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「蒲生峠」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年5月18日 (金) 12:07 (UTC)}}
{{Infobox 峠
|名称 = 蒲生峠
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|画像キャプション =
|標高 = 347.2<ref name="分県ガイド_蒲生峠"/><ref group="注">バイパス開通前の文献では335m、現地看板(1997年設置)では356mなど数値にはばらつきがあるが、比較的新しい2010年の文献の値を採用した。</ref>
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'''蒲生峠'''(がもうとうげ)は、[[兵庫県]][[美方郡]][[新温泉町]]と[[鳥取県]][[岩美郡]][[岩美町]]との間に位置し、両県の県境成す[[峠]]。[[標高]]450メートル。国の[[史跡]]に指定されている。
'''蒲生峠'''(がもうとうげ)は、[[兵庫県]]と[[鳥取県]]とを結ぶ[[峠]]。[[山陰道]]の途上にあり、国の[[史跡]]に指定されている。いまは[[国道9号]]が峠下のトンネルで通過している<ref name="分県ガイド_蒲生峠"/>


== 概要など ==
==概要==
蒲生峠は中国山地の[[牛ヶ峰山]](標高712.8m)の北側の鞍部にあり、峠の頂上は標高335mである。古代に制定された山陰道の道筋にあり、古くは[[但馬国]]と[[因幡国]]との国境になっていた<ref name="分県ガイド_蒲生峠"/>。
* 古くから'''[[山陰道]]'''が通っており、[[鳥取市|鳥取]]から[[京都市|京都]]を結ぶ要路として、[[江戸時代]]には[[鳥取藩]]が主要街道として峠を整備した。その当時の峠道は「山陰道・蒲生峠越」として国の[[史跡]]に指定され、現在では今でも残る石畳や石碑などに当時の思いを馳せながら散策できるハイキングコースとして、多くの人々に親しまれている。
* [[国道9号]]が、[[1978年]]開通の蒲生トンネル(延長1745メートル)で抜ける。トンネルを含めた[[蒲生バイパス]]開通前は[[兵庫県道・鳥取県道119号千谷蕪島線|鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線]](全線)と[[鳥取県道31号鳥取国府岩美線]](鳥取県岩美郡岩美町洗井~岩美町蒲生国道9号交点)が国道9号として峠を越えていた。
* 旧国道にあたるこれらの県道はほぼ全線2車線の道路であるが、急カーブ・急勾配が連続する道で当時は交通の難所であったことが伺える。また国道時代の標識などが所々残されている場所や、[[ガソリンスタンド]]の跡が有るなどして往時の繁栄ぶりも垣間見ることができる。


かつては峠越えのルート(旧坂)が国道9号の本道だったが、1978(昭和53)年に蒲生トンネルを含む'''蒲生バイパス'''が開通して兵庫県[[美方郡]][[新温泉町]]と鳥取県[[岩美郡]][[岩美町]]とを繋いでいる。バイパス開通後の旧坂は県道になっている。徒歩ルートは国の史跡で、[[文化庁]]が1996(平成8)年に定めた[[歴史の道百選]]に選ばれ、「山陰道蒲生峠越」として整備されている<ref name="分県ガイド_蒲生峠"/><ref name="文化庁_百選"/>。
== 通過する交通路 ==

* [[国道9号]](蒲生トンネル)
===通過する交通路===
* [[国道9号]](蒲生トンネル)(鳥取県側では'''但馬往来'''<ref name="岩美町誌_9号"/>)
* [[兵庫県道・鳥取県道119号千谷蕪島線|鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線]]・[[鳥取県道31号鳥取国府岩美線]](国道9号旧道)
* [[兵庫県道・鳥取県道119号千谷蕪島線|鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線]]・[[鳥取県道31号鳥取国府岩美線]](国道9号旧道)

==小史==
===古代===
蒲生峠は古代に定められた山陰道に位置する。しかし特に山陰道の但馬・因幡間は険路であり、近畿と因幡・但馬の往来にはもっぱら別のルートが使われたと考えられている。近畿方面から蒲生峠を越え、因幡に入った後の山陰道の古いルートはよくわかっていない<ref name="岩美町誌_巨濃路"/><ref name="因伯交通_山陰道"/>。

7世紀の日本では[[伝馬|駅制]]が敷かれた。[[因幡国]]では『[[続日本紀]]』によれば723([[養老]]7)年8月に4駅が置かれたとあるものの、その位置までは記されていない。一方『[[延喜式]]』では[[駅馬]]が「山崎」、「佐尉」、「敷見」、「柏尾」にあったとあり、続日本紀の4つの駅は延喜式に書かれた4ヶ所と推定されている<ref name="岩美町誌_巨濃路"/><ref name="因伯交通_山陰道"/> {{refnest|group="注"|なお近年では『延喜式』の記述は統廃合後の官道を示すもので、それ以前にはもっと多くの道・駅が整備されていたという考え方がある<ref>『古代中世因伯の交通』p36-37</ref>。}}。

[[但馬国]]では「而沼」駅が兵庫県の[[新温泉町]]にあり、古山陰道がここから蒲生峠を越えて因幡国へ入っていたことは確実視されている。しかし、因幡国の「山崎」「佐尉」の2駅の位置については比定されておらず、諸説ある {{refnest|group="注"|「敷見」が[[湖山池]]南岸、「柏尾」が[[青谷町]]ないし[[気高町]]にあったことはおおよそ見解が一致している<ref name="岩美町誌_巨濃路"/><ref name="因伯交通_山陰道"/>。}}<ref name="因伯交通_山陰道"/><ref name="岩美町誌_巨濃路"/>。

おおまかには2通りのルートが考えられている。ひとつは蒲生峠から[[蒲生川 (鳥取県)|蒲生川]]に沿って下り、[[巨濃郡]]の[[郡衙]]を経由して海の近くを通り、[[駟馳山]]を越えて因幡国の[[国府町 (鳥取県)|国府]]へ至る海周りのルートで、もうひとつは蒲生峠からすぐに西へ向かって[[十王峠]]を越え、[[袋川]]の谷筋を通って国府へ直行する山側のルートである<ref name="岩美町誌_巨濃路"/><ref name="因伯交通_山陰道"/>。

いずれにしろ、但馬国西部と因幡国東部は山谷が険しく、峠が連続して曲がりくねっており、不便だった。そのため、近畿から因幡・[[伯耆国|伯耆]]を目指すには山陰道で但馬国を経由するよりも、[[美作国]]経由で[[志戸坂峠]]を越えて因幡国(いまの[[国道373号]]に相当)、もしくは[[四十曲峠]]を越えて[[米子]]方面へ出るルート(いまの[[国道181号]]に相当)が主流だった。古代末期に[[平時範]]が因幡国へ下向した際の詳細な記録が『[[時範記]]』に残されており、往路復路とも志戸坂峠ルートを通っている。このほか、物資の輸送にはもっぱら海路が使われた<ref name="因伯交通_山越道"/><ref name="因伯交通_時範"/>。

===長慶天皇の伝説===
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[長慶天皇]]は、大正時代に結論が出るまで、即位したかどうかが長らく議論になった人物である。また、退位後の動静が不詳のため、全国各地に隠棲や陵墓の伝承がある。蒲生峠もそうした地のひとつで、峠の近辺には長慶天皇にまつわる逸話や「遺物」がある<ref name="岩美町誌_長慶帝"/>。

当地の伝承では、退位して法皇となった長慶帝は、当時「六分の一殿」と呼ばれ大勢力を誇った[[山名氏]]を頼って山陰に下向した。南朝出身の長慶法皇が山名氏の力を後ろ盾にして足利氏を倒して南朝勢による統一を狙っていたとの見方もあるが、推測の域を出ない。いずれにせよ、長慶法皇は[[丹波国]]の[[桑田郡]]千歳村(いまの[[亀岡市]])に潜んでいたところを[[山名氏清]]に迎えられた。一行はしばらく蒲生峠下の岸田(兵庫県[[新温泉町]])に逗留したあと、蒲生峠を越え、因幡の洗井村(いまの[[岩美町]])の豪農の家に入った。当時下賜されたという「長慶法皇の御法衣」が今も保存されている<ref name="岩美町誌_長慶帝"/>。

その後、法皇一行は蒲生川の支流[[蒲生川 (鳥取県)#小田川|小田川]]の谷筋に入り、長郷地区にとどまった。この地は「天皇ヶ平(なる)」と呼ばれている。その後、長慶法皇は[[因幡三山|面影山]]で没したという<ref name="岩美町誌_長慶帝"/><ref name="殿袋川"/>。

===中近世===
戦国期には、[[豊臣秀吉]]による鳥取攻めの際に蒲生峠を経由したとも伝えられている<ref name="分県ガイド_蒲生峠"/>。

江戸時代になると、蒲生峠は[[鳥取藩]]と[[豊岡藩]]の領国境となった。鳥取側では、峠下の蒲生村(いまの岩美町蒲生地区)に番所が置かれた。また、近くの[[河合谷高原]]には武士を駐屯させて国境を守っていた。<ref name="百科_河合谷"/><ref name="県境"/><ref name="角川_蒲生郷"/><ref name="角川_河合谷"/><ref name="角川_兵庫蒲生峠"/>。

===幕末の騒動===
蒲生峠付近では、幕末の[[山陰道鎮撫総督]]にまつわる騒動が記録されている。1868(慶応4)年1月末の[[鳥羽・伏見の戦い]]のあと、[[明治新政府]]は東日本攻略のため[[東海道]]、[[東山道]]、[[北陸道]]の[[鎮撫使]]を任命して派遣した。同時に、万が一[[徳川幕府]]方との争いが劣勢となった場合に備えるたため、[[西園寺公望]]を[[山陰道]]方面の鎮撫総督に任じ、京都からの安全な脱出路を確保するために派遣した<ref name="岩美町誌_鎮撫"/>。

西園寺公望率いる鎮撫使一行は[[薩長]]兵約360人{{refnest|group="注"|305人とする異説もある<ref name="岩美町誌_鎮撫"/>。}}からなり、2月に山陰道をくだってきた。これに先立ち、経路にあたる地域では住民が大量の人夫として駆りだされて準備に動員され、雪の残る峠道の整備にはじまり、沿道の墓石を残らず倒したり、休憩や宿泊に使う家屋の障子の張替えや畳替えなどが行われた。これらは費用の面でも労力の面でも周辺の村々に重い負担となった<ref name="岩美町誌_鎮撫"/>。

鎮撫隊が蒲生峠を通過したのは2月4日で、峠で昼食を取り、岩井([[岩井温泉]])で宿泊となった。新政府からの事前の指示では酒の提供は禁じられていたが、薩摩兵たちは冬にもかかわらず酒や酒肴を要求して暴れ、泥酔して宿泊した家屋を荒らしたり畳を焼いたりする行状だった。薩摩兵とはまともに言葉も通じないばかりか、宿の主人を呼びつけて怒鳴り散らした。隣の駟馳山峠を越えた[[福部村]]では、地元の接待責任者が自害する騒ぎとなり、その後継ぎに対して西園寺公望から金と感状が送られた<ref name="岩美町誌_鎮撫"/>。

===近代===
この頃の山陰道は、蒲生峠の鳥取側では塩谷(しぼたん<ref name="角川_蒲生峠"/>、しおたに<ref name="平凡_蒲生村"/>)村(現:岩美町塩谷)へおりていた。明治時代になって、このルートの改修があり、石畳が敷かれた<ref name="角川_蒲生峠"/><ref name="分県ガイド_蒲生峠"/>。

この当時の石畳の一部が現存しており、塩谷から蒲生峠の間は散策路としてされている。徒歩の山道とはいえ、かつては荷馬車などが通っていたので、車が通れるほどの幅員がある。このルートは[[文化庁]]が1996(平成8)年に定めた[[歴史の道百選]]に選ばれ、2000(平成12)年から「山陰道蒲生峠越」として整備されている。登山口から峠まで往路45分ほどの道のりである<ref name="分県ガイド_蒲生峠"/><ref name="文化庁_百選"/>。

===国道の開通(旧坂)===
1892(明治25)年に、[[蒲生川 (鳥取県)|蒲生川]]をより遡って蕪島(洗井村の支村)から登るルートが拓かれた。これがいまの[[兵庫県道・鳥取県道119号千谷蕪島線|県道119号]]に相当する。人力車や荷馬車の通行も可能で、茶屋もできて賑わった。しかし、明治末期に山陰本線が開通すると、因幡と但馬・近畿地方の交通は鉄道が主流になり、峠は廃れた。<ref name="角川_蒲生峠"/>

太平洋戦争後、自動車が普及すると峠の通行量が増えた。1952(昭和27)年に全国で国道の体系的な整備が行われ、蒲生峠を通る山陰道も12月4日に[[一級国道]][[国道9号]]に昇格した<ref name="角川_蒲生峠"/><ref name="岩美町誌_9号"/>。

以来、蒲生峠は鳥取県の東の玄関口となった。1960(昭和35)年から1963(昭和38)年には峠の前後の道路改修が行われ、路線バスが通るようになった<ref name="角川_蒲生峠"/><ref name="岩美町誌_9号"/>。

1978(昭和53)年に後述の蒲生バイパスが開通した後、旧ルートのうち新温泉町千谷から峠を越えて岩美町蕪島までは[[兵庫県道・鳥取県道119号千谷蕪島線]]、蕪島・塩谷間は[[鳥取県道31号鳥取国府岩美線]]となっている。

===蒲生バイパス===
改修が行われたとはいえ、坂がきつく、冬期には積雪の多さで交通量の需要に応えられなかった。このため、千谷(新温泉町)と塩谷(岩美町)とのあいだ約8kmを3.8kmに短絡する'''蒲生バイパス'''が建設されることになった<ref name="角川_蒲生峠"/>。

バイパスの中核をなすのが全長1745mの'''蒲生トンネル'''である。このうち兵庫県側が1101m、鳥取県側が644mあり、標高174.5m地点<!--ノートで-->を通過している。バイパスの総事業費は44億7700万円でそのうちトンネルは31億8000万円。工事は1975(昭和50)年にはじまり、1978(昭和53)年12月に開通した<ref name="角川_蒲生峠"/><ref name="角川_兵庫蒲生峠"/>。

バイパスの開通によって、新温泉町や[[香美町]]など兵庫県[[美方郡]]の一帯は鳥取までの所要時間が大幅に短縮され、鳥取市の商圏に組み込まれるようになった<ref name="角川_兵庫蒲生峠"/>。

*蒲生バイパス 3.8km
:*兵庫県新温泉町千谷・蒲生トンネル間 743.5m<ref name="角川_蒲生峠"/>
:*蒲生トンネル 1745m<ref name="県百科_道"/>
:*蒲生トンネル・鳥取県岩美町塩谷間 1311.5m<ref name="角川_蒲生峠"/>

== 脚注・出典 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em
|refs=

<!--国交省-->
*<ref name="殿袋川">『殿ダム・袋川風土記』p14</ref>

<!--岩美町-->
*<ref name="岩美町誌_巨濃路">『岩美町誌』p116-121</ref>
*<ref name="岩美町誌_長慶帝">『岩美町誌』p144-147</ref>

*<ref name="岩美町誌_鎮撫">『岩美町誌』p350-355</ref>
*<ref name="岩美町誌_9号">『岩美町誌』p639-643</ref>


<!--その他URL-->
*<ref name="文化庁_百選">文化庁 庁保記第二四号(平成八年一一月一日)[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19961101001/t19961101001.html 文化庁選定「歴史の道百選」について]2015年9月28日閲覧。</ref>
<!--文献-->
*<ref name="県百科_道">『鳥取県大百科事典』p675-681</ref>
*<ref name="因伯交通_山陰道">『古代中世因伯の交通』p11-25</ref>
*<ref name="因伯交通_山越道">『古代中世因伯の交通』p26-34</ref>
*<ref name="因伯交通_時範">『古代中世因伯の交通』p38-44</ref>

*<ref name="分県ガイド_蒲生峠">『新・分県登山ガイド30 鳥取県の山』p110-111「蒲生峠」</ref>
*<ref name="県境">『鳥取県境の山』p10-11「河合谷高原」</ref>
*<ref name="百科_河合谷">『鳥取県大百科事典』p197「河合谷高原」</ref>


<!--角川-->
*<ref name="角川_兵庫蒲生峠">『日本地名大辞典 28 兵庫県([[角川日本地名大辞典]])』p449「蒲生峠」</ref>
*<ref name="角川_蒲生郷">『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』p252-253「蒲生郷」</ref>
*<ref name="角川_蒲生峠">『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』p253「蒲生峠」</ref>
*<ref name="角川_河合谷">『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』p261-262「河合谷高原」「河合谷牧場」</ref>

<!--平凡-->
*<ref name="平凡_蒲生村">『鳥取県の地名([[日本歴史地名大系]])』p92「蒲生村」</ref>

}}

===参考文献===
*国土交通省 中国地方整備局 鳥取河川国道事務所『殿ダム・袋川風土記』[https://www.cgr.mlit.go.jp/tottori/tono/25shisanmeguri/pdf/fudoki.pdf PDF版]
*『岩美町誌』,岩美町誌刊行委員会,1968
*『日本地名大辞典 28 兵庫県([[角川日本地名大辞典]])』,[[角川書店]],1988,ISBN 4-04-001280-1
*『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』,[[角川書店]],1982,ISBN 978-4040013107

*『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984
*『鳥取県の地名([[日本歴史地名大系]])』,[[平凡社]],1992
*『新・分県登山ガイド30 鳥取県の山』,藤原道弘・著,山と渓谷社,2010,ISBN 978-4-635-02380-1
*鳥取県史ブックレット12『古代中世因伯の交通』,錦織勤・著,鳥取県立公文書館 県史編さん室・編,鳥取県・刊,2013


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[徳城峠]] - [[野坂峠]] - [[山陰道]]のうち、国指定史跡となっているもの

* [[日本の峠一覧]]
* [[日本の峠一覧]]
*[[中国地方の史跡一覧]]
* [[中国地方の史跡一覧]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[[文化庁]]
*[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
:*[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/164601 文化遺産オンライン]

*[[鳥取県庁|鳥取県]]教育委員会事務局 文化財課 文化財係
:*[http://db.pref.tottori.jp/bunkazainavi.nsf/bunkazai_web_view/4008EC66D61AADE849257AB5001008CC?OpenDocument 山陰道 蒲生峠越]


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2015年10月17日 (土) 13:14時点における版

国道9号標識
国道9号標識
蒲生峠
所在地 兵庫県美方郡新温泉町鳥取県岩美郡岩美町
座標
蒲生峠の位置(日本内)
蒲生峠
北緯35度31分6.8秒 東経134度24分49.9秒 / 北緯35.518556度 東経134.413861度 / 35.518556; 134.413861座標: 北緯35度31分6.8秒 東経134度24分49.9秒 / 北緯35.518556度 東経134.413861度 / 35.518556; 134.413861
標高 347.2[1][注 1] m
山系 中国山地
通過路 山陰道国道9号県道119号
プロジェクト 地形
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蒲生峠(がもうとうげ)は、兵庫県鳥取県とを結ぶ。旧山陰道の途上にあり、国の史跡に指定されている。いまは国道9号が峠下のトンネルで通過している[1]

概要

蒲生峠は中国山地の牛ヶ峰山(標高712.8m)の北側の鞍部にあり、峠の頂上は標高335mである。古代に制定された山陰道の道筋にあり、古くは但馬国因幡国との国境になっていた[1]

かつては峠越えのルート(旧坂)が国道9号の本道だったが、1978(昭和53)年に蒲生トンネルを含む蒲生バイパスが開通して兵庫県美方郡新温泉町と鳥取県岩美郡岩美町とを繋いでいる。バイパス開通後の旧坂は県道になっている。徒歩ルートは国の史跡で、文化庁が1996(平成8)年に定めた歴史の道百選に選ばれ、「山陰道蒲生峠越」として整備されている[1][2]

通過する交通路

小史

古代

蒲生峠は古代に定められた山陰道に位置する。しかし特に山陰道の但馬・因幡間は険路であり、近畿と因幡・但馬の往来にはもっぱら別のルートが使われたと考えられている。近畿方面から蒲生峠を越え、因幡に入った後の山陰道の古いルートはよくわかっていない[4][5]

7世紀の日本では駅制が敷かれた。因幡国では『続日本紀』によれば723(養老7)年8月に4駅が置かれたとあるものの、その位置までは記されていない。一方『延喜式』では駅馬が「山崎」、「佐尉」、「敷見」、「柏尾」にあったとあり、続日本紀の4つの駅は延喜式に書かれた4ヶ所と推定されている[4][5] [注 2]

但馬国では「而沼」駅が兵庫県の新温泉町にあり、古山陰道がここから蒲生峠を越えて因幡国へ入っていたことは確実視されている。しかし、因幡国の「山崎」「佐尉」の2駅の位置については比定されておらず、諸説ある [注 3][5][4]

おおまかには2通りのルートが考えられている。ひとつは蒲生峠から蒲生川に沿って下り、巨濃郡郡衙を経由して海の近くを通り、駟馳山を越えて因幡国の国府へ至る海周りのルートで、もうひとつは蒲生峠からすぐに西へ向かって十王峠を越え、袋川の谷筋を通って国府へ直行する山側のルートである[4][5]

いずれにしろ、但馬国西部と因幡国東部は山谷が険しく、峠が連続して曲がりくねっており、不便だった。そのため、近畿から因幡・伯耆を目指すには山陰道で但馬国を経由するよりも、美作国経由で志戸坂峠を越えて因幡国(いまの国道373号に相当)、もしくは四十曲峠を越えて米子方面へ出るルート(いまの国道181号に相当)が主流だった。古代末期に平時範が因幡国へ下向した際の詳細な記録が『時範記』に残されており、往路復路とも志戸坂峠ルートを通っている。このほか、物資の輸送にはもっぱら海路が使われた[7][8]

長慶天皇の伝説

南北朝時代長慶天皇は、大正時代に結論が出るまで、即位したかどうかが長らく議論になった人物である。また、退位後の動静が不詳のため、全国各地に隠棲や陵墓の伝承がある。蒲生峠もそうした地のひとつで、峠の近辺には長慶天皇にまつわる逸話や「遺物」がある[9]

当地の伝承では、退位して法皇となった長慶帝は、当時「六分の一殿」と呼ばれ大勢力を誇った山名氏を頼って山陰に下向した。南朝出身の長慶法皇が山名氏の力を後ろ盾にして足利氏を倒して南朝勢による統一を狙っていたとの見方もあるが、推測の域を出ない。いずれにせよ、長慶法皇は丹波国桑田郡千歳村(いまの亀岡市)に潜んでいたところを山名氏清に迎えられた。一行はしばらく蒲生峠下の岸田(兵庫県新温泉町)に逗留したあと、蒲生峠を越え、因幡の洗井村(いまの岩美町)の豪農の家に入った。当時下賜されたという「長慶法皇の御法衣」が今も保存されている[9]

その後、法皇一行は蒲生川の支流小田川の谷筋に入り、長郷地区にとどまった。この地は「天皇ヶ平(なる)」と呼ばれている。その後、長慶法皇は面影山で没したという[9][10]

中近世

戦国期には、豊臣秀吉による鳥取攻めの際に蒲生峠を経由したとも伝えられている[1]

江戸時代になると、蒲生峠は鳥取藩豊岡藩の領国境となった。鳥取側では、峠下の蒲生村(いまの岩美町蒲生地区)に番所が置かれた。また、近くの河合谷高原には武士を駐屯させて国境を守っていた。[11][12][13][14][15]

幕末の騒動

蒲生峠付近では、幕末の山陰道鎮撫総督にまつわる騒動が記録されている。1868(慶応4)年1月末の鳥羽・伏見の戦いのあと、明治新政府は東日本攻略のため東海道東山道北陸道鎮撫使を任命して派遣した。同時に、万が一徳川幕府方との争いが劣勢となった場合に備えるたため、西園寺公望山陰道方面の鎮撫総督に任じ、京都からの安全な脱出路を確保するために派遣した[16]

西園寺公望率いる鎮撫使一行は薩長兵約360人[注 4]からなり、2月に山陰道をくだってきた。これに先立ち、経路にあたる地域では住民が大量の人夫として駆りだされて準備に動員され、雪の残る峠道の整備にはじまり、沿道の墓石を残らず倒したり、休憩や宿泊に使う家屋の障子の張替えや畳替えなどが行われた。これらは費用の面でも労力の面でも周辺の村々に重い負担となった[16]

鎮撫隊が蒲生峠を通過したのは2月4日で、峠で昼食を取り、岩井(岩井温泉)で宿泊となった。新政府からの事前の指示では酒の提供は禁じられていたが、薩摩兵たちは冬にもかかわらず酒や酒肴を要求して暴れ、泥酔して宿泊した家屋を荒らしたり畳を焼いたりする行状だった。薩摩兵とはまともに言葉も通じないばかりか、宿の主人を呼びつけて怒鳴り散らした。隣の駟馳山峠を越えた福部村では、地元の接待責任者が自害する騒ぎとなり、その後継ぎに対して西園寺公望から金と感状が送られた[16]

近代

この頃の山陰道は、蒲生峠の鳥取側では塩谷(しぼたん[17]、しおたに[18])村(現:岩美町塩谷)へおりていた。明治時代になって、このルートの改修があり、石畳が敷かれた[17][1]

この当時の石畳の一部が現存しており、塩谷から蒲生峠の間は散策路としてされている。徒歩の山道とはいえ、かつては荷馬車などが通っていたので、車が通れるほどの幅員がある。このルートは文化庁が1996(平成8)年に定めた歴史の道百選に選ばれ、2000(平成12)年から「山陰道蒲生峠越」として整備されている。登山口から峠まで往路45分ほどの道のりである[1][2]

国道の開通(旧坂)

1892(明治25)年に、蒲生川をより遡って蕪島(洗井村の支村)から登るルートが拓かれた。これがいまの県道119号に相当する。人力車や荷馬車の通行も可能で、茶屋もできて賑わった。しかし、明治末期に山陰本線が開通すると、因幡と但馬・近畿地方の交通は鉄道が主流になり、峠は廃れた。[17]

太平洋戦争後、自動車が普及すると峠の通行量が増えた。1952(昭和27)年に全国で国道の体系的な整備が行われ、蒲生峠を通る山陰道も12月4日に一級国道国道9号に昇格した[17][3]

以来、蒲生峠は鳥取県の東の玄関口となった。1960(昭和35)年から1963(昭和38)年には峠の前後の道路改修が行われ、路線バスが通るようになった[17][3]

1978(昭和53)年に後述の蒲生バイパスが開通した後、旧ルートのうち新温泉町千谷から峠を越えて岩美町蕪島までは兵庫県道・鳥取県道119号千谷蕪島線、蕪島・塩谷間は鳥取県道31号鳥取国府岩美線となっている。

蒲生バイパス

改修が行われたとはいえ、坂がきつく、冬期には積雪の多さで交通量の需要に応えられなかった。このため、千谷(新温泉町)と塩谷(岩美町)とのあいだ約8kmを3.8kmに短絡する蒲生バイパスが建設されることになった[17]

バイパスの中核をなすのが全長1745mの蒲生トンネルである。このうち兵庫県側が1101m、鳥取県側が644mあり、標高174.5m地点を通過している。バイパスの総事業費は44億7700万円でそのうちトンネルは31億8000万円。工事は1975(昭和50)年にはじまり、1978(昭和53)年12月に開通した[17][15]

バイパスの開通によって、新温泉町や香美町など兵庫県美方郡の一帯は鳥取までの所要時間が大幅に短縮され、鳥取市の商圏に組み込まれるようになった[15]

  • 蒲生バイパス 3.8km
  • 兵庫県新温泉町千谷・蒲生トンネル間 743.5m[17]
  • 蒲生トンネル 1745m[19]
  • 蒲生トンネル・鳥取県岩美町塩谷間 1311.5m[17]

脚注・出典

注釈

  1. ^ バイパス開通前の文献では335m、現地看板(1997年設置)では356mなど数値にはばらつきがあるが、比較的新しい2010年の文献の値を採用した。
  2. ^ なお近年では『延喜式』の記述は統廃合後の官道を示すもので、それ以前にはもっと多くの道・駅が整備されていたという考え方がある[6]
  3. ^ 「敷見」が湖山池南岸、「柏尾」が青谷町ないし気高町にあったことはおおよそ見解が一致している[4][5]
  4. ^ 305人とする異説もある[16]

出典

  1. ^ a b c d e f g 『新・分県登山ガイド30 鳥取県の山』p110-111「蒲生峠」
  2. ^ a b 文化庁 庁保記第二四号(平成八年一一月一日)文化庁選定「歴史の道百選」について2015年9月28日閲覧。
  3. ^ a b c 『岩美町誌』p639-643
  4. ^ a b c d e 『岩美町誌』p116-121
  5. ^ a b c d e 『古代中世因伯の交通』p11-25
  6. ^ 『古代中世因伯の交通』p36-37
  7. ^ 『古代中世因伯の交通』p26-34
  8. ^ 『古代中世因伯の交通』p38-44
  9. ^ a b c 『岩美町誌』p144-147
  10. ^ 『殿ダム・袋川風土記』p14
  11. ^ 『鳥取県大百科事典』p197「河合谷高原」
  12. ^ 『鳥取県境の山』p10-11「河合谷高原」
  13. ^ 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p252-253「蒲生郷」
  14. ^ 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p261-262「河合谷高原」「河合谷牧場」
  15. ^ a b c 『日本地名大辞典 28 兵庫県(角川日本地名大辞典)』p449「蒲生峠」
  16. ^ a b c d 『岩美町誌』p350-355
  17. ^ a b c d e f g h i 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p253「蒲生峠」
  18. ^ 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p92「蒲生村」
  19. ^ 『鳥取県大百科事典』p675-681

参考文献

  • 『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984
  • 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』,平凡社,1992
  • 『新・分県登山ガイド30 鳥取県の山』,藤原道弘・著,山と渓谷社,2010,ISBN 978-4-635-02380-1
  • 鳥取県史ブックレット12『古代中世因伯の交通』,錦織勤・著,鳥取県立公文書館 県史編さん室・編,鳥取県・刊,2013

関連項目

外部リンク

  • 鳥取県教育委員会事務局 文化財課 文化財係