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「マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)」の版間の差分

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[[Image:Maria Nikolaevna 1914.jpg|thumb|220px|right|マリア・ニコラエヴナマノヴァ、1914年]]
{{otheruses|[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]の娘|同名のロシア皇帝[[ニコライ1世]]の娘|マリア・ニコラエヴナ (イヒテンベルク公妃)}}
{{基礎情報 皇族・貴族
'''マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ'''({{lang|ru|Мария Николаевна Романова}}/Maria Nikolaievna Romanova, [[1899年]][[6月26日]] - [[1918年]][[7月17日]])は[[ロマノフ朝]]最後の皇帝[[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の第三皇女。[[ロシア大公女]]。[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]で成立した[[ロシア臨時政府|臨時政府]]によって家族とともに監禁され、翌1918年に[[十月革命]]で権力を掌握した[[ウラジーミル・レーニン]]の命により、わずか19歳の若さで銃殺された。[[正教会]]で[[聖人]]([[新致命者]])。
| 人名 = マリア・ニコラエヴナ
[[Image:Grand Duchess Marie with book 1906.jpg|thumb|200px|right|1906年]]
| 各国語表記 = {{Lang|ru|Мария Николаевна}}
[[Image:Maria19094rm.jpg|thumb|200px|left|1909年]]
| 家名・爵位 = [[ロマノフ家|ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]]
[[Image:Maria,_Alexei,_Georg_Donatus_and_Anastasia_at_Wolfsgarten,_Hesse.jpg|thumb|400px|left|1910年、妹アナスタシア、弟アレクセイ、ヘッセン大公の息子ゲオルク・ドナトゥスと(左端がマリア)]]
| 画像 = Maria Nikolaevna 1914.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = マリア・ニコラエヴナ(1914年頃)
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 = マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
| 身位 = [[ロシア大公女・大公妃一覧#ロシア大公女|ロシア大公女]]
| 敬称 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1899|6|26|no}}
| 生地 = {{RUS1883}}<br />{{仮リンク|サンクトペテルブルク県|en|Saint Petersburg Governorate}}[[ペテルゴフ]]、{{仮リンク|アレクサンドリア (ペテルゴフ)|ru|Александрия (Петергоф)|label=アレクサンドリア}}
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1899|6|26|1918|7|17}}
| 没地 = {{RUS1917}}<br />{{仮リンク|ペルミ県|en|Perm Governorate}}[[エカテリンブルク]]、[[イパチェフ館]]
| 埋葬日 = 1998年7月17日
| 埋葬地 = {{RUS}}<br />サンクトペテルブルク、[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|ペトロパヴロフスキー大聖堂]]
| 子女 =
| 父親 = [[ニコライ2世]]
| 母親 = [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]]
| 役職 =
| 宗教 = [[ロシア正教会]]
| サイン = Maria Nikolaevna of Russia (signature).jpg
}}
'''マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ'''('''{{翻字併記|ru|Мария Николаевна Романова|Maria Nikolaievna Romanova}}'''、[[1899年]][[6月26日]] - [[1918年]][[7月17日]])は、最後の[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の第三皇女。[[ロシア大公女・大公妃一覧#ロシア大公女|ロシア大公女]]。[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]で成立した[[ロシア臨時政府|臨時政府]]によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日に[[エカテリンブルク]]の[[イパチェフ館]]において[[ヤコフ・ユロフスキー]]が指揮する銃殺隊によって裁判手続きを踏まない殺人が実行され、家族・従者とともに19歳の若さで銃殺された。[[ロシア正教会]]で[[聖人]]([[新致命者]])。


== 幼少期 ==
[[Image:MariaAnastasiasoldiers1915.jpg|thumb|420px|right|1915年、妹のアナスタシアと病院を訪れ、負傷兵を見舞う(中央がマリア)]]
[[File:Empress Alexandra and Maria.gif|thumb|150px|left|1899年。マリアを抱く母親のアレクサンドラ皇后]]
==人物==
[[File:OlgaTatianaMarie1901.jpg|thumb|200px|left|1901年。姉のオリガ(後)、タチアナ(前左)とともに]]
ニコライ2世の家族の絆は強かったと言われている。4人姉妹はいつも仲良しで、マリア皇女は特に妹の[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]]と仲が良く、1つの寝室を共用していた。姉の[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ皇女]]と[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ皇女]]も2人で1つの寝室を共用しており、彼女らが"ビッグ・ペア"と呼ばれていたのに対し、下の2人は"リトル・ペア"と呼ばれていた。
[[File:Maria19094rm.jpg|thumb|200px|left|1909年]]
[[File:Grand duchess Maria Nikolaievna with princess Victoria of the United Kingdom.jpg|thumb|225px|left|皇室ヨット『[[スタンダルト (ヨット)|スタンダルト]]』号にて。大叔母の娘[[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア王女]]と]]
[[File:Grand_Duchesses_Maria_and_Tatiana_of_Russia_1910.jpg|thumb|225px|right|1910年。マリアとタチアナ(右)]]
[[File:Maria Nikolaevna of Russia 1914.jpg|thumb|200px|right|マリア自筆のサインカード。[[ルイス・マウントバッテン]]は1979年に爆死するまで自室のベッドの横にこの肖像写真を飾っていた]]
[[File:Smiling Maria Nikolaevna.jpg|thumb|200px|right|1912年から1913年の間。満面の笑みを見せるマリア]]
[[File:Romanoff1913.jpg|thumb|375px|right|1913年。タチアナ(左端)、オリガ(右端)と]]
[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の第三皇女、[[ロシア大公女・大公妃一覧#ロシア大公女|ロシア大公女]]マリア・ニコラエヴナは[[1899年]]6月14日([[グレゴリオ暦]]で[[6月26日]])に皇室が例年夏の時期を過ごす[[ペテルゴフ]]にある{{仮リンク|アレクサンドリア (ペテルゴフ)|ru|Александрия (Петергоф)|label=アレクサンドリア}}の離宮で誕生した<ref name="sisters">{{Cite web|url=http://romanovsisters.webs.com/marianikolaevna.htm|title=H. I. H. Grand Duchess Maria Nikolaevna|publisher=Romanov sisters|language=英語|accessdate=2014年7月24日}}</ref>。妊娠中のアレクサンドラは数回[[気絶]]を経験し、車椅子生活を余儀なくされていた<ref name="sisters" />。ニコライ2世は「''幸せな一日:主([[キリスト]])は私達に三女を授けて下さった。マリー、12時10分に無事に生まれた! アリックスはほとんど一晩中寝れず、朝になると痛みが強くなった。程なくして何もかもが終わったことを神に感謝! 私の最愛の人は終日、体調が良好な様子で、赤ちゃんに母乳を与えた''」と日記に書いた<ref>{{cite web|url=http://www.bellenmet.com/aboutus.php|title=В ожидании престолонаследника|publisher=Цесаревич Алексей|accessdate=2014年7月24日|language=ロシア語|archiveurl=http://www.webcitation.org/6137H0lMd|archivedate=2011年8月19日}}</ref>。ニコライ2世の妹の[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア・アレクサンドロヴナ大公女]]もこのイベントに関心を示し、「''すべてが無事に終了し、待つ身の不安が遂に終わったことの嬉しさ! けれど、息子ではなかったという失望。哀れなアリックス! 私達は当然のことながら、男の子でも女の子でもどちらでも喜んではいるのだけど''」と書いている<ref name="sisters" />。


ニコライ2世の家族の絆は強かったと言われている。4人姉妹はいつも仲良しで、マリアは特に妹の[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア]]と仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。姉の[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ]]と[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ]]も2人で1つの寝室を共用しており、彼女らが'''ビッグ・ペア'''と呼ばれていたのに対し、下の2人は'''リトル・ペア'''と呼ばれていた<ref name="Tsar89">{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|publisher=Little Brown and Company|page=88-89|language=英語|isbn=0-316-50787-3}}</ref>。4人は'''[[OTMA]]'''という合同のサインを結束の象徴として使用していた<ref name="Tsar89" />。[[英語]]で最も正確には「Grand Princess」と訳された4人姉妹の[[身位]]の呼称「Imperial Highness」はただの[[殿下]]に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他の[[ヨーロッパ]]の王女よりも順位が高いことを意味し、最も広く使用される[[ロシア大公女・大公妃一覧|ロシア大公女]]の[[ロシア語]]から英語への訳となった<ref>{{Cite book|author=Charlotte Zeepvat|title=The Camera and the Tsars: A Romanov Family Album|publisher=Sutton Publishing|page=14|language=英語|isbn=0-7509-3049-7}}</ref>。4姉妹は[[刺繍]]や[[編み物]]を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた<ref>{{Cite book|author=Charlotte Zeepvat|title=The Camera and the Tsars: A Romanov Family Album|page=153}}</ref>。また、祖父である[[アレクサンドル3世]]の代からの質素な生活スタイルの影響を受けて厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで固い簡易型ベッドで眠り、朝に冷水浴をした<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|publisher=[[時事通信社]]|page=114|isbn=4788796430}}</ref>。大きくなると、簡易ベッドは変わらぬものの、部屋の壁には[[イコン]]や絵画や写真が飾られ、豪華な化粧台や、白や緑の刺繍を置いたクッションなどが入り、大きな部屋をカーテンで仕切って浴室兼化粧室として4人共同で使用した<ref name="マッシー117">{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=117}}</ref>。10代になると、冷水浴をやめて夜に[[香水]]の入った温水のバスを使用するようになったが、マリアは色々な香水を試した末に「リラ」を常時使用するようになった<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=117-118}}</ref>。4人娘は簡易ベッドを流刑地まで持って行き、最後の夜もこのベッドの上で過ごすことになった<ref>{{Cite book|author=[[エドワード・ラジンスキー]](著)、 [[工藤精一郎]] (訳)|title=皇帝ニコライ処刑―ロシア革命の真相〈上〉|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|page=191|isbn=4140801069}}</ref>。
明るい茶色の髪に、大きな優しい青い瞳をした愛らしい皇女で、その容貌を[[ボッティチェリ]]の描く[[天使]]に例えられる事もあった。大叔父の[[ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ|ウラディミール・アレクサンドロヴィチ大公]]は、彼女を"Amiable baby(愛らしい赤ん坊)"と呼んで慈しんだ。美人の誉れ高く、従弟である[[ルイス・マウントバッテン]]は生涯彼女の面影を追い、部屋に肖像を飾っていたとも言われる。


[[1905年]]からニコライ2世は妻子を[[ツァールスコエ・セロー]]にある離宮[[アレクサンドロフスキー宮殿]]に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った<ref>{{Cite book|author=[[ジェイムズ・B・ラヴェル]](著)、[[広瀬順弘]](訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=[[角川文庫]]|page=50|isbn=978-4042778011}}</ref>。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方もあった<ref>{{Cite book|author=[[植田樹]]|title=最後のロシア皇帝|publisher=[[ちくま新書]]|page=91|isbn=978-4480057679}}</ref>。ニコライ2世一家が揃って公的の場に現れることは稀だったが、皇室内での出来事はすべて詳細に公表されており、特にマリアの弟の[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ]]が誕生して以降、一家の注目度は高まった。公的な活動や発言はすぐに写真入りの雑誌や新聞や[[ニュース映画]]で報道され、その肖像入りの葉書、額縁、飾り皿は世界的なベストセラー商品となった<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=49}}</ref>。
マリアは母親と同じく[[血友病]]の保因者だった説が指摘されている。これは[[1914年]]に扁桃腺の切除手術を行おうとした際、激しく出血したためである。。
革命後、元皇帝夫妻が身柄を[[トボリスク]]に送られる際、唯一同伴した(他の姉妹と弟の[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]]は後に合流している)。


[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア皇太后]]を筆頭とする[[ロマノフ家]]の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた<ref name="ラヴェル55">{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=55}}</ref>。派手好きのニコライ2世の母親のマリア皇太后と上の妹のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女は華やかな帝都[[サンクトペテルブルク]]にとどまることを好み、離宮には滅多に顔を出さなかった。弟の中で唯一存命していた[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公]]に至ってはほとんど一度も離宮を訪れなかった。控えめな性格である下の妹の[[オリガ・アレクサンドロヴナ|オリガ・アレクサンドロヴナ大公女]]のみが唯一アレクサンドラに同情的で、一家と親しい付き合いをしていた<ref name="ラヴェル55" />。外の世界と引き離された4人娘にとって[[コサック]]の護衛兵や{{仮リンク|ロイヤルヨット|en|Royal yacht|label=皇室ヨット}}『[[スタンダルト (ヨット)|スタンダルト]]』号の乗組員達は数少ない気軽に話が出来る相手であった。他の人間とも接する機会を与える必要性を感じていたオリガ・アレクサンドロヴナは毎週土曜日はサンクトペテルブルクからやって来てアレクサンドラを説得し、彼女達を町に連れ出した。まず叔母と4人娘はサンクトペテルブルク行きの[[汽車]]に乗り、{{仮リンク|アニチコフ宮殿|en|Anichkov Palace}}にて祖母のマリア皇太后と昼食をともにし、その後にオリガ・アレクサンドロヴナの邸に行ってそこで他所から来た若い人々と一緒にお茶やダンス、ゲームを楽しんだ。この若い叔母は後年に「この少女達は一分も無駄にせずに楽しんだ」と回想している<ref name="マッシー117" />。
気立てが良く優しいマリアは、皇族や臣下など周囲から最も慕われた皇女だった。絵の才能があり、スケッチが得意だった。[[左利き]]だったと言われている。
結婚して幸せな家庭生活を送る事を夢見ていたが、その夢が叶う事のないまま1918年7月17日、[[エカテリンブルク]]で家族、従者と共に銃殺された。


同時代の人々はマリアの外見の特徴について「明るい茶色の髪と大きな青い瞳(家族は彼女の瞳を「マリーの[[ソーサー]]」と呼んだ)の持ち主」と説明した<ref name="マッシー115">{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=115}}</ref>。幼い頃は細身の2人の姉と違ってぽっちゃりと太って丈夫に育ったので、母親のアレクサンドラが将来の結婚を考えて体重の増加を心配し、絶望に陥っていたほどであった<ref name="マッシー115" /><ref name="OTMA">{{Cite web|url=http://www.alexanderpalace.org/palace/gds.html|title=The Grand Duchesses — OTMA|publisher=AlexanderPalace.org|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。
==遺骨==
ニコライ2世一家の遺骨は[[1989年]]にエカテリンブルク郊外で発見されたが、このときマリアとアレクセイの遺骨は発見されていなかった。[[2007年]][[8月]]、2人のものと思われる遺骨が発見され、[[2008年]][[4月]]に「DNA鑑定の結果、遺骨はアレクセイとマリアのものであることが確認された」と[[スヴェルドロフスク州]]知事によって公表され、元皇帝一家の遺骨は全員揃ったとされている。


アレクサンドラの親友で[[女官]]([[侍女]])を務めた{{仮リンク|アンナ・ヴィルボヴァ|en|Anna Vyrubova}}はマリアについて「素晴らしい瞳とバラ色の頬を持っていた。肉付きの良い傾向があり、彼女の美しさをやや削いでしまうかなり厚い唇を有していた」と述べている<ref>{{Cite web|author=Anna Vyrubova|url=http://www.alexanderpalace.org/russiancourt/VI.html|title=Written by Anna AlexandrovnaVyrubova in 1923 CHAPTER VI|publisher=AlexanderPalace.org|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。ニコライ2世一家とともに殺害された皇室[[主治医]][[エフゲニー・ボトキン]]の娘、[[タチアナ・ボトキナ]]は「穏やかで優しい目付きをしている」と感じたという<ref name="Riddle138">{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Anastasia: The Riddle of Anna Anderson|publisher=Back Bay Books|page=138|language=英語|isbn=0-316-50717-2}}</ref>。その容貌を[[サンドロ・ボッティチェッリ]]の描く[[天使]]に例えられることもあった<ref name="Eagar5">{{Cite web|author=Margaretta Eagar|url=http://www.alexanderpalace.org/eagar/V.html|title=Six Years at the Russian Court CHAPTER 5 CONCERNING EASTER|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。大叔父の[[ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ|ウラディミール・アレクサンドロヴィチ大公]]はいつも明るく笑顔の彼女を「愛らしい赤ん坊」と呼んで慈しんだ<ref name="Eagar5" />。

政治に強い関心を持つ[[アイルランド]]出身の[[保母]]、{{仮リンク|マーガレッタ・イーガー|en|Margaretta Eagar}}が友人と[[ドレフュス事件]]について熱く議論している間、まだ幼かったマリアが浴槽から飛び出し、宮殿の廊下を全裸で走り回ったことがあった。叔母のオリガ・アレクサンドロヴナは後年に「幸いなことに私はちょうどその時に到着し、彼女を掴み、抱えていったが、ミス・イーガーはまだ[[アルフレド・ドレフュス|ドレフュス]]について話していた」と当時を回想した<ref name="sisters" />。

マーガレッタ・イーガーによると、まだアナスタシアが生まれて数ヶ月の頃に姉のオリガとタチアナは「保育室」内の一角に自分達のための椅子の家を建ててマリアを[[家庭内労働者|召使い]]のように扱い、彼女を仲間外れにした。イーガーはマリアとアナスタシアのためにもう一方の端に別に家を作ってあげたが、マリアの視線は常に部屋の反対側に向けられていた。
{{cquote|''突然、彼女がその家の中を駆け抜けた。両方の姉を平手打ちしてから隣の部屋へ走り、人形にマントと帽子を着せて、小さなおもちゃを沢山抱えて戻って来た。「私は召使いにはならない、プレゼントをあげるような寛大で心優しい叔母になりたい」と彼女は言った。彼女はその後、プレゼントを渡して"彼女の姪"にキスをして腰を下ろした。他の子供達は互いに恥ずかしそうに顔を見合わせ、タチアナは「私達が可愛そうなマリーに冷たくし過ぎたから、彼女は私達を叩かずにはいられなかったのね」と言った。彼女達はこの時に家族の中でのそれぞれの立場を尊重することを学んだ。<ref name="Eagar5" />''
}}
マリアは穏やかな気性であったが、いたずらな一面もあり、母親のティーテーブルからいくつかの[[ビスケット]]を盗んだこともあった。アレクサンドラと[[ガヴァネス|女家庭教師]]は罰として夕食抜きで早寝させることを示唆したが、ニコライ2世は「私は常に、[[翼]]が成長していくのを恐れていた。彼女が唯一人間らしさを持った子供のように思えて嬉しい」と述べてこれに反対した<ref name="Eagar5" />。マリアは父親が大好きだった。「パパに会わせて」と言って頻繁に「保育室」から脱出しようとした<ref name="Eagar5" />。[[1901年]]にニコライ2世が[[クリミア半島|クリミア]]滞在中に[[腸チフス]]に羅患し、生命の危機に直面した時は彼の小さな肖像画に毎晩キスをした<ref name="sisters" />。

マリアとアナスタシアはいつも同じ服を着ていた<ref name="マッシー117" />。二人は自分達の部屋に置かれた[[蓄音機]]を大音量で再生して一緒に曲のリズムに合わせて踊ったりした<ref name="OTMA" />。マリアは積極的で活発な妹に影響される傾向にあり、アナスタシアが歩いている人をつまずかせたり、誰かをからかったりした時に妹を制止することは出来なかったが、そのかわりにマリアはいつも相手に謝ろうとした<ref name="Riddle138" />。彼女は素直で心優しい性格のために時々、姉妹に良いように利用された。[[1910年]]にマリアはオリガに促されて、姉のオリガに自分の部屋を与え、彼女に自分のための服を着用することを許可すべきことを求める手紙を母親に送った。マリアはのちに手紙を送るアイディアは自分自身が思い付いたことだと、アレクサンドラを説得した<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|publisher=Doubleday|page=337|language=英語|isbn=0-385-48673-1}}</ref>。

マリアには[[スケッチ]]の才能があり、[[左利き]]だったと言われている<ref>{{Cite web|author=Baroness Sophie Buxhoeveden|url=http://www.alexanderpalace.org/2006alix/chapter_XVI.html|title=The Life and Tragedy of Alexandra Feodorovna|publisher=AlexanderPalace.org|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。学業には基本的に無関心であった<ref name="OTMA" />。10代後半になると、英語の[[家庭教師]]{{仮リンク|チャールズ・シドニー・ギブス|en|Charles Sydney Gibbes}}を地面から持ち上げられるほどの怪力も発揮するようになった<ref name="sisters" /><ref>{{cite web|url=http://www.st-nikolas.orthodoxy.ru/biblio/tzar/pedagogy/glava9_4.html|title=Великая Княжна Мария Николаевна. Тип русской жены и матери|publisher=Храм святителя Николая Мирликийского в Бирюлеве|accessdate=2014年7月24日|language=ロシア語|archiveurl=http://www.webcitation.org/6137KBT8T|archivedate=2011年8月19日}}</ref>。思春期になると浮ついた感じになり、怠けがちで陽気過ぎるという欠点も指摘された<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=115-116}}</ref>。[[黄体期|月経期間]]になると怒りっぽくなるため、母親と姉妹達はこれを「ベッカー夫人の来訪」などと表現した<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=463}}</ref>。

== 思春期の恋愛 ==
[[File:Maria1914.jpg|thumb|200px|right|1914年]]
マリアが最も興味があるのは結婚や子供についてのお喋りをすることであった<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=116}}</ref>。ロシアの兵士と結婚し、子供は20人欲しいと語ったこともあった<ref name="IMDb">{{Cite web|url=http://www.imdb.com/name/nm0334734/bio|title=Grand Duchess Marie - Biography|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2014年7月24日}}</ref>。
マーガレッタ・イーガーによると、マリアはかなり若い頃から兵士が好きだった。
{{cquote|''ある日、幼い大公女マリアは窓の外の兵士の連隊の行進を見て「ああ! 私はこの親愛なる兵士達が大好き。全員にキスしたいわ! 」と叫んだ。私は「マリー、いい女の子が兵士にキスしないで下さい」と言った。数日後、子供達のパーティーが開かれ、[[コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)|コンスタンチン大公]]の子供達も招待された。そのうちの1人は年齢が12歳に達し、コープドゥ士官候補生に選ばれ、その制服を着用して来ていた。彼は小さないとこマリーにキスをしたかったが、彼女は手で自分の口を覆い、離れて大きな威厳を持って「あっちへ行け! 兵士よ」と言った。「私は兵士にはキスをしない」。少年は本物の兵士のように扱われて大いに喜ぶと同時に少し残念がっていた。''<ref>{{Cite web|author=Margaretta Eagar|url=http://www.alexanderpalace.org/eagar/XV.html|title=Six Years at the Russian Court CHAPTER 15 THE LITTLE PRISON OPENER|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年7月25日}}</ref>
}}
1910年に、マリアは知り合った一人の若い男性に対する片想いに苦しんでいたことが報告されている。アレクサンドラは同年12月6日の手紙で「''彼のことであまり思い悩まないようにしなさい。これは私達の友人([[グリゴリー・ラスプーチン]])が言ったことです。''」と書き、人々がマリアの片想いについて不親切なことを言うかもしれないので、気持ちを胸の内にしまっておくのが最善だと助言している<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=336}}</ref>。

姉のタチアナも美人の誉れ高かったが、「ロマノフ家の伝統的な美しさ」を継承したと言われていたのはマリアであった。マリアのいとこで、彼女より1歳年下の[[ルイス・マウントバッテン]]も好意を抱いていることを認めていた。「''僕は彼女にすっかり夢中だ、結婚することに決めた。彼女以上に美しい女性なんか想像出来っこない! ''」「''ああ、彼女達(OTMA)は高貴でとても可愛らしく、写真で見るよりもはるかに美しい。僕はマリーに虜だ、彼女と結婚することに決めた。彼女は疑いようがないぐらいに素敵だった。僕は自分の寝室の暖炉棚に彼女の写真を置いている。常に飾ってある''」と告白している<ref name="sisters" />。マウントバッテンはその後に結婚したが、生涯彼女の面影を追い続けた。[[1979年]]に爆殺されて非業の死を遂げた時に彼の寝室のベッドの横にはマリアの肖像写真が飾られていた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|publisher=Wiley; 1 edition|page=49|language=英語|isbn=0-471-20768-3}}</ref>。

かつて姉オリガの縁談相手であった[[ルーマニア王国]]の王太子カロル(後の[[カロル2世 (ルーマニア王)|カロル2世]])は[[1915年]]に皇宮を訪れた際、マリアとの婚約を申し込んだが、ニコライ2世はマリアはまだ結婚するには若過ぎるという理由で笑って取り合おうとしなかった<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=212}}</ref>。

[[第一次世界大戦]]中にマリアと彼女の姉妹、母親は時々、[[マヒリョウ|モギリョフ]]にある[[司令部|軍総司令部]]([[スタフカ]])で最高司令官の任務を遂行する父親ニコライ2世と彼に同伴した弟アレクセイを訪問した。マリアはこの訪問中にニコライ・ドミトリエヴィッチ・デメンコフという名の当直[[将校]]に恋愛感情を抱いた。ツァールスコエ・セローに戻った後はしばしば「デメンコフによろしく伝えてね」とニコライ2世に頼み、皇帝に送る手紙に冗談で「デメンコフ夫人」と署名したこともあった<ref name="The Romanovs125">{{Cite book|author=Alexander Bockanov|title=The Romanovs: Love, Power and Tragedy|publisher=Leppi Publications|page=125|language=英語|isbn=0-9521644-0-X}}</ref>。マリアはデメンコフのためにシャツを縫い、その後に二人は何度か電話でも話をして、デメンコフは贈られたシャツを気に入っていると話した。しかし、[[ロシア革命]]の勃発により、本格的な交際には至らずに終了した。姉妹はデメンコフに夢中のマリアを時々からかった。オリガはある日の日記に「明日、アーニャ(アンナ・ヴィルボヴァ)は・・・ヴィクトル・エラストヴィッチとデメンコフ(と私達全員)をお茶に招待します。当然のことながら、マリアはとても嬉しそうです! 」と取り上げている<ref name="sisters" />。

== ラスプーチンとの繋がり ==
[[File:Maria és Anasztaszija.jpg|thumb|250px|right|1914年頃。アナスタシア(左)と]]
ラスプーチンはある時から子供達の「保育室」への出入りも認められるようになったため、保育室に勤務するソフィア・イヴァーノーヴナ・チュッチェヴァは出入りを禁止しようとして苦情も入れたが、最終的にはアレクサンドラによって彼女は解雇された<ref>{{Cite book|author=エドワード・ラジンスキー|title=The Rasputin File|publisher=Doubleday|page=139|language=英語|isbn=0-385-48909-9}}</ref>。解雇されたチュッチェヴァはアレクサンドラの姉である[[エリザヴェータ・フョードロヴナ]]らにニコライ2世一家の話をした。エリザヴェータは妹の目を覚まさせようと努力したが効果は無く、最終的には不和が高じて互いに交際しなくなった<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=172-173}}</ref>。ラスプーチンが子供達の部屋を訪れた話については全ての報告で完全に潔白とされ、一家は憤慨した。チュッチェヴァはマリアの叔母のクセニアにも、ラスプーチンが寝る用意をしている娘達のところまで行って彼女達と会話をして抱き締めたり撫でたりしているという話をした。また、ラスプーチンの話を彼女にしないように子供達が教えられていたことや保育室スタッフには彼の訪問を隠すように注意されていたという話もした。チュッチェヴァの話を聞いたクセニアは1910年3月15日に、ラスプーチンに対するアレクサンドラと彼女の子供達の態度について「非常に信じられないし、理解を通り越している」と書いている<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=330}}</ref>。皇帝の子供達とラスプーチンの親密な友情はやり取りされた手紙の内容からも明らかになっている。暗殺されるにラスプーチンは以下の内容の手紙を送っている。
{{cquote|''天使の祝いの日の挨拶を送ります。オ(オリガ)よ、キリストは素朴さの中にいます。私達はキリストの中にいます。ア(アナスタシア)よ、親愛なる方よ、私達がいた所、座っていた所に[[聖霊]]もいたのです。神を愛しなさい。神はいつでもあなたの側にいます。・・・恐怖に打ち勝ちなさい。神を讃える歌を歌って生きなさい。マ(マリア)よ、愛する者よ、海や自然とどんなお話をしたのか話しておくれ。私はあなたの素直な心が好きだよ。''<ref>{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=130}}</ref>
}}
ラスプーチンはアレクサンドラのみならず、4人の娘達までも誘惑したという噂が世間に広まった<ref>{{Cite book|author=Hugo Mager|title=Elizabeth: Grand Duchess of Russia|publisher=Caroll and Graf Publishers|page=257|language=英語|isbn=0-7867-0678-3}}</ref>。印刷されない話が人から人へと伝わり、ラスプーチンがニコライ2世を室外に出してアレクサンドラと寝た、ラスプーチンが4人の大公女全員をレイプしたという噂まで飛び交う始末だった<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=190}}</ref>。ラスプーチンと敵対した[[修道司祭]]の{{仮リンク|セルゲイ・トルファノフ|en|Sergei Trufanov|label=イリオドル}}は彼から見せびらかされたアレクサンドラや4人の娘達が彼に向けて書いた熱烈な手紙を盗み出し、そのコピーを大量にばらまいた<ref>{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=146}}</ref>。ラスプーチンとの性的関係を持っているかのように示唆する皇后、4人の大公女、アンナ・ヴィルボヴァのヌードが背景に描かれたポルノ漫画も登場した<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|page=115}}</ref>。

スキャンダルが広まった後、アレクサンドラについての悪評が広まるのを懸念したニコライ2世はラスプーチンに対してしばらくサンクトペテルブルクを離れるように命じ、ラスプーチンは[[パレスチナ]]への[[巡礼]]の旅に出た<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|page=116}}</ref>。こうした噂にも関わらず、ラスプーチンと皇室の交流は[[1916年]]12月17日(グレゴリオ暦で[[12月29日]])に彼が暗殺されるまで続いた。アレクサンドラは暗殺の11日前にニコライ2世に宛てた手紙で「私達の友人は''彼女らは年齢の割に困難な道筋を経験し、魂が大いに発達している''と言って私達の女の子にとても満足しています」と書いている<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=489}}</ref>。

A・A・モルドヴィノフは[[回想録|回顧録]]の中で、ラスプーチンが暗殺されたニュースを知らされた夜に4人娘がいずれかのベッドルームのソファーの上に密接に身を寄せ合って座り、ひどく動揺していたことを報告している。暗いムードにあったことを振り返り、モルドヴィノフには彼女達が迫り来る政治的混乱を感知していたかのように思えたという<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=507}}</ref>。ラスプーチンはマリアと彼女の姉妹、その母親が裏面に署名したイコンで埋葬された。マリアも1916年12月21日のラスプーチンの葬儀に参列し、一家は彼が埋葬された場所に[[礼拝堂]]を建設することを計画した<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=511}}</ref>。

2年後の皇帝一家殺害を指揮した[[ヤコフ・ユロフスキー]]は大公女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の[[祈り]]の言葉を添えた魔除けの[[ロケットペンダント]]を首にかけていたと証言している<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=90}}</ref>。

== 血友病 ==
マリアは母親と同じく[[血友病]]の[[遺伝子]]の保因者であった説が指摘されている。彼女は子供を多く持つことを夢見ていたので、生き残っていた場合は次の世代に血友病患者が出た可能性が少なからずある。マリアの弟のアレクセイが診断される前からアレクサンドラの母方の叔父の[[レオポルド (オールバニ公)|オールバニ公レオポルド王子]]、アレクサンドラの兄の[[フリードリヒ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1870-1873)|フリードリヒ]]、アレクサンドラの甥の[[ヴァルデマール・フォン・プロイセン (1889-1945)|ヴァルデマール]]と{{仮リンク|ハインリヒ・フォン・プロイセン (1900-1904)|en|Prince Henry of Prussia (1900–1904)|label=ハインリヒ}}が既に血友病を発症していた<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=129-131}}</ref>。

オリガ・アレクサンドロヴナは晩年にインタビューを受け、マリアが[[1914年]]12月に[[扁桃腺]]の切除手術を行おうとした時の状況を話している。あまりの激しい出血に、アレクサンドラから手術の続行を命じられた担当医師もひどく取り乱してしまったほどであった。姪が4人とも通常の人間よりも激しく出血したので、4人全員が母親と同様に血友病の遺伝子を保因していたと考えているという見解を示している<ref>{{Cite book|author=Ian Vorres|title=The Last Grand Duchess: Her Imperial Highness Grand Duchess Olga Alexandrovna|publisher=Key Porter Books|page=115|language=英語|isbn=978-1552633021}}</ref>。

皇室の遺骨の[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]によって[[2009年]]にマリアの弟のアレクセイが血友病Bに苦しんでいたことが証明された。同鑑定は彼の母親と4人の姉のうちの1人が血友病の遺伝子を保因していたことも証明した。ロシアの[[科学者]]はその1人はアナスタシアだと推定したが、[[アメリカ合衆国]]の科学者はその1人をマリアと推定した<ref>{{Cite web|url=http://news.sciencemag.org/biology/2009/10/case-closed-famous-royals-suffered-hemophilia|title=Case Closed: Famous Royals Suffered From Hemophilia|publisher=Science|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。

== 第一次世界大戦中の奉仕活動 ==
[[File:MariaAnastasiasoldiers1915.jpg|thumb|375px|right|1915年頃。アナスタシア(右)とともに負傷兵を見舞うために病院を訪れたマリア]]
[[File:Anastasia Nikolaevna of Russia (1916).JPG|thumb|350px|right|1916年。右から2番目]]
[[File:MariaTatianaOlga1916.jpg|thumb|250px|right|1916年。姉のオリガ(右前)、タチアナ(後)と]]
[[File:Otmaincaptivity1917.jpg|thumb|375px|right|1917年春に軟禁下のツァールスコエ・セローにて。オリガ(左から2番目)、アナスタシア(左から3番目)、タチアナ(右端)と]]
第一次世界大戦中にマリアは妹のアナスタシアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。負傷兵らと一緒に[[チェッカー]]や[[ビリヤード]]で遊び、彼らの士気を高めようと努力した。ドミトリーという名の負傷兵はマリアの[[備忘録]]に彼女の愛称の一つ、「有名なマンドリフォリー」という署名を入れた<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Anastasia: The Riddle of Anna Anderson|page=417}}</ref>。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした。マリアは自分達と患者の写真を1冊のアルバムにまとめ、同病院の看護師を務めていたタチアナ・ボトキナにプレゼントした<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=71}}</ref>。

戦争中にマリアとアナスタシアは看護師の学校を訪問し、子供達の世話をすることも出来た。マリアはニコライ2世に送った手紙の中で子供達に食べさせたり、子供のあごからこぼれ落ちた[[粥|おかゆ]]を拭いてあげた時に父親のことが頭に浮かんだと書いている<ref name="The Romanovs125" />。

== ロシア革命と監禁 ==
[[1917年]]2月23日(グレゴリオ暦で[[3月8日]])に首都[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]において[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が勃発した。この前日にニコライ2世は最高司令官の職務を果たすべくモギリョフにあるスタフカに向かうために首都を離れたばかりだった<ref>{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=167-168}}</ref>。この大混乱のさなかにニコライ2世の5人の子供全員が[[麻疹|はしか]]に襲われた。5人の子供の中で最も健康で、一番最後に羅患したマリアは皇室に忠誠を尽くすよう兵士達に嘆願するために2月28日(グレゴリオ暦で3月13日)夜にアレクサンドラと一緒に外に出た。まもなく病気になり、瀕死の状態になった。彼女は回復の兆しを見せるまで父親が[[退位]]したことを知らされなかった<ref>{{Cite web|author=Pierre Gilliard|url=http://www.alexanderpalace.org/2006pierre/chapter_XVII.html|title=Revolution as Seen from the Alexander Palace - Pierre Gilliard - Thirteen Years at the Russian Court|publisher=AlexanderPalace.org|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。このはしかが治った後、マリアは非常に細身の体型になった<ref name="IMDb" />。アレクサンドラから退位を知らされた時の様子をマリアは「ママは嘆き悲しみました。私も泣きました。でも、その後のお茶の時にはみんなで笑おうと努めました」とアンナ・ヴィルボヴァに語っている<ref>{{Cite book|author=エドワード・ラジンスキー(著)、 工藤精一郎 (訳)|title=皇帝ニコライ処刑―ロシア革命の真相〈上〉|page=324}}</ref>。

ニコライ2世の一家は最初はツァールスコエ・セローの宮殿で逮捕され、[[軟禁|自宅軟禁]]下に置かれた。その後に[[シベリア]]の[[トボリスク]]、次いで[[エカテリンブルク]]へ移送された。彼女はツァールスコエ・セローとトボリスクで警護兵達と親しくなり、直ぐに彼らの妻や子供の名前など多くのことを覚えた。マリアは外を自由に散歩することが出来る場合に限り、いつまでもこの地に住んで幸せになるというコメントをトボリスク滞在時に残している<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|page=180}}</ref>。それでも、彼女は常に監視されていることは認識していた。マリアは所有物が探索されることを恐れ、トボリスクを去る直前にアナスタシアと一緒に自分達の手紙や日記を燃やしている<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=613}}</ref>。

トボリスクに移された当初は従者達は隣の別の建物に居住していたが、[[十月革命]]によって権力が[[ロシア臨時政府|臨時政府]]から[[ソビエト]]に移行すると従者達は隣の建物から追い出されてニコライ2世一家と一緒の旧知事公邸に押し込められ、食料の配給も減らされた<ref name="植田198">{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=198}}</ref>。4人娘ははしかに罹った際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった<ref name="植田198" />。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニアに頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラはアンナ・ヴィルボヴァら知人には熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた娘達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている<ref name="植田198" />。トボリスク滞在時のマリアの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている。
{{cquote|''マリア・ニコラエヴナは最も美しく、典型的なロシア人であり、気立てが良く、陽気で、穏やかで、心優しい少女だった。彼女はみんなと、とりわけ一般兵士との会話を好み、会話をすることが出来た。彼女はいつも兵士達の考えの多くに共鳴していた。彼らは彼女の容貌や強さがアレクサンドル3世に似ていると述べた。彼女はとても力強かった。病気のアレクセイ・ニコラエヴィチを移動させる必要があった時は彼が「マーシャ、僕を背負って! 」と大声で叫び、彼女はいつも彼を背負っていた。人民委員パンクラトフは完全に彼女を敬い慕っており、非常に彼女を愛していた。描画や裁縫の能力に優れていた。<ref>{{Cite web|url=http://otmacamera.tumblr.com/post/75405081940/romanovrussiatoday-maria-nikolaevna-was-the|title=OTMA's Camera - Tumblr|publisher=Otmacamera.tumblr.com|language=英語|accessdate=2014年4月24日}}</ref>''
}}
ニコライ2世夫妻が身柄をトボリスクからエカテリンブルクへ移送された際には、大公女の中でマリアは唯一同伴した。タチアナはアレクセイの面倒を見るために残る必要があり、アナスタシアはまだ若過ぎたし、オリガは病気がちになっていた。マリアは大好きな両親と運命をともにしたいと考えて同伴を決断し、「私が行くわ」と自ら名乗り出た<ref>{{Cite book|author=エドワード・ラジンスキー(著)、工藤精一郎 (訳)|title=皇帝ニコライ処刑―ロシア革命の真相〈下〉|publisher=日本放送出版協会|page=104|isbn=4140801077}}</ref>。アレクサンドラの友人の{{仮リンク|リリー・デーン|en|Lili Dehn}}は革命が彼女を「子供から女性に変えた」と書いている<ref name="freewebs">{{Cite web|url=http://www.freewebs.com/romanovsisters/marianikolaevna.htm|title=H. I. H. Grand Duchess Maria Nikolaevna|publisher=Romanov sisters|language=英語|accessdate=2014年5月6日}}</ref>。

== イパチェフ館での生活 ==
マリアと彼女の両親は[[1918年]]4月30日にエカテリンブルク市内にある周りに木の柵が張り巡らされた[[イパチェフ館]]に到着した<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=409-410}}</ref>。トボリスクに残った姉妹に送った手紙の中で、マリアは家族に対する規制が強化されることについての不安を述べている。1918年5月2日の手紙では「ああ、今は何もかもが複雑だわ」「私達は8ヶ月間平和に暮らしてきたけど、今は何もかもやり直し」と書いている<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=618}}</ref>。

イパチェフ館で当直勤務を行ったヴォロビエフはマリアと彼女の両親のイパチェフ館での様子について次のように言及している。
{{cquote|''囚人達は起きたばかりで、いわゆる顔も洗わずに、私達と出会った。ニコライは鈍い目で私を見て、黙って会釈した。マリア・ニコラエヴナは反対に好奇心に燃えた目でじっと私を見つめ、何か聞きたそうだったが、どうやら自分の朝の化粧にうろたえたらしく、どぎまぎして、窓の方へ顔を背けた。アレクサンドラ・フョードロヴナは悪意に充ち、いつも[[片頭痛]]と胃弱に悩まされていて、私を見ようとはしなかった。彼女は湿布を頭にあててソファーベッドに半ば横たわっていた。''<ref>{{Cite book|author=エドワード・ラジンスキー(著)、工藤精一郎 (訳)|title=皇帝ニコライ処刑―ロシア革命の真相〈下〉|page=142}}</ref>
}}
他の4人の子供達も後からイパチェフ館に到着し、一家は再会を喜び合った。その日の夜はマリアは床に寝て、自分のベッドにアレクセイを寝かせた<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 佐藤俊二 (訳)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇|page=412}}</ref>。

イパチェフ館でもマリアは自ら進んで警護兵達と仲良くなろうとした。マリアは所持していたアルバムから写真を取り出してその家族について彼らと語り、解放されたら[[イギリス]]で新たな生活をスタートさせたいという彼女自身の希望を話した。警護兵の1人、アレクサンドル・ストレコチンは後年にマリアについて感謝を持って彼女が健康的で快活な美しさであったことを振り返り、他の姉妹とは違って良い意味で大公女らしくなかったと述べた<ref name="fate238">{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=238}}</ref>。かつて見張り番を務めた人物はエカテリンブルクでおそらくマリアがあまりに警護兵と親しく接し過ぎるためによく母親に叱られていたことを回想している<ref name="fate238" />。前出のストレコチンは会話はいつも1人の少女が「私達はとても退屈しています! トボリスクでは常に何かがありました。私は知っています! この犬の名前を言い当てて下さい! 」とささやいてから始まっていたことを書いている<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=240}}</ref>。

警護兵が身の程をわきまえずに下品なジョークを発してしまったためにタチアナが青ざめた顔で部屋から飛び出し、マリアが彼らをじっと見つめて「''このような恥ずべき言葉を使用する自分に嫌気が差しません? 良家の女性に対してそのような軽口で言い寄って彼女が貴方に好意を持つと思いますか? 礼儀をわきまえた立派な男性となら、仲良くやっていけます''」と諭したこともあったという<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=242}}</ref>。21歳の警護兵イヴァン・クレスチェフは大公女の1人と結婚することを意図し、もし彼女の両親が反対した場合には彼女をイパチェフ館から救い出すことを周囲に話していた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=243}}</ref>。

6月26日にマリアに好意を抱く警護兵の1人、イヴァン・スコロノドフはマリアの19歳の誕生日を祝うためにバースデーケーキを館に密かに持ち込んだ。マリアは家族から黙って姿を消し、館の抜き打ち検査を実施した2人の上司によってスコロノドフはマリアと一緒に発見され、スコロノドフは館から追放された。何人かの警護兵の回顧録には、この翌日のオリガとタチアナがマリアの軽率な行動に対してひどく怒っていたことが書かれている<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=242-247}}</ref>。特にオリガは敵の警護兵連中と仲良く出来るマリアが理解出来なかった。この事件以降、しばらくはアレクサンドラとオリガはマリアが自分の家族の人間では無いかのように彼女に冷たく接し、関わり合いを避けた<ref name="freewebs" />。

7月14日(日曜日)、[[ミサ]]のためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの[[司祭]]は死者のための祈りの時にマリアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=276}}</ref>。

ところが、7月15日のマリアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。マリアはアレクセイを持ち上げることが出来る力強さを自慢していた<ref>{{Cite book|author=Helen Rappaport|title=The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg|publisher=St. Martin's Griffin; Reprint edition|page=172|language=英語|isbn=978-0312603472}}</ref>。

7月16日、マリアの人生最後の一日。マリアは午後に父親や姉妹と一緒に庭を歩き、警護兵によると特に変わったところは見られなかった。夕食時に長い監禁生活の間にアレクセイを楽しませ続けてきた14歳の皿洗いの少年、{{仮リンク|レオニード・セドネフ|en|Leonid Sednev}}が館から姿を消した。少年は殺害する対象から外すことが決まり、イパチェフ館から通りの向かいの警護兵の宿舎へ引っ越させていた。しかし、自分達を殺害する計画が立てられていることを知らない皇帝一家はセドネフの不在をひどく心配していた。タチアナと主治医のエフゲニー・ボトキンは夕方に新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーのオフィスまで出向き、セドネフを復帰させるように要求した。ユロフスキーはセドネフは直ぐに戻ってくると伝えて説得しようとしたが、家族は納得しなかった<ref>{{Cite book|author=Helen Rappaport|title=The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg|page=180}}</ref>。

マリアは幸せな家庭生活を送ることを夢見ていたが、その夢が叶うことのないまま1918年7月17日未明、エカテリンブルク市内にあるイパチェフ館で家族、従者とともに銃殺された。

== 殺害 ==
[[File:Peter Ermakov at the bridge on Koptyaki Road.jpg|thumb|300px|right|ニコライ2世らの遺骨を埋めた場所で誇らしげに記念撮影をする[[ピョートル・エルマコフ]]]]
{{main|{{仮リンク|ロシア皇室の銃殺|ru|Расстрел царской семьи}}}}
ニコライ2世一家とその従者らは1918年7月16日の夜に眠りに付いたが、翌17日午前1時半過ぎに起こされ、エカテリンブルク市内の情勢が不穏なので、全員イパチェフ館の地下2階に降りるように言われた<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=82}}</ref>。アナスタシアは一家の3匹の飼い犬のうちの一匹、[[スパニエル]]のジェミーを腕に抱いていた。自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左横に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右横に立ち、マリアと彼女の姉妹は使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。その後に一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が入室し、警護隊長ユロフスキーが殺害の実行を発表した。マリアと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた<ref>{{Cite book|author=Helen Rappaport|title=The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg|page=184-189}}</ref>。

最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、[[調理師|料理人]]の[[イヴァン・ハリトーノフ]]、[[フットマン]]の[[アレクセイ・トルップ]]が殺害され、ボトキンと[[メイド]]の[[アンナ・デミドヴァ]]が負傷した。マリアは背面のドアから部屋を脱出しようとしたが、ドアは開かないように閉じられた。酒に酔った殺害実行者の一人、{{仮リンク|ピョートル・エルマコフ|en|Peter Ermakov}}はドアをガタガタさせて逃げようとするマリアに狙いを定めた。エルマコフの弾丸がマリアの太腿に当たり、マリアはアナスタシアやデミドヴァとともに床に倒れ、うめき声を上げた。その後の数分間でボトキン、彼女の弟のアレクセイ、彼女の姉のオリガとタチアナが死亡した。マリアとアナスタシアは負傷していたが、まだ生きていた。エルマコフの証言によると、銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃った。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。また、エルマコフはアナスタシアの頭部も銃で撃ったと主張している。遺体を建物の外へ移動させようとしている時にマリアが意識を取り戻し、悲鳴を上げた。エルマコフは再び彼女を刺したが失敗し、静かになるまで彼女の顔を突き続けた。マリアの頭蓋骨の顔面部分は実際に破壊されたが、ユロフスキーは被害者の顔面は埋葬場所に着いてからライフル銃の台尻部分で粉々にされたと書いた。マリアは確実に彼女の家族と一緒に死亡したと見られているものの、彼女の死の直接の原因は謎のままである<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=303-310、434}}</ref>。

== 生存の噂と遺骨の発見 ==
[[File:Mariainkimono1915.jpg|thumb|250px|left|1915年頃。[[和服|着物]]風のガウンを身に着けたマリア。オリエンタルファッションが当時流行していた]]
警護兵の何人かの証言は警護兵が生存者を救出する可能性があったことを示している。ユロフスキーは殺害に関わった警護兵達に彼のオフィスに来て、殺害後に一家から盗んだ物品を返却するように要求した。犠牲者の遺体の大部分がトラック内、地下、家の廊下に放置された時、大体の時間のスパンは伝えられていた。皇帝一家に同情的で殺害に参加していなかった何人かの警護兵は地下室に居残っていた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=314}}</ref>。

マリアが生き残ったという主張がこれまでに何度かされてきた。最も有名な例として、{{仮リンク|チェスラヴァ・シャプスカ|en|Ceclava Czapska}}がマリアであったという言い伝えが広まり、その孫の{{仮リンク|アレクシス・ブリメイヤー|en|Alexis Brimeyer}}は自分を「アレクセイ・アンジュ・ド・ブルボン=コンデ・ロマノフ=ドルゴルーキー王子」と称した。彼によると、祖母はルーマニアに逃れて結婚し、娘オリガ・ペアタを産んだと述べた。しかし、彼は自分達の[[爵位]]を悪意を持って使用したと憤慨する[[ドルゴルーコフ家]]や[[ベルギー]]にあるロシア貴族の子孫協会から[[1971年]]に提訴された後、ベルギーの裁判所で懲役18ヶ月を宣告された<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|publisher=Random House|page=146|language=英語|isbn=0-394-58048-6}}</ref><ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 今泉菊雄(訳)|title=ロマノフ王家の終焉―ロシア最後の皇帝ニコライ二世とアナスタシア皇女をめぐる物語|publisher=[[鳥影社]]|page=210|isbn=4886294332}}</ref>。

マリアとその妹アナスタシアであると主張する2人の若い女性が[[1919年]]に[[ウラル山脈]]の奥地にある山村で司祭によって匿われ、[[1964年]]に亡くなるまでこの地で[[修道士|修道女]]に姿を変え、怯えながら二人一緒に暮らしたという話が伝えられている。それぞれマリア・ニコラエヴナとアナスタシア・ニコラエヴナの名で埋葬された<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|page=148}}</ref><ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 今泉菊雄(訳)|title=ロマノフ王家の終焉―ロシア最後の皇帝ニコライ二世とアナスタシア皇女をめぐる物語|page=207-208}}</ref>。

これより最近では、ガブリエル・ルイス・デュバルがその著書の中で祖母の{{仮リンク|グラニー・アリーナ|en|Granny Alina}}は大公女マリアだったかもしれないと主張した。デュバルによると、彼の祖母はフランクという名の男と結婚して[[南アフリカ連邦]]に移住し、[[1969年]]に死亡したという<ref>{{Cite web|url=http://www.abc.net.au/gnt/history/Transcripts/s1227254.htm|title=A Princess In The Family?|publisher=abc.net.au|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。

[[1991年]]にニコライ2世一家とその使用人のものであると見られる遺骨がエカテリンブルク近郊の森の中で大量に発掘された<ref name="analiz">{{Cite web|url=http://www.romanovy.narod.ru/sravn.htm|title= Сравнительный анализ документов следствия 1918 — 1924 гг. с данными советских источников|publisher=данными советских источников|language=ロシア語|accessdate=2014年6月17日|archiveurl=http://www.webcitation.org/6JLslUiEw|archivedate=2013年9月3日}}</ref>。埋葬地は1979年夏に発見されていたが、当時はまだ[[共産主義]]体制下であったためにその事実は公表されずに元の場所に再び埋められた<ref name="analiz" />。しかし、発掘された遺骨は9体のみで2人の遺骨が欠落していたため、欠落している大公女の遺骨がマリアかアナスタシアかでアメリカとロシアの科学者の間で[[ジレンマ]]があった。アメリカの[[法医学|法医学博士]]{{仮リンク|ウィリアム・R・メイプルズ|en|William R. Maples}}がアレクセイとアナスタシアの遺骨は欠落していたと主張したのに対し、ロシアの科学者達はこれに異議を唱え、欠落していたのはマリアの遺骨だと主張した。彼らはコンピュータプログラムを用いて最年少の大公女の写真と犠牲者の頭蓋骨を比較し、その一つがアナスタシアのものだと特定したが、アメリカの科学者達は骨の一部が欠けていたために頭蓋骨の高さと幅を推定したこの分析法が不正確であることを発見した<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|page=67}}</ref>。ロシアの法医学専門家は大公女の頭蓋骨のいずれもがマリアの特徴であった前歯の間の隙間を有していなかったと述べた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=251}}</ref>。

女性の遺骨のいずれもが、[[鎖骨]]や[[脊椎]]が成熟しており、[[親知らず]]が発達しているなど、17歳のアナスタシアに見られるであろう未熟さの証拠を示さなかったので、アメリカの科学者達は欠落している遺骨はアナスタシアのものであると判断した<ref>{{Cite book|author=ロバート・K・マッシー(著)、 今泉菊雄(訳)|title=ロマノフ王家の終焉―ロシア最後の皇帝ニコライ二世とアナスタシア皇女をめぐる物語|page=96-98}}</ref>。[[1998年]]にニコライ2世夫妻と大公女3人の遺骨が埋葬された時には、およそ5[[フィート]]7[[インチ]](約170㎝)とされた遺骨はアナスタシアの名の下に埋葬された。エカテリンブルクの一家殺害事件6ヶ月前に4人の姉妹を写した写真はマリアがアナスタシアよりも何インチも高く、オリガよりも背が高かったことを証明している。遺骨の一部が破損して欠けていたためであったが、この身長は推定値であった<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=434}}</ref>。

[[ミトコンドリアDNA]]を比較した結果、4体の女性の遺骨とアレクサンドラの親戚の[[フィリップ (エディンバラ公)|エジンバラ公フィリップ]]に遺伝的な繋がりがあることが確認された。ヤコフ・ユロフスキーは提出した報告書の中で、2体の遺骨は埋葬地から除去され、別の場所で焼却されたと述べている<ref>{{Cite book|author=エドワード・ラジンスキー|title=The Rasputin File|page=430-443}}</ref>。

[[2007年]][[8月23日]]に、ロシアの[[考古学|考古学者]]はユロフスキーが残した資料に記載された埋葬地と一致すると見られるエカテリンブルク近郊の場所で2体の焼かれた骨格の一部を発見したと発表した。考古学者は10歳から13歳ぐらいまでの年齢の少年と18歳から23歳ぐらいまでの年齢の若い女性のものであったと述べた。アナスタシアは殺害当時17歳1ヶ月、マリアは19歳1ヶ月であり、唯一発見されていなかった大公女の遺体はマリアのものと推測された。遺骨と一緒に「[[硫酸]]の容器の破片、釘、木箱から金属片及び様々な口径の弾丸」が発見され、遺骨探索には[[金属探知機]]が使用された<ref>{{Cite web|url=http://www.theguardian.com/world/2007/aug/24/russia|title=Remains of tsar's heir may have been found|publisher=theguardian.com|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。[[2008年]][[4月30日]]にロシアの法医学者はDNA鑑定によってこの2体の遺骨がアレクセイ皇子と彼の姉の大公女のいずれかであることが証明されたと発表した<ref>{{Cite web|url=http://web.archive.org/web/20080501043005/http://news.yahoo.com/s/ap/20080430/ap_on_re_eu/russia_czar_s_family|title=DNA confirms IDs of czar's children, ending mystery|publisher=Yahoo.com|language=英語|accessdate=2014年6月17日}}</ref>。この結果、皇帝の家族全員が殺害されており、生き残っていなかったことがDNA鑑定で確認されている。

== 列聖と再評価 ==
{{main|{{仮リンク|ロマノフ家の列聖|en|Canonization of the Romanovs}}}}
7月17日の他の殺人被害者と同じく[[1981年]]に[[在外ロシア正教会]]によって[[列聖]]された<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=65、495}}</ref>。その19年後の[[2000年]]には[[ロシア正教会]]もマリアと彼女の他の6人の家族を{{仮リンク|パッション・ベアラ|en|Passion bearer}}として列聖した<ref>{{Cite web|url=http://www.nytimes.com/2000/08/15/world/nicholas-ii-and-family-canonized-for-passion.html|title=Nicholas II And Family Canonized For 'Passion'|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。

1998年7月17日にニコライ2世夫妻と大公女3人の遺骨はサンクトペテルブルクの[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|ペトル・パウェル大聖堂]]に埋葬された<ref>{{cite web|url=http://www.romanovfundforrussia.org/family/funeral.html|title=17 July 1998: The funeral of Tsar Nicholas II|publisher=Romanovfundforrussia.org|accessdate=2014年3月24日|language=英語|archiveurl=http://web.archive.org/web/20061229180236/http://www.romanovfundforrussia.org/family/funeral.html|archivedate=2006年12月29日}}</ref>。

2009年[[10月16日]]に{{仮リンク|ロシア連邦検察庁|ru|Прокуратура Российской Федерации}}はニコライ2世一家を含めた[[ボリシェヴィキ]]による[[赤色テロ]]の犠牲者52名の名誉の回復を発表した<ref>{{Cite web|url=http://www.imperialhouse.ru/rus/extra/vin1/1431.html|title=Генеральная прокуратура РФ удовлетворила заявление Главы Российского Императорского Дома о реабилитации репрессированных верных служителей Царской Семьи и других Членов Дома Романовых|publisher=Официальный сайт Российского Императорского Дома|language=ロシア語|accessdate=2014年3月25日}}</ref>。

== 系譜 ==
{{ahnentafel-compact5
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|1= 1. '''ロシア大公女マリア・ニコラエヴナ'''
|2= 2. [[ニコライ2世|ロシア皇帝ニコライ2世]]
|3= 3. [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|ヘッセン大公女アリックス]]
|4= 4. [[アレクサンドル3世|ロシア皇帝アレクサンドル3世]]
|5= 5. [[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|デンマーク王女ダウマー]]
|6= 6. [[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ヘッセン大公ルートヴィヒ4世]]
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|9= 9. [[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|ヘッセン大公女マリー]]
|10= 10. [[クリスチャン9世 (デンマーク王)|デンマーク国王クリスチャン9世]]
|11= 11. [[ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル|ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ]]
|12= 12. [[カール・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|ヘッセン大公子カール]]
|13= 13. [[エリーザベト・フォン・プロイセン (1815-1885)|プロイセン王女エリーザベト]]
|14= 14. [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート]]
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|22= 22. [[ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム|ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム]]
|23= 23. [[ルイーセ・シャロデ・ア・ダンマーク|デンマーク王女ルイーゼ・シャルロッテ]]
|24= 24. [[ルートヴィヒ2世 (ヘッセン大公)|ヘッセン大公ルートヴィヒ2世]] (= 18)
|25= 25. [[ヴィルヘルミーネ・フォン・バーデン|バーデン大公女ヴィルヘルミーネ]] (= 19)
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|28= 28. [[エルンスト1世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世]]
|29= 29. [[ルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク|ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ルイーゼ]]
|30= 30. [[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント・ストラサーン公エドワード]]
|31= 31. [[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ヴィクトリア]]
}}

== 脚注 ==
{{Reflist}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[アナスタシア・ニコラエヴナ]]…妹
* [[アナスタシア・ニコラエヴナ]]…妹
* [[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)]]…弟
* [[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)]]…弟
* [[ゲオルク・ドナトゥス・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット]]…左の写真
*[[典厩五郎]]『ロマノフ王朝の秘宝』…小説家[[サマセット・モーム]]も登場する歴史小説
*[[典厩五郎]]『ロマノフ王朝の秘宝』…小説家[[サマセット・モーム]]も登場する歴史小説
*『[[名探偵コナン 世紀末の魔術師]]』…[[アニメ映画]]。マリアの遺骨が発見される前に作られた作品で、日本に亡命したものとして描写されている。本作の登場人物の一人である香坂夏美はマリアの子孫という設定でありロマノフ王朝の末裔ということになる。
*『[[名探偵コナン 世紀末の魔術師]]』…[[アニメ映画]]。マリアの遺骨が発見される前に作られた作品で、日本に亡命したものとして描写されている。本作の登場人物の一人である香坂夏美はマリアの子孫という設定でありロマノフ王朝の末裔ということになる。
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[[Category:ロシア大公女]]
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2014年7月29日 (火) 17:56時点における版

マリア・ニコラエヴナ
Мария Николаевна
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
マリア・ニコラエヴナ(1914年頃)

全名 マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
身位 ロシア大公女
出生 (1899-06-26) 1899年6月26日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
サンクトペテルブルク県英語版ペテルゴフアレクサンドリアロシア語版
死去 (1918-07-17) 1918年7月17日(19歳没)
ロシアの国旗 ロシア共和国
ペルミ県エカテリンブルクイパチェフ館
埋葬 1998年7月17日
ロシアの旗 ロシア
サンクトペテルブルク、ペトロパヴロフスキー大聖堂
父親 ニコライ2世
母親 アレクサンドラ・フョードロヴナ
宗教 ロシア正教会
サイン
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マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァロシア語: Мария Николаевна Романова, ラテン文字転写: Maria Nikolaievna Romanova1899年6月26日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第三皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって裁判手続きを踏まない殺人が実行され、家族・従者とともに19歳の若さで銃殺された。ロシア正教会聖人新致命者)。

幼少期

1899年。マリアを抱く母親のアレクサンドラ皇后
1901年。姉のオリガ(後)、タチアナ(前左)とともに
1909年
皇室ヨット『スタンダルト』号にて。大叔母の娘ヴィクトリア王女
1910年。マリアとタチアナ(右)
マリア自筆のサインカード。ルイス・マウントバッテンは1979年に爆死するまで自室のベッドの横にこの肖像写真を飾っていた
1912年から1913年の間。満面の笑みを見せるマリア
1913年。タチアナ(左端)、オリガ(右端)と

ロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第三皇女、ロシア大公女マリア・ニコラエヴナは1899年6月14日(グレゴリオ暦6月26日)に皇室が例年夏の時期を過ごすペテルゴフにあるアレクサンドリアロシア語版の離宮で誕生した[1]。妊娠中のアレクサンドラは数回気絶を経験し、車椅子生活を余儀なくされていた[1]。ニコライ2世は「幸せな一日:主(キリスト)は私達に三女を授けて下さった。マリー、12時10分に無事に生まれた! アリックスはほとんど一晩中寝れず、朝になると痛みが強くなった。程なくして何もかもが終わったことを神に感謝! 私の最愛の人は終日、体調が良好な様子で、赤ちゃんに母乳を与えた」と日記に書いた[2]。ニコライ2世の妹のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女もこのイベントに関心を示し、「すべてが無事に終了し、待つ身の不安が遂に終わったことの嬉しさ! けれど、息子ではなかったという失望。哀れなアリックス! 私達は当然のことながら、男の子でも女の子でもどちらでも喜んではいるのだけど」と書いている[1]

ニコライ2世の家族の絆は強かったと言われている。4人姉妹はいつも仲良しで、マリアは特に妹のアナスタシアと仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。姉のオリガタチアナも2人で1つの寝室を共用しており、彼女らがビッグ・ペアと呼ばれていたのに対し、下の2人はリトル・ペアと呼ばれていた[3]。4人はOTMAという合同のサインを結束の象徴として使用していた[3]英語で最も正確には「Grand Princess」と訳された4人姉妹の身位の呼称「Imperial Highness」はただの殿下に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他のヨーロッパの王女よりも順位が高いことを意味し、最も広く使用されるロシア大公女ロシア語から英語への訳となった[4]。4姉妹は刺繍編み物を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた[5]。また、祖父であるアレクサンドル3世の代からの質素な生活スタイルの影響を受けて厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで固い簡易型ベッドで眠り、朝に冷水浴をした[6]。大きくなると、簡易ベッドは変わらぬものの、部屋の壁にはイコンや絵画や写真が飾られ、豪華な化粧台や、白や緑の刺繍を置いたクッションなどが入り、大きな部屋をカーテンで仕切って浴室兼化粧室として4人共同で使用した[7]。10代になると、冷水浴をやめて夜に香水の入った温水のバスを使用するようになったが、マリアは色々な香水を試した末に「リラ」を常時使用するようになった[8]。4人娘は簡易ベッドを流刑地まで持って行き、最後の夜もこのベッドの上で過ごすことになった[9]

1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローにある離宮アレクサンドロフスキー宮殿に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った[10]。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方もあった[11]。ニコライ2世一家が揃って公的の場に現れることは稀だったが、皇室内での出来事はすべて詳細に公表されており、特にマリアの弟のアレクセイが誕生して以降、一家の注目度は高まった。公的な活動や発言はすぐに写真入りの雑誌や新聞やニュース映画で報道され、その肖像入りの葉書、額縁、飾り皿は世界的なベストセラー商品となった[12]

マリア皇太后を筆頭とするロマノフ家の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた[13]。派手好きのニコライ2世の母親のマリア皇太后と上の妹のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女は華やかな帝都サンクトペテルブルクにとどまることを好み、離宮には滅多に顔を出さなかった。弟の中で唯一存命していたミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に至ってはほとんど一度も離宮を訪れなかった。控えめな性格である下の妹のオリガ・アレクサンドロヴナ大公女のみが唯一アレクサンドラに同情的で、一家と親しい付き合いをしていた[13]。外の世界と引き離された4人娘にとってコサックの護衛兵や皇室ヨット英語版スタンダルト』号の乗組員達は数少ない気軽に話が出来る相手であった。他の人間とも接する機会を与える必要性を感じていたオリガ・アレクサンドロヴナは毎週土曜日はサンクトペテルブルクからやって来てアレクサンドラを説得し、彼女達を町に連れ出した。まず叔母と4人娘はサンクトペテルブルク行きの汽車に乗り、アニチコフ宮殿英語版にて祖母のマリア皇太后と昼食をともにし、その後にオリガ・アレクサンドロヴナの邸に行ってそこで他所から来た若い人々と一緒にお茶やダンス、ゲームを楽しんだ。この若い叔母は後年に「この少女達は一分も無駄にせずに楽しんだ」と回想している[7]

同時代の人々はマリアの外見の特徴について「明るい茶色の髪と大きな青い瞳(家族は彼女の瞳を「マリーのソーサー」と呼んだ)の持ち主」と説明した[14]。幼い頃は細身の2人の姉と違ってぽっちゃりと太って丈夫に育ったので、母親のアレクサンドラが将来の結婚を考えて体重の増加を心配し、絶望に陥っていたほどであった[14][15]

アレクサンドラの親友で女官侍女)を務めたアンナ・ヴィルボヴァ英語版はマリアについて「素晴らしい瞳とバラ色の頬を持っていた。肉付きの良い傾向があり、彼女の美しさをやや削いでしまうかなり厚い唇を有していた」と述べている[16]。ニコライ2世一家とともに殺害された皇室主治医エフゲニー・ボトキンの娘、タチアナ・ボトキナは「穏やかで優しい目付きをしている」と感じたという[17]。その容貌をサンドロ・ボッティチェッリの描く天使に例えられることもあった[18]。大叔父のウラディミール・アレクサンドロヴィチ大公はいつも明るく笑顔の彼女を「愛らしい赤ん坊」と呼んで慈しんだ[18]

政治に強い関心を持つアイルランド出身の保母マーガレッタ・イーガー英語版が友人とドレフュス事件について熱く議論している間、まだ幼かったマリアが浴槽から飛び出し、宮殿の廊下を全裸で走り回ったことがあった。叔母のオリガ・アレクサンドロヴナは後年に「幸いなことに私はちょうどその時に到着し、彼女を掴み、抱えていったが、ミス・イーガーはまだドレフュスについて話していた」と当時を回想した[1]

マーガレッタ・イーガーによると、まだアナスタシアが生まれて数ヶ月の頃に姉のオリガとタチアナは「保育室」内の一角に自分達のための椅子の家を建ててマリアを召使いのように扱い、彼女を仲間外れにした。イーガーはマリアとアナスタシアのためにもう一方の端に別に家を作ってあげたが、マリアの視線は常に部屋の反対側に向けられていた。

突然、彼女がその家の中を駆け抜けた。両方の姉を平手打ちしてから隣の部屋へ走り、人形にマントと帽子を着せて、小さなおもちゃを沢山抱えて戻って来た。「私は召使いにはならない、プレゼントをあげるような寛大で心優しい叔母になりたい」と彼女は言った。彼女はその後、プレゼントを渡して"彼女の姪"にキスをして腰を下ろした。他の子供達は互いに恥ずかしそうに顔を見合わせ、タチアナは「私達が可愛そうなマリーに冷たくし過ぎたから、彼女は私達を叩かずにはいられなかったのね」と言った。彼女達はこの時に家族の中でのそれぞれの立場を尊重することを学んだ。[18]

マリアは穏やかな気性であったが、いたずらな一面もあり、母親のティーテーブルからいくつかのビスケットを盗んだこともあった。アレクサンドラと女家庭教師は罰として夕食抜きで早寝させることを示唆したが、ニコライ2世は「私は常に、が成長していくのを恐れていた。彼女が唯一人間らしさを持った子供のように思えて嬉しい」と述べてこれに反対した[18]。マリアは父親が大好きだった。「パパに会わせて」と言って頻繁に「保育室」から脱出しようとした[18]1901年にニコライ2世がクリミア滞在中に腸チフスに羅患し、生命の危機に直面した時は彼の小さな肖像画に毎晩キスをした[1]

マリアとアナスタシアはいつも同じ服を着ていた[7]。二人は自分達の部屋に置かれた蓄音機を大音量で再生して一緒に曲のリズムに合わせて踊ったりした[15]。マリアは積極的で活発な妹に影響される傾向にあり、アナスタシアが歩いている人をつまずかせたり、誰かをからかったりした時に妹を制止することは出来なかったが、そのかわりにマリアはいつも相手に謝ろうとした[17]。彼女は素直で心優しい性格のために時々、姉妹に良いように利用された。1910年にマリアはオリガに促されて、姉のオリガに自分の部屋を与え、彼女に自分のための服を着用することを許可すべきことを求める手紙を母親に送った。マリアはのちに手紙を送るアイディアは自分自身が思い付いたことだと、アレクサンドラを説得した[19]

マリアにはスケッチの才能があり、左利きだったと言われている[20]。学業には基本的に無関心であった[15]。10代後半になると、英語の家庭教師チャールズ・シドニー・ギブス英語版を地面から持ち上げられるほどの怪力も発揮するようになった[1][21]。思春期になると浮ついた感じになり、怠けがちで陽気過ぎるという欠点も指摘された[22]月経期間になると怒りっぽくなるため、母親と姉妹達はこれを「ベッカー夫人の来訪」などと表現した[23]

思春期の恋愛

1914年

マリアが最も興味があるのは結婚や子供についてのお喋りをすることであった[24]。ロシアの兵士と結婚し、子供は20人欲しいと語ったこともあった[25]。 マーガレッタ・イーガーによると、マリアはかなり若い頃から兵士が好きだった。

ある日、幼い大公女マリアは窓の外の兵士の連隊の行進を見て「ああ! 私はこの親愛なる兵士達が大好き。全員にキスしたいわ! 」と叫んだ。私は「マリー、いい女の子が兵士にキスしないで下さい」と言った。数日後、子供達のパーティーが開かれ、コンスタンチン大公の子供達も招待された。そのうちの1人は年齢が12歳に達し、コープドゥ士官候補生に選ばれ、その制服を着用して来ていた。彼は小さないとこマリーにキスをしたかったが、彼女は手で自分の口を覆い、離れて大きな威厳を持って「あっちへ行け! 兵士よ」と言った。「私は兵士にはキスをしない」。少年は本物の兵士のように扱われて大いに喜ぶと同時に少し残念がっていた。[26]

1910年に、マリアは知り合った一人の若い男性に対する片想いに苦しんでいたことが報告されている。アレクサンドラは同年12月6日の手紙で「彼のことであまり思い悩まないようにしなさい。これは私達の友人(グリゴリー・ラスプーチン)が言ったことです。」と書き、人々がマリアの片想いについて不親切なことを言うかもしれないので、気持ちを胸の内にしまっておくのが最善だと助言している[27]

姉のタチアナも美人の誉れ高かったが、「ロマノフ家の伝統的な美しさ」を継承したと言われていたのはマリアであった。マリアのいとこで、彼女より1歳年下のルイス・マウントバッテンも好意を抱いていることを認めていた。「僕は彼女にすっかり夢中だ、結婚することに決めた。彼女以上に美しい女性なんか想像出来っこない! 」「ああ、彼女達(OTMA)は高貴でとても可愛らしく、写真で見るよりもはるかに美しい。僕はマリーに虜だ、彼女と結婚することに決めた。彼女は疑いようがないぐらいに素敵だった。僕は自分の寝室の暖炉棚に彼女の写真を置いている。常に飾ってある」と告白している[1]。マウントバッテンはその後に結婚したが、生涯彼女の面影を追い続けた。1979年に爆殺されて非業の死を遂げた時に彼の寝室のベッドの横にはマリアの肖像写真が飾られていた[28]

かつて姉オリガの縁談相手であったルーマニア王国の王太子カロル(後のカロル2世)は1915年に皇宮を訪れた際、マリアとの婚約を申し込んだが、ニコライ2世はマリアはまだ結婚するには若過ぎるという理由で笑って取り合おうとしなかった[29]

第一次世界大戦中にマリアと彼女の姉妹、母親は時々、モギリョフにある軍総司令部スタフカ)で最高司令官の任務を遂行する父親ニコライ2世と彼に同伴した弟アレクセイを訪問した。マリアはこの訪問中にニコライ・ドミトリエヴィッチ・デメンコフという名の当直将校に恋愛感情を抱いた。ツァールスコエ・セローに戻った後はしばしば「デメンコフによろしく伝えてね」とニコライ2世に頼み、皇帝に送る手紙に冗談で「デメンコフ夫人」と署名したこともあった[30]。マリアはデメンコフのためにシャツを縫い、その後に二人は何度か電話でも話をして、デメンコフは贈られたシャツを気に入っていると話した。しかし、ロシア革命の勃発により、本格的な交際には至らずに終了した。姉妹はデメンコフに夢中のマリアを時々からかった。オリガはある日の日記に「明日、アーニャ(アンナ・ヴィルボヴァ)は・・・ヴィクトル・エラストヴィッチとデメンコフ(と私達全員)をお茶に招待します。当然のことながら、マリアはとても嬉しそうです! 」と取り上げている[1]

ラスプーチンとの繋がり

1914年頃。アナスタシア(左)と

ラスプーチンはある時から子供達の「保育室」への出入りも認められるようになったため、保育室に勤務するソフィア・イヴァーノーヴナ・チュッチェヴァは出入りを禁止しようとして苦情も入れたが、最終的にはアレクサンドラによって彼女は解雇された[31]。解雇されたチュッチェヴァはアレクサンドラの姉であるエリザヴェータ・フョードロヴナらにニコライ2世一家の話をした。エリザヴェータは妹の目を覚まさせようと努力したが効果は無く、最終的には不和が高じて互いに交際しなくなった[32]。ラスプーチンが子供達の部屋を訪れた話については全ての報告で完全に潔白とされ、一家は憤慨した。チュッチェヴァはマリアの叔母のクセニアにも、ラスプーチンが寝る用意をしている娘達のところまで行って彼女達と会話をして抱き締めたり撫でたりしているという話をした。また、ラスプーチンの話を彼女にしないように子供達が教えられていたことや保育室スタッフには彼の訪問を隠すように注意されていたという話もした。チュッチェヴァの話を聞いたクセニアは1910年3月15日に、ラスプーチンに対するアレクサンドラと彼女の子供達の態度について「非常に信じられないし、理解を通り越している」と書いている[33]。皇帝の子供達とラスプーチンの親密な友情はやり取りされた手紙の内容からも明らかになっている。暗殺されるにラスプーチンは以下の内容の手紙を送っている。

天使の祝いの日の挨拶を送ります。オ(オリガ)よ、キリストは素朴さの中にいます。私達はキリストの中にいます。ア(アナスタシア)よ、親愛なる方よ、私達がいた所、座っていた所に聖霊もいたのです。神を愛しなさい。神はいつでもあなたの側にいます。・・・恐怖に打ち勝ちなさい。神を讃える歌を歌って生きなさい。マ(マリア)よ、愛する者よ、海や自然とどんなお話をしたのか話しておくれ。私はあなたの素直な心が好きだよ。[34]

ラスプーチンはアレクサンドラのみならず、4人の娘達までも誘惑したという噂が世間に広まった[35]。印刷されない話が人から人へと伝わり、ラスプーチンがニコライ2世を室外に出してアレクサンドラと寝た、ラスプーチンが4人の大公女全員をレイプしたという噂まで飛び交う始末だった[36]。ラスプーチンと敵対した修道司祭イリオドル英語版は彼から見せびらかされたアレクサンドラや4人の娘達が彼に向けて書いた熱烈な手紙を盗み出し、そのコピーを大量にばらまいた[37]。ラスプーチンとの性的関係を持っているかのように示唆する皇后、4人の大公女、アンナ・ヴィルボヴァのヌードが背景に描かれたポルノ漫画も登場した[38]

スキャンダルが広まった後、アレクサンドラについての悪評が広まるのを懸念したニコライ2世はラスプーチンに対してしばらくサンクトペテルブルクを離れるように命じ、ラスプーチンはパレスチナへの巡礼の旅に出た[39]。こうした噂にも関わらず、ラスプーチンと皇室の交流は1916年12月17日(グレゴリオ暦で12月29日)に彼が暗殺されるまで続いた。アレクサンドラは暗殺の11日前にニコライ2世に宛てた手紙で「私達の友人は彼女らは年齢の割に困難な道筋を経験し、魂が大いに発達していると言って私達の女の子にとても満足しています」と書いている[40]

A・A・モルドヴィノフは回顧録の中で、ラスプーチンが暗殺されたニュースを知らされた夜に4人娘がいずれかのベッドルームのソファーの上に密接に身を寄せ合って座り、ひどく動揺していたことを報告している。暗いムードにあったことを振り返り、モルドヴィノフには彼女達が迫り来る政治的混乱を感知していたかのように思えたという[41]。ラスプーチンはマリアと彼女の姉妹、その母親が裏面に署名したイコンで埋葬された。マリアも1916年12月21日のラスプーチンの葬儀に参列し、一家は彼が埋葬された場所に礼拝堂を建設することを計画した[42]

2年後の皇帝一家殺害を指揮したヤコフ・ユロフスキーは大公女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の祈りの言葉を添えた魔除けのロケットペンダントを首にかけていたと証言している[43]

血友病

マリアは母親と同じく血友病遺伝子の保因者であった説が指摘されている。彼女は子供を多く持つことを夢見ていたので、生き残っていた場合は次の世代に血友病患者が出た可能性が少なからずある。マリアの弟のアレクセイが診断される前からアレクサンドラの母方の叔父のオールバニ公レオポルド王子、アレクサンドラの兄のフリードリヒ、アレクサンドラの甥のヴァルデマールハインリヒ英語版が既に血友病を発症していた[44]

オリガ・アレクサンドロヴナは晩年にインタビューを受け、マリアが1914年12月に扁桃腺の切除手術を行おうとした時の状況を話している。あまりの激しい出血に、アレクサンドラから手術の続行を命じられた担当医師もひどく取り乱してしまったほどであった。姪が4人とも通常の人間よりも激しく出血したので、4人全員が母親と同様に血友病の遺伝子を保因していたと考えているという見解を示している[45]

皇室の遺骨のDNA鑑定によって2009年にマリアの弟のアレクセイが血友病Bに苦しんでいたことが証明された。同鑑定は彼の母親と4人の姉のうちの1人が血友病の遺伝子を保因していたことも証明した。ロシアの科学者はその1人はアナスタシアだと推定したが、アメリカ合衆国の科学者はその1人をマリアと推定した[46]

第一次世界大戦中の奉仕活動

1915年頃。アナスタシア(右)とともに負傷兵を見舞うために病院を訪れたマリア
1916年。右から2番目
1916年。姉のオリガ(右前)、タチアナ(後)と
1917年春に軟禁下のツァールスコエ・セローにて。オリガ(左から2番目)、アナスタシア(左から3番目)、タチアナ(右端)と

第一次世界大戦中にマリアは妹のアナスタシアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。負傷兵らと一緒にチェッカービリヤードで遊び、彼らの士気を高めようと努力した。ドミトリーという名の負傷兵はマリアの備忘録に彼女の愛称の一つ、「有名なマンドリフォリー」という署名を入れた[47]。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした。マリアは自分達と患者の写真を1冊のアルバムにまとめ、同病院の看護師を務めていたタチアナ・ボトキナにプレゼントした[48]

戦争中にマリアとアナスタシアは看護師の学校を訪問し、子供達の世話をすることも出来た。マリアはニコライ2世に送った手紙の中で子供達に食べさせたり、子供のあごからこぼれ落ちたおかゆを拭いてあげた時に父親のことが頭に浮かんだと書いている[30]

ロシア革命と監禁

1917年2月23日(グレゴリオ暦で3月8日)に首都ペトログラードにおいて二月革命が勃発した。この前日にニコライ2世は最高司令官の職務を果たすべくモギリョフにあるスタフカに向かうために首都を離れたばかりだった[49]。この大混乱のさなかにニコライ2世の5人の子供全員がはしかに襲われた。5人の子供の中で最も健康で、一番最後に羅患したマリアは皇室に忠誠を尽くすよう兵士達に嘆願するために2月28日(グレゴリオ暦で3月13日)夜にアレクサンドラと一緒に外に出た。まもなく病気になり、瀕死の状態になった。彼女は回復の兆しを見せるまで父親が退位したことを知らされなかった[50]。このはしかが治った後、マリアは非常に細身の体型になった[25]。アレクサンドラから退位を知らされた時の様子をマリアは「ママは嘆き悲しみました。私も泣きました。でも、その後のお茶の時にはみんなで笑おうと努めました」とアンナ・ヴィルボヴァに語っている[51]

ニコライ2世の一家は最初はツァールスコエ・セローの宮殿で逮捕され、自宅軟禁下に置かれた。その後にシベリアトボリスク、次いでエカテリンブルクへ移送された。彼女はツァールスコエ・セローとトボリスクで警護兵達と親しくなり、直ぐに彼らの妻や子供の名前など多くのことを覚えた。マリアは外を自由に散歩することが出来る場合に限り、いつまでもこの地に住んで幸せになるというコメントをトボリスク滞在時に残している[52]。それでも、彼女は常に監視されていることは認識していた。マリアは所有物が探索されることを恐れ、トボリスクを去る直前にアナスタシアと一緒に自分達の手紙や日記を燃やしている[53]

トボリスクに移された当初は従者達は隣の別の建物に居住していたが、十月革命によって権力が臨時政府からソビエトに移行すると従者達は隣の建物から追い出されてニコライ2世一家と一緒の旧知事公邸に押し込められ、食料の配給も減らされた[54]。4人娘ははしかに罹った際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった[54]。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニアに頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラはアンナ・ヴィルボヴァら知人には熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた娘達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている[54]。トボリスク滞在時のマリアの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている。

マリア・ニコラエヴナは最も美しく、典型的なロシア人であり、気立てが良く、陽気で、穏やかで、心優しい少女だった。彼女はみんなと、とりわけ一般兵士との会話を好み、会話をすることが出来た。彼女はいつも兵士達の考えの多くに共鳴していた。彼らは彼女の容貌や強さがアレクサンドル3世に似ていると述べた。彼女はとても力強かった。病気のアレクセイ・ニコラエヴィチを移動させる必要があった時は彼が「マーシャ、僕を背負って! 」と大声で叫び、彼女はいつも彼を背負っていた。人民委員パンクラトフは完全に彼女を敬い慕っており、非常に彼女を愛していた。描画や裁縫の能力に優れていた。[55]

ニコライ2世夫妻が身柄をトボリスクからエカテリンブルクへ移送された際には、大公女の中でマリアは唯一同伴した。タチアナはアレクセイの面倒を見るために残る必要があり、アナスタシアはまだ若過ぎたし、オリガは病気がちになっていた。マリアは大好きな両親と運命をともにしたいと考えて同伴を決断し、「私が行くわ」と自ら名乗り出た[56]。アレクサンドラの友人のリリー・デーン英語版は革命が彼女を「子供から女性に変えた」と書いている[57]

イパチェフ館での生活

マリアと彼女の両親は1918年4月30日にエカテリンブルク市内にある周りに木の柵が張り巡らされたイパチェフ館に到着した[58]。トボリスクに残った姉妹に送った手紙の中で、マリアは家族に対する規制が強化されることについての不安を述べている。1918年5月2日の手紙では「ああ、今は何もかもが複雑だわ」「私達は8ヶ月間平和に暮らしてきたけど、今は何もかもやり直し」と書いている[59]

イパチェフ館で当直勤務を行ったヴォロビエフはマリアと彼女の両親のイパチェフ館での様子について次のように言及している。

囚人達は起きたばかりで、いわゆる顔も洗わずに、私達と出会った。ニコライは鈍い目で私を見て、黙って会釈した。マリア・ニコラエヴナは反対に好奇心に燃えた目でじっと私を見つめ、何か聞きたそうだったが、どうやら自分の朝の化粧にうろたえたらしく、どぎまぎして、窓の方へ顔を背けた。アレクサンドラ・フョードロヴナは悪意に充ち、いつも片頭痛と胃弱に悩まされていて、私を見ようとはしなかった。彼女は湿布を頭にあててソファーベッドに半ば横たわっていた。[60]

他の4人の子供達も後からイパチェフ館に到着し、一家は再会を喜び合った。その日の夜はマリアは床に寝て、自分のベッドにアレクセイを寝かせた[61]

イパチェフ館でもマリアは自ら進んで警護兵達と仲良くなろうとした。マリアは所持していたアルバムから写真を取り出してその家族について彼らと語り、解放されたらイギリスで新たな生活をスタートさせたいという彼女自身の希望を話した。警護兵の1人、アレクサンドル・ストレコチンは後年にマリアについて感謝を持って彼女が健康的で快活な美しさであったことを振り返り、他の姉妹とは違って良い意味で大公女らしくなかったと述べた[62]。かつて見張り番を務めた人物はエカテリンブルクでおそらくマリアがあまりに警護兵と親しく接し過ぎるためによく母親に叱られていたことを回想している[62]。前出のストレコチンは会話はいつも1人の少女が「私達はとても退屈しています! トボリスクでは常に何かがありました。私は知っています! この犬の名前を言い当てて下さい! 」とささやいてから始まっていたことを書いている[63]

警護兵が身の程をわきまえずに下品なジョークを発してしまったためにタチアナが青ざめた顔で部屋から飛び出し、マリアが彼らをじっと見つめて「このような恥ずべき言葉を使用する自分に嫌気が差しません? 良家の女性に対してそのような軽口で言い寄って彼女が貴方に好意を持つと思いますか? 礼儀をわきまえた立派な男性となら、仲良くやっていけます」と諭したこともあったという[64]。21歳の警護兵イヴァン・クレスチェフは大公女の1人と結婚することを意図し、もし彼女の両親が反対した場合には彼女をイパチェフ館から救い出すことを周囲に話していた[65]

6月26日にマリアに好意を抱く警護兵の1人、イヴァン・スコロノドフはマリアの19歳の誕生日を祝うためにバースデーケーキを館に密かに持ち込んだ。マリアは家族から黙って姿を消し、館の抜き打ち検査を実施した2人の上司によってスコロノドフはマリアと一緒に発見され、スコロノドフは館から追放された。何人かの警護兵の回顧録には、この翌日のオリガとタチアナがマリアの軽率な行動に対してひどく怒っていたことが書かれている[66]。特にオリガは敵の警護兵連中と仲良く出来るマリアが理解出来なかった。この事件以降、しばらくはアレクサンドラとオリガはマリアが自分の家族の人間では無いかのように彼女に冷たく接し、関わり合いを避けた[57]

7月14日(日曜日)、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にマリアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している[67]

ところが、7月15日のマリアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。マリアはアレクセイを持ち上げることが出来る力強さを自慢していた[68]

7月16日、マリアの人生最後の一日。マリアは午後に父親や姉妹と一緒に庭を歩き、警護兵によると特に変わったところは見られなかった。夕食時に長い監禁生活の間にアレクセイを楽しませ続けてきた14歳の皿洗いの少年、レオニード・セドネフが館から姿を消した。少年は殺害する対象から外すことが決まり、イパチェフ館から通りの向かいの警護兵の宿舎へ引っ越させていた。しかし、自分達を殺害する計画が立てられていることを知らない皇帝一家はセドネフの不在をひどく心配していた。タチアナと主治医のエフゲニー・ボトキンは夕方に新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーのオフィスまで出向き、セドネフを復帰させるように要求した。ユロフスキーはセドネフは直ぐに戻ってくると伝えて説得しようとしたが、家族は納得しなかった[69]

マリアは幸せな家庭生活を送ることを夢見ていたが、その夢が叶うことのないまま1918年7月17日未明、エカテリンブルク市内にあるイパチェフ館で家族、従者とともに銃殺された。

殺害

ニコライ2世らの遺骨を埋めた場所で誇らしげに記念撮影をするピョートル・エルマコフ

ニコライ2世一家とその従者らは1918年7月16日の夜に眠りに付いたが、翌17日午前1時半過ぎに起こされ、エカテリンブルク市内の情勢が不穏なので、全員イパチェフ館の地下2階に降りるように言われた[70]。アナスタシアは一家の3匹の飼い犬のうちの一匹、スパニエルのジェミーを腕に抱いていた。自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左横に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右横に立ち、マリアと彼女の姉妹は使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。その後に一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が入室し、警護隊長ユロフスキーが殺害の実行を発表した。マリアと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた[71]

最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、料理人イヴァン・ハリトーノフフットマンアレクセイ・トルップが殺害され、ボトキンとメイドアンナ・デミドヴァが負傷した。マリアは背面のドアから部屋を脱出しようとしたが、ドアは開かないように閉じられた。酒に酔った殺害実行者の一人、ピョートル・エルマコフ英語版はドアをガタガタさせて逃げようとするマリアに狙いを定めた。エルマコフの弾丸がマリアの太腿に当たり、マリアはアナスタシアやデミドヴァとともに床に倒れ、うめき声を上げた。その後の数分間でボトキン、彼女の弟のアレクセイ、彼女の姉のオリガとタチアナが死亡した。マリアとアナスタシアは負傷していたが、まだ生きていた。エルマコフの証言によると、銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃った。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。また、エルマコフはアナスタシアの頭部も銃で撃ったと主張している。遺体を建物の外へ移動させようとしている時にマリアが意識を取り戻し、悲鳴を上げた。エルマコフは再び彼女を刺したが失敗し、静かになるまで彼女の顔を突き続けた。マリアの頭蓋骨の顔面部分は実際に破壊されたが、ユロフスキーは被害者の顔面は埋葬場所に着いてからライフル銃の台尻部分で粉々にされたと書いた。マリアは確実に彼女の家族と一緒に死亡したと見られているものの、彼女の死の直接の原因は謎のままである[72]

生存の噂と遺骨の発見

1915年頃。着物風のガウンを身に着けたマリア。オリエンタルファッションが当時流行していた

警護兵の何人かの証言は警護兵が生存者を救出する可能性があったことを示している。ユロフスキーは殺害に関わった警護兵達に彼のオフィスに来て、殺害後に一家から盗んだ物品を返却するように要求した。犠牲者の遺体の大部分がトラック内、地下、家の廊下に放置された時、大体の時間のスパンは伝えられていた。皇帝一家に同情的で殺害に参加していなかった何人かの警護兵は地下室に居残っていた[73]

マリアが生き残ったという主張がこれまでに何度かされてきた。最も有名な例として、チェスラヴァ・シャプスカ英語版がマリアであったという言い伝えが広まり、その孫のアレクシス・ブリメイヤー英語版は自分を「アレクセイ・アンジュ・ド・ブルボン=コンデ・ロマノフ=ドルゴルーキー王子」と称した。彼によると、祖母はルーマニアに逃れて結婚し、娘オリガ・ペアタを産んだと述べた。しかし、彼は自分達の爵位を悪意を持って使用したと憤慨するドルゴルーコフ家ベルギーにあるロシア貴族の子孫協会から1971年に提訴された後、ベルギーの裁判所で懲役18ヶ月を宣告された[74][75]

マリアとその妹アナスタシアであると主張する2人の若い女性が1919年ウラル山脈の奥地にある山村で司祭によって匿われ、1964年に亡くなるまでこの地で修道女に姿を変え、怯えながら二人一緒に暮らしたという話が伝えられている。それぞれマリア・ニコラエヴナとアナスタシア・ニコラエヴナの名で埋葬された[76][77]

これより最近では、ガブリエル・ルイス・デュバルがその著書の中で祖母のグラニー・アリーナ英語版は大公女マリアだったかもしれないと主張した。デュバルによると、彼の祖母はフランクという名の男と結婚して南アフリカ連邦に移住し、1969年に死亡したという[78]

1991年にニコライ2世一家とその使用人のものであると見られる遺骨がエカテリンブルク近郊の森の中で大量に発掘された[79]。埋葬地は1979年夏に発見されていたが、当時はまだ共産主義体制下であったためにその事実は公表されずに元の場所に再び埋められた[79]。しかし、発掘された遺骨は9体のみで2人の遺骨が欠落していたため、欠落している大公女の遺骨がマリアかアナスタシアかでアメリカとロシアの科学者の間でジレンマがあった。アメリカの法医学博士ウィリアム・R・メイプルズ英語版がアレクセイとアナスタシアの遺骨は欠落していたと主張したのに対し、ロシアの科学者達はこれに異議を唱え、欠落していたのはマリアの遺骨だと主張した。彼らはコンピュータプログラムを用いて最年少の大公女の写真と犠牲者の頭蓋骨を比較し、その一つがアナスタシアのものだと特定したが、アメリカの科学者達は骨の一部が欠けていたために頭蓋骨の高さと幅を推定したこの分析法が不正確であることを発見した[80]。ロシアの法医学専門家は大公女の頭蓋骨のいずれもがマリアの特徴であった前歯の間の隙間を有していなかったと述べた[81]

女性の遺骨のいずれもが、鎖骨脊椎が成熟しており、親知らずが発達しているなど、17歳のアナスタシアに見られるであろう未熟さの証拠を示さなかったので、アメリカの科学者達は欠落している遺骨はアナスタシアのものであると判断した[82]1998年にニコライ2世夫妻と大公女3人の遺骨が埋葬された時には、およそ5フィート7インチ(約170㎝)とされた遺骨はアナスタシアの名の下に埋葬された。エカテリンブルクの一家殺害事件6ヶ月前に4人の姉妹を写した写真はマリアがアナスタシアよりも何インチも高く、オリガよりも背が高かったことを証明している。遺骨の一部が破損して欠けていたためであったが、この身長は推定値であった[83]

ミトコンドリアDNAを比較した結果、4体の女性の遺骨とアレクサンドラの親戚のエジンバラ公フィリップに遺伝的な繋がりがあることが確認された。ヤコフ・ユロフスキーは提出した報告書の中で、2体の遺骨は埋葬地から除去され、別の場所で焼却されたと述べている[84]

2007年8月23日に、ロシアの考古学者はユロフスキーが残した資料に記載された埋葬地と一致すると見られるエカテリンブルク近郊の場所で2体の焼かれた骨格の一部を発見したと発表した。考古学者は10歳から13歳ぐらいまでの年齢の少年と18歳から23歳ぐらいまでの年齢の若い女性のものであったと述べた。アナスタシアは殺害当時17歳1ヶ月、マリアは19歳1ヶ月であり、唯一発見されていなかった大公女の遺体はマリアのものと推測された。遺骨と一緒に「硫酸の容器の破片、釘、木箱から金属片及び様々な口径の弾丸」が発見され、遺骨探索には金属探知機が使用された[85]2008年4月30日にロシアの法医学者はDNA鑑定によってこの2体の遺骨がアレクセイ皇子と彼の姉の大公女のいずれかであることが証明されたと発表した[86]。この結果、皇帝の家族全員が殺害されており、生き残っていなかったことがDNA鑑定で確認されている。

列聖と再評価

7月17日の他の殺人被害者と同じく1981年在外ロシア正教会によって列聖された[87]。その19年後の2000年にはロシア正教会もマリアと彼女の他の6人の家族をパッション・ベアラ英語版として列聖した[88]

1998年7月17日にニコライ2世夫妻と大公女3人の遺骨はサンクトペテルブルクのペトル・パウェル大聖堂に埋葬された[89]

2009年10月16日ロシア連邦検察庁ロシア語版はニコライ2世一家を含めたボリシェヴィキによる赤色テロの犠牲者52名の名誉の回復を発表した[90]

系譜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. ロシア皇帝ニコライ1世
 
 
 
 
 
 
 
8. ロシア皇帝アレクサンドル2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. プロイセン王女シャルロッテ
 
 
 
 
 
 
 
4. ロシア皇帝アレクサンドル3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世
 
 
 
 
 
 
 
9. ヘッセン大公女マリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ
 
 
 
 
 
 
 
2. ロシア皇帝ニコライ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
10. デンマーク国王クリスチャン9世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ・カロリーネ
 
 
 
 
 
 
 
5. デンマーク王女ダウマー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
11. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. デンマーク王女ルイーゼ・シャルロッテ
 
 
 
 
 
 
 
1. ロシア大公女マリア・ニコラエヴナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世 (= 18)
 
 
 
 
 
 
 
12. ヘッセン大公子カール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ (= 19)
 
 
 
 
 
 
 
6. ヘッセン大公ルートヴィヒ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. プロイセン王子ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
13. プロイセン王女エリーザベト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. ヘッセン=ホンブルク方伯女マリアンヌ
 
 
 
 
 
 
 
3. ヘッセン大公女アリックス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世
 
 
 
 
 
 
 
14. ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ルイーゼ
 
 
 
 
 
 
 
7. イギリス王女アリス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. ケント・ストラサーン公エドワード
 
 
 
 
 
 
 
15. イギリス女王ヴィクトリア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ヴィクトリア
 
 
 
 
 
 

脚注

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  2. ^ В ожидании престолонаследника” (ロシア語). Цесаревич Алексей. 2011年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月24日閲覧。
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関連項目

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