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{{基礎情報 君主
{{脚注の不足|date=2012年2月|ソートキー=人1277年没}}
| 人名 = バイバルス1世
'''バイバルス'''([[アラビア語]] الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī, 生没年 1223年あるいは28年? - [[1277年]][[7月1日]]。)は、バフリー・マムルークの武将で、[[マムルーク朝]]の第5代[[スルターン]](在位:[[1260年]]-[[1277年]])。即位名によりザーヒル・バイバルス الملك الظاهر بيبرس al-Malik al-Zāhir Baybars とも呼ばれる。
| 各国語表記 = الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري
| 君主号 = マムルーク朝スルターン
| 画像 = Baibars Icon 1.png
| 画像サイズ = 150px
| 画像説明 = バイバルスが使用したライオンの紋章<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、299頁</ref><ref name="ohara258">大原『エジプト マムルーク王朝』、258頁</ref>
| 在位 = [[1260年]] - [[1277年]][[7月1日]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 = アル=マリク・アッ=ザーヒル・ルクンッディーン・バイバルス・アル=ブンドクダーリー
| 出生日 = 1220年代 - 1230年代
| 生地 = [[キプチャク草原]]
| 死亡日 = [[1277年]][[6月30日]]/[[7月1日]]
| 没地 = [[ダマスカス]]<ref name="muta221">牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、221頁</ref>
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = ダマスカス
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = ベルケ(バラカ)・ハーンの娘
| 配偶者2 = モンゴル系のアミール・ノカーイの娘
| 配偶者3 = [[クルド人]]のシャフラズーリーヤ族の女
| 配偶者4 =
| 配偶者5 =
| 子女 = [[バラカ (マムルーク朝)|バラカ]]、[[サラーミシュ]]など
| 王家 = バイバルス家
| 王朝 =
| 父親 =
| 母親 =
| 宗教 = [[スンナ派]]
| サイン =
}}


'''バイバルス・アル=ブンドクダーリー'''({{lang-ar|الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري }} al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī, [[1223年]]<ref name="kobayashi">小林「バイバルス」『アジア歴史事典』7巻、325頁</ref>/[[1228年|28年]]<ref name="sato-jiten">佐藤「バイバルス」『新イスラム事典』、387頁</ref><ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、184頁</ref>/[[1233年|33年]]<ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、346頁</ref> - [[1277年]][[6月30日]]<ref name="CMD5-79">ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、79頁</ref>[[7月1日]]<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、29頁</ref><ref name="muta221">牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、221頁</ref>)は、[[マムルーク朝]]([[バフリー・マムルーク朝]])の第5代[[スルターン]]([[君主]]。在位:[[1260年]]-1277年)。在位中の事績から実質的なマムルーク朝の建国者と評価されることもある<ref name="hit641">ヒッティ『アラブの歴史』下、641頁</ref>。即位名により'''アッ=ザーヒル・バイバルス'''({{lang-ar|الملك الظاهر بيبرس }} al-Malik al-Zāhir Baybars)とも呼ばれる。
[[アッバース朝]]の[[カリフ]]([[ムスタンスィル2世]])を迎え入れ、マムルーク朝の求心力を高め、また[[十字軍]]や[[モンゴル帝国|モンゴル]]軍を撃退し、マムルーク朝繁栄の基礎を作った業績から、実質的な創始者であると評される。


[[マムルーク]](軍人[[奴隷]])として[[エジプト]]の[[アイユーブ朝]]に仕え、[[1250年]]の[[マンスーラの戦い (1250年)|マンスーラの戦い]]でエジプトに侵入した[[十字軍]]に大勝を収める。[[1260年]]の[[アイン・ジャールートの戦い]]では[[モンゴル帝国|モンゴル]]軍に勝利し、モンゴルのエジプトへの進出を阻止した。戦後、マムルーク朝のスルターン・[[ムザッファル・クトゥズ]]を殺害して王位に就き、全[[歴史的シリア|シリア]]を併合した<ref name="kobayashi"/>。バイバルスの軍事的・政治的な能力により、外部勢力の侵入に反応して成立したマムルークたちの政権は確固たるものとなった<ref>J.C.ガルサン「エジプトとムスリム世界」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 下巻収録(D.T.ニアヌ編, 同朋舎出版, 1992年9月)、554頁</ref>。
== 経歴 ==
[[画像:BaibarsBridge22.JPG|right|300px|thumb|バイバルスが[[紋章]]とした[[ライオン]]が刻まれた[[橋]]]]
=== 出自 ===
[[テュルク系]][[キプチャク]]族の出自であるとされる。生年には1223年や28年とされているが、あまり定かではない。背丈は高く、明るい金色の髪に褐色の肌を持ち、瞳は青く、さらには[[隻眼]]であったといわれる(生まれつき片方の目が異常に小さい奇形であったとも、片方の目が白かったともされ、片目の視力はなかったとされる)。身体的特徴を気にすることから、相手の心を読む能力に長けていたと言う。


バイバルスは優れた精神力と体力の持ち主であり、17年にわたる在位中に38回の[[歴史的シリア|シリア]]遠征を実施し、うちモンゴル軍と9回、[[十字軍]]と21回にわたって交戦した<ref name="sato161">佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、161頁</ref>。38回の遠征において、その半分はバイバルス自身が陣頭で指揮を執っていた<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、212頁</ref>。華々しい戦績のためにバイバルスは英雄として[[アラブ世界]]に名前を遺し<ref name="sato161"/>、[[ハールーン・アッ=ラシード]]や[[サラーフッディーン|サラディン]]と並ぶ英雄として知られている<ref name="kobayashi"/><ref name="hit642">ヒッティ『アラブの歴史』下、642頁</ref>。バイバルスの英雄譚は説話文学に昇華され<ref name="ijiten">長谷部「バイバルス」『岩波イスラーム辞典』、740-741頁</ref>、マムルーク朝後期から[[オスマン帝国]]期にかけての時期に現存する物語の形式が成立する<ref name="sato-jiten"/>。バイバルスの活躍を鮮やかに描いた物語は、語り部([[カーッス]])を通して民衆を魅了した<ref name="sato-jiten"/>。
=== マムルーク ===
1242年、バイバルスはモンゴル軍の捕虜になり、[[奴隷]]商人の手に渡った。身体的特徴から買い手が付かない状態であったが、馬術に秀でていたとされ、[[アイユーブ朝]]の貴族が買い、[[スルタン]]・[[サーリフ]]のバフリー・[[マムルーク]]軍に編入される。その後出世を重ね、スルターン護衛隊長となる。


== 名前の語源 ==
マムルーク軍人としての初めての活躍は1249年[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]による[[第7回十字軍]]の時である。[[エジプト]]はスルタン・サーリフが病気で軍としての統制が取れていなかったが、その時バフリー・マムルーク軍団で不在の軍団長の代わりに指揮を取っていたバイバルスが奮戦し、1250年2月の{{仮リンク|マンスーラの戦い|en|Battle of Al Mansurah}}でルイ9世は敗北し、捕虜となった。
「バイバルス」は[[テュルク諸語|テュルクの言葉]]で「虎の[[ベグ|ベイ]]」を意味する<ref name="CMD343">ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、343頁</ref>。バイバルスの名前の「アル=ブンドクダーリー」は最初の主人であるアイダキーン・アル=ブンドクダーリーから与えられた名前であり<ref name="hit640">ヒッティ『アラブの歴史』下、640頁</ref><ref name="CMD343"/>、「弓兵」を意味している<ref name="hit640"/><ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、342頁</ref>。


== 生涯 ==
その時エジプトではスルターン・サーリフが死去し、エジプトの支配者は[[シャジャル・アッ=ドゥッル]]、[[トゥーラーン・シャー]]、スルターン・[[イッズッディーン・アイバク|アイバク]]と移り変わっていった。マムルークに対する反抗などを経て、スルタン・アイバクにひとまず主導権が落ち着いた1254年、アイバクはバイバルスの所属するバフリー・マムルーク軍の軍団長[[アクターイ]]を殺害する。
=== 士官以前 ===
バイバルスはエジプトから遠く離れた、[[黒海]]北方の[[キプチャク草原]]に居住する[[遊牧民|遊牧民族]][[キプチャク]]の出身である<ref name="CMD343"/><ref name="sato159">佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、159頁</ref>。14歳ごろにモンゴル軍のアナス・ハーンに捕らえられ、[[アナトリア半島]]の[[スィヴァス]]で奴隷商人に引き渡された<ref name="sato159"/>。


モンゴル軍の進攻の後、中東の奴隷市場は供給過多と言える状態になり、バイバルスの買い手はなかなか現れなかった<ref name="muta185">牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、185頁</ref>。バイバルスは[[ハマー (都市)|ハマー]]のアイユーブ家の王族の元に売られたが、肌が褐色であるという理由で返却される<ref name="sato159"/>。次に[[ダマスカス]]に連れて行かれ、一度は800[[ディルハム]](約40[[ディナール]])で購入されたが、片目に[[白内障]]の斑点があるという理由で再び返却された<ref name="CMD343"/><ref name="sato159"/>。もう一度ハマーに戻り、アイユーブ朝の[[アミール]](司令官)であるアイダキーン・アル=ブンドクダーリーによってようやく購入され、奴隷身分から解放された。
=== エジプトを脱出 ===
捕虜となっていたバイバルスは脱走し、エジプトも脱出、[[ダマスクス]]のナースィルの元へ逃げた。その後バイバルスはナースィルの元からも去り、カラク城主ムギースの元に行くが、バイバルスがエジプト軍に破れると彼との関係も悪くなった。
[[File:Baibars Icon.png|thumb|120px|[[1260年]]に作成されたバイバルスの[[紋章]]。[[ライオン]]を象っている。]]
1260年、モンゴルの[[フレグ]]の軍が[[シリア]]に迫ると、かつてアクターイを殺した[[ムザッファル・クトゥズ|クトゥズ]]はバイバルスと和解した。同7月3日クトゥズとバイバルスの連合軍はモンゴル軍の司令官[[キト・ブカ]]を戦死させ、勝利した([[アイン・ジャールートの戦い]])。バイバルスはエジプトに凱旋する途上クトゥズを殺害した。かつて軍団長アクターイを殺されたことを許せずまたクトゥズがバイバルスを恐れたことに気づいたためである。バイバルスはそのまま[[カイロ]]入りし、マムルーク朝第5代スルターンになった。'''マリク・アッザーヒル'''(勝利の王)と名乗る。


アイダキーンはアイユーブ朝のスルターン・[[サーリフ]]から不興を買ってハマに左遷されていたがやがて許され<ref name="muta185"/><ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、342-343頁</ref>、[[1246年]]にバイバルスはアイダキーンに従って[[カイロ]]に移った。しかし、再びサーリフの怒りを買ったアイダキーンは財産を没収され、バイバルスもサーリフ直属のマムルーク軍団であるバフリーヤ軍団に編入された。サーリフの下に入ったバイバルスは最初衣装係に任命され<ref name="sato159"/>、20歳頃に連隊長の地位に昇進する<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、186頁</ref>。
=== マムルーク朝 ===
マムルーク朝第5代スルターンとなったバイバルスは、1261年、フレグによって殺害された[[アッバース朝]]の[[カリフ]]・[[ムスタアスィム]]の叔父を[[カイロ]]に保護した。名目上ではあったが[[ムスタンスィル2世]]としてカリフに即位した。その後は1517年までアッバース朝第30代カリフ、ラーシドの子孫が、外来者である[[マムルーク]](奴隷軍人)出身の[[スルターン]]に支配の正当性を与える存在として、この位を継承した。政治的権力はなく、日本の[[天皇]]や欧州の[[教皇]]同様の名目的権威者に過ぎなかった。


=== 第7回十字軍との戦闘 ===
この出来事はカイロの住民にとっては突如やってきて支配者となったバイバルスに政権の正当性を与え、その求心力を高めることになった(クトゥズを殺害して即位したため相当評判が良くなかった)。但し、バイバルスは実権そのものをカリフに依存するわけではなかったので、カリフは名目上の存在であった(バイバルスは熱心な[[イスラム教]][[スンナ派]]であったとされる)。
[[Image:Mansura.jpg|thumb|180px|right|マンスーラの戦い]]
{{See also|第7回十字軍}}
[[1249年]]に[[フランス君主一覧|フランス王]][[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]率いる[[第7回十字軍]]がエジプトに上陸し、[[ナイル川|ナイル河口]]の港湾都市[[ディムヤート|ダミエッタ]]を占領した。病身のサーリフはダミエッタ南西の[[マンスーラ]]に陣営を構えて迎撃の準備にとりかかるが、同年11月にサーリフは陣没する<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、191-193頁</ref>。十字軍がダミエッタに上陸した時、バフリー・マムルークの長であるアクターイが不在であったため、一時的にバイバルスがバフリー・マムルークの指揮を執った<ref name="sato159"/>。


[[1250年]]2月、アイユーブ軍の指揮官ファクルッディーンはルイ9世の弟[[ロベール1世 (アルトワ伯)|ロベール]]の奇襲を受けて戦死し、ロベール率いる騎兵隊は本陣のファクルッディーンを撃破した後、マンスーラ市内に突入した<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、191-192頁</ref>。しかし、マンスーラ市内に入った騎兵隊は、バイバルスが率いるバフリー・マムルークの反撃にあって壊滅し、ロベール自身も戦死を遂げる([[マンスーラの戦い (1250年)|マンスーラの戦い]])。マンスーラでの勝利からバフリー・マムルークを先頭とするアイユーブ軍の反撃が始まり、さらにイラクから帰国したサーリフの王子[[トゥーラーン・シャー]]によって十字軍の補給路が絶たれる<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、196頁</ref>。物資の欠如と疫病により十字軍は追い詰められていき、1250年4月にアイユーブ軍は{{仮リンク|ファルスクールの戦い|en|Battle of Fariskur}}でルイ9世を捕虜とした。
以降は各地に出兵する。1277年に没するまで30回以上の出兵を行ったとされる。


マンスーラの戦いの後、スルターンに即位したトゥーラーン・シャーは、バフリー・マムルークたちを追放・投獄し、自身の側近を重用した<ref name="ohara10">大原『エジプト マムルーク王朝』、10頁</ref><ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、198頁</ref>。マムルークとトゥーラーン・シャーの対立は深まり、バイバルスはバフリーヤ軍団の長アクターイ、[[カラーウーン]]、[[イッズッディーン・アイバク]]らとトゥーラーン・シャー暗殺を企てる<ref name="ohara10"/><ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、287頁</ref>。1250年5月2日にファルスクールでトゥーラーン・シャー暗殺が決行され、最初にバイバルスがトゥーラーン・シャーを斬りつけた後にアクターイが致命傷を与え、計画は成功を収める<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、197頁</ref>。
=== 十字軍、そしてモンゴルとの戦争 ===
1268年、フレグ死亡による混乱に乗じて北上。モンゴルに協力していたキリキアの諸都市を攻略(完全破壊)、5月18日には籠城の構えを見せていた[[アンティオキア]]を包囲。わずか4日で陥落させる([[アンティオキア公国]]滅亡)。その際、住民のすべてを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これはキリスト教圏を刺激して、[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]率いる十字軍派兵につながる。1271年、十字軍が来襲しこれと戦う。後にエドワード1世とは休戦を結ぶが、バイバルスはアサシンを使って彼を殺そうとしたとも言う。結局エドワードは父[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の死によって撤退した。


トゥーラーン・シャーの死後、バフリー・マムルークに推戴されたサーリフの寡婦[[シャジャル・アッ=ドゥッル]]がスルターンとなり、マムルーク朝が成立する。
なお、マムルーク朝は彼の治世中に、アンティオキアのほか[[カイサリア]]([[:en:Caesarea Maritima|en]])、[[テルアビブ|ヤッフォー]]、[[ハイファー]]、{{仮リンク|アルスーフ|en|Arsuf}}といった十字軍諸都市を陥落させている。


=== 放浪時代 ===
対モンゴルにおいては敵対するイル・ハン国に対抗するためにキプチャク・ハン国と同盟し、さらにはビザンツ、シチリアとも通商関係を開く。また、カイロ~ダマスカスへの駅伝制を確立する(ハリード網)。この駅伝は、カイロ~ダマスカスを片道4日工程で通信できたと言う。
マムルーク朝成立後、シャジャル・アッ=ドゥッルに代わってスルターンとなったアイバクはバフリー・マムルークを危険視し、[[1254年]]にアクターイを殺害する<ref>佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、159-160頁</ref>。バイバルスはカラーウーンら仲間とともにエジプトから脱出し、ダマスカスのアイユーブ王族マリク・アン=ナースィルの元に亡命する。


やがてナースィルと不仲になると、バイバルスたちは[[カラク (ヨルダン)|カラク]]のアイユーブ王族ムギースの元に移った。バイバルスたちはムギースにエジプトへの進軍を依頼するが<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、290-291頁</ref>、エジプトのマムルーク朝との戦いに敗れ、ムギースからも疎まれるようになった<ref name="sato160">佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、160頁</ref>。
[[1277年]][[4月15日]]、[[アナトリア]]のモンゴル軍(実際にはモンゴルに服属するトルコ人)を打ち破り([[:en:Battle of Elbistan]])、ダマスカスに凱旋するがその直後に腹痛を訴え死去。死因については毒殺説もあるが、過度の深酒が原因であるとも言われ、定かではない。


シリアでの放浪時代はバイバルスにとって辛い時期であったが、「バイバルスは苦境に耐え、決して仲間を見捨てなかった」と伝記の著者アブド・アッ=ザーヒルは彼の人格を称賛している<ref name="sato160"/>。
=== 死後 ===
彼の死後、スルターンの座は息子である[[バラカ (マムルーク朝)|バラカ]]、[[サラーミシュ]]が継ぐものの、彼らに実力主義のマムルーク朝を率いるだけの才能はなかった。そのため相次いで廃されてしまい世襲はならず、マムルーク朝は自らの同僚で第一の実力者であった[[カラーウーン]]が継ぐことになる。


=== アイン・ジャールートの戦い ===
== 評価 ==
[[Image:Campaign of the Battle of Ain Jalut 1260.svg|thumb|180px|right|アイン・ジャールートの戦いまでのマムルーク軍、モンゴル軍の進路]]
バイバルスは国内を整備し、また国外の敵を打ち払いマムルーク朝200年の基礎を作ったほか、十字軍や常勝モンゴル軍に対する勝利を勝ち取った。軍事、政治両面おいて八面六臂の活躍をしたバイバルスは、名君として崇められ[[アイユーブ朝]]の[[サラーフッディーン|サラディン]]と並べ称されている。彼の墓はダマスカスにおいてサラディンと隣り合って立てられている。
[[1258年]]に[[モンゴル帝国]]の王族[[フレグ]]によって[[アッバース朝]]が滅ぼされた後、モンゴル軍の更なる進攻に対して、[[アラブ世界]]は恐慌状態に陥った<ref name="ohara18">大原『エジプト マムルーク王朝』、18頁</ref>。


ダマスカスのナースィルはモンゴル軍を恐れ、フレグの元に子のアジィーズを派遣して関係の改善を試みたが、フレグはナースィル自らが来朝しないことを詰り、降伏勧告を突きつけた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、292-295頁</ref>。ナースィルの宰相ザイヌッディーンはモンゴルへの降伏を説いたが、当時ナースィルの元に亡命していたバイバルスは憤慨してザイヌッディーンを殴り、「あなたはイスラム教徒の滅亡を望んでいるのか」と罵ったと伝えられている<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、308頁</ref><ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、19頁</ref>。バイバルスはナースィルを暗殺して新しい君主を立てようと図ったが失敗し、仲間を連れて[[ガザ]]に移った<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、308-309,333頁</ref>。
エジプト、シリアでは彼は英雄とされている。しかし、アンティオキアなどを完全破壊した上、住民に対する処置も過酷なものだったため、敵対していたキリスト圏ではあまり好かれていないという。ただし彼本人は[[東ローマ帝国]]との交易を開くなど、[[キリスト教]]国([[正教会|正教]]圏)とも積極的に交流を行っている。


一方ナースィルはモンゴル軍と交戦することなく軍隊を解散し、マムルーク朝とカラクのムギースに援助を求めた。モンゴル軍の侵入に際して、マムルーク朝では将軍[[ムザッファル・クトゥズ]]が若年のスルターン・[[マンスール・アリー]]を廃位し、自らスルターンに即位した。バイバルスはクトゥズに使者を送って和解を申し入れ、身の安全を保障されたバイバルスたちはカイロに帰還した。クトゥズから対モンゴル戦の司令官に任じられたバイバルスは、シリアでの迎撃を進言した<ref name="muta201">牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、201頁</ref>。
=== 内政 ===
バイバルスはハリード網と呼ばれる[[駅伝]]を整備した。これによって領内の情報を迅速に集めることに成功した。またこれは[[遊牧民]]への政策でもあった。離合集散を繰り返す遊牧民を体制内に組み込むために駅伝を維持するための駅馬を供給させた。また、[[アミール]]の位や[[イクター]]を与え、安定した関係を作り上げた。またこの時代、エジプトの[[ナイル川]]の増水が問題なく起きていた事も、バイバルスにとって良いほうに作用した。


クトゥズはナースィルに協力を約束したが、フレグの率いるモンゴル軍はすでにシリアに進んでいた。モンゴル軍は[[アレッポ]]、ダマスカスを占領したが、フレグは行軍中に兄である[[モンケ]]・ハーンの訃報に接し、[[キト・ブカ|ケドブカ・ノヤン]]を代理の司令官として[[ペルシャ]]に帰還した。ケドブカはナースィルを捕虜とし、モンゴルの攻撃から避難した人々で溢れかえるエジプトに降伏を要求する使節団を派遣した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、326-329頁</ref>。
国家としては、[[カリフ]]の[[ムスタンスィル2世]]を保護して政権を強化した。サラディン死後のアイユーブ朝のように、カリスマが率いた王朝は、カリスマの死後に急激に衰えることが多くあるため、これを起こさなかったことも評価できる。死後に息子が廃位されるなど政治的混乱が若干あったものの、その後持ち直すことができたのは彼が作った堅固な国家基盤の賜物であるともいえる。


カイロで開かれた会議でバイバルスを初めとする諸将は主戦論を唱え、クトゥズは開戦を決断し、使節団を処刑した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、329-330頁</ref>。バイバルスが率いる前衛はガザに駐屯していたモンゴル軍を撃破し、進軍中にフレグがペルシャに退却した報告を受け取る<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、203頁</ref>。バイバルスは[[地中海]]沿岸部のキリスト教勢力から中立の約束を取り付け、彼らの領土を通過してダマスカスを目指した。1260年9月3日、進軍中のマムルーク軍はアイン・ジャールートでケドブカが率いるモンゴル軍に遭遇し([[アイン・ジャールートの戦い]])<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、335頁</ref><ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、205頁</ref>、バイバルスの率いる部隊はクトゥズの本隊と共にケドブカの軍を挟撃し、モンゴル軍に完勝した<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、206頁</ref>。アイン・ジャールートの勝利はモンゴル帝国のアラブ世界への拡大を食い止め、さらにはマムルーク朝によるエジプト・シリア再統合のきっかけを生み出すことになる<ref>ヒッティ『アラブの歴史』下、598頁</ref>。
=== 外政 ===
バイバルスはスルタンになったのち30回以上の出兵を行い、当時の[[イスラム世界]]にとっての敵であったモンゴルや十字軍に対して戦いを挑み勝利を重ね、マムルーク朝の基盤を築いた。特に常勝モンゴルに対する勝利は大きく、これによりモンゴルの進軍はシリアで止まることになった。十字軍に対する勝利もやはり大きく、イスラム世界への橋頭堡となっていた十字軍諸都市を陥落させたことはキリスト世界のエルサレム政策に大きく影響し、9代スルタンである[[アシュラフ・ハリール]]の代におけるアッコン陥落による橋頭堡の完全喪失へとつながった。


=== スルターンへの登位 ===
政治的にはキリスト圏である東ローマ帝国やシチリアとの交易路を開いたことや、キプチャク・ハン国との同盟によるイル・ハン国挟撃など、政治的手腕も優れていた。
フレグがシリアの各都市に置いた総督はマムルーク軍によって殺害され、ダマスカスもイスラーム勢力の支配下に戻る<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、338頁</ref>。モンゴル軍との交戦前、バイバルスはクトゥズからアレッポ総督の地位を約束されていたが、戦後に約束を反故にされる<ref name="sato160"/><ref name="CMD340341">ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、340-341頁</ref><ref>ヒッティ『アラブの歴史』下、639-640頁</ref><ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、24頁</ref>。1260年10月、バイバルスはクトゥズに不満を抱く仲間と共謀してカイロへの帰還中に行われた狩りの最中にクトゥズを刺殺する<ref name="CMD340341"/>。クトゥズの殺害後、[[テュルク系民族|テュルク]]の慣習に則って、クトゥズに止めを刺したバイバルスが新たなスルターンに推戴された<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、341頁</ref>。


即位したバイバルスはカイロのムカッタム城砦に入り、部将たちから忠誠の誓いを受けた<ref name="ohara25">大原『エジプト マムルーク王朝』、25頁</ref>。だが、クトゥズを迎える準備をしていたカイロ市民たちはクトゥズの死とバイバルスの即位に戸惑い、バフリー・マムルークによる統治に不安を抱いていた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、342頁</ref><ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、296-297頁</ref>。バイバルスはクトゥズが課した税を廃止し、バフリー・マムルークたちに市民に危害を加えることを固く禁じたことで、人心はようやく落ち着いた<ref name="ohara25"/>。即位直後にダマスカス総督サンジャルやシリア諸都市の将軍たちが反乱を起こし、バイバルスはかつての主人であるアイダキーンを鎮圧に派遣した<ref name="ohara25"/>。反乱が鎮圧された後、バイバルスはアイダキーンをダマスカス総督に任命した<ref name="ohara25"/>。アレッポにおいてはクトゥズによって総督に任命されていたアラウッディーン・イブン・ルウルウが配下に放逐されており、バイバルスは新たにアレッポの総督となった[[マンスール・ラージーン|フサームッディーン・ラージーン]]の地位を追認した<ref name="ohara25"/>。
== 関連項目 ==

* [[サラーフッディーン|サラディン]]
=== 外交政策の展開 ===
* [[マムルーク]]
[[1261年]]、バイバルスはアッバース朝最後の[[カリフ]]・[[ムスタアスィム]]の叔父アフマドがダマスカスに到着した報告を受け取り、彼をカイロに迎え入れてカリフ・[[ムスタンスィル2世]]として擁立した。アッバース家の象徴である礼服をムスタンスィル2世に着せられたバイバルスは、カリフを傍らに伴って華々しくカイロを行進した<ref name="sato112">佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、112頁</ref><ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、358頁</ref>。そして、バイバルスはムスタンスィル2世からエジプト、シリア、アナトリアの統治を認める叙任状を受け取った<ref name="hit643">ヒッティ『アラブの歴史』下、643頁</ref>。同年8月、[[バグダード]]にカリフの政権を復活させるためダマスカスに行き、ムスタンスィル2世に護衛を付けて送り出した。カリフ一行は[[ユーフラテス川]]を渡った後、モンゴル軍に殺害された<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、359-361頁</ref><ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、300頁</ref>。

即位から3年の間、バイバルスは軍備の強化に力を入れ、陸海軍の再編、城砦の修築が実施された<ref name="ohara42">大原『エジプト マムルーク王朝』、42頁</ref>。バイバルスはモンゴルの侵攻に対抗するため、軍備の強化と並行して[[神聖ローマ帝国]]、ビザンツ帝国([[東ローマ帝国]])との関係を強化した<ref name="muta214">牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、214頁</ref>。[[ルーム・セルジューク朝]]のスルターン・[[カイカーウス2世]]は、自国の共同統治者であり政敵でもある弟の[[クルチ・アルスラーン4世]]を打倒するため、バイバルスに国土の半分の割譲と引き換えの援助を願い出た<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、63-64頁</ref>。エジプトの反乱、シリアに残存するアイユーブ王族、モンゴル軍に対処するため、バイバルスは中東の[[十字軍国家]]に対しては消極的な態度を取っていた<ref name="ohara42"/>。

[[イスラーム]]の信者である[[ベルケ]]が治めるモンゴル系国家のキプチャク・ハン国([[ジョチ・ウルス]])との同盟は、バイバルスの外交政策で最も効果的なものだった<ref name="muta214"/>。1261年/62年、200人のモンゴル人騎兵が家族を伴ってエジプトに亡命する事件が起きる<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、374-375頁</ref><ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、310頁</ref>。バイバルスは彼らを丁重に扱い、住居、官職、イクターを与えた。好意的な態度のため、翌年にも移住者がエジプトに到着し、バイバルスの治世に3,000人のモンゴル人がエジプト・シリアに移住した<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、311頁</ref>。亡命者たちからベルケの情報を聞き取ったバイバルスは、1262年末に彼の元に使節団を派遣する<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、375-376頁</ref>。バイバルスが派遣した使節団と行き違いにベルケから派遣された使節団がエジプトに到着し、[[イルハン朝|イルハン国]]を建てたフレグに対する軍事同盟の締結が提案された<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、378-379頁</ref>。バイバルスは使節の来訪を喜び、贈物とベルケの改宗を祝福した書簡を携えた返礼の使節を派遣した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、380頁</ref>。そして、カイロ、[[マッカ|メッカ]]、[[マディーナ|メディナ]]、エルサレムの金曜礼拝で読まれるフトバには、バイバルスの名前のすぐ後にベルケの名前が入れられた。

1262年より2年以上にわたってフレグはベルケとの戦争に釘付けにされ({{仮リンク|ベルケ・フレグ戦争|en|Berke–Hulagu war}})、バイバルスは対モンゴル戦の軍備を整えることができた<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、215頁</ref>。フレグはベルケとの戦争の間に、1262年/[[1263年|63年]]に[[キリキア・アルメニア王国]]の王子[[へトゥム1世|ヘトゥム]]をエジプトに派兵したが、マムルーク軍はヘトゥムの侵入を撃退した。ヘトゥムの侵入と同時期にフレグの元からマムルーク朝の将軍に内通を促す密使が派遣されたが、バイバルスは間諜の報告で密使の動きを把握し、密使を逮捕・処刑することができた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、383頁</ref>。1263年にバイバルスはモンゴルとの内通を口実としてカラクのムギースを処刑し、彼の領地を併合する<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、346-347,384頁</ref>。

=== 十字軍国家との戦争 ===
[[Image:Krak des Chevaliers landscape (cropped).jpg|thumb|200px|right|クラック・デ・シュヴァリエ]]
フレグの跡を継いでイルハン国のハン(君主)となった[[アバカ]]が積極的な攻撃を展開できない状況を見て、バイバルスは中東に残存する十字軍国家に目を移す<ref name="CMD5-10">ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、10頁</ref><ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、218頁</ref>。1261年にキリスト教領主たちがバイバルスに和平を申し出、バイバルスは和平と捕虜の解放に同意した<ref name="EH">エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』(川成洋、太田美智子、太田直也訳, 東洋書林, 2006年11月)、450-454頁</ref>。しかし、和平にあたってキリスト教勢力に課した条件は実行されず、バイバルスは報復として[[ナザレ]]の聖母教会を破壊した<ref name="EH"/>。1263年4月末にバイバルスは[[エルサレム]]に入城し、[[キャラバンサライ]](隊商宿)の建設、[[岩のドーム]]の修復を行い、聖地の領有を内外に誇示した<ref>伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、134頁</ref>。

[[1265年]]ごろまではマムルーク朝は十字軍国家に対して散発的な攻撃しか行っていなかったが、キプチャク・ハン国、シチリア、ビザンツとの同盟が成立し、十字軍への包囲が強化される<ref name="ohara43">大原『エジプト マムルーク王朝』、43頁</ref>。1265年より、バイバルスは十字軍国家との戦争を本格的に開始する<ref name="sato161"/>。[[1266年]]に[[聖ヨハネ騎士団]]の支配下にある[[ツファット|サファド]]を攻略、戦後バイバルスは助命の約束を破棄し、2,000人に及ぶ騎士団員を処刑する<ref name="hit599">ヒッティ『アラブの歴史』下、599頁</ref>。サファドの城壁には、バイバルスの勝利を記念する言葉が刻まれた。同年10月に[[キプロス王国]]からサファド奪回の軍が送られるが、マムルーク軍はキプロス軍を撃退する。

フレグの征西においてモンゴル軍に軍事力を提供していたキリキア・アルメニア王国も、バイバルスの攻撃の対象となった<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、34頁</ref>。バイバルスはキリキア・アルメニア王国に従属を促す使者を送るが拒絶され、同年にカラーウーンとハマーのアイユーブ王族アル・マンスールが率いる軍をキリキアに派兵した<ref name="CMD5-10"/>。アルメニア軍を破ったマムルーク軍はキリキア各地を破壊し、アルメニアの王子レオンを捕虜とした<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、11-12頁</ref>。和平を乞うアルメニア王ヘトゥムに対し、バイバルスは領土の割譲とフレグの元に捕らえられている旧友のシャムスッディーン・ソンコル(「赤毛の」ソンコル)の釈放を和平の条件として突き付けた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、13-14頁</ref>。バイバルスが出した条件は全て受け入れられ、[[1267年]]6月にマムルーク朝とアルメニア王国の間に和平が成立する。

[[1268年]]には、[[ヤッファ|ジャッファ]]、[[アンティオキア]]([[アンタキヤ]])を立て続けに屈服させる。16,000人に達するアンティオキアの守備隊を虐殺し、100,000人の市民を捕虜とした<ref name="hit600">ヒッティ『アラブの歴史』下、600頁</ref>。マムルーク軍によってアンティオキアの町に火が放たれ、町は深刻な被害を被った<ref name="hit600"/>。翌1269年に書簡を携えたアバカからの使節団がバイバルスの元を訪れた。アバカは書簡の中でバイバルスのクトゥズ殺害を責め、エジプトへの攻撃を宣言したが、バイバルスは自身が民衆に支持されており、かつマムルーク軍はモンゴル軍と戦う準備ができていると答え、使節団を追い返した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、15-16頁</ref>。1270年に[[キプロス島]]に艦隊を派遣するが、航海中に暴風雨に遭って艦船の大部分が沈没した<ref name="ohara44"/>
<ref>伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、193-194頁</ref>。キプロス王ユーグ2世から艦船の乗組員を捕虜としたことが伝えられるが、バイバルスは暴風雨による偶然の勝利は戦闘での勝利に及ばないと意に介さず<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、44-45頁</ref>、嵐に遭わなければキプロス制服は成功していたと豪語した<ref>伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、194頁</ref>。

キプロス遠征と同じ1270年にルイ9世がエジプトに進軍している情報が届くが、ルイ9世率いる十字軍は目的地を変えて[[チュニス]]に上陸し、エジプトに上陸することは無かった([[第8回十字軍]])<ref name="ohara44">大原『エジプト マムルーク王朝』、44頁</ref><ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、220頁</ref>。ルイ9世の進軍を知ったバイバルスは[[トリポリ伯国]]の攻撃を中止して軍をエジプトに呼び戻すが、ルイ9世の死を知ると再びシリアに出兵し、難攻不落の城砦である[[クラック・デ・シュヴァリエ]]を攻撃する<ref name="hashiguchi">橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫, 講談社, 1994年6月)、239-240</ref>。[[テンプル騎士団]]が守るサフィタ城を陥落させた後にクラック・デ・シュヴァリエを攻撃するが、城内に籠る騎士団の突撃と、堅牢かつ複雑な城砦の構造はマムルーク軍の行く手を阻んだ<ref name="hashiguchi"/>。[[1271年]]4月8日、バイバルスが出した偽のトリポリ伯の降伏命令を受け取った城内の騎士団員は[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]に退去し、クラック・デ・シュヴァリエを陥落させた<ref>牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、233頁</ref>。

一連の十字軍との戦闘でバイバルスは背信行為に対する非難と勝利への称賛を受け<ref name="ohara43"/>、中東のキリスト教徒はバイバルスを「[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]のごとき英雄、[[ネロ]]のごとき暴君」と恐れた<ref>伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、133頁</ref>。十字軍に勝利を収めたバイバルスは、投降したキリスト教徒に首に折れた十字架をかけ、逆さにした軍旗を持たせてカイロに凱旋した<ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、344頁</ref>。十字軍が使用できないように、占領した多くの都市を徹底的に破壊したが、内陸部の重要な拠点であるサファドは補修し、再使用した<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、304頁</ref>。軍事作戦の過程でバイバルスはアッコンの[[エルサレム王国]]政府を無視し、各都市のキリスト教徒領主と個別に休戦条約を結んだ<ref>伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、146頁</ref>。一連のバイバルスの進攻に対するキリスト教勢力からの反撃はごく軽微なものであり、重要と言える野戦は発生しなかった<ref name="hit599"/>。バイバルスがキリスト教勢力から収めた勝利は、カラーウーン、[[アシュラフ・ハリール]]の治世に達成される十字軍国家掃討の基盤を作りあげた<ref name="hit641"/>。

また、バイバルスは十字軍勢力との戦争と並行して、1268年から<ref name="ohara44"/>十字軍勢力から援助を受けている<ref name="mae345">前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、345頁</ref>
シリア北部の[[暗殺教団]]と交渉を行った。教団が十字軍との戦争の生涯となると考え、1270年から3年の間に彼らの勢力を壊滅させた<ref name="ohara44"/>。

=== キリキアへの親征、ヌビアへの派兵 ===
バイバルスの攻撃に進退窮まったキリスト教勢力はイルハン国に助けを求め、1271年にモンゴルと[[ルーム・セルジューク朝]]の連合軍がシリアに侵入する<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、48-49頁</ref>。モンゴル軍との戦闘の合間にアバカから休戦を提案する使者が派遣されるが、バイバルスはアバカ自身か彼の弟がエジプトに来るよう求め、和平は成立しなかった<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、49-50頁</ref>。1272年10月にモンゴル軍がシリアの辺境部への侵入を企てていることを知ったバイバルスは、ダマスカスから迎撃に向かう。ユーフラテス川を渡ったマムルーク軍の船舶と騎兵隊は国境地帯の要衝ビーラを攻めようとするモンゴル軍に勝利を収め、バイバルスはダマスカスに凱旋した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、51-52頁</ref>。なおもバイバルスはモンゴル軍の動向に逐一注意し、ビーラでの勝利の後にアバカが進軍を行っている情報を受け取ると入念に軍備を行い、[[1273年]]9月にダマスカスに到着したが、モンゴル軍は姿を現さなかった<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、53-54頁</ref>。

バイバルスはキリキアへの遠征を考え、アルメニア王国がかつて和平にあたって課した条件を履行せず、マムルーク朝に敵対行為を取っていることを非難した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、59頁</ref>。1275年2月にバイバルスはキリキア遠征に出発し、進軍中にハマーのアイユーブ家、アラブ遊牧民の軍と合流する。スィス([[:en:Kozan, Adana|en]])、[[アダナ]]、[[タルスス]]などのキリキアの都市はマムルーク軍に破壊され、市民は誘拐・殺害される<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、60頁</ref>。キリキア遠征でマムルーク軍は多くの戦利品と人質を得たが、戦利品の分配にあたってバイバルスは自分の分け前を取ろうとしなかった<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、61頁</ref>。

1275年から1276年にかけて、マムルーク朝は[[歴史的スーダン|スーダン]]に勢力を広げる。1272年に[[ヌビア]]のキリスト教国家{{仮リンク|マクリア王国|en|Kingdom of Makuria|label=マクリア}}の王ダーウドがエジプトに侵入し、[[アスワン]]、{{仮リンク|アイザーブ|en|‘Aydhab}}が襲撃を受けた。アイザーブの襲撃はマムルーク朝の交易・巡礼者の往来を妨げる恐れがあり、1273年にバイバルスは小規模の討伐隊を派遣したが、エジプト南部の国境地帯を平定するだけに留まった<ref name="ohara54">大原『エジプト マムルーク王朝』、54頁</ref>。ダーウドによってマクリアの王位を奪われた王侯シャクンダがマムルーク朝の支援を求めてカイロを訪れると、1275年冬にバイバルスは大規模な討伐隊をヌビアに派遣した。ダーウドはマムルーク軍によって追放され、[[ドンゴラ]]で復位したシャクンダはマムルーク朝に臣従と貢納を誓った<ref name="ohara54"/>。1276年に討伐隊はカイロに帰国、ヌビア全土が初めてイスラームの影響下に置かれたが、バイバルスは誓約の履行とシャクンダの動向を怪しみ、再三密偵をヌビアに送り込んだ<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、54-55頁</ref>。

=== 最後の遠征 ===
[[Image:Az-Zahiriyah Library.jpg|thumb|180px|right|ザーヒリーヤ図書館]]
[[1276年]]7月、内訌に敗れたルーム・セルジューク朝の貴族がダマスカスに亡命し、彼らはバイバルスにルーム・セルジュークへの出兵を進言した<ref name="CMD5-67">ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、67頁</ref>。閲兵と軍事訓練を終えた後、1277年2月にバイバルスはエジプトを発つ<ref name="CMD5-67"/>。バイバルスはルーム・セルジュークのモンゴル支配からの解放を遠征の名目として掲げたため、マムルーク軍は進軍先の住民に危害を加えなかったが、アルメニア人をはじめとするキリスト教徒には厳しい迫害を行った<ref name="CMD5-73">ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、73頁</ref>。マムルーク軍はルーム・セルジューク・モンゴルの連合軍が陣を敷くジャイハーン河岸を目指し、アブルスターン平原でモンゴル軍に遭遇する。4月16日に両軍は激突し、マムルーク軍は勝利を収めた({{仮リンク|エルビスターンの戦い|en|Battle of Elbistan|label=エルビスターン(アブルスターン)の戦い}})<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、69頁</ref>。カイサリア([[カイセリ]])に入城を果たしたバイバルスは市民から歓待され、セルジューク朝のスルターンとして迎え入れられた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、70-71頁</ref>。しかし、バイバルスの予想に反してモンゴルの報復を恐れるルーム・セルジュークの領主たちからの支持が得られず、1277年4月28日にバイバルスはカイサリアから撤退した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、72頁</ref>。帰還途上でアブルスターンを通過した時、モンゴル軍が自軍の損害が微少であると信じさせるため、多くの自軍の兵士の遺体を埋めさせた<ref name="CMD5-73"/>。

6月8日<ref name="CMD5-79"/>にダマスカスに帰国したバイバルスはクミズ([[馬乳酒]])で祝杯を挙げたが、急に腹痛に襲われ、間もなく没した。死因は過度の飲酒、あるいは毒殺と考えられている<ref name="sato162">佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、162頁</ref>。バイバルスの遺体はダマスカスに埋葬されたが、軍の反乱を防ぐために彼の死は秘匿され、カイロに戻る軍列の中にはマムルークたちに護衛されたバイバルスの籠が加えられていた<ref name="CMD5-80">ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、80頁</ref>。死から2年後<ref name="muta221"/>、ダマスカスのサラディンの廟の近くにバイバルスの墓が建てられた<ref name="muta221"/><ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、304-305頁</ref>。バイバルスの遺体は、後世建てられた{{仮リンク|ザーヒリーヤ図書館|en|Al-Zahiriyah Library}}の敷地内に埋葬されている<ref name="hit642"/><ref name="sato162"/>。

生前のバイバルスは息子の[[バラカ (マムルーク朝)|バラカ]]へのスルターン位の世襲を望んでおり、1262年に配下の将軍たちにバラカへの忠誠を誓わせていた<ref name="ohara61">大原『エジプト マムルーク王朝』、61頁</ref>。1275年にバラカと配下第一の有力者であるカラーウーンの娘を婚約させてバラカの立場を堅固にし、さらにバイバルスは死期が近づいたとき、バラカに「自分を軽んじる将軍がいれば、真偽を確かめた後に直ちに処刑しなさい。誰にも相談してはならない」と遺言した<ref name="ohara61"/>。遠征隊がカイロに帰国した時にはじめてバイバルスの死が公表され、19歳になるバラカがスルターンに立てられた<ref name="CMD5-80"/>。しかし、バラカ、もう1人のバイバルスの息子[[サラーミシュ]]は相次いで短い治世で廃位され、[[1279年]]にカラーウーンがスルターンとなった。

== 人物像 ==
バイバルスは[[碧眼]]で<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、297頁</ref>、長身で褐色の皮膚を持つ力強い声の持ち主と記録されている<ref>ヒッティ『アラブの歴史』下、640-641頁</ref>。慎重かつ禁欲的な性格で、金銭には執着を示さなかった<ref name="muta221"/>。活動的で勇敢、暴力的な性格で、配下の将軍からは畏怖されていた<ref name="CMD5-79"/>。歴史に強い関心を示し、「過去の出来事を聴くことは、どんな体験にも勝るものだ」と述べた<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、305頁</ref>。[[ドミニコ会]]のトリポリのギヨームはバイバルスについて、禁欲的かつ残忍な、秘密主義者と記している<ref name="EH"/>。後世に成立した説話文学においては、イスラーム世界に蔓延るズルム(不正)を罰し、アドル(公正)を実現する英雄として描写されている<ref name="miura">三浦徹「東アラブ世界の変容」『西アジア史 1 アラブ』収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)、309-310頁</ref>。

バイバルスは[[狩猟]]や[[ポロ]]を趣味とし<ref name="muta221"/>、カイロ郊外に競技場を建設した<ref name="ohara256">大原『エジプト マムルーク王朝』、256頁</ref>。。バイバルスは馬を乗り継いで1週間でカイロとダマスカスの間を移動した直後、さらに体を動かしてポロを楽しんでいた超人的な体力の持ち主だと伝えられている<ref name="muta211">牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、211頁</ref>。バイバルスは[[遠泳]]も得意としており、ある時には鎧を付けたまま[[ナイル川]]を泳いでいた<ref name="ohara256"/>。

バイバルス、カラーウーンに近侍したイブン・アブドゥルザーヒル(1223年 - 1293年)はバイバルスの伝記を著したが原典は散逸し、甥によって改編されたテキストのみが残っている<ref>アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』(牟田口義郎、新川雅子訳, ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2001年2月)、478-479頁</ref>。

== 政策 ==
=== 伝達網の整備 ===
1261年のカリフの擁立と同じ時期、バイバルスはエジプト・シリア間に駅伝(バリード)制度を整備した<ref name="sato112"/>。数10kmごとに駅舎が置かれ、街道沿いに住むアラブ遊牧民には駅舎に置かれる馬の提供が義務として課せられた<ref name="sato112"/>。バリード制度の利用により、700km超の距離がある<ref name="sato161"/>カイロ・ダマスカス間を4日で移動することが可能になり<ref name="hit641"/><ref name="muta211"/><ref>佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、112-113頁</ref>、危急の時には[[伝書鳩]]で警告が伝えられた<ref name="miura"/><ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、247頁</ref>。この制度によってバイバルスはカイロに留まりながらもモンゴル軍のみならず、各地の総督の動きも察知することができた<ref name="CMD5-79"/><ref name="sato113">佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、113頁</ref>。中央集権制度の確立、アラブ遊牧民への統制を強化した点において、バイバルスが創始したバリード制度は有用であったと言える<ref name="sato113"/>。

=== 建築事業 ===
[[Image:LionsGate Jerusalem.JPG|thumb|180px|right|エルサレムのライオン門]]
バイバルスはエジプト・シリアの両方で多くの建築事業を実施した。また、港湾施設や[[溝渠]]の整備を行っている<ref name="kobayashi"/>。

代表的な建造物にカイロの大モスク、ザーヒリーヤ学院が挙げられている<ref>ヒッティ『アラブの歴史』下、641-642頁</ref>。後に大モスクは[[ナポレオン・ボナパルト]]とイギリス占領軍によって、軍事施設として使用される<ref name="hit642"/>。ほかカイロにおいてはアズハル・モスクの修築、ダマスカスでは[[ウマイヤド・モスク]]の修復などを行った。

バイバルスは自身の紋章であるライオンを、宗教的要素の無い建造物の装飾に用いた<ref name="ohara258"/>。1266年のサファド攻略後に[[ヨルダン川]]に橋を架け、橋には両脇にライオンの像を配する碑文が置かれた<ref name="hit599"/>。エルサレムの聖ステファノス門に2頭のライオンの像を飾り、門は{{仮リンク|ライオン門|en|Lions' Gate}}と呼ばれるようになった<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、245頁</ref>。

=== バイバルスと信仰 ===
バイバルスは熱心な[[スンナ派]]の信仰者であり、篤実な信仰心を持っていた<ref name="hit642"/>。1266年から1268年にかけてメッカ、メディーナの[[シャリーフ]](預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の子孫)の争いに介入し、[[ヒジャーズ]]に遠征を行った。[[1269年]]にバイバルスは[[ハッジ|メッカ巡礼]]を果たし、配下の将軍をメッカの総督に任じた<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、30頁</ref>。

バイバルスは[[スンナ派]]の[[マズハブ|四大法学派]]を公認し、それぞれの学派を代表する4人の[[カーディー]](裁判官)を任命した<ref name="miura"/>。孤児、宗教財産、国庫に関する裁判は従来通り[[シャーフィイー学派|シャーフィイー派]]の大カーディーが担当したため、シャーフィイー派の大カーディーが最高位に立ち、[[ハンバル学派|ハンバル派]]、[[マーリク学派|マーリク派]]、[[ハナフィー学派|ハナフィー派]]の大カーディーがこれに続く地位に置かれた<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、249頁</ref>。スンナ派の四学派が名目上は対等の立場を持ったことでスンナ派全体の権威が向上し、カーディーの任命によって[[ウラマー]](法学者)への統制力も強化された<ref name="miura"/>。さらに国家の主要な収入源となっていた[[売春]]を厳しく取り締まった<ref name="muta221"/>。

1261年にバイバルスはマムルーク朝に亡命したアッバース朝最後のカリフの叔父[[ムスタンスィル2世]]をカリフとして擁立した。ムスタンスィル2世を伴ってカイロで華やかな行進を行い、行進にはイスラム教徒だけでなく[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]、[[キリスト教|キリスト教徒]]も参加していた<ref name="hit643"/>。カリフの擁立に伴い、北インド、[[モロッコ]]のイスラーム政権に使節を派遣してフトバにムスタンスィル2世の名前を入れることを要求し、イスラーム世界の各国からカリフの擁立は好意的に受け止められた<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、299-300頁</ref>。バイバルスはマムルーク朝のスルターンがカリフの庇護者となることで、武力でアイユーブ朝を打倒したマムルーク政権の正統性を示す役割を果たしたと考えられている<ref name="sato112"/>。カリフを自称する[[ハフス朝]]の[[アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル|アル=ムスタンスィル]]との関係は悪化するが、対立は深刻なものにはならず、1270年にルイ9世がチュニスに向かった際にバイバルスはハフス朝に支援を申し出ている<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、151-152頁</ref>。ムスタンスィル2世の死後、カイロに亡命したハーキムを新たにカリフとして擁立し、疑似的なカリフ制度が長く続いた<ref name="hit643"/>。バイバルスはカリフが必要以上に力を持つことを危険視しており<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、300-301頁</ref>、ハーキムにはカイロ市民との接触を禁じていた<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、301頁</ref>。

輿(マフミル)を乗せたラクダを先頭とする巡礼団を[[マッカ|メッカ]]に派遣し、[[カアバ|カアバ神殿]]にかける絹の覆い(キスワ)を贈答する、年に一度の儀礼がバイバルスの治世から開始された<ref name="sato112"/>。[[カリフ]]の保護と合わせて、バイバルスは聖地の保護者であることを内外に誇示することで、スルターンの権力を正当化する意図を有していたと考えられている<ref name="sato112"/>。メッカ・[[エルサレム]]2つの聖地、巡礼者の保護に注力したバイバルスは、「両聖地の保護者」を自称した<ref name="ijiten"/>。

== 家族 ==
=== 妻 ===
* フワーリズミーヤ(中央アジアの[[ホラズム]]地方出身者から構成される軍)の長ベルケ(バラカ)・ハーンの娘<ref name="sato161"/>
* モンゴル系のアミール・ノカーイの娘
* [[クルド人]]のシャフラズーリーヤ族の女

=== 子 ===
バイバルスは妻、女奴隷との間に5人の男子と7人の女子をもうけた<ref name="sato161"/>。
* [[バラカ (マムルーク朝)|バラカ]] - 母はベルケ(バラカ)・ハーンの娘<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、27-28頁</ref>
* [[サラーミシュ]]

== 脚注 ==
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 次高世界の歴史8 イスラム世界の興隆』[[中央公論社]]、[[1997]] ISBN 4124034083
* 敏樹モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦(講談社選書メチエ, [[講談社]], 20045月)
* 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
* [[小林元]]「バイバルス」『アジア歴史事典』7巻収録([[平凡社]], 1961年)
* [[佐藤次高]]『イスラーム世界の興隆』(世界の歴史8, [[中央公論新社|中央公論社]], 1997年9月)
* 佐藤次高「バイバルス」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
* 佐藤次高『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』(UPコレクション, [[東京大学出版会]], 2013年8月)
* 長谷部史彦「バイバルス」『岩波イスラーム辞典』収録([[岩波書店]], 2002年2月)
* [[前嶋信次]]『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』(講談社学術文庫, 講談社, 2002年3月)
* [[牟田口義郎]]『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』(中公新書, 中央公論社, 2001年6月)
* [[アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|C.M.ドーソン]]『モンゴル帝国史』4巻([[佐口透]]訳注, 東洋文庫, [[平凡社]], 1973年6月)
* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』5巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1976年12月)
* フィリップ.K.ヒッティ『アラブの歴史』下(講談社学術文庫, 講談社, 1983年1月)


== 登場する作品 ==
== 登場する作品 ==
* [[赤羽尭]]『復讐、そして栄光』[[光文社]] [[1990年]]
* [[赤羽尭]]『復讐、そして栄光』[[光文社]] [[1990年]]


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2013年11月15日 (金) 13:21時点における版

バイバルス1世
الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري
マムルーク朝スルターン
バイバルスが使用したライオンの紋章[1][2]
在位 1260年 - 1277年7月1日

全名 アル=マリク・アッ=ザーヒル・ルクンッディーン・バイバルス・アル=ブンドクダーリー
出生 1220年代 - 1230年代
キプチャク草原
死去 1277年6月30日/7月1日
ダマスカス[3]
埋葬 ダマスカス
配偶者 ベルケ(バラカ)・ハーンの娘
  モンゴル系のアミール・ノカーイの娘
  クルド人のシャフラズーリーヤ族の女
子女 バラカサラーミシュなど
家名 バイバルス家
宗教 スンナ派
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バイバルス・アル=ブンドクダーリーアラビア語: الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري ‎ al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī, 1223年[4]/28年[5][6]/33年[7] - 1277年6月30日[8]7月1日[9][3])は、マムルーク朝バフリー・マムルーク朝)の第5代スルターン君主。在位:1260年-1277年)。在位中の事績から実質的なマムルーク朝の建国者と評価されることもある[10]。即位名によりアッ=ザーヒル・バイバルスアラビア語: الملك الظاهر بيبرس ‎ al-Malik al-Zāhir Baybars)とも呼ばれる。

マムルーク(軍人奴隷)としてエジプトアイユーブ朝に仕え、1250年マンスーラの戦いでエジプトに侵入した十字軍に大勝を収める。1260年アイン・ジャールートの戦いではモンゴル軍に勝利し、モンゴルのエジプトへの進出を阻止した。戦後、マムルーク朝のスルターン・ムザッファル・クトゥズを殺害して王位に就き、全シリアを併合した[4]。バイバルスの軍事的・政治的な能力により、外部勢力の侵入に反応して成立したマムルークたちの政権は確固たるものとなった[11]

バイバルスは優れた精神力と体力の持ち主であり、17年にわたる在位中に38回のシリア遠征を実施し、うちモンゴル軍と9回、十字軍と21回にわたって交戦した[12]。38回の遠征において、その半分はバイバルス自身が陣頭で指揮を執っていた[13]。華々しい戦績のためにバイバルスは英雄としてアラブ世界に名前を遺し[12]ハールーン・アッ=ラシードサラディンと並ぶ英雄として知られている[4][14]。バイバルスの英雄譚は説話文学に昇華され[15]、マムルーク朝後期からオスマン帝国期にかけての時期に現存する物語の形式が成立する[5]。バイバルスの活躍を鮮やかに描いた物語は、語り部(カーッス)を通して民衆を魅了した[5]

名前の語源

「バイバルス」はテュルクの言葉で「虎のベイ」を意味する[16]。バイバルスの名前の「アル=ブンドクダーリー」は最初の主人であるアイダキーン・アル=ブンドクダーリーから与えられた名前であり[17][16]、「弓兵」を意味している[17][18]

生涯

士官以前

バイバルスはエジプトから遠く離れた、黒海北方のキプチャク草原に居住する遊牧民族キプチャクの出身である[16][19]。14歳ごろにモンゴル軍のアナス・ハーンに捕らえられ、アナトリア半島スィヴァスで奴隷商人に引き渡された[19]

モンゴル軍の進攻の後、中東の奴隷市場は供給過多と言える状態になり、バイバルスの買い手はなかなか現れなかった[20]。バイバルスはハマーのアイユーブ家の王族の元に売られたが、肌が褐色であるという理由で返却される[19]。次にダマスカスに連れて行かれ、一度は800ディルハム(約40ディナール)で購入されたが、片目に白内障の斑点があるという理由で再び返却された[16][19]。もう一度ハマーに戻り、アイユーブ朝のアミール(司令官)であるアイダキーン・アル=ブンドクダーリーによってようやく購入され、奴隷身分から解放された。

アイダキーンはアイユーブ朝のスルターン・サーリフから不興を買ってハマに左遷されていたがやがて許され[20][21]1246年にバイバルスはアイダキーンに従ってカイロに移った。しかし、再びサーリフの怒りを買ったアイダキーンは財産を没収され、バイバルスもサーリフ直属のマムルーク軍団であるバフリーヤ軍団に編入された。サーリフの下に入ったバイバルスは最初衣装係に任命され[19]、20歳頃に連隊長の地位に昇進する[22]

第7回十字軍との戦闘

マンスーラの戦い

1249年フランス王ルイ9世率いる第7回十字軍がエジプトに上陸し、ナイル河口の港湾都市ダミエッタを占領した。病身のサーリフはダミエッタ南西のマンスーラに陣営を構えて迎撃の準備にとりかかるが、同年11月にサーリフは陣没する[23]。十字軍がダミエッタに上陸した時、バフリー・マムルークの長であるアクターイが不在であったため、一時的にバイバルスがバフリー・マムルークの指揮を執った[19]

1250年2月、アイユーブ軍の指揮官ファクルッディーンはルイ9世の弟ロベールの奇襲を受けて戦死し、ロベール率いる騎兵隊は本陣のファクルッディーンを撃破した後、マンスーラ市内に突入した[24]。しかし、マンスーラ市内に入った騎兵隊は、バイバルスが率いるバフリー・マムルークの反撃にあって壊滅し、ロベール自身も戦死を遂げる(マンスーラの戦い)。マンスーラでの勝利からバフリー・マムルークを先頭とするアイユーブ軍の反撃が始まり、さらにイラクから帰国したサーリフの王子トゥーラーン・シャーによって十字軍の補給路が絶たれる[25]。物資の欠如と疫病により十字軍は追い詰められていき、1250年4月にアイユーブ軍はファルスクールの戦い英語版でルイ9世を捕虜とした。

マンスーラの戦いの後、スルターンに即位したトゥーラーン・シャーは、バフリー・マムルークたちを追放・投獄し、自身の側近を重用した[26][27]。マムルークとトゥーラーン・シャーの対立は深まり、バイバルスはバフリーヤ軍団の長アクターイ、カラーウーンイッズッディーン・アイバクらとトゥーラーン・シャー暗殺を企てる[26][28]。1250年5月2日にファルスクールでトゥーラーン・シャー暗殺が決行され、最初にバイバルスがトゥーラーン・シャーを斬りつけた後にアクターイが致命傷を与え、計画は成功を収める[29]

トゥーラーン・シャーの死後、バフリー・マムルークに推戴されたサーリフの寡婦シャジャル・アッ=ドゥッルがスルターンとなり、マムルーク朝が成立する。

放浪時代

マムルーク朝成立後、シャジャル・アッ=ドゥッルに代わってスルターンとなったアイバクはバフリー・マムルークを危険視し、1254年にアクターイを殺害する[30]。バイバルスはカラーウーンら仲間とともにエジプトから脱出し、ダマスカスのアイユーブ王族マリク・アン=ナースィルの元に亡命する。

やがてナースィルと不仲になると、バイバルスたちはカラクのアイユーブ王族ムギースの元に移った。バイバルスたちはムギースにエジプトへの進軍を依頼するが[31]、エジプトのマムルーク朝との戦いに敗れ、ムギースからも疎まれるようになった[32]

シリアでの放浪時代はバイバルスにとって辛い時期であったが、「バイバルスは苦境に耐え、決して仲間を見捨てなかった」と伝記の著者アブド・アッ=ザーヒルは彼の人格を称賛している[32]

アイン・ジャールートの戦い

アイン・ジャールートの戦いまでのマムルーク軍、モンゴル軍の進路

1258年モンゴル帝国の王族フレグによってアッバース朝が滅ぼされた後、モンゴル軍の更なる進攻に対して、アラブ世界は恐慌状態に陥った[33]

ダマスカスのナースィルはモンゴル軍を恐れ、フレグの元に子のアジィーズを派遣して関係の改善を試みたが、フレグはナースィル自らが来朝しないことを詰り、降伏勧告を突きつけた[34]。ナースィルの宰相ザイヌッディーンはモンゴルへの降伏を説いたが、当時ナースィルの元に亡命していたバイバルスは憤慨してザイヌッディーンを殴り、「あなたはイスラム教徒の滅亡を望んでいるのか」と罵ったと伝えられている[35][36]。バイバルスはナースィルを暗殺して新しい君主を立てようと図ったが失敗し、仲間を連れてガザに移った[37]

一方ナースィルはモンゴル軍と交戦することなく軍隊を解散し、マムルーク朝とカラクのムギースに援助を求めた。モンゴル軍の侵入に際して、マムルーク朝では将軍ムザッファル・クトゥズが若年のスルターン・マンスール・アリーを廃位し、自らスルターンに即位した。バイバルスはクトゥズに使者を送って和解を申し入れ、身の安全を保障されたバイバルスたちはカイロに帰還した。クトゥズから対モンゴル戦の司令官に任じられたバイバルスは、シリアでの迎撃を進言した[38]

クトゥズはナースィルに協力を約束したが、フレグの率いるモンゴル軍はすでにシリアに進んでいた。モンゴル軍はアレッポ、ダマスカスを占領したが、フレグは行軍中に兄であるモンケ・ハーンの訃報に接し、ケドブカ・ノヤンを代理の司令官としてペルシャに帰還した。ケドブカはナースィルを捕虜とし、モンゴルの攻撃から避難した人々で溢れかえるエジプトに降伏を要求する使節団を派遣した[39]

カイロで開かれた会議でバイバルスを初めとする諸将は主戦論を唱え、クトゥズは開戦を決断し、使節団を処刑した[40]。バイバルスが率いる前衛はガザに駐屯していたモンゴル軍を撃破し、進軍中にフレグがペルシャに退却した報告を受け取る[41]。バイバルスは地中海沿岸部のキリスト教勢力から中立の約束を取り付け、彼らの領土を通過してダマスカスを目指した。1260年9月3日、進軍中のマムルーク軍はアイン・ジャールートでケドブカが率いるモンゴル軍に遭遇し(アイン・ジャールートの戦い[42][43]、バイバルスの率いる部隊はクトゥズの本隊と共にケドブカの軍を挟撃し、モンゴル軍に完勝した[44]。アイン・ジャールートの勝利はモンゴル帝国のアラブ世界への拡大を食い止め、さらにはマムルーク朝によるエジプト・シリア再統合のきっかけを生み出すことになる[45]

スルターンへの登位

フレグがシリアの各都市に置いた総督はマムルーク軍によって殺害され、ダマスカスもイスラーム勢力の支配下に戻る[46]。モンゴル軍との交戦前、バイバルスはクトゥズからアレッポ総督の地位を約束されていたが、戦後に約束を反故にされる[32][47][48][49]。1260年10月、バイバルスはクトゥズに不満を抱く仲間と共謀してカイロへの帰還中に行われた狩りの最中にクトゥズを刺殺する[47]。クトゥズの殺害後、テュルクの慣習に則って、クトゥズに止めを刺したバイバルスが新たなスルターンに推戴された[50]

即位したバイバルスはカイロのムカッタム城砦に入り、部将たちから忠誠の誓いを受けた[51]。だが、クトゥズを迎える準備をしていたカイロ市民たちはクトゥズの死とバイバルスの即位に戸惑い、バフリー・マムルークによる統治に不安を抱いていた[52][53]。バイバルスはクトゥズが課した税を廃止し、バフリー・マムルークたちに市民に危害を加えることを固く禁じたことで、人心はようやく落ち着いた[51]。即位直後にダマスカス総督サンジャルやシリア諸都市の将軍たちが反乱を起こし、バイバルスはかつての主人であるアイダキーンを鎮圧に派遣した[51]。反乱が鎮圧された後、バイバルスはアイダキーンをダマスカス総督に任命した[51]。アレッポにおいてはクトゥズによって総督に任命されていたアラウッディーン・イブン・ルウルウが配下に放逐されており、バイバルスは新たにアレッポの総督となったフサームッディーン・ラージーンの地位を追認した[51]

外交政策の展開

1261年、バイバルスはアッバース朝最後のカリフムスタアスィムの叔父アフマドがダマスカスに到着した報告を受け取り、彼をカイロに迎え入れてカリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。アッバース家の象徴である礼服をムスタンスィル2世に着せられたバイバルスは、カリフを傍らに伴って華々しくカイロを行進した[54][55]。そして、バイバルスはムスタンスィル2世からエジプト、シリア、アナトリアの統治を認める叙任状を受け取った[56]。同年8月、バグダードにカリフの政権を復活させるためダマスカスに行き、ムスタンスィル2世に護衛を付けて送り出した。カリフ一行はユーフラテス川を渡った後、モンゴル軍に殺害された[57][58]

即位から3年の間、バイバルスは軍備の強化に力を入れ、陸海軍の再編、城砦の修築が実施された[59]。バイバルスはモンゴルの侵攻に対抗するため、軍備の強化と並行して神聖ローマ帝国、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)との関係を強化した[60]ルーム・セルジューク朝のスルターン・カイカーウス2世は、自国の共同統治者であり政敵でもある弟のクルチ・アルスラーン4世を打倒するため、バイバルスに国土の半分の割譲と引き換えの援助を願い出た[61]。エジプトの反乱、シリアに残存するアイユーブ王族、モンゴル軍に対処するため、バイバルスは中東の十字軍国家に対しては消極的な態度を取っていた[59]

イスラームの信者であるベルケが治めるモンゴル系国家のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)との同盟は、バイバルスの外交政策で最も効果的なものだった[60]。1261年/62年、200人のモンゴル人騎兵が家族を伴ってエジプトに亡命する事件が起きる[62][63]。バイバルスは彼らを丁重に扱い、住居、官職、イクターを与えた。好意的な態度のため、翌年にも移住者がエジプトに到着し、バイバルスの治世に3,000人のモンゴル人がエジプト・シリアに移住した[64]。亡命者たちからベルケの情報を聞き取ったバイバルスは、1262年末に彼の元に使節団を派遣する[65]。バイバルスが派遣した使節団と行き違いにベルケから派遣された使節団がエジプトに到着し、イルハン国を建てたフレグに対する軍事同盟の締結が提案された[66]。バイバルスは使節の来訪を喜び、贈物とベルケの改宗を祝福した書簡を携えた返礼の使節を派遣した[67]。そして、カイロ、メッカメディナ、エルサレムの金曜礼拝で読まれるフトバには、バイバルスの名前のすぐ後にベルケの名前が入れられた。

1262年より2年以上にわたってフレグはベルケとの戦争に釘付けにされ(ベルケ・フレグ戦争英語版)、バイバルスは対モンゴル戦の軍備を整えることができた[68]。フレグはベルケとの戦争の間に、1262年/63年キリキア・アルメニア王国の王子ヘトゥムをエジプトに派兵したが、マムルーク軍はヘトゥムの侵入を撃退した。ヘトゥムの侵入と同時期にフレグの元からマムルーク朝の将軍に内通を促す密使が派遣されたが、バイバルスは間諜の報告で密使の動きを把握し、密使を逮捕・処刑することができた[69]。1263年にバイバルスはモンゴルとの内通を口実としてカラクのムギースを処刑し、彼の領地を併合する[70]

十字軍国家との戦争

クラック・デ・シュヴァリエ

フレグの跡を継いでイルハン国のハン(君主)となったアバカが積極的な攻撃を展開できない状況を見て、バイバルスは中東に残存する十字軍国家に目を移す[71][72]。1261年にキリスト教領主たちがバイバルスに和平を申し出、バイバルスは和平と捕虜の解放に同意した[73]。しかし、和平にあたってキリスト教勢力に課した条件は実行されず、バイバルスは報復としてナザレの聖母教会を破壊した[73]。1263年4月末にバイバルスはエルサレムに入城し、キャラバンサライ(隊商宿)の建設、岩のドームの修復を行い、聖地の領有を内外に誇示した[74]

1265年ごろまではマムルーク朝は十字軍国家に対して散発的な攻撃しか行っていなかったが、キプチャク・ハン国、シチリア、ビザンツとの同盟が成立し、十字軍への包囲が強化される[75]。1265年より、バイバルスは十字軍国家との戦争を本格的に開始する[12]1266年聖ヨハネ騎士団の支配下にあるサファドを攻略、戦後バイバルスは助命の約束を破棄し、2,000人に及ぶ騎士団員を処刑する[76]。サファドの城壁には、バイバルスの勝利を記念する言葉が刻まれた。同年10月にキプロス王国からサファド奪回の軍が送られるが、マムルーク軍はキプロス軍を撃退する。

フレグの征西においてモンゴル軍に軍事力を提供していたキリキア・アルメニア王国も、バイバルスの攻撃の対象となった[77]。バイバルスはキリキア・アルメニア王国に従属を促す使者を送るが拒絶され、同年にカラーウーンとハマーのアイユーブ王族アル・マンスールが率いる軍をキリキアに派兵した[71]。アルメニア軍を破ったマムルーク軍はキリキア各地を破壊し、アルメニアの王子レオンを捕虜とした[78]。和平を乞うアルメニア王ヘトゥムに対し、バイバルスは領土の割譲とフレグの元に捕らえられている旧友のシャムスッディーン・ソンコル(「赤毛の」ソンコル)の釈放を和平の条件として突き付けた[79]。バイバルスが出した条件は全て受け入れられ、1267年6月にマムルーク朝とアルメニア王国の間に和平が成立する。

1268年には、ジャッファアンティオキアアンタキヤ)を立て続けに屈服させる。16,000人に達するアンティオキアの守備隊を虐殺し、100,000人の市民を捕虜とした[80]。マムルーク軍によってアンティオキアの町に火が放たれ、町は深刻な被害を被った[80]。翌1269年に書簡を携えたアバカからの使節団がバイバルスの元を訪れた。アバカは書簡の中でバイバルスのクトゥズ殺害を責め、エジプトへの攻撃を宣言したが、バイバルスは自身が民衆に支持されており、かつマムルーク軍はモンゴル軍と戦う準備ができていると答え、使節団を追い返した[81]。1270年にキプロス島に艦隊を派遣するが、航海中に暴風雨に遭って艦船の大部分が沈没した[82] [83]。キプロス王ユーグ2世から艦船の乗組員を捕虜としたことが伝えられるが、バイバルスは暴風雨による偶然の勝利は戦闘での勝利に及ばないと意に介さず[84]、嵐に遭わなければキプロス制服は成功していたと豪語した[85]

キプロス遠征と同じ1270年にルイ9世がエジプトに進軍している情報が届くが、ルイ9世率いる十字軍は目的地を変えてチュニスに上陸し、エジプトに上陸することは無かった(第8回十字軍[82][86]。ルイ9世の進軍を知ったバイバルスはトリポリ伯国の攻撃を中止して軍をエジプトに呼び戻すが、ルイ9世の死を知ると再びシリアに出兵し、難攻不落の城砦であるクラック・デ・シュヴァリエを攻撃する[87]テンプル騎士団が守るサフィタ城を陥落させた後にクラック・デ・シュヴァリエを攻撃するが、城内に籠る騎士団の突撃と、堅牢かつ複雑な城砦の構造はマムルーク軍の行く手を阻んだ[87]1271年4月8日、バイバルスが出した偽のトリポリ伯の降伏命令を受け取った城内の騎士団員はトリポリに退去し、クラック・デ・シュヴァリエを陥落させた[88]

一連の十字軍との戦闘でバイバルスは背信行為に対する非難と勝利への称賛を受け[75]、中東のキリスト教徒はバイバルスを「カエサルのごとき英雄、ネロのごとき暴君」と恐れた[89]。十字軍に勝利を収めたバイバルスは、投降したキリスト教徒に首に折れた十字架をかけ、逆さにした軍旗を持たせてカイロに凱旋した[90]。十字軍が使用できないように、占領した多くの都市を徹底的に破壊したが、内陸部の重要な拠点であるサファドは補修し、再使用した[91]。軍事作戦の過程でバイバルスはアッコンのエルサレム王国政府を無視し、各都市のキリスト教徒領主と個別に休戦条約を結んだ[92]。一連のバイバルスの進攻に対するキリスト教勢力からの反撃はごく軽微なものであり、重要と言える野戦は発生しなかった[76]。バイバルスがキリスト教勢力から収めた勝利は、カラーウーン、アシュラフ・ハリールの治世に達成される十字軍国家掃討の基盤を作りあげた[10]

また、バイバルスは十字軍勢力との戦争と並行して、1268年から[82]十字軍勢力から援助を受けている[93] シリア北部の暗殺教団と交渉を行った。教団が十字軍との戦争の生涯となると考え、1270年から3年の間に彼らの勢力を壊滅させた[82]

キリキアへの親征、ヌビアへの派兵

バイバルスの攻撃に進退窮まったキリスト教勢力はイルハン国に助けを求め、1271年にモンゴルとルーム・セルジューク朝の連合軍がシリアに侵入する[94]。モンゴル軍との戦闘の合間にアバカから休戦を提案する使者が派遣されるが、バイバルスはアバカ自身か彼の弟がエジプトに来るよう求め、和平は成立しなかった[95]。1272年10月にモンゴル軍がシリアの辺境部への侵入を企てていることを知ったバイバルスは、ダマスカスから迎撃に向かう。ユーフラテス川を渡ったマムルーク軍の船舶と騎兵隊は国境地帯の要衝ビーラを攻めようとするモンゴル軍に勝利を収め、バイバルスはダマスカスに凱旋した[96]。なおもバイバルスはモンゴル軍の動向に逐一注意し、ビーラでの勝利の後にアバカが進軍を行っている情報を受け取ると入念に軍備を行い、1273年9月にダマスカスに到着したが、モンゴル軍は姿を現さなかった[97]

バイバルスはキリキアへの遠征を考え、アルメニア王国がかつて和平にあたって課した条件を履行せず、マムルーク朝に敵対行為を取っていることを非難した[98]。1275年2月にバイバルスはキリキア遠征に出発し、進軍中にハマーのアイユーブ家、アラブ遊牧民の軍と合流する。スィス(en)、アダナタルススなどのキリキアの都市はマムルーク軍に破壊され、市民は誘拐・殺害される[99]。キリキア遠征でマムルーク軍は多くの戦利品と人質を得たが、戦利品の分配にあたってバイバルスは自分の分け前を取ろうとしなかった[100]

1275年から1276年にかけて、マムルーク朝はスーダンに勢力を広げる。1272年にヌビアのキリスト教国家マクリア英語版の王ダーウドがエジプトに侵入し、アスワンアイザーブ英語版が襲撃を受けた。アイザーブの襲撃はマムルーク朝の交易・巡礼者の往来を妨げる恐れがあり、1273年にバイバルスは小規模の討伐隊を派遣したが、エジプト南部の国境地帯を平定するだけに留まった[101]。ダーウドによってマクリアの王位を奪われた王侯シャクンダがマムルーク朝の支援を求めてカイロを訪れると、1275年冬にバイバルスは大規模な討伐隊をヌビアに派遣した。ダーウドはマムルーク軍によって追放され、ドンゴラで復位したシャクンダはマムルーク朝に臣従と貢納を誓った[101]。1276年に討伐隊はカイロに帰国、ヌビア全土が初めてイスラームの影響下に置かれたが、バイバルスは誓約の履行とシャクンダの動向を怪しみ、再三密偵をヌビアに送り込んだ[102]

最後の遠征

ザーヒリーヤ図書館

1276年7月、内訌に敗れたルーム・セルジューク朝の貴族がダマスカスに亡命し、彼らはバイバルスにルーム・セルジュークへの出兵を進言した[103]。閲兵と軍事訓練を終えた後、1277年2月にバイバルスはエジプトを発つ[103]。バイバルスはルーム・セルジュークのモンゴル支配からの解放を遠征の名目として掲げたため、マムルーク軍は進軍先の住民に危害を加えなかったが、アルメニア人をはじめとするキリスト教徒には厳しい迫害を行った[104]。マムルーク軍はルーム・セルジューク・モンゴルの連合軍が陣を敷くジャイハーン河岸を目指し、アブルスターン平原でモンゴル軍に遭遇する。4月16日に両軍は激突し、マムルーク軍は勝利を収めた(エルビスターン(アブルスターン)の戦い英語版[105]。カイサリア(カイセリ)に入城を果たしたバイバルスは市民から歓待され、セルジューク朝のスルターンとして迎え入れられた[106]。しかし、バイバルスの予想に反してモンゴルの報復を恐れるルーム・セルジュークの領主たちからの支持が得られず、1277年4月28日にバイバルスはカイサリアから撤退した[107]。帰還途上でアブルスターンを通過した時、モンゴル軍が自軍の損害が微少であると信じさせるため、多くの自軍の兵士の遺体を埋めさせた[104]

6月8日[8]にダマスカスに帰国したバイバルスはクミズ(馬乳酒)で祝杯を挙げたが、急に腹痛に襲われ、間もなく没した。死因は過度の飲酒、あるいは毒殺と考えられている[108]。バイバルスの遺体はダマスカスに埋葬されたが、軍の反乱を防ぐために彼の死は秘匿され、カイロに戻る軍列の中にはマムルークたちに護衛されたバイバルスの籠が加えられていた[109]。死から2年後[3]、ダマスカスのサラディンの廟の近くにバイバルスの墓が建てられた[3][110]。バイバルスの遺体は、後世建てられたザーヒリーヤ図書館の敷地内に埋葬されている[14][108]

生前のバイバルスは息子のバラカへのスルターン位の世襲を望んでおり、1262年に配下の将軍たちにバラカへの忠誠を誓わせていた[111]。1275年にバラカと配下第一の有力者であるカラーウーンの娘を婚約させてバラカの立場を堅固にし、さらにバイバルスは死期が近づいたとき、バラカに「自分を軽んじる将軍がいれば、真偽を確かめた後に直ちに処刑しなさい。誰にも相談してはならない」と遺言した[111]。遠征隊がカイロに帰国した時にはじめてバイバルスの死が公表され、19歳になるバラカがスルターンに立てられた[109]。しかし、バラカ、もう1人のバイバルスの息子サラーミシュは相次いで短い治世で廃位され、1279年にカラーウーンがスルターンとなった。

人物像

バイバルスは碧眼[112]、長身で褐色の皮膚を持つ力強い声の持ち主と記録されている[113]。慎重かつ禁欲的な性格で、金銭には執着を示さなかった[3]。活動的で勇敢、暴力的な性格で、配下の将軍からは畏怖されていた[8]。歴史に強い関心を示し、「過去の出来事を聴くことは、どんな体験にも勝るものだ」と述べた[114]ドミニコ会のトリポリのギヨームはバイバルスについて、禁欲的かつ残忍な、秘密主義者と記している[73]。後世に成立した説話文学においては、イスラーム世界に蔓延るズルム(不正)を罰し、アドル(公正)を実現する英雄として描写されている[115]

バイバルスは狩猟ポロを趣味とし[3]、カイロ郊外に競技場を建設した[116]。。バイバルスは馬を乗り継いで1週間でカイロとダマスカスの間を移動した直後、さらに体を動かしてポロを楽しんでいた超人的な体力の持ち主だと伝えられている[117]。バイバルスは遠泳も得意としており、ある時には鎧を付けたままナイル川を泳いでいた[116]

バイバルス、カラーウーンに近侍したイブン・アブドゥルザーヒル(1223年 - 1293年)はバイバルスの伝記を著したが原典は散逸し、甥によって改編されたテキストのみが残っている[118]

政策

伝達網の整備

1261年のカリフの擁立と同じ時期、バイバルスはエジプト・シリア間に駅伝(バリード)制度を整備した[54]。数10kmごとに駅舎が置かれ、街道沿いに住むアラブ遊牧民には駅舎に置かれる馬の提供が義務として課せられた[54]。バリード制度の利用により、700km超の距離がある[12]カイロ・ダマスカス間を4日で移動することが可能になり[10][117][119]、危急の時には伝書鳩で警告が伝えられた[115][120]。この制度によってバイバルスはカイロに留まりながらもモンゴル軍のみならず、各地の総督の動きも察知することができた[8][121]。中央集権制度の確立、アラブ遊牧民への統制を強化した点において、バイバルスが創始したバリード制度は有用であったと言える[121]

建築事業

エルサレムのライオン門

バイバルスはエジプト・シリアの両方で多くの建築事業を実施した。また、港湾施設や溝渠の整備を行っている[4]

代表的な建造物にカイロの大モスク、ザーヒリーヤ学院が挙げられている[122]。後に大モスクはナポレオン・ボナパルトとイギリス占領軍によって、軍事施設として使用される[14]。ほかカイロにおいてはアズハル・モスクの修築、ダマスカスではウマイヤド・モスクの修復などを行った。

バイバルスは自身の紋章であるライオンを、宗教的要素の無い建造物の装飾に用いた[2]。1266年のサファド攻略後にヨルダン川に橋を架け、橋には両脇にライオンの像を配する碑文が置かれた[76]。エルサレムの聖ステファノス門に2頭のライオンの像を飾り、門はライオン門と呼ばれるようになった[123]

バイバルスと信仰

バイバルスは熱心なスンナ派の信仰者であり、篤実な信仰心を持っていた[14]。1266年から1268年にかけてメッカ、メディーナのシャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)の争いに介入し、ヒジャーズに遠征を行った。1269年にバイバルスはメッカ巡礼を果たし、配下の将軍をメッカの総督に任じた[124]

バイバルスはスンナ派四大法学派を公認し、それぞれの学派を代表する4人のカーディー(裁判官)を任命した[115]。孤児、宗教財産、国庫に関する裁判は従来通りシャーフィイー派の大カーディーが担当したため、シャーフィイー派の大カーディーが最高位に立ち、ハンバル派マーリク派ハナフィー派の大カーディーがこれに続く地位に置かれた[125]。スンナ派の四学派が名目上は対等の立場を持ったことでスンナ派全体の権威が向上し、カーディーの任命によってウラマー(法学者)への統制力も強化された[115]。さらに国家の主要な収入源となっていた売春を厳しく取り締まった[3]

1261年にバイバルスはマムルーク朝に亡命したアッバース朝最後のカリフの叔父ムスタンスィル2世をカリフとして擁立した。ムスタンスィル2世を伴ってカイロで華やかな行進を行い、行進にはイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒キリスト教徒も参加していた[56]。カリフの擁立に伴い、北インド、モロッコのイスラーム政権に使節を派遣してフトバにムスタンスィル2世の名前を入れることを要求し、イスラーム世界の各国からカリフの擁立は好意的に受け止められた[126]。バイバルスはマムルーク朝のスルターンがカリフの庇護者となることで、武力でアイユーブ朝を打倒したマムルーク政権の正統性を示す役割を果たしたと考えられている[54]。カリフを自称するハフス朝アル=ムスタンスィルとの関係は悪化するが、対立は深刻なものにはならず、1270年にルイ9世がチュニスに向かった際にバイバルスはハフス朝に支援を申し出ている[127]。ムスタンスィル2世の死後、カイロに亡命したハーキムを新たにカリフとして擁立し、疑似的なカリフ制度が長く続いた[56]。バイバルスはカリフが必要以上に力を持つことを危険視しており[128]、ハーキムにはカイロ市民との接触を禁じていた[129]

輿(マフミル)を乗せたラクダを先頭とする巡礼団をメッカに派遣し、カアバ神殿にかける絹の覆い(キスワ)を贈答する、年に一度の儀礼がバイバルスの治世から開始された[54]カリフの保護と合わせて、バイバルスは聖地の保護者であることを内外に誇示することで、スルターンの権力を正当化する意図を有していたと考えられている[54]。メッカ・エルサレム2つの聖地、巡礼者の保護に注力したバイバルスは、「両聖地の保護者」を自称した[15]

家族

  • フワーリズミーヤ(中央アジアのホラズム地方出身者から構成される軍)の長ベルケ(バラカ)・ハーンの娘[12]
  • モンゴル系のアミール・ノカーイの娘
  • クルド人のシャフラズーリーヤ族の女

バイバルスは妻、女奴隷との間に5人の男子と7人の女子をもうけた[12]

脚注

  1. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、299頁
  2. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、258頁
  3. ^ a b c d e f g 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、221頁
  4. ^ a b c d 小林「バイバルス」『アジア歴史事典』7巻、325頁
  5. ^ a b c 佐藤「バイバルス」『新イスラム事典』、387頁
  6. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、184頁
  7. ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、346頁
  8. ^ a b c d ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、79頁
  9. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、29頁
  10. ^ a b c ヒッティ『アラブの歴史』下、641頁
  11. ^ J.C.ガルサン「エジプトとムスリム世界」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 下巻収録(D.T.ニアヌ編, 同朋舎出版, 1992年9月)、554頁
  12. ^ a b c d e f 佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、161頁
  13. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、212頁
  14. ^ a b c d ヒッティ『アラブの歴史』下、642頁
  15. ^ a b 長谷部「バイバルス」『岩波イスラーム辞典』、740-741頁
  16. ^ a b c d ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、343頁
  17. ^ a b ヒッティ『アラブの歴史』下、640頁
  18. ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、342頁
  19. ^ a b c d e f 佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、159頁
  20. ^ a b 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、185頁
  21. ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、342-343頁
  22. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、186頁
  23. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、191-193頁
  24. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、191-192頁
  25. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、196頁
  26. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、10頁
  27. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、198頁
  28. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、287頁
  29. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、197頁
  30. ^ 佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、159-160頁
  31. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、290-291頁
  32. ^ a b c 佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、160頁
  33. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、18頁
  34. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、292-295頁
  35. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、308頁
  36. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、19頁
  37. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、308-309,333頁
  38. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、201頁
  39. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、326-329頁
  40. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、329-330頁
  41. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、203頁
  42. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、335頁
  43. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、205頁
  44. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、206頁
  45. ^ ヒッティ『アラブの歴史』下、598頁
  46. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、338頁
  47. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、340-341頁
  48. ^ ヒッティ『アラブの歴史』下、639-640頁
  49. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、24頁
  50. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、341頁
  51. ^ a b c d e 大原『エジプト マムルーク王朝』、25頁
  52. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、342頁
  53. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、296-297頁
  54. ^ a b c d e f 佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、112頁
  55. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、358頁
  56. ^ a b c ヒッティ『アラブの歴史』下、643頁
  57. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、359-361頁
  58. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、300頁
  59. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、42頁
  60. ^ a b 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、214頁
  61. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、63-64頁
  62. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、374-375頁
  63. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、310頁
  64. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、311頁
  65. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、375-376頁
  66. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、378-379頁
  67. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、380頁
  68. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、215頁
  69. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、383頁
  70. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、346-347,384頁
  71. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、10頁
  72. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、218頁
  73. ^ a b c エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』(川成洋、太田美智子、太田直也訳, 東洋書林, 2006年11月)、450-454頁
  74. ^ 伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、134頁
  75. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、43頁
  76. ^ a b c ヒッティ『アラブの歴史』下、599頁
  77. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、34頁
  78. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、11-12頁
  79. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、13-14頁
  80. ^ a b ヒッティ『アラブの歴史』下、600頁
  81. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、15-16頁
  82. ^ a b c d 大原『エジプト マムルーク王朝』、44頁
  83. ^ 伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、193-194頁
  84. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、44-45頁
  85. ^ 伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、194頁
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  87. ^ a b 橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫, 講談社, 1994年6月)、239-240
  88. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、233頁
  89. ^ 伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、133頁
  90. ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、344頁
  91. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、304頁
  92. ^ 伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、146頁
  93. ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、345頁
  94. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、48-49頁
  95. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、49-50頁
  96. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、51-52頁
  97. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、53-54頁
  98. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、59頁
  99. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、60頁
  100. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、61頁
  101. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、54頁
  102. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、54-55頁
  103. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、67頁
  104. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、73頁
  105. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、69頁
  106. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、70-71頁
  107. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、72頁
  108. ^ a b 佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、162頁
  109. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、80頁
  110. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、304-305頁
  111. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、61頁
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  115. ^ a b c d 三浦徹「東アラブ世界の変容」『西アジア史 1 アラブ』収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)、309-310頁
  116. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、256頁
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  118. ^ アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』(牟田口義郎、新川雅子訳, ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2001年2月)、478-479頁
  119. ^ 佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、112-113頁
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  126. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、299-300頁
  127. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、151-152頁
  128. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、300-301頁
  129. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、301頁
  130. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、27-28頁

参考文献

  • 伊藤敏樹『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』(講談社選書メチエ, 講談社, 2004年5月)
  • 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
  • 小林元「バイバルス」『アジア歴史事典』7巻収録(平凡社, 1961年)
  • 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』(世界の歴史8, 中央公論社, 1997年9月)
  • 佐藤次高「バイバルス」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 佐藤次高『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』(UPコレクション, 東京大学出版会, 2013年8月)
  • 長谷部史彦「バイバルス」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • 前嶋信次『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』(講談社学術文庫, 講談社, 2002年3月)
  • 牟田口義郎『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』(中公新書, 中央公論社, 2001年6月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』5巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1976年12月)
  • フィリップ.K.ヒッティ『アラブの歴史』下(講談社学術文庫, 講談社, 1983年1月)

登場する作品