<ref name="叢書四三191" />。警戒部隊は第二戦隊(伊勢、日向、山城、扶桑)、警戒隊(第九戦隊《北上、大井》、第24駆逐隊《海風、江風》、第27駆逐隊《時雨、白露、夕暮》、第20駆逐隊《天霧、朝霧、夕霧、白雲》)、第二補給隊(駆逐艦[[山風 (白露型駆逐艦)|山風]]、給油艦《さくらめんて丸、東亜丸》)という編成だった<ref name="叢書四三191">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]191-192頁『主隊/警戒部隊軍隊区分』</ref>。6月5日から7日にかけて行われた[[ミッドウェー海戦]]で、日本軍は空母4隻と重巡[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]を失って敗北した<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]601頁『水上艦艇の被害』</ref>。6月17日、警戒部隊は横須賀に帰投した<ref name="写真10朝霧年表" /><ref name="写真10夕霧年表" />。その後、桂島泊地に回航された<ref name="写真10白雲年表" />。

6月下旬より、第三水雷戦隊(第20駆逐隊を含む)は[[奄美大島]]周辺で対潜掃蕩に従事する<ref name="写真10朝霧年表" /><ref name="写真10夕霧年表" />。
7月中旬、インド洋方面通商破壊作戦(B作戦)参加のため、台湾・シンガポールを経由して[[マレー半島]]へ移動<ref name="写真10朝霧年表" /><ref name="写真10夕霧年表" />。作戦参加部隊(第七戦隊、第三水雷戦隊、第2駆逐隊、第15駆逐隊)等は8月1日までに{{仮リンク|ベイ (ビルマ)|en|Myeik,_Burma|label=メルギー}}へ進出した<ref name="写真10朝霧年表"/><ref name="写真10白雲年表" />。

=== ガダルカナル島の戦い ===
8月7日、アメリカ軍は日本軍が飛行場を建設していた[[ソロモン諸島]]の[[ガダルカナル島]]などへ上陸し占領した([[ウォッチタワー作戦]])。B作戦中止に伴い、各隊・各艦は[[ソロモン諸島]]への移動を開始する。[[川口清健]]陸軍少将指揮下の[[第18師団 (日本軍)|川口支隊]]のガダルカナル島派遣にあたり、[[連合艦隊]]は第三水雷戦隊に輸送船団(川口支隊乗船中)の護衛を命じた<ref>[[#叢書49|戦史叢書(49)]]521-523頁『川口支隊のガダルカナル島派遣計画』</ref>。第三水雷戦隊の大部分は外南洋部隊(指揮官[[三川軍一]]中将、[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官)に編入されていた<ref>[[#第八艦隊日誌(1)]]p.9『八月二十四日 鳴戸外南洋部隊ノ指揮下ニ入ル/第三水雷戰隊(第十九驅逐隊缺)外南洋部隊ニ編入</ref>。8月23日までに、第20駆逐隊(朝霧、天霧、夕霧、白雲)はトラック泊地に集結した<ref name="写真10朝霧年表"/><ref name="写真10夕霧年表"/><ref name="写真10白雲年表" />。

8月24日、三水戦(川内、朝霧、天霧、夕霧、白雲)は輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸)を護衛してトラック泊地を出撃、ガダルカナル島へ向かう<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]10-11頁〔川口支隊〕</ref>。航海中の8月26日、南東方面部隊(第十一航空艦隊)より輸送船団によるガ島揚陸中止と、駆逐艦によるガ島輸送の命令が出される<ref name="叢書八三21">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]21-22頁『輸送開始と外南洋部隊の延期命令』</ref>。同日夜、{{coor dm|1|5|N|156|53|E|}}地点で川口支隊一個大隊600名は輸送船から20駆(天霧、朝霧、夕霧<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]22頁で[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]とあるが、夕霧の誤記。</ref>、白雲)に移乗、ガ島に向かうことになった。輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸)は川内護衛下でラバウルに向かった<ref name="叢書八三21" />。ところが、南東方面部隊(第十一航空艦隊)と外南洋部隊(第八艦隊)の間で矛盾した命令が出され、増援部隊(第二水雷戦隊)を混乱させる<ref name="叢書八三21" />。
8月28日、第24駆逐隊([[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]《臨時に24駆司令指揮下で行動》)との合同をめざしていた第20駆逐隊(朝霧、天霧、夕霧、白雲)は、夕刻になりインディスペンサブル海峡で[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]11機の空襲を受ける<ref name="叢書八三24">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]24-26頁『第一次輸送の挫折』</ref>。このドーントレスは、ガダルカナル島[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]より飛来した部隊である<ref name="叢書八三27">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]27頁</ref>。一連の空襲により、第20駆逐隊は朝霧沈没、夕霧大破(自力航行可能)<ref name="叢書八三24" />、白雲大破(航行不能)<ref name="叢書八三24" />という損害を受ける<ref>[[#第八艦隊日誌(1)]]p.21『八月二十八日一木川口支隊ノ第一回増援部隊ハ警戒部隊ニ分乗發進シタル所敵機ノ空襲ニ依リ一木支隊増援隊ノ乗艦セル第二〇駆逐隊ハ朝霧沈没夕霧白雲大破ス 此ノ状況ヲ見テ第二十四駆逐隊ハ輸送ヲ断念引返セリ』</ref>。第20駆逐隊司令山田雄二大佐も戦死した(海軍少将へ進級)<ref>{{アジア歴史資料センター|A11115326200|故海軍少将山田雄二位階追陞ノ件}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072087200|昭和17年10月1日(発令8月28日)海軍辞令公報(部内限)第954号 p.1}}</ref>。
無傷だった天霧は朝霧生存者135名を収容、陸兵330名が乗船<ref name="叢書八三30">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]30-31頁</ref>。天霧は航行不能の白雲を曳航し、夕霧の護衛下でショートランド泊地にむかった<ref name="叢書八三24" />。報告を受けた増援部隊指揮官[[田中頼三]]少将(第二水雷戦隊司令官)は駆逐艦[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]を救援に派遣、同艦は8月29日昼頃に3隻(天霧、夕霧、白雲)と合同する<ref name="叢書八三24" />。曲折があったものの、4隻(天霧、陽炎、夕霧、白雲)は8月30日朝にショートランド泊地に到着した<ref name="叢書八三30" />。夕霧と白雲は、応急修理のあと内地に帰投した<ref name="写真10夕霧年表" /><ref name="写真10白雲年表" />。

[[第二次ソロモン海戦]]で日本軍は輸送船によるガダルカナル島への増援部隊の輸送に失敗し、その後は駆逐艦による輸送を行うようになった。また外南洋部隊指揮官(第八艦隊長官[[三川軍一]]中将)は増援部隊指揮官を[[田中頼三]]少将(二水戦)から第三水雷戦隊司令官[[橋本信太郎]]少将に交代させる<ref name="叢書八三31">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]31-33頁『増援部隊指揮官の更迭』</ref>。天霧は、増援部隊の僚艦と共に何度もガダルカナル島への輸送に従事した<ref name="陽炎型2014天霧" />。
まず、輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)が搭載していた物資や野砲を敷設艦[[津軽 (敷設艦)|津軽]]に移載<ref name="叢書八三52">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]52-53頁『九月二日』</ref>。9月1日、5隻(津軽、陽炎、夕暮、[[島風 (峯風型駆逐艦)|哨戒艇1号《旧島風》]]、[[灘風 (駆逐艦)|哨戒艇2号《旧灘風》]])はショートランド泊地を出撃し、2日夜にガ島に物資および兵員を揚陸<ref name="叢書八三52" /><ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.14『陽炎、夕暮、津輕、哨戒一、哨二|九月二日二三三〇/九月二日二三五五|「タイボ」岬ニ輸送物件ヲ揚陸』</ref>。吹雪型3隻([[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]、[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、天霧)も同時にルンガ泊地へ突入、飛行場を砲撃したあと津軽隊の掩護をおこなった<ref name="叢書八三52" /><ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.14『第十一駆(初雪叢雲缺)天霧|九月二日二二五四|「ルンガ」泊地ニ突入敵飛行場ヲ砲撃津輕ノ援護ニ任ズ』</ref>。帰途、空襲により津軽が小破した<ref name="叢書八三52" />。
9月5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)でガ島輸送作戦を実施<ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.14『吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮|九月五日|RXWヘ陸兵二三一名彈藥糧秣ヲ揚陸ス』</ref><ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]55頁『九月五日』</ref>。
9月8日朝、ガ島に米軍輸送船団が出現して上陸戦を敢行、川口支隊は挟撃されて危機に陥った<ref name="叢書八三91">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]91-92頁『敵のタイボ岬上陸』</ref>。増援部隊(第三水雷戦隊旗艦《川内》、第19駆逐隊《浦波、敷波》、第11駆逐隊《吹雪、白雪》、第20駆逐隊《天霧》、第15駆逐隊《陽炎》、第2駆逐隊《夕立》、第27駆逐隊《夕暮》)は1130にショートランド泊地を出撃する<ref name="叢書八三91" />。増援部隊は夜になってルンガ泊地に突入したが、米軍は既に撤収しており、掃海艇2隻を撃破して撤退した(米軍によれば掃海艇1隻被弾座礁)<ref name="叢書八三91" /><ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.15『川内、第十九駆(2D缺) 第十一駆(初雪叢雲缺)陽炎、天霧、夕暮|九月八日|「タイボ」岬ニ敵巡一、駆六、輸送船六出現ノ報ニ依リ直ニ進撃同日二一三〇湾外ニ於テ敵駆一撃沈、一隻大破ス』</ref>。

9月10日以降、ガ島飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応し、外南洋部隊主隊(鳥海)や外南洋部隊支援隊(第六戦隊)もラバウルを出撃する<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]102-103頁『青葉支隊第二次輸送と外南洋部隊の出撃』</ref><ref name="叢書八三103">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]103-104頁『奇襲隊のガ島敵陣地砲撃』</ref>。天霧は重巡4隻(鳥海、青葉、古鷹、衣笠)と行動を共にした<ref name="叢書八三103" /><ref name="叢書八三104">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]104-106頁『青葉支隊第三次輸送』</ref>。9月12日から14日の川口支隊飛行場攻撃は失敗し、各艦・各隊はラバウルやショートランド泊地に戻った<ref name="叢書八三104" />。

総攻撃失敗後も、ガ島に対する日本軍の輸送作戦は続いた<ref name="叢書八三137">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]137-138頁『十六日~十九日』</ref>。9月17日、蘆田中佐(天霧艦長)指揮下の2隻(天霧、漣)はガ島への輸送に成功<ref name="叢書八三137" /><ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.16『漣、天霧|九月十七日|「カミンボ」ニ兵器、彈藥、糧秣ヲ揚陸ス』</ref>。往路で米艦爆3機の空襲を受けたが、特設水上機母艦[[山陽丸 (特設水上機母艦)|山陽丸]]の[[零式観測機]]2機が米艦爆を撃退し、2隻(天霧、漣)に被害はなかった<ref name="叢書八三137" />。
この頃、南東方面部隊(第十一航空艦隊、第八艦隊)は水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]の重火器輸送や、駆逐艦輸送作戦を中止するに至った<ref name="叢書八三165">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]165-167頁『輸送計画の改正』</ref>。日本陸軍、連合艦隊、南東方面部隊が協議した結果、[[大発動艇]]を用いた[[蟻輸送]]を実施することになり、外南洋部隊(第八艦隊)の兵力部署も改正される<ref name="叢書八三165" />。本艦は第四水雷戦隊司令官[[高間完]]少将(旗艦[[由良 (軽巡洋艦)|由良]])を指揮官とする「挺身輸送隊」に所属<ref name="叢書八三165" />。挺身輸送隊は、潜水艦2隻([[伊号第二潜水艦|伊二]]、[[伊号第三潜水艦|伊三]])、駆逐艦2隻(天霧、綾波)という兵力だった<ref name="叢書八三165" /><ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]177頁『輸送再開』</ref>。蟻輸送の出発地点はショートランド泊地で、[[ニュージョージア諸島]]に複数の輸送基地を設置、最後は潜水艦によりガ島まで曳航する計画である<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]184頁『挺身輸送隊航路図』</ref>。
9月26日、天霧は大発動艇4隻を曳航してショートランドを出発したが、外洋のうねりが強かった為に一旦中止<ref name="叢書八三183">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]183-186頁『挺身輸送隊の輸送(蟻輸送)』</ref>。9月27日の再出撃では波浪のため大発動艇1隻が放棄されたが、大発3隻はなんとか[[レンドバ島]]に到着して第一基地を設置した<ref name="叢書八三183" /><ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.17『天霧|九月二十七日|挺身輸送隊員二〇〇名及大發四隻ヲ曳航「レンドバ」着』</ref>。29日から30日にかけて、吹雪型2隻(天霧、綾波)は第二基地用の大発動艇を曳航し、作戦は成功した<ref name="叢書八三183" /><ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.17『天霧、浦波、敷波|九月三十日|大發曳航「レンドバ」着』</ref>。吹雪型2隻は引き続き蟻輸送作戦に協力した<ref name="叢書八三183" />。

天霧が蟻輸送に従事中の10月1日、第20駆逐隊は解隊され<ref name="S17内令1824">[[#内令昭和17年10月(1)]]pp.1-2『内令第千八百二十四号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二十驅逐隊ノ項ヲ削ル 第三十驅逐隊ノ項中「睦月」ヲ削ル 第三十一驅逐隊ノ項中「巻波」ノ下ニ「、高波」ヲ加フ』</ref>、天霧は第八艦隊に編入される<ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.27『(3)軍隊区分ノ変更|天霧|一〇-一|第八艦隊ニ編入』</ref>。
10月7日、外南洋部隊は輸送計画を見直し、蟻輸送は一時中断する<ref name="叢書八三183" /><ref name="叢書八三186">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]186-188頁『輸送計画の再検討と九日~十日の輸送』</ref>。2隻(天霧、綾波)は挺身輸送隊から増援部隊本隊(第三水雷戦隊)に編入された<ref name="叢書八三183" />。10月10日、第27駆逐隊司令[[瀬戸山安秀]]大佐(時雨座乗)指揮下の駆逐艦3隻(時雨、白露、天霧)でガ島輸送作戦を実施する<ref name="叢書八三186" /><ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.41『第二十七駆(二小隊欠)天霧|一〇-一〇|陸兵二九三、其他「タサファロング」ヘ揚陸ス』</ref>。
[[サボ島沖海戦]]時の天霧は、ショートランド泊地に停泊していた<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]200頁以降の「夕霧」と「白雲」表記あるも、8月28日に大破した夕霧と白雲は既に日本本土に帰投。修理中。</ref>。[[10月12日]]0200、増援部隊指揮官(第三水雷戦隊司令官)は支援隊(青葉、古鷹、衣笠、初雪、吹雪)と日進隊(日進、千歳、秋月、綾波等)を支援するため、増援部隊7隻(軽巡《川内、由良》、駆逐艦《天霧、浦波、磯波、白露、時雨》)を率いてショートランド泊地を出撃する<ref name="叢書八三200">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]200-202頁『叢雲、夏雲の喪失』</ref>。増援部隊は戦場離脱中の[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]や日進隊を収容し、ショートランドに帰投した<ref name="叢書八三200" />。本海戦で<ref>[[#志賀、物語|駆逐艦物語]]71-72頁『▽サボ島沖海戦』</ref>、日本側は4隻([[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]、[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]、[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]])を喪失した<ref name="叢書八三200" /><ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]198-199頁『戦果及び被害』</ref>。

10月13日、日本軍は[[栗田健男]]中将指揮下の第三戦隊([[金剛_(戦艦)|金剛]]、[[榛名_(戦艦)|榛名]])により、ガダルカナル島[[ヘンダーソン基地艦砲射撃|ヘンダーソン飛行場砲撃]]をおこなった<ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.21『(イ)一般情勢 敵ハ逐次RXNニ増強シ飽ク迄之ヲ固守セントスルノ對勢ヲ示スニ至レリ/帝國海陸軍ハ之ニ對シ基地航空兵力竝ニ在RXN陸軍 第三戰隊、鳥海及第六戰隊ノ射撃ニ依リ敵機ヲ撃碎シ其ノ虚ニ乗ジ高速船團ニ依ル輸送ヲ強行セリ斯クテ在RXN陸軍ノ増強ヲ計リ二十四日總攻撃ニ轉ジタルモ敵飛行場ヲ占領スルニ至ラズ、目下彼我共ニ増勢シツツ次期作戰ヲ畫シアル情況ナリ』</ref><ref name="08F(2)42">[[#第八艦隊日誌(2)]]p.42『外南洋部隊|一〇-一三/一〇-一四|増援部隊ハ輸送船(崎戸、九州、笹子、佐渡、南海及吾妻山丸)ヲ護衛RXNニ進撃ス 爾餘ノ外南洋部隊ハ右支援及敵艦艇撃滅ノ爲進撃ス/3Sハ十三日夜約一時間ニ亘リRXIノ砲撃ヲ行フ/船團ハ途中敵機ノ連續爆撃ヲ受ケタルモ被害ナク十四日二二〇〇「タサファロング」沖ニ入泊セリ/鳥海、衣笠ハ十四日夜「ルンガ」沖ニ突入RXIニ對シ艦砲射撃ヲ行フ』</ref>。
10月12日午前0時発令の外南洋部隊兵力部署変更により、天霧は外南洋部隊主隊(指揮官[[三川軍一]]第八艦隊司令長官)に編入され、主隊は重巡洋艦2隻([[鳥海_(重巡洋艦)|鳥海]]、[[衣笠_(重巡洋艦)|衣笠]])と駆逐艦2隻([[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[望月_(駆逐艦)|望月]])という編成になる<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]206頁</ref>。10月13日2100、三川長官直率の主隊(鳥海、衣笠、天霧、望月)はショートランド泊地を出撃、10月14日深夜にはガダルカナル島に進出、輸送船団掩護のため2度目の飛行場砲撃を行った<ref name="08F(2)42" /><ref name="叢書八三219">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]219-220頁『外南洋部隊のガ島飛行場射撃』</ref>。10月15日1600、主隊はショートランド泊地に帰着<ref name="叢書八三219" />。だが輸送船団は揚陸地点で空襲を受け輸送船3隻(笹子丸、旧州丸、吾妻山丸)を喪失、揚陸した物資も大部分は空襲と艦砲射撃により焼き払われた<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]220-221頁『船団の揚陸』</ref>。
10月17日0930、外南洋部隊主隊は輸送作戦掩護のためにショートランドを出撃<ref name="叢書八三224">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]224-225頁『十七日の輸送』</ref>。夜になり駆逐艦2隻(天霧、望月)は重巡2隻(鳥海、衣笠)と分離し、ガ島に突入<ref name="叢書八三224" />。飛行場砲撃を敢行した<ref name="叢書八三224" /><ref>[[#第八艦隊日誌(2)]]p.43『第二駆(d×2欠)天霧、望月|一〇-一七|RXIノ砲撃制圧ヲ行フ/鳥海衣笠ハ増援部隊ノ間接護衛ニ任ズ』</ref>。

10月下旬の日本陸軍ガ島飛行場総攻撃([[南太平洋海戦]])における本艦は、乙増援隊(白雪、天霧、望月)に所属<ref name="叢書八三246">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]246-247頁『各部隊の作戦命令』</ref>。ヘンダーソン飛行場占領後の、日本軍基地航空部隊急速揚陸を命じられていた<ref name="叢書八三246" />。だが飛行場占領失敗と、空襲により軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]沈没・駆逐艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]損等等の被害を受け、外南洋部隊の作戦は中止に至った<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]260-262頁『由良の沈没』</ref>。
11月2日、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)としてガ島輸送作戦を支援する<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]344-345頁『十一月二日の輸送』</ref>。作戦実施にあたり、第三水雷戦隊司令官[[橋本信太郎]]少将は衣笠に将旗を掲げた<ref name="叢書八三346">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]346-347頁『輸送の実施』</ref>。第一攻撃隊はサボ島附近まで進出し、輸送部隊を支援する<ref name="叢書八三346" />。この後、天霧はレカタ水上機基地([[サンタイサベル島]]北西端)への補給任務に従事した<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]340頁</ref>

{{Main|第三次ソロモン海戦}}

11月中旬の'''第三次ソロモン海戦'''における本艦は、増援部隊指揮官[[田中頼三]]少将(第二水雷戦隊司令官)の麾下にあり、本隊(第15駆逐隊《早潮、親潮、陽炎》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)、収容隊(天霧、望月)、待機隊(黒潮)に区分されていた<ref name="叢書八三354">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]354-355頁『外南洋部隊』</ref>。二水戦司令官田中少将は駆逐艦[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]に将旗を掲げ、駆逐艦11隻(本隊9隻、収容隊《天霧、望月》)と輸送船11隻でガダルカナル島へ向かう<ref name="叢書八三354" /><ref name="叢書八三379">[[#叢書83|戦史叢書(83)]]379-380頁『第二次輸送船団の被爆』</ref>。この輸送船団を三川長官直率の主隊(鳥海、衣笠、五十鈴、朝潮)と、第七戦隊司令官[[西村祥治]]少将指揮下の支援隊(巡洋艦3隻《鈴谷、摩耶、天龍》、第10駆逐隊《夕雲、巻雲、風雲》)が間接支援していた<ref name="叢書八三354" /><ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]376頁</ref>。
11月14日、増援部隊輸送船団は空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]艦載機およびガ島の米軍航空隊、[[エスピリトゥサント島]]より飛来した[[B-17 (航空機)|B-17]]重爆撃機の波状攻撃により大損害を受けた<ref name="叢書八三379" /><ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]381-383頁『米航空部隊の戦闘』</ref>。収容隊(天霧、望月)は輸送船佐渡丸を護衛してショートランド泊地に引き返した<ref name="叢書八三379" />。天霧の収容者は550名、望月の収容者は1012名と記録されている<ref name="叢書八三379" />。

12月上旬、駆逐艦2隻(天霧、夕暮)はレカタ基地輸送作戦に従事<ref>[[#第八艦隊日誌(3)]]p.60『天霧、夕暮|一二-九|「レカタ」ニ増援輸送ヲ實施ス』</ref><ref>[[#第八艦隊日誌(3)]]p.61『天霧、夕暮|一二-一三|「レカタ」増援輸送ヲ實施ス』</ref>。同時期、[[コロンバンガラ島]]防備強化のため輸送作戦が実施されており、12月23日の第二回ムンダ輸送(津軽、天霧)に参加した<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]454頁『第二回輸送』</ref><ref>[[#第八艦隊日誌(3)]]p.62『津軽、天霧|一二-二三|第二回第二次「ムンダ」輸送ヲ實施ス』</ref>。

=== 第十一駆逐隊 ===
[[1943年]](昭和18年)1月6日<ref name="写真10天霧年表" />から7日にかけて<ref>[[#S17.12四水戦日誌(3)]]p.12『(略)有明、夕暮ハ前月ヨリNTBニ編入同方面ニ於テ作戰行動中ノ処二日AdBニ復皈(AdB電令作第一〇五號)有明ハ三日「ラボール」發六日「トラツク」着 夕暮ハ一日「ラボール」發五日「トラツク」着 兩艦共AdB電令作第一一二號ニ依リ(長官)KdBノ指揮下ニ入リ(内地回航中)内地回航部隊トシテ七日「トラツク」發 瑞鶴 陸奥 鈴谷等ノ直衛警戒ニ任ジツツ十二日呉着(以下略)』</ref>、[[軍艦]]3隻(空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、戦艦[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]、重巡[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]])は駆逐艦6隻([[有明 (初春型駆逐艦)|有明]]、[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]、[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]])と共にトラックを出発<ref>[[#S18.01七戦隊日誌(1)]]p.18『7日0800第三艦隊司令長官/瑞鶴陸奥鈴谷有明夕暮磯波(天霧電6日)「トラック」発』</ref><ref name="S1712四水戦(3)24">[[#S17.12四水戦日誌(3)]]pp.24-25『五日一五〇〇 3F参謀長(宛略)3F機密第〇五五〇〇番電12/2 瑞鶴、陸奥、鈴谷、有明、夕暮、朝潮、磯、天霧、雷 左記予定ヲ以テ「トラツク」發内地ニ回航整備補給其ノ他ニ関シ然ルベク配慮ヲ得度/一月六日夕刻天霧 電「トラツク」發(八日朝「サイパン」着補給)/一月七日〇八〇〇其ノ他ノ各艦「トラツク」發(dハ対潜掃蕩後北水道出口ニテ合同)〇九三〇北水道針路三三五度速力二二節尓後「ルクテイ」島東方ヲ北上一四〇〇9°-20′N 151°-32′E針路330°實速16.5節 一月八日日没頃磯波分離(九日朝「サイパン」着補給後單獨内海西部ニ回航)一月九日早朝「バガン」「アグリガン」間ヲ通過〇七〇〇「バカン」ヲ経ル三〇浬附近ニ於テ天霧 雷合同一月十日一一〇〇23°40′N 140°3′Eニテ陸奥、朝潮、電 分離(十二日午前横須賀着ノ予定)一七三〇24°50′N 138°47′E針路325°實速一五.五節 一月十二日〇九〇〇沖ノ島(瑞鶴、天霧)同日午後内海西部鈴谷、同日夕刻呉、有明、夕暮十三日佐世保着ノ予定』</ref>、修理と整備のために内地に帰投する<ref>[[#叢書83|戦史叢書(83)]]567頁</ref>。
陸奥隊(陸奥、朝潮、電)は横須賀へ<ref name="S1712四水戦(3)24" /><ref>[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]451頁『○「陸奥」「朝潮」「電」、「横」着(一二-一〇三〇)』</ref>、瑞鶴隊(瑞鶴、鈴谷、天霧、有明、夕暮)は呉へ向かう<ref name="S1712四水戦(3)24" /><ref>[[#S18.01佐伯防備隊日誌(2)]]pp.11-12『1月11日0900呉防備司令官→瑞鶴鈴谷天霧夕暮有明迅鯨伊良湖|一.瑞鶴鈴谷天霧有明夕暮12日0900沖ノ島通過北上ノ豫定沖ノ島迄ノ針路335度/二.迅鯨12日0800沖ノ島通過、伊良湖同日0700深島通過北上ノ予定』</ref>。
1月12日、瑞鶴隊は内海西部に到着した(途中から単独航海の磯波は13日に呉到着)<ref name="写真10磯波年表">[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]253頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇磯波◇〕</ref><ref>[[#S18.01七戦隊日誌(1)]]pp.7-8『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。
1月13日から3月10日まで、天霧は呉で修理を行った<ref name="陽炎型2014天霧" />。この間、修理を終えた夕霧は最前線に復帰している<ref name="写真10夕霧年表"/>。同時期、日本軍はガダルカナル島から撤退([[ケ号作戦]])、戦場はソロモン諸島中部に移っていった。

2月25日、吹雪型2隻(天霧、夕霧)は'''第11駆逐隊'''に編入、11駆(駆逐隊司令[[杉野修一]]大佐)<ref name="叢書96付表1其1">[[#叢書96|戦史叢書(96)]](付表第1その1)『南東方面作戦関係主要職員表(昭和十七年九月下旬以降)』</ref>は定数4隻(白雪、初雪、天霧、夕霧)となった<ref name="S18内令312号">[[#内令昭和18年2月(4)]]pp.48-49『内令第三百十二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年二月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第五驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、天霧、夕霧」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第二十二驅逐隊|皐月、水無月、文月、長月| |第三十一驅逐隊ノ項中「大波」ノ下ニ「清波」ヲ加フ』</ref>。
だが白雪は[[3月3日]]の[[ビスマルク海海戦]]で沈没した<ref>[[#陽炎型(2014)]]273-274頁『白雪(しらゆき)』</ref>(4月1日附で第11駆逐隊より削除)<ref name="S18内令579">[[#内令昭和18年4月(1)]]画像26-27『内令第五百七十九號 驅逐隊編成中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣嶋田繁太郎 第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル 第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム 第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル 第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル 第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』</ref>。
3月10日、天霧は呉を出港、ラバウルに向かう<ref name="写真10天霧年表" />。20日、ラバウル着<ref name="写真10天霧年表" />。ただちに輸送作戦に投入された<ref>[[#第八艦隊日誌(7)]]pp.16-17『(二)第二師団 第三八師団ノ輸送 在「ブイン」ガ島転進部隊ヲ「ラバウル」ニ輸送ス之ガ護衛ヲ行フト共ニ同方面ヨリ「ラバウル」皈還ノ駆逐艦ヲシテ人員ノミ輸送ヲ行ヘリ/(一)38Dノ輸送 10dg(夕雲、風雲、秋雲)ハ陸軍輸送船亜丁丸 宮殿丸ヲ護衛三月二十六日「ボーゲンヴィル」南方航路ヲ經テ二十八日「ラバウル」着輸送人員六〇〇〇名 別紙第七参照/(二)2Dノ輸送 四月三日ヨリ十日迄ノ間「ソロモン」方面輸送ヲ終ヘテ皈還スル 16dg(雪風)10dg(以上護衛ヲ兼ヌ)2dg 天霧 望月計駆逐艦七隻ヲ以テ大型駆ニハ各四〇〇名小型駆ニハ各三〇〇名搭載 海輸菊川丸ニテ二五〇名搭載輸送ニ協力セリ 輸送人員四六〇〇名(内陸輸ニテ二〇〇〇名)別紙第八参照』</ref>。
3月29日には駆逐艦2隻(天霧、望月)でレカタ基地への輸送を実施した<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]78頁</ref><ref>[[#第八艦隊日誌(6)]]p.29『天霧、望月|三-二九|「レカタ」輸送ヲ實施ス 揚陸人員一二防空隊五〇名陸兵〇名糧秣彈藥約六〇屯』</ref>。
4月1日、第三水雷戦隊の編成が変わる<ref>[[#第八艦隊日誌(7)]]pp.4-5『四月一日|夕張ヲ加フ、3sdヨリ8dgヲ除ク、7SSヲ除ク、夕凪ヲ加フ、竜田ヲ除ク、K7Lg、一四防空隊、一五防空隊ヲ加フ|17dg(谷風)天津風ヲ編入 夕張ヲ主隊ニ30dg(望月欠)夕凪ヲ附属トス』</ref><ref name="叢書九六130">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]130-131頁『外南洋部隊の作戦の概要』</ref>。
4月2日、駆逐艦3隻(雪風、天霧、望月)でレカタ輸送を実施する<ref name="八艦隊(7)9">[[#第八艦隊日誌(7)]]pp.9-10『三、二八|天霧望月ヲ以テ第一次輸送|佐六特ノ一部約三〇〇名/兵器彈藥糧秣二五〇屯|行動概要「ブイン」泊地一六〇〇頃発翌日〇〇〇〇頃入泊揚陸ノ上〇一三〇〇頃発〇九〇〇頃「ブイン」皈投ス』・『四.二|16dg(雪風)天霧 望月ニテ第二次輸送|大發二隻 後送一一五名 第三次| 』・『四.六|天霧 望月ヲ以テ第三次輸送| | |』</ref><ref name="叢書九六132">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]132-133頁『中部ソロモン方面増援輸送』</ref>。
4月7日、2隻(天霧、望月)でレカタ輸送を実施するが<ref name="八艦隊(7)9" />、天霧はB-17重爆1機に爆撃されて10名の死傷者を出した<ref name="叢書九六132" />。

4月下旬より月暗期に入ったため、天霧は新たに編入された各艦・各部隊と共に輸送作戦に従事する<ref name="叢書九六159">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]159-160頁『中部ソロモン方面増援輸送(親潮、黒潮、陽炎の沈没)』</ref>。駆逐艦3隻(天霧、夕霧、望月)は4月29日~30日<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]163頁『レカタ輸送-第一回』</ref>、5月3日<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]163頁『レカタ輸送-第二回』</ref>、5月7日と10日<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]163頁『レカタ輸送-第三回、第四回</ref>、それぞれレカタ輸送を実施した(合計進出:陸軍820名、海軍306名。後送:陸軍507名、海軍58名。弾薬燃料90トン、糧食150トン)<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]164頁『レカタ』</ref>。
5月16日<ref name="写真10夕霧年表"/>、夕霧は[[カビエン]]北東約200kmのムッソー島附近で米潜水艦([[グレイバック (SS-208)|グレイバック]])の雷撃を受けて損傷、艦首切断状態となる<ref>[[#写真十|写真日本の軍艦10巻]]165頁(夕霧艦首写真解説より)</ref>。天霧は夕霧を曳航してラバウルに避退<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]168頁『五月十六日』</ref>。夕霧は同地で応急修理を行ったのち、内地に帰投した<ref name="陽炎型2014夕霧" /><ref name="写真10夕霧年表" />。

5月25日附で、天霧駆逐艦長は[[蘆田部一]]中佐<ref name="叢書96付表1其2">[[#叢書96|戦史叢書(96)]](付表第1その2)『南東方面作戦関係主要職員表(昭和十七年九月下旬以降)』</ref><ref name="jirei1124">{{アジア歴史資料センター|C13072091100|昭和18年5月25日(発令5月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1124号 p.3蘆田(免天霧艦長)補横須賀鎮守府附}}</ref>から[[花見弘平]]少佐(花見は5月19日まで<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072091000|昭和18年5月19日(発令5月19日付)海軍辞令公報(部内限)第1118号 p.30}}</ref>、駆逐艦[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]艦長)に交代する<ref name="完本352">[[#完本P.W上|完本太平洋戦争上]]352-353頁『ふたたびラバウルへ』</ref><ref name="jirei1126">{{アジア歴史資料センター|C13072091100|昭和18年5月25日(発令5月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1126号 p.6花見補職}}</ref>。
5月28日と5月31日、駆逐艦2隻(天霧、望月)で計2回のレカタ輸送を実施<ref name="叢書九六191">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]191頁『レカタ輸送』</ref>。
6月4日、駆逐艦3隻(天霧、望月、皐月)でラバウル~ツルブ([[ニューブリテン島]]西端)を実施<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]191-192頁『ニューギニア方面輸送』</ref>。
6月10日、花見少佐はラバウル停泊中の天霧に着任した<ref name="完本352" /><ref>[[#志賀、物語|駆逐艦物語]]38-39頁『緊急時のブカ増援』</ref>。志賀博大尉(天霧水雷長)は、花見(天霧艦長)について以下のように記述している<ref>[[#志賀ブルー|最後のネイビーブルー]]28頁</ref>。

{{quotation|「天霧」艦長の花見弘平少佐は、責任感のあまり、乗員全員にみずからと同じくきびしく規制することを要求し、実践した人で、そのため部下に鉄拳をふるってまでも、全員を常時戦闘即応態勢におき、艦内をして極度の緊張状態たらしめ、みずからを持するにことのほか厳格で、航海中は艦橋から一歩も降りず、ほとんど一睡もしないくらいで、艦長としての任務遂行にきびしく処したのである。<br/> そのため、艦内は"[[ケイン号の叛乱]]"のごとき状況にたちいたったが、鉄拳をくらいながらも私はじめ乗員は、艦長の異状なくらいの責任感と勤務精励ぶりに内心傾倒し、艦長の命令に喜んで一命をささげる心境に達していた。「天霧」が南東方面で死闘を演じつつも、ただ一隻、不沈艦たり得たのもむべなるかなであった。|{{small|特別輸送艦[[巨済 (敷設艇)|巨済]]艦長}} 志賀博|最後のネイビーブルー 28ページ}}

一方で志賀は、天霧沈没後に配属となった松型駆逐艦[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]の艦長(田中弘国少佐、宇那木勁少佐)と花見(天霧艦長)の統率を比較し、「(花見の鉄拳制裁は)どう考えてもよくないことであった」「駆逐艦乗りの理想は竹時代に現出した」と回想している<ref name="志賀ブルー31">[[#志賀ブルー|最後のネイビーブルー]]31-32頁</ref>。
6月28日、第11駆逐隊(天霧、初雪)はレカタ輸送を実施<ref name="叢書九六191" />。
6月30日、アメリカ軍は[[レンドバ島]]に上陸を開始、[[ニュージョージア島の戦い]]が始まる<ref name="叢書九六210">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]210頁『連合軍来攻時の我が軍の状況』</ref>。この時、外南洋部隊主力艦艇はトラック泊地(鳥海、雪風、涼風、江風、谷風、浜風)、ラバウル(新月、望月、皐月、夕凪)、[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]](長月、水無月、三日月)、[[ブカ島]](天霧、初雪)に分散していた<ref name="叢書九六210" /><ref name="叢書九六226">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]226-227頁『外南洋部隊水上部隊』</ref>。
7月1日、第11駆逐隊司令指揮の先行部隊(天霧、初雪、長月、水無月、三日月)は直ちにレンドバ島方面に進出するが、接敵しなかった<ref name="叢書九六226" />。
7月2日夜、増援部隊指揮官[[秋山輝男]]少将(第三水雷戦隊司令官、旗艦[[新月_(駆逐艦)|新月]])<ref name="叢書96付表1其1" />は、直率の突撃隊(新月、天霧、初雪、長月、皐月、望月)、夕張艦長指揮下の陽動隊(夕張、夕凪、三日月)としてブインを出撃、レンドバ島に突入した<ref name="叢書九六226" />。だが米軍機の空襲と魚雷艇の迎撃により、敵艦隊撃滅・陸上砲撃とも果たせなかった(魚雷艇2隻撃沈)<ref name="叢書九六226" />。

{{Main|クラ湾夜戦}}

7月5日、秋山少将(第三水雷戦隊司令官)は[[秋月型駆逐艦]]新月に乗艦、直率の支援隊(新月、涼風、谷風)、第30駆逐隊司令[[折田常雄]]中佐指揮の第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)、第11駆逐隊司令指揮の第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)としてショートランド泊地を出撃した<ref name="叢書九六228">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]228頁</ref>。コロンバンガラ島沖で日本艦隊はアメリカ軍の軽巡洋艦3隻、駆逐艦4隻からなる艦隊に攻撃され、新月が沈没(秋山少将戦死)<ref name="叢書九六230">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]230頁</ref>。長月がコロンバンガラ島に座礁して放棄される<ref name="叢書九六230" /><ref>[[#志賀、物語|駆逐艦物語]]79-80頁『▽クラ湾夜戦』</ref>。輸送隊(天霧、初雪)はアメリカ艦隊に対し雷撃と砲撃を行うが命中しなかった<ref name="叢書九六228" />。その後コロンバンガラ島への揚陸を行って帰投中、天霧は米駆逐艦([[ニコラス (DD-449)|ニコラス]]、[[ラドフォード_(DD-446)|ラドフォード]])の攻撃を受けて損傷した<ref name="叢書九六228" />。電信室への命中弾で10名が戦死したという<ref name="完本上353">[[#完本P.W上|完本太平洋戦争上]]353-355頁『レーダーには敵わぬ』</ref>。天霧はラバウルで応急修理を実施<ref name="完本上353" />。しばらく作戦に参加できなくなった<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]23頁</ref>。
前述のように、本海戦で新月沈没時に秋山少将が戦死したため、7月7日附で[[伊集院松治]]大佐(当時、戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]艦長)<ref name="叢書96付表1其1" />が第三水雷戦隊司令官に任命される<ref name="叢書九六230" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092100|昭和18年7月7日(発令7月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1167号 p.4}}</ref>。
7月9日、第11駆逐隊司令は杉野修一大佐から[[山代勝守]]大佐に交代する<ref name="叢書96付表1其1" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092100|昭和18年7月10日(発令7月9日付)海軍辞令公報(部内限)第1169号 p.12}}</ref>。当時、第11駆逐隊の健在艦は[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]だけだったので(夕霧は内地修理、天霧は応急修理中)、杉野大佐は初雪に移動して作戦を実施することになった<ref name="佐藤1984艦長続209">[[#艦長続1984|佐藤1984、艦長たち続篇]]209-210頁『ベテラン司令、再登場』</ref><ref name="志賀兵科24">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]24-25頁</ref>。
7月17日、輸送作戦準備中の初雪は、ブインで空襲を受け沈没(同時に皐月、水無月、望月小破)<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]248頁</ref><ref>[[#陽炎型(2014)]]274頁『初雪(はつゆき)』</ref>(10月15日附で第11駆逐隊から削除)<ref name="S18内令2159">[[#S18.9-10内令4巻/昭和18年10月(4)]]画像8『内令第二千百五十九號 驅逐隊編成中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎 第四驅逐隊ノ項中「嵐、萩風、」ヲ、第十一驅逐隊ノ項中「初雪、」ヲ、第二十四驅逐隊ノ項中「江風、」ヲ、第二十七驅逐隊ノ項中「有明、夕暮」ヲ、第三十驅逐隊ノ項中「三日月、」ヲ、第三十一驅逐隊ノ項中「、清波」ヲ削ル』</ref>。11駆は吹雪型2隻(天霧、夕霧)に減少した<ref name="S18内令2159" />。杉野司令は天霧に将旗を掲げた<ref name="佐藤1984艦長続209" /><ref name="志賀兵科24" />。

{{Main|ベラ湾夜戦}}

[[7月31日]]朝、第4駆逐隊司令[[杉浦嘉十]]大佐指揮下の駆逐艦3隻(第4駆逐隊《[[萩風_(駆逐艦)|萩風]]、[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]》、第27駆逐隊《[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]》)はラバウルを出撃し、[[コロンバンガラ島]]輸送任務に従事する<ref name="陽炎型194">[[#陽炎型(2014)]]194-195頁『敵魚雷艇を踏みつぶす』</ref><ref name="叢書九六250">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]250頁</ref><ref name="叢書九六259">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]259-260頁『外南洋部隊の作戦』</ref>。天霧(第11駆逐隊司令[[山代勝守]]大佐座乗)は警戒隊に区分されていた<ref name="陽炎型194" /><ref name="叢書九六250" />。
輸送隊は同日深夜にブインで海軍陸戦隊と日本陸軍を乗せ、[[8月1日]]0100にブインを出発<ref name="叢書九六259" />。天霧は[[ブカ島]]附近で輸送隊3隻に合流<ref name="叢書九六259" />。駆逐艦4隻(萩風、嵐、時雨、天霧)はコロンバンガラ島に向かう<ref name="叢書九六250" />。8月1日深夜~8月2日未明、日本側4隻は[[ブラケット海峡]]で米軍魚雷艇部隊と交戦<ref name="陽炎型194" /><ref>[[#艦長続1984|佐藤1984、艦長たち続]]210-212頁『運命のコロンバンガラ輸送』</ref>。天霧は「[[:en:Motor Torpedo Boat PT-109|PT-109]]」(艇長:[[ジョン・F・ケネディ]]中尉・後に第35代[[アメリカ合衆国大統領]])と衝突、同魚雷艇を沈没させた<ref name="写真10天霧年表" /><ref name="叢書九六259" />。輸送任務も無事に終わり、[[8月2日]]夕刻に4隻はラバウルへ帰投した<ref name="叢書九六250" /><ref name="叢書九六259" />。
特務艦[[鳴戸 (給油艦)|鳴戸]]で艦首部の応急修理を実施したあとの8月4日から7日にかけて、ツルブ輸送を実施<ref name="写真10天霧年表" /><ref name="志賀兵科40">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]40-41頁</ref>。なおケネディ中尉の魚雷艇と衝突した時の損傷により、天霧は修理を行うことになった<ref name="陽炎型196">[[#陽炎型(2014)]]196-197頁『司令官の苦衷』</ref>。そこで駆逐艦[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]](第24駆逐隊)が、天霧の代艦として輸送任務に加わった<ref name="陽炎型196" />。
[[8月6日]]午前0時半、5隻(軽巡洋艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]、駆逐艦4隻《萩風、嵐、江風、時雨》)はラバウルを出撃、輸送任務に従事した<ref>[[#陽炎型(2014)]]199-200頁『ベラ湾に向けて南下す』</ref><ref name="叢書九六260">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]260-261頁</ref>。コロンバンガラ島に向かった駆逐艦4隻は同日夜間に米軍水雷戦隊の奇襲攻撃を受け、時雨(第27駆逐隊司令[[原為一]]中佐座乗。原は、昭和11年~12年時の天霧駆逐艦長)を残して3隻(萩風、嵐、江風)とも沈没した(ベラ湾夜戦)<ref>[[#志賀、物語|駆逐艦物語]]83-84頁『▽ベラ湾夜戦』</ref><ref>[[#陽炎型(2014)]]211-212頁『夜戦の真相』</ref>。

8月10日、天霧は重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]](艦長[[有賀幸作]]大佐)を護衛してラバウルを出発、トラック泊地に移動した<ref name="志賀兵科40" />。同泊地に到着後、応急修理を実施する<ref name="写真10天霧年表" />。8月31日、輸送船団(五洲丸、りおん丸、筥崎丸)を護衛してトラックを出撃<ref name="志賀兵科40" />。9月4日、ラバウルに入港<ref name="志賀兵科40" />。その後は[[ブカ島]]輸送に従事する<ref name="写真10天霧年表" />。
9月下旬より[[コロンバンガラ島]]からの撤退作戦(セ号作戦)に従事する<ref name="写真10天霧年表" /><ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]297頁『襲撃部隊の第一次計画』</ref>。
10月7日~8日にかけて、駆逐艦3隻(天霧、望月、皐月)でスルミ(ニューブリテン島南部)輸送を実施<ref name="叢書九六330">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]330-331頁『十月上旬作戦輸送』</ref>。一連の作戦後、第三水雷戦隊の全力発揮可能艦は6隻(川内、天霧、皐月、時雨、五月雨、望月)、戦闘可能艦4隻(文月、水無月、夕凪、松風)となった<ref name="叢書九六330" />。
10月下旬、第三水雷戦隊(天霧、時雨、五月雨、望月、水無月、皐月、卯月、夕凪)はニューブリテン島周辺の輸送作戦に従事する(天霧と望月で21日~22日ラバウルよりブカ島、天霧と水無月で26-27日カビエンとブカ間輸送、天霧と夕凪の10月31日イボキ輸送は敵機触接により中止)<ref name="叢書九六331">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]331-32頁『十月下旬作戦輸送』</ref>。10月24日、ジャキノット輸送中の2隻(卯月、望月)は空襲を受け、望月は沈没した<ref name="叢書九六331" />。

{{Main|ブーゲンビル島沖海戦}}

11月1日、アメリカ軍はソロモン諸島西部のブーゲンビル島に上陸した<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]382-383頁『連合軍のタロキナ上陸とわが航空攻撃』</ref>。日本軍は逆上陸を企図し、[[11月2日]]1530に第五戦隊([[妙高_(重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒_(重巡洋艦)|羽黒]])、第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露)、第二警戒隊(阿賀野、長波、初風、若月)などからなる艦隊を[[ラバウル]]から出撃させた<ref name="叢書九六390">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]390-391頁『第二回出撃―輸送隊の反転帰投』</ref>。山代大佐(第11駆逐隊司令、天霧座乗)指揮下の輸送隊4隻(天霧、夕凪、文月、望月)、水無月(ブカ島行)も出撃する<ref name="叢書九六390" />。だが逆上陸作戦は中止となったため、輸送隊はラバウルに引き返した(水無月は輸送決行)<ref name="叢書九六390" />。残りの日本艦隊はブーゲンビル島[[エンプレス・オーガスタ湾]]でアメリカ軍の艦隊と交戦し、2隻([[川内_(軽巡洋艦)|川内]]、[[初風_(駆逐艦)|初風]])を失う敗北を喫した(ブーゲンビル島沖海戦)<ref>[[#志賀、物語|駆逐艦物語]]85-86頁『▽ブーゲンビル島沖海戦』</ref><ref name="志賀兵科46">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]46-47頁</ref>。
11月5日の[[ラバウル空襲]]で、第二艦隊司令長官[[栗田健男]]中将(旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]])指揮下の重巡洋艦部隊は大損害を受ける<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]399-400頁『米空母機による第一次被空襲と被害―十一月五日』</ref>。天霧以下数隻の駆逐艦は空襲警報発令と共に港外に脱出し、被害を受けなかった<ref name="志賀兵科46" /><ref name="叢書九六400">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]400-401頁『重巡部隊のトラック帰投』</ref>。大破した[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]をラバウルに残し、その他の重巡部隊はトラック泊地に撤退した<ref name="叢書九六400" />。

11月6日、第十戦隊司令官[[大杉守一]]少将指揮下の艦隊は、タロキナ([[ブーゲンビル島]])への逆上陸作戦を行う<ref name="叢書九六401">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]401-404頁『タロキナ北方逆上陸の成功』</ref>。挺身輸送隊(指揮官[[香川清登]]第31駆逐隊司令)は警戒隊(大波、巻波)と輸送隊(天霧、文月、卯月、夕凪)で編成されていた<ref name="叢書九六401" />。[[11月7日]]日付変更直後、挺身輸送隊はタロキナへの揚陸に成功し、ラバウルに帰投した<ref name="叢書九六401" />。この後、川内沈没後に呂号第104潜水艦に救助された第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]少将は、旗艦を駆逐艦[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]](第27駆逐隊)から天霧に移した<ref name="叢書九六401" />。11月8日、三水戦旗艦は軽巡[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]に変った<ref name="叢書九六401" />。
11月11日、米軍機動部隊による第二次ラバウル空襲により、駆逐艦[[涼波 (駆逐艦)|涼波]]が沈没、軽巡[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]や駆逐艦[[長波 (駆逐艦)|長波]]が大破する<ref name="志賀兵科46" /><ref name="叢書九六414">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]414-415頁『邀撃空戦と艦艇の被害』</ref>。航行不能の長波を残して大多数の水上艦艇はラバウルを去った<ref name="叢書九六414" />。この措置により南東方面部隊の襲撃部隊兵力は11隻(夕張、天霧、文月、水無月、卯月、夕凪、大波、長波《航行不能》、巻波、夕霧《11月18日ラバウル着》<ref name="写真10夕霧年表" />、秋風《11月18日ラバウル着》)になった<ref name="叢書九六414" />。

{{Main|セント・ジョージ岬沖海戦}}

11月中旬、襲撃部隊は[[ブカ島]](ブーゲンビル島北西)への緊急輸送作戦を行うことになった<ref name="叢書九六429">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]429-431頁『ブカ輸送と「セントジョージ岬沖海戦」』</ref>。第一回輸送(指揮官[[香川清登]]第31駆逐隊司令)は警戒隊(大波、巻波)、山代大佐(第11駆逐隊司令)指揮下の輸送隊(第11駆逐隊《天霧、夕霧》、第30駆逐隊《卯月》)で11月21日から22日にかけて実施<ref name="叢書九六429" />。成功した<ref name="叢書九六429" />。
11月24日1330、香川大佐(第31駆逐隊司令)は前回と同編成の駆逐艦5隻(警戒隊《[[大波_(駆逐艦)|大波]]、[[巻波_(駆逐艦)|巻波]]》、輸送隊《天霧、[[夕霧_(吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[卯月_(睦月型駆逐艦)|卯月]]》)を率いてラバウルを出撃した<ref name="叢書九六429" />。揚陸後帰投中、日本艦隊は[[アーレイ・バーク]]大佐指揮下の米駆逐艦5隻と魚雷艇9隻の攻撃を受ける<ref name="叢書九六429" />。米軍水雷戦隊(駆逐艦5隻)の襲撃により日本側は駆逐艦3隻(大波、巻波、夕霧)を失ったが<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]48-50頁</ref>、「天霧」は離脱に成功した(セント・ジョージ岬沖海戦)<ref name="叢書九六429" /><ref>[[#志賀、物語|駆逐艦物語]]86-87頁『▽セントジョージ岬沖海戦』</ref>。

12月上旬、第三水雷戦隊の4隻(夕張、文月、水無月、卯月)が整備休養のためトラック泊地後退が決まり、ラバウル残存の三水戦は3隻(天霧、秋風、夕凪)となる<ref name="叢書九六441">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]441頁『三水戦将旗を陸上に移揚』</ref>。12月2日、伊集院少将(三水戦司令官)は将旗をラバウル陸上に移した<ref name="叢書九六441" />。
12月3日深夜、天霧は夕雲型駆逐艦[[長波 (駆逐艦)|長波]]回航部隊(軽巡[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]、駆逐艦[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]、[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]、長波《水無月曳航》)を護衛してラバウルを出発<ref>[[#S18.12三水戦日誌(1)]]p.26『三日〇六四五NTB指揮官(宛略)NTB信電令作第五三号(NTB機密〇二〇六四五番電)一.夕張艦長ハ夕張・文月・水無月・長波ヲ指揮シ四日午后又ハ五日午前RR発長波ノPT曳航護衛ヲ行フベシ/二.天霧ハ六日〇八〇〇頃迄前項ノ護衛ニ協力シタル後RRニ歸投スベシ(以下略)』、p.28『三日二〇〇〇8Bg司令官(宛略)R方面防備部隊信電令作第六四三号(8Bg機密第〇三二〇〇番電)夕張11dg(天霧)22d(水無月文月)長波(水無月ニテ曳航)三日二二〇〇RR発PTニ囘航スRR水上機隊仝派遣隊ハ右ノ對潜警戒ヲ實施スベシ』</ref><ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.27〔昭和18年12月3日〕</ref>。途中まで長波回航部隊を護衛し、ラバウルに戻った<ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.28〔昭和18年12月5日〕</ref><ref name="S1812三水戦(1)13">[[#S18.12三水戦日誌(1)]]pp.13-16『四 麾下及一時指揮下ニ入リタル艦船ノ行動(イ)麾下艦船』(天霧)</ref>。
12月6日、天霧は曳航油槽船(特二〇号。燃料搭載量1000トン)を護衛するため、ラバウルを出撃する<ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.29〔昭和18年12月6日〕</ref><ref name="叢書九六442">[[#叢書96|戦史叢書(96)]]442頁『特二〇号の曳航不成功』</ref>。特二〇号は海軍徴用船康寧丸(中村汽船、2,345トン)に曳航されていたが、同艦が米潜水艦([[ピート (潜水艦)|ピート]])に撃沈されて困窮していた<ref name="叢書九六442" /><ref>[[#喪失一覧(2)]]p.31〔昭和18年12月(1943年)B〕『1|b|康寧丸|2,345|中村汽船|雷撃|ラバウル沖』</ref>。
同任務従事中の[[12月7日]]、[[ニューアイルランド島]][[カビエン]]の近くで天霧は操艦を誤り、駆逐艦[[秋風_(駆逐艦)|秋風]]と衝突<ref name="叢書九六442" />、損傷した<ref name="S1812三水戦(1)11">[[#S18.12三水戦日誌(1)]]pp.11-12『(二)天霧ハ長期ニ亘リ当方面作戰ニ從事シ各部要改造修理箇所モ多キヲ以テ前記各部隊歸着後内地ニ回航整備ノ予定 秋風夕凪ハ差当リ「ラバウル」ニ在リテ待機セシム外機宜船團護衛ニ協力セシムル予定ナシリ處特二〇號護衛任務ニ從事中十二月七日天霧・秋風ニ觸衝両艦共損傷ヲ生ジタルヲ以テ一旦「カビエン」及「ラバウル」ニ於テ應急修理ノ上「トラツク」ヲ経テ天霧ハ内地、秋風ハPTニ回航入渠修理ニ任ゼシメラル』</ref><ref name="S1812三水戦(1)36">[[#S18.12三水戦日誌(1)]]pp.36-37『七日〇六〇〇11dg司令(宛略)11dg機密第〇七〇六〇〇番電 今暁〇二二五運貨船ヲ中心トシテ左廻リニテ監視中天霧行動適切ヲ缺キ其ノ艦首ヲ以テ秋風二三区右舷々側水線附近ニ觸衝(側圧ニ乗ゼラレ後進ニ依リ行足ヲ停止ス)秋風二三区間浸水今ノ所浸水増加セズ人員兵器異状ナキモ最大使用速力六節ROニ回航セシメ運貨船ハ天霧ニテ曳航ス』</ref>。
天霧は艦首損傷のため最大発揮速力18ノット、秋風は浸水のため6ノットとなる<ref>[[#S18.12三水戦日誌(1)]]pp.43-44『八日一〇三〇秋風駆逐艦長(宛略)秋風機密第〇八一〇三〇番電 損傷ノ状況目下調査中ナルモ損傷以外ニ大ニシテ現在迄ニ判明セル概況左ノ通(以下略)』</ref><ref name="S1812三水戦(2)29">[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.29〔昭和18年12月〕『七(天候略)(略)一.〇二二五天霧 秋風ニ觸衝 特二〇号運貨船ハ天霧ニテ曳航 秋風ハカビエンニ向フ/二.夕凪補給ノ上警戒待機/三.天霧一四三〇特二〇号曳航開始セルモ曳索切断|一.秋風二三区浸水損傷ノ爲出シ得ル最大速力六節 天霧舟首損傷ノ爲出シ得ル最大速力一八節』</ref>。
かねてより修理や整備をする予定だったため<ref name="志賀兵科52">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]52-55頁『「天霧」もまた』</ref>、天霧は衝突事故を機会に内地に戻ることになった<ref name="S1812三水戦(1)11" />。特20号運貨船の曳航任務から外され<ref>[[#S18.12三水戦日誌(1)]]pp.45-46『八日一四三三NTF参謀長(宛略)NTF機密第〇八一四三三番電 康寧丸沈没後鴻秋風夕凪天霧ニテ逐次特二〇号ノ曳航ヲ試ミタルモ風力波浪大ニシテ何レモ曳索切断シ最後ニ監視中ノ天霧駆潜四〇モ亦風浪激シク一時ROニ避泊ノ已ムナキニ至レリ 特二〇号ヲRRニ曳航シ得ザル場合本月二十日以後潜水艦燃料補給ニ支障ヲ來スニ付同日迄ニ 二号重油約一〇〇〇瓲補給方配慮ヲ得度(差当リ文月・水無月ニ約一五〇瓲宛搭載補給シ得レバ好都合ナリ)』</ref><ref>[[#S18.12三水戦日誌(1)]]pp.50-51『十一日〇七〇〇NTB指揮官(宛略)NTF機密第一一〇七〇〇番電 一.夕凪ハ十二日一二〇〇特二〇号附近着予定ニテRR出港特二〇号ノ曳航ニ任ズベシ 但シ海上ノ横揺特二〇号ノ曳航作業困難ト認ムル場合ハROンテ待機セヨ/二.11dg(天霧)ノ特二〇号曳航(警戒)ヲ取止ム』</ref>、カビエンに回航<ref>[[#S18.12三水戦日誌(1)]]p.48『九日〇七〇〇11dg司令(宛略)11dg機密第〇九〇七〇〇番電 天霧RO着』</ref><ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.29〔昭和18年12月〕『九(天候略)一.十一駆(天霧)〇七〇〇「カビエン」着/二.松風一四〇〇横須賀發』</ref>。
応急修理実施後、12月15日にトラック泊地へ到着<ref name="S1812三水戦(1)13" /><ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.6『十五日一一一五天霧駆逐艦長(宛略)天霧機密第一五一一一五番電 PT着』</ref>。
同日附で夕霧は除籍され<ref name="写真10夕霧年表" />、同時に第11駆逐隊も解隊された<ref name="叢書96付表1其1" /><ref name="S18内令2688">[[#内令昭和18年12月(2)]]p.46『内令第二千六百八十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年十二月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「玉波」ノ下ニ「、濱波」ヲ加フ』</ref><ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.6『十五日〇〇一二大臣|十五日〇八〇〇各鎮 各警 各艦隊長官|官房機密第一五〇〇一二番電 十五日附 一.駆逐隊編制中ヨリ第十一駆逐隊ヲ除カル 第三十二驅逐隊ニ浜波ヲ加ヘラル/二.略/三.夕霧ヲ駆逐艦籍ヨリ除カル』</ref>。
12月16日には<ref name="叢書96付表1其1" />、第三水雷戦隊司令官も[[伊集院松治]]少将から[[中川浩]]少将に交代した<ref>[[#叢書96|戦史叢書(96)]]442頁『第三水雷戦隊司令官交送』</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072094900|昭和18年12月17日(発令12月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1283号 p.2}}</ref>。中川は昭和10年~11年にかけての天霧駆逐艦長である<ref name="kp2638" /><ref name="kp2976" />。

=== 護衛任務 ===
[[1943年]](昭和18年)12月16日、トラック泊地在泊の天霧は、タンカー日栄丸から燃料補給を受ける<ref>[[#S18.12日栄丸日誌(1)]]p.3『十二月十五日一七三〇トラツク着投錨〔自十六日至二十五日 天霧、飛鷹、龍鳳、運輸丸〔第三圖南丸 第四海軍軍部〕燃料補給、殘油日章丸ニ移積』、p.29『一六(天候略)天霧燃料補給』</ref>。発揮可能速力は16ノットであったという<ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.15『十九日一九二五天霧駆逐艦長(宛略)天霧意味津第一九一九二五番電 工事完了出シ得ル速力一六節』</ref>。
12月20日、天霧はタンカー照川丸(五洋商船、6,432トン)<ref>[[#喪失一覧(2)]]p.32〔昭和18年12月(1943年)B〕『21|b|照川丸|6,432|五洋商船|雷撃|1-45N 151-56E』</ref>を護衛してトラック泊地を出発、サイパンに向かった<ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.12『十八日一〇五九GF長官(宛略)(GF機密第一八一〇五九番電)GF信電令作第四二號 南東方面部隊指揮官ハ天霧ヲシテ十二月二十日PT發照川丸ヲPS迄護衛(右行動中第二海上護衛隊司令官ノ指揮ヲ承ク)尓後GF信電令作第四一號ニ依リ行動セシムベシ』</ref><ref>[[#S17.04第二海護日誌(5)]]pp.65-66『二〇(天候略)天霧ハ照川丸護衛中第二海上護衛隊司令官ノ指揮ヲ承クベシ(聨合艦隊信電令作第四二號)|(略)二.天霧、照川丸ヲ護衛一一〇〇サイパンニ向ケトラック發』</ref>。
同時期、トラック泊地近海で行動していた米潜水艦[[スケート (潜水艦)|スケート]](''USS Skate, SS-305'')が照川丸を襲撃する。
[[12月21日]]0518、照川丸は{{coor dm|9|45|N|151|56|E|}}地点で被雷<ref>[[#S18.12二水戦日誌(1)]]pp.44『二一日〇八二〇天霧(宛略)天霧機密第二一〇八二〇番電 〇五一八照川丸北緯九度四五分東経一五一度六分ニ於テ右六〇度ヨリ雷撃ヲ受ク 魚雷一番船舟倉ニ一 機関室ニ一命中船橋ヨリ後方大火災航行不能船員全部退去|無電』</ref>、大火災となった<ref name="二海護(5)66">[[#S17.04第二海護日誌(5)]]pp.66-67『二一(天候略)(略)二.天霧護衛中ノ照川丸沈没セル爲二二三〇トラックニ向フ|一.〇五一八天霧船団護衛中北緯九度四五分東経一五一度五六分ニ於テ照川丸被害航行不能天霧制圧実施スルト共ニ乗員救助/二.〇六一五満潮 一二〇〇隠岐 一一〇〇金城丸哨区ヲ徹シ夫々照川丸救難対潜攻撃ノ爲トラック發/三.二一〇〇隠岐現場着掃蕩開始』</ref><ref name="S1812二水戦(1)8">[[#S18.12二水戦日誌(1)]]p.8『(3)下旬 二十一日GF電令作第七七號ニ依リ照川丸救難隊編成セラレ(司令官)2Sd指揮官トナリ濱風、電、響ヲ率ヒ仝日一一〇〇「トラック」発一九三〇現場着、照川丸大火災掃蕩及護衛部隊(満潮、隠岐、金城丸、天霧)ト共ニ警戒中二〇二〇沈没、掃蕩隊ヲ残シ翌二十二日帰着、満潮二十三日帰着』</ref>。
哨戒中の3隻(駆逐艦[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、海防艦[[隠岐 (海防艦)|隠岐]]、特設掃海艇金城丸)や<ref name="二海護(5)66" /><ref>[[#S18.12二水戦日誌(1)]]p.12『満潮(中略)二十一日 YB電令第十九號ニヨリ筥崎丸護衛ノ爲「トラック」発途中GF信令第七八號ニ依リ(司令官)2KEgノ指揮下ニ入リ任務変更照川丸ノ救難及對潜掃蕩ニ急行 隠岐 金城丸ヲ併セ指揮右任務ニ從事 照川丸沈没ノ後尚掃蕩続行セルモ手掛ヲ得ズ 二十三日早朝命ニ依リ現場発帰着(司令官)2KEgノ指揮ヲ解カル(以下略)』</ref>、トラック泊地で編成された救難隊(軽巡[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]《第二水雷戦隊司令官[[早川幹夫]]少将》、駆逐艦《[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]》)が派遣される<ref name="S1812二水戦(1)8" /><ref>[[#S18.12二水戦日誌(1)]]pp.44『二一日〇九五五(司令官)2Sd|能代 響 電 浜風(GF長官、2F長官、明石)|タナ六三 能代一一〇〇錨地発北水道ヨリ出撃ス 駆逐艦長ハ適宜出港北水道外方ニ於テ合同セヨ一一〇〇以後二十四節即時待機トナセ|信号』</ref><ref>[[#S18.12十戦隊日誌(1)]]p.6『(ル)濱風二〇日2Sd司令官ノ作戰指揮下ニ照川丸ノ救難作業ニ從事ス』</ref>。
同日夜、照川丸は沈没<ref name="S1812二水戦(1)8" /><ref>[[#S18.12二水戦日誌(1)]]p.10『(1)能代(中略)二十一日 能代、浜風、雷、電ヲ以テ照川丸救難隊編成セラル (司令官)2Sd指揮一一五二「トラック」発一九〇〇現場(9°-45′N 151°-56′E)着仝船大火災護衛隊及掃蕩隊(満潮、隠岐、天霧)ト共ニ警戒中二〇二〇沈没救難隊帰途ニ就ク/二十二日午前「トラック」帰着(以下略)』</ref>。
12月22日、照川丸乗員を乗せた天霧は、トラック泊地に戻った<ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.18『二十二日一〇一五天霧駆逐艦長(宛略)天霧機密第二二一〇一五番電 PT着』</ref><ref>[[#S17.04第二海護日誌(5)]]p.67『二二(天候略)(略)四.天霧一〇一五トラック帰投』</ref>。

12月26日<ref>[[#S18.12日栄丸日誌(1)]]p.4『4.四根電令作第九九號ニ依ル行動 十二月二十六日一五〇〇スラバヤ向發』</ref>、天霧は第30駆逐隊司令[[沢村成二]]大佐([[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]座乗)指揮のもと、駆逐艦2隻(卯月、天霧)でタンカー2隻(日栄丸、旭東丸)を護衛し、トラック泊地を出撃<ref>[[#S18.12日栄丸日誌(1)]]pp.15-16『十二月二十六日 第二海上護衛隊(ナラヱ)|30dg 43kg 天霧← 日榮丸← 旭東丸←|2KEg機密第二五一五五〇番電 第二海上護衛隊信電令作第一六三號(四根電令作第九九號)一.日榮丸、旭東丸明日二十六日一五〇〇スラバヤニ向ケ發セシム/二.第三十駆逐隊司令ハ卯月天霧ヲ併指揮、三〇日一六〇〇頃迄船団護衛ニ任ジタル後パラオニ回航スベシ/三.(第三十二駆逐隊)早波ヲシテ二九日一四〇〇北緯一二度五〇分東経一四〇度〇〇分ニテ右船團(針路二八九度、速力一四)ニ會合東経一三〇度線迄護衛ニ協力後パラオニ皈投セシムベシ』</ref><ref name="S1704二海護(5)70">[[#S17.04第二海護日誌(5)]]pp.70-71『二六(天候略)|第三〇駆逐隊司令ハ卯月、天霧ヲ指揮、日栄丸旭東丸パラオ迄護衛シ帰途船団護衛トラックニ帰投スベシ右行動ニ関シ 二護司令官ノ指揮ヲ受クベシ(聨合艦隊信令第四六號)|一.早波〇七一七パラオ着/二.天霧、卯月二隻 日榮丸 旭東丸ヲ護衛一六三五スラバヤニ向ケトラック發(東経一三五度迄護衛パラオニ回航)』</ref>。
12月29日、パラオ近海で夕雲型駆逐艦[[早波 (駆逐艦)|早波]](第32駆逐隊)が日栄丸船団(卯月、天霧、日栄丸、旭東丸)に合流<ref>[[#S18.12二水戦日誌(1)]]pp.13-14『(3)32dg(早波)(中略)二十八日「パラオ」発二十九日 日榮丸船団ニ合同天霧ヨリ護衛任務ヲ引継ギ護衛續行』</ref><ref name="S1704二海護(5)72">[[#S17.04第二海護日誌(5)]]pp.72-73『二九(天候略)|一.早波(天霧、卯月、日榮丸、旭東丸)船団ニ 一三〇〇合同護衛開始(略)三.卯月、天霧二隻日榮丸船団護衛ヲ早波ト交代ス卯月ハ先航一四〇〇パラオ着』</ref>。卯月は先にパラオへ向かった<ref name="S1704二海護(5)72" /><ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.23『三十日一三〇〇30dg司令(宛略)30dg機密第三〇一三〇〇番地 卯月天霧二十九日一四〇〇日栄丸船團護衛ヲ早波ト交代卯月ハ先行PP着』</ref>。
12月31日、天霧も予定通り船団護衛任務をやめ<ref name="S1704二海護(5)70" />、パラオに到着した<ref>[[#S17.04第二海護日誌(5)]]pp.74-75『三一(天候略)(略)三.天霧〇九三〇日榮丸旭東丸護衛ヲ止メパラオ着』</ref><ref>[[#S18.12三水戦日誌(2)]]p.24『三十一日〇九三〇天霧駆逐艦長(宛略)天霧機密第三一〇九三〇番電 PP着』</ref>。

[[1944年]](昭和19年)1月9日、天霧は陸軍特殊船[[にぎつ丸]]を護衛してパラオを出発<ref name="志賀兵科52" /><ref>[[#S18.12三水戦日誌(6)]]p.61〔昭和19年1月〕『九(天候略)一.文月〇八〇〇「トラツク」着/二.天霧にぎつ丸護衛〇九〇〇呉ニ向ケ「パラオ」發(以下略)』</ref>、日本にむかった<ref>[[#S18.12呉防戦(2)]]p.27『九日一六三四 2KEg(司令官)パラオ方面|十日〇七二五(司令官)(宛略)|二海護パラオ機密第〇九一六三四番電 フ九〇一船団A船にぎつ丸〔宇品〕護衛艦天霧一月九日〇九〇〇西口発速力一四節 A点二〇度〇〇分E一三二度一四分 B点〃三〇度四〇分〃一三四度二〇分 ヲ経テ十四日一五三〇深島着』</ref><ref>[[#S18.12三水戦日誌(5)]]p.12『自一月九日 至一月十五日 天霧 にぎつ丸自「パラオ」至呉間護衛』</ref>。
[[1月12日]]夜、米潜水艦[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]](''USS Hake, SS/AGSS-256'')は2隻(天霧、にぎつ丸)を襲撃する<ref>[[#S19.01.01-01.15経過概要]]p.36『19-1|12|1901|にぎつ丸(陸軍9547t)「パラオ」ヨリ豊後水道ヘ航行中「沖ノ大東島」ノ南東約130′ニ於テ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|内地|沈没 護衛艦天霧掃蕩竝ニ救難ニ從事』</ref>。
雷撃を受けた「にぎつ丸」(日本海運、9,547トン。[[大発動艇]]輸送特殊艦)は<ref>[[#喪失一覧(2)]]p.34〔昭和19年1月(1944年)A〕『12|a|にぎつ丸|9,547|日本海運|雷撃|沖大東島沖23-15N 132-51E』</ref><ref>[[#高松宮七|高松宮日記7巻]]221頁『○にぎつ丸』</ref>、{{coor dm|23|15|N|132|52|E|}}地点で沈没<ref>[[#S18.12呉防戦(2)]]p.4『一二|一九〇〇|二三-一五|一三二-五一|雷撃にぎつ丸沈没ス』</ref><ref>[[#S18.12呉防戦(2)]]p.34『十三日〇三一〇呉鎭(長官)(宛略)呉鎭機密第一三〇〇三五番電 十二日一九〇〇北緯二三度一五分東経一三二度五二分ノ地点ニ於テにぎつ丸敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ一九二五沈没附近天霧制圧中ナルモ貴隊ノ協力ヲ得度』</ref>。
天霧<ref>[[#S18.12呉防戦(2)]]p.35『十三日一二〇〇呉鎭(長官)|十三日一四〇〇天霧艦長 呉防戰(司令官)|呉鎭機密第一三一二〇〇番電 呉囘航ノ途次宇品ニ寄港にぎつ丸遭難者ヲ同地ニテ揚陸セシメラレ度』</ref>や各艦・各部隊は生存者の救助をおこなった<ref>[[#S18.12呉防戦(2)]]p.36『十三日一七五〇呉防戰司令官(宛略)呉防戰機密第一三一七五〇電 電令第一五〇號 十二日一九〇〇N二三度一五分E一三二度五一分ニ於テにぎつ丸遭難沈没人員ハ天霧ニ収容セルモ其ノ後飛行機偵察ニ依レバ人員ハ尚約三〇名漂流中 怒和島ハ二八度線ニ至ラバ船団ヨリ分離シ右遭難現場ニ急行人員救助並ニ要スレバ重要浮流物件ノ揚収ニ任ズベシ』</ref>。
1月15日、天霧は呉に帰投<ref>[[#S18.12三水戦日誌(5)]]pp.16-17『(四)麾下竝ニ一時指揮下ニ入リタル艦船部隊ノ行動(イ)麾下艦船部隊』(天霧)</ref><ref>[[#S18.12三水戦日誌(5)]]p.64『一月十六日一二三〇天霧(宛略)機密第一五一二三〇番電 呉着』</ref>。修理をおこなう<ref>[[#S18.12三水戦日誌(5)]]p.15『天霧 十五日呉着修理ニ從事二月下旬完成ノ予定』</ref><ref>[[#S18.12三水戦日誌(6)]]p.2『一月十九日〇〇〇五天霧|一月十九日(一三三〇)|機密第一九一〇四五番電 修理整備二月二十二日終了ノ予定』</ref>。
2月下旬、修理完成<ref>[[#S19.02三水戦日誌(1)]]pp.18-19『9.修理整備實施ノ概要(略)』『天霧|一.一五|二.二八|呉|二月二十四日工事完成二十五日出發桂島ニテ訓練ニ從事中主砲方位盤旋回装置故障二十七日再ビ呉ニテ修理實施二十八日完成』</ref><ref name="S1912三水戦(1)25">[[#S19.02三水戦日誌(1)]]pp.25-27『(四)麾下及一時指揮下ニ入リタル艦船ノ行動(イ)麾下艦船』(天霧ハ三月一日附3sdヨリ除カル)</ref>。輸送船団護衛任務のため、呉から門司に回航された<ref name="S1912三水戦(1)25" /><ref>[[#S19.02三水戦日誌(3)]]p.58(昭和19年2月)『二九(天候略)一.天霧〇七三〇門司ニ向ケ呉發/二.松風〇六〇〇横須賀ニ向ケ父島發|一.夕凪修理工事完成/二.天霧南西方面船團護衛任務ノ爲門司ニ回航ス』</ref>。

3月1日、天霧は第三水雷戦隊から除かれる<ref name="S1912三水戦(1)25" />。同日附で、天霧駆逐艦長は花見少佐から<ref name="jirei1354">{{アジア歴史資料センター|C13072096400|昭和19年3月1日(発令3月2日)海軍辞令公報(部内限)第1354号 p.7花見弘平少佐(免天霧艦長)横須賀鎮守府附被仰付}}</ref>、[[吉永源]]少佐(当時、駆逐艦[[帆風 (駆逐艦)|帆風]]艦長)に交代<ref name="jirei1351">{{アジア歴史資料センター|C13072096300|昭和19年3月1日(発令3月1日)海軍辞令公報(部内限)第1351号 p.35吉永(免帆風艦長)・染谷英一大尉(補帆風艦長)}}</ref>。また天霧は'''第19駆逐隊'''に編入され、19駆は吹雪型3隻([[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、天霧)編成となった<ref name="志賀兵科52" /><ref name="S19内令388">[[#内令昭和19年3月(1)]]p.8『内令第三百八十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ』</ref>。
同日<ref name="写真10天霧年表" /><ref>[[#S18.12第一海護日誌(2)]]pp.55-57『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』</ref>、天霧は掃海艇30号と共に「モタ07船団」として門司を出撃<ref name="S1812一海護(2)59">[[#S18.12第一海護日誌(2)]]pp.59-61『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ二)天霧』</ref><ref name="S1812第一海護(2)72">[[#S18.12第一海護日誌(2)]]p.72『別表第三 舩団護衛状況(台湾航路)昭和十九年三月』</ref>。2-3日に鹿児島([[山川漁港|山川港]]、爆雷搭載のため)<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]63頁</ref>に停泊したあと、3月9日に[[高雄港]](台湾)到着<ref name="S1812一海護(2)59" /><ref name="S1812第一海護(2)72" />。しばらく高雄港で待機する<ref name="S1812一海護(2)59" />。高雄滞在中に花見少佐は天霧を退艦、吉永新艦長が着任した<ref name="志賀兵科52" />。
3月13日、海防艦[[干珠 (海防艦)|干珠]]と共に「ヒ53船団」を護衛して南下し<ref name="S1812第一海護(2)71">[[#S18.12第一海護日誌(2)]]p.71『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年三月』</ref>、3月18日にシンガポール到着<ref name="写真10天霧年表" /><ref name="S1812一海護(2)59" />。第一海上護衛隊の指揮下を離れた<ref name="S1812一海護(2)59" />。3月25日には、シンガポールで19駆3隻(天霧、浦波、敷波)幹部を集め、懇親会をおこなったという<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]61-62頁</ref>。

[[4月2日]]午前4時40分、護衛艦艇3隻(天霧、海防艦[[松輪 (海防艦)|松輪]]、水雷艇[[鳩 (鴻型水雷艇)|鳩]])の「ヒ55船団」<ref name="S1812第一海護(2)71" />を米潜水艦([[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]])が襲撃<ref name="S19.04.02経過">[[#S19.04.01-04.20経過概要]]p.4『19-4|2|0440|海軍所属油槽船たらかん丸(5135t)ハ六隻船團ニ加入、松輪、天霧、鳩護衛ノ下ニ門司ヨリ昭南ニ向ケ航行中昭南西方約120′附近ニテ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|菲蘭 横運|船橋ヨリ前部切断セシモ辛ウジテ自力航行(SP4kt)ヲ續行シツヽアリ』</ref>。
油槽船「たらかん丸」が被雷して船体前部切断、最大速力4ノットとなる<ref name="S19.04.02経過" /><ref>[[#S19.04船舶被害損傷]]p.2『19-4|2|0440|昭南西方約120′|たらかん丸|菲蘭 横運|五一三五|松輪外二隻|敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ辛ウジテ自力航行(SP4kt)』</ref>。「たらかん丸」は辛うじて沈没を免れ、ヒ55船団もそれ以上の損害なくシンガポールに到着した<ref name="S1904第一海護(1)13">[[#S19.04第一海護日誌(1)]]pp.13-15『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年4月)</ref><ref name="S1904第一海護(1)31">[[#S19.04第一海護日誌(1)]]p.31『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年四月』</ref>。

天霧がシンガポールに進出した4月上旬、同地所在の第十六戦隊(司令官[[左近允尚正]]少将。重巡[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、軽巡[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]、[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]])は、シンガポール~[[ダバオ]](フィリピン南部)への輸送作戦に従事していた(軽巡[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]はシンガポールで修理中)<ref>[[#船体行動調書]]p.16(第16戦隊)『四、一~七 (司令官)青葉 大井 鬼怒 19dg昭南「ダバオ」間輸送』</ref><ref name="軽巡海戦83">[[#松田軽巡2017|軽巡海戦史]]83-84頁『赤痢発生で決戦不参加』</ref>。天霧も第十六戦隊と共に行動、輸送作戦に従事した<ref name="青葉行動" /><ref name="木俣軽巡521" />。これより少し前(3月上旬)、オーストラリアから出撃してきたアメリカ海軍の潜水戦隊が、マラッカ海峡に機雷を敷設していた<ref name="木俣軽巡521" />。
4月20日、3隻(巡洋艦《青葉、大井》、駆逐艦《天霧》)はシンガポールを出撃<ref name="青葉行動" />、ダバオ(フィリピン)に向かう<ref name="写真10天霧年表" /><ref>[[#船体行動調書]]p.16(第16戦隊)『四、一八~二七 青葉 大井 19dg「ピナン」「ダバオ」間輸送』</ref>。航海中の[[4月23日]]午後<ref name="軽巡海戦83" />、天霧は[[マカッサル海峡]]で触雷<ref name="志賀兵科52" />。午後2時53分、{{coor dm|2|12|S|116|45|E|}}地点で沈没した<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]58-59頁</ref>。艦長以下大多数の幹部は生還したが、機関長西之園(にしのその)茂大尉は脱出せずに自決<ref name="志賀ブルー31" /><ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]60-61頁</ref>。天霧生存者は同航2隻(青葉、大井)に収容された<ref name="青葉行動" /><ref name="木俣軽巡521" />。

5月1日附で吉永源少佐(天霧駆逐艦長)と[[志賀博]]大尉(旧姓保坂、天霧水雷長)は、それぞれの職務を解かれた(2名とも呉鎮守府附)<ref name="jirei1449">{{アジア歴史資料センター|C13072097900|昭和19年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1449号 p.39吉永・保坂免職}}</ref>。その後、生存者達は次々に転任<ref name="志賀兵科133">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]133-134頁『雑木林の真価』</ref>。山崎健太郎中尉(天霧航海長)は秋月型駆逐艦[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]艤装員<ref name="jirei1465">{{アジア歴史資料センター|C13072098100|昭和19年5月8日(発令5月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1465号 p.20}}</ref>、金沢繁雄大尉(天霧砲術長)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年5月17日(発令5月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1473号 p.24}}</ref>は駆逐艦[[長波 (駆逐艦)|長波]]水雷長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099400|昭和19年6月1日(発令6月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1497号 p.4}}</ref>、志賀博大尉<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年5月17日(発令5月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1473号 p.24}}</ref>は松型駆逐艦駆逐艦[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]艤装員<ref name="jirei1475" />(竣工後は水雷長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月22日(発令6月16日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1518号 p.7}}</ref>)となる<ref name="志賀兵科133" />。
吉永源少佐(元天霧艦長)は横須賀鎮守府附となった後<ref name="jirei1475">{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年5月20日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1475号 p.32吉永(補横鎮附)、p.33保坂(補竹艤装員)}}</ref>、6月2日附で松型駆逐艦[[松 (松型駆逐艦)|松]]艦長となるが<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099400|昭和19年6月3日(発令6月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1502号 p.45}}</ref>、[[スカベンジャー作戦]]における松沈没時に戦死した(任、海軍中佐)<ref name="志賀兵科133" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072107900|昭和20年10月8日(発令昭和19年8月4日付)海軍辞令公報(甲)第1944号 p.4}}</ref>。

6月10日、天霧は
帝国駆逐艦籍<ref>[[#内令昭和19年6月]]pp.13-15『内令第七百四十六號 佐世保鎭守府警備敷設艇 敷設艇 鴎 右役務ヲ解カル/横須賀鎭守府在籍 軍艦 夕張 右帝國軍艦籍ヨリ除カル/横須賀鎭守府在籍 驅逐艦 雷 驅逐艦 電 驅逐艦 秋雲/呉鎭守府籍 驅逐艦 天霧 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル/横須賀鎭守府在籍 伊號第二潜水艦/呉鎭守府在籍 伊號第三十二潜水艦 伊號第百六十九潜水艦 伊號第百七十四潜水艦 右帝國潜水艦隻ヨリ除カル/佐世保鎭守府在籍 第七號掃海艇 右帝國掃海艇籍ヨリ除カル/佐世保鎭守府在籍 敷設艇 鴎 右帝國敷設艇籍ヨリ除カル  昭和十九年六月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>
および[[吹雪型駆逐艦|初雪型駆逐艦]]<ref>[[#内令昭和19年6月]]pp.9-10『内令第七百四十一號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎  軍艦、巡洋艦二等ノ部中夕張ノ項ヲ削ル/驅逐艦、一等初雪型ノ項中「天霧」「、雷、電」ヲ、同不知火型ノ項中「、秋雲」ヲ削ル(以下略)』</ref>より除籍。第19駆逐隊よりも削除され、19駆は初雪型2隻(浦波、敷波)に減少した<ref name="S19内令743">[[#内令昭和19年6月]]p.12『内令第七百四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年六月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「秋雲、」ヲ削ル|第十九驅逐隊ノ項中「、天霧」ヲ削ル』</ref>。


== 魚雷艇「PT-109」との衝突 ==
== 魚雷艇「PT-109」との衝突 ==
*[[ジョン・F・ケネディ]]中尉が艦長として率いていた魚雷艇、[[:en:Motor Torpedo Boat PT-109|PT-109]]は、1943年8月2日にソロモン諸島の近くのニュージョージアの西を哨戒していた時に、「天霧」との偶発的な接触事故によって艇体を引き裂かれた。後日1952年上院選1960年大統領選には、天霧」の元乗員一同ら激励色紙を贈られている。
*[[ジョン・F・ケネディ]]中尉が艦長として率いていた魚雷艇、[[:en:Motor Torpedo Boat PT-109|PT-109]]は、1943年8月2日にソロモン諸島の近くのニュージョージアの西を哨戒していた時に、「天霧」との偶発的な接触事故によって艇体を引き裂かれた。天霧に乗艦していた第11駆逐隊司令[[山代勝守]]大佐は<!-- 白雪と初雪は沈没夕霧は内地修理中、最前線第11駆逐隊所属艦は天霧のみ -->魚雷艇に衝突してしまうと魚雷誘爆により自艦方も損傷してしまう危険もあるので、回避のために「[[取舵]]」を指令した<ref name="艦長1984続213">[[#艦長続1984|佐藤1984、艦長たち続篇]]213-214頁『ケネディ艇の出現』</ref>。砲撃を行うには魚雷艇の位置が近すぎまた艦首方向に発砲すると砲炎の閃光で視界を奪われてしまうからである<ref name="艦長1984続213" /><ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]34頁</ref>。花見弘平[[少佐]](天霧駆逐艦長)は「[[面舵]]と号令してしまうも、すぐに気がつき「取舵」と修正して号令したが、間に合わず損傷してしまった<ref>[[#艦長続|艦長たち太平洋戦争<続編>]]387-393頁『ケネディ艇の出現』『ついに衝撃撃破』</ref>。なお、司令が階級上位であっても操艦についての責任は艦長にあるため、司令の回避指示は越権行為に該当する。山代は「司令によっては艦長ま人もいるし、細かくやる人もいるが、私(山代)は何でも自分やった」と回想している<ref name="艦長1984続213" />
*花見は「右十度! 前進全速!」を命じ、意図的に魚雷艇に衝突したと回想している<ref name="完本上355">[[#完本P.W上|完本太平洋戦争上]]355-356頁『前進全速、体当りだ』</ref>。
*たまたま本艦に乗艦していた第11駆逐隊司令:[[山代勝守]][[大佐]]が、魚雷艇に衝突してしまうと魚雷の誘爆により自艦の方も損傷してしまう危険もあるので、回避のために「[[取舵]]」を指令した。艦長:花見弘平[[少佐]]は「[[面舵]]」と号令してしまうも、すぐに気がつき「取舵」と修正して号令したが、間に合わず損傷してしまった。なお、司令が階級上位であっても操艦についての責任は艦長にあるため、司令の回避指示は越権行為に該当する。回避操作については、緊急回避は面舵一杯が艦船の通例である。
*ケネディ中尉乗艇のPT-109(魚雷4本搭載、37mm砲1門、乗員13名)は戦時急造の木製であった<ref name="志賀兵科25">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]25-26頁『闇の中の混乱』</ref>。[[レンドバ島]]の米軍基地には魚雷艇15隻が配備されており、当日も全隻が出動していた<ref name="志賀兵科25" />。[[レーダー]]を装備していた魚雷艇もあったが、各部隊・各魚雷艇間の連絡・連繋が全くとれておらず、各魚雷艇合計魚雷30本を発射しながら1本も命中しなかった<ref name="志賀兵科30">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]30-32頁</ref>。PT-109も敵情・自軍状況を充分把握しておらず、とりあえず命令に従って哨戒行動中であった<ref name="志賀兵科30" />。
*ケネディ中尉乗艇のPT-109は戦時急造の木製であったため、簡単に艇体を真っ二つに引き裂かれてしまった。本来、素早い速度で航行し肉薄攻撃するのが魚雷艇本来の能力であるため、速度が速い魚雷艇との衝突は滅多にないが、当時PT-109は日本軍の航空機による攻撃を避けるため、騒音および航跡を残さないように、三基の内二基を使用しない、減軸運転を行っていた。ゆえに速度が遅いまま航行していたので魚雷艇側も舵の効きが鈍く、回避が困難であった。
*素早い速度で航行し肉薄攻撃を敢行するのが魚雷艇の能力であるため、敵艦と衝突する事は滅多にない。だが当時PT-109は日本軍の航空機による攻撃を避けるため、騒音および航跡を残さないように、三基の内二基を使用しない、減軸運転を行っていた。ゆえに速度が遅いまま航行していたので魚雷艇側も舵の効きが鈍く、回避が困難であった。
*「天霧」の損傷は艦首のわずかな亀裂と右スクリューの翼が曲がった程度であり、その後の航海には支障はなかった。
*「天霧」の損傷は艦首のわずかな亀裂と右スクリューの翼が曲がった程度であり、その後の航海には支障はなかった<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]38-39頁</ref><ref name="艦長1984続216">[[#艦長続1984|佐藤1984、艦長たち続]]216-217頁『粉砕された「PT109号艇」』</ref>。
*当時の「天霧」の乗員はPT-109の乗員の全員の戦死を確信し、そのように報告した。そして報告を受けた軍令部は天霧が魚雷艇を踏み潰したとして賞賛した。
*当時の「天霧」の乗員はPT-109の乗員の全員の戦死を確信し、そのように報告した<ref name="艦長1984続216" />。そして報告を受けた第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐(旗艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]])は、天霧が魚雷艇を踏み潰したとして賞賛した<ref name="艦長1984続213" />。また日本の新聞にも掲載された<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]13-15頁『不沈艦の威風』</ref>。
*PT-109の乗組員は2名が戦死、生存者11名(ケネディ中尉含む)は[[コースト・ウォッチャーズ]]に救助された<ref>[[#完本P.W上|完本太平洋戦争上]]358-359頁</ref>。
*1951年(昭和26年)秋、ジョン・F・ケネディは下院議員として来日、花見(元天霧艦長)との面会を希望したが、日程上かなわず帰国した<ref name="完本350">[[#完本P.W上|完本太平洋戦争上]]350頁</ref>。花見とケネディは手紙を文通する仲になったという<ref name="完本350" />。後日、1952年の上院選、1960年の大統領選の際には、「天霧」の元乗員一同から激励の色紙を贈られている<ref>[[#完本P.W上|完本太平洋戦争上]]359-360頁『太平洋を越えた友情』</ref>。
* 映画『魚雷艇109』[[:en:PT 109 (film)|(英語)]]として暗殺の5ヶ月前に公開され、日本でも公開された。
* 映画『魚雷艇109』[[:en:PT 109 (film)|(英語)]]として暗殺の5ヶ月前に公開され、日本でも公開された。


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<small>※『艦長たちの軍艦史』279-280頁による。</small>
<small>※『艦長たちの軍艦史』279-280頁による。</small>
===艤装員長===
===艤装員長===
#帖佐敬吉 中佐:1930年6月20日 - 
#帖佐敬吉 中佐:1930年6月20日<ref name="kp1042" /> - 1930年11月10日<ref name="kp1161" />


===艦長===
===艦長===
#帖佐敬吉 中佐:1930年11月10日 - 1931年12月1日
#帖佐敬吉 中佐:1930年11月10日<ref name="kp1161" /> - 1931年12月1日<ref name="kp1478" />
#広瀬末人 中佐:1931年12月1日 - 1932年5月16日<ref>『官報』第1612号、昭和7年5月18日。</ref>
#広瀬末人 中佐:1931年12月1日<ref name="kp1478" /> - 1932年5月16日<ref name="kp1612" />
#金桝義夫 少佐:1932年5月16日 - 12月1日
#金桝義夫 少佐:1932年5月16日<ref name="kp1612" /> - 1932年12月1日<ref name="kp1778" />
#[[博義王]] 少佐:1932年12月1日 - 1933年10月10日<ref>『官報』第2035号、昭和8年10月11日。</ref>
#[[博義王]] 少佐:1932年12月1日<ref name="kp1778" /> - 1933年10月10日<ref name="kp2029" />
#佐藤俊美 中佐:1933年10月10日 - 1935年10月15日
#佐藤俊美 中佐:1933年10月10日<ref name="kp2029" /> - 1935年10月15日<ref name="kp2638" />
#中川浩 中佐:1935年10月15日 - 1936年12月1日
#中川浩 中佐:1935年10月15日<ref name="kp2638" /> - 1936年12月1日<ref name="kp2976" />
#(兼)松原博 中佐:1936年12月1日 - 1936年12月12日
#(兼)松原博 中佐:1936年12月1日<ref name="kp2976" /> - 1936年12月12日<ref name="kp2986" />
#原為一 少佐:1936年12月12日<ref>『官報』第2986号、昭和11年12月14日。</ref> - 1937年12月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072072700|海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日}}</ref>
#原為一 少佐:1936年12月12日<ref name="kp2986" /> - 1937年12月1日<ref name="jirei99" />
#[[中原義一郎]] 少佐:1937年12月1日 - 1940年9月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072078800|海軍辞令公報(部内限)第521号 昭和15年9月2日}}</ref>
#[[中原義一郎]] 少佐:1937年12月1日<ref name="jirei99" /> - 1940年9月1日<ref name="jirei521" />
#芦田部一 中佐:1940年9月1日 -
#芦田部一 中佐:1940年9月1日<ref name="jirei521" /> - 1943年5月25日<ref name="jirei1124" />
#花見弘平 少佐:1943年5月25日 -
#花見弘平 少佐:1943年5月25日<ref name="jirei1124" /> - 1944年3月1日<ref name="jirei1354" />
#吉永源 少佐:1944年3月1日 -
#吉永源 少佐:1944年3月1日<ref name="jirei1354" /> - 1944年5月1日<ref name="jirei1449" />


==脚注==
== 参考文献 ==
<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 -->
{{Reflist}}
*<!-- キマタ1986 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1986|month=3|title=日本水雷戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣水雷}}

*<!-- キマタ1989 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|month=3|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣軽巡}}
==参考文献==
*<!-- サトウ1984 -->{{Cite book|和書|author={{small|ノンフィクション作家}}佐藤和正|year=1984|month=4|title=艦長たちの太平洋戦争 続篇 {{small|17人の艦長が語った勝者の条件}}|chapter=命令誤認〈砲艦「橋立」艦長・山代勝守大佐の証言〉|publisher=光人社|isbn=4-7698-0231-5|ref=艦長続1984}}
* 佐藤和正『艦と乗員たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、[[2004年]](平成16年)。ISBN 4-7698-2432-7
*<!-- サトウ1995 -->{{Cite book|和書|author=佐藤和正|year=1995|month=12|title=艦長たちの太平洋戦争<続篇>|publisher=光人社|ISBN=
4-7698-2106-9|ref=艦長続}}
**山代勝守『命令誤認 {{small|<砲艦『橋立』艦長・山代勝守大佐の証言>}}』
*<!-- サトウ2004 -->佐藤和正『艦と乗員たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、[[2004年]](平成16年)。ISBN 4-7698-2432-7
*<!-- シガ1985 -->{{Cite book|和書|author={{small|駆逐艦「天霧」先任将校}}志賀博|year=1985|month=3|title=海軍兵科将校|chapter=|publisher=光人社|isbn=4-7698-0264-1|ref=志賀1985}}
*<!-- シガ1987 -->{{Cite book|和書|author=志賀博|year=1987|month=11|title={{small|若き同期の桜の生涯}} 魚雷艇の二人|chapter=第二部 魚雷艇戦記|publisher=光人社|isbn=4-7698-0365-6|ref=志賀魚雷艇}}
*<!--シガ1989 -->{{Cite book|和書|author=[[志賀博]]|chapter=|title=最後のネイビーブルー {{small|回想の復員輸送艦秘話}}|publisher=光人社|year=1989|month=9|origyear=|ISBN=4-7698-0472-5|ref=志賀ブルー}} 志賀は天霧水雷長を経て、[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]竣工から除籍まで竹水雷長。
*<!--シガ2016 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=4|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref=志賀、物語}}
**{{small|当時「天霧」水雷長・海軍大尉}}志賀博『特型「天霧」「夕霧」セントジョージ岬沖海戦 {{small|恐るべしバーク戦法。ブカ輸送に殉じた夕雲型巻波、大波と夕霧の悲劇}}』
**{{small|戦史研究家}}大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり {{small|太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情}}』
*<!--シゲモト2014 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|year=2014|month=10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref=陽炎型(2014)}}
**{{small|当時「嵐」水雷長・海軍大尉}}宮田敬助『第四駆逐隊「嵐」「萩風」ベラ湾夜戦に死す {{small|昭和十八年八月六日夜、コロンバンガラ輸送の途次に魚雷をうけて三隻沈没}}』
**{{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』
*<!--タカマツ -->{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=嶋中鵬二発行人|title=高松宮日記 第五巻 {{small|昭和十七年十月〜昭和十八年二月十一日}}|publisher=中央公論社|year=1996|month=11|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮五}}
*<!--タカマツ -->{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=嶋中鵬二発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年二月十二日〜九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=3|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮六}}
*<!--タカマツ -->{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=嶋中鵬二発行人|title=高松宮日記 第七巻 {{small|昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=7|ISBN=4-12-403397-4|ref=高松宮七}}
*外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
*外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
*<!--ハラ2011 -->{{Cite book|和書|author=[[原為一]]|coauthors=|year=2011|month=7|origyear=1955|title=帝国海軍の最後|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24557-7|ref=原(復刻版)}}
*<!-- ブンゲイ -->{{Cite book|和書|author=文藝春秋編|year=1991|month=12|chapter=花見弘平 ケネディを沈めた男|title=完本・太平洋戦争(上)|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-345920-0|ref=完本P.W上}}
*<!--ホウエイチョウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title={{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|volume=第26巻|year=1969|month=5|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書26}}
*<!--ホウエイチョウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 {{small|比島・マレー方面}}海軍進攻作戦|volume=第27巻|year=1969|month=3|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref=叢書27}}
*<!--ホウエイチョウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ミッドウェー海戦|volume=第43巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書43}}
*<!--ホウエイチョウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦(1) {{small|ガ島奪還作戦開始まで}}|volume=第49|year=1971|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書49}}
*<!--ホウエイチョウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦(2) {{small|ガ島撤収まで}}|volume=第83巻|year=1975|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書83}}
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*<!--マツダ2017-->{{Cite book|和書|author=松田源吾ほか|title=軽巡海戦史 {{small|駆逐艦を率いて突撃した戦隊旗艦の奮戦と最後}}|editor=|publisher=潮書房光人社|date=2017-3|isbn=978-4-7698-1639-3|ref=松田軽巡2017}}
**{{small|当時「大井」航海長・海軍少佐}}谷井徳光『巡洋艦「大井」南西方面丸通作戦の果てに {{small|四連装発射管十基を擁した重雷装艦も出番なく遂に敵潜の餌食に}}』
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*<!-- レキシ -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|coauthors=|year=1998|month=5|title=水雷戦隊I 特型駆逐艦 {{smaller|米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌}}|publisher=学習研究社|series=歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18|isbn=4-05-601768-9|ref=歴群18}}

*[http://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルライブラリー] - [[国立国会図書館]]
**{{Cite book|和書|author=海軍有終会編|year=1935|month=11|title=幕末以降帝国軍艦写真と史実|publisher=海軍有終会|url={{NDLDC|1466489}}|ref=幕末史実}}
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**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1940|month=7|title=日本軍艦集 2600年版|url={{NDLDC|1903831}}|publisher=海軍研究社|ref=軍艦集2600}}
**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1939|month=|title=海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)|url={{NDLDC|1886711}}|publisher=海軍大臣官房|ref=海軍制度沿革(巻4、1939)}}
**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1940|month=|title=海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)|url={{NDLDC|1886716}}|publisher=海軍大臣官房|ref=海軍制度沿革(巻8、1940)}}
**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1940|month=|title=海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)|url={{NDLDC|1886713}}|publisher=海軍大臣官房|ref=海軍制度沿革(巻11、1940)}}

* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070090100|title=昭和3年 達 完/達昭和3年9月|ref=達昭和3年9月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05021139800|title=第640号 5.5.28駆逐艦天霧進水式活動写真撮影許可の件|ref=天霧進水撮影許可}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05021175300|title=公文備考昭和5年F艦船巻2役務行動1/進水|ref=進水}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C11080520100|title=第3195号 建造中の駆逐艦及び潜水艦に関する件|ref=建造中駆逐艦潜水艦}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071969000|title=昭和11年12月11日現在10版内令提要追録第1号原稿/巻3 追録/第13類 艦船|ref=艦船(昭和11年12月1日現在)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071968200|title=昭和11年12月11日現在10版内令提要追録第1号原稿/巻1 追録/第6類 機密保護|ref=艦船要目(昭和11年12月1日現在)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071995700|title=昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿/ 巻1追録/第2類編制(1)|ref=駆逐隊編制(昭和16年6月30日)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C04015977600|title=土国駆逐艦本邦注文に関する件(2)/昭和2年 公文備考 巻133|ref=昭和2年公文備考巻133}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070089800|title=昭和3年達完/6月|ref=達昭和3年6月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05035323800|title=公文備考昭和11年P会議巻3(機関長会議2)/帝国海軍造艦術進歩の現状|ref=帝国海軍造艦術進歩の現状}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14120970600|title=支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊 潜水隊 水雷隊 掃海隊 海軍武功調査/20駆隊機密第47号の42 第20駆逐隊支那事変第8回功績概見表|ref=20dg第8回功績}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14120980000|title=支那事変 第9回功績概見表綴 海軍武功調査/支那事変第9回駆逐隊功績概見表/20駆隊機密第39号の136 第20駆逐隊支那事変第9回功績概見表|ref=20dg第9回功績}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14120988800|title=支那事変 第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/20駆隊機密第39号の7 第20駆逐隊支那事変第10回功績概見表|ref=20dg第10回功績}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070160500|title=昭和17年1月~3月 内令 1巻/昭和17年1月(2)|ref=S17.1-3内令1巻/昭和17年1月(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070161200|title=昭和17年1月~3月 内令1巻/昭和17年3月(1)|ref=内令昭和17年3月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070165700|title=昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1)|ref=内令昭和17年10月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070173700|title=昭和17年11月(4) 内令(昭和17年11月17日~昭和17年11月25日)|ref=内令昭和17年11月(4)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070175600|title=昭和18年1月~4月 内令1巻/昭和18年2月(4)|ref=内令昭和18年2月(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070176200|title=昭和18年1月~4月 内令1巻/昭和18年4月(1)|ref=内令昭和18年4月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070181400|title=昭和18年9月~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)|ref=S18.9-10内令4巻/昭和18年10月(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070182700|title=昭和18年11~12月内令5巻/昭和18年12月(2)|ref=内令昭和18年12月(2)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070195400|title=昭和19年1月~7月 内令/昭和19年6月|ref=内令昭和19年6月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030022500|title=昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)|ref=第八艦隊日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030022600|title=昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)|ref=第八艦隊日誌(2)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116200|title=昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)|ref=S17.12四水戦日誌(3)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030402500|title=昭和18年1月1日~昭和18年1月25日 佐伯防備隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1801佐伯防備隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030105800|title=昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S18.07三水戦日誌(1)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030106000|title=昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S18.07三水戦日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030106100|title=昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S18.07三水戦日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030106200|title=昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S18.07三水戦日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030726100|title=昭和18年8月 第3水雷戦隊戦闘詳報 ホラニュー輸送支援作戦.ベララベラ沖海戦(1)|ref=S1808三水戦詳報(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030726200|title=昭和18年8月 第3水雷戦隊戦闘詳報 ホラニュー輸送支援作戦.ベララベラ沖海戦(2)|ref=S1808三水戦詳報(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116900|title=昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S18.05四水戦日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030117000|title=昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S18.05四水戦日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030117100|title=昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S18.05四水戦日誌(3)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030140200|title=昭和18年12月1日~昭和19年3月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)|ref=S18.12第一海護日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030140300|title=昭和18年12月1日~昭和19年3月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)|ref=S18.12第一海護日誌(2)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08050010000|title=昭和16年~20年 喪失船舶一覧表(2)|ref=喪失一覧(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120638400|title=昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7/第三段作戦19年1月1日~19年1月15日|ref=S19.01.01-01.15経過概要}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120641900|title=昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要 その8/第三段作戦(船舶被害「損傷」之部)|ref=S19.04船舶被害損傷}}

==脚注==
{{Reflist|2}}


== 関連項目 ==
*[[ジョン・F・ケネディ]]
*[[あさぎり型護衛艦]]
**[[あまぎり (護衛艦)]]


{{吹雪型駆逐艦}}
{{吹雪型駆逐艦}}

2017年9月15日 (金) 01:38時点における版

天霧
天霧
天霧
基本情報
建造所 石川島造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 吹雪型駆逐艦
艦歴
発注 昭和2年度艦艇補充計画
起工 1928年11月28日
進水 1930年2月27日
就役 1930年11月10日
最期 1944年4月23日戦没
除籍 1944年6月10日
要目
基準排水量 1,680 t
公試排水量 1,980 t
全長 118 m
水線長 115.3 m
最大幅 10.36 m
吃水 3.2 m
主缶 ロ号艦本式缶4基
主機 艦本式タービン2基2軸
出力 50,000hp
速力 38.0ノット
航続距離 14ktで5,000浬
乗員 219名
兵装 50口径12.7cm連装砲 3基6門
13mm単装機銃 2挺
61cm3連装魚雷発射管 3基
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天霧(あまぎり)は[1]日本海軍駆逐艦[2]海軍省が定めた艦艇類別等級では吹雪型駆逐艦に属する[3]

概要

一等駆逐艦天霧(あまぎり)は、吹雪型駆逐艦の13番艦[3][4]。 吹雪型駆逐艦の15番艦とする見解・資料もある[5][6]。 特型駆逐艦としてはII型[7]。 霧級(きりクラス)の1隻[2][8]。 天霧は石川島造船所において、1927年(昭和3年)11月に起工、1930年(昭和5年)2月27日に進水[9]、同年11月に竣工[2][10]

1941年(昭和16年)12月の大東亜戦争開戦時、霧級4隻(天霧、朝霧、夕霧、狭霧)は引き続き第20駆逐隊(第三水雷戦隊所属)を編成しており、南方作戦マレー作戦蘭印作戦)に従事した[11][12]1942年(昭和17年)3月のインド洋通商破壊作戦、6月上旬のミッドウェー作戦(戦艦部隊護衛)[13]に従事する。 同年8月28日、第20駆逐隊はガダルカナル島の戦いに伴う輸送作戦従事中に空襲を受け[14]、僚艦朝霧が沈没[11]白雲[15]夕霧[16]が損傷、のちに解隊された[17]。 健在だった天霧は、重巡洋艦鳥海第八艦隊旗艦)や睦月型駆逐艦望月等と共にガダルカナル島周辺の作戦に参加(ヘンダーソン飛行場砲撃第三次ソロモン海戦等)。また外南洋部隊増援部隊として駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)[12]、挺身輸送隊として大発動艇輸送作戦(蟻輸送)にも従事した[18]

1943年(昭和18年)2月25日、霧級2隻(天霧、夕霧)は第11駆逐隊に編入される[19]。天霧は外南洋部隊の僚艦(駆逐艦時雨望月等)と共にソロモン諸島各地への輸送作戦、ニュージョージア島攻防戦ブーゲンビル島攻防戦に伴う数々の作戦および海戦に参加。 8月2日には、ジョン・F・ケネディ中尉(のちアメリカ大統領)が指揮する魚雷艇を衝突により撃沈した[12][20]。同時期、ソロモン海で行動中の第11駆逐隊僚艦(白雪、初雪、夕霧)は次々に撃沈され、第11駆逐隊は12月15日附で解隊された[21]。この直前、天霧は駆逐艦秋風に衝突[22][23]。艦首を損傷し[24]、内地にもどった[25]

1944年(昭和19年)1月15日に呉到着後、修理に従事[26]。2月末に修理完了後、船団護衛任務に従事[27]3月1日、天霧は第19駆逐隊に編入される[28]。シンガポールに進出後の4月23日[12]、第十六戦隊(青葉大井)と共に輸送作戦従事中、天霧はマカッサル海峡で機雷に触雷、沈没した[29][30]

艦名は海上自衛隊の護衛艦あまぎりに引き継がれた。

艦歴

建造

1928年(昭和3年)9月11日、建造予定の一等巡洋艦1隻、砲艦2隻、駆逐艦2隻に、それぞれ摩耶[31][32]、砲艦熱海二見[1]天霧(アマギリ)と朝霧(アサギリ)の艦名が与えられた[1][33]。 同日附で、各艦(摩耶、熱海、二見、天霧、朝霧)は艦艇類別等級表の各項目に類別される(天霧と朝霧は吹雪型駆逐艦)[34]。 天霧は、東京石川島造船所で同年11月28日に起工[2][9]

1930年(昭和5年)2月27日午後4時35分[35][36]、天霧は進水[2][37]。 6月20日、日本海軍は帖佐敬吉中佐(当時、駆逐艦羽風艦長)を天霧艤装員長に任命する[38]。 7月2日、東京石川島造船所の天霧艤装員事務所は、事務を開始[39]。 10月8日からしばらくの間、天霧艤装員事務所は横須賀海軍工廠内に移転[40]11月10日[41]、天霧は竣工[6][9]。 帖佐敬吉中佐は初代の天霧駆逐艦長となる[42]。主要初代幹部は、砲術長藤岡勝夫大尉、水雷長岡本次郎大尉、航海長山中秀夫大尉、機関長大重静機関大尉[42]。竣工と共に、天霧艤装員事務所は撤去された[43]

太平洋戦争開戦まで

1930年(昭和5年)12月1日、天霧と姉妹艦朝霧(昭和5年6月30日竣工)[6][44]により、第8駆逐隊が編成される(横須賀鎮守府籍)[45][46]。初代の第8駆逐隊司令は、郷田喜一郎大佐[47]。 郷田司令は、初代の司令駆逐艦を天霧に指定した[48]。 12月3日、姉妹艦夕霧舞鶴海軍工廠で竣工する[6][49]。夕霧は同日附で第8駆逐隊に編入され、8駆は吹雪型3隻(天霧、朝霧、夕霧)となる[50][51]

1931年(昭和6年)1月31日、姉妹艦狭霧浦賀船渠で竣工[6][52]。狭霧は同日附で第8駆逐隊に編入され、8駆は定数4隻(天霧、朝霧、夕霧、狭霧)を揃えた[53]。 12月1日、第二艦隊・第二水雷戦隊に編入[54]。だが狭霧は第8駆逐隊から除かれ[52]、8駆は3隻(天霧、朝霧、夕霧)編制となった(翌年より狭霧で第10駆逐隊を編成)[55]。 同日附で、帖佐敬吉中佐(天霧艦長)は第9駆逐隊司令へ転任[56]。広瀬末人中佐(当時、海軍水雷学校教官)が天霧駆逐艦長となる[56]

1932年(昭和7年)5月16日、広瀬末人中佐(天霧艦長)は第16駆逐隊司令に任命される[57]金桝義夫少佐(当時、姉妹艦深雪艦長兼初雪艦長)が天霧駆逐艦長に補職[57]中原達平中佐(当時、姉妹艦白雪艦長)は従来職に加えて深雪艦長と初雪艦長の兼務を命じられ、吹雪型3隻(白雪、深雪、初雪)艦長となった[57]。 12月1日附で、中原達平中佐(白雪および深雪艦長)は駆逐艦敷波艦長へ転任[58]。金桝義夫中佐(天霧艦長)は白雪駆逐艦長に、大森正直中佐(当時、姉妹艦吹雪艦長)が深雪駆逐艦長に、それぞれ補職[58]。日本海軍は伏見宮博義王少佐(当時、駆逐艦沖風艦長)を、天霧駆逐艦長に任命した[58]

1933年(昭和8年)10月11日、博義王少佐(天霧艦長)は海軍大学校選科学生となり、天霧を離れる[59]佐藤俊美中佐(当時、駆逐艦菊月艦長)が天霧艦長に、鈴木田幸造中佐(当時、第23駆逐隊司令)が23駆司令と菊月艦長の職務を兼務した[59]。 11月15日、第8駆逐隊は第二水雷戦隊から外れる[60]。12月11日より、横須賀警備戦隊所属となる[61]

1935年(昭和10年)9月26日、第四艦隊に所属して演習のため三陸沖を航行中、台風により小破した。この時は第四艦隊に所属していたほかの艦もほとんどが損傷した(第四艦隊事件)。10月15日、佐藤俊美中佐(天霧艦長)は装甲巡洋艦出雲副長へ転任[62]中川浩中佐(当時、姉妹艦艦長)が、後任の天霧駆逐艦長に補職される[62]。 10月24日、損傷した夕霧は第8駆逐隊から除籍、8駆は吹雪型2隻(天霧、朝霧)になった[63]。 11月15日、第二艦隊・第二水雷戦隊に編入[64]

1936年(昭和11年)12月1日、夕霧の復帰により第8駆逐隊は3隻(天霧、朝霧、夕霧)に戻る[65]。 同日附で、中川浩中佐(天霧艦長)は第16駆逐隊司令へ転任[66][67]。橘正雄中佐(朝霧艦長)は軽巡洋艦川内副長へ転任[66][67]。海軍は松原博中佐(当時、海軍艦政本部出仕兼海軍省軍務局局員)に対し、天霧艦長と朝霧艦長の兼務を命じた[66][67]。 12月12日、原為一少佐(当時、駆逐艦長月艦長)が天霧艦長に補職される[68]。松原博中佐(朝霧艦長兼天霧艦長)の職務は、朝霧駆逐艦長のみとなった[68]

1937年(昭和12年)からは支那事変仏印進駐に参加した。 12月1日、日本海軍は建造中の朝潮型駆逐艦山雲艤装員長だった阿部俊雄中佐を、駆逐艦朝霧艦長に任命する[69]。原為一少佐(天霧駆逐艦長)は、阿部の後任として山雲艤装員長となる[69]。原少佐の後任として、中原義一郎少佐(当時、駆逐艦汐風艦長)が天霧駆逐艦長に補職された[69]

1939年(昭和14年)11月1日、日本海軍は駆逐隊の名称を変更する[70]朝潮型駆逐艦4隻(朝潮大潮満潮荒潮)で編制されていた第25駆逐隊を第8駆逐隊と改名[70]。 吹雪型3隻(朝霧夕霧、天霧)の第8駆逐隊を第20駆逐隊に改称(呉鎮守府に転籍)[70][71]。呉鎮守府予備艦となった。11月15日附で、第20駆逐隊司令は小柳冨次大佐から藤田俊造大佐に交代する[72]

1940年(昭和15年)5月1日、第20駆逐隊は第一艦隊・第三水雷戦隊に転属。 8月1日、狭霧(元第10駆逐隊)が第20駆逐隊に編入され、同隊は吹雪型定数4隻(朝霧、夕霧、天霧、狭霧)となった[73][74]。 8月11日、天霧は臨時に第二遣支艦隊旗艦となった(同日、重巡洋艦鳥海に復帰)[75] 9月1日、中原義一郎中佐(天霧駆逐艦長)は建造中の陽炎型駆逐艦時津風艤装員長へ転任[76]蘆田部一少佐(当時、駆逐艦長月艦長)が天霧駆逐艦長となる[76]。 同時期、第三水雷戦隊(旗艦川内)は北部仏印進駐にともなう陸軍輸送船団護衛任務に従事した[77]

1941年(昭和16年)8月11日附で、第20駆逐隊司令は藤田俊造大佐から山田雄二中佐に交代する[78]

太平洋戦争緒戦

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時、第三水雷戦隊はマレー半島シンゴラコタバル上陸作戦を支援した。 12月24日、ボルネオ島攻略作戦従事中の姉妹艦狭霧(第20駆逐隊)が沈没する[52][79](翌年1月15日、第20駆逐隊より削除)[80]

1942年(昭和17年)1月27日、マレー半島南部エンドウ沖で日本軍の船団を攻撃すべく出撃してきた英駆逐艦「サネット」、豪駆逐艦「ヴァンパイア」を、第三水雷戦隊(軽巡川内《旗艦》、第11駆逐隊《白雪吹雪初雪》、第20駆逐隊《天霧、夕霧朝霧》)として迎撃、協同でサネットを撃沈した(エンドウ沖海戦[44]。その後も第三水雷戦隊はスマトラ島アンダマン諸島攻略作戦などの支援作戦に従事した[49]

3月10日附で第12駆逐隊は解隊され[15]、同駆逐隊所属だった姉妹艦白雲が第20駆逐隊に編入される[81][82]。第20駆逐隊は定数4隻(天霧、朝霧、夕霧、白雲)を揃えた[81]。 4月、日本軍はインド洋のイギリス艦隊攻撃のため南雲機動部隊をインド洋に出撃させた。馬來部隊指揮官小沢治三郎中将は、これに呼応してベンガル湾通商破壊作戦を行うことを決定する[83]。作戦部隊は3つに分けられ、「天霧」は南方隊に所属する[83]。南方隊は三隈艦長崎山釈夫大佐が指揮し、重巡洋艦2隻(三隈最上)、駆逐艦1隻(天霧)という編成だった[83]。ベンガル湾での一連の作戦で、南方隊は商船5隻を沈めた[84]。4月10日附で、鳥海・第七戦隊・第三水雷戦隊・龍驤・由良は馬來部隊から除かれた[85]

4月下旬、第三水雷戦隊各隊・各艦は内地に帰投して整備に従事する[86]。各隊が内海西部に集合できたのは5月中旬以降(第19駆逐隊と第20駆逐隊は5月19日)で、水雷戦隊として訓練を行う時間はなかった[86]。 5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦において、第三水雷戦隊(軽巡《川内》、第11駆逐隊《吹雪、白雪、初雪、叢雲》、第19駆逐隊《磯波、浦波、敷波、綾波》、第20駆逐隊《天霧、朝霧、夕霧、白雲》)は、連合艦隊司令長官山本五十六大将直率の主力部隊(戦艦大和、空母鳳翔)等として行動した[13]。 5月29日、主力部隊は瀬戸内海を出撃[87]。 6月4日、アリューシャン方面支援の警戒部隊(指揮官高須四郎第一艦隊司令長官)は、山本長官直率の主隊と分離する[88]。第20駆逐隊は警戒部隊に所属していた[89]。警戒部隊は第二戦隊(伊勢、日向、山城、扶桑)、警戒隊(第九戦隊《北上、大井》、第24駆逐隊《海風、江風》、第27駆逐隊《時雨、白露、夕暮》、第20駆逐隊《天霧、朝霧、夕霧、白雲》)、第二補給隊(駆逐艦山風、給油艦《さくらめんて丸、東亜丸》)という編成だった[89]。6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦で、日本軍は空母4隻と重巡三隈を失って敗北した[90]。6月17日、警戒部隊は横須賀に帰投した[44][49]。その後、桂島泊地に回航された[82]

6月下旬より、第三水雷戦隊(第20駆逐隊を含む)は奄美大島周辺で対潜掃蕩に従事する[44][49]。 7月中旬、インド洋方面通商破壊作戦(B作戦)参加のため、台湾・シンガポールを経由してマレー半島へ移動[44][49]。作戦参加部隊(第七戦隊、第三水雷戦隊、第2駆逐隊、第15駆逐隊)等は8月1日までにメルギー英語版へ進出した[44][82]

ガダルカナル島の戦い

8月7日、アメリカ軍は日本軍が飛行場を建設していたソロモン諸島ガダルカナル島などへ上陸し占領した(ウォッチタワー作戦)。B作戦中止に伴い、各隊・各艦はソロモン諸島への移動を開始する。川口清健陸軍少将指揮下の川口支隊のガダルカナル島派遣にあたり、連合艦隊は第三水雷戦隊に輸送船団(川口支隊乗船中)の護衛を命じた[91]。第三水雷戦隊の大部分は外南洋部隊(指揮官三川軍一中将、第八艦隊司令長官)に編入されていた[92]。8月23日までに、第20駆逐隊(朝霧、天霧、夕霧、白雲)はトラック泊地に集結した[44][49][82]

8月24日、三水戦(川内、朝霧、天霧、夕霧、白雲)は輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸)を護衛してトラック泊地を出撃、ガダルカナル島へ向かう[93]。航海中の8月26日、南東方面部隊(第十一航空艦隊)より輸送船団によるガ島揚陸中止と、駆逐艦によるガ島輸送の命令が出される[94]。同日夜、北緯1度5分 東経156度53分 / 北緯1.083度 東経156.883度 / 1.083; 156.883地点で川口支隊一個大隊600名は輸送船から20駆(天霧、朝霧、夕霧[95]、白雲)に移乗、ガ島に向かうことになった。輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸)は川内護衛下でラバウルに向かった[94]。ところが、南東方面部隊(第十一航空艦隊)と外南洋部隊(第八艦隊)の間で矛盾した命令が出され、増援部隊(第二水雷戦隊)を混乱させる[94]。 8月28日、第24駆逐隊(海風江風磯風《臨時に24駆司令指揮下で行動》)との合同をめざしていた第20駆逐隊(朝霧、天霧、夕霧、白雲)は、夕刻になりインディスペンサブル海峡でSBDドーントレス11機の空襲を受ける[96]。このドーントレスは、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場より飛来した部隊である[97]。一連の空襲により、第20駆逐隊は朝霧沈没、夕霧大破(自力航行可能)[96]、白雲大破(航行不能)[96]という損害を受ける[98]。第20駆逐隊司令山田雄二大佐も戦死した(海軍少将へ進級)[99][100]。 無傷だった天霧は朝霧生存者135名を収容、陸兵330名が乗船[101]。天霧は航行不能の白雲を曳航し、夕霧の護衛下でショートランド泊地にむかった[96]。報告を受けた増援部隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官)は駆逐艦陽炎を救援に派遣、同艦は8月29日昼頃に3隻(天霧、夕霧、白雲)と合同する[96]。曲折があったものの、4隻(天霧、陽炎、夕霧、白雲)は8月30日朝にショートランド泊地に到着した[101]。夕霧と白雲は、応急修理のあと内地に帰投した[49][82]

第二次ソロモン海戦で日本軍は輸送船によるガダルカナル島への増援部隊の輸送に失敗し、その後は駆逐艦による輸送を行うようになった。また外南洋部隊指揮官(第八艦隊長官三川軍一中将)は増援部隊指揮官を田中頼三少将(二水戦)から第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将に交代させる[102]。天霧は、増援部隊の僚艦と共に何度もガダルカナル島への輸送に従事した[12]。 まず、輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)が搭載していた物資や野砲を敷設艦津軽に移載[103]。9月1日、5隻(津軽、陽炎、夕暮、哨戒艇1号《旧島風》哨戒艇2号《旧灘風》)はショートランド泊地を出撃し、2日夜にガ島に物資および兵員を揚陸[103][104]。吹雪型3隻(吹雪白雪、天霧)も同時にルンガ泊地へ突入、飛行場を砲撃したあと津軽隊の掩護をおこなった[103][105]。帰途、空襲により津軽が小破した[103]。 9月5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)でガ島輸送作戦を実施[106][107]。 9月8日朝、ガ島に米軍輸送船団が出現して上陸戦を敢行、川口支隊は挟撃されて危機に陥った[108]。増援部隊(第三水雷戦隊旗艦《川内》、第19駆逐隊《浦波、敷波》、第11駆逐隊《吹雪、白雪》、第20駆逐隊《天霧》、第15駆逐隊《陽炎》、第2駆逐隊《夕立》、第27駆逐隊《夕暮》)は1130にショートランド泊地を出撃する[108]。増援部隊は夜になってルンガ泊地に突入したが、米軍は既に撤収しており、掃海艇2隻を撃破して撤退した(米軍によれば掃海艇1隻被弾座礁)[108][109]

9月10日以降、ガ島飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応し、外南洋部隊主隊(鳥海)や外南洋部隊支援隊(第六戦隊)もラバウルを出撃する[110][111]。天霧は重巡4隻(鳥海、青葉、古鷹、衣笠)と行動を共にした[111][112]。9月12日から14日の川口支隊飛行場攻撃は失敗し、各艦・各隊はラバウルやショートランド泊地に戻った[112]

総攻撃失敗後も、ガ島に対する日本軍の輸送作戦は続いた[113]。9月17日、蘆田中佐(天霧艦長)指揮下の2隻(天霧、漣)はガ島への輸送に成功[113][114]。往路で米艦爆3機の空襲を受けたが、特設水上機母艦山陽丸零式観測機2機が米艦爆を撃退し、2隻(天霧、漣)に被害はなかった[113]。 この頃、南東方面部隊(第十一航空艦隊、第八艦隊)は水上機母艦日進の重火器輸送や、駆逐艦輸送作戦を中止するに至った[115]。日本陸軍、連合艦隊、南東方面部隊が協議した結果、大発動艇を用いた蟻輸送を実施することになり、外南洋部隊(第八艦隊)の兵力部署も改正される[115]。本艦は第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦由良)を指揮官とする「挺身輸送隊」に所属[115]。挺身輸送隊は、潜水艦2隻(伊二伊三)、駆逐艦2隻(天霧、綾波)という兵力だった[115][116]。蟻輸送の出発地点はショートランド泊地で、ニュージョージア諸島に複数の輸送基地を設置、最後は潜水艦によりガ島まで曳航する計画である[117]。 9月26日、天霧は大発動艇4隻を曳航してショートランドを出発したが、外洋のうねりが強かった為に一旦中止[18]。9月27日の再出撃では波浪のため大発動艇1隻が放棄されたが、大発3隻はなんとかレンドバ島に到着して第一基地を設置した[18][118]。29日から30日にかけて、吹雪型2隻(天霧、綾波)は第二基地用の大発動艇を曳航し、作戦は成功した[18][119]。吹雪型2隻は引き続き蟻輸送作戦に協力した[18]

天霧が蟻輸送に従事中の10月1日、第20駆逐隊は解隊され[17]、天霧は第八艦隊に編入される[120]。 10月7日、外南洋部隊は輸送計画を見直し、蟻輸送は一時中断する[18][121]。2隻(天霧、綾波)は挺身輸送隊から増援部隊本隊(第三水雷戦隊)に編入された[18]。10月10日、第27駆逐隊司令瀬戸山安秀大佐(時雨座乗)指揮下の駆逐艦3隻(時雨、白露、天霧)でガ島輸送作戦を実施する[121][122]サボ島沖海戦時の天霧は、ショートランド泊地に停泊していた[123]10月12日0200、増援部隊指揮官(第三水雷戦隊司令官)は支援隊(青葉、古鷹、衣笠、初雪、吹雪)と日進隊(日進、千歳、秋月、綾波等)を支援するため、増援部隊7隻(軽巡《川内、由良》、駆逐艦《天霧、浦波、磯波、白露、時雨》)を率いてショートランド泊地を出撃する[124]。増援部隊は戦場離脱中の衣笠や日進隊を収容し、ショートランドに帰投した[124]。本海戦で[125]、日本側は4隻(古鷹吹雪夏雲叢雲)を喪失した[124][126]

10月13日、日本軍は栗田健男中将指揮下の第三戦隊(金剛榛名)により、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃をおこなった[127][128]。 10月12日午前0時発令の外南洋部隊兵力部署変更により、天霧は外南洋部隊主隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入され、主隊は重巡洋艦2隻(鳥海衣笠)と駆逐艦2隻(天霧望月)という編成になる[129]。10月13日2100、三川長官直率の主隊(鳥海、衣笠、天霧、望月)はショートランド泊地を出撃、10月14日深夜にはガダルカナル島に進出、輸送船団掩護のため2度目の飛行場砲撃を行った[128][130]。10月15日1600、主隊はショートランド泊地に帰着[130]。だが輸送船団は揚陸地点で空襲を受け輸送船3隻(笹子丸、旧州丸、吾妻山丸)を喪失、揚陸した物資も大部分は空襲と艦砲射撃により焼き払われた[131]。 10月17日0930、外南洋部隊主隊は輸送作戦掩護のためにショートランドを出撃[132]。夜になり駆逐艦2隻(天霧、望月)は重巡2隻(鳥海、衣笠)と分離し、ガ島に突入[132]。飛行場砲撃を敢行した[132][133]

10月下旬の日本陸軍ガ島飛行場総攻撃(南太平洋海戦)における本艦は、乙増援隊(白雪、天霧、望月)に所属[134]。ヘンダーソン飛行場占領後の、日本軍基地航空部隊急速揚陸を命じられていた[134]。だが飛行場占領失敗と、空襲により軽巡由良沈没・駆逐艦秋月損等等の被害を受け、外南洋部隊の作戦は中止に至った[135]。 11月2日、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)としてガ島輸送作戦を支援する[136]。作戦実施にあたり、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将は衣笠に将旗を掲げた[137]。第一攻撃隊はサボ島附近まで進出し、輸送部隊を支援する[137]。この後、天霧はレカタ水上機基地(サンタイサベル島北西端)への補給任務に従事した[138]

11月中旬の第三次ソロモン海戦における本艦は、増援部隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官)の麾下にあり、本隊(第15駆逐隊《早潮、親潮、陽炎》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)、収容隊(天霧、望月)、待機隊(黒潮)に区分されていた[139]。二水戦司令官田中少将は駆逐艦早潮に将旗を掲げ、駆逐艦11隻(本隊9隻、収容隊《天霧、望月》)と輸送船11隻でガダルカナル島へ向かう[139][140]。この輸送船団を三川長官直率の主隊(鳥海、衣笠、五十鈴、朝潮)と、第七戦隊司令官西村祥治少将指揮下の支援隊(巡洋艦3隻《鈴谷、摩耶、天龍》、第10駆逐隊《夕雲、巻雲、風雲》)が間接支援していた[139][141]。 11月14日、増援部隊輸送船団は空母エンタープライズ艦載機およびガ島の米軍航空隊、エスピリトゥサント島より飛来したB-17重爆撃機の波状攻撃により大損害を受けた[140][142]。収容隊(天霧、望月)は輸送船佐渡丸を護衛してショートランド泊地に引き返した[140]。天霧の収容者は550名、望月の収容者は1012名と記録されている[140]

12月上旬、駆逐艦2隻(天霧、夕暮)はレカタ基地輸送作戦に従事[143][144]。同時期、コロンバンガラ島防備強化のため輸送作戦が実施されており、12月23日の第二回ムンダ輸送(津軽、天霧)に参加した[145][146]

第十一駆逐隊

1943年(昭和18年)1月6日[41]から7日にかけて[147]軍艦3隻(空母瑞鶴、戦艦陸奥、重巡鈴谷)は駆逐艦6隻(有明夕暮磯波天霧朝潮)と共にトラックを出発[148][149]、修理と整備のために内地に帰投する[150]。 陸奥隊(陸奥、朝潮、電)は横須賀へ[149][151]、瑞鶴隊(瑞鶴、鈴谷、天霧、有明、夕暮)は呉へ向かう[149][152]。 1月12日、瑞鶴隊は内海西部に到着した(途中から単独航海の磯波は13日に呉到着)[153][154]。 1月13日から3月10日まで、天霧は呉で修理を行った[12]。この間、修理を終えた夕霧は最前線に復帰している[49]。同時期、日本軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)、戦場はソロモン諸島中部に移っていった。

2月25日、吹雪型2隻(天霧、夕霧)は第11駆逐隊に編入、11駆(駆逐隊司令杉野修一大佐)[155]は定数4隻(白雪、初雪、天霧、夕霧)となった[19]。 だが白雪は3月3日ビスマルク海海戦で沈没した[156](4月1日附で第11駆逐隊より削除)[157]。 3月10日、天霧は呉を出港、ラバウルに向かう[41]。20日、ラバウル着[41]。ただちに輸送作戦に投入された[158]。 3月29日には駆逐艦2隻(天霧、望月)でレカタ基地への輸送を実施した[159][160]。 4月1日、第三水雷戦隊の編成が変わる[161][162]。 4月2日、駆逐艦3隻(雪風、天霧、望月)でレカタ輸送を実施する[163][164]。 4月7日、2隻(天霧、望月)でレカタ輸送を実施するが[163]、天霧はB-17重爆1機に爆撃されて10名の死傷者を出した[164]

4月下旬より月暗期に入ったため、天霧は新たに編入された各艦・各部隊と共に輸送作戦に従事する[165]。駆逐艦3隻(天霧、夕霧、望月)は4月29日~30日[166]、5月3日[167]、5月7日と10日[168]、それぞれレカタ輸送を実施した(合計進出:陸軍820名、海軍306名。後送:陸軍507名、海軍58名。弾薬燃料90トン、糧食150トン)[169]。 5月16日[49]、夕霧はカビエン北東約200kmのムッソー島附近で米潜水艦(グレイバック)の雷撃を受けて損傷、艦首切断状態となる[170]。天霧は夕霧を曳航してラバウルに避退[171]。夕霧は同地で応急修理を行ったのち、内地に帰投した[16][49]

5月25日附で、天霧駆逐艦長は蘆田部一中佐[172][173]から花見弘平少佐(花見は5月19日まで[174]、駆逐艦艦長)に交代する[175][176]。 5月28日と5月31日、駆逐艦2隻(天霧、望月)で計2回のレカタ輸送を実施[177]。 6月4日、駆逐艦3隻(天霧、望月、皐月)でラバウル~ツルブ(ニューブリテン島西端)を実施[178]。 6月10日、花見少佐はラバウル停泊中の天霧に着任した[175][179]。志賀博大尉(天霧水雷長)は、花見(天霧艦長)について以下のように記述している[180]

「天霧」艦長の花見弘平少佐は、責任感のあまり、乗員全員にみずからと同じくきびしく規制することを要求し、実践した人で、そのため部下に鉄拳をふるってまでも、全員を常時戦闘即応態勢におき、艦内をして極度の緊張状態たらしめ、みずからを持するにことのほか厳格で、航海中は艦橋から一歩も降りず、ほとんど一睡もしないくらいで、艦長としての任務遂行にきびしく処したのである。
 そのため、艦内は"ケイン号の叛乱"のごとき状況にたちいたったが、鉄拳をくらいながらも私はじめ乗員は、艦長の異状なくらいの責任感と勤務精励ぶりに内心傾倒し、艦長の命令に喜んで一命をささげる心境に達していた。「天霧」が南東方面で死闘を演じつつも、ただ一隻、不沈艦たり得たのもむべなるかなであった。 — 特別輸送艦巨済艦長 志賀博、最後のネイビーブルー 28ページ

一方で志賀は、天霧沈没後に配属となった松型駆逐艦の艦長(田中弘国少佐、宇那木勁少佐)と花見(天霧艦長)の統率を比較し、「(花見の鉄拳制裁は)どう考えてもよくないことであった」「駆逐艦乗りの理想は竹時代に現出した」と回想している[181]。 6月28日、第11駆逐隊(天霧、初雪)はレカタ輸送を実施[177]。 6月30日、アメリカ軍はレンドバ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いが始まる[182]。この時、外南洋部隊主力艦艇はトラック泊地(鳥海、雪風、涼風、江風、谷風、浜風)、ラバウル(新月、望月、皐月、夕凪)、ブイン(長月、水無月、三日月)、ブカ島(天霧、初雪)に分散していた[182][183]。 7月1日、第11駆逐隊司令指揮の先行部隊(天霧、初雪、長月、水無月、三日月)は直ちにレンドバ島方面に進出するが、接敵しなかった[183]。 7月2日夜、増援部隊指揮官秋山輝男少将(第三水雷戦隊司令官、旗艦新月[155]は、直率の突撃隊(新月、天霧、初雪、長月、皐月、望月)、夕張艦長指揮下の陽動隊(夕張、夕凪、三日月)としてブインを出撃、レンドバ島に突入した[183]。だが米軍機の空襲と魚雷艇の迎撃により、敵艦隊撃滅・陸上砲撃とも果たせなかった(魚雷艇2隻撃沈)[183]

7月5日、秋山少将(第三水雷戦隊司令官)は秋月型駆逐艦新月に乗艦、直率の支援隊(新月、涼風、谷風)、第30駆逐隊司令折田常雄中佐指揮の第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)、第11駆逐隊司令指揮の第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)としてショートランド泊地を出撃した[184]。コロンバンガラ島沖で日本艦隊はアメリカ軍の軽巡洋艦3隻、駆逐艦4隻からなる艦隊に攻撃され、新月が沈没(秋山少将戦死)[185]。長月がコロンバンガラ島に座礁して放棄される[185][186]。輸送隊(天霧、初雪)はアメリカ艦隊に対し雷撃と砲撃を行うが命中しなかった[184]。その後コロンバンガラ島への揚陸を行って帰投中、天霧は米駆逐艦(ニコラスラドフォード)の攻撃を受けて損傷した[184]。電信室への命中弾で10名が戦死したという[187]。天霧はラバウルで応急修理を実施[187]。しばらく作戦に参加できなくなった[188]。 前述のように、本海戦で新月沈没時に秋山少将が戦死したため、7月7日附で伊集院松治大佐(当時、戦艦金剛艦長)[155]が第三水雷戦隊司令官に任命される[185][189]。 7月9日、第11駆逐隊司令は杉野修一大佐から山代勝守大佐に交代する[155][190]。当時、第11駆逐隊の健在艦は初雪だけだったので(夕霧は内地修理、天霧は応急修理中)、杉野大佐は初雪に移動して作戦を実施することになった[191][192]。 7月17日、輸送作戦準備中の初雪は、ブインで空襲を受け沈没(同時に皐月、水無月、望月小破)[193][194](10月15日附で第11駆逐隊から削除)[195]。11駆は吹雪型2隻(天霧、夕霧)に減少した[195]。杉野司令は天霧に将旗を掲げた[191][192]

7月31日朝、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の駆逐艦3隻(第4駆逐隊《萩風》、第27駆逐隊《時雨》)はラバウルを出撃し、コロンバンガラ島輸送任務に従事する[196][197][198]。天霧(第11駆逐隊司令山代勝守大佐座乗)は警戒隊に区分されていた[196][197]。 輸送隊は同日深夜にブインで海軍陸戦隊と日本陸軍を乗せ、8月1日0100にブインを出発[198]。天霧はブカ島附近で輸送隊3隻に合流[198]。駆逐艦4隻(萩風、嵐、時雨、天霧)はコロンバンガラ島に向かう[197]。8月1日深夜~8月2日未明、日本側4隻はブラケット海峡で米軍魚雷艇部隊と交戦[196][199]。天霧は「PT-109」(艇長:ジョン・F・ケネディ中尉・後に第35代アメリカ合衆国大統領)と衝突、同魚雷艇を沈没させた[41][198]。輸送任務も無事に終わり、8月2日夕刻に4隻はラバウルへ帰投した[197][198]。 特務艦鳴戸で艦首部の応急修理を実施したあとの8月4日から7日にかけて、ツルブ輸送を実施[41][200]。なおケネディ中尉の魚雷艇と衝突した時の損傷により、天霧は修理を行うことになった[201]。そこで駆逐艦江風(第24駆逐隊)が、天霧の代艦として輸送任務に加わった[201]8月6日午前0時半、5隻(軽巡洋艦川内、駆逐艦4隻《萩風、嵐、江風、時雨》)はラバウルを出撃、輸送任務に従事した[202][203]。コロンバンガラ島に向かった駆逐艦4隻は同日夜間に米軍水雷戦隊の奇襲攻撃を受け、時雨(第27駆逐隊司令原為一中佐座乗。原は、昭和11年~12年時の天霧駆逐艦長)を残して3隻(萩風、嵐、江風)とも沈没した(ベラ湾夜戦)[204][205]

8月10日、天霧は重巡洋艦鳥海(艦長有賀幸作大佐)を護衛してラバウルを出発、トラック泊地に移動した[200]。同泊地に到着後、応急修理を実施する[41]。8月31日、輸送船団(五洲丸、りおん丸、筥崎丸)を護衛してトラックを出撃[200]。9月4日、ラバウルに入港[200]。その後はブカ島輸送に従事する[41]。 9月下旬よりコロンバンガラ島からの撤退作戦(セ号作戦)に従事する[41][206]。 10月7日~8日にかけて、駆逐艦3隻(天霧、望月、皐月)でスルミ(ニューブリテン島南部)輸送を実施[207]。一連の作戦後、第三水雷戦隊の全力発揮可能艦は6隻(川内、天霧、皐月、時雨、五月雨、望月)、戦闘可能艦4隻(文月、水無月、夕凪、松風)となった[207]。 10月下旬、第三水雷戦隊(天霧、時雨、五月雨、望月、水無月、皐月、卯月、夕凪)はニューブリテン島周辺の輸送作戦に従事する(天霧と望月で21日~22日ラバウルよりブカ島、天霧と水無月で26-27日カビエンとブカ間輸送、天霧と夕凪の10月31日イボキ輸送は敵機触接により中止)[208]。10月24日、ジャキノット輸送中の2隻(卯月、望月)は空襲を受け、望月は沈没した[208]

11月1日、アメリカ軍はソロモン諸島西部のブーゲンビル島に上陸した[209]。日本軍は逆上陸を企図し、11月2日1530に第五戦隊(妙高羽黒)、第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露)、第二警戒隊(阿賀野、長波、初風、若月)などからなる艦隊をラバウルから出撃させた[210]。山代大佐(第11駆逐隊司令、天霧座乗)指揮下の輸送隊4隻(天霧、夕凪、文月、望月)、水無月(ブカ島行)も出撃する[210]。だが逆上陸作戦は中止となったため、輸送隊はラバウルに引き返した(水無月は輸送決行)[210]。残りの日本艦隊はブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾でアメリカ軍の艦隊と交戦し、2隻(川内初風)を失う敗北を喫した(ブーゲンビル島沖海戦)[211][212]。 11月5日のラバウル空襲で、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦愛宕)指揮下の重巡洋艦部隊は大損害を受ける[213]。天霧以下数隻の駆逐艦は空襲警報発令と共に港外に脱出し、被害を受けなかった[212][214]。大破した摩耶をラバウルに残し、その他の重巡部隊はトラック泊地に撤退した[214]

11月6日、第十戦隊司令官大杉守一少将指揮下の艦隊は、タロキナ(ブーゲンビル島)への逆上陸作戦を行う[215]。挺身輸送隊(指揮官香川清登第31駆逐隊司令)は警戒隊(大波、巻波)と輸送隊(天霧、文月、卯月、夕凪)で編成されていた[215]11月7日日付変更直後、挺身輸送隊はタロキナへの揚陸に成功し、ラバウルに帰投した[215]。この後、川内沈没後に呂号第104潜水艦に救助された第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将は、旗艦を駆逐艦五月雨(第27駆逐隊)から天霧に移した[215]。11月8日、三水戦旗艦は軽巡夕張に変った[215]。 11月11日、米軍機動部隊による第二次ラバウル空襲により、駆逐艦涼波が沈没、軽巡阿賀野や駆逐艦長波が大破する[212][216]。航行不能の長波を残して大多数の水上艦艇はラバウルを去った[216]。この措置により南東方面部隊の襲撃部隊兵力は11隻(夕張、天霧、文月、水無月、卯月、夕凪、大波、長波《航行不能》、巻波、夕霧《11月18日ラバウル着》[49]、秋風《11月18日ラバウル着》)になった[216]

11月中旬、襲撃部隊はブカ島(ブーゲンビル島北西)への緊急輸送作戦を行うことになった[217]。第一回輸送(指揮官香川清登第31駆逐隊司令)は警戒隊(大波、巻波)、山代大佐(第11駆逐隊司令)指揮下の輸送隊(第11駆逐隊《天霧、夕霧》、第30駆逐隊《卯月》)で11月21日から22日にかけて実施[217]。成功した[217]。 11月24日1330、香川大佐(第31駆逐隊司令)は前回と同編成の駆逐艦5隻(警戒隊《大波巻波》、輸送隊《天霧、夕霧卯月》)を率いてラバウルを出撃した[217]。揚陸後帰投中、日本艦隊はアーレイ・バーク大佐指揮下の米駆逐艦5隻と魚雷艇9隻の攻撃を受ける[217]。米軍水雷戦隊(駆逐艦5隻)の襲撃により日本側は駆逐艦3隻(大波、巻波、夕霧)を失ったが[218]、「天霧」は離脱に成功した(セント・ジョージ岬沖海戦)[217][219]

12月上旬、第三水雷戦隊の4隻(夕張、文月、水無月、卯月)が整備休養のためトラック泊地後退が決まり、ラバウル残存の三水戦は3隻(天霧、秋風、夕凪)となる[220]。12月2日、伊集院少将(三水戦司令官)は将旗をラバウル陸上に移した[220]。 12月3日深夜、天霧は夕雲型駆逐艦長波回航部隊(軽巡夕張、駆逐艦文月水無月、長波《水無月曳航》)を護衛してラバウルを出発[221][222]。途中まで長波回航部隊を護衛し、ラバウルに戻った[223][224]。 12月6日、天霧は曳航油槽船(特二〇号。燃料搭載量1000トン)を護衛するため、ラバウルを出撃する[225][22]。特二〇号は海軍徴用船康寧丸(中村汽船、2,345トン)に曳航されていたが、同艦が米潜水艦(ピート)に撃沈されて困窮していた[22][226]。 同任務従事中の12月7日ニューアイルランド島カビエンの近くで天霧は操艦を誤り、駆逐艦秋風と衝突[22]、損傷した[25][23]。 天霧は艦首損傷のため最大発揮速力18ノット、秋風は浸水のため6ノットとなる[227][24]。 かねてより修理や整備をする予定だったため[228]、天霧は衝突事故を機会に内地に戻ることになった[25]。特20号運貨船の曳航任務から外され[229][230]、カビエンに回航[231][232]。 応急修理実施後、12月15日にトラック泊地へ到着[224][233]。 同日附で夕霧は除籍され[49]、同時に第11駆逐隊も解隊された[155][21][234]。 12月16日には[155]、第三水雷戦隊司令官も伊集院松治少将から中川浩少将に交代した[235][236]。中川は昭和10年~11年にかけての天霧駆逐艦長である[62][66]

護衛任務

1943年(昭和18年)12月16日、トラック泊地在泊の天霧は、タンカー日栄丸から燃料補給を受ける[237]。発揮可能速力は16ノットであったという[238]。 12月20日、天霧はタンカー照川丸(五洋商船、6,432トン)[239]を護衛してトラック泊地を出発、サイパンに向かった[240][241]。 同時期、トラック泊地近海で行動していた米潜水艦スケート(USS Skate, SS-305)が照川丸を襲撃する。 12月21日0518、照川丸は北緯9度45分 東経151度56分 / 北緯9.750度 東経151.933度 / 9.750; 151.933地点で被雷[242]、大火災となった[243][244]。 哨戒中の3隻(駆逐艦満潮、海防艦隠岐、特設掃海艇金城丸)や[243][245]、トラック泊地で編成された救難隊(軽巡能代《第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将》、駆逐艦《浜風》)が派遣される[244][246][247]。 同日夜、照川丸は沈没[244][248]。 12月22日、照川丸乗員を乗せた天霧は、トラック泊地に戻った[249][250]

12月26日[251]、天霧は第30駆逐隊司令沢村成二大佐(卯月座乗)指揮のもと、駆逐艦2隻(卯月、天霧)でタンカー2隻(日栄丸、旭東丸)を護衛し、トラック泊地を出撃[252][253]。 12月29日、パラオ近海で夕雲型駆逐艦早波(第32駆逐隊)が日栄丸船団(卯月、天霧、日栄丸、旭東丸)に合流[254][255]。卯月は先にパラオへ向かった[255][256]。 12月31日、天霧も予定通り船団護衛任務をやめ[253]、パラオに到着した[257][258]

1944年(昭和19年)1月9日、天霧は陸軍特殊船にぎつ丸を護衛してパラオを出発[228][259]、日本にむかった[260][261]1月12日夜、米潜水艦ヘイク(USS Hake, SS/AGSS-256)は2隻(天霧、にぎつ丸)を襲撃する[262]。 雷撃を受けた「にぎつ丸」(日本海運、9,547トン。大発動艇輸送特殊艦)は[263][264]北緯23度15分 東経132度52分 / 北緯23.250度 東経132.867度 / 23.250; 132.867地点で沈没[265][266]。 天霧[267]や各艦・各部隊は生存者の救助をおこなった[268]。 1月15日、天霧は呉に帰投[269][270]。修理をおこなう[271][272]。 2月下旬、修理完成[273][274]。輸送船団護衛任務のため、呉から門司に回航された[274][275]

3月1日、天霧は第三水雷戦隊から除かれる[274]。同日附で、天霧駆逐艦長は花見少佐から[276]吉永源少佐(当時、駆逐艦帆風艦長)に交代[277]。また天霧は第19駆逐隊に編入され、19駆は吹雪型3隻(浦波敷波、天霧)編成となった[228][28]。 同日[41][278]、天霧は掃海艇30号と共に「モタ07船団」として門司を出撃[279][280]。2-3日に鹿児島(山川港、爆雷搭載のため)[281]に停泊したあと、3月9日に高雄港(台湾)到着[279][280]。しばらく高雄港で待機する[279]。高雄滞在中に花見少佐は天霧を退艦、吉永新艦長が着任した[228]。 3月13日、海防艦干珠と共に「ヒ53船団」を護衛して南下し[282]、3月18日にシンガポール到着[41][279]。第一海上護衛隊の指揮下を離れた[279]。3月25日には、シンガポールで19駆3隻(天霧、浦波、敷波)幹部を集め、懇親会をおこなったという[283]

4月2日午前4時40分、護衛艦艇3隻(天霧、海防艦松輪、水雷艇)の「ヒ55船団」[282]を米潜水艦(ヘイク)が襲撃[284]。 油槽船「たらかん丸」が被雷して船体前部切断、最大速力4ノットとなる[284][285]。「たらかん丸」は辛うじて沈没を免れ、ヒ55船団もそれ以上の損害なくシンガポールに到着した[286][287]

天霧がシンガポールに進出した4月上旬、同地所在の第十六戦隊(司令官左近允尚正少将。重巡青葉、軽巡大井鬼怒)は、シンガポール~ダバオ(フィリピン南部)への輸送作戦に従事していた(軽巡北上はシンガポールで修理中)[288][289]。天霧も第十六戦隊と共に行動、輸送作戦に従事した[29][30]。これより少し前(3月上旬)、オーストラリアから出撃してきたアメリカ海軍の潜水戦隊が、マラッカ海峡に機雷を敷設していた[30]。 4月20日、3隻(巡洋艦《青葉、大井》、駆逐艦《天霧》)はシンガポールを出撃[29]、ダバオ(フィリピン)に向かう[41][290]。航海中の4月23日午後[289]、天霧はマカッサル海峡で触雷[228]。午後2時53分、南緯2度12分 東経116度45分 / 南緯2.200度 東経116.750度 / -2.200; 116.750地点で沈没した[291]。艦長以下大多数の幹部は生還したが、機関長西之園(にしのその)茂大尉は脱出せずに自決[181][292]。天霧生存者は同航2隻(青葉、大井)に収容された[29][30]

5月1日附で吉永源少佐(天霧駆逐艦長)と志賀博大尉(旧姓保坂、天霧水雷長)は、それぞれの職務を解かれた(2名とも呉鎮守府附)[293]。その後、生存者達は次々に転任[294]。山崎健太郎中尉(天霧航海長)は秋月型駆逐艦冬月艤装員[295]、金沢繁雄大尉(天霧砲術長)[296]は駆逐艦長波水雷長[297]、志賀博大尉[298]は松型駆逐艦駆逐艦艤装員[299](竣工後は水雷長[300])となる[294]。 吉永源少佐(元天霧艦長)は横須賀鎮守府附となった後[299]、6月2日附で松型駆逐艦艦長となるが[301]スカベンジャー作戦における松沈没時に戦死した(任、海軍中佐)[294][302]

6月10日、天霧は 帝国駆逐艦籍[303] および初雪型駆逐艦[304]より除籍。第19駆逐隊よりも削除され、19駆は初雪型2隻(浦波、敷波)に減少した[305]

魚雷艇「PT-109」との衝突

  • ジョン・F・ケネディ中尉が艦長として率いていた魚雷艇、PT-109は、1943年8月2日にソロモン諸島の近くのニュージョージアの西を哨戒していた時に、「天霧」との偶発的な接触事故によって艇体を引き裂かれた。天霧に乗艦していた第11駆逐隊司令山代勝守大佐は、魚雷艇に衝突してしまうと魚雷の誘爆により自艦の方も損傷してしまう危険もあるので、回避のために「取舵」を指令した[306]。砲撃を行うには魚雷艇の位置が近すぎ、また艦首方向に発砲すると砲炎の閃光で視界を奪われてしまうからである[306][307]。花見弘平少佐(天霧駆逐艦長)は「面舵」と号令してしまうも、すぐに気がつき「取舵」と修正して号令したが、間に合わず損傷してしまった[308]。なお、司令が階級上位であっても操艦についての責任は艦長にあるため、司令の回避指示は越権行為に該当する。山代は「司令によっては艦長まかせの人もいるし、細かくやる人もいるが、私(山代)は何でも自分やった」と回想している[306]
  • 花見は「右十度! 前進全速!」を命じ、意図的に魚雷艇に衝突したと回想している[309]
  • ケネディ中尉乗艇のPT-109(魚雷4本搭載、37mm砲1門、乗員13名)は戦時急造の木製であった[310]レンドバ島の米軍基地には魚雷艇15隻が配備されており、当日も全隻が出動していた[310]レーダーを装備していた魚雷艇もあったが、各部隊・各魚雷艇間の連絡・連繋が全くとれておらず、各魚雷艇合計魚雷30本を発射しながら1本も命中しなかった[311]。PT-109も敵情・自軍状況を充分把握しておらず、とりあえず命令に従って哨戒行動中であった[311]
  • 素早い速度で航行し肉薄攻撃を敢行するのが魚雷艇の能力であるため、敵艦と衝突する事は滅多にない。だが当時PT-109は日本軍の航空機による攻撃を避けるため、騒音および航跡を残さないように、三基の内二基を使用しない、減軸運転を行っていた。ゆえに速度が遅いまま航行していたので魚雷艇側も舵の効きが鈍く、回避が困難であった。
  • 「天霧」の損傷は艦首のわずかな亀裂と右スクリューの翼が曲がった程度であり、その後の航海には支障はなかった[312][313]
  • 当時の「天霧」の乗員はPT-109の乗員の全員の戦死を確信し、そのように報告した[313]。そして報告を受けた第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐(旗艦川内)は、天霧が魚雷艇を踏み潰したとして賞賛した[306]。また日本の新聞にも掲載された[314]
  • PT-109の乗組員は2名が戦死、生存者11名(ケネディ中尉含む)はコースト・ウォッチャーズに救助された[315]
  • 1951年(昭和26年)秋、ジョン・F・ケネディは下院議員として来日、花見(元天霧艦長)との面会を希望したが、日程上かなわず帰国した[316]。花見とケネディは手紙を文通する仲になったという[316]。後日、1952年の上院選、1960年の大統領選の際には、「天霧」の元乗員一同から激励の色紙を贈られている[317]
  • 映画『魚雷艇109』(英語)として暗殺の5ヶ月前に公開され、日本でも公開された。

歴代艦長

※『艦長たちの軍艦史』279-280頁による。

艤装員長

  1. 帖佐敬吉 中佐:1930年6月20日[38] - 1930年11月10日[42]

艦長

  1. 帖佐敬吉 中佐:1930年11月10日[42] - 1931年12月1日[56]
  2. 広瀬末人 中佐:1931年12月1日[56] - 1932年5月16日[57]
  3. 金桝義夫 少佐:1932年5月16日[57] - 1932年12月1日[58]
  4. 博義王 少佐:1932年12月1日[58] - 1933年10月10日[59]
  5. 佐藤俊美 中佐:1933年10月10日[59] - 1935年10月15日[62]
  6. 中川浩 中佐:1935年10月15日[62] - 1936年12月1日[66]
  7. (兼)松原博 中佐:1936年12月1日[66] - 1936年12月12日[68]
  8. 原為一 少佐:1936年12月12日[68] - 1937年12月1日[69]
  9. 中原義一郎 少佐:1937年12月1日[69] - 1940年9月1日[76]
  10. 芦田部一 中佐:1940年9月1日[76] - 1943年5月25日[173]
  11. 花見弘平 少佐:1943年5月25日[173] - 1944年3月1日[276]
  12. 吉永源 少佐:1944年3月1日[276] - 1944年5月1日[293]

参考文献

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    • 『昭和18年9月~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。Ref.C12070181400。 
    • 『昭和18年11~12月内令5巻/昭和18年12月(2)』。Ref.C12070182700。 
    • 『昭和19年1月~7月内令/昭和19年3月(1)』。Ref.C12070196200。 
    • 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年6月』。Ref.C12070195400。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030022500。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030022600。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030022700。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030022800。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030022900。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030023000。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(7)』。Ref.C08030023100。 
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(8)』。Ref.C08030023200。 
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030116200。 
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年1月31日 第7戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030769100。 
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年1月25日 佐伯防備隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030402500。 
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030105800。 
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030105900。 
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030106000。 
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030106100。 
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030106200。 
    • 『昭和18年8月 第3水雷戦隊戦闘詳報 ホラニュー輸送支援作戦.ベララベラ沖海戦(1)』。Ref.C08030726100。 
    • 『昭和18年8月 第3水雷戦隊戦闘詳報 ホラニュー輸送支援作戦.ベララベラ沖海戦(2)』。Ref.C08030726200。 
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030116900。 
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030117000。 
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030117100。 
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030117200。 
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030117300。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101000。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030101100。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030101200。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030101300。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030101400。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030101500。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101800。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030050000。 
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年4月30日呉鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030326400。 
    • 『昭和17年4月10日~昭和19年4月24日 第2海上護衛隊司令部戦時日誌(5)』。Ref.C08030142900。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年4月30日 特設運送船日栄丸戦時日誌(1)』。Ref.C08030684500。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年4月30日 特設運送船日栄丸戦時日誌(2)』。Ref.C08030684600。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030369400。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030106500。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030106600。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030106700。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030106800。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030106900。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030107000。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030107100。 
    • 『昭和19年2月1日~昭和19年4月29日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030107400。 
    • 『昭和19年2月1日~昭和19年4月29日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030107500。 
    • 『昭和19年2月1日~昭和19年4月29日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030107600。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年3月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030140200。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年3月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030140300。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年5月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030140600。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年5月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030140700。 
    • 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。 
    • 『昭和16年~20年 喪失船舶一覧表(2)』。Ref.C08050010000。 
    • 『昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7/第三段作戦19年1月1日~19年1月15日』。Ref.C16120638400。 
    • 『昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要 その8/第三段作戦19年4月1日~19年4月20日』。Ref.C16120641100。 
    • 『昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要 その8/第三段作戦(船舶被害「損傷」之部)』。Ref.C16120641900。 

脚注

  1. ^ a b c #達昭和3年9月pp.15-16『達第百三十二號 艦艇製造費ヲ以テ昭和三年度ニ於テ建造ノ軍艦竝驅逐艦ニ左ノ通命名ス|昭和三年九月十一日 海軍大臣 岡田啓介|艦種|艦名|建造所|二等砲艦|熱海(アタミ)|三井物産株式會社造船部玉工場|同|二見(フタミ)|株式會社藤永田造船所|一等驅逐艦|天霧(アマギリ)|株式會社東京石川島造船所|同|朝霧(アサギリ)|佐世保海軍工廠』
  2. ^ a b c d e 日本軍艦集2600年版コマ43(原本56頁)『一等驅逐艦 天霧(あまぎり) 基準排水量1,700噸、長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2,97米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管9門、起工昭和3年11月28日、進水昭和5年2月27日、竣工昭和5年11月10日、建造所石川島造船所 ― 所謂特型驅逐艦で、同型計23隻、この中 霧級 には天霧のほかに、朝霧夕霧狭霧の三隻がある。』
  3. ^ a b #艦船(昭和11年12月1日現在)p.2〔別表〕『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|吹雪型|吹雪、白雪、初雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、天霧、狭霧、夕霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、朝霧』(註:4番艦の深雪は除籍済み)』
  4. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ64-66(原本88-92頁)、大正15年11月29日(内令238)、第35号型(第35,36,37,38,39,40,41,42,43号)制定。同書コマ66(原本92頁)、昭和2年4月26日(内令143)、「第44号」追加。同書コマ66(原本92頁)、昭和2年10月20日(内令341)、「第45号」追加。同書コマ66(原本92-93頁)、昭和3年6月20日(内令160、8月1日施行)、吹雪型(吹雪、白雪、初雪、深雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波)に名称変更。同書コマ66(原本93頁)、昭和3年8月6日(内令212)、「敷波」追加。同書コマ66(原本93頁)、昭和3年9月11日(内令254)、「天霧」「朝霧」追加。同書コマ66(原本93頁)、昭和3年11月23日(内令323)、「狭霧」追加。同書コマ66(原本93頁)、昭和3年12月11日(内令356)、「夕霧」追加。同書コマ67(原本94頁)、昭和4年6月20日(内令177)、「朧」追加。同書67(原本94頁)、昭和4年9月20日(内令222)、「曙」「漣」「潮」追加。同書67(原本94頁)、昭和5年3月15日(内令43)、「暁」「響」「雷」「電」追加。
  5. ^ 歴史群像太平洋戦史シリーズ18、特型19頁(狭霧写真解説)
  6. ^ a b c d e #海軍制度沿革(巻11、1940)コマ574(原本1096-1097)、昭和6年4月29日(内令79)艦船要目公表範囲
  7. ^ 写真日本の軍艦10巻235頁『四種の艦型にわけられる"特型"』
  8. ^ ポケット海軍年鑑(1937)コマ48(原本78頁)『一等驅逐艦"狭霧 さぎり"  全要目{排水量1,700噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工昭和4年3月 竣工昭和6年1月 建造所浦賀船渠會社} 特型驅逐艦はわが海軍驅逐艦の中堅主要部隊である。わが驅逐艦名のゆかしさは世界に比類のない、外國の追随を許さぬ詩的なものであるが、"吹雪"より始る特型驅逐艦は "吹雪 ふぶき" "初雪 はつゆき" "白雪 しらゆき" 雪級3隻(深雪が除籍された) 雲級4隻 "浦波 うらなみ" "磯波 いそなみ" "綾波 あやなみ" "敷波 しきなみ" 波級4隻 "天霧 あまぎり" "朝霧 あさぎり" "夕霧 ゆうぎり" 霧級4隻 外に"朧" "曙"等一文字名のものが8隻、合計23隻で各大體4隻づゝをもつて驅逐隊一隊を編制、時には水雷戰隊となり、或ひは航空戰隊に加はり、また警備戰隊に入つて活躍する。』
  9. ^ a b c #艦船要目(昭和11年12月1日現在)p.5『天霧|一等驅逐艦|(要目略)|石川島造船|3-11-28|5-2-27|5-11-10|(装備略)』
  10. ^ 幕末以降帝国海軍軍艦写真と史実コマ160(原本251頁)『吹雪型(十六隻) 艦種一等驅逐艦 艦名考風波等気象に採る。(略)天霧 (起工)昭和3-11-28 (進水)5-2-27 (竣工)5-11-10 (建造所)石川島造船所』
  11. ^ a b #陽炎型(2014)280頁『朝霧(あさぎり)』
  12. ^ a b c d e f #陽炎型(2014)280頁『天霧(あまぎり)』
  13. ^ a b 戦史叢書ミッドウェー海戦188-190頁『主力部隊』
  14. ^ #第八艦隊日誌(1)p.60『二十八日(天候略)一木川口支隊ノ第一回増援隊発進シタルモ敵機空襲ニ依リ中止朝霧沈没夕霧白雲大破ス』
  15. ^ a b #陽炎型(2014)275頁『白雲(しらくも)』
  16. ^ a b #陽炎型(2014)280-281頁『夕霧(ゆうぎり)』
  17. ^ a b #内令昭和17年10月(1)pp.1-2『内令第千八百二十四号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二十驅逐隊ノ項ヲ削ル 第三十驅逐隊ノ項中「睦月」ヲ削ル 第三十一驅逐隊ノ項中「巻波」ノ下ニ「、高波」ヲ加フ』
  18. ^ a b c d e f g 戦史叢書(83)183-186頁『挺身輸送隊の輸送(蟻輸送)』
  19. ^ a b #内令昭和18年2月(4)pp.48-49『内令第三百十二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年二月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第五驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、天霧、夕霧」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第二十二驅逐隊|皐月、水無月、文月、長月| |第三十一驅逐隊ノ項中「大波」ノ下ニ「清波」ヲ加フ』
  20. ^ 写真日本の軍艦10巻173頁(天霧写真解説より)
  21. ^ a b #内令昭和18年12月(2)p.46『内令第二千六百八十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年十二月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「玉波」ノ下ニ「、濱波」ヲ加フ』
  22. ^ a b c d 戦史叢書(96)442頁『特二〇号の曳航不成功』
  23. ^ a b #S18.12三水戦日誌(1)pp.36-37『七日〇六〇〇11dg司令(宛略)11dg機密第〇七〇六〇〇番電 今暁〇二二五運貨船ヲ中心トシテ左廻リニテ監視中天霧行動適切ヲ缺キ其ノ艦首ヲ以テ秋風二三区右舷々側水線附近ニ觸衝(側圧ニ乗ゼラレ後進ニ依リ行足ヲ停止ス)秋風二三区間浸水今ノ所浸水増加セズ人員兵器異状ナキモ最大使用速力六節ROニ回航セシメ運貨船ハ天霧ニテ曳航ス』
  24. ^ a b #S18.12三水戦日誌(2)p.29〔昭和18年12月〕『七(天候略)(略)一.〇二二五天霧 秋風ニ觸衝 特二〇号運貨船ハ天霧ニテ曳航 秋風ハカビエンニ向フ/二.夕凪補給ノ上警戒待機/三.天霧一四三〇特二〇号曳航開始セルモ曳索切断|一.秋風二三区浸水損傷ノ爲出シ得ル最大速力六節 天霧舟首損傷ノ爲出シ得ル最大速力一八節』
  25. ^ a b c #S18.12三水戦日誌(1)pp.11-12『(二)天霧ハ長期ニ亘リ当方面作戰ニ從事シ各部要改造修理箇所モ多キヲ以テ前記各部隊歸着後内地ニ回航整備ノ予定 秋風夕凪ハ差当リ「ラバウル」ニ在リテ待機セシム外機宜船團護衛ニ協力セシムル予定ナシリ處特二〇號護衛任務ニ從事中十二月七日天霧・秋風ニ觸衝両艦共損傷ヲ生ジタルヲ以テ一旦「カビエン」及「ラバウル」ニ於テ應急修理ノ上「トラツク」ヲ経テ天霧ハ内地、秋風ハPTニ回航入渠修理ニ任ゼシメラル』
  26. ^ #S18.12三水戦日誌(6)p.65〔昭和19年1月〕『一五(天候略)一.天霧一二三〇呉着(以下略)(略)二.天霧呉ニテ修理ニ從事ス』
  27. ^ #S19.02三水戦日誌(1)p.22『10.任務實施概要及成果(略)天霧|自二.二九|南西方面行船團護衛』
  28. ^ a b #内令昭和19年3月(1)p.8『内令第三百八十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ』
  29. ^ a b c d ハンディ判艦艇写真集11巻p.104(重巡洋艦『青葉』行動年表)
  30. ^ a b c d 日本軽巡戦史521-522頁『渾作戦と第十六戦隊(六月)』
  31. ^ #達昭和3年9月p.15『達第百三十一號 艦艇製造費ヲ以テ昭和三年度ニ於テ建造ノ一等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和三年九月十一日 海軍大臣 岡田啓介|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 摩耶(マヤ)』
  32. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ203(原本366頁)『◎一等巡洋艦摩耶命名ノ件』
  33. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ203(原本366頁)『◎砲艦熱海二見及驅逐艦天霧朝霧命名ノ件』
  34. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ66(原本93頁)『昭和三年九月十一日(内令二五四)艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 別表巡洋艦一等妙高型ノ項「鳥海」ノ下ニ「、摩耶」ヲ加フ/同砲艦二等勢多型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |熱海型|熱海、二見| 同驅逐艦一等吹雪型ノ項「敷波」ノ下ニ「、天霧、朝霧」ヲ加フ』
  35. ^ 昭和5年2月28日(金)海軍公報 931号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070326100 『○驅逐艦進水 株式會社東京石川島造船所ニ於テ建造ノ驅逐艦天霧本月二十七日午後四時三十五分進水セリ』
  36. ^ #進水p.3『〔軍務局〕五、二、二七、一七二〇 一七二五 中央局 築島発 着(九三一)第一課長 局員 石川島造船所 大臣、電報.天霧本日午後四時三十五分無事進水終了セリ 右 御報告ス.二十七日』
  37. ^ 写真日本の軍艦10巻166頁(天霧艤装中写真解説)
  38. ^ a b 昭和5年6月21日(土)官報第1042号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(原本547)帖佐補職、新美和貴少佐(補羽風艦長)
  39. ^ 昭和5年7月4日(金)海軍公報 1033号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070327800 『○事務所設置 軍艦愛宕艤装員事務所ヲ呉海軍工廠内ニ設置シ六月三十日ヨリ事務ヲ開始セリ|○事務所設置 驅逐艦天霧艤装員事務所ヲ株式會社東京石川島造船所内ニ設置シ本月二日ヨリ事務ヲ開始セリ』
  40. ^ 昭和5年10月8日(水)海軍公報 1114号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C12070328600 『○郵便物發送先 驅逐艦天霧艤装員事務所宛 十月二十六日迄ニ到達見込ノモノハ 横須賀 其ノ後ハ 東京石川島|○假事務所設置 驅逐艦天霧艤装員事務所ヲ一時横須賀海軍工廠内ニ設置シ 自十月八日 至同二十七日 執務ス』
  41. ^ a b c d e f g h i j k l 写真日本の軍艦10巻254-255頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇天霧◇〕
  42. ^ a b c d 昭和5年11月11日(火)官報第1161号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ6(原本191)
  43. ^ 昭和5年11月11日(火)海軍公報 1140号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C12070328900 『○事務所撤去 驅逐艦天霧艤装員事務所ヲ株式會社東京石川島造船所内ニ設置中ノ處本月十日撤去セリ』
  44. ^ a b c d e f g 写真日本の軍艦10巻254頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇朝霧◇〕
  45. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)原本94-95、昭和5年12月1日(内令229)
  46. ^ 写真日本の軍艦10巻167頁(天霧写真解説より)
  47. ^ 昭和5年12月2日(火)官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ9(原本49)
  48. ^ 昭和5年12月9日(火)海軍公報 1164号 pp.1-2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070329400 『○司令驅逐艦指定 第八驅逐隊司令ハ本月六日司令驅逐艦ヲ天霧ニ指定セリ』
  49. ^ a b c d e f g h i j k l 写真日本の軍艦10巻255頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇夕霧◇〕
  50. ^ 写真日本の軍艦10巻158頁(狭霧写真解説より)
  51. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)原本95、昭和5年12月3日(内令265)
  52. ^ a b c 写真日本の軍艦10巻255頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇狭霧◇〕
  53. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)原本95、昭和6年1月31日(内令9)
  54. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)原本49、昭和6年12月1日(内令214)
  55. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.68『昭和六、一二、一(内令二一五)|横須賀鎮守府|第二艦隊|第八驅逐隊|天霧、朝霧、夕霧|昭和六、一二、一(内令二一五)驅逐隊編制本表ノ通改定セラル(略)昭和七、五、一九(内令一六七)横鎮ノ部隊第九驅逐隊ノ次ニ第十驅逐隊(狭霧、漣)ヲ加フ/(略)/昭和七、一一、三〇(内令三七〇)第十驅逐隊ニ暁ヲ加フ』
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  71. ^ 写真日本の軍艦10巻157頁(朝霧写真解説より)
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  73. ^ 支那事変第8回功績、第20駆逐隊p.2『狭霧 昭和十五年八月一日第二十驅逐隊ニ編入サル』
  74. ^ 支那事変第8回功績、第20駆逐隊p.4『狭霧|功勞甲|自八月一日至八月三日|昭和十五年八月一日第二十驅逐隊ニ編入サレ浦賀 呉ニテ出師準備』
  75. ^ 昭和15年8月14日(水)海軍公報(部内限)3579号 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389500 『○将旗一時移揚 第二遣支艦隊司令長官ハ八月十一日将旗ヲ一時天霧ニ移揚同日鳥海ニ復歸セリ』
  76. ^ a b c d 昭和15年9月2日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第521号 p.2中原免職・蘆田補職・中俣勇少佐(文月駆逐艦長)兼補長月駆逐艦長」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078800 
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  78. ^ 昭和16年8月11日(発令8月11日付)海軍辞令公報(部内限)第688号 p.23藤田免職、p.25山田補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700 
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  80. ^ #S17.1-3内令1巻/昭和17年1月(2)画像15-16『内令第二千百五十九號 驅逐隊編成中左ノ通改定セラル 昭和十七年一月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十二驅逐隊ノ項中「東雲、」ヲ削ル 第二十驅逐隊ノ項中「、狭霧」ヲ削ル 第二十九驅逐隊ノ項中「疾風、」ヲ削ル 第三十驅逐隊ノ項中「如月、」ヲ削ル』
  81. ^ a b #内令昭和17年3月(1)p.35『内令第四百十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、叢雲」ヲ加フ |第十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「夕霧」ノ下ニ「、白雲」ヲ加フ』
  82. ^ a b c d e 写真日本の軍艦10巻252頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇白雲◇〕
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  92. ^ #第八艦隊日誌(1)p.9『八月二十四日 鳴戸外南洋部隊ノ指揮下ニ入ル/第三水雷戰隊(第十九驅逐隊缺)外南洋部隊ニ編入
  93. ^ 戦史叢書(83)10-11頁〔川口支隊〕
  94. ^ a b c 戦史叢書(83)21-22頁『輸送開始と外南洋部隊の延期命令』
  95. ^ 戦史叢書(83)22頁で夕雲とあるが、夕霧の誤記。
  96. ^ a b c d e 戦史叢書(83)24-26頁『第一次輸送の挫折』
  97. ^ 戦史叢書(83)27頁
  98. ^ #第八艦隊日誌(1)p.21『八月二十八日一木川口支隊ノ第一回増援部隊ハ警戒部隊ニ分乗發進シタル所敵機ノ空襲ニ依リ一木支隊増援隊ノ乗艦セル第二〇駆逐隊ハ朝霧沈没夕霧白雲大破ス 此ノ状況ヲ見テ第二十四駆逐隊ハ輸送ヲ断念引返セリ』
  99. ^ 故海軍少将山田雄二位階追陞ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11115326200 
  100. ^ 昭和17年10月1日(発令8月28日)海軍辞令公報(部内限)第954号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200 
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  104. ^ #第八艦隊日誌(2)p.14『陽炎、夕暮、津輕、哨戒一、哨二|九月二日二三三〇/九月二日二三五五|「タイボ」岬ニ輸送物件ヲ揚陸』
  105. ^ #第八艦隊日誌(2)p.14『第十一駆(初雪叢雲缺)天霧|九月二日二二五四|「ルンガ」泊地ニ突入敵飛行場ヲ砲撃津輕ノ援護ニ任ズ』
  106. ^ #第八艦隊日誌(2)p.14『吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮|九月五日|RXWヘ陸兵二三一名彈藥糧秣ヲ揚陸ス』
  107. ^ 戦史叢書(83)55頁『九月五日』
  108. ^ a b c 戦史叢書(83)91-92頁『敵のタイボ岬上陸』
  109. ^ #第八艦隊日誌(2)p.15『川内、第十九駆(2D缺) 第十一駆(初雪叢雲缺)陽炎、天霧、夕暮|九月八日|「タイボ」岬ニ敵巡一、駆六、輸送船六出現ノ報ニ依リ直ニ進撃同日二一三〇湾外ニ於テ敵駆一撃沈、一隻大破ス』
  110. ^ 戦史叢書(83)102-103頁『青葉支隊第二次輸送と外南洋部隊の出撃』
  111. ^ a b 戦史叢書(83)103-104頁『奇襲隊のガ島敵陣地砲撃』
  112. ^ a b 戦史叢書(83)104-106頁『青葉支隊第三次輸送』
  113. ^ a b c 戦史叢書(83)137-138頁『十六日~十九日』
  114. ^ #第八艦隊日誌(2)p.16『漣、天霧|九月十七日|「カミンボ」ニ兵器、彈藥、糧秣ヲ揚陸ス』
  115. ^ a b c d 戦史叢書(83)165-167頁『輸送計画の改正』
  116. ^ 戦史叢書(83)177頁『輸送再開』
  117. ^ 戦史叢書(83)184頁『挺身輸送隊航路図』
  118. ^ #第八艦隊日誌(2)p.17『天霧|九月二十七日|挺身輸送隊員二〇〇名及大發四隻ヲ曳航「レンドバ」着』
  119. ^ #第八艦隊日誌(2)p.17『天霧、浦波、敷波|九月三十日|大發曳航「レンドバ」着』
  120. ^ #第八艦隊日誌(2)p.27『(3)軍隊区分ノ変更|天霧|一〇-一|第八艦隊ニ編入』
  121. ^ a b 戦史叢書(83)186-188頁『輸送計画の再検討と九日~十日の輸送』
  122. ^ #第八艦隊日誌(2)p.41『第二十七駆(二小隊欠)天霧|一〇-一〇|陸兵二九三、其他「タサファロング」ヘ揚陸ス』
  123. ^ 戦史叢書(83)200頁以降の「夕霧」と「白雲」表記あるも、8月28日に大破した夕霧と白雲は既に日本本土に帰投。修理中。
  124. ^ a b c 戦史叢書(83)200-202頁『叢雲、夏雲の喪失』
  125. ^ 駆逐艦物語71-72頁『▽サボ島沖海戦』
  126. ^ 戦史叢書(83)198-199頁『戦果及び被害』
  127. ^ #第八艦隊日誌(2)p.21『(イ)一般情勢 敵ハ逐次RXNニ増強シ飽ク迄之ヲ固守セントスルノ對勢ヲ示スニ至レリ/帝國海陸軍ハ之ニ對シ基地航空兵力竝ニ在RXN陸軍 第三戰隊、鳥海及第六戰隊ノ射撃ニ依リ敵機ヲ撃碎シ其ノ虚ニ乗ジ高速船團ニ依ル輸送ヲ強行セリ斯クテ在RXN陸軍ノ増強ヲ計リ二十四日總攻撃ニ轉ジタルモ敵飛行場ヲ占領スルニ至ラズ、目下彼我共ニ増勢シツツ次期作戰ヲ畫シアル情況ナリ』
  128. ^ a b #第八艦隊日誌(2)p.42『外南洋部隊|一〇-一三/一〇-一四|増援部隊ハ輸送船(崎戸、九州、笹子、佐渡、南海及吾妻山丸)ヲ護衛RXNニ進撃ス 爾餘ノ外南洋部隊ハ右支援及敵艦艇撃滅ノ爲進撃ス/3Sハ十三日夜約一時間ニ亘リRXIノ砲撃ヲ行フ/船團ハ途中敵機ノ連續爆撃ヲ受ケタルモ被害ナク十四日二二〇〇「タサファロング」沖ニ入泊セリ/鳥海、衣笠ハ十四日夜「ルンガ」沖ニ突入RXIニ對シ艦砲射撃ヲ行フ』
  129. ^ 戦史叢書(83)206頁
  130. ^ a b 戦史叢書(83)219-220頁『外南洋部隊のガ島飛行場射撃』
  131. ^ 戦史叢書(83)220-221頁『船団の揚陸』
  132. ^ a b c 戦史叢書(83)224-225頁『十七日の輸送』
  133. ^ #第八艦隊日誌(2)p.43『第二駆(d×2欠)天霧、望月|一〇-一七|RXIノ砲撃制圧ヲ行フ/鳥海衣笠ハ増援部隊ノ間接護衛ニ任ズ』
  134. ^ a b 戦史叢書(83)246-247頁『各部隊の作戦命令』
  135. ^ 戦史叢書(83)260-262頁『由良の沈没』
  136. ^ 戦史叢書(83)344-345頁『十一月二日の輸送』
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  141. ^ 戦史叢書(83)376頁
  142. ^ 戦史叢書(83)381-383頁『米航空部隊の戦闘』
  143. ^ #第八艦隊日誌(3)p.60『天霧、夕暮|一二-九|「レカタ」ニ増援輸送ヲ實施ス』
  144. ^ #第八艦隊日誌(3)p.61『天霧、夕暮|一二-一三|「レカタ」増援輸送ヲ實施ス』
  145. ^ 戦史叢書(83)454頁『第二回輸送』
  146. ^ #第八艦隊日誌(3)p.62『津軽、天霧|一二-二三|第二回第二次「ムンダ」輸送ヲ實施ス』
  147. ^ #S17.12四水戦日誌(3)p.12『(略)有明、夕暮ハ前月ヨリNTBニ編入同方面ニ於テ作戰行動中ノ処二日AdBニ復皈(AdB電令作第一〇五號)有明ハ三日「ラボール」發六日「トラツク」着 夕暮ハ一日「ラボール」發五日「トラツク」着 兩艦共AdB電令作第一一二號ニ依リ(長官)KdBノ指揮下ニ入リ(内地回航中)内地回航部隊トシテ七日「トラツク」發 瑞鶴 陸奥 鈴谷等ノ直衛警戒ニ任ジツツ十二日呉着(以下略)』
  148. ^ #S18.01七戦隊日誌(1)p.18『7日0800第三艦隊司令長官/瑞鶴陸奥鈴谷有明夕暮磯波(天霧電6日)「トラック」発』
  149. ^ a b c #S17.12四水戦日誌(3)pp.24-25『五日一五〇〇 3F参謀長(宛略)3F機密第〇五五〇〇番電12/2 瑞鶴、陸奥、鈴谷、有明、夕暮、朝潮、磯、天霧、雷 左記予定ヲ以テ「トラツク」發内地ニ回航整備補給其ノ他ニ関シ然ルベク配慮ヲ得度/一月六日夕刻天霧 電「トラツク」發(八日朝「サイパン」着補給)/一月七日〇八〇〇其ノ他ノ各艦「トラツク」發(dハ対潜掃蕩後北水道出口ニテ合同)〇九三〇北水道針路三三五度速力二二節尓後「ルクテイ」島東方ヲ北上一四〇〇9°-20′N 151°-32′E針路330°實速16.5節 一月八日日没頃磯波分離(九日朝「サイパン」着補給後單獨内海西部ニ回航)一月九日早朝「バガン」「アグリガン」間ヲ通過〇七〇〇「バカン」ヲ経ル三〇浬附近ニ於テ天霧 雷合同一月十日一一〇〇23°40′N 140°3′Eニテ陸奥、朝潮、電 分離(十二日午前横須賀着ノ予定)一七三〇24°50′N 138°47′E針路325°實速一五.五節 一月十二日〇九〇〇沖ノ島(瑞鶴、天霧)同日午後内海西部鈴谷、同日夕刻呉、有明、夕暮十三日佐世保着ノ予定』
  150. ^ 戦史叢書(83)567頁
  151. ^ 高松宮日記5巻451頁『○「陸奥」「朝潮」「電」、「横」着(一二-一〇三〇)』
  152. ^ #S18.01佐伯防備隊日誌(2)pp.11-12『1月11日0900呉防備司令官→瑞鶴鈴谷天霧夕暮有明迅鯨伊良湖|一.瑞鶴鈴谷天霧有明夕暮12日0900沖ノ島通過北上ノ豫定沖ノ島迄ノ針路335度/二.迅鯨12日0800沖ノ島通過、伊良湖同日0700深島通過北上ノ予定』
  153. ^ 写真日本の軍艦10巻253頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇磯波◇〕
  154. ^ #S18.01七戦隊日誌(1)pp.7-8『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』
  155. ^ a b c d e f 戦史叢書(96)(付表第1その1)『南東方面作戦関係主要職員表(昭和十七年九月下旬以降)』
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  157. ^ #内令昭和18年4月(1)画像26-27『内令第五百七十九號 驅逐隊編成中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣嶋田繁太郎 第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル 第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム 第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル 第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル 第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』
  158. ^ #第八艦隊日誌(7)pp.16-17『(二)第二師団 第三八師団ノ輸送 在「ブイン」ガ島転進部隊ヲ「ラバウル」ニ輸送ス之ガ護衛ヲ行フト共ニ同方面ヨリ「ラバウル」皈還ノ駆逐艦ヲシテ人員ノミ輸送ヲ行ヘリ/(一)38Dノ輸送 10dg(夕雲、風雲、秋雲)ハ陸軍輸送船亜丁丸 宮殿丸ヲ護衛三月二十六日「ボーゲンヴィル」南方航路ヲ經テ二十八日「ラバウル」着輸送人員六〇〇〇名 別紙第七参照/(二)2Dノ輸送 四月三日ヨリ十日迄ノ間「ソロモン」方面輸送ヲ終ヘテ皈還スル 16dg(雪風)10dg(以上護衛ヲ兼ヌ)2dg 天霧 望月計駆逐艦七隻ヲ以テ大型駆ニハ各四〇〇名小型駆ニハ各三〇〇名搭載 海輸菊川丸ニテ二五〇名搭載輸送ニ協力セリ 輸送人員四六〇〇名(内陸輸ニテ二〇〇〇名)別紙第八参照』
  159. ^ 戦史叢書(96)78頁
  160. ^ #第八艦隊日誌(6)p.29『天霧、望月|三-二九|「レカタ」輸送ヲ實施ス 揚陸人員一二防空隊五〇名陸兵〇名糧秣彈藥約六〇屯』
  161. ^ #第八艦隊日誌(7)pp.4-5『四月一日|夕張ヲ加フ、3sdヨリ8dgヲ除ク、7SSヲ除ク、夕凪ヲ加フ、竜田ヲ除ク、K7Lg、一四防空隊、一五防空隊ヲ加フ|17dg(谷風)天津風ヲ編入 夕張ヲ主隊ニ30dg(望月欠)夕凪ヲ附属トス』
  162. ^ 戦史叢書(96)130-131頁『外南洋部隊の作戦の概要』
  163. ^ a b #第八艦隊日誌(7)pp.9-10『三、二八|天霧望月ヲ以テ第一次輸送|佐六特ノ一部約三〇〇名/兵器彈藥糧秣二五〇屯|行動概要「ブイン」泊地一六〇〇頃発翌日〇〇〇〇頃入泊揚陸ノ上〇一三〇〇頃発〇九〇〇頃「ブイン」皈投ス』・『四.二|16dg(雪風)天霧 望月ニテ第二次輸送|大發二隻 後送一一五名 第三次| 』・『四.六|天霧 望月ヲ以テ第三次輸送| | |』
  164. ^ a b 戦史叢書(96)132-133頁『中部ソロモン方面増援輸送』
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  171. ^ 戦史叢書(96)168頁『五月十六日』
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  228. ^ a b c d e 海軍兵科将校52-55頁『「天霧」もまた』
  229. ^ #S18.12三水戦日誌(1)pp.45-46『八日一四三三NTF参謀長(宛略)NTF機密第〇八一四三三番電 康寧丸沈没後鴻秋風夕凪天霧ニテ逐次特二〇号ノ曳航ヲ試ミタルモ風力波浪大ニシテ何レモ曳索切断シ最後ニ監視中ノ天霧駆潜四〇モ亦風浪激シク一時ROニ避泊ノ已ムナキニ至レリ 特二〇号ヲRRニ曳航シ得ザル場合本月二十日以後潜水艦燃料補給ニ支障ヲ來スニ付同日迄ニ 二号重油約一〇〇〇瓲補給方配慮ヲ得度(差当リ文月・水無月ニ約一五〇瓲宛搭載補給シ得レバ好都合ナリ)』
  230. ^ #S18.12三水戦日誌(1)pp.50-51『十一日〇七〇〇NTB指揮官(宛略)NTF機密第一一〇七〇〇番電 一.夕凪ハ十二日一二〇〇特二〇号附近着予定ニテRR出港特二〇号ノ曳航ニ任ズベシ 但シ海上ノ横揺特二〇号ノ曳航作業困難ト認ムル場合ハROンテ待機セヨ/二.11dg(天霧)ノ特二〇号曳航(警戒)ヲ取止ム』
  231. ^ #S18.12三水戦日誌(1)p.48『九日〇七〇〇11dg司令(宛略)11dg機密第〇九〇七〇〇番電 天霧RO着』
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  233. ^ #S18.12三水戦日誌(2)p.6『十五日一一一五天霧駆逐艦長(宛略)天霧機密第一五一一一五番電 PT着』
  234. ^ #S18.12三水戦日誌(2)p.6『十五日〇〇一二大臣|十五日〇八〇〇各鎮 各警 各艦隊長官|官房機密第一五〇〇一二番電 十五日附 一.駆逐隊編制中ヨリ第十一駆逐隊ヲ除カル 第三十二驅逐隊ニ浜波ヲ加ヘラル/二.略/三.夕霧ヲ駆逐艦籍ヨリ除カル』
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  238. ^ #S18.12三水戦日誌(2)p.15『十九日一九二五天霧駆逐艦長(宛略)天霧意味津第一九一九二五番電 工事完了出シ得ル速力一六節』
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  240. ^ #S18.12三水戦日誌(2)p.12『十八日一〇五九GF長官(宛略)(GF機密第一八一〇五九番電)GF信電令作第四二號 南東方面部隊指揮官ハ天霧ヲシテ十二月二十日PT發照川丸ヲPS迄護衛(右行動中第二海上護衛隊司令官ノ指揮ヲ承ク)尓後GF信電令作第四一號ニ依リ行動セシムベシ』
  241. ^ #S17.04第二海護日誌(5)pp.65-66『二〇(天候略)天霧ハ照川丸護衛中第二海上護衛隊司令官ノ指揮ヲ承クベシ(聨合艦隊信電令作第四二號)|(略)二.天霧、照川丸ヲ護衛一一〇〇サイパンニ向ケトラック發』
  242. ^ #S18.12二水戦日誌(1)pp.44『二一日〇八二〇天霧(宛略)天霧機密第二一〇八二〇番電 〇五一八照川丸北緯九度四五分東経一五一度六分ニ於テ右六〇度ヨリ雷撃ヲ受ク 魚雷一番船舟倉ニ一 機関室ニ一命中船橋ヨリ後方大火災航行不能船員全部退去|無電』
  243. ^ a b #S17.04第二海護日誌(5)pp.66-67『二一(天候略)(略)二.天霧護衛中ノ照川丸沈没セル爲二二三〇トラックニ向フ|一.〇五一八天霧船団護衛中北緯九度四五分東経一五一度五六分ニ於テ照川丸被害航行不能天霧制圧実施スルト共ニ乗員救助/二.〇六一五満潮 一二〇〇隠岐 一一〇〇金城丸哨区ヲ徹シ夫々照川丸救難対潜攻撃ノ爲トラック發/三.二一〇〇隠岐現場着掃蕩開始』
  244. ^ a b c #S18.12二水戦日誌(1)p.8『(3)下旬 二十一日GF電令作第七七號ニ依リ照川丸救難隊編成セラレ(司令官)2Sd指揮官トナリ濱風、電、響ヲ率ヒ仝日一一〇〇「トラック」発一九三〇現場着、照川丸大火災掃蕩及護衛部隊(満潮、隠岐、金城丸、天霧)ト共ニ警戒中二〇二〇沈没、掃蕩隊ヲ残シ翌二十二日帰着、満潮二十三日帰着』
  245. ^ #S18.12二水戦日誌(1)p.12『満潮(中略)二十一日 YB電令第十九號ニヨリ筥崎丸護衛ノ爲「トラック」発途中GF信令第七八號ニ依リ(司令官)2KEgノ指揮下ニ入リ任務変更照川丸ノ救難及對潜掃蕩ニ急行 隠岐 金城丸ヲ併セ指揮右任務ニ從事 照川丸沈没ノ後尚掃蕩続行セルモ手掛ヲ得ズ 二十三日早朝命ニ依リ現場発帰着(司令官)2KEgノ指揮ヲ解カル(以下略)』
  246. ^ #S18.12二水戦日誌(1)pp.44『二一日〇九五五(司令官)2Sd|能代 響 電 浜風(GF長官、2F長官、明石)|タナ六三 能代一一〇〇錨地発北水道ヨリ出撃ス 駆逐艦長ハ適宜出港北水道外方ニ於テ合同セヨ一一〇〇以後二十四節即時待機トナセ|信号』
  247. ^ #S18.12十戦隊日誌(1)p.6『(ル)濱風二〇日2Sd司令官ノ作戰指揮下ニ照川丸ノ救難作業ニ從事ス』
  248. ^ #S18.12二水戦日誌(1)p.10『(1)能代(中略)二十一日 能代、浜風、雷、電ヲ以テ照川丸救難隊編成セラル (司令官)2Sd指揮一一五二「トラック」発一九〇〇現場(9°-45′N 151°-56′E)着仝船大火災護衛隊及掃蕩隊(満潮、隠岐、天霧)ト共ニ警戒中二〇二〇沈没救難隊帰途ニ就ク/二十二日午前「トラック」帰着(以下略)』
  249. ^ #S18.12三水戦日誌(2)p.18『二十二日一〇一五天霧駆逐艦長(宛略)天霧機密第二二一〇一五番電 PT着』
  250. ^ #S17.04第二海護日誌(5)p.67『二二(天候略)(略)四.天霧一〇一五トラック帰投』
  251. ^ #S18.12日栄丸日誌(1)p.4『4.四根電令作第九九號ニ依ル行動 十二月二十六日一五〇〇スラバヤ向發』
  252. ^ #S18.12日栄丸日誌(1)pp.15-16『十二月二十六日 第二海上護衛隊(ナラヱ)|30dg 43kg 天霧← 日榮丸← 旭東丸←|2KEg機密第二五一五五〇番電 第二海上護衛隊信電令作第一六三號(四根電令作第九九號)一.日榮丸、旭東丸明日二十六日一五〇〇スラバヤニ向ケ發セシム/二.第三十駆逐隊司令ハ卯月天霧ヲ併指揮、三〇日一六〇〇頃迄船団護衛ニ任ジタル後パラオニ回航スベシ/三.(第三十二駆逐隊)早波ヲシテ二九日一四〇〇北緯一二度五〇分東経一四〇度〇〇分ニテ右船團(針路二八九度、速力一四)ニ會合東経一三〇度線迄護衛ニ協力後パラオニ皈投セシムベシ』
  253. ^ a b #S17.04第二海護日誌(5)pp.70-71『二六(天候略)|第三〇駆逐隊司令ハ卯月、天霧ヲ指揮、日栄丸旭東丸パラオ迄護衛シ帰途船団護衛トラックニ帰投スベシ右行動ニ関シ 二護司令官ノ指揮ヲ受クベシ(聨合艦隊信令第四六號)|一.早波〇七一七パラオ着/二.天霧、卯月二隻 日榮丸 旭東丸ヲ護衛一六三五スラバヤニ向ケトラック發(東経一三五度迄護衛パラオニ回航)』
  254. ^ #S18.12二水戦日誌(1)pp.13-14『(3)32dg(早波)(中略)二十八日「パラオ」発二十九日 日榮丸船団ニ合同天霧ヨリ護衛任務ヲ引継ギ護衛續行』
  255. ^ a b #S17.04第二海護日誌(5)pp.72-73『二九(天候略)|一.早波(天霧、卯月、日榮丸、旭東丸)船団ニ 一三〇〇合同護衛開始(略)三.卯月、天霧二隻日榮丸船団護衛ヲ早波ト交代ス卯月ハ先航一四〇〇パラオ着』
  256. ^ #S18.12三水戦日誌(2)p.23『三十日一三〇〇30dg司令(宛略)30dg機密第三〇一三〇〇番地 卯月天霧二十九日一四〇〇日栄丸船團護衛ヲ早波ト交代卯月ハ先行PP着』
  257. ^ #S17.04第二海護日誌(5)pp.74-75『三一(天候略)(略)三.天霧〇九三〇日榮丸旭東丸護衛ヲ止メパラオ着』
  258. ^ #S18.12三水戦日誌(2)p.24『三十一日〇九三〇天霧駆逐艦長(宛略)天霧機密第三一〇九三〇番電 PP着』
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  260. ^ #S18.12呉防戦(2)p.27『九日一六三四 2KEg(司令官)パラオ方面|十日〇七二五(司令官)(宛略)|二海護パラオ機密第〇九一六三四番電 フ九〇一船団A船にぎつ丸〔宇品〕護衛艦天霧一月九日〇九〇〇西口発速力一四節 A点二〇度〇〇分E一三二度一四分 B点〃三〇度四〇分〃一三四度二〇分 ヲ経テ十四日一五三〇深島着』
  261. ^ #S18.12三水戦日誌(5)p.12『自一月九日 至一月十五日 天霧 にぎつ丸自「パラオ」至呉間護衛』
  262. ^ #S19.01.01-01.15経過概要p.36『19-1|12|1901|にぎつ丸(陸軍9547t)「パラオ」ヨリ豊後水道ヘ航行中「沖ノ大東島」ノ南東約130′ニ於テ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|内地|沈没 護衛艦天霧掃蕩竝ニ救難ニ從事』
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  267. ^ #S18.12呉防戦(2)p.35『十三日一二〇〇呉鎭(長官)|十三日一四〇〇天霧艦長 呉防戰(司令官)|呉鎭機密第一三一二〇〇番電 呉囘航ノ途次宇品ニ寄港にぎつ丸遭難者ヲ同地ニテ揚陸セシメラレ度』
  268. ^ #S18.12呉防戦(2)p.36『十三日一七五〇呉防戰司令官(宛略)呉防戰機密第一三一七五〇電 電令第一五〇號 十二日一九〇〇N二三度一五分E一三二度五一分ニ於テにぎつ丸遭難沈没人員ハ天霧ニ収容セルモ其ノ後飛行機偵察ニ依レバ人員ハ尚約三〇名漂流中 怒和島ハ二八度線ニ至ラバ船団ヨリ分離シ右遭難現場ニ急行人員救助並ニ要スレバ重要浮流物件ノ揚収ニ任ズベシ』
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  274. ^ a b c #S19.02三水戦日誌(1)pp.25-27『(四)麾下及一時指揮下ニ入リタル艦船ノ行動(イ)麾下艦船』(天霧ハ三月一日附3sdヨリ除カル)
  275. ^ #S19.02三水戦日誌(3)p.58(昭和19年2月)『二九(天候略)一.天霧〇七三〇門司ニ向ケ呉發/二.松風〇六〇〇横須賀ニ向ケ父島發|一.夕凪修理工事完成/二.天霧南西方面船團護衛任務ノ爲門司ニ回航ス』
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  285. ^ #S19.04船舶被害損傷p.2『19-4|2|0440|昭南西方約120′|たらかん丸|菲蘭 横運|五一三五|松輪外二隻|敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ辛ウジテ自力航行(SP4kt)』
  286. ^ #S19.04第一海護日誌(1)pp.13-15『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年4月)
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  305. ^ #内令昭和19年6月p.12『内令第七百四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年六月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「秋雲、」ヲ削ル|第十九驅逐隊ノ項中「、天霧」ヲ削ル』
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  308. ^ 艦長たちの太平洋戦争<続編>387-393頁『ケネディ艇の出現』『ついに衝撃撃破』
  309. ^ 完本太平洋戦争上355-356頁『前進全速、体当りだ』
  310. ^ a b 海軍兵科将校25-26頁『闇の中の混乱』
  311. ^ a b 海軍兵科将校30-32頁
  312. ^ 海軍兵科将校38-39頁
  313. ^ a b 佐藤1984、艦長たち続216-217頁『粉砕された「PT109号艇」』
  314. ^ 海軍兵科将校13-15頁『不沈艦の威風』
  315. ^ 完本太平洋戦争上358-359頁
  316. ^ a b 完本太平洋戦争上350頁
  317. ^ 完本太平洋戦争上359-360頁『太平洋を越えた友情』

関連項目