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「音戸の瀬戸」の版間の差分

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{{mapplot|132.6807|34.2084|音戸の瀬戸}}
[[ファイル:Ondono-seto Ccg-88-1 c32 2.jpg|thumb|right|250px|({{国土航空写真}})]]
[[ファイル:Ondo Strait 01.jpg|thumb|250px|right|音戸の瀬戸公園から望む]]
[[ファイル:Ondo no Seto 2017.png|350px|right|thumb|周辺。ちなみに宮島([[厳島]])は音戸の瀬戸から左上の廿日市市の海上に浮かぶ大きな島。]]
[[ファイル:Ondono-seto Bridge and Watashibune Hiroshima.JPG|thumb|250px|right|音戸大橋と音戸渡船]]
[[ファイル:Ondono-seto Ccg-88-1 c32 2.jpg|thumb|right|350px|({{国土航空写真}})。第二音戸大橋架橋前。]]
'''音戸の瀬戸'''(おんどのせと)は、[[広島県]][[呉市]]にある[[本州]]と[[倉橋島]]の間に存在する[[海峡]]のことである。
'''音戸の瀬戸'''(おんどのせと、旧表記:隠戸ノ瀬戸)は、[[広島県]][[呉市]]にある[[本州]](警固屋)と[[倉橋島]]([[音戸町]])の間に存在する[[海峡]]のことである。幅はわずか90m程度、可航幅が60mしか無く、一日の船舶の通行量は約700隻で、最大で4[[ノット]]と潮流が早く、狭い所を[[広島市]]と[[松山市]]を結ぶ定期船など1000トン級の船が行き交う船舶の往来が激しい海域である<ref>海上保安庁呉海上保安部「[http://www.kaiho.mlit.go.jp/06kanku/kure/e_servise/e-6_hashi/ondooohashi/ondooohashi.htm 音戸大橋]」2010年2月3日閲覧</ref><ref>海上保安庁呉海上保安部「[http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/mame/topic35.htm 『音戸ノ瀬戸』の潮流について]」2010年2月3日閲覧</ref>。日本一短いとされる海上定期航路([[#音戸渡船|音戸渡船]])も就航している。また、南端最狭部にはアーチ橋と[[ツツジ]]で有名な[[音戸大橋]]が、北端には2本目の橋である[[音戸大橋|第二音戸大橋]]がかかっている。


この瀬戸とは海峡を意味する<ref name="ndl1257706" />。瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路、[[平清盛]]が開削したという伝説、風光明媚な観光地として知られている<ref name="nikkaibo">{{Cite journal|和書|author1=嶋田和治|publisher=日本海難防止協会|journal=海と安全 第430号|url=http://nikkaibo.or.jp/pdf/430_1994.pdf|format=PDF|date=1994-11|title=音戸瀬戸における衝突事故と海難防止活動|accessdate=2017-01-11}}</ref>。
== 伝承 ==
この海峡は[[平安時代]]に[[日宋貿易]]の航路として、[[1167年]]に[[平清盛]]が開削したといわれている。一日で工事を完了させるために夕日を招き返したという[[伝説]]がある。また、工事安全祈願のために[[人柱]]の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたともいわれる。


== 地理 ==
平清盛ゆかりの土地であることから、開削800周年を記念して、立烏帽子直垂姿の平清盛が日没の方向に[[扇]]を向けて立つ姿の2.7mの銅像「日招像」が瀬戸の東側の高烏山麓「音戸の瀬戸公園」内に[[1967年]](昭和42年)7月に建立された。
=== 概要 ===
{{ external media
| topic = 第六管区海上保安本部
| align =
| width = 250px
| video1 = [http://www6.kaiho.mlit.go.jp/kure/livecamera/index.html 音戸の瀬戸ライブカメラ]
}}
本州側の呉市警固屋と倉橋島の呉市[[音戸町]]との間にある海峡で、北側が警固屋7丁目と音戸町三軒屋ノ鼻、南側が警固屋町鼻崎と音戸町清盛塚 <ref name="kyousuidounokainan">{{Cite web|publisher=海難審判庁|url=https://www.mlit.go.jp/jtsb/kai/bunseki/bunsekikohosiryo/no8_kyousuidou/pdf/kyousuidounokainan.pdf|format=PDF|title=狭水道の海難 海難分析集|accessdate=2017-01-11}}</ref>。ほぼ南北に伸びる海峡で、南北方向約1,000m、幅は北口で約200m南口の狭いところで約80m <ref name="kaihatsuhozenkoro">{{Cite web|publisher=国土交通省中国地方整備局|url=https://www.pa.cgr.mlit.go.jp/hiroshima/kyosoryoku/kaihatsuhozenkoro.html|title=開発保全航路|accessdate=2017-01-11}}</ref><ref name="jk103">{{Cite web|publisher=ジャパンナレッジ|url=http://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=103|title=第103回 音戸ノ瀬戸と警固屋|accessdate=2017-01-11}}</ref><ref name="naid110001187977">{{Cite journal|和書|author1=山地哲也|publisher=日本オペレーションズ・リサーチ学会|journal=オペレーションズ・リサーチ : 経営の科学 第41号|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110001187977|format=PDF|title=PDPC法による海難分析 : 音戸瀬戸を対象として|date=1996-11-01|pages=646-651|accessdate=2017-01-11}}</ref>。


[[東海地方]][[伊良湖水道]]の古い船頭歌に「[[鳴門海峡|阿波の鳴門]]か音戸の瀬戸か伊良湖度合が恐ろしや」と歌われている<ref>{{Cite journal|和書|author1=裏山惣一|publisher=日本財団|journal=海と安全 2005年冬号|url=http://nikkaibo.or.jp/pdf/527_2005.pdf|format=PDF|title=悪条件多き狭水道に船舶が輻輳する伊良湖水道|date=2005|accessdate=2017-01-11}}</ref>ように、海の難所として古くから広く知られていた。[[広島湾]]から[[安芸灘]]へ抜ける最短コースであるため船の通行量はとても多い。[[安芸群島]]の[[倉橋島]]・[[能美島]]などを[[日本の離島架橋|離島架橋]]で繋ぐ出発点でもある。
ただし、近年の地質調査では、清盛の時代より遥か以前から、この海峡には船舶の航行に十分な水深があり、本州側と音戸側が地続き、あるいは浅瀬で結ばれていたと考えられる証拠は存在しないとされている。


古来は[[砂州]]あるいは点在する[[岩礁]]を伝って歩いて渡れていたとする伝承がいくつもあり、昭和初期までは干潮時には海岸に沿って砂浜が現れていた<ref name="kmsnaka" />。一方で地理学的に見ると古来からまったく繋がっていない海峡であり交通の要所であったとして否定されている<ref name="koc">{{Cite journal|和書|author1=下向井龍彦 外5名|publisher=呉地域オープンカレッジ|journal=平成17年度地域活性化研究|url=http://www.kure-opencollege.jp/Material/Chiiki/2005/4.pdf|format=PDF|title=音戸瀬戸平清盛開削伝説に関する学際的研究とその地域教材化|date=2005|accessdate=2017-01-11}}</ref>。地形学で見ると
== 音戸渡船 ==
# 海底の地盤は[[斑岩|花崗斑岩]]を中心とした堅牢な岩で構成されているため、侵食されにくく、かつ人力で開削するには困難である<ref name="koc" />。
'''音戸渡船'''は300年の歴史があるともされる瀬戸の[[渡し船|渡船]]<ref name=chugoku-np>中国新聞「[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201002010256.html 日本一短い航路、住民が支援 経営難の音戸渡船]」2010年2月1日付け、2010年2月3日閲覧</ref>で、現在は瀬戸中央部の警固屋八丁目([[広電バス]]「音戸渡船口」)と音戸町引地二丁目(広電バス「音戸」)間を就航している。運航距離120mは日本一短い海上定期航路といわれている<ref name=chugoku-np />。運航時間は5時30分~21時で、2010年1月末現在の渡船運賃は大人70円、小人40円、自転車込み90円(いずれも片道)<ref>呉市「[http://www.city.kure.lg.jp/~koikigyo/seikatukouro.html#%E6%B8%A1%E8%88%B9 生活航路]」2010年2月3日閲覧</ref>。一日2~300人が利用している。
# この海峡の南北に[[海釜]]、つまり海流で削れた窪地があるが、その大きさから縄文時代には現在より早い海流であったことがわかっている<ref name="koc" />。
# 縄文時代から現在の安定した海水面が形成されるまで、この海峡が陸地化するほどの変動した根拠が見つからない<ref name="koc" />。
# 地形の経年変化と海流の関係性でみると常に土砂堆積作用より浸食作用の方が大きくなるため、過去に小島や砂州などが形成された可能性が低い<ref name="koc" />。
# 海峡を埋め尽くすような土石流が発生した痕跡が発見されていない<ref name="koc" />。
歴史地理学でみると
# 古代における瀬戸内海の主流航路は“地乗り”と呼ばれた山陽地方陸地側を沿って航行するものであった<ref name="koc" /><ref name="h25zuroku">{{Cite web|publisher=広島県立文書館|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/zuroku/h25zuroku.pdf|format=PDF|title=「海の道」の近世|accessdate=2017-01-11}}</ref>。
# 音戸に「渡子」という地名があり、これは7世紀から9世紀に交通の要所の置かれた公設渡船の“渡し守“に由来する<ref name="koc" /><ref name="kms">{{Cite journal|和書|author1=下向井龍彦|publisher=KMS|journal=月刊くれえばん 2011年8月号|title=地名が歴史を顕わす|date=2011|accessdate=2017-01-11}}</ref>。
#「警固屋」はその名の通り“警固のための詰所“が置かれた地と考えられる<ref name="jk103" /><ref name="ndl1908953" />。
# この周辺には「鍋」「[[アレイからすこじま|烏小島]]」「亀ヶ首」「舞々尻」(かたつむり)「蕪崎」(カブ)などの名を冠した岩礁や半島が多くあるが、これらは当時の船乗りが航路の目印としてわかりやすくするため名付けたものと考えられる<ref name="koc" /><ref name="kms" />。


=== 潮流 ===
瀬戸には1961年に瀬戸内海初の本土・離島間を結ぶ音戸大橋が架けられ、橋は歩行者の通行も可能であるが、橋本体及び取り付け道路には僅かな路側帯が設置されているのみで歩道の設備はなく、また高低差があって登坂距離が長く、徒歩や自転車での横断が難儀であるため、2010年現在も渡船が継続されている。
[[ファイル:音戸の瀬戸 潮流と潮位の関係.png|300px|right|thumb|青が潮流、赤が潮位。]]
瀬戸内海広島湾周辺の水道あるいは瀬戸は、全国的に見ても潮流が早く、潮の干満で周期的に潮流の方向が変わる<ref name="nz003">{{Cite web|publisher=日本財団図書館|url=https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2006/00326/contents/0003.htm|title=瀬戸内海の潮流と潮汐について(潮流編)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。その中でもここでは更に細かく流れが変化する特異な狭水道である<ref name="nz003" />。この特異な潮流から海の難所として知られ、「清盛のにらみ潮伝説」が生まれ、『音戸の舟唄』では「一丈五尺の[[櫓]]がしわる{{Refnest|group="注"|約4.5mの櫓がたわむ。}}」と歌われている。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: center;"
|+ 概況<ref>{{Cite web|publisher=海上保安庁|url=http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic35.htm|title=「音戸ノ瀬戸」の潮流について|accessdate=2017-01-11}}</ref>
!潮流!!経過時間<br />目安(h)!!潮汐<br />(呉港)!!
|-
||-||0||下||
* 干潮時間から約1時間半<br />~2時間後に南流が始まる。
|-
|↓南流↓<br />(ピーク)||1.5||上||
* 南流1度目のピーク。
* 大潮期で約4[[ノット|kn]]、小潮期2~3kn。
|-
|↓南流↓<br />(停止あるいは↑逆流↑)||3.5||上||
* ピーク時から徐々に減じる。
* 場合によっては停止あるいは逆流する。
|-
|↓南流↓<br />(ピーク)||4から5||満潮||
* 南流2度目のピーク。
*大潮期で約3~4kn、小潮期2kn。
|-
||-||6||上||
*満潮時間から約1時間半<br />~2時間後に北流が始まる
|-
|↑北流↑<br />(ピーク)||7.5||下||
* 北流1度目のピーク。
* 大潮期で約4kn、小潮期2~3kn。
|-
|↑北流↑<br />(停止あるいは↓逆流↓)||9.5||下||
* ピーク時から徐々に減じる。
* 場合によっては停止あるいは逆流する。
|-
|↑北流↑<br />(ピーク)||10から11||干潮||
* 北流2度目のピーク。
* 大潮期で約3~4kn、小潮期2~3kn。
|-
||-||12||下||
* 以上を繰り返す。
|}

== 交通 ==
=== 音戸瀬戸航路 ===
{{Vertical_images_list
|寄せ=左
|幅= 200px
|枠幅=
|1=Second Ondo Bridge 20130303-05.JPG|2=北口
|3=Ondo no seto 音戸の瀬戸 (2396495734).jpg|4=南口。このように北側から来る船舶を目視できない。
}}
可航幅は、本航路が幅60m(最浅水深5m)、その両外側に補助航路(水深3m)が設けられている<ref name="naid110001187977" /><ref name="kaihatsuhozenkoro" />。南北双方とも橋梁の下を通ることになり、北口が満潮時桁下39.0mの[[音戸大橋|第二音戸大橋]]、南口が満潮時桁下23.5mの[[音戸大橋]]になる。現在の航路は1957年までに運輸省(現国土交通省)が掘削整備したもので、1976年[[航路#開発保全航路|開発保全航路]]に指定されている<ref name="kaihatsuhozenkoro" />。

北側の[[広島港]]および[[呉港]]から南側の[[安芸灘]]を最短距離で結び、関西および四国地方へと繋がる航路の中にある<ref name="kaihatsuhozenkoro" />。貨物船・油送船などの内航小型船を中心に、漁船やプレジャーボートの他、高速旅客船、そして低速の台船・曳船、などが航行する<ref name="nikkaibo" />。1日あたりの船舶交通量は1960年代で約700隻<ref name="ondo-bridge" />、1990年代で約500隻<ref name="nikkaibo" /><ref name="naid110001187977" />。

狭い可航幅、多種多様な船舶が通る交通量の多さ、強くかつ複雑な潮流に加え、南側は約90度変針して幅500m×長さ1,000mの航路筋があり更に見通しは極端に悪いことから、危険な航路である<ref name="kyousuidounokainan" /><ref name="nikkaibo" /><ref name="naid110001187977" />。日本における代表的な右側端航行困難な狭水道である<ref>{{Cite journal|和書|publisher=日本財団|journal=海と安全 昭和54年2月号|url=http://nikkaibo.or.jp/pdf/242_1979.pdf|format=PDF|title=海上衝突予防法 周知状況の調査結果|date=1979|accessdate=2017-01-17}}</ref>。そうした状況でありながら、[[海上保安庁]]の周知もあり他の狭水道とくらべて海難事故は少ない<ref name="kyousuidounokainan" /><ref name="nikkaibo" /><ref name="naid110001187977" />。海保が規制している海域の航法は以下の通り。

[[ファイル:Sea Lane in Ondo.png|350px|left|thumb|航法。黒丸が灯浮標。青星印の下側が清盛塚、上側が音戸灯台。]]
{{Quotation|
# A線を横切って航行した、又は航行しようとする総トン数5トン以上の船舶は、<br />音戸瀬戸北口灯浮標が設置されている地点を左げんにみて航行すること
# B線を横切って航行した、又は航行しようとする総トン数5トン以上の船舶は、<br />音戸瀬戸南口灯浮標が設置されている地点を左げんにみて航行すること|平成22年4月1日海上保安庁告示第92号概要|<ref name="c_ondo_kouhou" />}}
{{Quotation|
# 瀬戸北口と南口の灯浮標を左に見て航行すること
# 速力は、できる限り落として航行すること
# 狭水道で行き会う場合は、早めに右転し左げん対左げんで航過すること
# 200トンを越える船舶は清盛塚から音戸灯台までの間は他船を追越したり、並航して航行することはさけること|昭和50年2月20日呉海上保安部|<ref name="c_ondo_kouhou">{{Cite web|publisher=海上保安庁呉海上保安部|url=http://www.kaiho.mlit.go.jp/06kanku/kure/c_safety_navigation/c_ondo_kouhou.htm|title=音戸瀬戸の航法|accessdate=2017-01-11}}</ref>}}


<gallery>
<gallery>
音戸大橋01.JPG|音戸大橋下を貨物船が通る。
ファイル:Ondono-seto Watashibune Hiroshima 20130303-01.JPG|船着き場(警固屋側)
Ondo Seto 音戸の瀬戸5.jpg|第二音戸大橋下を広島-松山(四国)間を結ぶ定期船が通る
ファイル:Ondono-seto Watashibune Hiroshima 20130303-02.JPG|船着き場(音戸側)
ファイル:Ondono-seto Watashibune Hiroshima 20130303-03.JPG|第二音戸大橋をバックに航行する渡船
</gallery>
</gallery>


== 周辺 ==
=== 渡船・橋梁 ===
{{Vertical_images_list
{{Vertical_images_list
|寄せ=right
|寄せ=
|幅= 200px
|幅= 250px
|枠幅=
|枠幅=
|1=Ondono-seto Bridge and Watashibune Hiroshima.JPG|2=音戸大橋と音戸渡船
|1=Japanese battleship Ise burning at Kure 28 July 1945.jpeg|2=[[呉軍港空襲]]。手前から右が[[倉橋島]]であり左に音戸の瀬戸が見える。
|3=音戸大橋のツツジ.JPG|4=音戸大橋警固屋側のツツジ。
|3=Ondono-seto Watashibune Hiroshima 20130303-03.JPG|4=第二音戸大橋をバックに航行する渡船
}}
}}
;渡船
*瀬戸の東側の高烏(たかがらす)山麓にあって瀬戸全体を見渡せる「音戸の瀬戸公園」は清盛の「日招き伝説」の地であり、瀬戸開削800周年記念の「日招像」も建てられている。像の建つ地を日招台(旧称日招山)という。公園内には多数のサクラがとツツジが植栽され、それぞれの開花時期には花見でにぎわう。特にツツジは音戸大橋登坂路の両側道路用地斜面にも植えられ、一体となって立体的な景観となる。<br />公園の内外には、かつて[[広島湾要塞]]の施設として、[[大日本帝国陸軍|旧日本陸軍]]の高烏堡塁と休石砲台、[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の隠戸水雷衛所が設置されていた。
現在の渡船「音戸渡船」あるいは「音戸の渡し」は、航路約90mで渡航時間は約2分、日本一短い海上定期航路と言われている<ref name="kh3713">{{Cite web|publisher=ひろしま観光ナビ|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/sys/data?page-id=3713|title=音戸の渡し|accessdate=2017-01-11}}</ref><ref name="asahi20160105">{{Cite web|publisher=朝日新聞|date=2016-01-05|url=http://www.asahi.com/area/hiroshima/articles/MTW20160105351300001.html|title=300年渡船 存続へ針路|accessdate=2017-01-11}}</ref>。乗客一人でも運行し、桟橋に立っていれば対岸に船がいても迎えにきてくれる<ref name="kh3713" />。そのため時刻表はなく、午前5時から午後9時の間いつでも運行している<ref name="kh3713" />。
{{See|[https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/28/ondo-tosen.html 音戸渡船の運営情報は呉市ホームページ]}}

;橋梁
{{See|[[音戸大橋|音戸大橋、第二音戸大橋]]}}

;沿革
幅の狭い海峡であるが強い潮流であるため泳いで渡ることができなかったことから<ref >{{Cite web|publisher=地酒蔵元回|url=http://www.kuramotokai.com/kikou/74/prologue|title=三宅本店 > プロローグ|accessdate=2017-01-18}}</ref>、古くから渡船という手段が用いられた。現在の音戸渡船の形は江戸時代からと言われている<ref name="asahi20160105" />。そしていつごろからか急流から舟歌『音戸の舟唄』が作られ歌われている<ref name="hb287" />。戦後は、1日あたり平均250往復、6,000人から7,000人、軽車両2,000台が利用していた<ref name="ph119587">{{Cite web|publisher=広島県パンフレット|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/119587.pdf|format=PDF|title=音戸大橋|accessdate=2017-01-11}}</ref>。渡船は24時間開かれ、4隻で船頭10人以上で運航していた<ref name="asahi20160105" />。

こうしたことから、安全な交通手段としてそして音戸町発展のため様々な計画が上がる中で離島架橋が決まり、1961年当時は有料橋として音戸大橋が架橋した<ref name="ph119587" />。1974年に無料化し現在に至っている<ref name="ondo-bridge">{{Cite web|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/ondo-bridge.html|title=音戸大橋(おんどおおはし)|publisher=広島県|accessdate=2017-01-11}}</ref>。ただこの音戸大橋は歩行者には不便な橋であったため、音戸渡船はそのまま続き、更に広域交通網整備、特に安全確保と災害時の緊急道路として2013年第二音戸大橋が架橋された<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/2nd-ondo-bridge.html|title=第二音戸大橋(だいにおんどおおはし)|publisher=広島県|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

一方、音戸渡船の客はこうした中で2010年代で1日あたり約200人、架橋前の1/30ほどにまでに落ち込んだ<ref name="asahi20160105" />。音戸大橋より利便性が高かったため、通学する高校生にとっては必要であった<ref>{{Cite web|url=http://web.archive.org/web/20100204221615/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201002010256.html|title=日本一短い航路、住民が支援 経営難の音戸渡船|publisher=中国新聞|date=2010-02-01|accessdate=2017-01-11}}</ref>。歩道が整備されている第二音戸大橋架橋が決まると必要性が減ることから、地元住民により渡船を守ろうとする動きが始まり、呉市は運営に補助金をだし、更に地元では観光展開しアピールに努めている<ref name="asahi20160105" />。

<gallery>
Ondono-seto Watashibune Hiroshima 20130303-01.JPG|船着き場(警固屋側)
Ondono-seto Watashibune Hiroshima 20130303-02.JPG|船着き場(音戸側)
</gallery>

== 歴史 ==
=== 隠渡 ===
音戸という地名の由来の一つに「隠渡」がある。これはこの海峡を干潮時に歩いて渡ることができたことから隠渡と呼ぶようになったという<ref name="nikkaibo" />。

伝承によれば音戸には、[[奈良時代]]には人が住んでいたと伝えられている<ref name="ndl1908953">{{Cite book|和書|author = 呉新興日報社|title = 大呉市民史. 明治篇|date = 1943|url =http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908953|pages=644-646|accessdate = 2017-01-11}}</ref>。当時海岸はすべて砂浜で、警固屋と幅3尺(約0.9m)の[[砂州]]でつながっていた<ref name="ndl1908953" />。その付近の集落を“隠れて渡る”から隠渡あるいは隠戸と呼んだ<ref name="ndl1908953" />。そしてここを通行していた大阪商人が書きやすいようにと隠渡・隠戸から音戸を用いだしたのがこの名の始まりであるという<ref name="ndl1908953" />。その他にも、[[平家の落人]]が渡ったことから、あるいは[[水軍|海賊]]が渡ったことから、呼ばれだしたという伝承もある<ref>{{Cite web|publisher=日本名門酒会|url=http://www.meimonshu.jp/modules/topics/index.php?page=article&storyid=77|title=平清盛ゆかりの地・呉市音戸町の蔵元・榎酒造から『特別純米酒 清盛』登場!|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

瀬戸内海を横切る主要航路は、朝廷によって[[難波津]]から[[大宰府]]を繋ぐものとして整備された<ref>{{Cite web|publisher=瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会|url=http://www.uminet.jp/know/history/index.html|title=瀬戸内海の歴史”|accessdate=2017-01-11}}</ref>。古来の倉橋島南側の倉橋町は「長門島」と呼ばれその主要航路で”潮待ちの港”が存在し、更に[[遣唐使|遣唐使船]]がこの島で作られたと推察されているほど古来から造船の島であった<ref name="ndl1257706">{{Cite book|和書|author = 住田正一|publisher=海文堂|title = 浮宝随想|date = 1937|pages=162-166|url =http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257706|accessdate = 2017-01-11}}</ref><ref name="yomiuri20150920">{{Cite web|publisher=読売新聞|date=2015-09-20|url=http://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/feature/CO015851/20150924-OYTAT50049.html|title=<倉橋島>造船 隆盛の歴史残す|accessdate=2017-01-11}}</ref>。音戸北側に渡子という地名があり、これは7世紀から9世紀に交通の要所の置かれた公設渡船の“渡し守“に由来することから、古来からこの海峡には渡船があったと推定されている<ref name="koc" /><ref name="kms" />。

つまり、遅くとも奈良時代には倉橋島の南を通るルート、そして北であるこの海峡を通るルートが成立していたと考えられている<ref name="ndl1257706" /><ref name="kmskido">{{Cite journal|和書|author1=木戸俊久|publisher=KMS|journal=月刊くれえばん 2012年10月号|title=呉歴史検定 問題と解説|date=2011}}</ref>。

=== 清盛伝説 ===
[[ファイル:Taira no Kiyomori,TenshiSekkanMiei.jpg|250px|right|thumb|平清盛]]
[[ファイル:Kiyomori-tsuka 1935.jpg|250px|right|thumb|戦前の県史跡「伝清盛塚」。伝承では1184年([[元暦]]元年)建立されたと言われている<ref name="ndl960989" />。中の[[宝篋印塔]]は高さ2.05mで室町時代の作なのは確定している<ref>{{Cite web|publisher=広島県教育委員会|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-206120550.html|title=伝清盛塚|accessdate=2017-01-11}}</ref>。塚内の[[クロマツ]]は「音戸の清盛松」と呼ばれ、伝承では枯死したものを1719年([[享保]]4年)植え替えたと言われている<ref name="hb883">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=883|title=音戸の清盛松(おんどのきよもりまつ)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。現在は護岸と接しているが、かつてはこのように独立した小島であった。]]

==== 伝承 ====
この海峡で有名なのは[[永万]]元年(1165年)[[7月10日 (旧暦)|旧暦7月10日]]に完成した[[平清盛]]が開削したとする伝説である<ref name="hb883" />。この海峡はつながっていて、開削するに至った理由は、[[厳島神社]]参詣航路の整備として、[[荘園]]からの[[租税]]運搬のため、[[日宋貿易]]のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われている<ref name="livinghiroshima100235">{{Cite web|publisher=リビングひろしま|url=http://www.livinghiroshima.com/?cn=100235|title=日招き伝説に恋慕説? “音戸の瀬戸”開削の謎 ~呉市警固屋・高烏台~|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

::この地に着いた時、短気な清盛は倉橋島を大回りするのをバカバカしく思いここを開削すると下知した。家臣は人力では無理ですと答えた。清盛は「なに人力に及ばすとや、天魔をも駆るべく、鬼神をも役すべし、天下何物か人力に依りて成らざるものあらんや、いでいで清盛が見事切り開いて見すべきぞ」と工事を決行した<ref name="ndl960989">{{Cite book|和書|author = 福智義一|title = 日本沿岸遊覧案内|publisher=厚生堂|date = 1918|url =http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960989|pages=34-38|accessdate = 2017-01-11}}</ref>。

[[亀山神社 (呉市清水)|亀山神社]]が代拝し、後に清盛により厳島神社とともに再建されたという<ref>{{Cite web|publisher=亀山神社|url=http://www.kameyama-jinja.com/rekisi.html|title=亀山神社の歴史|accessdate=2017-01-11}}</ref>。工事には連日数千人規模で行われ莫大な費用を要した<ref name="ndl960989" />。工事は思ったように進まなかった。

::工事はあと少しで完成しようとしていたが、日は沈み観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと日は再び昇った。これで工事は完成した<ref name="nikkaibo" /><ref name="livinghiroshima100235" />。
::沈む夕日を呼び戻し、1日で開削したとする伝説もある<ref name="yomiuri20150920" />。 ---- 清盛の日招き伝説

::清盛は厳島神社の巫女に恋慕していた。巫女は神社繁栄のため清盛に、瀬戸を開削したら意に従う、と思わせぶりな返答をした。清盛は完成にこぎつけたが、巫女は体を大蛇に変えこの瀬戸を逃げた。清盛は舟で追ったが逆潮で進まなかった。怒った清盛は船の舳先に立って海を睨みつけると潮の流れが変わり船を進めた。 ---- 清盛のにらみ潮伝説<ref name="ndl1908953" /><ref name="livinghiroshima100235" /><ref>{{Cite web|publisher=RCCラジオ 見てみてラジオカー|url=http://blog.rcc.jp/sp/?itemid=11379|title=中学生パワーを吸収しました!|accessdate=2017-01-11}}</ref>

工事安全祈願のために[[人柱]]の代わりに一字一石の[[経石]]を海底に沈めたと言われ、その地に石塔を建立、これが清盛塚である<ref name="livinghiroshima100235" /><ref name="kmsnaka">{{Cite journal|和書|author1=中邨末吉|publisher=KMS|journal=月刊くれえばん 2011年8月号|title=音戸瀬戸開削の謎 傳説の中の清盛|date=2011}}</ref>。音戸とはこの清盛の御塔が由来とも言われている<ref name="nikkaibo" /><ref name="ndl1257706" />。他にも、警固屋(けごや)はこの工事の際に飯炊き小屋=食小屋が置かれたことから<ref name="jk103" />、音戸町引地は小淵を掘削土で埋めた場所<ref name="ndl1908953" />、と言われている。

清盛は1181年([[治承]]5年)に死ぬが、日招きが災いしたとも言われている<ref name="livinghiroshima100235" />。

==== 真偽 ====
この話は古くから真偽は疑われている<ref name="kmsnaka" /><ref name="ndl1257706" />。大きな要因として、当時の朝廷の記録および清盛の記録にこの工事のことが全く記されていないためである<ref name="ndl1257706" /><ref name="nikkaibo" /><ref name="jk103" /><ref name="kmsnaka" />。

清盛が[[安芸国|安芸守]]であったこと、厳島神社を造営したこと、[[大輪田泊]](現[[神戸港]])や瀬戸内の航路を整備した事実があり、この海峡両岸一帯の荘園“安摩荘”は清盛の弟である[[平頼盛]]が領主であった{{Refnest|group="注"|のち1179年(治承3年)頼盛は厳島神社に寄進している<ref>{{Cite book|和書|author=沢井常四郎|publisher=三原図書館|title=芸備の荘園 |url ={{NDLDC|1045356}}|date =1941|page=51|accessdate =2017-01-11}}</ref>。}}ことから、この海峡に清盛の何らかの影響があった可能性は高い<ref name="ndl1257706" /><ref name="jk103" /><ref name="kmsnaka" />。記録がないのは、[[源氏]]による[[鎌倉幕府]]が成立して以降[[平氏]]の歴史が消去されていったためと推察されている<ref name="kmsnaka" />。地元呉市ではこの伝説は事実として語られている<ref name="koc" />。

一方で、偽説であるとする根拠はいくつかある。上記の通り、地理学的に考察するとそもそもつながっていなかったとする説がある。日本全国に点在する日招き伝説の起源は[[劉安]]『[[淮南子]]』内の説話で、そこから広まったことが定説となっている<ref name="koc" /><ref>{{Cite journal|和書|author1=小野地健|publisher=神奈川大学|journal=人文研究 (神奈川大学人文学会)158巻 >|url=http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/3597|format=PDF|title=「日招き伝承」考|date=2005|accessdate=2017-01-11}}</ref>。にらみ潮も『淮南子』の中に同じような話がある<ref name="koc" />。人柱の代わりに小石に一切経を書いたという伝承は、『[[平家物語]]』では[[経が島]]のことである<ref name="ndl1257706" /><ref name="jk103" /><ref>{{Cite web|publisher=神戸市|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/furusato/kyogashima.html|title=平清盛と神戸 経ヶ島(きょうがしま)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

文献で見ると、1389年([[康応]]元年)[[今川貞世]]『[[足利義満|鹿苑院殿]]厳島詣記』にはこの海峡を通過した情景は書かれているが清盛のことは一切書かれておらず、現在もこの地に残る清盛塚にある[[宝篋印塔]]が室町時代の作であることから、この伝説が単なる作り話であるならば室町ごろに成立したものと考えられている<ref name="jk103" />。時代が下ると、1580年([[天正]]8年)厳島神社神官[[棚守房顕]]『房顕覚書』に「清盛福原ヨリ月詣テ在、音渡瀬戸其砌被掘」、安土桃山時代に書かれた[[平佐就言]]『[[毛利輝元|輝元公]]御上洛日記』には「清盛ノ石塔」が書かれている<ref name="jk103" /><ref name="koc" />。この話が広く流布したのは江戸時代後期のことで、評判の悪かった清盛が[[儒学者]]によって再評価される流れとなったことと寺社参詣の旅行ブームの中でのことである<ref name="koc" />。中国山地[[壬生の花田植]]にこの伝説の田植え歌があることからかなり広い範囲で伝播していたことがわかっている<ref name="koc" />。この地の地名起源と清盛(平家)伝説とが結びついた話はこうした中で文化人や地元民が創作したものと推定されている<ref name="koc" />。ただ近代では、清盛伝説は大衆文化での人気題材にはならなかったこと、代わって軍人など新たなヒーローが好まれたことなどから、この伝説は全国には伝播しなかった<ref name="koc" />。

=== 中世の勢力 ===
中世、瀬戸内海の島々は荘園化が進められ、[[畿内]]に租税が船で運ばれていった<ref name="shidaikyo">{{Cite journal|和書|author1=濱田敏彦|publisher=日本私立大学協会|journal=教育学術新聞 第2299号|url=https://www.shidaikyo.or.jp/newspaper/online/2299/8_1.html|title=海・島が織りなす瀬戸内海の歴史 ~芸備地方を中心に~|date=2008|accessdate=2017-01-11}}</ref>。航路の難所では、航行の安全を確保するとして[[水先人]]が登場しそして警固料(通行料)を取るようになった<ref name="kms" /><ref name="shidaikyo" />。これが警固衆([[水軍]])の起こりである。

[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、警固屋は[[警固屋氏]]が支配し、周辺の豪族とで呉衆と呼ばれた連合組織を形成していた<ref name="kmskido" /><ref name="kchistorysimomukai">{{Cite journal|和書|author1=下向井龍彦|publisher=呉市史編纂委員会|journal=呉市制100周年記念版 呉の歴史|title=第三章 中世の呉|date=2011}}</ref>。呉衆は周防守護[[大内氏]]の傘下にあり[[大内水軍]]として各地を転戦している<ref name="kchistorysimomukai" /> 。ただ『[[芸藩通志]]』には警固屋の城は宮原隼人の居城であると示されていることから、警固屋氏は没落したことになる。

『鹿苑院殿厳島詣記』には、音戸の瀬戸に入った[[足利義満]]の前に大内氏傘下[[多賀谷氏]]の某が来て[[大内義弘]]が遅参している理由を義満に弁明したことが書かれている。

[[ファイル:Nomimunekatu01.jpg|200px|right|thumb|乃美賢勝の子、[[乃美宗勝]]。[[毛利水軍]]の主力として各地を転戦した。]]
一方で倉橋島北側の音戸町は当時「波多見島」と呼ばれ、[[矢野城]](現[[広島市]][[安芸区]])を根城とした大内氏傘下[[野間氏]]が支配し、瀬戸城(あるいは波多見城)をその拠点とした<ref name="kms" /><ref name="ondohistory">{{Cite book|和書|author = 下向井龍彦|title = 音戸町誌 第3節 中世の音戸|publisher=音戸町誌編纂検討委員会|date = 2005}}</ref>。1421年([[応永]]28年)野間氏は[[竹原]][[小早川氏]]と縁組を結び、嫁がせた娘の扶養料として一代限りの期限付きで島を譲渡した<ref name="kms" /><ref name="ondohistory" />。のちに野間氏は援助の見返りとして小早川氏に島を永久譲渡した<ref name="kms" /><ref name="ondohistory" />。上記の清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であること、塚がある地は建立当時友好関係にあった野間氏と小早川氏に関係する縄張りであることから、その建立に2者{{Refnest|group="注"|小早川氏の本姓は[[桓武天皇|桓武]]平氏[[平良文|良文流]][[土肥氏]]庶流。}}が関わっていると推定されている<ref name="kms" />。

1466年([[文正]]元年)小早川氏は[[乃美氏]]に波多見島を守らせ瀬戸城主とし、乃美氏は瀬戸姓を名乗るようになる<ref name="ondohistory" />。同年、野間氏は約定を破り波多見島へ出兵、これにより小早川氏との対立が明確なものとなった<ref name="ondohistory" />。2者は共に大内氏傘下の関係にあり、2者の対立を大内氏が治めたが、[[応仁の乱]]のどさくさに紛れ野間氏は出兵し瀬戸城を占拠する<ref name="ondohistory" />。小早川氏が奪い返した後、大内氏はこの紛争に介入し波多見島は2者による分割統治という妥協案を飲ませた<ref name="ondohistory" />。

1523年([[大永]]3年)大内氏と対立していた出雲[[尼子氏]]が安芸に侵攻してくると、再び野間氏と小早川氏との抗争が活発化した<ref name="kms" /><ref name="ondohistory" />。1525年(大永5年)小早川氏の瀬戸賢勝([[乃美賢勝]])が野間氏を呉から追い出し、これ以降波多見島は[[小早川水軍]]の拠点の一つとなった<ref name="kms" /><ref name="ondohistory" />。

伝承によると、清盛塚の周りの石垣は[[小早川隆景]]が整備したと言われており、そのことを記した碑が塚内に建っている。

=== 近代 ===
{{ external media
| topic = 中国放送(RCC)
| align =
| width = 250px
| video1 = [http://www.rcc.net/prewar-film/pref_hiroshima_content.htm ひろしま戦前の風景] - 戦前の映像がある。
}}
[[ファイル:Ondo no Seto 1947.jpg|250px|right|thumb|1947年。海峡周辺に砂浜が形成されているのがわかる。右上に[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、左端に[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]の陰影が見える。]]

近代に入ると、[[大日本帝国海軍|旧海軍]]により[[呉鎮守府]]設置が決まると軍港として大きく発展した<ref name="ndl960989" />。近代において、この地は軍港の南側の入口であり、舟場であり漁師町であり、商家の土蔵や料理屋が並び賑やかな港町を形成していた<ref name="ndl962906">{{Cite book|和書|author = 宮地嘉六|title = 或る職工の手記|publisher=聚英閣|date = 1920|url =http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962906|pages=95-98|accessdate = 2017-01-11}}</ref>。そして呉鎮や当時東洋最大規模となった[[呉海軍工廠]]が置かれた呉市へ、倉橋島の住民は出稼ぎに出る<ref name="ctg018003_189">{{Cite journal|和書|author1=西亀正夫|publisher=(京都大学)|journal=地球 第18号|title=呉市の前面、その経済形態の特相|url=http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/184081/1/ctg018003_189.pdf|format=PDF|date=1932|accessdate=2017-01-11}}</ref>ためここを渡船している。昭和初期、倉橋島の北側である渡子島村では2割が交通業(渡船の操船など)に従事していた記録が残る<ref name="ctg018003_189" />。

また、警固屋の南側にある標高218mの高烏山には、1901年(明治34年)軍港を守る目的として[[大日本帝国陸軍|旧陸軍]]により呉要塞([[広島湾要塞]])「高烏砲台」が設置された<ref name="nihonisan-bunkazai-takagarasuhoudai">{{Cite web|publisher=呉市|url=https://www.city.kure.lg.jp/site/kure-japanheritage/nihonisan-bunkazai-takagarasuhoudai.html|title=高烏砲台跡|accessdate=2017-01-11}}</ref>。のちに旧海軍に移管され<ref>{{Cite sign |title=高烏砲台案内板|type=説明板|publisher=呉市|location=音戸の瀬戸公園 }}</ref>、28センチ[[榴弾砲]]6門が装備された<ref name="nihonisan-bunkazai-takagarasuhoudai" />。[[呉軍港空襲]]の最終局面では、航行が難しくなった旧海軍の艦艇が[[浮き砲台]]として周辺海域に配置され、アメリカ軍はそれを目標に攻撃している<ref>{{Cite web|publisher=呉戦災を記録する会|url=http://kure-sensai.net/Kuushuu/KureOki724/KureOki724.htm|title=呉沖海空戦|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

[[ファイル:Japanese battleship Ise burning at Kure 28 July 1945.jpeg|250px|left|thumb|爆撃を受ける[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]。右が倉橋島で左の海峡が音戸の瀬戸、左が呉市本土。左端の山に高烏砲台があるがこれには写っていない。また写真左奥、[[情島 (広島県)|情島]]の沖に[[日向 (戦艦)|日向]]の姿も確認できる]]{{-}}

== 文化 ==
=== 音戸の舟唄 ===
{{ external media
| topic = NHK新日本風土記アーカイブス
| align =
| width = 250px
| video1 = [http://www2.nhk.or.jp/archives/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004380078_00000  音戸の舟唄]
}}
日本の著名な舟唄の一つ{{Refnest|group="注"|地元では「日本三大舟唄」と言われている<ref name="asahi20160105" />。大阪『淀川三十石舟唄』山形『[[最上川舟唄]]』と共に三大舟唄であるとする説もある。}}。いつごろからか船頭の舟唄が作られた<ref name="hb287">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=287|title=音戸の舟唄(おんどのふなうた)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。江戸時代には歌われていたとされ、渡船の近代化により歌われなくなっていったが、昭和30年代に[[高山訓昌]]が編曲したものが今日の音戸の舟唄となり、昭和39年保存会を設立し、歌い継がれている<ref>{{Cite web|publisher=ポーラ伝統文化振興財団|url=http://www.polaculture.or.jp/promotion/thickbox/parson_data33_07.html?sc=_map|title=音戸の舟唄保存会(おんどのふなうたほぞんかい)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。
{{Quotation|
船頭可愛や音戸の瀬戸は 一丈五尺の艪がしわる

船頭可愛いと沖行く船に 瀬戸の女郎衆が袖濡らす<br />
泣いてくれるな出船の時にゃ 沖で艪櫂の手が渋る<br />
浮いた鴎の夫婦の仲を 情け知らずの伝馬船<br />
安芸の宮島廻れば七里 浦は七浦七恵比寿<br />
ここは音戸の瀬戸清盛塚の 岩に渦潮ドンとぶち当たる
|音戸の舟唄|<ref>歌詞は著作権消滅、歌曲のみJASRACが全信託。著作権に関するデータはJASRACの[http://www2.jasrac.or.jp/eJwid/ 作品データベース検索サービス]にて確認。</ref>}}
=== 音戸清盛祭 ===
5年あるいは6年に1度[[3月3日 (旧暦)|旧暦3月3日]]に開催<ref name="simubun-2">{{Cite web|publisher=呉市|url=https://www.city.kure.lg.jp/site/bunkazai/simubun-2.html|title=音戸清盛祭 |accessdate=2017-01-11}}</ref><ref name="hb286">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=286|title=音戸清盛祭(おんどきよもりまつり)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

清盛を偲んで行われていた[[念仏踊り]]が祭りの起こりと言われている<ref name="simubun-2" />。これが[[天保]]年間(1830年から1844年)に[[時代行列]]へと変わった<ref name="simubun-2" />。現存最古の記録は天保5年(1834年)[[7月16日 (旧暦)|旧暦7月16日]]・17日に行われたものになる<ref name="hb286" />。戦後のことである1952年から開催費用が原因でしばらく休止し、1979年呉市無形文化財に指定、1991年に祭りとして復活した<ref name="simubun-2" /><ref name="hb286" /><ref name="lh100232">{{Cite web|publisher=リビングひろしま|url=http://www.livinghiroshima.com/?cn=100232|title=ふるさと歴史散歩 平清盛ゆかりの地|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

太鼓を鳴らしながら、毛槍の”[[奴振り|投げ奴]]”、開削工事者に扮した”瀬堀”、大名の所持品を運ぶ”挟箱”、道中奴や道化踊りを交えた約500人が音戸の瀬戸沿いの道をねり歩く<ref name="hb286" /><ref name="lh100232" /><ref>{{Cite web|publisher=47NEWS|url=http://www.47news.jp/photo/406986.php|title=児童ら満を持し、音戸清盛祭|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

=== 音戸清盛太鼓 ===
1992年[[音戸町]]制60周年記念事業として、清盛と音戸をテーマに作られた<ref>{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=288|title=音戸清盛太鼓(おんどきよもりだいこ)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

=== 文学 ===
[[ファイル:Hiroshige II Aki Ondo.jpg|thumb|250px|right|[[歌川広重 (2代目)|二代目広重]]『諸国六十八景 安芸音戸』[[文久]]2年(1862年)。なおこの地は[[瀬戸内海式気候]]に属し雪が降ること自体が稀である。]]
{{Quotation|船玉の ぬさも取あへず おち滝つ 早きしほせを 過にける哉|今川貞世|<ref name="jk103" />}}
今川貞世は1389年(康応元年)『鹿苑院殿厳島詣記』にて一句詠んでいる。

{{Quotation|舟宿暗門 憶曾随家君泊此 今十一年矣<br />
 篷窓月暗樹如烟<br />
  拍岸波声驚客眠<br />
   黙数浮沈十年事<br />
    平公塔下両維船|頼山陽|}}
[[頼山陽]]は漢詩を残している。これは現在、おんど観光文化会館うずしおに掲げられている。

{{Quotation|君よ 今昔之感 如何|吉川英治|<ref name="jk103" />}}
[[吉川英治]]は『[[新・平家物語]]』を書くにあたり当地を取材に訪れ、瀬戸を見おろす丘に立ち一言残している<ref name="hb4601">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=460|title=君よ 今昔之感 如何(きみよ こんじゃくのかん いかん )|accessdate=2017-01-11}}</ref>。
音戸の瀬戸公園にこれが吉川直筆で書かれている「吉川英治石碑」が建立されている<ref name="hb4601" />。

{{Quotation|天耕の 峯に達して 峯を越す|山口誓子|<ref name="hb458">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=458|title=青銅(せいどう)|accessdate=2017-01-11}}</ref>}}
{{Quotation|寒港を 見るや軍港 下敷に|橋本多佳子|<ref name="hb458" />}}
[[山口誓子]]の方は句集『青銅』の中にあるもので、現在の音戸の瀬戸公園付近から対岸の倉橋島を見て詠んだ<ref name="hb458" />。山口の弟子にあたる[[橋本多佳子]]のものは呉港を見て詠んだもの<ref name="hb458" />。共に音戸の瀬戸公園に句碑が建立されている<ref name="hb458" />。

{{Quotation|夕空のもともろともにしづまれり瀬戸に見さくるにし東の海<br />
 瀬戸いでて落ちあふ潮は夕凪の海にうごきて渦ひろげゆく |葛原繁|<ref>{{Cite web|publisher=ひろしま観光ナビ|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/sys/data?page-id=7244|title=葛原繁歌碑|accessdate=2017-01-11}}</ref>}}
[[葛原繁]]歌碑も音戸の瀬戸公園に建立されている。

=== ロケ地 ===
* 1957年『島』 - 劇作家[[堀田清美]]が終戦後の倉橋島を舞台に[[被爆者]]の実像を描いた戯曲で、1957年[[劇団民藝]]で初公演した。1958年第4回新劇戯曲賞([[岸田國士戯曲賞]])を受賞している<ref>{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=462|title=島(しま)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。
* 2012年『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』
* 2013年『[[たまゆら (アニメ)|たまゆら]]』

== 周辺 ==
''ここでは周辺の観光施設について列挙する。''
=== おんど観光文化会館 ===
清盛塚の西側、音戸大橋西詰にある施設。4階建。音戸の瀬戸に関する資料が展示されており、瀬戸を望む展望台やレストランがある<ref>{{Cite web|publisher=呉市|url=https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/67/m000156.html|title=おんど観光文化会館 うずしお|accessdate=2017-01-11}}</ref>。
* {{Official|http://ondo-uzusio.jp/}}
* {{Facebook|ondo.uzushio|公式 Facebook}}

=== 音戸の瀬戸公園 ===
[[ファイル:Ondo Strait 01.jpg|thumb|200px|right|音戸の瀬戸公園から望む]]
音戸大橋東詰から高烏台まで続く、敷地22.1[[ヘクタール|ha]]の公園。高低差は約200m。上までの道に沿って句碑が点在している<ref>{{Cite web|publisher=音戸うずしお温泉|url=http://www.shion-spa.jp/asset/00032/site_shared/20160223203121772_1.pdf|format=PDF|title=警固屋旧跡 遺跡探訪マップ1|accessdate=2017-01-11}}</ref>。そして平清盛の開削伝説にちなんだ碑・像が点在している。
* 音戸大橋付近の駐車場は元々料金所が置かれていたところで、無料開通した際に撤去された。道路沿いや法面を中心に約8,300本の[[ツツジ]]が植えられ、見頃となる春には観光客で賑わう<ref name="ckm000017">{{Cite web|publisher=呉市|url=http://www.city.kure.lg.jp/soshiki/67/m000017.html|title=音戸の瀬戸公園|accessdate=2017-01-11}}</ref>。
* 中腹にはさくらの里と[[ツバキ|つばき]]園がある。園内には桜が2,300本植えられ呉市のおける桜の名所の一つとなっている<ref name="ckm000017" />。
* 上部が高烏台になる。高烏の名の由来は、[[神武東征]]において[[神武天皇]]を案内していた[[八咫烏]]が途中羽根を休めた地という伝承から<ref name="livinghiroshima100235" />。高烏砲台跡として、砲台基礎や弾薬庫の一部、兵舎跡が現存している<ref>{{Cite web|publisher=呉市|url=https://www.city.kure.lg.jp/site/kure-japanheritage/nihonisan-bunkazai-takagarasuhoudai.html|title=高烏砲台跡|accessdate=2017-01-11}}</ref>。なお火薬庫のみ[[入船山記念館]]に移設されている<ref>{{Cite web|publisher=呉市|url=https://www.city.kure.lg.jp/site/kure-japanheritage/nihonisan-bunkazai-kayakuko.html|title=旧高烏砲台火薬庫(入船山記念館)|accessdate=2017-01-11}}</ref>。そして開削800周年を記念して、立烏帽子直垂姿の平清盛が日没の方向に[[扇]]を向けて立つ姿の2.7mの銅像「日招像」が[[1967年]](昭和42年)7月に建立された<ref name="jk103" /><ref name="livinghiroshima100235" />。

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音戸大橋のツツジ.JPG|音戸の瀬戸公園のツツジ。
Grill ONDO Bridge.jpg|音戸の瀬戸公園内の飲食店。
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=== 日招き広場 ===
[[ファイル:Ondo bridge 123.jpg|200px|right|thumb|第三音戸大橋から望む]]
2013年第二音戸大橋が整備された際に、その倉橋島側に観光用のコミュニティー広場と通行止の際の転回場を兼ねた日招き広場、正式名称坪井コミュニティ広場が整備された<ref name="chugoku20121224">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.47news.jp/photo/556570.php|title=第2音戸大橋に眺望歩道橋|date=2012-12-24|accessdate=2017-01-11}}</ref>。

北側が0.207ha、南側が0.117ha<ref name="chugoku20121224" />。2つの広場を繋ぐ歩道橋は初代の音戸大橋を似せて作られたもので第三音戸大橋の愛称が付けられている<ref name="chugoku20121224" />。

== ギャラリー ==
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Gthumb.svg|警固屋側南口、清盛塚に対面する形にある灯籠。全高約9.3m。建立時期および由来共に不明<ref>{{Cite news|title =音戸の瀬戸の灯籠よみがえる| newspaper =中国新聞 | date =2009-01-09}}</ref>。
Ondo Bridge 20130303-04.JPG|音戸大橋
Ondo Bridge 20130303-05.JPG|第二音戸大橋音戸側から南方向を望む。
Ondo Seto 音戸の瀬戸8.jpg|音戸大橋と第二音戸大橋
Ondo Seto 音戸の瀬戸2.jpg|第二音戸大橋
</gallery>


== 脚注 ==
*瀬戸南端の倉橋島側岩礁上に清盛の功績を称え供養する[[宝篋印塔]]が[[1184年]]([[元暦]]元年)に建てられている。これを清盛塚といい、1951年(昭和26年)には県史跡に指定されている。
{{脚注ヘルプ}}
;注釈
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;出典
==注==
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== 外部リンク ==
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ondo-no-seto|音戸の瀬戸}}
{{commonscat|Ondo-no-seto}}
* [[呉市にある日本遺産に関連する文化財一覧]]
* [http://www.kurenavi.jp/html/meisho_ka005.html 音戸の瀬戸] - くれナビ(呉市運営観光サイト)
* [[隠戸 (給油艦)]]
* [http://www6.kaiho.mlit.go.jp/kure/b_safety_navigation/b_shousai/b-ondo_kouhou.html 音戸瀬戸の航法]・[http://www6.kaiho.mlit.go.jp/kure/livecamera/index.html ライブカメラ] - [[第六管区海上保安本部]]
* [http://www.rcc.net/prewar-film/pref_hiroshima_content.htm ひろしま戦前の風景] - 中国放送(RCC)。戦前の映像がある。


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2017年1月18日 (水) 03:09時点における版

座標: 北緯34度11分50秒 東経132度32分18秒 / 北緯34.19722度 東経132.53833度 / 34.19722; 132.53833

音戸の瀬戸の位置(日本内)
音戸の瀬戸
音戸の瀬戸
周辺。ちなみに宮島(厳島)は音戸の瀬戸から左上の廿日市市の海上に浮かぶ大きな島。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)。第二音戸大橋架橋前。

音戸の瀬戸(おんどのせと)は、広島県呉市にある本州倉橋島の間に存在する海峡のことである。

この瀬戸とは海峡を意味する[1]。瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路、平清盛が開削したという伝説、風光明媚な観光地として知られている[2]

地理

概要

映像外部リンク
第六管区海上保安本部
音戸の瀬戸ライブカメラ

本州側の呉市警固屋と倉橋島の呉市音戸町との間にある海峡で、北側が警固屋7丁目と音戸町三軒屋ノ鼻、南側が警固屋町鼻崎と音戸町清盛塚 [3]。ほぼ南北に伸びる海峡で、南北方向約1,000m、幅は北口で約200m南口の狭いところで約80m [4][5][6]

東海地方伊良湖水道の古い船頭歌に「阿波の鳴門か音戸の瀬戸か伊良湖度合が恐ろしや」と歌われている[7]ように、海の難所として古くから広く知られていた。広島湾から安芸灘へ抜ける最短コースであるため船の通行量はとても多い。安芸群島倉橋島能美島などを離島架橋で繋ぐ出発点でもある。

古来は砂州あるいは点在する岩礁を伝って歩いて渡れていたとする伝承がいくつもあり、昭和初期までは干潮時には海岸に沿って砂浜が現れていた[8]。一方で地理学的に見ると古来からまったく繋がっていない海峡であり交通の要所であったとして否定されている[9]。地形学で見ると

  1. 海底の地盤は花崗斑岩を中心とした堅牢な岩で構成されているため、侵食されにくく、かつ人力で開削するには困難である[9]
  2. この海峡の南北に海釜、つまり海流で削れた窪地があるが、その大きさから縄文時代には現在より早い海流であったことがわかっている[9]
  3. 縄文時代から現在の安定した海水面が形成されるまで、この海峡が陸地化するほどの変動した根拠が見つからない[9]
  4. 地形の経年変化と海流の関係性でみると常に土砂堆積作用より浸食作用の方が大きくなるため、過去に小島や砂州などが形成された可能性が低い[9]
  5. 海峡を埋め尽くすような土石流が発生した痕跡が発見されていない[9]

歴史地理学でみると

  1. 古代における瀬戸内海の主流航路は“地乗り”と呼ばれた山陽地方陸地側を沿って航行するものであった[9][10]
  2. 音戸に「渡子」という地名があり、これは7世紀から9世紀に交通の要所の置かれた公設渡船の“渡し守“に由来する[9][11]
  3. 「警固屋」はその名の通り“警固のための詰所“が置かれた地と考えられる[5][12]
  4. この周辺には「鍋」「烏小島」「亀ヶ首」「舞々尻」(かたつむり)「蕪崎」(カブ)などの名を冠した岩礁や半島が多くあるが、これらは当時の船乗りが航路の目印としてわかりやすくするため名付けたものと考えられる[9][11]

潮流

青が潮流、赤が潮位。

瀬戸内海広島湾周辺の水道あるいは瀬戸は、全国的に見ても潮流が早く、潮の干満で周期的に潮流の方向が変わる[13]。その中でもここでは更に細かく流れが変化する特異な狭水道である[13]。この特異な潮流から海の難所として知られ、「清盛のにらみ潮伝説」が生まれ、『音戸の舟唄』では「一丈五尺のがしわる[注 1]」と歌われている。

概況[14]
潮流 経過時間
目安(h)
潮汐
(呉港)
- 0
  • 干潮時間から約1時間半
    ~2時間後に南流が始まる。
↓南流↓
(ピーク)
1.5
  • 南流1度目のピーク。
  • 大潮期で約4kn、小潮期2~3kn。
↓南流↓
(停止あるいは↑逆流↑)
3.5
  • ピーク時から徐々に減じる。
  • 場合によっては停止あるいは逆流する。
↓南流↓
(ピーク)
4から5 満潮
  • 南流2度目のピーク。
  • 大潮期で約3~4kn、小潮期2kn。
- 6
  • 満潮時間から約1時間半
    ~2時間後に北流が始まる
↑北流↑
(ピーク)
7.5
  • 北流1度目のピーク。
  • 大潮期で約4kn、小潮期2~3kn。
↑北流↑
(停止あるいは↓逆流↓)
9.5
  • ピーク時から徐々に減じる。
  • 場合によっては停止あるいは逆流する。
↑北流↑
(ピーク)
10から11 干潮
  • 北流2度目のピーク。
  • 大潮期で約3~4kn、小潮期2~3kn。
- 12
  • 以上を繰り返す。

交通

音戸瀬戸航路

北口
北口
南口。このように北側から来る船舶を目視できない。
南口。このように北側から来る船舶を目視できない。

可航幅は、本航路が幅60m(最浅水深5m)、その両外側に補助航路(水深3m)が設けられている[6][4]。南北双方とも橋梁の下を通ることになり、北口が満潮時桁下39.0mの第二音戸大橋、南口が満潮時桁下23.5mの音戸大橋になる。現在の航路は1957年までに運輸省(現国土交通省)が掘削整備したもので、1976年開発保全航路に指定されている[4]

北側の広島港および呉港から南側の安芸灘を最短距離で結び、関西および四国地方へと繋がる航路の中にある[4]。貨物船・油送船などの内航小型船を中心に、漁船やプレジャーボートの他、高速旅客船、そして低速の台船・曳船、などが航行する[2]。1日あたりの船舶交通量は1960年代で約700隻[15]、1990年代で約500隻[2][6]

狭い可航幅、多種多様な船舶が通る交通量の多さ、強くかつ複雑な潮流に加え、南側は約90度変針して幅500m×長さ1,000mの航路筋があり更に見通しは極端に悪いことから、危険な航路である[3][2][6]。日本における代表的な右側端航行困難な狭水道である[16]。そうした状況でありながら、海上保安庁の周知もあり他の狭水道とくらべて海難事故は少ない[3][2][6]。海保が規制している海域の航法は以下の通り。

航法。黒丸が灯浮標。青星印の下側が清盛塚、上側が音戸灯台。
  1. A線を横切って航行した、又は航行しようとする総トン数5トン以上の船舶は、
    音戸瀬戸北口灯浮標が設置されている地点を左げんにみて航行すること
  2. B線を横切って航行した、又は航行しようとする総トン数5トン以上の船舶は、
    音戸瀬戸南口灯浮標が設置されている地点を左げんにみて航行すること — 平成22年4月1日海上保安庁告示第92号概要、[17]
  1. 瀬戸北口と南口の灯浮標を左に見て航行すること
  2. 速力は、できる限り落として航行すること
  3. 狭水道で行き会う場合は、早めに右転し左げん対左げんで航過すること
  4. 200トンを越える船舶は清盛塚から音戸灯台までの間は他船を追越したり、並航して航行することはさけること — 昭和50年2月20日呉海上保安部、[17]

渡船・橋梁

音戸大橋と音戸渡船
音戸大橋と音戸渡船
第二音戸大橋をバックに航行する渡船
第二音戸大橋をバックに航行する渡船
渡船

現在の渡船「音戸渡船」あるいは「音戸の渡し」は、航路約90mで渡航時間は約2分、日本一短い海上定期航路と言われている[18][19]。乗客一人でも運行し、桟橋に立っていれば対岸に船がいても迎えにきてくれる[18]。そのため時刻表はなく、午前5時から午後9時の間いつでも運行している[18]

橋梁
沿革

幅の狭い海峡であるが強い潮流であるため泳いで渡ることができなかったことから[20]、古くから渡船という手段が用いられた。現在の音戸渡船の形は江戸時代からと言われている[19]。そしていつごろからか急流から舟歌『音戸の舟唄』が作られ歌われている[21]。戦後は、1日あたり平均250往復、6,000人から7,000人、軽車両2,000台が利用していた[22]。渡船は24時間開かれ、4隻で船頭10人以上で運航していた[19]

こうしたことから、安全な交通手段としてそして音戸町発展のため様々な計画が上がる中で離島架橋が決まり、1961年当時は有料橋として音戸大橋が架橋した[22]。1974年に無料化し現在に至っている[15]。ただこの音戸大橋は歩行者には不便な橋であったため、音戸渡船はそのまま続き、更に広域交通網整備、特に安全確保と災害時の緊急道路として2013年第二音戸大橋が架橋された[23]

一方、音戸渡船の客はこうした中で2010年代で1日あたり約200人、架橋前の1/30ほどにまでに落ち込んだ[19]。音戸大橋より利便性が高かったため、通学する高校生にとっては必要であった[24]。歩道が整備されている第二音戸大橋架橋が決まると必要性が減ることから、地元住民により渡船を守ろうとする動きが始まり、呉市は運営に補助金をだし、更に地元では観光展開しアピールに努めている[19]

歴史

隠渡

音戸という地名の由来の一つに「隠渡」がある。これはこの海峡を干潮時に歩いて渡ることができたことから隠渡と呼ぶようになったという[2]

伝承によれば音戸には、奈良時代には人が住んでいたと伝えられている[12]。当時海岸はすべて砂浜で、警固屋と幅3尺(約0.9m)の砂州でつながっていた[12]。その付近の集落を“隠れて渡る”から隠渡あるいは隠戸と呼んだ[12]。そしてここを通行していた大阪商人が書きやすいようにと隠渡・隠戸から音戸を用いだしたのがこの名の始まりであるという[12]。その他にも、平家の落人が渡ったことから、あるいは海賊が渡ったことから、呼ばれだしたという伝承もある[25]

瀬戸内海を横切る主要航路は、朝廷によって難波津から大宰府を繋ぐものとして整備された[26]。古来の倉橋島南側の倉橋町は「長門島」と呼ばれその主要航路で”潮待ちの港”が存在し、更に遣唐使船がこの島で作られたと推察されているほど古来から造船の島であった[1][27]。音戸北側に渡子という地名があり、これは7世紀から9世紀に交通の要所の置かれた公設渡船の“渡し守“に由来することから、古来からこの海峡には渡船があったと推定されている[9][11]

つまり、遅くとも奈良時代には倉橋島の南を通るルート、そして北であるこの海峡を通るルートが成立していたと考えられている[1][28]

清盛伝説

平清盛
戦前の県史跡「伝清盛塚」。伝承では1184年(元暦元年)建立されたと言われている[29]。中の宝篋印塔は高さ2.05mで室町時代の作なのは確定している[30]。塚内のクロマツは「音戸の清盛松」と呼ばれ、伝承では枯死したものを1719年(享保4年)植え替えたと言われている[31]。現在は護岸と接しているが、かつてはこのように独立した小島であった。

伝承

この海峡で有名なのは永万元年(1165年)旧暦7月10日に完成した平清盛が開削したとする伝説である[31]。この海峡はつながっていて、開削するに至った理由は、厳島神社参詣航路の整備として、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われている[32]

この地に着いた時、短気な清盛は倉橋島を大回りするのをバカバカしく思いここを開削すると下知した。家臣は人力では無理ですと答えた。清盛は「なに人力に及ばすとや、天魔をも駆るべく、鬼神をも役すべし、天下何物か人力に依りて成らざるものあらんや、いでいで清盛が見事切り開いて見すべきぞ」と工事を決行した[29]

亀山神社が代拝し、後に清盛により厳島神社とともに再建されたという[33]。工事には連日数千人規模で行われ莫大な費用を要した[29]。工事は思ったように進まなかった。

工事はあと少しで完成しようとしていたが、日は沈み観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと日は再び昇った。これで工事は完成した[2][32]
沈む夕日を呼び戻し、1日で開削したとする伝説もある[27]。 ---- 清盛の日招き伝説
清盛は厳島神社の巫女に恋慕していた。巫女は神社繁栄のため清盛に、瀬戸を開削したら意に従う、と思わせぶりな返答をした。清盛は完成にこぎつけたが、巫女は体を大蛇に変えこの瀬戸を逃げた。清盛は舟で追ったが逆潮で進まなかった。怒った清盛は船の舳先に立って海を睨みつけると潮の流れが変わり船を進めた。 ---- 清盛のにらみ潮伝説[12][32][34]

工事安全祈願のために人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたと言われ、その地に石塔を建立、これが清盛塚である[32][8]。音戸とはこの清盛の御塔が由来とも言われている[2][1]。他にも、警固屋(けごや)はこの工事の際に飯炊き小屋=食小屋が置かれたことから[5]、音戸町引地は小淵を掘削土で埋めた場所[12]、と言われている。

清盛は1181年(治承5年)に死ぬが、日招きが災いしたとも言われている[32]

真偽

この話は古くから真偽は疑われている[8][1]。大きな要因として、当時の朝廷の記録および清盛の記録にこの工事のことが全く記されていないためである[1][2][5][8]

清盛が安芸守であったこと、厳島神社を造営したこと、大輪田泊(現神戸港)や瀬戸内の航路を整備した事実があり、この海峡両岸一帯の荘園“安摩荘”は清盛の弟である平頼盛が領主であった[注 2]ことから、この海峡に清盛の何らかの影響があった可能性は高い[1][5][8]。記録がないのは、源氏による鎌倉幕府が成立して以降平氏の歴史が消去されていったためと推察されている[8]。地元呉市ではこの伝説は事実として語られている[9]

一方で、偽説であるとする根拠はいくつかある。上記の通り、地理学的に考察するとそもそもつながっていなかったとする説がある。日本全国に点在する日招き伝説の起源は劉安淮南子』内の説話で、そこから広まったことが定説となっている[9][36]。にらみ潮も『淮南子』の中に同じような話がある[9]。人柱の代わりに小石に一切経を書いたという伝承は、『平家物語』では経が島のことである[1][5][37]

文献で見ると、1389年(康応元年)今川貞世鹿苑院殿厳島詣記』にはこの海峡を通過した情景は書かれているが清盛のことは一切書かれておらず、現在もこの地に残る清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であることから、この伝説が単なる作り話であるならば室町ごろに成立したものと考えられている[5]。時代が下ると、1580年(天正8年)厳島神社神官棚守房顕『房顕覚書』に「清盛福原ヨリ月詣テ在、音渡瀬戸其砌被掘」、安土桃山時代に書かれた平佐就言輝元公御上洛日記』には「清盛ノ石塔」が書かれている[5][9]。この話が広く流布したのは江戸時代後期のことで、評判の悪かった清盛が儒学者によって再評価される流れとなったことと寺社参詣の旅行ブームの中でのことである[9]。中国山地壬生の花田植にこの伝説の田植え歌があることからかなり広い範囲で伝播していたことがわかっている[9]。この地の地名起源と清盛(平家)伝説とが結びついた話はこうした中で文化人や地元民が創作したものと推定されている[9]。ただ近代では、清盛伝説は大衆文化での人気題材にはならなかったこと、代わって軍人など新たなヒーローが好まれたことなどから、この伝説は全国には伝播しなかった[9]

中世の勢力

中世、瀬戸内海の島々は荘園化が進められ、畿内に租税が船で運ばれていった[38]。航路の難所では、航行の安全を確保するとして水先人が登場しそして警固料(通行料)を取るようになった[11][38]。これが警固衆(水軍)の起こりである。

南北朝時代、警固屋は警固屋氏が支配し、周辺の豪族とで呉衆と呼ばれた連合組織を形成していた[28][39]。呉衆は周防守護大内氏の傘下にあり大内水軍として各地を転戦している[39] 。ただ『芸藩通志』には警固屋の城は宮原隼人の居城であると示されていることから、警固屋氏は没落したことになる。

『鹿苑院殿厳島詣記』には、音戸の瀬戸に入った足利義満の前に大内氏傘下多賀谷氏の某が来て大内義弘が遅参している理由を義満に弁明したことが書かれている。

乃美賢勝の子、乃美宗勝毛利水軍の主力として各地を転戦した。

一方で倉橋島北側の音戸町は当時「波多見島」と呼ばれ、矢野城(現広島市安芸区)を根城とした大内氏傘下野間氏が支配し、瀬戸城(あるいは波多見城)をその拠点とした[11][40]。1421年(応永28年)野間氏は竹原小早川氏と縁組を結び、嫁がせた娘の扶養料として一代限りの期限付きで島を譲渡した[11][40]。のちに野間氏は援助の見返りとして小早川氏に島を永久譲渡した[11][40]。上記の清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であること、塚がある地は建立当時友好関係にあった野間氏と小早川氏に関係する縄張りであることから、その建立に2者[注 3]が関わっていると推定されている[11]

1466年(文正元年)小早川氏は乃美氏に波多見島を守らせ瀬戸城主とし、乃美氏は瀬戸姓を名乗るようになる[40]。同年、野間氏は約定を破り波多見島へ出兵、これにより小早川氏との対立が明確なものとなった[40]。2者は共に大内氏傘下の関係にあり、2者の対立を大内氏が治めたが、応仁の乱のどさくさに紛れ野間氏は出兵し瀬戸城を占拠する[40]。小早川氏が奪い返した後、大内氏はこの紛争に介入し波多見島は2者による分割統治という妥協案を飲ませた[40]

1523年(大永3年)大内氏と対立していた出雲尼子氏が安芸に侵攻してくると、再び野間氏と小早川氏との抗争が活発化した[11][40]。1525年(大永5年)小早川氏の瀬戸賢勝(乃美賢勝)が野間氏を呉から追い出し、これ以降波多見島は小早川水軍の拠点の一つとなった[11][40]

伝承によると、清盛塚の周りの石垣は小早川隆景が整備したと言われており、そのことを記した碑が塚内に建っている。

近代

映像外部リンク
中国放送(RCC)
ひろしま戦前の風景 - 戦前の映像がある。
1947年。海峡周辺に砂浜が形成されているのがわかる。右上に青葉、左端に伊勢の陰影が見える。

近代に入ると、旧海軍により呉鎮守府設置が決まると軍港として大きく発展した[29]。近代において、この地は軍港の南側の入口であり、舟場であり漁師町であり、商家の土蔵や料理屋が並び賑やかな港町を形成していた[41]。そして呉鎮や当時東洋最大規模となった呉海軍工廠が置かれた呉市へ、倉橋島の住民は出稼ぎに出る[42]ためここを渡船している。昭和初期、倉橋島の北側である渡子島村では2割が交通業(渡船の操船など)に従事していた記録が残る[42]

また、警固屋の南側にある標高218mの高烏山には、1901年(明治34年)軍港を守る目的として旧陸軍により呉要塞(広島湾要塞)「高烏砲台」が設置された[43]。のちに旧海軍に移管され[44]、28センチ榴弾砲6門が装備された[43]呉軍港空襲の最終局面では、航行が難しくなった旧海軍の艦艇が浮き砲台として周辺海域に配置され、アメリカ軍はそれを目標に攻撃している[45]

爆撃を受ける伊勢。右が倉橋島で左の海峡が音戸の瀬戸、左が呉市本土。左端の山に高烏砲台があるがこれには写っていない。また写真左奥、情島の沖に日向の姿も確認できる

文化

音戸の舟唄

映像外部リンク
NHK新日本風土記アーカイブス
音戸の舟唄

日本の著名な舟唄の一つ[注 4]。いつごろからか船頭の舟唄が作られた[21]。江戸時代には歌われていたとされ、渡船の近代化により歌われなくなっていったが、昭和30年代に高山訓昌が編曲したものが今日の音戸の舟唄となり、昭和39年保存会を設立し、歌い継がれている[46]

船頭可愛や音戸の瀬戸は 一丈五尺の艪がしわる

船頭可愛いと沖行く船に 瀬戸の女郎衆が袖濡らす
泣いてくれるな出船の時にゃ 沖で艪櫂の手が渋る
浮いた鴎の夫婦の仲を 情け知らずの伝馬船
安芸の宮島廻れば七里 浦は七浦七恵比寿
ここは音戸の瀬戸清盛塚の 岩に渦潮ドンとぶち当たる

— 音戸の舟唄、[47]

音戸清盛祭

5年あるいは6年に1度旧暦3月3日に開催[48][49]

清盛を偲んで行われていた念仏踊りが祭りの起こりと言われている[48]。これが天保年間(1830年から1844年)に時代行列へと変わった[48]。現存最古の記録は天保5年(1834年)旧暦7月16日・17日に行われたものになる[49]。戦後のことである1952年から開催費用が原因でしばらく休止し、1979年呉市無形文化財に指定、1991年に祭りとして復活した[48][49][50]

太鼓を鳴らしながら、毛槍の”投げ奴”、開削工事者に扮した”瀬堀”、大名の所持品を運ぶ”挟箱”、道中奴や道化踊りを交えた約500人が音戸の瀬戸沿いの道をねり歩く[49][50][51]

音戸清盛太鼓

1992年音戸町制60周年記念事業として、清盛と音戸をテーマに作られた[52]

文学

二代目広重『諸国六十八景 安芸音戸』文久2年(1862年)。なおこの地は瀬戸内海式気候に属し雪が降ること自体が稀である。
船玉の ぬさも取あへず おち滝つ 早きしほせを 過にける哉 — 今川貞世、[5]

今川貞世は1389年(康応元年)『鹿苑院殿厳島詣記』にて一句詠んでいる。

舟宿暗門 憶曾随家君泊此 今十一年矣

 篷窓月暗樹如烟
  拍岸波声驚客眠
   黙数浮沈十年事

    平公塔下両維船 — 頼山陽

頼山陽は漢詩を残している。これは現在、おんど観光文化会館うずしおに掲げられている。

君よ 今昔之感 如何 — 吉川英治、[5]

吉川英治は『新・平家物語』を書くにあたり当地を取材に訪れ、瀬戸を見おろす丘に立ち一言残している[53]。 音戸の瀬戸公園にこれが吉川直筆で書かれている「吉川英治石碑」が建立されている[53]

天耕の 峯に達して 峯を越す — 山口誓子、[54]
寒港を 見るや軍港 下敷に — 橋本多佳子、[54]

山口誓子の方は句集『青銅』の中にあるもので、現在の音戸の瀬戸公園付近から対岸の倉橋島を見て詠んだ[54]。山口の弟子にあたる橋本多佳子のものは呉港を見て詠んだもの[54]。共に音戸の瀬戸公園に句碑が建立されている[54]

夕空のもともろともにしづまれり瀬戸に見さくるにし東の海
 瀬戸いでて落ちあふ潮は夕凪の海にうごきて渦ひろげゆく  — 葛原繁、[55]

葛原繁歌碑も音戸の瀬戸公園に建立されている。

ロケ地

周辺

ここでは周辺の観光施設について列挙する。

おんど観光文化会館

清盛塚の西側、音戸大橋西詰にある施設。4階建。音戸の瀬戸に関する資料が展示されており、瀬戸を望む展望台やレストランがある[57]

音戸の瀬戸公園

音戸の瀬戸公園から望む

音戸大橋東詰から高烏台まで続く、敷地22.1haの公園。高低差は約200m。上までの道に沿って句碑が点在している[58]。そして平清盛の開削伝説にちなんだ碑・像が点在している。

  • 音戸大橋付近の駐車場は元々料金所が置かれていたところで、無料開通した際に撤去された。道路沿いや法面を中心に約8,300本のツツジが植えられ、見頃となる春には観光客で賑わう[59]
  • 中腹にはさくらの里とつばき園がある。園内には桜が2,300本植えられ呉市のおける桜の名所の一つとなっている[59]
  • 上部が高烏台になる。高烏の名の由来は、神武東征において神武天皇を案内していた八咫烏が途中羽根を休めた地という伝承から[32]。高烏砲台跡として、砲台基礎や弾薬庫の一部、兵舎跡が現存している[60]。なお火薬庫のみ入船山記念館に移設されている[61]。そして開削800周年を記念して、立烏帽子直垂姿の平清盛が日没の方向にを向けて立つ姿の2.7mの銅像「日招像」が1967年(昭和42年)7月に建立された[5][32]

日招き広場

第三音戸大橋から望む

2013年第二音戸大橋が整備された際に、その倉橋島側に観光用のコミュニティー広場と通行止の際の転回場を兼ねた日招き広場、正式名称坪井コミュニティ広場が整備された[62]

北側が0.207ha、南側が0.117ha[62]。2つの広場を繋ぐ歩道橋は初代の音戸大橋を似せて作られたもので第三音戸大橋の愛称が付けられている[62]

ギャラリー

脚注

注釈
  1. ^ 約4.5mの櫓がたわむ。
  2. ^ のち1179年(治承3年)頼盛は厳島神社に寄進している[35]
  3. ^ 小早川氏の本姓は桓武平氏良文流土肥氏庶流。
  4. ^ 地元では「日本三大舟唄」と言われている[19]。大阪『淀川三十石舟唄』山形『最上川舟唄』と共に三大舟唄であるとする説もある。
出典
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  4. ^ a b c d 開発保全航路”. 国土交通省中国地方整備局. 2017年1月11日閲覧。
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関連項目