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| 芸名 = オリヴィア・デ・ハヴィランド
| 芸名 = オリヴィア・デ・ハヴィランド
| ふりがな = Olivia De Havilland
| ふりがな = Olivia De Havilland
| 画像ファイル = Santa Fe Trail 3.jpg
| 画像ファイル = Olivia de Havilland still.jpg
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| 画像コメント = 1940.
| 画像コメント = 1940年代の肖像写真。
| 本名 = Olivia Mary de Havilland
| 本名 = Olivia Mary de Havilland
| 出生地 = {{JPN}}、[[東京府]]
| 出生地 = {{JPN}}、[[東京府]]
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| 没日 =
| 没日 =
| 職業 = 女優
| 職業 = 女優
| 活動期間 =
| 活動期間 = 1935年 - 2009年
| 配偶者 =Marcus Goodrich (1946-1953)<br />Pierre Galante (1955-1979)
| 配偶者 = マーカス・グッドリッチ(1946年 - 1953年)<br />ピエール・ガランテ(1955年 - 1979年)
| 家族 = [[ジョーン・フォンテイン]](妹)<br/>ベンジャミン(息子)<br />ジゼル(娘)
| 家族 = [[ジョーン・フォンテイン]](妹)<br/>ベンジャミン・グッドリッチ(息子)<br />ジゼル・ガランテ(娘)
| 公式サイト =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『ロビンフッドの冒険』<br />『風と共に去りぬ』<br />『女相続人』
| 主な作品 = 『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(1940年)<br />『[[遥かなる我が子]](1946年)<br />『[[女相続人]](1949年)
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />1946 [[遥かなる我が子]]<br />1949 [[女相続人]]
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />1946年『[[遥かなる我が子]]<br />1949年『[[女相続人]]
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]'''<br />1949 [[女相続人]]
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞ドラマ部門]]'''<br />1949年『[[女相続人]]』<br />助演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)<br />1986年『[[アナスタシア/光・ゆらめいて]]』
| その他の賞 ='''[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞]]'''<br />[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞]]<br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞]]<br />[[ナストロ・ダルジェント賞|ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞]]<br />[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞|ヴェネツィア国際映画祭女優賞]]<br />1949年『蛇の穴』
| その他の賞 ='''[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞]]'''<br />1949 『蛇の穴』
| 備考 =
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'''オリヴィア・デ・ハヴィランド'''({{lang-en-short|Olivia De Havilland}}、[[1916年]][[7月1日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[俳優|女優]]。女優としてのキャリア初期には清純な娘役を演じることが多かったが、キャリア後期には存在感のある重厚な役柄を演じている<ref name="britannica">[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/153543/Olivia-de-Havilland "Olivia de Havilland".] ''Encyclopedia Britannica'' retrieved 15 February 2013.</ref>。デ・ハヴィランドはイギリス人の両親の間に[[日本]]で生まれた。妹の[[ジョーン・フォンテイン]]も同じく日本の生まれで、デ・ハヴィランドと同じく女優の道に進んでいる。1919年に一家は日本を離れて故国イギリスへと向かったが、旅の途中で姉妹が病にかかったため滞在中のカリフォルニアに、母子だけがそのまま移住した。
'''オリヴィア・デ・ハヴィランド'''('''Olivia De Havilland'''、[[1916年]][[7月1日]] - )は、[[日本]]生まれの[[アメリカ合衆国]]の元[[俳優|女優]]。現在は[[フランス]]在住。


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==来歴・人物==
デ・ハヴィランドが出演した映画のなかでもっとも有名な作品として『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(1939年)が挙げられる。映画作品では[[エロール・フリン]]の相手役を演じることが多く、『[[ロビンフッドの冒険]]』(1938年)、『無法者の群 ([[:en:Dodge City (1939 film)|en:Dodge City]])』(1939年)、『カンサス騎兵隊 ([[:en:Santa Fe Trail (film)|en:Santa Fe Trail]])』(1940年)、『壮烈第七騎兵隊 ([[:en:They Died with Their Boots On]])』(1941年)など、8作品で共演している。
父親が英国特許弁護士をしていた[[東京]]で生まれたが、2歳の時に[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]に戻る。舞台で『[[夏の夜の夢|真夏の夜の夢]]』に出演、同じキャストで映画化されることになり[[ワーナー・ブラザーズ]]と契約して1935年に本格的に映画デビュー<ref name="Brown125">{{cite book |title=Movie Time: A Chronology of Hollywood and the Movie Industry from its Beginnings to the Present|last=Brown|first=Gene|authorlink=|coauthors=|year=1995|publisher=MacMillan|location=New York|isbn=00286042906|page=125|pages=|url=|accessdate=}}</ref>。


デ・ハヴィランドは『[[遥かなる我が子]]』(1946年)と『[[女相続人]]』(1949年)で、[[アカデミー主演女優賞]]を2度受賞している。妹のジョーン・フォンテインも『[[断崖 (映画)|断崖]]』(1941年)でアカデミー主演女優賞を受賞しており、2013年現在時点でアカデミー主演賞を獲得した唯一の兄弟姉妹となっている。アカデミー賞のほかにデ・ハヴィランドは『[[蛇の穴 (映画)|蛇の穴]]』(1948年)で[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞]]、[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞]]、[[ナストロ・ダルジェント賞|ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞]]、[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞|ヴェネツィア国際映画祭女優賞]]を受賞している。また、[[ゴールデングローブ賞]]では『[[女相続人]]』(1949年)で[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞(ドラマ部門)]]を、『[[アナスタシア/光・ゆらめいて]]』(1986年)で助演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)をそれぞれ受賞している。1960年には、それまでの映画界への貢献が讃えられて[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にプレートが設置された。2008年には当時のアメリカ合衆国大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]から、芸術分野の顕彰としてはアメリカ最高位の国家芸術メダル ([[:en:National Medal of Arts]]) が贈られている<ref name="imdbawards"/>。
1939年の『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(メラニー役)でアカデミー賞にノミネートされる。しかし、スタジオの待遇の悪さと、タイプキャスト([[エロール・フリン]]の相手役が多かった)にうんざりしてワーナーに対して訴訟を起こし、結局勝訴した。その後、演技派女優としての地位を築き、1946年の『[[遥かなる我が子]]』と1949年の『[[女相続人]]』で[[アカデミー主演女優賞]]を2度受賞している。また、『[[蛇の穴 (映画)|蛇の穴]]』で[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞]]も受賞。


===私活===
== 前半 ==
オリヴィア・デ・ハヴィランドは1916年7月1日に[[日本]]の[[東京府|東京]]で、イギリス人の両親の間に生まれた。父親のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872年8月31日 - 1968年5月23日)は[[ケンブリッジ大学]]出身で、[[東京帝国大学]]の英語教授として日本に招かれていた。後にウォルターは、日本での経験を活かして特許弁護士となっている<ref name="thomas-20">Thomas 1983, p. 20.</ref>。母親のリリアン・オーガスタ(1886年6月11日 - 1975年2月20日)は<ref name="peerage">[http://www.thepeerage.com/p18366.htm "Olivia Mary de Havilland at ''ThePeerage.com'']; retrieved 15 February 2013.</ref><ref name="filmref">[http://www.filmreference.com/film/75/Olivia-de-Havilland.html Olivia de Havilland profile at FilmReference.com]; retrieved 15 February 2013.</ref>、ロンドンの[[王立演劇学校]]出身で、夫ウォルターと来日する前には舞台女優をしていた<ref name="thomas-20"/>。母リリアンは、娘たちが1940年代に女優として成功を収めた後に「リリアン・フォンテイン」という芸名で、再度舞台女優に復帰している。オリヴィアの父方の従兄ジェフリー・デ・ハヴィランド ([[:en:Geoffrey de Havilland]]) は、イギリス空軍の爆撃機[[デ・ハビランド モスキート|デ・ハヴィランド・モスキート]]の設計者の設計を担当したことで有名で<ref name="french">French, Philip. "Screen Legends No.73". ''The Observer'', Review Section, 2009.</ref>、後に航空機メーカーである[[デ・ハビランド・エアクラフト|デ・ハヴィランド・エアクラフト]]の創始者となった人物である。また、オリヴィアの父方の祖母は[[チャンネル諸島]]の[[ガーンジー]]出身だった<ref name="beeman">Beeman 1994, p. 24.</ref><ref name="thomson">Thomson 2010, p. 339.</ref>。
[[File:Olivia de Havilland National Medal of the Arts 2008.jpg|left|250px|thumb|2008年、[[:w:National Medal of Arts|National Medal of Arts]]を授与された際、[[ジョージ・W・ブッシュ]]と共に]]
同じくアカデミー女優である妹の[[ジョーン・フォンテイン]]との確執は有名<ref>[http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/sibling-rivalry-hollywoods-oldest-feud-828301.html "Hollywood's Oldest Feud"]</ref>。


[[File:Olivia De Haviland 1933.jpg|thumb|200px|舞台劇『不思議の国のアリス』に出演したときのオリヴィア・デ・ハヴィランド。1933年。]]
退役軍人で脚本家のマーカス・グッドリッチと1946年にと結婚、1952年に離婚<ref>{{cite news|last=Honan|first=William H.|title=Marcus Aurelius Goodrich, 93, Writer Known for Naval Stories|url=Marcus Aurelius Goodrich, 93, Writer Known for Naval Stories|accessdate=18 June 2012|newspaper=New York Times|date=22 October 1991}}</ref> 。1955年にフランスの映画関係者との再婚を機に引退、1979年に離婚したものの<ref>{{cite web|url= http://www.thisislondon.co.uk/lifestyle/article-23816660-hollywoods-sweetheart-olivia-de-havilland.do|title=Hollywood's sweetheart: Olivia de Havilland|author=Eyre, Hermione |date= 19 March 2010 |work=London Evening Standard|accessdate=2012-09-25}}</ref>、現在は[[パリ]]に移住。
オリヴィアの両親は1914年に結婚したが、ウォルターが浮気がちな男性だったために、二人の結婚生活は必ずしも幸福とはいえなかった<ref name="thomas-22">Thomas 1983, p. 22.</ref>。オリヴィアの妹で、後に女優[[ジョーン・フォンテイン]]となるジョーン・デ・ハヴィランドが生まれたのは1917年10月22日だった。1919年2月に、母リリアンは病弱だった娘たちには東京の気候があっていないのではないかと考え、ウォルターを説得して一家はイギリスへと戻ることを決めた<ref name="thomas-22"/>。イギリスへ戻る途中にオリヴィアが気管支炎となり、高熱で倒れたために一家はカリフォルニアにしばらく滞在した。その後ジョーンも肺炎に罹患したために、リリアンは二人の娘とカリフォルニアに残る決断をし、サンフランシスコから50マイルほど離れた[[サラトガ (カリフォルニア州)|サラトガ]]に移り住んだ。しかしながら父ウォルターは家族を見捨てて、後に結婚することとなる日本人家政婦とともに日本へ戻っていった<ref name="thomas-22"/>。オリヴィアの両親はその後別居生活となったが、二人が正式に離婚したのは1925年2月になってからだった<ref name="thomas-23">Thomas 1983, p. 23.</ref>。


女優をやめてかなりの年月が経っていたために専門的な知識も忘れかけていたが、母リリアンは娘たちにシェークスピアを読み聞かせて、芸術に対する知識を教え込み{{#tag:ref|「オリヴィア」という名前はシェークスピアの戯曲『[[十二夜]]』の登場人物から名づけられた。|group=注}}、ほかに音楽や弁論術なども娘たちに学ばせた<ref name="thomas-24">Thomas 1983, p. 24.</ref>。1925年4月にウォルターとの間に正式に離婚が成立すると、リリアンは百貨店の経営者ジョージ・M・フォンテインと再婚した。ジョージは厳格な人物で義娘となったオリヴィアとジョーンを厳しくしつけようとしたため、オリヴィアとジョーンはジョージに敵意を抱くようになった。また年子だったオリヴィアとジョーンも仲が悪くなり、この二人の不仲は生涯続いている<ref name="cornwell">Cornwell, Rupert. [http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/sibling-rivalry-hollywoods-oldest-feud-828301.html "Sibling rivalry: Hollywood's oldest feud."] ''The Independent'', 15 May 2008. Retrieved: 6 March 2013.</ref>。
[[エロール・フリン]]との共演が多かったため、『[[ロビンフッドの冒険]]』撮影中には関係が取り沙汰されたりもしたが、彼女自身は、当時はフリンは結婚しており、二人の関係はプラトニックなものであったと説明している。『風と共に去りぬ』では、フリンと共に主役の座をオファーされたこともあったが、スタジオとの契約の関係で実現しなかったという。


デ・ハヴィランドはベルモントのノートルダム高校 ([[:en:Notre Dame High School, Belmont|:en:Notre Dame High School]]) とロス・ガトス高校 ([[:en:Los Gatos High School]]) で学んだ<ref name="thomas-25">Thomas 1983, p. 25.</ref><ref name="olivia-biography">[http://oliviadehavilland.net/biography "Biography."] ''Olivia de Havilland''. Retrieved: 6 March 2013.</ref>{{#tag:ref| ロス・ガトスで贈られる演劇賞はオリヴィア・デ・ハヴィランドにちなんで制定された。|group=注}}。高校生時代のデ・ハヴィランドは口が達者なフィールド・ホッケーが得意な少女で、高校では演劇部に所属していた<ref name="thomas-26">Thomas 1983, p. 26.</ref>。1933年にデ・ハヴィランドは、[[ルイス・キャロル]]の小説を原作とした、地域素人劇団の公演『[[不思議の国のアリス]]』の主役[[アリス (不思議の国のアリス)|アリス]]で初舞台を踏んだ<ref name="thomas-26"/>。後にデ・ハヴィランドはこの舞台のことを次のように振り返っている。
===近年===
{{quotation|
久しく表舞台から遠ざかっていたが、近年[[アメリカのアフガニスタン侵攻]]・[[イラク戦争]]を非難、これらに反対したフランス政府・人民の対応を支持している旨発言し話題となった。
自分と演じている役どころが一心同体に感じられるという、なんとも不思議な体験をした最初の日でした。そのときの私はアリスそのものであり、舞台を動く私は魅力にあふれたアリスの不思議の国を本当に歩いていました。この体験以来、私は演技を楽しむだけでなく愛することができるようになったのです<ref name="thomas-26"/>。
}}

1934年に高校を卒業したデ・ハヴィランドは、サラトガ・コミュニティ劇場で上演されるシェークスピア原作の戯曲『[[夏の夜の夢|真夏の世の夢]]』の妖精パック役の出演依頼を受けた<ref name="thomas-26"/>。この年の夏、オーストリア人演出家[[マックス・ラインハルト]]が[[ハリウッド・ボウル]]で『真夏の世の夢』を上演するためにカリフォルニアを訪れていた。ラインハルトの助手がたまたまデ・ハヴィランドの演技を観て興味を抱き、そのことを聞いたラインハルトが自身が監督する『真夏の世の夢』の主役ハーミアの代役にデ・ハヴィランドを指名した<ref name="thomas-27">Thomas 1983, p. 27.</ref>。そしてラインハルトの『真夏の世の夢』が開幕する一週間前に、ハーミア役の女優が映画の撮影のためにカリフォルニアを離れてしまい、代役のデ・ハヴィランドがハーミアを演じることとなった。初日の演技でデ・ハヴィランドは好評を博し、その後の4週間にわたる巡業公演でデ・ハヴィランドはハーミアを演じ続けた<ref name="thomas-27"/>。この巡業中にラインハルトは映画会社[[ワーナー・ブラザーズ]]から、ラインハルトの舞台版『真夏の世の夢』の映画化が決またっという知らせを受け、ラインハルト自身が映画監督を担当することとなった。そしてラインハルトはデ・ハヴィランドに、舞台版と同様にこの映画でもハーミア役での出演依頼を申し出た。当時のデ・ハヴィランドは英語教師になるつもりで<ref name="thomas-27"/>、秋には奨学金を得てミルズ大学に入学することが決まっていたが、ラインハルトがデ・ハヴィランドを説き伏せて映画出演を承諾させている。そして18歳のデ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザーズとの8年間の出演契約書にサインした<ref name="thomas-28">Thomas 1983, p. 28.</ref>。

== 女優としてのキャリア ==
[[File:Olivia de Havilland in The Adventures of Robin Hood trailer.JPG|thumb|『[[ロビンフッドの冒険]]』(1938年)の宣伝フィルム。]]
デ・ハヴィランドは1935年10月に公開された、マックス・ラインハルトの監督作品『真夏の夜の夢 ([[:en:A Midsummer Night's Dream (1935 film))|en:A Midsummer Night's Dream]]』で映画デビューした。その後もコメディアンのジョー・E・ブラウン ([[:en:Joe E. Brown (comedian)|en:Joe E. Brown]] 主演の『ブラウンの怪投手 ([[:en:Alibi Ike]])』(1935年)、[[ジェームズ・キャグニー]]主演の『頑張れキャグニー ([[:en:The Irish in Us]])』(1935年)と、立て続けに3本のコメディ映画に出演している<ref name="thomas-28"/><ref name="Brown125">Brown 1995, p. 125.</ref>。

これら3本のコメディ映画に対する評価は賛否両論であり、デ・ハヴィランドに対する観客からの反応はよくなかった<ref name="thomas-28"/>。ワーナー・ブラザーズはデ・ハヴィランドを売り出す路線を変更することを決め、当時無名だったオーストラリアの俳優[[エロール・フリン]]の相手役として『海賊ブラッド ([[:en:Captain Blood (1935 film)|en:Captain Blood]])』(1935年)に出演させるという賭けに出た。デ・ハヴィランドが起用されたのは、ワーナー・ブラザーズのプロデューサーである[[ハル・B・ウォリス]]が、デ・ハヴィランドとのことを「お気に入り」で売り出したかったためだという要因もあった<ref>Wallis and Higham 1990, p. 86.</ref><ref>Wallis and Higham 1990, p. 86.</ref>。『海賊ブラッド』は大ヒットし、批評家たちも主演した二人の役者を高く評価した<ref name="thomas-29">Thomas 1983, p. 29.</ref>。このため、デ・ハヴィランドとフリンの共演作品が次々と製作されることとなり、『進め龍騎兵 ([[:en:The Charge of the Light Brigade (1936 film)|en:The Charge of the Light Brigade]])』(1936年)、『[[ロビンフッドの冒険]]』(1938年)、 『無法者の群 ([[:en:Dodge City (1939 film)|en:Dodge City]])』(1939年)、『カンサス騎兵隊 ([[:en:Santa Fe Trail (film)|en:Santa Fe Trail]])』(1940年)、『壮烈第七騎兵隊 ([[:en:They Died with Their Boots On]])』(1941年)など、合計8本の映画が製作されてる<ref name="thomas-29"/>。

[[File:De Havilland-Melanie.jpg|thumb|left|250px|『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(1939年)の宣材写真。デ・ハヴィランドはメラニー・ハミルトン役を演じた。]]
1930年後半にデ・ハヴィランドは、『[[:en:Call It a Day|Call It a Day]]』(1937年)、『結婚スクラム ([[:en:Four's a Crowd]])』(1938年)、『[[:en:Hard to Get (1938 film)|Hard to Get]]』(1938年)などさまざまな内容の現代風ライトコメディ作品に出演している。ほかに現代風コメディ以外の作品としては『風雲児アドヴァース ([[:en:Anthony Adverse]])』(1936年)、『[[:en:The Great Garrick|The Great Garrick]]』(1937年)などに出演しており、これらの作品では、デ・ハヴィランドの洗練された容姿と美しい台詞回しが効果的に描かれている<ref name="thomas-30">Thomas 1983, p. 30.</ref>。コメディ映画でのデ・ハヴィランドの演技は批評家からも観客からも概ね好評であり、デ・ハヴィランドが演じたいと望んでいたシリアスで重厚な役どころへと踏み出すきっかけとはならなかった。<ref name="thomas-30"/>。そのような中で『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(1939年)のメラニー・ハミルトンは、まさしくデ・ハヴィランドが求めていたシリアスな役だった。[[マーガレット・ミッチェル]]が書いた大河小説『[[風と共に去りぬ]]』を原作とするこの映画は、大物プロデューサーの[[デヴィッド・O・セルズニック]]が製作した大作である。原作小説を読んだデ・ハヴィランドは、このメラニー・ハミルトンが自分にとって大きな転機となる役だと直感した。『風と共に去りぬ』の監督に起用された[[ジョージ・キューカー]]が、デ・ハヴィランドの妹ジョーン・フォンテインにこのメラニー・ハミルトン役のオーディションを受けるよう勧めたという複数の資料が存在する。しかしながら、メラニー役よりも主役のスカーレット・オハラに興味を持っていたフォンテインはキューカーの誘いを断ったとされており、自分の代わりに姉デ・ハヴィランドをキューカーに推薦したといわれている<ref name="thomas-30"/>。最終的にはワーナー・ブラザースの社長ジャック・ワーナー ([[:en:Jack Warner]]) の妻アンが、デ・ハヴィランドのメラニー役起用を後押ししている<ref name="thomas-32">Thomas 1983, p. 32.</ref>。そして『風と共に去りぬ』でメラニーを演じたデ・ハヴィランドは、[[アカデミー助演女優賞]]にノミネートされた<ref name="oscars-1940">[http://awardsdatabase.oscars.org/ampas_awards/BasicSearch?action=searchLink&displayType=1&BSFromYear=12 "Results 1939 (12th) Academy Awards."] ''Academy of Motion Picture Arts and Sciences''. Retrieved: 6 March 2013.</ref>。しかしながらこの年の[[アカデミー助演女優賞]]を受賞したのは、同じく『風と共に去りぬ』でスカーレットの黒人の召使マミー役を演じた女優の[[ハティ・マクダニエル]]だった。

1941年11月28日にデ・ハヴィランドはアメリカに[[帰化]]した<ref>[http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20815FE3C5E17738DDDA00A94D9415B8188F1D3&scp=1&sq=Olivia%20de%20Havilland%20citizen&st=cse "Olivia de Havilland a Citizen."] ''The New York Times'', 29 November 1941. Retrieved: 9 March 2013.</ref><ref name="cnn-facts">[http://www.cnn.com/2013/01/21/us/olivia-de-havilland-fast-facts "Olivia de Havilland Fast Facts".] ''CNN''. Retrieved: 9 March 2013.</ref>。

[[File:Santa Fe Trail 3.jpg|thumb|『カンサス騎兵隊』(1940年)の宣材写真。]]
『風と共に去りぬ』のメラニー役で批評家たちから絶賛されたデ・ハヴィランドは、それまでにも増してシリアスで難しい役どころを演じてみたいと考えていた。しかしながらワーナー・ブラザーズはデ・ハヴィランドの期待には応えなかった。『女王エリザベス ([[:en:The Private Lives of Elizabeth and Essex]])』(1939年)で、主役の[[ベティ・デイヴィス]]とエロール・フリンに次ぐ三番目の役を演じたデ・ハヴィランドは、犯罪ドラマ映画『犯人は誰だ ([[:en:Raffles (1939 film)|en:Raffles]])』(1939年)への出演を命じられて、ワーナー・ブラザーズ外部の映画プロデューサーの[[サミュエル・ゴールドウィン]]に預けらている。また、次作のライトコメディミュージカル映画『[[:en:My Love Came Back|My Love Came Back]]』(1940年)の主役も決まっていた<ref name="thomas-33">Thomas 1983, p. 33.</ref>。1940年代前半のデ・ハヴィランドは、演じがいがなく浅薄だと自身が思う役ばかりに起用されることに対して大きな不満を持つようになっていった<ref name="thomas-33"/><ref name="thomas-153">Thomas 1983, p. 153.</ref>。『風と共に去りぬ』のメラニー・ハミルトン役で、シリアスな役どころも演じる能力があることを証明したと考えていたデ・ハヴィランドにとって、以前と変わらない純情な娘役や可憐な乙女役は苦痛でしかなかったのである。デ・ハヴィランドはこれまで同様の内容と配役で書かれた脚本を突き返すようになり、自身が望むやりがいのある役を積極的に探していった。さらにデ・ハヴィランドは、『カンサス騎兵隊』や『壮烈第七騎兵隊』など評判がよかったエロール・フリンとの長きにわたる共演も終わらせた。共演した最後の作品である『壮烈第七騎兵隊』はもっとも長く二人が語り合う場面が描写された作品となっている<ref name="thomas-33"/>。

1940年代前半にデ・ハヴィランドが出演した映画でヒットした作品として『いちごブロンド ([[:en:The Strawberry Blonde]])』(1941年)、『[[:en:Hold Back the Dawn|Hold Back the Dawn]]』(1941年)、『カナリヤ姫 ([[:en:Princess O'Rourke]])』(1943年)などが挙げられる。『カナリヤ姫』で演じたマリア王女は、ワーナー・ブラザーズで演じた役のうち、デ・ハヴィランドにとってもっとも満足のいく役どころだった<ref name="thomas-34">Thomas 1983, p. 34.</ref>{{#tag:ref|当初のデ・ハヴィランドは『カナリヤ姫』のマリア王女役を拒否しており、社長ジャック・ワーナーが製作を中断させたといういきさつがある<ref>Freedland 1983, p. 172.</ref>。|group=注}}。デ・ハヴィランドは第14回アカデミー賞で、『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役で[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]にノミネートされた。

[[File:Santa Fe Trail De Havilland Flynn.jpg|thumb|200px|『カンザス騎兵隊』(1940年)で競演したデ・ハヴィランドとエロール・フリン。]]
デ・ハヴィランド」は、ワーナー・ブラザーズ作品の『男性 ([[:en:The Male Animal]])』(1942年)、『追憶の女 ([[:en:In This Our Life]])』(1942年)、『陽気な女秘書 ([[:en:Government Girl]])』(1944年)、『まごころ ([[:en:Devotion (1946 film)|en:Devotion]])』(1946年)に出演した。『まごころ』の公開年は1946年だが撮影自体は1943年に終了しており、公開年としてはこの『まごころ』がデ・ハヴィランドの7年間にわたるワーナー・ブラザーズとの契約における最後の出演作品となった。ワーナー・ブラザーズはデ・ハヴィランドに6カ月の契約延長を告げたが、デ・ハヴィランドはこの申し入れを受け入れなかった<ref name="thomas-35">Thomas 1983, p. 35.</ref>。当時の法律では、契約中の俳優が製作会社から提示された配役を拒否した場合には、その作品の撮影期間を契約期間に加算延長することを認めており、ほとんどの俳優はこの慣例のもとでの契約を受け入れていた。しかしながらこの契約形態に疑問を持つ俳優も少数ながら存在し、1930年代に[[ベティ・デイヴィス]]がワーナー・ブラザーズに訴訟を起こしたことがあったが最終的には敗訴している。デ・ハヴィランドは顧問弁護士の助言と[[映画俳優組合|全米映画俳優組合]]の後押しを受けて、1943年8月にワーナー・ブラザーズを相手取って出演拒否に対する契約期間延長処置に対する訴訟を起こした。この訴訟を審理したカリフォルニア州最高裁判所はワーナー・ブラザーズの反論を却下し、デ・ハヴィランドの勝訴とする判決を下した(判例 #487, 685)<ref name="thomas-36">Thomas 1983, p. 36.</ref>。それまでの製作会社の絶大な権限を弱め、俳優たちにはるかに自由な創作活動の場を与えるというこの判決は、ハリウッド映画界に非常に重要で大きな影響を与えることとなった。デ・ハヴィランドが勝ち得たこの判例は、今でも「デ・ハヴィランド法 ([[:en:De Havilland Law]])」として知られている<ref name="lawsuit">Belloni, Matthew. [http://www.reuters.com/article/2007/08/24/industry-lawsuit-dc-idUSN2329585820070824 "De Havilland lawsuit resonates through Hollywood".] ''Reuters'', 23 August 2007. Retrieved: 9 March 2013.</ref>。製作会社を相手取って勝訴したデ・ハヴィランドは、俳優仲間たちから敬意と賞賛の的となった。デ・ハヴィランドと不仲だった妹のジョーン・フォンテインも「ハリウッドはオリヴィアに途方もなく大きな借りがあります」とコメントしている<ref>Shipman 1970, p. 153.</ref>。敗訴したワーナー・ブラザーズはデ・ハヴィランドに関する書簡をほかの製作会社に送りつけた。そしてデ・ハヴィランドは「ブラックリスト女優」とみなされて、その後2年間にわたって映画作品に出演することができなかった<ref name="thomas-36"/>。

[[File:Olivia DeHavilland-2.JPG|thumb|left|200px|1940年代に撮影された宣材写真。]]
[[ブロンテ姉妹]]の生涯を大幅に脚色した映画で、1943年に撮影が終了していたもののワーナー・ブラザーズとの訴訟期間中はお蔵入りとなっていた『まごころ』の公開後、デ・ハヴィランドは[[パラマウント映画]]と3本の映画に出演する契約を交わした。そしてこれらの映画で演じたさまざまな役柄への演技が、その後のデ・ハヴィランドの女優としてのキャリアを決定付ける先駆けとなった。[[ジェームズ・エイジー]]は『暗い鏡 ([[:en:The Dark Mirror (film)|en:The Dark Mirror]])』(1946年)について、デ・ハヴィランドがつねに「もっとも可憐な映画女優の一人だった」としつつ、近年の映画では優れた演技力を持つ女優であることも証明して見せたとしている。そして「その優れた才能」を表に出していない場面でさえも、デ・ハヴィランドの演技力が「思慮深く、内に秘めた細やかな演技を保ち続けている」と指摘した。さらにエイジーは、デ・ハヴィランドの演技が「豊かな才能だけでなく、(デ・ハヴィランド)の心身ともに健全で好ましい内面によるところが大きい。観ているだけで嬉しくなってしまう」と結んでいる<ref>Shipman 1970, p. 151.</ref>。デ・ハヴィランドは『[[遥かなる我が子]]』(1946年)のジョゼフィン・ノリス役で[[アカデミー主演女優賞]]を受賞し、さらに『[[女相続人]]』(1949年)のキャサリン・スローパー役でアカデミー主演女優賞、[[ニューヨーク映画批評家協会賞|ニューヨーク映画批評家協会主演女優賞]]、[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)]]を受賞した。『[[蛇の穴 (映画)]]』(1948年)のヴァージニア・スチュアート・カニンガム役も高く評価され、アカデミー主演女優賞にノミネートされている。この『蛇の穴』は[[精神疾患]]を正面から描いた最初期の映画の一つで、「陰惨な精神病院の実態を暴き出した、ハリウッドの歴史に残る重要な作品」といわれている<ref name="french">French, Philip. [http://www.guardian.co.uk/film/2009/dec/22/olivia-de-havilland-screen-legend "Philip French's screen legends No. 73: Olivia de Havilland."] ''The Guardian'', 31 October 2009; retrieved 9 March 2013.</ref>。デ・ハヴィランドがそれまでの美女役とはまったくかけ離れた役を演じた意欲と、議論が巻き起こるであろう作品に真っ向から取り組んだ姿勢は高く評価された。デ・ハヴィランドはこの『蛇の穴』で[[ニューヨーク映画批評家協会賞|ニューヨーク映画批評家協会主演女優賞]]、[[ナストロ・ダルジェント賞|ナストロ・ダルジェンド最優秀外国人女優賞]]、[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞]]を受賞した。

この時期のデ・ハヴィランドは確固たる自由主義者で、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[フランクリン・ルーズベルト]]と[[ハリー・S・トルーマン]]の支持者だった<ref name="Record Straight 2006"/>。自由主義への共産主義の浸透を憂慮していたデ・ハヴィランドは、1946年にある騒動を巻き起こし、マスコミにも大きく報道された。[[スターリニズム|スターリン主義]]による残虐行為に関する報告会で、ハリウッド美術科学専門職の独立市民委員会が事前に用意した演説原稿から、親共産主義と思われる箇所を飛ばして読み上げたのである。この独立市民委員会は後に共産主義者の偽装組織だと認定されている<ref>Billingsley 1998, pp. 123–124.</ref>。デ・ハヴィランドは、独立市民委員会の自由主義会員たちが一握りの上層部の共産主義会員に操られているのではないかと危惧するようになった。そして、1946年の[[中間選挙]]で民主党が大勝すれば、独立市民委員会の親ソヴィエト的な言動を抑制できると考えた。デ・ハヴィランドは、独立市民委員会を共産主義者から取り戻すための活動を始めたが、最終的にはこの活動は失敗し、デ・ハヴィランドに共鳴して改革派に加わったハリウッド業界人たちの多くが離脱するという結果となった。デ・ハヴィランドに説得されて改革派に加わっていた俳優に[[ロナルド・レーガン]]がおり、その後1952年以降のレーガンの政治活動は劇的に変化していった<ref name="Record Straight 2006">Meroney, John. "Olivia de Havilland is Setting the Record Straight", ''The Wall Street Journal'', 7 September 2006.</ref>。<!-- Despite galvanising Hollywood resistance to Soviet influence, de Havilland was denounced that same year (along with [[Danny Kaye]], [[Fredric March]] and [[Edward G. Robinson]]) as a "swimming pool pink" <!-- what does this mean?? --><!--in ''Time Magazine''.{{Why?|date=September 2013}}<ref>Gottfried 2002, p. 146.</ref> -->デ・ハヴィランドが自由主義の改革活動をあまりに主張したために、[[赤狩り]]の舞台となった[[下院非米活動委員会]]に1958年に召還されたこともあったが、女優としてのキャリアに傷がつくことはなかった<ref name="Record Straight 2006"/>。

[[File:Studio publicity Olivia de Havilland.jpg|thumb|200px|『Libel』(1959年)の宣材写真。]]
1950年代以降、デ・ハヴィランドの映画出演は散発的になっていった。1951年に公開予定だった映画『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』の主役ブランチ・デュボアを提示されたが、デ・ハヴィランドはこのオファーを断っている。このブランチ・デュボア役を拒否した理由について、脚本の内容が生理的に受け入れられなかったことと、口にしたくない台詞が多くあったためだといわれてきた。しかしながらデ・ハヴィランドは2006年にこの噂を否定し、幼い子供の世話に追われていたために役を受けることができなかったと語っている<ref name="Meroney">Meroney, John. [http://www.onlinewsj.com/article/SB115757993223555601.html "Olivia de Havilland Recalls Her Role – in the Cold War"], ''The Wall Street Journal'', 7 September 2006; retrieved 17 October 2009.</ref>。最終的にブランチ・デュボア役は『風と共に去りぬ』でデ・ハヴィランドと共演した[[ヴィヴィアン・リー]]が、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』でブランチ役で演じたのに引き続いて映画版のブランチ役を受け、二度目のアカデミー主演女優賞を獲得した<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive/pdf?res=F10B12FE3A55177B93CAAB1789D95F458585F9 " 'Streetcar wins film critics' nod; Voted 'The Best of the Year' by motion pictures critics."] ''[[The New York Times]]'', 28 December 1951; retrieved 8 November 2011.</ref>。

デ・ハヴィランドが1960年代に出演した数少ない作品の中で、もっともよく知られているのが『[[不意打ち (映画)|不意打ち]]』(1964年)で、デ・ハヴィランドはエレベーターに閉じ込められて乱入者に脅される未亡人コーネリア・ヒリヤード役を演じている。ほかの作品として[[ロバート・アルドリッチ]]監督作品『[[ふるえて眠れ]]』(1964年)、キャサリン・アン・ポーター ([[:en:Katherine Anne Porter]]) の小説を[[サム・ペキンパー]]監督でテレビドラマ化した『昼酒 ( [[:en:Noon Wine]])』(1966年)が有名である。1965年にデ・ハヴィランドは、[[カンヌ国際映画祭]]で初の女性審査委員長に任命された。

デ・ハヴィランドは1970年代後半まで映画女優を続け、その後テレビ番組へと舞台を移して1980年代後半まで活動を続けた。1986年に出演したテレビ映画『[[アナスタシア/光・ゆらめいて]]』ではロシア皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]を演じ、[[ゴールデングローブ賞|ゴールデングローブ助演女優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門)]]を受賞している。2008年には当時のアメリカ合衆国大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]から、芸術分野の顕彰としてはアメリカ最高位の国家芸術メダル ([[:en:National Medal of Arts]]) が授与された<ref name="imdbawards"/>。

== 私生活 ==

=== 交友関係 ===
[[File:Olivia de Havilland and Errol Flynn in The Charge of the Light Brigade trailer.JPG|thumb|250px|『進め龍騎兵』(1936年)で共演したデ・ハヴィランドとエロール・フリン。]]
8本の作品で共演したデ・ハヴィランドとエロール・フリンは、ハリウッド屈指のカップルといわれていたが、私生活で恋愛関係になったことはなかった。デ・ハヴィランドはフリンについて
{{quotation|
私(デ・ハヴィランド)が恋心を抱いていたなどとは、彼(フリン)も思っていなかったでしょう。互いにそのような感情はありませんでした。私は何かで、映画『進め龍騎兵』の撮影中だった1935年に、彼が私にラブレターを書いたことがあるという記述を読んだことがあります。これには驚きました。何本もの作品で恋人役を演じてきましたが、彼が私に心を動かされたことは一度もなく、こんな手紙をもらったことはなかったからです<ref name="daily-mail">Andrews, Emily. [http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1193489/Errol-Flynn-He-wicked-way-says-Gone-With-The-Wind-star-Olivia-Havilland.html "Errol Flynn? He never had his wicked way with me".] ''Daily Mail'', 17 June 2009; retrieved 26 May 2013.</ref>。
}}と語っている。

しかしながらデ・ハヴィランドは他のインタビューで、二人は互いに好意を抱いておりフリンが求婚したことがあったが、デ・ハヴィランドは当時のフリンが女優リリ・ダミタ ([[:en:Lili Damita]]) と結婚していたために、この求婚を断ったとも語っている<ref name="tcm-bio">[http://www.tcm.com/tcmdb/participant.jsp?spid=46170 "Olivia de Havilland Biography."] ''Turner Classic Movies''; retrieved 26 May 2013.</ref>。1939年12月から1942年3月まで、デ・ハヴィランドは俳優[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]と交際していた。デ・ハヴィランドの代理人アイリーン・メイヤー・セルズニックが、1939年12月19日にニューヨークのアスター劇場で開催される『風と共に去りぬ』のプレミア試写会で、ステュアートにデ・ハヴィランドのエスコート役を頼んだことがある。この依頼を引き受けたステュアートは数日間にわたって複数の劇場でデ・ハヴィランドのエスコート役を務め、有名なレストランの[[21 クラブ|21クラブ]]にもデ・ハヴィランドと同行した<ref name="fishgall-137-138">Fishgall 1997, pp. 137–139.</ref>。ステュアートがアメリカ空軍へ志願するために飛行訓練を受けていたロサンゼルスでも二人の逢瀬は続いた。デ・ハヴィランドは、1940年にステュアートが求婚したが、まだステュアートには結婚の心積もりが出来ていないと感じて断ったことがあるとしている<ref name="fishgall-137-138"/>。二人の関係は1941年3月にステュアートが空軍に入隊したことにより中断した。それでも1942年まで3月まで断続的にではあるが二人の関係は続いていたが、デ・ハヴィランドが映画監督[[ジョン・ヒューストン]]に惹かれていったために、ステュアートとの関係は終わりを告げている<ref name="fishgall-148">Fishgall 1997, p. 148.</ref>。

=== 結婚 ===
デ・ハヴィランドは、作家で脚本家でもあった退役海軍軍人マーカス・グッドリッチ ([[:en:Marcus Goodrich]]) と1946年1月24日に結婚した。二人の間には1949年12月1日に一人息子ベンジャミン・グッドリッチが生まれたが、1952年に離婚している。息子ベンジャミンは癌のために、父マーカスが死去する三週間前の1991年10月1日に41歳で死去した<ref>Honan, William H. [http://www.nytimes.com/1991/10/22/arts/marcus-aurelius-goodrich-93-writer-known-for-naval-stories.html "Marcus Aurelius Goodrich, 93, Writer Known for Naval Stories."] ''The New York Times'', 22 October 1991; retrieved 18 June 2012.</ref>。

デ・ハヴィランドが、ジャーナリストでフランスの雑誌『パリ・マッチ ([[:en:Paris Match]])』の編集者ピエール・ガランテと再婚したのは1955年4月2日である。二人の間には1956年7月18日に一人娘ジゼル・ガランテが生まれた。この結婚を期にパリへの移住と人生の再設計を決意したと、デ・ハヴィランドの回想録『Every Frenchman Has One』には記されている。1962年から二人は別居していたが、正式に離婚したのは1979年のことだった<ref>Eyre, Hermione. [http://www.thisislondon.co.uk/lifestyle/article-23816660-hollywoods-sweetheart-olivia-de-havilland.do "Hollywood's sweetheart: Olivia de Havilland"], ''London Evening Standard'', 19 March 2010; retrieved 6 March 2013.
</ref>。

=== 後半生 ===
『恋愛合戦 ([[:en:It's Love I'm After]])』(1937年)、『女王エリザベス』(1039年)、『追憶の女』(1942年)、『ふるえて眠れ』(1964年)で共演した女優[[ベティ・デイヴィス]]は、その生涯にわたってデ・ハヴィランドの親友だった。ほかにも[[グロリア・スチュアート]]は2010年に100歳で死去するまでデ・ハヴィランドの親友だった女優である。2008年4月には、ロサンゼルスで行われた俳優[[チャールトン・ヘストン]]の葬儀に参列していた。またこの年には、アカデミー賞の主催団体である[[映画芸術科学アカデミー]]が企画したベティ・デイヴィス生誕100周年記念式典にサプライズ・ゲストとして招かれている<ref>[http://www.oscars.org/events/past/2008/bettedavis/ "Centennial Tribute to Bette Davis".] ''Thew Academy of Motion Picture Arts and Sciences''; retrieved 1 September 2013.</ref>。

=== 妹との確執 ===
[[File:Joan Fontaine in Suspicion.JPG|thumb|250px|デ・ハヴィランドの妹[[ジョーン・フォンテイン]]。デ・ハヴィランドと同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされ、フォンテインが主演女優賞を受賞した『[[断崖 (映画)|断崖]]』(1941年)の宣伝フィルム。]]
オリヴィア・デ・ハヴィランドと妹のジョーン・フォンテインは、2013年現在でアカデミー主演賞を受賞した唯一の兄弟姉妹である。最初に女優の道を選んだのはデ・ハヴィランドで、妹のフォンテインも姉に続いて女優になろうとした。言い伝えによると、二人の母親リリアンはデ・ハヴィランドのほうを可愛がっており、フォンテインが女優になっても「デ・ハヴィランド」という名前を使うことを許さなかったといわれている。このためフォンテインは別の芸名をつけざるを得なくなり、最初にジョーン・バーフィールド、後にジョーン・フォンテインという名前で芸能活動を続けることとなった。伝記作家のチャールズ・ハイアム ([[:en:Charles Higham (biographer)|en:Charles Higham]]) は、この姉妹が幼いころからいつも喧嘩をしていたと指摘しており、フォンテインはデ・ハヴィランドのお下がりの服を与えられていたが、デ・ハヴィランドがフォンテインに渡す服をわざと破ったために、フォンテインはその服を縫い直して着なければならなかったというエピソードを紹介している。この姉妹はお互いに対して大きな憤りを感じているといわれており、フォンテインがデ・ハヴィランドを嫌うようになったのは、母親がデ・ハヴィランドばかりを可愛がったことが原因だとされている<ref name=CharlesHigham>Higham 1984, p. 257.</ref>。

1942年にデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされた。対象となったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役、フォンテインが[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督作品『[[断崖 (映画)|断崖]]』のリナ・マクレイドロウ役で、主演女優賞を獲得したのは妹のフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優という仕事に心身を捧げていない自分が賞を獲得したことに対して後ろめたく感じていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞式で、主演女優賞を受け取るために歩き出したフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福をあからさまに拒絶したために、デ・ハヴィランドは気分を害して当惑して見えたと記述している。<!-- Several years later, de Havilland remembered the slight and exacted her own revenge by brushing past Fontaine, who was waiting with her hand extended, because de Havilland allegedly took offense at a comment Fontaine had made about de Havilland's husband. De Havilland's relationship with Fontaine continued to deteriorate after the two incidents. Charles Higham has stated that this was the near final straw for what became a lifelong feud, but the sisters did not completely stop speaking to each other until 1975. According to Fontaine, de Havilland did not invite her to a memorial service for their mother, who had recently died. De Havilland claims she informed Fontaine, but Fontaine brushed her off, claiming she was too busy to attend. {{citation needed|date=September 2013}} -->

ハイアムはフォンテインが自分の娘とも疎遠になったとしており、おそらく娘が伯母であるデ・ハヴィランドと隠れて連絡を取り合っていたためではないかと指摘している<ref name=CharlesHigham/>。デ・ハヴィランドもフォンテインも自分たちの関係を公言したことはほとんどない。ただしフォンテインは1979年のインタビューで、自分たち姉妹が口をきかなくなったのは、癌に苦しんでいた母親に外科手術を受けさせようとしたデ・ハヴィランドと、当時88歳の母親には手術は無理だと考えていた自分との間で意見が対立したことが原因だと語ったことがある。そしてフォンテインは、母リリアンが死去したときにデ・ハヴィランドが、当時舞台巡業公演で各地を回っていた自分を探そうとしなかったと主張している。デ・ハヴィランドは母の死を知らせる電報をフォンテインに送ったが、この電報をフォンテインが目にしたのは二週間後で、フォンテインが母の死を知ったのは次の公演地に移動してからのことだった<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=m9f7gjHkR9M "RetroBites: Joan Fontaine - Sisters (1979)" on ''Youtube'', 2 December 2010.]</ref>。

== 2000年以降のデ・ハヴィランド ==
[[File:Olivia de Havilland National Medal of the Arts 2008.jpg|thumb|2008年にアメリカ合衆国大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]から、国家芸術メダルを授与されたデ・ハヴィランド。]]
デ・ハヴィランドは1960年以来、フランスの[[パリ]]に住んでいる。2000年以降のデ・ハヴィランドが公の場に姿を見せることはほとんどない。2003年に第75回アカデミー賞授賞式にプレゼンターとして表れたときには、1分間にもおよぶ[[スタンディングオベーション]]で迎えられた。2006年6月に、映画芸術科学アカデミーとロサンゼルス州立美術館がデ・ハヴィランドの90歳の誕生日を祝う式典を開催し、デ・ハヴィランドもこの式典に出席している。2004年に[[ターナー・クラシック・ムービーズ]]が「思い出のメラニー ({{lang|en|Melanie Remembers)}}」というテレビ番組を制作した。この番組は『風と共に去りぬ』の公開65周年の回顧記念番組の一つで、デ・ハヴィランドのインタビューを中心として構成されていた。『思い出のメラニー』が公開されたときに『風と共に去りぬ』の主要キャストで存命中だった人物としてデ・ハヴィランドのほかに、インディア・ウィルクス役のアリシア・レット ([[:en:Alicia Rhett]])、メイベル・メリーウェザー役のメアリー・アンダーソン ([[:en:Mary Anderson (film actress)|en:Mary Anderson]])、ボー・ウィルクス役のミッキー・カーン ([[:en:Mickey Kuhn]]) がいる。存命の俳優として最年長のデ・ハヴィランドはインタビューでメラニー役のことや撮影中のことなどを今でもはっきり覚えていると語っている。40分にわたるこの番組は、4枚組のDVDの一部として発売された。

2008年11月17日に、92歳だったデ・ハヴィランドは芸術分野の顕彰としてはアメリカ最高位の国家芸術メダル ([[:en:National Medal of Arts]]) を受章した。メダルをデ・ハヴィランドに授与した大統領ジョージ・W・ブッシュは、「シェークスピアのハーミアからマーガレット・ミッチェルのメラニーまで幅広い役柄を演じ分ける、その説得力にあふれた人をひきつけて離さない演技力に対して。彼女が持つ独立心、誠実さ、優雅さが豊かな創造力を解き放ち、素晴らしい映画女優として大成功させたのです」と演説した<ref name="wh-archive">[http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/11/20081117-2.html "President and Mrs. Bush Attend Presentation of the 2008 National Medals of Arts."] ''The White House Archives,'' 17 November 2008. Retrieved: 7 March 2013.</ref>。

2009年に、デ・ハヴィランドはドキュメント番組『[[:en:I Remember Better When I Paint|I Remember Better When I Paint]]』のナレーターを担当した<ref>[http://events.nydailynews.com/new-york-ny/events/show/89075399-documentary-screening-i-remember-better-when-i-paint "Documentary Screening: 'I Remember Better When I Paint'."] ''New York Daily News.'' 28 October 2009. Retrieved: 1 September 2013.</ref>。この番組は、芸術分野における[[アルツハイマー型認知症]]の重要性を描いた作品だった<ref>[http://www.newyorksocialdiary.com/nysd/across "New York Social Diary."] ''New York Social Diary''. Retrieved: 13 September 2010.</ref>。2011年にはパリで開催された特別上映会にも出席している<ref name="kniffel">Kniffel, Leonard.[http://americanlibrariesmagazine.org/global-reach/film-legend-makes-memories-american-library-paris "Film Legend Makes Memories at American Library in Paris."] ''American Libraries'', 23 March 2011. Retrieved: 6 March 2013.</ref>。

2010年9月9日に、デ・ハヴィランドはフランスの最高勲章である[[レジオンドヌール勲章|レジオンドヌール勲章シュヴァリエ賞]]を授与された。勲章を授与したフランス大統領[[ニコラス・サルコジ]]は、「フランスを(住居として)選んでくださったことを誇りに思います」と語った<ref name="corbet">Corbet, Sylvie. [http://www.highbeam.com/doc/1A1-36593d70f8324080ab3c5b267b79c3dc.html "Olivia de Havilland honored by French president."] ''HighBeam Research'', 9 September 2010. Retrieved: 6 March 2013.</ref>。

2011年2月1日に、デ・ハヴィランドはフランスの映画賞[[セザール賞]]授与式に姿を見せた。式典の代表を務めた女優の[[ジョディ・フォスター]]が紹介すると、会場はスタンディングオベーションでデ・ハヴィランドを迎えた<ref name="youtube">Foster, Jodie. [http://www.youtube.com/watch?v=wnuvQphnv9c&feature=player_embedded "Jodie Foster Opening Speech Cesars 2011."] ''YouTube'', 2011. Retrieved: 6 March 2013.</ref>。


== 映画賞、表彰 ==
[[2003年]]には[[第75回アカデミー賞]]授賞式に登場。ステージに立ち、青いドレスで元気で華やかな姿を見せ、世界中に健在ぶりをアピールした。2008年には[[:w:National Medal of Arts|National Medal of Arts]]を授与された<ref>{{cite news|accessdate=November 8, 2011|cite web|title=Arts Medals Awarded|publisher=The New York Times |year=2008|url=http://www.nytimes.com/2008/11/18/arts/18arts-ARTSMEDALSAW_BRF.html?scp=1&sq=Olivia%20de%20Havilland%20national%20medal%20of%20arts&st=cse|first=Dave|last=Itzkoff|date=18 November 2008}}</ref>。2010年には[[レジオンドヌール勲章]]を授与されている。2011年には[[セザール賞]]授賞式にも登場した<ref>{{cite web|url=http://www.youtube.com/watch?v=wnuvQphnv9c&feature=player_embedded|title=Jodie Foster Opening Speech Cesars 2011|accessdate=2012-09-25}}</ref>。
[[File:Olivia de Havilland's star on the Hollywood Walk of Fame.jpg|thumb|[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]のハリウッド通り6762にある、デ・ハヴィランドのスター・プレート。]]
[[File:Olivia de Havilland's handprint.jpg|thumb|[[グローマンズ・チャイニーズ・シアター]]のデ・ハヴィランドの手形と足型。]]
* 1940年 アカデミー助演女優賞ノミネート - 『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』
* 1941年 ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞第2位 - 『Hold Back the Dawn』
* 1942年 アカデミー主演女優賞ノミネート - 『Hold Back the Dawn』
* 1946年 ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞第2位 - 『[[遥かなる我が子]]』
* 1947年 アカデミー主演女優賞受賞 - 『遥かなる我が子』
* 1948年 ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞受賞 - 『[[蛇の穴 (映画)|蛇の穴]]』
* 1948年 ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞受賞 - 『蛇の穴』
* 1949年 アカデミー主演女優賞ノミネート - 『蛇の穴』
* 1949年 ヴェネツィア国際映画祭女優賞受賞 - 『蛇の穴』
* 1949年 ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞受賞 - 『蛇の穴』
* 1950年 アカデミー主演女優賞受賞 - 『[[女相続人]]』
* 1950年 ゴールデングローブ主演女優賞(ドラマ部門) - 『女相続人』
* 1950年 ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞受賞 - 『女相続人』
* 1953年 ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート - 『謎の佳人レイチェル』
* 1960年 ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッド通り6762にスタープレート設置
* 1987年 ゴールデングローブ助演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)受賞 - 『[[アナスタシア/光・ゆらめいて]]』
* 2008年 アメリカの国家芸術メダル受章
* 2010年 フランスのレジオンドヌール勲章シュヴァリエ章受章<ref name="imdbawards">[http://www.imdb.com/name/nm0000014/awards "Awards for Olivia de Havilland".] ''Internet Movie Database''. Retrieved: 14 February 2013.</ref>
{{-}}
== 著書 ==
デ・ハヴィランドは1960年に回顧録『{{lang|en|Every Frenchman Has One}}』を出版した。また、ジョン・リッチフィールドによるとデ・ハヴィランドが自叙伝を執筆中で、2009年9月には初稿を完成させたいとしている<ref>[http://www.independent.co.uk/artsentertainment/films/features/golden-girl-the-divine-olivia-de-havilland-1744807.html "Golden girl: The divine Olivia de Havilland."] ''The Independent'', 14 July 2009; retrieved 17 October 2009.</ref>。


== 主な出演作品 ==
== 出演作品 ==
=== 映画作品 ===
{| class="wikitable"
{| class="wikitable sortable"
|-
|-
! style="width:50px;"|公開年
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考
! style="width:250px;"|邦題<br />原題
! style="width:250px;"|役柄
! style="width:350px;" class="unsortable"|備考
|-
|-
| rowspan="4"|1935年
|rowspan="3"|1935 ||頑張れキャグニー<br /> ''The Irish in Us'' || ルシール・ジャクソン ||
| 『ブラウンの怪投手』<br />''[[:en:Alibi Ike|Alibi Ike]]''
| ドリー・スティーヴンス
|
|-
|-
| 『頑張れキャグニー』<br />''[[:en:The Irish in Us|The Irish in Us]]''
| [[真夏の夜の夢 (1935年の映画)|真夏の夜の夢]] <br />''[[:en:A Midsummer Night's Dream (1935 film)|A Midsummer Night's Dream]]' || ||
| ルシール・ジャクソン
|
|-
|-
| 海賊ブラッド<br /> ''[[:en:Captain Blood (1935 film)|Captain Blood]]'' || アラベラ・ビショップ ||
| 『真夏の夜の夢』<br />''[[:en:A Midsummer Night's Dream (1935 film)|A Midsummer Night's Dream]]''
| ハーミア
| 「Olivia de Haviland」としてクレジット<br />映画デビュー作品<ref name="Brown125" />
|-
|-
| 『海賊ブラッド』<br />''[[:en:Captain Blood (1935 film)|Captain Blood]]''
|rowspan="2"|1936|| 風雲児アドヴァース<br /> ''Anthony Adverse'' || アンジェラ ||
| アラベラ・ビショップ
|
|-
|-
| rowspan="2"|1936年
| 進め龍騎兵<br /> '' The Charge of the Light Brigade'' || エルザ・キャンベル ||
| 『風雲児アドヴァース』<br />''[[:en:Anthony Adverse|Anthony Adverse]]''
| アンジェラ・ジョゼッペ
|
|-
|-
| 『進め龍騎兵』<br />''[[:en:The Charge of the Light Brigade (1936 film)|The Charge of the Light Brigade]]''
|1937|| 恋愛合戦<br /> ''It's Love I'm After'' || マルシア・ウエスト ||
| エルザ・キャンベル
|
|-
|-
| rowspan="3"|1937年
|rowspan="3"|1938 || 黄金の罠<br /> ''Gold Is Where You Find It'' || セレーナ・フェリス ||
| ''[[:en:Call It a Day|Call It a Day]]''
| キャサリーン・"キャス"・ヒルトン
| 
|-
|-
| 『恋愛合戦』<br />''[[:en:It's Love I'm After|It's Love I'm After]]''
| [[ロビンフッドの冒険]]<br /> ''[[:en:The Adventures of Robin Hood (film)|The Adventures of Robin Hood]]'' || マリアン ||
| マルシア・ウエスト
|
|-
|-
| ''[[:en:The Great Garrick|The Great Garrick]]''
| 結婚スクラム<br /> ''Four's a Crowd'' || ロリ ||
| ガーメイン・デ・ラ・コルベ
| 
|-
|-
| rowspan="4"|1938年
|rowspan="5"|1939 || 太平洋の翼<br /> '' Wings of the Navy'' || イレーネ・デイル ||
| 『黄金の罠』<br />''[[:en:Gold Is Where You Find It|Gold Is Where You Find It]]''
| セレーナ・"スプラット"・フェリス
|
|-
|-
| 『[[ロビン・フッドの冒険]]』<br />''[[:en:The Adventures of Robin Hood (film)|The Adventures of Robin Hood]]''
| 無法者の群<br /> ''Dodge City'' || アビー ||
| レディ・マリアン・フィッツウォーター
|
|-
|-
| 『結婚スクラム』<br />''[[:en:Four's a Crowd|Four's a Crowd]]''
| 女王エリザベス<br /> '' The Private Lives of Elizabeth and Essex'' || ペネロープ・グレイ ||
| ロリ・ディリングウェル
|
|-
|-
| ''[[:en:Hard to Get (1938 film)|Hard to Get]]''
| 犯人は誰だ<br />''Raffles'' || グウェン ||
| マルガリータ・リチャーズ
|
|-
|-
| rowspan="5"|1939年
| [[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]] <br />''Gone with the Wind'' || メラニー・ハミルトン ||
| 『太平洋の翼』<br />''[[:en:Wings of the Navy (film)|Wings of the Navy]]''
| イレーネ・デイル
|
|-
|-
| 1940 || [[カンサス騎兵隊]]<br />''[[:en:Santa Fe Trail (film)|Santa Fe Trail]]'' || キット・カーソン ||
| 『無法者の群』<br />''[[:en:Dodge City (1939 film)|Dodge City]]''
| アビー・アーヴィング
|
|-
|-
| 『女王エリザベス』<br />''[[:en:The Private Lives of Elizabeth and Essex|The Private Lives of Elizabeth and Essex]]''
|rowspan="2"|1941 || [[いちごブロンド]] <br /> ''[[:en:The Strawberry Blonde|The Strawberry Blonde]]'' || エイミー ||
| レディ・ペネロープ・グレイ
|
|-
|-
| [[壮烈第七騎兵隊]] <br /> ''[[:en:They Died with Their Boots On|They Died with Their Boots On]]'' || エリザベス・ベーコン ||
| [[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]<br />''[[:en:Gone with the Wind (film)|Gone with the Wind]]''
| メラニー・ウィルクス
| [[アカデミー助演女優賞]] ノミネート
|-
|-
| 『犯人は誰だ』<br />''[[:en:Raffles (1939 film)|Raffles]]''
|rowspan="2"|1942|| [[追憶の女]]<br /> ''In This Our Life'' || ロイ・ティンバーレイク ||
| グウェン・マンダーズ
|
|-
|-
| rowspan="2"|1940年
| 男性<br /> ''The Male Animal'' || エレーン・ターナー ||
| ''[[:en:My Love Came Back|My Love Came Back]]''
| アメリア・コーネル
|
|-
|-
| 『カンサス騎兵隊』<br />''[[:en:Santa Fe Trail (film)|Santa Fe Trail]]''
|rowspan="2"|1943|| カナリヤ姫<br /> ''Princess O'Rourke'' || マリア王女(メアリー・ウィリアムズ) ||
| キット・カーソン・ホリディ
|
|-
|-
| rowspan="3"|1941年
| 陽気な女秘書<br />''Government Girl'' || エリザベス・アラード(スモーキー) ||
| 『いちごブロンド』<br />''[[:en:The Strawberry Blonde|The Strawberry Blonde]]''
| エイミー・リンド・グリムズ
|
|-
|-
| ''[[:en:Hold Back the Dawn|Hold Back the Dawn]]''
|rowspan="3"|1946 || [[遥かなる我が子]]<br />''To Each His Own '' || ジョゼフィン・ノリス || [[アカデミー主演女優賞]] 受賞
| エイミー・ブラウン
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞]] 第2位<br />アカデミー主演女優賞 ノミネート
|-
|-
| 『壮烈第七騎兵隊』<br />''[[:en:They Died with Their Boots On|They Died with Their Boots On]]''
| まごころ<br />''Devotion'' || シャーロット・ブロンテ ||
| エリザベス・ベーコン・カスター
|
|-
|-
| rowspan="2"|1942年
| 暗い鏡<br /> ''The Dark Mirror '' || テリー/ルース・コリンズ ||
| 『男性』<br />''[[:en:The Male Animal|The Male Animal]]''
| エレーン・ターナー
|
|-
|-
| 『追憶の女』<br />''[[:en:In This Our Life|In This Our Life]]''
| 1948 || [[蛇の穴 (映画)|蛇の穴]]<br />''The Snake Pit'' || ヴァージニア・スチュアート・カニンガム ||
| ロイ・ティンバーレイク
|
|-
|-
| rowspan="3"|1943年
|1949|| [[女相続人]]<br />''The Heiress'' || キャサリン・スローパー || [[アカデミー主演女優賞]] 受賞<br />[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)]] 受賞
| ''[[:en:Thank Your Lucky Stars (1943 film)|Thank Your Lucky Stars]]''
| デ・ハヴィランド自身
| 第二次世界大戦の資金集めのために製作された一連の「ハリウッド玉手箱」の一つ
|-
|-
| 『カナリヤ姫』<br />''[[:en:Princess O'Rourke|Princess O'Rourke]]''
| 1952 || [[謎の佳人レイチェル]]<br /> ''[[:en:My Cousin Rachel (film)|My Cousin Rachel]]'' || レイチェル ||
| マリア王女 / メアリー・ウィリアムス
| 「Olivia DeHavilland」としてクレジット
|-
|-
| 『陽気な女秘書』<br />''[[:en:Government Girl|Government Girl]]''
|rowspan="2"|1955 || 王女アナ・メンドーサ<br /> ''That Lady'' || アナ・デ・メンドーサ ||
| エリザベス・"スモーキー"・アラード
|
|-
|-
| rowspan="4"|1946年
| [[見知らぬ人でなく]]<br /> ''[[:en:Not as a Stranger|Not as a Stranger]]'' || クリスティナ ||
| 『[[遥かなる我が子]]』<br />''[[:en:To Each His Own (film)|To Each His Own]]''
| ミス ジョゼフィン・"ジョディ"・ノリス
| [[アカデミー主演女優賞]] 受賞<br>ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞 第2位
|-
|-
| 『まごころ』<br />''[[:en:Devotion (1946 film)|Devotion]]''
|1956|| 恋は巴里で<br /> ''The Ambassador's Daughter'' || ジョーン・フィスク ||
| シャーロット・ブロンテ
|
|-
|-
| ''[[:en:The Well-Groomed Bride|The Well-Groomed Bride]]''
|1958|| 誇り高き反逆者<br /> ''The Proud Rebel'' || リネット・ムーア ||
| マージー・ドーソン
|
|-
|-
| 『暗い鏡』<br />''[[:en:The Dark Mirror (film)|The Dark Mirror]]''
|rowspan="2"|1964 || [[不意打ち (映画)|不意打ち]] <br /> ''Lady in a Cage'' || コーネリア・ヒリヤード ||
| テリー / ルース・コリンズ
|
|-
|-
| 1948年
| [[ふるえて眠れ]] <br /> ''Hush... Hush, Sweet Charlotte'' || ミリアム ||
| 『[[蛇の穴 (映画)|蛇の穴]]』<br />''[[:en:The Snake Pit|The Snake Pit]]''
| ヴァージニア・スチュアート・カニンガム
| アカデミー主演女優賞 ノミネート<br />[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞]] 受賞<br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞]] 受賞<br />[[ナストロ・ダルジェント賞|ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞]] 受賞<br />[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞|ヴェネツィア国際映画祭女優賞]] 受賞
|-
|-
| 1949年
| 1970|| [[冒険者 (1970年の映画)|冒険者]]<br /> ''[[:en:The Adventurers (film)|The Adventurers]]'' || デボラ・ハドリー ||
| 『女相続人』<br />''[[:en:The Heiress|The Heiress]]''
| キャサリン・スローパー
| アカデミー主演女優賞 受賞<br />[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)]] 受賞<br />ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞 受賞
|-
|-
| 1952
|1972|| 埋められた女<br /> ''The Screaming Woman'' || ローラ || テレビ映画
| 『謎の佳人レイチェル』<br />''[[:en:My Cousin Rachel (film)|My Cousin Rachel]]''
| レイチェル・サンガラッティ・アシュレー
| ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門) ノミネート
|-
|-
| rowspan="2"|1955年
| 1977 || [[エアポート'77/バミューダからの脱出]]<br />''Airport '77'' || エミリー・リヴィングストン ||
| 『王女アナ・メンドーサ』<br />''[[:en:That Lady|That Lady]]''
| アナ・デ・メンドーサ
|
|-
|-
| 『[[見知らぬ人でなく]]』<br />''[[:en:Not as a Stranger|Not as a Stranger]]''
| 1978 || [[スウォーム]] <br /> ''The Swarm'' || モーリーン・シャスター ||
| クリスティナ・ヘヴィソン
|
|-
|-
| 1956年
|1979|| ROOTS/ルーツ2<br /> ''Roots: The Next Generations '' || ミセス・ワーナー || テレビ・ミニシリーズ
| 『恋は巴里で』<br />''[[:en:The Ambassador's Daughter (1956 film)|The Ambassador's Daughter]]''
| ジョーン・フィスク
|
|-
|-
| 1958年
|rowspan="2"|1982|| 殺人は容易だ<br />''Murder Is Easy '' || ホノリア || テレビ映画
| 『誇り高き反逆者』<br />''[[:en:The Proud Rebel|The Proud Rebel]]''
| リネット・ムーア
|
|-
|-
| 1959年
| ロイヤル・ロマンス/ダイアナ世紀の恋<br /> ''The Royal Romance of Charles and Diana'' || [[エリザベス2世|エリザベス女王]] || テレビ映画
| ''[[:en:Libel (film)|Libel]]''
| レディ・マーガレット・ロッドン
|
|-
|-
| 1962年
| 1986 || [[アナスタシア/光・ゆらめいて]]<br />''Anastasia: The Mystery of Anna'' || [[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]] || [[ゴールデングローブ賞]]助演女優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門) 受賞
| ''[[:en:The Light in the Piazza (film)|Light in the Piazza]]''
| メグ・ジョンソン
|
|-
|-
| rowspan="2"|1964年
| 『[[不意打ち (映画)|不意打ち]]』<br />''[[:en:Lady in a Cage|Lady in a Cage]]''
| コーネリア・ヒリヤード
|
|-
| 『[[ふるえて眠れ]]』<br />''[[:en:Hush… Hush, Sweet Charlotte|Hush… Hush, Sweet Charlotte]]''
| ミリアム・ディーリング
| 「Olivia deHavilland」としてクレジット
|-
| 1970年
| 『冒険者』<br />''[[:en:The Adventurers (1970 film)|The Adventurers]]''
| デボラ・ハドリー
|
|-
| 1972年
| ''[[:en:Pope Joan (1972 film)|Pope Joan]]''
| マザー・スペリア
|
|-
| 1977年
| 『[[エアポート'77/バミューダからの脱出]]』<br />''[[:en:Airport '77|Airport '77]]''
| エミリー・リヴィングストン
|
|-
| 1978年
| 『[[スウォーム]]』<br />''[[:en:The Swarm (film)|The Swarm]]''
| モーリーン・シャスター
|
|-
| 1979年
| ''[[:en:The Fifth Musketeer|The Fifth Musketeer]]''
| 王太后メアリ
|
|-
| 2009
| ''[[:en:I Remember Better When I Paint|I Remember Better When I Paint]]''
| ナレーション
|
|}
|}


== 受賞歴 ==
=== テレビ作品 ===
{| class="wikitable sortable"
=== アカデミー賞 ===
|-
;受賞
! style="width:50px;"|放送年
:[[第19回アカデミー賞|1947年]] [[アカデミー主演女優賞]]:『[[遥かなる我が子]]』
! style="width:250px;"|邦題<br />原題
:[[第22回アカデミー賞|1950年]] アカデミー主演女優賞:『[[女相続人]]』
! style="width:250px;"|役柄
! style="width:350px;" class="unsortable"|備考
|-
| 1966年
| 『昼酒』<br />''[[:en:Noon Wine|Noon Wine]]''
| エリー・トンプソン
| ''[[:en:ABC Stage 67|ABC Stage 67]]''<br />
|-
| 1972年
| 『埋められた女』<br />''[[:en:The Screaming Woman|The Screaming Woman]]''
| ローラ・ワイナント
|
|-
| 1979年
| 『[[ルーツ2]]』<br />''[[:en:Roots: The Next Generations|Roots: The Next Generations]]''
| ミセス・ワーナー
| ミニシリーズ
|-
| 1981年
| ''[[:en:The Love Boat|The Love Boat]]''
| ヒリー
| シーズン4、エピソード23<br />
|-
| rowspan="2"|1982年
| 『殺人は容易だ』<br />''[[:en:Murder Is Easy|Murder Is Easy]]''
| ホノリア・ウェインフリート
|
|-
| 『ロイヤル・ロマンス/ダイアナ世紀の恋』<br />''The Royal Romance of Charles and Diana''
| 王太后エリザベス・ボーズ=ライアン
|
|-
| rowspan="2"|1986年
| 『[[南北戦争物語 愛と自由への大地]]』<br />''[[:en:North and South (TV miniseries)|North and South II]]''
| ミセス・ニール
| ミニシリーズ
|-
| 『[[アナスタシア/光・ゆらめいて]]』<br />''[[:en:Anastasia: The Mystery of Anna|Anastasia: The Mystery of Anna]]''
| ロシア皇后マリア・フョードロヴナ
| [[ゴールデングローブ賞|ゴールデングローブ助演女優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門)]] 受賞<br />[[プライムタイム・エミー賞|プライムタイム・エミー賞助演女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)]] ノミネート
|-
| 1988年
| ''[[:en:The Woman He Loved|The Woman He Loved]]''
| バッシー
|
|}


== 脚注 ==
;ノミネート
{{Reflist|group=注}}
:[[第12回アカデミー賞|1940年]] [[アカデミー助演女優賞]]:『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』
:[[第14回アカデミー賞|1942年]] アカデミー主演女優賞:『[[:en:Hold Back the Dawn|Hold Back the Dawn]]』
:[[第21回アカデミー賞|1949年]] アカデミー主演女優賞:『[[蛇の穴 (映画)|蛇の穴]]』


== 出典 ==
=== ゴールデングローブ賞 ===
{{Reflist|30em}}
;受賞
:[[第7回ゴールデングローブ賞|1950年]] [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|女優賞]]:『女相続人』
:[[1987年]] [[:en:Golden Globe Award for Best Supporting Actress – Series, Miniseries or Television Film|助演女優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門)]]:『[[アナスタシア/光・ゆらめいて]]』


== 参考文献 ==
;ノミネート
{{Refbegin}}
:[[1953年]] 主演女優賞 (ドラマ部門):『[[謎の佳人レイチェル]]』
* Beeman, Marsha Lynn. [http://books.google.ca/books?id=Tm-V99o8MYAC&pg=PT953&dq=%22Olivia+De+Havilland%22+Guernsey&hl=en&redir_esc=y ''Joan Fontaine: A Bio-Bibliography''.] Westport, Connecticut: Greenwood Press, 1994. ISBN 978-0-31328-409-0.
* Billingsley, Lloyd. ''Hollywood Party: How Communism Seduced the American Film Industry in the 1930s and 1940s''. Ann Arbor, Michigan: University of Michigan Press, 1998, ISBN 978-0-7615-1376-6.
* Brown, Gene. ''Movie Time: A Chronology of Hollywood and the Movie Industry from Its Beginnings to the Present''. New York: Macmillan, 1995. ISBN 0-02-860429-6.
* De Havilland, Olivia. ''Every Frenchman Has One''. New York: Random House, 1962. ASIN B000WVH9GK.
* Fishgall, James. ''Pieces of Time: The Life of James Stewart''. New York: Scribners, 1997. ISBN 978-0-68482-454-3.
* Fontaine, Joan. ''No Bed of Roses: An Autobiography.'' New York: William Morrow and Company, 1978. ISBN 978-0-68803-344-6.
* Freedland, Michael. ''The Warner Brothers.'' Edinburgh: Chambers, 1983. ISBN 978-0-24553-827-8.
* Gottfried, Martin.''Nobody's Fool: The Lives of Danny Kaye.'' New York: Simon & Schuster, 2002. ISBN 978-0-74324-476-3.
* Higham, Charles. ''Sisters: The Story of Olivia De Haviland and Joan Fontaine''. New York: Coward McCann, 1984. ISBN 978-0-69811-268-1.
* Lamparski, Richard. ''Manhattan Diary''. Duncan, Oklahoma: BearManor Media, 2006. ISBN 978-1-59393-054-7.
* Shipman, David. ''The Great Movie Stars, The Golden Years''. New York: Bonanza Books, 1970. ISBN 978-0-31678-487-0.
* Thomas, Tony. ''The Films of Olivia de Havilland''. New York: Citadel Press, 1983. ISBN 978-0-80650-988-4.
* Thomson, David. [http://books.google.ca/books?id=Tm-V99o8MYAC&pg=PT953&dq=%22Olivia+De+Havilland%22+Guernsey&hl=en&redir_esc=y ''The New Biographical Dictionary of Film''.] New York: Knopf, 2010. ISBN 978-0-30727-174-7.
* Wallis, Hal B. and Charles Higham. ''Starmaker: The Autobiography of Hal Wallis''. London: MacMillan Publishers, 1980. ISBN 0-02-623170-0.
{{Refend}}


== 外部リンク ==
=== ニューヨーク映画批評家協会賞 ===
{{Commonscat|Olivia de Havilland}}
;受賞
* [http://www.oliviadehavilland.net Olivia de Havilland]
:[[第14回ニューヨーク映画批評家協会賞|1948年]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]:『蛇の穴』
* {{IMDb name|14|Olivia de Havilland}}
:[[第15回ニューヨーク映画批評家協会賞|1949年]] 主演女優賞:『女相続人』
* {{tcmdb name|id=46170|name=Olivia de Havilland}}
* {{IBDB name|id=67261|name=Olivia de Havilland}}
* [http://www.sag.org/node/892 Screen Actors Guild]
* [http://film.virtual-history.com/person.php?personid=301 Photographs and bibliography]


{{-}}
== 参照 ==
{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}}
{{Reflist}}
{{Authority control|TYP=p|GND=140438254|LCCN=n/82/137019|VIAF=5191334}}


==外部リンク==
{{commons|Olivia de Havilland}}
* {{imdb name|id=0000014|name=Olivia De Havilland}}

{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}}
{{DEFAULTSORT:て はういらんと おりういあ}}
{{DEFAULTSORT:て はういらんと おりういあ}}
[[category:アメリカ合衆国の俳優]]
[[category:アメリカ合衆国の俳優]]

2013年11月2日 (土) 13:30時点における版

Olivia De Havilland
オリヴィア・デ・ハヴィランド
オリヴィア・デ・ハヴィランド
1940年代の肖像写真。
本名 Olivia Mary de Havilland
生年月日 (1916-07-01) 1916年7月1日(107歳)
出生地 日本の旗 日本東京府
国籍 イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 女優
活動期間 1935年 - 2009年
配偶者 マーカス・グッドリッチ(1946年 - 1953年)
ピエール・ガランテ(1955年 - 1979年)
著名な家族 ジョーン・フォンテイン(妹)
ベンジャミン・グッドリッチ(息子)
ジゼル・ガランテ(娘)
主な作品
風と共に去りぬ』(1940年)
遥かなる我が子』(1946年)
女相続人』(1949年)
 
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1946年『遥かなる我が子
1949年『女相続人
ゴールデングローブ賞
主演女優賞(ドラマ部門)
1949年『女相続人
助演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)
1986年『アナスタシア/光・ゆらめいて
その他の賞
ヴェネツィア国際映画祭 女優賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞
ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞
ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞
ヴェネツィア国際映画祭女優賞
1949年『蛇の穴』
テンプレートを表示

オリヴィア・デ・ハヴィランド: Olivia De Havilland1916年7月1日 - )は、アメリカ合衆国女優。女優としてのキャリア初期には清純な娘役を演じることが多かったが、キャリア後期には存在感のある重厚な役柄を演じている[1]。デ・ハヴィランドはイギリス人の両親の間に日本で生まれた。妹のジョーン・フォンテインも同じく日本の生まれで、デ・ハヴィランドと同じく女優の道に進んでいる。1919年に一家は日本を離れて故国イギリスへと向かったが、旅の途中で姉妹が病にかかったため滞在中のカリフォルニアに、母子だけがそのまま移住した。

デ・ハヴィランドが出演した映画のなかでもっとも有名な作品として『風と共に去りぬ』(1939年)が挙げられる。映画作品ではエロール・フリンの相手役を演じることが多く、『ロビンフッドの冒険』(1938年)、『無法者の群 (en:Dodge City)』(1939年)、『カンサス騎兵隊 (en:Santa Fe Trail)』(1940年)、『壮烈第七騎兵隊 (en:They Died with Their Boots On)』(1941年)など、8作品で共演している。

デ・ハヴィランドは『遥かなる我が子』(1946年)と『女相続人』(1949年)で、アカデミー主演女優賞を2度受賞している。妹のジョーン・フォンテインも『断崖』(1941年)でアカデミー主演女優賞を受賞しており、2013年現在時点でアカデミー主演賞を獲得した唯一の兄弟姉妹となっている。アカデミー賞のほかにデ・ハヴィランドは『蛇の穴』(1948年)でナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞ヴェネツィア国際映画祭女優賞を受賞している。また、ゴールデングローブ賞では『女相続人』(1949年)で主演女優賞(ドラマ部門)を、『アナスタシア/光・ゆらめいて』(1986年)で助演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)をそれぞれ受賞している。1960年には、それまでの映画界への貢献が讃えられてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにプレートが設置された。2008年には当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュから、芸術分野の顕彰としてはアメリカ最高位の国家芸術メダル (en:National Medal of Arts) が贈られている[2]

前半生

オリヴィア・デ・ハヴィランドは1916年7月1日に日本東京で、イギリス人の両親の間に生まれた。父親のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872年8月31日 - 1968年5月23日)はケンブリッジ大学出身で、東京帝国大学の英語教授として日本に招かれていた。後にウォルターは、日本での経験を活かして特許弁護士となっている[3]。母親のリリアン・オーガスタ(1886年6月11日 - 1975年2月20日)は[4][5]、ロンドンの王立演劇学校出身で、夫ウォルターと来日する前には舞台女優をしていた[3]。母リリアンは、娘たちが1940年代に女優として成功を収めた後に「リリアン・フォンテイン」という芸名で、再度舞台女優に復帰している。オリヴィアの父方の従兄ジェフリー・デ・ハヴィランド (en:Geoffrey de Havilland) は、イギリス空軍の爆撃機デ・ハヴィランド・モスキートの設計者の設計を担当したことで有名で[6]、後に航空機メーカーであるデ・ハヴィランド・エアクラフトの創始者となった人物である。また、オリヴィアの父方の祖母はチャンネル諸島ガーンジー出身だった[7][8]

舞台劇『不思議の国のアリス』に出演したときのオリヴィア・デ・ハヴィランド。1933年。

オリヴィアの両親は1914年に結婚したが、ウォルターが浮気がちな男性だったために、二人の結婚生活は必ずしも幸福とはいえなかった[9]。オリヴィアの妹で、後に女優ジョーン・フォンテインとなるジョーン・デ・ハヴィランドが生まれたのは1917年10月22日だった。1919年2月に、母リリアンは病弱だった娘たちには東京の気候があっていないのではないかと考え、ウォルターを説得して一家はイギリスへと戻ることを決めた[9]。イギリスへ戻る途中にオリヴィアが気管支炎となり、高熱で倒れたために一家はカリフォルニアにしばらく滞在した。その後ジョーンも肺炎に罹患したために、リリアンは二人の娘とカリフォルニアに残る決断をし、サンフランシスコから50マイルほど離れたサラトガに移り住んだ。しかしながら父ウォルターは家族を見捨てて、後に結婚することとなる日本人家政婦とともに日本へ戻っていった[9]。オリヴィアの両親はその後別居生活となったが、二人が正式に離婚したのは1925年2月になってからだった[10]

女優をやめてかなりの年月が経っていたために専門的な知識も忘れかけていたが、母リリアンは娘たちにシェークスピアを読み聞かせて、芸術に対する知識を教え込み[注 1]、ほかに音楽や弁論術なども娘たちに学ばせた[11]。1925年4月にウォルターとの間に正式に離婚が成立すると、リリアンは百貨店の経営者ジョージ・M・フォンテインと再婚した。ジョージは厳格な人物で義娘となったオリヴィアとジョーンを厳しくしつけようとしたため、オリヴィアとジョーンはジョージに敵意を抱くようになった。また年子だったオリヴィアとジョーンも仲が悪くなり、この二人の不仲は生涯続いている[12]

デ・ハヴィランドはベルモントのノートルダム高校 (:en:Notre Dame High School) とロス・ガトス高校 (en:Los Gatos High School) で学んだ[13][14][注 2]。高校生時代のデ・ハヴィランドは口が達者なフィールド・ホッケーが得意な少女で、高校では演劇部に所属していた[15]。1933年にデ・ハヴィランドは、ルイス・キャロルの小説を原作とした、地域素人劇団の公演『不思議の国のアリス』の主役アリスで初舞台を踏んだ[15]。後にデ・ハヴィランドはこの舞台のことを次のように振り返っている。

自分と演じている役どころが一心同体に感じられるという、なんとも不思議な体験をした最初の日でした。そのときの私はアリスそのものであり、舞台を動く私は魅力にあふれたアリスの不思議の国を本当に歩いていました。この体験以来、私は演技を楽しむだけでなく愛することができるようになったのです[15]

1934年に高校を卒業したデ・ハヴィランドは、サラトガ・コミュニティ劇場で上演されるシェークスピア原作の戯曲『真夏の世の夢』の妖精パック役の出演依頼を受けた[15]。この年の夏、オーストリア人演出家マックス・ラインハルトハリウッド・ボウルで『真夏の世の夢』を上演するためにカリフォルニアを訪れていた。ラインハルトの助手がたまたまデ・ハヴィランドの演技を観て興味を抱き、そのことを聞いたラインハルトが自身が監督する『真夏の世の夢』の主役ハーミアの代役にデ・ハヴィランドを指名した[16]。そしてラインハルトの『真夏の世の夢』が開幕する一週間前に、ハーミア役の女優が映画の撮影のためにカリフォルニアを離れてしまい、代役のデ・ハヴィランドがハーミアを演じることとなった。初日の演技でデ・ハヴィランドは好評を博し、その後の4週間にわたる巡業公演でデ・ハヴィランドはハーミアを演じ続けた[16]。この巡業中にラインハルトは映画会社ワーナー・ブラザーズから、ラインハルトの舞台版『真夏の世の夢』の映画化が決またっという知らせを受け、ラインハルト自身が映画監督を担当することとなった。そしてラインハルトはデ・ハヴィランドに、舞台版と同様にこの映画でもハーミア役での出演依頼を申し出た。当時のデ・ハヴィランドは英語教師になるつもりで[16]、秋には奨学金を得てミルズ大学に入学することが決まっていたが、ラインハルトがデ・ハヴィランドを説き伏せて映画出演を承諾させている。そして18歳のデ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザーズとの8年間の出演契約書にサインした[17]

女優としてのキャリア

ロビンフッドの冒険』(1938年)の宣伝フィルム。

デ・ハヴィランドは1935年10月に公開された、マックス・ラインハルトの監督作品『真夏の夜の夢 (en:A Midsummer Night's Dream』で映画デビューした。その後もコメディアンのジョー・E・ブラウン (en:Joe E. Brown 主演の『ブラウンの怪投手 (en:Alibi Ike)』(1935年)、ジェームズ・キャグニー主演の『頑張れキャグニー (en:The Irish in Us)』(1935年)と、立て続けに3本のコメディ映画に出演している[17][18]

これら3本のコメディ映画に対する評価は賛否両論であり、デ・ハヴィランドに対する観客からの反応はよくなかった[17]。ワーナー・ブラザーズはデ・ハヴィランドを売り出す路線を変更することを決め、当時無名だったオーストラリアの俳優エロール・フリンの相手役として『海賊ブラッド (en:Captain Blood)』(1935年)に出演させるという賭けに出た。デ・ハヴィランドが起用されたのは、ワーナー・ブラザーズのプロデューサーであるハル・B・ウォリスが、デ・ハヴィランドとのことを「お気に入り」で売り出したかったためだという要因もあった[19][20]。『海賊ブラッド』は大ヒットし、批評家たちも主演した二人の役者を高く評価した[21]。このため、デ・ハヴィランドとフリンの共演作品が次々と製作されることとなり、『進め龍騎兵 (en:The Charge of the Light Brigade)』(1936年)、『ロビンフッドの冒険』(1938年)、 『無法者の群 (en:Dodge City)』(1939年)、『カンサス騎兵隊 (en:Santa Fe Trail)』(1940年)、『壮烈第七騎兵隊 (en:They Died with Their Boots On)』(1941年)など、合計8本の映画が製作されてる[21]

風と共に去りぬ』(1939年)の宣材写真。デ・ハヴィランドはメラニー・ハミルトン役を演じた。

1930年後半にデ・ハヴィランドは、『Call It a Day』(1937年)、『結婚スクラム (en:Four's a Crowd)』(1938年)、『Hard to Get』(1938年)などさまざまな内容の現代風ライトコメディ作品に出演している。ほかに現代風コメディ以外の作品としては『風雲児アドヴァース (en:Anthony Adverse)』(1936年)、『The Great Garrick』(1937年)などに出演しており、これらの作品では、デ・ハヴィランドの洗練された容姿と美しい台詞回しが効果的に描かれている[22]。コメディ映画でのデ・ハヴィランドの演技は批評家からも観客からも概ね好評であり、デ・ハヴィランドが演じたいと望んでいたシリアスで重厚な役どころへと踏み出すきっかけとはならなかった。[22]。そのような中で『風と共に去りぬ』(1939年)のメラニー・ハミルトンは、まさしくデ・ハヴィランドが求めていたシリアスな役だった。マーガレット・ミッチェルが書いた大河小説『風と共に去りぬ』を原作とするこの映画は、大物プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックが製作した大作である。原作小説を読んだデ・ハヴィランドは、このメラニー・ハミルトンが自分にとって大きな転機となる役だと直感した。『風と共に去りぬ』の監督に起用されたジョージ・キューカーが、デ・ハヴィランドの妹ジョーン・フォンテインにこのメラニー・ハミルトン役のオーディションを受けるよう勧めたという複数の資料が存在する。しかしながら、メラニー役よりも主役のスカーレット・オハラに興味を持っていたフォンテインはキューカーの誘いを断ったとされており、自分の代わりに姉デ・ハヴィランドをキューカーに推薦したといわれている[22]。最終的にはワーナー・ブラザースの社長ジャック・ワーナー (en:Jack Warner) の妻アンが、デ・ハヴィランドのメラニー役起用を後押ししている[23]。そして『風と共に去りぬ』でメラニーを演じたデ・ハヴィランドは、アカデミー助演女優賞にノミネートされた[24]。しかしながらこの年のアカデミー助演女優賞を受賞したのは、同じく『風と共に去りぬ』でスカーレットの黒人の召使マミー役を演じた女優のハティ・マクダニエルだった。

1941年11月28日にデ・ハヴィランドはアメリカに帰化した[25][26]

『カンサス騎兵隊』(1940年)の宣材写真。

『風と共に去りぬ』のメラニー役で批評家たちから絶賛されたデ・ハヴィランドは、それまでにも増してシリアスで難しい役どころを演じてみたいと考えていた。しかしながらワーナー・ブラザーズはデ・ハヴィランドの期待には応えなかった。『女王エリザベス (en:The Private Lives of Elizabeth and Essex)』(1939年)で、主役のベティ・デイヴィスとエロール・フリンに次ぐ三番目の役を演じたデ・ハヴィランドは、犯罪ドラマ映画『犯人は誰だ (en:Raffles)』(1939年)への出演を命じられて、ワーナー・ブラザーズ外部の映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンに預けらている。また、次作のライトコメディミュージカル映画『My Love Came Back』(1940年)の主役も決まっていた[27]。1940年代前半のデ・ハヴィランドは、演じがいがなく浅薄だと自身が思う役ばかりに起用されることに対して大きな不満を持つようになっていった[27][28]。『風と共に去りぬ』のメラニー・ハミルトン役で、シリアスな役どころも演じる能力があることを証明したと考えていたデ・ハヴィランドにとって、以前と変わらない純情な娘役や可憐な乙女役は苦痛でしかなかったのである。デ・ハヴィランドはこれまで同様の内容と配役で書かれた脚本を突き返すようになり、自身が望むやりがいのある役を積極的に探していった。さらにデ・ハヴィランドは、『カンサス騎兵隊』や『壮烈第七騎兵隊』など評判がよかったエロール・フリンとの長きにわたる共演も終わらせた。共演した最後の作品である『壮烈第七騎兵隊』はもっとも長く二人が語り合う場面が描写された作品となっている[27]

1940年代前半にデ・ハヴィランドが出演した映画でヒットした作品として『いちごブロンド (en:The Strawberry Blonde)』(1941年)、『Hold Back the Dawn』(1941年)、『カナリヤ姫 (en:Princess O'Rourke)』(1943年)などが挙げられる。『カナリヤ姫』で演じたマリア王女は、ワーナー・ブラザーズで演じた役のうち、デ・ハヴィランドにとってもっとも満足のいく役どころだった[29][注 3]。デ・ハヴィランドは第14回アカデミー賞で、『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役で主演女優賞にノミネートされた。

『カンザス騎兵隊』(1940年)で競演したデ・ハヴィランドとエロール・フリン。

デ・ハヴィランド」は、ワーナー・ブラザーズ作品の『男性 (en:The Male Animal)』(1942年)、『追憶の女 (en:In This Our Life)』(1942年)、『陽気な女秘書 (en:Government Girl)』(1944年)、『まごころ (en:Devotion)』(1946年)に出演した。『まごころ』の公開年は1946年だが撮影自体は1943年に終了しており、公開年としてはこの『まごころ』がデ・ハヴィランドの7年間にわたるワーナー・ブラザーズとの契約における最後の出演作品となった。ワーナー・ブラザーズはデ・ハヴィランドに6カ月の契約延長を告げたが、デ・ハヴィランドはこの申し入れを受け入れなかった[31]。当時の法律では、契約中の俳優が製作会社から提示された配役を拒否した場合には、その作品の撮影期間を契約期間に加算延長することを認めており、ほとんどの俳優はこの慣例のもとでの契約を受け入れていた。しかしながらこの契約形態に疑問を持つ俳優も少数ながら存在し、1930年代にベティ・デイヴィスがワーナー・ブラザーズに訴訟を起こしたことがあったが最終的には敗訴している。デ・ハヴィランドは顧問弁護士の助言と全米映画俳優組合の後押しを受けて、1943年8月にワーナー・ブラザーズを相手取って出演拒否に対する契約期間延長処置に対する訴訟を起こした。この訴訟を審理したカリフォルニア州最高裁判所はワーナー・ブラザーズの反論を却下し、デ・ハヴィランドの勝訴とする判決を下した(判例 #487, 685)[32]。それまでの製作会社の絶大な権限を弱め、俳優たちにはるかに自由な創作活動の場を与えるというこの判決は、ハリウッド映画界に非常に重要で大きな影響を与えることとなった。デ・ハヴィランドが勝ち得たこの判例は、今でも「デ・ハヴィランド法 (en:De Havilland Law)」として知られている[33]。製作会社を相手取って勝訴したデ・ハヴィランドは、俳優仲間たちから敬意と賞賛の的となった。デ・ハヴィランドと不仲だった妹のジョーン・フォンテインも「ハリウッドはオリヴィアに途方もなく大きな借りがあります」とコメントしている[34]。敗訴したワーナー・ブラザーズはデ・ハヴィランドに関する書簡をほかの製作会社に送りつけた。そしてデ・ハヴィランドは「ブラックリスト女優」とみなされて、その後2年間にわたって映画作品に出演することができなかった[32]

1940年代に撮影された宣材写真。

ブロンテ姉妹の生涯を大幅に脚色した映画で、1943年に撮影が終了していたもののワーナー・ブラザーズとの訴訟期間中はお蔵入りとなっていた『まごころ』の公開後、デ・ハヴィランドはパラマウント映画と3本の映画に出演する契約を交わした。そしてこれらの映画で演じたさまざまな役柄への演技が、その後のデ・ハヴィランドの女優としてのキャリアを決定付ける先駆けとなった。ジェームズ・エイジーは『暗い鏡 (en:The Dark Mirror)』(1946年)について、デ・ハヴィランドがつねに「もっとも可憐な映画女優の一人だった」としつつ、近年の映画では優れた演技力を持つ女優であることも証明して見せたとしている。そして「その優れた才能」を表に出していない場面でさえも、デ・ハヴィランドの演技力が「思慮深く、内に秘めた細やかな演技を保ち続けている」と指摘した。さらにエイジーは、デ・ハヴィランドの演技が「豊かな才能だけでなく、(デ・ハヴィランド)の心身ともに健全で好ましい内面によるところが大きい。観ているだけで嬉しくなってしまう」と結んでいる[35]。デ・ハヴィランドは『遥かなる我が子』(1946年)のジョゼフィン・ノリス役でアカデミー主演女優賞を受賞し、さらに『女相続人』(1949年)のキャサリン・スローパー役でアカデミー主演女優賞、ニューヨーク映画批評家協会主演女優賞ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)を受賞した。『蛇の穴 (映画)』(1948年)のヴァージニア・スチュアート・カニンガム役も高く評価され、アカデミー主演女優賞にノミネートされている。この『蛇の穴』は精神疾患を正面から描いた最初期の映画の一つで、「陰惨な精神病院の実態を暴き出した、ハリウッドの歴史に残る重要な作品」といわれている[6]。デ・ハヴィランドがそれまでの美女役とはまったくかけ離れた役を演じた意欲と、議論が巻き起こるであろう作品に真っ向から取り組んだ姿勢は高く評価された。デ・ハヴィランドはこの『蛇の穴』でニューヨーク映画批評家協会主演女優賞ナストロ・ダルジェンド最優秀外国人女優賞ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞を受賞した。

この時期のデ・ハヴィランドは確固たる自由主義者で、民主党フランクリン・ルーズベルトハリー・S・トルーマンの支持者だった[36]。自由主義への共産主義の浸透を憂慮していたデ・ハヴィランドは、1946年にある騒動を巻き起こし、マスコミにも大きく報道された。スターリン主義による残虐行為に関する報告会で、ハリウッド美術科学専門職の独立市民委員会が事前に用意した演説原稿から、親共産主義と思われる箇所を飛ばして読み上げたのである。この独立市民委員会は後に共産主義者の偽装組織だと認定されている[37]。デ・ハヴィランドは、独立市民委員会の自由主義会員たちが一握りの上層部の共産主義会員に操られているのではないかと危惧するようになった。そして、1946年の中間選挙で民主党が大勝すれば、独立市民委員会の親ソヴィエト的な言動を抑制できると考えた。デ・ハヴィランドは、独立市民委員会を共産主義者から取り戻すための活動を始めたが、最終的にはこの活動は失敗し、デ・ハヴィランドに共鳴して改革派に加わったハリウッド業界人たちの多くが離脱するという結果となった。デ・ハヴィランドに説得されて改革派に加わっていた俳優にロナルド・レーガンがおり、その後1952年以降のレーガンの政治活動は劇的に変化していった[36]。デ・ハヴィランドが自由主義の改革活動をあまりに主張したために、赤狩りの舞台となった下院非米活動委員会に1958年に召還されたこともあったが、女優としてのキャリアに傷がつくことはなかった[36]

『Libel』(1959年)の宣材写真。

1950年代以降、デ・ハヴィランドの映画出演は散発的になっていった。1951年に公開予定だった映画『欲望という名の電車』の主役ブランチ・デュボアを提示されたが、デ・ハヴィランドはこのオファーを断っている。このブランチ・デュボア役を拒否した理由について、脚本の内容が生理的に受け入れられなかったことと、口にしたくない台詞が多くあったためだといわれてきた。しかしながらデ・ハヴィランドは2006年にこの噂を否定し、幼い子供の世話に追われていたために役を受けることができなかったと語っている[38]。最終的にブランチ・デュボア役は『風と共に去りぬ』でデ・ハヴィランドと共演したヴィヴィアン・リーが、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』でブランチ役で演じたのに引き続いて映画版のブランチ役を受け、二度目のアカデミー主演女優賞を獲得した[39]

デ・ハヴィランドが1960年代に出演した数少ない作品の中で、もっともよく知られているのが『不意打ち』(1964年)で、デ・ハヴィランドはエレベーターに閉じ込められて乱入者に脅される未亡人コーネリア・ヒリヤード役を演じている。ほかの作品としてロバート・アルドリッチ監督作品『ふるえて眠れ』(1964年)、キャサリン・アン・ポーター (en:Katherine Anne Porter) の小説をサム・ペキンパー監督でテレビドラマ化した『昼酒 ( en:Noon Wine)』(1966年)が有名である。1965年にデ・ハヴィランドは、カンヌ国際映画祭で初の女性審査委員長に任命された。

デ・ハヴィランドは1970年代後半まで映画女優を続け、その後テレビ番組へと舞台を移して1980年代後半まで活動を続けた。1986年に出演したテレビ映画『アナスタシア/光・ゆらめいて』ではロシア皇后マリア・フョードロヴナを演じ、ゴールデングローブ助演女優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門)を受賞している。2008年には当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュから、芸術分野の顕彰としてはアメリカ最高位の国家芸術メダル (en:National Medal of Arts) が授与された[2]

私生活

交友関係

『進め龍騎兵』(1936年)で共演したデ・ハヴィランドとエロール・フリン。

8本の作品で共演したデ・ハヴィランドとエロール・フリンは、ハリウッド屈指のカップルといわれていたが、私生活で恋愛関係になったことはなかった。デ・ハヴィランドはフリンについて

私(デ・ハヴィランド)が恋心を抱いていたなどとは、彼(フリン)も思っていなかったでしょう。互いにそのような感情はありませんでした。私は何かで、映画『進め龍騎兵』の撮影中だった1935年に、彼が私にラブレターを書いたことがあるという記述を読んだことがあります。これには驚きました。何本もの作品で恋人役を演じてきましたが、彼が私に心を動かされたことは一度もなく、こんな手紙をもらったことはなかったからです[40]

と語っている。

しかしながらデ・ハヴィランドは他のインタビューで、二人は互いに好意を抱いておりフリンが求婚したことがあったが、デ・ハヴィランドは当時のフリンが女優リリ・ダミタ (en:Lili Damita) と結婚していたために、この求婚を断ったとも語っている[41]。1939年12月から1942年3月まで、デ・ハヴィランドは俳優ジェームズ・ステュアートと交際していた。デ・ハヴィランドの代理人アイリーン・メイヤー・セルズニックが、1939年12月19日にニューヨークのアスター劇場で開催される『風と共に去りぬ』のプレミア試写会で、ステュアートにデ・ハヴィランドのエスコート役を頼んだことがある。この依頼を引き受けたステュアートは数日間にわたって複数の劇場でデ・ハヴィランドのエスコート役を務め、有名なレストランの21クラブにもデ・ハヴィランドと同行した[42]。ステュアートがアメリカ空軍へ志願するために飛行訓練を受けていたロサンゼルスでも二人の逢瀬は続いた。デ・ハヴィランドは、1940年にステュアートが求婚したが、まだステュアートには結婚の心積もりが出来ていないと感じて断ったことがあるとしている[42]。二人の関係は1941年3月にステュアートが空軍に入隊したことにより中断した。それでも1942年まで3月まで断続的にではあるが二人の関係は続いていたが、デ・ハヴィランドが映画監督ジョン・ヒューストンに惹かれていったために、ステュアートとの関係は終わりを告げている[43]

結婚

デ・ハヴィランドは、作家で脚本家でもあった退役海軍軍人マーカス・グッドリッチ (en:Marcus Goodrich) と1946年1月24日に結婚した。二人の間には1949年12月1日に一人息子ベンジャミン・グッドリッチが生まれたが、1952年に離婚している。息子ベンジャミンは癌のために、父マーカスが死去する三週間前の1991年10月1日に41歳で死去した[44]

デ・ハヴィランドが、ジャーナリストでフランスの雑誌『パリ・マッチ (en:Paris Match)』の編集者ピエール・ガランテと再婚したのは1955年4月2日である。二人の間には1956年7月18日に一人娘ジゼル・ガランテが生まれた。この結婚を期にパリへの移住と人生の再設計を決意したと、デ・ハヴィランドの回想録『Every Frenchman Has One』には記されている。1962年から二人は別居していたが、正式に離婚したのは1979年のことだった[45]

後半生

『恋愛合戦 (en:It's Love I'm After)』(1937年)、『女王エリザベス』(1039年)、『追憶の女』(1942年)、『ふるえて眠れ』(1964年)で共演した女優ベティ・デイヴィスは、その生涯にわたってデ・ハヴィランドの親友だった。ほかにもグロリア・スチュアートは2010年に100歳で死去するまでデ・ハヴィランドの親友だった女優である。2008年4月には、ロサンゼルスで行われた俳優チャールトン・ヘストンの葬儀に参列していた。またこの年には、アカデミー賞の主催団体である映画芸術科学アカデミーが企画したベティ・デイヴィス生誕100周年記念式典にサプライズ・ゲストとして招かれている[46]

妹との確執

デ・ハヴィランドの妹ジョーン・フォンテイン。デ・ハヴィランドと同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされ、フォンテインが主演女優賞を受賞した『断崖』(1941年)の宣伝フィルム。

オリヴィア・デ・ハヴィランドと妹のジョーン・フォンテインは、2013年現在でアカデミー主演賞を受賞した唯一の兄弟姉妹である。最初に女優の道を選んだのはデ・ハヴィランドで、妹のフォンテインも姉に続いて女優になろうとした。言い伝えによると、二人の母親リリアンはデ・ハヴィランドのほうを可愛がっており、フォンテインが女優になっても「デ・ハヴィランド」という名前を使うことを許さなかったといわれている。このためフォンテインは別の芸名をつけざるを得なくなり、最初にジョーン・バーフィールド、後にジョーン・フォンテインという名前で芸能活動を続けることとなった。伝記作家のチャールズ・ハイアム (en:Charles Higham) は、この姉妹が幼いころからいつも喧嘩をしていたと指摘しており、フォンテインはデ・ハヴィランドのお下がりの服を与えられていたが、デ・ハヴィランドがフォンテインに渡す服をわざと破ったために、フォンテインはその服を縫い直して着なければならなかったというエピソードを紹介している。この姉妹はお互いに対して大きな憤りを感じているといわれており、フォンテインがデ・ハヴィランドを嫌うようになったのは、母親がデ・ハヴィランドばかりを可愛がったことが原因だとされている[47]

1942年にデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされた。対象となったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役、フォンテインがアルフレッド・ヒッチコック監督作品『断崖』のリナ・マクレイドロウ役で、主演女優賞を獲得したのは妹のフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優という仕事に心身を捧げていない自分が賞を獲得したことに対して後ろめたく感じていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞式で、主演女優賞を受け取るために歩き出したフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福をあからさまに拒絶したために、デ・ハヴィランドは気分を害して当惑して見えたと記述している。

ハイアムはフォンテインが自分の娘とも疎遠になったとしており、おそらく娘が伯母であるデ・ハヴィランドと隠れて連絡を取り合っていたためではないかと指摘している[47]。デ・ハヴィランドもフォンテインも自分たちの関係を公言したことはほとんどない。ただしフォンテインは1979年のインタビューで、自分たち姉妹が口をきかなくなったのは、癌に苦しんでいた母親に外科手術を受けさせようとしたデ・ハヴィランドと、当時88歳の母親には手術は無理だと考えていた自分との間で意見が対立したことが原因だと語ったことがある。そしてフォンテインは、母リリアンが死去したときにデ・ハヴィランドが、当時舞台巡業公演で各地を回っていた自分を探そうとしなかったと主張している。デ・ハヴィランドは母の死を知らせる電報をフォンテインに送ったが、この電報をフォンテインが目にしたのは二週間後で、フォンテインが母の死を知ったのは次の公演地に移動してからのことだった[48]

2000年以降のデ・ハヴィランド

2008年にアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュから、国家芸術メダルを授与されたデ・ハヴィランド。

デ・ハヴィランドは1960年以来、フランスのパリに住んでいる。2000年以降のデ・ハヴィランドが公の場に姿を見せることはほとんどない。2003年に第75回アカデミー賞授賞式にプレゼンターとして表れたときには、1分間にもおよぶスタンディングオベーションで迎えられた。2006年6月に、映画芸術科学アカデミーとロサンゼルス州立美術館がデ・ハヴィランドの90歳の誕生日を祝う式典を開催し、デ・ハヴィランドもこの式典に出席している。2004年にターナー・クラシック・ムービーズが「思い出のメラニー (Melanie Remembers)」というテレビ番組を制作した。この番組は『風と共に去りぬ』の公開65周年の回顧記念番組の一つで、デ・ハヴィランドのインタビューを中心として構成されていた。『思い出のメラニー』が公開されたときに『風と共に去りぬ』の主要キャストで存命中だった人物としてデ・ハヴィランドのほかに、インディア・ウィルクス役のアリシア・レット (en:Alicia Rhett)、メイベル・メリーウェザー役のメアリー・アンダーソン (en:Mary Anderson)、ボー・ウィルクス役のミッキー・カーン (en:Mickey Kuhn) がいる。存命の俳優として最年長のデ・ハヴィランドはインタビューでメラニー役のことや撮影中のことなどを今でもはっきり覚えていると語っている。40分にわたるこの番組は、4枚組のDVDの一部として発売された。

2008年11月17日に、92歳だったデ・ハヴィランドは芸術分野の顕彰としてはアメリカ最高位の国家芸術メダル (en:National Medal of Arts) を受章した。メダルをデ・ハヴィランドに授与した大統領ジョージ・W・ブッシュは、「シェークスピアのハーミアからマーガレット・ミッチェルのメラニーまで幅広い役柄を演じ分ける、その説得力にあふれた人をひきつけて離さない演技力に対して。彼女が持つ独立心、誠実さ、優雅さが豊かな創造力を解き放ち、素晴らしい映画女優として大成功させたのです」と演説した[49]

2009年に、デ・ハヴィランドはドキュメント番組『I Remember Better When I Paint』のナレーターを担当した[50]。この番組は、芸術分野におけるアルツハイマー型認知症の重要性を描いた作品だった[51]。2011年にはパリで開催された特別上映会にも出席している[52]

2010年9月9日に、デ・ハヴィランドはフランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章シュヴァリエ賞を授与された。勲章を授与したフランス大統領ニコラス・サルコジは、「フランスを(住居として)選んでくださったことを誇りに思います」と語った[53]

2011年2月1日に、デ・ハヴィランドはフランスの映画賞セザール賞授与式に姿を見せた。式典の代表を務めた女優のジョディ・フォスターが紹介すると、会場はスタンディングオベーションでデ・ハヴィランドを迎えた[54]

映画賞、表彰

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッド通り6762にある、デ・ハヴィランドのスター・プレート。
グローマンズ・チャイニーズ・シアターのデ・ハヴィランドの手形と足型。
  • 1940年 アカデミー助演女優賞ノミネート - 『風と共に去りぬ
  • 1941年 ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞第2位 - 『Hold Back the Dawn』
  • 1942年 アカデミー主演女優賞ノミネート - 『Hold Back the Dawn』
  • 1946年 ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞第2位 - 『遥かなる我が子
  • 1947年 アカデミー主演女優賞受賞 - 『遥かなる我が子』
  • 1948年 ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞受賞 - 『蛇の穴
  • 1948年 ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞受賞 - 『蛇の穴』
  • 1949年 アカデミー主演女優賞ノミネート - 『蛇の穴』
  • 1949年 ヴェネツィア国際映画祭女優賞受賞 - 『蛇の穴』
  • 1949年 ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞受賞 - 『蛇の穴』
  • 1950年 アカデミー主演女優賞受賞 - 『女相続人
  • 1950年 ゴールデングローブ主演女優賞(ドラマ部門) - 『女相続人』
  • 1950年 ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞受賞 - 『女相続人』
  • 1953年 ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート - 『謎の佳人レイチェル』
  • 1960年 ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッド通り6762にスタープレート設置
  • 1987年 ゴールデングローブ助演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)受賞 - 『アナスタシア/光・ゆらめいて
  • 2008年 アメリカの国家芸術メダル受章
  • 2010年 フランスのレジオンドヌール勲章シュヴァリエ章受章[2]

著書

デ・ハヴィランドは1960年に回顧録『Every Frenchman Has One』を出版した。また、ジョン・リッチフィールドによるとデ・ハヴィランドが自叙伝を執筆中で、2009年9月には初稿を完成させたいとしている[55]

出演作品

映画作品

公開年 邦題
原題
役柄 備考
1935年 『ブラウンの怪投手』
Alibi Ike
ドリー・スティーヴンス
『頑張れキャグニー』
The Irish in Us
ルシール・ジャクソン
『真夏の夜の夢』
A Midsummer Night's Dream
ハーミア 「Olivia de Haviland」としてクレジット
映画デビュー作品[18]
『海賊ブラッド』
Captain Blood
アラベラ・ビショップ
1936年 『風雲児アドヴァース』
Anthony Adverse
アンジェラ・ジョゼッペ
『進め龍騎兵』
The Charge of the Light Brigade
エルザ・キャンベル
1937年 Call It a Day キャサリーン・"キャス"・ヒルトン  
『恋愛合戦』
It's Love I'm After
マルシア・ウエスト
The Great Garrick ガーメイン・デ・ラ・コルベ  
1938年 『黄金の罠』
Gold Is Where You Find It
セレーナ・"スプラット"・フェリス
ロビン・フッドの冒険
The Adventures of Robin Hood
レディ・マリアン・フィッツウォーター
『結婚スクラム』
Four's a Crowd
ロリ・ディリングウェル
Hard to Get マルガリータ・リチャーズ
1939年 『太平洋の翼』
Wings of the Navy
イレーネ・デイル
『無法者の群』
Dodge City
アビー・アーヴィング
『女王エリザベス』
The Private Lives of Elizabeth and Essex
レディ・ペネロープ・グレイ
風と共に去りぬ
Gone with the Wind
メラニー・ウィルクス アカデミー助演女優賞 ノミネート
『犯人は誰だ』
Raffles
グウェン・マンダーズ
1940年 My Love Came Back アメリア・コーネル
『カンサス騎兵隊』
Santa Fe Trail
キット・カーソン・ホリディ
1941年 『いちごブロンド』
The Strawberry Blonde
エイミー・リンド・グリムズ
Hold Back the Dawn エイミー・ブラウン ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞 第2位
アカデミー主演女優賞 ノミネート
『壮烈第七騎兵隊』
They Died with Their Boots On
エリザベス・ベーコン・カスター
1942年 『男性』
The Male Animal
エレーン・ターナー
『追憶の女』
In This Our Life
ロイ・ティンバーレイク
1943年 Thank Your Lucky Stars デ・ハヴィランド自身 第二次世界大戦の資金集めのために製作された一連の「ハリウッド玉手箱」の一つ
『カナリヤ姫』
Princess O'Rourke
マリア王女 / メアリー・ウィリアムス 「Olivia DeHavilland」としてクレジット
『陽気な女秘書』
Government Girl
エリザベス・"スモーキー"・アラード
1946年 遥かなる我が子
To Each His Own
ミス ジョゼフィン・"ジョディ"・ノリス アカデミー主演女優賞 受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞 第2位
『まごころ』
Devotion
シャーロット・ブロンテ
The Well-Groomed Bride マージー・ドーソン
『暗い鏡』
The Dark Mirror
テリー / ルース・コリンズ
1948年 蛇の穴
The Snake Pit
ヴァージニア・スチュアート・カニンガム アカデミー主演女優賞 ノミネート
ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞 受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞 受賞
ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞 受賞
ヴェネツィア国際映画祭女優賞 受賞
1949年 『女相続人』
The Heiress
キャサリン・スローパー アカデミー主演女優賞 受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門) 受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞 受賞
1952 『謎の佳人レイチェル』
My Cousin Rachel
レイチェル・サンガラッティ・アシュレー ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門) ノミネート
1955年 『王女アナ・メンドーサ』
That Lady
アナ・デ・メンドーサ
見知らぬ人でなく
Not as a Stranger
クリスティナ・ヘヴィソン
1956年 『恋は巴里で』
The Ambassador's Daughter
ジョーン・フィスク
1958年 『誇り高き反逆者』
The Proud Rebel
リネット・ムーア
1959年 Libel レディ・マーガレット・ロッドン
1962年 Light in the Piazza メグ・ジョンソン
1964年 不意打ち
Lady in a Cage
コーネリア・ヒリヤード
ふるえて眠れ
Hush… Hush, Sweet Charlotte
ミリアム・ディーリング 「Olivia deHavilland」としてクレジット
1970年 『冒険者』
The Adventurers
デボラ・ハドリー
1972年 Pope Joan マザー・スペリア
1977年 エアポート'77/バミューダからの脱出
Airport '77
エミリー・リヴィングストン
1978年 スウォーム
The Swarm
モーリーン・シャスター
1979年 The Fifth Musketeer 王太后メアリ
2009 I Remember Better When I Paint ナレーション

テレビ作品

放送年 邦題
原題
役柄 備考
1966年 『昼酒』
Noon Wine
エリー・トンプソン ABC Stage 67
1972年 『埋められた女』
The Screaming Woman
ローラ・ワイナント
1979年 ルーツ2
Roots: The Next Generations
ミセス・ワーナー ミニシリーズ
1981年 The Love Boat ヒリー シーズン4、エピソード23
1982年 『殺人は容易だ』
Murder Is Easy
ホノリア・ウェインフリート
『ロイヤル・ロマンス/ダイアナ世紀の恋』
The Royal Romance of Charles and Diana
王太后エリザベス・ボーズ=ライアン
1986年 南北戦争物語 愛と自由への大地
North and South II
ミセス・ニール ミニシリーズ
アナスタシア/光・ゆらめいて
Anastasia: The Mystery of Anna
ロシア皇后マリア・フョードロヴナ ゴールデングローブ助演女優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門) 受賞
プライムタイム・エミー賞助演女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門) ノミネート
1988年 The Woman He Loved バッシー

脚注

  1. ^ 「オリヴィア」という名前はシェークスピアの戯曲『十二夜』の登場人物から名づけられた。
  2. ^ ロス・ガトスで贈られる演劇賞はオリヴィア・デ・ハヴィランドにちなんで制定された。
  3. ^ 当初のデ・ハヴィランドは『カナリヤ姫』のマリア王女役を拒否しており、社長ジャック・ワーナーが製作を中断させたといういきさつがある[30]

出典

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参考文献

外部リンク