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「丹生都比売神社」の版間の差分

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{{神社
{{神社
|名称 = 丹生都比売神社
|名称 = 丹生都比売神社
|画像 = [[Image:Niutsuhime-jinja romon.jpg|220px]]<br/>楼門(重要文化財)
|画像 = [[File:Niutsuhime-jinja roumon-2.JPG|280px]]<br/>境内
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|所在地 = [[和歌山県]][[伊都郡]][[かつらぎ町]]上天野230
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|15|46|N|135|31|19|E|region:JP-30|name=丹生都比売神社}}
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|祭神 = 丹生都比売大神<br/>高野御子大神<br/>[[オオゲツヒメ|大食津比売大神]]<br/>[[イチキシマヒメ|市杵島比売大神]]
|祭神 = 丹生都比売大神<br/>高野御子大神<br/>[[オオゲツヒメ|大食津比売大神]]<br/>[[イチキシマヒメ|市杵島比売大神]]
|神体 =
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]])<br/>[[紀伊国]][[一宮]]<br/>旧[[官幣大社]]<br/>[[別表神社]]
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]])<br/>[[紀伊国]][[一宮]]<br/>旧[[官幣大社]]<br/>[[別表神社]]
|例祭 = [[10月16日]]
|創建 =
|本殿 = 一間社[[春日造]]4棟
|別名 = 天野大社
|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]]第12番(和歌山第12番)
|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]]第12番(和歌山第12番)
|例祭 = [[10月16日]]
|神事 = 御田祭(1月第3日曜日)<br/>花盛祭(4月第3日曜日)<br/>神還祭(7月18日)
|本殿 = 一間社[[春造]]
|神事 = 御田祭(1月第3曜日)
}}
}}
{{座標一覧}}
[[画像:Niutsuhimejinja 01.JPG|thumb|220px|鳥居]]
[[画像:Niutsuhime-jinja Taikobashi1.jpg|thumb|220px|輪橋(りんきょう)]]
[[File:Niutsuhime-jinja sototorii.JPG|thumb|200px|right|外鳥居]]
'''丹生都比売神社'''(にふつひめじんじゃにうつひめじんじゃ)は、[[和歌山県]][[伊都郡]][[かつらぎ町]]にある[[神社]]。[[延喜式神名帳|式内社]]([[名神大社]])、[[紀伊国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[近代社格制度|官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
'''丹生都比売神社'''(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、'''丹生都比賣神社''')は、[[和歌山県]][[伊都郡]][[かつらぎ町]]にある[[神社]]。[[延喜式神名帳|式内社]]([[名神大社]])、[[紀伊国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[近代社格制度|官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。

全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である<ref group="注">神社由緒書によれば、全国に「丹生神社」は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社(摂末社を入れると180社あまり)あり、当社はその総本社とする。</ref>。別称として「'''天野大社'''」「天野四所明神」とも。


「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」の構成資産の一つとして[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]に登録されている。
全国の丹生都比売神を祀る神社の総本社である。別称として'''天野大社'''・'''天野四所明神'''とも。


== 概要 ==
== 概要 ==
<!--のちの節で出典を挙げたので、概要では読みやすさのため出典を省略した-->[[高野山]]北西にある天野盆地に鎮座する。[[空海]]が[[金剛峯寺]]を建立するにあたっては当社が神領を寄進したという言い伝えがあり、古くより高野山と深い関係にある神社である。当社背後の尾根上には高野山への表参道である[[高野山町石道]](国の史跡、世界遺産)が通っており、当社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず当社に参拝する習わしであったという。当社自体高野山からの影響を強く受けており、境内には多くの仏教系の遺跡・遺物が残っている。また、高野山の[[荘園]]には当社が[[勧請]]された関係で、和歌山県・奈良県を主とした各地に分霊の丹生神社が建てられている。
[[高野山]]近くに鎮座し、高野山と関係の深い神社である。


当社は[[国宝]]「銀銅蛭巻太刀拵」<ref name="Gindou">{{Cite web|url=http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=201&item_id=465|title=銀銅蛭巻太刀拵|work=[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]|publisher=[[文化庁]]|accessdate=2010-01-19}}</ref>のほか、本殿<ref name="Honden">{{Cite web|title=国指定文化財等データベース|url=http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp|publisher=[[文化庁]]|accessdate=2013-10-11}}</ref>および楼門<ref name="Roumon">{{Cite web|url=http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=102&item_id=2869|title=丹生都比売神社楼門|work=[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]|publisher=[[文化庁]]|accessdate=2013-10-11}}</ref>などの[[重要文化財]]を現在に伝え、境内は国の[[史跡]]に指定されている<ref name="Keidai">{{Cite web|url=http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=401&item_id=3360|title=丹生都比売神社境内|work=[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]|publisher=[[文化庁]]|accessdate=2013-10-11
[[国宝]]「銀銅蛭巻太刀拵」<ref name="Gindou">{{Cite web
}}</ref>。本殿、楼門および境内は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」の一部として登録されている<ref name="sekai_isan">{{Cite web|author=[[文化庁]]|date=2006-9-26|url=http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/sekaibunkaisan/01/pdf/sanko_3_1.pdf|title=条約上の資産種別と登録資産の国内法上の指定状況|format=PDF|work=[http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/sekaibunkaisan/01/index.html 文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会(第1回)議事次第]|publisher=文化庁|accessdate=2011-01-18}}</ref><ref name="sanken">{{Cite book ja-jp|author=世界遺産登録推進三県協議会(三重県・奈良県・和歌山県)|year=2005|title=世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道|publisher=世界遺産登録推進三県協議会}}、pp.39,75</ref>。
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| title=銀銅蛭巻太刀拵
| work=[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
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}}</ref>のほか、本殿<ref name="Honden">{{Cite web
| title=国指定文化財等データベース
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}}</ref>および楼門<ref name="Roumon">{{Cite web
| url=http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=102&item_id=2869
| title=丹生都比売神社楼門
| work=[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
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}}</ref>などの[[重要文化財]]を所蔵し、境内は国の[[史跡]]である<ref name="Keidai">{{Cite web
| url=http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=401&item_id=3360
| title=丹生都比売神社境内
| work=[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
| publisher=[[文化庁]]
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}}</ref>。2004年7月、本殿、楼門および境内は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]『[[紀伊山地の霊場と参詣道]]』の一部として登録された<ref name="sekai_isan">{{Cite web
|author=[[文化庁]]
|date=2006-9-26
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|title=条約上の資産種別と登録資産の国内法上の指定状況
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}}</ref><ref name="sanken">{{Cite book ja-jp|author=世界遺産登録推進三県協議会(三重県・奈良県・和歌山県)|year=2005|title=世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道|publisher=世界遺産登録推進三県協議会}}、pp.39,75</ref>。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
以下の4柱の神を祀る<ref>祭神は[http://www.niutsuhime.or.jp/gosaijin.htm ご祭神・ご神徳](公式サイト)による。</ref>。これら4神は「四所明神」とも総称される。
以下の4柱の神を祀る。
*第一殿:丹生都比売大神 (にうつひめのおおかみ) - 通称は丹生明神
* 第一殿:'''丹生都比売大神''' (にうつひめのおおかみ)
:: 通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。
*第二殿:高野御子大神 (こうやみこのおおかみ) - 通称は狩場明神
*第殿:[[オオゲツヒメ|大食津比売大神]]おおげつひめのおおかみ) - 通称は気比明神
* 殿:'''高野御子大神'''たかのみこのおおかみ)
:: 通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。
*第四殿:[[イチキシマヒメ|市杵島比売大神]] (いちきしまひめのおおかみ) - 通称は厳島明神
* 第三殿:'''[[オオゲツヒメ|大食津比売大神]]''' (おおげつひめのおおかみ)
:: 通称「気比明神」。[[承元]]2年([[1208年]])に[[氣比神宮]]([[福井県]][[敦賀市]])からの勧請と伝える。
* 第四殿:'''[[イチキシマヒメ|市杵島比売大神]]''' (いちきしまひめのおおかみ)
:: 通称「厳島明神」。第三殿と同年に[[厳島神社]]([[広島県]][[廿日市市]])からの勧請と伝える。


=== 丹生都比売神について ===
「[[丹]]」は朱砂([[辰砂]]-朱色の[[硫化水銀]])のことであり、その鉱脈のある所のことを「丹生」という。朱砂はそのまま朱色の顔料となり、精製すると[[水銀]]がとれる。丹生都比売大神は、朱砂を採掘する一族が祀る神であると考えられている。『丹生大明神告門(のりと)』では、丹生都比売大神は[[天照大神|天照大御神]]の妹神であるとしており、[[稚日女尊]]と同一神とする説もある。
丹生都比売大神の性格については大きく分けて2説がある<ref name="神々">『日本の神々』丹生都比売神社項。</ref>。一つは水神とみるものである<ref name="神々"/>。この中で、天野の地が[[紀の川]]の一水源地であることや、空海が当社から譲り受けたという神領は[[有田川]]・[[貴志川]]・丹生川・鞆淵川の流域のほぼ全域を占めていたこと、関係する[[丹生川上神社]]は水神信仰であること、[[東大寺]]のお水取りで水を送る遠敷明神(おにゅう;[[若狭彦神社]])の存在、御田祭における当社の神格等が挙げられる<ref name="神々"/>。

もう一つは、「[[丹]]」すなわち朱砂([[辰砂]]:朱色の[[硫化水銀]])の採掘に携わる人々によって祀られたという説である<ref name="神々"/>。後述の『播磨国風土記』逸文にも「赤土」の記載があるほか、全国にある「丹生」と名のつく土地・神社は、[[水銀]]の採掘に携わった氏族(丹生氏)と深い関係にあることが明らかとなっている<ref name="神々"/><ref>「丹生氏」項({{Cite book ja-jp|others=坂本 太郎・平野 邦雄(監修)|year=2010|title=日本古代氏族人名辞典|publisher=吉川弘文館|edition=普及版|isbn=9784642014588}}、所収)</ref>。これを基に、丹生一族が水銀採掘で一大勢力を築いたが、その枯渇に際して天野や三谷で帰農、当社も水神信仰に変化したという説がある<ref name="神々"/>。

なお『丹生大明神告門』では、丹生都比売大神は[[イザナギ]]・[[イザナミ]] の御子神であるとしている。また[[稚日女尊]]と同一神とする説もある。

=== 高野御子神について ===
高野御子神は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる<ref name="地名"/>。しかし後述のように、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝えられる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」(後述)からのものという。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと見られている<ref name="地名"/>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創建 ===
創建の年代は不詳である。『丹生大明神告門』では、祭神の丹生都比売大神は[[紀の川]]川辺の菴田の地に降臨し、各地の巡行の後に天野原に鎮座したとしている。『[[日本書紀]]』の[[神功皇后]]条に「天野祝」の名があり、当社の[[神官]]のことと考えられている。丹生都比売神の名の国史の初見は、『[[日本三代実録]]』貞観元年(859年)正月27日条である。『[[延喜式神名帳]]』では「紀伊国伊都郡 丹生都比女神社 名神大月次新嘗」と記載されている。
創建の年代は不詳。


『[[播磨国風土記]]』逸文<ref group="原">『釈日本紀』巻11 爾保都比売命条。</ref>には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される<ref name="地名">『和歌山県の地名』丹生都比売神社項。</ref>。同文によれば、[[神功皇后]]の[[三韓征伐]]の際、爾保都比売命が国造・石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。この地は現在の[[高野町]]上筒香の東の峰({{ウィキ座標|34|13|26.90|N|135|43|38.91|E|region:JP-30_type:landmark|位置|name=旧鎮座地か:管川の藤代の峯(比定地)}})に比定され<ref group="注">「筒香(つつが)」は「管川(つつかわ)」からの転訛とされる。</ref>、丹生川の水源地にあたる<ref name="地名"/>。その地は当社の旧鎮座地と見られているが、天野への移転の経緯は明らかではなく<ref name="地名"/>、高野山への土地譲り(後述)に際して遷ったとする説がある<ref name="神々"/>。
[[空海]]が高野山[[金剛峯寺]]を開く際に神領の一部を寄進したと伝えられ、高野山の鎮守神とされた。『[[今昔物語]]』には、密教の道場とする地を求めていた空海の前に「南山の犬飼」という猟師が現れて高野山へ先導したとの記述があり、南山の犬飼は狩場明神と呼ばれ、後に当社の祭神である高野御子大神と同一視されるようになった。鎌倉時代以降は、高野山上の僧が厳冬期の避寒のための当社に帯在したり、高野山で火災があったときに仮執務が行われたりなど、高野山との関係がより深くなった。[[修験道]]の修行の拠点ともなっていた。


一方『丹生大明神告門』では、丹生都比売神は伊都郡奄田村(九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に上ったのち、大和国・紀伊国の各地に忌杖を刺し、開墾・田地作りに携わって最終的に天野原に鎮座したという<ref name="神々"/>。
鎌倉時代に、[[行勝]]上人により[[気比神宮]]の大食比売大神、[[厳島神社]]の市杵島比売大神が勧請されて、現在の形となった。行勝は若宮に祀られている。鎌倉時代ごろから[[紀伊国]][[一宮]]を称するようになった。


また『[[日本書紀]]』[[神功皇后]]紀には、紀伊国の小竹宮<ref group="注">「小竹宮」は御坊市の[[小竹八幡神社]]と伝えられる({{Cite web|url=http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=6001|title=小竹八幡神社|publisher=和歌山県神社庁|accessdate=2013-10-22
現在の社殿は、[[室町時代]]に火事で焼失した後に再建されたものである。近世になって社領が没収され、完全に高野山に依存するようになったが、明治の[[神仏分離]]で高野山から独立した。しかし、今日でも多くの僧侶が当社に参拝しており、神前での読経も行われている。[[大正]]13年に官幣大社に列格した。
}})。</ref>において、天野祝と小竹祝を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話が載る<ref group="原">『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条。</ref>。この「天野祝」(丹生祝)は当社の神職と見られている<ref name="神々"/>。

=== 空海への土地譲り伝説 ===<!--伝説性が強いため、概史節から外す-->
[[File:Danjogaran Koyasan02s5s3200.jpg|thumb|200px|right|[[高野山]][[金剛峯寺]]<br/><small>建立にあたり、空海は当社から神領を譲られたと伝わる。</small>]]
弘法大師・[[空海]]が[[高野山]][[金剛峯寺]]を開いたのは、地主神たる当社がその神領を譲ったことによると伝えられている<ref name="地名"/>。高野山と当社の関係をかたる最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある<ref name="神々"/>。これによると、[[弘仁]]7年([[817年]])、空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国[[宇智郡]]から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神(丹生明神)の化身だといわれref name="地名"/>、以上の説話は『[[今昔物語集]]』<ref group="原">『今昔物語集』巻11第25「弘法大師始建高野山語」。</ref>等にも記載されている。『丹生祝氏本系帳』では、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があり、これが高野山開創に取り入れられたと見られている<ref name="地名"/>。

空海の死後、その弟子達により当社の神領はさらに高野山の寺領となっていった<ref name="神々"/>。当社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校・第4代執行の[[雅真]]の頃と見られている<ref name="神々"/>。

=== 概史 ===
国史での初見は『[[日本三代実録]]』[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])正月27日条で、従四位下勲八等の[[神階]]が奉授されたという記録である。[[六国史]]では、神階は[[元慶]]7年([[883年]])に従四位上勲八等まで昇叙されている。『[[延喜式神名帳]]』では「紀伊国伊都郡 丹生都比女神社 名神大月次新嘗」と記載され、[[名神大社]]に列して宮中の[[月次祭]]・[[新嘗祭]]には官幣を受けた。また『紀伊国神名帳』には「丹生津比咩大神」として正一位勲八等の記載があり、同帳では同じく正一位として「丹生高野御子神」の記載もある。

高野山の開創以後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請された<ref name="地名"/>。この記載は、文献では『太政官符案』[[寛弘]]元年([[1004年]])9月25日や『百錬抄』[[寿永]]2年([[1183年]])10月9日に見える<ref name="地名"/>。また、高野山の火災では当社が仮所とされたほど重要視されていた<ref name="地名"/>。

平安時代末頃から、当社の祭神は二座から四座になったと見られている<ref name="地名"/>。[[仁平]]元年([[1151年]])の文書に「第三神宮」の記載があるほか<ref name="地名"/>、[[正応]]6年([[1293年]])には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる<ref name="地名"/>。祭神の増加について、年代が上記と食い違うものの、『高野春秋』によれば承元2年([[1208年]])10月に[[北条政子]]の援助で[[行勝 (木食)|行勝]]上人と天野祝により、[[気比神宮]]の大食比売大神、[[厳島神社]]の市杵島比売大神が勧請されたという<ref name="地名"/>。

以後も当社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には当社が勧請されて各地に丹生神社が建てられた<ref name="地名"/>。そのために当社の境内にも仏教系の伽藍が多く築かれ、その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている<ref name="地名"/>。後世には、当社は[[修験道]]の修行の拠点ともなっていた。

[[元寇]]の際には、当社は神威を表して一躍有名なり、公家・武家から多くの寄進を受けた<ref name="地名"/>。この頃から、[[紀伊国]][[一宮]]を称するようになったとされる<ref name="一宮"/>。紀伊国では古くより[[日前神宮・国懸神宮]](和歌山市)が一宮を構成していたが「一宮」の呼称自体はなく、当社が[[弘安]]8年([[1285年]])を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した<ref name="一宮">{{Cite book ja-jp|author=井上 寛司|year=2009|title=日本中世国家と諸国一宮制|series=中世史研究叢書16|isbn=978-4-87294-545-4|page=44}}</ref>。なお、他に一宮を称した神社として[[伊太祁曽神社]](和歌山市)がある。

中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは[[太閤検地|天正検地]]において没収された<ref name="地名"/>。近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された<ref name="地名"/>。

明治に入り、[[神仏分離]]で高野山から独立した。しかし、今日に至るまで多くの僧侶が当社に参拝しており、神前での読経も行われている。[[大正]]13年([[1924年]])、[[近代社格制度]]において[[官幣大社]]に列した。

=== 神階 ===
; 丹生都比売神
* 六国史
** [[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])正月27日、従五位下勲八等から従四位下勲八等 (『[[日本三代実録]]』)
** [[元慶]]7年([[883年]])12月28日、従四位上勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「丹生比売神」
* [[寿永]]2年([[1183年]])10月9日、一階昇叙 (『[[百錬抄]]』) - 表記は「丹生高野神」<!--2神とみられる(概史説参照)-->
* 正一位勲八等 (『紀伊国神名帳』) - 表記は「丹生津比咩大神」

; 高野御子神
* [[延喜]]6年([[906年]])2月6日、従五位下 (『[[日本紀略]]』) - 表記は「高野御子神」
* 寿永2年(1183年)10月9日、一階昇叙 (『百錬抄』) - 表記は「丹生高野神」<!--2神とみられる(概史説参照)-->
* 正一位 (『紀伊国神名帳』) - 表記は「丹生高野御子神」

=== 神職 ===
当社の神職は、古来より天野祝(あまののほうり、丹生祝・丹生氏)が担っている<ref name="地名"/>。『丹生祝氏本系帳』によれば、丹生祝の祖は天魂命で、[[天道根命|紀氏]]祖の[[カミムスビ|神魂命]]の系統を引くという<ref name="地名"/>。

== 境内 ==
[[File:Niutsuhimejinja 05.JPG|thumb|200px|right|本殿(重要文化財)<br/>楼門内より最奥に望む。右から第一殿・第二殿・第三殿。]]
[[File:Niutsuhime-jinja honden.jpg|thumb|200px|right|右から第三殿と第四殿。左端は若宮。]]
[[File:Niutsuhime-jinja roumon.JPG|thumb|200px|right|楼門(重要文化財)]]
当社は高野山との関係が深く、古くは多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の仏教建物が営まれていたことが古絵図によって知られる。神仏分離によってこれらは除かれたが、神仏習合時代の遺構が良好に残されていることから、境内は国の史跡に指定されている<ref name="Keidai"/>。

本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。いずれも同形式・同規模の一間社[[春日造]]の[[檜皮葺]]で、第一殿は[[江戸時代]]の[[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])、第二殿は[[室町時代]]の[[文明 (日本)|文明]]年間([[1469年]]-[[1486年]])、第三殿は[[明治]]34年([[1901年]])、第四殿は室町時代の文明元年([[1469年]])の造営である。各殿内とも[[鎌倉時代]]の一間春日見世棚造の宮殿を納めている。宮殿には[[嘉元]]4年([[1306年]])の銘があり、前身の社殿のものとみられている。これら四殿は、附指定の宮殿を加えて「丹生都比売神社本殿」として国の重要文化財に指定されている<ref name="Honden"/><ref>{{Cite web|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/025.html|title=丹生都比売神社本殿|works=和歌山県フォト博物館|publisher=和歌山県|accessdate=2013-10-12}}</ref><ref name="ガイド"/>。

楼門は室町時代、[[明応]]8年([[1499年]])の造営。13世紀末の作という「絹本著色弘法大師丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に描かれた境内図には、現在の楼門の位置に八脚門が描かれている。現在の形式は三間一戸の[[入母屋造]]で、檜皮葺。本殿同様、国の重要文化財に指定されている<ref name="Roumon"/><ref>{{Cite web|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/026.html|title=丹生都比売神社楼門|works=和歌山県フォト博物館|publisher=和歌山県|accessdate=2013-10-12}}</ref>。

境内東部には、鎌倉時代から室町時代に建てられた石造の五輪卒塔婆4基がある。高さは2.1メートルから3.6メートルあり、[[正応]]6年([[1293年]])、[[正安]]4年([[1302年]])、[[文保]]3年([[1319年]])、[[延元]]元年([[1336年]])の刻銘がある。修験行者の行事の模様をうかがわせるもので、和歌山県の有形文化財に指定されている<ref name="ガイド"/>。

境内背後の尾根上には高野山への表参道である[[高野山町石道]](国の史跡、世界遺産)が通っており、当社への枝道(八丁坂)への分岐点には通称「二つ鳥居」と呼ばれる鳥居2基が並んでいる({{ウィキ座標|34|15|31.42|N|135|31|38.61|E|region:JP-30_type:landmark|位置|name=二つ鳥居}})。高野山参拝前にはここから当社に参拝する習わしであったという。『紀伊続風土記』によれば、この鳥居は[[弘仁]]10年([[819年]])5月3日に[[空海]]によって建立されたといい、当初は木造であったが[[慶安]]2年([[1649年]])5月に現在の石造で建てられたという<ref>現地説明板。</ref>。この2基は丹生都比売神と高野御子神の鳥居を表すという。いずれも国の史跡(高野山町石道)の一部とされている。

<gallery>
ファイル:丹生都比売神社 境内図.JPG|境内図(説明板より)
File:Niutsuhimejinja 06.JPG|大師堂跡、多宝塔跡
File:Niutsuhime-jinja sotoba.JPG|卒塔婆群(県指定文化財)
File:Niutsuhime-jinja rinkyo.JPG|輪橋
File:Niutsuhime-jinja futatsutorii.JPG|二つ鳥居
</gallery>

== 摂末社 ==
いずれも境内社。
* 若宮
** 祭神:[[行勝 (木食)|行勝]]上人
** 本殿4棟と同列左端に鎮座する。行勝上人は、当社の第三殿・第四殿を勧請した人物。
* 佐波神社 (さわじんじゃ)
** 明治時代に上天野地区の諸社を合祀。

<gallery>
File:Niutsuhime-jinja Saba-jinja.JPG|佐波神社
</gallery>

== 祭事 ==
=== 年間祭事 ===
* 歳旦祭 (1月1日)<ref>祭事は[http://www.niutsuhime.or.jp/omatsuri.htm お祭りと年中行事](公式サイト)による。</ref>
* 元始祭 (1月3日)
* 厄除祭 (1月第3日曜)
* 御田祭 (1月第3日曜)
* 祈年祭 (2月17日)
* 花盛祭 (4月第3日曜)
* 大祓式 (6月30日)
* 神還祭 (7月18日)
* 例祭 (10月16日)
* 新嘗祭 (11月23日)
* 大祓式 (12月31日)
* 月次祭 (毎月16日)

=== 御田祭 ===
'''御田祭'''(おんだまつり)は、1月第3日曜に行なわれる農耕神事。平安時代に始まったとされ、形態の変遷を経て[[室町時代]]の祭祀の様子を伝えるという。神事では、豊穣を祈って舞が奉納されたのち、数々の芸能が披露される。祭は和歌山県の無形民俗文化財に指定されている<ref name="ガイド">{{Cite web|url=http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/index.html|title=和歌山文化財ガイド|publisher=和歌山県文化遺産活用活性化委員会|accessdate=2013-10-12}}。</ref>。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
=== 国宝 ===
=== 国宝 ===
* '''銀銅蛭巻太刀拵'''(ぎんどうひるまきたちこしらえ)
* '''銀銅蛭巻太刀拵'''(ぎんどうひるまきたちこしらえ)(工芸品
*:[[1955年]]([[昭和]]30年)2月2日、国宝(工芸品)に指定<ref name="Gindou"/>。「銀銅」は銅に銀メッキを施したものの意。「蛭巻」は、細長く薄い金属板(本作品の場合は銀銅)を鞘と柄(つか)に巻き付けた装飾方法を指す。平安時代末期にさかのぼる刀装の遺品として貴重である。東京国立博物館に寄託<ref name="Official">{{Cite web
*: 「銀銅」は銅に銀メッキを施したものの意。「蛭巻」は、細長く薄い金属板(本作品の場合は銀銅)を鞘と柄(つか)に巻き付けた装飾方法を指す。平安時代末期にさかのぼる刀装の遺品として貴重である。東京国立博物館に寄託<ref name="Official">{{Cite web|url=http://www.niutsuhime.or.jp/history.htm|title=神社の歴史と宝物 丹生都比売神社|publisher=丹生都比売神社|accessdate=2013-10-11}}</ref>。[[1955年]]([[昭和]]30年)2月2日指定<ref name="Gindou"/>。
|url=http://www.niutsuhime.or.jp/history.htm
|title=神社の歴史と宝物 丹生都比売神社
|publisher=丹生都比売神社
|accessdate=2011-01-19
}}</ref>。


=== 重要文化財 ===
=== 重要文化財(国指定) ===
* 本殿 4棟(附 宮殿4基)(建造物) - [[1965年]](昭和40年)5月29日指定<ref name="Honden"/>。
* 本殿 4棟
*:「丹生都比売神社本殿」として、[[1965年]]([[昭和]]40)529、国の重要文化財(建造物)に指定<ref name="Honden"/>。
* 楼門(建造物) - [[1908年]]([[明治]]41)423日指定<ref name="Roumon"/>。
* 木造狛犬 2対(彫刻) - [[1899年]](明治32年)8月1日指定。
* 楼門
* 木造狛犬 2対(彫刻) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
*:「丹生都比売神社楼門」として、[[1908年]]([[明治]]41年)4月23日、国の重要文化財(建造物)に指定<ref name="Roumon"/>。
* 木造鍍金装神輿(工芸品) - [[1908年]](明治41年)1月10日指定。
* 木造狛犬 2対
* 金銅琵琶(工芸品) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
* 木造狛犬 2対
* 兵庫鎖太刀(ひょうごぐさりたち) 2口(工芸品) - [[1897年]](明治30年)12月28日指定。
* 木造鍍金装神輿
* 鍍金長覆輪太刀(ときんながふくりんたち) 1口(工芸品) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
* 金銅琵琶
* 鍍金長覆輪太刀 2口(工芸品) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
* 兵庫鎖太刀(ひょうごぐさりたち) 2口
* 紙本墨書法華経 8帖、紙本墨書後村上天皇宸翰寄進状 1巻(書跡・典籍) - [[1926年]]([[大正]]15年)4月19日指定。
* 鍍金長覆輪太刀(ときんながふくりんたち) 1口
* 鍍金長覆輪太刀 2口
* 法華経・後村上天皇宸翰寄進状


=== 国の史跡 ===
=== 国の史跡 ===
* 丹生都比売神社境内 - [[2002年]]([[平成]]14年)12月19日指定<ref name="Keidai"/>。
* 境内
*:「丹生都比売神社境内」として、[[2002年]]([[平成]]14年)12月19日、国の史跡に指定<ref name="Keidai"/>。


=== 和歌山県指定文化財 ===
=== 和歌山県指定文化財 ===
* 有形文化財
和歌山県指定の有形文化財(美術工芸品)3点を所蔵する。いずれも指定年月日は[[1965年]]([[昭和]]40年)4月14日<ref>{{Cite web
** 石造五輪卒塔婆群 4基(建造物) - 鎌倉時代から室町時代にかけての作。1965年(昭和40年)4月1日指定<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/mokuroku/mokuroku/kenkenzo.html|title=県指定文化財・有形文化財・建造物|publisher=和歌山県教育委員会|accessdate=2013-10-12}}</ref>。
|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/mokuroku/mokuroku/kenbizyutu.html
** 楽太鼓縁<!--鉦鼓縁--> 1対(工芸品) - 室町時代。[[和歌山県立博物館]]に寄託。1965年(昭和40年)4月1日指定<ref name="県指定">{{Cite web|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/mokuroku/mokuroku/kenbizyutu.html|title=県指定文化財・有形文化財・美術工芸品|publisher=和歌山県教育委員会|accessdate=2013-10-11}}</ref><ref name="Official"/>。
|title=県指定文化財・有形文化財・美術工芸品
** 鼓胴 3個(工芸品) - 室町時代。和歌山県立博物館に寄託。1965年(昭和40年)4月1日指定<ref name="県指定"/><ref name="Official"/>。
|publisher=和歌山県教育委員会
** 瑞華鸞八稜鏡 1面(工芸品) - 平安時代。和歌山県立博物館に寄託。1965年(昭和40年)4月1日指定<ref name="県指定"/><ref name="Official"/>。
|accessdate=2010-01-19

}}</ref>。全て、[[和歌山県立博物館]]に寄託されている<ref name="Official"/>。
* 無形民俗文化財
* 楽太鼓縁<!--鉦鼓縁--> 一対(室町時代)
** 天野の御田祭 - 昭和56年7月13日指定<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/mokuroku/mokuroku/kenminzoku.html|title=県指定文化財・民俗文化財|publisher=和歌山県教育委員会|accessdate=2013-10-11}}</ref>。
* 鼓胴 三個(室町時代)

* 瑞華鸞八稜鏡 一面(平安時代)
=== かつらぎ町指定文化財 ===
* 有形文化財<ref>{{Cite web|url=http://www.town.katsuragi.wakayama.jp/top_guide/menu_kyoiku/bunkazai/bunkazai-town.html|title=指定文化財一覧(町指定文化財)|publisher=かつらぎ町|accessdate=2013-10-12}}</ref>
** 面類 6面(彫刻) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
** 大絵馬 6面(絵画) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
** 箏 1面(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
** 太鼓 1口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
** 太刀 2口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
** 太刀 2口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。<!--太刀 2口は2点ある。-->


=== 世界遺産 ===
=== 世界遺産 ===
ユネスコの世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道(2004年7月登録)の資産「丹生都比売神社」は以下3件の文化財を含む<ref name="sekai_isan"/><ref name="sanken"/>。
ユネスコの世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道(2004年7月登録)の資産「丹生都比売神社」は以下3件の文化財を含む<ref name="sekai_isan"/><ref name="sanken"/>。
* 重要文化財「丹生都比売神社本殿」
* 重要文化財「丹生都比売神社本殿」
* 重要文化財「丹生都比売神社本殿」
* 重要文化財「丹生都比売神社楼門」
* 史跡「丹生都比売神社境内」
* 史跡「丹生都比売神社境内」


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
; 所在地
* 所在地
* [[和歌山県]][[伊都郡]][[かつらぎ町]]上天野230
*: [[和歌山県]][[伊都郡]][[かつらぎ町]]上天野230


; 交通アクセス
* 交通アクセス
* 最寄駅:[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[和歌山線]] [[妙寺駅]] (徒歩約95分)
*: [[西日本旅客鉄道]](JR西日本[[和歌山線]] [[笠田駅]]から
*: バス:かつらぎ町コミュニティバス(天野コース、丹生都比売神社行)で終点「丹生都比売神社」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
*: タクシー:約15分

* 周辺
*: [[丹生官省符神社]] - 世界遺産構成資産の1つ。
*: 丹生酒殿神社 - 元摂社。当社の神酒醸造に関わったと見られている<ref name="地名"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|group="注"}}

=== 原典 ===
{{Reflist|group="原"}}

=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
=== 原典 ===
* 『丹生大明神告門』
*: 当社に伝わる[[祝詞]]で、「告門」は「のりと」と読む。『延喜式』収録の祝詞ではなく、平安時代以降伝来されたものである(説明は『和歌山県の地名』丹生都比売神社項による)。

=== 出典 ===
* 神社由緒書
*{{Cite book ja-jp|chapter=丹生都比売神社|editor=平凡社|title=和歌山県の地名|year=1983|series=日本歴史地名体系31|publisher=[[平凡社]]|isbn=458249031X}}
* {{Cite book ja-jp|author=丸山顕徳|year=1986|chapter=丹生都比売神社|editor2=[[谷川健一]]|title=伊勢・志摩・伊賀・紀伊|series=日本の神々 神社と聖地6|publisher=[[白水社]]|isbn=4-560-02216-X}}

== 関連文献 ==
* {{Cite book ja-jp|editor=丹生都比売神社史編纂委員会|year=2009|title=丹生都比売神社史|publisher=丹生都比賣神社}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[国宝の一覧]]
* [[国宝の一覧]]
* 紀伊国一宮を称する他の神社
* [[丹生官省符神社]]
** [[日前神宮・國懸神宮]]

; 関連神社
** [[伊太祁曽神社]]
* [[丹生神社]]
: いずれも[[奈良県]][[吉野郡]]に所在。
* [[丹生川上神社]]
** [[丹生川上神社]](中社)、[[丹生川上神社上社]]、[[丹生川上神社下社]]
* [[丹生川上神社上社]]
* [[丹生川上神社下社]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Niutsuhime-jinja}}
{{Commons|Category:Niutsuhime-jinja}}
* [http://www.niutsuhime.or.jp 丹生都比売神社](公式サイト)
* [http://www.niutsuhime.or.jp 丹生都比売神社](公式サイト)
* [http://www.katsuragi-kanko.jp/niutuhimejinja.html 丹生都比売神社](かつらぎ町観光協会)

* [http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4013 丹生都比賣神社](和歌山県神社庁)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/520301.html 丹生都比女神社](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)


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[[Category:紀伊国|社1]]

2013年10月22日 (火) 12:41時点における版

丹生都比売神社

境内
所在地 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
位置 北緯34度15分45.78秒 東経135度31分19.18秒 / 北緯34.2627167度 東経135.5219944度 / 34.2627167; 135.5219944 (丹生都比売神社)座標: 北緯34度15分45.78秒 東経135度31分19.18秒 / 北緯34.2627167度 東経135.5219944度 / 34.2627167; 135.5219944 (丹生都比売神社)
主祭神 丹生都比売大神
高野御子大神
大食津比売大神
市杵島比売大神
社格 式内社名神大
紀伊国一宮
官幣大社
別表神社
本殿の様式 一間社春日造4棟
別名 天野大社
札所等 神仏霊場巡拝の道第12番(和歌山第12番)
例祭 10月16日
主な神事 御田祭(1月第3日曜日)
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外鳥居

丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある神社式内社名神大社)、紀伊国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である[注 1]。別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。

紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

概要

高野山北西にある天野盆地に鎮座する。空海金剛峯寺を建立するにあたっては当社が神領を寄進したという言い伝えがあり、古くより高野山と深い関係にある神社である。当社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通っており、当社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず当社に参拝する習わしであったという。当社自体高野山からの影響を強く受けており、境内には多くの仏教系の遺跡・遺物が残っている。また、高野山の荘園には当社が勧請された関係で、和歌山県・奈良県を主とした各地に分霊の丹生神社が建てられている。

当社は国宝「銀銅蛭巻太刀拵」[1]のほか、本殿[2]および楼門[3]などの重要文化財を現在に伝え、境内は国の史跡に指定されている[4]。本殿、楼門および境内は、ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている[5][6]

祭神

以下の4柱の神を祀る[7]。これら4神は「四所明神」とも総称される。

  • 第一殿:丹生都比売大神 (にうつひめのおおかみ)
通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。
  • 第二殿:高野御子大神 (たかのみこのおおかみ)
通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。
通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮福井県敦賀市)からの勧請と伝える。
通称「厳島明神」。第三殿と同年に厳島神社広島県廿日市市)からの勧請と伝える。

丹生都比売神について

丹生都比売大神の性格については大きく分けて2説がある[8]。一つは水神とみるものである[8]。この中で、天野の地が紀の川の一水源地であることや、空海が当社から譲り受けたという神領は有田川貴志川・丹生川・鞆淵川の流域のほぼ全域を占めていたこと、関係する丹生川上神社は水神信仰であること、東大寺のお水取りで水を送る遠敷明神(おにゅう;若狭彦神社)の存在、御田祭における当社の神格等が挙げられる[8]

もう一つは、「」すなわち朱砂(辰砂:朱色の硫化水銀)の採掘に携わる人々によって祀られたという説である[8]。後述の『播磨国風土記』逸文にも「赤土」の記載があるほか、全国にある「丹生」と名のつく土地・神社は、水銀の採掘に携わった氏族(丹生氏)と深い関係にあることが明らかとなっている[8][9]。これを基に、丹生一族が水銀採掘で一大勢力を築いたが、その枯渇に際して天野や三谷で帰農、当社も水神信仰に変化したという説がある[8]

なお『丹生大明神告門』では、丹生都比売大神はイザナギイザナミ の御子神であるとしている。また稚日女尊と同一神とする説もある。

高野御子神について

高野御子神は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる[10]。しかし後述のように、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝えられる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」(後述)からのものという。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと見られている[10]

歴史

創建

創建の年代は不詳。

播磨国風土記』逸文[原 1]には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される[10]。同文によれば、神功皇后三韓征伐の際、爾保都比売命が国造・石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。この地は現在の高野町上筒香の東の峰(北緯34度13分26.90秒 東経135度43分38.91秒)に比定され[注 2]、丹生川の水源地にあたる[10]。その地は当社の旧鎮座地と見られているが、天野への移転の経緯は明らかではなく[10]、高野山への土地譲り(後述)に際して遷ったとする説がある[8]

一方『丹生大明神告門』では、丹生都比売神は伊都郡奄田村(九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に上ったのち、大和国・紀伊国の各地に忌杖を刺し、開墾・田地作りに携わって最終的に天野原に鎮座したという[8]

また『日本書紀神功皇后紀には、紀伊国の小竹宮[注 3]において、天野祝と小竹祝を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話が載る[原 2]。この「天野祝」(丹生祝)は当社の神職と見られている[8]

空海への土地譲り伝説

高野山金剛峯寺
建立にあたり、空海は当社から神領を譲られたと伝わる。

弘法大師・空海高野山金剛峯寺を開いたのは、地主神たる当社がその神領を譲ったことによると伝えられている[10]。高野山と当社の関係をかたる最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある[8]。これによると、弘仁7年(817年)、空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神(丹生明神)の化身だといわれref name="地名"/>、以上の説話は『今昔物語集[原 3]等にも記載されている。『丹生祝氏本系帳』では、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があり、これが高野山開創に取り入れられたと見られている[10]

空海の死後、その弟子達により当社の神領はさらに高野山の寺領となっていった[8]。当社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校・第4代執行の雅真の頃と見られている[8]

概史

国史での初見は『日本三代実録貞観元年(859年)正月27日条で、従四位下勲八等の神階が奉授されたという記録である。六国史では、神階は元慶7年(883年)に従四位上勲八等まで昇叙されている。『延喜式神名帳』では「紀伊国伊都郡 丹生都比女神社 名神大月次新嘗」と記載され、名神大社に列して宮中の月次祭新嘗祭には官幣を受けた。また『紀伊国神名帳』には「丹生津比咩大神」として正一位勲八等の記載があり、同帳では同じく正一位として「丹生高野御子神」の記載もある。

高野山の開創以後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請された[10]。この記載は、文献では『太政官符案』寛弘元年(1004年)9月25日や『百錬抄』寿永2年(1183年)10月9日に見える[10]。また、高野山の火災では当社が仮所とされたほど重要視されていた[10]

平安時代末頃から、当社の祭神は二座から四座になったと見られている[10]仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか[10]正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる[10]。祭神の増加について、年代が上記と食い違うものの、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという[10]

以後も当社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には当社が勧請されて各地に丹生神社が建てられた[10]。そのために当社の境内にも仏教系の伽藍が多く築かれ、その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている[10]。後世には、当社は修験道の修行の拠点ともなっていた。

元寇の際には、当社は神威を表して一躍有名なり、公家・武家から多くの寄進を受けた[10]。この頃から、紀伊国一宮を称するようになったとされる[11]。紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮を構成していたが「一宮」の呼称自体はなく、当社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した[11]。なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。

中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは天正検地において没収された[10]。近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された[10]

明治に入り、神仏分離で高野山から独立した。しかし、今日に至るまで多くの僧侶が当社に参拝しており、神前での読経も行われている。大正13年(1924年)、近代社格制度において官幣大社に列した。

神階

丹生都比売神
  • 六国史
    • 貞観元年(859年)正月27日、従五位下勲八等から従四位下勲八等 (『日本三代実録』)
    • 元慶7年(883年)12月28日、従四位上勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「丹生比売神」
  • 寿永2年(1183年)10月9日、一階昇叙 (『百錬抄』) - 表記は「丹生高野神」
  • 正一位勲八等 (『紀伊国神名帳』) - 表記は「丹生津比咩大神」
高野御子神
  • 延喜6年(906年)2月6日、従五位下 (『日本紀略』) - 表記は「高野御子神」
  • 寿永2年(1183年)10月9日、一階昇叙 (『百錬抄』) - 表記は「丹生高野神」
  • 正一位 (『紀伊国神名帳』) - 表記は「丹生高野御子神」

神職

当社の神職は、古来より天野祝(あまののほうり、丹生祝・丹生氏)が担っている[10]。『丹生祝氏本系帳』によれば、丹生祝の祖は天魂命で、紀氏祖の神魂命の系統を引くという[10]

境内

本殿(重要文化財)
楼門内より最奥に望む。右から第一殿・第二殿・第三殿。
右から第三殿と第四殿。左端は若宮。
楼門(重要文化財)

当社は高野山との関係が深く、古くは多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の仏教建物が営まれていたことが古絵図によって知られる。神仏分離によってこれらは除かれたが、神仏習合時代の遺構が良好に残されていることから、境内は国の史跡に指定されている[4]

本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。いずれも同形式・同規模の一間社春日造檜皮葺で、第一殿は江戸時代正徳5年(1715年)、第二殿は室町時代文明年間(1469年-1486年)、第三殿は明治34年(1901年)、第四殿は室町時代の文明元年(1469年)の造営である。各殿内とも鎌倉時代の一間春日見世棚造の宮殿を納めている。宮殿には嘉元4年(1306年)の銘があり、前身の社殿のものとみられている。これら四殿は、附指定の宮殿を加えて「丹生都比売神社本殿」として国の重要文化財に指定されている[2][12][13]

楼門は室町時代、明応8年(1499年)の造営。13世紀末の作という「絹本著色弘法大師丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に描かれた境内図には、現在の楼門の位置に八脚門が描かれている。現在の形式は三間一戸の入母屋造で、檜皮葺。本殿同様、国の重要文化財に指定されている[3][14]

境内東部には、鎌倉時代から室町時代に建てられた石造の五輪卒塔婆4基がある。高さは2.1メートルから3.6メートルあり、正応6年(1293年)、正安4年(1302年)、文保3年(1319年)、延元元年(1336年)の刻銘がある。修験行者の行事の模様をうかがわせるもので、和歌山県の有形文化財に指定されている[13]

境内背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通っており、当社への枝道(八丁坂)への分岐点には通称「二つ鳥居」と呼ばれる鳥居2基が並んでいる(北緯34度15分31.42秒 東経135度31分38.61秒)。高野山参拝前にはここから当社に参拝する習わしであったという。『紀伊続風土記』によれば、この鳥居は弘仁10年(819年)5月3日に空海によって建立されたといい、当初は木造であったが慶安2年(1649年)5月に現在の石造で建てられたという[15]。この2基は丹生都比売神と高野御子神の鳥居を表すという。いずれも国の史跡(高野山町石道)の一部とされている。

摂末社

いずれも境内社。

  • 若宮
    • 祭神:行勝上人
    • 本殿4棟と同列左端に鎮座する。行勝上人は、当社の第三殿・第四殿を勧請した人物。
  • 佐波神社 (さわじんじゃ)
    • 明治時代に上天野地区の諸社を合祀。

祭事

年間祭事

  • 歳旦祭 (1月1日)[16]
  • 元始祭 (1月3日)
  • 厄除祭 (1月第3日曜)
  • 御田祭 (1月第3日曜)
  • 祈年祭 (2月17日)
  • 花盛祭 (4月第3日曜)
  • 大祓式 (6月30日)
  • 神還祭 (7月18日)
  • 例祭 (10月16日)
  • 新嘗祭 (11月23日)
  • 大祓式 (12月31日)
  • 月次祭 (毎月16日)

御田祭

御田祭(おんだまつり)は、1月第3日曜に行なわれる農耕神事。平安時代に始まったとされ、形態の変遷を経て室町時代の祭祀の様子を伝えるという。神事では、豊穣を祈って舞が奉納されたのち、数々の芸能が披露される。祭は和歌山県の無形民俗文化財に指定されている[13]

文化財

国宝

  • 銀銅蛭巻太刀拵(ぎんどうひるまきたちこしらえ)(工芸品)
    「銀銅」は銅に銀メッキを施したものの意。「蛭巻」は、細長く薄い金属板(本作品の場合は銀銅)を鞘と柄(つか)に巻き付けた装飾方法を指す。平安時代末期にさかのぼる刀装の遺品として貴重である。東京国立博物館に寄託[17]1955年昭和30年)2月2日指定[1]

重要文化財(国指定)

  • 本殿 4棟(附 宮殿4基)(建造物) - 1965年(昭和40年)5月29日指定[2]
  • 楼門(建造物) - 1908年明治41年)4月23日指定[3]
  • 木造狛犬 2対(彫刻) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
  • 木造狛犬 2対(彫刻) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
  • 木造鍍金装神輿(工芸品) - 1908年(明治41年)1月10日指定。
  • 金銅琵琶(工芸品) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
  • 兵庫鎖太刀(ひょうごぐさりたち) 2口(工芸品) - 1897年(明治30年)12月28日指定。
  • 鍍金長覆輪太刀(ときんながふくりんたち) 1口(工芸品) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
  • 鍍金長覆輪太刀 2口(工芸品) - 1899年(明治32年)8月1日指定。
  • 紙本墨書法華経 8帖、紙本墨書後村上天皇宸翰寄進状 1巻(書跡・典籍) - 1926年大正15年)4月19日指定。

国の史跡

和歌山県指定文化財

  • 有形文化財
    • 石造五輪卒塔婆群 4基(建造物) - 鎌倉時代から室町時代にかけての作。1965年(昭和40年)4月1日指定[18]
    • 楽太鼓縁 1対(工芸品) - 室町時代。和歌山県立博物館に寄託。1965年(昭和40年)4月1日指定[19][17]
    • 鼓胴 3個(工芸品) - 室町時代。和歌山県立博物館に寄託。1965年(昭和40年)4月1日指定[19][17]
    • 瑞華鸞八稜鏡 1面(工芸品) - 平安時代。和歌山県立博物館に寄託。1965年(昭和40年)4月1日指定[19][17]
  • 無形民俗文化財
    • 天野の御田祭 - 昭和56年7月13日指定[20]

かつらぎ町指定文化財

  • 有形文化財[21]
    • 面類 6面(彫刻) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
    • 大絵馬 6面(絵画) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
    • 箏 1面(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
    • 太鼓 1口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
    • 太刀 2口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
    • 太刀 2口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。

世界遺産

ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年7月登録)の資産「丹生都比売神社」は、以下3件の文化財を含む[5][6]

  • 重要文化財「丹生都比売神社本殿」
  • 重要文化財「丹生都比売神社楼門」
  • 史跡「丹生都比売神社境内」

現地情報

  • 交通アクセス
    西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線 笠田駅から
    バス:かつらぎ町コミュニティバス(天野コース、丹生都比売神社行)で終点「丹生都比売神社」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
    タクシー:約15分
  • 周辺
    丹生官省符神社 - 世界遺産構成資産の1つ。
    丹生酒殿神社 - 元摂社。当社の神酒醸造に関わったと見られている[10]

脚注

注釈

  1. ^ 神社由緒書によれば、全国に「丹生神社」は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社(摂末社を入れると180社あまり)あり、当社はその総本社とする。
  2. ^ 「筒香(つつが)」は「管川(つつかわ)」からの転訛とされる。
  3. ^ 「小竹宮」は御坊市の小竹八幡神社と伝えられる(小竹八幡神社”. 和歌山県神社庁. 2013年10月22日閲覧。)。

原典

  1. ^ 『釈日本紀』巻11 爾保都比売命条。
  2. ^ 『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条。
  3. ^ 『今昔物語集』巻11第25「弘法大師始建高野山語」。

出典

  1. ^ a b 銀銅蛭巻太刀拵”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2010年1月19日閲覧。
  2. ^ a b c 国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2013年10月11日閲覧。
  3. ^ a b c 丹生都比売神社楼門”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2013年10月11日閲覧。
  4. ^ a b c 丹生都比売神社境内”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2013年10月11日閲覧。
  5. ^ a b 文化庁 (2006年9月26日). “条約上の資産種別と登録資産の国内法上の指定状況” (PDF). 文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会(第1回)議事次第. 文化庁. 2011年1月18日閲覧。
  6. ^ a b 世界遺産登録推進三県協議会(三重県・奈良県・和歌山県)、2005、『世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道』、世界遺産登録推進三県協議会、pp.39,75
  7. ^ 祭神はご祭神・ご神徳(公式サイト)による。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本の神々』丹生都比売神社項。
  9. ^ 「丹生氏」項(坂本 太郎・平野 邦雄(監修)、2010、『日本古代氏族人名辞典』普及版、吉川弘文館 ISBN 9784642014588、所収)
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『和歌山県の地名』丹生都比売神社項。
  11. ^ a b 井上 寛司、2009、『日本中世国家と諸国一宮制』 〈中世史研究叢書16〉 ISBN 978-4-87294-545-4 p. 44
  12. ^ 丹生都比売神社本殿”. 和歌山県. 2013年10月12日閲覧。
  13. ^ a b c 和歌山文化財ガイド”. 和歌山県文化遺産活用活性化委員会. 2013年10月12日閲覧。
  14. ^ 丹生都比売神社楼門”. 和歌山県. 2013年10月12日閲覧。
  15. ^ 現地説明板。
  16. ^ 祭事はお祭りと年中行事(公式サイト)による。
  17. ^ a b c d 神社の歴史と宝物 丹生都比売神社”. 丹生都比売神社. 2013年10月11日閲覧。
  18. ^ 県指定文化財・有形文化財・建造物”. 和歌山県教育委員会. 2013年10月12日閲覧。
  19. ^ a b c 県指定文化財・有形文化財・美術工芸品”. 和歌山県教育委員会. 2013年10月11日閲覧。
  20. ^ 県指定文化財・民俗文化財”. 和歌山県教育委員会. 2013年10月11日閲覧。
  21. ^ 指定文化財一覧(町指定文化財)”. かつらぎ町. 2013年10月12日閲覧。

参考文献

原典

  • 『丹生大明神告門』
    当社に伝わる祝詞で、「告門」は「のりと」と読む。『延喜式』収録の祝詞ではなく、平安時代以降伝来されたものである(説明は『和歌山県の地名』丹生都比売神社項による)。

出典

  • 神社由緒書
  • 平凡社(編)、1983、「丹生都比売神社」、『和歌山県の地名』、平凡社〈日本歴史地名体系31〉 ISBN 458249031X
  • 丸山顕徳、1986、「丹生都比売神社」、谷川健一(編)『伊勢・志摩・伊賀・紀伊』、白水社〈日本の神々 神社と聖地6〉 ISBN 4-560-02216-X

関連文献

  • 丹生都比売神社史編纂委員会(編)、2009、『丹生都比売神社史』、丹生都比賣神社

関連項目

外部リンク