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「ジョージ1世 (イギリス王)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
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| 人名 = ジョージ1世
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| 画像説明 = ジョージ1世の肖像画、[[ゴドフリー・ネラー]]作、1714年頃。
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| 在位 = グレートブリテン王:[[1714年]][[8月1日]] - [[1727年]][[6月11日]]<br/>ハノーファー選帝侯:[[1698年]] - 1727年
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| 埋葬日 = 1727年[[8月4日]]
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| 埋葬地 = {{HRR}}、ハノーファー、{{仮リンク|ライネ城|en|Leineschloss}}、後に[[ヘレンハウゼン王宮庭園|ヘレンハウゼン宮殿]]
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| 配偶者1 = [[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ]]
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| 子女 = [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]<br />[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー・ドロテア]]<br />ほか庶子3人
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| 王朝 = [[ハノーヴァー朝]]
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| 父親 = [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト]]
| 父親 = [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト]]
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| 宗教 = [[ルター派]]<ref>{{cite book|last=Lathbury|first=Thomas|authorlink=Thomas Lathbury|title=A History of the Book of Common Prayer and Other Books of Authority|url=https://books.google.com/?id=15E5AAAAMAAJ|year=1858|publisher=John Henry and James Parker|location=Oxford|page=430|quote=George I. remained a Lutheran as long as he lived, and had his German chaplain; but he conformed on some occasions with the Church of England. George II. was in the same position. Though Lutherans, they exercised acts of supremacy in the Church of England; and the common opinion was, that there was no opposition between the views of the two Churches}}</ref>
| 宗教 =
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| サイン = George I Signature.svg
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}}
'''ジョージ1世'''({{lang-en|George I}}、[[1660年]][[5月28日]]([[グレゴリオ暦]][[6月7日]]) - [[1727年]][[6月11日]](グレゴリオ暦[[6月22日]]<ref group="注釈" name="Gregorian">ジョージ1世の存命中、グレートブリテン王国は[[ユリウス暦]]を使用したが、ハノーファーでは1700年3月1日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では2月19日)にグレゴリオ暦を採用した。</ref>))は、[[ハノーヴァー朝]]の[[グレートブリテン王国]]及び[[アイルランド王国]]の国王(在位:[[1714年]][[8月1日]] - 1727年6月11日)、及び[[神聖ローマ帝国]]の[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)]][[ハノーファー君主一覧|選帝侯]](在位:[[1698年]][[1月23日]] - 1727年6月11日)。[[ドイツ語]]名'''ゲオルク・ルートヴィヒ'''({{de|Georg Ludwig}})。


ジョージは[[ハノーファー]]で生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地と称号を父や伯父たちから相続した。ヨーロッパにおける一連の戦争により、ジョージのドイツ領地はその治世中に拡大、1708年にはハノーファーの[[選帝侯]]として正式に承認された。又従妹の[[アン (イギリス女王)|アン女王]]が死去すると、ジョージは54歳で[[ハノーヴァー朝]]グレートブリテン王国の初代国王に即位した。[[長子相続|長子相続制]]において、イギリスの王位継承順位では50人以上の[[ローマ・カトリック教会|カトリック]]がジョージより上の順位にあったが、[[1701年王位継承法]]によりカトリックがイギリス王位を継承することは禁止され、[[プロテスタント]]の間ではジョージがアンの最も近い近親者であった。これに対し、[[ジャコバイト]]はジョージを廃位して、[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の息子でカトリックの[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]を王位につけようとしたが失敗した。
'''ジョージ1世'''({{en|George I}}, [[1660年]][[5月28日]]([[グレゴリオ暦]][[6月7日]]) - [[1727年]][[6月11日]](グレゴリオ暦[[6月22日]]))は、[[ハノーヴァー朝]]の[[グレートブリテン王国]]及び[[アイルランド王国]]の国王(在位:[[1714年]][[8月1日]] - 1727年6月11日)、及び[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|選帝侯]](在位:[[1698年]] - 1727年)。[[ドイツ語]]名'''ゲオルク・ルートヴィヒ'''({{de|Georg Ludwig}})。


ジョージ1世の治世において、国王の権力は低減し、イギリスが[[イギリスの首相|首相]]を長とする[[内閣]]政府というシステムに徐々に移行した。晩年には実質的な権力は[[ロバート・ウォルポール|サー・ロバート・ウォルポール]]が掌握し、実質的にはイギリスの初代首相となった。ジョージ1世は母国ハノーファーへ戻る途中で卒中を起こして死去、ハノーファーで埋葬された。
[[ステュアート朝]]の[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の曾孫の一人で、同じくジェームズ1世の曾孫である[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]、[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]、[[アン (イギリス女王)|アン]]の3君主及び[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ老僭王]]の[[はとこ|又従兄弟]]、[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]の甥にあたる。また、[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ1世]]妃[[アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク|アマーリア・ヴィルヘルミーネ]]は父方では従妹、母方では従姉の娘([[いとこ|従姪]])にあたる。[[デンマーク=ノルウェー]]の王[[クリスチャン5世 (デンマーク王)|クリスチャン5世]]、アンの[[王配]]であるカンバーランド公[[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ]]の兄弟も父方の従兄に当たる。


== 幼年期 ==
ハノーファー選帝侯時代はドイツ諸侯として多くの戦いに参加し、ステュアート家の血を引くことからイギリス王も兼ねたが、イギリスの政治には積極的でなく内閣に一任した。この体制により「国王は君臨すれど統治せず」という[[立憲君主制]]が出来上がっていった。
ジョージは1660年5月28日に[[神聖ローマ帝国]]のハノーファーで生まれた{{efn|ジョージが[[オスナブリュック]]のとある部屋で生まれ、同じ部屋で死去したとする言い伝えがあったが(例えば、1759年版の{{仮リンク|歴史大事典|en|Le Grand Dictionnaire historique}}で記載されている)、母[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]]の回想録({{lang|de|''Memoiren der Herzogin Sophie nachm. Kurfürstin von Hannover''}}、A・ケーヒャー編、1879年出版、pp. 1, 68.)では上の2人の男子(ジョージとフリードリヒ・アウグスト)がハノーファーで生まれたとした。またヴォルフェンビュッテルの公文書館で保存されている、ハノーファーからヴォルフェンビュッテルの宮廷に発された4通の通知文書での記述とも矛盾する<ref>{{cite book|title=L'Allemagne Dynastique, Tome III|year=1981|publisher=Alain Giraud|location=Le Perreux|language=French|isbn=2-901138-03-9|page=85|first1=Michel|first2=Alain|first3=F. et B.|last1=Huberty|last2=Giraud|last3=Magdelaine}}</ref>。}}。彼は[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]公[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]と[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]]の間の子供である。ゾフィーは母[[エリザベス・ステュアート]]を通じて祖父のイングランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の血を引いた<ref name="weir">{{cite book|last=Weir|first=Alison|title=Britain's Royal Families: The Complete Genealogy, Revised edition|year=1996|publisher=Random House|isbn=0-7126-7448-9|pages=272–276}}</ref>。


ジョージが生まれた時点では、父と3人の伯父(いずれも子供なし)のドイツ領地の唯一の相続人だった。1661年、ジョージの弟フリードリヒ・アウグストが生まれ、2人は家族の間でそれぞれゲルゲン({{lang|de|Görgen}})とグシェン({{lang|de|Gustchen}})と呼ばれ、一緒に育てられた。ゾフィーが1664年から1665年の間、療養のためにイタリアへ旅行して家を留守にしていたが、その間でも息子たちの女家庭教師と定期に文通し、息子たちの育ちに気をかけた<ref>{{cite book|last=Hatton|first=Ragnhild|title=George I: Elector and King| year=1978|publisher=Thames and Hudson|location=London|isbn=0-500-25060-X|pages=26–28}}</ref>。ゾフィーが旅行を終えた後、彼女はエルンスト・アウグストとの間でさらに4男1女をもうけた。ゾフィーは手紙でジョージを責任感のある誠実な子供と形容、弟や妹たちの模範となりうると述べた<ref name="p29">Hatton, p. 29</ref>。
== 生涯 ==
=== ハノーファー選帝侯ゲオルク ===
後にイギリス王ジョージ1世となるゲオルク・ルートヴィヒは1660年、初代[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]とその妃[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]の長男として[[ハノーファー]]で生まれた。当時エルンスト・アウグストは[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公家]]の末子に過ぎず、家督を相続してさらに[[選帝侯]]の一人となるのは後のことである。母ゾフィーは[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]]兼[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]とその妃[[エリザベス・ステュアート|エリーザベト]](エリザベス)の娘で、エリーザベトの父である[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]を通じて[[ステュアート朝|ステュアート家]]に連なる。


1665年にはジョージの伯父の1人[[クリスティアン・ルートヴィヒ (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|クリスティアン・ルートヴィヒ]]が子供なくして死去したが、残りの2人の伯父が1675年までに結婚したため、彼らはジョージの継承権に疑問を呈し、2人が子供をもうけた場合にはジョージが継承できない可能性があるとした。エルンスト・アウグストはジョージを狩りや乗馬に連れて行き、軍事について教育した。ジョージの将来が不安定であることを案じたエルンスト・アウグストは当時15歳のジョージを[[仏蘭戦争]]の戦役に連れて行き、戦闘でジョージを教育するとともにその能力を試そうとした<ref>Hatton, p. 34</ref>。
継承前から戦争に携わり、[[1675年]]から父と共に[[オランダ侵略戦争]]で[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]に味方して反[[フランス王国|フランス]]側に立ち参戦、[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]で解放軍に加わり、[[大トルコ戦争]]や[[大同盟戦争]]にも従軍、[[1693年]]にはイングランド王兼[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]に従いフランス軍と交戦した。1698年に父が亡くなったハノーファー選帝侯位を継承し、ドイツ[[領邦]]国家の君主となった。


1679年、ジョージの伯父の1人[[ヨハン・フリードリヒ (ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公)|ヨハン・フリードリヒ]]が男子のないまま死去、エルンスト・アウグストが[[カレンベルク侯領]]と[[ゲッティンゲン侯領]]を継承し、首都はハノーファーに置いた。今やジョージの伯父のうち唯一存命中なのは[[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]1人となり、彼は愛妾[[エレオノール・ドルブリューズ]]と正式に結婚して娘[[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア]]を嫡出子にしたが、さらに子供をもうける可能性はありそうになかった。[[サリカ法]]により領土の継承は男子に限定されたため、ジョージと弟たちが父エルンスト・アウグストや伯父たちの領地を相続することはほぼ確実視された。1682年にはハノーファー家が[[長子相続]]制の採用を合意、これによりジョージは領地を弟たちと分割することなく全て相続することができた<ref>Hatton, p. 30</ref>。
[[1702年]]に始まる[[スペイン継承戦争]]ではイングランドと同盟して反フランス側に就き、同年にフランス側に就いた同族の[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領|ヴォルフェンビュッテル侯]][[アントン・ウルリヒ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|アントン・ウルリヒ]]の領土を奇襲、ヴォルフェンビュッテルを戦争から離脱させた。[[1705年]]、伯父(舅でもあった)の[[リューネブルク侯領|リューネブルク侯]][[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]が息子のないまま死去した後、リューネブルク侯領を自領に加えた。[[1707年]]から[[1710年]]まで[[バイロイト侯領|バイロイト辺境伯]][[クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|クリスティアン・エルンスト]]に代わって[[ライン川]]方面司令官に就任、ライン川流域の守備を担当した。[[1708年]]にはライン川守備の功績から選帝侯会議に列席出来るようになり、正式に選帝侯の地位が認められた<ref>友清、P56、P131、P203、P233。</ref>。


== 結婚 ==
イングランド軍司令官としてライン川流域を転戦していた[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]や[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の将軍[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]と面識を持ったこともある。1708年にマールバラ公らが[[南ネーデルラント|ネーデルラント]]方面に向かい[[アウデナールデの戦い]]でフランス軍を撃破したことを自分を出し抜いたと不満に思ったが、後にマールバラ公が政争で司令官の地位が危うくなるとマールバラ公への信任を表明した手紙をマールバラ公に送っている。またマールバラ公が失脚し、[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた<ref>友清、P221、P289 - P290、P348 - P359。</ref>。
[[ファイル:George I as Prince of Hanover.jpg|thumb|left|1680年、ハノーファー王子だった頃のジョージ。[[ゴドフリー・ネラー]]作。]]
同年、ジョージは従妹[[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ]]と結婚、サリカ法で規定されなかった収入を確保した。この[[閨閥]]の目的は歳入を(健全な程度に)増やすことと、ハノーファーとツェレの統一を推進することにあった。ジョージの母ゾフィーははじめゾフィー・ドロテアの出身(王族ではなかった上、庶子だったのを認知されて嫡出となった経緯がある)を見下して結婚に反対したが、結婚がもたらす利益をもって説得された<ref>Hatton, pp. 36, 42</ref>。


1683年、ジョージは弟フリードリヒ・アウグストとともに[[大トルコ戦争]]の[[第二次ウィーン包囲]]に参戦、一方のゾフィー・ドロテアは息子[[ジョージ2世 (イギリス王)|ゲオルク・アウグスト]]を出産した。翌年、フリードリヒ・アウグストは長子相続制の採用を知らされた。元々予定された、父の領地の一部を相続することができなくなったという事実により、フリードリヒ・アウグストと父、そしてジョージの間で確執が生じ、フリードリヒ・アウグストが1690年に戦死するまで続いた。ハノーファーが統一目前であることと、ハノーファーが大トルコ戦争に継続して貢献したことを鑑みて、エルンスト・アウグストは1692年に神聖ローマ帝国の選帝侯に叙された。これにより、ジョージの将来は父の選帝侯領と伯父の公国の相続と、より一層に明るくなった<ref>Hatton, pp. 43–46</ref>。
一方、イングランドでは王位継承者を巡る問題が起こっていた。ウィリアム3世には実子がおらず、後継者とされた義妹で従妹の[[アン (イギリス女王)|アン]](女王、1702年に即位)の子もことごとく夭逝していた。アンには異母弟[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ]](後に老僭王と呼ばれる)がいたが、ジェームズは父[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]](1701年に死去)と同じく[[カトリック教会|カトリック]]信者であった。カトリックの国王を望まないイングランド議会はジェームズを国王に迎えることを嫌って、ステュアート家の血を引き、かつ[[プロテスタント]]であるゾフィーの子孫のみが国王となることができるとする[[1701年王位継承法|王位継承法]]を[[1701年]]に制定した。さらに[[1707年]]には、100年余りにわたって[[同君連合]]の関係にあった[[スコットランド王国]]と合同し、[[グレートブリテン王国]]が成立した。


ゾフィー・ドロテアは1687年に同名の娘[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー・ドロテア]]を出産したが、それ以降は妊娠することがなかった。ジョージとゾフィー・ドロテアは疎遠になり、ジョージは愛妾[[エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク]]と同伴することを好み、ゾフィー・ドロテアもスウェーデンの[[フィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク]]伯爵と不倫した。駆け落ちのスキャンダルに危機を感じたハノーファー宮廷ではジョージの母や弟が思いとどまるよう説得したが効果がなかった。ハノーファーの敵国の外交文書によると、ケーニヒスマルク伯は1694年7月に殺害され、遺体は石の重りをつけて[[ライネ川]]に投棄された。彼を殺害したのはエルンスト・アウグストの宮廷にいた4人とされ、そのうち1人(ドン・ニッコロ・モンタルバーノ)は15万ターラーもの大金を賞与された<ref group="注釈">当時年収の最も高い官僚の年収の100倍ほどであった。</ref><ref name="pp51">Hatton, pp. 51–61</ref>。その後、ケーニヒスマルク伯の遺体がバラバラにされ、ハノーファーの宮殿の床の下に埋められたとするうわさが流れた<ref>{{cite book| first = Michael |last=Farquhar| title = A Treasury of Royal Scandals| year = 2001| location=New York|publisher=Penguin Books|isbn = 978-0-7394-2025-6| page = 152 }}</ref>。しかし、ゾフィーを含むハノーファー自体での文献はケーニヒスマルクの行方について全く知らなかったとした<ref name="pp51" />。
=== イギリス王ジョージ1世 ===
1714年6月8日に母ゾフィーが、8月1日にアン女王が相次いで死去すると、先の法律の規定に従ってゾフィーの長男である54歳のゲオルク・ルートヴィヒがイギリスに迎えられ、イギリス(グレートブリテン)王ジョージ1世として即位した。イギリスの国内政治に関心が薄かったジョージ1世はトーリー党を排除して[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]から[[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|スタンホープ]]、[[チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵)|タウンゼンド]]、[[チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)|サンダーランド]]、[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]などの政治家に多くを委ねることになった。また、大陸から帰国したマールバラ公には名誉職を与えている<ref>今井、P277 - P289。</ref>。


ジョージとゾフィー・ドロテアの結婚が解消されたが、その理由は不倫ではなく、ゾフィー・ドロテアがジョージを捨てたことであった。父エルンスト・アウグストの同意を得たジョージはゾフィー・ドロテアを[[ツェレ]]の{{仮リンク|アールデン城|en|Ahlden Castle}}に幽閉、1726年に死去するまで解放されなかった。彼女は父や子供との面会を許されず、再婚も禁止され、他人の同伴なしに歩けるのは城のコートヤードだけだった。しかし、彼女は年金や使用人を与えられ、監視のもと馬車を乗って城の外へ出かけることも許された<ref>Hatton, pp. 60–64</ref>。エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクは1698年から死去するまでジョージの公妾であり続け、1692年、1693年、1701年にそれぞれ娘を出産した。
ジョージ1世は[[大陸ヨーロッパ]]の情勢に関心があったが、その大陸での出来事は[[大北方戦争]]であった(ハノーファー選帝侯として、内陸の選帝侯領から[[北海]]への出口を得る機会を狙っていた)。前王家と異なり初期は[[スウェーデン]]と対立する事となり、[[1715年]]から[[反スウェーデン同盟|反スウェーデン]]側で参戦して勝利、[[ストックホルム条約]]でスウェーデンから[[ブレーメン]]と[[フェルデン (アラー)|フェルデン]]を獲得した。北ドイツでの権益拡大に成功したジョージ1世は、領土獲得と引き替えにスウェーデンと同盟し、ロシアを牽制するために[[バルト海]]に艦隊を派遣してロシアの西方拡大阻止を図ったが、スペイン継承戦争でイギリスの敵方として戦ったフランスが介入することによって英仏は内部対立をすることとなり、結局は[[ロシア帝国]]がバルト海地域の覇権を牛耳ることとなった<ref>林、P159 - P163、P167 - P173。</ref>。


== ハノーファー選帝侯 ==
1727年、大陸へ渡っていたジョージ1世は、ハノーファーの西方に位置する[[オスナブリュック]]で急死し、息子のジョージ・オーガスタス(ゲオルク・アウグスト)がイギリス王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]及びハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグストとして即位した。
[[ファイル:George I Elector of Hanover.jpg|thumb|1706年、[[ハノーファー選帝侯]]だった頃のジョージ。ヨハン・レオンハルト・ヒルシュマン作。]]
エルンスト・アウグストは1698年1月23日に死去、遺領は{{仮リンク|オスナブリュック司教領|en|Prince-Bishopric of Osnabrück}}を除いて{{efn|エルンスト・アウグストは1661年からオスナブリュック司教だったが、オスナブリュック司教職は世襲ではなく、プロテスタントとカトリックが交互に就任した。}}ジョージが継承した。これにより、ジョージは[[神聖ローマ帝国]]における[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]公(首都の名前をとってハノーファーとも)、[[選帝侯]]および旗手長になった<ref>{{cite web|url=http://www.rulers.org/gerstat1.html#Hanover|title=Hanover|author=Schemmel, B|publisher=rulers.org|accessdate=21 August 2007}}</ref>。彼の宮廷は哲学者、数学者の[[ゴットフリート・ライプニッツ]]、作曲家の[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]、[[アゴスティーノ・ステッファーニ]]などでにぎわった。


ジョージが父方の公国を継承した直後、イングランドとスコットランドの王位継承順位で2位の[[グロスター公]]{{仮リンク|ウィリアム (グロスター公)|en|Prince William, Duke of Gloucester|label=ウィリアム}}が死去した。イングランドの[[1701年王位継承法]]により、ジョージの母ゾフィーは当時王位についていた[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]と義妹[[アン (イギリス女王)|アン]]が継承者なくして死去した場合、その継承者となることが定められた。この決定の理由は、ゾフィーがプロテスタントのうちイギリス王家の最近親者にあたるためだった。近親者のうち継承順位がゾフィーより上にある56人のカトリック信者は排除された<ref>{{cite book| last = Schama| first = Simon| title = A History of Britain – The British Wars 1603–1776| year = 2001| publisher = BBC Worldwide Ltd| isbn = 0-563-53747-7 |page=336}}</ref>。彼らが王位を継承するために改宗するという望みは薄く、うち数人はすでに断っていた<ref>Hatton, p. 74</ref>。
なお、ジョージ1世の妹[[ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファー|ゾフィー・シャルロッテ]]は[[プロイセンの王|プロイセン王]][[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]の王妃となった。2人の間に生まれた甥[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]は[[1706年]]にジョージ1世の娘で従姉に当たる[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー・ドロテア]]と結婚、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世(大王)]]を含めた14人の孫が生まれた。


1701年8月、ジョージは[[ガーター勲章]]を授与され、6週間後には元イングランド国王でカトリックとしては最近親だった[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]が死去した。翌年3月にウィリアム3世が死去、アンが即位した。ゾフィーは王位の推定相続人となった。彼女は当時71歳で、アン女王より35歳年上であったが健康体であり、彼女自身か息子による王位継承を保証するために精力的に働いた<ref>Hatton, pp. 75–76</ref>。しかし、イギリスの政治と{{仮リンク|イギリスの憲法史|en|History of the Constitution of the United Kingdom|label=憲法}}の複雑さを理解していたのはジョージのほうであり、彼は1705年の{{仮リンク|ゾフィー帰化法|en|Sophia Naturalization Act 1705}}でゾフィーとその継承者たちをイギリスに帰化させ、また権力の継承を摂政委員会を通じて行うことも定めた<ref>Hatton, pp. 77–78</ref>。同年、ジョージの伯父で唯一存命だった[[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]が死去、ジョージは[[ツェレ]]を首都とする[[リューネブルク侯領]]と{{仮リンク|グルベンハーゲン侯領|en|Principality of Grubenhagen}}を継承した<ref>Hatton, p. 90</ref>。
=== イギリス議会政治の発展 ===
[[ファイル:Robert Walpole prime minister of Britain.jpg|150px|thumb|首相として政務を担った[[ロバート・ウォルポール]]]]
ジョージ1世はほとんど[[英語]]を話さなかったが、[[フランス語]]を用いてイギリス人閣僚と意思疎通を図ることは可能であり、最低限の英語力も有していた。しかし、ハノーファー出身であるジョージ1世は大陸政治に強い関心を持った反面、イギリスの国内政治にはさほど興味を持たずドイツ滞在が多かったため、[[内閣 (イギリス)|内閣]]に政務の一切を委ねるようになり、内閣は国王にではなく議会に責任を負うこととなった([[責任内閣制]]の成立)。


[[ファイル:Hanover1720.png|thumb|left|1720年頃のハノーファーの地図。[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー]]、[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]、{{仮リンク|オスナブリュック司教領|en|Prince-Bishopric of Osnabrück}}を示している。ジョージの治世中、ハノーファーはさらに[[ザクセン=ラウエンブルク]]と{{仮リンク|ブレーメン=フェルデン|en|Bremen-Verden}}を獲得した。]]
大蔵府を率いていた[[第一大蔵卿]]のウォルポールを首班として政治を行わせることとなり、以後は内閣の首班となる第一大蔵卿が[[イギリスの首相|首相]]としてイギリスの政治を行うようになった。この状況は、[[名誉革命]]以来議会政治が確立していたイギリスにとって好都合であったために、「国王は君臨すれど統治せず」の慣行がイギリスの国制として定着した。
ジョージがハノーファーを継承した直後、[[スペイン継承戦争]]が勃発した。戦争において問題となったのはフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の孫[[フェリペ5世 (スペイン王)|アンジュー公フィリップ]]がスペイン王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]の遺言に従いスペイン王位を継承することだった。神聖ローマ帝国、[[ネーデルラント連邦共和国]]、イングランド、ハノーファー、そして多くのドイツ小国はフランスの[[ブルボン家]]がスペインまでも支配すると、強力になりすぎることを恐れてフィリップによる継承に反対した。ジョージは戦争に乗じて親仏派の[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領]]に侵攻、途中で戦列の並びを自ら書いた。侵攻は僅少な損害で成功、これによりイングランドとオランダはハノーファーが前に行った[[ザクセン=ラウエンブルク]]併合を承認した<ref>Hatton, pp. 86–89</ref>。


1706年、[[バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]はフランス側についた廉で選帝侯位をはく奪され、同年にジョージは帝国元帥に叙され、[[ライン川]]沿岸の帝国軍を指揮した。しかしジョージは同盟者の[[マールバラ公|マールバラ公爵]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]に騙されて陽動攻撃を行い、また皇帝[[ヨーゼフ1世]]がジョージの戦役に必要な軍資金を横領したため大きな成功を収めることはなかった。しかしドイツ諸侯はジョージの働きぶりを認め、1708年にジョージを選帝侯として正式に承認した<ref>友清、P56、P131、P203、P233。</ref><ref name="Hatton101-104,122" />。ジョージは陽動攻撃がフランス軍の目をそらすための作戦であると後に知ったためマールバラ公には根を持たなかった<ref name="Hatton101-104,122">Hatton, pp. 101–104, 122</ref>。
== ジョージ1世の家庭 ==
=== 妻を32年間幽閉 ===
[[ファイル:SophiaDorothea of Celle1.jpg|200px|left|thumb|ゾフィー・ドロテア]]
ジョージ1世は、まだ父が公位に就いていた時代の[[1682年]]に、同族の従妹である[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]]女[[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア]](1666年 - 1726年)と結婚した。彼女は絶世の美女として知られたが、ジョージ1世は彼女に関心を抱くことなく、[[1683年]]に生まれた[[ジョージ2世 (イギリス王)|ゲオルク・アウグスト]](後のジョージ2世)と、[[1687年]]に生まれた[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー・ドロテア]](プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]の王妃)が誕生して以後は、[[エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク|メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク]]やシャルロッテ・キールマンゼッケらの愛人をもうけ、妃を顧みることはなかった(この無関心をジョージ1世の性的嗜好のためとする説がある)。


1709年、ジョージは元帥職を辞め、以降軍務から身を引いた。1710年、元は[[プファルツ選帝侯]]が有した官職であった帝国の大出納官に就任した<ref>Hatton, p. 104</ref>。バイエルン選帝侯が不在だったため官職が再編されたのだった<ref>{{cite web|url=http://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm#Household|title=Holy Roman Empire|last=Velde|first=François R.|date=26 September 2006|accessdate=20 August 2007}}</ref>。後にマールバラ公が政争で司令官の地位が危うくなるとマールバラ公への信任を表明した手紙をマールバラ公に送っている。またマールバラ公が失脚し、[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた<ref>友清、P221、P289 - P290、P348 - P359。</ref>。1711年にヨーゼフ1世が死去したことで勢力均衡が逆方向に崩される可能性が出て、1713年の[[ユトレヒト条約]]締結と終戦につながった。フィリップはフェリペ5世としてスペイン王に即位したが、フランスの王位継承権は放棄、マクシミリアン2世エマヌエルはバイエルン選帝侯に復帰した。
そのためゾフィー・ドロテアは、ハノーファー守備隊長[[フィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク|ケーニヒスマルク伯フィリップ]]と[[愛人]]関係になっていった。しかしこの関係は夫に知られ、[[1694年]]に彼女は離婚されてアールデン城に幽閉された。愛人ケーニヒスマルク伯も同時期に[[行方不明]]となり、後に遺体で発見されたが、ジョージ1世による[[暗殺]]という噂がヨーロッパ中で公然と囁かれた。以後、[[1726年]]に死去するまでゾフィー・ドロテアは32年間アールデン城に幽閉され、「'''アールデンのゾフィー'''」と呼ばれた。もちろん、一度もイギリスの地に足を踏み入れることはなかった。ジョージ1世が即位後イギリスでの人気がなかったのは、英語がほとんど話せなかったことと、この妻への仕打ちに原因があると言われる<ref>森、P178 - P195。</ref>。


== グレートブリテンの王位継承 ==
=== 息子との確執 ===
[[ファイル:George I Oval.jpg|thumb|ジョージ1世の肖像画、[[ゴドフリー・ネラー]]作、1714年頃。]]
ジョージ1世の息子ゲオルク・アウグスト、後のジョージ2世は、11歳で母と引き離され、妹のゾフィー・ドロテアと共に祖母である選帝侯妃ゾフィーに育てられた。ゲオルク・アウグストは父が母に行なった仕打ちを決して許さず、それは成長してから父との確執という形で表面化する。反抗する息子に父は、イギリス王太子としての息子の歳費を減額したり、王太子に息子が生まれた時に王太子の嫌う人間を[[洗礼式]]に出席させたり、しまいには宮殿の一室に閉じ込めるなど数々の嫌がらせを行い、ついに王太子一家が国王の住む[[セント・ジェームズ宮殿]]から退去するという事態にまでなった。この確執はジョージ1世がオスナブリュックで死去する1727年まで続くことになり、父の死をウォルポールから知らされた時、彼は「それは悪い冗談だ」と言って信じようとさえしなかったという<ref>森、P198 - P204。</ref>。
イングランドもスコットランドもアンを女王として承認したが、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーを推定相続人として承認したのは{{仮リンク|イングランド議会|en|Parliament of England}}だけであり、{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|en|Parliament of Scotland|label=スコットランド議会}}はスコットランド王位の継承権問題を正式には解決していなかった。1703年、スコットランド議会はイングランドがスコットランド商人にイングランドとその植民地における自由貿易を許可しない限りアン女王のスコットランド王位継承者にイングランド王位継承者と同じ人物を選ばないことを決議した。アン女王ははじめ裁可を与えなかったが、翌年には折れて裁可を与え、法案は{{仮リンク|安全保障法 (1704年)|en|Act of Security 1704|label=1704年安全保障法}}として成立した。これに対し、イングランド議会はスコットランド議会がハノーファー家によるスコットランド王位継承を承認しない場合、イングランド・スコットランド間の貿易を制限し、スコットランド経済に打撃を与えることを決議した<ref>{{cite book| last=Whatley| first=Christopher A.|title=Bought and Sold for English Gold?: Explaining the Union of 1707, Second edition| year=2001|publisher=Tuckwell Press|location=East Linton, Scotland|isbn=1-86232-140-X}}</ref><ref>{{cite book|last=Riley|first=P.W.J.|title=The Union of England and Scotland: A Study in Anglo-Scottish Politics of the Eighteenth Century|year=1978|publisher=Rowman and Littlefield|location=Totowa, New Jersey|isbn=0-8476-6155-5 }}</ref>。やがて両議会は1707年に[[合同法 (1707年)|合同法]]でイングランドとスコットランドを1つの政治実体に合併し、[[グレートブリテン王国]]を成立させるとともに、[[1701年王位継承法]]に基づく王位継承を合意した<ref>{{UK-LEG|path=aep/Ann/6/11/contents|title=Union with Scotland Act 1706}}</ref>。この合併により、18世紀のヨーロッパにおける最大の自由貿易圏が成立した<ref>{{cite web|url=http://www.scottish.parliament.uk/vli/history/treatyofunion/index.htm|title=The Treaty of Union|publisher=The Scottish Parliament|accessdate=20 August 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070518030803/http://www.scottish.parliament.uk/vli/history/treatyofunion/index.htm|archivedate=18 May 2007}}</ref>。


[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家は議会が王位継承を決定する権利を持ち、それをアン女王の最近親のプロテスタントに与えることができたと考えた。一方多くの[[トーリー党]]政治家は[[ステュアート家]]のカトリックがより近親だったためその継承権を認めるべきと考えた。1710年、ジョージは王位継承権がステュアート家から剥奪されたが彼が王位継承権を保持したとして、イギリスの王位を継承することを宣言した。「この宣言の目的はホイッグ党の議会が王国を彼に与えたとする主張を潰す[とともに][...]トーリー党には王位の簒奪者ではなかったと納得させた」<ref>Hatton, p. 119</ref>。
== 系図 ==

{{See also|ハノーヴァー朝|ステュアート朝}}
ジョージの母ゾフィーは1714年5月28日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では6月8日)に83歳で死去した。彼女は雨避けのために走った後{{仮リンク|ヘレンハウゼン庭園|en|Herrenhausen Gardens}}で倒れた。アン女王の健康も悪化していたためイギリスの政治家は権力を奪い合い、アンの推定相続人になったジョージはすぐさまに摂政委員会の委員を再編した<ref>Hatton, p. 108</ref>。アン女王は卒中をおこして話すことができなくなり、1714年8月1日に死去した。摂政のリストが公表され、摂政たちは宣誓し、ジョージはジョージ1世としてグレートブリテン王およびアイルランド王として即位した<ref>Hatton, p. 109</ref>。しかし、逆風のために[[デン・ハーグ]]で海峡通過を待たざるを得ず<ref>Hatton, p. 123</ref>、9月18日にようやくイギリス入りした。ジョージは10月20日に[[ウェストミンスター寺院]]で戴冠した<ref name="weir" />。イングランドでは20か所以上の町で{{仮リンク|戴冠式暴動|en|Coronation riots}}と呼ばれた暴動がおこった<ref>{{cite book|first=Paul Kleber |last=Monod|title=Jacobitism and the English People, 1688–1788|publisher=Cambridge University Press|year=1993|pages=173–178|isbn=978-0-521-44793-5}}</ref>。
ジョージ1世は[[スチュアート朝]]のイングランド王兼スコットランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の女系の曾孫にあたる。

:'''[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]'''―[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]([[プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]妃)―[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]([[ハノーファー選帝侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]妃)―'''ジョージ1世'''
ジョージ1世は1714年以降、主にグレートブリテン島に住んだが、ハノーファーへは1716年、1719年、1720年、1723年、1725年と数年ごとに帰国<ref>Hatton, p. 158</ref>、合計ではイギリスでの治世の約5分の1をドイツで過ごした<ref name="dnb">Gibbs, G. C. (September 2004; online edn, January 2006) [http://www.oxforddnb.com/view/article/10538 "George I (1660–1727)"], ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, {{doi|10.1093/ref:odnb/10538}}. Retrieved 30 July 2007{{Subscription required}}</ref>。王位継承法では議会の許可なくイギリスを出国することを禁じる条項があったが、1716年にハノーファー朝支持ムードのなかで全会一致で廃止された<ref name="Tomokiyo">{{cite web|title=スペイン継承戦争の戦後20年――ユトレヒト条約後の国際関係とハノーヴァー朝下のイギリス――|url=http://cryptiana.web.fc2.com/spanish/walpole.htm|author=[[友清理士]]|accessdate=2017-07-17}}</ref><ref name="plumb">{{cite book|last=Plumb|first=J. H.|title=The First Four Georges|year=1956}}</ref>。1回目の帰国を除いて、ジョージ1世の不在時は権力がプリンス・オブ・ウェールズの[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ・オーガスタス]]ではなく、摂政委員会に預かった<ref>{{cite web|url=https://www.royal.uk/george-i-r-1714-1727|title=George I|publisher=Official web site of the British monarchy|accessdate=18 April 2016}}</ref>。

== 戦争と反乱 ==
[[ファイル:George I Vertue Kneller.jpg|thumb|ジョージ1世の肖像画、{{仮リンク|ジョージ・ヴァーチュー|en|George Vertue}}作、1718年。]]
ジョージ1世の王位継承から1年経たずに行われた{{仮リンク|1715年イギリス総選挙|en|British general election, 1715}}はホイッグ党の大勝に終わった。敗れたトーリー党では数人の党員がアン女王の従弟でカトリック信者の[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]](支持者からは「ジェームズ3世および8世」、反対者からは「僭称者」とよばれた)を王位につこうとした[[ジャコバイト]]に共感した。不平を感じたトーリー党員のなかには{{仮リンク|1715年ジャコバイト蜂起|en|Jacobite rising of 1715}}(後に「ザ・フィフティーン」、15年の乱と呼ばれた)に加担した。スコットランドの不平貴族で元国務大臣の{{仮リンク|ジョン・アースキン (1675-1732)|en|John Erskine, Earl of Mar (1675–1732)|label=マー卿}}率いるジェームズの支持者たちはジャコバイトへの共感がより強いスコットランドで反乱を起こした。しかし、「15年の乱」と呼ばれたこの反乱は大失敗に終わった。マー卿の戦争計画は拙劣なものであり、ジェームズは到着が遅かった上に資金も武器も足らず、年末には失敗が明らかになった。1716年2月、ジェームズとマー卿はフランスへ逃亡した。反乱が鎮圧された後、いくらかの処刑や所領没収があったものの、ジョージ1世が寛容を示して政府との仲介を行い、没収した財産をスコットランドの学校や国債の償還に使った<ref>Hatton, pp. 174–79</ref>。

ジョージ1世がトーリー党に不信感を持ったため権力がホイッグ党に移った<ref>{{cite book|last=Williams|first=Basil|others=Revised by C. H. Stuart|year=1962|title=The Whig Supremacy 1714–1760. Second edition|location=Oxford|publisher=Oxford University Press|pages=151–152}}</ref>。ジョージ1世において、ホイッグ党の支配が強力になりすぎて、以降半世紀もの間トーリー党が与党に返り咲くことはなかった。選挙の後、ホイッグ党が支配した議会で{{仮リンク|七年議会法|en|Septennial Act 1716}}が成立、議会の会期を(国王による解散を除き)7年に延長した<ref>{{cite web|url=https://www.statutelaw.gov.uk/content.aspx?LegType=All+Primary&PageNumber=104&NavFrom=2&parentActiveTextDocId=1516478&ActiveTextDocId=1516478&filesize=5567 |title=Septennial Act 1715 (c.38) |publisher=The UK Statute Law Database, Ministry of Justice |accessdate=20 August 2007 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930035654/https://www.statutelaw.gov.uk/content.aspx?LegType=All%2BPrimary&PageNumber=104&NavFrom=2&parentActiveTextDocId=1516478&ActiveTextDocId=1516478&filesize=5567 |archivedate=30 September 2007 |df=dmy }}</ref>。そのためすでに政権を握っていたホイッグ党は与党の座をさらに長期間保持することができた<ref>{{Cite journal|author=Lease, Owen C.|title=The Septennial Act of 1716|journal=The Journal of Modern History|year=1950|volume=22|pages=42–47|doi=10.1086/237317}}</ref>。

グレートブリテン王に即位した後、すでに悪かったジョージ1世と息子ジョージ・オーガスタスの関係はさらに悪化した。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教寛容政策とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地の併合といった父の政策への反対を煽った<ref>Hatton, pp. 199–202</ref>。1717年、ジョージ1世に孫が生まれたことで、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスの間で内紛がおこった。ジョージ1世は慣例に従い{{仮リンク|宮内長官 (イギリス)|en|Lord Chamberlain|label=宮内長官}}の[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|初代ニューカッスル公爵]]を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージ・オーガスタスは言葉でニューカッスル公を侮辱したが、ニューカッスル公は勘違いして[[決闘]]の申し込みと考えたため、ジョージ1世は激怒した。ジョージ1世の命令によりジョージ・オーガスタスは[[セント・ジェームズ宮殿]]を追放された<ref>Hatton, pp. 207–208</ref>。ジョージの新しい住居である[[レスター・スクウェア|レスター・ハウス]]はジョージ1世の野党のたまり場となった<ref>{{cite book|last=Dickinson|first=Harry T.|title=Walpole and the Whig Supremacy|year=1973| publisher=The English Universities Press|location=London, UK|isbn=0-340-11515-7|page=52}}</ref>。ジョージ・オーガスタスの妻[[キャロライン・オブ・アーンズバック]]は夫とともにセント・ジェームズ宮殿を離れたが、ジョージ1世に引き取られた子供たちとの面会を切望し、結局ジョージ1世とジョージ・オーガスタスは後に[[ロバート・ウォルポール]]とキャロラインの働きかけで和解した。しかし、この洗礼式での事件の後、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスが親身になることはなかった<ref>{{Cite journal|author=Arkell, R. L.|title=George I's Letters to His Daughter|journal=The English Historical Review|year=1937|volume=52|pages=492–499|doi=10.1093/ehr/LII.CCVII.492}}</ref>。

ジョージ1世は治世の初期にはイギリスの外交政策に取り組んだ。1717年にはフランス、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]とともに反スペイン同盟である[[三国同盟 (1717年)|三国同盟]]を締結、1718年に[[神聖ローマ帝国]]が加入したことで[[四国同盟 (1718年)|四国同盟]]が結成された。直後の[[四国同盟戦争]]はスペイン継承戦争と同じ理由で勃発した。1713年の[[ユトレヒト条約]]はフランス王ルイ14世の孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として承認した代わりにフランスの王位継承権を放棄させたが、ルイ14世が1715年に死去するとフェリペ5世は条約を破棄しようとした。

スペインは1719年にジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援したが、嵐によりスコットランドに上陸できたスペイン軍は約300人程度であった<ref>Hatton, p. 239</ref>。4月にはスコットランド西海岸の{{仮リンク|エレン・ドナン|en|Eilean Donan}}城で基地が建設されたが、1か月後に[[エレン・ドナン城占領|イギリス艦隊に破壊された]]<ref>{{cite book|last=Lenman|first=Bruce|title=The Jacobite Risings in Britain 1689–1746|year=1980|publisher=Eyre Methuen|location=London|isbn=0-413-39650-9|pages=192–193}}</ref>。ジャコバイトはスコットランドの氏族から募兵しようとしたが兵士約1千人しか集められず、装備も貧弱だったため[[グレン・シールの戦い]]でイギリス砲兵に易々と撃破された<ref>{{cite book|last=Szechi|first=Daniel|title=The Jacobites: Britain and Europe 1688–1788|year=1994| publisher=Manchester University Press|location=Manchester and New York|isbn=0-7190-3774-3|pages=109–110 }}</ref>。氏族たちは[[ハイランド地方]]に追い散らされ、スペイン軍は降伏した。そのため、この侵攻はジョージ1世の政府にとって脅威になることはなかった。フランスが敵側に回ったことでフェリペ5世の軍に勝ち目はなく、結局スペインとフランスの王位は分離されたままとなった。同時期には[[バルト帝国|スウェーデン]]と[[ロシア帝国|ロシア]]の[[バルト海]]における覇権争いにより勃発した[[大北方戦争]]がハノーファーに有利な形で決着し、スウェーデン領{{仮リンク|ブレーメン=フェルデン|en|Bremen-Verden}}は1719年にハノーファーに割譲され、その代わりハノーファーは割譲に対する賠償金を支払った<ref>Hatton, p. 238</ref>。

== 内閣 ==
[[ファイル:George I Quarter Guinea 641648.jpg|thumb|ジョージ1世の[[ギニー]]金貨、1718年銘。]]
ハノーファーにおいて、ジョージ1世は[[絶対君主制|絶対君主]]だった。50ターラー(約12から13ポンド相当)以上の支出、士官の全ての任命、すべての閣僚、ひいては写字生より上級の全ての官僚の任命はジョージ1世の支配下にあった。一方、イギリスにおいては議会を通じて統治しなければならなかった<ref>Williams, pp. 13–14</ref>。

1715年にホイッグ党が権力の座を得たとき、主な閣僚は[[ロバート・ウォルポール|サー・ロバート・ウォルポール]]、[[チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵)|タウンゼンド子爵]](ウォルポールの義弟)、[[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|スタンホープ卿]]、[[チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)|サンダーランド伯爵]]の4人だった。また大陸から帰国したマールバラ公には名誉職を与えている<ref>今井、P277 - P289。</ref>。しかし、1717年にタウンゼンド子爵が罷免され、ウォルポールが他の閣僚との意見不一致で辞任した<ref>Dickinson, p. 49</ref>。その結果、スタンホープ卿は外交を、サンダーランド伯が内政を、それぞれ司った<ref>{{cite book|last=Carswell|first=John|year=1960|title=The South Sea Bubble|location=London|publisher=Cresset Press|page=72}}</ref>。

サンダーランド伯の権力は1719年に揺らぎ始めた。彼は貴族法案を提出して新しい貴族の創家を制限することで[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]の人数を制限しようとした。法案が成立すると、反対派の貴族叙任は封じられ、サンダーランド伯の権力が揺るがないものとなるが、結局ウォルポールは「政治家生涯で最も素晴らしい」とされる演説で法案に反対、最終的には廃案となった<ref name="hatton">Hatton, pp. 244–246</ref>。翌年、ウォルポールとタウンゼンドは再び閣僚に任命され、名目的には統一したホイッグ党政府が成立した<ref name="hatton" />。

金融投機と国債はより大きな問題となっていた。国債の一部は所有者の同意がなければ償還できず、利率が高い時期に発効されたものだった。そのため、国債が償還されることは少なく、イギリスの財政を長期的に圧迫した<ref>Carswell, p. 103</ref>。1719年、[[南海会社]]はイギリスの国債の5分の3にあたる3,100万ポンド分を会社の株と交換で引き受けることを提案した<ref>Carswell, p. 104; Hatton, p. 249 and Williams, p. 176</ref>。南海会社はサンダーランド伯、ジョージ1世の愛妾[[エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク]]、スタンホープ伯(スタンホープ卿は1717年に子爵、1718年に伯爵に叙された)のいとこで大蔵部書記官だった{{仮リンク|チャールズ・スタンホープ (1683-1760)|en|Charles Stanhope (1673–1760)|label=チャールズ・スタンホープ}}を買収して計画を推進した<ref>Carswell, p. 115 and Hatton, p. 251</ref>。利子が高く、償還されることのない国債の所有者が低利子で売買の用意な株式との交換に同意させる仕組みは、交換が一見財政的に得するように見えたことにあった<ref>Carswell, pp. 151–152; Dickinson, p. 58; and Hatton, p. 250</ref>。南海会社の株価はうなぎ登りとなり、1720年1月1日には128ポンドだった株価<ref>{{cite book|last=Erleigh|first=Viscount|year=1933|title=The South Sea Bubble|location=Manchester|publisher=Peter Davies Ltd|page=65}}</ref>は5月に交換計画が開始したときには500ポンドになり<ref>Erleigh, p. 70</ref>、さらに5月末には890ポンドに<ref name="Tomokiyo" />、6月24日には最高値の1,050ポンドに達した<ref>Dickinson, p. 58; Erleigh, pp. 77, 104; and Hatton, p. 251</ref>。会社の成功によりほかの会社にも登記を目的とした資金が流入、そのうち一部の会社は疑わしいものだった<ref>Dickinson, p. 59 and Erleigh, pp. 72, 90–96</ref>。6月、政府はこのような会社の投機を止めようとして、南海会社の支持のもと{{仮リンク|泡沫会社規制法|en|Bubble Act}}を制定したが<ref>Dickinson, p. 59 and Erleigh, pp. 99–100</ref>、株価の上昇が止まってしまった後<ref>Dickinson, p. 59</ref>、8月には無秩序な売りがはじまり、9月末には株価が150ポンドまで暴落した。貴族を含む多くの人々は大損を出し、その一部は完全に破滅した<ref>Erleigh, pp. 112–117</ref>。ジョージ1世は6月以降ハノーファーに滞在していたが、内閣の要請により早めに帰国、11月にはロンドンに着いた<ref>Erleigh, p. 125 and Hatton, p. 254</ref>。

[[南海泡沫事件]]として知られるこの経済危機により、ジョージとその閣僚たちは著しい不人気となった<ref>Erleigh, pp. 147–155 and Williams, p. 177</ref>。1721年、スタンホープ伯は無実にもかかわらず<ref>Erleigh, p. 129; Hatton, p. 255 and Williams, p. 176</ref><ref>{{cite book|last=Black|first=Jeremy|title=Walpole in Power|year=2001|publisher=Sutton Publishing|location=Stroud, Gloucestershire, UK|isbn=0-7509-2523-X| page=20}}</ref>貴族院での弁論からの心労で倒れて病死、サンダーランド伯も公職を辞任した。

サンダーランド伯はその後も個人的にジョージ1世への影響力を保持したが、1722年に急死したことでサー・ロバート・ウォルポールの台頭を許した。ウォルポールは実質的には[[イギリスの首相|首相]]に就任したが、名目的にはそのような役職にはつかなかった(正式には[[第一大蔵卿]]および[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]])。彼は南海泡沫事件の善後策として債務整理やいくらかの賠償を行って財政を安定化した<ref>Black, pp. 19–20, and Dickinson, pp. 61–62</ref>。ウォルポールが議会戦術を駆使したことで、南海会社が不当な行為を行ったと明示することは避けられた<ref>Dickinson, p. 63</ref>。ジョージ1世が賄賂として無料で株式を受け取ったとする主張<ref>e.g. Black, pp. 19–20</ref>には証拠がなく、実際{{仮リンク|王立文書局|en|Royal Archives}}には株式購入の伝票が残っており、その伝票はジョージ1世が株価暴落で損害を被ったことを示している<ref>Hatton, pp. 251–253</ref>。

== 晩年 ==
[[ファイル:George-I lafontaine2.jpg|thumb|left|1720年代のジョージ1世の肖像画、ゲオルク・ヴィルヘルム・ラフォンテーヌ({{lang|de|Georg Wilhelm Lafontaine}})作。]]
1725年、ジョージ1世はウォルポールの要請を受けて[[バス勲章]]を復活させた。これにより、ウォルポールはバス勲章を利用して支持者への報奨、または支持者を得ることができた<ref>{{cite web|url=http://www.royal.gov.uk/MonarchUK/Honours/OrderoftheBath.aspx |title=Order of the Bath |publisher=Official website of the British monarchy |accessdate=7 September 2009 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120102185330/http://www.royal.gov.uk/MonarchUK/Honours/OrderoftheBath.aspx |archivedate=2 January 2012 |df=dmy }}</ref>。ウォルポールの権力が大きく増し、自らが選んだ閣僚を任命することができた。先代のアン女王と違い、ジョージ1世は内閣の会議にめったに臨席しなかった。彼の通信はほとんどが私的なものであり、彼が影響力を発揮したのは主にイギリスの外交政策であった。タウンゼンド子爵の助けもあり、彼はオーストリアとスペインの間の[[ウィーン条約 (1725年)|ウィーン条約]]への対策、およびイギリスの貿易の保護を目的とした[[ハノーファー条約 (1725年)|ハノーファー条約]]のグレートブリテン、フランス、[[プロイセン王国|プロイセン]]による批准にこぎつけることができた<ref>Hatton, p. 274</ref>。

ジョージ1世はだんだんとウォルポールに頼ったが、自らの意思で閣僚を任免することができた。ジョージ1世の治世末期にはウォルポールはジョージ1世に罷免されることを恐れたが<ref>"George I" (1911). ''Encyclopædia Britannica'', 11th edition. London: Cambridge University Press.</ref>、ジョージ1世が王位についてからの6度目のハノーファー行きの途中で死去した。彼は1727年6月9日(ユリウス暦)に{{仮リンク|デルデン|en|Delden}}と{{仮リンク|ノルトホルン|en|Nordhorn}}の間の道中で卒中を起こし<ref>Hatton, p. 282</ref>、馬車で[[オスナブリュック]]にある司教の宮殿に連れていかれたが{{efn|ジョージ1世の弟、ヨークおよびオールバニ公[[アーネスト (ヨーク・オールバニ公)|アーネスト]]は1715年から1728年までオスナブリュック司教だった。}}、11日(ユリウス暦)朝に死去した。ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスは父の死をウォルポールから知らされた時、彼は「それは悪い冗談だ」と言って信じようとさえしなかったという<ref>森、P198 - P204。</ref>。ジョージ1世は{{仮リンク|ライネ城|en|Leineschloss}}に埋蔵されたが、[[第二次世界大戦]]の後に{{仮リンク|ヘレンハウゼン庭園|en|Herrenhausen Gardens|label=ヘレンハウゼン宮殿}}に改葬された<ref name="weir" />。

ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスは[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]として即位した。ウォルポール自身を含め、ジョージ2世がウォルポールの罷免を計画していたと広く考えられたが、王妃[[キャロライン・オブ・アーンズバック]]により阻止された。しかし、ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった<ref>Black, pp. 29–31, 53, and 61</ref>。その後、首相の権力はだんだんと増していき、国王の権力は反比例して弱くなっていった。

== 死後 ==
[[ファイル:GeorgeIThornhill.jpg|thumb|家族に囲まれたジョージ1世、{{仮リンク|ジェームズ・ソーンヒル|en|James Thornhill}}作。]]
[[ファイル:Georg I. Ludwig (George Louis), Kurfürst von Braunschweig-Lüneburg, König von Großbritannien und Irland und Titularkönig von Frankreich, Skulptur vom Bildhauer Carl (Karl) Rangenier, um 1862, Welfenschloss Hannover.jpg|right|thumb|ジョージ1世の像、[[ハノーファー]]、カール・ランゲニアー({{lang|de|Carl Rangenier}})作。]]
ジョージ1世はイギリスでの臣下に嘲笑された<ref name="p291">Hatton, p. 291</ref>。{{仮リンク|メアリー・ウォートリー・モンタギュー|en|Lady Mary Wortley Montagu}}など同時代の人はジョージ1世が公衆の場で無表情だったため彼が無知性であると考えた<ref>Hatton, p. 172</ref>。英語を話せないとされたためイギリスでは不人気だったが、治世の後半の文書では彼が英語を解せ、読み書きと話すこともできることを示している<ref>Hatton, p. 131</ref>。彼はドイツ語とフランス語を流暢に話し、ラテン語もよく、イタリア語とオランダ語は少し話せた<ref name="dnb" />。彼の妻ゾフィー・ドロテアへの仕打ちは一種のスキャンダルとして扱われた<ref>{{cite book|last=Ashley|first=Mike|title=The Mammoth Book of British Kings and Queens|year=1998|publisher=Robinson|location=London, UK|isbn=1-84119-096-9|page=672}}</ref>。

イギリス人は彼をドイツ人すぎると見なした。歴史家の{{仮リンク|ラグンヒルド・ハットン|en|Ragnhild Hatton}}によると、イギリス人はジョージ1世がドイツ人の愛人を多数抱えていたと勘違いした<ref>Hatton, pp. 132–136</ref>。しかし、大陸ヨーロッパでは進歩的で[[啓蒙思想]]を支持した統治者としてみなされた。彼は自身に批判的な文書を厳しい検閲に晒せずに出版を許可し、哲学者の[[ヴォルテール]]が1726年にパリから追放されたときには彼を保護した<ref name="p291" />。イギリスの文献と大陸ヨーロッパの文献は領邦ともジョージ1世が控えめで穏やかな人柄で、財政では慎重であることを示している<ref name="dnb" />。ジョージ1世は社交イベントにおいて注目の的となることを嫌い、オペラ鑑賞のときは王家専用のます席を避け、たびたび匿名で友人の家を訪れてカード遊びをした<ref name="plumb" />。いくらかの不人気にかかわらず、プロテスタントであるジョージ1世はその臣下からはカトリックの僭称者[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]より良いと考えられた。[[ウィリアム・メイクピース・サッカレー]]はこの相反する感情を下記のように記述した:
{{Quote|彼の心はハノーファーにあった。[...]彼が私たちのところに来るときには50歳以上になっていた:私たちが彼を招いたのは私たちが彼を欲し、彼が私たちの事の成り行きに適っていた。私たちは彼のドイツ風の不器用なやり方をあざ笑った。彼は私たちの忠誠の価値を全てとった。彼は取れる金は全て取った。私たちを教皇から遠ざかることを保証した。[...]もし私がその日々にいたら、彼の側についたのだろう。彼はシニカルで利己的だったが、[[サン=ジェルマン=アン=レー|サン・ジェルマン]]より出ずる王よりは良かった。[大僭称者ジェームズ]はフランス王の命令をポケットに入れ、その随行者には[[イエズス会]]士が大勢いた。<ref>{{cite book|last=Thackeray|first=W. M.|authorlink=ウィリアム・メイクピース・サッカレー|origyear=1860|year=1880|title=The Four Georges: Sketches of Manners, Morals, Court and Town Life|pages=52–53|location=London|publisher=Smith, Elder|url=https://archive.org/stream/fourgeorge00thac#page/52/mode/2up}}</ref>}}

19世紀の作家、とりわけサッカレー、[[ウォルター・スコット|サー・ウォルター・スコット]]、{{仮リンク|フィリップ・スタンホープ (第5代スタンホープ伯爵)|en|Philip Stanhope, 5th Earl Stanhope|label=マオン子爵}}などは例えば{{仮リンク|ジョン・ハーヴィ (第2代ハーヴィ男爵)|en|John Hervey, 2nd Baron Hervey|label=ハーヴィ男爵}}の回想録などの偏った一次資料に頼らなければならず、ジャコバイトにはロマンチック、ひいては同情的なまなざしで見た。彼らは[[ギルバート・ケイス・チェスタートン]]といった20世紀初期のイギリス作家に影響を与え、ジョージ1世の治世に対する批評にさらなる反ドイツ・反プロテスタント的な考えを加えた。しかし、第二次世界大戦が終結すると、大陸ヨーロッパの公文書館は20世紀後期の歴史家に開放され、民族主義的な反独感情が退潮した。ジョージ1世の一生とその治世はビーティー、ハットンといった学者に再び探索され、彼の性格、能力などに対する批評はより寛大なものとなっていた<ref>{{cite book|last=Smith|first=Hannah|title=Georgian Monarchy: Politics and Culture, 1714–1760|year=2006| publisher=Cambridge University Press| location=Cambridge, UK|isbn=0-521-82876-7|pages=3–9}}</ref>。歴史家の{{仮リンク|ジョン・ハロルド・プランブ|en|John H. Plumb}}は下記のように記述した:
{{quote|一部の歴史家は国王[ジョージ1世]のイギリスの事務に対する無関心を誇張し、彼の英語に対する無視の重要性を過大評価した。彼はフランス語で閣僚との対話を難なくこなすことができ、彼が全ての事務に興味を持ったことは外交政策と宮廷を深く影響した。<ref>{{cite encyclopedia|last=Plumb|first=J. H.|title=George I|encyclopedia=Collier's Encyclopedia|year=1967|page=703|volume=10}}</ref>}}

しかし、ジョージ1世の性格はわかりにくいままであった。彼は娘への手紙では優しく親切だったが、公の場では愚鈍で不器用だった。彼の母は「彼を冷淡でまじめすぎると考えた人々に彼は陽気に振舞うことができ、彼は事を心から真摯に感覚し、表面よりも敏感であることを説明した」<ref name="p29" />というが、それが最も的確かもしれない。彼の本当の性格がどうであれ、彼は不安定な王位を継承した。それが政治に対する知識と悪知恵によるか、偶然と無関心によるかにかかわらず、彼は王位をハノーファー朝と議会の手中に収めた<ref name="dnb" />。

== 称号と紋章 ==
* 1660年5月28日 - 1679年12月18日:ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵殿下
* 1679年12月18日 - 1692年10月:ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子殿下
* 1692年10月 - 1698年1月23日:ハノーファー選帝侯子殿下
* 1698年1月23日 - 1714年8月1日:ゲオルク・ルートヴィヒ殿下、神聖ローマ帝国の大出納官及び選帝侯、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公
* 1714年8月1日 - 1727年6月11日:国王陛下

ジョージ1世はイギリスにおいて「ジョージ、神の恩寵により、グレートブリテン、{{仮リンク|イギリスによるフランスの王位請求|en|English claims to the French throne|label=フランス}}、アイルランドの王、[[信仰の擁護者]]など」の称号を使用した。一部、特に条約では「など」の前に「ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」が追加された。

ジョージ1世の王としての紋章にはイングランド(クォーターI)、スコットランド(クォーターI、イングランドの紋章との[[マーシャリング (紋章学)|インペイルメント]])、フランス(クォーターII)、アイルランド(クォーターIII)、ハノーファー(クォーターIV)、ブラウンシュヴァイク(クォーターIV)、リューネブルク(クォーターIV)、ヴェストファーレン(クォーターIV)、神聖ローマ帝国の大出納官(クォーターIV)の紋章が含まれた<ref>Williams, p. 12</ref><ref>{{cite book| last = Louda| first = Jiří|author2=Maclagan, Michael| title = Lines of Succession: Heraldry of the Royal Families of Europe| year = 1999| publisher = Little, Brown| location = London| isbn = 1-85605-469-1| page = 29 }}</ref><ref>{{cite book| last1=Pinches| first1=John Harvey|last2=Pinches|first2=Rosemary| title=The Royal Heraldry of England| series=Heraldry Today| year=1974| publisher=Hollen Street Press| location=Slough, Buckinghamshire| isbn=0-900455-25-X| page=203 }}</ref>。

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|-
!width=33% |[[ファイル:Coat of Arms of George I Louis, Elector of Hanover (1698-1708).svg|center|90px]]
!width=33% |[[ファイル:Coat of Arms of George I Louis, Elector of Hanover (1708-1714).svg|center|90px]]
!width=33% |[[ファイル:Coat of Arms of Great Britain (1714-1801).svg|center|200px]]
|-
|<center>ハノーファー選帝侯の相続人ゲオルク1世ルートヴィヒとしての紋章、1689年 - 1708年</center>
|<center>ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒとしての紋章、1708年 - 1714年</center>
|<center>グレートブリテン王ジョージ1世としての紋章、1714年 - 1727年</center>
|}

== 子女 ==
妻[[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ]]との間で2人の子女をもうけている。
*[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]](1683年11月9日 - 1760年10月25日) - 1705年、[[キャロライン・オブ・アーンズバック]]と結婚。1727年、グレートブリテン王に即位。
*[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー・ドロテア]](1687年3月26日 - 1757年6月28日) - 1706年、ブランデンブルク辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(後にプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]])と結婚。

愛妾[[エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク]]との間で3人の娘をもうけている。
*アンナ・ルイーゼ・ゾフィー・フォン・デア・シューレンブルク(1692年1月 - 1773年) - 1707年、エルンスト・アウグスト・フィリップ・フォン・デム・ブッシェ=イッペンブルクと結婚、1714年以前に結婚を解消<ref>Hatton, p. 411</ref>。1722年、[[神聖ローマ帝国]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]によりデーリッツ女伯に叙される<ref name="kilburn">Kilburn, Matthew (2004; online edition January 2008) [http://www.oxforddnb.com/view/article/24834 "Schulenburg, (Ehrengard) Melusine von der, suo jure duchess of Kendal and suo jure duchess of Munster (1667–1743)"], ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, {{doi|10.1093/ref:odnb/24834}} {{ODNBsub}}</ref>。
*{{仮リンク|ペトロニナ・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク|en|Melusina von der Schulenburg, Countess of Walsingham}}(1693年 - 1778年) - 一代貴族ワルシンガム女伯爵に叙される。1733年、{{仮リンク|フィリップ・スタンホープ (第4代チェスターフィールド伯爵)|en|Philip Stanhope, 4th Earl of Chesterfield|label=第4代チェスターフィールド伯爵}}と結婚<ref>Cannon, John (2004; online edition September 2012) [http://www.oxforddnb.com/view/article/26255 "Petronilla Melusina Stanhope, suo jure countess of Walsingham, and countess of Chesterfield (1693–1778)"], ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, {{doi|10.1093/ref:odnb/24835}} {{ODNBsub}}</ref>。
*マルガレーテ・ゲルトルート・フォン・エインハウゼン(1701年 - 1726年) - 1722年、[[シャウムブルク=リッペ侯国|シャウムブルク=リッペ伯]]{{仮リンク|アルブレヒト・ヴォルフガング (シャウムブルク=リッペ伯)|en|Albert Wolfgang, Count of Schaumburg-Lippe|label=アルブレヒト・ヴォルフガング}}と結婚<ref name="kilburn" />。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
<references/>
<references group="注釈"/>

== 出典 ==
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{cite book| last = Black| first = Jeremy| title = Walpole in Power| year = 2001| publisher = Sutton Publishing| location = Stroud, Gloucestershire| isbn = 0-7509-2523-X }}
* {{cite book|last=Carswell|first=John|year=1960|title=The South Sea Bubble|location=London|publisher=Cresset Press}}
* {{cite book| last = Dickinson| first = Harry T.| others = Introduced by A. L. Rowse| title = Walpole and the Whig Supremacy| year = 1973| publisher = The English Universities Press| location = London| isbn = 0-340-11515-7 }}
* {{cite book|last=Erleigh|first=Viscount|year=1933|title=The South Sea Bubble|location=Manchester|publisher=Peter Davies Ltd}}
* Gibbs, G. C. (September 2004; online edn, January 2006) [http://www.oxforddnb.com/view/article/10538 "George I (1660–1727)"], ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, {{doi|10.1093/ref:odnb/10538}}. Retrieved 30 July 2007{{Subscription required}}
* {{cite book| last = Hatton| first = Ragnhild| title = George I: Elector and King| year = 1978| publisher = Thames and Hudson| location = London| isbn = 0-500-25060-X }}
* {{cite book|last=Plumb|first=J. H.|title=The First Four Georges|year=1956}}
* {{cite book|last=Williams|first=Basil|others=Revised by C. H. Stuart|year=1962|title=The Whig Supremacy 1714–1760. Second edition|location=Oxford|publisher=Oxford University Press}}
* [[大類伸]]監修、[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]・[[堀米庸三]]編『世界の戦史 第六巻』[[新人物往来社|人物往来社]]、1966年。
* [[大類伸]]監修、[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]・[[堀米庸三]]編『世界の戦史 第六巻』[[新人物往来社|人物往来社]]、1966年。
* [[森護]]『英国王妃物語』[[三省堂|三省堂選書]]、1986年。
* [[森護]]『英国王妃物語』[[三省堂|三省堂選書]]、1986年。
* [[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』[[山川出版社]]、1990年。
* [[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』[[山川出版社]]、1990年。
* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 {{small|マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史}}』[[彩流社]]、2007年。
* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 {{small|マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史}}』[[彩流社]]、2007年。

== 関連項目 ==
* [[ジャコバイト]] - ステュアート朝時代からの反政府勢力。ジョージ1世の即位にも反対、度々反乱を起こした
* [[バス勲章]] - ジョージ1世が制定した勲章
* [[南海泡沫事件]] - 治世中に起こったバブル事件。解決に尽力したウォルポールがジョージ1世の信任を得て台頭した


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2017年9月29日 (金) 03:43時点における版

ジョージ1世
George I
グレートブリテン王
ハノーファー選帝侯
ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃。
在位 グレートブリテン王:1714年8月1日 - 1727年6月11日
ハノーファー選帝侯:1698年1月23日 - 1727年6月11日
戴冠式 1714年10月20日(グレートブリテン王)
別号 ザクセン=ラウエンブルク公
アイルランド国王

全名 ジョージ・ルイス
ドイツ語名:ゲオルク・ルートヴィヒ)
出生 1660年5月28日
グレゴリオ暦6月7日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ハノーファー
死去 (1727-06-11) 1727年6月11日(67歳没)
(グレゴリオ暦6月22日[注釈 1]
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国オスナブリュックオスナブリュック宮殿ドイツ語版
埋葬 1727年8月4日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ハノーファー、ライネ城英語版、後にヘレンハウゼン宮殿
配偶者 ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ
子女 ジョージ2世
ゾフィー・ドロテア
ほか庶子3人
家名 ハノーヴァー家
王朝 ハノーヴァー朝
父親 ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト
母親 ゾフィー・フォン・デア・プファルツ
宗教 ルター派[1]
サイン
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ジョージ1世英語: George I1660年5月28日グレゴリオ暦6月7日) - 1727年6月11日(グレゴリオ暦6月22日[注釈 1]))は、ハノーヴァー朝グレートブリテン王国及びアイルランド王国の国王(在位:1714年8月1日 - 1727年6月11日)、及び神聖ローマ帝国ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯(在位:1698年1月23日 - 1727年6月11日)。ドイツ語ゲオルク・ルートヴィヒGeorg Ludwig)。

ジョージはハノーファーで生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地と称号を父や伯父たちから相続した。ヨーロッパにおける一連の戦争により、ジョージのドイツ領地はその治世中に拡大、1708年にはハノーファーの選帝侯として正式に承認された。又従妹のアン女王が死去すると、ジョージは54歳でハノーヴァー朝グレートブリテン王国の初代国王に即位した。長子相続制において、イギリスの王位継承順位では50人以上のカトリックがジョージより上の順位にあったが、1701年王位継承法によりカトリックがイギリス王位を継承することは禁止され、プロテスタントの間ではジョージがアンの最も近い近親者であった。これに対し、ジャコバイトはジョージを廃位して、ジェームズ2世の息子でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを王位につけようとしたが失敗した。

ジョージ1世の治世において、国王の権力は低減し、イギリスが首相を長とする内閣政府というシステムに徐々に移行した。晩年には実質的な権力はサー・ロバート・ウォルポールが掌握し、実質的にはイギリスの初代首相となった。ジョージ1世は母国ハノーファーへ戻る途中で卒中を起こして死去、ハノーファーで埋葬された。

幼年期

ジョージは1660年5月28日に神聖ローマ帝国のハノーファーで生まれた[注釈 2]。彼はブラウンシュヴァイク=リューネブルクエルンスト・アウグストゾフィー・フォン・デア・プファルツの間の子供である。ゾフィーは母エリザベス・ステュアートを通じて祖父のイングランド王ジェームズ1世の血を引いた[3]

ジョージが生まれた時点では、父と3人の伯父(いずれも子供なし)のドイツ領地の唯一の相続人だった。1661年、ジョージの弟フリードリヒ・アウグストが生まれ、2人は家族の間でそれぞれゲルゲン(Görgen)とグシェン(Gustchen)と呼ばれ、一緒に育てられた。ゾフィーが1664年から1665年の間、療養のためにイタリアへ旅行して家を留守にしていたが、その間でも息子たちの女家庭教師と定期に文通し、息子たちの育ちに気をかけた[4]。ゾフィーが旅行を終えた後、彼女はエルンスト・アウグストとの間でさらに4男1女をもうけた。ゾフィーは手紙でジョージを責任感のある誠実な子供と形容、弟や妹たちの模範となりうると述べた[5]

1665年にはジョージの伯父の1人クリスティアン・ルートヴィヒが子供なくして死去したが、残りの2人の伯父が1675年までに結婚したため、彼らはジョージの継承権に疑問を呈し、2人が子供をもうけた場合にはジョージが継承できない可能性があるとした。エルンスト・アウグストはジョージを狩りや乗馬に連れて行き、軍事について教育した。ジョージの将来が不安定であることを案じたエルンスト・アウグストは当時15歳のジョージを仏蘭戦争の戦役に連れて行き、戦闘でジョージを教育するとともにその能力を試そうとした[6]

1679年、ジョージの伯父の1人ヨハン・フリードリヒが男子のないまま死去、エルンスト・アウグストがカレンベルク侯領ゲッティンゲン侯領を継承し、首都はハノーファーに置いた。今やジョージの伯父のうち唯一存命中なのはゲオルク・ヴィルヘルム1人となり、彼は愛妾エレオノール・ドルブリューズと正式に結婚して娘ゾフィー・ドロテアを嫡出子にしたが、さらに子供をもうける可能性はありそうになかった。サリカ法により領土の継承は男子に限定されたため、ジョージと弟たちが父エルンスト・アウグストや伯父たちの領地を相続することはほぼ確実視された。1682年にはハノーファー家が長子相続制の採用を合意、これによりジョージは領地を弟たちと分割することなく全て相続することができた[7]

結婚

1680年、ハノーファー王子だった頃のジョージ。ゴドフリー・ネラー作。

同年、ジョージは従妹ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレと結婚、サリカ法で規定されなかった収入を確保した。この閨閥の目的は歳入を(健全な程度に)増やすことと、ハノーファーとツェレの統一を推進することにあった。ジョージの母ゾフィーははじめゾフィー・ドロテアの出身(王族ではなかった上、庶子だったのを認知されて嫡出となった経緯がある)を見下して結婚に反対したが、結婚がもたらす利益をもって説得された[8]

1683年、ジョージは弟フリードリヒ・アウグストとともに大トルコ戦争第二次ウィーン包囲に参戦、一方のゾフィー・ドロテアは息子ゲオルク・アウグストを出産した。翌年、フリードリヒ・アウグストは長子相続制の採用を知らされた。元々予定された、父の領地の一部を相続することができなくなったという事実により、フリードリヒ・アウグストと父、そしてジョージの間で確執が生じ、フリードリヒ・アウグストが1690年に戦死するまで続いた。ハノーファーが統一目前であることと、ハノーファーが大トルコ戦争に継続して貢献したことを鑑みて、エルンスト・アウグストは1692年に神聖ローマ帝国の選帝侯に叙された。これにより、ジョージの将来は父の選帝侯領と伯父の公国の相続と、より一層に明るくなった[9]

ゾフィー・ドロテアは1687年に同名の娘ゾフィー・ドロテアを出産したが、それ以降は妊娠することがなかった。ジョージとゾフィー・ドロテアは疎遠になり、ジョージは愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクと同伴することを好み、ゾフィー・ドロテアもスウェーデンのフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵と不倫した。駆け落ちのスキャンダルに危機を感じたハノーファー宮廷ではジョージの母や弟が思いとどまるよう説得したが効果がなかった。ハノーファーの敵国の外交文書によると、ケーニヒスマルク伯は1694年7月に殺害され、遺体は石の重りをつけてライネ川に投棄された。彼を殺害したのはエルンスト・アウグストの宮廷にいた4人とされ、そのうち1人(ドン・ニッコロ・モンタルバーノ)は15万ターラーもの大金を賞与された[注釈 3][10]。その後、ケーニヒスマルク伯の遺体がバラバラにされ、ハノーファーの宮殿の床の下に埋められたとするうわさが流れた[11]。しかし、ゾフィーを含むハノーファー自体での文献はケーニヒスマルクの行方について全く知らなかったとした[10]

ジョージとゾフィー・ドロテアの結婚が解消されたが、その理由は不倫ではなく、ゾフィー・ドロテアがジョージを捨てたことであった。父エルンスト・アウグストの同意を得たジョージはゾフィー・ドロテアをツェレアールデン城英語版に幽閉、1726年に死去するまで解放されなかった。彼女は父や子供との面会を許されず、再婚も禁止され、他人の同伴なしに歩けるのは城のコートヤードだけだった。しかし、彼女は年金や使用人を与えられ、監視のもと馬車を乗って城の外へ出かけることも許された[12]。エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクは1698年から死去するまでジョージの公妾であり続け、1692年、1693年、1701年にそれぞれ娘を出産した。

ハノーファー選帝侯

1706年、ハノーファー選帝侯だった頃のジョージ。ヨハン・レオンハルト・ヒルシュマン作。

エルンスト・アウグストは1698年1月23日に死去、遺領はオスナブリュック司教領英語版を除いて[注釈 4]ジョージが継承した。これにより、ジョージは神聖ローマ帝国におけるブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(首都の名前をとってハノーファーとも)、選帝侯および旗手長になった[13]。彼の宮廷は哲学者、数学者のゴットフリート・ライプニッツ、作曲家のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルアゴスティーノ・ステッファーニなどでにぎわった。

ジョージが父方の公国を継承した直後、イングランドとスコットランドの王位継承順位で2位のグロスター公ウィリアム英語版が死去した。イングランドの1701年王位継承法により、ジョージの母ゾフィーは当時王位についていたウィリアム3世と義妹アンが継承者なくして死去した場合、その継承者となることが定められた。この決定の理由は、ゾフィーがプロテスタントのうちイギリス王家の最近親者にあたるためだった。近親者のうち継承順位がゾフィーより上にある56人のカトリック信者は排除された[14]。彼らが王位を継承するために改宗するという望みは薄く、うち数人はすでに断っていた[15]

1701年8月、ジョージはガーター勲章を授与され、6週間後には元イングランド国王でカトリックとしては最近親だったジェームズ2世が死去した。翌年3月にウィリアム3世が死去、アンが即位した。ゾフィーは王位の推定相続人となった。彼女は当時71歳で、アン女王より35歳年上であったが健康体であり、彼女自身か息子による王位継承を保証するために精力的に働いた[16]。しかし、イギリスの政治と憲法英語版の複雑さを理解していたのはジョージのほうであり、彼は1705年のゾフィー帰化法英語版でゾフィーとその継承者たちをイギリスに帰化させ、また権力の継承を摂政委員会を通じて行うことも定めた[17]。同年、ジョージの伯父で唯一存命だったゲオルク・ヴィルヘルムが死去、ジョージはツェレを首都とするリューネブルク侯領グルベンハーゲン侯領英語版を継承した[18]

1720年頃のハノーファーの地図。ハノーファーブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルオスナブリュック司教領英語版を示している。ジョージの治世中、ハノーファーはさらにザクセン=ラウエンブルクブレーメン=フェルデン英語版を獲得した。

ジョージがハノーファーを継承した直後、スペイン継承戦争が勃発した。戦争において問題となったのはフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがスペイン王カルロス2世の遺言に従いスペイン王位を継承することだった。神聖ローマ帝国、ネーデルラント連邦共和国、イングランド、ハノーファー、そして多くのドイツ小国はフランスのブルボン家がスペインまでも支配すると、強力になりすぎることを恐れてフィリップによる継承に反対した。ジョージは戦争に乗じて親仏派のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領に侵攻、途中で戦列の並びを自ら書いた。侵攻は僅少な損害で成功、これによりイングランドとオランダはハノーファーが前に行ったザクセン=ラウエンブルク併合を承認した[19]

1706年、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルはフランス側についた廉で選帝侯位をはく奪され、同年にジョージは帝国元帥に叙され、ライン川沿岸の帝国軍を指揮した。しかしジョージは同盟者のマールバラ公爵ジョン・チャーチルに騙されて陽動攻撃を行い、また皇帝ヨーゼフ1世がジョージの戦役に必要な軍資金を横領したため大きな成功を収めることはなかった。しかしドイツ諸侯はジョージの働きぶりを認め、1708年にジョージを選帝侯として正式に承認した[20][21]。ジョージは陽動攻撃がフランス軍の目をそらすための作戦であると後に知ったためマールバラ公には根を持たなかった[21]

1709年、ジョージは元帥職を辞め、以降軍務から身を引いた。1710年、元はプファルツ選帝侯が有した官職であった帝国の大出納官に就任した[22]。バイエルン選帝侯が不在だったため官職が再編されたのだった[23]。後にマールバラ公が政争で司令官の地位が危うくなるとマールバラ公への信任を表明した手紙をマールバラ公に送っている。またマールバラ公が失脚し、トーリー党が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた[24]。1711年にヨーゼフ1世が死去したことで勢力均衡が逆方向に崩される可能性が出て、1713年のユトレヒト条約締結と終戦につながった。フィリップはフェリペ5世としてスペイン王に即位したが、フランスの王位継承権は放棄、マクシミリアン2世エマヌエルはバイエルン選帝侯に復帰した。

グレートブリテンの王位継承

ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃。

イングランドもスコットランドもアンを女王として承認したが、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーを推定相続人として承認したのはイングランド議会だけであり、スコットランド議会英語版はスコットランド王位の継承権問題を正式には解決していなかった。1703年、スコットランド議会はイングランドがスコットランド商人にイングランドとその植民地における自由貿易を許可しない限りアン女王のスコットランド王位継承者にイングランド王位継承者と同じ人物を選ばないことを決議した。アン女王ははじめ裁可を与えなかったが、翌年には折れて裁可を与え、法案は1704年安全保障法英語版として成立した。これに対し、イングランド議会はスコットランド議会がハノーファー家によるスコットランド王位継承を承認しない場合、イングランド・スコットランド間の貿易を制限し、スコットランド経済に打撃を与えることを決議した[25][26]。やがて両議会は1707年に合同法でイングランドとスコットランドを1つの政治実体に合併し、グレートブリテン王国を成立させるとともに、1701年王位継承法に基づく王位継承を合意した[27]。この合併により、18世紀のヨーロッパにおける最大の自由貿易圏が成立した[28]

ホイッグ党の政治家は議会が王位継承を決定する権利を持ち、それをアン女王の最近親のプロテスタントに与えることができたと考えた。一方多くのトーリー党政治家はステュアート家のカトリックがより近親だったためその継承権を認めるべきと考えた。1710年、ジョージは王位継承権がステュアート家から剥奪されたが彼が王位継承権を保持したとして、イギリスの王位を継承することを宣言した。「この宣言の目的はホイッグ党の議会が王国を彼に与えたとする主張を潰す[とともに][...]トーリー党には王位の簒奪者ではなかったと納得させた」[29]

ジョージの母ゾフィーは1714年5月28日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では6月8日)に83歳で死去した。彼女は雨避けのために走った後ヘレンハウゼン庭園で倒れた。アン女王の健康も悪化していたためイギリスの政治家は権力を奪い合い、アンの推定相続人になったジョージはすぐさまに摂政委員会の委員を再編した[30]。アン女王は卒中をおこして話すことができなくなり、1714年8月1日に死去した。摂政のリストが公表され、摂政たちは宣誓し、ジョージはジョージ1世としてグレートブリテン王およびアイルランド王として即位した[31]。しかし、逆風のためにデン・ハーグで海峡通過を待たざるを得ず[32]、9月18日にようやくイギリス入りした。ジョージは10月20日にウェストミンスター寺院で戴冠した[3]。イングランドでは20か所以上の町で戴冠式暴動英語版と呼ばれた暴動がおこった[33]

ジョージ1世は1714年以降、主にグレートブリテン島に住んだが、ハノーファーへは1716年、1719年、1720年、1723年、1725年と数年ごとに帰国[34]、合計ではイギリスでの治世の約5分の1をドイツで過ごした[35]。王位継承法では議会の許可なくイギリスを出国することを禁じる条項があったが、1716年にハノーファー朝支持ムードのなかで全会一致で廃止された[36][37]。1回目の帰国を除いて、ジョージ1世の不在時は権力がプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタスではなく、摂政委員会に預かった[38]

戦争と反乱

ジョージ1世の肖像画、ジョージ・ヴァーチュー英語版作、1718年。

ジョージ1世の王位継承から1年経たずに行われた1715年イギリス総選挙はホイッグ党の大勝に終わった。敗れたトーリー党では数人の党員がアン女王の従弟でカトリック信者のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(支持者からは「ジェームズ3世および8世」、反対者からは「僭称者」とよばれた)を王位につこうとしたジャコバイトに共感した。不平を感じたトーリー党員のなかには1715年ジャコバイト蜂起(後に「ザ・フィフティーン」、15年の乱と呼ばれた)に加担した。スコットランドの不平貴族で元国務大臣のマー卿英語版率いるジェームズの支持者たちはジャコバイトへの共感がより強いスコットランドで反乱を起こした。しかし、「15年の乱」と呼ばれたこの反乱は大失敗に終わった。マー卿の戦争計画は拙劣なものであり、ジェームズは到着が遅かった上に資金も武器も足らず、年末には失敗が明らかになった。1716年2月、ジェームズとマー卿はフランスへ逃亡した。反乱が鎮圧された後、いくらかの処刑や所領没収があったものの、ジョージ1世が寛容を示して政府との仲介を行い、没収した財産をスコットランドの学校や国債の償還に使った[39]

ジョージ1世がトーリー党に不信感を持ったため権力がホイッグ党に移った[40]。ジョージ1世において、ホイッグ党の支配が強力になりすぎて、以降半世紀もの間トーリー党が与党に返り咲くことはなかった。選挙の後、ホイッグ党が支配した議会で七年議会法英語版が成立、議会の会期を(国王による解散を除き)7年に延長した[41]。そのためすでに政権を握っていたホイッグ党は与党の座をさらに長期間保持することができた[42]

グレートブリテン王に即位した後、すでに悪かったジョージ1世と息子ジョージ・オーガスタスの関係はさらに悪化した。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教寛容政策とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地の併合といった父の政策への反対を煽った[43]。1717年、ジョージ1世に孫が生まれたことで、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスの間で内紛がおこった。ジョージ1世は慣例に従い宮内長官英語版初代ニューカッスル公爵を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージ・オーガスタスは言葉でニューカッスル公を侮辱したが、ニューカッスル公は勘違いして決闘の申し込みと考えたため、ジョージ1世は激怒した。ジョージ1世の命令によりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿を追放された[44]。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党のたまり場となった[45]。ジョージ・オーガスタスの妻キャロライン・オブ・アーンズバックは夫とともにセント・ジェームズ宮殿を離れたが、ジョージ1世に引き取られた子供たちとの面会を切望し、結局ジョージ1世とジョージ・オーガスタスは後にロバート・ウォルポールとキャロラインの働きかけで和解した。しかし、この洗礼式での事件の後、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスが親身になることはなかった[46]

ジョージ1世は治世の初期にはイギリスの外交政策に取り組んだ。1717年にはフランス、オランダとともに反スペイン同盟である三国同盟を締結、1718年に神聖ローマ帝国が加入したことで四国同盟が結成された。直後の四国同盟戦争はスペイン継承戦争と同じ理由で勃発した。1713年のユトレヒト条約はフランス王ルイ14世の孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として承認した代わりにフランスの王位継承権を放棄させたが、ルイ14世が1715年に死去するとフェリペ5世は条約を破棄しようとした。

スペインは1719年にジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援したが、嵐によりスコットランドに上陸できたスペイン軍は約300人程度であった[47]。4月にはスコットランド西海岸のエレン・ドナン英語版城で基地が建設されたが、1か月後にイギリス艦隊に破壊された[48]。ジャコバイトはスコットランドの氏族から募兵しようとしたが兵士約1千人しか集められず、装備も貧弱だったためグレン・シールの戦いでイギリス砲兵に易々と撃破された[49]。氏族たちはハイランド地方に追い散らされ、スペイン軍は降伏した。そのため、この侵攻はジョージ1世の政府にとって脅威になることはなかった。フランスが敵側に回ったことでフェリペ5世の軍に勝ち目はなく、結局スペインとフランスの王位は分離されたままとなった。同時期にはスウェーデンロシアバルト海における覇権争いにより勃発した大北方戦争がハノーファーに有利な形で決着し、スウェーデン領ブレーメン=フェルデン英語版は1719年にハノーファーに割譲され、その代わりハノーファーは割譲に対する賠償金を支払った[50]

内閣

ジョージ1世のギニー金貨、1718年銘。

ハノーファーにおいて、ジョージ1世は絶対君主だった。50ターラー(約12から13ポンド相当)以上の支出、士官の全ての任命、すべての閣僚、ひいては写字生より上級の全ての官僚の任命はジョージ1世の支配下にあった。一方、イギリスにおいては議会を通じて統治しなければならなかった[51]

1715年にホイッグ党が権力の座を得たとき、主な閣僚はサー・ロバート・ウォルポールタウンゼンド子爵(ウォルポールの義弟)、スタンホープ卿サンダーランド伯爵の4人だった。また大陸から帰国したマールバラ公には名誉職を与えている[52]。しかし、1717年にタウンゼンド子爵が罷免され、ウォルポールが他の閣僚との意見不一致で辞任した[53]。その結果、スタンホープ卿は外交を、サンダーランド伯が内政を、それぞれ司った[54]

サンダーランド伯の権力は1719年に揺らぎ始めた。彼は貴族法案を提出して新しい貴族の創家を制限することで貴族院の人数を制限しようとした。法案が成立すると、反対派の貴族叙任は封じられ、サンダーランド伯の権力が揺るがないものとなるが、結局ウォルポールは「政治家生涯で最も素晴らしい」とされる演説で法案に反対、最終的には廃案となった[55]。翌年、ウォルポールとタウンゼンドは再び閣僚に任命され、名目的には統一したホイッグ党政府が成立した[55]

金融投機と国債はより大きな問題となっていた。国債の一部は所有者の同意がなければ償還できず、利率が高い時期に発効されたものだった。そのため、国債が償還されることは少なく、イギリスの財政を長期的に圧迫した[56]。1719年、南海会社はイギリスの国債の5分の3にあたる3,100万ポンド分を会社の株と交換で引き受けることを提案した[57]。南海会社はサンダーランド伯、ジョージ1世の愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク、スタンホープ伯(スタンホープ卿は1717年に子爵、1718年に伯爵に叙された)のいとこで大蔵部書記官だったチャールズ・スタンホープ英語版を買収して計画を推進した[58]。利子が高く、償還されることのない国債の所有者が低利子で売買の用意な株式との交換に同意させる仕組みは、交換が一見財政的に得するように見えたことにあった[59]。南海会社の株価はうなぎ登りとなり、1720年1月1日には128ポンドだった株価[60]は5月に交換計画が開始したときには500ポンドになり[61]、さらに5月末には890ポンドに[36]、6月24日には最高値の1,050ポンドに達した[62]。会社の成功によりほかの会社にも登記を目的とした資金が流入、そのうち一部の会社は疑わしいものだった[63]。6月、政府はこのような会社の投機を止めようとして、南海会社の支持のもと泡沫会社規制法英語版を制定したが[64]、株価の上昇が止まってしまった後[65]、8月には無秩序な売りがはじまり、9月末には株価が150ポンドまで暴落した。貴族を含む多くの人々は大損を出し、その一部は完全に破滅した[66]。ジョージ1世は6月以降ハノーファーに滞在していたが、内閣の要請により早めに帰国、11月にはロンドンに着いた[67]

南海泡沫事件として知られるこの経済危機により、ジョージとその閣僚たちは著しい不人気となった[68]。1721年、スタンホープ伯は無実にもかかわらず[69][70]貴族院での弁論からの心労で倒れて病死、サンダーランド伯も公職を辞任した。

サンダーランド伯はその後も個人的にジョージ1世への影響力を保持したが、1722年に急死したことでサー・ロバート・ウォルポールの台頭を許した。ウォルポールは実質的には首相に就任したが、名目的にはそのような役職にはつかなかった(正式には第一大蔵卿および財務大臣)。彼は南海泡沫事件の善後策として債務整理やいくらかの賠償を行って財政を安定化した[71]。ウォルポールが議会戦術を駆使したことで、南海会社が不当な行為を行ったと明示することは避けられた[72]。ジョージ1世が賄賂として無料で株式を受け取ったとする主張[73]には証拠がなく、実際王立文書局英語版には株式購入の伝票が残っており、その伝票はジョージ1世が株価暴落で損害を被ったことを示している[74]

晩年

1720年代のジョージ1世の肖像画、ゲオルク・ヴィルヘルム・ラフォンテーヌ(Georg Wilhelm Lafontaine)作。

1725年、ジョージ1世はウォルポールの要請を受けてバス勲章を復活させた。これにより、ウォルポールはバス勲章を利用して支持者への報奨、または支持者を得ることができた[75]。ウォルポールの権力が大きく増し、自らが選んだ閣僚を任命することができた。先代のアン女王と違い、ジョージ1世は内閣の会議にめったに臨席しなかった。彼の通信はほとんどが私的なものであり、彼が影響力を発揮したのは主にイギリスの外交政策であった。タウンゼンド子爵の助けもあり、彼はオーストリアとスペインの間のウィーン条約への対策、およびイギリスの貿易の保護を目的としたハノーファー条約のグレートブリテン、フランス、プロイセンによる批准にこぎつけることができた[76]

ジョージ1世はだんだんとウォルポールに頼ったが、自らの意思で閣僚を任免することができた。ジョージ1世の治世末期にはウォルポールはジョージ1世に罷免されることを恐れたが[77]、ジョージ1世が王位についてからの6度目のハノーファー行きの途中で死去した。彼は1727年6月9日(ユリウス暦)にデルデン英語版ノルトホルン英語版の間の道中で卒中を起こし[78]、馬車でオスナブリュックにある司教の宮殿に連れていかれたが[注釈 5]、11日(ユリウス暦)朝に死去した。ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスは父の死をウォルポールから知らされた時、彼は「それは悪い冗談だ」と言って信じようとさえしなかったという[79]。ジョージ1世はライネ城英語版に埋蔵されたが、第二次世界大戦の後にヘレンハウゼン宮殿に改葬された[3]

ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスはジョージ2世として即位した。ウォルポール自身を含め、ジョージ2世がウォルポールの罷免を計画していたと広く考えられたが、王妃キャロライン・オブ・アーンズバックにより阻止された。しかし、ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった[80]。その後、首相の権力はだんだんと増していき、国王の権力は反比例して弱くなっていった。

死後

家族に囲まれたジョージ1世、ジェームズ・ソーンヒル作。
ジョージ1世の像、ハノーファー、カール・ランゲニアー(Carl Rangenier)作。

ジョージ1世はイギリスでの臣下に嘲笑された[81]メアリー・ウォートリー・モンタギューなど同時代の人はジョージ1世が公衆の場で無表情だったため彼が無知性であると考えた[82]。英語を話せないとされたためイギリスでは不人気だったが、治世の後半の文書では彼が英語を解せ、読み書きと話すこともできることを示している[83]。彼はドイツ語とフランス語を流暢に話し、ラテン語もよく、イタリア語とオランダ語は少し話せた[35]。彼の妻ゾフィー・ドロテアへの仕打ちは一種のスキャンダルとして扱われた[84]

イギリス人は彼をドイツ人すぎると見なした。歴史家のラグンヒルド・ハットン英語版によると、イギリス人はジョージ1世がドイツ人の愛人を多数抱えていたと勘違いした[85]。しかし、大陸ヨーロッパでは進歩的で啓蒙思想を支持した統治者としてみなされた。彼は自身に批判的な文書を厳しい検閲に晒せずに出版を許可し、哲学者のヴォルテールが1726年にパリから追放されたときには彼を保護した[81]。イギリスの文献と大陸ヨーロッパの文献は領邦ともジョージ1世が控えめで穏やかな人柄で、財政では慎重であることを示している[35]。ジョージ1世は社交イベントにおいて注目の的となることを嫌い、オペラ鑑賞のときは王家専用のます席を避け、たびたび匿名で友人の家を訪れてカード遊びをした[37]。いくらかの不人気にかかわらず、プロテスタントであるジョージ1世はその臣下からはカトリックの僭称者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートより良いと考えられた。ウィリアム・メイクピース・サッカレーはこの相反する感情を下記のように記述した:

彼の心はハノーファーにあった。[...]彼が私たちのところに来るときには50歳以上になっていた:私たちが彼を招いたのは私たちが彼を欲し、彼が私たちの事の成り行きに適っていた。私たちは彼のドイツ風の不器用なやり方をあざ笑った。彼は私たちの忠誠の価値を全てとった。彼は取れる金は全て取った。私たちを教皇から遠ざかることを保証した。[...]もし私がその日々にいたら、彼の側についたのだろう。彼はシニカルで利己的だったが、サン・ジェルマンより出ずる王よりは良かった。[大僭称者ジェームズ]はフランス王の命令をポケットに入れ、その随行者にはイエズス会士が大勢いた。[86]

19世紀の作家、とりわけサッカレー、サー・ウォルター・スコットマオン子爵英語版などは例えばハーヴィ男爵の回想録などの偏った一次資料に頼らなければならず、ジャコバイトにはロマンチック、ひいては同情的なまなざしで見た。彼らはギルバート・ケイス・チェスタートンといった20世紀初期のイギリス作家に影響を与え、ジョージ1世の治世に対する批評にさらなる反ドイツ・反プロテスタント的な考えを加えた。しかし、第二次世界大戦が終結すると、大陸ヨーロッパの公文書館は20世紀後期の歴史家に開放され、民族主義的な反独感情が退潮した。ジョージ1世の一生とその治世はビーティー、ハットンといった学者に再び探索され、彼の性格、能力などに対する批評はより寛大なものとなっていた[87]。歴史家のジョン・ハロルド・プランブ英語版は下記のように記述した:

一部の歴史家は国王[ジョージ1世]のイギリスの事務に対する無関心を誇張し、彼の英語に対する無視の重要性を過大評価した。彼はフランス語で閣僚との対話を難なくこなすことができ、彼が全ての事務に興味を持ったことは外交政策と宮廷を深く影響した。[88]

しかし、ジョージ1世の性格はわかりにくいままであった。彼は娘への手紙では優しく親切だったが、公の場では愚鈍で不器用だった。彼の母は「彼を冷淡でまじめすぎると考えた人々に彼は陽気に振舞うことができ、彼は事を心から真摯に感覚し、表面よりも敏感であることを説明した」[5]というが、それが最も的確かもしれない。彼の本当の性格がどうであれ、彼は不安定な王位を継承した。それが政治に対する知識と悪知恵によるか、偶然と無関心によるかにかかわらず、彼は王位をハノーファー朝と議会の手中に収めた[35]

称号と紋章

  • 1660年5月28日 - 1679年12月18日:ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵殿下
  • 1679年12月18日 - 1692年10月:ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子殿下
  • 1692年10月 - 1698年1月23日:ハノーファー選帝侯子殿下
  • 1698年1月23日 - 1714年8月1日:ゲオルク・ルートヴィヒ殿下、神聖ローマ帝国の大出納官及び選帝侯、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公
  • 1714年8月1日 - 1727年6月11日:国王陛下

ジョージ1世はイギリスにおいて「ジョージ、神の恩寵により、グレートブリテン、フランス英語版、アイルランドの王、信仰の擁護者など」の称号を使用した。一部、特に条約では「など」の前に「ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」が追加された。

ジョージ1世の王としての紋章にはイングランド(クォーターI)、スコットランド(クォーターI、イングランドの紋章とのインペイルメント)、フランス(クォーターII)、アイルランド(クォーターIII)、ハノーファー(クォーターIV)、ブラウンシュヴァイク(クォーターIV)、リューネブルク(クォーターIV)、ヴェストファーレン(クォーターIV)、神聖ローマ帝国の大出納官(クォーターIV)の紋章が含まれた[89][90][91]

ハノーファー選帝侯の相続人ゲオルク1世ルートヴィヒとしての紋章、1689年 - 1708年
ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒとしての紋章、1708年 - 1714年
グレートブリテン王ジョージ1世としての紋章、1714年 - 1727年

子女

ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレとの間で2人の子女をもうけている。

愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクとの間で3人の娘をもうけている。

脚注

  1. ^ a b ジョージ1世の存命中、グレートブリテン王国はユリウス暦を使用したが、ハノーファーでは1700年3月1日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では2月19日)にグレゴリオ暦を採用した。
  2. ^ ジョージがオスナブリュックのとある部屋で生まれ、同じ部屋で死去したとする言い伝えがあったが(例えば、1759年版の歴史大事典英語版で記載されている)、母ゾフィー・フォン・デア・プファルツの回想録(Memoiren der Herzogin Sophie nachm. Kurfürstin von Hannover、A・ケーヒャー編、1879年出版、pp. 1, 68.)では上の2人の男子(ジョージとフリードリヒ・アウグスト)がハノーファーで生まれたとした。またヴォルフェンビュッテルの公文書館で保存されている、ハノーファーからヴォルフェンビュッテルの宮廷に発された4通の通知文書での記述とも矛盾する[2]
  3. ^ 当時年収の最も高い官僚の年収の100倍ほどであった。
  4. ^ エルンスト・アウグストは1661年からオスナブリュック司教だったが、オスナブリュック司教職は世襲ではなく、プロテスタントとカトリックが交互に就任した。
  5. ^ ジョージ1世の弟、ヨークおよびオールバニ公アーネストは1715年から1728年までオスナブリュック司教だった。

出典

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先代:
エルンスト・アウグスト
ハノーファー選帝侯
1698年 - 1727年
次代:
ジョージ2世
(ゲオルク2世アウグスト)
先代:
ゲオルク・ヴィルヘルム
リューネブルク侯
ザクセン=ラウエンブルク公

1705年 - 1727年
先代:
アン
グレートブリテン王
アイルランド王
1714年 - 1727年