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[[File:1907 Napier 60HP T21 S.F. Edge.JPG|thumb|ネイピア 60 hp T21 1907年]]
{{翻訳中途|[{{fullurl:w:Napier_&_Son|oldid=138847454}} en:Napier & Son at 21:48, 17 June 2007 (UTC)]|date=2008年11月}}
<!-- Commented out: [[Image:D Napier & Son Acton - Napier Sabre - 1943 advertisement.jpg|thumb|right|250px|A 1944 advertisement for the [[Napier Sabre]] aero-engine]] -->
'''ネイピア・アンド・サン'''(''Napier & Son'' )は[[イギリス]]の[[企業]]。[[1900年]]から[[1920年代]]にかけて航空機用の[[ネイピア ライオン|ライオンエンジン]]や[[ネイピア・セイバー|セーバーエンジン]]などを開発した[[エンジン]][[メーカー]]として知られる。


'''D.ネイピア・アンド・サン'''('''D. Napier & Son Limited''')は[[英国]]で[[第一次世界大戦]]以前(いわゆる{{仮リンク2|ブラス・エイジ|en|brass era}})から[[エンジン]]や[[自動車]]を製造していた会社であり、また[[20世紀]]の初めから中ごろにはもっとも重要な[[航空機エンジン]]メーカーのひとつであった。第一次世界大戦後に製作された[[ネイピア ライオン|ライオン]]は、1920年代から1930年代にかけてのある時期では世界でもっとも出力が大きいエンジンであり、[[ネイピア セイバー|セイバー]]は後期の型では{{convert|3500|hp|abbr=on}}を発生した。
[[1895年]]創業。[[1942年]]に[[イングリッシュ・エレクトリック]]に航空機エンジン部門を買収され、[[1961年]]には[[ロールス・ロイス]]に吸収された。


== 初期 ==
デイビッド・ネイピア(''David Napier'' )は[[1808年]]に会社を設立し、[[蒸気]]を動力とする[[印刷機]]や[[遠心分離機]]など広範囲に渡る製品を製造した。[[1830年]]に[[ロンドン]]の南へ拠点を移した。


==初期の歴史==
その後、[[1873年]]にデイビッド・ネイピアが死去すると息子のジェームズ・ネイピア(''James Napier'' )が後を引き継ぎ、[[硬貨]]・[[紙幣]]・[[切手]]を製造するための[[精密機器]]を専門に扱うようになった。
[[File:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|ネイピア・アンド・サンが1859年に製作した[[蒸気機関]]]]
[[File:1909 Napier T23 Roadster 6.6 ltr IMG 2869.jpg|thumb|ネイピア T23 ロードスター 1909年]]
{{仮リンク2|デイビッド・ネイピア|en|David Napier (automotive engineer)}}(David Napier)は1785年に{{仮リンク2|アーガイル公爵|en|Duke of Argyll}}に仕える[[鍛冶屋]]の次男として生まれた。いとこたちは造船技師になったが、デイビッドは[[スコットランド]]で技術者としての訓練を受け、1808年に[[ロンドン]]の{{仮リンク2|セントジャイルズ|en|St Giles, London}}、ロイドコートに会社を設立した。デイビッドは[[蒸気機関]]による[[印刷機]]を設計し、このうちのいくつかは新聞社、印刷業者であり英国議会議事録の出版を手掛ける{{仮リンク2|ハンサード|en|Hansard}}にも納入された。会社は1830年にサウスロンドンの[[ランベス・ロンドン特別区|ランベス]]に移転した。


1840年から1860年にかけてはネイピアは成功を収め、設備の充実した工場に200人から300人の従業員をかかえていた。この工場では製糖工場向けの[[遠心分離器]]や、ウールウィッチの{{仮リンク2|王立兵器廠|en|Royal Arsenal}}のための[[旋盤]]や[[ドリル]]、[[弾薬]]製造設備、鉄道用クレーンなど多岐にわたる製品を生産していた<ref name="Hull, Napier, 1483" >{{cite book
1895年にジェームズ・ネイピアの息子モンタギュー・ネイピア(''Montague Napier'' )が後を引き継ぐとモンタギュー・ネイピアの友人であったセルウィン・エッジ(''Selwyn Edge'' )にレーシング・カーを改良する仕事を引き受けた。改良に満足したエッジはネイピアで製造する全ての車を購入すると合意した。ネイピアはオリーブグリーンで塗装した6[[気筒]]の車を初めて生産した。フランスの[[ゴードン・ベネット・カップ (自動車レース)|ゴードン・ベネット・カップ]]など多くのレースでネイピアのレーシング・カーが勝利を飾った。[[1903年]]には車の生産は250台に達した。
|last=Hull |first=Peter G.
|chapter=Napier: The Stradivarius of the Road
|editor=Northey, Tom,
|title=The World of Automobiles
|location=London |publisher=Orbis
|year=1974
|volume=Volume 13,
|page=1483
|isbn=
|ref=Hull, Napier
}}</ref> 。1823年に生まれた下の息子ジェイムズが1837年に会社に加わり<ref name="Hull, Napier, 1483" />、1867年には父親の跡を継いで社長に就任した。そして1873年に父親が亡くなると、会社を[[硬貨|コイン]]の製造と切手、紙幣を印刷するための精密機械の専門工場にした。ジェイムズは優れた技術者ではあったが、ビジネスマンとしては無能であり、営業努力を下品なことであると考えていた。会社の業績は大きく傾き、1895年には従業員はわずか7人にまでになってしまった。そこでジェイムズは会社を売却しようと試みたが失敗に終わった。<ref name="Hull, Napier, 1484" >[[#Hull, Napier|Hull, Napier]], p.&nbsp;1484</ref>


ジェイムズの息子の{{仮リンク2|モンタギュー・ネイピア|label=モンタギュー|en|Montague Napier}}は1870年に生まれ<ref name="Hull, Napier, 1483" /> 、1895年に父親の技術的才能とともに家業を受け継いだ<ref name="Hull, Napier, 1483" />。モンタギューはアマチュアの[[自転車競技|レーシングサイクリスト]]であったが、バスロードクラブで”意気軒昂としたオーストラリア人 ”{{仮リンク2|セルウィン・エッジ|en|Selwyn Edge}}と出会う。セルウィン・エッジはロンドンの[[ダンロップ|ダンロップ・ラバー社]]の支配人であり、{{仮リンク2|H. J. ローソン|en|Harry John Lawson}}の同僚であり、またアマチュアのモーター三輪車レーサーであった。エッジは彼の[[パナール]]({{仮リンク2|1896年のパリ-マルセイユ-パリ・レース|en|1896 Paris–Marseille–Paris}}で勝利した"Old Number 8”)の[[舵棒]]を[[ステアリング・ホイール]]に変更し、[[潤滑]]系を改良するようにモンタギューを説得した<ref name="Hull, Napier, 1484" />。
ネイピアは船舶機関に拡大し、[[1905年]]にネイピアIIがウォータースピードレコードに参加して30ノット(56 km/h)を記録した。
[[File:Sir Alfred Herbert's Car.jpg|thumb|1904年に{{仮リンク2|サー・アルフレッド・ハーバート|en|Alfred Herbert}}のために製作されたマリナー社製ツアラーボディを備えた40hp]]モンタギューはこの内容に満足できず、彼自身の設計による8{{仮リンク2|馬力|en|tax horsepower}}<!--tax horsepower does not convert to other units -->、[[直列2気筒]]で[[点火プラグ|電気点火]](これはパナールのホットチューブ方式より優れていた<ref name="Hull, Napier, 1485" >[[#Hull, Napier|Hull, Napier]], p.&nbsp;1485</ref>)のエンジンを取り付けることを提案する。エッジはこれに大いに感銘を受け、ダンロップで以前の上司であった{{仮リンク2|ハーベイ・デュ・クロ|en|Harvey du Cros}}と協力して、ロンドンを拠点とする[[モーター・パワー・カンパニー]]を設立して<ref name="Hull, Napier, 1485" />、ネイピアのすべての製品を買い取ることを条件に、ネイピアに自ら自動車の製作を始めることを勧める。最初の注文である6台のうち、はじめの3台(8&nbsp;hp)は2気筒であり、残りは4気筒(16&nbsp;hp)であった。すべてがコーチビルダーの{{仮リンク2|アーサー・マリナー|en|Arthur Mulliner}}([[ノーザンプトン]])によるアルミニウム製ボディーに[[チェーンドライブ]]を備え、1900年3月31日に納入された。エッジは400[[スターリング・ポンド|ポンド]]を支払い500ポンドで販売した。


1912年にエッジとの論争の果てに、ネイピアはエッジの持ち分と販売会社を買い取った。このときには生産数は年700台近くまで増大していたが、その多くはロンドンの[[タクシー]]として販売するために供給された。この年には6つのモデルが生産されただけだった。ネイピアの最後の自動車は、[[ネイピア ライオン|ライオンエンジン]]の設計者でもある{{仮リンク2|A.J.ロウリッジ|en|Arthur Rowledge}}の設計による(その後、彼は1921年に[[ロールス・ロイス]]に移っている)、40/50hpで、377立方インチ(6,177 cc) (102×127 mm, 4×5インチ) の合金製6気筒、取り外し可能な[[シリンダーヘッド]]、[[SOHC]]、7組の[[ベアリング]]を備えた[[クランクシャフト]]、2組の[[マグネトー]]と点火[[コイル]]、2重の点火プラグ、そしてNapier-{{仮リンク2|SU キャブレター|en|SU Carburettor}}を備えていた。当時子会社であったコーチビルダーの{{仮リンク2|キュナード|en|Cunard (coachbuilder)}}によって車体が取り付けられた<ref name="Hull, Napier, 1485" /> 。1924年までの間に全部で187台が製作され、そしてネイピアは自動車の生産から撤退した。総生産台数は4,258台であった<ref name="Hull, Napier, 1485" />。
== 第一次大戦と戦間期 ==
[[第一次世界大戦]]の勃発後、ネイピアはロールス・ロイスなど他社が設計したエンジンの製造を請け負うようになった。しかし、自社開発で優れたエンジンが考えられ、[[1916年]]に[[ネイピア ライオン]]が開発された。これがベストセラーとなり、他社製のエンジン製造は打ち切った。また、車両の製造も続けられ、[[貨物自動車|トラック]]や[[救急車]]など2,000台が生産された。しかし、[[1917年]]にモンタギュー・ネイピアの健康状態が悪化して[[フランス]]に移り、会社との連絡は続けていたが[[1931年]]に死去した。


自動車レース以外の分野では、ネイピアは1904年に初めて[[カナディアンロッキー]]を横断した自動車として名声を博した。これは{{仮リンク2|チャールズ・グリッデン|en|Charles Jasper Glidden}}夫妻({{仮リンク2|グリッデンツアー|en|Glidden Tour}}の出資者)がボストンから[[バンクーバー]]に至る3,536 マイル (5,690 km)を走破したものである<ref>Clymer, Floyd. ''Treasury of Early American Automobiles, 1877–1925'' (New York: Bonanza Books, 1950), p.30.</ref>。
[[1919年]]に民間向けの[[自動車]]の生産が再開された。しかし、これは[[ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト]]並みの価格で、売り上げは芳しくなかった。この自動車が最後に生産されたのは[[1924年]]であった。[[1920年]]に入って[[世界恐慌|大恐慌]]による影響もあって、[[1931年]]に経営破綻に陥った[[ベントレー]]の買収交渉に名乗りをあげたが、土壇場になって[[ロールス・ロイス]]がより高値をつけたため、この交渉は失敗した。


==自動車レース==
== 製品 ==
ほかのどの英国ブランドも得ることができなかった<ref>Wise, David B., "Edge: Progenitor of the six-cylinder engine", in Northey, Volume 5, p.589.</ref>[[自動車レース]]による知名度の価値が認識されるようになり、春にエッジは{{convert|8|hp|abbr=on}}のネイピアで、{{仮リンク2|エドワード・ケナード|en|Edward Kennard}}夫人の代理として、{{仮リンク2|ロイヤル・オートモービル・クラブ|en|Royal Automobile Club}}の1,000マイル(1,600&nbsp;km)トライアルレースに出場する。ドライバーはエッジで、同乗のケナード夫人とともに、ニューベリーからエディンバラまでを往復する周回コースでクラス優勝を果たした。このレースでは64台が出走したなかで<ref>Wise{{Page needed|date=July 2011}}</ref>完走したわずか35台のうちの1台であり、またイングランドでは平均時速12&nbsp;mph (19&nbsp;km/h)以上、スコットランドでは平均時速10&nbsp;mph (16&nbsp;km/h)以上という規定をクリアしたわずか12台のうちの1台であった<ref>Wise p.1486.</ref>。
:[[2ストローク機関#ネイピア デルティック]]


1900年の6月になると、8台の"16 hp"が発注され、その1台でエッジは837&nbsp;マイル (1,350&nbsp;km)パリ-[[トゥールーズ]]-パリのレースに、後にロールス・ロイスを設立する[[チャールズ・ロールズ]]を同乗メカニックとして参加する。この301.6立方インチ(4,940cc)(101.6×152.4&nbsp;mm, 4x6 in)[[サイドバルブ]]は点火コイルと冷却系統にトラブルを起こし、完走することができなかった<ref>Wise {{Page needed|date=July 2011}}</ref>。
; 航空機向けエンジン

: [[ネイピア ライオン]] (1917)
1901年にモンタギューは満足できる高速性能をもつ自動車を設計した。これは995.5立方インチ(16,300cc)(165.1×190.5 mm, 6.5×7.5インチ) <ref name="Wise">Wise</ref>、サイドバルブ、4気筒、800rpmで最大出力{{convert|103|hp|abbr=on}}、ホイールベース115インチ(2.921 m)に4速[[変速機]]、チェーンドライブであった。 "50 hp"と呼ばれたが、ロールスのための1台を含めて、わずかに2台ないし3台が完成しただけであった<ref name="Wise"/>。エッジは1901年の[[ゴードン・ベネット・カップ (自動車レース)|ゴードン・ベネット・カップ]]にこのうちの1台で参加するが、途中でテストすることしかできなかった(完成したのが5月25日、レースのたった4日前であった)。モンタギューが同乗メカニックを務めた。"50 hp"はダンロップ製タイヤには出力過大であり、新たに取り付けられたフランス製のタイヤのために失格になってしまった。というのもこれが車体と同じ国で作られたものではなかったためである<ref>Wise, pp.1486–7.</ref>。これに続く[[パリ-ボルドーラリー]]では、クラッチのトラブルのためリタイヤした<ref>''ibid.', p.1487.</ref>。
: [[ネイピア セイバー]] (1938)

: [[ネイピア ノーマッド]] (1949)
{{仮リンク2|1902年のゴードン・ベネット・カップ|en|1902 Gordon Bennett Cup}}では、シャロン・ジラルド・ボイト、モールそしてパナールの3台の自動車がフランスのために競い、エッジがネイピアで、また2台のウーズレーが参加した。このときのネイピアは3速のシャフトドライブ、392.7立方インチ(6,440cc)(1127×127 mm, 5x5インチ) 4気筒、( "30 hp"と呼ばれてはいたが){{convert|44.5|hp|abbr=on}}で、エッジと彼のいとこが操縦した。後に{{仮リンク2|ブリティッシュ・レーシング・グリーン|en|British racing green}}と呼ばれることになる緑色をまとったこの車は、ほかの参加者がすべて競技中にリタイヤしてしまったための不戦勝ではあったが、平均時速31.8マイル(51.2 km/h)の記録でともかく優勝する。これは国際的なモータースポーツにおける英国の初めての勝利であり、また1923年に[[ヘンリー・シーグレーブ]]が[[フランスグランプリ]]で優勝するまで繰り返されることはなかった<ref name="Wise"/>。

[[File:Glidden in London.jpg|thumb|1902年のワールドツアーでのチャールズ・グリッデン]]さらにまた、ネイピアはグリッデン・ツアーを[[ニューヨーク]]州北部で開催するようチャールズ・J・グリッデンを促した。この結果ジェノヴァ工場にくわえてボストンにも工場を設置するようにグリッデンに説得されるが、これは成功しなかった<ref>Wise, p.1488.</ref>。ジェノヴァ工場(支配人は{{仮リンク2|アーサー・マクドナルド|en|Arthur McDonald}})は1906年から1909年までサン・ジョルジオの名前でネイピアのライセンス生産を行った。

自動車の生産数は1903年には250台に達し、ランベス工場が手狭になった。このためロンドン西部の[[アクトン]]の新工場(敷地面積1.52ha) への移転が行われた。この年の10月16日、ネイピアは1904年に6気筒の自動車を販売すると発表した。そしてこれは最初の商業的に成功した6気筒車となった。この車は「驚くほどスムーズで柔軟」な<ref name="Wise"/>{{convert|18|hp|abbr=on}}301立方インチ(4.9&nbsp;リッター) (101.6×101.6&nbsp;mm, 4×4インチ) で、3速のギアボックス、チェーンドライブを備えていた<ref name="Wise"/>。さらに5年のうちには英国だけでも62もの6気筒車のメーカーが存在していた。これには[[フォード・モーター]]社の1906年型{{仮リンク2|モデルK|en|Ford Model K}}も含まれる<ref>[[w:G. N. Georgano]] ''Cars: Early and Vintage, 1886–1930''. (London: Grange-Universal, 1985)</ref>。

ネイピアの1902年の優勝によって、ゴードン・ベネット・カップの開催の任が英国にもたらされた。そして[[ダブリン]]の南で1903年のレースが開催され、3台のシャフトドライブのネイピアが、後に有名になる緑の塗装で英国の名誉を守るべく参加した。2台の470立方インチ(7708&nbsp;cc) {{convert|45|hp|abbr=on}}、4気筒には{{仮リンク2|チャールズ・ジャロット|en|Charles Jarrott (racing driver)}}と {{仮リンク2|J. W. ストックス|en|William Stocks}}(ジェノヴァ工場の支配人のマクドナルドがストックスの同乗メカニックを務めた)が乗り組み、そしてエッジが{{convert|80|hp|abbr=on}}(838 立方インチ, 13,726&nbsp;cc)のタイプ5Kに搭乗した。ジャロットとストックスは大破し、エッジは部外者の助力を得たことから失格となった<ref>Hull, ''op. cit.''</ref>(見物人が車輪の上からタイヤを冷やすためにバケツの水をかける手伝いをした)<ref name="Wikipedia, Selwyn Edge">Wikipedia, [[w:Selwyn Edge]]</ref>。この1年はネイピアのレース活動にとってよい年ではなかった。[[パリ-マドリッド・ラリー]]では、[[マーク・メイヒュー ]]中佐の運転する{{convert|35|hp|abbr=on}}が操縦を失って木に衝突した。1904年のドイツでのゴードン・ベネット・カップではエッジのK5(ふたたびマクドナルドが同乗)は良いところがなかったが、新型の920立方インチ(15 リッター、158.7×127&nbsp;mm、6.25×5インチ)、6気筒のL48に[[コード810]]を思わせる外付けのラジエターを取り付けた車体が、9月にアイルランドの[[ポートマーノック]]で行われたベルベット・ストランド・スピード・トライアルにおいて、マクドナルドの操縦で速度記録を達成した<ref>Wise, p. 1,489</ref>。

1905年1月に、ふたたびマクドナルドがL48に搭乗して、フロリダ州[[デイトナビーチ|オーモンドビーチ]]にて区間1マイル(1.6&nbsp;km)で104.65&nbsp;mph (168.41&nbsp;km/h)の速度記録を達成した。この記録はすぐにボウデンの{{仮リンク2|メルセデス|en|Mercedes (car)}}に破られたが、のちにこの記録は認められなかった。多才なマクドナルドは、1905年に[[マン島]]で行われたゴードン・ベネット・カップの予選でワークスのドライバー、{{仮リンク2|クリフォード・アープ|en|Clifford Earp}}からレースを引き継いでL48を走らせ、9位に入賞した。

エッジの秘書{{仮リンク2|ドロシー・リービット|en|Dorothy Levitt}}は、1905年に[[ブラックプール]]と{{仮リンク2|ブライトン・スピードトライアル|en|Brighton Speed Trials}}でK5の発展型である{{convert|10|hp|abbr=on}}を運転し、またその翌年にはブラックプール・スピードトライアルでL48を走らせ、エッジと並ぶスピード記録を作り、また[[キロメーターランセ]]で90.88&nbsp;mph (146.25&nbsp;km/h).<ref name="Wise"/>という女性記録を打ち立てることで、その才能を示した。

1907年には、ネイピアでは1,200人が働いており、年間におおよそ100台の自動車を生産していた。かれらはレース活動の打ち続く成功に支えられていた。この年には[[ブルックランズ]]・サーキットが開業し、ネイピアの技術者である[[H.C. トライアン]]がオープニングイベントで{{convert|40|hp|abbr=on}}のネイピアで優勝した。また6月にはエッジが1,581マイル(2,544 km)を平均時速65.905マイル(106.06 km/h)で走破する有名な24時間の走行記録を{{convert|60|hp|abbr=on}}、589 立方インチ (9,652 cc) (127×127 mm, 5×5インチ) の6気筒で打ち立てた。この記録は18年間破られることがなかった<ref>Hull, p. 1,489.</ref> 。サムソンという愛称のL48が、この施設の最初の2年間で有名になった。1908年にはネイピアの[[フランク・ニュートン]]が、ストロークを178mmに延長したL48で半マイル(800m)を時速119.34マイル(190.05 km/h)で周回した<ref>Hull</ref>。

ネイピアの最後のレースでの優勝は、1908年の[[ツーリスト・トロフィー]]における4気筒車によるもので、ハットンの名義であった。これは6気筒車の評判を守るためで、[[ウィリー・ワトソン]]の操縦であった<ref>''ibid.'', p.1490.</ref>。しかし[[フランス・グランプリ]]では、オフィシャルが取り外し式のワイヤホイールが不当な優位性であると主張して、その頑迷さを悪名高いものにした<ref>Wise, Volume 5, p.589.</ref>。

さらに、ネイピアがレース活動から手を引いた後も、そのライオン航空エンジンは、[[マルコム・キャンベル]]の1927年の{{仮リンク2|ネイピア-キャンベル・ブルーバード|en|Napier-Campbell Blue Bird}}や、1931年の{{仮リンク2|キャンベル-ネイピア-レイルトン・ブルーバード|en|Campbell-Napier-Railton Blue Bird}}、1929年のシーグレイブのゴールデン・アロー 、1939年から1964年まで記録保持者であった{{仮リンク2|ジョン・コッブ|en|John Cobb (racing driver)}}のネイピア-レイルトンや、{{仮リンク2|レイルトン・モビル・スペシャル|en|Railton Special}}など、多くの陸上速度記録競技車両に使用された。

[[Image:Dorothy Levitt driving the Napier motor yacht 1903.jpg|thumb|250px|right|ネイピア製モーターヨットを操縦するドロシー・リービット 1903年]]
[[File:Napier racing motor launch (Rankin Kennedy, Modern Engines, Vol V).jpg|250 px|thumb|1905年のネイピア・レーシングモーターランチ]]

==モーターヨット==
ネイピアは船舶用エンジンと大型ボートに進出した。1903年にS.F. エッジのネイピアランチが、アイルランドの{{仮リンク2|コーク・ハーバー|en|Cork Harbour}}で行われた第一回の英国国際{{仮リンク2|ハームズワース杯|en|Harmsworth Cup}}(スピードボート)で優勝した。{{convert|40|ft|m|sing=on}}の鋼鉄製船体のスピードボートで、3葉のスクリューを備えており、ドロシー・リービットの操縦で{{convert|19.3|mi/h|km/h|abbr=on}}を記録した。ボートの所有者であり競技参加者である”S.F. エッジ”の名が、優勝者としてトロフィーに刻まれている。3番目の乗組員がキャンベル・ミューアで、かれもまた操縦を受け持った。

1903年8月8日、リービットは{{仮リンク2|カウズ|en|Cowes}}でネイピアを操縦してレースに勝った。そのあとリービットは英国王、[[エドワード7世]]から{{仮リンク2|王室ヨット|en|HMY Britannia (Royal Cutter Yacht)}}に招かれて、その勇気と技術について称賛をうけた。これに続いてボートの性能についてや、その英国政府の兵站業務についての潜在的な可能性について話し合った<ref name="PIP Nov 1906">The Penny Illustrated Paper and Illustrated Times (London, England),Saturday, November 17, 1906; pg. 309; Issue 2373. The Sensational Adventures of Miss Dorothy Levitt, - Champion Lady Motorist of the World. Available at British Library, British Newspapers, [http://newspapers11.bl.uk/blcs] Search for Dorothy Levitt</ref><ref name="TNF PIP Nov 1906">[http://forums.autosport.com/index.php?showtopic=106579&st=40&start=40 Autosport, The Nostalgia Forum, Historical Research, Complete transcription of The ''Penny Illustrated Paper and Illustrated Times'' (London, England), Saturday, November 17, 1906; pg. 309; Issue 2373. The Sensational Adventures of Miss Dorothy Levitt, - Champion Lady Motorist of the World]</ref>。

8月末に、リービットはフランスのトロービルの''{{仮リンク2|ガストン・メニエール杯|en|Menier Chocolate}}''で優勝した。これは5マイルの海上での世界選手権大会であり、優勝賞品は$1,750の賞金であったと記録されている<ref name="Chatty p8-9">''The Woman and the Car – A chatty little handbook for all women who motor or who want to motor'' by Dorothy Levitt. pages 8-9.</ref> 。

I1903年10月にはリービットは、トロービルの海上チャンピオンシップに優勝する。そしてフランス政府はこのボートを1,000ポンドで購入した<ref name="PIP Nov 1906"/><ref name="TNF PIP Nov 1906"/><ref name="Chatty p8-9"/>。

1905年型ネイピアII型ボートが、区間1マイルでほぼ30ノット(56 km/h)の世界[[水上速度記録]]を樹立した。
{{clear}}

==第一次世界大戦と戦間期==
[[File:Napier Lion engine at Science Museum.jpg|thumb|[[ネイピア ライオン]]エンジン]]
第一次世界大戦の初期にネイピアは他社で設計されたエンジンを製作する契約を結んだ。当初はV型12気筒[[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント|王立航空工場]]モデルの{{仮リンク2|RAF 3|en|RAF 3}}であり、それに続いてV型8気筒{{仮リンク2|サンビーム・アラブ|en|Sunbeam Arab}}を製作した。どちらのエンジンも信頼性に欠けることがわかったため、1916年にネイピアは、これらに代わるエンジンを自社で設計することにした。この努力の結果こそが[[W型12気筒]]の[[ネイピア ライオン|ライオン]]である。このエンジンはネイピアのベストセラーとなり、やがて他のすべての航空用エンジンを駆逐してしまうことになる。このライオンは、[[マルコム・キャンベル]]の{{仮リンク2|ネイピア-キャンベル・ブルーバード|en|Napier-Campbell Blue Bird}}や、{{仮リンク2|キャンベル-ネイピア-レイルトン・ブルーバード|en|Campbell-Napier-Railton Blue Bird}}、[[ヘンリー・シーグレーブ]]の{{仮リンク2|ゴールデン・アロー(自動車)|label=''ゴールデン・アロー''|en|Golden Arrow (car)}}などで[[自動車の速度記録|陸上速度記録]]を樹立するために使われ続けた。

車両の生産は続き、2,000台のトラックと救急車が{{仮リンク2|英国陸軍省|en|War Office}}に供給された。モンタギュー・ネイピアの健康は衰え、1917年にフランスのカンヌに移るが、1931年に死去するまで会社の運営に活発に関わり続けた。

第一次世界大戦の間、会社は600機の航空機をアクトン工場で製作する契約を結んだ。内訳は50機の{{仮リンク2|王立航空工場R.E.7|en|Royal Aircraft Factory R.E.7}}と、400機の{{仮リンク2|王立航空工場R.E.8|en|Royal Aircraft Factory R.E.8}}、そして150機の[[ソッピース スナイプ]]であった。

1919年には6リッター、6気筒のT75によって民生用自動車の生産が再開された。これらのモデルは非常に高価で、[[ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト]]とほぼ同じ程度の価格であったため、1920年代の初めには売り上げは下落した。1924年には自動車の生産が打ち切られた。1931年には破綻した[[ベントレー]]の買収が試みられたが、土壇場になってロールス-ロイスに競り負けてしまう。ネイピアの最後の車両プロジェクトは、3輪のトレーラートラック型貨物自動車であったが、自社でこれを生産するかわりに、{{仮リンク2|スキャンメル|en|Scammell}}に売却してしまった。スキャンメルはこれを数百台生産した。

1930年代になると、はるかに大型でもっと高出力の航空機用エンジンが他の会社から販売されるようになり、ライオンのセールスは突然終わりを告げた。ネイピアはただちに、1920年代に{{仮リンク2|ブラックバーン・クバルー|en|Blackburn Cubaroo}}単発爆撃機で使用された{{仮リンク2|X型|en|X engine}}16気筒、{{convert|1000|hp|abbr=on}}の{{仮リンク2|カブエンジン|en|Napier Cub}}を製作した経験をもとに新型エンジンの設計に取り組み始めた。この結果が、ともに空冷H型のデザインである16気筒の{{仮リンク2|ネイピア レイピア|label=レイピア|en|Napier Rapier}}と、24気筒の{{仮リンク2|ネイピア ダガー|label=ダガー|en|Napier Dagger}}であった。レイピアとダガーのどちらも、後端シリンダーの冷却が貧弱であることから、信頼性に乏しいことが判明する。さらにまた、ダガーが出荷された時点での出力 {{convert|1000|hp|abbr=on}}は、他社の競合機に劣るものであった{{Citation needed|date=July 2011}}。

==第二次世界大戦==
[[File:Napier Sabre01.jpg|thumb|[[ネイピア セイバー]] エンジン]]
ネイピアは新型の[[スリーブバルブ]]方式を使って、さらに大型の[[H型エンジン|H型]]24気筒エンジンを一から設計することを決定する。そして、これはまもなく[[ネイピア セイバー|セイバー]]という名で知られるようになる。フランク・ハルフォードの下で設計されたこのエンジンは、非常に先進的であったために製造ラインでの量産が困難であることが明らかになる。この結果、エンジンは1940年までに完成していたのに、量産品の信頼性が認められるようになるのは1944年になってからであった。このときに払われた改善のための努力が、競合機よりもはるかに小型でありながら{{convert|3500|hp|abbr=on}}を発生する、世界で最も高出力のエンジンであるセイバーVII型へと繋がっていく。

ネイピアはまた、航空用[[ディーゼルエンジン]]の開発も行っていた。会社は1930年代に{{仮リンク2|ユンカース・ユモ 204|en|Junkers Jumo 204}}を英国で生産するためのライセンスを得て、これを{{仮リンク2|ネイピア カルバリン|label=カルバリン|en|Napier Culverin}}と呼んでいた。さらにこれをベースに{{仮リンク2|ネイピア カットラス|label=カットラス|en|Napier Cutlass}}という名の小型のエンジンを製作する計画もあったが、いずれも第2次世界大戦の勃発によって打ち切られた。

ネイピアは船舶用エンジンも開発していた。ライオン航空エンジンをもとにしたガソリン駆動のシー・ライオンは {{convert|500|hp|abbr=on}} を発生し、{{仮リンク2|"ホエール・バック"航空救難艇|en|RAF Rescue Launch}}で使用された。
[[File:Napier Deltic Engine.jpg|thumb|ネイピア デルティックエンジンのカットアウエイモデル]]ネイピアは戦争中の1944年に、[[英国海軍]]の哨戒艇で使用するディーゼルエンジン供給の要請を受けたが、カルバリンの{{convert|720|hp|abbr=on}}はその要求を満たすにはほど遠いものであった。そこでネイピアは{{仮リンク2|2ストローク機関#ネイピア デルティック|label=デルティック|preserve=1|en|Napier Deltic}}を開発した。これは基本的には3基のカルバリンをデルタ状に組み合わせて巨大な3角柱としたものである。このデルティックは、当時設計された中では最も複雑なエンジンのひとつと考えられているが、それにもかかわらず高い信頼性があり、設計の目的であった[[魚雷艇]]や[[掃海艇]]、そしてそのほかの小艦艇に加えて、戦後になってからは[[英国国有鉄道]]の[[機関車]]である{{仮リンク2|クラス55ディーゼル機関車|label=クラス55|en|British Rail Class 55}}でも使用された。

さらに第二次大戦中に6気筒300立方インチの車両用エンジン開発が政府から委託されたが、この設計は1945年に[[レイランド (自動車)|レイランド・モーターズ]]に売却された。

==大戦後==
[[Image:Napier Nomad.jpg|thumb|ノーマッドエンジン(2型)。下部の太いダクトが各シリンダーからの排気ガスを集めて後部のタービン部へと送り、コーンが覗く噴射口から最終的な排気が行われる。]]
ネイピアによる最後の大型エンジンが、[[ターボコンパウンド]]型の[[ネイピア ノーマッド|ノーマッド]]であった。これはディーゼルエンジンと[[タービン]]を組み合わせて、そのままでは排気によって失われてしまうエネルギーを回収する設計である。この複雑な設計の利点は[[燃費]]である。このエンジンの{{仮リンク2|燃料消費率|en|Brake specific fuel consumption}}は、今日でもなお、あらゆる航空エンジンの中で最良である。しかしながら通常の[[ジェットエンジン]]でも、はるかに高い高度を飛行することでよりいっそう良い燃費を得ることができたし、そのうえ既存の設計が市場の”低価格”帯をほぼ完全に占有していた。ノーマッドはほとんど市場から省みられることはなく、結局プロジェクトは打ち切りとなった。

戦後になると、ほかの多くのエンジンメーカー同様、ネイピアもジェットエンジンの設計に方向を転換する。大手のベンダーに席巻されていない唯一の市場への進出を決定したネイピアは、いくつかの[[ターボプロップエンジン]]を開発する。このエンジンは特定用途(特に[[ヘリコプター]])を意識したものであった。最初に設計された{{仮リンク2|ネイピア ナイアド|label=ナイアド|en|Napier Naiad}}とダブル・ナイアドは英国海軍[[艦隊航空隊]]での使用を意識したものだったが、結局採用されることはなかった。より小型のモデルである3,000馬力級の{{仮リンク2|ネイピア エランド|label=エランド|en|Napier Eland}}と1,500馬力級{{仮リンク2|ネイピア ガゼル|label=ガゼル|en|Napier Gazelle}}はそれなりにうまくいった。ことにガゼルは、広く使われた{{仮リンク2|ウェストランド・エセックス|en|Westland Wessex}} ヘリコプターの複数のモデルに搭載された。

==イングリッシュ・エレクトリック==
ネイピアは1942年に[[イングリッシュ・エレクトリック]]に買収される。1961年には[[ロールス・ロイス]]がネイピアの航空エンジン部門を買収して、ガゼルの販売を継続するがエランドは打ち切りとなった。今日ではネイピアはエンジンを製造しておらず、デルティック・エンジンの販売が1960年代に打ち切られたのを最後に、あらたな近代的エンジンの設計は行っていない。ネイピアは現在では[[ターボチャージャー]]の主要な供給元として続いており、その製品は多くのエンジンに搭載されている。

==近年の動き==
1960年代後半に[[ゼネラル・エレクトリック・カンパニー]](GEC)がイングリッシュ・エレクトリックを買収する。後にGECはGEC-[[アルストム]]の一部門となり、その後アルストムとなる。[[ジーメンス]]が2003年3月にアルストムのリンカーン・オペレーションズを買収した際に、ネイピアのビジネスも取得した。ネイピア・ターボチャージャーズ社は2008年6月に、代表取締役アンディ ・サッカーが指揮する[[マネジメント・バイアウト]]によってジーメンスから買収された。この買収はプライマリー・キャピタルという未公開の株式会社によって資金を提供されており、その額は約1億ポンドであった。2013年の初めにネイピア・ターボチャージャーズは[[ワブテック]]の一部門となった。ネイピア・ターボチャージャーズは船舶、電力、鉄道産業用のターボ過給器を製造しており、約150名を雇用している。

==参照==
{{Ibid|date=February 2011}}
{{reflist|2}}

==外部リンク==
{{commons category|Napier & Son aircraft engines|ネイピア・アンド・サン 航空エンジン}}
{{commons category|Napier & Son engines|ネイピア・アンド・サン エンジン}}
{{commons category|Napier vehicles|ネイピア ビークル}}
{{commons category|Napier-Railton|ネイピア-レイルトン}}
{{commons category|Napier-Bentley|ネイピア-ベントレー}}
* [http://www.svvs.org/genpics13/1908_Napier_Limousine.jpg Napier limousine 1908]
* [http://www.svvs.org/genpics13/1906_Napier_L76_Touring_Car.jpg Napier L76 touring car 1906, 5161 cc, 6-cyl]
* [http://www.ptfnasty.com/ptfDelticHist1.htm Deltic History: Napier Heritage]
* [http://www.napier-turbochargers.com Napier Turbochargers]


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[[Category:航空用レシプロエンジン]]
[[Category:イギリスの航空用エンジンメーカー]]
[[Category:イギリスの航空用エンジンメーカー]]
[[category:イギリスの自動車メーカー・ブランド]]
[[category:イギリスの自動車メーカー・ブランド]]

2014年4月19日 (土) 00:55時点における版

ネイピア 60 hp T21 1907年

D.ネイピア・アンド・サン(D. Napier & Son Limited)は英国第一次世界大戦以前(いわゆるブラス・エイジ英語版)からエンジン自動車を製造していた会社であり、また20世紀の初めから中ごろにはもっとも重要な航空機エンジンメーカーのひとつであった。第一次世界大戦後に製作されたライオンは、1920年代から1930年代にかけてのある時期では世界でもっとも出力が大きいエンジンであり、セイバーは後期の型では3,500 hp (2,600 kW)を発生した。


初期の歴史

ネイピア・アンド・サンが1859年に製作した蒸気機関
ネイピア T23 ロードスター 1909年

デイビッド・ネイピア英語版(David Napier)は1785年にアーガイル公爵に仕える鍛冶屋の次男として生まれた。いとこたちは造船技師になったが、デイビッドはスコットランドで技術者としての訓練を受け、1808年にロンドンセントジャイルズ英語版、ロイドコートに会社を設立した。デイビッドは蒸気機関による印刷機を設計し、このうちのいくつかは新聞社、印刷業者であり英国議会議事録の出版を手掛けるハンサード英語版にも納入された。会社は1830年にサウスロンドンのランベスに移転した。

1840年から1860年にかけてはネイピアは成功を収め、設備の充実した工場に200人から300人の従業員をかかえていた。この工場では製糖工場向けの遠心分離器や、ウールウィッチの王立兵器廠英語版のための旋盤ドリル弾薬製造設備、鉄道用クレーンなど多岐にわたる製品を生産していた[1] 。1823年に生まれた下の息子ジェイムズが1837年に会社に加わり[1]、1867年には父親の跡を継いで社長に就任した。そして1873年に父親が亡くなると、会社をコインの製造と切手、紙幣を印刷するための精密機械の専門工場にした。ジェイムズは優れた技術者ではあったが、ビジネスマンとしては無能であり、営業努力を下品なことであると考えていた。会社の業績は大きく傾き、1895年には従業員はわずか7人にまでになってしまった。そこでジェイムズは会社を売却しようと試みたが失敗に終わった。[2]

ジェイムズの息子のモンタギュー英語版は1870年に生まれ[1] 、1895年に父親の技術的才能とともに家業を受け継いだ[1]。モンタギューはアマチュアのレーシングサイクリストであったが、バスロードクラブで”意気軒昂としたオーストラリア人 ”セルウィン・エッジ英語版と出会う。セルウィン・エッジはロンドンのダンロップ・ラバー社の支配人であり、H. J. ローソン英語版の同僚であり、またアマチュアのモーター三輪車レーサーであった。エッジは彼のパナール(1896年のパリ-マルセイユ-パリ・レース英語版で勝利した"Old Number 8”)の舵棒ステアリング・ホイールに変更し、潤滑系を改良するようにモンタギューを説得した[2]

1904年にサー・アルフレッド・ハーバート英語版のために製作されたマリナー社製ツアラーボディを備えた40hp

モンタギューはこの内容に満足できず、彼自身の設計による8馬力直列2気筒電気点火(これはパナールのホットチューブ方式より優れていた[3])のエンジンを取り付けることを提案する。エッジはこれに大いに感銘を受け、ダンロップで以前の上司であったハーベイ・デュ・クロ英語版と協力して、ロンドンを拠点とするモーター・パワー・カンパニーを設立して[3]、ネイピアのすべての製品を買い取ることを条件に、ネイピアに自ら自動車の製作を始めることを勧める。最初の注文である6台のうち、はじめの3台(8 hp)は2気筒であり、残りは4気筒(16 hp)であった。すべてがコーチビルダーのアーサー・マリナー英語版(ノーザンプトン)によるアルミニウム製ボディーにチェーンドライブを備え、1900年3月31日に納入された。エッジは400ポンドを支払い500ポンドで販売した。

1912年にエッジとの論争の果てに、ネイピアはエッジの持ち分と販売会社を買い取った。このときには生産数は年700台近くまで増大していたが、その多くはロンドンのタクシーとして販売するために供給された。この年には6つのモデルが生産されただけだった。ネイピアの最後の自動車は、ライオンエンジンの設計者でもあるA.J.ロウリッジ英語版の設計による(その後、彼は1921年にロールス・ロイスに移っている)、40/50hpで、377立方インチ(6,177 cc) (102×127 mm, 4×5インチ) の合金製6気筒、取り外し可能なシリンダーヘッドSOHC、7組のベアリングを備えたクランクシャフト、2組のマグネトーと点火コイル、2重の点火プラグ、そしてNapier-SU キャブレター英語版を備えていた。当時子会社であったコーチビルダーのキュナードによって車体が取り付けられた[3] 。1924年までの間に全部で187台が製作され、そしてネイピアは自動車の生産から撤退した。総生産台数は4,258台であった[3]

自動車レース以外の分野では、ネイピアは1904年に初めてカナディアンロッキーを横断した自動車として名声を博した。これはチャールズ・グリッデン英語版夫妻(グリッデンツアー英語版の出資者)がボストンからバンクーバーに至る3,536 マイル (5,690 km)を走破したものである[4]

自動車レース

ほかのどの英国ブランドも得ることができなかった[5]自動車レースによる知名度の価値が認識されるようになり、春にエッジは8 hp (6.0 kW)のネイピアで、エドワード・ケナード英語版夫人の代理として、ロイヤル・オートモービル・クラブ英語版の1,000マイル(1,600 km)トライアルレースに出場する。ドライバーはエッジで、同乗のケナード夫人とともに、ニューベリーからエディンバラまでを往復する周回コースでクラス優勝を果たした。このレースでは64台が出走したなかで[6]完走したわずか35台のうちの1台であり、またイングランドでは平均時速12 mph (19 km/h)以上、スコットランドでは平均時速10 mph (16 km/h)以上という規定をクリアしたわずか12台のうちの1台であった[7]

1900年の6月になると、8台の"16 hp"が発注され、その1台でエッジは837 マイル (1,350 km)パリ-トゥールーズ-パリのレースに、後にロールス・ロイスを設立するチャールズ・ロールズを同乗メカニックとして参加する。この301.6立方インチ(4,940cc)(101.6×152.4 mm, 4x6 in)サイドバルブは点火コイルと冷却系統にトラブルを起こし、完走することができなかった[8]

1901年にモンタギューは満足できる高速性能をもつ自動車を設計した。これは995.5立方インチ(16,300cc)(165.1×190.5 mm, 6.5×7.5インチ) [9]、サイドバルブ、4気筒、800rpmで最大出力103 hp (77 kW)、ホイールベース115インチ(2.921 m)に4速変速機、チェーンドライブであった。 "50 hp"と呼ばれたが、ロールスのための1台を含めて、わずかに2台ないし3台が完成しただけであった[9]。エッジは1901年のゴードン・ベネット・カップにこのうちの1台で参加するが、途中でテストすることしかできなかった(完成したのが5月25日、レースのたった4日前であった)。モンタギューが同乗メカニックを務めた。"50 hp"はダンロップ製タイヤには出力過大であり、新たに取り付けられたフランス製のタイヤのために失格になってしまった。というのもこれが車体と同じ国で作られたものではなかったためである[10]。これに続くパリ-ボルドーラリーでは、クラッチのトラブルのためリタイヤした[11]

1902年のゴードン・ベネット・カップ英語版では、シャロン・ジラルド・ボイト、モールそしてパナールの3台の自動車がフランスのために競い、エッジがネイピアで、また2台のウーズレーが参加した。このときのネイピアは3速のシャフトドライブ、392.7立方インチ(6,440cc)(1127×127 mm, 5x5インチ) 4気筒、( "30 hp"と呼ばれてはいたが)44.5 hp (33.2 kW)で、エッジと彼のいとこが操縦した。後にブリティッシュ・レーシング・グリーン英語版と呼ばれることになる緑色をまとったこの車は、ほかの参加者がすべて競技中にリタイヤしてしまったための不戦勝ではあったが、平均時速31.8マイル(51.2 km/h)の記録でともかく優勝する。これは国際的なモータースポーツにおける英国の初めての勝利であり、また1923年にヘンリー・シーグレーブフランスグランプリで優勝するまで繰り返されることはなかった[9]

1902年のワールドツアーでのチャールズ・グリッデン

さらにまた、ネイピアはグリッデン・ツアーをニューヨーク州北部で開催するようチャールズ・J・グリッデンを促した。この結果ジェノヴァ工場にくわえてボストンにも工場を設置するようにグリッデンに説得されるが、これは成功しなかった[12]。ジェノヴァ工場(支配人はアーサー・マクドナルド)は1906年から1909年までサン・ジョルジオの名前でネイピアのライセンス生産を行った。

自動車の生産数は1903年には250台に達し、ランベス工場が手狭になった。このためロンドン西部のアクトンの新工場(敷地面積1.52ha) への移転が行われた。この年の10月16日、ネイピアは1904年に6気筒の自動車を販売すると発表した。そしてこれは最初の商業的に成功した6気筒車となった。この車は「驚くほどスムーズで柔軟」な[9]18 hp (13 kW)301立方インチ(4.9 リッター) (101.6×101.6 mm, 4×4インチ) で、3速のギアボックス、チェーンドライブを備えていた[9]。さらに5年のうちには英国だけでも62もの6気筒車のメーカーが存在していた。これにはフォード・モーター社の1906年型モデルK英語版も含まれる[13]

ネイピアの1902年の優勝によって、ゴードン・ベネット・カップの開催の任が英国にもたらされた。そしてダブリンの南で1903年のレースが開催され、3台のシャフトドライブのネイピアが、後に有名になる緑の塗装で英国の名誉を守るべく参加した。2台の470立方インチ(7708 cc) 45 hp (34 kW)、4気筒にはチャールズ・ジャロットJ. W. ストックス英語版(ジェノヴァ工場の支配人のマクドナルドがストックスの同乗メカニックを務めた)が乗り組み、そしてエッジが80 hp (60 kW)(838 立方インチ, 13,726 cc)のタイプ5Kに搭乗した。ジャロットとストックスは大破し、エッジは部外者の助力を得たことから失格となった[14](見物人が車輪の上からタイヤを冷やすためにバケツの水をかける手伝いをした)[15]。この1年はネイピアのレース活動にとってよい年ではなかった。パリ-マドリッド・ラリーでは、マーク・メイヒュー 中佐の運転する35 hp (26 kW)が操縦を失って木に衝突した。1904年のドイツでのゴードン・ベネット・カップではエッジのK5(ふたたびマクドナルドが同乗)は良いところがなかったが、新型の920立方インチ(15 リッター、158.7×127 mm、6.25×5インチ)、6気筒のL48にコード810を思わせる外付けのラジエターを取り付けた車体が、9月にアイルランドのポートマーノックで行われたベルベット・ストランド・スピード・トライアルにおいて、マクドナルドの操縦で速度記録を達成した[16]

1905年1月に、ふたたびマクドナルドがL48に搭乗して、フロリダ州オーモンドビーチにて区間1マイル(1.6 km)で104.65 mph (168.41 km/h)の速度記録を達成した。この記録はすぐにボウデンのメルセデスに破られたが、のちにこの記録は認められなかった。多才なマクドナルドは、1905年にマン島で行われたゴードン・ベネット・カップの予選でワークスのドライバー、クリフォード・アープ英語版からレースを引き継いでL48を走らせ、9位に入賞した。

エッジの秘書ドロシー・リービット英語版は、1905年にブラックプールブライトン・スピードトライアル英語版でK5の発展型である10 hp (7.5 kW)を運転し、またその翌年にはブラックプール・スピードトライアルでL48を走らせ、エッジと並ぶスピード記録を作り、またキロメーターランセで90.88 mph (146.25 km/h).[9]という女性記録を打ち立てることで、その才能を示した。

1907年には、ネイピアでは1,200人が働いており、年間におおよそ100台の自動車を生産していた。かれらはレース活動の打ち続く成功に支えられていた。この年にはブルックランズ・サーキットが開業し、ネイピアの技術者であるH.C. トライアンがオープニングイベントで40 hp (30 kW)のネイピアで優勝した。また6月にはエッジが1,581マイル(2,544 km)を平均時速65.905マイル(106.06 km/h)で走破する有名な24時間の走行記録を60 hp (45 kW)、589 立方インチ (9,652 cc) (127×127 mm, 5×5インチ) の6気筒で打ち立てた。この記録は18年間破られることがなかった[17] 。サムソンという愛称のL48が、この施設の最初の2年間で有名になった。1908年にはネイピアのフランク・ニュートンが、ストロークを178mmに延長したL48で半マイル(800m)を時速119.34マイル(190.05 km/h)で周回した[18]

ネイピアの最後のレースでの優勝は、1908年のツーリスト・トロフィーにおける4気筒車によるもので、ハットンの名義であった。これは6気筒車の評判を守るためで、ウィリー・ワトソンの操縦であった[19]。しかしフランス・グランプリでは、オフィシャルが取り外し式のワイヤホイールが不当な優位性であると主張して、その頑迷さを悪名高いものにした[20]

さらに、ネイピアがレース活動から手を引いた後も、そのライオン航空エンジンは、マルコム・キャンベルの1927年のネイピア-キャンベル・ブルーバード英語版や、1931年のキャンベル-ネイピア-レイルトン・ブルーバード英語版、1929年のシーグレイブのゴールデン・アロー 、1939年から1964年まで記録保持者であったジョン・コッブ英語版のネイピア-レイルトンや、レイルトン・モビル・スペシャル英語版など、多くの陸上速度記録競技車両に使用された。

ネイピア製モーターヨットを操縦するドロシー・リービット 1903年
1905年のネイピア・レーシングモーターランチ

モーターヨット

ネイピアは船舶用エンジンと大型ボートに進出した。1903年にS.F. エッジのネイピアランチが、アイルランドのコーク・ハーバー英語版で行われた第一回の英国国際ハームズワース杯英語版(スピードボート)で優勝した。40-フート (12 m)の鋼鉄製船体のスピードボートで、3葉のスクリューを備えており、ドロシー・リービットの操縦で19.3 mph (31.1 km/h)を記録した。ボートの所有者であり競技参加者である”S.F. エッジ”の名が、優勝者としてトロフィーに刻まれている。3番目の乗組員がキャンベル・ミューアで、かれもまた操縦を受け持った。

1903年8月8日、リービットはカウズでネイピアを操縦してレースに勝った。そのあとリービットは英国王、エドワード7世から王室ヨット英語版に招かれて、その勇気と技術について称賛をうけた。これに続いてボートの性能についてや、その英国政府の兵站業務についての潜在的な可能性について話し合った[21][22]

8月末に、リービットはフランスのトロービルのガストン・メニエール杯英語版で優勝した。これは5マイルの海上での世界選手権大会であり、優勝賞品は$1,750の賞金であったと記録されている[23]

I1903年10月にはリービットは、トロービルの海上チャンピオンシップに優勝する。そしてフランス政府はこのボートを1,000ポンドで購入した[21][22][23]

1905年型ネイピアII型ボートが、区間1マイルでほぼ30ノット(56 km/h)の世界水上速度記録を樹立した。

第一次世界大戦と戦間期

ネイピア ライオンエンジン

第一次世界大戦の初期にネイピアは他社で設計されたエンジンを製作する契約を結んだ。当初はV型12気筒王立航空工場モデルのRAF 3英語版であり、それに続いてV型8気筒サンビーム・アラブ英語版を製作した。どちらのエンジンも信頼性に欠けることがわかったため、1916年にネイピアは、これらに代わるエンジンを自社で設計することにした。この努力の結果こそがW型12気筒ライオンである。このエンジンはネイピアのベストセラーとなり、やがて他のすべての航空用エンジンを駆逐してしまうことになる。このライオンは、マルコム・キャンベルネイピア-キャンベル・ブルーバード英語版や、キャンベル-ネイピア-レイルトン・ブルーバード英語版ヘンリー・シーグレーブゴールデン・アロー英語版などで陸上速度記録を樹立するために使われ続けた。

車両の生産は続き、2,000台のトラックと救急車が英国陸軍省に供給された。モンタギュー・ネイピアの健康は衰え、1917年にフランスのカンヌに移るが、1931年に死去するまで会社の運営に活発に関わり続けた。

第一次世界大戦の間、会社は600機の航空機をアクトン工場で製作する契約を結んだ。内訳は50機の王立航空工場R.E.7英語版と、400機の王立航空工場R.E.8英語版、そして150機のソッピース スナイプであった。

1919年には6リッター、6気筒のT75によって民生用自動車の生産が再開された。これらのモデルは非常に高価で、ロールス・ロイス・シルヴァーゴーストとほぼ同じ程度の価格であったため、1920年代の初めには売り上げは下落した。1924年には自動車の生産が打ち切られた。1931年には破綻したベントレーの買収が試みられたが、土壇場になってロールス-ロイスに競り負けてしまう。ネイピアの最後の車両プロジェクトは、3輪のトレーラートラック型貨物自動車であったが、自社でこれを生産するかわりに、スキャンメル英語版に売却してしまった。スキャンメルはこれを数百台生産した。

1930年代になると、はるかに大型でもっと高出力の航空機用エンジンが他の会社から販売されるようになり、ライオンのセールスは突然終わりを告げた。ネイピアはただちに、1920年代にブラックバーン・クバルー英語版単発爆撃機で使用されたX型英語版16気筒、1,000 hp (750 kW)のカブエンジン英語版を製作した経験をもとに新型エンジンの設計に取り組み始めた。この結果が、ともに空冷H型のデザインである16気筒のレイピア英語版と、24気筒のダガー英語版であった。レイピアとダガーのどちらも、後端シリンダーの冷却が貧弱であることから、信頼性に乏しいことが判明する。さらにまた、ダガーが出荷された時点での出力 1,000 hp (750 kW)は、他社の競合機に劣るものであった[要出典]

第二次世界大戦

ネイピア セイバー エンジン

ネイピアは新型のスリーブバルブ方式を使って、さらに大型のH型24気筒エンジンを一から設計することを決定する。そして、これはまもなくセイバーという名で知られるようになる。フランク・ハルフォードの下で設計されたこのエンジンは、非常に先進的であったために製造ラインでの量産が困難であることが明らかになる。この結果、エンジンは1940年までに完成していたのに、量産品の信頼性が認められるようになるのは1944年になってからであった。このときに払われた改善のための努力が、競合機よりもはるかに小型でありながら3,500 hp (2,600 kW)を発生する、世界で最も高出力のエンジンであるセイバーVII型へと繋がっていく。

ネイピアはまた、航空用ディーゼルエンジンの開発も行っていた。会社は1930年代にユンカース・ユモ 204英語版を英国で生産するためのライセンスを得て、これをカルバリン英語版と呼んでいた。さらにこれをベースにカットラス英語版という名の小型のエンジンを製作する計画もあったが、いずれも第2次世界大戦の勃発によって打ち切られた。

ネイピアは船舶用エンジンも開発していた。ライオン航空エンジンをもとにしたガソリン駆動のシー・ライオンは 500 hp (370 kW) を発生し、"ホエール・バック"航空救難艇英語版で使用された。

ネイピア デルティックエンジンのカットアウエイモデル

ネイピアは戦争中の1944年に、英国海軍の哨戒艇で使用するディーゼルエンジン供給の要請を受けたが、カルバリンの720 hp (540 kW)はその要求を満たすにはほど遠いものであった。そこでネイピアはデルティック英語版を開発した。これは基本的には3基のカルバリンをデルタ状に組み合わせて巨大な3角柱としたものである。このデルティックは、当時設計された中では最も複雑なエンジンのひとつと考えられているが、それにもかかわらず高い信頼性があり、設計の目的であった魚雷艇掃海艇、そしてそのほかの小艦艇に加えて、戦後になってからは英国国有鉄道機関車であるクラス55英語版でも使用された。

さらに第二次大戦中に6気筒300立方インチの車両用エンジン開発が政府から委託されたが、この設計は1945年にレイランド・モーターズに売却された。

大戦後

ノーマッドエンジン(2型)。下部の太いダクトが各シリンダーからの排気ガスを集めて後部のタービン部へと送り、コーンが覗く噴射口から最終的な排気が行われる。

ネイピアによる最後の大型エンジンが、ターボコンパウンド型のノーマッドであった。これはディーゼルエンジンとタービンを組み合わせて、そのままでは排気によって失われてしまうエネルギーを回収する設計である。この複雑な設計の利点は燃費である。このエンジンの燃料消費率は、今日でもなお、あらゆる航空エンジンの中で最良である。しかしながら通常のジェットエンジンでも、はるかに高い高度を飛行することでよりいっそう良い燃費を得ることができたし、そのうえ既存の設計が市場の”低価格”帯をほぼ完全に占有していた。ノーマッドはほとんど市場から省みられることはなく、結局プロジェクトは打ち切りとなった。

戦後になると、ほかの多くのエンジンメーカー同様、ネイピアもジェットエンジンの設計に方向を転換する。大手のベンダーに席巻されていない唯一の市場への進出を決定したネイピアは、いくつかのターボプロップエンジンを開発する。このエンジンは特定用途(特にヘリコプター)を意識したものであった。最初に設計されたナイアド英語版とダブル・ナイアドは英国海軍艦隊航空隊での使用を意識したものだったが、結局採用されることはなかった。より小型のモデルである3,000馬力級のエランド英語版と1,500馬力級ガゼル英語版はそれなりにうまくいった。ことにガゼルは、広く使われたウェストランド・エセックス英語版 ヘリコプターの複数のモデルに搭載された。

イングリッシュ・エレクトリック

ネイピアは1942年にイングリッシュ・エレクトリックに買収される。1961年にはロールス・ロイスがネイピアの航空エンジン部門を買収して、ガゼルの販売を継続するがエランドは打ち切りとなった。今日ではネイピアはエンジンを製造しておらず、デルティック・エンジンの販売が1960年代に打ち切られたのを最後に、あらたな近代的エンジンの設計は行っていない。ネイピアは現在ではターボチャージャーの主要な供給元として続いており、その製品は多くのエンジンに搭載されている。

近年の動き

1960年代後半にゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC)がイングリッシュ・エレクトリックを買収する。後にGECはGEC-アルストムの一部門となり、その後アルストムとなる。ジーメンスが2003年3月にアルストムのリンカーン・オペレーションズを買収した際に、ネイピアのビジネスも取得した。ネイピア・ターボチャージャーズ社は2008年6月に、代表取締役アンディ ・サッカーが指揮するマネジメント・バイアウトによってジーメンスから買収された。この買収はプライマリー・キャピタルという未公開の株式会社によって資金を提供されており、その額は約1億ポンドであった。2013年の初めにネイピア・ターボチャージャーズはワブテックの一部門となった。ネイピア・ターボチャージャーズは船舶、電力、鉄道産業用のターボ過給器を製造しており、約150名を雇用している。

参照

  1. ^ a b c d Hull, Peter G. (1974). “Napier: The Stradivarius of the Road”. In Northey, Tom,. The World of Automobiles. Volume 13,. London: Orbis. p. 1483 
  2. ^ a b Hull, Napier, p. 1484
  3. ^ a b c d Hull, Napier, p. 1485
  4. ^ Clymer, Floyd. Treasury of Early American Automobiles, 1877–1925 (New York: Bonanza Books, 1950), p.30.
  5. ^ Wise, David B., "Edge: Progenitor of the six-cylinder engine", in Northey, Volume 5, p.589.
  6. ^ Wise[要ページ番号]
  7. ^ Wise p.1486.
  8. ^ Wise [要ページ番号]
  9. ^ a b c d e f Wise
  10. ^ Wise, pp.1486–7.
  11. ^ ibid.', p.1487.
  12. ^ Wise, p.1488.
  13. ^ w:G. N. Georgano Cars: Early and Vintage, 1886–1930. (London: Grange-Universal, 1985)
  14. ^ Hull, op. cit.
  15. ^ Wikipedia, w:Selwyn Edge
  16. ^ Wise, p. 1,489
  17. ^ Hull, p. 1,489.
  18. ^ Hull
  19. ^ ibid., p.1490.
  20. ^ Wise, Volume 5, p.589.
  21. ^ a b The Penny Illustrated Paper and Illustrated Times (London, England),Saturday, November 17, 1906; pg. 309; Issue 2373. The Sensational Adventures of Miss Dorothy Levitt, - Champion Lady Motorist of the World. Available at British Library, British Newspapers, [1] Search for Dorothy Levitt
  22. ^ a b Autosport, The Nostalgia Forum, Historical Research, Complete transcription of The Penny Illustrated Paper and Illustrated Times (London, England), Saturday, November 17, 1906; pg. 309; Issue 2373. The Sensational Adventures of Miss Dorothy Levitt, - Champion Lady Motorist of the World
  23. ^ a b The Woman and the Car – A chatty little handbook for all women who motor or who want to motor by Dorothy Levitt. pages 8-9.

外部リンク