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「鹿島神宮」の版間の差分

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[[File:Kashima-jingu ichinotorii.JPG|thumb|250px|right|一の鳥居(西)<br/>[[霞ヶ浦|鰐川]]に面して立つ。]]
'''鹿島神宮'''(かしまじんぐう)は、[[茨城県]][[鹿嶋市]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[常陸国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
'''鹿島神宮'''(かしまじんぐう、'''鹿嶋神宮''')は、[[茨城県]][[鹿嶋市]][[宮中 (鹿嶋市)|宮中]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[常陸国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。


全国に約600社ある[[鹿島神社]]の総本社。[[神栖市]]の[[息栖]]、[[千葉]][[香取市]]の[[香取]]とともに東国三社の一社。宮中の[[四方拝]]で遥拝される一社。[[初詣]]には全国から60万人以上が参拝し、[[参拝]]者数では茨城県2位に及ぶ。
全国に約600社ある[[鹿島神社]]の総本社。[[千葉県]][[香取市]]の[[香取]]、茨城県[[神栖市]]の[[息栖]]とともに[[東国三社]]の一社。また、宮中の[[四方拝]]で遥拝される一社。[[初詣]]には全国から60万人以上が参拝し、参拝者数では茨城県2位に及ぶ。


== 概要 ==
== 概要 ==
茨城県南東部、[[北浦]]と[[鹿島灘]]に挟まれた鹿島[[台地]]上に鎮座する。[[和銅]]6年([[713年]])成立の『[[常陸国風土記]]』に鎮座が確認されて以来歴史上で重きをなしてきた、東国で随一の古社である。古代には朝廷からは蝦夷に対する平定神として、また[[藤原氏]]からは[[氏神]]として崇敬され神威を高めた。『[[延喜式神名帳]]』([[平安時代]]の[[官幣社|官社]]一覧)では「神宮」と記されたのは[[伊勢神宮]]・香取神宮と当宮の三社のみで、その位置づけの高さがうかがわれる。その神威は[[中世]]に[[武家]]の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは[[武神]]として崇敬された。
茨城県南東部、[[北浦]]と[[鹿島灘]]に挟まれた鹿島[[台地]]上に鎮座する。[[伊勢神宮]]・[[香取神宮]]とともに、[[明治維新]]前に「神宮」を名称に使用していた三社のうちの一社にあたる。


[[祭神]]の[[タケミカヅチ|武甕槌神]]は、[[フツヌシ|経津主神]]([[香取神宮]]祭神)とともに[[天孫降臨]]に先立って国土を平定したとされる[[武神]]とされる。古代[[朝廷]]が東国を治めるにあたって[[蝦夷]]に対する前線基地として香取神宮とともに重要視されたと伝えられる。両宮とも古来より[[軍神]]としての性格が強く、[[武]]の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かた2軸の掛軸が対になっ掲げられることが多。また例祭では鹿島神宮に由来のある[[直心影流剣術]]による奉納演舞が行われる他、[[古武道]]団体が演武大会を開催することもある。
当宮は[[利根川]]を挟んで[[香取神宮]]と対峙し、古来両社は並び称されている。[[祭神]]の[[タケミカヅチ|武甕槌神]]は、[[フツヌシ|経津主神]](香取神宮祭神)とともに[[天孫降臨]]に先立って国土を平定した武神とされる。両宮とも古来[[軍神]]としての性格が強く、現在も[[武]]で篤く崇敬されている。


「[[布都御魂|布都御魂剣]]」と称される[[国宝]]の巨大な[[直刀]]を所蔵するほか、境内は国の[[史跡]]に、本殿・拝殿・楼門など7棟が国の[[重要文化財]]に指定されている。[[楼門]]は日本三大楼門の1つにも数えられる。そのほか、[[シカ|鹿]]を[[神使|神の使い]]とすることでも知られる。
神宮では「[[布都御魂|韴霊剣]](ふつのみたまのつるぎ)」と称される大な[[直刀]]([[国宝]])が伝えられるほか、境内は国の[[史跡]]に、[[本殿]][[拝殿]][[楼門]]など7棟が国の[[重要文化財]]に指定されている。そのほか、[[シカ|鹿]]を[[神使]]とすることでも知られる。


== 祭神 ==
== 社名について ==
神宮は[[常陸国]][[鹿島郡 (常陸国)|鹿島郡]]の地に鎮座するが、その地名「鹿島(かしま)」は当宮に由来するとされる。『[[常陸国風土記]]』には「'''香島'''」と記載され、「香島郡」の名称が「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと記載している{{Sfn|鹿島郡(平)|1982年|p=364}}。「カシマ」を「'''鹿島'''」と記した初見は[[養老]]7年([[723年]])であるが<ref group="原">『続日本紀』養老7年11月16日条(『茨城県の地名』鹿島郡項参照)。</ref>{{Sfn|鹿島|2004年|p=14}}、「香島」から「鹿島」への変化の理由は史書からは明らかでない。なお当宮では現在社名に「島」を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は[[佐賀県]][[鹿島市]]との区別のため「嶋」を使用している。
[[File:Kashima-kanameishi-shinzu-namazu-e.jpg|thumb|200px|right|「鹿島要石真図」(安政2年頃)<br/>上が要石をまつる鹿島神社。</br>下が剣をもち大鯰を抑える[[タケミカヅチ|武甕槌神]]。]]


「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は以下の通り。
祭神は以下の1柱。「'''鹿島大神'''」と称される。
* 「神の住所」すなわち「カスミ」とする説{{Sfn|鹿島郡(角)|1983年}}
* 「建借間命(たけかしまのみこと)」から「カシマ」を取ったとする説{{Sfn|鹿島郡(角)|1983年}}
:: 建借間命(建借馬命)は、『[[先代旧事本紀]]』国造本紀に初代[[仲国造]](那珂国造)として、また『常陸国風土記』行方郡条に記述が見える人物。
* 「船を止める杭を打つ場所」を意味する「カシシマ」とする説{{Sfn|鹿島郡(角)|1983年}}
:: 『[[肥前国風土記]]』[[杵島郡]]条に「杵島」の由来として見える記述。


== 祭神 ==
[[File:Kashima-kanameishi-shinzu-namazu-e.jpg|thumb|180px|right|「鹿島要石真図」<br/><small>[[江戸時代]]の[[鯰絵]]。上が[[要石]]を祀る鹿島神宮、下が剣をもち大鯰を抑える[[タケミカヅチ|武甕槌神]]。</small>]]
祭神は以下の1柱。
* '''[[タケミカヅチ|武甕槌大神]]''' (たけみかづちのおおかみ)
* '''[[タケミカヅチ|武甕槌大神]]''' (たけみかづちのおおかみ)
:: 『[[古事記]]』では「建御雷神」、『[[日本書紀]]』では「武甕槌神」と表記される。
:: 史書によっては「'''建御雷神'''」とも表記される。『[[古事記]]』では、[[イザナギ|伊弉諾尊]]が[[カグツチ|軻遇突智]]の首を切り落とした際、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうちの一柱とされる。[[経津主神]]([[香取神宮]]祭神)とともに、[[天孫降臨]]に先立って国土を平定したとされる[[武神]]
:: 社名から、一般に「'''鹿島大神'''(かしまのおおかみ)」とも称される。


タケミカヅチについて『古事記』では、[[イザナギ|伊弉諾尊]]が[[カグツチ|軻遇突智]]の首を切り落とした際、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうちの一柱とする(『日本書紀』ではここでタケミカヅチの祖・[[甕速日神|ミカハヤヒ]]が生まれたとする)。また、[[天孫降臨]]に先立つ[[葦原中国平定]]においては、天鳥船神(『古事記』)または[[経津主神]](『日本書紀』)とともに活躍したという。その後、[[神武東征]]ではイワレビコ([[神武天皇]])に神剣([[布都御魂|フツノミタマ]])を授けた。ただし、『古事記』『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はなく、タケミカヅチと鹿島との関係は記されていない。
『[[万葉集]]』に詠われるように、祭神は「鹿島神」という一般名称でも知られる。。

一方『常陸国風土記』では祭神を「'''香島の天の大神'''(かしまのあめのおおかみ)」と記し、天孫の統治以前に天から下されたという、記紀同様の説話を記す。また、武具を献じたという記載から武神の性格がうかがわれる<ref name="平凡社">西垣晴次「鹿島神宮」(『世界大百科事典』平凡社)。</ref>。しかしながら、同記にも具体的にタケミカヅチとは言及はされていない。

祭神をタケミカヅチと記した文献上の初見は、[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])成立の『[[古語拾遺]]』である{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=386}}。その後は『[[続日本後紀]]』『[[延喜式]]』等で記載が確認される{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=386}}。それ以前の祭神は明らかではなく、タケミカヅチを藤原氏の氏神と見て、中臣氏・藤原氏の進展に伴って当宮にあてられたとする見方がある{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}{{Sfn|鹿島大神|1983年}}(詳細は[[#考証|後述]])。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創建 ===
=== 創建・伝承 ===
当宮の由緒は、[[鎌倉時代]]の『鹿島宮社例伝記』に記載されている。同記によると[[神武天皇]]元年から21年に造立があったといい{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている{{Sfn|鹿島|2004年|p=9}}。
社伝によると、創建は[[神武天皇]]元年とされる。


一方『[[常陸国風土記]]』にも当宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。また、この「香島の天の大神」は「天の大神の社」「坂戸の社(現 摂社・坂戸神社)」「沼尾の社(現 摂社・沼尾神社)」の三社の総称であるともいう{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=386}}。第10代[[崇神天皇]]の御世には、大中臣神聞勝命が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じたという{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。さらに第12代[[景行天皇]]の御世には、中臣臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したことが記され、これが御船祭の起源とされる{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。
『[[常陸国風土記]]』では、天地が開ける以前(天地草昧已前)に高天原から天下った「香島の天の大神」の神話と、[[崇神天皇]]、倭建天皇([[ヤマトタケル|日本武尊]])、[[天智天皇]]の時代に祭祀や造営が行われたことを伝える。


=== 概史 ===
=== 概史 ===
==== 飛鳥時代 ====
当社は創建時から、香取神宮とともに[[蝦夷]]に対する[[大和朝廷]]の前線基地とされたといわれる。宝物殿には[[悪路王]]([[アテルイ]])の首と首桶が祀られているが、これは[[寛文]]4年([[1664年]])に奥州の藤原満清が奉納したものと伝えられる。
[[File:Katori-jingu haiden.JPG|thumb|200px|right|[[香取神宮]]([[千葉県]][[香取市]])<br/><small>[[下総国]][[一宮]]。鹿島神宮とは深い関係にあり、古来並び称される。</small>]]
『常陸国風土記』では鹿島社の[[神戸 (民戸)|神戸]]、すなわち祭祀維持のための付属の民戸が多く設置されたことが見える。また同記では、[[大化]]5年([[649年]])に[[神郡]]として香島郡([[鹿島郡]])が成立し、[[天智天皇]]年間([[668年]]-[[672年]])には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと記す{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。以上の背景としては[[大化改新]]後の新政による朝廷の東国経営強化が考えられ、改新を契機として朝廷は鹿島社とつながりを深め、天智朝の社殿造営を大きな画期としたと見られている{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。


このような結びつきの背景としては、[[中臣氏]]の存在が指摘される{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。中臣氏は[[6世紀]]後半から[[7世紀]]初頭に祭祀制度の再編を行なっており、これに伴って東国に中臣部や卜部といった[[部民制|部民]]を定め、鹿島社の祭祀を掌握したと見られている{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。実際、鹿島郡司や社の神職には中臣姓が散見される{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。そして、大化改新後に中臣氏は政治的に躍進し、鹿島社も朝廷との関係を深めたという{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。中臣氏進出以前の祭祀氏族については諸説あるが、明らかではない([[#考証|後述]])。
[[大化]]5年([[645年]])には鹿島神郡が設けられたが、当時神郡(神領)を持ったのは当社のほか、[[伊勢神宮]]・香取神宮のみであった。


鹿島神が朝廷の東国経営で大きな役割を果たした様子を表すものとしては、後世の『[[日本三代実録]]』や『[[延喜式神名帳]]』において陸奥国内に多くの鹿島神の苗裔神([[御子神]])の記載が指摘される(「[[#鹿島苗裔神|鹿島苗裔神]]」節参照){{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。その記載から、鹿島神は国土平定の武神・水神として太平洋沿岸部を北上、その過程で各開拓地で祀られ、最終的に[[宮城県]][[石巻市]]付近まで影響力を及ぼしたことがうかがわれる{{Sfn|鹿島御児神社|1983年}}。
[[平安時代]]中期の『[[延喜式神名帳]]』では「常陸国[[鹿嶋郡]] 鹿嶋神宮 名神大 月次新嘗」として[[名神大社]]に列している。同帳で当時「[[神宮]]」の称号で記されたのは、神郡同様に伊勢・鹿島・香取の三社のみである。


==== 奈良時代 ====
[[中臣氏]]が常陸国・[[下総国]]出身であったという関係で、中臣氏出身の[[藤原氏]]にも篤く信仰された。武甕槌神は経津主神とともに[[春日大社]]に[[勧請]]され、藤原氏の[[氏神]]([[春日神]])の1柱として祀られている。
[[File:Kasuga-taisha11bs3200.jpg|thumb|200px|right|[[春日大社]]([[奈良県]][[奈良市]])<br/><small>藤原氏の氏社で、創建に際して氏神・武甕槌神は鹿島から春日へ勧請され、春日社の主神をなした。</small>]]
[[奈良時代]]には、史書に多数の[[神戸 (民戸)|神戸]]の記事が載り、豊かな経済基盤を有していたことがうかがわれる(「[[#社領|社領]]」節参照)。


またこの時代、鹿島社は[[藤原氏]]から[[氏神]]として特に崇敬された。[[神護景雲]]2年([[768年]])には[[奈良県|奈良]][[春日山 (奈良県)|御蓋山]]の地に藤原氏の氏社として春日社(現 [[春日大社]])が創建されたといい<ref group="注">春日社創建の正確な年号は明らかではない。「神護景雲2年」は春日大社の社記に基づくもので、『日本三代実録』元慶8年8月26日条を支証とする(『国史大辞典』春日大社項)。</ref>、鹿島から武甕槌神、香取から経津主命、[[枚岡神社|枚岡]]から[[天児屋命|天児屋根命]]と[[比売神]]が勧請された<ref name="春日">稲垣栄三「春日大社」(『国史大辞典』吉川弘文館)。</ref>。これら4柱のうち特に鹿島神が主神であったと見られ、春日社の元々の祭祀も鹿島社の遥拝に発したと見られている<ref name="春日"/>。その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年([[777年]])[[藤原良継]]の病の際には「其氏神の鹿島社」に対して正三位の[[神階]]が叙されている<ref group="原" name="宝亀8"/>。
[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])、[[江戸幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]による造営が行われ、現在の社殿が整えられた。


==== 平安時代 ====
[[明治維新]]後、[[明治]]4年5月[[近代社格制度]]において[[官幣大社]]に列した。
[[平安時代]]以降の神階としては、[[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])に正二位勲一等<ref group="原" name="承和3"/>、承和6年([[839年]])に従一位勲一等<ref group="原" name="承和6"/>の記事が見える{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。[[嘉祥]]3年([[850年]])9月15日には、春日社の建御賀豆智命は正一位に達した<ref group="原" name="嘉祥3"/>(勧請元の鹿島社も同時に叙せられたという見方もある<ref name="春日平凡社"/>)。

[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式神名帳]]』では「常陸国[[鹿島郡]] 鹿島神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて[[式内社]]([[名神大社]])に列しており、[[月次祭]]・[[新嘗祭]]では幣帛に預かった。なお、同帳で当時「[[神宮]]」の称号で記されたのは、伊勢神宮・香取神宮と当宮の三社のみであった。また、[[常陸国]]の[[一宮]]として崇敬された<ref group="注">「一宮」の初見は建暦3年(1213年)(『日本中世国家と諸国一宮制』岩田書院、p. 45)。</ref>。

==== 鎌倉時代から戦国時代 ====
当宮は武神を祀るため[[中世]]の武家の世にも神威は維持され、歴代の武家政権や大名から崇敬を受けた{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}。[[源頼朝]]から当宮に多くの社領を寄せられたように、神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多く見られる{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}。その反面、武家による神宮神職への進出や神領侵犯も度々行なわれており{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}、頼朝による[[鹿島氏]](常陸[[大掾氏]]一族)の惣追捕使への任命は、結果として当宮への藤原氏の影響力をなくした{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}<ref name="平凡社"/>。

室町時代には、武家政権の神領寄進に平行して在地勢力による侵犯が進み、社殿造営費用にも欠く状態であったという{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=389}}。

==== 江戸時代 ====
[[江戸時代]]には[[江戸幕府]]からも崇敬を受け、[[慶長]]10年([[1605年]])には[[徳川家康]]により本殿(現 奥宮)が造営された{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。[[元和]]5年([[1619年]])には徳川秀忠により現在の社殿一式、[[寛永]]11年([[1634年]])には[[徳川頼房]]により楼門等が造営された{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。

==== 明治以降 ====
[[明治維新]]後、[[明治]]4年([[1871年]])5月に[[近代社格制度]]において[[官幣大社]]に列した。

[[ファイル:Kashima_the-great-torii.jpg|thumb|140px|right|大鳥居(2008年)]]
[[平成]]23年([[2011年]])の[[東北地方太平洋沖地震]]では、大鳥居(二の鳥居)・御手洗池鳥居が崩落し、多くの[[灯籠]]が倒壊した。御手洗池の水位の減少も発生したが、国宝や重要文化財に損傷はなかった。平成24年([[2012年]])1月、境内の杉材を用いて大鳥居を再建することが発表された([[2014年]]完成予定)。


=== 神階 ===
=== 神階 ===
* 六国史における[[神階]]奉叙の記録
* [[宝亀]]8年([[777年]])7月16日、正三位 (『[[続日本紀]]』) - 表記は「鹿島社」
* [[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])59日、勲一等従二位から勲一等位 (『[[続日本紀]]』) - 表記は「建御賀豆智命
** [[宝亀]]8年([[777年]])716日、正位 (『[[続日本紀]]』) - 表記は「鹿島社<ref group="原" name="宝亀8">『続日本紀』宝亀8年7月16日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。
* 承和6年([[839年]])1029日、勲従一位 (『続日本紀』) - 表記は「建御加都智命
** [[延暦]]元年([[782年]])520日、勲等 (『続日本紀』) - 表記は「鹿島神<ref group="原">延暦元年5月20日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。
* [[嘉祥]]3年([[850年]])915日、一位 (『[[日本文徳天皇実録]]』) - 表記は「建御賀豆智命」
** [[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])59日、従二位勲等から正二勲一等 (『[[日本後紀]]』) - 表記は「建御賀豆智命」<ref group="原" name="承和3">『続日本後紀』承和3年5月9日(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。
** 承和6年([[839年]])10月29日、従一位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「建御加都智命」<ref group="原" name="承和6">『続日本後紀』承和6年10月29日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。
* 参考:奈良・春日社([[春日大社]])の「建御賀豆智命大神」に対する叙位
** [[嘉祥]]3年([[850年]])9月15日、正一位 (『[[日本文徳天皇実録]]』)<ref group="原" name="嘉祥3">『日本文徳天皇実録』嘉祥3年9月15日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>
:: <small>注)記事では春日社の他の祭神3柱も叙せられている。後の『[[日本三代実録]]』でそれら3柱の勧請元社がこの記事の策命を継いで昇進していることから、元社と春日社は同時に叙位したとも見られている<ref name="春日平凡社">『奈良県の地名』(平凡社)春日大社項。</ref>。</small>


=== 2011年地震による被害 ===
=== 神職 ===
『常陸国風土記』にも見えるように、古代常陸には[[中臣氏|中臣部]]・[[卜部氏|卜部]]が多く住んでおり、神職を兼ねる者も多かったと見られている{{Sfn|鹿島氏|1983年}}。天平18年([[746年]])には、これら当地に住む中臣部20烟・卜部5烟に「中臣鹿島[[連]]」姓が下賜された<ref group="原">『続日本紀』天平18年3月24日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。以後の神宮の主な神職は、この在地の中臣鹿島氏(中臣氏)と中央の[[大中臣氏]]が担っていった。
[[東北地方太平洋沖地震|2011年東北地方太平洋沖地震]]により、大鳥居(二の鳥居)・御手洗池鳥居が完全に崩落し、多くの[[灯篭]]が倒れた。他にも池の水の減少が発生したが、[[国宝]]や[[重要文化財]]に損傷はなかった。


[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』では、神宮の職制について宮司1人、禰宜1人、祝1人、物忌1人からなるとし<ref group="原">『延喜式』(15 内蔵)鹿島香取条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>、宮司は従八位に準じるとしている<ref group="原">『延喜式』(3 臨時祭)神宮司季禄条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}。
2012年1月、境内の杉材を用いて大鳥居を再建することが発表された。2014年完成予定。


[[鎌倉時代]]に入り、[[源頼朝]]は常陸[[大掾氏]]一族の[[鹿島氏]]を惣大行事に任じた{{Sfn|鹿島神宮(角)|1983年}}。それまで神職の補任権は基本的に藤原氏が担っていたが、この武家の進出によりその影響からは離れていった{{Sfn|鹿島神宮(角)|1983年}}。
<gallery>

ファイル:Kashima_the-great-torii.jpg|大鳥居(2008年撮影時)
[[文永]]3年([[1266年]])の「諸神官補任之記」によれば、当時の神宮の神職には大宮司を筆頭として、大禰宜、物忌及びその父(千富禰宜)、惣大行事、検非違使・惣追捕使・押領使、宮介・権禰宜・和田権祝・益田祝・惣申権祝・田所権祝、案主3人その他、神夫・郷長・判官など、50人は軽く超える数がいたという{{Sfn|鹿島神宮(角)|1983年}}。
</gallery>

主な職は次の通り。
* '''大宮司''' (だいぐうじ)
:: 神宮の最高責任者{{Sfn|東|2000年|p=205}}。
:: 古くは中央の[[大中臣氏]]から補任されていたが、[[長元]]年間([[1028年]]-[[1037年]])から大中臣氏と中臣氏(中臣鹿島氏)が交互に務めるようになり、[[建長]]年間([[1249年]]-[[1256年]])以後は中臣氏が世襲した(近世に塙氏を称する){{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}。
* '''大禰宜''' (おおねぎ)
:: 庶務をすべ、神体奉戴や献饌も行なった{{Sfn|東|2000年|p=205}}。
:: 貞観8年(866年)には禰宜が確認され、承安年間([[1171年]]-[[1175年]])を大禰宜の初めとして、以後中臣氏が世襲した(近世に羽生氏を称する){{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}。なお、一時期に鹿島氏(常陸大掾氏)も担っていた{{Sfn|鹿島氏|1983年}}。
:: 中世以後は大宮司よりも多くの所領を有しており、神宮で最も実力を持っていた{{Sfn|社領|1983年}}。
* '''物忌''' (ものいみ)
:: 本殿内陣奉仕役{{Sfn|東|2000年|p=205}}。
:: 古くは神職の未婚の娘から卜定され、中世末からは当禰宜(千富禰宜・物忌代とも)の女が選ばれた{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。物忌の父・当禰宜は本来中臣氏であったが、中世末に[[千葉氏]]流の東氏が継ぎ、物忌の後見役として重きをなした{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。
:: 初代物忌は[[神功皇后]]の娘・普雷女(あまくらめ)と伝えられ{{Sfn|鹿島|2004年|p=94}}、終身職であったため、明治の廃絶までに27人を数えるのみという<ref>跡宮境内説明板。</ref>。物忌が住した物忌館(ものいみやかた)は、境外摂社・跡宮の傍とされる{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。

=== 社領 ===
『常陸国風土記』における神戸の記載は、次の通り{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。
* [[孝徳天皇]]以前、8戸
* 孝徳天皇年間([[645年]]-[[654年]])、50戸増(計58戸)
* [[天武天皇]]年間([[673年]]-[[686年]])、9戸増(計67戸)
* [[持統天皇]]4年([[690年]])、2戸減(計65戸) - [[庚寅年籍]]の影響と見られる{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。

また[[奈良時代]]の文書には、次の記載がある{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}。
* [[天平宝字]]2年([[758年]])、神奴218人を神戸とする<ref group="原">『続日本紀』天平宝字2年9月8日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。
* [[天平神護]]元年([[765年]])、鹿島社から神戸20戸を春日社に寄せる<ref name="新抄" group="原"/>。
* [[神護景雲]]元年([[767年]])、男80人・女75人の神賎を良民に編入<ref group="原">『続日本紀』神護景雲元年4月21日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。
* [[宝亀]]4年([[773年]])、神賎105人と良民の婚姻を禁じる<ref group="原">『続日本紀』宝亀4年6月2日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。
* 宝亀11年([[780年]])、脱漏した神賎774人の神戸編入を認め、神司が良民を神賎とすることを禁じる<ref group="原">『続日本紀』宝亀11年12月22日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。
* [[延暦]]5年([[786年]])、神戸105戸・神賎戸50烟・課685人・不課2,676人<ref name="新抄" group="原">『新抄格勅符抄』(『茨城県の地名』鹿島神宮項参照)。</ref>。

[[平安時代]]、藤氏長者は職封より10戸の寄進を例としたという{{Sfn|社領|1983年}}。平安時代末期以降は、各神官がそれに付属する所領と私領を世襲した{{Sfn|社領|1983年}}。

中世には神領侵犯が度々行なわれ、社殿造営費用にも欠く状態であったという{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=389}}。のちに豊臣秀吉により侵犯は停止され、[[文禄]]4年([[1595年]])の[[検地]]で社領は405石と定められた{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=389}}。

徳川家康からは[[慶長]]7年([[1602年]])に1,500石が加増され、社領は2,000石に及んだ(うち大宮司100石、当禰宜300石、大禰宜・大祝各40石){{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=389}}{{Sfn|社領|1983年}}。

=== 社殿造営 ===
社殿の造営について、『常陸国風土記』では[[天智天皇]]年間([[668年]]-[[672年]])にすでに造営のことが見える{{Sfn|鹿島神宮(角)|1983年}}。

『鹿島長暦』によれば[[大宝 (日本)|大宝]]元年([[701年]])に正殿・仮殿が造営されたといい、この時から20年に1度の式年造営が定められたという{{Sfn|鹿島神宮(角)|1983年}}。この「20年に1度」という式年造営の事実は、『日本後紀』[[弘仁]]3年([[812年]])の記事(社殿全ての造替を正殿のみに変更)<ref group="原">『日本後紀』弘仁3年6月5日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>や『日本三代実録』貞観8年([[866年]])の記事<ref name="貞観8" group="原"/>、『延喜式』臨時祭<ref group="原">『延喜式』(3 臨時祭)神社修理条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>にも見える{{Sfn|鹿島神宮(角)|1983年}}。その用材は、材木5万余枝、工夫16万9千余人、料稲18万2千余束を要したという<ref group="原">『日本三代実録』貞観8年正月20日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>。

『鹿島町史』によれば、平安時代から戦国時代までの造営の年次は、貞観8年(866年)、[[天慶]]3年([[940年]])、[[長和]]4年([[1015年]])、[[天永]]2年([[1111年]])、[[承安 (日本)|承安]]3年([[1173年]])、[[建暦]]元年([[1211年]])、[[弘長]]3年([[1263年]])、[[弘安]]5年([[1282年]])、[[正応]]2年([[1289年]])、[[正和]]4年([[1315年]])、[[元亨]]3年([[1323年]])、[[応永]]25年([[1418年]])、[[永享]]7年([[1435年]])、[[大永]]2年([[1522年]])、[[永禄]]2年([[1559年]])に確認される{{Sfn|鹿島神宮(角)|1983年}}。

[[慶長]]10年([[1605年]])には[[徳川家康]]により本殿、[[元和]]5年([[1619年]])には徳川秀忠により社殿一式、[[寛永]]11年([[1634年]])には[[徳川頼房]]により楼門等が造営された{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。


== 境内 ==
== 境内 ==
[[File:鹿島神宮 境内図.JPG|thumb|250px|right|境内図(説明板より)]]
神宮の鎮座する地は「'''三笠山'''(みかさやま)」と称される{{Sfn|鹿島|2004年|p=80}}。神宮は『常陸国風土記』の記載以来この地に鎮座し続け、時代ごとに大きな役割を担ってきた。そのため、境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして国の史跡に指定されている(摂社・坂戸神社境内、摂社・沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)<ref name="史跡"/>。

境内の広さは約70ヘクタール<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>にも及び、多くの草木が生育している。この樹叢には神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常緑照葉樹林であるとして県の天然記念物に指定されている<ref name="樹叢"/>。

=== 社殿 ===
=== 社殿 ===
[[File:Kashima-jingu haiden-2.JPG|thumb|250px|right|拝殿(重要文化財)]]
[[File:Kashima-jingu haiden-2.JPG|thumb|200px|right|拝殿(重要文化財)]]
[[File:Kashima-jingu karidono.JPG|thumb|200px|right|仮殿(重要文化財)]]
* 主要社殿 - 本殿・幣殿・拝殿が石の間で接続された[[権現造]]
[[File:Kashima-jingu roumon.JPG|thumb|200px|right|楼門(重要文化財)]]
:* 本殿
主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも[[江戸時代]]初期の[[元和]]5年([[1619年]])、[[江戸幕府]]第2代[[徳川秀忠]]の命による造営のもので{{Sfn|鹿島|2004年|p=21}}、幕府棟梁・鈴木長次の手による<ref name="本殿"/>。幣殿は拝殿の後方に建てられ、本殿と幣殿の間を「石の間」と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、一種の複合社殿の形式をとっている<ref name="本殿"/>。楼門を入ってからも参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続するという、特殊な位置関係にある{{Sfn|東|2000年|p=26}}。そのため社殿は北面しており、それは「北方の蝦夷に睨みを利かせるため」という伝えがある。なお、古くは社殿は20年ごとに造営が行なわれていたという。
::: 元和4年(1618年)、徳川秀忠による造営。朱塗りに極彩色の鮮やかな意匠。国の[[重要文化財]]。
::: 北面しており、北方の蝦夷に睨みを利かせるためと伝えられる。古くは20年ごとに[[式年遷宮]]が行われていた。
:* 幣殿
::: 本殿同様、徳川秀忠による造営。国の重要文化財。
:* 拝殿
::: 本殿同様、徳川秀忠による造営。本殿とは対照的に白木作りの簡素な意匠。国の重要文化財。
::: 東西に伸びる参道に対して本殿は北面しているという関係上、参道の右横に拝殿があるという構造になっている。
:* 石の間
::: 本殿同様、徳川秀忠による造営。国の重要文化財。
* 仮殿
:: 本殿修理の際などに一時的に祭神を遷座する社殿。本殿同様、徳川秀忠による造営。国の重要文化財。
* 楼門
:: [[寛永]]19年([[1642年]])、初代[[水戸藩]]主[[徳川頼房]]による造営。総朱漆塗りの2階建ての楼門。扁額は[[東郷平八郎]]の書。日本三大楼門の1つ。国の重要文化財。


'''本殿'''は三間社[[流造]]、向拝一間で[[檜皮葺]]。漆塗りで柱頭・組物等に極彩色が施されている<ref name="本殿"/>。元和5年(1619年)の造営までは、現在の境内摂社・奥宮の社殿が本殿として使用されていた。現在の本殿は北を向いているが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあり、参拝者とは相対せず東を向いているという{{Sfn|東|2000年|p=27}}。この構造に関しては、[[出雲大社]]との類似が指摘される{{Sfn|東|2000年|p=27}}。『鹿島宮社例伝記』によると、本殿は古くは普段開かれることのない「不開御殿(あかずのごてん)」と称され、毎年1月7日にのみ物忌によって戸が開かれ幣を交換する習わしであったという{{Sfn|鹿島物忌|1983年}}。また本殿の背後には杉の巨木が立っており、樹高43メートル・根回り12メートルで樹齢約1,000年といわれ[[神木]]とされている<ref name="樹叢"/>。そのさらに後方、玉垣を介した位置には「鏡石(かがみいし)」と呼ばれる直径80センチメートルほどの石があり、神宮創祀の地とも伝えられている{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=386}}。
<gallery widths="150px" heights="100px">

File:Kashima-jingu karidono.JPG|仮殿(重要文化財)
'''石の間'''は桁行二間、梁間一間、一重、[[切妻造]]、檜皮葺で、前面は幣殿に接続する<ref name="国指定">[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index.asp 国指定文化財等データベース]。</ref>。本殿同様、漆塗りで極彩色が施されている<ref name="本殿"/>。'''幣殿'''は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は拝殿に接続する<ref name="国指定"/>。'''拝殿'''は桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺<ref name="国指定"/>。幣殿・拝殿は、本殿・石の間と異なり漆や極彩色がなく、白木のままの簡素な意匠である<ref name="本殿"/>。これら本殿・石の間・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。
File:Kashima-jingu roumon.JPG|楼門(重要文化財)

</gallery>
拝殿の右前方には南面して'''仮殿'''が立っている。仮殿は「権殿」ともいい、本殿造営の際に一時的に神霊を安置するために使用される<ref name="仮殿"/>。元和5年(1619年)に現在の本殿が造営される際、本殿同様に幕府棟梁・鈴木長次の手によって建てられた<ref name="仮殿"/>。構造は桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺である<ref name="国指定"/>。仮殿であるため比較的簡素な作りであるが、一部には漆彩色が施されている<ref name="仮殿"/>。なお、造営当初は拝殿の左前方にあって西面していたというが、再三位置を変えた末、昭和26年([[1951年]])に現在の位置に定まった<ref name="仮殿"/>。この仮殿は国の重要文化財に指定されている。

境内の入り口には西面して'''楼門'''が立ち、「日本三大楼門」の1つに数えられる<ref name="三大楼門" group="注">「日本三大楼門」は、当宮のほか[[阿蘇神社]]([[熊本県]][[阿蘇市]])、[[筥崎宮]]([[福岡県]][[福岡市]])の楼門とされる。</ref>。[[寛永]]11年([[1634年]])、初代[[水戸藩|水戸藩主]]・[[徳川頼房]]の命による造営のもので、棟梁は越前の大工・坂上吉正<ref name="楼門"/>。構造は三間一戸(扉口は省略)、入母屋造の2階建てで、現在は銅板葺であるが元は檜皮葺という<ref name="楼門"/><ref name="国指定"/>。総朱漆塗りであり、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという控え目な意匠である<ref name="楼門"/>。扁額は[[東郷平八郎]]の書。楼門左右の回廊も同時の作であるが、のちに札所が増設された<ref name="楼門"/>。楼門は国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市の文化財に指定されている。


=== 要石 ===
=== 要石 ===
[[File:Kashima-jingu kanameishi-1.JPG|thumb|250px|right|[[要石]]]]
[[File:Kashima-jingu kanameishi-1.JPG|thumb|200px|right|[[要石]]]]
'''[[要石]]'''(かなめいし)は、境内東方に位置する霊石。地上では直径30センチメートルほどで形状は凹型。なお、[[香取神宮]]には凸型の要石がある。
かつて、地震は地中に棲む[[大鯰]](おおなまず)が起こすものと考えられていた。その大鯰を押さえつける「[[要石]](かなめいし)」が、鎮護する地震の守り神として現在にも伝わっている。


要石は大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。『水戸黄門仁徳録』によれば[[水戸藩]]主[[徳川光圀]]が7日7晩要石の周りを掘らせたが、根元には届かなかった。形状は凹型。なお、香取神宮には凸型の要石がある
かつて、地震は地中に棲む[[大鯰]](おおなまず)が起こすものと考えられていた。要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として現在にも伝わっている。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。『水戸黄門仁徳録』によれば水戸藩主[[徳川光圀]]が7日7晩要石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったという


鹿島神宮と地震に関する俗信の広まりはゆるげどもよもや抜けじの要石鹿島の神のあらん限りは鹿島の神さえいれば、要石は緩むことはあっても抜けてしまって大地震が起こることはないだろう)」という地震歌と関係している。この歌は、中世から江戸期に活動した鹿島事触が鹿島神宮の霊験として地震除けを宣伝する際に用い、各地に広めたといわれている。過去において[[神無月]]に起きた大地震のつかは、鹿島神が[[出雲]]に出向いて留守だったために起きたと伝承されているのがある<ref>澁澤龍彦 『幻想博物学』(「黄金時代」所収、 薔薇十字社、1971年7月)。</ref>。
鹿島神宮と地震に関する俗信の広まり、以下の地震歌が知られる。
{{Cquote|ゆるげども よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらん限りは<br/>''鹿島の神さえいれば、要石は緩むことはあっても抜けてしまって大地震が起こることはないだろう''|20px|}}
この歌は、中世から江戸期に活動した鹿島事触(かしまのことぶれ)が神宮の霊験として地震除けを宣伝する際に用い、各地に広めたといわれている。過去に[[神無月]]に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が[[出雲]]に出向いて留守ために起きたという伝承もある<ref>澁澤龍彦『幻想博物学』(「黄金時代」所収、薔薇十字社、1971年7月)。</ref>。この要石は「[[#鹿島七不思議|鹿島七不思議]]」の1つに数えられている{{Sfn|東|2000年|p=191}}


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=== 名跡 ===
=== 御手洗池 ===
[[File:Kashima-jingu mitarai.JPG|thumb|200px|right|御手洗池]]
* 御手洗池
'''御手洗池'''(みたらしいけ)は、神宮境内の東方に位置する神池。古くより潔斎([[禊]])の地である。古くは西の一の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられており{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=386}}、「御手洗」の池名もそれに由来するとされている{{Sfn|東|2000年|p=191}}。
:: 昔はここで[[禊]]をして参拝したと伝えられる。水は清く澄み、旱魃にも絶えたことがないと伝えられる。


池には南崖からの湧水が流れこんでおり、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる{{Sfn|東|2000年|p=21}}。この池に大人が入っても子供が入ってもその水深は乳を越えないといわれ、「[[#鹿島七不思議|鹿島七不思議]]」の1つに数えられている{{Sfn|東|2000年|p=191}}。
* 二郎杉
* さざれ石
* 鏡石
* 親鸞上人旧跡
* あづまを桜碑
* 芭蕉句碑

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File:鹿島神宮 境内図.JPG|境内図
File:Kashima-jingu shasou.JPG|境内の社叢<br/>樹叢は県指定天然記念物。
File:Kashima-jingu mitarai.JPG|御手洗
File:Kashima-jingu tourou.JPG|石造燈籠(県指定文化財)
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=== 鹿園 ===
=== 鹿園 ===
[[ファイル:Kashima-jingu Sika Deer field.jpg|thumb|200px|right|鹿園]]
[[ファイル:Kashima-jingu Sika Deer field.jpg|thumb|200px|right|鹿園]]
境内には鹿園があり、[[神使|神の使い]]して親しまている30数頭の[[ニホンジカ|日本鹿]]が飼れている。
境内には鹿園があり、[[神使]](神の使いれる30数頭の[[ニホンジカ|日本鹿]]が飼育されている。


鹿園説明書き等よると、鹿神である天迦久神(あめのかくのかみ)[[天照神]]の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し鹿島神宮では鹿使いとされている。また、[[藤原氏]]る[[春日大社]]の創建に際して、[[神護景雲]]元年([[767年]])に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて[[奈良]]まで行ったとされている。
『古事記』では、[[天照大神]]命をタケミカヅチ伝えた天迦久神(あめのかくのかみ)としている。この「カク」は「鹿児(かこ)」すなわち鹿に由来する神とされる<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E8%BF%A6%E4%B9%85%E7%A5%9E 『デジタル版 日本人名辞典+Plus』天迦久](コトバンク<朝日新聞社>より)。</ref>ことに基づき、神宮では鹿使いとという<ref name="鹿園">鹿園説明板。</ref>。また、神宮の社名が「香島」から「鹿島」変化したことについても、鹿を神使としたことに由来すともいわれる<ref name="鹿園"/>。[[春日大社]]の創建に際して、[[神護景雲]]元年([[767年]])に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており<ref name="鹿園"/>、奈良の鹿も当宮の発祥とされている。


鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けている<ref name="鹿園"/>。なお、[[鹿島アントラーズ]]のチーム名は、英語で鹿の枝角を「アントラー(antler)」 と言うことに由来する。
当神宮の社名は古くは「香島」と書かれたが、[[養老]]7年([[723年]])頃から現社名の「鹿島」で書くようになった。これは鹿が神使とされたことに由来するとされる。


== 参道 ==
鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けている。以前は昼間に鹿園そばの売店で鹿の餌を販売しており園内の鹿に与えることができたが、現在は中止されている。
神宮には一の鳥居が東西に2基存在する。


1基は神宮西方、[[北浦]]湖畔の鹿嶋市大船津({{ウィキ座標|35|57|40.01|N|140|36|41.31|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=一の鳥居(西)}})にあり、[[霞ヶ浦|鰐川]]の中に立つ。御船祭の際にはここから御座船が出発する。古くから大船津は神宮参拝者の船着場であったため<ref>『茨城県の地名』(平凡社)大船津村項。</ref>、神宮の門前町も西方に広がっている。なお、中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津東西社から舟で御手洗池まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられている{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=386}}。
英語で鹿の枝角をアントラー (antler) と言い、[[鹿島アントラーズ]]のチーム名の由来ともなっている。


もう一方の一の鳥居は神宮東方、[[太平洋]]に面する明石の浜({{ウィキ座標|35|59|43.34|N|140|39|22.91|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=一の鳥居(東)}})に立つ。伝承では、武甕槌・経津主両神はこの明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという{{Sfn|鹿島|2004年|p=53-54}}。
=== 参道 ===
参道は[[北浦]]から東方へ伸びる。北浦湖畔の鹿嶋市大船津には一の鳥居があり({{ウィキ座標|35|57|40.01|N|140|36|41.31|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=一の鳥居}})、御船祭の際にはここから御座船が出発する。


== 摂末社 ==
== 摂末社 ==
摂末社は、摂社7社(境内3社、境外4社)・末社15社(境内8社、境外7社)。

=== 摂社 ===
=== 摂社 ===
{{座標一覧|節=摂社}}
[[File:Kashima-jingu Okumiya.JPG|thumb|200px|right|奥宮(重要文化財)]]
; 境内社
; 境内社
* 奥宮<ref>摂末社は『新鹿島神宮誌』による。</ref>
* '''奥宮''' (おくのみや)<ref>摂末社は『新鹿島神宮誌』第3章(pp. 52-68)による。</ref>
** 祭神:武甕槌大神[[荒魂]]
:* 祭神:武甕槌大神[[荒魂]]
:: 本宮社殿からさらに参道を進んだ先に、本宮本殿同様に北面して鎮座する({{ウィキ座標|35|58|12.57|N|140|38|06.79|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境内摂社:奥宮}})。[[仁治]]2年([[1241年]])の火災で「不開御殿奥御殿等は焼かず」という記録があり<ref group="原">『吾妻鏡』仁治2年2月12日条(『新鹿島神宮誌』p. 52参照)。</ref>、この「不開御殿(あかずのごてん)」は本殿、「奥御殿」は奥宮とみて鎌倉時代にはすでに奥宮が存在したと見られている{{Sfn|鹿島|2004年|p=52}}{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。
:: 社殿は、[[慶長]]10年([[1605年]])[[徳川家康]]による[[関ヶ原の戦い]]戦勝時の御礼としての奉納。当初は本殿として使われたが、元和5年([[1619年]])の造替により奥宮として使用。総白木作りの簡素な意匠。国の重要文化財。
:: 社殿は、江戸時代初期の[[慶長]]10年([[1605年]])[[徳川家康]]により[[関ヶ原の戦い|関ヶ原]]戦勝時の御礼として奉納された本宮旧本殿である<ref name="奥宮"/>。元和5年(1619年)の造替により現在地に移され奥宮本殿とされた<ref name="奥宮"/>。構造は三間社流造で一間の向拝を付するが、のちの修理の際に現本殿に倣って改造が施されたと見られている<ref name="奥宮"/>。総白木作りの簡素な意匠であるが、彫刻には桃山時代の大胆な気風も見える<ref name="奥宮"/>。境内の社殿では最も古く、国の重要文化財に指定されている<ref name="奥宮"/>。


[[File:Kashima-jingu Takafusasha.JPG|thumb|170px|right|高房神社]]
* 高房神社
* '''高房神社''' (たかふさじんじゃ)
** 祭神:[[天羽槌雄神|建葉槌神]]
** 祭神:[[天羽槌雄神|建葉槌神]]
:: 殿所在。祭神は[[静神社]](常陸国二宮の主祭神。武甕槌大神による[[天津甕星|天香香背男]]の追討時に活躍したとされる。本殿に詣でる前に参拝するのが慣わしとされる。
:: 本宮の社殿正面鎮座する({{ウィキ座標|35|58|09.12|N|140|37|53.29|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境内摂社:高房神社}})。本殿に詣でる前に参拝するのが古例とされる{{Sfn|鹿島|2004年|p=57}}
:: 祭神は、『日本書紀』によれば[[天津甕星|天香香背男]]討伐で武甕槌神によって派遣され活躍したという。[[静神社]](常陸国二宮)では主祭神として祀られている。
:: 社殿は元和5年(1619年)の本殿造替とともに造替されたと伝えられる{{Sfn|鹿島|2004年|p=57}}。鎮座位置や祭神の関係から、摂社のうちでもかなり古いものと考えられている{{Sfn|鹿島|2004年|p=58}}。


[[File:Kashima-jingu Mikasa-jinja.JPG|thumb|170px|right|三笠神社]]
* 三笠神社
* '''三笠神社''' (みかさじんじゃ)
** 祭神:三笠神
:* 祭神:三笠神
:: 本殿左に所在。
:: 本殿の東脇に鎮座する({{ウィキ座標|35|58|07.43|N|140|37|54.52|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境内摂社:三笠神社}})。当社の由来は祭神も含めて古来定かでない。神宮側では、当地を「三笠山」と称することから地主神と推察している{{Sfn|鹿島|2004年|p=59}}。この「三笠山」の呼称に関しては、奈良の[[春日山 (奈良県)|三笠山]](御蓋山)との関係性が指摘される{{Sfn|鹿島|2004年|p=59}}。

<gallery widths="150px" heights="100px">
File:Kashima-jingu Okumiya.JPG|奥宮(重要文化財)
File:Kashima-jingu Takafusasha.JPG|高房神社
File:Kashima-jingu Mikasa-jinja.JPG|三笠神社
</gallery>


; 境外社
; 境外社
[[File:Ato-no-miya (Kashima-jingu sessha) -1.JPG|thumb|170px|right|跡宮(鹿嶋市神野)]]
* 跡宮 (あとのみや)
* '''跡宮''' (あとのみや)
** 鎮座地:鹿嶋市神野({{ウィキ座標|35|57|25.33|N|140|37|24.88|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外摂社:跡宮}})
:* 鎮座地:鹿嶋市神野(かの)({{ウィキ座標|35|57|25.33|N|140|37|24.88|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外摂社:跡宮}})
** 祭神:武甕槌大神
:* 祭神:武甕槌大神荒魂
:: 香島(鹿島)天大神の最初の降臨地とされる。
:: 「荒祭宮」とも。鹿島神の最初の降臨地と伝えられ、奈良春日への勧請の際に武甕槌神はここから出発したという{{Sfn|鹿島|2004年|p=59}}。かつて当社の傍らには、神宮の祭祀を司る女性斎主(物忌)が住む「物忌館」があった{{Sfn|鹿島|2004年|p=59}}{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。


[[File:Sakato-jinja (Kashima-jingu sessha) -1.JPG|thumb|170px|right|坂戸神社(鹿嶋市山之上)]]
* 坂戸神社 (さかと)
* '''坂戸神社''' (さかとじんじゃ)
[[File:Kashima-jingu masshagun and youhaijo.JPG|thumb|220px|right|境内の坂戸神社・沼尾神社遥拝所<br/>中央。左右には末社4社。]]
** 鎮座地:鹿嶋市山之上({{ウィキ座標|35|59|12.87|N|140|37|32.46|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外摂社:坂戸神社}})
:* 鎮座地:鹿嶋市山之上({{ウィキ座標|35|59|12.87|N|140|37|32.46|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外摂社:坂戸神社}})
** 祭神:[[天児屋命]]
:* 祭神:[[天児屋命]]
:: 『常陸国風土記』によれば、古く現神と当社、沼尾神社の三をもって「香島(鹿島)天大神」と総称された。祭神は[[中臣氏]]・[[藤原氏]]氏神。境内神宮境内ともに国の史跡に指定。神宮境内には坂戸神社の遙拝所る。
:: 『常陸国風土記』には沼尾神社と当社の三をもって「香島天大神」と総称されたとあり、風土記成立時養老5年(721年)まで遡ることができる。
:: 祭神は『常陸国風土記』に記載のある大中臣神聞勝命の祖神で、[[中臣氏]]・[[藤原氏]]の氏神である{{Sfn|鹿島|2004年|p=54-55}}。
:: 本殿は平入り、拝殿は妻入り{{Sfn|鹿島|2004年|p=55}}。境内は国の史跡に指定されている(本宮境内に包括)<ref name="史跡"/>。なお、本宮境内には当社の遙拝所がある。


[[File:Numao-jinja (Kashima-jingu sessha) -2.JPG|thumb|170px|right|沼尾神社(鹿嶋市沼尾)]]
* 沼尾神社
* '''沼尾神社''' (ぬまおじんじゃ)
** 鎮座地:鹿嶋市沼尾({{ウィキ座標|36|00|03.55|N|140|37|25.17|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外摂社:沼尾神社}})
:* 鎮座地:鹿嶋市沼尾({{ウィキ座標|36|00|03.55|N|140|37|25.17|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外摂社:沼尾神社}})
** 祭神:[[経津主神]]
:* 祭神:[[経津主神]]
:: 坂戸神社同様、古くは「香島(鹿島)天大神」の一所。祭神は[[香取神宮]]の主祭神で、武甕槌大神とともに東国を開いたとされる。境内は神宮境内とともに国の史跡に指定。神宮境内には沼尾神社の遙拝所がある。
:: 『常陸国風土記』には本宮・坂戸神社と当社の三社をもって「香島天大神」と総称されたとあり、風土記成立時の養老5年(721年)までは遡ることができる。
:: 祭神は[[香取神宮]]の主祭神で、武甕槌神とともに東国を開いたとされる。伝承では、武甕槌・経津主両神は明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという{{Sfn|鹿島|2004年|p=53-54}}。
:: 本殿は元和5年(1619年)の造替で奥宮から移されたものであったが{{Sfn|鹿島|2004年|p=136}}、現在のものは昭和28年(1953年)の改築によるもので、拝殿は妻入り{{Sfn|鹿島|2004年|p=54}}。境内後方には風土記にある「沼尾池」の面影が残っている(江戸期にはすでに枯渇{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=325}}){{Sfn|鹿島|2004年|p=54}}。なお、この沼尾池並びに沼尾神社が鹿島神の本源とする説もある{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}([[#考証|後述]])。当社境内は国の史跡に指定されている(本宮境内に包括)<ref name="史跡"/>。なお、本宮境内には当社の遙拝所がある。


[[File:Ikisu-jinja haiden.JPG|thumb|170px|right|[[息栖神社]]([[神栖市]]息栖)]]
* [[息栖神社]]
* '''[[息栖神社]]''' (いきすじんじゃ)
** 鎮座地:[[神栖市]]息栖({{ウィキ座標|35|53|8.94|N|140|37|30.48|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外摂社:息栖神社}})
** 鎮座地:[[神栖市]]息栖({{ウィキ座標|35|53|8.94|N|140|37|30.48|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外摂社:息栖神社}})
** 祭神:[[岐の神|岐神]]、[[鳥之石楠船神|天鳥船命]]、[[住吉三神]]
** 祭神:[[岐の神|岐神]]、[[鳥之石楠船神|天鳥船命]]、[[住吉三神]]
:: [[国史見在社]]。[[東国三社]]の一社。摂社であるが、独立した神社で旧社格は[[県社]]{{Sfn|鹿島|2004年|p=56}}。
:: 東国三社の一社。岐神は東国開拓の際に武甕槌大神を出雲から東国へ、天鳥船神は国譲りの際に武甕槌大神を出雲へそれぞれ先導した神である。
:: 岐神は東国開拓の際に武甕槌大神を出雲から東国へ、天鳥船神は国譲りの際に武甕槌大神を出雲へそれぞれ先導した神とされる{{Sfn|鹿島|2004年|p=56}}。「息栖」は「沖洲」の転訛、すなわち香取海に浮かぶ沖洲に祀られていたと考えられている<ref>肥後和男「息栖神社」(『国史大辞典』吉川弘文館)。</ref>(詳細は「[[息栖神社]]」参照)。

<gallery widths="150px" heights="100px">
File:Ato-no-miya (Kashima-jingu sessha) -1.JPG|跡宮
File:Sakato-jinja (Kashima-jingu sessha) -1.JPG|坂戸神社
File:Numao-jinja (Kashima-jingu sessha) -2.JPG|沼尾神社
File:Ikisu jinja sandou.JPG|[[息栖神社]]
</gallery>


=== 末社 ===
=== 末社 ===
{{座標一覧|節=末社}}
<table width="90%"><tr><td valign=top width="50%">
[[File:Kashima-jingu masshagun and youhaijo.JPG|thumb|170px|right|境内の末社群<br/><small>中央に坂戸・沼尾神社遥拝所。左右に末社4社。</small>]]
[[File:Inari-sha, Kashima-jingū 01.jpg|thumb|170px|right|稲荷社]]
; 境内社
; 境内社
* 須賀社 (すか-) - 祭神:[[スサノオ|素戔嗚命]]
* 須賀社 - 祭神:[[スサノオ|素戔嗚命]]
* 津東西社 - 祭神:[[淤加美神|高龗神]]・[[淤加美神|闇龗神]]
* 津東西社 - 祭神:[[淤加美神|高龗神]]・[[淤加美神|闇龗神]]
:: 古くは境外社で、鹿嶋市大船津({{ウィキ座標|35|57|54.56|N|140|37|07.12|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:津東西社跡}})に津東西社跡の石碑が残る。
:: 古くは境外社で、鹿嶋市大船津({{ウィキ座標|35|57|54.56|N|140|37|07.12|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:津東西社跡}})に津東西社跡の石碑が残る。
* 祝詞社 (のりと-) - 祭神:[[フトダマ|太玉命]]
* 祝詞社 - 祭神:[[フトダマ|太玉命]]
* 熊野社 - 祭神:[[イザナギ|伊弉諾命]]・事解男命・早玉男命
* 熊野社 - 祭神:[[イザナギ|伊弉諾命]]・事解男命・早玉男命
* 稲荷社 - 祭神:[[保食神]]
* 稲荷社 - 祭神:[[保食神]]
* 熱田社 - 祭神:[[スサノオ|素戔嗚命]]・[[クシナダヒメ|稲田姫命]]
* 熱田社 - 祭神:[[スサノオ|素戔嗚命]]・[[クシナダヒメ|稲田姫命]]
* 御厨社 (みくりや-) - 祭神:御食津神
* 御厨社 - 祭神:御食津神
* 大黒社 - 祭神:[[大国主|大国主命]]
* 大黒社 - 祭神:[[大国主|大国主命]]


</td><td valign=top>
; 境外社
; 境外社
* 年社 (鹿嶋市宮下{{ウィキ座標|35|58|17.02|N|140|37|41.10|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:年社}})) - 祭神:[[年神|大年神]]
* 年社 (鹿嶋市宮下{{ウィキ座標|35|58|17.02|N|140|37|41.10|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:年社}} - 祭神:[[年神|大年神]]
* 潮社 (鹿嶋市下津{{ウィキ座標|35|58|24.72|N|140|38|43.76|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:潮社}})) - 祭神:[[高倉下|高倉下神]]
* 潮社 (鹿嶋市下津{{ウィキ座標|35|58|24.72|N|140|38|43.76|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:潮社}} - 祭神:[[高倉下|高倉下神]]
* 阿津社 (鹿嶋市鉢形{{ウィキ座標|35|57|55.33|N|140|38|52.74|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:阿津社}})) - 祭神:[[イクツヒコネ|活津彦根]]
* 阿津社 (鹿嶋市鉢形{{ウィキ座標|35|57|55.33|N|140|38|52.74|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:阿津社}} - 祭神:[[イクツヒコネ|活津彦根]]
* 国主社 (くぬし-、鹿嶋市宮中{{ウィキ座標|35|57|45.20|N|140|37|36.60|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:国主社}})) - 祭神:[[大国主|大国主命]]
* 国主社 (鹿嶋市宮中{{ウィキ座標|35|57|45.20|N|140|37|36.60|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:国主社}} - 祭神:[[大国主|大国主命]]
* 海辺社 (うべ-、鹿嶋市神野{{ウィキ座標|35|57|43.54|N|140|37|28.37|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:海辺社}})) - 祭神:[[ヒルコ|蛭子命]]
* 海辺社 (鹿嶋市神野{{ウィキ座標|35|57|43.54|N|140|37|28.37|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:海辺社}} - 祭神:[[ヒルコ|蛭子命]]
* 押手社 (鹿嶋市城山{{ウィキ座標|35|57|53.09|N|140|37|22.93|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:押手社}})) - 祭神:押手神
* 押手社 (鹿嶋市城山{{ウィキ座標|35|57|53.09|N|140|37|22.93|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:押手社}} - 祭神:押手神
* 鷲宮 (鹿嶋市神野{{ウィキ座標|35|57|22.42|N|140|37|27.48|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:鷲宮}})) - 祭神:[[天日鷲神|天日鷲命]]
* 鷲宮 (鹿嶋市神野{{ウィキ座標|35|57|22.42|N|140|37|27.48|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=境外末社:鷲宮}} - 祭神:[[天日鷲神|天日鷲命]]

</td></tr></table>

<gallery>
File:Inari-sha, Kashima-jingū 01.jpg|稲荷社
</gallery>


== 祭事 ==
== 祭事 ==
=== 式年祭 ===
=== 式年祭 ===
式年大祭として、'''御船祭'''(おふなまつり)が12年に1度の[[午年]]に行なわれる。鹿島神宮祭神と[[香取神宮]]祭神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典であり、水上の御船祭としては日本最大の規模を誇る。
* '''式年大祭 御船祭''' (おふなまつり)
: 12年に1度の午年に行われる。鹿島神宮祭神の武甕槌大神と[[香取神宮]]祭神の[[経津主神|経津主大神]]が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典であり、水上の御船祭としては日本最大の規模を誇る。


: [[応神天皇]]の時代に祭典化されたと伝えられている。[[戦国時代 (日本)|戦国]]の混乱により[[室町時代]]に大祭としては一度途絶えたが、[[明治]]3年([[1870年]])に数隻の船によって御船祭は再興され、明治20年([[1887年]])に午年毎の式年大祭として定められた。
御船祭は[[応神天皇]]の時代に祭典化されたと伝えられる。[[戦国時代 (日本)|戦国]]の混乱により[[室町時代]]に大祭としては一度途絶えたが、[[明治]]3年([[1870年]])に数隻の船によって御船祭は再興され、明治20年([[1887年]])に午年毎の式年大祭として定められた。


: 現代の御船祭の概要以下の通り。
現代の御船祭の流れの通り。
:* まず9月1日午前、[[天皇]]から遣わされる[[勅使]]の参向を仰いで例大祭われる
* 9月1日午前、[[天皇]]から遣わされる[[勅使]]の参向を仰いで例大祭執行。
;* 2日早朝鹿島神宮を進発した神輿は陸路を[[霞ヶ浦|北浦]]湖岸の大船津に到着。大船津で神輿龍頭の飾りなどを施された御座船(ござぶね)に載せられ、船団を組む数十隻(2002年においては約90隻)の供奉船とともに水上渡御し[[香取市]]加藤洲に至る。
* 2日早朝鹿島神宮を進発した神輿は陸路を[[霞ヶ浦|北浦]]湖岸の大船津に到着。大船津で神輿龍頭の飾りを施た御座船(ござぶね)に載せられ、船団を組む数十隻(2002年においては約90隻)の供奉船とともに水上渡御し[[香取市]]加藤洲に至る。
:* 加藤洲では香取神宮の御迎祭を受け雅やかな祭礼のハイライトを迎える。
: 加藤洲では香取神宮の御迎祭を受け雅やかな祭礼のハイライトを迎える。その後、水路を還幸して行宮に戻る。
:* その後、水路を御還行して行宮に戻り、3日午後、行宮から本殿へと還幸する
* 3日午後、行宮から本殿へと還幸。


=== 年間祭事 ===
=== 年間祭事 ===
236行目: 302行目:
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 毎月
* 毎月
** 祖霊社月次祭(毎月1日10時
** 祖霊社月次祭 (毎月1日)
* 1月
<table width="90%"><tr><td valign=top width="50%">
** 歳旦祭 ([[1月1日]]) - 中祭
*1月
**歳旦祭([[1月1日]]6時
** [[元始]] ([[1月3日]]) - 中祭
**[[元始]]([[1月3日]]10時
** 白馬 ([[1月7日]]) - 中祭
* 2月
**白馬祭([[1月7日]]18時)
** 節分祭 ([[節分]]の日)
*2月
*** [[伊勢ノ海部屋]][[力士]]や[[鹿島アントラーズ]]の選手らも参加する'''豆まき'''が行なわれる。
**節分祭([[節分]]の日18時)
** 紀元祭 ([[2月11日]]) - 中祭
***[[伊勢ノ海部屋]][[力士]]や[[鹿島アントラーズ]]の選手らも参加する'''豆まき'''が行われる。
**紀元祭([[2月11日]]10時
** '''祈年''' ([[2月17日]]) - 大祭
* 3月
**祈年祭([[2月17日]]10時)
** '''祭頭祭''' ([[3月9日]]) - 大祭
*3月
**祭頭祭([[3月9日]]10時
** '''春季''' (3月9日) - 大祭
**春(3月918時
** ([[春分の]]
**春分祭([[春分の日]]10時
** 祖霊社春分祭 (春分祭に引き続いて行なわれる
* 4月
**祖霊社春分祭(春分祭に引き続いて行われる)
** 奥宮春祭 ([[4月1日]])
*4月
**奥宮春祭([[4月1日]]10時
** 境内摂末社春祭 ([[4月2日]])
**境内摂末社春祭([[4月2日]])
** 跡宮春祭 ([[4月3日]])
**跡宮春祭([[4月3日]])
** 坂戸、沼尾社春祭 ([[4月4日]])
**坂戸、沼尾社春祭([[4月4日]])
** 境外末社春祭 ([[4月5日]])
**境外末社春祭([[4月5日]])
** 境外末社春祭 ([[4月6日]])
**境外摂末社春祭([[4月6日]])
** 息栖神社春の例 ([[4月14日]])
* 5月
**息栖神社春の例祭([[4月14日]])
** 御田植祭、流鏑馬神事 ([[5月1日]]) - 中祭
*5月
* 6月
**御田植祭、流鏑馬神事([[5月1日]]13時)
** 夏越祓 (旧暦[[6月29日]])
*6月
**夏越祓([[6月29日]]18時
** [[大]]式 ([[6月30日]])
* 9月
**[[大祓]]式([[6月30日]]15時)
** 午年には式年大祭「'''御船祭'''」が行なわれる。
</td><td valign=top>
** '''例祭''' ([[9月1日]]) - 大祭
*9月
** 提灯祭 (9月1日)
**午年には式年大祭'''御船祭'''が行われる。
**([[9月1日]]10時
** '''神幸''' (9月1日) - 大祭
**提灯(9118時
** 行宮 ([[92]] - 中祭
**幸祭(9月120時
** '''還幸祭''' (9月2日) - 大祭
**行宮祭([[9月2日]]22時
** 祖霊社合祀 ([[秋分の日]]前日
**還幸(9月215時
** 秋分 (秋分の日)
**祖霊社合祀祭([[秋分の日]]前日18時
** 祖霊社 (秋分の日)
* 10月
**秋分祭(秋分の日8時)
**祖霊社大祭(秋分の日10
** 神嘗 [[10月17日]] - 中祭
*10
* 11
** 神嘗祭当日祭([[1017日]]10時
** 奥宮秋 ([[111日]])
** 境内摂末社秋祭 ([[11月2日]])
*11月
**奥宮秋祭([[11月1日]]10時
** 明治 ([[11月3日]])
**境内摂末社秋([[112]]
** 相撲 (113日) - 中祭
**明治([[11月3日]]9時
** 跡宮秋 (11月3日)
**相撲(11310時
** 坂戸、沼尾社秋 ([[114]]
**跡宮秋祭(113至着時
** 境外末社秋祭 ([[115]]
**坂戸、沼尾社秋祭([[11月4日]])
** 境外末社秋祭 ([[11月6日]])
**境外末祭([[11月5日]])
** 息栖神社祭 ([[11月13日]])
**境外末社秋祭([[11月6日]])
** '''[[新嘗]]''' ([[11月23日]]) - 大祭
* 12月
**息栖神社祭([[11月13日]])
**[[新嘗]]([[1123日]]10時
** 宮贄 ([[1220日]]) - 中祭
** [[天長祭]] ([[12月23日]]) - 中祭
*12月
**宮贄祭([[12月20日]]10時
** 大祓式 ([[12月31日]])
**[[天長]]([[1223]]10時
** 除夜 (1231日)
**大祓式([[12月31日]]15時)
**除夜祭(12月31日15時)
</td></tr></table>
</div>
</div>
</div>
</div>


; 白馬祭
: 白馬祭(おうめさい)は、[[1月7日]]に行なわれる祭事。かつて神宮では、元旦から祭神は眠っているとして祭事を控え、祭神の目覚める1月7日に物忌によって不開御殿(本殿)を開ける「御戸開き神事」が行なわれた{{Sfn|鹿島|2004年|p=29-32}}。その際邪気祓いのため白馬が静かに曳き廻されたが、次第に御戸開きの鍵の音が聞こえないよう荒々しく廻すようになったという{{Sfn|鹿島|2004年|p=29-32}}。現在では御戸開き神事は行なわないが、代わりに「白馬祭」として、東神門から楼門まで白馬で駆け抜ける神事が行なわれる{{Sfn|鹿島|2004年|p=29-32}}。

; 祭頭祭
: 祭頭祭(さいとうさい)は、[[3月9日]]に行なわれる祭事。神宮の南北66郷(現在は北郷24、南郷26)から卜定で選ばれた2郷が神宮に奉仕を行う<ref name="由緒書"/>。5歳位の新発意(しぼち)を先頭に立てた色鮮やかな集団により、神前まで祭頭ばやしが行なわれる<ref name="祭頭祭"/>。祭は国の無形文化財に選択されている。

== 神宝 ==
=== 韴霊剣 ===
[[File:Isonokami.jpg|thumb|200px|right|[[石上神宮]]([[奈良県]][[天理市]])<br/><small>武甕槌神から神武天皇に授けられた韴霊剣(初代)を祀る。</small>]]
'''韴霊剣'''(ふつのみたまのつるぎ)は、神宮に伝えられている神剣。別称を「平国剣(ことむけのつるぎ)」。国宝に指定されており、指定名称は「直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) 附 刀唐櫃」。古くより神宝として本殿内陣で秘められていた。

柄(つか)・鞘を含めた全長は2.71メートル、刃長は2.24メートルの直刀で、奈良時代末期から平安時代初期の作と見られている。現存する伝世品(出土品でない)の日本刀の中では古例の1つであり、また刃長の点では最大の作品とされる。長大な刀身を作るために、途中4か所で刀身を繋ぎ合わせるという極めて珍しい手法を使っていることが判明しており、技術的にも貴重な存在である。外装(柄・鞘)は、黒漆塗りの上に平文(ひょうもん、金銀などの薄板を貼って文様を表す技法)や金銅透かし彫りの金具で装飾を施した古様な技法によるもので、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」の流れを汲むものとされる。

[[布都御魂|フツノミタマ]]は『古事記』『日本書紀』でも「韴霊剣」「布都御魂剣」等として言及があり、[[神武天皇]]に際してタケミカヅチから[[高倉下]]を通じてイワレビコ([[神武天皇]])に下された神剣としている。この剣は、神武天皇即位後に宮中に祀られ、のち[[崇神天皇]]の御世に[[石上神宮]]([[奈良県]][[天理市]])に遷され祀られたとされる<ref>大場磐雄「石上神宮」(『国史大辞典』吉川弘文館)。</ref>。鹿島神宮に伝わるフツノミタマは、上記のように初代・フツノミタマがついに鹿島神の元に帰ることはなかったので、後世に改めて作られたものだという{{Sfn|鹿島|2004年|p=70-72}}。

『常陸国風土記』には砂鉄の記述があり、それとの関連も指摘される<ref name="直刀"/>。なお、『古事記』ではタケミカヅチの別称を「建布都神(たけふつ)」「豊布都神(とよふつ)」とも記すが、この「フツ」は刀剣に由来する呼称と見られ、タケミカヅチは刀剣の神とも考えられている<ref>松前健「建御雷神」(『国史大辞典』吉川弘文館)。</ref>。

=== 常陸帯 ===
'''常陸帯'''(ひたちおび)は、神宮に伝わる神宝の1つ。古くより本殿深く箱の中に納められており、現在も見ることはできない{{Sfn|鹿島|2004年|p=72}}。

この常陸帯とは、[[神功皇后]]が[[三韓征伐]]での鹿島神の守護に感謝して奉納した腹帯であるとされる{{Sfn|鹿島|2004年|p=148}}。『[[源氏物語]]』竹河の巻や『[[古今和歌六帖]]』にも記載が見え{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=391}}、その平安時代当時においてもすでに古い習俗と見なされている{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=346}}。

この伝承に基づき、かつて1月14日には「常陸帯神事」が行なわれていた。祭事では、男女の名を記した帯の先を神前に供え、神主がそれを結び合わせ結婚が占われた{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=345}}。その後、この祭事は妊婦に腹帯を授ける安産信仰に変化したという{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=391}}。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
=== 国宝 ===
=== 国宝 ===
* '''直刀・黒漆平文大刀拵'''(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) ('''附 刀唐櫃''')(工芸品)
* '''直刀・黒漆平文大刀拵'''(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) ('''附 刀唐櫃''')(工芸品) - 通称「[[#韴霊剣|韴霊剣]]」。昭和30年6月22日指定<ref>文化財節は[http://city.kashima.ibaraki.jp/file/upload/img/6100_doc2_20120502111332.pdf 鹿嶋市の指定文化財一覧](鹿嶋市ホームページ)による。</ref><ref name="直刀">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kougei/4-1/4-1.html 直刀 黒漆平文大刀拵(附刀唐櫃1合)](茨城県教育委員会)。</ref>。 
:「[[布都御魂剣]](ふつのみたまのつるぎ)」「平国剣(ことむけのつるぎ)」とも呼ばれる。柄(つか)・鞘を含めた全長2.71m、刃長2.24mの直刀。奈良時代末期から平安時代初期の制作。現存する伝世品(出土品でない)の日本刀の中では、古例の1つであり、また刃長の点では最大の作品とされる。長大な刀身を作るために、途中4か所で刀身を繋ぎ合わせるという極めて珍しい手法を使っていることが判明しており、技術的にも貴重な存在。外装(柄・鞘)は、黒漆塗りの上に平文(ひょうもん、金銀などの薄板を貼って文様を表す技法)や金銅透かし彫りの金具で装飾を施した古様な技法によるもので、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」の流れを汲む。昭和30年6月22日指定<ref>[http://city.kashima.ibaraki.jp/file/upload/img/6100_doc2_20120502111332.pdf 鹿嶋市の指定文化財一覧](鹿嶋市ホームページ)を参考に記載。他の文化財も同様。</ref>。 


=== 重要文化財(国指定) ===
=== 重要文化財(国指定) ===
* 本殿、石の間、拝殿、幣殿(附 棟札2枚)(建造物) - 明治34年3月27日指定<ref name="本殿">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kenzou/1-1/1-1.html 鹿島神宮本殿・拝殿・弊殿・石の間(附棟札2枚)](茨城県教育委員会)。</ref>。
; 建造物
* 摂社奥宮本殿(附 棟札1枚)(建造物) - 明治34年3月27日指定<ref name="奥宮">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kenzou/1-2/1-2.html 鹿島神宮摂社奥宮本殿(附棟札1枚)](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 楼門 - 寛永19年(1642年)、徳川頼房による造営。昭和41年6月11日指定
* 楼門(建造物) - 昭和41年6月11日指定<ref name="楼門">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kenzou/1-12/1-12.html 鹿島神宮楼門](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 本殿、石の間、拝殿、幣殿 (附 棟札2枚) - 元和4年(1618年)、徳川秀忠による造営。明治34年3月27日指定
* 仮殿(建造物) - 昭和51年5月20日指定<ref name="仮殿">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kenzou/1-23/1-23.html 鹿島神宮仮殿](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 摂社奥宮本殿 (附 棟札1枚) - 慶長10年(1605年)、徳川家康による造営。明治34年3月27日指定
* 梅竹蒔絵鞍(附 四手蒔絵居木一双)(工芸品)
* 仮殿 - 元和4年(1618年)、徳川秀忠による造営。昭和51年5月20日指定
:: 鎌倉時代の作で、[[蒔絵]]の和鞍の中で最古のものである。社伝では『[[吾妻鏡]]』[[建久]]2年([[1191年]])の記事<ref group="原">『吾妻鏡』建久2年12月26日条([http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kougei/4-9/4-9.html 梅竹蒔絵鞍]<茨城県教育委員会>参照)。</ref>にある[[源頼朝]]寄進の軍陣鞍とするが{{Sfn|鹿島|2004年|p=73}}、通常の軍陣鞍とは様式が異なっており、祭事に使用したものと推測されている。昭和34年6月27日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kougei/4-9/4-9.html 梅竹蒔絵鞍](茨城県教育委員会)。</ref>。

; 工芸品
* 梅竹蒔絵鞍 (附 四手蒔絵居木一双)
:『[[吾妻鏡]]』には、[[建久]]2年([[1191年]])に[[源頼朝]]が国の平安を祈って馬を奉納した記事があり、この馬に添えられていた鞍と言われる。曰く、「建久二年十二月大廿六日庚子。去廿二日子剋。常陸國鹿嶋社鳴動。如大地震。聞者驚耳。是爲兵革并大葬兆之由。祢宣中臣廣親所註申也。幕下有御謹愼。則以鹿嶋六郎。被奉神馬云々。」([[鹿島氏]]の項も参照 )。昭和34年6月27日指定。


=== 国の史跡 ===
=== 国の史跡 ===
* 鹿島神宮境内附郡家跡 - 以下の4カ所の総称。
[[File:Kashimaguuke-ato -3.JPG|thumb|200px|right|鹿島郡家跡]]
* 鹿島神宮境内 (附 郡家跡) - 以下の4カ所の総称
** 鹿島神宮境内
** 鹿島神宮境内
** 摂社坂戸神社境内
** 摂社坂戸神社境内
** 摂社沼尾神社境内
** 摂社沼尾神社境内
** 鹿島郡家跡
** 鹿島[[郡衙|郡家]]跡 (鹿嶋市宮中、{{ウィキ座標|35|57|19.29|N|140|38|01.67|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=鹿島郡家跡}}) - 神宮の南約1.5kmに所在。遺構は、8世紀前半-10世紀初め頃までの郡庁内郭・厨家相当施設・正倉院等で構成されている。
:: 昭和61年8月4日指定、平成元年9月22日追加指定、平成11年1月14日追加指定<ref name="史跡">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/shiseki/12-20/12-20.html 鹿島神宮境内附郡家跡](茨城県教育委員会)。</ref>。

=== 選択無形文化財(国選択) ===
* 鹿島の祭頭祭 - 昭和51年12月25日選択<ref name="祭頭祭">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/mingei/17-6/17-6.html 鹿島の祭頭祭](茨城県教育委員会)。</ref>。


=== 茨城県指定文化財 ===
=== 茨城県指定文化財 ===
; 有形文化財
; 彫刻
* 木造狛犬 2躯 - 昭和33年7月23日指定
* 木造狛犬 2躯(彫刻)
:: 江戸時代初期、元和5年(1619年)の作。寄せ木造り、漆箔で、高さは阿型が77.3センチメートル、吽型が80.3センチメートル。昭和33年7月23日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/tyokoku/3-24/3-24.html 木造狛犬](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 木造狛犬 2躯 - 昭和40年2月24日指定
* 木造狛犬 2躯(彫刻)

:: 鎌倉時代の作。寄せ木造り、漆箔で、高さは各72センチメートル。昭和40年2月24日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/tyokoku/3-52/3-52.html 木造狛犬](茨城県教育委員会)。</ref>。
; 工芸品
* 黒漆螺鈿蒔絵台 1基 - 昭和33年7月23日指定
* 黒漆螺鈿蒔絵台 1基(工芸品)
:: 鎌倉時代末期。昭和33年7月23日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-23/4-23.html 黒漆螺鈿蒔絵台](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 銅印 1顆 - 昭和33年7月23日指定
* 銅印 1顆(工芸品)
* 陶製狛犬 3躯 - 昭和33年7月23日指定
:: 平安時代の作で、印文は「申田宅印」。「申田」の意味には「神田」という説と「神璽」という説がある。[[暦応]]4([[1341年]])を初見として、古文書に押印された例が見える。昭和33年7月23日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-24/4-24.html 銅印](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 石造燈籠 1基 - 昭和33年7月23日指定
* 陶製狛犬 3躯(工芸品)
* 鐃 1口 - 昭和33年7月23日指定
:: 室町時代の作と見られる。昭和33年7月23日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-25/4-25.html 陶製狛犬](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 軍配 1口 - 昭和33年7月23日指定
[[File:Kashima-jingu tourou.JPG|thumb|200px|right|石造燈籠(県指定文化財)]]
* 太刀(銘 景安) 1口 - 昭和36年3月24日指定
* 石造燈籠 1基(工芸品)
* 草花双鳥円鏡 1面 - 昭和40年2月24日指定
:: 江戸時代初期、元和5年(1619年)の作。搭高256センチメートル。昭和33年7月23日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-26/4-26.html 石灯籠](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 十一面観音御正体 1面 - 昭和40年2月24日指定
* 鐃 1口(工芸品)

:: 平安時代前半の作の三鈷鐃。昭和33年7月23日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-27/4-27.html 鐃](茨城県教育委員会)。</ref>。
; 古文書
* 軍配 1口(工芸品)
* 鹿島神宮文書 18巻 - 平成22年11月10日指定
:: 室町時代の作。昭和33年7月23日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-28/4-28.html 軍配](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 太刀(銘 景安) 1口(工芸品)
:: 平安時代末期、備前刀工([[古備前派]])の景安の作と見られる。初代水戸藩主・徳川頼房の寄進による。身長は77.5センチメートル。昭和36年3月24日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-34/4-34.html 太刀(銘 景安)](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 草花双鳥円鏡 1面(工芸品)
:: 室町時代の作。昭和45年(1970年)に盗難に遭った(未発見)。昭和40年2月24日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-63/4-63.html 草花双鳥円鏡](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 十一面観音御正体 1面(工芸品)
:: 鎌倉時代初期の作。昭和45年(1970年)に盗難に遭った(未発見)。東南に昭和40年2月24日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kougei/4-64/4-64.html 十一面観音御正体](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 鹿島神宮文書 18巻(古文書)
:: [[元暦]]2年([[1185年]])の源頼朝下文から明治4年([[1871年]])の神祇官達書に至る、総計250点の古文書群。巻子で18巻に仕立られている。平成22年11月10日指定<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/komon/6-6/6-6.html 鹿島神宮文書](茨城県教育委員会)。</ref>。


; 天然記念物
; 天然記念物
[[File:Kashima-jingu shasou.JPG|thumb|200px|right|境内の社叢(県指定天然記念物)]]
* 鹿島神宮樹叢 - 昭和38年8月23日指定
* 鹿島神宮樹叢 - 昭和38年8月23日指定<ref name="樹叢">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/tennen/14-28/14-28.html 鹿島神宮樹叢](茨城県教育委員会)。</ref>。


=== 鹿嶋市指定文化財 ===
=== 鹿嶋市指定文化財 ===
* 楼門回廊 2棟(建造物) - 昭和57年3月20日指定
* 楼門回廊 2棟(建造物) - 昭和57年3月20日指定


=== その他 ===
=== その他 ===
* 悪路王の首像・首桶
:: [[蝦夷]]の悪路王の首と首桶を、江戸時代の[[寛文]]4年([[1664年]])に木造で復元し奥州の藤原満清が奉献したもの。悪路王とは、[[平安時代]]に[[坂上田村麻呂]]が征伐した蝦夷の指導者・[[アテルイ]]を指すとしている。

; 選定
; 選定
* [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]] 「鹿島神宮の森からカシマスタジアムを巡るみち」
* [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]] 「鹿島神宮の森からカシマスタジアムを巡るみち」

== 関係事項 ==
=== 鹿島郡衙 ===
[[File:Kashimaguuke-ato -3.JPG|thumb|200px|right|神野向遺跡(鹿嶋市宮中)]]
[[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]](香島郡)は、『常陸国風土記』によれば常陸国[[那珂郡]]及び[[下総国]][[海上郡]]からそれぞれ割き、当初より[[神郡]]として建郡されたという{{Sfn|鹿島郡(角)|1983年}}。神郡の郡家であるので、その郡家([[郡衙]])は神社の傍であると推察され{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年}}、『常陸国風土記』には「其の社の南、郡家の北に沼尾の池あり」の記載も見えるが、当時の遺構は見つかっていない。

8世紀以降の新郡衙跡は、神宮の南約1.5kmに位置する鹿嶋市宮中の'''神野向遺跡'''(かのむかいいせき、{{ウィキ座標|35|57|19.29|N|140|38|01.67|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=鹿島郡家跡}})で発見された。遺構は、8世紀前半から10世紀初め頃までの郡庁内郭・厨家相当施設・正倉院等で構成されている<ref name="国指定"/>。鹿島神宮境内の附として国の史跡に指定されている<ref>[http://www.hitachifudoki1300.jp/visit/04/index.html 鹿島神宮境内附郡家跡”神野向遺跡”](常陸国風土記1300年記念<茨城県生活環境部生活文化課>)。</ref><ref name="史跡"/>。

=== 鹿島苗裔神 ===
{{座標一覧|節=鹿島苗裔神}}
[[File:Shiogama Shrine haiden.jpeg|thumb|200px|right|[[鹽竈神社]]([[宮城県]][[塩竈市]])<br/><small>[[陸奥国]]一宮。[[シオツチノオジ|塩土老翁神]]に武甕槌・経津主両神を合わせ祀る。</small>]]
[[File:Haiden of Kashima-miko-jinja shrine,Ishinomaki city 1.JPG|thumb|200px|right|[[鹿島御児神社]]([[宮城県]][[石巻市]])<br/><small>鹿島の「御児神」を祀る、鹿島苗裔神の一社。</small>]]
鹿島神宮は東国開拓の拠点であったことから、その苗裔神(びょうえいしん)すなわち[[御子神]](みこがみ)が各地に形成された{{Sfn|鹿島御児神社|1983年}}。『常陸国風土記』にはすでに、[[行方郡]]に分祠の記載が見える。

『日本三代実録』の貞観8年([[866年]])の記事<ref name="貞観8" group="原">『日本三代実録』貞観8年正月20日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>には、神宮司の言として陸奥国に苗裔神が38社あると記載されている{{Sfn|鹿島御児神社|1983年}}。その内訳は、[[菊多郡]] 1、[[磐城郡]] 11、[[標葉郡]] 2、[[行方郡 (磐城国)|行方郡]] 1、[[宇多郡]] 7、[[伊具郡]] 1、[[亘理郡|曰理郡]] 2、[[宮城郡]] 3、[[黒川郡|黒河郡]] 1、色麻郡 3、[[志田郡|志太郡]] 1、[[小田郡 (陸奥国)|小田郡]] 4、[[牡鹿郡]] 1であるが<ref name="貞観8" group="原"/>、具体的な社名は記されていない。

『[[延喜式神名帳]]』では、陸奥国に「鹿島」を冠する神社として以下8社の記載が見える(「[[陸奥国の式内社一覧]]」参照)。
* [[黒川郡]] 鹿島天足別神社 - [[鹿島天足別神社]](宮城県黒川郡富谷町、{{ウィキ座標|38|22|02.43|N|140|55|37.40|E|region:JP-04_type:landmark|位置|name=苗裔神:鹿島天足別神社}})に比定。
* [[亘理郡|曰理郡]] 鹿島伊都乃比気神社 - [[鹿島緒名太神社]]、{{ウィキ座標|38|04|33.37|N|140|49|39.86|E|region:JP-04_type:landmark|位置|name=苗裔神:鹿島緒名太神社}})または[[鹿島天足和気神社]](同前、{{ウィキ座標|38|02|31.61|N|140|50|36.59|E|region:JP-04_type:landmark|位置|name=苗裔神:鹿島天足和気神社}})に比定。
* 曰理郡 鹿島緒名太神社 - 同上。
* 曰理郡 鹿島天足和気神社 - [[鹿島天足和気神社]](宮城県亘理郡亘理町)に比定。
* [[信夫郡]] 鹿島神社 - 論社4社。
* [[磐城郡]] 鹿島神社 - [[鹿島神社 (いわき市)|鹿島神社]](福島県いわき市、{{ウィキ座標|37|00|46.52|N|140|54|26.93|E|region:JP-07_type:landmark|位置|name=苗裔神:鹿島神社}})に比定。
* [[牡鹿郡]] 鹿島御児神社 - [[鹿島御児神社]](宮城県石巻市、{{ウィキ座標|38|25|26.56|N|141|18|29.25|E|region:JP-04_type:landmark|位置|name=苗裔神:鹿島御児神社}})に比定。
* [[行方郡 (磐城国)|行方郡]] 鹿島御子神社 - [[鹿島御子神社]](福島県南相馬市、{{ウィキ座標|37|42|10.31|N|140|57|59.60|E|region:JP-07_type:landmark|位置|name=苗裔神:鹿島御子神社}})に比定。

以上から、鹿島神が海岸沿いを北上して牡鹿郡、すなわち[[石巻市]]付近まで進出したものと指摘される{{Sfn|鹿島御児神社|1983年}}。『延喜式神名帳』には香取神宮の苗裔神2社も見られることから、大和朝廷の勢力が海岸沿いに北進する際に、鹿島・香取神の神威を仰いだものと考えられている{{Sfn|鹿島御児神社|1983年}}。特に、陸奥国一宮の[[鹽竈神社]](宮城県[[塩竈市]]、{{ウィキ座標|38|19|08.12|N|141|00|45.47|E|region:JP-04_type:landmark|位置|name=陸奥国一宮:鹽竈神社(武甕槌・経津主両神を合祀)}})で武甕槌・経津主両神が祀られていることに、その様子が顕著にうかがわれる{{Sfn|鹿島御児神社|1983年}}。

また『日本三代実録』の記事にある磐城郡の11社という数字は群を抜いており、道奥石城国造との関係が指摘される{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=362}}。さらに同記事によれば、陸奥国での鹿島神の祟りが甚だしいので[[嘉祥]]元年([[848年]])に宮司らが奉幣に向かったが、陸奥国に入ることを許されなかったという<ref name="貞観8" group="原"/>。この記載について、本社の祀官氏族が代わったため分社側が抵抗したと見る考えがある{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=362}}。

=== 鹿島神宮寺 ===
'''鹿島神宮寺'''(かしまじんぐうじ)は、かつて鹿島神宮内にあった[[神宮寺]]。

嘉祥3年([[850年]])や[[天安]]3年([[859年]])の太政官符によると<ref group="原">『類聚三代格』(2 年分度者事)嘉祥3年8月5日官符、同(3 定額寺事)天安3年2月16日官符(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。</ref>、[[天平勝宝]]年間([[749年]]-[[757年]])に鹿島郡大領・中臣連千徳、元宮司・中臣鹿島連大宗、修行僧・満願らにより創建されたといい、[[承和 (日本)|承和]]4年([[837年]])には[[定額寺]]に列せられたという{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。南北朝時代には[[別当寺]]として神宮に深く関与した{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}。

寺はたびたび移転して江戸時代には新町にあったといい、[[真言宗]][[仁和寺]]の末寺として「鹿島山」を山号とし、[[釈迦如来]]を[[本尊]]とした{{Sfn|鹿島神宮(角)|1983年}}。門徒寺を100近く有する有力寺院であったが、幕末になり[[文久]]3年([[1863年]])に[[天狗党の乱|水戸天狗党]]によって、また[[元治]]元年([[1864年]])には正義隊によって荒廃、[[明治]]元年([[1868年]])10月に廃寺となった{{Sfn|鹿島神宮寺|1983年}}。

=== 鹿島使 ===
'''鹿島使'''(かしまづかい)は、鹿島神宮に遣わされた[[奉幣|奉幣使]]{{Sfn|鹿島使|1983年}}。2月に行なわれる[[春日祭]](春日大社例祭)や藤原氏関連の重要な人事に際し朝廷から発遣された{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}。

[[延喜]]13年([[913年]])を初見として、[[藤氏長者]]から[[勧学院]]学生が任命され内蔵寮史生を添えて遣わされた{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}。王朝衰退とともに[[長寛]]元年([[1163年]])に国司代・[[大掾氏]]からの'''鹿島大使役'''に代わり、毎年7月中旬に参向があった{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=388}}{{Sfn|鹿島使|1983年}}。これは[[応永]]年間([[1394年]]-[[1428年]])まで続き、その後は断続的に[[文亀]]3年([[1503年]])まで続いた{{Sfn|鹿島使|1983年}}。

=== 鹿島立 ===
「旅立ち」「門出」を意味する'''鹿島立'''(かしまだち)という[[名詞]]<ref name="鹿島立">[http://kotobank.jp/word/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%AB%8B%E3%81%A1 『デジタル大辞泉』鹿島立ち項等](コトバンク<朝日新聞社>より)。</ref>は、鹿島神宮に由来するとされる。鹿島神が国土を平定したことからとも、防人・武士が旅立ちで無事を鹿島神宮に祈願したことからともいわれる<ref name="鹿島立"/>。

関連して、防人が鹿島神に祈った歌として『[[万葉集]]』の次の歌が知られる<ref group="原">『万葉集』巻20 4370番。 - [http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou_kekka2.php?kekka=20/4370](万葉集検索システム<山口大学>)参照。</ref>。
{{Cquote|<small>天平勝宝7年2月、相替遣筑紫諸国防人等歌</small><br/> 霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍に 我れは来にしを<br/> ''あられふり かしまのかみを いのりつつ すめらみくさに われはきにしを''|20px||大舎人部千文、『万葉集』巻20 4370番}}

=== 鹿島七不思議 ===
鹿島神宮には「七不思議」と呼ばれるものがあり、以下の7項目が挙げられる{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=391}}。
* [[#要石|要石]]
* [[#御手洗池|御手洗池の水深]]
* 末無川 - 高天原の境内地で湧出した水の行方がわからないという{{Sfn|東|2000年|p=192-193}}。
* 境内三笠山の藤の花 - 藤の多く咲く年は豊作、少ない年は凶作という{{Sfn|東|2000年|p=192-193}}。
* 鹿島灘の海鳴 - 奥宮付近で波の音が北の方に聞こえる時は晴れ、南に響く時は雨が降るという{{Sfn|東|2000年|p=192-193}}。
* 根上りの松 - 神宮の松は幾度伐っても目が出て枯れないという{{Sfn|東|2000年|p=192-193}}。
* 松の箸 - 神宮の松で作った箸からは脂が出ないという{{Sfn|東|2000年|p=192-193}}。

== 考証 ==
=== 本源地について ===
『常陸国風土記』によれば、鹿島神宮は「香島の天の大神」と記され、以下三社の総称であるという{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=325}}。
* '''天の大神の社''' (あめのおおかみのやしろ) - 現在の鹿島神宮(本宮)
* '''坂戸の社''' (さかとのやしろ) - 現在の境外摂社・坂戸神社
* '''沼尾の社''' (ぬまおのやしろ) - 現在の境外摂社・沼尾神社
このように古くは三社が並立状態であったとされる。それを表すものとして、『常陸国風土記』で景行天皇年間に舟3隻を奉献したという記載(御船祭起源説話)も指摘される{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=340}}。これらのうち、以下のように本源地を「天の大神の社」以外に取る説が古くより提唱されている。

沼尾社を本源とする説では、「沼尾池」そのものが神であると指摘される{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=326}}。その根拠として、『常陸国風土記』で沼尾池を「天から流れてきた水がたまった沼」とする表現が主張される{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=390}}{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=326}}。

これに対して坂戸社とする説では、『常陸国風土記』で「坂戸・沼尾」という書き順や、神社近くにあるべき古郡衙が坂戸社の鎮座する「山之上」に推定されることが挙げられる{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=326}}。この中で社名「坂戸」の意味について、「さか」を「境」と見て、蝦夷地への境界を意味するとも指摘される{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=329}}。

また三社の関係についても、坂戸社・沼尾社をペアとして天の大神の社は後から建てられたものとする見解もある{{Sfn|鹿島神宮(大和)|1984年|p=326}}。

=== 祭神・祭祀氏族について ===
[[File:Ōu-jinja shaden.JPG|thumb|200px|right|[[大生神社]](茨城県[[潮来市]])<br/><small>鹿島の元宮であるという。</small>]]
鹿島神宮の祭神は現在タケミカヅチとされるが、『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』には祭神をタケミカヅチとする直接的な言及はなく、初見は[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])成立の『[[古語拾遺]]』まで下る{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=386}}。そのため、祭神の経緯については諸説が提唱されている。

神宮の黎明では、有史上はすでに'''[[中臣氏]]'''との深い関係が確認される。そして、6世紀以降に朝廷の東国(蝦夷)経営が進むにつれて、中臣氏を媒介として鹿島・香取両神宮に中央神話のタケミカヅチ・フツヌシが請来されたという見方がある{{Sfn|鹿島神宮(平)|1982年|p=387}}(ただしフツヌシは物部氏の氏神ともいわれる)。この中臣氏進出以前には別の氏族が祀っていたものと見る説があり、その傍証として、[[藤原宇合]]が編纂にあたったとされる『常陸国風土記』にさえタケミカヅチの記載がない(宣伝できなかった)事実{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=366}}、[[#鹿島苗裔神|前述]]の『日本三代実録』の鹿島苗裔神に関する陸奥入国拒否の記事{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=362}}、中臣氏には蝦夷地進出の伝承が全くない事実{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=366}}が指摘される。

中臣氏以前の祭祀形態を示唆するものとしては、'''[[大生神社]]'''([[潮来市]]大生、{{ウィキ座標|35|59|30.54|N|140|33|06.43|E|region:JP-08_type:landmark|位置|name=大生神社(称 鹿島本宮)}})が知られる{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=357-358}}。同社は鹿島神の元宮とも伝えられ、その例祭には鹿島神宮から物忌が出輿したという<ref>『茨城県の地名』(平凡社)大生神社項。</ref>。大生神社社伝からは、春日大社創建を契機として鹿島神宮が性格を変えたこと、またそれに大生神社が関わっていることが示唆される{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=357-358}}。また、その社名「大生」は'''[[多氏]]'''(おおうじ)に由来するとされ{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=360}}、当地に残る古墳時代中期(5世紀)の古墳群(大生古墳群)はその墓とされる<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/shiseki/12-50/12-50.html 大生古墳群](茨城県教育委員会)。</ref>。多氏については、鹿島郡を割く以前の那珂郡を治めた[[仲国造]]や、鹿島苗裔神が特に多い陸奥国磐城郡をかつて治めた道奥石城国造が多氏一族であったことも併せて指摘される{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=360-362}}。この説では、上記をもって、多氏(鹿島神)・物部氏(香取神)の蝦夷地進出とともに祭神も北上し、[[天平]]年間([[729年]]-[[749年]])以降に中臣氏・藤原氏に代わったと推測されている{{Sfn|大生神社(大和)|1984年|p=367}}。


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
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; 付属施設
; 付属施設
* 宝物館 - 開館時間:午前9時-午後4時。直刀(国宝)等の宝物を展示する。
* 宝物館 - 開館時間:午前9時から午後4時。直刀(国宝)等の宝物を展示する。


; 交通アクセス
; 交通アクセス
* 鉄道
* 鉄道
** 最寄駅:[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[鹿島線]] [[鹿島神宮駅]] (徒歩10分) - [[鹿島臨海鉄道]][[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線|大洗鹿島線]]も乗り入れ
** 最寄駅:[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[鹿島線]] [[鹿島神宮駅]] (徒歩10分) - [[鹿島臨海鉄道]][[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線|大洗鹿島線]]も乗り入れる。


* 高速バス
* 高速バス
** [[東京駅]]から、高速バス[[かしま号]]「[[鹿島バスターミナル|鹿島神宮]]」バス停下車
** [[東京駅]]から、高速バス[[かしま号]]「[[鹿島バスターミナル|鹿島神宮]]」バス停下車


* 車
* 車
** [[東関東自動車道]] [[潮来インターチェンジ|潮来IC]]から、[[国道51号]]を鹿嶋方面へ約20分
** [[東関東自動車道]] [[潮来インターチェンジ|潮来IC]]から、[[国道51号]]を鹿嶋方面へ約20分
** 駐車場:鹿島神宮第1・第2駐車場(有料)のほか、市営駐車場(有料)が鹿島神宮駅周辺に点在している
** 駐車場:鹿島神宮第1・第2駐車場(有料)のほか、市営駐車場(有料)が鹿島神宮駅周辺に点在


; 周辺
; 周辺
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
; 注釈
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; 原典
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; 出典
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
; 原典
* 『新鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所、2004年改訂版)
* 『[[常陸国風土記]]』香島郡条ほか
* 東実 『鹿島神宮』 ([[学生社]]、2000年改訂版) - 著者は元宮司
** [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/200101.html 鹿島神宮](神道・神社史料集成)参照。
* [[茨城県立歴史館]]編 『鹿島信仰 常陸から発信された文化』 (茨城県立歴史館、2004年)
** 武田祐吉編[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173165 『風土記』](岩波書店、1937年、近代デジタルライブラリーより)27-43コマ参照(香島郡は36-39コマ)。
* [[茨城県立歴史館]]編 『鹿島信仰の諸相 学術調査報告書8』 (茨城県立歴史館、2008年)
* 『鹿島宮社例伝記』、『鹿島宮年中行事』
** 『鹿島宮社例伝記』は鎌倉時代、『鹿島宮年中行事』は室町時代。
** 両書とも塙保己一編[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936498 『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』](続群書類従完成会、1924年-1926年、近代デジタルライブラリーより)30-41コマ参照。

; 書籍
* 神社由緒書、境内説明板
* {{Cite book|和書|editor=鹿島神宮社務所編|author=|year=2004|title=新鹿島神宮誌 改訂版|publisher=鹿島神宮社務所|isbn=|ref={{Harvid|鹿島|2004年}}}}
* {{Cite book|和書|author=東実|year=2000|title=鹿島神宮 改訂版|publisher=[[学生社]]|isbn=4311407173|ref={{Harvid|東|2000年}}}} - 著者は元宮司。
* {{Cite book|和書|author=|year=1983|title=[[国史大辞典]] 第3巻|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=464200503X|ref=}}
** {{Wikicite|reference=萩原竜夫「鹿島御船祭」|ref={{Harvid|鹿島御船祭|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=萩原竜夫「鹿島氏」|ref={{Harvid|鹿島氏|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=萩原竜夫「鹿島神宮」|ref={{Harvid|萩原|1983年}}}}({{Wikicite|reference=網野善彦「社領」|ref={{Harvid|社領|1983年}}}})、{{Wikicite|reference=萩原竜夫「鹿島物忌」|ref={{Harvid|鹿島物忌|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=萩原竜夫「鹿島信仰」|ref={{Harvid|鹿島信仰|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=萩原竜夫「鹿島使」|ref={{Harvid|鹿島使|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=萩原竜夫「鹿島大神」|ref={{Harvid|鹿島大神|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=萩原竜夫「鹿島事触」|ref={{Harvid|鹿島事触|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=渡辺直彦「鹿島総追捕使」|ref={{Harvid|鹿島総追捕使|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=肥後和男「鹿島御児神社」|ref={{Harvid|鹿島御児神社|1983年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1982|chapter=|title=日本歴史地名体系 茨城県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490085|ref=}}
** {{Wikicite|reference=「鹿島郡」|ref={{Harvid|鹿島郡(平)|1982年}}}}、{{Wikicite|reference=「鹿島神宮」|ref={{Harvid|鹿島神宮(平)|1982年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1983|chapter=|title=[[角川日本地名大辞典]] 8 茨城県|publisher=[[角川書店]]|isbn= 4040010809|ref=}}
** {{Wikicite|reference=「鹿島郡」|ref={{Harvid|鹿島郡(角)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「鹿島神宮」|ref={{Harvid|鹿島神宮(角)|1983年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=[[茨城県立歴史館]]編|author=|year=2004|chapter=|title=鹿島信仰 常陸から発信された文化|publisher=茨城県立歴史館|isbn=|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=茨城県立歴史館編|author=|year=2008|chapter=|title=鹿島信仰の諸相 学術調査報告書 8|publisher=茨城県立歴史館|isbn=|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]編|author=|year=1984|chapter=|title=日本の神々 -神社と聖地- 11 関東|publisher=[[白水社]]|isbn=4560025118|ref=}}
** {{Wikicite|reference=大和岩雄「鹿島神宮」|ref={{Harvid|鹿島神宮(大和)|1984年}}}}、{{Wikicite|reference=大和岩雄「大生神社」|ref={{Harvid|大生神社(大和)|1984年}}}}

== 関連書籍 ==
* 『鹿島志』、北条時鄰、1823年。
* 『鹿島神宮誌』、岡泰雄編、鹿島神宮社務所、1933年。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[大生神社]] ([[潮来市]]大生) - 鹿島の元宮を称する
* [[鹿島氏]]
* [[鹿島氏]]
* [[鹿島神流]]
* [[鹿島神流]]
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* [[鹿島踊り]]
* [[鹿島踊り]]


; 当に由来
; 当に由来
* [[鹿島 (戦艦)]]
* [[鹿島 (戦艦)]]
* [[鹿島 (練習巡洋艦)]]
* [[鹿島 (練習巡洋艦)]]
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* [http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/ 常陸国一之宮 鹿島神宮](公式サイト)
* [http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/ 常陸国一之宮 鹿島神宮](公式サイト)
* [http://www.sopia.or.jp/kashima-kanko/jingu.html 鹿島神宮](鹿嶋市観光協会)
* [http://www.sopia.or.jp/kashima-kanko/jingu.html 鹿島神宮](鹿嶋市観光協会)
* [http://www.ibarakiguide.jp/db_kanko/?detail&id=0800000000093 鹿島神宮](観光いばらき(茨城県観光物産協会))
* [http://www.ibarakiguide.jp/db_kanko/?detail&id=0800000000093 鹿島神宮](茨城県観光物産協会「観光いばらき」)
* [http://www.oyashiro.or.jp/link/0017.html 鹿島神宮](茨城県神社庁)
* [http://www.oyashiro.or.jp/link/0017.html 鹿島神宮](茨城県神社庁)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/200101.html 鹿島神宮](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/200101.html 鹿島神宮](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)



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2013年11月28日 (木) 18:09時点における版

鹿島神宮

境内入り口
所在地 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
位置 北緯35度58分07.88秒 東経140度37分53.37秒 / 北緯35.9688556度 東経140.6314917度 / 35.9688556; 140.6314917 (鹿島神宮)座標: 北緯35度58分07.88秒 東経140度37分53.37秒 / 北緯35.9688556度 東経140.6314917度 / 35.9688556; 140.6314917 (鹿島神宮)
主祭神 武甕槌大神
社格 式内社名神大
常陸国一宮
官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 (伝)初代神武天皇元年
本殿の様式 三間社流造
札所等 東国三社
例祭 9月1日
主な神事 御船祭(12年に1度)
白馬祭(1月7日
祭頭祭 (3月9日
テンプレートを表示
全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
一の鳥居(西)
鰐川に面して立つ。

鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社式内社名神大社)、常陸国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

全国に約600社ある鹿島神社の総本社。千葉県香取市香取神宮、茨城県神栖市息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社。初詣には全国から60万人以上が参拝し、参拝者数では茨城県2位に及ぶ。

概要

茨城県南東部、北浦鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。和銅6年(713年)成立の『常陸国風土記』に鎮座が確認されて以来歴史上で重きをなしてきた、東国で随一の古社である。古代には朝廷からは蝦夷に対する平定神として、また藤原氏からは氏神として崇敬され神威を高めた。『延喜式神名帳』(平安時代官社一覧)では「神宮」と記されたのは伊勢神宮・香取神宮と当宮の三社のみで、その位置づけの高さがうかがわれる。その神威は中世武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。

当宮は利根川を挟んで香取神宮と対峙し、古来両社は並び称されている。祭神武甕槌神は、経津主神(香取神宮祭神)とともに天孫降臨に先立って国土を平定した武神とされる。両宮とも古来軍神としての性格が強く、現在も武道で篤く崇敬されている。

神宮では「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀国宝)が伝えられるほか、境内は国の史跡に、本殿拝殿楼門など7棟が国の重要文化財に指定されている。そのほか、鹿神使とすることでも知られる。

社名について

神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「鹿島(かしま)」は当宮に由来するとされる。『常陸国風土記』には「香島」と記載され、「香島郡」の名称が「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと記載している[1]。「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)であるが[原 1][2]、「香島」から「鹿島」への変化の理由は史書からは明らかでない。なお当宮では現在社名に「島」を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」を使用している。

「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は以下の通り。

  • 「神の住所」すなわち「カスミ」とする説[3]
  • 「建借間命(たけかしまのみこと)」から「カシマ」を取ったとする説[3]
建借間命(建借馬命)は、『先代旧事本紀』国造本紀に初代仲国造(那珂国造)として、また『常陸国風土記』行方郡条に記述が見える人物。
  • 「船を止める杭を打つ場所」を意味する「カシシマ」とする説[3]
肥前国風土記杵島郡条に「杵島」の由来として見える記述。

祭神

「鹿島要石真図」
江戸時代鯰絵。上が要石を祀る鹿島神宮、下が剣をもち大鯰を抑える武甕槌神

祭神は以下の1柱。

古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕槌神」と表記される。
社名から、一般に「鹿島大神(かしまのおおかみ)」とも称される。

タケミカヅチについて『古事記』では、伊弉諾尊軻遇突智の首を切り落とした際、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうちの一柱とする(『日本書紀』ではここでタケミカヅチの祖・ミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、天鳥船神(『古事記』)または経津主神(『日本書紀』)とともに活躍したという。その後、神武東征ではイワレビコ(神武天皇)に神剣(フツノミタマ)を授けた。ただし、『古事記』『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はなく、タケミカヅチと鹿島との関係は記されていない。

一方『常陸国風土記』では祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、天孫の統治以前に天から下されたという、記紀同様の説話を記す。また、武具を献じたという記載から武神の性格がうかがわれる[4]。しかしながら、同記にも具体的にタケミカヅチとは言及はされていない。

祭神をタケミカヅチと記した文献上の初見は、大同2年(807年)成立の『古語拾遺』である[5]。その後は『続日本後紀』『延喜式』等で記載が確認される[5]。それ以前の祭神は明らかではなく、タケミカヅチを藤原氏の氏神と見て、中臣氏・藤原氏の進展に伴って当宮にあてられたとする見方がある[6][7](詳細は後述)。

歴史

創建・伝承

当宮の由緒は、鎌倉時代の『鹿島宮社例伝記』に記載されている。同記によると神武天皇元年から21年に造立があったといい[6]、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている[8]

一方『常陸国風土記』にも当宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている[6]。また、この「香島の天の大神」は「天の大神の社」「坂戸の社(現 摂社・坂戸神社)」「沼尾の社(現 摂社・沼尾神社)」の三社の総称であるともいう[5]。第10代崇神天皇の御世には、大中臣神聞勝命が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じたという[6]。さらに第12代景行天皇の御世には、中臣臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したことが記され、これが御船祭の起源とされる[6]

概史

飛鳥時代

香取神宮千葉県香取市
下総国一宮。鹿島神宮とは深い関係にあり、古来並び称される。

『常陸国風土記』では鹿島社の神戸、すなわち祭祀維持のための付属の民戸が多く設置されたことが見える。また同記では、大化5年(649年)に神郡として香島郡(鹿島郡)が成立し、天智天皇年間(668年-672年)には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと記す[6]。以上の背景としては大化改新後の新政による朝廷の東国経営強化が考えられ、改新を契機として朝廷は鹿島社とつながりを深め、天智朝の社殿造営を大きな画期としたと見られている[6]

このような結びつきの背景としては、中臣氏の存在が指摘される[6]。中臣氏は6世紀後半から7世紀初頭に祭祀制度の再編を行なっており、これに伴って東国に中臣部や卜部といった部民を定め、鹿島社の祭祀を掌握したと見られている[6]。実際、鹿島郡司や社の神職には中臣姓が散見される[6]。そして、大化改新後に中臣氏は政治的に躍進し、鹿島社も朝廷との関係を深めたという[6]。中臣氏進出以前の祭祀氏族については諸説あるが、明らかではない(後述)。

鹿島神が朝廷の東国経営で大きな役割を果たした様子を表すものとしては、後世の『日本三代実録』や『延喜式神名帳』において陸奥国内に多くの鹿島神の苗裔神(御子神)の記載が指摘される(「鹿島苗裔神」節参照)[6]。その記載から、鹿島神は国土平定の武神・水神として太平洋沿岸部を北上、その過程で各開拓地で祀られ、最終的に宮城県石巻市付近まで影響力を及ぼしたことがうかがわれる[9]

奈良時代

春日大社奈良県奈良市
藤原氏の氏社で、創建に際して氏神・武甕槌神は鹿島から春日へ勧請され、春日社の主神をなした。

奈良時代には、史書に多数の神戸の記事が載り、豊かな経済基盤を有していたことがうかがわれる(「社領」節参照)。

またこの時代、鹿島社は藤原氏から氏神として特に崇敬された。神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現 春日大社)が創建されたといい[注 1]、鹿島から武甕槌神、香取から経津主命、枚岡から天児屋根命比売神が勧請された[10]。これら4柱のうち特に鹿島神が主神であったと見られ、春日社の元々の祭祀も鹿島社の遥拝に発したと見られている[10]。その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年藤原良継の病の際には「其氏神の鹿島社」に対して正三位の神階が叙されている[原 2]

平安時代

平安時代以降の神階としては、承和3年(836年)に正二位勲一等[原 3]、承和6年(839年)に従一位勲一等[原 4]の記事が見える[6]嘉祥3年(850年)9月15日には、春日社の建御賀豆智命は正一位に達した[原 5](勧請元の鹿島社も同時に叙せられたという見方もある[11])。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では「常陸国鹿島郡 鹿島神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて式内社名神大社)に列しており、月次祭新嘗祭では幣帛に預かった。なお、同帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、伊勢神宮・香取神宮と当宮の三社のみであった。また、常陸国一宮として崇敬された[注 2]

鎌倉時代から戦国時代

当宮は武神を祀るため中世の武家の世にも神威は維持され、歴代の武家政権や大名から崇敬を受けた[12]源頼朝から当宮に多くの社領を寄せられたように、神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多く見られる[12]。その反面、武家による神宮神職への進出や神領侵犯も度々行なわれており[12]、頼朝による鹿島氏(常陸大掾氏一族)の惣追捕使への任命は、結果として当宮への藤原氏の影響力をなくした[12][4]

室町時代には、武家政権の神領寄進に平行して在地勢力による侵犯が進み、社殿造営費用にも欠く状態であったという[13]

江戸時代

江戸時代には江戸幕府からも崇敬を受け、慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿(現 奥宮)が造営された[14]元和5年(1619年)には徳川秀忠により現在の社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された[14]

明治以降

明治維新後、明治4年(1871年)5月に近代社格制度において官幣大社に列した。

大鳥居(2008年)

平成23年(2011年)の東北地方太平洋沖地震では、大鳥居(二の鳥居)・御手洗池鳥居が崩落し、多くの灯籠が倒壊した。御手洗池の水位の減少も発生したが、国宝や重要文化財に損傷はなかった。平成24年(2012年)1月、境内の杉材を用いて大鳥居を再建することが発表された(2014年完成予定)。

神階

注)記事では春日社の他の祭神3柱も叙せられている。後の『日本三代実録』でそれら3柱の勧請元社がこの記事の策命を継いで昇進していることから、元社と春日社は同時に叙位したとも見られている[11]

神職

『常陸国風土記』にも見えるように、古代常陸には中臣部卜部が多く住んでおり、神職を兼ねる者も多かったと見られている[15]。天平18年(746年)には、これら当地に住む中臣部20烟・卜部5烟に「中臣鹿島」姓が下賜された[原 7]。以後の神宮の主な神職は、この在地の中臣鹿島氏(中臣氏)と中央の大中臣氏が担っていった。

延長5年(927年)成立の『延喜式』では、神宮の職制について宮司1人、禰宜1人、祝1人、物忌1人からなるとし[原 8]、宮司は従八位に準じるとしている[原 9][12]

鎌倉時代に入り、源頼朝は常陸大掾氏一族の鹿島氏を惣大行事に任じた[16]。それまで神職の補任権は基本的に藤原氏が担っていたが、この武家の進出によりその影響からは離れていった[16]

文永3年(1266年)の「諸神官補任之記」によれば、当時の神宮の神職には大宮司を筆頭として、大禰宜、物忌及びその父(千富禰宜)、惣大行事、検非違使・惣追捕使・押領使、宮介・権禰宜・和田権祝・益田祝・惣申権祝・田所権祝、案主3人その他、神夫・郷長・判官など、50人は軽く超える数がいたという[16]

主な職は次の通り。

  • 大宮司 (だいぐうじ)
神宮の最高責任者[17]
古くは中央の大中臣氏から補任されていたが、長元年間(1028年-1037年)から大中臣氏と中臣氏(中臣鹿島氏)が交互に務めるようになり、建長年間(1249年-1256年)以後は中臣氏が世襲した(近世に塙氏を称する)[12]
  • 大禰宜 (おおねぎ)
庶務をすべ、神体奉戴や献饌も行なった[17]
貞観8年(866年)には禰宜が確認され、承安年間(1171年-1175年)を大禰宜の初めとして、以後中臣氏が世襲した(近世に羽生氏を称する)[12]。なお、一時期に鹿島氏(常陸大掾氏)も担っていた[15]
中世以後は大宮司よりも多くの所領を有しており、神宮で最も実力を持っていた[18]
  • 物忌 (ものいみ)
本殿内陣奉仕役[17]
古くは神職の未婚の娘から卜定され、中世末からは当禰宜(千富禰宜・物忌代とも)の女が選ばれた[14]。物忌の父・当禰宜は本来中臣氏であったが、中世末に千葉氏流の東氏が継ぎ、物忌の後見役として重きをなした[14]
初代物忌は神功皇后の娘・普雷女(あまくらめ)と伝えられ[19]、終身職であったため、明治の廃絶までに27人を数えるのみという[20]。物忌が住した物忌館(ものいみやかた)は、境外摂社・跡宮の傍とされる[14]

社領

『常陸国風土記』における神戸の記載は、次の通り[6]

また奈良時代の文書には、次の記載がある[6]

平安時代、藤氏長者は職封より10戸の寄進を例としたという[18]。平安時代末期以降は、各神官がそれに付属する所領と私領を世襲した[18]

中世には神領侵犯が度々行なわれ、社殿造営費用にも欠く状態であったという[13]。のちに豊臣秀吉により侵犯は停止され、文禄4年(1595年)の検地で社領は405石と定められた[13]

徳川家康からは慶長7年(1602年)に1,500石が加増され、社領は2,000石に及んだ(うち大宮司100石、当禰宜300石、大禰宜・大祝各40石)[13][18]

社殿造営

社殿の造営について、『常陸国風土記』では天智天皇年間(668年-672年)にすでに造営のことが見える[16]

『鹿島長暦』によれば大宝元年(701年)に正殿・仮殿が造営されたといい、この時から20年に1度の式年造営が定められたという[16]。この「20年に1度」という式年造営の事実は、『日本後紀』弘仁3年(812年)の記事(社殿全ての造替を正殿のみに変更)[原 15]や『日本三代実録』貞観8年(866年)の記事[原 16]、『延喜式』臨時祭[原 17]にも見える[16]。その用材は、材木5万余枝、工夫16万9千余人、料稲18万2千余束を要したという[原 18]

『鹿島町史』によれば、平安時代から戦国時代までの造営の年次は、貞観8年(866年)、天慶3年(940年)、長和4年(1015年)、天永2年(1111年)、承安3年(1173年)、建暦元年(1211年)、弘長3年(1263年)、弘安5年(1282年)、正応2年(1289年)、正和4年(1315年)、元亨3年(1323年)、応永25年(1418年)、永享7年(1435年)、大永2年(1522年)、永禄2年(1559年)に確認される[16]

慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿、元和5年(1619年)には徳川秀忠により社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された[14]

境内

ファイル:鹿島神宮 境内図.JPG
境内図(説明板より)

神宮の鎮座する地は「三笠山(みかさやま)」と称される[21]。神宮は『常陸国風土記』の記載以来この地に鎮座し続け、時代ごとに大きな役割を担ってきた。そのため、境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして国の史跡に指定されている(摂社・坂戸神社境内、摂社・沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)[22]

境内の広さは約70ヘクタール[23]にも及び、多くの草木が生育している。この樹叢には神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常緑照葉樹林であるとして県の天然記念物に指定されている[24]

社殿

拝殿(重要文化財)
仮殿(重要文化財)
楼門(重要文化財)

主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも江戸時代初期の元和5年(1619年)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営のもので[25]、幕府棟梁・鈴木長次の手による[26]。幣殿は拝殿の後方に建てられ、本殿と幣殿の間を「石の間」と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、一種の複合社殿の形式をとっている[26]。楼門を入ってからも参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続するという、特殊な位置関係にある[27]。そのため社殿は北面しており、それは「北方の蝦夷に睨みを利かせるため」という伝えがある。なお、古くは社殿は20年ごとに造営が行なわれていたという。

本殿は三間社流造、向拝一間で檜皮葺。漆塗りで柱頭・組物等に極彩色が施されている[26]。元和5年(1619年)の造営までは、現在の境内摂社・奥宮の社殿が本殿として使用されていた。現在の本殿は北を向いているが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあり、参拝者とは相対せず東を向いているという[28]。この構造に関しては、出雲大社との類似が指摘される[28]。『鹿島宮社例伝記』によると、本殿は古くは普段開かれることのない「不開御殿(あかずのごてん)」と称され、毎年1月7日にのみ物忌によって戸が開かれ幣を交換する習わしであったという[29]。また本殿の背後には杉の巨木が立っており、樹高43メートル・根回り12メートルで樹齢約1,000年といわれ神木とされている[24]。そのさらに後方、玉垣を介した位置には「鏡石(かがみいし)」と呼ばれる直径80センチメートルほどの石があり、神宮創祀の地とも伝えられている[5]

石の間は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は幣殿に接続する[30]。本殿同様、漆塗りで極彩色が施されている[26]幣殿は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は拝殿に接続する[30]拝殿は桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺[30]。幣殿・拝殿は、本殿・石の間と異なり漆や極彩色がなく、白木のままの簡素な意匠である[26]。これら本殿・石の間・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。

拝殿の右前方には南面して仮殿が立っている。仮殿は「権殿」ともいい、本殿造営の際に一時的に神霊を安置するために使用される[31]。元和5年(1619年)に現在の本殿が造営される際、本殿同様に幕府棟梁・鈴木長次の手によって建てられた[31]。構造は桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺である[30]。仮殿であるため比較的簡素な作りであるが、一部には漆彩色が施されている[31]。なお、造営当初は拝殿の左前方にあって西面していたというが、再三位置を変えた末、昭和26年(1951年)に現在の位置に定まった[31]。この仮殿は国の重要文化財に指定されている。

境内の入り口には西面して楼門が立ち、「日本三大楼門」の1つに数えられる[注 3]寛永11年(1634年)、初代水戸藩主徳川頼房の命による造営のもので、棟梁は越前の大工・坂上吉正[32]。構造は三間一戸(扉口は省略)、入母屋造の2階建てで、現在は銅板葺であるが元は檜皮葺という[32][30]。総朱漆塗りであり、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという控え目な意匠である[32]。扁額は東郷平八郎の書。楼門左右の回廊も同時の作であるが、のちに札所が増設された[32]。楼門は国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市の文化財に指定されている。

要石

要石

要石(かなめいし)は、境内東方に位置する霊石。地上では直径30センチメートルほどで形状は凹型。なお、香取神宮には凸型の要石がある。

かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていた。要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として現在にも伝わっている。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。『水戸黄門仁徳録』によれば、水戸藩主・徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったという。

鹿島神宮と地震に関する俗信の広まりでは、以下の地震歌が知られる。

ゆるげども よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらん限りは
鹿島の神さえいれば、要石は緩むことはあっても、抜けてしまって大地震が起こることはないだろう

この歌は、中世から江戸期に活動した鹿島事触(かしまのことぶれ)が神宮の霊験として地震除けを宣伝する際に用い、各地に広めたといわれている。過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたという伝承もある[33]。この要石は「鹿島七不思議」の1つに数えられている[34]

御手洗池

御手洗池

御手洗池(みたらしいけ)は、神宮境内の東方に位置する神池。古くより潔斎()の地である。古くは西の一の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられており[5]、「御手洗」の池名もそれに由来するとされている[34]

池には南崖からの湧水が流れこんでおり、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる[35]。この池に大人が入っても子供が入ってもその水深は乳を越えないといわれ、「鹿島七不思議」の1つに数えられている[34]

鹿園

鹿園

境内には鹿園があり、神使(神の使い)とされる30数頭の日本鹿が飼育されている。

『古事記』では、天照大神の命をタケミカヅチに伝えたのは天迦久神(あめのかくのかみ)としている。この「カク」は「鹿児(かこ)」すなわち鹿に由来する神とされる[36]ことに基づき、神宮では鹿を使いとするという[37]。また、神宮の社名が「香島」から「鹿島」に変化したことについても、鹿を神使としたことに由来するともいわれる[37]春日大社の創建に際しては、神護景雲元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており[37]、奈良の鹿も当宮の発祥とされている。

鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けている[37]。なお、鹿島アントラーズのチーム名は、英語で鹿の枝角を「アントラー(antler)」 と言うことに由来する。

参道

神宮には一の鳥居が東西に2基存在する。

1基は神宮西方、北浦湖畔の鹿嶋市大船津(北緯35度57分40.01秒 東経140度36分41.31秒)にあり、鰐川の中に立つ。御船祭の際にはここから御座船が出発する。古くから大船津は神宮参拝者の船着場であったため[38]、神宮の門前町も西方に広がっている。なお、中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津東西社から舟で御手洗池まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられている[5]

もう一方の一の鳥居は神宮東方、太平洋に面する明石の浜(北緯35度59分43.34秒 東経140度39分22.91秒)に立つ。伝承では、武甕槌・経津主両神はこの明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという[39]

摂末社

摂末社は、摂社7社(境内3社、境外4社)・末社15社(境内8社、境外7社)。

摂社

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奥宮(重要文化財)
境内社
  • 奥宮 (おくのみや)[40]
  • 祭神:武甕槌大神荒魂
本宮社殿からさらに参道を進んだ先に、本宮本殿同様に北面して鎮座する(北緯35度58分12.57秒 東経140度38分06.79秒)。仁治2年(1241年)の火災で「不開御殿奥御殿等は焼かず」という記録があり[原 19]、この「不開御殿(あかずのごてん)」は本殿、「奥御殿」は奥宮とみて鎌倉時代にはすでに奥宮が存在したと見られている[41][14]
社殿は、江戸時代初期の慶長10年(1605年徳川家康により関ヶ原戦勝時の御礼として奉納された本宮旧本殿である[42]。元和5年(1619年)の造替により現在地に移され奥宮本殿とされた[42]。構造は三間社流造で一間の向拝を付するが、のちの修理の際に現本殿に倣って改造が施されたと見られている[42]。総白木作りの簡素な意匠であるが、彫刻には桃山時代の大胆な気風も見える[42]。境内の社殿では最も古く、国の重要文化財に指定されている[42]
高房神社
  • 高房神社 (たかふさじんじゃ)
本宮の社殿正面に鎮座する(北緯35度58分09.12秒 東経140度37分53.29秒)。本殿に詣でる前に参拝するのが古例とされる[43]
祭神は、『日本書紀』によれば天香香背男討伐で武甕槌神によって派遣され活躍したという。静神社(常陸国二宮)では主祭神として祀られている。
社殿は元和5年(1619年)の本殿造替とともに造替されたと伝えられる[43]。鎮座位置や祭神の関係から、摂社のうちでもかなり古いものと考えられている[44]
三笠神社
  • 三笠神社 (みかさじんじゃ)
  • 祭神:三笠神
本殿の東脇に鎮座する(北緯35度58分07.43秒 東経140度37分54.52秒)。当社の由来は祭神も含めて古来定かでない。神宮側では、当地を「三笠山」と称することから地主神と推察している[45]。この「三笠山」の呼称に関しては、奈良の三笠山(御蓋山)との関係性が指摘される[45]
境外社
跡宮(鹿嶋市神野)
  • 跡宮 (あとのみや)
「荒祭宮」とも。鹿島神の最初の降臨地と伝えられ、奈良春日への勧請の際に武甕槌神はここから出発したという[45]。かつて当社の傍らには、神宮の祭祀を司る女性斎主(物忌)が住む「物忌館」があった[45][14]
坂戸神社(鹿嶋市山之上)
  • 坂戸神社 (さかとじんじゃ)
『常陸国風土記』には本宮・沼尾神社と当社の三社をもって「香島天大神」と総称されたとあり、風土記成立時の養老5年(721年)までは遡ることができる。
祭神は『常陸国風土記』に記載のある大中臣神聞勝命の祖神で、中臣氏藤原氏の氏神である[46]
本殿は平入り、拝殿は妻入り[47]。境内は国の史跡に指定されている(本宮境内に包括)[22]。なお、本宮境内には当社の遙拝所がある。
沼尾神社(鹿嶋市沼尾)
  • 沼尾神社 (ぬまおじんじゃ)
『常陸国風土記』には本宮・坂戸神社と当社の三社をもって「香島天大神」と総称されたとあり、風土記成立時の養老5年(721年)までは遡ることができる。
祭神は香取神宮の主祭神で、武甕槌神とともに東国を開いたとされる。伝承では、武甕槌・経津主両神は明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという[39]
本殿は元和5年(1619年)の造替で奥宮から移されたものであったが[48]、現在のものは昭和28年(1953年)の改築によるもので、拝殿は妻入り[49]。境内後方には風土記にある「沼尾池」の面影が残っている(江戸期にはすでに枯渇[50][49]。なお、この沼尾池並びに沼尾神社が鹿島神の本源とする説もある[14]後述)。当社境内は国の史跡に指定されている(本宮境内に包括)[22]。なお、本宮境内には当社の遙拝所がある。
息栖神社神栖市息栖)
国史見在社東国三社の一社。摂社であるが、独立した神社で旧社格は県社[51]
岐神は東国開拓の際に武甕槌大神を出雲から東国へ、天鳥船神は国譲りの際に武甕槌大神を出雲へそれぞれ先導した神とされる[51]。「息栖」は「沖洲」の転訛、すなわち香取海に浮かぶ沖洲に祀られていたと考えられている[52](詳細は「息栖神社」参照)。

末社

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境内の末社群
中央に坂戸・沼尾神社遥拝所。左右に末社4社。
稲荷社
境内社
古くは境外社で、鹿嶋市大船津(北緯35度57分54.56秒 東経140度37分07.12秒)に津東西社跡の石碑が残る。
境外社

祭事

式年祭

式年大祭として、御船祭(おふなまつり)が12年に1度の午年に行なわれる。鹿島神宮祭神と香取神宮祭神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典であり、水上の御船祭としては日本最大の規模を誇る。

御船祭は応神天皇の時代に祭典化されたと伝えられる。戦国の混乱により室町時代に大祭としては一度途絶えたが、明治3年(1870年)に数隻の船によって御船祭は再興され、明治20年(1887年)に午年毎の式年大祭として定められた。

現代の御船祭の流れは次の通り。

  • 9月1日午前、天皇から遣わされる勅使の参向を仰いで例大祭を執行。
  • 2日早朝、鹿島神宮を進発した神輿は陸路を北浦湖岸の大船津に到着。大船津で神輿が龍頭の飾り等を施した御座船(ござぶね)に載せられ、船団を組む数十隻(2002年においては約90隻)の供奉船とともに水上渡御し香取市加藤洲に至る。
加藤洲では香取神宮の御迎祭を受け、雅やかな祭礼のハイライトを迎える。その後、水路を還幸して行宮に戻る。
  • 3日午後、行宮から本殿へと還幸。

年間祭事

白馬祭
白馬祭(おうめさい)は、1月7日に行なわれる祭事。かつて神宮では、元旦から祭神は眠っているとして祭事を控え、祭神の目覚める1月7日に物忌によって不開御殿(本殿)を開ける「御戸開き神事」が行なわれた[53]。その際邪気祓いのため白馬が静かに曳き廻されたが、次第に御戸開きの鍵の音が聞こえないよう荒々しく廻すようになったという[53]。現在では御戸開き神事は行なわないが、代わりに「白馬祭」として、東神門から楼門まで白馬で駆け抜ける神事が行なわれる[53]
祭頭祭
祭頭祭(さいとうさい)は、3月9日に行なわれる祭事。神宮の南北66郷(現在は北郷24、南郷26)から卜定で選ばれた2郷が神宮に奉仕を行う[23]。5歳位の新発意(しぼち)を先頭に立てた色鮮やかな集団により、神前まで祭頭ばやしが行なわれる[54]。祭は国の無形文化財に選択されている。

神宝

韴霊剣

石上神宮奈良県天理市
武甕槌神から神武天皇に授けられた韴霊剣(初代)を祀る。

韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)は、神宮に伝えられている神剣。別称を「平国剣(ことむけのつるぎ)」。国宝に指定されており、指定名称は「直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) 附 刀唐櫃」。古くより神宝として本殿内陣で秘められていた。

柄(つか)・鞘を含めた全長は2.71メートル、刃長は2.24メートルの直刀で、奈良時代末期から平安時代初期の作と見られている。現存する伝世品(出土品でない)の日本刀の中では古例の1つであり、また刃長の点では最大の作品とされる。長大な刀身を作るために、途中4か所で刀身を繋ぎ合わせるという極めて珍しい手法を使っていることが判明しており、技術的にも貴重な存在である。外装(柄・鞘)は、黒漆塗りの上に平文(ひょうもん、金銀などの薄板を貼って文様を表す技法)や金銅透かし彫りの金具で装飾を施した古様な技法によるもので、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」の流れを汲むものとされる。

フツノミタマは『古事記』『日本書紀』でも「韴霊剣」「布都御魂剣」等として言及があり、神武天皇に際してタケミカヅチから高倉下を通じてイワレビコ(神武天皇)に下された神剣としている。この剣は、神武天皇即位後に宮中に祀られ、のち崇神天皇の御世に石上神宮奈良県天理市)に遷され祀られたとされる[55]。鹿島神宮に伝わるフツノミタマは、上記のように初代・フツノミタマがついに鹿島神の元に帰ることはなかったので、後世に改めて作られたものだという[56]

『常陸国風土記』には砂鉄の記述があり、それとの関連も指摘される[57]。なお、『古事記』ではタケミカヅチの別称を「建布都神(たけふつ)」「豊布都神(とよふつ)」とも記すが、この「フツ」は刀剣に由来する呼称と見られ、タケミカヅチは刀剣の神とも考えられている[58]

常陸帯

常陸帯(ひたちおび)は、神宮に伝わる神宝の1つ。古くより本殿深く箱の中に納められており、現在も見ることはできない[59]

この常陸帯とは、神功皇后三韓征伐での鹿島神の守護に感謝して奉納した腹帯であるとされる[60]。『源氏物語』竹河の巻や『古今和歌六帖』にも記載が見え[61]、その平安時代当時においてもすでに古い習俗と見なされている[62]

この伝承に基づき、かつて1月14日には「常陸帯神事」が行なわれていた。祭事では、男女の名を記した帯の先を神前に供え、神主がそれを結び合わせ結婚が占われた[63]。その後、この祭事は妊婦に腹帯を授ける安産信仰に変化したという[61]

文化財

国宝

  • 直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) (附 刀唐櫃)(工芸品) - 通称「韴霊剣」。昭和30年6月22日指定[64][57]。 

重要文化財(国指定)

  • 本殿、石の間、拝殿、幣殿(附 棟札2枚)(建造物) - 明治34年3月27日指定[26]
  • 摂社奥宮本殿(附 棟札1枚)(建造物) - 明治34年3月27日指定[42]
  • 楼門(建造物) - 昭和41年6月11日指定[32]
  • 仮殿(建造物) - 昭和51年5月20日指定[31]
  • 梅竹蒔絵鞍(附 四手蒔絵居木一双)(工芸品)
鎌倉時代の作で、蒔絵の和鞍の中で最古のものである。社伝では『吾妻鏡建久2年(1191年)の記事[原 20]にある源頼朝寄進の軍陣鞍とするが[65]、通常の軍陣鞍とは様式が異なっており、祭事に使用したものと推測されている。昭和34年6月27日指定[66]

国の史跡

  • 鹿島神宮境内附郡家跡 - 以下の4カ所の総称。
    • 鹿島神宮境内
    • 摂社坂戸神社境内
    • 摂社沼尾神社境内
    • 鹿島郡家跡
昭和61年8月4日指定、平成元年9月22日追加指定、平成11年1月14日追加指定[22]

選択無形文化財(国選択)

  • 鹿島の祭頭祭 - 昭和51年12月25日選択[54]

茨城県指定文化財

有形文化財
  • 木造狛犬 2躯(彫刻)
江戸時代初期、元和5年(1619年)の作。寄せ木造り、漆箔で、高さは阿型が77.3センチメートル、吽型が80.3センチメートル。昭和33年7月23日指定[67]
  • 木造狛犬 2躯(彫刻)
鎌倉時代の作。寄せ木造り、漆箔で、高さは各72センチメートル。昭和40年2月24日指定[68]
  • 黒漆螺鈿蒔絵台 1基(工芸品)
鎌倉時代末期。昭和33年7月23日指定[69]
  • 銅印 1顆(工芸品)
平安時代の作で、印文は「申田宅印」。「申田」の意味には「神田」という説と「神璽」という説がある。暦応4(1341年)を初見として、古文書に押印された例が見える。昭和33年7月23日指定[70]
  • 陶製狛犬 3躯(工芸品)
室町時代の作と見られる。昭和33年7月23日指定[71]
石造燈籠(県指定文化財)
  • 石造燈籠 1基(工芸品)
江戸時代初期、元和5年(1619年)の作。搭高256センチメートル。昭和33年7月23日指定[72]
  • 鐃 1口(工芸品)
平安時代前半の作の三鈷鐃。昭和33年7月23日指定[73]
  • 軍配 1口(工芸品)
室町時代の作。昭和33年7月23日指定[74]
  • 太刀(銘 景安) 1口(工芸品)
平安時代末期、備前刀工(古備前派)の景安の作と見られる。初代水戸藩主・徳川頼房の寄進による。身長は77.5センチメートル。昭和36年3月24日指定[75]
  • 草花双鳥円鏡 1面(工芸品)
室町時代の作。昭和45年(1970年)に盗難に遭った(未発見)。昭和40年2月24日指定[76]
  • 十一面観音御正体 1面(工芸品)
鎌倉時代初期の作。昭和45年(1970年)に盗難に遭った(未発見)。東南に昭和40年2月24日指定[77]
  • 鹿島神宮文書 18巻(古文書)
元暦2年(1185年)の源頼朝下文から明治4年(1871年)の神祇官達書に至る、総計250点の古文書群。巻子で18巻に仕立られている。平成22年11月10日指定[78]
天然記念物
境内の社叢(県指定天然記念物)
  • 鹿島神宮樹叢 - 昭和38年8月23日指定[24]

鹿嶋市指定文化財

  • 楼門回廊 2棟(建造物) - 昭和57年3月20日指定。

その他

  • 悪路王の首像・首桶
蝦夷の悪路王の首と首桶を、江戸時代の寛文4年(1664年)に木造で復元し奥州の藤原満清が奉献したもの。悪路王とは、平安時代坂上田村麻呂が征伐した蝦夷の指導者・アテルイを指すとしている。
選定

関係事項

鹿島郡衙

神野向遺跡(鹿嶋市宮中)

鹿島郡(香島郡)は、『常陸国風土記』によれば常陸国那珂郡及び下総国海上郡からそれぞれ割き、当初より神郡として建郡されたという[3]。神郡の郡家であるので、その郡家(郡衙)は神社の傍であると推察され[79]、『常陸国風土記』には「其の社の南、郡家の北に沼尾の池あり」の記載も見えるが、当時の遺構は見つかっていない。

8世紀以降の新郡衙跡は、神宮の南約1.5kmに位置する鹿嶋市宮中の神野向遺跡(かのむかいいせき、北緯35度57分19.29秒 東経140度38分01.67秒)で発見された。遺構は、8世紀前半から10世紀初め頃までの郡庁内郭・厨家相当施設・正倉院等で構成されている[30]。鹿島神宮境内の附として国の史跡に指定されている[80][22]

鹿島苗裔神

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鹽竈神社宮城県塩竈市
陸奥国一宮。塩土老翁神に武甕槌・経津主両神を合わせ祀る。
鹿島御児神社宮城県石巻市
鹿島の「御児神」を祀る、鹿島苗裔神の一社。

鹿島神宮は東国開拓の拠点であったことから、その苗裔神(びょうえいしん)すなわち御子神(みこがみ)が各地に形成された[9]。『常陸国風土記』にはすでに、行方郡に分祠の記載が見える。

『日本三代実録』の貞観8年(866年)の記事[原 16]には、神宮司の言として陸奥国に苗裔神が38社あると記載されている[9]。その内訳は、菊多郡 1、磐城郡 11、標葉郡 2、行方郡 1、宇多郡 7、伊具郡 1、曰理郡 2、宮城郡 3、黒河郡 1、色麻郡 3、志太郡 1、小田郡 4、牡鹿郡 1であるが[原 16]、具体的な社名は記されていない。

延喜式神名帳』では、陸奥国に「鹿島」を冠する神社として以下8社の記載が見える(「陸奥国の式内社一覧」参照)。

以上から、鹿島神が海岸沿いを北上して牡鹿郡、すなわち石巻市付近まで進出したものと指摘される[9]。『延喜式神名帳』には香取神宮の苗裔神2社も見られることから、大和朝廷の勢力が海岸沿いに北進する際に、鹿島・香取神の神威を仰いだものと考えられている[9]。特に、陸奥国一宮の鹽竈神社(宮城県塩竈市北緯38度19分08.12秒 東経141度00分45.47秒)で武甕槌・経津主両神が祀られていることに、その様子が顕著にうかがわれる[9]

また『日本三代実録』の記事にある磐城郡の11社という数字は群を抜いており、道奥石城国造との関係が指摘される[81]。さらに同記事によれば、陸奥国での鹿島神の祟りが甚だしいので嘉祥元年(848年)に宮司らが奉幣に向かったが、陸奥国に入ることを許されなかったという[原 16]。この記載について、本社の祀官氏族が代わったため分社側が抵抗したと見る考えがある[81]

鹿島神宮寺

鹿島神宮寺(かしまじんぐうじ)は、かつて鹿島神宮内にあった神宮寺

嘉祥3年(850年)や天安3年(859年)の太政官符によると[原 21]天平勝宝年間(749年-757年)に鹿島郡大領・中臣連千徳、元宮司・中臣鹿島連大宗、修行僧・満願らにより創建されたといい、承和4年(837年)には定額寺に列せられたという[14]。南北朝時代には別当寺として神宮に深く関与した[14]

寺はたびたび移転して江戸時代には新町にあったといい、真言宗仁和寺の末寺として「鹿島山」を山号とし、釈迦如来本尊とした[16]。門徒寺を100近く有する有力寺院であったが、幕末になり文久3年(1863年)に水戸天狗党によって、また元治元年(1864年)には正義隊によって荒廃、明治元年(1868年)10月に廃寺となった[82]

鹿島使

鹿島使(かしまづかい)は、鹿島神宮に遣わされた奉幣使[83]。2月に行なわれる春日祭(春日大社例祭)や藤原氏関連の重要な人事に際し朝廷から発遣された[12]

延喜13年(913年)を初見として、藤氏長者から勧学院学生が任命され内蔵寮史生を添えて遣わされた[12]。王朝衰退とともに長寛元年(1163年)に国司代・大掾氏からの鹿島大使役に代わり、毎年7月中旬に参向があった[12][83]。これは応永年間(1394年-1428年)まで続き、その後は断続的に文亀3年(1503年)まで続いた[83]

鹿島立

「旅立ち」「門出」を意味する鹿島立(かしまだち)という名詞[84]は、鹿島神宮に由来するとされる。鹿島神が国土を平定したことからとも、防人・武士が旅立ちで無事を鹿島神宮に祈願したことからともいわれる[84]

関連して、防人が鹿島神に祈った歌として『万葉集』の次の歌が知られる[原 22]

天平勝宝7年2月、相替遣筑紫諸国防人等歌
 霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍に 我れは来にしを
 あられふり かしまのかみを いのりつつ すめらみくさに われはきにしを

—大舎人部千文、『万葉集』巻20 4370番

鹿島七不思議

鹿島神宮には「七不思議」と呼ばれるものがあり、以下の7項目が挙げられる[61]

  • 要石
  • 御手洗池の水深
  • 末無川 - 高天原の境内地で湧出した水の行方がわからないという[85]
  • 境内三笠山の藤の花 - 藤の多く咲く年は豊作、少ない年は凶作という[85]
  • 鹿島灘の海鳴 - 奥宮付近で波の音が北の方に聞こえる時は晴れ、南に響く時は雨が降るという[85]
  • 根上りの松 - 神宮の松は幾度伐っても目が出て枯れないという[85]
  • 松の箸 - 神宮の松で作った箸からは脂が出ないという[85]

考証

本源地について

『常陸国風土記』によれば、鹿島神宮は「香島の天の大神」と記され、以下三社の総称であるという[50]

  • 天の大神の社 (あめのおおかみのやしろ) - 現在の鹿島神宮(本宮)
  • 坂戸の社 (さかとのやしろ) - 現在の境外摂社・坂戸神社
  • 沼尾の社 (ぬまおのやしろ) - 現在の境外摂社・沼尾神社

このように古くは三社が並立状態であったとされる。それを表すものとして、『常陸国風土記』で景行天皇年間に舟3隻を奉献したという記載(御船祭起源説話)も指摘される[86]。これらのうち、以下のように本源地を「天の大神の社」以外に取る説が古くより提唱されている。

沼尾社を本源とする説では、「沼尾池」そのものが神であると指摘される[14][87]。その根拠として、『常陸国風土記』で沼尾池を「天から流れてきた水がたまった沼」とする表現が主張される[14][87]

これに対して坂戸社とする説では、『常陸国風土記』で「坂戸・沼尾」という書き順や、神社近くにあるべき古郡衙が坂戸社の鎮座する「山之上」に推定されることが挙げられる[87]。この中で社名「坂戸」の意味について、「さか」を「境」と見て、蝦夷地への境界を意味するとも指摘される[88]

また三社の関係についても、坂戸社・沼尾社をペアとして天の大神の社は後から建てられたものとする見解もある[87]

祭神・祭祀氏族について

大生神社(茨城県潮来市
鹿島の元宮であるという。

鹿島神宮の祭神は現在タケミカヅチとされるが、『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』には祭神をタケミカヅチとする直接的な言及はなく、初見は大同2年(807年)成立の『古語拾遺』まで下る[5]。そのため、祭神の経緯については諸説が提唱されている。

神宮の黎明では、有史上はすでに中臣氏との深い関係が確認される。そして、6世紀以降に朝廷の東国(蝦夷)経営が進むにつれて、中臣氏を媒介として鹿島・香取両神宮に中央神話のタケミカヅチ・フツヌシが請来されたという見方がある[6](ただしフツヌシは物部氏の氏神ともいわれる)。この中臣氏進出以前には別の氏族が祀っていたものと見る説があり、その傍証として、藤原宇合が編纂にあたったとされる『常陸国風土記』にさえタケミカヅチの記載がない(宣伝できなかった)事実[89]前述の『日本三代実録』の鹿島苗裔神に関する陸奥入国拒否の記事[81]、中臣氏には蝦夷地進出の伝承が全くない事実[89]が指摘される。

中臣氏以前の祭祀形態を示唆するものとしては、大生神社潮来市大生、北緯35度59分30.54秒 東経140度33分06.43秒)が知られる[90]。同社は鹿島神の元宮とも伝えられ、その例祭には鹿島神宮から物忌が出輿したという[91]。大生神社社伝からは、春日大社創建を契機として鹿島神宮が性格を変えたこと、またそれに大生神社が関わっていることが示唆される[90]。また、その社名「大生」は多氏(おおうじ)に由来するとされ[92]、当地に残る古墳時代中期(5世紀)の古墳群(大生古墳群)はその墓とされる[93]。多氏については、鹿島郡を割く以前の那珂郡を治めた仲国造や、鹿島苗裔神が特に多い陸奥国磐城郡をかつて治めた道奥石城国造が多氏一族であったことも併せて指摘される[94]。この説では、上記をもって、多氏(鹿島神)・物部氏(香取神)の蝦夷地進出とともに祭神も北上し、天平年間(729年-749年)以降に中臣氏・藤原氏に代わったと推測されている[95]

現地情報

所在地
付属施設
  • 宝物館 - 開館時間:午前9時から午後4時。直刀(国宝)等の宝物を展示する。
交通アクセス
    • 東関東自動車道 潮来ICから、国道51号を鹿嶋方面へ約20分
    • 駐車場:鹿島神宮第1・第2駐車場(有料)のほか、市営駐車場(有料)が鹿島神宮駅周辺に点在
周辺

脚注

注釈
  1. ^ 春日社創建の正確な年号は明らかではない。「神護景雲2年」は春日大社の社記に基づくもので、『日本三代実録』元慶8年8月26日条を支証とする(『国史大辞典』春日大社項)。
  2. ^ 「一宮」の初見は建暦3年(1213年)(『日本中世国家と諸国一宮制』岩田書院、p. 45)。
  3. ^ 「日本三大楼門」は、当宮のほか阿蘇神社熊本県阿蘇市)、筥崎宮福岡県福岡市)の楼門とされる。
原典
  1. ^ 『続日本紀』養老7年11月16日条(『茨城県の地名』鹿島郡項参照)。
  2. ^ a b 『続日本紀』宝亀8年7月16日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  3. ^ a b 『続日本後紀』承和3年5月9日(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  4. ^ a b 『続日本後紀』承和6年10月29日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  5. ^ a b 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年9月15日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  6. ^ 延暦元年5月20日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  7. ^ 『続日本紀』天平18年3月24日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  8. ^ 『延喜式』(15 内蔵)鹿島香取条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  9. ^ 『延喜式』(3 臨時祭)神宮司季禄条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  10. ^ 『続日本紀』天平宝字2年9月8日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  11. ^ a b 『新抄格勅符抄』(『茨城県の地名』鹿島神宮項参照)。
  12. ^ 『続日本紀』神護景雲元年4月21日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  13. ^ 『続日本紀』宝亀4年6月2日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  14. ^ 『続日本紀』宝亀11年12月22日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  15. ^ 『日本後紀』弘仁3年6月5日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  16. ^ a b c d 『日本三代実録』貞観8年正月20日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  17. ^ 『延喜式』(3 臨時祭)神社修理条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  18. ^ 『日本三代実録』貞観8年正月20日条(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  19. ^ 『吾妻鏡』仁治2年2月12日条(『新鹿島神宮誌』p. 52参照)。
  20. ^ 『吾妻鏡』建久2年12月26日条(梅竹蒔絵鞍<茨城県教育委員会>参照)。
  21. ^ 『類聚三代格』(2 年分度者事)嘉祥3年8月5日官符、同(3 定額寺事)天安3年2月16日官符(鹿島神宮<神道・神社史料集成>参照)。
  22. ^ 『万葉集』巻20 4370番。 - [1](万葉集検索システム<山口大学>)参照。
出典
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  3. ^ a b c d 鹿島郡(角) & 1983年.
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  5. ^ a b c d e f g 鹿島神宮(平) & 1982年, p. 386.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 鹿島神宮(平) & 1982年, p. 387.
  7. ^ 鹿島大神 & 1983年.
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  9. ^ a b c d e f 鹿島御児神社 & 1983年.
  10. ^ a b 稲垣栄三「春日大社」(『国史大辞典』吉川弘文館)。
  11. ^ a b 『奈良県の地名』(平凡社)春日大社項。
  12. ^ a b c d e f g h i j 鹿島神宮(平) & 1982年, p. 388.
  13. ^ a b c d 鹿島神宮(平) & 1982年, p. 389.
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  15. ^ a b 鹿島氏 & 1983年.
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  17. ^ a b c 東 & 2000年, p. 205.
  18. ^ a b c d 社領 & 1983年.
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  20. ^ 跡宮境内説明板。
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  22. ^ a b c d e 鹿島神宮境内附郡家跡(茨城県教育委員会)。
  23. ^ a b 神社由緒書。
  24. ^ a b c 鹿島神宮樹叢(茨城県教育委員会)。
  25. ^ 鹿島 & 2004年, p. 21.
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  29. ^ 鹿島物忌 & 1983年.
  30. ^ a b c d e f 国指定文化財等データベース
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  37. ^ a b c d 鹿園説明板。
  38. ^ 『茨城県の地名』(平凡社)大船津村項。
  39. ^ a b 鹿島 & 2004年, p. 53-54.
  40. ^ 摂末社は『新鹿島神宮誌』第3章(pp. 52-68)による。
  41. ^ 鹿島 & 2004年, p. 52.
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  56. ^ 鹿島 & 2004年, p. 70-72.
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  58. ^ 松前健「建御雷神」(『国史大辞典』吉川弘文館)。
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  61. ^ a b c 鹿島神宮(平) & 1982年, p. 391.
  62. ^ 鹿島神宮(大和) & 1984年, p. 346.
  63. ^ 鹿島神宮(大和) & 1984年, p. 345.
  64. ^ 文化財節は鹿嶋市の指定文化財一覧(鹿嶋市ホームページ)による。
  65. ^ 鹿島 & 2004年, p. 73.
  66. ^ 梅竹蒔絵鞍(茨城県教育委員会)。
  67. ^ 木造狛犬(茨城県教育委員会)。
  68. ^ 木造狛犬(茨城県教育委員会)。
  69. ^ 黒漆螺鈿蒔絵台(茨城県教育委員会)。
  70. ^ 銅印(茨城県教育委員会)。
  71. ^ 陶製狛犬(茨城県教育委員会)。
  72. ^ 石灯籠(茨城県教育委員会)。
  73. ^ (茨城県教育委員会)。
  74. ^ 軍配(茨城県教育委員会)。
  75. ^ 太刀(銘 景安)(茨城県教育委員会)。
  76. ^ 草花双鳥円鏡(茨城県教育委員会)。
  77. ^ 十一面観音御正体(茨城県教育委員会)。
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  79. ^ 鹿島神宮(大和) & 1984年.
  80. ^ 鹿島神宮境内附郡家跡”神野向遺跡”(常陸国風土記1300年記念<茨城県生活環境部生活文化課>)。
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  83. ^ a b c 鹿島使 & 1983年.
  84. ^ a b 『デジタル大辞泉』鹿島立ち項等(コトバンク<朝日新聞社>より)。
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  90. ^ a b 大生神社(大和) & 1984年, p. 357-358.
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  93. ^ 大生古墳群(茨城県教育委員会)。
  94. ^ 大生神社(大和) & 1984年, p. 360-362.
  95. ^ 大生神社(大和) & 1984年, p. 367.

参考文献

原典
  • 常陸国風土記』香島郡条ほか
    • 鹿島神宮(神道・神社史料集成)参照。
    • 武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、近代デジタルライブラリーより)27-43コマ参照(香島郡は36-39コマ)。
  • 『鹿島宮社例伝記』、『鹿島宮年中行事』
    • 『鹿島宮社例伝記』は鎌倉時代、『鹿島宮年中行事』は室町時代。
    • 両書とも塙保己一編『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』(続群書類従完成会、1924年-1926年、近代デジタルライブラリーより)30-41コマ参照。
書籍
  • 神社由緒書、境内説明板
  • 鹿島神宮社務所編 編『新鹿島神宮誌 改訂版』鹿島神宮社務所、2004年。 
  • 東実『鹿島神宮 改訂版』学生社、2000年。ISBN 4311407173  - 著者は元宮司。
  • 国史大辞典 第3巻』吉川弘文館、1983年。ISBN 464200503X 
    • 萩原竜夫「鹿島御船祭」萩原竜夫「鹿島氏」萩原竜夫「鹿島神宮」網野善彦「社領」)、萩原竜夫「鹿島物忌」萩原竜夫「鹿島信仰」萩原竜夫「鹿島使」萩原竜夫「鹿島大神」萩原竜夫「鹿島事触」渡辺直彦「鹿島総追捕使」肥後和男「鹿島御児神社」
  • 『日本歴史地名体系 茨城県の地名』平凡社、1982年。ISBN 4582490085 
    • 「鹿島郡」「鹿島神宮」
  • 角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店、1983年。ISBN 4040010809 
    • 「鹿島郡」「鹿島神宮」
  • 茨城県立歴史館編 編『鹿島信仰 常陸から発信された文化』茨城県立歴史館、2004年。 
  • 茨城県立歴史館編 編『鹿島信仰の諸相 学術調査報告書 8』茨城県立歴史館、2008年。 
  • 谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』白水社、1984年。ISBN 4560025118 
    • 大和岩雄「鹿島神宮」大和岩雄「大生神社」

関連書籍

  • 『鹿島志』、北条時鄰、1823年。
  • 『鹿島神宮誌』、岡泰雄編、鹿島神宮社務所、1933年。

関連項目

当宮に由来

外部リンク