コンテンツにスキップ

「オットー・フォン・ハプスブルク」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
美節子 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
編集の要約なし
(3人の利用者による、間の15版が非表示)
2行目: 2行目:
| 人名 = オットー・フォン・ハプスブルク
| 人名 = オットー・フォン・ハプスブルク
| 各国語表記 = {{lang|de|Otto von Habsburg}}
| 各国語表記 = {{lang|de|Otto von Habsburg}}
| 家名・爵位 =
| 家名・爵位 = [[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]
| 画像 = Otto Habsburg 001.jpg
| 画像 = Otto Habsburg 001.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像サイズ = 250px
8行目: 8行目:
| 続柄 = [[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]第1皇子
| 続柄 = [[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]第1皇子
| 称号 =
| 称号 =
| 全名 = {{lang|de|Franz Josef Otto Robert Maria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xavier Felix René Ludwig Gaetano Pius Ignazius von Österreich}}
| 全名 = {{lang|de|Franz Joseph Otto Robert Maria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xavier Felix René Ludwig Gaetano Pius Ignazius von Österreich}}
| 身位 = [[オーストリア大公|大公]]、[[皇太子]]→帝政廃止
| 身位 = [[オーストリア大公|大公]]、[[皇太子]]→帝政廃止
| 敬称 = [[殿下]]→帝政廃止
| 敬称 = [[殿下]]→帝政廃止
20行目: 20行目:
{{HUN}}、[[パンノンハルマの大修道院]](心臓)
{{HUN}}、[[パンノンハルマの大修道院]](心臓)
| 配偶者1 = [[レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン]](1951年 - 2010年、死別)
| 配偶者1 = [[レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン]](1951年 - 2010年、死別)
| 子女 = アンドレア<br>モニカ<br>ミカエラ<br>ガブリエラ<br>ヴァルブルガ<br>[[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール]]<br>ゲオルク
| 子女 = アンドレア<br>モニカ<br>ミカエラ<br>ガブリエラ<br>ヴァルブルガ<br>[[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール]]<br>[[ゲオルク・ハプスブルク=ロートリンゲン|ゲオルク]]
| 王家 = [[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]
| 王家 = [[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]
| 父親 = [[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]
| 父親 = [[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]
| 母親 = [[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]
| 母親 = [[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]
| 役職 = [[欧州議会議員]](ドイツ選出)
| 役職 = [[欧州議会議員]](ドイツ選出)
| サイン = Otto von Habsburg Signature.svg
}}
}}
'''オットー・フォン・ハプスブルク'''({{lang|de|Otto von Habsburg}}, [[1912年]][[11月20日]] - [[2011年]][[7月4日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]([[1918年]]に帝政廃止)の皇太子。1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、第二次世界大戦中には[[ドナウ連邦]]を、戦後はヨーロッパの統合を提唱した<ref>『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.400</ref>。[[欧州議会議員]]や[[国際汎ヨーロッパ連合]]国際会長を務めるなど、汎ヨーロッパ的に活動した政治家でもある。
'''オットー・フォン・ハプスブルク'''({{lang|de|Otto von Habsburg}}, [[1912年]][[11月20日]] - [[2011年]][[7月4日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]([[1918年]]に帝政廃止)の[[皇太子]]。1930年代のオーストリアにおける[[君主制]]復活運動を指導し、第二次世界大戦中には[[ドナウ連邦]]」計画を、戦後はヨーロッパの統合を提唱した。[[欧州議会議員]]や[[国際汎ヨーロッパ連合]]国際会長を務めるなど、汎ヨーロッパ的に活動した政治家でもある。


最後の[[オーストリア皇帝|皇帝]][[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]と皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]の長子で、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[ハンガリー]]、[[クロアチア]]の市民権を持っていた。
最後の[[オーストリア皇帝|皇帝]][[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]と皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]の長子で、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[ハンガリー]]、[[クロアチア]]の市民権を持っていた。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
=== 帝国時代 ===
==== 誕生 ====
[[File:Coronation Hungary 1916.jpeg|thumb|220px|1916年に描かれた当時4歳の皇太子オットー]]
[[File:Reichenau an der Rax Villa Wartholz 1900.jpg|thumb|left|210px|{{仮リンク|ヴィラ・ヴァルトホルツ|en|Villa Wartholz}}。([[1900年]]撮影)]]
1912年、カール1世(当時は[[オーストリア大公|大公]])とツィタの長子として誕生した。老齢の皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]は唯一の息子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ皇太子]]が情死し、皇位継承者に指名した甥の[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]はボヘミアの伯爵家出身(皇后・大公妃としては身分不相応)の[[ゾフィー・ホテク]]と結婚しており、[[ブルボン家]]の血を引くツィタとの子であるオットーの誕生をことのほか喜び、随喜の涙を流したほどであった。
[[1912年]][[11月20日]]午前2時45分、[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール大公]]と[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ大公妃]]の長子として、{{仮リンク|ライヒェナウ|en|Reichenau an der Rax}}の{{仮リンク|ヴィラ・ヴァルトホルツ|en|Villa Wartholz}}で誕生した<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.88"> グリセール=ぺカール(1994) p.88</ref>。体重はおよそ4000グラムだった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.88"/>。生誕時の皇位継承順位は第3位。皇位継承権を有する者はごく限られていたことから、老齢の皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]は男児の誕生をことのほか喜んだ。とりわけ[[ブルボン家]]の血を引くツィタとの子であるがゆえに、随喜の涙を流したほどであったという。


フランツ・ヨーゼフ1世からみてこの男児は、弟[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ大公]]の曾孫というやや遠い血縁であったが、唯一の男子だった[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]皇太子はすでに亡く、皇位継承者に指名した甥のフランツ・フェルディナント大公は[[ゾフィー・ホテク]]と[[貴賤結婚]]しており、その子孫には皇位継承権が認められなかった。よって、フランツ・フェルディナント大公の次には、その弟[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ大公]](1906年にすでに他界)の長男であるカール大公が皇位を継ぐことが確実視されており、その長男として生まれた男児も未来のオーストリア皇帝になると目された。誕生から数日後、オーストリアの『新自由新聞』は「1970年代には誕生した新大公がハプスブルク家の頂点に立つことになろう」という予測を紙面に載せている<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.89"> グリセール=ぺカール(1994) p.89</ref>。
フランツ・フェルディナント大公は[[1914年]]の[[サラエボ事件|サラエヴォ事件]]で暗殺され、これをきっかけとして[[第一次世界大戦]]が勃発するが、これによってカール大公が新たに皇位継承者となった。大戦さなかの[[1916年]]に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は死去し、父カールが皇帝に即位、オットーも皇太子になった。しかし、[[1918年]]にオーストリアは敗北し、帝国は崩壊した。カール1世は皇帝の地位を失い、家族とともに国外へ逃れた。時に6歳であったオットーはこの後、主に[[スペイン王国]]で育っていった。母ツィタはオットーに多くの言語を学ばせた。それは、オットーがいつの日か非常に多くの国を統治するかも知れないと信じてのことであった。オットーはドイツ語、ハンガリー語、クロアチア語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語を流暢に話すようになった。やがて父が[[1922年]]に世を去ると同時に、オットーは[[ハプスブルク君主国]]の皇位継承者となり、[[1932年]]には成年に達して当主となった。


=== 1930年代前半 ===
==== 洗礼 ====
11月25日、{{仮リンク|ウィーン大司教|en|Archbishop of Vienna}}である{{仮リンク|フランツ・ザビエル・ナグル|en|Franz Xaver Nagl}}[[枢機卿]]によって洗礼を受け、洗礼名を「'''フランツ・ヨーゼフ・オットー'''・ロベルト・マリア・アントン・カール・マックス・ハインリヒ・シクストゥス・フェリックス・レトゥス・ルートヴィヒ・ガエタン・ピウス・イグナティウス」と定められた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.91"> グリセール=ぺカール(1994) p.91</ref>。代父は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、代母は祖母である[[マリーア・アントーニア・デル・ポルトガッロ]]だと、誕生前から決められていた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.89"/>。皇位継承者である[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]が皇帝の代理を務めることになっていたが、誕生の報告を受けた際に彼は[[ブダペスト]]にいた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.90"> グリセール=ぺカール(1994) p.90</ref>。すぐさま帝都[[ウィーン]]へ戻るのは不可能だったため、早めに洗礼式を行いたい教会の意に反して、出生から洗礼式の挙行までに5日を要することとなった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.90"/>。
1932年の暮れ、オットーは[[ベルリン]]で博士論文のための研究をしており、そこで[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]の政治家たちの知遇を得ていた<ref name =HabsburgP230>『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.230</ref>。台頭しつつあった右翼の男、[[アドルフ・ヒトラー]]の注目を惹いてもいた。[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]をドイツに併合する助けになりそうな傀儡君主にできるかもしれないと見ていたのであった<ref name =HabsburgP230/>。


その名前からして「フランツ」あるいは「フランツ・ヨーゼフ」と呼ばれるべきであり、実際にそれは「'''フランツ・ヨーゼフ2世'''」となることが念頭に置かれての命名であった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.91"/>。しかし、時の皇帝との区別あるいは遠慮といった理由によるものか、母ツィタは男児を「'''オットー'''」と呼ぶようになった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.91"/>。オットーとは、祖父である[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ大公]]の名から取られたものだった<ref name="スナイダー(2014) p.267"> スナイダー(2014) p.267</ref>。
父のカール1世がハンガリーの王位に就こうとした二回の試みから十年そこそこしか経っておらず、その息子であるオットーを期待を持って見守るハンガリー人たちもいた。ハンガリーの新聞は、王政復古の可能性について何度か記事にした<ref name =HabsburgP230/>。


母ツィタは乳母を置くことなく、自らの母乳を与えてオットーを育てた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.92"> グリセール=ぺカール(1994) p.92</ref>。[[1913年]]1月末、一家は[[シェーンブルン宮殿]]の近くに位置する{{仮リンク|ヘッツェンドルフ城|de|Schloss Hetzendorf}}に住まいを移した<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.92"/>。
[[イタリア]]の[[ファシスト党]]の統領である[[ベニート・ムッソリーニ]]は、母のツィタとオットーに対して、ハプスブルク家の再興は自分たちの共通の目標になりうると説得を試みた。1932年にイタリアの新聞は、中欧の支配者としてはヒトラーよりもハプスブルク家の方が良いという意見を掲載し、間接的にハプスブルク家の王政復古を推し進めた<ref name =HabsburgP230/>。ムッソリーニはツィタを[[ローマ]]に招き、イタリアの王位継承権のある王女がオットーと結婚するのを見たいと彼女に話した。このような縁談は1930年代初頭のヨーロッパの新聞では、仮に誤報であれ、定期的に流された<ref name =HabsburgP230/>。


=== アンシュルス前後 ===
==== 第一次世界大戦勃発 ====
[[File:Franz Joseph Karl Otto of Austria.jpg|thumb|left|210px|老帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]、父[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール]]大公とともに。([[1915年]])]]
オットーは、ドイツによるオーストリア併合([[アンシュルス]])を阻もうとしていた。[[1937年]]の終わりから[[1938年]]の始めにかけて、オットーは自分の話に耳を傾ける者すべてに、ヒトラーをウィーンから遠ざけておくにはハプスブルク家の再興しかない、と口にしていた<ref name =HabsburgP287>『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.287</ref>。[[1937年]]の11月20日はオットーの25歳の誕生日であったが、この日ウィーンの街は、旧帝国を象徴する色である黒と金で飾り立てられた<ref name =HabsburgP287/>。ヒトラーの最後通牒が来た直後、オットーは政府の首班として尽力することをオーストリアの[[クルト・シュシュニック]]首相に申し出た。シュシュニック首相はオットーの申し出を丁重に断ったが、その理由は、ハプスブルク家の復興は即座にドイツの攻撃を招くから自殺行為になるだろう、とドイツに言われたことによるものだった<ref name =HabsburgP287/>。結局のところ、オットーが王位に就くよう頼まれたことはなかったが、それと関わりなくドイツはオーストリアの地へ侵攻してきたのであった。ヒトラーによる一連のオーストリア侵略計画は、{{仮リンク|オットー作戦|de|Unternehmen Otto}}と呼ばれていた<ref name =HabsburgP287/>。
[[1914年]][[6月28日]]に[[サラエボ事件]]が起こり、これをきっかけとして[[第一次世界大戦]]が勃発する。皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が銃弾に斃れたことによって、父カール大公が新たに皇位継承者となり、オットーの皇位継承順位も第2位に繰り上がった。


同年のうちにカール大公一家は、フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いによって、[[シェーンブルン宮殿]]で老帝と同居するようになった<ref name="江村(1994) p.390"> 江村(1994) p.390</ref>。一家が暮らすようになったシェーンブルン宮殿の居室は、かつてフランツ・ヨーゼフ1世の両親が生活していた部屋だった<ref>グリセール=ぺカール(1994) p.127</ref>。
=== 第二次世界大戦 ===
[[第二次世界大戦]]中、オーストリアが[[ナチス・ドイツ]]に併合された後、ナチス体制はオットーを死刑にすることを宣告した。[[ルドルフ・ヘス]]は、オットーを捕らえた場合、すぐに処刑を実行するように命じた。[[1940年]]に[[フランス]]がドイツ軍によって占領されると、オットーの家族は[[パリ]]から退去して[[ポルトガル]]に逃れた。そして自身の安全のために、オットーはヨーロッパ大陸から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に発ち、[[1940年]]から[[1944年]]まで[[ワシントンDC]]に住んだ。アメリカの支援を受け、オーストリア人部隊を創設して祖国解放を計画するが、隊員の質があまりにも悪かったため、支援を打ち切られて失敗する。


晩年のある日、「私には子供たちが何よりも素晴らしく好ましい。年を取れば取るほど、子供が好きになる。」と側近に漏らしたこともある老帝にとって<ref>江村(1994) p.353</ref>、元気な子供たちとともに時間を過ごすことは最大の気晴らしであった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.111"> グリセール=ぺカール(1994) p.111</ref>。フランツ・ヨーゼフ1世はとりわけ兄弟のうち最年長であるオットーを寵愛し<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.111"/>、よちよち歩きをするようになったオットーを見るのを楽しみにしていたという<ref name="江村(1994) p.390"/>。
大戦後の[[1945年]]、帝政廃止後の初代首相である[[カール・レンナー]]がオーストリア政府の再建に乗り出すと、オットーは彼を[[ソビエト連邦]]の手先だと糾弾してその新政権樹立の妨害を試みた。しかし、レンナーがソ連軍の妨害を阻止して自由選挙を成功させたため、かえってオットーの信用は低下した。[[1961年]]には[[オーストリア|オーストリア共和国]]への敵対行為を行わないこと、帝位継承権を放棄することを誓約して、国外追放処分を解除された。ただしオットーは、オーストリア帝位継承権は放棄したものの、その他のハンガリー国王などの継承権は保持し続けた。


=== 政治家として ===
==== 父の即位、皇太子に ====
[[File:Kroenung Budapest Karl und Zita 1916a.jpg|thumb|right|180px|[[ブカレスト]]での父帝の[[戴冠式]]にて。([[1916年]]12月)]]
[[Image:Habsburgotto.jpg|thumb|left|オットーの演説]]
大戦さなかの[[1916年]][[11月21日]]にフランツ・ヨーゼフ1世は崩御し、父が皇帝「'''カール1世'''」として即位したのに伴ってオットーは4歳で皇太子になった。11月30日に営まれたフランツ・ヨーゼフ1世の葬儀では、カール1世とツィタに挟まれて[[カプツィーナー納骨堂]]への行列の先頭に立った<ref>江村(1994) p.397</ref>。
[[1979年]]から[[1999年]]までの20年間にわたり、ドイツ選出の[[欧州議会議員]]([[キリスト教社会同盟]]所属)を務めた。初当選の時点でオットーは既に67歳となっていた<ref name =HabsburgP363>『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.363</ref>


同年12月、父がハンガリー王「'''カーロイ4世'''」としての戴冠式のために[[ブダペスト]]へ向かった際には、オットーも同伴した。この時オットーはハンガリーの人々に注目され、大いに人気を集めたという<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.141"> グリセール=ぺカール(1994) p.141</ref>。ドイツ大使ヴェデル曰く、「ハンガリー人は皇太子の話でもちきりだが、彼はいかにも利発そうなうえに、素直で初々しいところに人気があるようだ<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.141"/>。」
[[1989年]]、多数の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]市民が[[ハンガリー]]・オーストリア国境を越えて[[西ドイツ]]に亡命する[[汎ヨーロッパ・ピクニック]]が起こると、オットーは西側からこれを支援した。また、[[東欧革命]]の後には[[欧州連合]]を東側に拡大することを唱えた<ref name =HabsburgP363/>


{{Gallery
[[ユーゴスラビア]]が解体された時、オットーはヨーロッパ諸国にプレッシャーをかけ、新しく独立した[[クロアチア]]を国家として承認するようにさせた。この時[[セルビア]]の民兵組織[[アルカン・タイガー]]の指導者の一人が、[[バルカン半島]]の政治に鼻を突っ込んだ際にフランツ・フェルディナントに何が起きたかに触れてオットーを脅迫した<ref>『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.357</ref>。それに対してオットーは、自身[[サラエボ]]に乗り込むことで応えた。この時オットーは「この悲劇の循環が閉じるのを祈って」サラエボに赴いたのだと語っている<ref>『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.358</ref>。
|ファイル:Coronation Hungary 1916.jpeg|[[1916年]]のオットー。父帝の戴冠式に向かう場面を描いたもの。
|ファイル:Kolo Moser - Kronprinz Otto - 1917.jpeg|[[1917年]]のオットー。
}}


==== 帝国の崩壊 ====
「'''古きよき保守派'''」と評価されており、先祖代々伝わるヨーロッパ統一の夢は、[[中世]]的な帝国的思想であると非難されることもあるが、欧州連合による欧州統一が夢物語ではなくなるにつれ、そのコスモポリタニズムが注目されている。
[[File:IV. Károly és családja.jpg|thumb|left|270px|カール1世とその家族。左から右へ、[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]、[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]、{{仮リンク|オーストリア女大公シャルロッテ|label=シャルロッテ|en|Archduchess Charlotte of Austria}}とツィタ、[[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]]とカール1世、{{仮リンク|オーストリア女大公アーデルハイト|label=アーデルハイト|en|Archduchess Adelheid of Austria}}、オットー、[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]。([[1921年]]、[[スイス]]にて)]]
戦局の悪化によって国民への食料配給の状況は悪化していった。また宮廷においても贅沢は一切許されず<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.152"> グリセール=ぺカール(1994) p.152</ref>、皇帝一家も国民となんら変わらぬ配給を受けるようになった。ある日、[[アメリカ]]のジャーナリストから丸いビスケットや板チョコをプレゼントされたオットーたちは狂喜したという<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.152"/>。


[[1918年]]10月、父カール1世は多くの貴重品や荷物を携え、家族とともにブダペスト近郊に位置する{{仮リンク|ゲデレ城|de|Schloss Gödöllő}}に発った<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.208"> グリセール=ぺカール(1994) p.208</ref>。カール1世とツィタはほどなくしてウィーンへ戻ったが、オットーは弟妹と共にそのままハンガリーに留まった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.208"/>。[[中央同盟国]]の敗北は決定的となり、10月28日にオーストリア=ハンガリー帝国は[[協商国]]に降伏した。
=== 晩年 ===
[[1922年]]から84年間務めていた家長の座を、高齢のため[[2006年]]いっぱいで長男に譲り、[[2007年]]から[[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール]]がハプスブルク家当主となった。<!--ドイツ語版に基づく-->


やがてブダペストで革命が発生したため、オットーたちは慌ててシェーンブルンへ戻されることとなった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.211"> グリセール=ぺカール(1994) p.211</ref>。オットーとその弟妹は、扉のハプスブルク家の家紋([[双頭の鷲]])が塗りつぶされた自動車でハンガリーを脱出した<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.211"/>。運転手は危険を避けるために宮廷用の制服を脱ぎ、軍服に着替えて運転したという<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.211"/>。ウィーンへの直線コースはすでに過激派に占拠されていることが想定されたため、大幅に迂回して[[スロバキア]]を経由し、一日に480kmも走行してウィーンに向かった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.211"/>。ようやく自動車がシェーンブルン宮殿に辿り着いた時、オットーたちは疲れて眠っていた<ref>グリセール=ぺカール(1994) p.212</ref>。
[[2011年]][[7月4日]]、[[ドイツ]]南部[[ペッキング]]の自宅にて98歳で死去した。[[2009年]]に階段から落ちて以来、体調が万全でなかったという<ref>[http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20110704-800009.html 最後の皇帝の長男O.ハプスブルク氏死去] 日刊スポーツ 2011年7月4日閲覧</ref>。


11月9日に[[ドイツ帝国]]の[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位した影響を受けて、オーストリアでもカール1世の退位を求める声が上がった<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.131"> ジェラヴィッチ(1994) p.131</ref>。カール1世は11月11日に「国事不関与」を宣言、旧来の帝国組織が崩壊していくのに並行して[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]]が樹立された<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.131"/>。時にオットーは6歳であった。カール1世は家族とともにウィーン郊外の{{仮リンク|エッカルトザウ城|de|Schloss Eckartsau}}へ移り、そして翌年3月23日には[[スイス]]へ亡命した<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.131"/>。同年4月2日に議会は、ハプスブルク家の財産没収のための法案を可決した<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.131"/>。
葬儀は7月16日、故国オーストリア・[[ウィーン]]の[[シュテファン大聖堂]]において、ウィーン大司教[[クリストフ・シェーンボルン]]の司式により営まれた。葬儀には[[欧州議会]]議長[[イェジ・ブゼク]]の他、[[スウェーデン]]国王[[カール16世グスタフ (スウェーデン王)|カール16世グスタフ]]、[[ルクセンブルク]]大公[[アンリ (ルクセンブルク大公)|アンリ]]、[[リヒテンシュタイン]]公[[ハンス・アダム2世]]や[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]元国王かつ元首相の[[シメオン・サクスコブルクゴツキ]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]の元国王[[ミハイ1世 (ルーマニア王)|ミハイ1世]]などの各国君主・元君主の他、[[イギリス]]、[[スペイン]]、[[ベルギー]]、[[バチカン]]からも国王(女王)や教皇の代理が出席した。ハプスブルク家の伝統に従い、遺体は同市の[[カプツィーナー納骨堂]]に安置され、心臓は[[ハンガリー]]北西部の[[パンノンハルマの大修道院]]に翌17日に納められた。


== 子女 ==
=== 亡命時代 ===
==== マデイラ島での生活 ====
[[1951年]]に[[ザクセン=マイニンゲン公国|ザクセン=マイニンゲン公家]]の当主[[ゲオルク・フォン・ザクセン=マイニンゲン|ゲオルク]]公子の娘[[レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン|レギーナ]]([[1925年]] - [[2010年]])と結婚した。2人の間には2男5女(モニカとミカエラは双生児の姉妹)が生まれており、[[ハプスブルク家]]の多産の伝統を守ったとも見なせる。
父カール1世は、国事不関与の宣言こそすれ、退位の宣言などしたつもりはなかった。カール1世は二度にわたって復権するための行動を起こしたが、しかし[[カール1世の復帰運動]]はいずれも失敗に終わり、[[1921年]]11月19日にカール1世とツィタは[[ポルトガル]]領[[マデイラ島]]に流された<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.146</ref>。
*'''アンドレア'''・マリア(1953年 - ) - 1977年、ナイペルク伯爵家家長カール・オイゲンと結婚

*'''モニカ'''・マリア・ロベルタ・アントーニア・ラファエラ(1954年 - ) - 1980年、第5代サンタンヘロ公爵ルイス・マリア・ゴンサガ・デ・カサノバ=カルデナス・イ・バロンと結婚
両親がマデイラ島への船路にある中、オットーたちはスイスになお留まっており、カール1世の義理の祖母[[マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル|マリア・テレサ]]大公妃の庇護のもとにあった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.277"> グリセール=ぺカール(1994) p.277</ref>。10月27日の時点では[[マリーア・アントーニア・デル・ポルトガッロ]]のもとに移ったようである<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.277"/>。
*'''ミヒャエラ'''・マリア・マデレーネ・キリアナ(1954年 - ) - 1984年にEric Alba Teran d'Antinと結婚(1994年離婚)、1994年にフーベルトゥス・フォン・カゲネック伯爵と再婚(1998年離婚)

*[[ガブリエーラ・フォン・ハプスブルク|'''ガブリエーラ'''・マリア・シャルロッテ・フェリーツィタス・エリーザベト・アントーニア]](1956年 - ) - 1978年、Christian Meisterと結婚、オットーの子女の中では唯一、王侯貴族以外の相手と結婚した(1997年離婚)。
[[1922年]]1月、母ツィタは次男[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]の虫垂炎の手術が間近に迫っていたことから、期限付きでスイスに入国した。この際にツィタはオットーたちをマデイラ島へ呼び寄せる決心を固めた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.282"> グリセール=ぺカール(1994) p.282</ref>。1月21日にスイスを発ったツィタの後を追い、1月25日にオットーは安静にせねばならないローベルトを除く弟妹たちと一緒にスイスを離れた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.286"> グリセール=ぺカール(1994) p.286</ref>。オットーたちはポルトガルでツィタと合流し、2月2日にマデイラ島に到着した<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.286"/>。マデイラ島での一家の暮らしは、バターも買えないほど困窮したものであった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.288"> グリセール=ぺカール(1994) p.288</ref>。
*[[ヴァルブルガ・ハプスブルク・ドゥグラス|'''ヴァルブルガ'''・マリア・フランツィスカ・ヘレーネ・エリーザベト]](1958年 - ) - 1992年、アルヒバルド・ドゥグラス伯爵と結婚

オットーがマデイラ島に到着してからわずか2か月後の[[1922年]][[4月1日]]、カール1世は[[肺炎]]によって死の床についたが、その際、母ツィタは9歳のオットーにこう言った。「お父様は今、永遠の眠りに就かれました。あなたは今、皇帝および王となったのです。」と<ref>{{cite web|url=http://diepresse.com/home/politik/innenpolitik/675151/Habsburgs-Erbe-zerfiel-und-erlebte-dennoch-eine-Renaissance?_vl_backlink=/home/politik/innenpolitik/index.do |title=Habsburgs Erbe zerfiel und erlebte dennoch eine Renaissance |publisher=Diepresse.com |date=27 May 2011 |accessdate=8 July 2011}}</ref>。父の重篤な病のことを知っていたのは兄弟のなかでオットーだけであり、オットーは兄弟で唯一カール1世の崩御に立ち会った<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.291"> グリセール=ぺカール(1994) p.291</ref>。オットーはこの日の午後から「'''陛下'''」と呼ばれるようになったが、オットーは大声で泣きながら「パパの遺体が運ばれてから、そう呼んでよ!」と周囲の者に言ったという<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.300"> グリセール=ぺカール(1994) p.300</ref>。

==== スペインでの生活 ====
[[File:Otto-rey-hungría--outlawsdiary00tormuoft.jpg|thumb|right|190px|父の死後、名目上の皇帝・王を称するようになった頃のオットー。[[1923年]]撮影。]]
カール1世の遺言に従って、一家は[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]を頼って[[スペイン王国]]へ渡った。アルフォンソ13世は一家を好意的に迎え、{{仮リンク|エル・パルド宮殿|es|Palacio Real de El Pardo}}を用意してくれた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.297"> グリセール=ぺカール(1994) p.297</ref>。しかしこの地は過酷な気候であることから、1922年8月18日、一家は同国の小さな漁村[[レケイティオ]]にある、[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]の夏の離宮であった[[ウリバーレン宮殿]]に移った<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.298"> グリセール=ぺカール(1994) p.298</ref>。地元の公共団体が家賃を肩代わりしてくれ、さらに地元住民が生活必需品を融通してくれるなど、困窮したハプスブルク家は当地で人々に温かく支えられた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.299"> グリセール=ぺカール(1994) p.299</ref>。だが、やがて所有者が自分で住むことになったため、同年冬には引っ越さざるをえなくなった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.299"/>。スペイン北部の海沿いにある保養地[[サン・セバスティアン]]で、シーズンオフの間だけ過ごすことをホテルに認められてここに住むようになった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.299"/>。オーストリアとハンガリーの貴族たちが宿泊費用を負担してくれたが、彼らに多額の出費をさせることになって申し訳ないと母ツィタが思ったことから、一家は再びレケイティオの地に引っ越した<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.299"/>。1923年6月6日にレケイティオに戻ってきた一家が目にしたのは、「ツィタ」「オットー」という横断幕が掲げられた家々と、打ち上げ花火による人々の歓迎であった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.299"/>。結局ウリバーレン宮殿に戻った一家は、それから[[1929年]]までここを居住地とした<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.300"/>。

レケイティオに腰を落ち着けた子供たちは、とにかく勉学に励まなければならなかった。スペイン国王アルフォンソ13世はオットーを首都[[マドリード]]の学校に通わせようと申し出てきたが、ツィタはこれを丁重に断った<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.300"/>。「皇帝および王」であるオットーは、ツィタが選び抜いた教師陣によって、オーストリアやハンガリーの非常に高度な教育を施されることになった。

のちにオットーは、「朝6時から8時まで自主学習、30分の休憩のあとに12時まで授業、午後2時から4時まで授業、5時から7時まで自主学習という日課で、その他の時間は妹のアーデルハイトや、他の弟たちと過ごした。」と当時を回想している<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.301"> グリセール=ぺカール(1994) p.301</ref>。オットーはかつて[[フランツ・ヨーゼフ1世]]が少年時代に受けたのと同様に、多くの言語を学ばせられることになった。それは、オットーが数多の国々(旧[[ハプスブルク君主国]])を統治する日がいつか来ることを期待してのことであった。この教育の甲斐あってオットーは、ドイツ語、ハンガリー語、クロアチア語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語を流暢に話すようになった。

==== ベルギーでの学生生活 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 102-14237, Otto von Habsburg und Graf von Degenfeld.jpg|thumb|left|280px|[[1933年]]のオットー(左側の人物)。Graf von Degenfeldとともに。]]
[[1928年]]、16歳のオットーは家族から離れて[[ルクセンブルク]]で暮らしていた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.310"> グリセール=ぺカール(1994) p.310</ref>。[[ベネディクト会]]の[[ギムナジウム]]に通学し、大学入学に向けての準備を行っていた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.310"/>。[[パリ]]か[[ロンドン]]の大学への留学も考えられたが、大都市での生活は経済的負担が重かったため、[[ルーヴェン・カトリック大学]]に決定された<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.310"/>。一家はルクセンブルクにほど近い[[ベルギー王国]]への転居を願い出て、ベルギー政府からの許可を得た<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.310"/>。ベルギーに住むツィタの弟[[フェリックス・ド・ブルボン=パルム|フェリックス]]のもとに[[1929年]]から身を寄せるようになった<ref name="リケット(1995) p.175"> リケット(1995) p.175</ref>。

[[1930年]]11月20日、オットーは成人年齢である18歳に達し、[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の成人式に準拠して儀式が執り行われた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.313"> グリセール=ぺカール(1994) p.313</ref>。この成人式は報道関係者の注目を集め、王政復古についての話題が巷に溢れた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.314"> グリセール=ぺカール(1994) p.314</ref>。大学での学業に専念するために、オットーはこの後も当分は母ツィタを自分の代理人とすることを表明した<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.313"/>。

旧ハプスブルク帝国傘下の諸国では、かつての帝国の長所や利点を公然と力説する政治家が現れるようになった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.314"/>。旧[[協商国]]においても、[[ルーマニア王国]]の{{仮リンク|ユリウ・マニウ|en|Iuliu Maniu}}首相が、1930年に堂々と「以前のオーストリア=ハンガリー帝国は、均一な官僚制のもとで明確に分離された有機体だったが、ヨーロッパにとっても、多くの利点や長所のある有益な共同体でもあった。」と発言している<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.314"/>。またハンガリーの新聞は、王政復古の可能性について何度か記事にしている<ref name="スナイダー(2014) p.230"/>。20歳になるとオットーはパリを頻繁に訪れるようになり、母方の伯父[[シクストゥス・フォン・ブルボン=パルマ]]によって社交界に顔つなぎをしてもらった<ref name="スナイダー(2014) p.230"/>。

[[1932年]]の暮れ、オットーは[[ベルリン]]で博士論文のための研究をしており、そこで[[ヴァイマル共和政|ドイツ国]]の政治家たちの知遇を得るようになった<ref name="スナイダー(2014) p.230"> スナイダー(2014) p.230</ref>。台頭しつつあった右翼の男、[[アドルフ・ヒトラー]]の注目を惹いてもいた。ヒトラーは、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]をドイツに併合する助けになりそうな傀儡君主にできるかもしれないとオットーを見ていたのであった<ref name="スナイダー(2014) p.230"/>。しかしヒトラーの期待に反し、オットーはオーストリアの独立を望んでおり、まずオーストリアに王朝を復活させることによって中欧・東欧の地に[[ハプスブルク君主国]]を再興することを目的としていた<ref name="スナイダー(2014) p.230"/>。

[[イタリア王国]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]首相は、母のツィタとオットーに対して、ハプスブルク家の再興は自分たちの共通の目標になりうると説得を試みた。1932年にイタリアの新聞は、中欧の支配者としてはヒトラーよりもハプスブルク家のほうが良いという意見を掲載し、間接的にハプスブルク家の王政復古を後押しした<ref name="スナイダー(2014) p.230"/>。ムッソリーニはツィタを[[ローマ]]に招き、イタリアの王位継承権のある王女がオットーと結婚するのを見たいと彼女に話した。ムッソリーニの狙いは、ハプスブルク家と[[サヴォイア家|イタリア王家]]を合体させることによって、中南欧を貫いてイタリアに王朝の正統性を付与することであった<ref name="スナイダー(2014) p.230"/>。このようなオットーの縁談についてのニュースは、[[1930年代]]初頭のヨーロッパの新聞では誤報も含めて定期的に流された<ref name="スナイダー(2014) p.230"/>。とりわけ、当時イタリア国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]の娘のうち最も若かった[[マリーア・フランチェスカ・ディ・サヴォイア|マリア]]王女との婚約の噂はマスコミの格好の材料となった<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.316"> グリセール=ぺカール(1994) p.316</ref>。

[[1935年]]6月16日、オットーはルーヴェン・カトリック大学の全課程を修了し、[[博士号]]を得て大学を卒業した<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.318"> グリセール=ぺカール(1994) p.318</ref>。

=== 国外追放の解除 ===
==== 高まるオーストリアの君主主義的感情 ====
[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]]では、[[オーストリア社会民主党]]の私的軍隊である「共和国防衛同盟軍」と政府の護国軍とが対立し、不安定な政情となっていた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.314"/>。オーストリアの議会制は事実上崩壊していた。隣国ドイツでは[[ナチス]]が急速に勢力を拡大し、オーストリア国内では[[大ドイツ主義]]にもとづきドイツに吸収されることを望む声が高まっていた。こうした情勢下で、[[1932年]]に首相となった[[エンゲルベルト・ドルフース]]は[[君主主義]]をナチズムの対極としてとらえ、オットーをオーストリア独立維持のキーマンであると見なした<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.317"> グリセール=ぺカール(1994) p.317</ref>。ドイツとの合邦を望む声が高まる一方で、君主主義的感情もまた増大しつつあり<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.180"/>、オーストリアの地方自治体は当時ベルギーに住んでいたオットーに[[名誉市民]]の称号を授与し始め<ref>スナイダー(2014) p.233</ref><ref name="スナイダー(2014) p.278"> スナイダー(2014) p.278</ref>、最終的にオットーを名誉市民とした地方自治体の数は1,603以上にも及んだ。反ハプスブルク法の失効を求める署名運動が、25もの君主主義者の団体によって繰り広げられた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.317"/>。

[[File:KurtVonSchuschnigg1936.jpg|thumb|right|220px|オーストリア首相[[クルト・シュシュニック]]。([[1936年]]10月18日)]]
[[1933年]]にヒトラー率いるナチスがドイツで政権を取ると、情勢はますます逼迫した。[[1934年]]に[[オーストリア・ナチス]]に殺害されたドルフースに代わってオーストリア首相に就任した[[クルト・シュシュニック]]は、先任首相の誰よりもハプスブルク家の主張に同情的であり、その在任中は絶えずオットーと協議し、オットーを政府の仕事について十分な消息通とした<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.180"> ジェラヴィッチ(1994) p.180</ref>。君主主義者であったシュシュニック首相は「ハプスブルク家の復位はオーストリアの国内問題である」と主張して、その問題に関するオーストリアの決定権を一貫して擁護した<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.180"/>。[[1935年]]7月には反ハプスブルク法が廃止され、皇室財産の多くがハプスブルク家のもとに戻った<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.180"/>。こうしてオットーは、オーストリアにおいて最も裕福な者のひとりとなった<ref name="スナイダー(2014) p.287"> スナイダー(2014) p.287</ref>。この時期、フランスの新聞各紙は「ハプスブルク家がオーストリアに戻ってくるのだろうか?」と問いかけている<ref>スナイダー(2014) p.254</ref>。

しかし[[ユーゴスラビア]]政府が「ハプスブルクの復位を防ぐためには宣戦布告も辞さない」と明言していたり、ヒトラーが猛烈な反ハプスブルク論者であったりして、君主制の復活はほとんど不可能な状況だった。数年前にはハプスブルク家の復位を支持していたイタリアですら、この時期には反対を表明していた<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.180"/>。

オットーは自らを正当なオーストリア皇帝であると考え、多くの機会にこのことを述べてきた。[[1937年]]にオットーはこう書いている<ref>Gedächtnisjahrbuch 1937, 9. Jg.: Dem Andenken an Karls von Österreich Kaiser und König. Arbeitsgemeinschaft österreichischer Vereine – Wien, W. Hamburger 1937</ref>。
{{Quotation|オーストリア人の大多数が以前にもまして私に、わが最愛の父、平和な皇帝の遺産を引き受けて欲しいと思っていることを私はよく知っている。(……)オーストリアの人々は、共和国に賛成の票をけっして投じなかった。彼らは、長い戦いに疲れきり、1918年と1919年の革命家の大胆さに驚愕している限り、沈黙したままだった。革命が彼らの生きる権利と自由を侵害したと理解した時、彼らはあきらめを振り払った。(……)そのような信頼は私に重荷を課すものである。私は喜んでそれを受け入れる。神が望めば、君主と人民の間の再結合の時がまもなくやってくるだろう。}}

==== 独墺合邦への反対 ====
オットーは、[[ナチス・ドイツ]]によるオーストリア併合([[アンシュルス]])を何としてでも阻もうとしていた<ref name="スナイダー(2014) p.287"/>。[[1937年]]の終わりから[[1938年]]の始めにかけて、オットーは自分の話に耳を傾ける者すべてに、ヒトラーをウィーンから遠ざけておくにはハプスブルク家の再興しかない、と口にしていた<ref name="スナイダー(2014) p.287"/>。ドイツとの併合に反対するオーストリア国民にとっては、オットーのもとでの君主制の復活が、ドイツの侵略を防ぐための最も理にかなった方法であると思われた<ref name="スナイダー(2014) p.278"/>。1937年11月20日はオットーの25歳の誕生日であったが、この日ウィーンの街は、旧帝国を象徴する色である黒と金で飾り立てられた<ref name="スナイダー(2014) p.287"/>。ジェラルド・ワーナーによると、オーストリア・ユダヤ人は、王朝国家は第三帝国に立ち向かうのに十分な決意を与えると信じていたので、ハプスブルク家の復活を最も強く支持するグループのひとつだった<ref>{{cite news|last=Warner |first=Gerald |url=http://blogs.telegraph.co.uk/news/geraldwarner/5774579/Otto_von_Habsburgs_96th_birthday_telescopes_European_history/ |title=Otto von Habsburg's 96th birthday telescopes European history |work=The Daily Telegraph |date=20 November 2008 |accessdate=6 July 2011 |location=London}}</ref>。また、彼らはかつて「[[反ユダヤ主義]]の盾になって下さるわれらの庇護者」としてフランツ・ヨーゼフ1世を敬愛していた。

ヒトラーの最後通牒が来た直後、オットーはベルギーからシュシュニック首相に書簡を送り、もし要請があればみずからが首相となって対処することを申し出た<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.190-191</ref><ref>リケット(1995) p.153</ref><ref name="スナイダー(2014) p.287"/>。シュシュニック首相はオットーの申し出を丁重に断ったが、その理由は、ハプスブルク家の復興は即座にドイツの攻撃を招くから自殺行為になるだろう、とドイツに言われたことによるものだった<ref name="スナイダー(2014) p.287"/>。結局のところ、それとは関わりなくドイツはオーストリアの地へ侵攻してきた。ヒトラーによる一連のオーストリア侵略計画は、{{仮リンク|オットー作戦|de|Unternehmen Otto}}と呼ばれていた<ref name="スナイダー(2014) p.287"/>。1938年3月13日、オーストリアはナチス・ドイツに併合されて「オストマルク」と改称された。

なおシュシュニック首相は、あくまでヒトラーの政治的敵対者であって、決してドイツとの合併そのものに反対ではなかった<ref name="増谷(1993) p.46"> 増谷(1993) p.46</ref>。のちに発見された史料によるとシュシュニック首相は、ドイツとオーストリアの合邦を果たしたうえでオットーを「'''帝国摂政'''」とし、ヒトラーを首相とする構想を抱いていた<ref name="増谷(1993) p.46"/>。自身の存在の重要性の誇示<ref name="増谷(1993) p.46"/>や、ハプスブルク家の扱いをめぐる対立などの理由があって、ヒトラー政権下での合邦に反対したものと考えられる。

==== 第二次世界大戦 ====
オットーは[[第二次世界大戦]]のはじめ、数千人のオーストリア・ユダヤ人を含む<ref name="newser">{{cite web|url=http://www.newser.com/article/d9o8qcb00/otto-von-habsburg-oldest-son-of-austria-hungarys-last-emperor-dies-at-age-98.html |title=Otto von Habsburg, oldest son of Austria-Hungary's last emperor, dies at age 98 |publisher=Newser |accessdate=6 July 2011}}</ref>約15,000人が国外に脱出するのを手伝うことに関与した<ref>http://www.heraldscotland.com/mobile/comment/obituaries/otto-von-habsburg-1.1110433</ref>。大戦中、[[ナチス・ドイツ]]体制はオットーを死刑にすることを宣告した。[[ルドルフ・ヘス]]は、オットーを捕らえた場合、すぐに処刑を実行するように命じた。ヒトラーの指示によってハプスブルク家の財産はすべて国家に収用され、それは大戦が終わった後も戻ってきていない。オーストリア君主制復活運動の指導者たち、つまりオットー支持者のリーダーたちはナチスによって逮捕され、その大部分は処刑された。フランツ・フェルディナント大公の遺児であり、オットーの支持者として熱心に活動していた[[マクシミリアン・ホーエンベルク]]公爵とその弟[[エルンスト・ホーエンベルク]]侯爵も、[[ダッハウ強制収容所]]に送られている。

[[1940年]]5月10日、ドイツはベルギーへの侵攻を開始した。その日オットーは弟[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]とともに用事があって町へ出ていたが、ふたりの乗る車のすぐ後ろに爆弾が落とされたという<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.324"> グリセール=ぺカール(1994) p.324</ref>。

さらに[[フランス]]がドイツ軍によって占領されると、オットーは家族とともにパリから退去して、[[ボルドー]]の[[ポルトガル]]領事である[[アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス]]の発行した[[ビザ]]を持ってポルトガルに逃れた。そして自身の安全のために、オットーはヨーロッパ大陸から[[カナダ]]に発った。続いて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に移り、[[1940年]]から[[ワシントンDC]]に住んだ。[[1941年]]、ヒトラーによって母と弟たちともどもオーストリアの[[市民権]]を奪われ、[[無国籍]]となった。

==== アメリカでの亡命生活 ====
[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]とともに[[アメリカ合衆国議会議事堂]]を視察した際、議場に入ったオットーは盛大な拍手をもって議員たちに迎えられた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.328"> グリセール=ぺカール(1994) p.328</ref>。民主党上院議員[[アルバン・W・バークリー]]は、「上院は陛下をオーストリア国民の代表として歓迎いたします」と挨拶を述べた<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.328"/>。

アメリカへの戦時亡命中に、ツィタおよびオットーとその弟たち[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]とフェリックスは[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領と連邦政府に接触し、祖国解放のためにアメリカ軍の中から「オーストリア部隊」を創設しようと試みるが、この考えはアメリカの移民仲間から強い抗議を招き、実現することはなかった<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.208"> ジェラヴィッチ(1994) p.208</ref>。しかしながらオットーは、オーストリアの都市、特に首都ウィーンへの爆撃を、アメリカに中止あるいは制限させることに成功した<ref name="newser"/>。また、少なからずナチスに加担したオーストリアを「ナチスに征服された国家」に含めてもらうこともできた。この時期オットーはオーストリア[[亡命政府]]の認知のために、南チロルのドイツ語を話す人々の権利のために、また、ボヘミアと東ヨーロッパのドイツ語を話す住民の強制退去に反対して、そして東ヨーロッパを[[ソビエト連邦]]の[[ヨシフ・スターリン]]の支配下に置くことに反対して、さまざまな働きかけをした<ref>{{cite web|url=http://www.die-tagespost.de/Sie-nannten-ihn-bdquo-Otto-von-Europa-ldquo-;art456,125800 |title=Sie nannten ihn 'Otto von Europa' |publisher=Die-tagespost.de |accessdate=8 July 2011}}</ref>。

オットーは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の首脳たちに高く評価されていたため、[[1942年]]9月にハンガリー首相{{仮リンク|カーロイ・ミクローシュ|en|Miklós Kállay}}は執政[[ホルティ・ミクローシュ]]に対して、連合国が勝利した際にはオットーとルーズベルトとの良好な関係を考慮してハプスブルク家の再興を検討せねばならない、という内容の覚書を送っている<ref name="グリセール=ぺカール(1994) p.333"> グリセール=ぺカール(1994) p.333</ref>。

イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相が積極的に提案した「[[ドナウ連邦]]」計画(実質的に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の回復である)に対して<ref>ジェラヴィッチ(1004) p.206</ref>、オットーは賛意を表明した。しかし、旧ハプスブルク継承諸国のすべての亡命政府と政治的指導者が王政復古に激しく反対したうえ<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.208"/>、「ドナウ連邦」が反ソ的なものになると判断したスターリンによってこの計画は頓挫し、実現することはなかった。

[[1944年]]までワシントンに滞在したが、大戦の終末期になるとオットーとその家族はヨーロッパに戻り、フランスとスペインに数年間住んだ。

=== 戦後 ===
==== 第二共和国への宣誓 ====
ナチスによって市民権を奪われたことによって、オットーは事実上の無国籍となっていたが、[[1946年]]に[[シャルル・ド・ゴール]]の介入のおかげで、[[モナコ公国]]からパスポートを与えられた。また、[[マルタ騎士団]]もオットーをマルタの騎士として外交旅券を発行したし、のちにはスペインからも外交旅券を与えられた<ref>http://www.kathweb.at/site/nachrichten/database/40510.html</ref>。

[[1955年]]5月、オーストリアと連合国との間で条約が結ばれた。オーストリアとドイツとの合邦を禁止する条項が主な内容であるが、その国家条約の中には再びハプスブルク家の復位を禁止する条項が盛り込まれていた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.230</ref>。[[1960年代]]初期のオーストリアでは、オットーの帰還が政界を支配した問題であった<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.245"> ジェラヴィッチ(1994) p.245</ref>。国内に大きな騒ぎをもたらした論争は、オットーの帰還に関するもののただ一点だった。[[1956年]]、オットーは[[下オーストリア州]]政府によりオーストリア市民として認知され、「オーストリアを除く全ての国で有効な」オーストリアのパスポートを与えられた。1960年代のオーストリア警察は、「共和国の敵」が国内に侵入したのではないかと疑って、複数の機会にオットーを捜索している。

ハプスブルク家の構成員は、共和国への忠誠を宣言すれば帰国することができたが、オットーはそうしなかった。オットーは共和国への忠誠を宣言することはいとわなかったが、政治活動をやめることを約束しようとはしなかったのである<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.245"/>。[[1961年]]7月、オットーは弁護士を通してオーストリア帝位請求権を放棄すると宣言した。これを受けての内閣評議会では79対78と賛成・反対意見がほぼ均等に分かれ、ただ単に合意形成には至らなかったことを記録するに留まり、結論は出さなかった<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.245"/>。[[1963年]]5月に行政裁判所がオットーの宣言を認定した<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.245"/>にもかかわらず、[[オーストリア社会民主党|オーストリア社会党]]と[[オーストリア自由党]]はオットーの帰還を承認しないと表明した。これによって、[[王党派]]を支持層のひとつに抱える[[オーストリア国民党]]とオーストリア社会党による大連立政権は崩壊した<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.245"/>。オットーは国民党にとってより楽な状況を作るべく、新しい選挙がおこなわれるまではその問題を強く推進しないことに国民党と同意した<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.246"> ジェラヴィッチ(1994) p.246</ref>。オットーは[[1967年]]にオーストリアへ入国したが、その時は国民党の単独政権であった<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.246"/>。

なおオットーは、オーストリア帝位継承権は放棄したものの、その他の多くの王位継承権は保持し続けたし、実際にその後もハンガリー王などを名乗り続けた。

==== 欧州議会議員 ====
[[ファイル:Otto von Habsburg Belvedere 1998 b.JPG|thumb|left|180px|[[1998年]]、[[ウィーン]]の[[ベルヴェデーレ宮殿]]にて。]]
[[1973年]]、[[国際汎ヨーロッパ連合]]の2代目国際会長に就任する。オットーの政治思想は、ヨーロッパの統合を目指す[[汎ヨーロッパ主義]]であった。

[[1978年]]、オットーは[[ドイツ連邦共和国]]の市民になり、公式の名前を「オットー・フォン・ハプスブルク」とした。オーストリアでは貴族の称号が「[[フォン (前置詞)|フォン]]」の名乗りに至るまで一切認められていないため、「オットー・ハプスブルク」または「オットー・ハプスブルク=ロートリンゲン」が法律上の名前であった。そして翌[[1979年]]からはドイツ選出の[[欧州議会議員]]([[キリスト教社会同盟]]所属)を務めた<ref name="スナイダー(2014) p.363"> スナイダー(2014) p.363</ref>。初当選の時点でオットーはすでに67歳となっていた。

[[1989年]][[3月14日]]、母ツィタが96歳で世を去った。同年8月、多数の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]市民が[[ハンガリー]]・オーストリア国境を越えて[[西ドイツ]]に亡命する[[汎ヨーロッパ・ピクニック]]が起こると、オットーは西側からこれを支援した<ref name="スナイダー(2014) p.363"/>。また、[[東欧革命]]の後には[[欧州連合]]を東側に拡大することを唱えた<ref name="スナイダー(2014) p.363"/>。

[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]が解体された時、オットーはヨーロッパ諸国に働きかけ、新しく独立した[[クロアチア]]を国家として承認するようにさせた<ref name="スナイダー(2014) p.357-358"/>。この時[[セルビア]]の民兵組織[[アルカン・タイガー]]の指導者の一人が、[[バルカン半島]]の政治に鼻を突っ込んだ際にフランツ・フェルディナント大公夫妻に何が起きたかに触れてオットーを脅迫した<ref name="スナイダー(2014) p.357-358"/>。この脅しに対してオットーは、みずから[[サラエボ]]に乗り込むことで応えた。この時オットーは「この悲劇の循環が閉じるのを祈って」サラエボに赴いたのだと語っている<ref name="スナイダー(2014) p.357-358"/>。

欧州議会におけるオットーは「'''古きよき保守派'''」と評価されており、先祖代々伝わるヨーロッパ統一の夢は、[[中世]]的な帝国的思想であると非難されたこともあるが、欧州連合によるヨーロッパ統一が夢物語ではなくなるにつれ、その[[コスモポリタニズム]]が注目された。

==== 晩年 ====
[[File:Habsburgotto.jpg|thumb|right|200px|演壇でスピーチするオットー。([[2006年]])]]
[[1999年]]に欧州議会議員を辞めた後も、精力的に政治活動を続けた。[[2004年]]、オットーは「ヨーロッパの将来は[[キエフ]]と[[リヴィウ]]で決せられる」と発言した<ref name="スナイダー(2014) p.357-358"> スナイダー(2014) p.357-358</ref>。フランスと同程度の面積を持ち、人口5000万人を擁する[[ウクライナ]]を見て、共産主義体制だった諸国に民主政治を拡大できるかを試そうとしたのである<ref name="スナイダー(2014) p.357-358"/>。

[[2000年]]、[[レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン|レギーナ]]妃を伴って[[来日]]した。[[明仁|今上天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]との会談が行われ、宮中晩餐会にも招かれている。オットーと親交のある[[関西日墺協会]]会長の[[長谷川薫]]によると、「天皇皇后両陛下がヨーロッパの古い歴史のことについてもよく知っておられ、いろいろご質問を受けて感激しました」と語ったという<ref>[http://gakushuin-shouwaryo.com/?page_id=565 学習院桜友会80周年記念講演・学習院卒業生座談会]より</ref>。

[[1922年]]から84年間務めていた家長の座を、高齢のため[[2006年]]いっぱいで長男に譲り、[[2007年]]から[[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール]]がハプスブルク家当主となった。<!--ドイツ語版に基づく-->高齢とはいえ、その後もしばらくは元気な姿を周囲に見せていた。オットーは自身の長寿の説明として、身体の鍛錬という現代的な考えと、次のようなハプスブルク家の循環的な時間の観念に触れている。「人生は自転車のようなものだ。ペダルを漕いでいるかぎり、進み続けるさ。」と<ref>スナイダー(2014) p.382</ref>。伝統的にハプスブルク家は、歴史を過去ではなく現在の連続だとする考えを持っている。

==== 死去 ====
[[ファイル:20110716 Otto von Habsburg funeral 1915.jpg|thumb|230px|オットーの葬儀当日のウィーン市街の様子。]]
[[ファイル:Kondukt in Wien (144).jpg|thumb|230px|オーストリア=ハンガリー帝国時代の装束に身を包み行進する人々。]]
[[ファイル:Kaisergruft Otto von Habsburg-Lothringen.JPG|thumb|230px|カプツィーナー納骨堂に安置されたオットーの棺。]]
[[2011年]][[7月4日]]、[[ドイツ]]南部{{仮リンク|ペッキング|en|Pöcking}}の自宅にて98歳で死去した。[[2009年]]に階段から落ちて以来、体調が万全でなかったという<ref>[https://web.archive.org/web/20110707005108/http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20110704-800009.html 最後の皇帝の長男O.ハプスブルク氏死去] 日刊スポーツ 2011年7月4日付記事、Internet Archiveより</ref>。オットー逝去の報が伝わったハンガリーでは、ただちに議会での黙祷がおこなわれた。[[ローマ教皇]][[ベネディクト16世]]は、「オーストリア大公カール殿下」宛てに次の電報を送っている。{{Quotation|オットー・フォン・ハプスブルクは、平和、民族の共存、ヨーロッパの秩序のために休むことなく働いた、偉大なヨーロッパ人でした。この悲劇的な損失以上の悲しみの時のなかで、私はあなたと皇室全体のことを自分自身に重ね合わせて故人のために祈ります。長くて満たされた生涯のなかで、大公オットーは、ヨーロッパの波乱に富んだ歴史の証人でした<ref>[http://www.kath.net/news/32263 Benedikt XVI. würdigt Otto von Habsburg]</ref>。}}

葬儀は7月16日、故国オーストリア・[[ウィーン]]の[[シュテファン大聖堂]]において、ウィーン大司教[[クリストフ・シェーンボルン]]の司式により営まれた。オットーは「最後の皇帝」「最後のハプスブルク」として扱われた。葬儀には、[[欧州議会]]議長[[イェジ・ブゼク]]や、[[ハインツ・フィッシャー]]大統領や[[ヴェルナー・ファイマン]]首相らオーストリア共和国首脳、そして[[スウェーデン]]国王[[カール16世グスタフ (スウェーデン王)|カール16世グスタフ]]、[[ルクセンブルク]]大公[[アンリ (ルクセンブルク大公)|アンリ]]、[[リヒテンシュタイン]]公[[ハンス・アダム2世]]や[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]元国王かつ元首相の[[シメオン・サクスコブルクゴツキ]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]の元国王[[ミハイ1世 (ルーマニア王)|ミハイ1世]]などの各国君主・元君主、[[イギリス]]、[[スペイン]]、[[ベルギー]]、[[ヨルダン]]、[[バチカン]]などからも国王やローマ教皇の代理が出席し、帝国時代の伝統衣装を身にまとった市民ら約1万人が参列した<ref>[http://news.yahoo.co.jp/pickup/4663716 さらば最後の皇太子=O・ハプスブルク氏葬儀に1万人―ウィーン] 時事通信 2015年3月15日閲覧</ref>。帝国時代の国歌『[[神よ、皇帝フランツを守り給え]]』の唱和をもって葬儀は締めくくられた。ミサと棺の行進は、[[公共放送局]]である[[オーストリア放送協会]]が[[中継放送]]をおこなった。ハプスブルク家の伝統に従い、オットーの遺体は同市の[[カプツィーナー納骨堂]]に安置され、心臓は[[ハンガリー]]北西部の[[パンノンハルマの大修道院]]に翌17日に納められた。

生前の老帝フランツ・ヨーゼフ1世のことを知る最後の人物であった。このことからウィーンでは、オットーの死をもって「オーストリア=ハンガリー帝国の真の最期」とする見方もあった。オーストリア市民の間では、帝国時代の栄華を懐かしむ声が出る一方で、もはや民間人になったハプスブルク家の葬儀をオーストリア政府が支援したことに批判的な声も聞かれた<ref>[https://web.archive.org/web/20110720133454/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110717/k10014262381000.html ウィーン 最後の皇太子葬儀] NHKニュース 2011年7月17日付記事、Internet Archiveより</ref>。

{{仮リンク|オットー・フォン・ハプスブルクの死と葬儀|en|Death and funeral of Otto von Habsburg}}を参照。

== 逸話 ==
*ユダヤ人系の作家[[ヨーゼフ・ロート]]は、熱心なオーストリア王党派であった。ロートの友人たちは[[アルコール依存症]]だった彼の飲酒癖を直そうと手を尽くしたが、何をやっても効果がなかった<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.370"> ウィートクロフツ(2009) p.370</ref>。そんな[[1930年代]]のある日、ロートのハプスブルク家への傾倒ぶりを知った彼らは、オットーに介入を依頼した<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.370"/>。そこでオットーはロートを自身の「貴顕謁見室」に招き、「ロート、私はお前の皇帝として、お前に飲酒をやめるように命ずる。」と叱りつけた<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.370"/>。気を付けの姿勢で立っていたロートはこれに驚き、口ごもりながら同意した<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.370"/>。結局ロートは飲酒をやめることができなかったが、しばらくの間はこの「皇帝の命令」が効いたという<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.370"/>。
*[[金羊毛騎士団]]団長であるオットーが発する言葉は、騎士団内では戒律も同然であった<ref name="スナイダー(2014) p.267"/>。オットーは、つねに自分が品行方正な紳士であることを示すことによって、一般人の抱く退廃や同性愛・戦争とハプスブルク家との連想を薄めようと努力した。ハプスブルク一門の{{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1895-1948)|label=ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ|en|Archduke Wilhelm of Austria}}は、パリで問題を起こして[[1936年]]3月に騎士の身分を「自発的に放棄」しているが、これはオットーがヴィルヘルムに圧力をかけた結果だという見方もある<ref name="スナイダー(2014) p.267"/>。
*[[東欧革命]]の後、ぜひともハンガリー首相になって欲しい、というハンガリー人からの要望が相次いだという<ref>グリセール=ぺカール(1994) p.370</ref>。

== 家族 ==
[[1951年]]に[[ザクセン=マイニンゲン公国|ザクセン=マイニンゲン公家]]の当主[[ゲオルク・フォン・ザクセン=マイニンゲン|ゲオルク]]公子の娘[[レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン|レギーナ]]([[1925年]] - [[2010年]])と結婚した。2人の間には2男5女(モニカとミカエラは双生児の姉妹)が生まれており、[[ハプスブルク家]]の多産の伝統を守ったとも見なせる。死ぬまでに、22人の孫および2人の曽孫がいた。
*{{仮リンク|アンドレア・フォン・ハプスブルク|label='''アンドレア'''・マリア|en|Andrea von Habsburg}}(1953年 - ) - 1977年、ナイペルク伯爵家家長カール・オイゲンと結婚
*{{仮リンク|モニカ・フォン・ハプスブルク|label='''モニカ'''・マリア・ロベルタ・アントーニア・ラファエラ|en|Monika von Habsburg}}(1954年 - ) - 1980年、第5代サンタンヘロ公爵ルイス・マリア・ゴンサガ・デ・カサノバ=カルデナス・イ・バロンと結婚
*{{仮リンク|ミヒャエラ・フォン・ハプスブルク|label='''ミヒャエラ'''・マリア・マデレーネ・キリアナ|en|Michaela von Habsburg}}(1954年 - ) - 1984年にEric Alba Teran d'Antinと結婚(1994年離婚)、1994年にフーベルトゥス・フォン・カゲネック伯爵と再婚(1998年離婚)
*{{仮リンク|ガブリエーラ・フォン・ハプスブルク|label='''ガブリエーラ'''・マリア・シャルロッテ・フェリーツィタス・エリーザベト・アントーニア|en|Gabriela von Habsburg}}(1956年 - ) - 1978年、Christian Meisterと結婚、オットーの子女の中では唯一、王侯貴族以外の相手と結婚した(1997年離婚)。
*{{仮リンク|ヴァルブルガ・ハプスブルク・ドゥグラス|label='''ヴァルブルガ'''・マリア・フランツィスカ・ヘレーネ・エリーザベト|en|Walburga Habsburg Douglas}}(1958年 - ) - 1992年、アルヒバルド・ドゥグラス伯爵と結婚
*[[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|'''カール'''・トマス・ロベルト・マリア・フランツィスクス・ゲオルク・バーナム]](1961年 - ) - オーストリア皇帝家家長
*[[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|'''カール'''・トマス・ロベルト・マリア・フランツィスクス・ゲオルク・バーナム]](1961年 - ) - オーストリア皇帝家家長
*[[ゲオルク・ハプスブルク=ロートリンゲン|パウル・'''ゲオルク'''・マリア・ヨーゼフ・ドミニクス]](1964年 - ) - 1997年、オルデンブルク公女アイリーカと結婚
*{{仮リンク|ゲオルク・ハプスブルク=ロートリンゲン|label=パウル・'''ゲオルク'''・マリア・ヨーゼフ・ドミニクス|en|Georg von Habsburg}}(1964年 - ) - 1997年、オルデンブルク公女アイリーカと結婚

== 称号と栄典 ==
=== ハプスブルク家・オーストリアの勲章 ===
* [[金羊毛騎士団]] (オーストリア支流)
** 騎士団長 (1922–2000)
** 騎士 (1916)
* Grand Cross of the {{仮リンク|聖シュテファン勲章|de|k.u. Sankt Stephans-Orden}}
* Grand Cross of the {{仮リンク|レオポルト勲章|en|Order of Leopold (Austria)}}
* チロル貴族レジスターバッジ

=== 他の王朝の勲章 ===
* {{flagicon image|Flag of the Kingdom of the Two Sicilies (1738).svg}} [[シチリア・ブルボン朝]]: Grand Cross of the {{仮リンク|聖ヤヌアリウス勲章|en|Order of Saint Januarius}}
* {{flagicon image|Flag Portugal (1830).svg}} [[ブラガンサ家]]: Knight Grand Cross of the {{仮リンク|ヴィラ・ヴィコーザの無原罪懐胎勲章|en|Order of the Immaculate Conception of Vila Viçosa}}
* {{flagicon image|Flag of Italy (1861-1946) crowned.svg}} [[サヴォイア家]]: Knight of the {{仮リンク|至聖受胎告知勲章|en|Order of the Most Holy Annunciation}}
* {{flagicon image|Banner of Palatinate-Neuburg (3^2).svg}} [[ヴィッテルスバッハ家]]: Grand Cross of the {{仮リンク|聖ユベール勲章|en|Order of Saint Hubert}}

=== 政府勲章と栄典 ===
* {{flagicon image|Flag of Bavaria (lozengy).svg}} バイエルン: Bearer of the {{仮リンク|バイエルン功労勲章|en|Bavarian Order of Merit}} (1978)
* {{Flagu|Croatia}}: Grand Cross of the [[Grand Order of King Dmitar Zvonimir]] (1996)
* {{Flagu|Estonia}}: 1st Class of the {{仮リンク|テラ・マリアナの十字架勲章|en|Order of the Cross of Terra Mariana}} (1996)
* {{Flagu|France}}: Grand Cross of the [[レジオンドヌール勲章]] (2009)<ref>{{cite web|url=http://www.tastevin-bourgogne.com/en/index.php?rub=9|title=Décès d'Otto de Habsbourg|accessdate=7 July 2011|language=French}}</ref><ref>{{cite web|url=http://lorraine.france3.fr/info/otto-habsbourg-s-est-eteint-a-98-ans-69515291.html|title=Otto Habsbourg s'est éteint à 98 ans|publisher=[[France 3]]|language=French|accessdate=7 July 2011}}</ref>
* {{Flagu|Germany}}: Grand Cross of the [[ドイツ連邦共和国功労勲章]] (1987)
* {{flag|Holy See}}: Grand Cross of the [[大聖グレゴリウス勲章]] (1980)
* {{flag|Holy See}}: Grand Cross of the [[聖シルベストロ教皇騎士団勲章]]
* {{Flagu|Hungary}}: Grand Cross of the {{仮リンク|ハンガリー共和国功労勲章|en|Order of Merit of the Republic of Hungary}} (1999)
* {{Flagu|Kosovo}}: リバティ金賞
* {{Flagu|Latvia}}: Commander of the {{仮リンク|三ツ星勲章|en|Order of Three Stars}}
* {{Flagu|Lithuania}}: Commander of the {{仮リンク|リトアニア大公ゲディミナス勲章|en|Order of the Lithuanian Grand Duke Gediminas}}
* {{Flagu|Luxembourg}}: Knight of the {{仮リンク|ナッサウ家の金獅子勲章|en|Order of the Gold Lion of the House of Nassau}}
* {{Flagu|Macedonia}}: 功労勲章
* {{Flagu|Rhodesia}}: 名誉の軍隊の大司令官
* {{Flagu|San Marino}}: Grand Cross of the {{仮リンク|聖アガサ勲章|en|Order of St. Agatha}} (2002)
* {{Flagu|Spain}}: Grand Cross of the {{仮リンク|カルロス3世勲章|en|Order of Charles III}} (1951)
* {{Flagu|Spain}}: Grand Cross of the [[アフリカ勲章]]
* {{flagicon image|Flag of South Tyrol.svg}} 南チロル: Recipient of 大功労勲章

=== 非政府の栄典 ===
* {{flagicon image|Flag of the Sovereign Military Order of Malta.svg}} [[マルタ騎士団]]: Bailiff Grand Cross of Honour and Devotion (1959)<ref>[http://www.orderofmalta.int/news/50710/the-grand-master-at-the-funeral-of-otto-von-habsburg/?lang=en The Grand Master of the Order of Malta at the funeral of Otto von Habsburg]</ref>
* {{flagicon image|Bezen Perrot flag.svg}} [[ドイツ騎士団]]: Honorary Knight of the [[Teutonic Order]]
* {{flagicon image|Flag of Lower Austria.svg}} [[下オーストリア州]]: Cross of Honour in Gold of the Chapter of Lilienfeld
* {{flagicon image|International Paneuropean Union flag.svg}} [[国際汎ヨーロッパ連合]]: Special Rank of the European Medal of the Paneuropean Union Germany
* {{flagicon image|Flag of Province Sudetenland.Svg}} {{仮リンク|ズデーテンドイツ国土安全協会|en|Sudetendeutsche Landsmannschaft}}: European Charles Price of the Sudetendeutsche Landsmannschaft
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[増谷英樹]]||date=1993年(平成5年)|title=歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち|publisher=[[日本エディタースクール出版部]]|isbn=4-88888-207-X}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|バーバラ・ジェラヴィッチ|en|Barbara Jelavich}}|translator=[[矢田俊隆]]|date=1994年(平成6年)|title=近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国|publisher=山川出版社|isbn=4-634-65600-0|ref=ジェラヴィッチ(1994)}}
* {{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|date=1994年(平成6年)|title=フランツ・ヨーゼフ オーストリア「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=4-487-79143-X}}
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]](Richard Rickett)|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年(平成7年)|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4-915730-12-3}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|タマラ・グリセール=ぺカール|en|Tamara Griesser Pečar}}|translator=[[関田淳子]]|date=1995(平成7)年5月|title=チタ――ハプスブルク最後の皇妃|publisher=[[新書館]]|isbn=4-403-24038-0}}
* {{Cite book|和書|author=[[倉田稔]]||date=2006年(平成18年)|title=ハプスブルク文化紀行|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=4-14-091058-5}}
* {{Cite book|和書|author=[[アンドリュー・ウィートクロフツ]](andrew wheatcroft)|translator=[[瀬原義生]]|date=2009年(平成21年)|title=ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者|publisher=[[文理閣]]|isbn=978-4-89259-591-2}}
* {{Cite book|和書|author=[[ティモシー・スナイダー]]|translator=[[池田年穂]]|date=2014年(平成26年)|title=赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀|publisher=慶応義塾大学出版会|isbn=978-4-7664-2135-4|ref=スナイダー(2014)}}


== 出典・脚注 ==
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|3}}</div>
<references/>


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
108行目: 282行目:
| years = [[1973年]] - [[2004年]]
| years = [[1973年]] - [[2004年]]
| before = [[リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー]]
| before = [[リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー]]
| after = [[アラン・テルノワール]]
| after = {{仮リンク|アラン・テルノワール|en|Alain Terrenoire}}
}}
}}
{{End box}}
{{End box}}
{{Normdaten}}

{{DEFAULTSORT:はふすふるく おつと}}
{{DEFAULTSORT:はふすふるく おつと}}
[[Category:ハプスブルク=ロートリンゲン家|おつと]]
[[Category:ハプスブルク=ロートリンゲン家|おつと]]

2015年10月19日 (月) 15:27時点における版

オットー・フォン・ハプスブルク
Otto von Habsburg
ハプスブルク=ロートリンゲン家
オットー・フォン・ハプスブルク(2004年)
続柄 カール1世第1皇子

全名 Franz Joseph Otto Robert Maria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xavier Felix René Ludwig Gaetano Pius Ignazius von Österreich
身位 大公皇太子→帝政廃止
敬称 殿下→帝政廃止
出生 (1912-11-20) 1912年11月20日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ライヒェナウ・アン・デア・ラックス
死去 (2011-07-04) 2011年7月4日(98歳没)
ドイツの旗 ドイツバイエルン州ペッキング
埋葬

2011年7月16日(肉体) 2011年7月17日(心臓)
 オーストリアウィーンカプツィーナー納骨堂(肉体)

 ハンガリーパンノンハルマの大修道院(心臓)
配偶者 レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン(1951年 - 2010年、死別)
子女 アンドレア
モニカ
ミカエラ
ガブリエラ
ヴァルブルガ
カール
ゲオルク
父親 カール1世
母親 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
役職 欧州議会議員(ドイツ選出)
サイン
テンプレートを表示

オットー・フォン・ハプスブルクOtto von Habsburg, 1912年11月20日 - 2011年7月4日)は、オーストリア=ハンガリー帝国1918年に帝政廃止)の皇太子。1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、第二次世界大戦中には「ドナウ連邦」計画を、戦後はヨーロッパの統合を提唱した。欧州議会議員国際汎ヨーロッパ連合国際会長を務めるなど、汎ヨーロッパ的に活動した政治家でもある。

最後の皇帝カール1世と皇后ツィタの長子で、ドイツオーストリアハンガリークロアチアの市民権を持っていた。

生涯

帝国時代

誕生

ヴィラ・ヴァルトホルツ英語版。(1900年撮影)

1912年11月20日午前2時45分、カール大公ツィタ大公妃の長子として、ライヒェナウヴィラ・ヴァルトホルツ英語版で誕生した[1]。体重はおよそ4000グラムだった[1]。生誕時の皇位継承順位は第3位。皇位継承権を有する者はごく限られていたことから、老齢の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は男児の誕生をことのほか喜んだ。とりわけブルボン家の血を引くツィタとの子であるがゆえに、随喜の涙を流したほどであったという。

フランツ・ヨーゼフ1世からみてこの男児は、弟カール・ルートヴィヒ大公の曾孫というやや遠い血縁であったが、唯一の男子だったルドルフ皇太子はすでに亡く、皇位継承者に指名した甥のフランツ・フェルディナント大公はゾフィー・ホテク貴賤結婚しており、その子孫には皇位継承権が認められなかった。よって、フランツ・フェルディナント大公の次には、その弟オットー・フランツ大公(1906年にすでに他界)の長男であるカール大公が皇位を継ぐことが確実視されており、その長男として生まれた男児も未来のオーストリア皇帝になると目された。誕生から数日後、オーストリアの『新自由新聞』は「1970年代には誕生した新大公がハプスブルク家の頂点に立つことになろう」という予測を紙面に載せている[2]

洗礼

11月25日、ウィーン大司教英語版であるフランツ・ザビエル・ナグル英語版枢機卿によって洗礼を受け、洗礼名を「フランツ・ヨーゼフ・オットー・ロベルト・マリア・アントン・カール・マックス・ハインリヒ・シクストゥス・フェリックス・レトゥス・ルートヴィヒ・ガエタン・ピウス・イグナティウス」と定められた[3]。代父は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、代母は祖母であるマリーア・アントーニア・デル・ポルトガッロだと、誕生前から決められていた[2]。皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公が皇帝の代理を務めることになっていたが、誕生の報告を受けた際に彼はブダペストにいた[4]。すぐさま帝都ウィーンへ戻るのは不可能だったため、早めに洗礼式を行いたい教会の意に反して、出生から洗礼式の挙行までに5日を要することとなった[4]

その名前からして「フランツ」あるいは「フランツ・ヨーゼフ」と呼ばれるべきであり、実際にそれは「フランツ・ヨーゼフ2世」となることが念頭に置かれての命名であった[3]。しかし、時の皇帝との区別あるいは遠慮といった理由によるものか、母ツィタは男児を「オットー」と呼ぶようになった[3]。オットーとは、祖父であるオットー・フランツ大公の名から取られたものだった[5]

母ツィタは乳母を置くことなく、自らの母乳を与えてオットーを育てた[6]1913年1月末、一家はシェーンブルン宮殿の近くに位置するヘッツェンドルフ城ドイツ語版に住まいを移した[6]

第一次世界大戦勃発

老帝フランツ・ヨーゼフ1世、父カール大公とともに。(1915年)

1914年6月28日サラエボ事件が起こり、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発する。皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が銃弾に斃れたことによって、父カール大公が新たに皇位継承者となり、オットーの皇位継承順位も第2位に繰り上がった。

同年のうちにカール大公一家は、フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いによって、シェーンブルン宮殿で老帝と同居するようになった[7]。一家が暮らすようになったシェーンブルン宮殿の居室は、かつてフランツ・ヨーゼフ1世の両親が生活していた部屋だった[8]

晩年のある日、「私には子供たちが何よりも素晴らしく好ましい。年を取れば取るほど、子供が好きになる。」と側近に漏らしたこともある老帝にとって[9]、元気な子供たちとともに時間を過ごすことは最大の気晴らしであった[10]。フランツ・ヨーゼフ1世はとりわけ兄弟のうち最年長であるオットーを寵愛し[10]、よちよち歩きをするようになったオットーを見るのを楽しみにしていたという[7]

父の即位、皇太子に

ブカレストでの父帝の戴冠式にて。(1916年12月)

大戦さなかの1916年11月21日にフランツ・ヨーゼフ1世は崩御し、父が皇帝「カール1世」として即位したのに伴ってオットーは4歳で皇太子になった。11月30日に営まれたフランツ・ヨーゼフ1世の葬儀では、カール1世とツィタに挟まれてカプツィーナー納骨堂への行列の先頭に立った[11]

同年12月、父がハンガリー王「カーロイ4世」としての戴冠式のためにブダペストへ向かった際には、オットーも同伴した。この時オットーはハンガリーの人々に注目され、大いに人気を集めたという[12]。ドイツ大使ヴェデル曰く、「ハンガリー人は皇太子の話でもちきりだが、彼はいかにも利発そうなうえに、素直で初々しいところに人気があるようだ[12]。」

帝国の崩壊

カール1世とその家族。左から右へ、カール・ルートヴィヒフェリックスシャルロッテ英語版とツィタ、ルドルフとカール1世、アーデルハイト英語版、オットー、ローベルト。(1921年スイスにて)

戦局の悪化によって国民への食料配給の状況は悪化していった。また宮廷においても贅沢は一切許されず[13]、皇帝一家も国民となんら変わらぬ配給を受けるようになった。ある日、アメリカのジャーナリストから丸いビスケットや板チョコをプレゼントされたオットーたちは狂喜したという[13]

1918年10月、父カール1世は多くの貴重品や荷物を携え、家族とともにブダペスト近郊に位置するゲデレ城ドイツ語版に発った[14]。カール1世とツィタはほどなくしてウィーンへ戻ったが、オットーは弟妹と共にそのままハンガリーに留まった[14]中央同盟国の敗北は決定的となり、10月28日にオーストリア=ハンガリー帝国は協商国に降伏した。

やがてブダペストで革命が発生したため、オットーたちは慌ててシェーンブルンへ戻されることとなった[15]。オットーとその弟妹は、扉のハプスブルク家の家紋(双頭の鷲)が塗りつぶされた自動車でハンガリーを脱出した[15]。運転手は危険を避けるために宮廷用の制服を脱ぎ、軍服に着替えて運転したという[15]。ウィーンへの直線コースはすでに過激派に占拠されていることが想定されたため、大幅に迂回してスロバキアを経由し、一日に480kmも走行してウィーンに向かった[15]。ようやく自動車がシェーンブルン宮殿に辿り着いた時、オットーたちは疲れて眠っていた[16]

11月9日にドイツ帝国ヴィルヘルム2世が退位した影響を受けて、オーストリアでもカール1世の退位を求める声が上がった[17]。カール1世は11月11日に「国事不関与」を宣言、旧来の帝国組織が崩壊していくのに並行してオーストリア共和国が樹立された[17]。時にオットーは6歳であった。カール1世は家族とともにウィーン郊外のエッカルトザウ城ドイツ語版へ移り、そして翌年3月23日にはスイスへ亡命した[17]。同年4月2日に議会は、ハプスブルク家の財産没収のための法案を可決した[17]

亡命時代

マデイラ島での生活

父カール1世は、国事不関与の宣言こそすれ、退位の宣言などしたつもりはなかった。カール1世は二度にわたって復権するための行動を起こしたが、しかしカール1世の復帰運動はいずれも失敗に終わり、1921年11月19日にカール1世とツィタはポルトガルマデイラ島に流された[18]

両親がマデイラ島への船路にある中、オットーたちはスイスになお留まっており、カール1世の義理の祖母マリア・テレサ大公妃の庇護のもとにあった[19]。10月27日の時点ではマリーア・アントーニア・デル・ポルトガッロのもとに移ったようである[19]

1922年1月、母ツィタは次男ローベルトの虫垂炎の手術が間近に迫っていたことから、期限付きでスイスに入国した。この際にツィタはオットーたちをマデイラ島へ呼び寄せる決心を固めた[20]。1月21日にスイスを発ったツィタの後を追い、1月25日にオットーは安静にせねばならないローベルトを除く弟妹たちと一緒にスイスを離れた[21]。オットーたちはポルトガルでツィタと合流し、2月2日にマデイラ島に到着した[21]。マデイラ島での一家の暮らしは、バターも買えないほど困窮したものであった[22]

オットーがマデイラ島に到着してからわずか2か月後の1922年4月1日、カール1世は肺炎によって死の床についたが、その際、母ツィタは9歳のオットーにこう言った。「お父様は今、永遠の眠りに就かれました。あなたは今、皇帝および王となったのです。」と[23]。父の重篤な病のことを知っていたのは兄弟のなかでオットーだけであり、オットーは兄弟で唯一カール1世の崩御に立ち会った[24]。オットーはこの日の午後から「陛下」と呼ばれるようになったが、オットーは大声で泣きながら「パパの遺体が運ばれてから、そう呼んでよ!」と周囲の者に言ったという[25]

スペインでの生活

父の死後、名目上の皇帝・王を称するようになった頃のオットー。1923年撮影。

カール1世の遺言に従って、一家はアルフォンソ13世を頼ってスペイン王国へ渡った。アルフォンソ13世は一家を好意的に迎え、エル・パルド宮殿スペイン語版を用意してくれた[26]。しかしこの地は過酷な気候であることから、1922年8月18日、一家は同国の小さな漁村レケイティオにある、イサベル2世の夏の離宮であったウリバーレン宮殿に移った[27]。地元の公共団体が家賃を肩代わりしてくれ、さらに地元住民が生活必需品を融通してくれるなど、困窮したハプスブルク家は当地で人々に温かく支えられた[28]。だが、やがて所有者が自分で住むことになったため、同年冬には引っ越さざるをえなくなった[28]。スペイン北部の海沿いにある保養地サン・セバスティアンで、シーズンオフの間だけ過ごすことをホテルに認められてここに住むようになった[28]。オーストリアとハンガリーの貴族たちが宿泊費用を負担してくれたが、彼らに多額の出費をさせることになって申し訳ないと母ツィタが思ったことから、一家は再びレケイティオの地に引っ越した[28]。1923年6月6日にレケイティオに戻ってきた一家が目にしたのは、「ツィタ」「オットー」という横断幕が掲げられた家々と、打ち上げ花火による人々の歓迎であった[28]。結局ウリバーレン宮殿に戻った一家は、それから1929年までここを居住地とした[25]

レケイティオに腰を落ち着けた子供たちは、とにかく勉学に励まなければならなかった。スペイン国王アルフォンソ13世はオットーを首都マドリードの学校に通わせようと申し出てきたが、ツィタはこれを丁重に断った[25]。「皇帝および王」であるオットーは、ツィタが選び抜いた教師陣によって、オーストリアやハンガリーの非常に高度な教育を施されることになった。

のちにオットーは、「朝6時から8時まで自主学習、30分の休憩のあとに12時まで授業、午後2時から4時まで授業、5時から7時まで自主学習という日課で、その他の時間は妹のアーデルハイトや、他の弟たちと過ごした。」と当時を回想している[29]。オットーはかつてフランツ・ヨーゼフ1世が少年時代に受けたのと同様に、多くの言語を学ばせられることになった。それは、オットーが数多の国々(旧ハプスブルク君主国)を統治する日がいつか来ることを期待してのことであった。この教育の甲斐あってオットーは、ドイツ語、ハンガリー語、クロアチア語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語を流暢に話すようになった。

ベルギーでの学生生活

1933年のオットー(左側の人物)。Graf von Degenfeldとともに。

1928年、16歳のオットーは家族から離れてルクセンブルクで暮らしていた[30]ベネディクト会ギムナジウムに通学し、大学入学に向けての準備を行っていた[30]パリロンドンの大学への留学も考えられたが、大都市での生活は経済的負担が重かったため、ルーヴェン・カトリック大学に決定された[30]。一家はルクセンブルクにほど近いベルギー王国への転居を願い出て、ベルギー政府からの許可を得た[30]。ベルギーに住むツィタの弟フェリックスのもとに1929年から身を寄せるようになった[31]

1930年11月20日、オットーは成人年齢である18歳に達し、フランツ・ヨーゼフ1世の成人式に準拠して儀式が執り行われた[32]。この成人式は報道関係者の注目を集め、王政復古についての話題が巷に溢れた[33]。大学での学業に専念するために、オットーはこの後も当分は母ツィタを自分の代理人とすることを表明した[32]

旧ハプスブルク帝国傘下の諸国では、かつての帝国の長所や利点を公然と力説する政治家が現れるようになった[33]。旧協商国においても、ルーマニア王国ユリウ・マニウ英語版首相が、1930年に堂々と「以前のオーストリア=ハンガリー帝国は、均一な官僚制のもとで明確に分離された有機体だったが、ヨーロッパにとっても、多くの利点や長所のある有益な共同体でもあった。」と発言している[33]。またハンガリーの新聞は、王政復古の可能性について何度か記事にしている[34]。20歳になるとオットーはパリを頻繁に訪れるようになり、母方の伯父シクストゥス・フォン・ブルボン=パルマによって社交界に顔つなぎをしてもらった[34]

1932年の暮れ、オットーはベルリンで博士論文のための研究をしており、そこでドイツ国の政治家たちの知遇を得るようになった[34]。台頭しつつあった右翼の男、アドルフ・ヒトラーの注目を惹いてもいた。ヒトラーは、オーストリアをドイツに併合する助けになりそうな傀儡君主にできるかもしれないとオットーを見ていたのであった[34]。しかしヒトラーの期待に反し、オットーはオーストリアの独立を望んでおり、まずオーストリアに王朝を復活させることによって中欧・東欧の地にハプスブルク君主国を再興することを目的としていた[34]

イタリア王国ベニート・ムッソリーニ首相は、母のツィタとオットーに対して、ハプスブルク家の再興は自分たちの共通の目標になりうると説得を試みた。1932年にイタリアの新聞は、中欧の支配者としてはヒトラーよりもハプスブルク家のほうが良いという意見を掲載し、間接的にハプスブルク家の王政復古を後押しした[34]。ムッソリーニはツィタをローマに招き、イタリアの王位継承権のある王女がオットーと結婚するのを見たいと彼女に話した。ムッソリーニの狙いは、ハプスブルク家とイタリア王家を合体させることによって、中南欧を貫いてイタリアに王朝の正統性を付与することであった[34]。このようなオットーの縁談についてのニュースは、1930年代初頭のヨーロッパの新聞では誤報も含めて定期的に流された[34]。とりわけ、当時イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の娘のうち最も若かったマリア王女との婚約の噂はマスコミの格好の材料となった[35]

1935年6月16日、オットーはルーヴェン・カトリック大学の全課程を修了し、博士号を得て大学を卒業した[36]

国外追放の解除

高まるオーストリアの君主主義的感情

オーストリア共和国では、オーストリア社会民主党の私的軍隊である「共和国防衛同盟軍」と政府の護国軍とが対立し、不安定な政情となっていた[33]。オーストリアの議会制は事実上崩壊していた。隣国ドイツではナチスが急速に勢力を拡大し、オーストリア国内では大ドイツ主義にもとづきドイツに吸収されることを望む声が高まっていた。こうした情勢下で、1932年に首相となったエンゲルベルト・ドルフース君主主義をナチズムの対極としてとらえ、オットーをオーストリア独立維持のキーマンであると見なした[37]。ドイツとの合邦を望む声が高まる一方で、君主主義的感情もまた増大しつつあり[38]、オーストリアの地方自治体は当時ベルギーに住んでいたオットーに名誉市民の称号を授与し始め[39][40]、最終的にオットーを名誉市民とした地方自治体の数は1,603以上にも及んだ。反ハプスブルク法の失効を求める署名運動が、25もの君主主義者の団体によって繰り広げられた[37]

オーストリア首相クルト・シュシュニック。(1936年10月18日)

1933年にヒトラー率いるナチスがドイツで政権を取ると、情勢はますます逼迫した。1934年オーストリア・ナチスに殺害されたドルフースに代わってオーストリア首相に就任したクルト・シュシュニックは、先任首相の誰よりもハプスブルク家の主張に同情的であり、その在任中は絶えずオットーと協議し、オットーを政府の仕事について十分な消息通とした[38]。君主主義者であったシュシュニック首相は「ハプスブルク家の復位はオーストリアの国内問題である」と主張して、その問題に関するオーストリアの決定権を一貫して擁護した[38]1935年7月には反ハプスブルク法が廃止され、皇室財産の多くがハプスブルク家のもとに戻った[38]。こうしてオットーは、オーストリアにおいて最も裕福な者のひとりとなった[41]。この時期、フランスの新聞各紙は「ハプスブルク家がオーストリアに戻ってくるのだろうか?」と問いかけている[42]

しかしユーゴスラビア政府が「ハプスブルクの復位を防ぐためには宣戦布告も辞さない」と明言していたり、ヒトラーが猛烈な反ハプスブルク論者であったりして、君主制の復活はほとんど不可能な状況だった。数年前にはハプスブルク家の復位を支持していたイタリアですら、この時期には反対を表明していた[38]

オットーは自らを正当なオーストリア皇帝であると考え、多くの機会にこのことを述べてきた。1937年にオットーはこう書いている[43]

オーストリア人の大多数が以前にもまして私に、わが最愛の父、平和な皇帝の遺産を引き受けて欲しいと思っていることを私はよく知っている。(……)オーストリアの人々は、共和国に賛成の票をけっして投じなかった。彼らは、長い戦いに疲れきり、1918年と1919年の革命家の大胆さに驚愕している限り、沈黙したままだった。革命が彼らの生きる権利と自由を侵害したと理解した時、彼らはあきらめを振り払った。(……)そのような信頼は私に重荷を課すものである。私は喜んでそれを受け入れる。神が望めば、君主と人民の間の再結合の時がまもなくやってくるだろう。

独墺合邦への反対

オットーは、ナチス・ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)を何としてでも阻もうとしていた[41]1937年の終わりから1938年の始めにかけて、オットーは自分の話に耳を傾ける者すべてに、ヒトラーをウィーンから遠ざけておくにはハプスブルク家の再興しかない、と口にしていた[41]。ドイツとの併合に反対するオーストリア国民にとっては、オットーのもとでの君主制の復活が、ドイツの侵略を防ぐための最も理にかなった方法であると思われた[40]。1937年11月20日はオットーの25歳の誕生日であったが、この日ウィーンの街は、旧帝国を象徴する色である黒と金で飾り立てられた[41]。ジェラルド・ワーナーによると、オーストリア・ユダヤ人は、王朝国家は第三帝国に立ち向かうのに十分な決意を与えると信じていたので、ハプスブルク家の復活を最も強く支持するグループのひとつだった[44]。また、彼らはかつて「反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者」としてフランツ・ヨーゼフ1世を敬愛していた。

ヒトラーの最後通牒が来た直後、オットーはベルギーからシュシュニック首相に書簡を送り、もし要請があればみずからが首相となって対処することを申し出た[45][46][41]。シュシュニック首相はオットーの申し出を丁重に断ったが、その理由は、ハプスブルク家の復興は即座にドイツの攻撃を招くから自殺行為になるだろう、とドイツに言われたことによるものだった[41]。結局のところ、それとは関わりなくドイツはオーストリアの地へ侵攻してきた。ヒトラーによる一連のオーストリア侵略計画は、オットー作戦ドイツ語版と呼ばれていた[41]。1938年3月13日、オーストリアはナチス・ドイツに併合されて「オストマルク」と改称された。

なおシュシュニック首相は、あくまでヒトラーの政治的敵対者であって、決してドイツとの合併そのものに反対ではなかった[47]。のちに発見された史料によるとシュシュニック首相は、ドイツとオーストリアの合邦を果たしたうえでオットーを「帝国摂政」とし、ヒトラーを首相とする構想を抱いていた[47]。自身の存在の重要性の誇示[47]や、ハプスブルク家の扱いをめぐる対立などの理由があって、ヒトラー政権下での合邦に反対したものと考えられる。

第二次世界大戦

オットーは第二次世界大戦のはじめ、数千人のオーストリア・ユダヤ人を含む[48]約15,000人が国外に脱出するのを手伝うことに関与した[49]。大戦中、ナチス・ドイツ体制はオットーを死刑にすることを宣告した。ルドルフ・ヘスは、オットーを捕らえた場合、すぐに処刑を実行するように命じた。ヒトラーの指示によってハプスブルク家の財産はすべて国家に収用され、それは大戦が終わった後も戻ってきていない。オーストリア君主制復活運動の指導者たち、つまりオットー支持者のリーダーたちはナチスによって逮捕され、その大部分は処刑された。フランツ・フェルディナント大公の遺児であり、オットーの支持者として熱心に活動していたマクシミリアン・ホーエンベルク公爵とその弟エルンスト・ホーエンベルク侯爵も、ダッハウ強制収容所に送られている。

1940年5月10日、ドイツはベルギーへの侵攻を開始した。その日オットーは弟カール・ルートヴィヒとともに用事があって町へ出ていたが、ふたりの乗る車のすぐ後ろに爆弾が落とされたという[50]

さらにフランスがドイツ軍によって占領されると、オットーは家族とともにパリから退去して、ボルドーポルトガル領事であるアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスの発行したビザを持ってポルトガルに逃れた。そして自身の安全のために、オットーはヨーロッパ大陸からカナダに発った。続いてアメリカに移り、1940年からワシントンDCに住んだ。1941年、ヒトラーによって母と弟たちともどもオーストリアの市民権を奪われ、無国籍となった。

アメリカでの亡命生活

フェリックスとともにアメリカ合衆国議会議事堂を視察した際、議場に入ったオットーは盛大な拍手をもって議員たちに迎えられた[51]。民主党上院議員アルバン・W・バークリーは、「上院は陛下をオーストリア国民の代表として歓迎いたします」と挨拶を述べた[51]

アメリカへの戦時亡命中に、ツィタおよびオットーとその弟たちローベルトとフェリックスはフランクリン・ルーズベルト大統領と連邦政府に接触し、祖国解放のためにアメリカ軍の中から「オーストリア部隊」を創設しようと試みるが、この考えはアメリカの移民仲間から強い抗議を招き、実現することはなかった[52]。しかしながらオットーは、オーストリアの都市、特に首都ウィーンへの爆撃を、アメリカに中止あるいは制限させることに成功した[48]。また、少なからずナチスに加担したオーストリアを「ナチスに征服された国家」に含めてもらうこともできた。この時期オットーはオーストリア亡命政府の認知のために、南チロルのドイツ語を話す人々の権利のために、また、ボヘミアと東ヨーロッパのドイツ語を話す住民の強制退去に反対して、そして東ヨーロッパをソビエト連邦ヨシフ・スターリンの支配下に置くことに反対して、さまざまな働きかけをした[53]

オットーは連合国の首脳たちに高く評価されていたため、1942年9月にハンガリー首相カーロイ・ミクローシュ英語版は執政ホルティ・ミクローシュに対して、連合国が勝利した際にはオットーとルーズベルトとの良好な関係を考慮してハプスブルク家の再興を検討せねばならない、という内容の覚書を送っている[54]

イギリスのウィンストン・チャーチル首相が積極的に提案した「ドナウ連邦」計画(実質的にオーストリア=ハンガリー帝国の回復である)に対して[55]、オットーは賛意を表明した。しかし、旧ハプスブルク継承諸国のすべての亡命政府と政治的指導者が王政復古に激しく反対したうえ[52]、「ドナウ連邦」が反ソ的なものになると判断したスターリンによってこの計画は頓挫し、実現することはなかった。

1944年までワシントンに滞在したが、大戦の終末期になるとオットーとその家族はヨーロッパに戻り、フランスとスペインに数年間住んだ。

戦後

第二共和国への宣誓

ナチスによって市民権を奪われたことによって、オットーは事実上の無国籍となっていたが、1946年シャルル・ド・ゴールの介入のおかげで、モナコ公国からパスポートを与えられた。また、マルタ騎士団もオットーをマルタの騎士として外交旅券を発行したし、のちにはスペインからも外交旅券を与えられた[56]

1955年5月、オーストリアと連合国との間で条約が結ばれた。オーストリアとドイツとの合邦を禁止する条項が主な内容であるが、その国家条約の中には再びハプスブルク家の復位を禁止する条項が盛り込まれていた[57]1960年代初期のオーストリアでは、オットーの帰還が政界を支配した問題であった[58]。国内に大きな騒ぎをもたらした論争は、オットーの帰還に関するもののただ一点だった。1956年、オットーは下オーストリア州政府によりオーストリア市民として認知され、「オーストリアを除く全ての国で有効な」オーストリアのパスポートを与えられた。1960年代のオーストリア警察は、「共和国の敵」が国内に侵入したのではないかと疑って、複数の機会にオットーを捜索している。

ハプスブルク家の構成員は、共和国への忠誠を宣言すれば帰国することができたが、オットーはそうしなかった。オットーは共和国への忠誠を宣言することはいとわなかったが、政治活動をやめることを約束しようとはしなかったのである[58]1961年7月、オットーは弁護士を通してオーストリア帝位請求権を放棄すると宣言した。これを受けての内閣評議会では79対78と賛成・反対意見がほぼ均等に分かれ、ただ単に合意形成には至らなかったことを記録するに留まり、結論は出さなかった[58]1963年5月に行政裁判所がオットーの宣言を認定した[58]にもかかわらず、オーストリア社会党オーストリア自由党はオットーの帰還を承認しないと表明した。これによって、王党派を支持層のひとつに抱えるオーストリア国民党とオーストリア社会党による大連立政権は崩壊した[58]。オットーは国民党にとってより楽な状況を作るべく、新しい選挙がおこなわれるまではその問題を強く推進しないことに国民党と同意した[59]。オットーは1967年にオーストリアへ入国したが、その時は国民党の単独政権であった[59]

なおオットーは、オーストリア帝位継承権は放棄したものの、その他の多くの王位継承権は保持し続けたし、実際にその後もハンガリー王などを名乗り続けた。

欧州議会議員

1998年ウィーンベルヴェデーレ宮殿にて。

1973年国際汎ヨーロッパ連合の2代目国際会長に就任する。オットーの政治思想は、ヨーロッパの統合を目指す汎ヨーロッパ主義であった。

1978年、オットーはドイツ連邦共和国の市民になり、公式の名前を「オットー・フォン・ハプスブルク」とした。オーストリアでは貴族の称号が「フォン」の名乗りに至るまで一切認められていないため、「オットー・ハプスブルク」または「オットー・ハプスブルク=ロートリンゲン」が法律上の名前であった。そして翌1979年からはドイツ選出の欧州議会議員キリスト教社会同盟所属)を務めた[60]。初当選の時点でオットーはすでに67歳となっていた。

1989年3月14日、母ツィタが96歳で世を去った。同年8月、多数の東ドイツ市民がハンガリー・オーストリア国境を越えて西ドイツに亡命する汎ヨーロッパ・ピクニックが起こると、オットーは西側からこれを支援した[60]。また、東欧革命の後には欧州連合を東側に拡大することを唱えた[60]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が解体された時、オットーはヨーロッパ諸国に働きかけ、新しく独立したクロアチアを国家として承認するようにさせた[61]。この時セルビアの民兵組織アルカン・タイガーの指導者の一人が、バルカン半島の政治に鼻を突っ込んだ際にフランツ・フェルディナント大公夫妻に何が起きたかに触れてオットーを脅迫した[61]。この脅しに対してオットーは、みずからサラエボに乗り込むことで応えた。この時オットーは「この悲劇の循環が閉じるのを祈って」サラエボに赴いたのだと語っている[61]

欧州議会におけるオットーは「古きよき保守派」と評価されており、先祖代々伝わるヨーロッパ統一の夢は、中世的な帝国的思想であると非難されたこともあるが、欧州連合によるヨーロッパ統一が夢物語ではなくなるにつれ、そのコスモポリタニズムが注目された。

晩年

演壇でスピーチするオットー。(2006年)

1999年に欧州議会議員を辞めた後も、精力的に政治活動を続けた。2004年、オットーは「ヨーロッパの将来はキエフリヴィウで決せられる」と発言した[61]。フランスと同程度の面積を持ち、人口5000万人を擁するウクライナを見て、共産主義体制だった諸国に民主政治を拡大できるかを試そうとしたのである[61]

2000年レギーナ妃を伴って来日した。今上天皇皇后との会談が行われ、宮中晩餐会にも招かれている。オットーと親交のある関西日墺協会会長の長谷川薫によると、「天皇皇后両陛下がヨーロッパの古い歴史のことについてもよく知っておられ、いろいろご質問を受けて感激しました」と語ったという[62]

1922年から84年間務めていた家長の座を、高齢のため2006年いっぱいで長男に譲り、2007年からカールがハプスブルク家当主となった。高齢とはいえ、その後もしばらくは元気な姿を周囲に見せていた。オットーは自身の長寿の説明として、身体の鍛錬という現代的な考えと、次のようなハプスブルク家の循環的な時間の観念に触れている。「人生は自転車のようなものだ。ペダルを漕いでいるかぎり、進み続けるさ。」と[63]。伝統的にハプスブルク家は、歴史を過去ではなく現在の連続だとする考えを持っている。

死去

オットーの葬儀当日のウィーン市街の様子。
オーストリア=ハンガリー帝国時代の装束に身を包み行進する人々。
カプツィーナー納骨堂に安置されたオットーの棺。

2011年7月4日ドイツ南部ペッキング英語版の自宅にて98歳で死去した。2009年に階段から落ちて以来、体調が万全でなかったという[64]。オットー逝去の報が伝わったハンガリーでは、ただちに議会での黙祷がおこなわれた。ローマ教皇ベネディクト16世は、「オーストリア大公カール殿下」宛てに次の電報を送っている。

オットー・フォン・ハプスブルクは、平和、民族の共存、ヨーロッパの秩序のために休むことなく働いた、偉大なヨーロッパ人でした。この悲劇的な損失以上の悲しみの時のなかで、私はあなたと皇室全体のことを自分自身に重ね合わせて故人のために祈ります。長くて満たされた生涯のなかで、大公オットーは、ヨーロッパの波乱に富んだ歴史の証人でした[65]

葬儀は7月16日、故国オーストリア・ウィーンシュテファン大聖堂において、ウィーン大司教クリストフ・シェーンボルンの司式により営まれた。オットーは「最後の皇帝」「最後のハプスブルク」として扱われた。葬儀には、欧州議会議長イェジ・ブゼクや、ハインツ・フィッシャー大統領やヴェルナー・ファイマン首相らオーストリア共和国首脳、そしてスウェーデン国王カール16世グスタフルクセンブルク大公アンリリヒテンシュタインハンス・アダム2世ブルガリア元国王かつ元首相のシメオン・サクスコブルクゴツキルーマニアの元国王ミハイ1世などの各国君主・元君主、イギリススペインベルギーヨルダンバチカンなどからも国王やローマ教皇の代理が出席し、帝国時代の伝統衣装を身にまとった市民ら約1万人が参列した[66]。帝国時代の国歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の唱和をもって葬儀は締めくくられた。ミサと棺の行進は、公共放送局であるオーストリア放送協会中継放送をおこなった。ハプスブルク家の伝統に従い、オットーの遺体は同市のカプツィーナー納骨堂に安置され、心臓はハンガリー北西部のパンノンハルマの大修道院に翌17日に納められた。

生前の老帝フランツ・ヨーゼフ1世のことを知る最後の人物であった。このことからウィーンでは、オットーの死をもって「オーストリア=ハンガリー帝国の真の最期」とする見方もあった。オーストリア市民の間では、帝国時代の栄華を懐かしむ声が出る一方で、もはや民間人になったハプスブルク家の葬儀をオーストリア政府が支援したことに批判的な声も聞かれた[67]

オットー・フォン・ハプスブルクの死と葬儀英語版を参照。

逸話

  • ユダヤ人系の作家ヨーゼフ・ロートは、熱心なオーストリア王党派であった。ロートの友人たちはアルコール依存症だった彼の飲酒癖を直そうと手を尽くしたが、何をやっても効果がなかった[68]。そんな1930年代のある日、ロートのハプスブルク家への傾倒ぶりを知った彼らは、オットーに介入を依頼した[68]。そこでオットーはロートを自身の「貴顕謁見室」に招き、「ロート、私はお前の皇帝として、お前に飲酒をやめるように命ずる。」と叱りつけた[68]。気を付けの姿勢で立っていたロートはこれに驚き、口ごもりながら同意した[68]。結局ロートは飲酒をやめることができなかったが、しばらくの間はこの「皇帝の命令」が効いたという[68]
  • 金羊毛騎士団団長であるオットーが発する言葉は、騎士団内では戒律も同然であった[5]。オットーは、つねに自分が品行方正な紳士であることを示すことによって、一般人の抱く退廃や同性愛・戦争とハプスブルク家との連想を薄めようと努力した。ハプスブルク一門のヴィルヘルム・フォン・エスターライヒは、パリで問題を起こして1936年3月に騎士の身分を「自発的に放棄」しているが、これはオットーがヴィルヘルムに圧力をかけた結果だという見方もある[5]
  • 東欧革命の後、ぜひともハンガリー首相になって欲しい、というハンガリー人からの要望が相次いだという[69]

家族

1951年ザクセン=マイニンゲン公家の当主ゲオルク公子の娘レギーナ1925年 - 2010年)と結婚した。2人の間には2男5女(モニカとミカエラは双生児の姉妹)が生まれており、ハプスブルク家の多産の伝統を守ったとも見なせる。死ぬまでに、22人の孫および2人の曽孫がいた。

称号と栄典

ハプスブルク家・オーストリアの勲章

他の王朝の勲章

政府勲章と栄典

非政府の栄典

参考文献

  • 増谷英樹『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』日本エディタースクール出版部、1993年(平成5年)。ISBN 4-88888-207-X 
  • バーバラ・ジェラヴィッチ英語版 著、矢田俊隆 訳『近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』山川出版社、1994年(平成6年)。ISBN 4-634-65600-0 
  • 江村洋『フランツ・ヨーゼフ オーストリア「最後」の皇帝』東京書籍、1994年(平成6年)。ISBN 4-487-79143-X 
  • リチャード・リケット(Richard Rickett) 著、青山孝徳 訳『オーストリアの歴史』成文社、1995年(平成7年)。ISBN 4-915730-12-3 
  • タマラ・グリセール=ぺカール英語版 著、関田淳子 訳『チタ――ハプスブルク最後の皇妃』新書館、1995(平成7)年5月。ISBN 4-403-24038-0 
  • 倉田稔『ハプスブルク文化紀行』日本放送出版協会、2006年(平成18年)。ISBN 4-14-091058-5 
  • アンドリュー・ウィートクロフツ(andrew wheatcroft) 著、瀬原義生 訳『ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者』文理閣、2009年(平成21年)。ISBN 978-4-89259-591-2 
  • ティモシー・スナイダー 著、池田年穂 訳『赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀』慶応義塾大学出版会、2014年(平成26年)。ISBN 978-4-7664-2135-4 

出典

  1. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.88
  2. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.89
  3. ^ a b c グリセール=ぺカール(1994) p.91
  4. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.90
  5. ^ a b c スナイダー(2014) p.267
  6. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.92
  7. ^ a b 江村(1994) p.390
  8. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.127
  9. ^ 江村(1994) p.353
  10. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.111
  11. ^ 江村(1994) p.397
  12. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.141
  13. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.152
  14. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.208
  15. ^ a b c d グリセール=ぺカール(1994) p.211
  16. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.212
  17. ^ a b c d ジェラヴィッチ(1994) p.131
  18. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.146
  19. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.277
  20. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.282
  21. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.286
  22. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.288
  23. ^ Habsburgs Erbe zerfiel und erlebte dennoch eine Renaissance”. Diepresse.com (2011年5月27日). 2011年7月8日閲覧。
  24. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.291
  25. ^ a b c グリセール=ぺカール(1994) p.300
  26. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.297
  27. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.298
  28. ^ a b c d e グリセール=ぺカール(1994) p.299
  29. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.301
  30. ^ a b c d グリセール=ぺカール(1994) p.310
  31. ^ リケット(1995) p.175
  32. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.313
  33. ^ a b c d グリセール=ぺカール(1994) p.314
  34. ^ a b c d e f g h スナイダー(2014) p.230
  35. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.316
  36. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.318
  37. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.317
  38. ^ a b c d e ジェラヴィッチ(1994) p.180
  39. ^ スナイダー(2014) p.233
  40. ^ a b スナイダー(2014) p.278
  41. ^ a b c d e f g スナイダー(2014) p.287
  42. ^ スナイダー(2014) p.254
  43. ^ Gedächtnisjahrbuch 1937, 9. Jg.: Dem Andenken an Karls von Österreich Kaiser und König. Arbeitsgemeinschaft österreichischer Vereine – Wien, W. Hamburger 1937
  44. ^ Warner, Gerald (2008年11月20日). “Otto von Habsburg's 96th birthday telescopes European history”. The Daily Telegraph (London). http://blogs.telegraph.co.uk/news/geraldwarner/5774579/Otto_von_Habsburgs_96th_birthday_telescopes_European_history/ 2011年7月6日閲覧。 
  45. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.190-191
  46. ^ リケット(1995) p.153
  47. ^ a b c 増谷(1993) p.46
  48. ^ a b Otto von Habsburg, oldest son of Austria-Hungary's last emperor, dies at age 98”. Newser. 2011年7月6日閲覧。
  49. ^ http://www.heraldscotland.com/mobile/comment/obituaries/otto-von-habsburg-1.1110433
  50. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.324
  51. ^ a b グリセール=ぺカール(1994) p.328
  52. ^ a b ジェラヴィッチ(1994) p.208
  53. ^ Sie nannten ihn 'Otto von Europa'”. Die-tagespost.de. 2011年7月8日閲覧。
  54. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.333
  55. ^ ジェラヴィッチ(1004) p.206
  56. ^ http://www.kathweb.at/site/nachrichten/database/40510.html
  57. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.230
  58. ^ a b c d e ジェラヴィッチ(1994) p.245
  59. ^ a b ジェラヴィッチ(1994) p.246
  60. ^ a b c スナイダー(2014) p.363
  61. ^ a b c d e スナイダー(2014) p.357-358
  62. ^ 学習院桜友会80周年記念講演・学習院卒業生座談会より
  63. ^ スナイダー(2014) p.382
  64. ^ 最後の皇帝の長男O.ハプスブルク氏死去 日刊スポーツ 2011年7月4日付記事、Internet Archiveより
  65. ^ Benedikt XVI. würdigt Otto von Habsburg
  66. ^ さらば最後の皇太子=O・ハプスブルク氏葬儀に1万人―ウィーン 時事通信 2015年3月15日閲覧
  67. ^ ウィーン 最後の皇太子葬儀 NHKニュース 2011年7月17日付記事、Internet Archiveより
  68. ^ a b c d e ウィートクロフツ(2009) p.370
  69. ^ グリセール=ぺカール(1994) p.370
  70. ^ Décès d'Otto de Habsbourg” (French). 2011年7月7日閲覧。
  71. ^ Otto Habsbourg s'est éteint à 98 ans” (French). France 3. 2011年7月7日閲覧。
  72. ^ The Grand Master of the Order of Malta at the funeral of Otto von Habsburg

関連項目

外部リンク

オットー・フォン・ハプスブルク
ハプスブルク=ロートリンゲン家

1912年11月20日 - 2011年7月4日

先代
0000000カール1世0000000
ハプスブルク=ロートリンゲン家家長
1922年 - 2006年
次代
0000000カール0000000
先代
カール1世
金羊毛騎士団
1922年4月1日 - 2000年11月30日
次代
カール
先代
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
国際汎ヨーロッパ連合国際会長
1973年 - 2004年
次代
アラン・テルノワール英語版