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「富岡製糸場」の版間の差分

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{{建築物
[[File:富岡製糸場・繰糸場.jpg|thumb|270px|<div style="text-align:center;">富岡製糸場・[[#指定文化財|繰糸所]]内部</div>]]
|名称 = 富岡製糸場
[[File:Tomioka Silk Mill 02.jpg|thumb|190px|<div style="text-align:center;">事務棟内部</div>]]
|旧名称 =
'''富岡製糸場'''(とみおかせいしじょう、''Tomioka Silk Mill'' )は、[[群馬県]][[富岡市]]にあった日本初の機械製糸工場である。敷地および主要な建造物は[[2011年]]時点で現存している。
|画像 = [[ファイル:Tomioka_Silk_Mill_East_Cocoon_Warehouse05.jpg|275px]]
|画像説明 = 東置繭所
|用途 = 見学施設
|旧用途 = 製糸工場
|設計者 = [[エドモン・オーギュスト・バスチャン]](主要部分)
|構造設計者 =
|施工 =
|建築主 =
|事業主体 =
|管理運営 = 富岡市
|構造形式 =
|敷地面積 = 55,391.42 [[平方メートル]]
|着工 = 1871年(明治4年)3月
|竣工 = 1872年(明治5年)7月(主要部分)
|開館開所 = [[明治]]5年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]([[1872年]][[11月4日]])
|所在地郵便番号 = 370-2316
|所在地 = 群馬県富岡市富岡1番地1
|緯度度 = 36 |緯度分 = 15 |緯度秒 = 19
|経度度 = 138 |経度分 = 53 |経度秒 = 16
|文化財指定 = [[史跡]] / [[重要文化財]]
|指定日 = 2005年7月14日 / 2006年7月5日
|備考 = [[近代化産業遺産]]<br />[[世界遺産#暫定リスト|世界遺産暫定リスト]]記載物件
}}
'''富岡製糸場'''(とみおかせいしじょう、''Tomioka Silk Mill'')は、[[群馬県]][[富岡市|富岡]]に設立された日本初の本格的な器械製糸<ref group = "注釈">当初導入された製糸器械は、人手に依存する部分も多いので、「機械」ではなく「器械」の語があてられる({{Harvnb|長谷川|1999|p=95}}、{{Harvnb|宮崎|2001|p=216}})。ただし、「器械」と「機械」の使い分けは分野ごとの慣例に基づくものにすぎないとして、当初のマシンを「機械」として問題ないとする認識を示す者もいる({{Harvnb|玉川|2002|p=80}})。</ref>の工場である。[[1872年]]([[明治]]5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地全体が国指定の[[史跡]]、初期の建造物群が[[重要文化財]]に指定されている。また、「[[富岡製糸場と絹産業遺産群]]」の構成資産として[[世界遺産#暫定リスト|世界遺産の暫定リスト]]に記載されており、2014年6月の第38回[[世界遺産委員会]]([[ドーハ]])で正式登録される見通しである<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140426/k10014047271000.html 富岡製糸場 世界遺産に登録の見通し] [[NHK]]NEWS WEB 4月26日03:17配信 同日03:23閲覧</ref><ref>「富岡 初の近代化遺産」『[[読売新聞]]』2014年4月27日朝刊1面</ref><!--この部分の出典は正式登録時点で消すことになりますが、正式登録以前にNHKのリンク切れが起こる可能性に備え、1件だけ新聞記事を挙げておきます-->。

時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「'''富岡製糸所'''」(1876年から)、「'''原富岡製糸所'''」(1902年から)、「'''株式会社富岡製糸所'''」(1938年から)、「'''片倉富岡製糸所'''」(1939年から)、「'''片倉工業株式会社富岡工場'''」(1946年から<ref group = "注釈">富岡工場への改名を1961年(昭和36年)としている文献もある({{Harvnb|岡野|2013|p=25}}、{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=230}})。また、戦前に片倉工業が改名されたのを機に片倉工業株式会社富岡工場となっていたとする文献もある({{Harvnb|今井|2007|p=136}})</ref>)とたびたび名称を変更している<ref name = bunken_p14>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=14}}</ref>。史跡、重要文化財としての名称は「'''旧富岡製糸場'''」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は単なる「富岡製糸場」である。

== 概要 ==
日本は[[江戸時代]]末期に開国した際、[[生糸]]が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。

富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された[[官営模範工場]]であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。

1893年に[[三井家]]に払い下げられ、1902年に[[原合名会社]]、1939年に片倉製糸紡績会社(現[[片倉工業]])と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、[[第二次世界大戦]]中も含め、一貫して製糸工場として機能し続けた。

空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所をはじめとする開業当初の木骨レンガ造りの建造物群が良好に残っている。2005年に敷地全体が国指定の[[史跡]]、2006年に初期の主要建造物が[[重要文化財]]の指定を受け、2007年には他の[[蚕業]]文化財とともに「[[富岡製糸場と絹産業遺産群]]」として[[世界遺産#暫定リスト|世界遺産の暫定リスト]]に記載された。2014年6月に[[世界遺産]]登録の可否が審議される。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 建設決定まで ===
{{Seealso|{{仮リンク|リヨンの絹の歴史|fr|Histoire de la soie à Lyon}}}}
開国直後の日本では、[[生糸]]、[[蚕種]]、[[茶]]などの輸出が急速に伸びた。ことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地である[[フランス]]、[[イタリア]]で{{仮リンク|微粒子病|fr|Pébrine}}<ref group = "注釈">微粒子病は、フランス語名ペブリヌ (Pébrine) の語源が「[[コショウ]]」である通り(『ロベール仏和大辞典』[[小学館]])、蚕に小さな黒い斑点ができ、衰弱死する病気である({{Harvnb|今井|2006|p=7}})。[[ルイ・パストゥール]]が究明するまでは、原因不明の奇病であった。</ref>という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=10, 12}}</ref>、[[太平天国の乱]]によって[[清]]の生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった<ref name = ishii_p95>{{Harvnb|石井|1991|p=95}}</ref>。その結果、1862年([[文久]]2年)には日本からの輸出品の86[[パーセント|%]]を生糸と蚕種が占めるまでになったが<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=9}}</ref>、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった<ref name = Miwa_p61>{{Harvnb|三和|2002|p=61}}</ref><ref name = Tomiden_p12>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=12-13}}</ref>。また、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じた<ref name = ishii_p95 />。

[[明治維新#中央政府|明治政府]]には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されており、[[エシュト・リリアンタール商会]]<ref group = "注釈">エシュト・リリアンタール商会は、[[パリ]]のセリグマン・エシュト (Seligmann Hecht) と[[リヨン]]のシジスモン・リリアンタール (Sigismond Lilienthal) という2人の貿易商人によって、1859年に創業されたリヨンの貿易会社であり、リヨンの商社では最初に[[横浜]]に進出した({{Harvnb|結城|2012|p=8}})。「ヘクト・リリアンタール商会」ほか、複数の表記がある({{Harvnb|結城|2012|p=1}})。</ref>からは資金提供の申し出まであった。これが直接的な引き金となって器械製糸工場建設が実現に向かうが<ref>{{Harvnb|石井|1991|p=127}}</ref>、政府内では外国資本を入れず、むしろ[[国策]]として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年([[明治]]3年)2月に器械製糸の[[官営模範工場]]建設が決定した<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=22-23}}</ref><ref name = bunken_p9>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=9}}</ref>。これは粗製濫造問題への対応というよりも、従来の座繰りによる製糸では太さが揃わなかったために、経糸(たていと)よりも安価で取引される緯糸(よこいと)として使われることが多かった実態を踏まえ、その改良を志向した側面があったとも言われている<ref>{{Harvnb|石井|1972|pp=41-42}}</ref>。

同時に政府は器械製糸技術の導入を奨励しており<ref name = Miwa_p61 />、[[前橋藩]]では[[速水堅曹]]らが同じ年に藩営前橋製糸所を設立した。これは日本初の器械製糸工場と見なされているが<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=140}}</ref>、イタリアで製糸業に従事した経験を持つスイス人ミュラーを雇い入れ、イタリア式の製糸器械を導入したものであり、当初は6人繰り、次いで12人繰りという小規模なものにとどまった<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=77}}</ref><ref>{{Harvnb|宮崎|2001|p=224}}</ref>。

[[伊藤博文]]と[[渋沢栄一]]は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳[[アルベール・シャルル・デュ・ブスケ]]およびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー (F. Geisenheimer) に、いわゆる[[お雇い外国人]]として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していた[[ポール・ブリューナ]] (Paul Brunat) の名が挙がった<ref>{{Harvnb|結城|2012|pp=4-5}}</ref>。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=26}}</ref>。

[[ファイル:Odaka atsutada.jpg|thumb|尾高惇忠]]
ブリューナは仮契約後すぐに[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]らを伴って、[[長野県]]、[[群馬県]]、[[埼玉県]]などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、明治3年閏10月7日に[[民部省|民部大輔]]らと正式な雇用契約を取り交わすと<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=44}}</ref>、同月17日には富岡を建設地とすることを最終決定している<ref name = Tomiden_p14>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=14}}</ref>。この決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=44-45}}</ref>、水や[[石炭]]などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、[[元和]]年間に富岡を拓いた[[代官]]中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられること<ref name = bunken_p9 />など、様々な用件が考慮された結果であった。

=== 建設 ===
[[ファイル:Tomioka_Silk_Mill.JPG|thumb|250px|明治期の富岡製糸場外観]]
ブリューナは製糸場の設計のために、[[横須賀造船所|横須賀製鉄所]]のお雇い外国人だった[[エドモン・オーギュスト・バスチャン]]に依頼し、設計図を作成させた<ref name = Tomiden_p126>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=126}}</ref>。バスチャンは明治3年11月初旬に依頼を受けると、同年12月26日(1871年2月15日<ref name = imai_p52>{{Harvnb|今井|2006|p=52}}</ref>)に完成させた<ref name = Tomiden_p126 />。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造りの横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている<ref name = Tomiden_p126 /><ref>{{Harvnb|今井|2006|p=50}}</ref><ref group = "注釈">現存する建物でバスチャンが確実に設計したのは、繰糸所、東置繭所、西置繭所、蒸気釜所の4棟のみとされる({{Harvnb|今井|2006|p=51}})。</ref>。

ブリューナは設計図の完成を踏まえ、翌月22日(1871年3月12日<ref name = imai_p52 />)に器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した<ref name = imai_p52 />。ブリューナは建設予定地調査の折に、地元工女に在来の手法で糸を繰らせて日本的な特徴を把握しており<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=37-38}}</ref>、それを踏まえて製糸場用の器械は特別注文した<ref name = bunken_p10>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=10}}</ref>。目的を達したブリューナはその年の内、すなわち明治4年11月8日(1871年12月19日)に妻らとともに再来日を果たすことになる。

他方で、ブリューナが日本を発ったのと同じ月には、[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871年(明治4年)3月には着工にこぎつけていた<ref name = bunken_p9 />。建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、明戸村(現[[埼玉県]][[深谷市]])からも瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現[[甘楽町]]福島)に設置した窯で焼き上げた<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=55}}</ref>。この時期、[[民部省]]庶務司から[[大蔵省]]勧業司へと所管が変わった(明治4年7月24日)<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=17}}</ref>。

建設を進めることと並行し、[[明治]]5年(1872年)2月12日に政府から工女<ref group = "注釈">女性の繰糸工のことは「工女」のほか、「女工」などの呼び方もあるが、富岡製糸場では当初から「工女」の呼称が用いられていたため({{Harvnb|岡野|2012|p=54}})、この記事でも「工女」で統一する(フランス人教婦の宿舎として建設された『女工館』はこの限りではない)。</ref>募集の布達が出された<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=60}}</ref>。しかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、思うように集まらず、政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出した<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=60-61}}</ref><ref name = bunken_p10 />。このような状況の中で尾高は、噂を払拭する狙いで娘の勇(ゆう)を最初の工女として入場させた<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=61}}</ref><ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=134}}</ref><ref group = "注釈">勇は[[安政]]5年(1858年)ころの生まれで({{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=134}})、当時13歳({{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=10}})ないし14歳({{Harvnb|今井|2006|p=61}})とされる。1875年に富岡を退職した({{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=134-135}})。</ref>。富岡製糸場は、1872年7月に主要部分の建設工事が終わるのに合わせて開業される予定だったが、予定よりも遅れた<ref name = bunken_p10 />。その理由の一つには、この工女不足の問題があったと推測されている<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=62}}</ref>。

=== 官営時代 ===
富岡製糸場は、[[明治]]5年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]([[1872年]][[11月4日]])に[[官営模範工場]]の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=149}}</ref>。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧[[士族]]などの娘が集められていた<ref name = bunken_p10 />。同年4月に就業していた工女は556人となり<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=54}}</ref>、4月入場者には『富岡日記』で知られる[[和田英]](横田英)も含まれていた<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=136}}</ref><ref name = bunken_p10 />。

{{Double image stack|right|Inside_Tomioka_Silk_Mill.JPG|富岡製糸場・繰糸場.jpg|250|富岡製糸場の繰糸場<br />(上・明治時代、下・操業停止後)}}
製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=149}}</ref><ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=14}}</ref>。また、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。揚返(あげかえし)は再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけでは{{仮リンク|セリシン|en|Sericin}}(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった<ref>{{Harvnb|宮崎|2001|p=217}}</ref>。これに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰(ちょくそう)式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=173}}</ref>。前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=175}}</ref><ref group = "注釈">特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる({{Harvnb|今井|2006|p=38}})。</ref>。

工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇<ref>{{Harvnb|岡野|2012|p=39}}</ref><ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|pp=10-11}}</ref>、1日8時間程度<ref group = "注釈">繰糸の作業は明るさが必要で自然光に依存したため、日が出ている間が労働時間となった。結果、季節ごとの変動はあるものの、設立当初は8時間、明治8年から9年ころには7時間45分となっていた({{Harvnb|岡野|2012|p=39}})。</ref>の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された<ref name = bunken_p11>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=11}}</ref>。群馬県では[[県令]][[楫取素彦]]が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である[[工女余暇学校]]の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された<ref>{{Harvnb|岡野|2013|pp=5-6}}</ref>。しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった<ref name = bunken_p11 />。そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=149}}</ref>。また、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=150-153}}</ref>。

工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった<ref name = bunken_p11 />。工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸が[[ウィーン万国博覧会]]で「二等進歩賞牌」を受賞した<ref name = Tomiden_p158>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=158}}</ref>。これは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=69}}</ref>、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=69-70}}</ref><ref name = Tomiden_p158 />、[[リヨン]]や[[ミラノ]]の絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる<ref>{{harvnb|長谷川|1999|p=75}}</ref>。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や[[春日蝶]]が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの[[六工社]])で指導に当たるためであった<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=136-139}}</ref>。

初期の富岡製糸場は初代所長(場長)[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]、首長[[ポール・ブリューナ]]を中心に運営されたが、前述の不熟練工の問題やブリューナ以下フランス人教婦、検査人などの[[お雇い外国人]]たちに支払う高額の俸給、さらに官営ならではの非効率さなどの理由から大幅な赤字が続いていた<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=74-76}}</ref><ref name = bunken_p12>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=12}}</ref>。

契約満了につきブリューナとフランス人医師が去った1875年(明治8年)12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなった<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=85}}</ref>。日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度<ref group = "注釈">当時の年度は明治9年7月から10年6月までだった({{Harvnb|今井|2006|p=114}})。明治18年度に調整が行なわれ、明治19年度からは4月から翌3月に変更されることになる({{Harvnb|今井|2006|p=135}})。</ref>には大幅な黒字に転じた。この理由としては、お雇い外国人への支出がなくなったことのほか、所長の尾高の大胆な繭の思惑買いなどが奏功したことが挙げられる<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=113-115}}</ref>。しかし、尾高の思惑買いは、彼が当時政府が認めていなかった秋蚕の導入に積極的だったことなどと併せ、政府との対立を生む原因になり、尾高は富岡製糸場が'''富岡製糸所'''と改称された翌月に当たる1876年(明治9年)11月に所長を退いた<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=114-116}}</ref>。

翌年度には、従来、エシュト・リリアンタール社を経て[[リヨン]]に輸出されていた生糸が、[[三井物産]]によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=66-67, 117}}</ref><ref group = "注釈">1874年(明治7年)の時点で世界最大の生糸消費国はフランスであった。その消費量は1800万[[ポンド]]あまり(約8300[[トン]])にのぼったが、そのうち1400万ポンド以上を輸入に頼っていた。世界2位と3位の消費量の清とインドは自国生産でまかなうことができており、フランスの輸入大国ぶりは際立っていた({{Harvnb|石井|1972|pp=19-20}})。</ref>。

内務省の官吏だった[[速水堅曹]]はかねてから民営化も含めた抜本改革を提言していたが、[[西南戦争]](1877年)の勃発によって一時的に棚上げされた<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=118-119}}</ref>。しかし、1878年(明治11年)に[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万国博覧会]]に赴いていた[[松方正義]](当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘されたことから、速水が富岡製糸所の改革を任されることになる<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=119}}</ref><ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=140}}</ref>。速水は、尾高の後任だった山田令行が改革を阻害しているとして更迭を進言し、これを実現させた<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=123}}</ref>。松方は後任として速水を第3代所長に任命したが、民営化を主張する速水は1880年(明治13年)11月5日の「官営工場払下概則」制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社設立に関わり所長を辞任、かわって同伸会社の社長に就任した<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=123-127}}</ref>。この時点では、民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受けるという話が、松方との間で事実上内定していたが、群馬県令の反対などもあって、政府は最終的にこれを認めなかった<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=124, 128-130}}</ref>。他方で、ほかに払い下げを希望する民間人は現れなかった。富岡製糸所の巨大さが、当時の民間資本では手に余る存在だったからと言われている<ref>{{Harvnb|長谷川|1999|p=77}}</ref><ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=178}}</ref>。「官営工場払下概則」が結果的に払い下げを促進することにはならずに1884年に廃止されると、官営工場の払い下げは急速に進んだが<ref>{{Harvnb|三和|2002|pp=46-47}}</ref>、富岡製糸場は払い下げの見通しが立たないまま、官営の時期がなおも続いた。

第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=128-133}}</ref>。そうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外に[[ニューヨーク]]にも輸出するようになっていた<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=129}}</ref>。彼は製糸所所長として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=134-136}}</ref><ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=177}}</ref><ref group = "注釈">世界の生糸需要は、明治末期にはフランス中心からアメリカ中心へとシフトした。1907年から1910年の平均をとると、絹織物業が成長したアメリカが1900万ポンド近くを消費して世界1位の生糸消費大国となったのに対し、1000万ポンドを割り込んだフランスは、清や日本にも消費量で劣る状況になっていた({{Harvnb|石井|1972|pp=20-21}})。</ref>。他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。

=== 三井家時代 ===
[[ファイル:Hikojiro_Nakamigawa.JPG|thumb|中上川彦次郎]]
1891年(明治24年)6月に払い下げのための入札が初めて行われたが、このときに応札した[[片倉兼太郎]]と[[貴志喜助]]はいずれも予定価額(55,000円)に大きく及ばず、不成立になった<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=138}}</ref>。改めて1893年(明治26年)9月10日に行われた入札では、最高額入札となった[[三井家]]が12万1460円をつけ、予定価額10万5000円<ref group = "注釈">置繭所に残っていた8万円相当の繭の代金を含む金額。</ref>を上回ったため、払い下げが決定した(引渡しは10月1日)<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=139-140}}</ref>。

三井家の時代の経営はおおむね良好で<ref name = bunken_p14 /><ref>{{Harvnb|今井|2006|p=195}}</ref>、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=40}}</ref>、新型繰糸機を導入するなどし<ref name = bunken_p14 />、すべてアメリカに輸出した<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=182}}</ref>。寄宿舎も新設したが、工女の約半数は通勤になっている<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=193}}</ref>。工女の労働時間は、開業当初に比べると伸ばされる傾向にあり、6月の実働時間は11時間55分、12月には8時間55分となっていた<ref>{{Harvnb|岡野|2013|p=10}}</ref>。読み書きや裁縫を教える1時間程度の夜学は継続されていたが、長時間労働で疲れた工女たちは必ずしも就学に熱心でなかったという<ref>{{Harvnb|岡野|2013|pp=11-12}}</ref>。

三井は富岡以外にも3つの製糸工場を抱えていたが、4工場全てを併せた収益は好調とはいえなかった<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=179}}</ref>。また、三井家の中で製糸工場の維持に積極的だった銀行部理事の[[中上川彦次郎]]が病没したことも、製糸業存続には向かい風となった<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=195-196}}</ref>。こうして、三井は1902年(明治35年)9月13日に4工場全てを一括して[[原富太郎]]の[[原合名会社]]に譲渡した<ref name = imai2006_p196>{{Harvnb|今井|2006|p=196}}</ref>。原が4工場の代価として支払ったのは、即金10万円と年賦払い(10年)13万5000円であった<ref name = imai2006_p196 />。

=== 原合名会社時代 ===
原合名会社が富岡製糸所を手に入れると、その翌月に当たる1902年10月に'''原富岡製糸所'''と改名した<ref name = bunken_p14 />。1900年前後には郡是製糸(現[[グンゼ]])を始め、繭質改良に積極的な事業者が現れ、[[蚕種]]を安価で配布するものも現れていた<ref>{{Harvnb|石井|1972|pp=422-423}}</ref>。蚕種を養蚕農家に配布することは、繭の品質向上と均質化に寄与するものであった。原合名会社も、まず原名古屋製糸所で1903年(明治36年)から蚕種の配布を始め、1906年(明治39年)からは原富岡製糸所でも開始した<ref name = ishii1972_p427>{{Harvnb|石井|1972|p=427}}</ref>。原富岡での蚕種の配布は無償で行なわれ、その数を増やしていく上では、群馬で発祥し、全国的に影響のあった養蚕教育機関[[富岡製糸場と絹産業遺産群#高山社跡|高山社]]の協力も仰いだ<ref name = ishii1972_p427 />。また、工女たちの教育機会の確保は継続されており、娯楽の提供などの福利厚生面にも配慮されていたが、それらについては「普通糸」よりも質の高い「優等糸」を生産していた富岡製糸所にとっては、熟練工をつなぎとめておくことが必要であったからとも指摘されている<ref>{{Harvnb|石井|1972|pp=256-257}}</ref><ref>{{Harvnb|岡野|2013|pp=19, 21}}</ref><ref group = "注釈">「優等糸」は経糸にほぼ等しく、「普通糸」は緯糸にほぼ等しい({{Harvnb|石井|1972|p=35}})。</ref>。

原時代は[[第一次世界大戦]](1914年勃発)や、[[世界恐慌]](1929年)に見舞われた時期を含んでいる。いずれの時期にも生産量は減少しており、ことに1932年([[昭和]]7年)には大幅な減少を経験した<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=46-48}}</ref>。しかし、それから間もなく8緒<ref group = "注釈">同時に繰る生糸の数。8条と表記する文献もある。</ref>の[[TO式繰糸器]]・[[御法川式繰糸器]]を撤去し、20緒のTO式および御法川式を大増設し、生産性は上昇した<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=48}}</ref>。1936年(昭和11年)には14万7000[[キログラム|kg]]の生産量を記録し、過去最高となった<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=49}}</ref>。

このように生産性の向上は見られたが、[[満州事変]]や[[日中戦争]]によって国際情勢は不安定化していき、1938年(昭和13年)には群馬県最大(全国2位)の[[山十製糸]]が倒産した<ref>{{Harvnb|松浦|2007|p=141}}</ref>。このような情勢の中、原富岡製糸所の大久保佐一工場長が組合製糸会社(大久保が社長を兼務)のトラブルがもとで自殺したことや、[[原富太郎]]の後継者[[原善一郎]]が早世するなど、原合資会社内部の混乱が重なっていた<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=201}}</ref>。さらに、主要輸出先アメリカで絹の代替となる[[ナイロン]]が台頭し、先行きにも懸念があった<ref>{{Harvnb|今井|2013|pp=49-50}}</ref>。そのため、原合名会社は山十が倒産したのと同じ1938年に製糸事業の縮小に踏み切った<ref name = imai2013_p45>{{Harvnb|今井|2013|p=45}}</ref>。富岡製糸所は切り離されて、同年6月1日に'''株式会社富岡製糸所'''として独立した<ref name = imai2013_p50>{{Harvnb|今井|2013|p=50}}</ref>。形式上の代表取締役は西郷健雄(原富太郎の娘婿)であったが<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=49}}</ref>、経営は筆頭株主の片倉製糸紡績会社が担当することになった<ref name = imai2013_p45 />。

=== 片倉時代 ===
株式会社富岡製糸所は当時、日本最大級の繊維企業であった片倉<ref>{{Harvnb|岡野|2013|p=17}}</ref>に合併されることになり、[[株主総会]]での合意を経て、1939年(昭和14年)4月29日に公告された<ref name = imai2013_p50 />。この実質的に原が片倉に委任した一連の経緯に関し、原側は片倉以外には「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる」委任先が存在しないという認識を示していた<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=36}}</ref>。原富太郎は後継者を失った中で自身の高齢についても懸念を抱いていたとされるが<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=49}}</ref>、富岡製糸所が片倉に合併されたこの年に没している<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=202}}</ref>。なお、前述のように官営時代末期の最初の入札時に応札した一人が[[片倉兼太郎]]であり、三井家が落札したときに競り負けた企業の一つ、開明社でその時に実権を握っていたのも片倉兼太郎であった<ref name = imai2006_p203_204>{{Harvnb|今井|2006|pp=203-204}}</ref>。こうしたことから、片倉は古くから富岡製糸所の経営に意欲を持っていたとされている<ref name = imai2006_p203_204 /><ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=33}}</ref>。

合併の年に'''片倉富岡製糸所'''と改称され<ref name = bunken_p14 />、1940年(昭和15年)には18万9000kgの生産量を記録し、過去最高記録を塗りかえたが、[[太平洋戦争]]直前の社会情勢は生産に多大な影響を及ぼした<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=53}}</ref>。1941年(昭和16年)3月公布の[[蚕糸事業統制法]]によって片倉富岡製糸所も[[統制経済]]に組み込まれ、同年5月の[[日本蚕糸統制株式会社]]の成立によって、富岡製糸所は片倉から同株式会社に形式上賃貸されることとなった<ref>{{Harvnb|今井|2013|pp=53-54}}</ref><ref>{{Harvnb|松浦|2007|pp=143-144}}</ref><ref group = "注釈">日本の製糸企業を統合した日本蚕糸統制株式会社の社長には片倉の社長が就任した。そのため、富岡製糸所の賃貸契約書に記載された片倉社長と日本蚕糸社長の名前はどちらも[[片倉兼太郎 (3代目)|片倉兼太郎]]である({{Harvnb|今井|2013|pp=54-55}})。</ref>。片倉本体は航空機関連の軍需生産に軸足を移し、1943年(昭和18年)に片倉工業株式会社と改称した<ref>{{Harvnb|松浦|2007|p=144}}</ref>。太平洋戦争中には片倉が所有していた製糸工場は廃止や用途転換が多く見られたが、富岡製糸所はその主たる用途が軍需用の[[落下傘]]向けであったとはいえ、製糸工場として操業され続けた<ref>{{Harvnb|松浦|2007|p=144-145}}</ref>。兵隊として男子を取られていた農村の労働力を埋める必要から、工女の数は著しく減少したが、繰糸機の増設によってカバーした<ref>{{Harvnb|今井|2013|pp=54-55}}</ref>。ただし、輸出中心に発展してきた富岡製糸所の歴史の中で、初めて輸出量が皆無となった<ref>{{Harvnb|今井|2013|pp=55-56}}</ref>。

戦後、[[連合国軍総司令部|GHQ]]は経済の民主化を進め、1946年(昭和21年)3月1日に日本蚕糸統制株式会社も解散させられ、富岡製糸所も名実ともに片倉に戻った<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=56}}</ref><ref group = "注釈">片倉工業としての[[労働組合]]が富岡製糸所内で同年2月21日に結成されていることから、富岡製糸所の片倉への復帰は、日本蚕糸統制株式会社の正式な解散よりも前だったという指摘もある({{Harvnb|今井|2013|p=56}})</ref>。この年から'''片倉工業株式会社富岡工場'''となった<ref name = bunken_p14 /><ref group = "注釈">前述のように、富岡工場への改名の時期は文献によって異なっている。</ref>。

前述の通り、富岡製糸所は戦時中も一貫して製糸工場として機能し続けた少ない例の一つであり、しかも、空襲などの被害も受けることなく、終戦を迎えていた<ref>{{Harvnb|松浦|2007|p=145}}</ref>。1952年(昭和27年)からは自動繰糸器を段階的に導入し<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=64}}</ref>、[[電化]]を進めるために所内に[[変電所]]も設けた<ref>{{Harvnb|松浦|2007|p=147}}</ref>。その後も、最新型の機械へと刷新を繰り返し、1974年(昭和49年)には生産量37万3401kgという、富岡製糸場(所)史上で最高の生産高をあげた<ref>{{Harvnb|今井|2013|pp=58, 63}}</ref>。

この間、工場労働者を取り巻く環境も変化した。戦後、労働者保護法制が整備されたことから、二交替制が導入された<ref>{{Harvnb|岡野|2013|p=1}}</ref>。片倉工業は戦前に[[青年学校]]令(1935年)に基づく工場内学校を設置しており、富岡製糸所にも合併した年に私立富岡女子青年学校を開校していた<ref>{{Harvnb|岡野|2013|pp=17-18}}</ref>。戦後になると、1948年に新しい時代に対応した教育要綱を社内で作成し、各地に知事認可で[[高等学校|高校]]卒業資格を取得できる片倉学園を設置した<ref name = okano2013_p18>{{Harvnb|岡野|2013|p=18}}</ref>。富岡工場にも、寄宿舎入寮者は無料で学べた片倉富岡学園が開校された<ref name = okano2013_p18 />。当時は義務教育終了と同時に就職する女性も多かったため、片倉工業はそういう女性たちに良妻賢母教育を施すことを自社の社会的責任と位置づけていたのである<ref>{{Harvnb|岡野|2013|pp=18-19}} (n.9)</ref><ref group = "注釈">入学は任意だったので({{Harvnb|岡野|2013|p=18}})、女子労働者の中には、夜間[[定時制]]の設置されていた[[群馬県立富岡東高等学校|富岡東高校]]や、昼間定時制が設置されていた[[群馬県立藤岡高等学校|藤岡高校]]に通う者もいた({{Harvnb|松浦|2007|pp=147-148}})</ref>。

しかし、和服を着る機会の減少などの社会情勢の変化に加え、1972年(昭和47年)の[[日中共同声明|日中国交正常化]]が中国産の廉価な生糸の増加を招いたことから<ref>{{Harvnb|松浦|2007|p=148}}</ref>、生産量は減少に向かい<ref>{{Harvnb|今井|2013|p=63}}</ref>、1987年(昭和62年)に操業を停止、同年3月4日に閉業式が挙行された<ref name = imai2013_p69>{{Harvnb|今井|2013|p=69}}</ref>。

=== 世界遺産登録へ向けた動き ===
{{Main|富岡製糸場と絹産業遺産群}}
片倉工業は富岡工場(旧富岡製糸場)を閉業した後も一般向けの公開をせず、「貸さない、売らない、壊さない」の方針を堅持し、維持と管理に専念した<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=35}}</ref><ref group = "注釈">いずれ何らかの形で利活用しようという意図はあったとされ({{Harvnb|佐滝|2007|p=35}})、実際、その用途についての検討が行われたことはあったという({{Harvnb|松浦|2007|p=148}})。なお、閉業後も新入社員の研修には使われていた({{Harvnb|佐滝|2007|p=38}})。</ref>。富岡製糸場は巨大さゆえに[[固定資産税]]だけで年間2000万円、その他の維持・管理費用も含めると最高で1年間に1億円以上かかったこともあるとされる<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=38}}</ref>。また、片倉は修復工事をするにしても、コストを抑えることよりも、当時の工法で復原することにこだわったという<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|pp=38-39}}</ref>。こうした片倉の取り組みがあったればこそ、富岡製糸場が良好な保存状態で保たれてきたとして、片倉の貢献はしばしば非常に高く評価されている<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|pp=35-40}}</ref><ref>{{Harvnb|山崎|2009|p=150}}</ref>。

富岡製糸場の操業停止を受けて、市民レベルでもその価値を伝えていこうとする学習会「富岡製糸場を愛する会」が、当初は細々としたものではあったが、1988年に発足した<ref>{{Harvnb|山崎|2009|pp=153-154}}</ref>。この団体は継続的に活動しており、特に活発な市民団体とされている<ref>{{Harvnb|山崎|2009|p=153}}</ref>。

富岡市の取り組みでは[[今井清二郎]]の市長在任中(1995年 - 2007年)が、ひとつの大きな画期となっている<ref>{{Harvnb|山崎|2009|p=147}}</ref>。今井は市長就任前から富岡製糸場に強い関心を抱いており、市長になると片倉工業との交渉を開始した<ref>{{Harvnb|山崎|2009|pp=147-149}}</ref>。そんな中、2003年([[平成]]15年)に群馬県知事[[小寺弘之]]が富岡製糸場について、「ユネスコ世界遺産登録するためのプロジェクト」を公表した<ref>{{Harvnb|山崎|2009|pp=149, 159}}</ref>。翌年12月には県知事、市長、片倉工業社長の三者での合意が成立し、富岡製糸場が富岡市に寄贈されることとなった<ref>{{Harvnb|山崎|2009|p=149}}</ref>(土地は有償で売却、建物は無償譲渡<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=37}}</ref>)。2005年(平成17年)[[9月30日]]付けで富岡市に寄贈され、翌日からは市(富岡製糸場課)が管理を行っている<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=206-208}}</ref><ref group = "注釈">富岡市では、2008年度に「富岡製糸場総合研究センター」を設置した(『平成24年度富岡製糸場総合研究センター報告書』序文)。富岡市には、片倉工業から、片倉時代の経営実態に関する資料も多く寄託されている({{Harvnb|今井|2013|p=45}})。</ref>。

[[2005年]](平成17年)[[7月14日]]付で「'''旧富岡製糸場'''」として国の[[史跡]]に指定され、2006年(平成18年)[[7月5日]]には1875年(明治8年)以前の建造物が国の[[重要文化財]]に指定された<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=206, 217}}</ref>。2006年には[[毎日新聞社]]の記念事業「[[ヘリテージング100選]]」に選出され、2007年11月30日には[[経済産業省]]から、[[近代化産業遺産]]のひとつ「『上州から信州そして全国へ』近代製糸業発展の歩みを物語る富岡製糸場などの近代化産業遺産群」の構成遺産に認定された<ref>{{pdf|[http://www.meti.go.jp/press/20071130005/isangun.pdf 近代化産業遺産33]}}(経済産業省、2014年4月20日閲覧)</ref>。

[[ファイル:Joshin_204.JPG|thumb|250px|[[上信電鉄200形電車]](2007年)。世界遺産登録を推進する広告で飾られている]]
[[文化庁]]が2006年と2007年に、全国の[[地方自治体]]から[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]の追加提案候補を公募した際には、群馬県と富岡市、および他の7市町村が共同で「'''富岡製糸場と絹産業遺産群 - 日本産業革命の原点'''」を提案した。これは2007年1月30日に「'''[[富岡製糸場と絹産業遺産群]]'''」として、日本の世界遺産暫定リストに記載された。いわゆる[[近代化遺産]]が暫定リストに加えられたのは、これが初めてである<ref>{{Citation|和書|last=清水|first=慶一|year=2008|date=2008年1月21日|contribution=近代国家日本の礎(特集・産業遺産)|editor=日本ユネスコ協会連盟|title=世界遺産年報2008|publisher=日経ナショナルジオグラフィック社|pages=25-27}}</ref>。その後、富岡製糸場以外の構成資産の候補は何度も見直されたが、2012年8月23日に[[国際連合教育科学文化機関]] (UNESCO) の[[世界遺産センター]]に正式推薦されることが決定し<ref>[http://www.tomioka-silk.jp/hp../plan02/index.htm 富岡製糸場の現状](富岡製糸場ホームページ)(2014年4月3日閲覧)</ref>、2013年1月31日に正式な推薦書が[[世界遺産センター]]に受理された<ref>{{Citation|author=World Heritage Centre|title=WHC-13/37.COM/INF.8B3 List of nominations received by 1 February 2013 and for examination by the Committee at its 38th session (2014)|url=http://whc.unesco.org/document/122841|p=2}}</ref>。[[日本の世界遺産]]として産業遺産が推薦されるのは、[[石見銀山|石見銀山遺跡とその文化的景観]](2006年推薦、2007年登録)以来、2例目のことである。

2013年9月25日から26日にかけて、世界遺産委員会の諮問機関である[[国際記念物遺跡会議]] (ICOMOS) から派遣された[[中華人民共和国|中国]]国立シルク博物館館長の趙豊が、現地調査を行なった<ref>{{Harvnb|古田|古田|2013|p=151}}</ref>。この現地調査を踏まえ、2014年4月26日未明(日本時間)に「登録」の勧告がICOMOSから出された<ref>{{pdf|[http://worldheritage.pref.gunma.jp/pdf/kankoku2.pdf 我が国の推薦資産に係る世界遺産委員会諮問機関による評価結果及び勧告について(第二報)]}}(文化庁、2014年4月26日)</ref>。この勧告に基づいて、同年6月の第38回世界遺産委員会で正式に登録される見通しである。

== 作業工程 ==
:''関連する主要建造物は後節を参照のこと''
富岡製糸場では、購入した繭の乾燥・貯蔵から出荷のために束ねることまでの一連の工程を行えるようになっていた。

乾繭(かんけん)は購入した繭を乾燥する工程で、繭の中の蛹を殺すことと、カビの発生を防ぐことを目的としている<ref name = Tomiden_p104>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=104-105}}</ref>。当初は蒸気釜所の横に設置された燥繭所(そうけんじょ)で行われており<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=44}}</ref>、火炉の輻射熱を利用する方式で乾燥させていた<ref name = Tomiden_p104 />。乾燥させた繭は置繭所(繭倉庫)に貯蔵された後、選繭(せんけん)にかけられる。この工程は、不備のある繭を除外するとともに、繭の質によって等級に分け、用途を決めていた<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=106-107}}</ref>。

このあと、煮繭(しゃけん)にかけられる。これは繭から糸を引き出すために行う工程だが、当初の繰糸器には煮繭用の釜がついており、繰糸所で行われていた<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=108-109}}</ref>。そして、引き出した糸を複数撚り合わせて繰糸(そうし)をした。日本の場合、そのあとに、前述の通り、小枠に巻き取った生糸を大枠に巻きなおす揚返(あげかえし)という工程が存在する。揚返をした後の生糸は出荷のために束ねられる。この工程を束装(そくそう)という<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=112-113}}</ref>。

この一連の工程は開業当初から操業停止時まで、基本的には変化がない。ただし、当初は繰糸所で煮繭、繰糸、揚返を行なっていたものが、煮繭場や揚返工場の設置によって工程が分離されたり、機械化も進むなどの変化はあった<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=100-101}}</ref>。また、作業で発生したくず繭、くず糸などの副蚕糸(ふくさんし)の処理は、一切行なっていなかったが<ref group = "注釈">1877年開業の[[新町紡績所|官営新町屑糸紡績所]]([[高崎市]])は、この副蚕糸の加工のために設立された工場である。</ref>、[[昭和時代]]になって副蚕工場が設置された<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=114}}</ref>。

== 主な建造物 ==
富岡製糸場はその敷地が[[史跡]]に指定されており(指定面積55,391.42 [[平方メートル]])<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=206}}</ref>、開業当初の主として木骨レンガ造りの建造物群が重要文化財に指定されている(指定名称はどちらも「旧富岡製糸場」)。以下では重要文化財指定されている建物のほか、各期の主な建物について述べる。

=== 重要文化財 ===
重要文化財「旧富岡製糸場」として指定された建造物は以下のとおりである。太字は重要文化財指定時の官報告示に基づく建造物名(読み方は文化庁の国指定文化財等データベースによる)で、一部には現在名を細字で併記した<ref>現在名は{{Harvnb|今井|2006|pp=216-217}}による。</ref>。

[[ファイル:Filature_machine.jpg|thumb|岡谷蚕糸博物館の繰糸器]]
'''繰糸所'''(そうしじょ)あるいは繰糸工場は、富岡製糸場の中で中心的な建物である。敷地中央南寄りに位置する、東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。平面規模は桁行140.4 m、梁間12.3 mである。東端に玄関を設ける。小屋組は木造のキングポストトラスである。<ref>{{Harvnb|文化庁文化財部|2006|pp=33}}</ref><ref name = bunken_p64>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=64}}</ref><ref name = Tomiden_p26>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=26-27}}</ref>。繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって採光がなされている<ref name = Tomiden_p26 />。この巨大な作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。富岡製糸場に導入された器械製糸は、それ以前の揚げ返しを含まない西洋器械をそのまま導入していた事例と異なっており、1873年から1879年の間に実に全国26の製糸工場に導入された<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=173-176}}</ref>。操業されていた器械(機械)は時代ごとに移り変わったが、巨大な建物自体は増築などの必要性が無く、創建当初の姿が残された<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=37}}</ref>。なお、ブリューナが導入した操業当初の器械を含む過去の器械類については、片倉工業が[[岡谷市]]の[[市立岡谷蚕糸博物館]]に寄贈したことから、そちらに保存されている<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|pp=35-36}}</ref>。

[[ファイル:Tomioka Silk Mill East Cocoon Warehouse04.jpg|thumb|270px|東繭倉庫(東置繭所)]]
'''東置繭所'''(ひがしおきまゆじょ)と'''西置繭所'''(にしおきまゆじょ)あるいは東繭倉庫と西繭倉庫は、繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所、繰糸所、西置繭所の3棟が「コ」の字をなすように配置されている。東西置繭所ともに1872年の竣工で、桁行104.4 m、梁間12.3 m、木骨レンガ造2階建てで、屋根は切妻造、桟瓦葺きとする。その名の通り、主に2階部分が繭置き場に使われた。両建物とも規模形式はほぼ等しいが、東置繭所は南面と西面に、西置繭所は南面と東面に、それぞれベランダを設ける。また、東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。この通路上のアーチの要石には「明治五年」の刻銘がある<ref>{{Harvnb|文化庁文化財部|2006|pp=33-35}}</ref><ref name = bunken_p67>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=67}}</ref><ref name = Tomiden_p28>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=28-31}}</ref>。開業当初の繭は養蚕が主に春蚕のみを対象としていたため、春蚕の繭を蓄えておく必要から建設され、2棟合わせて約32[[トン]]の繭を収容できたとされている<ref name = Tomiden_p28 />。2階部分が倉庫とされたのは、風通しなどへの配慮もあった<ref name = bunken_p67 />。東置繭所の1階部分は当初事務所などに、西置繭所の1階部分は燃料となる[[石炭]]置き場に、それぞれ活用されていたが、のちにはどちらも物置などに転用され、建造当初に存在していた間仕切りなどはなくなっている<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|pp=67, 72}}</ref>。

'''蒸気釜所'''(じょうきかましょ。1872年竣工)は、繰糸所のすぐ北に建つ。南北棟、木骨レンガ造、桟瓦葺きの部分と東西棟、木造、鉄板葺きの部分に分かれ、前者は蒸気釜所の一部が残ったもの、後者は汽罐室の2スパン分が残ったものである<ref>{{Harvnb|文化庁文化財部|2006|pp=35}}</ref><ref>平成18年7月5日文部科学省告示第93号</ref>。製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使われた。ブリューナが導入した[[単気筒エンジン|単気筒]]式の蒸気エンジンはブリューナ・エンジンと呼ばれ、今は片倉工業の寄贈によって[[博物館明治村]]([[愛知県]][[犬山市]])で展示されている<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=96-97}}</ref>。1920年に動力が電化されるとブリューナ・エンジンは使われなくなり、のちには煮繭所などに転用された<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=32-33, 96-97}}</ref>。現在名は煮繭場・選繭場である。蒸気釜所の西には、操業当初に立っていたフランス製鉄製煙突の基部が残されており<ref name = Tomiden_p34>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=34-36}}</ref>、蒸気釜所の「附」(つけたり)として重要文化財に指定されている(指定名称は「烟筒基部 1基」)<ref>平成18年7月5日文部科学省告示第93号</ref><ref name = Tomiden_p233>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=233}}</ref>。当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36 mを備えていたが<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|pp=14-15}}</ref>、1884年(明治17年)9月26日に暴風で倒れてしまったため、現存しない<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=132}}</ref>。なお、現在の富岡製糸場に残る高さ37.5 mの煙突は[[コンクリート]]製で、1939年に建造されたものである<ref name = Tomiden_p34 />。

'''鉄水溜'''(てっすいりゅう。1875年竣工)あるいは鉄水槽は、蒸気釜所の西側にある鉄製の桶状の工作物。鉄板をリベット接合して形成したもので、径15メートル、深さ2.4メートルであり、石積の基礎を有する<ref>{{Harvnb|文化庁文化財部|2006|pp=35}}</ref>。創建当初のレンガに[[モルタル]]を塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、[[横浜製造所]]に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400トンに達する<ref name = Tomiden_p36>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=36}}</ref>。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われる<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|pp=16, 86}}</ref><ref name = Tomiden_p36 /><ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=25}}</ref>。

逆に排水を担ったのが'''下水竇及び外竇'''(げすいとうおよびがいとう)あるいは煉瓦積排水溝で、いずれも1872年にレンガを主体として築かれた暗渠である<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|p=38}}</ref>。西洋の建築様式を取り入れた下水道は、当時はまだ開港地以外で見られることは稀であり、これらの遺構もまた建築上の価値を有している<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=16}}</ref>。下水竇は繰糸所の北側にあり、建物にに並行して東西に通じ、延長は186 m。外竇は下水竇の東端から90度折れ、敷地外の道路に沿って南方向に伸びるもので、延長135 m。排水は鏑川に注がれた<ref>{{Harvnb|文化庁文化財部|2006|pp=32,35}}</ref>。

[[ファイル:Tomioka Silk Mill 02.jpg|thumb|190px|検査人館内部]]
'''首長館'''(しゅちょうかん。1873年竣工)あるいはブリューナ館(ブリュナ館)は、繰糸所の東南に位置する。木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺き。平面はL字形を呈し、東西33 m、南北32.5 mである。内部は後の用途変更のため改変されている<ref>{{Harvnb|文化庁文化財部|2006|pp=35}}</ref>。別名が示すようにブリューナ一家が滞在するために建設された建物である<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=73}}</ref><ref name = Tomiden_p46>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=46-47}}</ref>。この建物は面積916.8 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]と広く、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され<ref name = Tomiden_p46 />、戦後にも片倉富岡学園の校舎としても使われた<ref name = okano2013_p24>{{Harvnb|岡野|2013|p=24}}</ref>。従来、工女教育のために竣工当初の姿が改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を伝える[[産業遺産]]として、その意義を積極的に捉えようとする見解もある<ref name = okano2013_p24 />。

'''女工館'''(じょこうかん)あるいは2号館は首長館と同じく1873年の竣工で、東置繭所の東側、南寄りに位置する。木骨レンガ造、2階建、東西棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西20.1 m、南北17.4 mである<ref>{{Harvnb|文化庁文化財部|2006|pp=35-36}}</ref>。この建物は、ブリューナがフランスから連れてきた教婦(女性技術指導者)たちのために建てられたものであった。しかし、4人の教婦のうち、マリー・シャレー(Marie Charet / Charay, 19歳<ref group = "注釈">4人の教婦の原綴および年齢(明治5年時点)は、{{Harvnb|澤|1991|p=37}}による。</ref>)は病気のために1873年10月23日に富岡を離れ、同28日に横浜から帰国した<ref name = sawa_p247>{{Harvnb|澤|1991|p=247}}</ref>。次いでクロランド・ヴィエルフォール(Clorinde Vielfaure, 年齢不詳)とルイーズ・モニエ(Louise Monier / Maunier, 27歳)も病気に罹り、1874年3月11日に富岡を発った<ref name = sawa_p247 />。残るアレクサンドリーヌ・ヴァラン(Alexandrine Vallent, 25歳)は健康ではあったが、一人だけ取り残されることを良しとせず、同じ日に富岡を発った<ref>{{Harvnb|今井|2006|p=106}}</ref><ref group = "注釈">このような退職が認められた背景として、この時点で日本人工女の技術が、フランス人教婦の教えを必要としない水準にまで向上していたことが挙げられている({{Harvnb|今井|2006|p=105}})。</ref>。こうして、4年の任期を誰一人まっとうできずに帰国してしまったため、女工館は竣工まもなく空き家となった<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=48-49}}</ref>。その後、三井時代には役員の宿舎、原時代には工女たちの食堂など、時代ごとに様々な用途に転用された<ref>{{Harvnb|岡野|2013|pp=11-12}}</ref>。

'''検査人館'''(けんさにんかん)あるいは3号館は1873年竣工で、東置繭所の東側、女工館の北に建つ。木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西10.9 m、南北18.8 mである<ref>{{Harvnb|文化庁文化財部|2006|pp=36}}</ref>。もともとはブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として建てられたものであったが、検査人ジュスタン・ベラン(Justin Bellen, 29歳<ref group = "注釈">ベラン、プラー、シャトロンの原綴および年齢(明治5年時点)は、{{Harvnb|澤|1991|p=37}}による。</ref>)とポール・エドガール・プラー(Paul Edgar Prat, 23歳)は、無許可で横浜に出かけ、怠業したという理由で1873年10月30日に解雇されていた<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=95-96}}</ref><ref group = "注釈">ベランとプラーがフランス領事館に異議を申し立て、帰国旅費の支払いなどで和解が成立した。しかし、両者は日本にとどまり、製糸所設計などを請け負う旨の新聞広告を出したが、奏功しなかった({{Harvnb|澤|pp=245-246}})。プラーは[[開成学校]]で語学や天文学の教師として2年ほど雇用された({{harvnb|澤|p=246}})。</ref>。また、ブリューナが教婦や検査人を連れて来たのとは別の時期(詳細日程未詳)に来日し、1872年に雇い入れられた銅工<ref group = "注釈">ボイラーや蒸気エンジンを扱ったと考えられている({{Harvnb|今井|2006|p=93}})</ref>のジュール・シャトロン(Jules Chatron, 27歳)も、1873年11月20日には富岡を離れていた<ref>{{Harvnb|今井|2006|pp=93-94}}</ref>。このため、かわりに外国人医師の宿舎になっていたようである<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=50-51}}</ref>。正門近くにあり、現在は事務所になっている<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=21}}</ref>。首長館、女工館、検査人館はいずれも[[コロニアル]]様式の洋風住宅と規定されている<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=46, 48, 50}}</ref>。なお、1881年の記録には第4号官舎、第5号官舎の名前も見られるが、いずれも現在は失われている<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=36}}</ref>。

上記のほか、正門脇で出入りする人々をチェックしていた候門所(こうもんじょ)が、重要文化財「旧富岡製糸場」の「附」(つけたり)として指定されている<ref>平成18年7月5日文部科学省告示第93号</ref>。この建物は、開業当初の建物の中では珍しい木造平屋建てで、1943年の行啓記念碑(後述)建設にあたって移転した<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=52-53}}</ref>。のちに社宅に転用された<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=77}}</ref>。

=== 三井時代の建造物 ===
(旧)第二工場は、1896年(明治29年)に竣工した木造平屋建てである<ref name = bunken_p88>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=88}}</ref>。これに伴い開業当初の繰糸所は第一工場と改名されたが、原時代に再び繰糸所は一元化されたため、1911年に繰糸所としての機能を停止した。第二工場は選繭場、煮繭場などとして転用され、片倉時代には副繭(製糸作業で出るくず繭、くず糸など)の加工処理施設に転用された<ref name = Tomiden_p40>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=40-41}}</ref>。現在残る建物は、竣工当初のものよりも短縮されている<ref name = bunken_p88 />。

第二工場と同じ年に、首長館の隣に建てられたのが寄宿舎の一つである榛名寮で、以前の寄宿舎の老朽化に対処するものだった<ref name = bunken_p88 />。以前の寄宿舎は解体され<ref name = Tomiden_p54>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=54-55}}</ref>、木造二階建ての榛名寮の建材には転用されたものが含まれる<ref name = bunken_p88 />。首長館の隣は日当たりが良く、そこへ移転したのは、工女たちの住環境への配慮だったとされる<ref name = Tomiden_p54 />。

ほかに建物ではないが、敷地内で三井時代と結びつく場所としては殿下山がある。原合名会社に譲渡される直前の1902年(明治35年)6月2日、皇太子殿下(のちの[[大正天皇]])が登ったとされる小山である<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=95}}</ref>。

=== 原時代の建造物 ===
揚返工場(あげかえしこうじょう)は、1919年(大正8年)に繰糸所の隣に建てられた梁間9.1 m、桁行136.4 mの木造平屋建ての作業場である<ref name = bunken_p89>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=89}}</ref>。[[#歴史|上記の歴史節]]で述べたように、開業当初は繰糸所に揚返器が併設されていた。しかし、生産量の増大に対応して、揚返専用の建物が建てられることになったものである<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=42-43}}</ref>。

ほか、生繭の蛹を殺し、繭を乾燥させる施設である乾燥場・繭扱場(大正から昭和)、1919年(大正8年)に建てられた糸蔵と旧計算所(ともに木造平屋建て)、女工館と検査人館の間に建てられた男子寄宿舎などが、この時期の建物である<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|pp=89-90}}</ref>。

なお、原時代の蚕種改良を担った蚕種製造所(1907年竣工)は片倉時代にも使われていたが、1980年代半ばに解体されたため、現存していない<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=116-117}}</ref>。


=== 片倉時代の建造物 ===
開国直後の日本にとって、利益が期待された輸出品は[[茶]]と[[絹]](生糸)であった。だが、繭から生糸をつくる製糸工程は人力や前近代的な小規模な器具によるところが大きく、生産量が少ない[[フランス]]や[[イタリア]]よりも製品の質の面で大きく劣ると評されていた。このため、これらの国々と同様に大規模な機械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが[[殖産興業]]推進のためには欠かせないと考えられるようになっていった。
[[太平洋戦争]]終戦前に建てられたものとしては、1940年(昭和15年)の浅間寮と妙義寮がある。これらは女子寄宿舎で、ともに梁間7.3 m、桁行55.0 mの木造2階建てである<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|pp=91-92}}</ref>。同じ年には首長館の東にあった原時代の診療所・病室が新しく建て替えられた<ref name = bunken_p92>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|p=92}}</ref>。


また、戦時中の1943年(昭和18年)には、[[英照皇太后]]と[[昭憲皇太后|昭憲皇后]]の行啓70周年を記念して、高さ4.6 m、幅1.86 mの行啓記念碑が建てられ<ref>{{Harvnb|富岡製糸場世界遺産伝道師協会|2011|pp=60-61}}</ref>、盛大に祝われた<ref>{{Harvnb|松浦|2007|pp=144-145}}</ref>。
[[明治維新#中央政府|明治政府]]は、フランス・[[リヨン]]の商社、エシュト・リリアンタール商会の横浜駐在員であり、[[お雇い外国人]]のフランス人技師[[ポール・ブリューナ]](Paul Brunat)の指導でフランスから繰糸機や[[蒸気機関]]等を輸入し、[[養蚕業]]の盛んな富岡に日本初の機械製糸工場を設置した。日本側の責任者となって資材の調達や建設工事の総指揮をとったのは、のちに初代所長になる[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]であった。


戦後になると新たに複数の揚返工場が建てられたほか、高圧変電所、[[ボイラー|汽缶]]場、揚水ポンプ小屋など、各種建造物が増築された<ref>{{Harvnb|文化財建造物保存技術協会|2006|pp=93-95}}</ref>。
[[明治]]5年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]([[1872年]][[11月4日]])に[[官営模範工場]]の一つとして操業を開始した。ただし、当時[[民部省|大蔵民部省]]官吏として建設に尽力した[[渋沢栄一]]は、後年自己批判も込めて「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と書き記している。当初は民部省が設置し、[[大蔵省]]、[[内務省 (日本)|内務省]]、[[農商務省 (日本)|農商務省]]と所管が移った。当時は世界でも有数の規模であり、[[和田英]]ら数百人の女工が日本全国から集められた。女工の労働環境は充実しており、[[六工社]]など後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。明治8年に日本人による操業が始まったが、大規模すぎたため十分に機能を発揮できずにいた。


== 観光 ==
官営工業の払い下げ令により、明治26年([[1893年]])に[[三井家]]へ払い下げられた。この間、日本で初めての洋式機械製糸場を[[前橋市|前橋]]に作った[[速水堅曹]]が[[内務省 (日本)|内務省]]に移り、2度、所長に就任、民営化されるまで操業を支えた。明治35年([[1902年]])には横浜の生糸商[[原合名会社]]([[原富太郎]])に渡り、[[昭和]]14年([[1939年]])、片倉製糸紡績会社([[片倉工業]])の所有となると昭和62年([[1987年]])[[3月5日]]まで約115年間操業を続けた。
[[ファイル:3代目上州富岡駅舎.jpg|thumb|上州富岡駅]]
富岡製糸場の一般公開は2005年から始まった。その年に富岡製糸場を訪れた観光客は3万人あまりであったが、2年後には約25万人に達した。その年の富岡市の観光名所の中では[[妙義山]](約76万4000人)、[[群馬サファリパーク]](約44万8000人)に次ぐ人数であり、富岡市の観光客数を押し上げる効果をもたらしていると考えられている<ref>{{Harvnb|桑島|2009|pp=133-134}}</ref>。2007年4月から見学は有料となった<ref>{{Harvnb|佐滝|2007|p=20}}</ref>(富岡市民は無料<ref name = kengaku>[http://www.tomioka-silk.jp/hp/visit/index.htm 見学するには](富岡製糸場公式サイト、2014年4月20日閲覧)</ref>)。自由見学とは別に、定時に40分程度の解説ガイドツアーが行われている(予約不要)<ref name = kengaku />。20名以上の団体として予約しておくと、専属の解説員についてもらうことができる<ref name = kengaku />。世界遺産登録の勧告が公表された翌日にあたる2014年4月27日には、1日あたりの来場者数の過去最高記録(3446人)を更新する4972人が訪れた<ref>「富岡製糸場 世界遺産へ / 来場者 過去最高4972人」『毎日新聞』2014年4月28日朝刊</ref>。


老朽化などを理由として、内部が一般公開されている建物は繰糸所と東置繭所のみである<ref name = Yomiuri140427>「富岡保存 熱意実る」「『100億円以上』改修費用課題」『[[読売新聞]]』2014年4月27日朝刊33面</ref>。2014年度中に揚返場の公開も予定されているが<ref name = Yomiuri140427 />、製糸場全体を公開するための修復工事には期間30年、費用100億円を費やす必要があると見積もられている<ref>「富岡製糸場 世界遺産へ / 受け入れ態勢に課題も」『[[毎日新聞]]』2014年4月27日朝刊27面</ref><ref name = nikkei140427>「富岡 結んだ西洋・伝統」『[[日本経済新聞]]』2014年4月27日朝刊35面</ref>。
== 史跡指定と世界遺産登録へ向けた動き ==
約1万5千坪の敷地内に開設当時の東・西繭倉庫(12メートル×104メートル)、繰糸場(12.3メートル×140メートル)、事務所、外人宿舎など[[煉瓦]]建造物がそのままの形で残っており、重要な[[近代化遺産]]である。


鉄道での最寄り駅は[[上信電鉄]]の[[上州富岡駅]](駅から1[[キロメートル|km]])<ref name = furuta_p153 />。[[上信電鉄]]の[[高崎駅]]では、上州富岡駅への往復切符と、富岡製糸場への入場券がセットになった往復割引乗車券が発売されている<ref>[http://www.joshin-dentetsu.co.jp/tetudou/sonota/seishijyo_kengaku_ouhuku_waribiki_jyousyaken.html 富岡製糸場見学往復割引乗車券](上信電鉄、2014年4月20日閲覧)</ref>。自動車の場合、[[上信越自動車道]][[富岡インターチェンジ (群馬県)|富岡インターチェンジ]]から3kmであるが、施設内への車の乗り入れは認められていない<ref name = furuta_p153>{{Harvnb|古田|古田|2013|p=153}}</ref>。
[[平成]]17年([[2005年]])[[7月14日]]付で「'''旧富岡製糸場'''」として国の[[史跡]]に指定され、平成18年([[2006年]])[[7月5日]]には明治8年(1875年)以前の建造物が国の[[重要文化財]]に指定された。なお、全ての建造物は平成17年(2005年)[[9月30日]]付けで地元富岡市に寄贈され、翌日からは市が管理(富岡製糸場課)を行っている。ボランティアガイドがおり、予約しておくと詳しく説明が受けられる。


== 脚注 ==
現在、群馬県・富岡市を中心に富岡製糸場とそれに関連する絹業文化遺産を、[[世界遺産]]に登録する取り組みが進められている。平成19年([[2007年]])[[1月30日]]には「富岡製糸場と絹産業遺産群」(The Tomioka Silk Mill and Related Industrial Heritage)として、日本の[[世界遺産#暫定リスト|世界遺産暫定リスト]]に加えられた。平成24年([[2012年]])7月12日、[[文化庁]][[文化審議会]]世界文化遺産特別委員会において、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産へ推薦することを了承した。
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|group = "注釈"}}


== 指定文化財 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
[[File:Tomioka Silk Mill.JPG|thumb|250px|<div style="text-align:center;">明治時代の写真から</div>]]
[[File:Inside Tomioka Silk Mill.JPG|thumb|250px|<div style="text-align:center;">当時の繰糸所</div>]]
; 重要文化財
建造物の重要文化財指定名称は以下のとおり(読み方は文化庁の国指定文化財等データベースによる)。
* 繰糸所(そうしじょ)
* 東置繭所(ひがしおきまゆじょ)
* 西置繭所(にしおきまゆじょ)
* 蒸気窯所(じょうきがまじょ)
* 首長館(しゅちょうかん)
* 女工館(じょこうかん)
* 検査人館(けんさにんかん)
* 鉄水溜(てっすいりゅう)
* 下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう) - 竇は汚水排出のための暗渠のこと。
; 史跡
* 旧富岡製糸場


== その他 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=石井|first=寛治|author-link=石井寛治|year=1972|date=1972年9月30日|title=日本蚕糸業史分析 - 日本産業革命研究序論|publisher=[[東京大学出版会]]}}
[[上信電鉄]]の[[高崎駅]]では、富岡製糸場の最寄り駅である[[上州富岡駅]]への往復切符と、富岡製糸場への入場券がセットになった往復割引乗車券が発売されている。
* {{Citation|和書|last=石井|first=寛治|year=1991|date=1991年3月25日|title=日本経済史|edition=第2|publisher=東京大学出版会}}
* {{Citation|和書|last=今井|first=幹夫|author-link=今井幹夫|year=2006|date=2006年9月10日|title=富岡製糸場の歴史と文化|publisher=みやま文庫}}
* {{Citation|和書|last=今井|first=幹夫|year=2007|date=2007年8月12日|contribution=富岡製糸場の超近代性とその使命について|title=写真集 富岡製糸場|publisher=片倉工業株式会社|pages=122-137}}
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* {{Citation|和書|last=今井|first=幹夫|year=2013|date=2013年3月29日|contribution=富岡製糸場の経営実態に関する一考察 - 特に原時代の後期と片倉時代の全期について|editor=富岡市|title=平成24年度富岡製糸場総合研究センター報告書|publisher=富岡市|pages=43-70}}
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* {{Citation|和書|last=岡野|first=雅枝|year=2013|date=2013年3月29日|contribution=富岡製糸場における女子労働者の教育・教養習得機会の変遷 - 産業遺産としての一側面の考察|editor=富岡市|title=平成24年度富岡製糸場総合研究センター報告書|publisher=富岡市|pages=1-41}}
* {{Citation|和書|last=桑島|first=裕|author-link=桑島裕|year=2009|date=2009年3月25日|contribution=富岡製糸場の保存とその活性化に向けた街づくりにみる諸問題|editor=[[高崎経済大学]]付属産業研究所|title=群馬・産業遺産の諸相|publisher=[[日本経済評論社]]|pages=124-144}}
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* {{Citation|和書|last=澤|first=護|author-link=澤護|year=1991|date=1991年3月31日|title=お雇いフランス人の研究|publisher=[[敬愛大学]]経済文化研究所}}
* {{Citation|和書|last=玉川|first=寛治|author-link=玉川寛治|year=2002|date=2002年3月15日|title=製糸工女と富国強兵の時代 - 生糸がささえた日本資本主義|publisher=[[新日本出版社]]}}
* {{Citation|和書|author=富岡製糸場世界遺産伝道師協会|year=2011|date=2011年11月15日|title=富岡製糸場事典|publisher=[[上毛新聞社]]|series=シルクカントリー双書}}
* {{Citation|和書|last=長谷川|first=秀男|author-link=長谷川秀男|year=1999|date=1999年2月28日|contribution=富岡製糸場と近代産業の育成 - お雇い外国人を中心に|editor=高崎経済大学付属産業研究所|title=近代群馬の蚕糸業 - 産業と生活からの照射|publisher=[[日本経済評論社]]|pages=59-102}}
* {{Citation|和書|last1=古田|first1=陽久|author1-link=古田陽久|last2=古田|first2=真美|author2-link=古田真美|year=2013|date=2013年11月20日|title=世界遺産ガイド -日本編- 2014改訂版|publisher=シンクタンクせとうち総合研究機構}}
* {{Citation|和書|editor=文化財建造物保存技術協会|year=2006|date=2006年2月|title=旧富岡製糸場建造物群調査報告書|publisher=富岡市[[教育委員会]]}}
* {{Citation|和書|last=文化庁文化財部|year=2006|date=2006年7月|contribution=新指定の文化財|title=月刊文化財|publisher=第一法規|pages=31-37}}
* {{Citation|和書|last=松浦|first=利隆|year=2007|date=2007年8月12日|contribution=昭和(片倉)時代の富岡製糸場の歴史|title=写真集 富岡製糸場|publisher=片倉工業株式会社|pages=138-149}}
* {{Citation|和書|last=宮崎|first=俊弥|year=2001|date=2001年10月31日|contribution=座繰製糸から器械製糸へ|title=群馬の歴史と文化 - 上州文化の源流をたずねて|publisher=みやま文庫|pages=213-234}}
* {{Citation|和書|last=三和|first=良一|author-link=三和良一|year=2002|date=2002年11月1日|title=概説日本経済史 近現代|edition=第2|publisher=東京大学出版会}}
* {{Citation|和書|last=山崎|first=益吉|author-link=山崎益吉|year=2009|date=2009年3月25日|contribution=市民の支援と産業遺産の関わり|editor=高崎経済大学付属産業研究所|title=群馬・産業遺産の諸相|publisher=日本経済評論社|pages=145-167}}
* {{Citation|和書|last=結城|first=雅則|year=2012|date=2012年3月30日|contribution=エシュト・リリアンタール商会と同商会横浜支店長ガイゼンハイマー - 生糸履歴調査の成果から|editor=[[富岡市]]|title=平成23年度富岡製糸場総合研究センター報告書|publisher=富岡市|pages=1-33}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[富岡市]]
* [[富岡市]]
* [[和田英]]
* [[和田英]]
* [[龍光寺 (富岡市)]] - 官営時代および三井時代の工女たち50人以上の墓がある。
* [[金沢製糸場]] - 富岡製糸場を模範として設立された。
* [[関東の史跡一覧]]
* [[関東の史跡一覧]]
* [[関東地方にある建造物の重要文化財一覧]]
* [[ヘリテージング100選]]
* [[九州・山口の近代化産業遺産群|明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域]] - 日本の世界遺産暫定リスト記載物件。
* {{仮リンク|リヨンの絹の歴史|fr|Histoire de la soie à Lyon}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.city.tomioka.lg.jp/ 富岡市]
* [http://www.city.tomioka.lg.jp/ 富岡市]
* [http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html 富岡製糸場 世界遺産推進ホームページ] (富岡市)
* [http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html 富岡製糸場 公式サイト](富岡市)
* [http://www.pref.gunma.jp/cate_list/ct00002731.html 世界遺産登録推進/富岡製糸場と絹産業遺産群] (群馬県)
* [http://www.pref.gunma.jp/cate_list/ct00002731.html 世界遺産登録推進/富岡製糸場と絹産業遺産群](群馬県)
* [http://worldheritage.pref.gunma.jp/ 富岡製糸場と絹産業遺産群 - 世界遺産登録に向けて] (群馬県)
* [http://worldheritage.pref.gunma.jp/ 富岡製糸場と絹産業遺産群 - 世界遺産登録に向けて](群馬県)
* [http://worldheritage.pref.gunma.jp/kinuisan/ ぐんま絹遺産 - 地域の文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業 - 群馬県] (群馬県)
* [http://worldheritage.pref.gunma.jp/kinuisan/ ぐんま絹遺産 - 地域の文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業 - 群馬県](群馬県)
* [http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.html 富岡日記] - 富岡製糸場の創業時に工となった士族の娘の日記
* [http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.html 富岡日記] - 富岡製糸場初期伝習工[[和田英]]の日記
* [http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2000/tomioka/tomioka.htm 富岡製糸場探検記]
* [http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2000/tomioka/tomioka.htm 富岡製糸場探検記]
* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]


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2014年4月30日 (水) 14:44時点における版

富岡製糸場
東置繭所
情報
用途 見学施設
旧用途 製糸工場
設計者 エドモン・オーギュスト・バスチャン(主要部分)
管理運営 富岡市
敷地面積 55,391.42 平方メートル m²
着工 1871年(明治4年)3月
竣工 1872年(明治5年)7月(主要部分)
開館開所 明治5年10月4日1872年11月4日
所在地 370-2316
群馬県富岡市富岡1番地1
座標 北緯36度15分19秒 東経138度53分16秒 / 北緯36.25528度 東経138.88778度 / 36.25528; 138.88778 (富岡製糸場)座標: 北緯36度15分19秒 東経138度53分16秒 / 北緯36.25528度 東経138.88778度 / 36.25528; 138.88778 (富岡製糸場)
文化財 史跡 / 重要文化財
指定・登録等日 2005年7月14日 / 2006年7月5日
備考 近代化産業遺産
世界遺産暫定リスト記載物件
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富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸[注釈 1]の工場である。1872年明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地全体が国指定の史跡、初期の建造物群が重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産の暫定リストに記載されており、2014年6月の第38回世界遺産委員会ドーハ)で正式登録される見通しである[1][2]

時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「富岡製糸所」(1876年から)、「原富岡製糸所」(1902年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年から[注釈 2])とたびたび名称を変更している[3]。史跡、重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は単なる「富岡製糸場」である。

概要

日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。

富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。

1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能し続けた。

空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所をはじめとする開業当初の木骨レンガ造りの建造物群が良好に残っている。2005年に敷地全体が国指定の史跡、2006年に初期の主要建造物が重要文化財の指定を受け、2007年には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年6月に世界遺産登録の可否が審議される。

歴史

建設決定まで

開国直後の日本では、生糸蚕種などの輸出が急速に伸びた。ことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランスイタリア微粒子病[注釈 3]という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや[4]太平天国の乱によっての生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった[5]。その結果、1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めるまでになったが[6]、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった[7][8]。また、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じた[5]

明治政府には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されており、エシュト・リリアンタール商会[注釈 4]からは資金提供の申し出まであった。これが直接的な引き金となって器械製糸工場建設が実現に向かうが[9]、政府内では外国資本を入れず、むしろ国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年(明治3年)2月に器械製糸の官営模範工場建設が決定した[10][11]。これは粗製濫造問題への対応というよりも、従来の座繰りによる製糸では太さが揃わなかったために、経糸(たていと)よりも安価で取引される緯糸(よこいと)として使われることが多かった実態を踏まえ、その改良を志向した側面があったとも言われている[12]

同時に政府は器械製糸技術の導入を奨励しており[7]前橋藩では速水堅曹らが同じ年に藩営前橋製糸所を設立した。これは日本初の器械製糸工場と見なされているが[13]、イタリアで製糸業に従事した経験を持つスイス人ミュラーを雇い入れ、イタリア式の製糸器械を導入したものであり、当初は6人繰り、次いで12人繰りという小規模なものにとどまった[14][15]

伊藤博文渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケおよびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー (F. Geisenheimer) に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ (Paul Brunat) の名が挙がった[16]。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ[17]

尾高惇忠

ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県群馬県埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、明治3年閏10月7日に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと[18]、同月17日には富岡を建設地とすることを最終決定している[19]。この決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること[20]、水や石炭などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、元和年間に富岡を拓いた代官中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられること[11]など、様々な用件が考慮された結果であった。

建設

明治期の富岡製糸場外観

ブリューナは製糸場の設計のために、横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼し、設計図を作成させた[21]。バスチャンは明治3年11月初旬に依頼を受けると、同年12月26日(1871年2月15日[22])に完成させた[21]。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造りの横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている[21][23][注釈 5]

ブリューナは設計図の完成を踏まえ、翌月22日(1871年3月12日[22])に器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した[22]。ブリューナは建設予定地調査の折に、地元工女に在来の手法で糸を繰らせて日本的な特徴を把握しており[24]、それを踏まえて製糸場用の器械は特別注文した[25]。目的を達したブリューナはその年の内、すなわち明治4年11月8日(1871年12月19日)に妻らとともに再来日を果たすことになる。

他方で、ブリューナが日本を発ったのと同じ月には、尾高惇忠が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871年(明治4年)3月には着工にこぎつけていた[11]。建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、明戸村(現埼玉県深谷市)からも瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に設置した窯で焼き上げた[26]。この時期、民部省庶務司から大蔵省勧業司へと所管が変わった(明治4年7月24日)[27]

建設を進めることと並行し、明治5年(1872年)2月12日に政府から工女[注釈 6]募集の布達が出された[28]。しかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、思うように集まらず、政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出した[29][25]。このような状況の中で尾高は、噂を払拭する狙いで娘の勇(ゆう)を最初の工女として入場させた[30][31][注釈 7]。富岡製糸場は、1872年7月に主要部分の建設工事が終わるのに合わせて開業される予定だったが、予定よりも遅れた[25]。その理由の一つには、この工女不足の問題があったと推測されている[32]

官営時代

富岡製糸場は、明治5年10月4日1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった[33]。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた[25]。同年4月に就業していた工女は556人となり[34]、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた[35][25]

 
富岡製糸場の繰糸場
(上・明治時代、下・操業停止後)

製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた[36][37]。また、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。揚返(あげかえし)は再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけではセリシン(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった[38]。これに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰(ちょくそう)式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった[39]。前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった[40][注釈 8]

工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇[41][42]、1日8時間程度[注釈 9]の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された[43]。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された[44]。しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった[43]。そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった[45]。また、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた[46]

工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった[43]。工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した[47]。これは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが[48]、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく[49][47]リヨンミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる[50]。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や春日蝶が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった[51]

初期の富岡製糸場は初代所長(場長)尾高惇忠、首長ポール・ブリューナを中心に運営されたが、前述の不熟練工の問題やブリューナ以下フランス人教婦、検査人などのお雇い外国人たちに支払う高額の俸給、さらに官営ならではの非効率さなどの理由から大幅な赤字が続いていた[52][53]

契約満了につきブリューナとフランス人医師が去った1875年(明治8年)12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなった[54]。日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度[注釈 10]には大幅な黒字に転じた。この理由としては、お雇い外国人への支出がなくなったことのほか、所長の尾高の大胆な繭の思惑買いなどが奏功したことが挙げられる[55]。しかし、尾高の思惑買いは、彼が当時政府が認めていなかった秋蚕の導入に積極的だったことなどと併せ、政府との対立を生む原因になり、尾高は富岡製糸場が富岡製糸所と改称された翌月に当たる1876年(明治9年)11月に所長を退いた[56]

翌年度には、従来、エシュト・リリアンタール社を経てリヨンに輸出されていた生糸が、三井物産によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった[57][注釈 11]

内務省の官吏だった速水堅曹はかねてから民営化も含めた抜本改革を提言していたが、西南戦争(1877年)の勃発によって一時的に棚上げされた[58]。しかし、1878年(明治11年)にパリ万国博覧会に赴いていた松方正義(当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘されたことから、速水が富岡製糸所の改革を任されることになる[59][60]。速水は、尾高の後任だった山田令行が改革を阻害しているとして更迭を進言し、これを実現させた[61]。松方は後任として速水を第3代所長に任命したが、民営化を主張する速水は1880年(明治13年)11月5日の「官営工場払下概則」制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社設立に関わり所長を辞任、かわって同伸会社の社長に就任した[62]。この時点では、民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受けるという話が、松方との間で事実上内定していたが、群馬県令の反対などもあって、政府は最終的にこれを認めなかった[63]。他方で、ほかに払い下げを希望する民間人は現れなかった。富岡製糸所の巨大さが、当時の民間資本では手に余る存在だったからと言われている[64][65]。「官営工場払下概則」が結果的に払い下げを促進することにはならずに1884年に廃止されると、官営工場の払い下げは急速に進んだが[66]、富岡製糸場は払い下げの見通しが立たないまま、官営の時期がなおも続いた。

第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた[67]。そうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外にニューヨークにも輸出するようになっていた[68]。彼は製糸所所長として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた[69][70][注釈 12]。他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。

三井家時代

中上川彦次郎

1891年(明治24年)6月に払い下げのための入札が初めて行われたが、このときに応札した片倉兼太郎貴志喜助はいずれも予定価額(55,000円)に大きく及ばず、不成立になった[71]。改めて1893年(明治26年)9月10日に行われた入札では、最高額入札となった三井家が12万1460円をつけ、予定価額10万5000円[注釈 13]を上回ったため、払い下げが決定した(引渡しは10月1日)[72]

三井家の時代の経営はおおむね良好で[3][73]、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか[74]、新型繰糸機を導入するなどし[3]、すべてアメリカに輸出した[75]。寄宿舎も新設したが、工女の約半数は通勤になっている[76]。工女の労働時間は、開業当初に比べると伸ばされる傾向にあり、6月の実働時間は11時間55分、12月には8時間55分となっていた[77]。読み書きや裁縫を教える1時間程度の夜学は継続されていたが、長時間労働で疲れた工女たちは必ずしも就学に熱心でなかったという[78]

三井は富岡以外にも3つの製糸工場を抱えていたが、4工場全てを併せた収益は好調とはいえなかった[79]。また、三井家の中で製糸工場の維持に積極的だった銀行部理事の中上川彦次郎が病没したことも、製糸業存続には向かい風となった[80]。こうして、三井は1902年(明治35年)9月13日に4工場全てを一括して原富太郎原合名会社に譲渡した[81]。原が4工場の代価として支払ったのは、即金10万円と年賦払い(10年)13万5000円であった[81]

原合名会社時代

原合名会社が富岡製糸所を手に入れると、その翌月に当たる1902年10月に原富岡製糸所と改名した[3]。1900年前後には郡是製糸(現グンゼ)を始め、繭質改良に積極的な事業者が現れ、蚕種を安価で配布するものも現れていた[82]。蚕種を養蚕農家に配布することは、繭の品質向上と均質化に寄与するものであった。原合名会社も、まず原名古屋製糸所で1903年(明治36年)から蚕種の配布を始め、1906年(明治39年)からは原富岡製糸所でも開始した[83]。原富岡での蚕種の配布は無償で行なわれ、その数を増やしていく上では、群馬で発祥し、全国的に影響のあった養蚕教育機関高山社の協力も仰いだ[83]。また、工女たちの教育機会の確保は継続されており、娯楽の提供などの福利厚生面にも配慮されていたが、それらについては「普通糸」よりも質の高い「優等糸」を生産していた富岡製糸所にとっては、熟練工をつなぎとめておくことが必要であったからとも指摘されている[84][85][注釈 14]

原時代は第一次世界大戦(1914年勃発)や、世界恐慌(1929年)に見舞われた時期を含んでいる。いずれの時期にも生産量は減少しており、ことに1932年(昭和7年)には大幅な減少を経験した[86]。しかし、それから間もなく8緒[注釈 15]TO式繰糸器御法川式繰糸器を撤去し、20緒のTO式および御法川式を大増設し、生産性は上昇した[87]。1936年(昭和11年)には14万7000kgの生産量を記録し、過去最高となった[88]

このように生産性の向上は見られたが、満州事変日中戦争によって国際情勢は不安定化していき、1938年(昭和13年)には群馬県最大(全国2位)の山十製糸が倒産した[89]。このような情勢の中、原富岡製糸所の大久保佐一工場長が組合製糸会社(大久保が社長を兼務)のトラブルがもとで自殺したことや、原富太郎の後継者原善一郎が早世するなど、原合資会社内部の混乱が重なっていた[90]。さらに、主要輸出先アメリカで絹の代替となるナイロンが台頭し、先行きにも懸念があった[91]。そのため、原合名会社は山十が倒産したのと同じ1938年に製糸事業の縮小に踏み切った[92]。富岡製糸所は切り離されて、同年6月1日に株式会社富岡製糸所として独立した[93]。形式上の代表取締役は西郷健雄(原富太郎の娘婿)であったが[94]、経営は筆頭株主の片倉製糸紡績会社が担当することになった[92]

片倉時代

株式会社富岡製糸所は当時、日本最大級の繊維企業であった片倉[95]に合併されることになり、株主総会での合意を経て、1939年(昭和14年)4月29日に公告された[93]。この実質的に原が片倉に委任した一連の経緯に関し、原側は片倉以外には「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる」委任先が存在しないという認識を示していた[96]。原富太郎は後継者を失った中で自身の高齢についても懸念を抱いていたとされるが[97]、富岡製糸所が片倉に合併されたこの年に没している[98]。なお、前述のように官営時代末期の最初の入札時に応札した一人が片倉兼太郎であり、三井家が落札したときに競り負けた企業の一つ、開明社でその時に実権を握っていたのも片倉兼太郎であった[99]。こうしたことから、片倉は古くから富岡製糸所の経営に意欲を持っていたとされている[99][100]

合併の年に片倉富岡製糸所と改称され[3]、1940年(昭和15年)には18万9000kgの生産量を記録し、過去最高記録を塗りかえたが、太平洋戦争直前の社会情勢は生産に多大な影響を及ぼした[101]。1941年(昭和16年)3月公布の蚕糸事業統制法によって片倉富岡製糸所も統制経済に組み込まれ、同年5月の日本蚕糸統制株式会社の成立によって、富岡製糸所は片倉から同株式会社に形式上賃貸されることとなった[102][103][注釈 16]。片倉本体は航空機関連の軍需生産に軸足を移し、1943年(昭和18年)に片倉工業株式会社と改称した[104]。太平洋戦争中には片倉が所有していた製糸工場は廃止や用途転換が多く見られたが、富岡製糸所はその主たる用途が軍需用の落下傘向けであったとはいえ、製糸工場として操業され続けた[105]。兵隊として男子を取られていた農村の労働力を埋める必要から、工女の数は著しく減少したが、繰糸機の増設によってカバーした[106]。ただし、輸出中心に発展してきた富岡製糸所の歴史の中で、初めて輸出量が皆無となった[107]

戦後、GHQは経済の民主化を進め、1946年(昭和21年)3月1日に日本蚕糸統制株式会社も解散させられ、富岡製糸所も名実ともに片倉に戻った[108][注釈 17]。この年から片倉工業株式会社富岡工場となった[3][注釈 18]

前述の通り、富岡製糸所は戦時中も一貫して製糸工場として機能し続けた少ない例の一つであり、しかも、空襲などの被害も受けることなく、終戦を迎えていた[109]。1952年(昭和27年)からは自動繰糸器を段階的に導入し[110]電化を進めるために所内に変電所も設けた[111]。その後も、最新型の機械へと刷新を繰り返し、1974年(昭和49年)には生産量37万3401kgという、富岡製糸場(所)史上で最高の生産高をあげた[112]

この間、工場労働者を取り巻く環境も変化した。戦後、労働者保護法制が整備されたことから、二交替制が導入された[113]。片倉工業は戦前に青年学校令(1935年)に基づく工場内学校を設置しており、富岡製糸所にも合併した年に私立富岡女子青年学校を開校していた[114]。戦後になると、1948年に新しい時代に対応した教育要綱を社内で作成し、各地に知事認可で高校卒業資格を取得できる片倉学園を設置した[115]。富岡工場にも、寄宿舎入寮者は無料で学べた片倉富岡学園が開校された[115]。当時は義務教育終了と同時に就職する女性も多かったため、片倉工業はそういう女性たちに良妻賢母教育を施すことを自社の社会的責任と位置づけていたのである[116][注釈 19]

しかし、和服を着る機会の減少などの社会情勢の変化に加え、1972年(昭和47年)の日中国交正常化が中国産の廉価な生糸の増加を招いたことから[117]、生産量は減少に向かい[118]、1987年(昭和62年)に操業を停止、同年3月4日に閉業式が挙行された[119]

世界遺産登録へ向けた動き

片倉工業は富岡工場(旧富岡製糸場)を閉業した後も一般向けの公開をせず、「貸さない、売らない、壊さない」の方針を堅持し、維持と管理に専念した[120][注釈 20]。富岡製糸場は巨大さゆえに固定資産税だけで年間2000万円、その他の維持・管理費用も含めると最高で1年間に1億円以上かかったこともあるとされる[121]。また、片倉は修復工事をするにしても、コストを抑えることよりも、当時の工法で復原することにこだわったという[122]。こうした片倉の取り組みがあったればこそ、富岡製糸場が良好な保存状態で保たれてきたとして、片倉の貢献はしばしば非常に高く評価されている[123][124]

富岡製糸場の操業停止を受けて、市民レベルでもその価値を伝えていこうとする学習会「富岡製糸場を愛する会」が、当初は細々としたものではあったが、1988年に発足した[125]。この団体は継続的に活動しており、特に活発な市民団体とされている[126]

富岡市の取り組みでは今井清二郎の市長在任中(1995年 - 2007年)が、ひとつの大きな画期となっている[127]。今井は市長就任前から富岡製糸場に強い関心を抱いており、市長になると片倉工業との交渉を開始した[128]。そんな中、2003年(平成15年)に群馬県知事小寺弘之が富岡製糸場について、「ユネスコ世界遺産登録するためのプロジェクト」を公表した[129]。翌年12月には県知事、市長、片倉工業社長の三者での合意が成立し、富岡製糸場が富岡市に寄贈されることとなった[130](土地は有償で売却、建物は無償譲渡[131])。2005年(平成17年)9月30日付けで富岡市に寄贈され、翌日からは市(富岡製糸場課)が管理を行っている[132][注釈 21]

2005年(平成17年)7月14日付で「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、2006年(平成18年)7月5日には1875年(明治8年)以前の建造物が国の重要文化財に指定された[133]。2006年には毎日新聞社の記念事業「ヘリテージング100選」に選出され、2007年11月30日には経済産業省から、近代化産業遺産のひとつ「『上州から信州そして全国へ』近代製糸業発展の歩みを物語る富岡製糸場などの近代化産業遺産群」の構成遺産に認定された[134]

上信電鉄200形電車(2007年)。世界遺産登録を推進する広告で飾られている

文化庁が2006年と2007年に、全国の地方自治体から世界文化遺産の追加提案候補を公募した際には、群馬県と富岡市、および他の7市町村が共同で「富岡製糸場と絹産業遺産群 - 日本産業革命の原点」を提案した。これは2007年1月30日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、日本の世界遺産暫定リストに記載された。いわゆる近代化遺産が暫定リストに加えられたのは、これが初めてである[135]。その後、富岡製糸場以外の構成資産の候補は何度も見直されたが、2012年8月23日に国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) の世界遺産センターに正式推薦されることが決定し[136]、2013年1月31日に正式な推薦書が世界遺産センターに受理された[137]日本の世界遺産として産業遺産が推薦されるのは、石見銀山遺跡とその文化的景観(2006年推薦、2007年登録)以来、2例目のことである。

2013年9月25日から26日にかけて、世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) から派遣された中国国立シルク博物館館長の趙豊が、現地調査を行なった[138]。この現地調査を踏まえ、2014年4月26日未明(日本時間)に「登録」の勧告がICOMOSから出された[139]。この勧告に基づいて、同年6月の第38回世界遺産委員会で正式に登録される見通しである。

作業工程

関連する主要建造物は後節を参照のこと

富岡製糸場では、購入した繭の乾燥・貯蔵から出荷のために束ねることまでの一連の工程を行えるようになっていた。

乾繭(かんけん)は購入した繭を乾燥する工程で、繭の中の蛹を殺すことと、カビの発生を防ぐことを目的としている[140]。当初は蒸気釜所の横に設置された燥繭所(そうけんじょ)で行われており[141]、火炉の輻射熱を利用する方式で乾燥させていた[140]。乾燥させた繭は置繭所(繭倉庫)に貯蔵された後、選繭(せんけん)にかけられる。この工程は、不備のある繭を除外するとともに、繭の質によって等級に分け、用途を決めていた[142]

このあと、煮繭(しゃけん)にかけられる。これは繭から糸を引き出すために行う工程だが、当初の繰糸器には煮繭用の釜がついており、繰糸所で行われていた[143]。そして、引き出した糸を複数撚り合わせて繰糸(そうし)をした。日本の場合、そのあとに、前述の通り、小枠に巻き取った生糸を大枠に巻きなおす揚返(あげかえし)という工程が存在する。揚返をした後の生糸は出荷のために束ねられる。この工程を束装(そくそう)という[144]

この一連の工程は開業当初から操業停止時まで、基本的には変化がない。ただし、当初は繰糸所で煮繭、繰糸、揚返を行なっていたものが、煮繭場や揚返工場の設置によって工程が分離されたり、機械化も進むなどの変化はあった[145]。また、作業で発生したくず繭、くず糸などの副蚕糸(ふくさんし)の処理は、一切行なっていなかったが[注釈 22]昭和時代になって副蚕工場が設置された[146]

主な建造物

富岡製糸場はその敷地が史跡に指定されており(指定面積55,391.42 平方メートル[147]、開業当初の主として木骨レンガ造りの建造物群が重要文化財に指定されている(指定名称はどちらも「旧富岡製糸場」)。以下では重要文化財指定されている建物のほか、各期の主な建物について述べる。

重要文化財

重要文化財「旧富岡製糸場」として指定された建造物は以下のとおりである。太字は重要文化財指定時の官報告示に基づく建造物名(読み方は文化庁の国指定文化財等データベースによる)で、一部には現在名を細字で併記した[148]

岡谷蚕糸博物館の繰糸器

繰糸所(そうしじょ)あるいは繰糸工場は、富岡製糸場の中で中心的な建物である。敷地中央南寄りに位置する、東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。平面規模は桁行140.4 m、梁間12.3 mである。東端に玄関を設ける。小屋組は木造のキングポストトラスである。[149][150][151]。繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって採光がなされている[151]。この巨大な作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。富岡製糸場に導入された器械製糸は、それ以前の揚げ返しを含まない西洋器械をそのまま導入していた事例と異なっており、1873年から1879年の間に実に全国26の製糸工場に導入された[152]。操業されていた器械(機械)は時代ごとに移り変わったが、巨大な建物自体は増築などの必要性が無く、創建当初の姿が残された[153]。なお、ブリューナが導入した操業当初の器械を含む過去の器械類については、片倉工業が岡谷市市立岡谷蚕糸博物館に寄贈したことから、そちらに保存されている[154]

東繭倉庫(東置繭所)

東置繭所(ひがしおきまゆじょ)と西置繭所(にしおきまゆじょ)あるいは東繭倉庫と西繭倉庫は、繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所、繰糸所、西置繭所の3棟が「コ」の字をなすように配置されている。東西置繭所ともに1872年の竣工で、桁行104.4 m、梁間12.3 m、木骨レンガ造2階建てで、屋根は切妻造、桟瓦葺きとする。その名の通り、主に2階部分が繭置き場に使われた。両建物とも規模形式はほぼ等しいが、東置繭所は南面と西面に、西置繭所は南面と東面に、それぞれベランダを設ける。また、東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。この通路上のアーチの要石には「明治五年」の刻銘がある[155][156][157]。開業当初の繭は養蚕が主に春蚕のみを対象としていたため、春蚕の繭を蓄えておく必要から建設され、2棟合わせて約32トンの繭を収容できたとされている[157]。2階部分が倉庫とされたのは、風通しなどへの配慮もあった[156]。東置繭所の1階部分は当初事務所などに、西置繭所の1階部分は燃料となる石炭置き場に、それぞれ活用されていたが、のちにはどちらも物置などに転用され、建造当初に存在していた間仕切りなどはなくなっている[158]

蒸気釜所(じょうきかましょ。1872年竣工)は、繰糸所のすぐ北に建つ。南北棟、木骨レンガ造、桟瓦葺きの部分と東西棟、木造、鉄板葺きの部分に分かれ、前者は蒸気釜所の一部が残ったもの、後者は汽罐室の2スパン分が残ったものである[159][160]。製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使われた。ブリューナが導入した単気筒式の蒸気エンジンはブリューナ・エンジンと呼ばれ、今は片倉工業の寄贈によって博物館明治村愛知県犬山市)で展示されている[161]。1920年に動力が電化されるとブリューナ・エンジンは使われなくなり、のちには煮繭所などに転用された[162]。現在名は煮繭場・選繭場である。蒸気釜所の西には、操業当初に立っていたフランス製鉄製煙突の基部が残されており[163]、蒸気釜所の「附」(つけたり)として重要文化財に指定されている(指定名称は「烟筒基部 1基」)[164][165]。当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36 mを備えていたが[166]、1884年(明治17年)9月26日に暴風で倒れてしまったため、現存しない[167]。なお、現在の富岡製糸場に残る高さ37.5 mの煙突はコンクリート製で、1939年に建造されたものである[163]

鉄水溜(てっすいりゅう。1875年竣工)あるいは鉄水槽は、蒸気釜所の西側にある鉄製の桶状の工作物。鉄板をリベット接合して形成したもので、径15メートル、深さ2.4メートルであり、石積の基礎を有する[168]。創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400トンに達する[169]。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われる[170][169][171]

逆に排水を担ったのが下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう)あるいは煉瓦積排水溝で、いずれも1872年にレンガを主体として築かれた暗渠である[172]。西洋の建築様式を取り入れた下水道は、当時はまだ開港地以外で見られることは稀であり、これらの遺構もまた建築上の価値を有している[173]。下水竇は繰糸所の北側にあり、建物にに並行して東西に通じ、延長は186 m。外竇は下水竇の東端から90度折れ、敷地外の道路に沿って南方向に伸びるもので、延長135 m。排水は鏑川に注がれた[174]

検査人館内部

首長館(しゅちょうかん。1873年竣工)あるいはブリューナ館(ブリュナ館)は、繰糸所の東南に位置する。木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺き。平面はL字形を呈し、東西33 m、南北32.5 mである。内部は後の用途変更のため改変されている[175]。別名が示すようにブリューナ一家が滞在するために建設された建物である[176][177]。この建物は面積916.8 m2と広く、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され[177]、戦後にも片倉富岡学園の校舎としても使われた[178]。従来、工女教育のために竣工当初の姿が改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を伝える産業遺産として、その意義を積極的に捉えようとする見解もある[178]

女工館(じょこうかん)あるいは2号館は首長館と同じく1873年の竣工で、東置繭所の東側、南寄りに位置する。木骨レンガ造、2階建、東西棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西20.1 m、南北17.4 mである[179]。この建物は、ブリューナがフランスから連れてきた教婦(女性技術指導者)たちのために建てられたものであった。しかし、4人の教婦のうち、マリー・シャレー(Marie Charet / Charay, 19歳[注釈 23])は病気のために1873年10月23日に富岡を離れ、同28日に横浜から帰国した[180]。次いでクロランド・ヴィエルフォール(Clorinde Vielfaure, 年齢不詳)とルイーズ・モニエ(Louise Monier / Maunier, 27歳)も病気に罹り、1874年3月11日に富岡を発った[180]。残るアレクサンドリーヌ・ヴァラン(Alexandrine Vallent, 25歳)は健康ではあったが、一人だけ取り残されることを良しとせず、同じ日に富岡を発った[181][注釈 24]。こうして、4年の任期を誰一人まっとうできずに帰国してしまったため、女工館は竣工まもなく空き家となった[182]。その後、三井時代には役員の宿舎、原時代には工女たちの食堂など、時代ごとに様々な用途に転用された[183]

検査人館(けんさにんかん)あるいは3号館は1873年竣工で、東置繭所の東側、女工館の北に建つ。木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西10.9 m、南北18.8 mである[184]。もともとはブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として建てられたものであったが、検査人ジュスタン・ベラン(Justin Bellen, 29歳[注釈 25])とポール・エドガール・プラー(Paul Edgar Prat, 23歳)は、無許可で横浜に出かけ、怠業したという理由で1873年10月30日に解雇されていた[185][注釈 26]。また、ブリューナが教婦や検査人を連れて来たのとは別の時期(詳細日程未詳)に来日し、1872年に雇い入れられた銅工[注釈 27]のジュール・シャトロン(Jules Chatron, 27歳)も、1873年11月20日には富岡を離れていた[186]。このため、かわりに外国人医師の宿舎になっていたようである[187]。正門近くにあり、現在は事務所になっている[188]。首長館、女工館、検査人館はいずれもコロニアル様式の洋風住宅と規定されている[189]。なお、1881年の記録には第4号官舎、第5号官舎の名前も見られるが、いずれも現在は失われている[190]

上記のほか、正門脇で出入りする人々をチェックしていた候門所(こうもんじょ)が、重要文化財「旧富岡製糸場」の「附」(つけたり)として指定されている[191]。この建物は、開業当初の建物の中では珍しい木造平屋建てで、1943年の行啓記念碑(後述)建設にあたって移転した[192]。のちに社宅に転用された[193]

三井時代の建造物

(旧)第二工場は、1896年(明治29年)に竣工した木造平屋建てである[194]。これに伴い開業当初の繰糸所は第一工場と改名されたが、原時代に再び繰糸所は一元化されたため、1911年に繰糸所としての機能を停止した。第二工場は選繭場、煮繭場などとして転用され、片倉時代には副繭(製糸作業で出るくず繭、くず糸など)の加工処理施設に転用された[195]。現在残る建物は、竣工当初のものよりも短縮されている[194]

第二工場と同じ年に、首長館の隣に建てられたのが寄宿舎の一つである榛名寮で、以前の寄宿舎の老朽化に対処するものだった[194]。以前の寄宿舎は解体され[196]、木造二階建ての榛名寮の建材には転用されたものが含まれる[194]。首長館の隣は日当たりが良く、そこへ移転したのは、工女たちの住環境への配慮だったとされる[196]

ほかに建物ではないが、敷地内で三井時代と結びつく場所としては殿下山がある。原合名会社に譲渡される直前の1902年(明治35年)6月2日、皇太子殿下(のちの大正天皇)が登ったとされる小山である[197]

原時代の建造物

揚返工場(あげかえしこうじょう)は、1919年(大正8年)に繰糸所の隣に建てられた梁間9.1 m、桁行136.4 mの木造平屋建ての作業場である[198]上記の歴史節で述べたように、開業当初は繰糸所に揚返器が併設されていた。しかし、生産量の増大に対応して、揚返専用の建物が建てられることになったものである[199]

ほか、生繭の蛹を殺し、繭を乾燥させる施設である乾燥場・繭扱場(大正から昭和)、1919年(大正8年)に建てられた糸蔵と旧計算所(ともに木造平屋建て)、女工館と検査人館の間に建てられた男子寄宿舎などが、この時期の建物である[200]

なお、原時代の蚕種改良を担った蚕種製造所(1907年竣工)は片倉時代にも使われていたが、1980年代半ばに解体されたため、現存していない[201]

片倉時代の建造物

太平洋戦争終戦前に建てられたものとしては、1940年(昭和15年)の浅間寮と妙義寮がある。これらは女子寄宿舎で、ともに梁間7.3 m、桁行55.0 mの木造2階建てである[202]。同じ年には首長館の東にあった原時代の診療所・病室が新しく建て替えられた[203]

また、戦時中の1943年(昭和18年)には、英照皇太后昭憲皇后の行啓70周年を記念して、高さ4.6 m、幅1.86 mの行啓記念碑が建てられ[204]、盛大に祝われた[205]

戦後になると新たに複数の揚返工場が建てられたほか、高圧変電所、汽缶場、揚水ポンプ小屋など、各種建造物が増築された[206]

観光

上州富岡駅

富岡製糸場の一般公開は2005年から始まった。その年に富岡製糸場を訪れた観光客は3万人あまりであったが、2年後には約25万人に達した。その年の富岡市の観光名所の中では妙義山(約76万4000人)、群馬サファリパーク(約44万8000人)に次ぐ人数であり、富岡市の観光客数を押し上げる効果をもたらしていると考えられている[207]。2007年4月から見学は有料となった[208](富岡市民は無料[209])。自由見学とは別に、定時に40分程度の解説ガイドツアーが行われている(予約不要)[209]。20名以上の団体として予約しておくと、専属の解説員についてもらうことができる[209]。世界遺産登録の勧告が公表された翌日にあたる2014年4月27日には、1日あたりの来場者数の過去最高記録(3446人)を更新する4972人が訪れた[210]

老朽化などを理由として、内部が一般公開されている建物は繰糸所と東置繭所のみである[211]。2014年度中に揚返場の公開も予定されているが[211]、製糸場全体を公開するための修復工事には期間30年、費用100億円を費やす必要があると見積もられている[212][213]

鉄道での最寄り駅は上信電鉄上州富岡駅(駅から1km[214]上信電鉄高崎駅では、上州富岡駅への往復切符と、富岡製糸場への入場券がセットになった往復割引乗車券が発売されている[215]。自動車の場合、上信越自動車道富岡インターチェンジから3kmであるが、施設内への車の乗り入れは認められていない[214]

脚注

注釈

  1. ^ 当初導入された製糸器械は、人手に依存する部分も多いので、「機械」ではなく「器械」の語があてられる(長谷川 1999, p. 95、宮崎 2001, p. 216)。ただし、「器械」と「機械」の使い分けは分野ごとの慣例に基づくものにすぎないとして、当初のマシンを「機械」として問題ないとする認識を示す者もいる(玉川 2002, p. 80)。
  2. ^ 富岡工場への改名を1961年(昭和36年)としている文献もある(岡野 2013, p. 25、富岡製糸場世界遺産伝道師協会 2011, p. 230)。また、戦前に片倉工業が改名されたのを機に片倉工業株式会社富岡工場となっていたとする文献もある(今井 2007, p. 136)
  3. ^ 微粒子病は、フランス語名ペブリヌ (Pébrine) の語源が「コショウ」である通り(『ロベール仏和大辞典』小学館)、蚕に小さな黒い斑点ができ、衰弱死する病気である(今井 2006, p. 7)。ルイ・パストゥールが究明するまでは、原因不明の奇病であった。
  4. ^ エシュト・リリアンタール商会は、パリのセリグマン・エシュト (Seligmann Hecht) とリヨンのシジスモン・リリアンタール (Sigismond Lilienthal) という2人の貿易商人によって、1859年に創業されたリヨンの貿易会社であり、リヨンの商社では最初に横浜に進出した(結城 2012, p. 8)。「ヘクト・リリアンタール商会」ほか、複数の表記がある(結城 2012, p. 1)。
  5. ^ 現存する建物でバスチャンが確実に設計したのは、繰糸所、東置繭所、西置繭所、蒸気釜所の4棟のみとされる(今井 2006, p. 51)。
  6. ^ 女性の繰糸工のことは「工女」のほか、「女工」などの呼び方もあるが、富岡製糸場では当初から「工女」の呼称が用いられていたため(岡野 2012, p. 54)、この記事でも「工女」で統一する(フランス人教婦の宿舎として建設された『女工館』はこの限りではない)。
  7. ^ 勇は安政5年(1858年)ころの生まれで(富岡製糸場世界遺産伝道師協会 2011, p. 134)、当時13歳(文化財建造物保存技術協会 2006, p. 10)ないし14歳(今井 2006, p. 61)とされる。1875年に富岡を退職した(富岡製糸場世界遺産伝道師協会 2011, pp. 134–135)。
  8. ^ 特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる(今井 2006, p. 38)。
  9. ^ 繰糸の作業は明るさが必要で自然光に依存したため、日が出ている間が労働時間となった。結果、季節ごとの変動はあるものの、設立当初は8時間、明治8年から9年ころには7時間45分となっていた(岡野 2012, p. 39)。
  10. ^ 当時の年度は明治9年7月から10年6月までだった(今井 2006, p. 114)。明治18年度に調整が行なわれ、明治19年度からは4月から翌3月に変更されることになる(今井 2006, p. 135)。
  11. ^ 1874年(明治7年)の時点で世界最大の生糸消費国はフランスであった。その消費量は1800万ポンドあまり(約8300トン)にのぼったが、そのうち1400万ポンド以上を輸入に頼っていた。世界2位と3位の消費量の清とインドは自国生産でまかなうことができており、フランスの輸入大国ぶりは際立っていた(石井 1972, pp. 19–20)。
  12. ^ 世界の生糸需要は、明治末期にはフランス中心からアメリカ中心へとシフトした。1907年から1910年の平均をとると、絹織物業が成長したアメリカが1900万ポンド近くを消費して世界1位の生糸消費大国となったのに対し、1000万ポンドを割り込んだフランスは、清や日本にも消費量で劣る状況になっていた(石井 1972, pp. 20–21)。
  13. ^ 置繭所に残っていた8万円相当の繭の代金を含む金額。
  14. ^ 「優等糸」は経糸にほぼ等しく、「普通糸」は緯糸にほぼ等しい(石井 1972, p. 35)。
  15. ^ 同時に繰る生糸の数。8条と表記する文献もある。
  16. ^ 日本の製糸企業を統合した日本蚕糸統制株式会社の社長には片倉の社長が就任した。そのため、富岡製糸所の賃貸契約書に記載された片倉社長と日本蚕糸社長の名前はどちらも片倉兼太郎である(今井 2013, pp. 54–55)。
  17. ^ 片倉工業としての労働組合が富岡製糸所内で同年2月21日に結成されていることから、富岡製糸所の片倉への復帰は、日本蚕糸統制株式会社の正式な解散よりも前だったという指摘もある(今井 2013, p. 56)
  18. ^ 前述のように、富岡工場への改名の時期は文献によって異なっている。
  19. ^ 入学は任意だったので(岡野 2013, p. 18)、女子労働者の中には、夜間定時制の設置されていた富岡東高校や、昼間定時制が設置されていた藤岡高校に通う者もいた(松浦 2007, pp. 147–148)
  20. ^ いずれ何らかの形で利活用しようという意図はあったとされ(佐滝 2007, p. 35)、実際、その用途についての検討が行われたことはあったという(松浦 2007, p. 148)。なお、閉業後も新入社員の研修には使われていた(佐滝 2007, p. 38)。
  21. ^ 富岡市では、2008年度に「富岡製糸場総合研究センター」を設置した(『平成24年度富岡製糸場総合研究センター報告書』序文)。富岡市には、片倉工業から、片倉時代の経営実態に関する資料も多く寄託されている(今井 2013, p. 45)。
  22. ^ 1877年開業の官営新町屑糸紡績所高崎市)は、この副蚕糸の加工のために設立された工場である。
  23. ^ 4人の教婦の原綴および年齢(明治5年時点)は、澤 1991, p. 37による。
  24. ^ このような退職が認められた背景として、この時点で日本人工女の技術が、フランス人教婦の教えを必要としない水準にまで向上していたことが挙げられている(今井 2006, p. 105)。
  25. ^ ベラン、プラー、シャトロンの原綴および年齢(明治5年時点)は、澤 1991, p. 37による。
  26. ^ ベランとプラーがフランス領事館に異議を申し立て、帰国旅費の支払いなどで和解が成立した。しかし、両者は日本にとどまり、製糸所設計などを請け負う旨の新聞広告を出したが、奏功しなかった(, pp. 245–246)。プラーは開成学校で語学や天文学の教師として2年ほど雇用された(, p. 246)。
  27. ^ ボイラーや蒸気エンジンを扱ったと考えられている(今井 2006, p. 93)

出典

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  • 玉川寛治『製糸工女と富国強兵の時代 - 生糸がささえた日本資本主義』新日本出版社、2002年3月15日。 
  • 富岡製糸場世界遺産伝道師協会『富岡製糸場事典』上毛新聞社〈シルクカントリー双書〉、2011年11月15日。 
  • 長谷川秀男 著「富岡製糸場と近代産業の育成 - お雇い外国人を中心に」、高崎経済大学付属産業研究所 編『近代群馬の蚕糸業 - 産業と生活からの照射』日本経済評論社、1999年2月28日、59-102頁。 
  • 古田陽久; 古田真美『世界遺産ガイド -日本編- 2014改訂版』シンクタンクせとうち総合研究機構、2013年11月20日。 
  • 文化財建造物保存技術協会 編『旧富岡製糸場建造物群調査報告書』富岡市教育委員会、2006年2月。 
  • 文化庁文化財部「新指定の文化財」『月刊文化財』第一法規、2006年7月、31-37頁。 
  • 松浦利隆「昭和(片倉)時代の富岡製糸場の歴史」『写真集 富岡製糸場』片倉工業株式会社、2007年8月12日、138-149頁。 
  • 宮崎俊弥「座繰製糸から器械製糸へ」『群馬の歴史と文化 - 上州文化の源流をたずねて』みやま文庫、2001年10月31日、213-234頁。 
  • 三和良一『概説日本経済史 近現代』(第2)東京大学出版会、2002年11月1日。 
  • 山崎益吉 著「市民の支援と産業遺産の関わり」、高崎経済大学付属産業研究所 編『群馬・産業遺産の諸相』日本経済評論社、2009年3月25日、145-167頁。 
  • 結城雅則 著「エシュト・リリアンタール商会と同商会横浜支店長ガイゼンハイマー - 生糸履歴調査の成果から」、富岡市 編『平成23年度富岡製糸場総合研究センター報告書』富岡市、2012年3月30日、1-33頁。 

関連項目

外部リンク