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「730 (交通)」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
戦前の沖縄県は日本国内の他の地域と同じく自動車は左側通行であったが、[[沖縄戦]]終了直後の1945年6月24日に、沖縄を占領下に置いたアメリカ軍により右側通行に変更されていた。日本本土とは逆の右側通行であるという状況は、1952年の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による日本の占領状態の終了後も続き、さらに1972年の復帰後も続いたが<ref>[[沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律]]第58条</ref>、[[道路交通に関する条約 (1949年)|道路交通に関する条約]]による「一国一交通制度」を遵守する立場から、1978年7月30日をもって県内全域で左側通行に戻すことになった<ref>1977年(昭和52年)9月20日政令第268号「の復帰に伴う特別措置に関する法律第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令</ref>。1975年に交通方式変更が閣議決定された後、沖縄県警に対策室が設置され、2年間におよぶ準備作業が行われた。これは、沖縄県の日本復帰を象徴的に示す戦後の一大プロジェクトであった。
戦前の沖縄県は日本国内の他の地域と同じく自動車は左側通行であったが、[[沖縄戦]]終了直後の1945年6月24日に、沖縄を占領下に置いたアメリカ軍により右側通行に変更されていた。日本本土とは逆の右側通行であるという状況は、1952年の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による日本の占領状態の終了後も続き、さらに1972年の復帰後も続いた{{Refnest|group="注釈"|[[沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律]]第58条<ref name="hourei_okinawa58"/>によるもの。}}が、[[道路交通に関する条約 (1949年)|道路交通に関する条約]]による「一国一交通制度」を遵守する立場から、1978年7月30日をもって県内全域で左側通行に戻すことになった{{Refnest|group="注釈"|[[の復帰に伴う特別措置に関する法律]]第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令<ref name="hourei_okinawa268"/>によるもの。}}。1975年に交通方式変更が閣議決定された後、沖縄県警に対策室が設置され、2年間におよぶ準備作業が行われた。これは、沖縄県の日本復帰を象徴的に示す戦後の一大プロジェクトであった。


== 変更作業 ==
== 変更作業 ==
1978年7月29日22時より沖縄県全域で[[緊急自動車]]を除く[[自動車]]の通行が禁止され、8時間後の翌日6時をもって自動車は左側通行となった。
1978年7月29日22時より沖縄県全域で[[緊急自動車]]を除く[[自動車]]の通行が禁止され、8時間後の翌日6時をもって自動車は左側通行となった<ref name="qab120731"/>


[[道路標識]]・[[道路標示]]等の変更は、この8時間の自動車通行禁止時間に一斉に切り替えが行われている。幹線道路ではあらかじめ左側通行用の標識や信号を設置した上で、それらをカバーで覆い隠しておき、自動車の通行を止めた8時間の間にその覆いを外して右側通行用の標識にかぶせ直すことで効率的に置き換えた。車線のレーン・右左折表示も、矢印部分を覆うなどすることで8時間のうちに左側通行用に切り替えている。これら方法は発案者<ref>久高弘(くだか ひろし) - 沖縄県警の730現場責任者、後に[[那覇警察署]]長を勤める。</ref>の名を取って「久高方式」と呼ばれていた<ref>2008年07月30日、沖縄タイムス「ひと」欄</ref>。
[[道路標識]]・[[道路標示]]等の変更は、この8時間の自動車通行禁止時間に一斉に切り替えが行われている<ref name="qab120731"/>。幹線道路ではあらかじめ左側通行用の標識や信号を設置した上で、それらをカバーで覆い隠しておき、自動車の通行を止めた8時間の間にその覆いを外して右側通行用の標識にかぶせ直すことで効率的に置き換えた<ref name="qab120731"/>。車線のレーン・右左折表示も、矢印部分を覆うなどすることで8時間のうちに左側通行用に切り替えている<ref name="qab120731"/>。これら方法は発案者<ref group="注釈">久高弘(くだか ひろし) - 沖縄県警の730現場責任者、後に[[那覇警察署]]長を勤める。</ref>の名を取って「久高方式」と呼ばれていた<ref name="times080730"/>。


作業に伴う交通整理などは沖縄県警だけでは対処しきれないことから、[[警視庁]]をはじめ全国各県警の警察官が応援に駆けつけた。それでも、変更当初は各地で自動車同士の接触など小規模な[[交通事故]]が頻発していたようである<ref>[http://jp.youtube.com/watch?v=73Q_H2e-0HA 「映像でつづる復帰30年」]</ref>。ただし、落命を伴う大事故は発生しなかった。
作業に伴う交通整理などは沖縄県警だけでは対処しきれないことから、[[警視庁]]をはじめ全国各県警の警察官が応援に駆けつけた<ref name="magazine11_68"/>。それでも、変更当初は各地で自動車同士の接触など小規模な[[交通事故]]が頻発していたようである<ref name="youtube061011"/><ref name="magazine11_68"/>。ただし、落命を伴う大事故は発生しなかった。


わずか8時間という短時間での一斉切り替えが可能だった要因のひとつとして、当時の沖縄県には[[路面電車]]がなかったことが挙げられる。路面電車を自動車に合わせ右側通行から左側通行にするには、全ての車両と乗降場の構造を変更する必要がある<ref>[[スウェーデン]]では、[[ダゲン・H]]で左側から右側通行に切り替えたが、切り替えと同時に路面電車は一旦廃止された。なお、右側通行の路面電車として復活したのは廃止から24年後の1991年である。</ref>。
わずか8時間という短時間での一斉切り替えが可能だった要因のひとつとして、当時の沖縄県には[[路面電車]]がなかったことが挙げられる。路面電車を自動車に合わせ右側通行から左側通行にするには、全ての車両と乗降場の構造を変更する必要がある<ref group="注釈">[[スウェーデン]]では、[[ダゲン・H]]で左側から右側通行に切り替えたが、切り替えと同時に路面電車は一旦廃止された。なお、右側通行の路面電車として復活したのは廃止から24年後の1991年である。</ref>。


== メディアによる広報 ==
== メディアによる広報 ==
; CM
; CM
: 沖縄県から県民に対し「730キャンペーン」を行い、各メディアで周知させた。この時の[[テレビジョン|テレビ]][[コマーシャルメッセージ|CM]]には沖縄県出身の[[具志堅用高]]([[プロボクサー]]・当時[[世界ボクシング協会|WBA]]世界[[ライトフライ級|ジュニアフライ級]]王者)が出演しており、以下のような内容だった。「沖縄の皆さん、具志堅用高です。7月30日から交通法が変わります(右の拳を上げ)人は右、(左の拳を上げ)車は左(左の拳には「730」マークが貼ってある)」<ref>[http://jp.youtube.com/watch?v=73Q_H2e-0HA 「映像でつづる復帰30年」4:43以降が730CM](具志堅用高CM動画) - youtube</ref>
: 沖縄県から県民に対し「730キャンペーン」を行い、各メディアで周知させた。この時の[[テレビジョン|テレビ]][[コマーシャルメッセージ|CM]]には沖縄県出身の[[具志堅用高]]([[プロボクサー]]・当時[[世界ボクシング協会|WBA]]世界[[ライトフライ級|ジュニアフライ級]]王者)が出演しており、以下のような内容だった。「沖縄の皆さん、具志堅用高です。7月30日から交通法が変わります(右の拳を上げ)人は右、(左の拳を上げ)車は左(左の拳には「730」マークが貼ってある)」<ref name="youtube061011"/>


; クイズ番組
; クイズ番組
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== 自動車学校 ==
== 自動車学校 ==
6月3日から6月18日まで[[指定自動車教習所指導員|教習指導員]]ならびに技能検定員は沖縄県警察運転免許課の指導にしたがって講習を受けた<ref>沖縄県警察史第三巻、p1354、2002年</ref>。6月30日までに左側通行用の安全施設(交通標識、信号など)を新設、ならびに右ハンドル教習車導入(沖縄県交通方法変更対策補助金(教習所施設および教習用車両)公布要領)し、7月1日から沖縄県内の自動車学校で左側通行の教習を始めた。ただし、それ以前に入学してきた在校生のために時間を区切って右側通行での教習も並行しておこなわれた<ref>沖縄タイムス、1978年6月30日、13面</ref>。
6月3日から6月18日まで[[指定自動車教習所指導員|教習指導員]]ならびに技能検定員は沖縄県警察運転免許課の指導にしたがって講習を受けた<ref name="keisatu_1354"/>。6月30日までに左側通行用の安全施設(交通標識、信号など)を新設、ならびに右ハンドル教習車導入(沖縄県交通方法変更対策補助金(教習所施設および教習用車両)公布要領)し、7月1日から沖縄県内の自動車学校で左側通行の教習を始めた。ただし、それ以前に入学してきた在校生のために時間を区切って右側通行での教習も並行しておこなわれた<ref name="times780630"/>。


== バス ==
== バス ==
[[路線バス]]は乗降口を車両の右側から左側に変更しなければならなかったが、当時の最大の問題となったのが右ハンドル・左側出入口車の導入資金であった<ref name="magazine11_67"/>。当時、[[モータリゼーション]]の進展と道路整備の遅れにより、既に[[沖縄本島]]南部を中心に慢性的な交通渋滞が発生しており、運行能率の低下や利用者の減少から沖縄県内のバス事業者は各社とも多額の赤字を計上しており、自力で右ハンドルへの切り替えは財政上困難な状況であった<ref name="magazine11_67"/><ref name="730bus_30"/>。そのため、当時の[[琉球バス交通|琉球バス株式会社]]{{Refnest|group="注釈"|現在の[[琉球バス交通|株式会社琉球バス交通]]<ref name="daiichi060831"/>。}}社長、沖縄県バス協会会長、[[那覇バスターミナル]]株式会社社長<ref name="730bus_31"/>であった長濱弘を中心に、各バス会社社長による沖縄県知事、政府への陳情が行われ、[[1977年]]度および[[1978年]]度の両年度合わせて国庫補助金92億6200万円、[[財政投融資]]63億円が認められた<ref name="magazine11_67"/><ref name="730bus_31-32"/><ref name="730bus_34"/><ref name="730bus_42"/><ref name="okibus60_30"/>。右ハンドル車の導入方針としては、新車または中古車による代替、および最も新しい左ハンドル・右側出入口車の右ハンドル・左側出入口車への改造によって対応することとなり、新車代替については1台あたり60%の国庫補助、改造車については全額国庫補助となった<ref name="magazine11_67"/><ref name="730bus_34"/>。
[[路線バス]]は乗降口を車両の右側から左側に変更しなければならないため、当時の乗合バス事業者であった琉球バス(現、[[琉球バス交通]])、[[沖縄バス]]、那覇交通(現、[[那覇バス]])、[[東陽バス]]は国や沖縄県からの[[補助金]]を受け、右ハンドル・左側出入口のバスを944台を新車で導入し、左ハンドル車・右側出入口のバス('''729車(両)'''〈729バス〉)の内164台を右ハンドル・左側出入口に改造し、合計1108台で730を迎えた。729バスの右ハンドル・左側出入口への改造は1978年5月から10月まで行われた。{{要出典範囲|改造は操作系を左側から右側へ移動させるなど、新車を製造する以上に困難だったという|title=回顧録・ルポルタージュなど、当該事象について特に論じた出典を提示ください。(至難であることは理解できるが、それは730におけるバス更新作業のうち特に重要な(特筆すべき)事柄か?現状は執筆者による主観的な記述の体であるため。)|date=2013年9月}}。その際、導入車両数があまりに多いことから琉球バス=[[UDトラックス|日産ディーゼル]]、沖縄バス=[[三菱ふそう|三菱]]、那覇交通=[[いすゞ自動車|いすゞ]]、東陽バス=[[日野自動車|日野]]と4社それぞれメーカーを指定し一括購入の形をとった。これらの車両を特に'''730車(両)'''(730バス)と呼ぶことがある。左側通行の練習運転では曲がりきれない交差点が多数あったため、これらの交差点の改修も実施された。


730実施前の沖縄県内の全バス事業者{{Refnest|group="注釈"|当時存在した17社<ref name="730bus_38"/>。}}の左ハンドル車保有台数{{Refnest|group="注釈"|当時、一般貸切旅客自動車運送事業者であった[[中部観光バス|中部観光バス株式会社]]<ref name="gyomuS53_21"/>の台数も含まれていることから、ここでの台数は観光バスを含む台数である。}}は1295台であったが、実施に伴い、右ハンドル車1019台が新車により導入され、3台の中古車を導入、また167台の左ハンドル車が右ハンドル車に改造された<ref name="730bus_38"/>。沖縄本島では1207台の左ハンドル車が存在した{{Refnest|group="注釈"|当時存在した5社の観光バスを含む台数<ref name="magazine11_67"/><ref name="magazine11_16"/>。}}が、730実施に伴い、右ハンドル車944台を新車にて導入し、164台を左ハンドル車から右ハンドル車に改造することで対応した<ref name="magazine11_67"/><ref name="730bus_38"/>。なお、730実施前まで使用された左ハンドル車は「729車」、実施後に運行が開始された右ハンドル車は「730車」と呼ばれた<ref name="magazine11_16"/><ref name="toyoHP"/>{{Refnest|group="注釈"|「730バス」と呼ばれる場合もある<ref name="okibusHP"/>。}}。
1975年に行われた[[沖縄国際海洋博覧会]]の際には、多くの[[観光バス]]が左ハンドルの新車で導入された。これらの車両はまだ新しかったため、730後は右ハンドル・左側出入口へと改修して使用された。現在は全て廃車となっている。なお、改修されずに[[中華人民共和国|中国]]など右側通行の国に売却された車両もある。


730車導入に当たっては導入台数が多いため各社で導入するメーカーが決められ、琉球バスが[[UDトラックス|日産ディーゼル]]車、[[日野自動車|日野]]車、[[沖縄バス|沖縄バス株式会社]]が[[三菱ふそう|三菱]]車、[[那覇バス|那覇交通株式会社]]{{Refnest|group="注釈"|現在の[[那覇バス|那覇バス株式会社]]<ref name="daiichi040630"/>。}}が[[いすゞ自動車|いすゞ]]車、[[東陽バス|東陽バス株式会社]]が日野車を導入することで対応した<ref name="magazine49_17"/><ref name="magazine11_16"/><ref name="magazine11_19"/><ref name="magazine11_22"/><ref name="magazine11_27"/><ref name="730bus_65"/><ref name="730bus_55"/>。また、左ハンドル車から右ハンドル車への改造は[[沖縄国際海洋博覧会]]の際に導入された新車の左ハンドル車{{Refnest|group="注釈"|[[沖縄国際海洋博覧会|海洋博覧会]]開催に伴い予想された約500万人の入場者数に対応するため、政府の補助金を用いて新車150台のバスが導入されたが、開催は[[1975年]]で730実施以前であったため左ハンドル車での導入であった<ref name="magazine11_67"/><ref name="magazine2_54-55"/>。}}を中心に改造されたが、改造は新車を作る以上に困難な作業であった<ref name="magazine2_55"/><ref name="magazine11_68"/>。合資会社丸長車体{{Refnest|group="注釈"|現在の株式会社丸長車体および沖縄第一モータース株式会社<ref name="daiichi070905"/>。}}は琉球バスと那覇交通の左ハンドル車122台を改造したが、全車の改造は1978年[[4月]]末から開始し、[[10月]]末まで要した<ref name="magazine11_68"/><ref name="730bus_88"/>。また、改造されなかった729車の多くは[[中華人民共和国|中国]]などに売却された<ref name="magazine11_67"/>{{Refnest|group="注釈"|例えば、那覇交通の729車は1979年から中国への輸出が始まり、合計で203台が輸出された<ref name="magazine11_67"/>。}}。
730車は塩害への考慮など沖縄仕様ともいえる設計で頑丈に作られており、2000年以降も多くの車両が現役で運用されていたが、保守部品の供給打ち切りなどの理由から2004年以降に各社とも急速に廃車が進み、現在では沖縄バスと東陽バスの車両がそれぞれ1台のみ残っているだけである。沖縄バスは2004年に730車の置き換えを完了したが、1台のみ動態保存として残されている(購入時とは塗装が変更されている)。東陽バスは前述の4社中、最も代替が遅れたが、2008年6月に動態保存に指定された1台を残して全車が廃車となっている。この1台については現在も月に数度のペースで営業運転に入っている。那覇交通から引き継がれた那覇バスでは2005年1月頃までに全廃、琉球バスの車両は、琉球バス交通に引き継がれた後、2007年5月頃までに全廃された。

730車は、那覇交通から事業を引き継いだ那覇バスでは[[2005年]][[1月]]に全車が廃車、琉球バスから事業を引き継いだ琉球バス交通では[[2007年]][[5月]]に全車が廃車<ref name="magazine11_16"/><ref name="shuri_60"/>。沖縄バスでは[[2003年]][[3月]]までに1台を残し全車が廃車されたが、残された1台は[[2004年]]に特別整備が実施され、保存が決定し、毎週[[日曜日]]に定期運行が行われている<ref name="magazine11_20"/><ref name="magazine49_16"/><ref name="okibusHP"/>。東陽バスでは最も多くの730車が残っていたが、[[2008年]]までに1台を残し全車が廃止され、[[2009年]]に沖縄バス同様特別整備が実施され保存が決定し、毎週日曜日に定期運行が行われている<ref name="magazine11_22"/><ref name="magazine49_17"/><ref name="toyoHP"/>。


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File:Ryukyubus ud U20H.jpg|琉球バス(現、琉球バス交通)の730車。一部は塗装が変更され、方向幕も大型化された
ファイル:Ryukyubus ud U20H.jpg|琉球バスの730車(日産ディーゼル車)
ファイル:Ryukyubus hino RE101.jpg|琉球バスの730車(日野車)。日野車は2005年2月までに全車が廃車された<ref name="magazine11_26"/>。
File:Okinawabus MP117K.jpg|沖縄バスの730車。1台が動態保存車両となっている(写真の車両とは異なる)。オリジナル車は塗装が写真のものとは異なっていた。
File:Nahakotsu BU04 2door.jpg|那覇交通(現・那覇バスの730車。末期には塗装が変更となった車両もあった
ファイル:Okinawabus MP117K.jpg|沖縄バスの730車(三菱車)導入当時とは塗装がなっている<ref name="magazine11_18"/>
ファイル:Nahakotsu BU04 2door.jpg|那覇交通の730車(いすゞ車)。
File:Toyobus hino RE101.jpg|東陽バスの730車。写真の車両1台が動態保存両となっている。一部は方向幕が大型化された。
ファイル:Toyobus hino RE101.jpg|東陽バスの730車(日野。一部は方向幕が大型化された<ref name="magazine11_25"/>
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== 記念碑 ==
== 記念碑 ==
[[File:730 Crossing Ishigaki Island Japan03s3s4500.jpg|thumb|right|200px|石垣市にある記念碑。1mほどの高さの石に、沖縄県の交通が右側通行から左側通行に変更されたことを記念するデザインが描かれている]]
[[ファイル:730 Crossing Ishigaki Island Japan03s3s4500.jpg|thumb|right|200px|石垣市にある記念碑。1mほどの高さの石に、沖縄県の交通が右側通行から左側通行に変更されたことを記念するデザインが描かれている]]
[[石垣市]]には、これにちなんで命名された「[[730交差点]]」があり、当地に記念碑もある。2008年7月31日に、730から30周年になることを記念して、この記念碑は「[[730シィーシィーパーク]]」として整備された公園に再設置された。[[宮古島市]]平良には「730記念塔」がある。
[[石垣市]]には、これにちなんで命名された「[[730交差点]]」があり、当地に記念碑もある。2008年7月31日に、730から30周年になることを記念して、この記念碑は「[[730シィーシィーパーク]]」として整備された公園に再設置された。[[宮古島市]]平良には「730記念塔」がある。


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* 切り替えが行われた7月30日、及びそれからしばらくの間は、左側通行に不慣れなゆえのトラブルが相次いだ。特に交差点で左折・右折をする場合、新しくは道路の左車線に進入しなければならないところを旧来どおり右車線へ進入([[逆走事故|逆走]])してしまう事例が多かった。バスやタクシーの運転手も、切り替え当初は道路右側の停留所や客に自然と目が行ってしまったという。
* 切り替えが行われた7月30日、及びそれからしばらくの間は、左側通行に不慣れなゆえのトラブルが相次いだ。特に交差点で左折・右折をする場合、新しくは道路の左車線に進入しなければならないところを旧来どおり右車線へ進入([[逆走事故|逆走]])してしまう事例が多かった。バスやタクシーの運転手も、切り替え当初は道路右側の停留所や客に自然と目が行ってしまったという。
* 730から30年経過した、[[2008年]][[7月4日]]から[[8月13日]]まで、[[パレットくもじ|那覇市歴史博物館]]で「交通方法変更30年記念展"730狂想曲"」が開催され、当時の写真や新聞などの資料、標識・看板類などが展示された。
* 730から30年経過した、[[2008年]][[7月4日]]から[[8月13日]]まで、[[パレットくもじ|那覇市歴史博物館]]で「交通方法変更30年記念展"730狂想曲"」が開催され、当時の写真や新聞などの資料、標識・看板類などが展示された。
* 2008年7月、当時の県警現場責任者だった久高弘は、730の体験や苦労をまとめた、回顧録「道ふりかえれば - 沖縄730三十周年を記念して」という本を自費出版している。久高は出版の動機を「後世のためになれば」と新聞記者に答えている<ref>2008年7月30日、沖縄タイムス「ひと」欄</ref>。
* 2008年7月、当時の県警現場責任者だった久高弘は、730の体験や苦労をまとめた、回顧録「道ふりかえれば - 沖縄730三十周年を記念して」という本を自費出版している。久高は出版の動機を「後世のためになれば」と新聞記者に答えている<ref name="times080730"/>。
* 復帰前までの沖縄では、日本車であっても左ハンドルの「沖縄仕様車」が販売されていたが、復帰後は右ハンドル車も選択できるようになり、730の実施が決定されたのちは原則右ハンドル車のみの販売となった。730実施直前では、右側通行の道路を主に右ハンドルの一般車両が走る姿を当時の写真から確認できる。
* 復帰前までの沖縄では、日本車であっても左ハンドルの「沖縄仕様車」が販売されていたが、復帰後は右ハンドル車も選択できるようになり、730の実施が決定されたのちは原則右ハンドル車のみの販売となった。730実施直前では、右側通行の道路を主に右ハンドルの一般車両が走る姿を当時の写真から確認できる。
* 1970年代後半から1980年代にかけ、右ハンドル車のことを'''730車両(730カー)'''と、同様にそれ以前の「沖縄仕様」左ハンドル車のことを'''729車両(729カー)'''と呼ばれていたが、この言葉は右ハンドル車が一般的になるにつれて廃れていった。
* 1970年代後半から1980年代にかけ、右ハンドル車のことを'''730車両(730カー)'''と、同様にそれ以前の「沖縄仕様」左ハンドル車のことを'''729車両(729カー)'''と呼ばれていたが、この言葉は右ハンドル車が一般的になるにつれて廃れていった。
* 自動車のヘッドライトの照射範囲は、通行方式によって変える必要がある。そのため730実施に際しても、事前に左側通行用に変更しておくことが国により推奨され、無料での変更が可能だった。<!--
* 自動車のヘッドライトの照射範囲は、通行方式によって変える必要がある<ref name="730bus_77"/>。そのため730実施に際しても、事前に左側通行用に変更しておくことが国により推奨され、無料での変更が可能だった。<!--
* {{要検証範囲|沖縄県内の反発も多くあり、一部では「沖縄の右側通行が世界標準に近い、変更するなら本土側だろう」との議論が見かけられた<ref>『事典版 おきなわキーワードコラムブック』 - まぶい組編、沖縄出版(1989)</ref>|date=2013-7-30|title=執筆者が誰を明示できない。除去対象。}}{{誰|date=2013-7-30}}。-->
* {{要検証範囲|沖縄県内の反発も多くあり、一部では「沖縄の右側通行が世界標準に近い、変更するなら本土側だろう」との議論が見かけられた<ref>『事典版 おきなわキーワードコラムブック』 - まぶい組編、沖縄出版(1989)</ref>|date=2013-7-30|title=執筆者が誰を明示できない。除去対象。}}{{誰|date=2013-7-30}}。-->

== 注釈 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{Reflist|2|refs=

<ref name="hourei_okinawa58">{{Cite web |url=http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S46/S46HO129.html |title=沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律 |publisher=[[法令データ提供システム]] |accessdate=2013-10-20 }}</ref>
<ref name="hourei_okinawa268">{{Cite web |url=http://www.pref.okinawa.jp/reiki/35210050026800000000/35210050026800000000/35210050026800000000.html |title=沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令 |publisher=[[沖縄県]] |accessdate=2013-10-20 }}</ref>
<ref name="qab120731">{{Cite web |url=http://www.qab.co.jp/news/2012073137066.html |title=Qリポート おぼえていますか「730(ナナサンマル)」 |publisher=[[琉球朝日放送]] |date=2012-07-31 |accessdate=2013-10-20 }}</ref>
<ref name="times080730">{{Cite news |title=ひと |newspaper=沖縄タイムス |date=2008-07-30 }}</ref>
<ref name="times780630">{{Cite news |newspaper=沖縄タイムス |date=1978-06-30 |page=13 }}</ref>
<ref name="youtube061011">{{Cite web |url=http://jp.youtube.com/watch?v=73Q_H2e-0HA |title=「映像でつづる復帰30年」 |date=2006-10-11 |accessdate=2013-10-20 }}</ref>
<ref name="keisatu_1354">{{Cite book |和書 |year=2002 |title=沖縄県警察史 第3巻(昭和後編) |publisher=沖縄県警察本部 |page=1354 }}</ref>
<ref name="magazine2_54-55">{{Cite book |和書 |year=2003 |title=バスマガジン vol.2 |publisher=[[講談社ビーシー|三推社]] |pages=54-55 |isbn=4063662055 }}</ref>
<ref name="magazine2_55">{{Cite book |和書 |year=2003 |title=バスマガジン vol.2 |publisher=[[講談社ビーシー|三推社]] |page=55 |isbn=4063662055 }}</ref>
<ref name="magazine11_16">{{Cite book |和書 |year=2005 |title=バスマガジン vol.11 |publisher=[[講談社ビーシー|三推社]] |page=16 |isbn=9784063662252 }}</ref>
<ref name="magazine11_18">{{Cite book |和書 |year=2005 |title=バスマガジン vol.11 |publisher=[[講談社ビーシー|三推社]] |page=18 |isbn=9784063662252 }}</ref>
<ref name="magazine11_19">{{Cite book |和書 |year=2005 |title=バスマガジン vol.11 |publisher=[[講談社ビーシー|三推社]] |page=19 |isbn=9784063662252 }}</ref>
<ref name="magazine11_20">{{Cite book |和書 |year=2005 |title=バスマガジン vol.11 |publisher=[[講談社ビーシー|三推社]] |page=20 |isbn=9784063662252 }}</ref>
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}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[ダゲン・H]]
* [[ダゲン・H]]
* [[対面交通]]
* [[対面交通]]
* [[ドーベルマン刑事]]:730を題材にしたエピソードがある。
* [[ドーベルマン刑事]] - 730を題材にしたエピソードがある。
* [[サモア独立国]] - 沖縄と同じく右側通行から左側通行に変更した。
* [[サモア独立国]] - 沖縄と同じく右側通行から左側通行に変更した。

== 参考文献 ==
* [[バスマガジン]]11号 - 記憶と記録にとどめておきたい「730車」の近影


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2013年11月11日 (月) 16:24時点における版

復帰前のコザ十字路。右側通行である
復帰前の国際通り。右側通行である

復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島 先島諸島
旧石器時代 先島先史時代
下田原期無土器期
貝塚時代
流求?)


(天孫氏琉球)
グスク時代
原グスク時代
三山時代
北山中山南山
新里村期
中森期



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

琉球藩
沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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730(ナナ・サン・マル、ナナサンマル)とは、沖縄県において日本への復帰後の6年目に、自動車の対面交通が右側通行から左側通行に変更することを示す事前キャンペーン名称であり、実施後はその変更を指す通称となった。1978年7月30日、県内全域で一斉に実施することに由来する名称である。

概要

戦前の沖縄県は日本国内の他の地域と同じく自動車は左側通行であったが、沖縄戦終了直後の1945年6月24日に、沖縄を占領下に置いたアメリカ軍により右側通行に変更されていた。日本本土とは逆の右側通行であるという状況は、1952年の連合国による日本の占領状態の終了後も続き、さらに1972年の復帰後も続いた[注釈 1]が、道路交通に関する条約による「一国一交通制度」を遵守する立場から、1978年7月30日をもって県内全域で左側通行に戻すことになった[注釈 2]。1975年に交通方式変更が閣議決定された後、沖縄県警に対策室が設置され、2年間におよぶ準備作業が行われた。これは、沖縄県の日本復帰を象徴的に示す戦後の一大プロジェクトであった。

変更作業

1978年7月29日22時より沖縄県全域で緊急自動車を除く自動車の通行が禁止され、8時間後の翌日6時をもって自動車は左側通行となった[3]

道路標識道路標示等の変更は、この8時間の自動車通行禁止時間に一斉に切り替えが行われている[3]。幹線道路ではあらかじめ左側通行用の標識や信号を設置した上で、それらをカバーで覆い隠しておき、自動車の通行を止めた8時間の間にその覆いを外して右側通行用の標識にかぶせ直すことで効率的に置き換えた[3]。車線のレーン・右左折表示も、矢印部分を覆うなどすることで8時間のうちに左側通行用に切り替えている[3]。これら方法は発案者[注釈 3]の名を取って「久高方式」と呼ばれていた[4]

作業に伴う交通整理などは沖縄県警だけでは対処しきれないことから、警視庁をはじめ全国各県警の警察官が応援に駆けつけた[5]。それでも、変更当初は各地で自動車同士の接触など小規模な交通事故が頻発していたようである[6][5]。ただし、落命を伴う大事故は発生しなかった。

わずか8時間という短時間での一斉切り替えが可能だった要因のひとつとして、当時の沖縄県には路面電車がなかったことが挙げられる。路面電車を自動車に合わせ右側通行から左側通行にするには、全ての車両と乗降場の構造を変更する必要がある[注釈 4]

メディアによる広報

CM
沖縄県から県民に対し「730キャンペーン」を行い、各メディアで周知させた。この時のテレビCMには沖縄県出身の具志堅用高プロボクサー・当時WBA世界ジュニアフライ級王者)が出演しており、以下のような内容だった。「沖縄の皆さん、具志堅用高です。7月30日から交通法が変わります(右の拳を上げ)人は右、(左の拳を上げ)車は左(左の拳には「730」マークが貼ってある)」[6]
クイズ番組
7月3日から28日までの月曜日 - 金曜日に「クイズ730」という視聴者参加型クイズ番組沖縄テレビによって放送された。

自動車学校

6月3日から6月18日まで教習指導員ならびに技能検定員は沖縄県警察運転免許課の指導にしたがって講習を受けた[7]。6月30日までに左側通行用の安全施設(交通標識、信号など)を新設、ならびに右ハンドル教習車導入(沖縄県交通方法変更対策補助金(教習所施設および教習用車両)公布要領)し、7月1日から沖縄県内の自動車学校で左側通行の教習を始めた。ただし、それ以前に入学してきた在校生のために時間を区切って右側通行での教習も並行しておこなわれた[8]

バス

路線バスは乗降口を車両の右側から左側に変更しなければならなかったが、当時の最大の問題となったのが右ハンドル・左側出入口車の導入資金であった[9]。当時、モータリゼーションの進展と道路整備の遅れにより、既に沖縄本島南部を中心に慢性的な交通渋滞が発生しており、運行能率の低下や利用者の減少から沖縄県内のバス事業者は各社とも多額の赤字を計上しており、自力で右ハンドルへの切り替えは財政上困難な状況であった[9][10]。そのため、当時の琉球バス株式会社[注釈 5]社長、沖縄県バス協会会長、那覇バスターミナル株式会社社長[12]であった長濱弘を中心に、各バス会社社長による沖縄県知事、政府への陳情が行われ、1977年度および1978年度の両年度合わせて国庫補助金92億6200万円、財政投融資63億円が認められた[9][13][14][15][16]。右ハンドル車の導入方針としては、新車または中古車による代替、および最も新しい左ハンドル・右側出入口車の右ハンドル・左側出入口車への改造によって対応することとなり、新車代替については1台あたり60%の国庫補助、改造車については全額国庫補助となった[9][14]

730実施前の沖縄県内の全バス事業者[注釈 6]の左ハンドル車保有台数[注釈 7]は1295台であったが、実施に伴い、右ハンドル車1019台が新車により導入され、3台の中古車を導入、また167台の左ハンドル車が右ハンドル車に改造された[17]。沖縄本島では1207台の左ハンドル車が存在した[注釈 8]が、730実施に伴い、右ハンドル車944台を新車にて導入し、164台を左ハンドル車から右ハンドル車に改造することで対応した[9][17]。なお、730実施前まで使用された左ハンドル車は「729車」、実施後に運行が開始された右ハンドル車は「730車」と呼ばれた[19][20][注釈 9]

730車導入に当たっては導入台数が多いため各社で導入するメーカーが決められ、琉球バスが日産ディーゼル車、日野車、沖縄バス株式会社三菱車、那覇交通株式会社[注釈 10]いすゞ車、東陽バス株式会社が日野車を導入することで対応した[23][19][24][25][26][27][28]。また、左ハンドル車から右ハンドル車への改造は沖縄国際海洋博覧会の際に導入された新車の左ハンドル車[注釈 11]を中心に改造されたが、改造は新車を作る以上に困難な作業であった[30][5]。合資会社丸長車体[注釈 12]は琉球バスと那覇交通の左ハンドル車122台を改造したが、全車の改造は1978年4月末から開始し、10月末まで要した[5][32]。また、改造されなかった729車の多くは中国などに売却された[9][注釈 13]

730車は、那覇交通から事業を引き継いだ那覇バスでは2005年1月に全車が廃車、琉球バスから事業を引き継いだ琉球バス交通では2007年5月に全車が廃車[19][33]。沖縄バスでは2003年3月までに1台を残し全車が廃車されたが、残された1台は2004年に特別整備が実施され、保存が決定し、毎週日曜日に定期運行が行われている[34][35][21]。東陽バスでは最も多くの730車が残っていたが、2008年までに1台を残し全車が廃止され、2009年に沖縄バス同様特別整備が実施され保存が決定し、毎週日曜日に定期運行が行われている[25][23][20]

記念碑

石垣市にある記念碑。1mほどの高さの石に、沖縄県の交通が右側通行から左側通行に変更されたことを記念するデザインが描かれている

石垣市には、これにちなんで命名された「730交差点」があり、当地に記念碑もある。2008年7月31日に、730から30周年になることを記念して、この記念碑は「730シィーシィーパーク」として整備された公園に再設置された。宮古島市平良には「730記念塔」がある。

エピソード

729カー
この車は三菱・ミニカスキッパーであるが、沖縄の右側通行に合わせて左ハンドル仕様になっている
  • 切り替えが行われた7月30日、及びそれからしばらくの間は、左側通行に不慣れなゆえのトラブルが相次いだ。特に交差点で左折・右折をする場合、新しくは道路の左車線に進入しなければならないところを旧来どおり右車線へ進入(逆走)してしまう事例が多かった。バスやタクシーの運転手も、切り替え当初は道路右側の停留所や客に自然と目が行ってしまったという。
  • 730から30年経過した、2008年7月4日から8月13日まで、那覇市歴史博物館で「交通方法変更30年記念展"730狂想曲"」が開催され、当時の写真や新聞などの資料、標識・看板類などが展示された。
  • 2008年7月、当時の県警現場責任者だった久高弘は、730の体験や苦労をまとめた、回顧録「道ふりかえれば - 沖縄730三十周年を記念して」という本を自費出版している。久高は出版の動機を「後世のためになれば」と新聞記者に答えている[4]
  • 復帰前までの沖縄では、日本車であっても左ハンドルの「沖縄仕様車」が販売されていたが、復帰後は右ハンドル車も選択できるようになり、730の実施が決定されたのちは原則右ハンドル車のみの販売となった。730実施直前では、右側通行の道路を主に右ハンドルの一般車両が走る姿を当時の写真から確認できる。
  • 1970年代後半から1980年代にかけ、右ハンドル車のことを730車両(730カー)と、同様にそれ以前の「沖縄仕様」左ハンドル車のことを729車両(729カー)と呼ばれていたが、この言葉は右ハンドル車が一般的になるにつれて廃れていった。
  • 自動車のヘッドライトの照射範囲は、通行方式によって変える必要がある[39]。そのため730実施に際しても、事前に左側通行用に変更しておくことが国により推奨され、無料での変更が可能だった。

注釈

  1. ^ 沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第58条[1]によるもの。
  2. ^ 沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令[2]によるもの。
  3. ^ 久高弘(くだか ひろし) - 沖縄県警の730現場責任者、後に那覇警察署長を勤める。
  4. ^ スウェーデンでは、ダゲン・Hで左側から右側通行に切り替えたが、切り替えと同時に路面電車は一旦廃止された。なお、右側通行の路面電車として復活したのは廃止から24年後の1991年である。
  5. ^ 現在の株式会社琉球バス交通[11]
  6. ^ 当時存在した17社[17]
  7. ^ 当時、一般貸切旅客自動車運送事業者であった中部観光バス株式会社[18]の台数も含まれていることから、ここでの台数は観光バスを含む台数である。
  8. ^ 当時存在した5社の観光バスを含む台数[9][19]
  9. ^ 「730バス」と呼ばれる場合もある[21]
  10. ^ 現在の那覇バス株式会社[22]
  11. ^ 海洋博覧会開催に伴い予想された約500万人の入場者数に対応するため、政府の補助金を用いて新車150台のバスが導入されたが、開催は1975年で730実施以前であったため左ハンドル車での導入であった[9][29]
  12. ^ 現在の株式会社丸長車体および沖縄第一モータース株式会社[31]
  13. ^ 例えば、那覇交通の729車は1979年から中国への輸出が始まり、合計で203台が輸出された[9]

脚注

  1. ^ 沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律”. 法令データ提供システム. 2013年10月20日閲覧。
  2. ^ 沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令”. 沖縄県. 2013年10月20日閲覧。
  3. ^ a b c d Qリポート おぼえていますか「730(ナナサンマル)」”. 琉球朝日放送 (2012年7月31日). 2013年10月20日閲覧。
  4. ^ a b “ひと”. 沖縄タイムス. (2008年7月30日) 
  5. ^ a b c d 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、68頁。ISBN 9784063662252 
  6. ^ a b 「映像でつづる復帰30年」” (2006年10月11日). 2013年10月20日閲覧。
  7. ^ 『沖縄県警察史 第3巻(昭和後編)』沖縄県警察本部、2002年、1354頁。 
  8. ^ 沖縄タイムス: p. 13. (1978年6月30日) 
  9. ^ a b c d e f g h i 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、67頁。ISBN 9784063662252 
  10. ^ 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、30頁。 
  11. ^ 株式会社琉球バス交通の事業開始のお知らせ” (PDF). 第一交通産業 (2006年8月31日). 2013年10月20日閲覧。
  12. ^ 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、31頁。 
  13. ^ 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、31-32頁。 
  14. ^ a b 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、34頁。 
  15. ^ 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、42頁。 
  16. ^ 『沖縄バス60年のあゆみ』沖縄バス、2011年、30頁。 
  17. ^ a b c 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、38頁。 
  18. ^ 『業務概況 昭和53年度』沖縄県陸運事務所、1979年、21頁。 
  19. ^ a b c d 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、16頁。ISBN 9784063662252 
  20. ^ a b 日野RE101 (ナナサンマル車)”. 東陽バス. 2013年10月20日閲覧。
  21. ^ a b 730バス「1064号車」運行情報”. 沖縄バス. 2013年10月20日閲覧。
  22. ^ 那覇交通株式会社と営業譲受けに関する正式契約締結のお知らせ” (PDF). 第一交通産業 (2004年6月30日). 2013年10月20日閲覧。
  23. ^ a b 『バスマガジン vol.49』講談社ビーシー、2011年、17頁。ISBN 9784063667066 
  24. ^ 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、19頁。ISBN 9784063662252 
  25. ^ a b 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、22頁。ISBN 9784063662252 
  26. ^ 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、27頁。ISBN 9784063662252 
  27. ^ 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、65頁。 
  28. ^ 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、55頁。 
  29. ^ 『バスマガジン vol.2』三推社、2003年、54-55頁。ISBN 4063662055 
  30. ^ 『バスマガジン vol.2』三推社、2003年、55頁。ISBN 4063662055 
  31. ^ 株式会社港川整備の株式取得に関するお知らせ” (PDF). 第一交通産業 (2007年9月5日). 2013年10月20日閲覧。
  32. ^ 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、88頁。 
  33. ^ 『今日は路線バスで行こう 〜12人が撮ったバスなシーン〜』気候アクションセンターおきなわ、2010年、60頁。 
  34. ^ 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、20頁。ISBN 9784063662252 
  35. ^ 『バスマガジン vol.49』講談社ビーシー、2011年、16頁。ISBN 9784063667066 
  36. ^ 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、26頁。ISBN 9784063662252 
  37. ^ 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、18頁。ISBN 9784063662252 
  38. ^ 『バスマガジン vol.11』三推社、2005年、25頁。ISBN 9784063662252 
  39. ^ 『バス業界7.30の記録 沖縄の交通方法変更記念誌』7.30交通方法変更記念誌刊行委員会、1980年、77頁。 

関連項目

外部リンク