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'''ハンス・シュペーマン'''(Hans Spemann, [[1869年]][[6月27日]] - [[1941年]][[9月9日]])は[[ドイツ]]の[[発生生物学|発生学者]]。[[動物]]の[[胚]]において[[二次胚]]を[[誘導]]する領域ー[[形成体]](オーガナイザー)ーを発見したことにより、[[1935年]]に[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞した。


'''ハンス・シュペーマン'''({{lang-de-short|'''Hans Spemann'''}}、1869年6月27日{{ndash}}1941年9月9日)は、[[ドイツ]]の[[発生学|発生学者]]。[[胚]]の特定箇所が、他の細胞を組織や臓器へと誘導する[[誘導|胚誘導]]の発見に対し、[[1935年]]の[[ノーベル生理学・医学賞]]が授与された。
彼はヴュルツブルクでボヴェリに学び、1908年からは[[ロストック大学]]教授、ベルリン-ダーレムの[[マックス・プランク研究所|カイザー・ウィルヘルム生物学研究所]]員、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]教授を歴任。1923年からフライブルク大学の学長を務めた。 
__TOC__
== 経歴 ==
=== 発生学者になるまで ===
ハンス・シュペーマンは、出版者{{仮リンク|ヴィルヘルム・シュペーマン|de|Wilhelm Spemann}}({{lang-de-short|Wilhelm Spemann}})と、妻リジンカ(旧姓ホフマン、{{lang-de-short|Lisinka Hoffman}})の長男として[[シュトゥットガルト]]に生まれた。シュペーマンは、1878年から1888年までエーバーハルト・ルートヴィヒ・ギムナジウム・シュトゥットガルト{{enlink|Eberhard-Ludwigs-Gymnasium Stuttgart||de|a=on}}に通った。彼は学校を卒業した後、1年間父親の稼業を手伝い、[[ハンブルク]]で本販売を行った。続いて1889年・1890年の2年間、[[カッセル]]・[[ユサール|フザール]]<!--フザールはドイツ語読みです-->({{en|Kassel Hussar}})で軍務に就く。1891年には[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に入学して医学を学び、1893年には予備試験を受けた。大学では、解剖学者{{仮リンク|カール・ゲーゲンバウアー|de|Carl Gegenbaur}}の授業に引きつけられた。ここでシュペーマンは、生物学者・[[精神科医]]の{{仮リンク|ギュスターヴ・ヴォルフ|de|Gustav Wolff (Psychiater)}}と出会う。ヴォルフは、[[イモリ]]で発生学的実験を行い、成長したイモリの目を除去しても再生することを実証した人物だった。在学中に、シュペーマンは{{仮リンク|学生組合 (ドイツ)|label=学生組合|de|Studentenverbindung}} {{de|"''Karlsruhensia''"}} <ref group="注">読みは「カルルスルーエンシア」。ドイツには[[カールスルーエ|カルルスルーエ]]({{lang-de-short|Karlsruhe}})という都市がある。</ref>に参加している。


1892年、シュペーマンはクララ・ビンダー({{lang-de-short|Klara Binder}})と結婚し、夫婦の間には2人の息子が生まれた。1893年から1894年にかけて、彼は[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]で臨床実習を行ったが、次第に医者より発生学者を目指すべきだと気付いた。またミュンヘン生活中に、{{仮リンク|アウグスト・パウリ (動物学者)|label=アウグスト・パウリ|de|August Pauly (Zoologe)}}と親交を結んでいる。彼は[[ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク|ヴュルツブルク大学]]の動物学研究所に移り、1908年まで講義を担当した。1895年に、動物学・植物学・物理学の学位を取ったが、これは[[テオドール・ボヴェリ]]、{{仮リンク|ジュリウス・サックス|en|Julius Sachs}}、[[ヴィルヘルム・レントゲン]]の研究を下敷きにしたものだった<ref name="autogenerated1">''Nobel Lectures, Physiology or Medicine 1922–1941'', [[エルゼビア|Elsevier Publishing Company]], [[アムステルダム|Amsterdam]], 1965</ref>{{refnest|{{cite web|url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1935/spemann-bio.html|publisher=[[ノーベル財団|Nobelprize.org]]|title=Hans Spemann - The Nobel Prize in Physiology or Medicine 1935 (Biography)|accessdate=2016-06-11}} / {{r|autogenerated1}}と同一出典。}}。
彼は、[[実験発生学]]的方法を大きく進め、特にそれまでわずかな例しか行われなかった、卵や胚を紐で縛って区切る方法、いわゆる緊縛法を非常に多くの回数行った。しかし、直径2mmのイモリの卵を新生児の髪の毛を用いて縛る、という極度にストレスのたまる実験を長きにわたって行っていたため、やがて左手が動かなくなってしまった。


ボヴェリの指導を受けつつ、シュペーマンは[[寄生虫]] ''Strongylus paradoxus'' の細胞系列について研究して博士論文を提出し、更に教育免状取得のため、[[カエル]]の[[中耳]]発生について研究している<ref name=UCL1>Monograph by Claudio Stern, J. Z. Young Professor and Head of the Department of Anatomy and Developmental Biology at [[ロンドン大学|University College London]], based on Spemann, 1943; Mangold, 1953; Hamburger, 1988. / {{cite web|url=http://www.bioinfo.org.cn/book/Great%20Experments/great30.htm|title=Spemann and Mangold’s Discovery of the Organizer|author=Claudio Stern|accessdate=2016-06-11}}</ref>。
彼はその初期にはイモリ胚の[[レンズ]]の発生を研究し、これが[[眼胚]]に依存することを知った。また上記のような緊縛法の結果から次第に誘導の発見へと導かれた。[[原口背唇部]]を移植することで二次胚を形成させた彼の有名な実験は[[ヒルデ・マンゴルト]]({{lang-de-short|Hilde Mangold}}、 1898年{{ndash}}1924年)と共同で行ったものである。原口背唇部の二次胚誘導能をもつ領域をシュペーマン・オーガナイザーあるいはシュペーマン/マンゴールド・オーガナイザーと呼ぶ。


=== 個体発生学上の実験 ===
==外部リンク==
1896年の冬、[[結核]]患者隔離用のサニタリウムで過ごしながら、シュペーマンは[[アウグスト・ヴァイスマン]]の著書 "''The Germ Plasm: A Theory of Heredity''" を読んだ<ref>{{cite web|url=http://library.thinkquest.org/24355/data/details/profiles/spemann.html|title=Scientist Profile : Hans Spemann|deadlink=2016-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000601115434/http://library.thinkquest.org/24355/data/details/profiles/spemann.html|archivedate=2000-06-01|accessdate=2016-06-11}}</ref>。彼は自伝にこう書き記している。
: 「私は、類い希なる明敏さを以て、その究極の結果に対して念入りに作り上げられた、遺伝と発生における1つの理論に気付いたのだった・・・・・・そしてそれは私の実験研究への刺激剤になった」{{refnest|group="注"|原文:"I found here a theory of heredity and development elaborated with uncommon perspicacity to its ultimate consequences.....This stimulated experimental work of my own"<ref>Spemann's autobiography, quoted in V. Hamburger, ''The Heritage of Experimental Embryology'': "Hans Spemann and the Organizer", 1988, [[Oxford University Press]], Oxford, p. 9 ISBN 0-19-505110-6.</ref>}}


当時の発生学研究は、どれも矛盾した結果を示していた。1888年、[[ヴィルヘルム・ルー]]<ref group="注">発生の仕組みを解明するため、胚の実験操作法を発明している。</ref>は、[[卵割|2割球期]]に熱した針を刺して1つの割球を殺す実験を行った。ルーが残った割球がどう成長するか観察したところ、半分の胚が形成された。1892年、[[ハンス・ドリーシュ]]は同じ実験を[[ウニ]]胚で行ったが、彼は2割球のうち1つを殺す代わりに、胚をいくつも管の中に入れ、それを振って細胞を分けた。ドリーシュは、ルーの発見とは異なり、やや小さいが完全に発生した胚ができた、と報告した。この食い違いは、ドリーシュが2割球を完全に分けたのに対し、ルーは片方を殺したことにあると考えられている。他方、[[トーマス・ハント・モーガン]]や{{仮リンク|オスカー・ハートヴィヒ|en|Oscar Hertwig}}などは、[[前成説]]・[[後成説]]論争決着に大きな意義があるとして2割球分割実験に挑んだが、満足な結果を得ることはできなかった{{r|UCL1}}。
{{ノーベル生理学・医学賞受賞者 (1926年-1950年)}}
{{Normdaten}}
{{biosci-stub}}
{{Scientist-stub}}


シュペーマンはこの困った問題を解明するため、微小手術の名手として両生類の眼に関する研究に取り組んだ。1902年までには、[[ジャック・レーブ]]や[[アウグスト・ヴァイスマン]]の研究を元に、最初の[[細胞分裂]]の研究に取りかかっていた。彼が20世紀初頭に発表した論文は実験的な[[形態形成]]分野の発展に大きく寄与し、彼自身も微少手術の真の発明者として科学界でもてはやされた。彼は細胞を{{仮リンク|産毛|en|Lanugo}}で{{読み仮名|結紮|けっさつ}}して分割することに成功した。彼は、2割球期の[[イモリ]]胚を新生児の毛で結紮し、人工的な[[双子]]形成を行う実験などで成功を収めている。シュペーマンは半分の割合で完全な胚ができることを報告し、分割面が重要との事実を発見した{{r|UCL1}}。この事実は前成説を追いやり、シュペーマンが[[ポール・ワイス]]から学んだ "{{enlink|Morphogenetic field|s=off|p=off|i=on}}" との概念を支持した。またこれらの結紮実験やその他の他細胞胚実験を通じて、胚の[[卵割|割球]]には、初期発生に重要な遺伝情報が全て含まれていることを証明した。
{{DEFAULTSORT:しゆへえまん はんす}}

[[Category:ドイツの生物学者]]
彼はまた、イモリ胚の実験から[[水晶体]]が眼杯によって誘導されていることを発見している。

1906年、シュペーマンは[[国立科学アカデミー・レオポルディーナ|ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ]]のメンバーへ選出された<ref>{{cite web|url=http://www.leopoldina.org/de/mitglieder/mitgliederverzeichnis/member/6715/|title=Mitgliederverzeichnis - Hans Spemann|publisher=[[国立科学アカデミー・レオポルディーナ]]|accessdate=2016-06-11}}{{de icon}}</ref>。

=== 胚誘導とオーガナイザー ===
{{external media
| image1 = [[:en:File:Hilde Mangold.jpg]]<br>''?'' 1924年に撮られたマンゴルトの写真 – 写真が撮られた直後、マンゴルトは爆発事故に遭って還らぬ人となった}}
1908年、シュペーマンは[[ロストック大学]]で動物学・比較解剖学の教授に就任し、1914年には[[ベルリン]]・{{仮リンク|ダーレム (ベルリン)|label=ダーレム|en|Dahlem (Berlin)}}地区にあったカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所{{enlink|Kaiser Wilhelm Institute for Biology}}のディレクターに就任した<ref name="Klee591">{{cite book|author={{仮リンク|エルンスト・クレー|label=Ernst Klee|de|Ernst Klee}}|title=Das Personenlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945|publisher=Fischer Taschenbuch Verlag|edition=改訂2版 (Zweite aktualisierte Auflage)|location=[[フランクフルト・アム・マイン]]|year=2005|isbn=3-596-16048-0|page=591}}</ref>。ここでの研究は彼の名を更に高めた。{{仮リンク|ウォレン・ハーモン・ハリス|en|Warren Harmon Lewis}}{{r|UCL1}}や{{仮リンク|エセル・ブラウン・ハーヴィー|en|Ethel Browne Harvey}}<ref>{{cite web|url=http://mblwhoilibrary.mbl.edu/publications/women_harvey.html|title=Ethel Browne Harvey (1885-1965)|publisher=Marine Biological Laboratory|work=women of science|accessdate=2016-06-12}}</ref>の研究を参考に、自分のスキルを{{仮リンク|原腸形成|en|Gastrulation}}研究へと活用した。彼は胚中の特定部位({{仮リンク|原始線条|en|Primitive knot}})を他の胚へ移植する実験を行った。

1919年から、シュペーマンは[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]の動物学教授になり、動物学の講義を担当した{{r|Klee591}}。1923年から翌24年にかけては、学長の職にも就いた{{r|Klee591}}。

[[フライブルク]]にあったシュペーマンの研究室には、博士号を取った[[ヒルデ・マンゴルト|ヒルデ・プレショルト]](のち、マンゴルト)がいた。実験は彼女の助けを得て数年間行われ、1924年に全容が論文として発表された。彼らは、胚中の一部分で、別の初期胚に移植すると、移植された場所に関係無く二次胚を誘導する特定部位の存在を報告した。シュペーマンはこれを「オーガナイザー・センター」または「オーガナイザー」<ref group="注">{{en|"''Organiser centres''" or "''organisers.''"}} また、シュペーマンとマンゴルトに[[エポニム]]を与え、「シュペーマン・オーガナイザー」や「シュペーマン / マンゴールド・オーガナイザー」と呼ばれることもある。</ref>と呼んだ(日本語では[[胚発生#形成体|形成体]]との訳語が当てられることがある)。後に彼はオーガナイザーの部位によって、胚の異なる部分が[[誘導]]されることを解明した。この研究は、胚発生の初期段階では[[予定運命]]が決定していないことを示す。また、より後期の胚にオーガナイザーを移植しても誘導が起こらないこと(つまり、この時までに予定運命が決定していること)を発見した。

自身の近代的名声とは裏腹に、シュペーマンは[[ハンス・ドリーシュ]]、{{仮リンク|アレクサンダー・ギュルヴィッチ|en|Alexander Gurwitsch}}、{{仮リンク|ハロルド・サクストン・バー|en|Harold Saxton Burr}}などと同様に、[[生気論|新生気論者]]の「フィールド」解析に参加し続けていた。一方で、{{仮リンク|ヨハネス・ホルトフリーター|en|Johannes Holtfreter}}、{{仮リンク|ドロシー・ニーダム|en|Dorothy M. Needham}}、[[ジョゼフ・ニーダム]]、{{仮リンク|コンラッド・ワディントン|en|C. H. Waddington}}などの追実験によって、煮沸や[[固定 (組織学)|固定]]、冷凍を受けたオーガナイザーでも誘導能があることが示された。この結論は、実際の誘導因子が惰性的な分子であることを示したが、20世紀の終わりになるまで、どのようなシグナルが働いているかの研究は遅々として進まなかった。

1928年には両生類の胚を使い、初の{{仮リンク|体細胞核移植|en|Somatic cell nuclear transfer}}を成功させた(これは[[クローン]]技術の始まりとも言える業績である){{r|autogenerated1}}<ref>{{cite web|url=http://learn.genetics.utah.edu/content/cloning/clonezone/|title=The History of Cloning|work=Learn.Genetics|publisher=[[ユタ大学]]ヘルス・サイエンス|accessdate=2016-06-11}}</ref>。彼は1935年に、[[ノーベル生理学・医学賞]]を授与された。オーガナイザーの胚誘導に関する彼の理論は、1938年に出版された本 {{en|"''Embryonic Development and Induction''"}} に記されている。この本では、ヒトを含めた哺乳類の体細胞核移植の可能性も示唆されている<ref>{{cite web|url=https://embryo.asu.edu/pages/somatic-cell-nuclear-transfer-mammals-1938-2013|title=Somatic Cell Nuclear Transfer in Mammals (1938-2013)|work=The Embryo Project Encyclopedia|accessdate=2016-06-11|author=Zane Bartlett|date=2014-11-04}}</ref>。

=== 晩年 ===
1921年、彼は{{仮リンク|ハイデルブルク学術協会|de|Heidelberger Akademie der Wissenschaften}}の特別会員になった。1929年には[[プロイセン科学アカデミー]]の通信会員({{lang-de-short|korrespondierendes Mitglied}})として受け入れられている。1933年には[[アメリカ芸術科学アカデミー]]の会員選出選挙を受けた。1935年、シュペーマンに[[国立科学アカデミー・レオポルディーナ|レオポルディーナ]]の{{仮リンク|コテニウス・メダル|de|Cothenius-Medaille}}が授与された。

シュペーマンは1937年に定年退職するまで、フライブルク大学の動物学教授としてこの地で研究を続けた。シュペーマンの後任には1番弟子{{仮リンク|オットー・マンゴルト|de|Otto Mangold}}<ref group="注">先述のヒルデ・マンゴルト(旧姓プレショルト)の夫。</ref>が就いた。また、1927年から亡くなるまで、カイザー・ヴィルヘルム・ゲセルシャフト{{enlink|Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft zur Förderung der Wissenschaften|a=on||de}}の「外部学術会員」({{lang-de-short|Auswärtiges Wissenschaftliches Mitglied}})を務めた。

シュペーマンは、心臓病を患い1941年9月12日に亡くなった。彼は生涯古典文学への愛を忘れず、友人たちと絵画や文学、哲学について語らう夕べの会を開くことが常であった。

== エピソード ==
右翼テロリスト{{仮リンク|アルバート・レオ・シュラーゲター|de|Albert Leo Schlageter}}は、彼の前任大学での教え子だった。シュラーゲターは、1923年5月26日、[[ルール地方]]の[[ルール占領|フランス占領軍]]によって、[[諜報活動]]と爆破テロ計画の疑いで逮捕・処刑された。シュペーマンは彼の死を聞き、6月6日の授業を取り止め、学部長や全学生の代表と[[フライブルク駅]]へ向かった。フライブルク駅には2つの花輪で飾られた彼の棺が安置されており、シュペーマンは棺に向かって「私には沢山の仲間がいる」と述べた後、「勝利と復讐に幸あらんことを!」<ref group="注">{{de|"Heil, Sieg und Rache."}}</ref>と宣言した<ref>Ute Scherb: ''Heldenverehrung an der Universität Freiburg.'' In: ''Freiburger Universitätsblätter.'' 38, Nr. 145, 1999, S. 148f.</ref>。

彼は、[[実験発生学]]的方法を大きく進め、特にそれまでわずかな例しか行われなかった、卵や胚を紐で縛って区切る方法、いわゆる緊縛法を非常に多くの回数行った。しかし、直径2mmのイモリの卵を新生児の髪の毛を用いて縛る、という極度にストレスのたまる実験を長きにわたって行っていたため、やがて左手が動かなくなってしまった{{要出典|date=2016-06}}。

=== 自伝的発言 ===
{{Quotation|はじめ[[テオドール・ボヴェリ|ボヴェリ]]は、私に[[サナダムシ]]の生殖器発生を研究してはと提案した。私は純粋に法律上の家族でしかない妻の実家にさえ、面目を失うほど内気で文句も言えない{{読み仮名|質|たち}}だったが、研究対象を、豚の肺に棲み着く ''Strongylus paradoxus'' という別の有名な虫へ変えることで上手く折り合いを付けることができた。|ハンス・シュペーマン|『研究と生活』、1943年<ref group="注">原文:"''Zuerst hatte mir Boveri vorgeschlagen, die Entwicklung der Geschlechtsorgane des Bandwurms zu bearbeiten, und erst als ich schüchtern einwandte, daß mich das in der rein juristischen Familie meiner Braut völlig kompromittieren würde, ging er lachend auf einen anderen Wurm über, dessen klangvoller Name ''Strongylus paradoxus'' einigermaßen damit aussöhnen konnte, daß er in der Lunge des Schweins zuhause ist.''"({{lang-de-short|Forschung und Leben}} 1943)</ref>}}

== 論文 ==
* [[ヒルデ・マンゴルト]]との共著:{{cite journal|author=Hans Spemann|coauthor=Hilde Mangold|title={{de|Über Induktion von Embryonalanlagen durch Implantation artfremder Organisatoren}}|journal={{de|Archiv für mikroskopische Anatomie und Entwicklungsmechanik}}|volume=100|date=1924|pages=599–638}}
* {{cite journal|title={{de|Experimentelle Beiträge zu einer Theorie der Entwicklung}}|publisher=[[ユリウス・シュプリンガー|Julius Springer]]|location=[[ベルリン|Berlin]]|year=1936}}

== 参考文献 ==
<!--ドイツ語版から移入しました-->
* {{cite book|author=Peter E. Fässler|title=Hans Spemann 1869–1941: Experimentelle Forschung im Spannungsfeld von Empirie und Theorie; ein Beitrag zur Geschichte der Entwicklungsphysiologie zu Beginn des 20. Jahrhunderts|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer]]|year=1997|isbn=3-540-62557-7}}
* {{cite journal|author=Peter E. Fässler|author2=Klaus Sander|title=Hilde Mangold (1898–1924) and Spemann's organizer: achievement and tragedy|journal=Roux's Arch. Dev. Biol.|volume=205|year=1996|pages=323–332}}
* {{NDB|24|657|658|Spemann, Hans|[[:de:Werner E. Gerabek|Werner E. Gerabek]]|118616056}}
* [[:de:Otto Mangold|''Otto Mangold'']]: ''Hans Spemann. Der Erfinder der embryonalen Mikrochirurgie, ein Meister der Entwicklungsphysiologie'' In: [[:de:Hans Schwerte|Hans Schwerte]], [[:de:Wilhelm Spengler|Wilhelm Spengler]] (Hrsg.): ''Forscher und Wissenschaftler im heutigen Europa. 2. Mediziner, Biologen, Anthropologen.'' (= Gestalter unserer Zeit. Band 4). Stalling, Oldenburg 1955, S. 228–236 (Die Hgg. waren zuvor [[:de:SS|SS]]-Kader)
* {{cite journal|author=[[:de:Klaus Sander|Klaus Sander]]|title=Hans Spemann (1869–1941): Entwicklungsbiologe von Weltruf|journal=Biologie in unserer Zeit|volume=15|year=1985|pages=112–119}}
* {{cite journal|author=Klaus Sander|author2=Peter E. Fässler|title=Introducing the Spemann-Mangold organizer: experiments and insights that generated a key concept in developmental biology|journal=Int. J. Dev. Biol.|volume=45|year=2001|pages=1–11}}

== 関連項目 ==
{{Commonscat|Hans Spemann}}
{{columns-list|2|
* [[発生生物学]]
* [[胚発生]]
* [[形態形成]]
* [[ヒルデ・マンゴルト]]
* [[テオドール・ボヴェリ]]
* [[アウグスト・ヴァイスマン]]
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist}}

== 外部リンク ==
* [[ネイチャー]]・レビュー・アーティクル:[http://www.nature.com/nrm/journal/v7/n4/box/nrm1855_BX1.html シュペーマンとマンゴルトの実験紹介]
* {{DNB-Portal|118616056}}
* [http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1935/ ノーベル生理学・医学賞(1935年)受賞者ページ]
* [http://nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1935/spemann-speech.html ノーベル賞受賞後の晩餐会スピーチ]{{de icon}}
* [http://www.uni-wuerzburg.de/ueber/universitaet_wuerzburg/wissenschaftsmeile_roentgenring/die_nobelpreistraeger/hans_spemann_1935/ ヴュルツブルク大学による経歴紹介]{{de icon}}

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2016年6月11日 (土) 14:15時点における版

Hans Spemann
ハンス・シュペーマン
生誕 Hans Spemann
(1869-06-27) 1869年6月27日
ヴュルテンベルク王国シュトゥットガルト
死没 1941年9月9日(1941-09-09)(72歳)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国フライブルク
国籍 ドイツの旗 ドイツ
研究分野 発生学
博士課程
指導教員
テオドール・ボヴェリ
博士課程
指導学生
ヒルデ・マンゴルト
主な業績 胚誘導とオーガナイザー
主な受賞歴 ノーベル生理学・医学賞(1935年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1935年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:胚発生における誘導作用の発見

ハンス・シュペーマン: Hans Spemann、1869年6月27日 – 1941年9月9日)は、ドイツ発生学者の特定箇所が、他の細胞を組織や臓器へと誘導する胚誘導の発見に対し、1935年ノーベル生理学・医学賞が授与された。

経歴

発生学者になるまで

ハンス・シュペーマンは、出版者ヴィルヘルム・シュペーマンドイツ語版: Wilhelm Spemann)と、妻リジンカ(旧姓ホフマン、: Lisinka Hoffman)の長男としてシュトゥットガルトに生まれた。シュペーマンは、1878年から1888年までエーバーハルト・ルートヴィヒ・ギムナジウム・シュトゥットガルト (deに通った。彼は学校を卒業した後、1年間父親の稼業を手伝い、ハンブルクで本販売を行った。続いて1889年・1890年の2年間、カッセルフザールKassel Hussar)で軍務に就く。1891年にはハイデルベルク大学に入学して医学を学び、1893年には予備試験を受けた。大学では、解剖学者カール・ゲーゲンバウアードイツ語版の授業に引きつけられた。ここでシュペーマンは、生物学者・精神科医ギュスターヴ・ヴォルフドイツ語版と出会う。ヴォルフは、イモリで発生学的実験を行い、成長したイモリの目を除去しても再生することを実証した人物だった。在学中に、シュペーマンは学生組合ドイツ語版 "Karlsruhensia" [注 1]に参加している。

1892年、シュペーマンはクララ・ビンダー(: Klara Binder)と結婚し、夫婦の間には2人の息子が生まれた。1893年から1894年にかけて、彼はミュンヘン大学で臨床実習を行ったが、次第に医者より発生学者を目指すべきだと気付いた。またミュンヘン生活中に、アウグスト・パウリドイツ語版と親交を結んでいる。彼はヴュルツブルク大学の動物学研究所に移り、1908年まで講義を担当した。1895年に、動物学・植物学・物理学の学位を取ったが、これはテオドール・ボヴェリジュリウス・サックス英語版ヴィルヘルム・レントゲンの研究を下敷きにしたものだった[1][2]

ボヴェリの指導を受けつつ、シュペーマンは寄生虫 Strongylus paradoxus の細胞系列について研究して博士論文を提出し、更に教育免状取得のため、カエル中耳発生について研究している[3]

個体発生学上の実験

1896年の冬、結核患者隔離用のサニタリウムで過ごしながら、シュペーマンはアウグスト・ヴァイスマンの著書 "The Germ Plasm: A Theory of Heredity" を読んだ[4]。彼は自伝にこう書き記している。

「私は、類い希なる明敏さを以て、その究極の結果に対して念入りに作り上げられた、遺伝と発生における1つの理論に気付いたのだった・・・・・・そしてそれは私の実験研究への刺激剤になった」[注 2]

当時の発生学研究は、どれも矛盾した結果を示していた。1888年、ヴィルヘルム・ルー[注 3]は、2割球期に熱した針を刺して1つの割球を殺す実験を行った。ルーが残った割球がどう成長するか観察したところ、半分の胚が形成された。1892年、ハンス・ドリーシュは同じ実験をウニ胚で行ったが、彼は2割球のうち1つを殺す代わりに、胚をいくつも管の中に入れ、それを振って細胞を分けた。ドリーシュは、ルーの発見とは異なり、やや小さいが完全に発生した胚ができた、と報告した。この食い違いは、ドリーシュが2割球を完全に分けたのに対し、ルーは片方を殺したことにあると考えられている。他方、トーマス・ハント・モーガンオスカー・ハートヴィヒ英語版などは、前成説後成説論争決着に大きな意義があるとして2割球分割実験に挑んだが、満足な結果を得ることはできなかった[3]

シュペーマンはこの困った問題を解明するため、微小手術の名手として両生類の眼に関する研究に取り組んだ。1902年までには、ジャック・レーブアウグスト・ヴァイスマンの研究を元に、最初の細胞分裂の研究に取りかかっていた。彼が20世紀初頭に発表した論文は実験的な形態形成分野の発展に大きく寄与し、彼自身も微少手術の真の発明者として科学界でもてはやされた。彼は細胞を産毛英語版結紮けっさつして分割することに成功した。彼は、2割球期のイモリ胚を新生児の毛で結紮し、人工的な双子形成を行う実験などで成功を収めている。シュペーマンは半分の割合で完全な胚ができることを報告し、分割面が重要との事実を発見した[3]。この事実は前成説を追いやり、シュペーマンがポール・ワイスから学んだ "Morphogenetic field" との概念を支持した。またこれらの結紮実験やその他の他細胞胚実験を通じて、胚の割球には、初期発生に重要な遺伝情報が全て含まれていることを証明した。

彼はまた、イモリ胚の実験から水晶体が眼杯によって誘導されていることを発見している。

1906年、シュペーマンはドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナのメンバーへ選出された[6]

胚誘導とオーガナイザー

画像外部リンク
en:File:Hilde Mangold.jpg
? 1924年に撮られたマンゴルトの写真 – 写真が撮られた直後、マンゴルトは爆発事故に遭って還らぬ人となった

1908年、シュペーマンはロストック大学で動物学・比較解剖学の教授に就任し、1914年にはベルリンダーレム英語版地区にあったカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所 (Kaiser Wilhelm Institute for Biologyのディレクターに就任した[7]。ここでの研究は彼の名を更に高めた。ウォレン・ハーモン・ハリス英語版[3]エセル・ブラウン・ハーヴィー英語版[8]の研究を参考に、自分のスキルを原腸形成研究へと活用した。彼は胚中の特定部位(原始線条)を他の胚へ移植する実験を行った。

1919年から、シュペーマンはフライブルク大学の動物学教授になり、動物学の講義を担当した[7]。1923年から翌24年にかけては、学長の職にも就いた[7]

フライブルクにあったシュペーマンの研究室には、博士号を取ったヒルデ・プレショルト(のち、マンゴルト)がいた。実験は彼女の助けを得て数年間行われ、1924年に全容が論文として発表された。彼らは、胚中の一部分で、別の初期胚に移植すると、移植された場所に関係無く二次胚を誘導する特定部位の存在を報告した。シュペーマンはこれを「オーガナイザー・センター」または「オーガナイザー」[注 4]と呼んだ(日本語では形成体との訳語が当てられることがある)。後に彼はオーガナイザーの部位によって、胚の異なる部分が誘導されることを解明した。この研究は、胚発生の初期段階では予定運命が決定していないことを示す。また、より後期の胚にオーガナイザーを移植しても誘導が起こらないこと(つまり、この時までに予定運命が決定していること)を発見した。

自身の近代的名声とは裏腹に、シュペーマンはハンス・ドリーシュアレクサンダー・ギュルヴィッチ英語版ハロルド・サクストン・バー英語版などと同様に、新生気論者の「フィールド」解析に参加し続けていた。一方で、ヨハネス・ホルトフリーター英語版ドロシー・ニーダム英語版ジョゼフ・ニーダムコンラッド・ワディントン英語版などの追実験によって、煮沸や固定、冷凍を受けたオーガナイザーでも誘導能があることが示された。この結論は、実際の誘導因子が惰性的な分子であることを示したが、20世紀の終わりになるまで、どのようなシグナルが働いているかの研究は遅々として進まなかった。

1928年には両生類の胚を使い、初の体細胞核移植英語版を成功させた(これはクローン技術の始まりとも言える業績である)[1][9]。彼は1935年に、ノーベル生理学・医学賞を授与された。オーガナイザーの胚誘導に関する彼の理論は、1938年に出版された本 "Embryonic Development and Induction" に記されている。この本では、ヒトを含めた哺乳類の体細胞核移植の可能性も示唆されている[10]

晩年

1921年、彼はハイデルブルク学術協会ドイツ語版の特別会員になった。1929年にはプロイセン科学アカデミーの通信会員(: korrespondierendes Mitglied)として受け入れられている。1933年にはアメリカ芸術科学アカデミーの会員選出選挙を受けた。1935年、シュペーマンにレオポルディーナコテニウス・メダルが授与された。

シュペーマンは1937年に定年退職するまで、フライブルク大学の動物学教授としてこの地で研究を続けた。シュペーマンの後任には1番弟子オットー・マンゴルトドイツ語版[注 5]が就いた。また、1927年から亡くなるまで、カイザー・ヴィルヘルム・ゲセルシャフト (deの「外部学術会員」(: Auswärtiges Wissenschaftliches Mitglied)を務めた。

シュペーマンは、心臓病を患い1941年9月12日に亡くなった。彼は生涯古典文学への愛を忘れず、友人たちと絵画や文学、哲学について語らう夕べの会を開くことが常であった。

エピソード

右翼テロリストアルバート・レオ・シュラーゲタードイツ語版は、彼の前任大学での教え子だった。シュラーゲターは、1923年5月26日、ルール地方フランス占領軍によって、諜報活動と爆破テロ計画の疑いで逮捕・処刑された。シュペーマンは彼の死を聞き、6月6日の授業を取り止め、学部長や全学生の代表とフライブルク駅へ向かった。フライブルク駅には2つの花輪で飾られた彼の棺が安置されており、シュペーマンは棺に向かって「私には沢山の仲間がいる」と述べた後、「勝利と復讐に幸あらんことを!」[注 6]と宣言した[11]

彼は、実験発生学的方法を大きく進め、特にそれまでわずかな例しか行われなかった、卵や胚を紐で縛って区切る方法、いわゆる緊縛法を非常に多くの回数行った。しかし、直径2mmのイモリの卵を新生児の髪の毛を用いて縛る、という極度にストレスのたまる実験を長きにわたって行っていたため、やがて左手が動かなくなってしまった[要出典]

自伝的発言

はじめボヴェリは、私にサナダムシの生殖器発生を研究してはと提案した。私は純粋に法律上の家族でしかない妻の実家にさえ、面目を失うほど内気で文句も言えないたちだったが、研究対象を、豚の肺に棲み着く Strongylus paradoxus という別の有名な虫へ変えることで上手く折り合いを付けることができた。 — ハンス・シュペーマン、『研究と生活』、1943年[注 7]

論文

  • ヒルデ・マンゴルトとの共著:Hans Spemann; Hilde Mangold (1924). “Über Induktion von Embryonalanlagen durch Implantation artfremder Organisatoren”. Archiv für mikroskopische Anatomie und Entwicklungsmechanik 100: 599–638. 
  • Experimentelle Beiträge zu einer Theorie der Entwicklung. Berlin: Julius Springer. (1936). 

参考文献

  • Peter E. Fässler (1997). Hans Spemann 1869–1941: Experimentelle Forschung im Spannungsfeld von Empirie und Theorie; ein Beitrag zur Geschichte der Entwicklungsphysiologie zu Beginn des 20. Jahrhunderts. Springer. ISBN 3-540-62557-7 
  • Peter E. Fässler; Klaus Sander (1996). “Hilde Mangold (1898–1924) and Spemann's organizer: achievement and tragedy”. Roux's Arch. Dev. Biol. 205: 323–332. 
  • Werner E. GerabekSpemann, Hans. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 24, Duncker & Humblot, Berlin 2010, ISBN 978-3-428-11205-0, S. 657 f. (電子テキスト版).
  • Otto Mangold: Hans Spemann. Der Erfinder der embryonalen Mikrochirurgie, ein Meister der Entwicklungsphysiologie In: Hans Schwerte, Wilhelm Spengler (Hrsg.): Forscher und Wissenschaftler im heutigen Europa. 2. Mediziner, Biologen, Anthropologen. (= Gestalter unserer Zeit. Band 4). Stalling, Oldenburg 1955, S. 228–236 (Die Hgg. waren zuvor SS-Kader)
  • Klaus Sander (1985). “Hans Spemann (1869–1941): Entwicklungsbiologe von Weltruf”. Biologie in unserer Zeit 15: 112–119. 
  • Klaus Sander; Peter E. Fässler (2001). “Introducing the Spemann-Mangold organizer: experiments and insights that generated a key concept in developmental biology”. Int. J. Dev. Biol. 45: 1–11. 

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 読みは「カルルスルーエンシア」。ドイツにはカルルスルーエ: Karlsruhe)という都市がある。
  2. ^ 原文:"I found here a theory of heredity and development elaborated with uncommon perspicacity to its ultimate consequences.....This stimulated experimental work of my own"[5]
  3. ^ 発生の仕組みを解明するため、胚の実験操作法を発明している。
  4. ^ "Organiser centres" or "organisers." また、シュペーマンとマンゴルトにエポニムを与え、「シュペーマン・オーガナイザー」や「シュペーマン / マンゴールド・オーガナイザー」と呼ばれることもある。
  5. ^ 先述のヒルデ・マンゴルト(旧姓プレショルト)の夫。
  6. ^ "Heil, Sieg und Rache."
  7. ^ 原文:"Zuerst hatte mir Boveri vorgeschlagen, die Entwicklung der Geschlechtsorgane des Bandwurms zu bearbeiten, und erst als ich schüchtern einwandte, daß mich das in der rein juristischen Familie meiner Braut völlig kompromittieren würde, ging er lachend auf einen anderen Wurm über, dessen klangvoller Name Strongylus paradoxus einigermaßen damit aussöhnen konnte, daß er in der Lunge des Schweins zuhause ist."(: Forschung und Leben 1943)

出典

  1. ^ a b c Nobel Lectures, Physiology or Medicine 1922–1941, Elsevier Publishing Company, Amsterdam, 1965
  2. ^ Hans Spemann - The Nobel Prize in Physiology or Medicine 1935 (Biography)”. Nobelprize.org. 2016年6月11日閲覧。 / [1]と同一出典。
  3. ^ a b c d Monograph by Claudio Stern, J. Z. Young Professor and Head of the Department of Anatomy and Developmental Biology at University College London, based on Spemann, 1943; Mangold, 1953; Hamburger, 1988. / Claudio Stern. “Spemann and Mangold’s Discovery of the Organizer”. 2016年6月11日閲覧。
  4. ^ Scientist Profile : Hans Spemann”. 2000年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月11日閲覧。
  5. ^ Spemann's autobiography, quoted in V. Hamburger, The Heritage of Experimental Embryology: "Hans Spemann and the Organizer", 1988, Oxford University Press, Oxford, p. 9 ISBN 0-19-505110-6.
  6. ^ Mitgliederverzeichnis - Hans Spemann”. 国立科学アカデミー・レオポルディーナ. 2016年6月11日閲覧。(ドイツ語)
  7. ^ a b c Ernst Kleeドイツ語版 (2005). Das Personenlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945 (改訂2版 (Zweite aktualisierte Auflage) ed.). フランクフルト・アム・マイン: Fischer Taschenbuch Verlag. p. 591. ISBN 3-596-16048-0 
  8. ^ Ethel Browne Harvey (1885-1965)”. women of science. Marine Biological Laboratory. 2016年6月12日閲覧。
  9. ^ The History of Cloning”. Learn.Genetics. ユタ大学ヘルス・サイエンス. 2016年6月11日閲覧。
  10. ^ Zane Bartlett (2014年11月4日). “Somatic Cell Nuclear Transfer in Mammals (1938-2013)”. The Embryo Project Encyclopedia. 2016年6月11日閲覧。
  11. ^ Ute Scherb: Heldenverehrung an der Universität Freiburg. In: Freiburger Universitätsblätter. 38, Nr. 145, 1999, S. 148f.

外部リンク