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「佐久島」の版間の差分

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{{Infobox 島
{{Infobox 島
|島名 = 佐久島
|島名 = 佐久島
|画像=[[File:Sakushima Island Aerial photograph.jpg|280px]]<br>佐久島の空中写真(1982年撮影)<br/>{{国土航空写真}}
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| 経度度 = 137|経度分 = 2|経度秒 = 30
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|面積 = 1.81<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況">[http://www.pref.aichi.jp/0000029829.html 愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況]愛知県、2013年</ref>
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|地図 = {{location map
'''佐久島'''(さくしま<ref group="注">国土地理院発行の1:25,000地形図「佐久島」(昭和44年改測・平成17年更新・平成17年発行)には「さくじま」という読み仮名がふられている。</ref>)は、[[三河湾]]に浮かぶ[[離島]]。行政上は[[愛知県]][[西尾市]]に属し、全域が[[三河湾国定公園]]に含まれる<ref name="郷土資料事典">ゼンリン (1997)、132頁</ref>。2013年(平成25年)4月1日時点の人口は262人である。古くは作島、析島とも<ref name="大系佐久島村">平凡社 (1988)、648-649頁「佐久島村」</ref>、佐古島、左近之島とも記した<ref name="角川600頁">角川日本地名大辞典編纂委員会 (1989)、600頁</ref>。[[日間賀島]]・[[篠島]]と合わせて三河湾三島などと呼ばれる。
|Japan Aichi
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'''佐久島'''(さくしま)は、[[三河湾]]のほぼ中央に浮かぶ[[島]]。


== 地理 ==
行政上は[[愛知県]][[西尾市]]一色町佐久島の大部分にあたる。かつては[[幡豆郡]]'''佐久島村'''(さくしまむら)が置かれ、その後幡豆郡[[一色町]]大字佐久島を経て、現在の西尾市一色町佐久島となった。
[[File:大葉邸1.jpg|thumb|150px|right|三河湾の黒真珠と呼ばれる佐久島の町並み]]


面積は1.81km<sup>2</sup>であり、[[三河湾]]の離島中最大の面積を持つ<ref name="SHIMADAS">日本離島センター (1998)、198-200頁</ref>。[[西三河]]南西部([[西尾市]][[一色町]])・[[知多半島]]([[南知多町]])・[[渥美半島]]([[田原市]][[渥美町]])との距離がそれぞれ10km以内であり、地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島にあたる<ref name="アートで島おこし55頁">原 (2004)、55頁</ref><ref group="注">国土交通省が策定した離島振興計画では、離島を本土近接型と隔絶型に分け、さらに本土近接型を内海型と外海型に分けている。本土との距離が近く、航路の安定性が高く、通勤通学が可能な離島が内海本土近接型離島とされる。</ref>。西尾市一色町から南に約8kmの位置にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。島内北部には標高30m台の緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている。海岸線延長は11.5km<ref name="日本の島事典">菅田 (2000)、55頁</ref>、最高標高地点は38mであり<ref name="日本の島事典"/>、島内に河川はない<ref name="調査報告書195頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、195頁</ref>。
== 概要 ==
[[画像:大葉邸1.jpg|thumb|150px|right|三河湾の黒真珠と呼ばれる佐久島の町並み]]
*周囲:11.5[[キロメートル|km]]
*世帯:139世帯([[2005年]][[国勢調査]]速報値)
*人口:315人(2005年国勢調査速報値)
*面積:1.81km<sup>2</sup>


島の東と西に集落があり、かつては東集落を里、西集落を一色と呼んだが、一色町への編入後に現在の「東」「西」という呼称になった<ref name="調査報告書195頁"/><ref name="離島生活の研究273頁">日本民俗学会 (1975)、273頁</ref>。戦前までは集落間の通婚は皆無に等しかったとされる<ref name="調査報告書195頁"/>。東西の集落とも細い路地が多く、2001年(平成13年)時点で西集落の道路の7割が幅員4m以下、うち3割が幅員2m以下だった<ref name="空間特性">瀬口哲夫・玉井秀一・梅津章子「過疎化した離島漁村集落の空間特性/三河湾佐久島」『日本建築学会学術講演梗概集』、2001年9月号、923頁</ref>。冬期に北西から吹く強風を防ぐために集落内は三差路が多く、見通しのよい十字路は少ない<ref name="空間特性"/><ref name="朝日新聞にほんの里100選">「にほんの里100選~東海3県から5カ所」朝日新聞、2009年4月27日朝刊、名特集H、16頁</ref>。町並みは東西ふたつの港を中心に扇状に広がり、大正時代から昭和時代にかけて建てられた民家が多い<ref name="SHIMADAS"/>。耕地と集落は南部の海岸沿いに密集している。東集落には筒井姓が、西集落には高橋・藤井姓が多い<ref name="SHIMADAS"/><ref name="佐久島体験マップ">[http://www.pamph-navi.jp/art/view_dynamic/pdfView.php?src=pam10001994 佐久島体験マップ]三河・佐久島アートプラン21</ref>。西港周辺には潮風から家を守るために[[コールタール]]を塗った民家が多く、[[名古屋市立大学]]芸術工学部教授の瀬口哲夫はその町並みをギリシャ・[[ミコノス島]]の白壁の家々、イタリア・[[シエナ]]の赤レンガの家々と対比させて「三河湾の黒真珠」と称した<ref name="SHIMADAS"/><ref name="にほんの里100選">[http://www.sato100.com/?page_id=179#news ルポ にほんの里100選31]にほんの里100選、2013年7月8日</ref><ref name="アートで島おこし52頁">原 (2004)、52頁</ref>。
[[愛知県]]下で最大の[[島]]で、[[漁業]]と[[観光]]レジャーがおもな産業であるが、島の人口は[[1947年]]の1,634人をピークに減少が続き現在では人口はおよそ5分の1となり、その一方で高齢者比率が5割を越える。


西尾市役所支所、郵便局(無集配・特定局)、[[JA西三河]]支店、[[岡崎信用金庫]]出張所、西尾市佐久島診療所、西尾警察署佐久島駐在所などの施設がある。[[知多郡]]南知多町より水道供給されており、[[愛知用水]]からの海底送水管が知多半島の師崎から[[日間賀島]]経由で届いている。水道の使用開始・中止の届け出、料金支払いは南知多町水道課に行う。
== 文化事業 ==

[[1996年]]より[[国土庁]]や愛知県の後押しを受けて、「生活と芸術」をテーマに「弁天海港佐久島プロジェクト」が発足、[[現代美術]](弁天海港佐久島アートフェスティバル/[[2000年]]までに3回開催)などによる島おこし活動が開始された。[[2001年]]からは、島の自然や伝統とアートとの出会いによって島の活性化を目指すという「佐久島アートプラン21」が始まった。これらの一連の動きの中で弁天サロンや大葉邸等の整備が少しずつ進んでいる。[[ACジャパン]]の2011年度地域キャンペーン(名古屋地区限定)で佐久島のアートが取り上げられた。
=== 人口 ===
明治時代から戦前までの人口は1,200-1,500人程度で推移し、1947年には過去最大の1,634人に達したが、その後は急速に減少<ref name="総務省">[http://www.soumu.go.jp/main_content/000111355.pdf 愛知県一色町佐久島「アートによる島おこし」]総務省</ref><ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>。1975年(昭和50年)から1980年(昭和55年)には日間賀島や篠島の人口が横ばいだったのに対して、佐久島は年平均3.2%の人口減少が見られた。2005年(平成17年)の国勢調査による人口は139世帯315人であり<ref name="総務省"/>、2010年(平成22年)の国勢調査における人口は134世帯271人<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>、2013年(平成25年)4月1日時点の人口は262人と、人口減少には歯止めがかかっていない。1980年国勢調査での高齢者比率は23.4%だったが、1990年調査では35.5%、2000年調査では48.5%<ref name="アートで島おこし51頁">原 (2004)、51頁</ref>、2010年調査では49.8%と急激に上昇した。産業別の就業者比率は、第1次産業が49.0%、第2次産業が5.5%、第3次産業が45.5%である<ref name="総務省"/>。人口密度は約170人であり、日間賀島や篠島の1/10程度である。

: [[画像:m10.png]]世帯数 / [[画像:g10.png]]人口
<!--
人口の1/5の数字をグラフ化しています。
-->

{|class="wikitable" style=" font-size: smaller;"
|-
| 1888年(明治21年)
| [[画像:m50.png]][[画像:m05.png]]<br>[[画像:g100.png]][[画像:g100.png]][[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]] || 275世帯1,454人 || 角川日本地名大事典<ref name="角川600頁"/>
|-
| 1908年(明治41年)
| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]]<br>[[画像:g100.png]][[画像:g100.png]][[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]] || 245世帯1,454人 ||
|-
| 1930年(昭和5年)
| [[画像:m50.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]]<br>[[画像:g100.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]] || 280世帯1,204人 || rowspan=4| 国勢調査
|-
| 1950年(昭和25年)
| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]]<br>[[画像:g100.png]][[画像:g100.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]] || 335世帯1,551人
|-
| 1990年(平成2年)
| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]]<br>[[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]] || 194世帯493人
|-
| 2010年(平成22年)
| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]]<br>[[画像:g50.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]] || 134世帯271人
|}

=== 気候 ===
佐久島の気候は温暖であり、年平均気温は16度前後である<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>。結氷や降霜は少なく、降雪はほとんどみられないが、冬季には強い季節風が吹く<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>。1970年代の年平均降水量は1,310mmであり、愛知県の平均よりもやや少ない。その距離の近さにもかかわらず本土とは異なる植生を持ち、2000本の[[ヤブツバキ]]がトンネルのように続く丘陵のハイキングコース、3-4月に浜辺に咲いて春を告げる[[ハマダイコン]]などが特徴である<ref name="佐久島体験マップ"/>。

{{Weather box
|location = 佐久島
|metric first = yes
|single line = Yes
|Jan mean C = 7.0
|Feb mean C = 7.2
|Mar mean C = 9.6
|Apr mean C = 14.7
|May mean C = 18.7
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|year mean C = 16.8
|Jan high C = 10.1
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|Jan precipitation mm = 52
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|year precipitation mm = 1310
|source 1 = 名古屋大学空電研究所資料
|date=1971年-1980年
}}


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 古代から中世 ===
[[中新世]]に海中で堆積した島とされ、2,500万年前と推定される貝の化石が島の各所で発見されている<ref name="大系佐久島村"/>。佐久島には紀元前3000年頃から人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土している<ref name="日本の島事典"/>。「佐久島旧記」によれば、[[崇神天皇]](紀元前97年-紀元前30年、第10代天皇)の時代に、斎宮(いつきのみや・さいぐう)の郷にいた佐久彦命が移住して農業を始めたことが島名の由来とされている<ref name="大系佐久島村"/><ref name="佐久島体験マップ"/>。

[[古墳時代]]後期の横穴式円墳は島内に38基が散在しており、古墳全体では47基を数える<ref name="大系佐久島村"/><ref name="大系佐久島古墳群">平凡社 (1988)、649頁「佐久島古墳群」</ref>。島の両端と中央部の3ヶ所に多いこれらの古墳を総称して佐久島古墳群と呼び、知多半島から三河湾三島にかけての地域で最大規模である<ref name="後期古墳群の研究17頁">森島一貴・西谷麻衣子・田中奈津子・笹栗拓・宮元香織・藤井康隆「三河湾佐久島における後期古墳群の研究(1)」『三河考古』19巻、2007年、17頁</ref>。1966年(昭和41年)に発掘が行なわれた山の神塚古墳の石室からは金環や緑玉などが出土した<ref name="SHIMADAS"/>。 [[藤原京]]時代(694年-710年)には文献に初めて佐久島の名前が登場<ref name="佐久島体験マップ"/>。藤原宮跡から出土した[[木簡]](貢進物付札)には「佐久嶋」の、また[[奈良時代]]の[[平城京]]跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている。

=== 中世から近世 ===
中世には[[志摩国]]の属国であったとされるが<ref>愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、194頁</ref>、[[鎌倉時代]]には[[吉良氏]]の勢力下に入り、三河湾内の他の2島([[日間賀島]]と[[篠島]])とは異なり三河方面との結びつきが深まった<ref name="日本の島事典"/>。伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、[[江戸時代]]には各地を結ぶ海運で繁栄を築き<ref name="佐久島体験マップ"/>、[[吉田宿|吉田]](現在の[[豊橋市]])と[[伊勢神宮]]の結節点としても栄えた。海運業が経済の中心であり<ref name="調査報告書169頁"/>、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を[[熊野灘]]まで運んだり、[[熊野]]の材木を[[名古屋市|名古屋]]や[[津市|津]]に運んでいた<ref>宮本常一『宮本常一 旅の手帖<愛しき島々>』八坂書房、2011年、54頁</ref>。[[遠州灘]]から[[カリフォルニア州]](アメリカ)沖まで484日間漂流した船頭[[小栗重吉]]は佐久島の出身である<ref name="調査報告書169頁"/>。

当初は[[相模国]][[甘縄藩]]領だったが、元禄16年には[[上総国]][[大多喜藩]]領となった<ref name="角川600頁"/>。[[コノワタ]]は大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である<ref name="調査報告書169頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、169頁</ref>。「寛永高附」による村高は90石余、「元禄郷帳」では99石余、「天保郷帳」と「旧高旧領」では534石余であり<ref name="角川600頁"/>、1868年(明治元年)の石高は535石だった。民俗学者の[[宮本常一]]によれば、江戸時代の佐久島は他地域に比べて生活水準が高く、幕末には瓦屋根を持つ民家がほとんどだったという<ref>宮本常一著・田村善次郎解説『宮本常一が撮った昭和の情景 上巻』毎日新聞社、2009年、33頁</ref>。

=== 近代から現代 ===
{{日本の町村 (廃止)
{{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = [[1954年]][[8月1日]]
| 廃止日 = 1954年8月1日
| 廃止理由 = 編入合併
| 廃止理由 = 編入合併
| 廃止詳細 = '''佐久島村''' → [[一色町]]
| 廃止詳細 = '''佐久島村''' → [[一色町]]
44行目: 137行目:
| 区分 = 村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 愛知県
| 都道府県 = 愛知県
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| 支庁 =
| 郡 = [[幡豆郡]]
| 郡 = [[幡豆郡]]
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| 面積 =
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| 境界未定 =
| 境界未定 =
| 人口 = 1,551
| 人口 = 1,551
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| 人口の時点 = 1950年国勢調査
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| 隣接自治体 =
| =
| 郵便番号 =
| 花 =
| シンボル名 = その他のシンボル
| 鳥など =
| 郵便番号 =
| 所在地 = 幡豆郡佐久島村
| 所在地 = 幡豆郡佐久島村
| 電話番号 =
| 外部リンク =
| 経度 =
| 緯度 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
}}
=== 先史・上古 ===
佐久島には[[紀元前30世紀|紀元前3000年]]頃から人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土しているほか、古墳時代後期の山の神塚古墳もある。


明治時代には西集落の松本家が名古屋・[[豊橋市|豊橋]]・平坂(現西尾市)と東京間の海運に携わった<ref name="調査報告書169頁"/>。都市で荷船の会社を経営する佐久島出身者も現れ、豊かさゆえに離島する者が多かった<ref name="調査報告書169頁"/><ref name="角川600頁"/>。宮本常一によれば、明治30年代には横浜で艀(はしけ、小型船)乗りになる佐久島出身者が多く、彼らの多くは陸上輸送業に転じたという<ref>宮本常一著・田村善次郎解説『宮本常一が撮った昭和の情景 上巻』毎日新聞社、2009年、26頁</ref>。1889年(明治22年)10月1日、[[町村制]]の施行により一島で[[幡豆郡]]佐久島村となった<ref name="SHIMADAS"/>。
=== 「佐久島」命名後 ===
「佐久島旧記」には第10代の[[崇神天皇]]([[紀元前97年]] - [[紀元前30年]])の頃に、[[斎宮]](いつきのみや・さいぐう)の郷に作彦の民という人がいて、この島に来住して農業を始めたことから、「作島」が「佐久島」になったと伝える。[[藤原京]]時代([[694年]] - [[710年]])の藤原宮跡から出土した[[木簡]](貢進物付札)に「佐久嶋」と、また[[奈良時代]]の[[平城京]]跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られるなど、島周辺の海産物を都に届けた記録も残る。


1931年(昭和6年)頃に50人規模の[[赤痢]]患者を出したことから、佐久島の住民の間では安全な飲料水を求める要望が強かった<ref name="集落整備の経緯">内藤和彦「過疎化した離島漁村集落の空間特性/三河湾佐久島」『日本建築学会学術講演梗概集』、1979年9月号、1273-1274頁</ref>。1952年(昭和27年)には佐久島村が運営する吉田航路(吉良町)の運航が開始されたが、1954年(昭和29年)8月1日に本土の幡豆郡[[一色町]]に編入されると<ref name="SHIMADAS"/>、所属する一色町との間にも航路が設けられた。旧来から一色町よりも[[吉良町]]との交流が深かったが、一色町が飲料水供給の好条件を提示したことで一色町に編入されたという<ref name="集落整備の経緯"/><ref name="調査報告書207頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、207頁</ref>。1958年(昭和33年)頃には再び100人規模の赤痢患者を出し、この事件が契機となって上水道整備が進んだ<ref name="集落整備の経緯"/>。それまでは一色港から水槽船が運航されていたが、1973年(昭和48年)、日間賀島や篠島と同様に[[愛知用水]]を水源とする海底水道が敷設され<ref name="愛知百科事典">中日新聞社開発局 (2000)、343頁</ref>、水道の導入は真水を必要とするノリ養殖を盛んにした<ref name="集落整備の経緯"/><ref>愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、174頁</ref>。
[[江戸時代]]には各地を結ぶ海運で繁栄を築いた。


1953年(昭和28年)の[[離島振興法]]制定時には実施地域に指定されなかったが、1958年(昭和32年)の第7次指定において日間賀島と篠島も含めた「愛知三島」が離島振興対策実施地域に指定された<ref name="篠島・日間賀島の概要">[http://www.town.minamichita.lg.jp/main/kikaku/chiikisinnkou/ritousinkou/shinojima-himakajima%20gaiyou.pdf 篠島・日間賀島の概要]南知多町、2012年</ref><ref group="注">なお、通俗的には「愛知三島」ではなく「三河湾三島」と呼ぶことのほうが多い。</ref>。戦後には名古屋や京浜地区への出稼ぎ離村が進み、1946年(昭和21年)時点では居住人口約1,500人に対して本籍人口は2,000人を超していた<ref name="離島生活の研究273頁"/>。東京・横浜・名古屋・神戸などの大都市には佐久島出身者で構成される佐久島会があり、宮本常一が調査を行なった昭和50年代半ばには、東京の佐久島会だけで会員が15,000人もいたという<ref>宮本常一『宮本常一 旅の手帖<愛しき島々>』八坂書房、2011年、56頁</ref>。高度成長期には近隣の日間賀島や篠島で大規模な観光開発が行なわれたが、佐久島は大手資本の開発を拒否<ref name="朝日新聞にほんの里100選"/>。バブル期に起こったヨットハーバーの建設計画やゴルフ場リゾート開発計画も実現していない<ref>「愛知・佐久島 アートの島で、のんびり」朝日新聞、2009年7月6日夕刊、2総合、10頁</ref><ref name="うつくしの島へ8頁">しま編集部「うつくしの島へ、ようこそ –愛知県佐久島」『しま』54巻1号、2008年、8頁</ref>。1972年(昭和47年)には無医状態となったが、1978年(昭和53年)には町営診療所が完成し、[[与論島]](鹿児島県)から着任した医師が離島医療にあたった<ref name="大きな安心83頁">山崎隆文「佐久島の医療現場から 小さな島の大きな安心」『しま』48巻2号、2002年、83頁</ref>。1980年(昭和55年)には医師の定年退職により再び無医状態となったが、1981年(昭和56年)以降は[[自治医科大学]]卒の医師が3年交代で常駐している<ref name="大きな安心83頁"/>。1989年(平成元年)に竣工した[[海上自衛隊]]の[[はつしま型掃海艇]]に「さくしま」(MSC-671)の名前が付けられた。同艦は2004年(平成16年)11月29日に佐久島に寄港しており、2013年(平成25年)に除籍となった。
=== 市町村制下 ===
[[1889年]]([[明治]]22年)[[10月1日]]に[[町村制]]の施行により、佐久島村が設置された。


2011年(平成23年)4月1日、一色町が[[西尾市]]と合併し、「幡豆郡一色町大字佐久島○○」という住所表記が「西尾市一色町佐久島○○」となった<ref name="新市の住所表示">[http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/gappei/PDF/008/008_3.pdf 新市の住所表示]西尾市</ref>。2011年(平成23年)9月から12月にかけて、愛知県は「あいちの離島80日間チャレンジ」<ref group="注">三河湾三島それぞれに失業中の独身女性が80日間滞在し、それぞれの特技を生かして島の魅力を島外に発信するというキャンペーンである。</ref>という離島観光振興キャンペーンを行なった。佐久島には27歳の女性イラストレーターが80日間滞在し、インターネット上で島にまつわる漫画を公開するなどの活動を行なった<ref>「紡ぐ3島物語 愛知のPR企画、開始1カ月」朝日新聞、2011年10月8日夕刊、1総合、1頁</ref><ref>「『島娘』充実の80日間 愛知の3島PR企画、まもなく終了」朝日新聞、2011年12月24日夕刊、1社会、9頁</ref>。2012年(平成24年)4月には宿泊滞在型農業体験施設「佐久島クラインガルテン」が開園。日本で初めて離島に開園した[[クラインガルテン]]であり、ロフトと農園が併設された10区画には10倍の応募があった<ref>「10倍人気、都会人も 振興に期待、荒廃の不安 三河湾・佐久島の滞在型農園」朝日新聞、2012年2月18日、朝刊、名古屋・1地方、33頁</ref>。上述のイラストレーターが[[ゆるキャラ]]のデザインを担当し、特産の大アサリをモチーフにした「あさりん」が同年10月にお披露目された<ref>「離島のゆるキャラお披露目 あさりん・たこみちゃん・しらっぴーな、3島PR」朝日新聞、2012年10月4日朝刊、名古屋・1地方、25頁</ref><ref group="注">日間賀島ではタコをモチーフにした「たこみちゃん」が、篠島ではシラスをモチーフにした「しらっぴーな」がお披露目されている。</ref>。
[[1954年]]([[昭和]]29年)[[8月1日]]に[[一色町]]に編入され、島全体が大字佐久島の一部となる。[[1957年]]に三河湾[[国定公園]]に指定された。かつては[[吉田]](現在の[[豊橋市]])と[[伊勢神宮]]等を結ぶ海上交通の要所として栄えた豊かな島であった。戦後も[[海苔|海苔養殖]]等で繁栄したが、逆に豊かさが仇となり本土側の一色町へ住居を構えて離島する住民が相次ぎ、人口の減少に繋がった。今でも周辺海域は豊かな水産資源に恵まれている。


=== 行政区画の変遷 ===
[[2011年]]([[平成]]23年)[[4月1日]]、一色町が西尾市と合併したため大字佐久島は一色町佐久島となった。詳しくは[[幡豆町#西尾市との合併]]を参照。
; 三河湾の有人島3島の行政区画の変遷


{|class="wikitable" style="font-size: smaller;"
== 施設 ==
|-
[[画像:佐久島小学校1.jpg|thumb|200px|right|佐久島小学校]]
| 郡 || 明治22年以前 || 明治22年 || 明治23年-明治45年 || 大正1年-大正15年 || 昭和1年-昭和64年 || 平成1年-現在
=== 役場・金融機関 ===
|-
西尾市役所出張所、[[郵便局]](無集配・特定局)、[[JA西三河]]支店
| rowspan=2| [[知多郡]] || 日間賀島村 || [[日間賀島村]] || 日間賀島村 || 日間賀島村 || rowspan=2| 昭和36年合併<br />[[南知多町]] || rowspan=2| '''南知多町'''
|-
| 篠島村 || [[篠島村]] || 篠島村 || 篠島村
|-
| [[幡豆郡]] || 佐久島村 || [[佐久島村]] || 佐久島村 || 佐久島村 || 昭和29年合併<br />[[一色町]] || 平成23年合併<br />'''[[西尾市]]'''
|}


== 交通 ==
※ 以前は[[岡崎信用金庫]]佐久島出張所が存在したが、[[2013年]]([[平成]]25年)[[3月29日]]閉店した。
[[File:Sakushima Hamakaze1.jpg|thumb|200px|right|西尾市営渡船「はまかぜ」]]


島内の道路はすべて市町村道(西尾市道)であり、道路舗装率は62.8%と、愛知県平均(87.1%)を大きく下回っている<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>。島内の交通は原動機付自転車や軽自動車が中心であり<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>、信号はひとつもない<ref name="佐久島体験マップ"/>。
=== 学校・保育園 ===
小学校、中学校、保育園(いずれも市立)


=== 海上交通 ===
高校および高校の分校はない。同じ三河湾内に浮かぶ有人の離島である[[日間賀島]]、[[篠島]]と違い、高校の分校が設置された歴史はない。そのため、[[学区]]制によらず、県下全域の普通科高校に進学可能な特例が設けられている。
西尾市が西尾市営渡船を運営しており、2001年(平成13年)就航の「はまかぜ」、2013年(平成25年)就航の「第三さちかぜ」の高速船2隻が使用されている<ref>「佐久島行き西尾市営渡船が新造 来月1日就航、展望デッキつき」朝日新聞、2013年2月27日朝刊、三河・1地方面、31頁</ref>。一色さかな広場東側にある「佐久島行船のりば」を起点とし、佐久島西港、佐久島東港の順に停まる<ref name="公式サイトアクセス">[http://www.japan-net.ne.jp/benten/access/index.htm アクセス]佐久島公式サイト</ref>。一色から東港までの所要時間は約25分であり、渡船料金は大人800円(片道)である<ref name="公式サイトアクセス"/>。2013年度版の通常ダイヤは1日7往復であり、特別ダイヤ(ピーク期)は8往復である<ref name="公式サイトアクセス"/>。佐久島行船のりばからは[[名鉄バス]]が[[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄西尾線|西尾線]][[西尾駅]]まで、[[ふれんどバス]]が名鉄西尾線・[[名鉄蒲郡線|蒲郡線]][[吉良吉田駅]]まで路線バスを運行している。同じ三河湾にある[[日間賀島]]・[[篠島]]との間には定期航路が存在しないが<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>、民間の[[水上タクシー|海上タクシー]]などで行き来することができる。


1952年(昭和27年)に佐久島村営の渡船が吉田町(現・[[西尾市]])と結ぶ航路を開設し、1954年(昭和29年)の一色町への編入合併後も運航を続けられていた。合併を機に一色町との航路の運航が開始され、1984年(昭和59年)には一色航路に高速船が就航した。吉田港が浅いために吉田航路は欠航が多く、また利用者数が低迷したことから、1983年(昭和58年)9月30日をもって休止し、1年後の1984年10月1日に廃止された。名鉄[[名鉄三河線|三河線]]が2004年(平成16年)に一部廃止されるまでは、[[三河一色駅]]が「一色渡船場」の最寄駅であり、渡船場から鉄道駅まで徒歩圏内だった。また、2010年(平成22年)4月には一色町の市街地に近い一色渡船場から南1.5kmの「佐久島行船のりば」に移転した<ref name="総務省"/><ref name="「佐久島行船のりば」オープン">[http://www.pref.aichi.jp/0000032129.html 「佐久島行船のりば」がオープンしました]愛知県、2010年4月28日</ref>。一色渡船場は干潮の際に発着場が異なり(500m南側の「一色臨時渡船場」)<ref name="「あいちアートの森」を歩く">[http://www.lets-go-aichi.jp/hourou/2010/000331.html 「あいちアートの森」を歩く(6)~一色町・佐久島プロジェクト=前編]Let's Goあいち、2010年4月28日</ref>、また駐車場がなく堤防道路沿いにとめないといけないなどの不便があった<ref name="総務省"/>。
=== 医療機関・警察 ===
西尾市佐久島診療所、西尾警察署佐久島駐在所


=== 水道事業 ===
== 経済 ==
佐久島の主要な産業は漁業と観光業である<ref name="佐久島体験マップ"/>。三河湾は水深が浅くて海底が泥土であるため、底引網による漁業が盛んである。大アサリ(ウチムラサキ)が特産品であり、2月から5・6月には浜辺などでアサリ漁が行なわれる<ref name="日本島図鑑48頁"/><ref name="佐久島体験マップ"/>。1995年(平成7年)の魚種別漁獲量割合は、海藻類が67.1%、クルマエビが13.0%、ナマコが4.2%、アナゴが3.6%、タイが2.6%などだった<ref name="調査報告書178頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、178頁</ref>。
[[知多郡]][[南知多町]]より水道供給されており、[[愛知用水]]からの海底送水管が[[知多半島]]の師崎から[[日間賀島]]経由で届いている。水道の使用開始・中止の届け出、料金支払いは南知多町水道課に行う。


島内に水田が72町歩(約71ヘクタール)あった時代もあるが、1965年(昭和40年)頃には水田8町歩(約8ヘクタール)・畑40町歩(約40ヘクタール)が耕作され<ref name="調査報告書174頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、174頁</ref>、1975年(昭和50年)頃には水田6ヘクタール・畑58.4ヘクタールが耕作されていた<ref name="調査報告書169頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、169頁</ref>。昭和30年代には[[温州ミカン]]を島外に出荷していたが、ミカン栽培が定着することはなかった<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>。現在でも小規模な畑があるが、その多くは島内で消費される自給用の野菜畑である<ref name="佐久島体験マップ"/>、農業の衰退は昭和50年代に顕著であり<ref name="調査報告書174頁"/>、2010年時点での農業就業者は2人のみである<ref name="愛知の離島4-6">[http://www.pref.aichi.jp/cmsfiles/contents/0000029/29829/aichi-rito4-6.pdf 愛知の離島(4~6)]愛知県</ref>。2012年(平成24年)には耕作放棄地を利用した宿泊滞在型農業体験施設(クラインガルテン)が開園した<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>。
== 交通 ==

[[画像:Sakushima Hamakaze1.jpg|thumb|200px|right|西尾市営渡船「はまかぜ」]]
1958年(昭和33年)4月には一帯が[[三河湾国定公園]]に指定され、1991年(平成3年)には三河湾地域リゾート整備構想の重点整備地区に指定されている<ref name="篠島・日間賀島の概要"/>。1980年(昭和55年)に約60,000人だった観光客数は微減が続き、1990年(平成2年)には約54,300人、2000年(平成12年)には約41,800人だった<ref name="愛知の離島4-6"/>。しかし現代アートを軸にした地域活性化の取り組みが功を奏し、2004年(平成16年)の約36,000人を底に回復しはじめ、2007年(平成19年)には約41,000人、2010年(平成22年)には約69,000人、2012年度には約75,000人と右肩上がりの成長を続けている<ref name="総務省"/><ref name="にほんの里100選"/>。この一方で宿泊施設は昭和末期から一貫して減少しており、1985年(昭和60年)には24軒の宿泊施設(2軒の旅館と22軒の民宿)があったが、2011年(平成23年)には8軒(2軒の旅館と6軒の民宿)まで減少している<ref name="愛知の離島4-6"/>。
=== 船舶 ===

*西尾市営の高速船が佐久島東港、西港と一色渡船場を結ぶ。(大人800円・所要約25分)
== 教育 ==
:通常ダイヤは1日6往復、夏期ダイヤ([[7月20日]] - [[8月20日]])が8〜10往復。
[[File:佐久島小学校1.jpg|thumb|200px|right|佐久島小中学校]]
*民間の[[海上タクシー]]がある。

[[江戸時代]]後期から明治時代初期には崇運寺・妙海寺・阿弥陀寺で寺子屋が開かれており、1873年(明治6年)に佐久島学校が開校した<ref name="角川600頁"/>。1892年(明治25年)に佐久島尋常小学校が成立し、1899年(明治32年)に佐久島尋常高等小学校と名を変えた<ref name="角川600頁"/>。1926年(大正15年)には佐久島尋常小学校と改称。1947年(昭和22年)には佐久島村立佐久小学校と改称し、同年には佐久島村立佐久島中学校が新設された。1954年(昭和29年)には一色町立佐久島小学校/佐久島中学校となり、2011年(平成23年)に西尾市立佐久島小学校/佐久島中学校となった。1960年代の最盛期には小中学校合わせて約270人の児童生徒がいたが<ref>「離島学級『生徒求む』 子供減、佐久島の小・中 一色町教委」朝日新聞、2003年1月5日朝刊、愛知1、26頁</ref>、2011年度の児童生徒数は小中学校合わせて24人、中学3年生を除いて複式学級である<ref name="佐久島小・中学校について">[http://www.japan-net.ne.jp/~benten/school/shiokaze/school.html 佐久島小・中学校について]佐久島公式サイト</ref>。西尾市立佐久島小学校・佐久島中学校は東西の集落から等距離の島中央部にある。

2003年(平成15年)からは「しおかぜ通学」制度を設け、本土から毎年数人の小中学生を佐久島小中学校に招き入れている<ref name="SHIMADAS"/>。初年度となった2003年度は小学校に4人の児童が、中学校に1人の生徒が転入学し、小学校の児童数は9人、中学校の生徒数は8人となった<ref name="アートで島おこし54頁">原 (2004)、54頁</ref>。2006年度は小学校の児童14人中6人が、中学校の生徒11人中6人がしおかぜ通学者であり<ref>「『黒と紫』アートな輝き 愛知・一色の佐久島」朝日新聞、2006年6月2日朝刊、あるく、24頁</ref>、2012年度は4人の児童生徒が本土から佐久島まで高速船で通学している<ref name="しおかぜ通学">[http://www.japan-net.ne.jp/~benten/school/shiokaze/boshu.html しおかぜ通学平成25年度4月転入学・入学・児童・生徒募集]佐久島公式サイト</ref>。2012年(平成24年)時点で佐久島小学校には11人、佐久島中学校には10人の児童生徒が在籍している<ref name="愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況"/>。

三河湾内に浮かぶ有人離島の[[日間賀島]]には[[愛知県立内海高等学校|愛知県立内海高校]]日間賀島分校が、[[篠島]]には内海高校篠島分校がいずれも1980年(昭和55年)から設置されていたが<ref name="内海高校沿革">[http://www.utsumi-h.aichi-c.ed.jp/gakkouannnai/ennakku/ennkaku.html 沿革]愛知県立内海高等学校</ref>、佐久島には分校が設置されていた過去はない。日間賀島分校は2001年(平成13年)に、篠島分校は2004年(平成16年)に閉校し<ref name="内海高校沿革"/>、三河湾三島から高校はなくなった。愛知県は高校の学区制を敷いており、西尾市に属する佐久島から進学可能な高校は、本来ならば三河学区の高校に限られるが、愛知県下全域の普通科高校に進学可能な特例が設けられている<ref name="愛知県公立高等学校入学者選抜制度">[http://www.pref.aichi.jp/cmsfiles/contents/0000062/62271/5siryou1.pdf 愛知県公立高等学校入学者選抜制度について]愛知県</ref>。

== 文化 ==
=== 社寺と弘法信仰 ===
東部にある八劔神社・神明社<ref group="注">社殿が二つあり、向かって右の八劔神社と左の神明社がひとつの覆屋に収まっている。</ref>は平安時代の万寿年間(1024年-1028年)の創立<ref name="大系八剣神社・神明社合殿">平凡社 (1988)、649頁「佐久島古墳群」</ref>、江戸時代初期の再建とされ、両本殿は1964年(昭和39年)に愛知県指定文化財となった<ref name="若者組佐久島"/>。東部にある阿弥陀寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西山深草派の寺院であり、観音堂は永正2年(1505年)の開山と伝えられ<ref name="阿弥陀寺">平凡社 (1988)、649頁「阿弥陀寺」</ref>、やはり1964年に愛知県指定文化財となった<ref name="若者組佐久島"/>。八劔神社で行なわれる正月行事は八日講と呼ばれ、その起源は定かではないが、祭具の中には宝暦6年(1756年)の銘が入った膳もあり、江戸時代中期にはすでに行なわれていたようである<ref name="調査報告書篠島190-191頁">愛知県 (1998)、190-191頁</ref><ref name="佐久島体験マップ"/>。八日講では「鬼」の字が書かれた大凧に向かって厄男が弓矢を射り、島民は災難除けとなる凧の骨を奪い合う。東部にある阿弥陀寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西山深草派の寺院であり、観音堂は永正2年(1505年)の開山と伝えられている<ref name="阿弥陀寺">平凡社 (1988)、649頁「阿弥陀寺」</ref>。鎌倉時代初期の建久3年(1192年)には、[[鳥羽上皇]]第7皇子の青蓮院が開基とされる崇運寺が建立され<ref name="SHIMADAS"/>、崇運寺には[[徳川家康]]が滞在したという言い伝えがある<ref name="佐久島体験マップ"/>。8月15日には崇運寺で400年の伝統を持つ盆踊りが行なわれ、盆踊り後には東西の港から茅(ちがや)で作った船に蝋燭を灯して先祖を送る精霊流しが行なわれる<ref name="佐久島体験マップ"/>。佐久島弁財天(筒島弁財天)は竹島(蒲郡市)や三明寺(豊川市)と合わせて三河三弁天のひとつであり、巳年(本開帳)と亥年(合開帳)の8月16日のみに開帳される<ref name="佐久島体験マップ"/><ref name="若者組佐久島">山岡健「『若者組』-愛知県渥美郡渥美町西亀山・江比間- -愛知県幡豆郡一色町佐久島-」『大阪教育大学教育研究所報』33巻、1998年、1-6頁</ref>。

愛知県の知多半島や三河地方は弘法大師([[空海]])信仰が盛んな土地であり<ref group="注">知多半島の知多四国八十八ヶ所、知立市・刈谷市の三河三弘法、三河新四国八十八箇所、東三河新四国八十八箇所などの著名な弘法霊場が存在する。</ref>、佐久島には[[四国八十八箇所]]霊場の写しである佐久島新四国八十八箇所がある<ref name="調査報告書218頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、218頁</ref>。山間や集落の辻々に置かれた祠、寺院に置かれた大師像で88ヶ所の弘法霊場を形成していたが、88ヶ所すべてが現存しているわけではない<ref name="調査報告書224頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、224頁</ref><ref name="佐久島体験マップ"/>。1913年(大正2年)に観光開発的な意図を持って始まった祭祀であり、戦前には知多半島や渥美半島などから団体客が訪れ、主に一泊二日で島内の八十八箇所を巡ったが、昭和30年代前半以降は参拝目的の来島者はほとんどいないという<ref name="調査報告書227-231頁">愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、227-231頁</ref>。

=== 現代アートの島 ===
[[File:Ohirune House1.jpg|thumb|right|200px|おひるねハウス]]

1996年(平成8年)より[[国土庁]]や愛知県の後押しを受けて、「生活と芸術」をテーマに「弁天海港佐久島プロジェクト」が発足、[[現代美術]](弁天海港佐久島アートフェスティバル/2000年までに3回開催)などによる島おこし活動が開始された。1998年(平成10年)には古民家再生のシンボルとして佐久島弁天サロンが開館。1878年(明治11年)に建てられた民家を修復して交流施設にし、島おこしの拠点として歴史の展示会などの情報発信を行なっている<ref name="アートで島おこし52頁">原 (2004)、52頁</ref>。2001年(平成13年)からは、島の自然や伝統とアートとの出会いによって島の活性化を目指すという「三河・佐久島アートプラン21」が始まった<ref name="三河・佐久島アートプラン21とは?">[http://www.m-mole.com/sakushima/what.html 三河・佐久島アートプラン21とは?]三河・佐久島アートプラン21</ref><ref name="佐久島体験マップ"/>。築100年以上の民家を芸術作品の舞台とした「大葉邸」などが作品となり<ref name="日本島図鑑48頁">加藤 (2013)、48頁</ref>、島の至るところに現代アート作品が設置されている。2009年(平成21年)には[[にほんの里100選]]に選出された<ref name="にほんの里100選"/>。


=== 廃止された航路 ===
=== その他 ===
[[種田山頭火]]の俳句「島嶋人が乗り人が一人春爛漫」「波の上はゆき違う挨拶投げかけかわしつつ」は佐久島で詠まれたものであり、島内に句碑が立っている<ref name="SHIMADAS"/><ref group="注">ただし、SHIMADASでは「島嶋人が乗り人が下り春らんまん」「波の上をゆきちがふ挨拶投げかわしつつ」としている。</ref>。相撲[[力士]]で元朝日山親方の[[若二瀬唯之]]は佐久島出身である。1999年(平成11年)3月から5月に[[中部日本放送]](CBC)が放送した昼ドラマ「直子センセの診察日記」は佐久島を舞台としている<ref name="SHIMADAS"/>。2000年(平成12年)に[[新潮社]]から刊行された[[辻井喬]]の小説『風の生涯』の第4章は佐久島を舞台としている<ref name="SHIMADAS"/>。2010年(平成22年)に公開された映画「[[名探偵コナン 天空の難破船]]」では、主要登場人物の[[江戸川コナン]]と[[怪盗キッド]]が佐久島に降り立った。
[[1952年]]に佐久島村営の渡船が[[吉田町 (愛知県)|吉田町]](現・[[西尾市]])と結ぶ航路を開設し、1954年の一色町への編入合併後も運航を続けられていたが、[[1983年]][[9月30日]]をもって休止し、翌[[1984年]]に廃止された。


== 物語への登場 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
* 映画『[[名探偵コナン 天空の難破船]]』([[2010年]])で、主人公の[[江戸川コナン]]と、ライバルの[[怪盗キッド]]が佐久島に降り立った。
<references group="注"/>
* [[中部日本放送|CBCテレビ]]制作の[[昼ドラマ]]『[[直子センセの診察日記]]』([[1999年]]3月–5月放送)の舞台となった。
* [[東海テレビ放送|東海テレビ]]製作の『[[モウソウ刑事!]]』([[2011年]]1月–3月放送)のロケが行われた。


== 命名 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
[[1989年]]に竣工した[[海上自衛隊]]の[[はつしま型掃海艇]]MSC-671に「さくしま」の名前が付けられた。同艦は[[2004年]][[11月29日]]に佐久島に寄港した。


== 関連項目 ==
== 参考文献 ==
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*[[小栗重吉]]
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*[[日間賀島]]
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*[[篠島]]
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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*[http://www.japan-net.ne.jp/~benten/index.htm 佐久島公式サイト]
*[http://www.japan-net.ne.jp/~benten/index.htm 佐久島公式サイト]
*[http://www.pref.aichi.jp/chiiki/ritou/ritou.html 愛知県地域振興課 あいちの離島振興]
*[http://www.pref.aichi.jp/0000029829.html あいちの離島振興]愛知県地域振興課


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2013年10月28日 (月) 08:26時点における版

佐久島
佐久島の空中写真(1982年撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
所在地 日本愛知県
所在海域 三河湾
所属諸島 愛知三島
座標 北緯34度43分45秒 東経137度2分30秒 / 北緯34.72917度 東経137.04167度 / 34.72917; 137.04167座標: 北緯34度43分45秒 東経137度2分30秒 / 北緯34.72917度 東経137.04167度 / 34.72917; 137.04167
面積 1.81[1] km²
海岸線長 11.8[1] km
最高標高 38.0[1] m
プロジェクト 地形
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佐久島(さくしま[注 1])は、三河湾に浮かぶ離島。行政上は愛知県西尾市に属し、全域が三河湾国定公園に含まれる[2]。2013年(平成25年)4月1日時点の人口は262人である。古くは作島、析島とも[3]、佐古島、左近之島とも記した[4]日間賀島篠島と合わせて三河湾三島などと呼ばれる。

地理

三河湾の黒真珠と呼ばれる佐久島の町並み

面積は1.81km2であり、三河湾の離島中最大の面積を持つ[5]西三河南西部(西尾市一色町)・知多半島南知多町)・渥美半島田原市渥美町)との距離がそれぞれ10km以内であり、地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島にあたる[6][注 2]。西尾市一色町から南に約8kmの位置にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。島内北部には標高30m台の緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている。海岸線延長は11.5km[7]、最高標高地点は38mであり[7]、島内に河川はない[8]

島の東と西に集落があり、かつては東集落を里、西集落を一色と呼んだが、一色町への編入後に現在の「東」「西」という呼称になった[8][9]。戦前までは集落間の通婚は皆無に等しかったとされる[8]。東西の集落とも細い路地が多く、2001年(平成13年)時点で西集落の道路の7割が幅員4m以下、うち3割が幅員2m以下だった[10]。冬期に北西から吹く強風を防ぐために集落内は三差路が多く、見通しのよい十字路は少ない[10][11]。町並みは東西ふたつの港を中心に扇状に広がり、大正時代から昭和時代にかけて建てられた民家が多い[5]。耕地と集落は南部の海岸沿いに密集している。東集落には筒井姓が、西集落には高橋・藤井姓が多い[5][12]。西港周辺には潮風から家を守るためにコールタールを塗った民家が多く、名古屋市立大学芸術工学部教授の瀬口哲夫はその町並みをギリシャ・ミコノス島の白壁の家々、イタリア・シエナの赤レンガの家々と対比させて「三河湾の黒真珠」と称した[5][13][14]

西尾市役所支所、郵便局(無集配・特定局)、JA西三河支店、岡崎信用金庫出張所、西尾市佐久島診療所、西尾警察署佐久島駐在所などの施設がある。知多郡南知多町より水道供給されており、愛知用水からの海底送水管が知多半島の師崎から日間賀島経由で届いている。水道の使用開始・中止の届け出、料金支払いは南知多町水道課に行う。

人口

明治時代から戦前までの人口は1,200-1,500人程度で推移し、1947年には過去最大の1,634人に達したが、その後は急速に減少[15][1]。1975年(昭和50年)から1980年(昭和55年)には日間賀島や篠島の人口が横ばいだったのに対して、佐久島は年平均3.2%の人口減少が見られた。2005年(平成17年)の国勢調査による人口は139世帯315人であり[15]、2010年(平成22年)の国勢調査における人口は134世帯271人[1]、2013年(平成25年)4月1日時点の人口は262人と、人口減少には歯止めがかかっていない。1980年国勢調査での高齢者比率は23.4%だったが、1990年調査では35.5%、2000年調査では48.5%[16]、2010年調査では49.8%と急激に上昇した。産業別の就業者比率は、第1次産業が49.0%、第2次産業が5.5%、第3次産業が45.5%である[15]。人口密度は約170人であり、日間賀島や篠島の1/10程度である。

ファイル:M10.png世帯数 / 人口
1888年(明治21年) ファイル:M50.png
275世帯1,454人 角川日本地名大事典[4]
1908年(明治41年) ファイル:M10.pngファイル:M10.pngファイル:M10.pngファイル:M10.png
245世帯1,454人
1930年(昭和5年) ファイル:M50.png
280世帯1,204人 国勢調査
1950年(昭和25年) ファイル:M50.pngファイル:M10.png
335世帯1,551人
1990年(平成2年) ファイル:M10.pngファイル:M10.pngファイル:M10.png
194世帯493人
2010年(平成22年) ファイル:M10.pngファイル:M10.png
134世帯271人

気候

佐久島の気候は温暖であり、年平均気温は16度前後である[1]。結氷や降霜は少なく、降雪はほとんどみられないが、冬季には強い季節風が吹く[1]。1970年代の年平均降水量は1,310mmであり、愛知県の平均よりもやや少ない。その距離の近さにもかかわらず本土とは異なる植生を持ち、2000本のヤブツバキがトンネルのように続く丘陵のハイキングコース、3-4月に浜辺に咲いて春を告げるハマダイコンなどが特徴である[12]

佐久島の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 10.1
(50.2)
10.4
(50.7)
12.8
(55)
17.8
(64)
21.0
(69.8)
24.6
(76.3)
27.9
(82.2)
29.4
(84.9)
26.8
(80.2)
22.4
(72.3)
17.5
(63.5)
12.4
(54.3)
19.5
(67.1)
日平均気温 °C°F 7.0
(44.6)
7.2
(45)
9.6
(49.3)
14.7
(58.5)
18.7
(65.7)
22.6
(72.7)
26.0
(78.8)
27.4
(81.3)
24.4
(75.9)
19.6
(67.3)
14.4
(57.9)
9.1
(48.4)
16.8
(62.2)
平均最低気温 °C°F 4.3
(39.7)
4.4
(39.9)
6.6
(43.9)
12.3
(54.1)
16.6
(61.9)
21.1
(70)
24.7
(76.5)
25.9
(78.6)
22.4
(72.3)
17.1
(62.8)
11.5
(52.7)
6.3
(43.3)
14.5
(58.1)
降水量 mm (inch) 52
(2.05)
65
(2.56)
84
(3.31)
121
(4.76)
145
(5.71)
135
(5.31)
136
(5.35)
100
(3.94)
197
(7.76)
151
(5.94)
67
(2.64)
42
(1.65)
1,310
(51.57)
出典:名古屋大学空電研究所資料

歴史

古代から中世

中新世に海中で堆積した島とされ、2,500万年前と推定される貝の化石が島の各所で発見されている[3]。佐久島には紀元前3000年頃から人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土している[7]。「佐久島旧記」によれば、崇神天皇(紀元前97年-紀元前30年、第10代天皇)の時代に、斎宮(いつきのみや・さいぐう)の郷にいた佐久彦命が移住して農業を始めたことが島名の由来とされている[3][12]

古墳時代後期の横穴式円墳は島内に38基が散在しており、古墳全体では47基を数える[3][17]。島の両端と中央部の3ヶ所に多いこれらの古墳を総称して佐久島古墳群と呼び、知多半島から三河湾三島にかけての地域で最大規模である[18]。1966年(昭和41年)に発掘が行なわれた山の神塚古墳の石室からは金環や緑玉などが出土した[5]藤原京時代(694年-710年)には文献に初めて佐久島の名前が登場[12]。藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている。

中世から近世

中世には志摩国の属国であったとされるが[19]鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の他の2島(日間賀島篠島)とは異なり三河方面との結びつきが深まった[7]。伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き[12]吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。海運業が経済の中心であり[20]、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋に運んでいた[21]遠州灘からカリフォルニア州(アメリカ)沖まで484日間漂流した船頭小栗重吉は佐久島の出身である[20]

当初は相模国甘縄藩領だったが、元禄16年には上総国大多喜藩領となった[4]コノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である[20]。「寛永高附」による村高は90石余、「元禄郷帳」では99石余、「天保郷帳」と「旧高旧領」では534石余であり[4]、1868年(明治元年)の石高は535石だった。民俗学者の宮本常一によれば、江戸時代の佐久島は他地域に比べて生活水準が高く、幕末には瓦屋根を持つ民家がほとんどだったという[22]

近代から現代

佐久島村
廃止日 1954年8月1日
廃止理由 編入合併
佐久島村一色町
現在の自治体 西尾市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 愛知県
幡豆郡
総人口 1,551
(1950年国勢調査)
佐久島村役場
所在地 愛知県幡豆郡佐久島村
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明治時代には西集落の松本家が名古屋・豊橋・平坂(現西尾市)と東京間の海運に携わった[20]。都市で荷船の会社を経営する佐久島出身者も現れ、豊かさゆえに離島する者が多かった[20][4]。宮本常一によれば、明治30年代には横浜で艀(はしけ、小型船)乗りになる佐久島出身者が多く、彼らの多くは陸上輸送業に転じたという[23]。1889年(明治22年)10月1日、町村制の施行により一島で幡豆郡佐久島村となった[5]

1931年(昭和6年)頃に50人規模の赤痢患者を出したことから、佐久島の住民の間では安全な飲料水を求める要望が強かった[24]。1952年(昭和27年)には佐久島村が運営する吉田航路(吉良町)の運航が開始されたが、1954年(昭和29年)8月1日に本土の幡豆郡一色町に編入されると[5]、所属する一色町との間にも航路が設けられた。旧来から一色町よりも吉良町との交流が深かったが、一色町が飲料水供給の好条件を提示したことで一色町に編入されたという[24][25]。1958年(昭和33年)頃には再び100人規模の赤痢患者を出し、この事件が契機となって上水道整備が進んだ[24]。それまでは一色港から水槽船が運航されていたが、1973年(昭和48年)、日間賀島や篠島と同様に愛知用水を水源とする海底水道が敷設され[26]、水道の導入は真水を必要とするノリ養殖を盛んにした[24][27]

1953年(昭和28年)の離島振興法制定時には実施地域に指定されなかったが、1958年(昭和32年)の第7次指定において日間賀島と篠島も含めた「愛知三島」が離島振興対策実施地域に指定された[28][注 3]。戦後には名古屋や京浜地区への出稼ぎ離村が進み、1946年(昭和21年)時点では居住人口約1,500人に対して本籍人口は2,000人を超していた[9]。東京・横浜・名古屋・神戸などの大都市には佐久島出身者で構成される佐久島会があり、宮本常一が調査を行なった昭和50年代半ばには、東京の佐久島会だけで会員が15,000人もいたという[29]。高度成長期には近隣の日間賀島や篠島で大規模な観光開発が行なわれたが、佐久島は大手資本の開発を拒否[11]。バブル期に起こったヨットハーバーの建設計画やゴルフ場リゾート開発計画も実現していない[30][31]。1972年(昭和47年)には無医状態となったが、1978年(昭和53年)には町営診療所が完成し、与論島(鹿児島県)から着任した医師が離島医療にあたった[32]。1980年(昭和55年)には医師の定年退職により再び無医状態となったが、1981年(昭和56年)以降は自治医科大学卒の医師が3年交代で常駐している[32]。1989年(平成元年)に竣工した海上自衛隊はつしま型掃海艇に「さくしま」(MSC-671)の名前が付けられた。同艦は2004年(平成16年)11月29日に佐久島に寄港しており、2013年(平成25年)に除籍となった。

2011年(平成23年)4月1日、一色町が西尾市と合併し、「幡豆郡一色町大字佐久島○○」という住所表記が「西尾市一色町佐久島○○」となった[33]。2011年(平成23年)9月から12月にかけて、愛知県は「あいちの離島80日間チャレンジ」[注 4]という離島観光振興キャンペーンを行なった。佐久島には27歳の女性イラストレーターが80日間滞在し、インターネット上で島にまつわる漫画を公開するなどの活動を行なった[34][35]。2012年(平成24年)4月には宿泊滞在型農業体験施設「佐久島クラインガルテン」が開園。日本で初めて離島に開園したクラインガルテンであり、ロフトと農園が併設された10区画には10倍の応募があった[36]。上述のイラストレーターがゆるキャラのデザインを担当し、特産の大アサリをモチーフにした「あさりん」が同年10月にお披露目された[37][注 5]

行政区画の変遷

三河湾の有人島3島の行政区画の変遷
明治22年以前 明治22年 明治23年-明治45年 大正1年-大正15年 昭和1年-昭和64年 平成1年-現在
知多郡 日間賀島村 日間賀島村 日間賀島村 日間賀島村 昭和36年合併
南知多町
南知多町
篠島村 篠島村 篠島村 篠島村
幡豆郡 佐久島村 佐久島村 佐久島村 佐久島村 昭和29年合併
一色町
平成23年合併
西尾市

交通

西尾市営渡船「はまかぜ」

島内の道路はすべて市町村道(西尾市道)であり、道路舗装率は62.8%と、愛知県平均(87.1%)を大きく下回っている[1]。島内の交通は原動機付自転車や軽自動車が中心であり[1]、信号はひとつもない[12]

海上交通

西尾市が西尾市営渡船を運営しており、2001年(平成13年)就航の「はまかぜ」、2013年(平成25年)就航の「第三さちかぜ」の高速船2隻が使用されている[38]。一色さかな広場東側にある「佐久島行船のりば」を起点とし、佐久島西港、佐久島東港の順に停まる[39]。一色から東港までの所要時間は約25分であり、渡船料金は大人800円(片道)である[39]。2013年度版の通常ダイヤは1日7往復であり、特別ダイヤ(ピーク期)は8往復である[39]。佐久島行船のりばからは名鉄バス名鉄西尾線西尾駅まで、ふれんどバスが名鉄西尾線・蒲郡線吉良吉田駅まで路線バスを運行している。同じ三河湾にある日間賀島篠島との間には定期航路が存在しないが[1]、民間の海上タクシーなどで行き来することができる。

1952年(昭和27年)に佐久島村営の渡船が吉田町(現・西尾市)と結ぶ航路を開設し、1954年(昭和29年)の一色町への編入合併後も運航を続けられていた。合併を機に一色町との航路の運航が開始され、1984年(昭和59年)には一色航路に高速船が就航した。吉田港が浅いために吉田航路は欠航が多く、また利用者数が低迷したことから、1983年(昭和58年)9月30日をもって休止し、1年後の1984年10月1日に廃止された。名鉄三河線が2004年(平成16年)に一部廃止されるまでは、三河一色駅が「一色渡船場」の最寄駅であり、渡船場から鉄道駅まで徒歩圏内だった。また、2010年(平成22年)4月には一色町の市街地に近い一色渡船場から南1.5kmの「佐久島行船のりば」に移転した[15][40]。一色渡船場は干潮の際に発着場が異なり(500m南側の「一色臨時渡船場」)[41]、また駐車場がなく堤防道路沿いにとめないといけないなどの不便があった[15]

経済

佐久島の主要な産業は漁業と観光業である[12]。三河湾は水深が浅くて海底が泥土であるため、底引網による漁業が盛んである。大アサリ(ウチムラサキ)が特産品であり、2月から5・6月には浜辺などでアサリ漁が行なわれる[42][12]。1995年(平成7年)の魚種別漁獲量割合は、海藻類が67.1%、クルマエビが13.0%、ナマコが4.2%、アナゴが3.6%、タイが2.6%などだった[43]

島内に水田が72町歩(約71ヘクタール)あった時代もあるが、1965年(昭和40年)頃には水田8町歩(約8ヘクタール)・畑40町歩(約40ヘクタール)が耕作され[44]、1975年(昭和50年)頃には水田6ヘクタール・畑58.4ヘクタールが耕作されていた[20]。昭和30年代には温州ミカンを島外に出荷していたが、ミカン栽培が定着することはなかった[1]。現在でも小規模な畑があるが、その多くは島内で消費される自給用の野菜畑である[12]、農業の衰退は昭和50年代に顕著であり[44]、2010年時点での農業就業者は2人のみである[45]。2012年(平成24年)には耕作放棄地を利用した宿泊滞在型農業体験施設(クラインガルテン)が開園した[1]

1958年(昭和33年)4月には一帯が三河湾国定公園に指定され、1991年(平成3年)には三河湾地域リゾート整備構想の重点整備地区に指定されている[28]。1980年(昭和55年)に約60,000人だった観光客数は微減が続き、1990年(平成2年)には約54,300人、2000年(平成12年)には約41,800人だった[45]。しかし現代アートを軸にした地域活性化の取り組みが功を奏し、2004年(平成16年)の約36,000人を底に回復しはじめ、2007年(平成19年)には約41,000人、2010年(平成22年)には約69,000人、2012年度には約75,000人と右肩上がりの成長を続けている[15][13]。この一方で宿泊施設は昭和末期から一貫して減少しており、1985年(昭和60年)には24軒の宿泊施設(2軒の旅館と22軒の民宿)があったが、2011年(平成23年)には8軒(2軒の旅館と6軒の民宿)まで減少している[45]

教育

佐久島小中学校

江戸時代後期から明治時代初期には崇運寺・妙海寺・阿弥陀寺で寺子屋が開かれており、1873年(明治6年)に佐久島学校が開校した[4]。1892年(明治25年)に佐久島尋常小学校が成立し、1899年(明治32年)に佐久島尋常高等小学校と名を変えた[4]。1926年(大正15年)には佐久島尋常小学校と改称。1947年(昭和22年)には佐久島村立佐久小学校と改称し、同年には佐久島村立佐久島中学校が新設された。1954年(昭和29年)には一色町立佐久島小学校/佐久島中学校となり、2011年(平成23年)に西尾市立佐久島小学校/佐久島中学校となった。1960年代の最盛期には小中学校合わせて約270人の児童生徒がいたが[46]、2011年度の児童生徒数は小中学校合わせて24人、中学3年生を除いて複式学級である[47]。西尾市立佐久島小学校・佐久島中学校は東西の集落から等距離の島中央部にある。

2003年(平成15年)からは「しおかぜ通学」制度を設け、本土から毎年数人の小中学生を佐久島小中学校に招き入れている[5]。初年度となった2003年度は小学校に4人の児童が、中学校に1人の生徒が転入学し、小学校の児童数は9人、中学校の生徒数は8人となった[48]。2006年度は小学校の児童14人中6人が、中学校の生徒11人中6人がしおかぜ通学者であり[49]、2012年度は4人の児童生徒が本土から佐久島まで高速船で通学している[50]。2012年(平成24年)時点で佐久島小学校には11人、佐久島中学校には10人の児童生徒が在籍している[1]

三河湾内に浮かぶ有人離島の日間賀島には愛知県立内海高校日間賀島分校が、篠島には内海高校篠島分校がいずれも1980年(昭和55年)から設置されていたが[51]、佐久島には分校が設置されていた過去はない。日間賀島分校は2001年(平成13年)に、篠島分校は2004年(平成16年)に閉校し[51]、三河湾三島から高校はなくなった。愛知県は高校の学区制を敷いており、西尾市に属する佐久島から進学可能な高校は、本来ならば三河学区の高校に限られるが、愛知県下全域の普通科高校に進学可能な特例が設けられている[52]

文化

社寺と弘法信仰

東部にある八劔神社・神明社[注 6]は平安時代の万寿年間(1024年-1028年)の創立[53]、江戸時代初期の再建とされ、両本殿は1964年(昭和39年)に愛知県指定文化財となった[54]。東部にある阿弥陀寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西山深草派の寺院であり、観音堂は永正2年(1505年)の開山と伝えられ[55]、やはり1964年に愛知県指定文化財となった[54]。八劔神社で行なわれる正月行事は八日講と呼ばれ、その起源は定かではないが、祭具の中には宝暦6年(1756年)の銘が入った膳もあり、江戸時代中期にはすでに行なわれていたようである[56][12]。八日講では「鬼」の字が書かれた大凧に向かって厄男が弓矢を射り、島民は災難除けとなる凧の骨を奪い合う。東部にある阿弥陀寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西山深草派の寺院であり、観音堂は永正2年(1505年)の開山と伝えられている[55]。鎌倉時代初期の建久3年(1192年)には、鳥羽上皇第7皇子の青蓮院が開基とされる崇運寺が建立され[5]、崇運寺には徳川家康が滞在したという言い伝えがある[12]。8月15日には崇運寺で400年の伝統を持つ盆踊りが行なわれ、盆踊り後には東西の港から茅(ちがや)で作った船に蝋燭を灯して先祖を送る精霊流しが行なわれる[12]。佐久島弁財天(筒島弁財天)は竹島(蒲郡市)や三明寺(豊川市)と合わせて三河三弁天のひとつであり、巳年(本開帳)と亥年(合開帳)の8月16日のみに開帳される[12][54]

愛知県の知多半島や三河地方は弘法大師(空海)信仰が盛んな土地であり[注 7]、佐久島には四国八十八箇所霊場の写しである佐久島新四国八十八箇所がある[57]。山間や集落の辻々に置かれた祠、寺院に置かれた大師像で88ヶ所の弘法霊場を形成していたが、88ヶ所すべてが現存しているわけではない[58][12]。1913年(大正2年)に観光開発的な意図を持って始まった祭祀であり、戦前には知多半島や渥美半島などから団体客が訪れ、主に一泊二日で島内の八十八箇所を巡ったが、昭和30年代前半以降は参拝目的の来島者はほとんどいないという[59]

現代アートの島

おひるねハウス

1996年(平成8年)より国土庁や愛知県の後押しを受けて、「生活と芸術」をテーマに「弁天海港佐久島プロジェクト」が発足、現代美術(弁天海港佐久島アートフェスティバル/2000年までに3回開催)などによる島おこし活動が開始された。1998年(平成10年)には古民家再生のシンボルとして佐久島弁天サロンが開館。1878年(明治11年)に建てられた民家を修復して交流施設にし、島おこしの拠点として歴史の展示会などの情報発信を行なっている[14]。2001年(平成13年)からは、島の自然や伝統とアートとの出会いによって島の活性化を目指すという「三河・佐久島アートプラン21」が始まった[60][12]。築100年以上の民家を芸術作品の舞台とした「大葉邸」などが作品となり[42]、島の至るところに現代アート作品が設置されている。2009年(平成21年)にはにほんの里100選に選出された[13]

その他

種田山頭火の俳句「島嶋人が乗り人が一人春爛漫」「波の上はゆき違う挨拶投げかけかわしつつ」は佐久島で詠まれたものであり、島内に句碑が立っている[5][注 8]。相撲力士で元朝日山親方の若二瀬唯之は佐久島出身である。1999年(平成11年)3月から5月に中部日本放送(CBC)が放送した昼ドラマ「直子センセの診察日記」は佐久島を舞台としている[5]。2000年(平成12年)に新潮社から刊行された辻井喬の小説『風の生涯』の第4章は佐久島を舞台としている[5]。2010年(平成22年)に公開された映画「名探偵コナン 天空の難破船」では、主要登場人物の江戸川コナン怪盗キッドが佐久島に降り立った。

脚注

注釈

  1. ^ 国土地理院発行の1:25,000地形図「佐久島」(昭和44年改測・平成17年更新・平成17年発行)には「さくじま」という読み仮名がふられている。
  2. ^ 国土交通省が策定した離島振興計画では、離島を本土近接型と隔絶型に分け、さらに本土近接型を内海型と外海型に分けている。本土との距離が近く、航路の安定性が高く、通勤通学が可能な離島が内海本土近接型離島とされる。
  3. ^ なお、通俗的には「愛知三島」ではなく「三河湾三島」と呼ぶことのほうが多い。
  4. ^ 三河湾三島それぞれに失業中の独身女性が80日間滞在し、それぞれの特技を生かして島の魅力を島外に発信するというキャンペーンである。
  5. ^ 日間賀島ではタコをモチーフにした「たこみちゃん」が、篠島ではシラスをモチーフにした「しらっぴーな」がお披露目されている。
  6. ^ 社殿が二つあり、向かって右の八劔神社と左の神明社がひとつの覆屋に収まっている。
  7. ^ 知多半島の知多四国八十八ヶ所、知立市・刈谷市の三河三弘法、三河新四国八十八箇所、東三河新四国八十八箇所などの著名な弘法霊場が存在する。
  8. ^ ただし、SHIMADASでは「島嶋人が乗り人が下り春らんまん」「波の上をゆきちがふ挨拶投げかわしつつ」としている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 愛知県離島振興計画 Ⅱ 離島の現況愛知県、2013年
  2. ^ ゼンリン (1997)、132頁
  3. ^ a b c d 平凡社 (1988)、648-649頁「佐久島村」
  4. ^ a b c d e f g 角川日本地名大辞典編纂委員会 (1989)、600頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 日本離島センター (1998)、198-200頁
  6. ^ 原 (2004)、55頁
  7. ^ a b c d 菅田 (2000)、55頁
  8. ^ a b c 愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、195頁
  9. ^ a b 日本民俗学会 (1975)、273頁
  10. ^ a b 瀬口哲夫・玉井秀一・梅津章子「過疎化した離島漁村集落の空間特性/三河湾佐久島」『日本建築学会学術講演梗概集』、2001年9月号、923頁
  11. ^ a b 「にほんの里100選~東海3県から5カ所」朝日新聞、2009年4月27日朝刊、名特集H、16頁
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 佐久島体験マップ三河・佐久島アートプラン21
  13. ^ a b c ルポ にほんの里100選31にほんの里100選、2013年7月8日
  14. ^ a b 原 (2004)、52頁
  15. ^ a b c d e f 愛知県一色町佐久島「アートによる島おこし」総務省
  16. ^ 原 (2004)、51頁
  17. ^ 平凡社 (1988)、649頁「佐久島古墳群」
  18. ^ 森島一貴・西谷麻衣子・田中奈津子・笹栗拓・宮元香織・藤井康隆「三河湾佐久島における後期古墳群の研究(1)」『三河考古』19巻、2007年、17頁
  19. ^ 愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、194頁
  20. ^ a b c d e f 愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、169頁
  21. ^ 宮本常一『宮本常一 旅の手帖<愛しき島々>』八坂書房、2011年、54頁
  22. ^ 宮本常一著・田村善次郎解説『宮本常一が撮った昭和の情景 上巻』毎日新聞社、2009年、33頁
  23. ^ 宮本常一著・田村善次郎解説『宮本常一が撮った昭和の情景 上巻』毎日新聞社、2009年、26頁
  24. ^ a b c d 内藤和彦「過疎化した離島漁村集落の空間特性/三河湾佐久島」『日本建築学会学術講演梗概集』、1979年9月号、1273-1274頁
  25. ^ 愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、207頁
  26. ^ 中日新聞社開発局 (2000)、343頁
  27. ^ 愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、174頁
  28. ^ a b 篠島・日間賀島の概要南知多町、2012年
  29. ^ 宮本常一『宮本常一 旅の手帖<愛しき島々>』八坂書房、2011年、56頁
  30. ^ 「愛知・佐久島 アートの島で、のんびり」朝日新聞、2009年7月6日夕刊、2総合、10頁
  31. ^ しま編集部「うつくしの島へ、ようこそ –愛知県佐久島」『しま』54巻1号、2008年、8頁
  32. ^ a b 山崎隆文「佐久島の医療現場から 小さな島の大きな安心」『しま』48巻2号、2002年、83頁
  33. ^ 新市の住所表示西尾市
  34. ^ 「紡ぐ3島物語 愛知のPR企画、開始1カ月」朝日新聞、2011年10月8日夕刊、1総合、1頁
  35. ^ 「『島娘』充実の80日間 愛知の3島PR企画、まもなく終了」朝日新聞、2011年12月24日夕刊、1社会、9頁
  36. ^ 「10倍人気、都会人も 振興に期待、荒廃の不安 三河湾・佐久島の滞在型農園」朝日新聞、2012年2月18日、朝刊、名古屋・1地方、33頁
  37. ^ 「離島のゆるキャラお披露目 あさりん・たこみちゃん・しらっぴーな、3島PR」朝日新聞、2012年10月4日朝刊、名古屋・1地方、25頁
  38. ^ 「佐久島行き西尾市営渡船が新造 来月1日就航、展望デッキつき」朝日新聞、2013年2月27日朝刊、三河・1地方面、31頁
  39. ^ a b c アクセス佐久島公式サイト
  40. ^ 「佐久島行船のりば」がオープンしました愛知県、2010年4月28日
  41. ^ 「あいちアートの森」を歩く(6)~一色町・佐久島プロジェクト=前編Let's Goあいち、2010年4月28日
  42. ^ a b 加藤 (2013)、48頁
  43. ^ 愛知県史編さん専門委員会民俗部会 (1999)、178頁
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  47. ^ 佐久島小・中学校について佐久島公式サイト
  48. ^ 原 (2004)、54頁
  49. ^ 「『黒と紫』アートな輝き 愛知・一色の佐久島」朝日新聞、2006年6月2日朝刊、あるく、24頁
  50. ^ しおかぜ通学平成25年度4月転入学・入学・児童・生徒募集佐久島公式サイト
  51. ^ a b 沿革愛知県立内海高等学校
  52. ^ 愛知県公立高等学校入学者選抜制度について愛知県
  53. ^ 平凡社 (1988)、649頁「佐久島古墳群」
  54. ^ a b c 山岡健「『若者組』-愛知県渥美郡渥美町西亀山・江比間- -愛知県幡豆郡一色町佐久島-」『大阪教育大学教育研究所報』33巻、1998年、1-6頁
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  60. ^ 三河・佐久島アートプラン21とは?三河・佐久島アートプラン21

参考文献

  • 愛知県史編さん専門委員会民俗部会『愛知県史民俗調査報告書2 西尾・佐久島』愛知県総務部県史編さん室、1999年
  • 加藤庸ニ『原色日本島図鑑 – 日本の島443-有人島全収録-』新星出版社、2013年(改定第2版)
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年
  • 菅田正昭『日本の島事典』三交社、2000年
  • 中日新聞社開発局『愛知百科事典』中日新聞本社、2000年
  • 日本民俗学会編『離島の研究』集英社、1966年
  • 日本民俗学会編『離島生活の研究』国書刊行会、1975年
  • 日本離島センター『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
  • 原眞一「佐久島--アートで島おこし」『地理』49巻10号、2004年
  • 『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』平凡社、1988年
  • 『郷土資料事典 故郷の文化遺産 23 愛知県』ゼンリン、1997年

外部リンク