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「ナバラ州」の版間の差分

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{{Infobox settlement
{| border=1 align="right" cellpadding="4" cellspacing="0" width="280" style="margin: 0.5em 0 1em 1em; background: #ffffff; border: 1px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 86%;"
| name = ナバラ州
|+'''<span style="font-size:120%">ナバラ自治州</span>'''<br/>'''<span style="font-size:120%">{{lang|es|Comunidad Foral de Navarra}}</span>'''<br/>'''<span style="font-size:120%">{{lang|eu|Nafarroako Foru Komunitatea}}</span>
| native_name = {{lang|es|Comunidad Foral de Navarra}}<br/>{{lang|eu|Nafarroako Foru Komunitatea}}
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}}
'''ナバラ州'''({{lang-es|Navarra}})または'''ナファロア州'''({{lang-eu|Nafarroa}})は、[[スペイン]]の[[スペインの地方行政区画|自治州]]。一県一州の自治州であり'''ナバラ県'''(かつてのパンプローナ県)単独で構成される。州都は[[パンプローナ]](バスク語:イルーニャ)。スペイン語では第二音節にアクセントがあるため、'''ナバーラ州'''とも表記される。英語ではナヴァール(Navarre, {{IPAc-en|lang|n|ə|ˈ|v|ɑr}})。

正式名称は'''ナバラ特権州'''(スペイン語 : コムニダ・フォラル・デ・ナバラ、{{lang-es|Comunidad Foral de Navarra}}, {{IPA-es|komuniˈðað foˈɾal de naˈβara|}}, バスク語 : ナファロアコ・フォル・コムニタテア、{{lang-eu|Nafarroako Foru Komunitatea}}, {{IPA-eu|nafaroako foɾu komunitatea|}})であり、特権(フォラル、[[フエロ]])とはかつて[[カスティーリャ王国]]が各地域に認めていた地域特別法のことである。西は[[バスク自治州]]、南は[[ラ・リオハ州]]、東は[[アラゴン州]]に接し、北は[[フランス]]の[[アキテーヌ地域圏]]に接している。ナバラとは[[バスク語]]で「森」または「オークの林」という意味である<ref name=ishizuka54>石塚秀雄『バスク・モンドラゴン 協同組合の町から』彩流社、1991年、p.54</ref>。

== 地理 ==
=== 人口 ===
[[File:Navarra - Densidad población 2006.svg|thumb|right|200px|自治体別の人口密度<br />(赤色=高密度 / 緑色=低密度)]]

ナバラ州は272の[[ムニシピオ]](基礎自治体)からなる。人口の約1/3が州都[[パンプローナ]](195,769人)に住んでおり、人口の約半分がパンプローナ都市圏(315,988人)に住んでいる<ref name=subete21>ナバラ州政府(2005)、p.21</ref>。パンプローナに続くのは[[トゥデラ]]、{{仮リンク|バラニャイン|es|Barañáin}}、[[バリェ・デ・エグエス]]、{{仮リンク|ブルラーダ|es|Burlada}}、{{仮リンク|シスール・マヨール|es|Zizur Mayor}}(13,197人)、[[エステーリャ]]、 [[タファリャ]]、{{仮リンク|アンソアイン|es|Ansoáin}}、{{仮リンク|ビリャーバ/アタラビア|es|Villava}}である。人口上位10自治体のうち、パンプローナを含めて7自治体がパンプローナ都市圏の自治体である。272のムニシピオのうち、人口499人以下が158自治体、500人-999人が33自治体、1,000人-9,999人が72自治体、10,000人以上が10自治体である。ナバラ県(ナバラ州)の人口の31%が県都(州都)[[パンプローナ]]に居住している。スペイン全土の県都集中率の平均は32%であり、ナバラ県(ナバラ州)の県都集中率は50県中22位である。

1900年の人口は307,999人だったが<ref name=subete21/>、2012年には644,566人となった。人口密度は62人/km<sup>2</sup>であり、スペイン全体の人口密度92人/km<sup>2</sup>を下回っている。ピレネー渓谷や南西部のエステーリャ地域では20世紀初頭から人口が減少しつづけているが、パンプローナ盆地や河岸地域では人口が増加している<ref name=subete21/>。2000年代にはラテンアメリカ、東欧、北アフリカなどからの移民が増加している<ref name=subete21/>。

{|class="wikitable" align="center"
! 順位 !! 自治体 !! 人口 !! 地域
|-
|-
|1. || [[パンプローナ]] || 196,955 || パンプローナ都市圏(中部)
| bgcolor="#ffffff" align=center colspan=2 |
{| border=0 cellpadding=2 cellspacing=0
|-
|-
| 2. || [[トゥデラ]] || 35,369 || 河岸部(南部)
| align=center width="140" | [[File:Bandera de Navarra.svg|120px]]
| align=center width="80" | [[File:Escudo_de_Navarra_(oficial).svg|60px]]
|-
|-
| 3. || [[バラニャイン]] || 21,120 || パンプローナ都市圏(中部)
| align=center | 州旗
| align=center | 紋章
|}
|-
|-
| 4. || [[バリェ・デ・エグエス]] || 18,414 || パンプローナ都市圏(中部)
| bgcolor="#c6c6c6" align="center" colspan="2" |[[File:Localización de Navarra.svg|280px]]
|-
|-
| 5. || [[ブルラーダ]] || 18,248 || パンプローナ都市圏(中部)
| 州都
| [[パンプローナ]](イルーニャ)
|-
|-
| 6. || [[シスール・マヨール]] || 14,120 || パンプローナ都市圏(中部)
| [[公用語]]
| [[カスティーリャ語]]、北部では<br/>カスティーリャ語と[[バスク語]]
|-
|-
| 7. || [[エステーリャ]] || 13,947 || 河岸部(南部)
| [[面積]]<br/>&nbsp;&ndash; 総面積<br/>&nbsp;&ndash; 割合
| 第11位<br/>&nbsp; [[1 E10 m²|10,391]]km²<br/>&nbsp; 2.2%
|-
|-
| 8. || [[タファリャ]] || 11,201 || 河岸部(南部)
| nowrap="nowrap" |[[人口]]<br/>&nbsp;&ndash; 総人口(2008)<br/>&nbsp;&ndash; 割合<br/>&nbsp;&ndash; [[人口密度]]
| 第15位<br/>&nbsp; 619,114人<br/>&nbsp; 1.37%<br/>&nbsp; 60.22/km²
|-
|-
| 9. || [[アンソアイン]] || 10,976 || パンプローナ都市圏(中部)
| [[住人の呼称]]<br/>&nbsp;&ndash; カスティーリャ語<br/>&nbsp;&ndash; バスク語
|<br/>&nbsp; navarro/-a<br/>&nbsp; nafar, napartar
|-
|-
| 10. || [[ビリャーバ/アタラビア]] || 10,308 || パンプローナ都市圏(中部)
| 自治州法 || [[1982年]][[8月16日]]
|-
| [[ISO 3166-2:ES]] || NA
|-
| 議席割当<br/>&nbsp;&ndash; 下院<br/>&nbsp;&ndash; 上院
| valign=bottom |&nbsp; 5<br/>&nbsp; 5
|-
| 州首相
| ジョランダ・バルシーナ([[ナバーラ住民連合|UPN]])
|-
| align=center colspan=2 | [http://www.navarra.es/ 州政府のサイト]
|}
|}


=== 地形 ===
{{基礎情報 バスクの地域
地形・生物気候学の観点から、ナバラ州は山岳部、中央部、河岸部の3地域に分けることができる<ref name=subete1119>ナバラ州政府(2005)、pp.11-19</ref>。北の[[ピレネー山脈]]から南の[[エブロ川]]流域の平原まで、ナバラ州の地理は変化に富んでいる。地理学者のアルフレド・フロリスタはナバラの景観を「ミニチュア大陸」と表現した<ref name=subete1119/>。
|バスク語名=ナファロア・ガライア
|バスク語=Nafarroa Garaia
|旗=Bandera de Navarra.svg
|紋章=Escudo de Navarra (oficial).svg
|国語=スペイン語
|国語の呼称=Navarra
|住民の呼称=nafar, hegoaldeko nafar
|地図=Nafarroa Euskal Herrian.png
|中心都市=イルーニャ
|方言1=高ナファロア方言
|方言2=低ナファロア方言
|方言3=エロンカリ方言
}}


山岳部はナバラ州北部を占め、さらに湿潤地帯、ピレネー渓谷、ピレネー前縁盆地に分けられる。州北西部の湿潤地帯は平均気温が摂氏15度、年間降水量が約1,400mmであり、広葉樹、牧草、シダ類などの植生がみられる<ref name=subete1119/>。州北東部のピレネー渓谷は、激しい降雪と気温の変化が特徴のピレネー山脈山麓から、西に向かうにつれて温暖な気候が特徴の亜海洋性気候に変化している<ref name=subete1119/>。ピレネー渓谷北部ではブナ、モミ、オウシュウアカマツなどがみられる<ref name=subete1119/>。ピレネー前縁盆地の植生はカシ類やカシワ類などの地中海広葉樹が目立つ<ref name=subete1119/>。ナバラ州の最高峰は標高2,428mのメサ・デ・ロス・トレス・レジェスであり、その他の主要な山には、チャマンチョイア、カルチェラ、ララ=ベラグア山塊、アライス山、ウンツエコ・アリア、レイレ山、ペルドン山、モンテフラ、エスカバ、オリ山、コデス山、ウルバサ、アンディア、{{仮リンク|アララール山地|en|Aralar Range}}などがある。
'''ナバラ州'''( [[スペイン語]]:{{lang|es|Navarra}}、[[バスク語]]:{{lang|eu|Nafarroa}})は、[[スペイン]]の[[スペインの地方行政区画|自治州]]。'''ナバラ県'''(かつてのパンプローナ県)1つからなる一県一州の自治州である。州都は[[パンプローナ]](バスク語:イルーニャ)。アクセントは第二音節にあるため、'''ナバーラ州'''とも表記される。


山岳部と河岸部の中間には中央部があり、山地や丘陵などがみられる北部から広大な平野が広がる南部までが緩やかに推移している。中央部の中でも気候は大きく変化し、東側は大陸性気候であり、北側は西岸海洋性気候、南側は大陸地中海性気候である。中央部には[[パンプローナ]]やパンプローナ都市圏がある。河岸部は[[エブロ川]]の本流や支流の流域であり、[[エステーリャ]]と[[トゥデラ]]というふたつの主要都市がある。エステーリャ河岸にはなだらかな尾根や向斜面谷が見られ、ドゥデラ河岸には構造平原や沖積低地が広がっている<ref name=subete1119/>。トゥデラの北方には[[バルデナス・レアレス]]と呼ばれる、自然公園に指定されている半砂漠地帯が広がる。河岸部の年降水量は400mm足らずであり、山岳部に比べて日照時間が長いほか、夏季と冬季の気温差が激しい<ref name=subete1119/>。
西は[[バスク州]]、南は[[ラ・リオハ州]]、東は[[アラゴン州]]に接し、北は[[フランス]]([[アキテーヌ地域圏]])と接している。


ナバラ州の主要な河川には、エステーリャを流れる[[エガ川]]、パンプローナを流れる[[アルガ川]]、サングエサを流れる[[アラゴン川]]などがある<ref name=subete1119/>。これらの河川はいずれも[[エブロ川]]の支流であり、北から南に流れてエブロ川に注いだ後は、南東に流れてやがて[[地中海]]に注ぐ<ref name=subete1119/>。スペイン語とバスク語の言語境界線付近に分水嶺があり、州北西部の一部の地域からは、[[ウルメア川]]や[[ビダソア川]]やレイツァラン川が、南から北に流れて[[大西洋]]に注いでいる<ref name=subete1119/>。
正式名称{{lang|es|Comunidad Foral de Navarra}}の{{lang|es|foral}}(名詞形{{lang|es|fuero}})は、封建時代に遡る用語で、特定の階級や地域に認められた法律のことである。

=== 気候 ===
北部の湿潤地帯は[[大西洋]]の影響を受けて[[西岸海洋性気候]](Cfb)であり、中央部の亜乾燥地帯は夏季の降水量が少ない[[地中海性気候]](CsaまたはCsb)であり、南部の乾燥地帯は降水量が少なく冷涼な[[ステップ気候]](BSk)である。北部と南部では気候に大きな差がみられるが、概して乾燥する夏季、降水量の少なさ、シエルソと呼ばれる北風を特徴としている。

<Gallery>
Aralarretik Aizkorri mendikatea.JPG|{{仮リンク|アララール山地|en|Aralar Range}}(山岳部)
Hayedo de Irati 1. Otoño de 2011.JPG|イラティの森(山岳部)
PuenteArga.jpg|[[アルガ川]](中央部)
Bardenas Reales 4.jpg|[[バルデナス・レアレス]](河岸部)
</Gallery>


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 先史時代・古代 ===
[[File:Coins of Arsaos in Navarre Spain 150BCE 100BCE Roman stylistic influence.jpg|thumb|200px|right|古代ローマの影響を示す硬貨(紀元前150-紀元前100年頃)]]

ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期[[旧石器時代]]の{{仮リンク|マドレーヌ文化|en|Magdalenian}}期(18,000年前 - 11,000年前)のものである<ref name=subete25>ナバラ州政府(2005)、p.25</ref>。北西部の{{仮リンク|アララール山地|en|Aralar Range}}には[[青銅器時代|金属器時代]]初期の[[巨石記念物]]([[支石墓|ドルメン]]、[[メンヒル]]、[[ストーンサークル]])が見られ、南部には[[鉄器時代]]の集落が発見されている<ref name=subete26>ナバラ州政府(2005)、p.26</ref>。

その後やってきた[[ケルト人]]はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀には[[カルタゴ]]人がピレネー山麓に達した<ref name=bard1920>バード(1995)、pp.19-20</ref>。紀元前133年の{{仮リンク|ヌマンティア|en|Numantia}}の攻囲戦で[[古代ローマ人]]がケルト人を破ると、紀元前75年には[[グナエウス・ポンペイウス]]が自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現[[パンプローナ]])を建設した<ref name=allieres4143>アリエール(1992)、pp.41-43</ref>。ポンパエロには神殿、[[古代ローマの公衆浴場|公衆浴場]]、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり<ref name=bard2528>バード(1995)、pp.25-28</ref><ref name=michi9>大泉(2007)、p.9</ref>、[[ブドウ]]、[[オリーブ]]、[[小麦]]などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエル、[[アラゴン川]]や[[アルガ川]]河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった<ref name=bard2528/>。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、[[レイレ修道院]]の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、[[ロンセスバーリェス]]修道院の建設は638年とされている<ref name=bard3134>バード(1995)、pp.31-34</ref>。

=== 中世 ===
[[File:Kloster Leyre.jpg|right|thumb|200px|「ナバラ王国の心臓」と称えられた[[レイレ修道院]]]]

{{See also|ナバラ王国}}
{{See also|ナバラ王国}}
かつてナバラ王国が[[ピレネー山脈]]を挟んでこの一帯を統治していた。ナバラ王国はもともとパンプローナ王国と呼ばれ、[[824年]]頃にイニゴ・アリスタが[[フランク王国]]に反乱を起こして建国した。[[1512年]]、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]によって山脈から南側はスペインに統合された。


[[西ゴート族]]も[[フランク族]]もこの地域を完全に征服するには至らなかった。778年、[[カール大帝]]率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い([[ロンセスバーリェスの戦い]])には大敗し、この戦いは叙事詩[[ローランの歌]]のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後の[[ナバラ王国]])を築いた<ref name=subete59>ナバラ州政府(2005)、p.59</ref><ref name="Collins1990">{{cite book|last=Collins|first=Roger|title=The Basques|year=1990|publisher=Basil Blackwell|location=Oxford, UK|isbn=0631175652|edition=2nd |ref=harv}}, p. 140-141.</ref>。905年にサンチョ1世によってヒメネス王朝が始まると、10世紀半ばにはレオン王国、アラバ、リバゴルサ、カスティーリャ王国、カリフ国などと婚姻関係を結んだ<ref name=bard4546>バード(1995)、pp.45-46</ref>。パンプローナ王国は[[首都]]を持ち[[司教区]]を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった<ref name=bard4853>バード(1995)、pp.48-53</ref>。1004年に即位した[[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ3世]](大王)は、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域を次々と従えて王国の地位を強固なものとし<ref name=allieres4650>アリエール(1992)、pp.46-50</ref><ref name=subete59/>、[[ピレネー山脈]]以南([[イベリア半島]])の[[キリスト教]]圏の大部分を支配した{{Sfnp|Collins|1990|p=181}}。850年以後に[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路|サンティアゴの巡礼路]]が[[巡礼|巡礼者]]の人気を得たが、サンポール峠かシーズ峠でピレネー越えをした巡礼路はナバラで合流し、[[プエンテ・ラ・レイナ]]や[[エステーリャ]]の町を通過した。巡礼者の往来は11世紀にピークに達し、ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。
フランス側に分かれた地方は[[バス=ナヴァール]]と呼ばれ、現在はフランスの[[ピレネー=アトランティック県]]の一部である[[フランス領バスク]]になっている。ナバラ王エンリケ3世が[[1589年]]にフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]として即位した後、歴代のフランス王はナバラ王を兼ね、フランス側のナバラは[[1791年]]まで別の王国として存続した。


1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかったが、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した{{Sfnp|Collins|1990|pp=214-215}}。ナバラ王国時代には[[イスラム美術|アラブ美術]]が持ち込まれ、[[トゥデラ]]の[[モスク]]の廃墟、[[レイレ修道院]]やフィテロ<small>([[:en:Fitero|英語版]])</small>修道院の象牙細工の小箱などが残っている<ref name=subete26/>。1076年にはアラゴン王[[サンチョ1世 (アラゴン王)|サンチョ1世]]がナバラ王国を併合し、ナバラ王国は[[アラゴン王国]]の一地方となったが、[[ガルシア6世 (ナバラ王)|ガルシア6世]](復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てた<ref name=bard6468>バード(1995)、pp.64-68</ref>。1200年にはカスティーリャ王[[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]にビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われ、ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となったが{{Sfnp|Collins|1990|pp=185}}、1212年にカトリック諸国連合軍が[[ムワッヒド朝]]に挑んだ[[ナバス・デ・トロサの戦い]]では、[[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]](不屈王)が率いる少数ながら象徴的な200人の騎士たちがカトリック勢力の勝利に貢献し、[[レコンキスタ]](再征服運動)においてイスラーム勢力に決定的な打撃を与えた<ref name=bard6870>バード(1995)、pp.68-70</ref>。
== 自治体 ==
272の基礎自治体があり、そのうち7割近くが人口千人未満である。州の人口約60万人のうち3分の1が州都[[パンプローナ]](約19万6千人)に住んでいる。2番目に人口が多いのは[[トゥデラ]](約3万人)、3番目はバラニャイン([[:es:Barañáin|es]]、約2万人)。


1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家の[[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]が即位してフランス王朝が始まったが<ref name=bard9799>バード(1995)、pp.97-99</ref>{{Sfnp|Collins|1990|pp=232}}、ナバラ王国は強力な[[フエロ]](特権法や特権制度)の大部分を維持した。国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した<ref name=bard106>バード(1995)、pp.106-113</ref>。歴代の総督はナバラ人に快く思われず、フランスから召喚を受けた際に代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補を議会が拒んだこともあった<ref name=bard106/>。ナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された<ref name=bard106/>。女王[[フアナ2世 (ナバラ女王)|フアナ2世]]の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった<ref name=bard116>バード(1995)、pp.116-120</ref>。1348年から1349年には[[黒死病]]がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った<ref name=bard116/>。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた<ref name=bard116/>。1379年には、トゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領された<ref name=bard116/>。1418年には[[カルロス3世 (ナバラ王)|カルロス3世]]が[[オリテ]]に王宮を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた<ref name=bard121>バード(1995)、pp.121-127</ref>。1441年に女王の[[ブランカ1世 (ナバラ女王)|ブランカ1世]]が死去すると、共同君主だった夫の[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]は長男[[カルロス (ビアナ公)|カルロス]]に王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間で[[ナバーラ内戦|ナバラ内戦]]が発生した{{Sfnp|Monreal/Jimeno|2012|pp=10-15}}<ref name=bard127>バード(1995)、pp.127-130</ref>。1479年には近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が合体してイベリア半島がほぼ統一され、イスラーム勢力化にある地域を除けば、ナバラ王国はスペインでほぼ唯一の独立した王国となった<ref name=bard132>バード(1995)、pp.132-135</ref>。スペイン王国が1492年にグラナダを手に入れると、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた<ref name=bard132/>。
== 言語 ==
ナバラは[[バスク国 (歴史的な領域)|歴史的なバスク地方]]の一部と見なされている。しかし、この地の[[バスク語]]は何世紀もの間に後退し、現在はピレネー山脈沿いの地域で話されている。


=== 近世 ===
1986年の法律では、ナバラは3つの言語圏に分けられた。バスク語圏、混合圏、非バスク語圏(カスティーリャ語、つまり[[スペイン語]]地域)である。バスク語圏と混合圏では、カスティーリャ語と並んでバスク語が公用語とされている。
[[File:castillo javier.jpg|right|thumb|200px|[[フランシスコ・ザビエル]]が育った[[ハビエル城]]]]


1512年にはカスティーリャ王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]がナバラ王国に侵攻して併合し<ref name=hagio7175>萩尾ほか(2012)、pp.71-75</ref><ref>{{cite book | author1 = Monreal, Gregorio| author2 = Jimeno, Roldan|year = 2012 | title = Conquista e Incorporación de Navarra a Castilla| publisher = Pamiela | location=Pamplona-Iruña| isbn = 978-84-7681-736-0}}, pp. 30-32</ref>、ナバラ王国は[[カスティーリャ王国]]の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された<ref name=watanabe36>渡部哲郎『バスク –もう一つのスペイン-』彩流社、1984年、p.36</ref>。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ<ref name=bard157>バード(1995)、pp.157-160</ref>。ナバラ王位にあった[[カタリナ (ナバラ女王)|カタリナ]]と[[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]]は[[ピレネー山脈]]北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王[[ジャンヌ・ダルブレ]]が率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ね、フランス側のナヴァール王国は1791年まで存続した。
[[Image:Navarra - Zonificacion linguistica.svg|thumb|left|ナバーラ州の言語圏。薄いピンクがバスク語圏、濃いピンクが混合圏、水色が非バスク語圏]]
{{-}}


17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった<ref name=bard201>バード(1995)、pp.201-208</ref>。スペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに鉄鉱石を運んだ<ref name=bard201/>。17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。この世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった<ref name=bard201/>。1659年にはピレネー条約でスペイン・フランスの国境が確定し、北ナバラと南ナバラの分断によって長年燻っていたナバラ問題は立ち消えた<ref name=bard190>バード(1995)、pp.190-199</ref>。スペイン内でフエロを持つ他地域、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比べても、ナバラは高い水準の自治権を有しており<ref name=bard166>バード(1995)、pp.166-168</ref>、ナバラのみは例外的に司法権の維持を許された<ref name=bard168>バード(1995)、pp.168-170</ref>。
== 関連項目 ==

* [[バスク国 (歴史的な領域)]]
18世紀初頭には、スペインの各地方の中でナバラだけがいまだに「王国」と呼ばれていた<ref name=bard212>バード(1995)、pp.212-215</ref>。1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した<ref name=bard216>バード(1995)、pp.216-220</ref>。農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5-10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった<ref name=bard216/>。18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大な[[バロック様式]]の建物が至るところに建てられた<ref name=bard216/>。18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった<ref name=bard165>バード(1995)、pp.165-166</ref>。

フランスとスペインを含む連合軍の間でスペイン独立戦争([[半島戦争]])が起こった19世紀初頭、フランスの憲法起草者はナバラ、[[スペイン・バスク]]、[[フランス領バスク]]を統合して新フェニキアという名称のバスク統一国を作ることを計画した<ref name=bard224>バード(1995)、pp.224-228</ref>。ナポレオン自身は、[[エブロ川]]以北をスペインと分断させてフランスに編入させることを計画した<ref name=bard224/>。1813年にスペイン独立戦争が終結すると、スペインでは自由主義的な思想が目立つようになり、中央集権体制の支持者が増加した<ref name=bard228>バード(1995)、pp.228-230</ref>。[[スペイン独立戦争]]後の1833年には第一次[[カルリスタ戦争]]が勃発したが、1839年の[[ベルガラ協定]]でカルリスタ側の敗北が決定した。スペイン政府は行政改革の一環として[[スペインの県|県]]の設置を進めており、ナバラ王国に相当する領域にはナバラ県が設置された。1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名してフエロが撤廃され{{Sfnp|Collins|1990|p=275}}、数百の町がスペインに統合されて特権法憲章が制定された<ref name=subete62>ナバラ州政府(2005)、p.62</ref>。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動に移転すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない[[密輸]]が台頭した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。国内の不安定な政治情勢の中、1870年代の第三次[[カルリスタ戦争]]中には[[エステーリャ]]を首都としてバスク政府が設立されたが、[[アルフォンソ12世 (スペイン王)|アルフォンソ12世]]のスペイン王権の復興と反撃によってカルリスタの敗北が決定し、戦争後のスペイン政府の中央集権化の政策はナバラに大きな影響を与えた。1893年から1894年にはパンプローナ中心部でガマサダと呼ばれる民衆蜂起が起こり、1841年の特権規定や1876年の財政保証廃止などのマドリード政府の決定に抵抗した。アルフォンシノスと呼ばれる小規模な派閥を除き、ナバラのすべての政党は、ラウラク・バット(4つは1つ)を合言葉とする地方自治に基づいた新たな政治的枠組みの必要性について合意した。

=== 近代 ===
[[Image:NafarForuak.JPG|thumb|right|200px|1890年代のガマサダ後に[[パンプローナ]]に建てられた記念碑]]

カルリスタがカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域では[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]が台頭したが、ナバラでは状況が異なった<ref name=bard281282>バード(1995)、pp.281-282</ref>。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮した<ref name=bard282284>バード(1995)、pp.282-284</ref>。1931年にバスク地方が提出したエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)は、カトリックを中心に据えたために共和国議会で同意が得られなかった。1933年に再度作成されたバスク自治憲章案はカトリックを中心に据えず、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県の住民投票で承認されたが、ナバラ県では反対票が過半数に達した。1931年から1939年の[[スペイン第二共和政|第二共和政]]下では左派と右派の勢力の分裂が続き、スペイン国内は政治的に混迷を極めた。1933年10月には数千人の労働者が裕福な地主の土地を占領し、地主は労働者に怨恨の念を抱いた<ref>{{cite book | author=Paul Preston | title=The Spanish Holocaust: Inquisition and Extermination in Twentieth-Century Spain. | publisher= HarperCollins | location= London, UK | isbn=978-0-00-638695-7 | year=2013 | page=182}}</ref>。1936年7月18日には[[エミリオ・モラ]]将軍がパンプローナで反乱を起こし、3年に渡る[[スペイン内戦]]が勃発した。この軍事反乱後には、強硬派によって要注意人物に指定された個人に対するテロ活動が相次ぎ、進歩的な共産主義者に加え、軽度の共産主義者や、政権にとって単に不都合なだけの人物でさえもテロの対象となった<ref>Preston, P. 2013, p. 179-181</ref>。特にナバラ南部のエブロ河岸に沿った地域で大規模な粛清が行われ、ファシスト風敬礼に適応した聖職者らは自発的に謀略に加担し、また要注意人物殺害の任務にさえ関与した<ref>Preston, P. 2013, p. 182-184</ref>。少なくとも2,857人が殺害され、さらに305人が虐待や栄養失調などの理由により刑務所で死亡した<ref>Preston, P. 2013, p. 183</ref>。死者は集団墓地に埋められるか、ウルバサ山などの中央丘陵地にある峡谷に廃棄された。[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義者]]はより劣った地に追い払われ、エステーリャ市長であり[[CAオサスナ]]の共同創設者だったフォルトゥナト・アギーレは1936年9月に死刑に処された。パンプローナは1937年4月以降の北方作戦時に、反乱軍の作戦開始地点となった。

スペイン内戦後の1939年には[[フランシスコ・フランコ]]による独裁政権が成立し、アラバやナバラは内戦時の支援の報酬として、フエロを想起させる特権の数々の維持が認められた<ref name=eusko>{{cite web |url= http://www.euskomedia.org/aunamendi/97937/142976 |title=Navarra. Historia: Franquismo|author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date= |website=Auñamendi Eusko Entziklopedia|publisher= EuskoMedia Fundazioa|accessdate=16 September 2014}}</ref>。内戦後には物資の欠乏、飢饉、密輸などが深刻化し、経済は小麦、ブドウ、オリーブ、大麦などの農業に依存し、人的移動は負の方向に傾いた。戦争の勝利者はカルリスタとファランヒスタというふたつの主要な派閥に群れをなした<ref name=eusko/>。一方、[[ウルトラモンタニズム|教皇至上主義]]の環境は宗教団体に肥沃な土壌を提供し、[[オプス・デイ]]は1952年にパンプローナに[[ナバーラ大学|ナバラ大学]]を設立してより大きな影響力を持った。1950年頃にはギプスコア県やビスカヤ県のように工業誘致を行い、化学工業、製紙業、製鉄業、鉄鋼業などの企業がナバラ県に進出した<ref name=bard305309>バード(1995)、pp.305-309</ref>。ナバラ県第一の産業は農業から工業に入れ替わり、1950年からの20年間で、農業従事者割合は55%から26%に低下した<ref name=bard305309/>。特にパンプローナの人口・企業増加が大きく、1978年にはナバラ県全体の45%の人口と60%の企業を集めていた<ref name=bard305309/>。フランコ政権末期の民主化準備段階において、ナバラ県では[[バスク祖国と自由]](ETA)、警察、県が後援する民兵組織による暴力活動が行われ、その風潮は1980年代以降まで続いた。

=== 現代 ===
1975年の[[フランシスコ・フランコ]]死後にスペインが民主化の時期を迎えると、ナバラ県の地方政府と良好な関係を保っていた政治家は[[アドルフォ・スアレス]]が率いる[[民主中道連合]](UCD)に参加したが、1979年にはハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴとヘスス・アイスプン・トゥエロを主導者として [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN)が設立され、民主的な[[スペイン1978年憲法]]で規定された過程への参加を拒否し、地方特権の維持を主張した。この一方で、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県は[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義者]]や左派政党が主流であり、1978年の[[ゲルニカ憲章]](バスク自治憲章)でナバラ県も含めた4県での自治州の設立を謳っていたが、ナバラ住民連合は[[バスク自治州]]への参加を拒否し、住民投票でも反対が過半数に達した。ナバラ県政府は1982年に独裁時代の制度的枠組みを引き継いだ自治憲章を策定し、ナバラ県単独でのナバラ州が成立した。バスク民族主義者や少数派の進歩的な勢力が要求した改革は住民投票によって批准されなかった。1987年にはナバラ州初の公立大学として、[[ナバーラ州立大学|ナバラ州立大学]]が設立された。

== 政治 ==
[[File:Parlement_Navarre_2011.png|thumb|right|200px|ナバラ州議会の議席分布(2011年-)]]

[[フランシスコ・フランコ]]独裁政権の終焉後、1982年にナバラ自治州憲章が制定され、ナバラ県は17[[スペインの地方行政区画|自治州]]のひとつとなった。教育、社会サービス、住宅開発、都市開発、環境保護などがナバラ州の政治機関の責任下に置かれている。また、17自治州のうち15自治州では中央政府が徴税した税金の一部を各自治州に分配しているが、ナバラ州と[[バスク自治州]]は各県に徴税権があり、その一部が国庫に納められる<ref>萩尾生・吉田浩美『現代バスクを知るための50章』明石書店、2012年、pp.151-155</ref>。他の自治州同様に、ナバラ州議会は4年ごとに州議員選挙を行っており、議会の多数派がナバラ州政府を担当する州首相を決定する。1979年には、国民同盟(AP、[[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)の前身)と提携する地方政党である[[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN)のハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴが初の首相に選出されたが、70議席中9議席を獲得した[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]左派政党も一定の強さを示した<ref name=bard305309/>。1980年には[[民主中道連合]](UCD、後に解散)から、1984年には[[スペイン社会労働党]](PSOE)のナバラ支部である[[ナバラ社会党]](PSN)から州首相が選出された。ナバラ社会党は7年間にわたって州首相の座を維持し、1991年からの4年間はナバラ住民連合が、1995年からの2年間はナバラ社会党が州首相の座を担ったが、1996年にはナバラ住民連合が州首相の座を奪い返し、[[ミゲル・サンス]]が15年間に渡って州首相を務めた。現在の州首相は2011年にナバラ住民連合から選出された[[ジョランダ・バルシーナ]](女性)である。右派のナバラ住民連合と左派のナバラ社会党に加え、[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]を標榜する政党もかなりの得票を得ており、北部のいくつかの地域ではこれらの政党が多数派である。これらの政党はナバラ州とバスク自治州の合併を指針に挙げているが、スペインにあるすべての政党同様に、ナバラ社会党もナバラ住民連合もこの動きに反対している。

{| class="wikitable"
! colspan=5| ナバラ州首相
|-
! # !! 期間 !! width=230| 名前 !! width=200| 出身政党 !! width=180| 備考
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第1代 || 1979-1980 || ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-AP) || ナバラ県首相
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第2代 || 1980-1984 || フアン・マヌエル・アルサ・ムニュスリ || [[民主中道連合]](UCD) || 任期中にナバラ州成立
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第3代 || 1984 || ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-AP) ||
|- bgcolor=#FFE8E8
| 第4代 || 1984-1991 || ガブリエル・ウライブル || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第5代 || 1991-1995 || フアン・クルス・アリ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-PP) ||
|- bgcolor=#FFE8E8
| 第6代 || 1995-1996 || ハビエル・オターノ || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第7代 || 1996 || フアン・クルス・アリ || [[ナバラ民主主義者統一]](CDN) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第8代 || 1996-2011 || [[ミゲル・サンス]] || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-PP) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第9代 || 2011- || [[ジョランダ・バルシーナ]] || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN) || 女性首相
|}
{| class="wikitable"
! colspan=5| ナバラ州議会議長
|-
! # !! 期間 !! width=230| 名前 !! width=200| 出身政党 !! width=180| 備考
|- bgcolor=#FFE8E8
| || 1979-1983 || ビクトル・マヌエル・アルベロア || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) || ナバラ州成立以前
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第1代 || 1983-1987 || バルビーノ・バドス || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-AP) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第2代 || 1987-1991 || イグナシオ・ハビエル・ゴマラ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-PP) ||
|- bgcolor=#FFE8E8
| 第3代 || 1991-1995 || ハビエル・オターノ || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) ||
|- bgcolor=#FFE8E8
| 第4代 || 1995-1999 || マリア・ドローレス・エグレン || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) ||
|- bgcolor=#FFE8E8
| 第5代 || 1999-2003 || ホセ・ルイス・カステホン || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第6代 || 2003-2007 || ラファエル・グレア || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-PP) ||
|- bgcolor=#FFE8E8
| 第7代 || 2007-2011 || エレーナ・トーレス || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 第8代 || 2011- || アルベルト・カタラン || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN) ||
|}

== 経済 ==
1960年代までナバラ県の経済は[[第一次産業]]が中心だった<ref name=subete7176>ナバラ州政府(2005)、pp.71-76</ref>。山岳部では[[牧畜]]が行われて[[トウモロコシ]]や[[テンサイ]]などが栽培され、中央部の盆地には[[ヒマワリ]]や[[アブラナ]]などの加工用[[プランテーション]]が広がり、[[エブロ川]]流域には[[オリーブ]]や[[ブドウ]]の畑が広がっている<ref name=subete7176/>。1960年代には工業化が始まり、当初は繊維業や皮革業などが中心だったが、1973年には金属工業が[[第二次産業]]分野の首位となった<ref name=subete7176/>。金属工業からは[[フォルクスワーゲン]]の工場と部品工場を中心とする自動車産業が派生し、1980年代後半には自動車産業が優勢となった<ref name=subete7176/>。2000年代には第二次産業の中で自動車産業と機械鉱業が抜きんでており、主要都市の工業団地にその他の産業の工場が存在する。ペラルタ/アスコイエン<small>([[:en:Peralta|英語版]])</small>は金属工業、[[エステーリャ]]はグラフィックアート、アリョ<small>([[:en:Allo|英語版]])</small>やレイツァ<small>([[:en:Leitza|英語版]])</small>や[[サングエサ]]は製紙業、{{仮リンク|レサカ|en|Lesaca}}やベラデビダソア<small>([[:en:Vera de Bidasoa|英語版]])</small>は冶金工業、オラスティ/オラサグティア<small>([[:en:Olazti/Olazagutia|英語版]])</small>はセメント、カスカンテ<small>([[:en:Cascante|英語版]])</small>は繊維業といった具合に、第二次産業は州各地に散らばっている<ref name=subete7176/>。また、2000年代には[[風力発電]]、[[光電池]]、[[太陽光発電]]などのエネルギー産業が著しく発展し、[[再生可能エネルギー]]は州内の電気エネルギー消費の60%を賄っている<ref name=subete7176/>。ナバラ貯蓄銀行とパンプローナ貯蓄銀行が合併して誕生したナバラ銀行はスペイン有数の金融機関である<ref name=subete7176/>。

== 社会 ==
=== 言語 ===
[[File:Navarra - Mapa densidad euskera 2001.svg|thumb|200px|right|地域別のバスク語話者の割合]]

[[スペイン語]]はナバラ州全域で公用語であり、[[バスク語]]もバスク語が話される地域では公的な地位を有している<ref name=parlamento>[http://www.parlamentodenavarra.es/home.aspx Parlamento de Navarra]ナバラ州議会</ref>。1986年、ナバラ州を言語によって3領域に分割する法律が制定された。「バスク語圏」ではバスク語が普及しており、スペイン語に加えてバスク語も公用語とされている。「混合圏」と「非バスク語圏」(スペイン語圏)では段階的にバスク語の公的認知が弱められており<ref name=parlamento/>、「混合圏」でもバスク語は公的な地位を得ているが、「非バスク語圏」では公的な地位を得ていない。このため、州北西部では広くバスク語が話されている一方で、南部では完全にスペイン語が話されている。州都の[[パンプローナ]]は二言語の混合地域である。2006年の調査では、州民の11.1%がバスク語話者であり、7.6%が能動的でないバスク語話者であり、81.3%がスペイン語の単一話者だった。バスク語話者が9.5%だった1991年の調査に比べて、バスク語話者の割合は増加している<ref name=IVInkesta>''IV. Inkesta Soziolinguistikoa'' Gobierno Vasco, Servicio Central de Publicaciones del Gobierno Vasco 2008, ISBN 978-84-457-2775-1</ref>。年齢別のバスク語話者割合は均質ではなく、35歳以上で低いのに対して、16-24歳では20%以上を記録している<ref name=IVInkesta/>。2011年の国勢調査によれば、バスク語話者は11.7%(63,000人)と微増した
<ref name=Vinkesta>{{cite web |url=http://www.euskara.euskadi.net/contenidos/informacion/argitalpenak/eu_6092/adjuntos/V.%20Inkesta.pdf |title=V Inkesta Soziolinguistikoa |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=1 July 2013 |website=Eusko Jaurlaritza |publisher=Euskal Autonomia Erkidegoko Administrazioa Hezkuntza, Hizkuntza Politika eta Kultura Saila |accessdate=31 May 2014}}</ref>。

=== 教育 ===
1952年には[[ローマ・カトリック教会]]に属する[[オプス・デイ]]が、[[パンプローナ]]に{{仮リンク|ナバーラ大学|label=ナバラ大学|en|University of Navarra}}を創設した。ナバラ大学はパンプローナとサン・セバスティアンの2か所にキャンパスを有しており、経済学・経営学部は[[エコノミスト]]誌や[[フィナンシャル・タイムズ]]紙によって世界トップクラスの評価を受けている<ref name=navarrauniv>{{cite web |url=http://www.unav.es/facultad/econom/incoming |title=Incoming |author= |date= |work= |publisher=ナバラ大学 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。医学部は前衛的な研究を行っており、2004年には[[腫瘍学]]・[[病理生理学]]・[[神経科学]]・生物医学の4ジャンルを合わせもつ応用医学研究センターが開設された<ref name=subete7680>ナバラ州政府(2005)、pp.76-80</ref>。ナバラ大学では人文科学や社会科学の研究も盛んである<ref name=subete7680/>。1987年にはナバラ州初の公立大学として、既存の高等教育機関を統合して[[ナバーラ州立大学|ナバラ州立大学]]が創設された<ref name=subete7680/><ref name=navarrapublicuniv>{{cite web |url=http://www.unavarra.es/conocerlauniversidad/history/origins-and-former-statutes |title=Origins and former statutes |author= |date= |work= |publisher=ナバラ州立大学 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。ナバラ州立大学は革新的な学科構造を取り入れており、大学研究を企業発展につなげることを目標としている<ref name=subete7680/>。パンプローナと[[トゥデラ]]にはスペイン国立通信教育大学(UNED)のセンターが存在する<ref name=subete7680/>。

ナバラ州では16歳未満の全児童生徒の就学が実現しており、教育施設は公立学校か私立学校を選択できる<ref name=subete7680/>。特に[[バスク語]]が公用語である地域ではバスク語教育の導入が進められており、公立学校・私立学校のそれぞれでバスク語を学んだり研究したりすることができる<ref name=subete7680/>。高等音楽教育を行う学校としてパブロ・サラサーテ音楽学校があり、7校の市立音楽学校とその他の私立音楽学校の頂点に位置する<ref name=subete3438/>。高等教育機関の他には、ナバラ・レーザーセンター、ブドウ酒醸造学研究所、穀物・牛技術研究所などの研究機関が存在する<ref name=subete7680/>。

=== 交通 ===
州内には2005年時点で3,636kmの道路があり、うち209kmが有料または無料の[[高速道路]]、540kmが一般道路、457kmが州道、2,427kmが地方道である<ref name=subete6770>ナバラ州政府(2005)、pp.67-70</ref>。パンプローナを中心として、主要な道路は[[ウエスカ]]、[[サラゴサ]]、[[ログローニョ]]、[[ビトリア=ガステイス]]、[[サン・セバスティアン]]、[[イルン]]に通じている<ref name=subete6770/>。[[トゥデラ]]=パンプローナ={{仮リンク|アルトサス/アルサスア|es|Alsasua}}を結ぶ軸、トゥデラ=ログローニョを結ぶ軸、パンプローナ=[[エステーリャ]]=ログローニョを結ぶ軸の3本の軸が道路交通の中心である<ref name=subete6770/>。環状道路がパンプローナ都市圏を取り巻いており、都市圏の交通渋滞を緩和している<ref name=subete6770/>。

サラゴサとビトリア=ガステイスを結ぶ路線が州唯一の鉄道路線である。トゥデラから[[タファリャ]]を通ってパンプローナまで北に向かいパンプローナで西に向きを変えて、アルトサス/アルサスアに至る<ref name=subete6770/>。主要都市ではエステーリャを通る鉄道路線は存在しない。トゥデラ近郊ではサラゴサ方面行きとログローニョ方面行きの路線が、アルトサス/アルサスアではビトリア=ガステイス方面行きとサン・セバスティアン方面行きの路線が分岐している。パンプローナから南6kmには[[パンプローナ空港]]があり、[[マドリード・バラハス空港|マドリード=バラハス空港]]や[[バルセロナ=エル・プラット空港]]などに向けて定期便が運行されている<ref name=subete6770/>。2010年には滑走路が延長されて2,405mとなり、また新ターミナルが建設された。

== 文化 ==
=== 料理 ===
[[File:Queso roncal.jpg|thumb|right|200px|[[ロンカル]](チーズ)]]

ナバラ州は[[大西洋]]にも[[地中海]]にも面していないが、[[ピレネー山脈|ピレネー山麓]]の河川で獲れた[[マス]]や[[サケ]]などの[[川魚]]が料理に用いられることがあり<ref name=subete4751>ナバラ州政府(2005)、pp.47-51</ref>、ナバラの伝統料理としてマスのナバラ風<ref group="注">トゥルチャ・ア・ラ・ナバラ。{{lang-es|Trucha a la Navarra}}。背開きにしたマスの中に生ハムを挟んでオーブンで焼いた料理であり、ナバラ地方独特の料理である。出典は辻勲『専門料理全書 スペイン料理』辻学園調理技術専門学校、1999年、pp.68-69「ますのナバラ風」</ref>がある<ref name=subete4751/><ref name=nissei>{{cite web |url=http://www.travelinfospain.net/?page_id=77 |title=ナバラ Navarra |date= |accessdate=2014-11-08 |work=日西観光協会}}</ref>。肉料理にはカルデレーテ(羊肉またはウサギ肉と野菜の煮込み)、ゴリン(ローストポーク)などがあり、山岳部では[[ヤマウズラ]]、[[キジバト]]、[[ウサギ]]などの[[ジビエ]](狩猟鳥獣)が食材として用いられる<ref name=subete4751/><ref name=nissei/>。

VPプラド・デ・イラチェ<small>([[:en:Prado de Irache|英語版]])</small>やVPアリンサノ<small>([[:en:Pago de Arinzano|英語版]])</small>やVPパゴ・デ・オタスなどの[[ワイン]]、[[アスパラガス]]、{{仮リンク|ピキーリョ|en|Piquillo pepper}}(赤ピーマン)、[[ロンカル]](チーズ)、[[イディアサバル]](チーズ)、{{仮リンク|パチャラン|en|Patxaran}}(食後酒)には[[デノミナシオン・デ・オリヘン|DO]](原産地呼称制度)が導入されている<ref name=subete7176/>。河岸地方で生産されるコゴーリョ(小型レタス)、[[アーティチョーク]]、[[グリーンピース]]、[[ソラマメ]]などもナバラの代表的な野菜であり<ref name=subete4751/>、また[[トゥデラ]]の[[モモ]]、エチャウリの[[サクランボ]]などの果物などもある<ref name=subete4751/>。[[リンボク]]の実を熟成させたパチャランは家庭でも作られており、モスカテル(甘口ワイン)はデザートとしても選択される<ref name=subete4751/>。

=== 祭礼 ===
ナバラ州のすべての自治体では[[守護聖人]]を称える祭礼が開催される<ref name=subete3844>ナバラ州政府(2005)、pp.38-44</ref>。[[謝肉祭]](カーニバル)、クリスマスの{{仮リンク|オレンツェロ|en|Olentzero}}(大酒飲みの炭焼き職人)、サンパンツァルなども受け継がれており、祭礼中の[[エンシエロ]](牛追い)や[[ヒガンテスとカベスドス]](巨大人形)は多くの町の祭礼に見られる要素である<ref name=subete3844/>。山岳部では{{仮リンク|チストゥ|en|Txistu}}(3本穴の縦笛)や小太鼓、中央部や河岸部では[[バグパイプ]]などの楽器が祭礼を盛り上げる<ref name=subete3844/>。個々の祭礼では、7月に行われるパンプローナの[[サン・フェルミン祭]](牛追い祭り)、[[ミエル・オチン|ランツの謝肉祭]]、レサカのオレンツェロなどが有名であり、サン・フェルミン祭は世界中から観光客を集める<ref name=subete3844/>。3月には州内外から[[フランシスコ・ザビエル]]が生まれ育った{{仮リンク|ハビエル城|en|Castle of Xavier}}に巡礼者が集まり、[[聖週間]](イースター)にはトゥデラやパンプローナなどで祭礼が行われる<ref name=subete3844/>。

<Gallery>
Chupinazo8.jpg|[[パンプローナ]]の[[サン・フェルミン祭]]
MielOtxinLantz.JPG|[[ミエル・オチン|ランツの謝肉祭]]
Olentzero Hendaia 2006.JPG|オレンツェロ
Pamplona-cabezudo-glowjangles-01.jpg|[[ヒガンテスとカベスドス|カベスドス]](大頭の小人)
</Gallery>

=== 芸術 ===
ナバラの拠点となる博物館は1956年に開館したナバラ博物館であり、またパンプローナ大聖堂の修道院別館には司教区博物館がある<ref name=subete3438>ナバラ州政府(2005)、pp.34-38</ref>。[[ロンセスバーリェス]]、コレーリャ、トゥレブラス、[[トゥデラ]]、ハビエル城内部などに宗教芸術に関する博物館があり、アルテタ、エリソンド、イサバには民俗学博物館が、イラチェには[[フリオ・カロ・バローハ]]民俗博物館が、ロンカルにはフリアン・ガヤレ邸博物館が、エステーリャ王宮内にはグスターボ・デマエストゥ博物館がある<ref name=subete3438/>。美術館には、アルスサにある[[ホルヘ・オテイサ]]美術館、アリスクンのサンチョテナ美術館、トゥデラのセサル・ムニョス・ソラ美術館などがある<ref name=subete3438/>。ナバラ総合図書館は50万冊以上の蔵書を持っている<ref name=subete3438/>。

大規模ホールにはナバラ州立バルアルテ会議コンサートホール、パンプローナ市立ガヤレ劇場などがあり、コンサート、オペラ、演劇などが行われる<ref name=subete3438/>。音楽コンクールには声楽のフリアン・ガヤレ国際コンクール、[[パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクール]]などがあり、音楽団体には[[パブロ・サラサーテ]]交響楽団、パンプローナ合唱団、パンプローナ室内合唱団、パンプローナ交響楽団などがある<ref name=subete3438/>。

19世紀に現れたフランシスコ・ナバロ・ビリョスラーダはロマン主義・伝統主義の著作家であり、20世紀初頭には小説家のフェリシュ・ウラバイェンが非順応主義を表した<ref name=subete3438/>。詩人のアンヘル・ウルティアは雑誌「アルガ川」を創刊し、カルロス・バオスなどの作品が掲載された<ref name=subete3438/>。他の20世紀の著作家にはアンヘル・マリア・パスクアル、ホセ・マリア・イリバレン、ラファエル・ガルシア・セラーノ、ホセ・マリア・サン・フアンなどがいる<ref name=subete3438/>。現代作家にはパブロ・アントニャーナ、ミゲル・サンチェス・オスティス、ルシア・バケダーノ、ヘスス・フェレーロ、マヌエル・イダルゴなどがいる<ref name=subete3438/>。[[エウスカルツァインディア]](バスク語アカデミー)やエウスコイカスクンツァ(バスク研究協会)がバスクに関する調査研究や文化振興を行っている<ref name=subete3438/>。[[アンダルシア州]]、[[アストゥリアス州]]、[[カンタブリア州]]、[[カスティーリャ・イ・レオン州]]、[[カタルーニャ州]]、[[エストレマドゥーラ州]]、[[ガリシア州]]、[[バレンシア州]]には同郷州人会がある<ref name=subete3438/>。

=== スポーツ ===
[[File:Titin iii.jpg|thumb|right|200px|ペロタのプレー中のティティン3世]]
ナバラでは[[サッカー]]、[[狩猟]]、[[ウィンタースポーツ]]、[[ペロタ・バスカ]]などのスポーツが行われており、サッカーとペロタ・バスカは観るスポーツとしても人気がある<ref name=subete5355>ナバラ州政府(2005)、pp.53-55</ref>。サッカーの[[CAオサスナ]]、ハンドボールの{{仮リンク|SDCサン・アントニオ|en|SDC San Antonio}}(2013年解散)、ペロタ・バスカなどのプロチームがあり、フットサルの{{仮リンク|ホタFS|en|Xota FS}}も全国リーグで実績を残している<ref name=subete5355/>。ペロタ・バスカの競技場は伝統的に[[教会]]に隣接していることが多く、ナバラはマルティネス・デ・イルホ(全国選手権シングルス1部優勝5度)、アイマル・オライソラ(全国優勝4度)、バリオラ(全国優勝1度)、エウギ(全国優勝3度)、ルベン・ベロキ([[バルセロナオリンピック|バルセロナ五輪]]金メダル)などの名選手を輩出している<ref name=subete5355/>。バスクの伝統的スポーツであるアイスコラリ(丸太切り競技)、アリハソツァイレ(石の持ち上げ競技)なども活気がある<ref name=subete5355/>。

== 出身人物 ==
{{seealso|:Category:ナバラ出身の人物}}

* [[ミシェル・セルヴェ]] – 16世紀の人文主義者・神学者。
* [[フランシスコ・ザビエル]] – 16世紀の司祭・宣教師。
* [[フランシスコ・ハビエル・デ・エリオ]] – 19世紀の政治家・軍人。
* [[サンティアゴ・ラモン・イ・カハール]] – 神経解剖学者。[[ノーベル生理学・医学賞]]受賞(1905年)。ペティリャ・デ・アラゴン出身。
* [[パブロ・デ・サラサーテ]] – 作曲家・ヴァイオリン奏者。
* [[マリア・バーヨ]] – ソプラノ歌手。
* [[ナイワ・ニムリ]] – 女優・歌手。
* [[ミゲル・インドゥライン]] – 自転車競技選手。[[ツール・ド・フランス]]個人総合5連覇。
* [[イグナシオ・ソコ]] – サッカー選手。[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]。[[UEFA欧州選手権1964|EURO1964]]優勝メンバー。
* [[ラファエル・カルロス・ペレス・ゴンサレス|マラニョン]] – サッカー選手。
* [[ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア]] – サッカー選手。
* [[フェルナンド・ジョレンテ]] – サッカー選手。[[2010 FIFAワールドカップ|2010W杯]]優勝メンバー。

<gallery>
Franciscus de Xabier.jpg|[[フランシスコ・ザビエル]]
Sarasate.gif|[[パブロ・デ・サラサーテ]]
Cajal-mi.jpg|[[サンティアゴ・ラモン・イ・カハール]]
Miguel Indurain 2.jpg|[[ミゲル・インドゥライン]]
Fernando Llorente JUVE.JPG|[[フェルナンド・ジョレンテ]]
</gallery>

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* ジャック・アリエール『バスク人』萩尾生訳 白水社 1992年
* 大泉陽一『未知の国スペイン –バスク・カタルーニャ・ガリシアの歴史と文化-』原書房、2007年
* ナバラ州政府政府広報官オフィス-コミュニケーション総局企画出版局[http://www.navarra.es/NR/rdonlyres/D1850D13-B358-4EA8-87D3-799278041709/256861/NavarraMano_japones.pdf ナバラのすべて] ナバラ州政府、2005年(第6版)
* レイチェル・バード『ナバラ王国の歴史』狩野美智子訳、彩流社、1995年


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Navarra}}
* [http://www.spain.info/ja/ven/provincias/navarra.html スペイン政府観光局オフィシャルサイト ナバーラ](日本語)
* [http://www.navarra.es/home_en 公式サイト] {{Eu icon}}{{Es icon}}{{En icon}}{{Fr icon}}
*{{commonscat-inline|Navarra}}
* [http://www.spain.info/ja/ven/provincias/navarra.html ナバーラ]スペイン政府観光局 {{Ja icon}}
{{Spain-stub}}
* [http://www.navarra.es/NR/rdonlyres/D1850D13-B358-4EA8-87D3-799278041709/256861/NavarraMano_japones.pdf ナバラのすべて]ナバラ州政府政府広報官オフィス-コミュニケーション総局企画出版局、2005年(第6版){{Ja icon}}

{{スペインの自治州}}
{{スペインの自治州}}
{{スペインの県}}
{{スペインの県}}

2015年1月17日 (土) 15:03時点における版

ナバラ州

Comunidad Foral de Navarra
Nafarroako Foru Komunitatea
ナバラの旗
ナバラの紋章
紋章
北緯42度49分 西経1度39分 / 北緯42.817度 西経1.650度 / 42.817; -1.650座標: 北緯42度49分 西経1度39分 / 北緯42.817度 西経1.650度 / 42.817; -1.650
国名 スペイン
州都 パンプローナ
ナバラ県
政府
 • 種別 自治権委譲(立憲君主制憲政下)
 • 議会 ナバラ州政府
 • 首相 ジョランダ・バルシーナ (ナバラ住民連合(UPN))
面積
 • 合計 10,391 km2
面積順位 11位 (スペイン中2.2%)
人口
(2008)
 • 合計 619,114人
 • 密度 60.22人/km2
 • 順位
15位 (スペイン中1.4%)人
ナバラ人の呼称
 • カスティーリャ語 navarro(男性形)、navarra(女性形)
 • バスク語 nafar, napartar
 • 英語 Navarrese
ISO 3166コード NA
自治州法 1982年8月16日
公用語 非バスク語圏 : スペイン語
混合圏 : スペイン語とバスク語
バスク語圏 : カスティーリャ語とバスク語
下院 5人(350人中)
上院 5人(264人中)
ウェブサイト ナバラ州政府(バスク語)

ナバラ州(スペイン語: Navarra)またはナファロア州(バスク語: Nafarroa)は、スペイン自治州。一県一州の自治州でありナバラ県(かつてのパンプローナ県)単独で構成される。州都はパンプローナ(バスク語:イルーニャ)。スペイン語では第二音節にアクセントがあるため、ナバーラ州とも表記される。英語ではナヴァール(Navarre, 英語: [nəˈvɑːr])。

正式名称はナバラ特権州(スペイン語 : コムニダ・フォラル・デ・ナバラ、スペイン語: Comunidad Foral de Navarra, [komuniˈðað foˈɾal de naˈβara], バスク語 : ナファロアコ・フォル・コムニタテア、バスク語: Nafarroako Foru Komunitatea, [nafaroako foɾu komunitatea])であり、特権(フォラル、フエロ)とはかつてカスティーリャ王国が各地域に認めていた地域特別法のことである。西はバスク自治州、南はラ・リオハ州、東はアラゴン州に接し、北はフランスアキテーヌ地域圏に接している。ナバラとはバスク語で「森」または「オークの林」という意味である[1]

地理

人口

自治体別の人口密度
(赤色=高密度 / 緑色=低密度)

ナバラ州は272のムニシピオ(基礎自治体)からなる。人口の約1/3が州都パンプローナ(195,769人)に住んでおり、人口の約半分がパンプローナ都市圏(315,988人)に住んでいる[2]。パンプローナに続くのはトゥデラバラニャインバリェ・デ・エグエスブルラーダシスール・マヨールスペイン語版(13,197人)、エステーリャタファリャアンソアインスペイン語版ビリャーバ/アタラビアスペイン語版である。人口上位10自治体のうち、パンプローナを含めて7自治体がパンプローナ都市圏の自治体である。272のムニシピオのうち、人口499人以下が158自治体、500人-999人が33自治体、1,000人-9,999人が72自治体、10,000人以上が10自治体である。ナバラ県(ナバラ州)の人口の31%が県都(州都)パンプローナに居住している。スペイン全土の県都集中率の平均は32%であり、ナバラ県(ナバラ州)の県都集中率は50県中22位である。

1900年の人口は307,999人だったが[2]、2012年には644,566人となった。人口密度は62人/km2であり、スペイン全体の人口密度92人/km2を下回っている。ピレネー渓谷や南西部のエステーリャ地域では20世紀初頭から人口が減少しつづけているが、パンプローナ盆地や河岸地域では人口が増加している[2]。2000年代にはラテンアメリカ、東欧、北アフリカなどからの移民が増加している[2]

順位 自治体 人口 地域
1. パンプローナ 196,955 パンプローナ都市圏(中部)
2. トゥデラ 35,369 河岸部(南部)
3. バラニャイン 21,120 パンプローナ都市圏(中部)
4. バリェ・デ・エグエス 18,414 パンプローナ都市圏(中部)
5. ブルラーダ 18,248 パンプローナ都市圏(中部)
6. シスール・マヨール 14,120 パンプローナ都市圏(中部)
7. エステーリャ 13,947 河岸部(南部)
8. タファリャ 11,201 河岸部(南部)
9. アンソアイン 10,976 パンプローナ都市圏(中部)
10. ビリャーバ/アタラビア 10,308 パンプローナ都市圏(中部)

地形

地形・生物気候学の観点から、ナバラ州は山岳部、中央部、河岸部の3地域に分けることができる[3]。北のピレネー山脈から南のエブロ川流域の平原まで、ナバラ州の地理は変化に富んでいる。地理学者のアルフレド・フロリスタはナバラの景観を「ミニチュア大陸」と表現した[3]

山岳部はナバラ州北部を占め、さらに湿潤地帯、ピレネー渓谷、ピレネー前縁盆地に分けられる。州北西部の湿潤地帯は平均気温が摂氏15度、年間降水量が約1,400mmであり、広葉樹、牧草、シダ類などの植生がみられる[3]。州北東部のピレネー渓谷は、激しい降雪と気温の変化が特徴のピレネー山脈山麓から、西に向かうにつれて温暖な気候が特徴の亜海洋性気候に変化している[3]。ピレネー渓谷北部ではブナ、モミ、オウシュウアカマツなどがみられる[3]。ピレネー前縁盆地の植生はカシ類やカシワ類などの地中海広葉樹が目立つ[3]。ナバラ州の最高峰は標高2,428mのメサ・デ・ロス・トレス・レジェスであり、その他の主要な山には、チャマンチョイア、カルチェラ、ララ=ベラグア山塊、アライス山、ウンツエコ・アリア、レイレ山、ペルドン山、モンテフラ、エスカバ、オリ山、コデス山、ウルバサ、アンディア、アララール山地などがある。

山岳部と河岸部の中間には中央部があり、山地や丘陵などがみられる北部から広大な平野が広がる南部までが緩やかに推移している。中央部の中でも気候は大きく変化し、東側は大陸性気候であり、北側は西岸海洋性気候、南側は大陸地中海性気候である。中央部にはパンプローナやパンプローナ都市圏がある。河岸部はエブロ川の本流や支流の流域であり、エステーリャトゥデラというふたつの主要都市がある。エステーリャ河岸にはなだらかな尾根や向斜面谷が見られ、ドゥデラ河岸には構造平原や沖積低地が広がっている[3]。トゥデラの北方にはバルデナス・レアレスと呼ばれる、自然公園に指定されている半砂漠地帯が広がる。河岸部の年降水量は400mm足らずであり、山岳部に比べて日照時間が長いほか、夏季と冬季の気温差が激しい[3]

ナバラ州の主要な河川には、エステーリャを流れるエガ川、パンプローナを流れるアルガ川、サングエサを流れるアラゴン川などがある[3]。これらの河川はいずれもエブロ川の支流であり、北から南に流れてエブロ川に注いだ後は、南東に流れてやがて地中海に注ぐ[3]。スペイン語とバスク語の言語境界線付近に分水嶺があり、州北西部の一部の地域からは、ウルメア川ビダソア川やレイツァラン川が、南から北に流れて大西洋に注いでいる[3]

気候

北部の湿潤地帯は大西洋の影響を受けて西岸海洋性気候(Cfb)であり、中央部の亜乾燥地帯は夏季の降水量が少ない地中海性気候(CsaまたはCsb)であり、南部の乾燥地帯は降水量が少なく冷涼なステップ気候(BSk)である。北部と南部では気候に大きな差がみられるが、概して乾燥する夏季、降水量の少なさ、シエルソと呼ばれる北風を特徴としている。

歴史

先史時代・古代

古代ローマの影響を示す硬貨(紀元前150-紀元前100年頃)

ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代マドレーヌ文化英語版期(18,000年前 - 11,000年前)のものである[4]。北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物ドルメンメンヒルストーンサークル)が見られ、南部には鉄器時代の集落が発見されている[5]

その後やってきたケルト人はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山麓に達した[6]。紀元前133年のヌマンティア英語版の攻囲戦で古代ローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはグナエウス・ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現パンプローナ)を建設した[7]。ポンパエロには神殿、公衆浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり[8][9]ブドウオリーブ小麦などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエル、アラゴン川アルガ川河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった[8]。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、レイレ修道院の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、ロンセスバーリェス修道院の建設は638年とされている[10]

中世

「ナバラ王国の心臓」と称えられたレイレ修道院

西ゴート族フランク族もこの地域を完全に征服するには至らなかった。778年、カール大帝率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い(ロンセスバーリェスの戦い)には大敗し、この戦いは叙事詩ローランの歌のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後のナバラ王国)を築いた[11][12]。905年にサンチョ1世によってヒメネス王朝が始まると、10世紀半ばにはレオン王国、アラバ、リバゴルサ、カスティーリャ王国、カリフ国などと婚姻関係を結んだ[13]。パンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった[14]。1004年に即位したサンチョ3世(大王)は、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域を次々と従えて王国の地位を強固なものとし[15][11]ピレネー山脈以南(イベリア半島)のキリスト教圏の大部分を支配した[16]。850年以後にサンティアゴの巡礼路巡礼者の人気を得たが、サンポール峠かシーズ峠でピレネー越えをした巡礼路はナバラで合流し、プエンテ・ラ・レイナエステーリャの町を通過した。巡礼者の往来は11世紀にピークに達し、ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。

1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかったが、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した[17]。ナバラ王国時代にはアラブ美術が持ち込まれ、トゥデラモスクの廃墟、レイレ修道院やフィテロ(英語版)修道院の象牙細工の小箱などが残っている[5]。1076年にはアラゴン王サンチョ1世がナバラ王国を併合し、ナバラ王国はアラゴン王国の一地方となったが、ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てた[18]。1200年にはカスティーリャ王アルフォンソ8世にビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われ、ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となったが[19]、1212年にカトリック諸国連合軍がムワッヒド朝に挑んだナバス・デ・トロサの戦いでは、サンチョ7世(不屈王)が率いる少数ながら象徴的な200人の騎士たちがカトリック勢力の勝利に貢献し、レコンキスタ(再征服運動)においてイスラーム勢力に決定的な打撃を与えた[20]

1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家のテオバルド1世が即位してフランス王朝が始まったが[21][22]、ナバラ王国は強力なフエロ(特権法や特権制度)の大部分を維持した。国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した[23]。歴代の総督はナバラ人に快く思われず、フランスから召喚を受けた際に代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補を議会が拒んだこともあった[23]。ナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された[23]。女王フアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった[24]。1348年から1349年には黒死病がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った[24]。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた[24]。1379年には、トゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領された[24]。1418年にはカルロス3世オリテに王宮を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた[25]。1441年に女王のブランカ1世が死去すると、共同君主だった夫のフアン2世は長男カルロスに王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間でナバラ内戦が発生した[26][27]。1479年には近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が合体してイベリア半島がほぼ統一され、イスラーム勢力化にある地域を除けば、ナバラ王国はスペインでほぼ唯一の独立した王国となった[28]。スペイン王国が1492年にグラナダを手に入れると、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた[28]

近世

フランシスコ・ザビエルが育ったハビエル城

1512年にはカスティーリャ王フェルナンド5世がナバラ王国に侵攻して併合し[29][30]、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された[31]。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ[32]。ナバラ王位にあったカタリナフアン3世ピレネー山脈北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王ジャンヌ・ダルブレが率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ね、フランス側のナヴァール王国は1791年まで存続した。

17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった[33]。スペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに鉄鉱石を運んだ[33]。17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。この世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった[33]。1659年にはピレネー条約でスペイン・フランスの国境が確定し、北ナバラと南ナバラの分断によって長年燻っていたナバラ問題は立ち消えた[34]。スペイン内でフエロを持つ他地域、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比べても、ナバラは高い水準の自治権を有しており[35]、ナバラのみは例外的に司法権の維持を許された[36]

18世紀初頭には、スペインの各地方の中でナバラだけがいまだに「王国」と呼ばれていた[37]。1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した[38]。農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5-10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった[38]。18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大なバロック様式の建物が至るところに建てられた[38]。18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった[39]

フランスとスペインを含む連合軍の間でスペイン独立戦争(半島戦争)が起こった19世紀初頭、フランスの憲法起草者はナバラ、スペイン・バスクフランス領バスクを統合して新フェニキアという名称のバスク統一国を作ることを計画した[40]。ナポレオン自身は、エブロ川以北をスペインと分断させてフランスに編入させることを計画した[40]。1813年にスペイン独立戦争が終結すると、スペインでは自由主義的な思想が目立つようになり、中央集権体制の支持者が増加した[41]スペイン独立戦争後の1833年には第一次カルリスタ戦争が勃発したが、1839年のベルガラ協定でカルリスタ側の敗北が決定した。スペイン政府は行政改革の一環としての設置を進めており、ナバラ王国に相当する領域にはナバラ県が設置された。1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名してフエロが撤廃され[42]、数百の町がスペインに統合されて特権法憲章が制定された[43]。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動に移転すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない密輸が台頭した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。国内の不安定な政治情勢の中、1870年代の第三次カルリスタ戦争中にはエステーリャを首都としてバスク政府が設立されたが、アルフォンソ12世のスペイン王権の復興と反撃によってカルリスタの敗北が決定し、戦争後のスペイン政府の中央集権化の政策はナバラに大きな影響を与えた。1893年から1894年にはパンプローナ中心部でガマサダと呼ばれる民衆蜂起が起こり、1841年の特権規定や1876年の財政保証廃止などのマドリード政府の決定に抵抗した。アルフォンシノスと呼ばれる小規模な派閥を除き、ナバラのすべての政党は、ラウラク・バット(4つは1つ)を合言葉とする地方自治に基づいた新たな政治的枠組みの必要性について合意した。

近代

1890年代のガマサダ後にパンプローナに建てられた記念碑

カルリスタがカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域ではバスク民族主義が台頭したが、ナバラでは状況が異なった[44]。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮した[45]。1931年にバスク地方が提出したエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)は、カトリックを中心に据えたために共和国議会で同意が得られなかった。1933年に再度作成されたバスク自治憲章案はカトリックを中心に据えず、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県の住民投票で承認されたが、ナバラ県では反対票が過半数に達した。1931年から1939年の第二共和政下では左派と右派の勢力の分裂が続き、スペイン国内は政治的に混迷を極めた。1933年10月には数千人の労働者が裕福な地主の土地を占領し、地主は労働者に怨恨の念を抱いた[46]。1936年7月18日にはエミリオ・モラ将軍がパンプローナで反乱を起こし、3年に渡るスペイン内戦が勃発した。この軍事反乱後には、強硬派によって要注意人物に指定された個人に対するテロ活動が相次ぎ、進歩的な共産主義者に加え、軽度の共産主義者や、政権にとって単に不都合なだけの人物でさえもテロの対象となった[47]。特にナバラ南部のエブロ河岸に沿った地域で大規模な粛清が行われ、ファシスト風敬礼に適応した聖職者らは自発的に謀略に加担し、また要注意人物殺害の任務にさえ関与した[48]。少なくとも2,857人が殺害され、さらに305人が虐待や栄養失調などの理由により刑務所で死亡した[49]。死者は集団墓地に埋められるか、ウルバサ山などの中央丘陵地にある峡谷に廃棄された。バスク民族主義者はより劣った地に追い払われ、エステーリャ市長でありCAオサスナの共同創設者だったフォルトゥナト・アギーレは1936年9月に死刑に処された。パンプローナは1937年4月以降の北方作戦時に、反乱軍の作戦開始地点となった。

スペイン内戦後の1939年にはフランシスコ・フランコによる独裁政権が成立し、アラバやナバラは内戦時の支援の報酬として、フエロを想起させる特権の数々の維持が認められた[50]。内戦後には物資の欠乏、飢饉、密輸などが深刻化し、経済は小麦、ブドウ、オリーブ、大麦などの農業に依存し、人的移動は負の方向に傾いた。戦争の勝利者はカルリスタとファランヒスタというふたつの主要な派閥に群れをなした[50]。一方、教皇至上主義の環境は宗教団体に肥沃な土壌を提供し、オプス・デイは1952年にパンプローナにナバラ大学を設立してより大きな影響力を持った。1950年頃にはギプスコア県やビスカヤ県のように工業誘致を行い、化学工業、製紙業、製鉄業、鉄鋼業などの企業がナバラ県に進出した[51]。ナバラ県第一の産業は農業から工業に入れ替わり、1950年からの20年間で、農業従事者割合は55%から26%に低下した[51]。特にパンプローナの人口・企業増加が大きく、1978年にはナバラ県全体の45%の人口と60%の企業を集めていた[51]。フランコ政権末期の民主化準備段階において、ナバラ県ではバスク祖国と自由(ETA)、警察、県が後援する民兵組織による暴力活動が行われ、その風潮は1980年代以降まで続いた。

現代

1975年のフランシスコ・フランコ死後にスペインが民主化の時期を迎えると、ナバラ県の地方政府と良好な関係を保っていた政治家はアドルフォ・スアレスが率いる民主中道連合(UCD)に参加したが、1979年にはハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴとヘスス・アイスプン・トゥエロを主導者として ナバラ住民連合(UPN)が設立され、民主的なスペイン1978年憲法で規定された過程への参加を拒否し、地方特権の維持を主張した。この一方で、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県はバスク民族主義者や左派政党が主流であり、1978年のゲルニカ憲章(バスク自治憲章)でナバラ県も含めた4県での自治州の設立を謳っていたが、ナバラ住民連合はバスク自治州への参加を拒否し、住民投票でも反対が過半数に達した。ナバラ県政府は1982年に独裁時代の制度的枠組みを引き継いだ自治憲章を策定し、ナバラ県単独でのナバラ州が成立した。バスク民族主義者や少数派の進歩的な勢力が要求した改革は住民投票によって批准されなかった。1987年にはナバラ州初の公立大学として、ナバラ州立大学が設立された。

政治

ナバラ州議会の議席分布(2011年-)

フランシスコ・フランコ独裁政権の終焉後、1982年にナバラ自治州憲章が制定され、ナバラ県は17自治州のひとつとなった。教育、社会サービス、住宅開発、都市開発、環境保護などがナバラ州の政治機関の責任下に置かれている。また、17自治州のうち15自治州では中央政府が徴税した税金の一部を各自治州に分配しているが、ナバラ州とバスク自治州は各県に徴税権があり、その一部が国庫に納められる[52]。他の自治州同様に、ナバラ州議会は4年ごとに州議員選挙を行っており、議会の多数派がナバラ州政府を担当する州首相を決定する。1979年には、国民同盟(AP、国民党(PP)の前身)と提携する地方政党であるナバラ住民連合(UPN)のハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴが初の首相に選出されたが、70議席中9議席を獲得したバスク民族主義左派政党も一定の強さを示した[51]。1980年には民主中道連合(UCD、後に解散)から、1984年にはスペイン社会労働党(PSOE)のナバラ支部であるナバラ社会党(PSN)から州首相が選出された。ナバラ社会党は7年間にわたって州首相の座を維持し、1991年からの4年間はナバラ住民連合が、1995年からの2年間はナバラ社会党が州首相の座を担ったが、1996年にはナバラ住民連合が州首相の座を奪い返し、ミゲル・サンスが15年間に渡って州首相を務めた。現在の州首相は2011年にナバラ住民連合から選出されたジョランダ・バルシーナ(女性)である。右派のナバラ住民連合と左派のナバラ社会党に加え、バスク民族主義を標榜する政党もかなりの得票を得ており、北部のいくつかの地域ではこれらの政党が多数派である。これらの政党はナバラ州とバスク自治州の合併を指針に挙げているが、スペインにあるすべての政党同様に、ナバラ社会党もナバラ住民連合もこの動きに反対している。

ナバラ州首相
# 期間 名前 出身政党 備考
第1代 1979-1980 ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ ナバラ住民連合(UPN-AP) ナバラ県首相
第2代 1980-1984 フアン・マヌエル・アルサ・ムニュスリ 民主中道連合(UCD) 任期中にナバラ州成立
第3代 1984 ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ ナバラ住民連合(UPN-AP)
第4代 1984-1991 ガブリエル・ウライブル ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第5代 1991-1995 フアン・クルス・アリ ナバラ住民連合(UPN-PP)
第6代 1995-1996 ハビエル・オターノ ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第7代 1996 フアン・クルス・アリ ナバラ民主主義者統一(CDN)
第8代 1996-2011 ミゲル・サンス ナバラ住民連合(UPN-PP)
第9代 2011- ジョランダ・バルシーナ ナバラ住民連合(UPN) 女性首相
ナバラ州議会議長
# 期間 名前 出身政党 備考
1979-1983 ビクトル・マヌエル・アルベロア ナバラ社会党(PSN-PSOE) ナバラ州成立以前
第1代 1983-1987 バルビーノ・バドス ナバラ住民連合(UPN-AP)
第2代 1987-1991 イグナシオ・ハビエル・ゴマラ ナバラ住民連合(UPN-PP)
第3代 1991-1995 ハビエル・オターノ ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第4代 1995-1999 マリア・ドローレス・エグレン ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第5代 1999-2003 ホセ・ルイス・カステホン ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第6代 2003-2007 ラファエル・グレア ナバラ住民連合(UPN-PP)
第7代 2007-2011 エレーナ・トーレス ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第8代 2011- アルベルト・カタラン ナバラ住民連合(UPN)

経済

1960年代までナバラ県の経済は第一次産業が中心だった[53]。山岳部では牧畜が行われてトウモロコシテンサイなどが栽培され、中央部の盆地にはヒマワリアブラナなどの加工用プランテーションが広がり、エブロ川流域にはオリーブブドウの畑が広がっている[53]。1960年代には工業化が始まり、当初は繊維業や皮革業などが中心だったが、1973年には金属工業が第二次産業分野の首位となった[53]。金属工業からはフォルクスワーゲンの工場と部品工場を中心とする自動車産業が派生し、1980年代後半には自動車産業が優勢となった[53]。2000年代には第二次産業の中で自動車産業と機械鉱業が抜きんでており、主要都市の工業団地にその他の産業の工場が存在する。ペラルタ/アスコイエン(英語版)は金属工業、エステーリャはグラフィックアート、アリョ(英語版)やレイツァ(英語版)サングエサは製紙業、レサカやベラデビダソア(英語版)は冶金工業、オラスティ/オラサグティア(英語版)はセメント、カスカンテ(英語版)は繊維業といった具合に、第二次産業は州各地に散らばっている[53]。また、2000年代には風力発電光電池太陽光発電などのエネルギー産業が著しく発展し、再生可能エネルギーは州内の電気エネルギー消費の60%を賄っている[53]。ナバラ貯蓄銀行とパンプローナ貯蓄銀行が合併して誕生したナバラ銀行はスペイン有数の金融機関である[53]

社会

言語

地域別のバスク語話者の割合

スペイン語はナバラ州全域で公用語であり、バスク語もバスク語が話される地域では公的な地位を有している[54]。1986年、ナバラ州を言語によって3領域に分割する法律が制定された。「バスク語圏」ではバスク語が普及しており、スペイン語に加えてバスク語も公用語とされている。「混合圏」と「非バスク語圏」(スペイン語圏)では段階的にバスク語の公的認知が弱められており[54]、「混合圏」でもバスク語は公的な地位を得ているが、「非バスク語圏」では公的な地位を得ていない。このため、州北西部では広くバスク語が話されている一方で、南部では完全にスペイン語が話されている。州都のパンプローナは二言語の混合地域である。2006年の調査では、州民の11.1%がバスク語話者であり、7.6%が能動的でないバスク語話者であり、81.3%がスペイン語の単一話者だった。バスク語話者が9.5%だった1991年の調査に比べて、バスク語話者の割合は増加している[55]。年齢別のバスク語話者割合は均質ではなく、35歳以上で低いのに対して、16-24歳では20%以上を記録している[55]。2011年の国勢調査によれば、バスク語話者は11.7%(63,000人)と微増した [56]

教育

1952年にはローマ・カトリック教会に属するオプス・デイが、パンプローナナバラ大学を創設した。ナバラ大学はパンプローナとサン・セバスティアンの2か所にキャンパスを有しており、経済学・経営学部はエコノミスト誌やフィナンシャル・タイムズ紙によって世界トップクラスの評価を受けている[57]。医学部は前衛的な研究を行っており、2004年には腫瘍学病理生理学神経科学・生物医学の4ジャンルを合わせもつ応用医学研究センターが開設された[58]。ナバラ大学では人文科学や社会科学の研究も盛んである[58]。1987年にはナバラ州初の公立大学として、既存の高等教育機関を統合してナバラ州立大学が創設された[58][59]。ナバラ州立大学は革新的な学科構造を取り入れており、大学研究を企業発展につなげることを目標としている[58]。パンプローナとトゥデラにはスペイン国立通信教育大学(UNED)のセンターが存在する[58]

ナバラ州では16歳未満の全児童生徒の就学が実現しており、教育施設は公立学校か私立学校を選択できる[58]。特にバスク語が公用語である地域ではバスク語教育の導入が進められており、公立学校・私立学校のそれぞれでバスク語を学んだり研究したりすることができる[58]。高等音楽教育を行う学校としてパブロ・サラサーテ音楽学校があり、7校の市立音楽学校とその他の私立音楽学校の頂点に位置する[60]。高等教育機関の他には、ナバラ・レーザーセンター、ブドウ酒醸造学研究所、穀物・牛技術研究所などの研究機関が存在する[58]

交通

州内には2005年時点で3,636kmの道路があり、うち209kmが有料または無料の高速道路、540kmが一般道路、457kmが州道、2,427kmが地方道である[61]。パンプローナを中心として、主要な道路はウエスカサラゴサログローニョビトリア=ガステイスサン・セバスティアンイルンに通じている[61]トゥデラ=パンプローナ=アルトサス/アルサスアスペイン語版を結ぶ軸、トゥデラ=ログローニョを結ぶ軸、パンプローナ=エステーリャ=ログローニョを結ぶ軸の3本の軸が道路交通の中心である[61]。環状道路がパンプローナ都市圏を取り巻いており、都市圏の交通渋滞を緩和している[61]

サラゴサとビトリア=ガステイスを結ぶ路線が州唯一の鉄道路線である。トゥデラからタファリャを通ってパンプローナまで北に向かいパンプローナで西に向きを変えて、アルトサス/アルサスアに至る[61]。主要都市ではエステーリャを通る鉄道路線は存在しない。トゥデラ近郊ではサラゴサ方面行きとログローニョ方面行きの路線が、アルトサス/アルサスアではビトリア=ガステイス方面行きとサン・セバスティアン方面行きの路線が分岐している。パンプローナから南6kmにはパンプローナ空港があり、マドリード=バラハス空港バルセロナ=エル・プラット空港などに向けて定期便が運行されている[61]。2010年には滑走路が延長されて2,405mとなり、また新ターミナルが建設された。

文化

料理

ロンカル(チーズ)

ナバラ州は大西洋にも地中海にも面していないが、ピレネー山麓の河川で獲れたマスサケなどの川魚が料理に用いられることがあり[62]、ナバラの伝統料理としてマスのナバラ風[注 1]がある[62][63]。肉料理にはカルデレーテ(羊肉またはウサギ肉と野菜の煮込み)、ゴリン(ローストポーク)などがあり、山岳部ではヤマウズラキジバトウサギなどのジビエ(狩猟鳥獣)が食材として用いられる[62][63]

VPプラド・デ・イラチェ(英語版)やVPアリンサノ(英語版)やVPパゴ・デ・オタスなどのワインアスパラガスピキーリョ(赤ピーマン)、ロンカル(チーズ)、イディアサバル(チーズ)、パチャラン(食後酒)にはDO(原産地呼称制度)が導入されている[53]。河岸地方で生産されるコゴーリョ(小型レタス)、アーティチョークグリーンピースソラマメなどもナバラの代表的な野菜であり[62]、またトゥデラモモ、エチャウリのサクランボなどの果物などもある[62]リンボクの実を熟成させたパチャランは家庭でも作られており、モスカテル(甘口ワイン)はデザートとしても選択される[62]

祭礼

ナバラ州のすべての自治体では守護聖人を称える祭礼が開催される[64]謝肉祭(カーニバル)、クリスマスのオレンツェロ英語版(大酒飲みの炭焼き職人)、サンパンツァルなども受け継がれており、祭礼中のエンシエロ(牛追い)やヒガンテスとカベスドス(巨大人形)は多くの町の祭礼に見られる要素である[64]。山岳部ではチストゥ英語版(3本穴の縦笛)や小太鼓、中央部や河岸部ではバグパイプなどの楽器が祭礼を盛り上げる[64]。個々の祭礼では、7月に行われるパンプローナのサン・フェルミン祭(牛追い祭り)、ランツの謝肉祭、レサカのオレンツェロなどが有名であり、サン・フェルミン祭は世界中から観光客を集める[64]。3月には州内外からフランシスコ・ザビエルが生まれ育ったハビエル城に巡礼者が集まり、聖週間(イースター)にはトゥデラやパンプローナなどで祭礼が行われる[64]

芸術

ナバラの拠点となる博物館は1956年に開館したナバラ博物館であり、またパンプローナ大聖堂の修道院別館には司教区博物館がある[60]ロンセスバーリェス、コレーリャ、トゥレブラス、トゥデラ、ハビエル城内部などに宗教芸術に関する博物館があり、アルテタ、エリソンド、イサバには民俗学博物館が、イラチェにはフリオ・カロ・バローハ民俗博物館が、ロンカルにはフリアン・ガヤレ邸博物館が、エステーリャ王宮内にはグスターボ・デマエストゥ博物館がある[60]。美術館には、アルスサにあるホルヘ・オテイサ美術館、アリスクンのサンチョテナ美術館、トゥデラのセサル・ムニョス・ソラ美術館などがある[60]。ナバラ総合図書館は50万冊以上の蔵書を持っている[60]

大規模ホールにはナバラ州立バルアルテ会議コンサートホール、パンプローナ市立ガヤレ劇場などがあり、コンサート、オペラ、演劇などが行われる[60]。音楽コンクールには声楽のフリアン・ガヤレ国際コンクール、パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクールなどがあり、音楽団体にはパブロ・サラサーテ交響楽団、パンプローナ合唱団、パンプローナ室内合唱団、パンプローナ交響楽団などがある[60]

19世紀に現れたフランシスコ・ナバロ・ビリョスラーダはロマン主義・伝統主義の著作家であり、20世紀初頭には小説家のフェリシュ・ウラバイェンが非順応主義を表した[60]。詩人のアンヘル・ウルティアは雑誌「アルガ川」を創刊し、カルロス・バオスなどの作品が掲載された[60]。他の20世紀の著作家にはアンヘル・マリア・パスクアル、ホセ・マリア・イリバレン、ラファエル・ガルシア・セラーノ、ホセ・マリア・サン・フアンなどがいる[60]。現代作家にはパブロ・アントニャーナ、ミゲル・サンチェス・オスティス、ルシア・バケダーノ、ヘスス・フェレーロ、マヌエル・イダルゴなどがいる[60]エウスカルツァインディア(バスク語アカデミー)やエウスコイカスクンツァ(バスク研究協会)がバスクに関する調査研究や文化振興を行っている[60]アンダルシア州アストゥリアス州カンタブリア州カスティーリャ・イ・レオン州カタルーニャ州エストレマドゥーラ州ガリシア州バレンシア州には同郷州人会がある[60]

スポーツ

ペロタのプレー中のティティン3世

ナバラではサッカー狩猟ウィンタースポーツペロタ・バスカなどのスポーツが行われており、サッカーとペロタ・バスカは観るスポーツとしても人気がある[65]。サッカーのCAオサスナ、ハンドボールのSDCサン・アントニオ(2013年解散)、ペロタ・バスカなどのプロチームがあり、フットサルのホタFS英語版も全国リーグで実績を残している[65]。ペロタ・バスカの競技場は伝統的に教会に隣接していることが多く、ナバラはマルティネス・デ・イルホ(全国選手権シングルス1部優勝5度)、アイマル・オライソラ(全国優勝4度)、バリオラ(全国優勝1度)、エウギ(全国優勝3度)、ルベン・ベロキ(バルセロナ五輪金メダル)などの名選手を輩出している[65]。バスクの伝統的スポーツであるアイスコラリ(丸太切り競技)、アリハソツァイレ(石の持ち上げ競技)なども活気がある[65]

出身人物

脚注

注釈

  1. ^ トゥルチャ・ア・ラ・ナバラ。スペイン語: Trucha a la Navarra。背開きにしたマスの中に生ハムを挟んでオーブンで焼いた料理であり、ナバラ地方独特の料理である。出典は辻勲『専門料理全書 スペイン料理』辻学園調理技術専門学校、1999年、pp.68-69「ますのナバラ風」

出典

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参考文献

  • ジャック・アリエール『バスク人』萩尾生訳 白水社 1992年
  • 大泉陽一『未知の国スペイン –バスク・カタルーニャ・ガリシアの歴史と文化-』原書房、2007年
  • ナバラ州政府政府広報官オフィス-コミュニケーション総局企画出版局ナバラのすべて ナバラ州政府、2005年(第6版)
  • レイチェル・バード『ナバラ王国の歴史』狩野美智子訳、彩流社、1995年

外部リンク

  • 公式サイト (バスク語)(スペイン語)(英語)(フランス語)
  • ナバーラスペイン政府観光局 (日本語)
  • ナバラのすべてナバラ州政府政府広報官オフィス-コミュニケーション総局企画出版局、2005年(第6版)(日本語)