コンテンツにスキップ

「松本竣介」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
(3人の利用者による、間の10版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 芸術家
[[image:Matsumoto Shunsuke01.JPG|thumb|280px|松本の作品([[愛知県美術館]]蔵)]]
| name = 松本 竣介
| image = MatsumotoShunsuke photo ca1940.png
| imagesize = 250px
| alt =
| caption = 1940年頃下落合の自宅兼アトリエにて撮影
| birthname = 佐藤 俊介
| birthdate = 1912年4月19日
| location = {{JPN}} [[東京府]]渋谷
| deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1912|4|19|1948|6|8}}
| deathplace = {{JPN}} [[東京都]]淀橋区下落合
| nationality = {{JPN}}
| field = 洋画
| years active = - 1948年
| training =
| movement = [[池袋モンパルナス]]
| works = 『街(1936年)』<br />『立てる像(1942年)』<br />『Y市の橋(1943年)』
| patrons =
| influenced by = [[アメデオ・モディリアーニ|モディリアニ]]、[[ジョルジュ・ルオー|ルオー]]、[[ジョージ・グロス]]、[[野田英夫]]
| influenced =
| awards =
| elected = 二科展
| website =
}}
'''松本 竣介'''(まつもと しゅんすけ、[[1912年]][[4月19日]] - [[1948年]][[6月8日]])は、[[日本]]の[[洋画家]]。
'''松本 竣介'''(まつもと しゅんすけ、[[1912年]][[4月19日]] - [[1948年]][[6月8日]])は、[[日本]]の[[洋画家]]。
[[太平洋戦争]]中の1941年(昭和16年)、軍部による美術への干渉に抗議して、雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた日本の画家である。
[[太平洋戦争]]中の1941年(昭和16年)、軍部による美術への干渉に抗議して、雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた日本の画家である。


==概要==
== 略歴と作風 ==
1912年(明治45年)渋谷に生まれ、その後岩手県で育ったが17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。
松本竣介は、1912年(明治45年)、[[東京]][[渋谷]]に生まれた。結婚前の旧姓は「佐藤」。[[1936年]](昭和11年)に松本禎子と結婚して松本姓となる。名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めるのは[[1944年]](昭和19年)制作の作品からである。以下の文中では煩雑を避けるためすべて「竣介」と記述する。
一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。[[1944年]](昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた。以下の文中では煩雑を避けるためすべて「竣介」と記述する。


松本竣介はかつて、「みづゑ」昭和16年4月号において発表した文章「生きてゐる画家」
竣介は、父親の仕事の関係で満2歳の時に[[岩手県]][[花巻市|花巻]]へ移住。少年時代を花巻及び[[盛岡市|盛岡]]で過ごした。後年、東京在住の岩手出身者を中心とした「北斗会」の展覧会に出品しているところを見ると、竣介は厳密には東京生まれであるが「岩手の出身者」という意識をもっていたようだ。
<ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス:大正デモクラシーの画家たち」集英社文庫, 1995年, ISBN 978-4-08-748273-7, pp.551-555.</ref>と、戦後、画壇の民主化を提言した「全日本美術家に諮る」によって反戦抵抗の画家とみなされた時期があった<ref name="shunsuke_3">宇佐美承著「求道の画家 松本竣介 ひたむきの三十六年」, 中公新書, 1992年, ISBN 978-4121011084, p.3.</ref><ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.551.</ref>が、戦中の国是だった高度国防国家建設に反対でなかったことや戦意高揚のポスターを描いたことがわかっており
<ref name="shunsuke_3"></ref><ref name="ikebukuro_555">宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.555.</ref>、
現在はそのような視点に立つ人は少なくなった<ref name="shunsuke_3"></ref>。


==生涯==
[[1925年]](大正14年)、旧制盛岡中学(現[[岩手県立盛岡第一高等学校]])入学の年、竣介は病気(脳脊髄膜炎)のため聴力を失う。聴覚障害者となった竣介は、3つ違いの兄・彬から油絵道具一式を贈られたことをきっかけに絵に打ち込みはじめ、画家を目指すようになった。[[1929年]](昭和4年)、中学を3年次で退学して兄・彬とともに上京、[[太平洋画会]]研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)で絵を学ぶ(彬の上京は東京外国語大学進学のためであった)。
===幼少期===
[[1912年]](明治45年)4月19日<ref name="shunsuke_7">宇佐美承著「求道の画家」p.7.</ref>[[東京]][[渋谷]]に生まれた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.8.</ref><ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.125.</ref>。
父勝身、母ハナの二男である<ref name="shunsuke_7"></ref>。2歳年長の兄彬がいた<ref name="shunsuke_7"></ref>。
[[1936年]](昭和11年)に結婚する以前の旧姓は「佐藤」(松本禎子と結婚して松本姓となった)。
竣介は、父親の仕事の関係で、満2歳の時に[[岩手県]][[花巻市|花巻]]へ、10歳の時に[[盛岡市|盛岡]]へ移った<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.10, 14.</ref><ref name="ikebukuro_126">宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.126.</ref>。
盛岡は父勝身の故郷である<ref name="ikebukuro_126"></ref>。
<!--以下の文章は、出典がついておらず、また、出典を見つけられなかったので一旦コメントアウトします。>
<!--後年、東京在住の岩手出身者を中心とした「北斗会」の展覧会に出品しているところを見ると、竣介は厳密には東京生まれであるが「岩手の出身者」という意識をもっていたようだ。-->
家が豊かだったので岩手師範付属小学校に通い<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.17.</ref>
<ref name="ikebukuro_126">宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.126.</ref>、
[[1925年]](大正14年)1番の成績で卒業<ref name="shunsuke_18">宇佐美承著「求道の画家」p.18.</ref>、
岩手県立盛岡中学校(現[[岩手県立盛岡第一高等学校]])に1番の成績で入学した<ref name="shunsuke_18"></ref><ref name="ikebukuro_126"></ref>。入学式の前日に頭痛を訴えたが、無理に入学式に出席、
その翌日の朝、脳脊髄膜炎と診断された<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.19.</ref>。
この病気が原因で聴力を失った<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.20.</ref>。
初秋に退院、10月から登校した<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.21.</ref>。
父の勝身は竣介を[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に入れたいと思っていたが、竣介自身は技師になりたいと考えていた
<ref name="shunsuke_22">宇佐美承著「求道の画家」p.22.</ref>。
耳が聞こえなくなったことで軍人への道が断たれたため、勝身は竣介の希望通り技師の道へ進ませることを考え、
竣介にカメラ、現像・焼きつけの器具を買い与えた<ref name="ikebukuro_126"></ref>
<ref name="shunsuke_22"></ref>。
しばらくは熱中していたが、やがてカメラに対する興味を失った<ref name="shunsuke_22"></ref>。
竣介が2年の時に、兄彬が卒業後上京し府立一中の補習科へ通いだした<ref name="shunsuke_22"></ref>
(彬の上京は東京外国語大学進学のためであった)。
その時に、油絵の道具一式を求めて郷里の弟へ送った<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.23.</ref>。
これがきっかけで絵を描くようになった。中学2年の夏頃からスケッチに熱中するようになり、
3年の時には学校に絵画倶楽部を作った<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.26-27.</ref>。
次第に絵の道を志すようになった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.27.</ref>。


===太平洋画会研究所===
竣介は、都会風景を好んで描いた画家として知られる。作品は、青系統の透明な色調のなかに無国籍的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた系列と、茶系統のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものの2つの系列があるが、戦時色が濃くなるにつれ、後者のくすんだ色調の風景が多くなる。
[[1929年]](昭和4年)3月20日<ref>「没後50年 松本竣介展」図録、共同通信社、1998年、東京、p.198.</ref>、
盛岡中学を3年で中途退学し、東京へ出た<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.28.</ref>。
小学校の恩師佐藤瑞彦が、当時は[[池袋]]にあった[[自由学園]]に勤めていたため、その尽力で
佐藤の隣家に家を借りて生活するようになった<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.30-31.</ref>。
そこから[[太平洋美術会|太平洋画会研究所]](のち「太平洋美術学校」に改称)へ通い始めた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.31.</ref><ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」pp.126-127.</ref>。
当時、この研究所では授業料の未払いをめぐって画学生と経営者側で対立が続いており、
1930年(昭和5年)晩秋に研究所から学校へ衣替えして、太平洋美術学校として再スタート、竣介は引き続きこの学校に通った<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.33.</ref><ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.127.</ref>。
この研究所には[[靉光]]、[[井上長三郎]]、[[鶴岡政男]]も通っていたが(美術学校に衣替えしてからは通わなくなった)、当時は互いの面識はなかった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.33.</ref>。
太平洋美術学校では鶴田吾郎の指導を受けたが、今ひとつ惹かれるものがなかったようである<ref name="shunsuke_36">宇佐美承著「求道の画家」p.36.</ref>。
10月におきた世界恐慌のあおりで、勝身が経営する銀行が破産の危機にみまわれた<ref name="shunsuke_36"></ref>。


美術学校に通っている間は、しばしば近くの茶房「りゝおむ」に集まって仲間と議論した<ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」pp.127-130.</ref>。当時、竣介はフルポンのあだなで呼ばれていた<ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.127.</ref>。
竣介は、『無産階級の画家 ゲオルゲ・グロッス』(柳瀬正夢編著、1929年刊)という本を愛読し、社会派のドイツ人画家[[ジョージ・グロス|グロッス]]の影響を受けたことが知られている。竣介の作品にはグロッスの作品のようなあからさまな社会風刺や思想的なものはほとんど見られないが、線描のタッチからは影響を受けていると考えられる。
当時の竣介は、[[アメデオ・モディリアーニ|モディリアニ]]の生き方に傾倒していた<ref name="shunsuke_44">宇佐美承著「求道の画家」p.44.</ref>。「赤荳(あかまめ)」という名のグループを作って活動していたが、この名は、モディリアニをモデルにして書かれたジョルジュ=ミッシェル作の伝記小説「レ・モンパルノ(Les Montparnos)」((第三書院、1932年)<ref name="cat_363">「生誕100年 松本竣介展」図録、NHKプラネット東京・NHKプロモーション、2012年、東京、p.363.</ref>)<ref>宇佐美承著池袋モンパルナス」p.131.</ref>の中に出てくる少女アリコ・ルージュを日本語に訳したものである<ref name="shunsuke_44"></ref>。
仲間の中にはマルクス主義者も混じっていて、階級的芸術論を説いてオルグしていたので、
その理論を勉強するために「太平洋近代藝術研究会」と名付けた会を作って「線」という雑誌(第1号は昭和6年9月刊)を出した<ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.130.</ref><ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.39-40.</ref>。
竣介はマルクス主義的芸術論には共感できず「線」は2号で終刊した<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.42.</ref>。


[[1932年]]になると、この頃池袋に林立しつつあったアトリエを仲間と共同で一軒借り
兄の彬は、宗教系保守政治圧力団体・新興宗教団体「[[生長の家]]」の教祖[[谷口雅春]]に傾倒していた。竣介は、彬が1933年(昭和8年)に創刊した雑誌『生命の藝術』の仕事を手伝い、小説などを寄稿してもいた。また、妻の松本禎子とは「生長の家」の仕事を通じて知り合ったという。竣介自身も1936年(昭和11年)にデッサンと随筆の月刊誌『雑記帳』を創刊しており、この雑誌は24号まで刊行された。このように竣介は画業のかたわら、多くの文章を書いている。中でも著名なものは、美術雑誌『みづゑ』1941年(昭和16年)4月号に書いた論文「生きてゐる画家」である。竣介のこの文章は、画家にも国威発揚、戦意高揚のための芸術制作が求められていた時代のなかで、「芸術の自立」を主張したものとして知られている。
<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.45-46</ref>、ここで絵画の制作を行うようになった。
この時、モデルの岩本政代と恋愛関係になったが、それが原因で仲間の間にわだかまりができ、共同アトリエは5ヶ月で解散した<ref name="shunsuke_49">宇佐美承著「求道の画家」p.49.</ref>。
この共同アトリエの時期に郷里で徴兵検査を受けたが、耳が聞こえないので兵役免除になった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.50.</ref>。
アトリエ解散後は兄の彬の新居で一緒に暮らすことになった<ref name="shunsuke_49"></ref>。


===二科入選・野田英夫・結婚===
1945年3月に家族を妻・禎子の出身地であり実家のある[[松江市|松江]]へと疎開させる。戦後、1948年(昭和23年)に持病の[[気管支喘息]]により病死。満36歳没。
[[File:MatsumotoShunsuke_Building_1935.png|250px|thumb|<center>「建物」(第22回二科展入選作)</br> [[神奈川県立近代美術館]]蔵</center>]]
父勝身はもとはキリスト教徒だった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.55.</ref>が、
[[日蓮宗]]に改宗し<ref name="shunsuke_56">宇佐美承著「求道の画家」pp.55-56.</ref>、その後さらに[[生長の家]]の信者になった<ref name="shunsuke_56"></ref>。
また、父が熱心に勧めた影響で兄の彬も生長の家の熱心な信者になった<ref name="shunsuke_56"></ref>。
創始者の[[谷口雅春]]が芸術雑誌「生命の藝術」(昭和8年創刊)を出すことを彬に話したため、その編集を任せようと竣介を誘った<ref name="shunsuke_57">宇佐美承著「求道の画家」p.57.</ref>。
[[1930年]]頃のことである。
しかし、当初竣介はこの話には乗り気ではなく、編集を承諾したのはそれから3年後だった<ref name="shunsuke_57"></ref>。
兄とともに編集を始め<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.58.</ref>、[[1936年]]まで続けた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.78.</ref>。
この仕事場で、後の妻松本禎子と知り合った<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.59.</ref>。
[[1933年]](昭和8年)には、共同アトリエ時代の仲間を介して靉光と知己を得た。
[[1935年]]、鶴岡政男らが作ったNOVA美術協会の展覧会に出品、すぐに同人に推薦された<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.83.</ref>。
同年秋、二科展に初入選した自分の絵(「建物」(1935年 油彩・板に紙 97.8×130.5cm 神奈川県立近代美術館蔵))を禎子に見せるため上野の美術館に行き、そこで
初めて[[野田英夫]]の作品(「帰路」と「夢」)に触れ、その後しばらく影響を受ける<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.63-65, 100.</ref>。
翌[[1936年]]の二科展に出品した「街」(油彩・板、131×163cm、大川美術館蔵)は野田の影響の濃い作品だった
<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.101.</ref>。
また、[[1937年]]1月に野田英夫が急逝した際、限定500部で発行された野田の作品集(入手できたのは200番の作品集だった<ref name="ikebukuro_398">宇佐美承著「池袋モンパルナス」 p.398.</ref>)を三円五十銭を
はたいて買っている<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.102.</ref><ref name="ikebukuro_398"></ref>。
[[File:MatsumotoShunsuke_Cityscape_1938.png|250px|thumb|left|<center>「街」</br> [[大川美術館]]蔵</center>]]
禎子との結婚話は、父の勝身を通して松本家の恒(禎子の母)に持ち込まれた<ref name="shunsuke_65">宇佐美承著「求道の画家」p.65.</ref>。
当初松本家はこの結婚に反対で、その雰囲気を察して勝身は、竣介を松本家の養子に出してもいいと申し出た<ref name="shunsuke_65"></ref>。
[[1936年]]2月3日、東京会館で生長の家の方式に則って結婚式が行われた<ref name="shunsuke_67">宇佐美承著「求道の画家」p.67.</ref>。
結婚当初は松本家に住んでいたが、間もなく別の借家に引越し、義母の恒、禎子の妹2人(泰子、栄子)と共に住んだ。
借家は[[島津製作所]]の社長夫人が建てたもので、130坪の土地にアトリエつき2階建ての瀟洒な洋館だった<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.67-68.</ref>。


「生命の藝術」の編集に携わっていた間、竣介は生長の家の信者だったが、宗教団体へ衣替えした頃から
墓所は松江市の真光寺にある。
嫌気が差し、教祖の谷口に手紙を書いて決別した<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.71.</ref>。
ほぼ同時期に、父の勝身、兄の彬、妻禎子や松本家の恒も脱会した<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.70, 72.</ref>。

===「雑記帳」===
「生命の藝術」の編集をやめ、[[1936年]]10月、雑誌「雑記帳」を自分で編集して創刊する<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.78.</ref>。資金は、彬の助力でまかなわれた。
初版5千部で始めたがほとんど売れず、初版3千部まで縮小させるも資金的に維持できなくなり、
「雑記帳」は[[1937年]]12月号、通巻14号で終了した<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.93.</ref>。
「雑記帳」には、無名の文人・画家ばかりでなく、現在でも著名な者も多数寄稿した。
文人では、[[亀井勝一郎]]、[[佐藤春夫]]、[[瀧口修造]]、[[萩原朔太郎]]、[[室生犀星]]、[[三好達治]]、[[保田與重郎]]ら、画家では、[[池袋モンパルナス]]のグループの他には、[[里見勝蔵]]、[[東郷青児]]、[[藤田嗣治]]、[[安井曾太郎]]らが寄稿したり、絵を寄せている<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.96.</ref><ref group="注釈">
雑記帳全巻の表紙と目次を、「生誕100年 松本竣介展」図録(NHKプラネット東京・NHKプロモーション、2012年)のp.264とpp.337-342にそれぞれ見ることができる。</ref>。
一方、1937年4月には第1子が誕生したが、早産だったため翌日に亡くなった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.86.</ref>。

[[image:Matsumoto Shunsuke01.JPG|thumb|left|200px|都会(1939年2月、油彩・板に貼られた紙、72.8×62.6cm、[[愛知県美術館]]蔵)]]
[[1939年]]初め、故郷の人などの好意で後援会ができ、絵を売るための画会ができた<ref name="shunsuke_106">宇佐美承著「求道の画家」p.106.</ref>。
東郷青児や[[北川民次]]が推薦文を書いてくれたが、絵はあまり売れなかった<ref name="shunsuke_106"></ref>。
代わりに、故郷の友人達が世話してくれた、グラフ雑誌のカットの仕事や、美容院・喫茶店・カフェーの壁画の仕事で
生計を立てた<ref name="shunsuke_106"></ref>。

[[1939年]]7月、長男の莞(かん)が生まれた<ref name="shunsuke_106"></ref>。
[[1940年]]夏、二科展で特待を受ける<ref name="shunsuke_111">宇佐美承著「求道の画家」p.111.</ref>。
同年10月、初の個展を開いた(銀座の日動画廊で3日間)<ref name="shunsuke_111"></ref>。
この個展には、「夕方」(1939年11月、油彩・板、53.2×72.9cm、個人蔵)、
「茶の風景」(1940年3月、油彩・キャンヴァス、50.0×73.0cm、岩手県立美術館蔵)、
「青の風景」(1940年、油彩・キャンヴァスボード、23.5×33.0cm、大川美術館蔵)、
「落合風景」、
「お濠端」(1940年7月、油彩・キャンヴァス、65.0×90.0cm、横須賀美術館蔵)、
「黒い花」など30点を出品した<ref name="cat_362">生誕100年 松本竣介展」図録、p.362.</ref>。

===「生きてゐる画家」===
おそらく[[1940年]]の年も押し詰まってから、[[麻生三郎]]が「みづゑ」1941年1月号を持って竣介のアトリエを訪ねた
<ref name="ikebukuro_551">宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.551.</ref><ref>宇佐美承著「求道の画家」p.126.</ref>。
この号では、巻頭十一ページに渡って、秋山邦雄少佐(陸軍省情報部)、[[鈴木庫三]]少佐(参謀本部情報部員)、
黒田千吉郎中尉(陸軍省情報部)、批評家荒城季夫による座談会「国防国家と美術」(司会は「みづゑ」の編集部員)
が掲載されていた<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.126-127.</ref>。
竣介は既にこの号を読んでいた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.127.</ref>が、麻生とアトリエにこもって長時間ひそひそ話を行った<ref name="ikebukuro_551"></ref>。
この時、麻生と何を話していたのかは、麻生も竣介も詳しく語っていないので詳細は不明である<ref name="ikebukuro_551"></ref>。
その後「みずゑ」の社長に対して、反論を書きたいとかけあい、400字詰め原稿20枚の約束で話がまとまった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.129.</ref>。
原稿は1ヶ月かけて書かれたあと「みずゑ」4月号に「生きてゐる画家」の題名で掲載された<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.129.</ref>。
タイトルは、[[石川達三]]の発禁小説「生きてゐる兵隊」を意識したものだと見られている<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.131.</ref>
<ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.553.</ref>。
この掲載後、竣介に尾行がつくようになった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.132.</ref>。
「生きてゐる画家」へは、黒田千吉郎からの再反論「時局と美術人の覚悟」が「みずゑ」6月号に掲載された
<ref name="satou_373">佐藤卓巳著「言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」中公新書、ISBN 978-4121017598, p.373.</ref>。
ただし、「生きてゐる画家」を意識した文章ではあるものの松本竣介を名指しで批判してはいない<ref name="satou_373"></ref>。

[[1941年]]5月、船越保武と故郷の盛岡のデパートで二人展を開く<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.113.</ref>。
同年、二科の会友に推される<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.115.</ref>。
この頃から、街を歩いて建物のスケッチをするようになる<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.115-116.</ref>。
また、藤田嗣治の技法を学ぼうとしていた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.119.</ref>。
[[1941年]]9月、二科内のグループ九室会の航空美術展に「航空兵群」という絵を出品した
<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.136.</ref><ref name="ikebukuro_555"></ref>
<ref group="注釈">宇佐美承著「求道の画家」p..では「航空兵団」となっているが、
「生誕100年 松本竣介展」図録、p.363によると、「航空兵団(試作)」というタイトルである。</ref>
<ref group="注釈">モノクロだが、宇佐美承著「求道の画家 松本竣介」p.137に「航空兵群」を見ることが出来る。
それよりも更に小さい画像ではあるが、「生誕100年 松本竣介展」図録(NHKプラネット東京・NHKプロモーション、2012年)p.363にも見ることが出来る。</ref>油彩で描いた戦争画は、これが唯一であるとみられる<ref name="cat_363"></ref>。

===新人画会===
[[1943年]]春、[[池袋モンパルナス]]のアトリエ長屋に住んでいた[[井上長三郎]]を訪ね、絵画グループ結成の相談をする<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.139-140.</ref>。井上の他、
靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明、麻生三郎らとともに「新人画会」を結成<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.142-145.</ref>、
4月、銀座7丁目の日本楽器の2階にあった小さな画廊を借りて第1回新人画会展を10日間開き<ref name="shunsuke_149"></ref>、竣介は「鉄橋付近」(1943年3月、油彩・カンヴァス、34.3×59.8cm、島根県立美術館蔵)「運河風景」
(1943年3月、油彩・カンヴァス、45.5×61.0cm、大川美術館寄託)など5点を出品した<ref>「生誕100年 松本竣介展」図録、p.368.</ref>。会の事務所は、竣介の自宅に置かれた<ref name="cat_362"></ref>。
当時は、展覧会と言えば戦争画というのが当たり前になっていた<ref name="ikebukuro_541">宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.541.</ref>が、この展覧会では風景画や人物画ばかりが出品された<ref name="ikebukuro_541"></ref>。
このことから、太平洋戦争後の一時期、新人画会は、日本でただ1つのレジスタンス画家集団と評されたことがあった
<ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.542.</ref>。
しかし、麻生・糸園・井上・寺田らの文章やインタビューによれば、実際にはそのような意図はなかった<ref>宇佐美承著「池袋モンパルナス」pp.542-546.</ref>。
10月、岩手の翼賛文化報国会が主催した戦意昂揚展に3点のポスターを出品した<ref name="ikebukuro_555"></ref><ref>宇佐美承著「求道の画家」p.151.</ref>。
11月には、第1回展と同様日本楽器の入っていた画廊で第2回新人画会点を6日間開いた<ref name="shunsuke_149">宇佐美承著「求道の画家」p.149.</ref>。
この時何を出品したかは記録が残っていないが、「並木道」が含まれていたではないかと言われている<ref name="shunsuke_149"></ref>。
[[1944年]](昭和19年)2月、東京都美術館で開かれた独立美術の展覧会を見に行く<ref name="shunsuke_149"></ref>。
同じ月に、兄が働いていた巣鴨の理研科学映画で動画を描く仕事を得た<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.155.</ref>。
9月、第3回新人画会展を資生堂画廊で3日間開く<ref name="shunsuke_149"></ref>。
3号の板に描かれた「りんご」が出品されたことはわかっているが、その他にもあったかどうかはわからない<ref name="shunsuke_149"></ref>。
この時から、名前を俊介から竣介へ改めるようになった<ref name="shunsuke_149"></ref>。
これは父勝身の勧めによるものである<ref name="shunsuke_149"></ref>。
一方、同9月、[[内閣情報局]]は[[美術報国会]]の主催または共催以外の展覧会を禁止する決定を下し、以後、
新人画会の展覧会は開けなくなった<ref name="shunsuke_152"></ref>。また、二科も解散した<ref name="shunsuke_152"></ref>。その後、新人画会は解散したが、それがいつのことなのか詳しいことはわからない。
唯一「全日本美術家に諮る」(次項参照)の中に、解散したことを記す記述が見られるのみである<ref name="cat_362"></ref>。

[[1945年]](昭和20年)3月、出産日を翌月に控えた妻の禎子と義母の恒、長男の莞を郷里の[[松江]]に[[疎開]]させた<ref name="shunsuke_152">宇佐美承著「求道の画家」p.152.</ref>が、
自身は東京に残った<ref name="shunsuke_152"></ref>。
4月10日には長女の洋子が誕生した<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.153.</ref>。

===「全日本美術家に諮る」===
[[1945年]]9月、郷里の友人が中学生のための通信教育の会社を設立したので、教材の制作や添削の仕事を始めた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.168.</ref>。
同年、船越保武と故郷の盛岡のデパートで二人展が開かれることになり、20点を仕上げて盛岡へ行く<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.166.</ref>。
知り合いが無理をして買ってくれたらしく、絵は存外に売れた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.167.</ref>。
10月になると、戦争画論争が激しかった中、朝日新聞に「芸術家の良心」という一文を投稿した<ref name="cat_363"></ref><ref>生誕100年 松本竣介展」図録、p.368.</ref>。
この文章は不採用になったが、この中で、戦争画というテーマ自体は時代を超えた普遍性を持っていることを説いていた
<ref name="cat_363"></ref>。

この頃、麻生三郎や船越保武と相談して美術家組合の構想を練っており<ref name="shunsuke_169">宇佐美承著「求道の画家」p.169.</ref>、二科の東郷青児や、行動美術の向井潤吉、美術文化協会の[[福沢一郎]]から会員になるよう誘いがあったが全て断った<ref name="shunsuke_169"></ref>。
翌[[1946年]]1月、「全日本美術家に諮る」と題して美術家組合の素案を印刷した冊子を、画家だけでなくその他の分野の知名人・知人へ送った<ref name="shunsuke_170">宇佐美承著「求道の画家」p.170.</ref>。また、共産党への入党の勧誘もあったが、それは断った<ref name="shunsuke_170"></ref>。

4月、息子の莞の入学式に間に合わせるためと家族の引き揚げの相談のために[[松江市|松江]]に出かけた<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.170-171.</ref>。東京に戻ってからは、同年の11月に決まっている3人展のための制作に打ち込んだ<ref name="shunsuke_171">宇佐美承著「求道の画家」p.171.</ref>。
この頃から肋骨の痛みや喘息がひどくなり始める<ref name="shunsuke_171"></ref>。

11月、銀座日動画廊で麻生三郎・舟越保武との3人展を開き、
20点の絵を出品する。この中には、4作目になる「Y市の橋」や「少年像」、
風景画「落陽」「市内の橋」「<math>O</math>工場地帯」が含まれていたが、最後の3作品は散逸した<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.172.</ref>。

[[File:MatsumotoShunsuke_photo_1947.png|right|thumb|200px|舟越保武・麻生三郎との三人展(1947年)にて。左から舟越、竣介、麻生]]
[[1947年]]正月には、家族を呼び戻した<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.174.</ref>。この頃には、雑誌の表紙やカットの依頼が入るようになっていた。その後、麻生・鶴岡・井上らとともに、自由美術家協会に加入した<ref>「生誕100年 松本竣介展」図録、p.369.</ref>。
6月に、第1回美術団体連合展(毎日新聞主催)、7月に自由美術の展覧会、10月に岐阜で、麻生三郎・船越保武との
三人展に出品した<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.175.</ref>。岐阜での三人展の最中に、長女の洋子が[[尿毒症]]で亡くなった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.176.</ref>。

===逝去===
[[1948年]](昭和23年)2月、自由美術の展覧会が終わってから、妻の禎子にパリ移住の意向を伝えた<ref name="shunsuke_177">宇佐美承著「求道の画家」p.177.</ref>。ほどなくして、次女の京子が誕生した<ref name="shunsuke_177"></ref>。
3月になって胸の苦しみを訴えたが、5月の第2回美術団体連合展の制作を優先させた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.178.</ref>。その後さらに体調は悪化し、制作した絵を自分で会場に搬入することは既にできなくなっており、代わって義妹らによって持ちこまれた<ref name="cat_224">生誕100年 松本竣介展」図録、p.224.</ref>。また、展覧会へ赴くことももはやできなかった<ref name="cat_224"></ref>。
5月24日、高熱が出たので、友人の澤田哲郎が慶応病院の医者を連れてきた<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.179.</ref>。診察の後、医師は妻の禎子を自宅まで連れて行き、[[結核]]であること、心臓が弱っていること、入院による長期療養が必要であることを告げた<ref>宇佐美承著「求道の画家」pp.179-180.</ref>。入院のための費用が工面できなかったため、しばらくは家で療養し薬で落ち着いていたが、6月7日の朝に容態が急変し、翌8日午前11時に亡くなった<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.181.</ref>。
[[File:MatsumotoShunsuke_Building_1948.png|250px|thumb|<center>「建物」(絶筆作の一つ)</br> [[東京国立近代美術館]]蔵</center>]]
享年三十六歳、戒名は浄心院釋竣亮居士<ref name="shunsuke_187">宇佐美承著「求道の画家」p.187.</ref>、
絶筆は「建物」(1948年5月、油彩・カンヴァス、60.5×73cm、東京国立近代美術館蔵)である<ref>宇佐美承著「求道の画家」p.185.</ref><ref group="注釈">宇佐美承の「求道の画家 松本竣介」の説明では、「建物(茶)」と書かれているが、東京国立近代美術館の説明文では該当作品のタイトルは「建物」である。また、1998年、2012年に開催した松本竣介展の図録でも「建物」として紹介されている。</ref>。墓所は松江市の真光寺にある<ref name="shunsuke_187"></ref>。

==作風==
竣介は、都会風景を好んで描いた画家として知られる。作品は、青系統の透明な色調のなかに無国籍的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた系列と、茶系統のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものの2つの系列があるが、戦時色が濃くなるにつれ、後者のくすんだ色調の風景が多くなる。その他、1947年から48年にかけての短い期間だが、赤褐色を基調とし、太い線による[[キュビズム]]的作品を描いた<ref>生誕100年 松本竣介展」図録、pp.216-227.</ref>が、
再び、以前のような線を持つ作品へ戻った<ref name="cat_224"></ref>。

竣介は、『無産階級の画家 ゲオルゲ・グロッス』(柳瀬正夢編著、1929年刊)という本を愛読し、社会派のドイツ人画家[[ジョージ・グロス|グロッス]]の影響を受けたことが知られている。竣介の作品にはグロッスの作品のようなあからさまな社会風刺や思想的なものはほとんど見られないが、線描のタッチからは影響を受けていると考えられる。


==代表作品==
==代表作品==
27行目: 240行目:
*鉄橋付近(1943年、[[島根県立美術館]])
*鉄橋付近(1943年、[[島根県立美術館]])
*[http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=79093#content_header 裸婦](1944年頃)(文化遺産オンライン)
*[http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=79093#content_header 裸婦](1944年頃)(文化遺産オンライン)

==注釈==
<references group="注釈" />

==出典==
{{Reflist}}

==関連項目==
*[[大川美術館]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Matsumoto Shunsuke}}
* [http://www.ima.or.jp/collection/matsumoto.html 松本竣介 - 岩手県立美術館]
* [http://www.ima.or.jp/collection/matsumoto.html 松本竣介 - 岩手県立美術館]
{{Normdaten}}

{{デフォルトソート:まつもと しゆんすけ}}
{{デフォルトソート:まつもと しゆんすけ}}
[[Category:日本の画家]]
[[Category:画家]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:岩手県出身の人物]]
[[Category:岩手県出身の人物]]

2015年1月30日 (金) 15:00時点における版

松本 竣介
1940年頃下落合の自宅兼アトリエにて撮影
本名 佐藤 俊介
誕生日 1912年4月19日
出生地 日本の旗 日本 東京府渋谷
死没年 (1948-06-08) 1948年6月8日(36歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都淀橋区下落合
国籍 日本の旗 日本
運動・動向 池袋モンパルナス
芸術分野 洋画
代表作 『街(1936年)』
『立てる像(1942年)』
『Y市の橋(1943年)』
会員選出組織 二科展
活動期間 - 1948年
影響を受けた
芸術家
モディリアニルオージョージ・グロス野田英夫
テンプレートを表示

松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日)は、日本洋画家太平洋戦争中の1941年(昭和16年)、軍部による美術への干渉に抗議して、雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた日本の画家である。

概要

1912年(明治45年)渋谷に生まれ、その後岩手県で育ったが17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。 一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた。以下の文中では煩雑を避けるためすべて「竣介」と記述する。

松本竣介はかつて、「みづゑ」昭和16年4月号において発表した文章「生きてゐる画家」 [1]と、戦後、画壇の民主化を提言した「全日本美術家に諮る」によって反戦抵抗の画家とみなされた時期があった[2][3]が、戦中の国是だった高度国防国家建設に反対でなかったことや戦意高揚のポスターを描いたことがわかっており [2][4]、 現在はそのような視点に立つ人は少なくなった[2]

生涯

幼少期

1912年(明治45年)4月19日[5]東京渋谷に生まれた[6][7]。 父勝身、母ハナの二男である[5]。2歳年長の兄彬がいた[5]1936年(昭和11年)に結婚する以前の旧姓は「佐藤」(松本禎子と結婚して松本姓となった)。 竣介は、父親の仕事の関係で、満2歳の時に岩手県花巻へ、10歳の時に盛岡へ移った[8][9]。 盛岡は父勝身の故郷である[9]。 家が豊かだったので岩手師範付属小学校に通い[10] [9]1925年(大正14年)1番の成績で卒業[11]、 岩手県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に1番の成績で入学した[11][9]。入学式の前日に頭痛を訴えたが、無理に入学式に出席、 その翌日の朝、脳脊髄膜炎と診断された[12]。 この病気が原因で聴力を失った[13]。 初秋に退院、10月から登校した[14]。 父の勝身は竣介を陸軍士官学校に入れたいと思っていたが、竣介自身は技師になりたいと考えていた [15]。 耳が聞こえなくなったことで軍人への道が断たれたため、勝身は竣介の希望通り技師の道へ進ませることを考え、 竣介にカメラ、現像・焼きつけの器具を買い与えた[9] [15]。 しばらくは熱中していたが、やがてカメラに対する興味を失った[15]。 竣介が2年の時に、兄彬が卒業後上京し府立一中の補習科へ通いだした[15] (彬の上京は東京外国語大学進学のためであった)。 その時に、油絵の道具一式を求めて郷里の弟へ送った[16]。 これがきっかけで絵を描くようになった。中学2年の夏頃からスケッチに熱中するようになり、 3年の時には学校に絵画倶楽部を作った[17]。 次第に絵の道を志すようになった[18]

太平洋画会研究所

1929年(昭和4年)3月20日[19]、 盛岡中学を3年で中途退学し、東京へ出た[20]。 小学校の恩師佐藤瑞彦が、当時は池袋にあった自由学園に勤めていたため、その尽力で 佐藤の隣家に家を借りて生活するようになった[21]。 そこから太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)へ通い始めた[22][23]。 当時、この研究所では授業料の未払いをめぐって画学生と経営者側で対立が続いており、 1930年(昭和5年)晩秋に研究所から学校へ衣替えして、太平洋美術学校として再スタート、竣介は引き続きこの学校に通った[24][25]。 この研究所には靉光井上長三郎鶴岡政男も通っていたが(美術学校に衣替えしてからは通わなくなった)、当時は互いの面識はなかった[26]。 太平洋美術学校では鶴田吾郎の指導を受けたが、今ひとつ惹かれるものがなかったようである[27]。 10月におきた世界恐慌のあおりで、勝身が経営する銀行が破産の危機にみまわれた[27]

美術学校に通っている間は、しばしば近くの茶房「りゝおむ」に集まって仲間と議論した[28]。当時、竣介はフルポンのあだなで呼ばれていた[29]。 当時の竣介は、モディリアニの生き方に傾倒していた[30]。「赤荳(あかまめ)」という名のグループを作って活動していたが、この名は、モディリアニをモデルにして書かれたジョルジュ=ミッシェル作の伝記小説「レ・モンパルノ(Les Montparnos)」((第三書院、1932年)[31])[32]の中に出てくる少女アリコ・ルージュを日本語に訳したものである[30]。 仲間の中にはマルクス主義者も混じっていて、階級的芸術論を説いてオルグしていたので、 その理論を勉強するために「太平洋近代藝術研究会」と名付けた会を作って「線」という雑誌(第1号は昭和6年9月刊)を出した[33][34]。 竣介はマルクス主義的芸術論には共感できず「線」は2号で終刊した[35]

1932年になると、この頃池袋に林立しつつあったアトリエを仲間と共同で一軒借り [36]、ここで絵画の制作を行うようになった。 この時、モデルの岩本政代と恋愛関係になったが、それが原因で仲間の間にわだかまりができ、共同アトリエは5ヶ月で解散した[37]。 この共同アトリエの時期に郷里で徴兵検査を受けたが、耳が聞こえないので兵役免除になった[38]。 アトリエ解散後は兄の彬の新居で一緒に暮らすことになった[37]

二科入選・野田英夫・結婚

「建物」(第22回二科展入選作)
神奈川県立近代美術館

父勝身はもとはキリスト教徒だった[39]が、 日蓮宗に改宗し[40]、その後さらに生長の家の信者になった[40]。 また、父が熱心に勧めた影響で兄の彬も生長の家の熱心な信者になった[40]。 創始者の谷口雅春が芸術雑誌「生命の藝術」(昭和8年創刊)を出すことを彬に話したため、その編集を任せようと竣介を誘った[41]1930年頃のことである。 しかし、当初竣介はこの話には乗り気ではなく、編集を承諾したのはそれから3年後だった[41]。 兄とともに編集を始め[42]1936年まで続けた[43]。 この仕事場で、後の妻松本禎子と知り合った[44]1933年(昭和8年)には、共同アトリエ時代の仲間を介して靉光と知己を得た。 1935年、鶴岡政男らが作ったNOVA美術協会の展覧会に出品、すぐに同人に推薦された[45]。 同年秋、二科展に初入選した自分の絵(「建物」(1935年 油彩・板に紙 97.8×130.5cm 神奈川県立近代美術館蔵))を禎子に見せるため上野の美術館に行き、そこで 初めて野田英夫の作品(「帰路」と「夢」)に触れ、その後しばらく影響を受ける[46]。 翌1936年の二科展に出品した「街」(油彩・板、131×163cm、大川美術館蔵)は野田の影響の濃い作品だった [47]。 また、1937年1月に野田英夫が急逝した際、限定500部で発行された野田の作品集(入手できたのは200番の作品集だった[48])を三円五十銭を はたいて買っている[49][48]

「街」
大川美術館

禎子との結婚話は、父の勝身を通して松本家の恒(禎子の母)に持ち込まれた[50]。 当初松本家はこの結婚に反対で、その雰囲気を察して勝身は、竣介を松本家の養子に出してもいいと申し出た[50]1936年2月3日、東京会館で生長の家の方式に則って結婚式が行われた[51]。 結婚当初は松本家に住んでいたが、間もなく別の借家に引越し、義母の恒、禎子の妹2人(泰子、栄子)と共に住んだ。 借家は島津製作所の社長夫人が建てたもので、130坪の土地にアトリエつき2階建ての瀟洒な洋館だった[52]

「生命の藝術」の編集に携わっていた間、竣介は生長の家の信者だったが、宗教団体へ衣替えした頃から 嫌気が差し、教祖の谷口に手紙を書いて決別した[53]。 ほぼ同時期に、父の勝身、兄の彬、妻禎子や松本家の恒も脱会した[54]

「雑記帳」

「生命の藝術」の編集をやめ、1936年10月、雑誌「雑記帳」を自分で編集して創刊する[55]。資金は、彬の助力でまかなわれた。 初版5千部で始めたがほとんど売れず、初版3千部まで縮小させるも資金的に維持できなくなり、 「雑記帳」は1937年12月号、通巻14号で終了した[56]。 「雑記帳」には、無名の文人・画家ばかりでなく、現在でも著名な者も多数寄稿した。 文人では、亀井勝一郎佐藤春夫瀧口修造萩原朔太郎室生犀星三好達治保田與重郎ら、画家では、池袋モンパルナスのグループの他には、里見勝蔵東郷青児藤田嗣治安井曾太郎らが寄稿したり、絵を寄せている[57][注釈 1]。 一方、1937年4月には第1子が誕生したが、早産だったため翌日に亡くなった[58]

都会(1939年2月、油彩・板に貼られた紙、72.8×62.6cm、愛知県美術館蔵)

1939年初め、故郷の人などの好意で後援会ができ、絵を売るための画会ができた[59]。 東郷青児や北川民次が推薦文を書いてくれたが、絵はあまり売れなかった[59]。 代わりに、故郷の友人達が世話してくれた、グラフ雑誌のカットの仕事や、美容院・喫茶店・カフェーの壁画の仕事で 生計を立てた[59]

1939年7月、長男の莞(かん)が生まれた[59]1940年夏、二科展で特待を受ける[60]。 同年10月、初の個展を開いた(銀座の日動画廊で3日間)[60]。 この個展には、「夕方」(1939年11月、油彩・板、53.2×72.9cm、個人蔵)、 「茶の風景」(1940年3月、油彩・キャンヴァス、50.0×73.0cm、岩手県立美術館蔵)、 「青の風景」(1940年、油彩・キャンヴァスボード、23.5×33.0cm、大川美術館蔵)、 「落合風景」、 「お濠端」(1940年7月、油彩・キャンヴァス、65.0×90.0cm、横須賀美術館蔵)、 「黒い花」など30点を出品した[61]

「生きてゐる画家」

おそらく1940年の年も押し詰まってから、麻生三郎が「みづゑ」1941年1月号を持って竣介のアトリエを訪ねた [62][63]。 この号では、巻頭十一ページに渡って、秋山邦雄少佐(陸軍省情報部)、鈴木庫三少佐(参謀本部情報部員)、 黒田千吉郎中尉(陸軍省情報部)、批評家荒城季夫による座談会「国防国家と美術」(司会は「みづゑ」の編集部員) が掲載されていた[64]。 竣介は既にこの号を読んでいた[65]が、麻生とアトリエにこもって長時間ひそひそ話を行った[62]。 この時、麻生と何を話していたのかは、麻生も竣介も詳しく語っていないので詳細は不明である[62]。 その後「みずゑ」の社長に対して、反論を書きたいとかけあい、400字詰め原稿20枚の約束で話がまとまった[66]。 原稿は1ヶ月かけて書かれたあと「みずゑ」4月号に「生きてゐる画家」の題名で掲載された[67]。 タイトルは、石川達三の発禁小説「生きてゐる兵隊」を意識したものだと見られている[68] [69]。 この掲載後、竣介に尾行がつくようになった[70]。 「生きてゐる画家」へは、黒田千吉郎からの再反論「時局と美術人の覚悟」が「みずゑ」6月号に掲載された [71]。 ただし、「生きてゐる画家」を意識した文章ではあるものの松本竣介を名指しで批判してはいない[71]

1941年5月、船越保武と故郷の盛岡のデパートで二人展を開く[72]。 同年、二科の会友に推される[73]。 この頃から、街を歩いて建物のスケッチをするようになる[74]。 また、藤田嗣治の技法を学ぼうとしていた[75]1941年9月、二科内のグループ九室会の航空美術展に「航空兵群」という絵を出品した [76][4] [注釈 2] [注釈 3]油彩で描いた戦争画は、これが唯一であるとみられる[31]

新人画会

1943年春、池袋モンパルナスのアトリエ長屋に住んでいた井上長三郎を訪ね、絵画グループ結成の相談をする[77]。井上の他、 靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明、麻生三郎らとともに「新人画会」を結成[78]、 4月、銀座7丁目の日本楽器の2階にあった小さな画廊を借りて第1回新人画会展を10日間開き[79]、竣介は「鉄橋付近」(1943年3月、油彩・カンヴァス、34.3×59.8cm、島根県立美術館蔵)「運河風景」 (1943年3月、油彩・カンヴァス、45.5×61.0cm、大川美術館寄託)など5点を出品した[80]。会の事務所は、竣介の自宅に置かれた[61]。 当時は、展覧会と言えば戦争画というのが当たり前になっていた[81]が、この展覧会では風景画や人物画ばかりが出品された[81]。 このことから、太平洋戦争後の一時期、新人画会は、日本でただ1つのレジスタンス画家集団と評されたことがあった [82]。 しかし、麻生・糸園・井上・寺田らの文章やインタビューによれば、実際にはそのような意図はなかった[83]。 10月、岩手の翼賛文化報国会が主催した戦意昂揚展に3点のポスターを出品した[4][84]。 11月には、第1回展と同様日本楽器の入っていた画廊で第2回新人画会点を6日間開いた[79]。 この時何を出品したかは記録が残っていないが、「並木道」が含まれていたではないかと言われている[79]1944年(昭和19年)2月、東京都美術館で開かれた独立美術の展覧会を見に行く[79]。 同じ月に、兄が働いていた巣鴨の理研科学映画で動画を描く仕事を得た[85]。 9月、第3回新人画会展を資生堂画廊で3日間開く[79]。 3号の板に描かれた「りんご」が出品されたことはわかっているが、その他にもあったかどうかはわからない[79]。 この時から、名前を俊介から竣介へ改めるようになった[79]。 これは父勝身の勧めによるものである[79]。 一方、同9月、内閣情報局美術報国会の主催または共催以外の展覧会を禁止する決定を下し、以後、 新人画会の展覧会は開けなくなった[86]。また、二科も解散した[86]。その後、新人画会は解散したが、それがいつのことなのか詳しいことはわからない。 唯一「全日本美術家に諮る」(次項参照)の中に、解散したことを記す記述が見られるのみである[61]

1945年(昭和20年)3月、出産日を翌月に控えた妻の禎子と義母の恒、長男の莞を郷里の松江疎開させた[86]が、 自身は東京に残った[86]。 4月10日には長女の洋子が誕生した[87]

「全日本美術家に諮る」

1945年9月、郷里の友人が中学生のための通信教育の会社を設立したので、教材の制作や添削の仕事を始めた[88]。 同年、船越保武と故郷の盛岡のデパートで二人展が開かれることになり、20点を仕上げて盛岡へ行く[89]。 知り合いが無理をして買ってくれたらしく、絵は存外に売れた[90]。 10月になると、戦争画論争が激しかった中、朝日新聞に「芸術家の良心」という一文を投稿した[31][91]。 この文章は不採用になったが、この中で、戦争画というテーマ自体は時代を超えた普遍性を持っていることを説いていた [31]

この頃、麻生三郎や船越保武と相談して美術家組合の構想を練っており[92]、二科の東郷青児や、行動美術の向井潤吉、美術文化協会の福沢一郎から会員になるよう誘いがあったが全て断った[92]。 翌1946年1月、「全日本美術家に諮る」と題して美術家組合の素案を印刷した冊子を、画家だけでなくその他の分野の知名人・知人へ送った[93]。また、共産党への入党の勧誘もあったが、それは断った[93]

4月、息子の莞の入学式に間に合わせるためと家族の引き揚げの相談のために松江に出かけた[94]。東京に戻ってからは、同年の11月に決まっている3人展のための制作に打ち込んだ[95]。 この頃から肋骨の痛みや喘息がひどくなり始める[95]

11月、銀座日動画廊で麻生三郎・舟越保武との3人展を開き、 20点の絵を出品する。この中には、4作目になる「Y市の橋」や「少年像」、 風景画「落陽」「市内の橋」「工場地帯」が含まれていたが、最後の3作品は散逸した[96]

舟越保武・麻生三郎との三人展(1947年)にて。左から舟越、竣介、麻生

1947年正月には、家族を呼び戻した[97]。この頃には、雑誌の表紙やカットの依頼が入るようになっていた。その後、麻生・鶴岡・井上らとともに、自由美術家協会に加入した[98]。 6月に、第1回美術団体連合展(毎日新聞主催)、7月に自由美術の展覧会、10月に岐阜で、麻生三郎・船越保武との 三人展に出品した[99]。岐阜での三人展の最中に、長女の洋子が尿毒症で亡くなった[100]

逝去

1948年(昭和23年)2月、自由美術の展覧会が終わってから、妻の禎子にパリ移住の意向を伝えた[101]。ほどなくして、次女の京子が誕生した[101]。 3月になって胸の苦しみを訴えたが、5月の第2回美術団体連合展の制作を優先させた[102]。その後さらに体調は悪化し、制作した絵を自分で会場に搬入することは既にできなくなっており、代わって義妹らによって持ちこまれた[103]。また、展覧会へ赴くことももはやできなかった[103]。 5月24日、高熱が出たので、友人の澤田哲郎が慶応病院の医者を連れてきた[104]。診察の後、医師は妻の禎子を自宅まで連れて行き、結核であること、心臓が弱っていること、入院による長期療養が必要であることを告げた[105]。入院のための費用が工面できなかったため、しばらくは家で療養し薬で落ち着いていたが、6月7日の朝に容態が急変し、翌8日午前11時に亡くなった[106]

「建物」(絶筆作の一つ)
東京国立近代美術館

享年三十六歳、戒名は浄心院釋竣亮居士[107]、 絶筆は「建物」(1948年5月、油彩・カンヴァス、60.5×73cm、東京国立近代美術館蔵)である[108][注釈 4]。墓所は松江市の真光寺にある[107]

作風

竣介は、都会風景を好んで描いた画家として知られる。作品は、青系統の透明な色調のなかに無国籍的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた系列と、茶系統のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものの2つの系列があるが、戦時色が濃くなるにつれ、後者のくすんだ色調の風景が多くなる。その他、1947年から48年にかけての短い期間だが、赤褐色を基調とし、太い線によるキュビズム的作品を描いた[109]が、 再び、以前のような線を持つ作品へ戻った[103]

竣介は、『無産階級の画家 ゲオルゲ・グロッス』(柳瀬正夢編著、1929年刊)という本を愛読し、社会派のドイツ人画家グロッスの影響を受けたことが知られている。竣介の作品にはグロッスの作品のようなあからさまな社会風刺や思想的なものはほとんど見られないが、線描のタッチからは影響を受けていると考えられる。

代表作品

注釈

  1. ^ 雑記帳全巻の表紙と目次を、「生誕100年 松本竣介展」図録(NHKプラネット東京・NHKプロモーション、2012年)のp.264とpp.337-342にそれぞれ見ることができる。
  2. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p..では「航空兵団」となっているが、 「生誕100年 松本竣介展」図録、p.363によると、「航空兵団(試作)」というタイトルである。
  3. ^ モノクロだが、宇佐美承著「求道の画家 松本竣介」p.137に「航空兵群」を見ることが出来る。 それよりも更に小さい画像ではあるが、「生誕100年 松本竣介展」図録(NHKプラネット東京・NHKプロモーション、2012年)p.363にも見ることが出来る。
  4. ^ 宇佐美承の「求道の画家 松本竣介」の説明では、「建物(茶)」と書かれているが、東京国立近代美術館の説明文では該当作品のタイトルは「建物」である。また、1998年、2012年に開催した松本竣介展の図録でも「建物」として紹介されている。

出典

  1. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス:大正デモクラシーの画家たち」集英社文庫, 1995年, ISBN 978-4-08-748273-7, pp.551-555.
  2. ^ a b c 宇佐美承著「求道の画家 松本竣介 ひたむきの三十六年」, 中公新書, 1992年, ISBN 978-4121011084, p.3.
  3. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.551.
  4. ^ a b c 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.555.
  5. ^ a b c 宇佐美承著「求道の画家」p.7.
  6. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.8.
  7. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.125.
  8. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.10, 14.
  9. ^ a b c d e 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.126.
  10. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.17.
  11. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.18.
  12. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.19.
  13. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.20.
  14. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.21.
  15. ^ a b c d 宇佐美承著「求道の画家」p.22.
  16. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.23.
  17. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.26-27.
  18. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.27.
  19. ^ 「没後50年 松本竣介展」図録、共同通信社、1998年、東京、p.198.
  20. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.28.
  21. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.30-31.
  22. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.31.
  23. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」pp.126-127.
  24. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.33.
  25. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.127.
  26. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.33.
  27. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.36.
  28. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」pp.127-130.
  29. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.127.
  30. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.44.
  31. ^ a b c d 「生誕100年 松本竣介展」図録、NHKプラネット東京・NHKプロモーション、2012年、東京、p.363.
  32. ^ 宇佐美承著池袋モンパルナス」p.131.
  33. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.130.
  34. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.39-40.
  35. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.42.
  36. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.45-46
  37. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.49.
  38. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.50.
  39. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.55.
  40. ^ a b c 宇佐美承著「求道の画家」pp.55-56.
  41. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.57.
  42. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.58.
  43. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.78.
  44. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.59.
  45. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.83.
  46. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.63-65, 100.
  47. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.101.
  48. ^ a b 宇佐美承著「池袋モンパルナス」 p.398.
  49. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.102.
  50. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.65.
  51. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.67.
  52. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.67-68.
  53. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.71.
  54. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.70, 72.
  55. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.78.
  56. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.93.
  57. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.96.
  58. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.86.
  59. ^ a b c d 宇佐美承著「求道の画家」p.106.
  60. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.111.
  61. ^ a b c 生誕100年 松本竣介展」図録、p.362.
  62. ^ a b c 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.551.
  63. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.126.
  64. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.126-127.
  65. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.127.
  66. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.129.
  67. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.129.
  68. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.131.
  69. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.553.
  70. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.132.
  71. ^ a b 佐藤卓巳著「言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」中公新書、ISBN 978-4121017598, p.373.
  72. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.113.
  73. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.115.
  74. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.115-116.
  75. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.119.
  76. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.136.
  77. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.139-140.
  78. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.142-145.
  79. ^ a b c d e f g h 宇佐美承著「求道の画家」p.149.
  80. ^ 「生誕100年 松本竣介展」図録、p.368.
  81. ^ a b 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.541.
  82. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」p.542.
  83. ^ 宇佐美承著「池袋モンパルナス」pp.542-546.
  84. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.151.
  85. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.155.
  86. ^ a b c d 宇佐美承著「求道の画家」p.152.
  87. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.153.
  88. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.168.
  89. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.166.
  90. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.167.
  91. ^ 生誕100年 松本竣介展」図録、p.368.
  92. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.169.
  93. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.170.
  94. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.170-171.
  95. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.171.
  96. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.172.
  97. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.174.
  98. ^ 「生誕100年 松本竣介展」図録、p.369.
  99. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.175.
  100. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.176.
  101. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.177.
  102. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.178.
  103. ^ a b c 生誕100年 松本竣介展」図録、p.224.
  104. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.179.
  105. ^ 宇佐美承著「求道の画家」pp.179-180.
  106. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.181.
  107. ^ a b 宇佐美承著「求道の画家」p.187.
  108. ^ 宇佐美承著「求道の画家」p.185.
  109. ^ 生誕100年 松本竣介展」図録、pp.216-227.

関連項目

外部リンク