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「エドワード2世 (イングランド王)」の版間の差分

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'''エドワード2世'''(Edward II, [[1284年]][[4月25日]] - [[1327年]][[9月21日]])は、[[プランタジネット朝]]の[[イングランド王国|イングランド]]王(在位:[[1307年]] - 1327年)。[[エドワード1世_(イングランド王)|エドワード1世]]と王妃[[エリナー・オブ・カスティル]]の四男
'''エドワード2世'''({{lang|en|Edward II}}, [[1284年]][[4月25日]] - [[1327年]][[9月21日]])は、[[プランタジネット朝]]の[[イングランド王国|イングランド]]王(在位:[[1307年]][[7月7日]] - [[1327年]][[1月20日]]

[[エドワード1世_(イングランド王)|エドワード1世]]の子。1307年に父王の崩御で即位。[[ピアーズ・ギャヴィストン (初代コーンウォール伯)|ギャヴィストン]]や{{仮リンク|ヒュー・ル・ディスペンサー (初代ウィンチェスター伯)|label=ディスペンサー|en|Hugh le Despenser, 1st Earl of Winchester}}父子などの寵臣に政治を主導させ、諸侯や議会との対立を深めた。 [[1326年]]に王妃[[イザベラ・オブ・フランス|イザベラ]]が起こしたクーデタで幽閉の身となり、その翌年には議会から廃位されたうえ、王妃の密命で殺害された。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1301年]]、[[ウェールズ]]を押さえるためエドワード1世によって、初めて[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の称号を授けられた。以後、この称号はイングランド([[イギリス]])[[皇太子|王太子]]に与えられるようになった。
[[1284年]][[4月25日]]、[[イングランド王]][[エドワード1世_(イングランド王)|エドワード1世]]と王妃[[エリナー・オブ・カスティル]]の四男として[[ウェールズ]]の[[カーナーヴォン城]]で生まれた。上の兄三人はいずれも幼くして薨去したため、嫡男の立場だった{{sfn|森護|1986|p=122-123}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=223}}。


10歳の頃の[[1294年]]に同世代の[[ピアーズ・ギャヴィストン (初代コーンウォール伯)|ピアーズ・ギャヴィストン]]を遊び友達として付けられ、親密な関係となる。以降彼への寵愛が始まる([[同性愛]]の関係とも){{sfn|森護|1986|p=123}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=223}}。
はじめ[[ピアズ・ギャヴェストン]](コーンウォール伯)らの寵臣によって治世を左右されたことから、これに反発する議会や諸侯が反乱を起こし、1311年から彼らの代表者21人によって事実上の[[寡頭制]]が行われ、ギャヴェストンは1312年に暗殺された。しかし、この期間にロバート・ブルースが[[スコットランド王国|スコットランド]]の大部分を再征服したため、急遽、君臣一致でスコットランドに兵を送ったが、1314年に[[バノックバーンの戦い]]で大敗し、ロバート・ブルースは[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]としてスコットランド王に即位した。


[[1301年]]、父王は、イングランド支配下[[ウェールズ]]の人心を掌握することを目的として[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]が所持していたウェールズ大公([[プリンス・オブ・ウェールズ]])の称号をエドワードに授けた。以後、この称号はイングランド・[[イギリス]]の[[皇太子]]に与えられる伝統となる{{sfn|森護|1986|p=110-111}}。
これによりエドワード2世の権威はいっそう下がったが、貴族たちも党派を作り争ったため、1318年ごろ権力を多少回復し、新たにウィンチェスター伯[[ヒュー・ル・デスペンサー]]父子を登用した。1322年に対立する貴族連合軍に勝利し、以後5年にわたってデスペンサーの支配が続いた。この時期に下院(庶民院、平民議会)の力が強まったことは、イギリス憲政上重要である。


[[1306年]]3月、イングランドの支配下に置かれていたスコットランドで[[キャリック伯]][[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]](ロバート1世)がスコットランド王即位を宣言し、エドワード1世に反旗を翻した。エドワード1世は当時[[赤痢]]を患っていたので、皇太子エドワードと第2代[[ペンブルック伯]]{{仮リンク|エイマー・ド・ヴァランス (第2代ペンブルック伯)|label=エイマー・ド・ヴァランス|en|Aymer de Valence, 2nd Earl of Pembroke}}を鎮圧軍の先発としてスコットランドに派遣した{{sfn|森護|1986|p=115-116}}。しかし彼のテントは、戦場に不向きな舞踏会で着るような衣装でいっぱいであり、それを貴族や騎士たちに見せびらかして、ひんしゅくを買ったという{{sfn|森護|1986|p=127}}。結局この先発軍は[[1307年]]5月の{{仮リンク|ロウドゥン・ヒルの戦い|en|Battle of Loudoun Hill}}でロバート率いるスコットランド軍に敗北した{{sfn|森護|1986|p=115-116}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=356}}。
しかし敵対する勢力も強まり、1326年、[[エノー伯]][[ギヨーム1世 (エノー伯)|ギヨーム1世]]の元へ身を寄せていた王妃の[[イザベラ・オブ・フランス|イザベラ]]([[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]の娘)は息子の[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード]]を擁し、愛人のマーチ伯[[ロジャー・モーティマー (初代マーチ伯)|ロジャー・モーティマー]]等の軍勢を引きつれ、[[ロンドン]]にせまった。王は逃亡したが、捕らえられて廃位させられた。その後監禁されていたが、間もなく死亡した。


=== 国王に即位 ===
イザベラとモーティマーは1330年まで、エドワード3世の摂政として権力を握った。
父王もスコットランドへ向かって出陣したが、その途中の1307年7月に崩御した。皇太子エドワードがただちにエドワード2世としてイングランド王に即位した。崩御に際して父は自分の心臓は聖地エルサレムに埋葬すること、遺体はスコットランド平定まで埋葬しないこと、自分の骨をイングランド軍の先頭に置いて進軍すること、ギャヴィストンは追放するのでその追放を解かないことを皇太子に遺言したが{{sfn|森護|1986|p=116/123}}、エドワード2世は父の遺言を守らず、父の遺体は全て[[ウェストミンスター寺院]]に葬り{{sfn|森護|1986|p=116}}、スコットランド出兵を中止し{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=356}}、ギャヴィストンの追放を解いて再び側近として重用した{{sfn|森護|1986|p=123}}。


父王晩年からの諸侯と王権の慢性的不和、王庫の財政破たん状態は続いていたが、エドワード2世はそれを解決できるような器ではなかった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=284}}。
エドワード2世は優柔不断で、政治に関心をあまり持たなかったといわれる、また、[[両性愛]]者<ref>[http://www.glbtq.com/social-sciences/edward_II.html Edward II] Retrieved November 1, 2006.</ref>と噂され、ギャヴェストンやデスペンサーの息子と関係があり、彼らの登用はその理由によるものと信じられていた。エドワード2世の死は自然死と公表されたが、「肛門に焼け火箸を差し込まれ殺害された」という噂が広く伝えられている。また最近の研究では、死が発表された後もエドワード2世は密かに監禁されたまま生き続けていたことを示唆している。

=== ギャヴィストン寵愛 ===
[[File:Edward II & Gaveston by Marcus Stone.jpg|250px|thumb|エドワード2世と{{仮リンク|ピアズ・ギャヴィストン (初代コーンウォール伯爵)|label=ギャヴィストン|en|Piers Gaveston, 1st Earl of Cornwall}}の親密さを描いた絵画({{仮リンク|マーカス・ストーン|en|Marcus Stone}}画)]]
即位とともにギャヴィストンに異常な寵愛を注いだ。ギャヴィストンに王族専用の爵位{{仮リンク|コーンウォール伯|en|Earl of Cornwall}}位を与えるとともに王の俸禄配分権(Patronage)を差配させた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=284-285}}。

[[1308年]]1月にはフランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]の娘[[イザベラ・オブ・フランス|イザベラ]]とフランスにおいて結婚したが、この不在の間、ギャヴィストンを摂政に任じている。諸侯は以前からエドワード2世のギャヴィストン寵愛を不快に思っていたが、これをきっかけに反発が一気に高まった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=285}}{{sfn|森護|1986|p=124}}。

イザベラを伴って帰国した後の[[1308年]][[2月25日]]に戴冠式に臨んだが、この時もギャヴィストンを王冠奉持者にして重用している。ギャヴィストンは自分に敵意を飛ばす諸侯にわざと恥をかかせるようなふるまいをし、さらに王妃イザベルの叔父たちにも無礼を働いた。この叔父たちは怒って席を立ってフランスへ帰国してしまったほどだった{{sfn|森護|1986|p=124^-126}}。

[[1308年]]の議会に諸侯は武装して集まり、エドワード2世を威圧してギャヴィストン追放を要求した。屈服したエドワード2世はギャヴィストンを[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]に任じてロンドンから遠ざけることで諸侯と妥協した。この際もエドワード2世はギャヴィストンとの別れを惜しみ、アイルランドへ向かうギャヴィストンの見送りに[[ブリストル]]まで同行した{{sfn|森護|1986|p=126}}。さらに翌[[1309年]]の議会でエドワード2世は議会からの様々な要求を受け入れる代わりにギャヴィストンを呼び戻す許可を得、ギャヴィストン寵愛を再開した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=286}}{{sfn|森護|1986|p=126}}。

=== 改革勅令とギャヴィストンの死 ===
[[File:A Chronicle of England - Page 280 - Gaveston's Head Shown to the Earl of Lancaster.jpg|250px|thumb|第2代{{仮リンク|ランカスター伯|en|Earl of Lancaster}}{{仮リンク|トマス (第2代ランカスター伯)|label=トマス|en|Thomas, 2nd Earl of Lancaster}}、第4代{{仮リンク|ヘレフォード伯|en|Earl of Hereford}}{{仮リンク|ハンフリー・ド・ブーン (第4代ヘレフォード伯)|label=ハンフリー・ド・ブーン|en|Humphrey de Bohun, 4th Earl of Hereford}}、第9代[[アランデル伯]]{{仮リンク|エドムンド・フィッツアラン (第9代アランデル伯)|label=エドムンド・フィッツアラン|en|Edmund FitzAlan, 9th Earl of Arundel}}ら諸侯がギャヴィストンを私刑で斬首した場面の絵<br>''A Chronicle of England'',1864年]]
[[1310年]]の議会も諸侯は武装して集まり、悪しき助言者の存在、物資徴発の弊害、スコットランド喪失、1307年と1309年の議会が与えた租税が空費されたことなどを列挙してエドワード2世を批判し、政治改革を要求した。エドワード2世は屈服し、カンタベリー大司教、6人の司教、8人の伯爵なら成る改革勅令起草委員会(Lords Ordainers)の設置を認めた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=287}}。

[[1311年]]の議会の討議も踏まえて、同年秋に{{仮リンク|1311年改革勅令|label=改革勅令|en|Ordinances of 1311}}が発せられた。この改革勅令は、ギャヴィストン永久追放、エドワード2世即位後に行われた王領地贈与の取り消し、1294年以降制定の関税廃止、王を議会の管理下に置いて王の執行権や人事権や行動の自由を制限すること、年に1度か2度は議会を開くこと、大憲章([[マグナ・カルタ]])や{{仮リンク|御料林憲章|en|Charter of the Forest}}の解釈権は議会の諸侯にあることなどが盛り込まれていた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=287}}{{sfn|森護|1986|p=127}}。

ギャヴィストンは追放処分を受ける前に[[フランドル]]へ逃げ、その後ひそかに帰国し、[[1312年]]にウィンザーのエドワード2世と合流して追放処分取り消しを受けた。これを知って激怒した諸侯はウィンザーへ向けて進軍し、エドワード2世とギャヴィストンはスカーバラ城に籠城して三週間粘ったが、結局降伏を余儀なくされた{{sfn|森護|1986|p=127-128}}。

エドワード2世の執り成しと懇願でギャヴィストンの生命は保証されたが、その代わりギャヴィストンは永久追放処分となることになった。第2代[[ペンブルック伯]]{{仮リンク|エイマー・ド・ヴァランス (第2代ペンブルック伯)|label=エイマー・ド・ヴァランス|en|Aymer de Valence, 2nd Earl of Pembroke}}に引き渡されて護送されていったが、この際に第2代{{仮リンク|ランカスター伯|en|Earl of Lancaster}}{{仮リンク|トマス (第2代ランカスター伯)|label=トマス|en|Thomas, 2nd Earl of Lancaster}}らギャヴィストン助命に反対する諸侯が独断でギャヴィストンの身柄を強奪して私刑の斬首に処してしまった。この件にエドワード2世は憤慨し、ランカスター伯らとペンブルック伯らの関係にも亀裂が入り、諸侯の連携が崩れた。内乱の空気さえ漂ったが、皇太子[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード]]出産の慶事があったため、危機は回避された{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=287-288}}{{sfn|森護|1986|p=127-128}}。

[[1314年]]夏にはスコットランドにおけるイングランドの拠点スターリングが包囲されたのを受けて、エドワード2世自ら援軍を率いてスコットランドへ出征したが、[[バノックバーンの戦い]]でスコットランド軍に惨敗。これはエドワード2世の権威を一層低下させ、改革勅令の遵守を誓約することを余儀なくされた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=287-288}}。またこの戦いにはペンブルック伯が従軍していたが、彼との不仲からランカスター伯は参加しなかった。そのため政府の指導権はランカスター伯が握るところとなった{{sfn|森護|1986|p=129-130}}。

[[1316年]]2月の議会では、ランカスター伯に政権を任せられることになったが、彼は積極的な国政指導を行わず、エドワード2世とも他の諸侯とも疎遠になって孤立を深めた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=288}}。

=== ディスペンサー父子の台頭 ===
一方宮廷では{{仮リンク|ヒュー・ル・ディスペンサー (初代ウィンチェスター伯)|label=ヒュー・ディスペンサー|en|Hugh le Despenser, 1st Earl of Winchester}}とその{{仮リンク|ヒュー・ディスペンサー (息子)|label=同名の息子|en|Hugh Despenser the Younger}}の親子がエドワード2世の寵愛を得て台頭していた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=197}}。

ディスペンサー親子の寵愛も諸侯の反発を買い、ディスペンサー親子は諸侯の圧力で[[1321年]]に国外追放処分となったが、その翌年には国王が呼び戻した。これを知ったランカスター伯ら諸侯はディスペンサー追放を求めて挙兵するが、ペンブルック伯らランカスター伯と対立する諸侯が参加しなかった。結局ランカスター伯は[[1322年]]3月の{{仮リンク|バラブリッジの戦い|en|Battle of Boroughbridge}}で王軍に敗北し、捕らえられて処刑された{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=289-290}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=85-86}}

このバラブリッジの戦いの勝利により宮廷勢力(エドワード2世とディスペンサー父子)は権力を回復させ、[[1322年]]の[[ヨーク]]での議会では先の改革勅令を全体として廃止できた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291}}。

息子ディスペンサーは実務嫌いのエドワード2世から実務を任されて、その恩賞で領地をどんどん拡大させ、さらに賄賂で私腹を肥やした{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291}}。父ディスペンサーも{{仮リンク|ウィンチェスター伯|en|Earl of Winchester}}に叙されて厚遇された{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=197}}、

以降5年ほどディスペンサー父子が国政を主導していくが、この間ディスペンサー父子の専横への怨嗟はどんどん高まっていた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291}}。特にウェールズにおける所領の拡大は{{仮リンク|ウェールズ辺境諸侯|en|Welsh Marches}}の強い反発を招いた。また1324年9月には王妃イザベラの所領が没収されたことでディスペンサー親子は王妃も敵に回すことになった(この年[[ガスコーニュ]]で百年戦争の前振れの{{仮リンク|サン=サルド戦争|en|War of Saint-Sardos}}が発生し、フランス人の王妃の所領がフランス軍の橋頭保にされる恐れがあるとして没収に踏み切った){{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291}}。

=== 王妃のクーデタで失脚 ===
[[File:Retour d Isabelle de France en Angleterre.jpg|180px|thumb|夫エドワード2世を逮捕させ、息子の皇太子[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード]]とともにイングランドへ戻った[[イザベラ・オブ・フランス|イザベラ]]王妃]]
フランスでは[[1322年]]に[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]が国王に即位しており、エドワード2世はサン=サルド戦争の戦後処理としてアキテーヌ領有を続けるためにアキテーヌ公としてシャルル4世に臣下の礼をとることになった。しかしエドワード2世自身は訪仏せず、名代として王妃イザベラと皇太子エドワードが訪仏した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291-292}}{{sfn|森護|1986|p=131-132}}。

ところがイザベラはディスペンサー父子を追放しない限り皇太子エドワードとともにフランスに残ると言い張り、帰国を拒否した。パリにはディスペンサー父子に追放されたイングランド貴族が大勢おり、その中にウェールズ辺境諸侯の一人である初代マーチ伯[[ロジャー・モーティマー (初代マーチ伯)|ロジャー・モーティマー]]がいた。彼と親密になった王妃は夫を廃位して皇太子に王位を継がせる計画を立て始めた{{sfn|森護|1986|p=131-132}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291-292}}。

そして[[1326年]]9月にイザベラとマーチ伯が集めた騎士たちがイングランド東部サフォークへ上陸を開始し、ロンドンへ進軍した。嫌われ者のエドワード2世とディスペンサー親子に味方はなく、各地で王妃軍は歓迎された。ロンドン市も王妃の味方をした。エドワード2世とディスペンサー親子は逃亡したが、全員逮捕された。ディスペンサー親子は処刑され、エドワード2世はケニルワース城で幽閉の身となった{{sfn|森護|1986|p=132}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=292}}。

=== 議会で廃位される ===
[[1327年]]1月に[[ウェストミンスター]]に議会が招集された。このときの議会も1322年のヨークでの議会と同様に州・都市代表を多数含んでおり、さらにウェ-ルズ代表も出席していた。したがって[[代議制]]の面が強い議会であった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=292}}。また反国王派の司教たちが説教壇から国王の愚かさを強調する演説をして、議会外の国王廃位の世論の盛り上げも行われた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=292}}。

議会はエドワード2世の廃位を決議した。エドワード皇太子(エドワード3世)が新国王に指名されたが、エドワード皇太子は父からの正式な譲位の文書がなければ王位継承しないと返答したので、議会は[[1月20日]]にケニルワース城に代表を送ってエドワード2世に譲位文書に署名するよう迫った。議会の廃位決定を聞かされたエドワード2世は絶望して消え入りそうな声でその決定を受諾する旨を答え、署名に応じたという{{sfn|森護|1986|p=133}}。そして[[1月25日]]に議会代表者より「エドワードにたいするあらゆる臣従と忠誠を放棄する」との宣言が発せられた{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=292}}。

この時の廃位に議会の決議という手段が使われたことは、王国の諸身分の代表が集まる集会で表明される国民の総意は王位すら左右できることの前例になったという点でイギリス立憲主義に大きな意義があったといえる{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=293}}。

=== 惨殺されて崩御 ===
その後、ケニルワース城からバークレイ城に移されて監禁が続けられた{{sfn|森護|1986|p=134}}。

議会はエドワード2世の処刑を決議してなかったが、廃位されたエドワード2世を救出しようという企図が二回あり、それを危険視した王妃が独断で密命を下し、殺害されることになった{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=293}}。エドワード2世の看守には無法者の騎士として知られたロジャー・ド・モルトゥレイヴとトマス・ド・グルネイが付けられており(この人選も王妃によるものだった)、彼らは王妃の密命を必要以上に執行してエドワード2世を惨殺した。年代記の記述を差し引いても、肛門に焼け火箸を差し込むといった拷問が繰り返されたことは確かと見られている{{sfn|森護|1986|p=133-134}}。

イザベラとマーチ伯は1330年まで、エドワード3世の摂政として権力を握った。

== 人物 ==
英国史上最低の王と呼ばれる{{sfn|森護|1986|p=122}}。

エドワード2世は優柔不断で、政治に関心をあまり持たなかったといわれる、また、[[両性愛]]者<ref>[http://www.glbtq.com/social-sciences/edward_II.html Edward II] Retrieved November 1, 2006.</ref>と噂され、ギャヴィストンやディスペンサーの息子と関係があり、彼らの登用はその理由によるものと信じられていた。


== 子女 ==
== 子女 ==
妻イザベラとの間に4人の子女をもうけた。
妻イザベラとの間に4人の子女をもうけた。
*[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]](1312年 - 1377年) - イングランド王
*[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]](1312年 - 1377年) - イングランド王
*[[ジョン・オブ・エルタム|ジョン]](1316年 - 1336年) - コーンウォール伯
*{{仮リンク|ジョン・オブ・エルタム (コーンウォール伯)|label=ジョン|en|John of Eltham, Earl of Cornwall}}(1316年 - 1336年) - {{仮リンク|コーンウォール伯|en|Earl of Cornwall}}
*[[エリナー・オブ・ウッドストック|エリナー]](1318年 - 1355年) - 1332年、ゲルデルン(ヘルレ)公[[レイナルト2世 (ゲルデルン公)|レイナルト2世]]と結婚
*[[エリナー・オブ・ウッドストック|エリナー]](1318年 - 1355年) - 1332年、[[ゲルデルン公|ゲルデルン(ヘルレ)公]]{{仮リンク|レイナルト2世 (ゲルデルン公)|label=レイナルト2世|de|Rainald II. (Geldern)}}と結婚
*[[ジョーン・オブ・ザ・タワー|ジョーン]](1321年 - 1362年) - 1328年、スコットランド王[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]と結婚
*[[ジョーン・オブ・ザ・タワー|ジョーン]](1321年 - 1362年) - 1328年、スコットランド王[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]と結婚


またアダム・フィッツロイ(生母不明、1322年没)という名の庶子をもうけていた。
また{{仮リンク|アダム・フィッツロイ|en|Adam FitzRoy}}(生母不明、1322年没)という名の庶子をもうけていた。
==系図==
==系図==
{{イングランド王室プランタジネット朝}}
{{イングランド王室プランタジネット朝}}
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== 備考 ==
== 備考 ==
[[エリザベス朝]]期の劇作家[[クリストファー・マーロウ]]が[[戯曲]]『エドワード二世』を書いている。また、これをもとに[[デレク・ジャーマン]]の監督による映画『[[エドワード II]]』(1991年)が制作されている。
[[エリザベス朝]]期の劇作家[[クリストファー・マーロウ]]が[[戯曲]]『エドワード二世』を書いている。また、これをもとに[[デレク・ジャーマン]]の監督による映画『[[エドワード II]]』(1991年)が制作されている。

== エドワード2世を演じた人物 ==
*{{仮リンク|ピーター・ハンリー|en|Peter Hanly}} (1995年アメリカ映画『[[ブレイブハート]]』)
*{{仮リンク|スティーブン・ワディントン|en|Steven Waddington}} (1991年イギリス映画『[[エドワード II]]』


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
{{Commonscat|Edward II of England}}
*{{Cite book|和書|editor=[[青山吉信]](編)|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈1〉先史~中世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460102|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=[[松村赳]] |author2=[[富田虎男]]|date=2000年(平成12年)|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767430478|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[森護]]|date=1986年(昭和61年)|title=英国王室史話|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240900|ref=harv}}


== 外部リンク ==
{{イングランド王|1307年 - 1327年}}
*{{Commonscat-inline|Edward II of England}}
{{先代次代|アキテーヌ公|1307年 - 1325年|[[エドワード1世 (イングランド王)|エドゥアール1世]]|[[エドワード3世 (イングランド王)|エドゥアール3世]]}}
{{先代次代|[[プリンス・オブ・ウェールズ]]|1301年 - 1307年|―|[[エドワード黒太子]]}}


{{s-start}}
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2015年12月19日 (土) 15:21時点における版

エドワード2世
Edward II
イングランド王
在位 1307年7月7日 - 1327年1月20日
戴冠式 1308年2月25日

出生 1284年4月25日
イングランド王国の旗 イングランド王国 北西ウェールズカーナーヴォン城
死去 (1327-09-21) 1327年9月21日(43歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国 グロスタシャー、バークリー城
埋葬  
グロスタシャー、グロスター大聖堂
配偶者 イザベラ・オブ・フランス
子女 下記参照
家名 プランタジネット家
王朝 プランタジネット朝
父親 エドワード1世
母親 エリナー・オブ・カスティル
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エドワード2世Edward II, 1284年4月25日 - 1327年9月21日)は、プランタジネット朝イングランド王(在位:1307年7月7日 - 1327年1月20日)。

エドワード1世の子。1307年に父王の崩御で即位。ギャヴィストンディスペンサー父子などの寵臣に政治を主導させ、諸侯や議会との対立を深めた。 1326年に王妃イザベラが起こしたクーデタで幽閉の身となり、その翌年には議会から廃位されたうえ、王妃の密命で殺害された。

生涯

生い立ち

1284年4月25日イングランド王エドワード1世と王妃エリナー・オブ・カスティルの四男としてウェールズカーナーヴォン城で生まれた。上の兄三人はいずれも幼くして薨去したため、嫡男の立場だった[1][2]

10歳の頃の1294年に同世代のピアーズ・ギャヴィストンを遊び友達として付けられ、親密な関係となる。以降彼への寵愛が始まる(同性愛の関係とも)[3][2]

1301年、父王は、イングランド支配下ウェールズの人心を掌握することを目的としてルウェリン・アプ・グリフィズが所持していたウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)の称号をエドワードに授けた。以後、この称号はイングランド・イギリス皇太子に与えられる伝統となる[4]

1306年3月、イングランドの支配下に置かれていたスコットランドでキャリック伯ロバート・ブルース(ロバート1世)がスコットランド王即位を宣言し、エドワード1世に反旗を翻した。エドワード1世は当時赤痢を患っていたので、皇太子エドワードと第2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス英語版を鎮圧軍の先発としてスコットランドに派遣した[5]。しかし彼のテントは、戦場に不向きな舞踏会で着るような衣装でいっぱいであり、それを貴族や騎士たちに見せびらかして、ひんしゅくを買ったという[6]。結局この先発軍は1307年5月のロウドゥン・ヒルの戦い英語版でロバート率いるスコットランド軍に敗北した[5][7]

国王に即位

父王もスコットランドへ向かって出陣したが、その途中の1307年7月に崩御した。皇太子エドワードがただちにエドワード2世としてイングランド王に即位した。崩御に際して父は自分の心臓は聖地エルサレムに埋葬すること、遺体はスコットランド平定まで埋葬しないこと、自分の骨をイングランド軍の先頭に置いて進軍すること、ギャヴィストンは追放するのでその追放を解かないことを皇太子に遺言したが[8]、エドワード2世は父の遺言を守らず、父の遺体は全てウェストミンスター寺院に葬り[9]、スコットランド出兵を中止し[7]、ギャヴィストンの追放を解いて再び側近として重用した[3]

父王晩年からの諸侯と王権の慢性的不和、王庫の財政破たん状態は続いていたが、エドワード2世はそれを解決できるような器ではなかった[10]

ギャヴィストン寵愛

エドワード2世とギャヴィストンの親密さを描いた絵画(マーカス・ストーン画)

即位とともにギャヴィストンに異常な寵愛を注いだ。ギャヴィストンに王族専用の爵位コーンウォール伯英語版位を与えるとともに王の俸禄配分権(Patronage)を差配させた[11]

1308年1月にはフランス王フィリップ4世の娘イザベラとフランスにおいて結婚したが、この不在の間、ギャヴィストンを摂政に任じている。諸侯は以前からエドワード2世のギャヴィストン寵愛を不快に思っていたが、これをきっかけに反発が一気に高まった[12][13]

イザベラを伴って帰国した後の1308年2月25日に戴冠式に臨んだが、この時もギャヴィストンを王冠奉持者にして重用している。ギャヴィストンは自分に敵意を飛ばす諸侯にわざと恥をかかせるようなふるまいをし、さらに王妃イザベルの叔父たちにも無礼を働いた。この叔父たちは怒って席を立ってフランスへ帰国してしまったほどだった[14]

1308年の議会に諸侯は武装して集まり、エドワード2世を威圧してギャヴィストン追放を要求した。屈服したエドワード2世はギャヴィストンをアイルランド総督に任じてロンドンから遠ざけることで諸侯と妥協した。この際もエドワード2世はギャヴィストンとの別れを惜しみ、アイルランドへ向かうギャヴィストンの見送りにブリストルまで同行した[15]。さらに翌1309年の議会でエドワード2世は議会からの様々な要求を受け入れる代わりにギャヴィストンを呼び戻す許可を得、ギャヴィストン寵愛を再開した[16][15]

改革勅令とギャヴィストンの死

第2代ランカスター伯トマス、第4代ヘレフォード伯英語版ハンフリー・ド・ブーン英語版、第9代アランデル伯エドムンド・フィッツアランら諸侯がギャヴィストンを私刑で斬首した場面の絵
A Chronicle of England,1864年

1310年の議会も諸侯は武装して集まり、悪しき助言者の存在、物資徴発の弊害、スコットランド喪失、1307年と1309年の議会が与えた租税が空費されたことなどを列挙してエドワード2世を批判し、政治改革を要求した。エドワード2世は屈服し、カンタベリー大司教、6人の司教、8人の伯爵なら成る改革勅令起草委員会(Lords Ordainers)の設置を認めた[17]

1311年の議会の討議も踏まえて、同年秋に改革勅令英語版が発せられた。この改革勅令は、ギャヴィストン永久追放、エドワード2世即位後に行われた王領地贈与の取り消し、1294年以降制定の関税廃止、王を議会の管理下に置いて王の執行権や人事権や行動の自由を制限すること、年に1度か2度は議会を開くこと、大憲章(マグナ・カルタ)や御料林憲章英語版の解釈権は議会の諸侯にあることなどが盛り込まれていた[17][6]

ギャヴィストンは追放処分を受ける前にフランドルへ逃げ、その後ひそかに帰国し、1312年にウィンザーのエドワード2世と合流して追放処分取り消しを受けた。これを知って激怒した諸侯はウィンザーへ向けて進軍し、エドワード2世とギャヴィストンはスカーバラ城に籠城して三週間粘ったが、結局降伏を余儀なくされた[18]

エドワード2世の執り成しと懇願でギャヴィストンの生命は保証されたが、その代わりギャヴィストンは永久追放処分となることになった。第2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス英語版に引き渡されて護送されていったが、この際に第2代ランカスター伯トマスらギャヴィストン助命に反対する諸侯が独断でギャヴィストンの身柄を強奪して私刑の斬首に処してしまった。この件にエドワード2世は憤慨し、ランカスター伯らとペンブルック伯らの関係にも亀裂が入り、諸侯の連携が崩れた。内乱の空気さえ漂ったが、皇太子エドワード出産の慶事があったため、危機は回避された[19][18]

1314年夏にはスコットランドにおけるイングランドの拠点スターリングが包囲されたのを受けて、エドワード2世自ら援軍を率いてスコットランドへ出征したが、バノックバーンの戦いでスコットランド軍に惨敗。これはエドワード2世の権威を一層低下させ、改革勅令の遵守を誓約することを余儀なくされた[19]。またこの戦いにはペンブルック伯が従軍していたが、彼との不仲からランカスター伯は参加しなかった。そのため政府の指導権はランカスター伯が握るところとなった[20]

1316年2月の議会では、ランカスター伯に政権を任せられることになったが、彼は積極的な国政指導を行わず、エドワード2世とも他の諸侯とも疎遠になって孤立を深めた[21]

ディスペンサー父子の台頭

一方宮廷ではヒュー・ディスペンサーとその同名の息子英語版の親子がエドワード2世の寵愛を得て台頭していた[22]

ディスペンサー親子の寵愛も諸侯の反発を買い、ディスペンサー親子は諸侯の圧力で1321年に国外追放処分となったが、その翌年には国王が呼び戻した。これを知ったランカスター伯ら諸侯はディスペンサー追放を求めて挙兵するが、ペンブルック伯らランカスター伯と対立する諸侯が参加しなかった。結局ランカスター伯は1322年3月のバラブリッジの戦いで王軍に敗北し、捕らえられて処刑された[23][24]

このバラブリッジの戦いの勝利により宮廷勢力(エドワード2世とディスペンサー父子)は権力を回復させ、1322年ヨークでの議会では先の改革勅令を全体として廃止できた[25]

息子ディスペンサーは実務嫌いのエドワード2世から実務を任されて、その恩賞で領地をどんどん拡大させ、さらに賄賂で私腹を肥やした[25]。父ディスペンサーもウィンチェスター伯に叙されて厚遇された[22]

以降5年ほどディスペンサー父子が国政を主導していくが、この間ディスペンサー父子の専横への怨嗟はどんどん高まっていた[25]。特にウェールズにおける所領の拡大はウェールズ辺境諸侯英語版の強い反発を招いた。また1324年9月には王妃イザベラの所領が没収されたことでディスペンサー親子は王妃も敵に回すことになった(この年ガスコーニュで百年戦争の前振れのサン=サルド戦争英語版が発生し、フランス人の王妃の所領がフランス軍の橋頭保にされる恐れがあるとして没収に踏み切った)[25]

王妃のクーデタで失脚

夫エドワード2世を逮捕させ、息子の皇太子エドワードとともにイングランドへ戻ったイザベラ王妃

フランスでは1322年シャルル4世が国王に即位しており、エドワード2世はサン=サルド戦争の戦後処理としてアキテーヌ領有を続けるためにアキテーヌ公としてシャルル4世に臣下の礼をとることになった。しかしエドワード2世自身は訪仏せず、名代として王妃イザベラと皇太子エドワードが訪仏した[26][27]

ところがイザベラはディスペンサー父子を追放しない限り皇太子エドワードとともにフランスに残ると言い張り、帰国を拒否した。パリにはディスペンサー父子に追放されたイングランド貴族が大勢おり、その中にウェールズ辺境諸侯の一人である初代マーチ伯ロジャー・モーティマーがいた。彼と親密になった王妃は夫を廃位して皇太子に王位を継がせる計画を立て始めた[27][26]

そして1326年9月にイザベラとマーチ伯が集めた騎士たちがイングランド東部サフォークへ上陸を開始し、ロンドンへ進軍した。嫌われ者のエドワード2世とディスペンサー親子に味方はなく、各地で王妃軍は歓迎された。ロンドン市も王妃の味方をした。エドワード2世とディスペンサー親子は逃亡したが、全員逮捕された。ディスペンサー親子は処刑され、エドワード2世はケニルワース城で幽閉の身となった[28][29]

議会で廃位される

1327年1月にウェストミンスターに議会が招集された。このときの議会も1322年のヨークでの議会と同様に州・都市代表を多数含んでおり、さらにウェ-ルズ代表も出席していた。したがって代議制の面が強い議会であった[29]。また反国王派の司教たちが説教壇から国王の愚かさを強調する演説をして、議会外の国王廃位の世論の盛り上げも行われた[29]

議会はエドワード2世の廃位を決議した。エドワード皇太子(エドワード3世)が新国王に指名されたが、エドワード皇太子は父からの正式な譲位の文書がなければ王位継承しないと返答したので、議会は1月20日にケニルワース城に代表を送ってエドワード2世に譲位文書に署名するよう迫った。議会の廃位決定を聞かされたエドワード2世は絶望して消え入りそうな声でその決定を受諾する旨を答え、署名に応じたという[30]。そして1月25日に議会代表者より「エドワードにたいするあらゆる臣従と忠誠を放棄する」との宣言が発せられた[29]

この時の廃位に議会の決議という手段が使われたことは、王国の諸身分の代表が集まる集会で表明される国民の総意は王位すら左右できることの前例になったという点でイギリス立憲主義に大きな意義があったといえる[31]

惨殺されて崩御

その後、ケニルワース城からバークレイ城に移されて監禁が続けられた[32]

議会はエドワード2世の処刑を決議してなかったが、廃位されたエドワード2世を救出しようという企図が二回あり、それを危険視した王妃が独断で密命を下し、殺害されることになった[31]。エドワード2世の看守には無法者の騎士として知られたロジャー・ド・モルトゥレイヴとトマス・ド・グルネイが付けられており(この人選も王妃によるものだった)、彼らは王妃の密命を必要以上に執行してエドワード2世を惨殺した。年代記の記述を差し引いても、肛門に焼け火箸を差し込むといった拷問が繰り返されたことは確かと見られている[33]

イザベラとマーチ伯は1330年まで、エドワード3世の摂政として権力を握った。

人物

英国史上最低の王と呼ばれる[34]

エドワード2世は優柔不断で、政治に関心をあまり持たなかったといわれる、また、両性愛[35]と噂され、ギャヴィストンやディスペンサーの息子と関係があり、彼らの登用はその理由によるものと信じられていた。

子女

妻イザベラとの間に4人の子女をもうけた。

またアダム・フィッツロイ英語版(生母不明、1322年没)という名の庶子をもうけていた。

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若ヘンリー
 
リチャード1世
 
ジョン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード黒太子
 
ライオネル・オブ・アントワープ
 
ジョン・オブ・ゴーント
 
エドマンド・オブ・ラングリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード2世
 
 
 
 
 
ランカスター朝
 
ヨーク朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


逸話

「イングランド領海で取れたチョウザメは王の物」とする法律を発したという。

備考

エリザベス朝期の劇作家クリストファー・マーロウ戯曲『エドワード二世』を書いている。また、これをもとにデレク・ジャーマンの監督による映画『エドワード II』(1991年)が制作されている。

エドワード2世を演じた人物

脚注

  1. ^ 森護 1986, p. 122-123.
  2. ^ a b 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 223.
  3. ^ a b 森護 1986, p. 123.
  4. ^ 森護 1986, p. 110-111.
  5. ^ a b 森護 1986, p. 115-116.
  6. ^ a b 森護 1986, p. 127.
  7. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 356.
  8. ^ 森護 1986, p. 116/123.
  9. ^ 森護 1986, p. 116.
  10. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 284.
  11. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 284-285.
  12. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 285.
  13. ^ 森護 1986, p. 124.
  14. ^ 森護 1986, p. 124^-126.
  15. ^ a b 森護 1986, p. 126.
  16. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 286.
  17. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 287.
  18. ^ a b 森護 1986, p. 127-128.
  19. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 287-288.
  20. ^ 森護 1986, p. 129-130.
  21. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 288.
  22. ^ a b 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 197.
  23. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 289-290.
  24. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 85-86.
  25. ^ a b c d 青山吉信(編) 1991, p. 291.
  26. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 291-292.
  27. ^ a b 森護 1986, p. 131-132.
  28. ^ 森護 1986, p. 132.
  29. ^ a b c d 青山吉信(編) 1991, p. 292.
  30. ^ 森護 1986, p. 133.
  31. ^ a b 青山吉信(編) 1991, p. 293.
  32. ^ 森護 1986, p. 134.
  33. ^ 森護 1986, p. 133-134.
  34. ^ 森護 1986, p. 122.
  35. ^ Edward II Retrieved November 1, 2006.

参考文献

  • 青山吉信(編) 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460102 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478 
  • 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年(昭和61年)。ISBN 978-4469240900 

外部リンク

エドワード2世 (イングランド王)

1284年4月25日 - 1327年9月21日

イングランド王室
先代
エドワード1世
イングランド王
アキテーヌ公
アイルランド卿

1307年–1327年
次代
エドワード3世
先代
エリナー 及び エドワード1世
ポンチュー伯フランス語版
1290–1327
空位
最後の在位者
ルウェリン・アプ・グリフィズ
ウェールズ大公
1301年–1307年
空位
次代の在位者
エドワード黒太子