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「ぶらじる丸」の版間の差分

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'''ぶらる丸'''、'''ぶら志゛る丸'''(ぶらじるまる、''BRASIL MARU'')は、日本の[[貨客船]]および[[貨物船]][[商船三井]]および前身・関連会社歴史上、3隻が存在する。
'''ぶら志゛る丸/ぶらる丸'''(- まる、''BRASIL MARU/BRAZIL MARU'')は、[[大阪商船]]、[[商船三井客船]]が所有し運航されていた[[貨客船]]および、洞雲汽船および[[パナマ]]のタモウ・ラインが所有し[[商船三井]]の手により運航されてい[[鉄鉱石]]運搬船


大阪商船所属の初代は[[あるぜんちな丸級貨客船]]の二番船として西回り[[南アメリカ|南米]]航路に就航して[[移民]]輸送に活躍したが、[[太平洋戦争]]中に潜水艦の雷撃により劇的な最期を遂げた。大阪商船および商船三井客船所属の二代目も貨客船であり、南米航路に就航したあとは海上パビリオンとして活用された。洞雲汽船およびタモウ・ライン所有の三代目は世界最大級の鉄鉱石運搬船であり、「[[笠戸丸]]」による[[移民]]輸送100周年を期して命名された。
== ぶら志゛る丸 ==
大阪商船(現在の商船三井)が運航。設計者は同社の[[和辻春樹]](工学博士)。僚船の「[[あるぜんちな丸]]」([[あるぜんちな丸級貨客船]])とともに、優美な外観と豪華な内装が評判になったという<ref>[http://www.mopas.co.jp/company/history/episode01.html 大阪商船と三井船舶の創立](会社情報>沿革) - 商船三井客船</ref>。内装設計には建築家[[村野藤吾]]らが参加した。有事の際には[[航空母艦]]への改装が考慮されており、[[優秀船舶建造助成施設]]による補助を受けている。


なお、船名表記については初代が「ぶら'''志゛'''る丸」、二代目が「ぶら'''じ'''る丸」、三代目が[[ポルトガル語]]表記で「BRASIL MARU」である。三代目の表記は初代のアルファベット表記と同じであるが<ref name="moluna">[[#うなばら]]</ref>、二代目は「BRAZIL MARU」と英語表記である<ref>{{Cite web|year=2012|url= http://www.mhi-global.com/discover/graph/feature/no168.html |title= MHI Graph -Read the future- Feature No.168 2012.7 |work= Mitsubishi Heavy Industries, Ltd. Global |publisher= 三菱重工業 |language=英語|accessdate=2013-01-10}}</ref>。
処女航海で[[インド洋]]周りの[[世界一周]]航海を行った後、[[移民]]の輸送などの目的で[[南アメリカ|南米]]航路に就航したが、[[第二次世界大戦]]の激化を受けてわずか3航海をもって[[大連市|大連]]航路に配転され、後に[[大日本帝国海軍|日本海軍]]に徴用された。1942年、航空母艦に改装のため日本へ航海中に[[アメリカ海軍]]の潜水艦[[グリーンリング (潜水艦)|グリーンリング]]の雷撃に遭い沈没した。


=== ぶら志゛る丸の要目 ===
==ぶら志゛る丸==
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
* 総トン数 - 12,752総トン
|colspan="2"|[[Image:Brazil Maru 1942.JPG|300px|]]<br /><small><center>「ぶら志゛る丸」(1942年)</center><small/>
* 全長 - 166.0m
|-
* 幅 - 21.0m
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|船歴
* 最大速力 - 21.4ノット
|-
|起工
|[[1938年]][[10月31日]]<ref name="mn558559">[[#創業百年の長崎造船所]] pp.558-559</ref>
|-
|進水
|[[1939年]][[8月2日]]<ref name="mn558559"/>
|-
|竣工
|[[1939年]][[12月23日]]<ref name="mn558559"/>
|-
|その後
|[[1942年]][[8月5日]]に沈没
|-
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|主要目
|-
| style="white-space:nowrap;" |総トン数
|12,752 [[トン]]<ref name="kisen">[[#日本汽船名簿・ぶら志゛る丸]]</ref>
|-
|載貨重量トン数
|8,109 トン<ref name="kisen"/>
|-
|全長
|155.0 m<ref name="jpp">[[#日本の客船1]] p.76</ref>
|-
|垂線間長
|155.0 m<ref name="kisen"/>
|-
|型幅
|21.0 m<ref name="kisen"/>
|-
|型深
|12.6 m<ref name="kisen"/>
|-
|吃水
|(満載平均)8.793 m<ref name="kisen"/><br/>(空艙平均)5.557 m<ref name="kisen"/>
|-
|主機
|三菱MS型11気筒[[ディーゼルエンジン|ディーゼル機関]] 2基2軸<ref name="kisen"/>
|-
|出力
|16,500 [[馬力]](計画)<ref name="kisen"/><br/>17,963 馬力(最大)<ref name="kisen"/>
|-
|航海速力
|18 [[ノット]]<ref name="kisen"/>
|-
|最高速力
|21.4 ノット<ref name="kisen"/>
|-
|船客定員
|'''竣工時'''<ref name="jpp"/><br/>一等:101名<br/>特別三等:130名<br/>三等:670名<hr/>'''1941年'''<ref name="kisen"/><br/>一等:101名<br/>三等:792名
|-
|乗員
|193名<ref name="kisen"/>
|}


===概要===
=== ぶら志゛る丸の沿革 ===
「ぶら志゛る丸」は[[三菱重工業長崎造船所|三菱長崎造船所]]で[[1938年]](昭和13年)10月15日に起工し[[1939年]](昭和14年)8月2日に進水、12月23日に竣工した。
* [[1939年]]12月 - 竣工。
* [[1941年]]9月4日 - 日本海軍に徴用。
* [[1942年]]8月5日 - [[チューク諸島]]・トラック島沖でアメリカ潜水艦の雷撃により沈没。


基本的な仕様は姉妹船「[[あるぜんちな丸#あるぜんちな丸・初代|あるぜんちな丸]]」とほぼ同一であり、船内装飾も「あるぜんちな丸」と同様に日本趣味に統一されたものとなったが、一等食堂壁面は染織家[[山鹿清華]]が手掛けた総[[絹|絹糸]]織の「手織綿」で彩られ<ref>[[#大朝391002]]</ref>、「[[日光市|日光]]」、「[[鎌倉]]」、「[[宮島]]」と日本の観光地の名前が付けられたスイートルームや特別室が配された<ref name="n200437">[[#野間 (2004)]] p.37</ref>。また、一等ラウンジの天井部分は、「あるぜんちな丸」とは違ってビームがむき出しのまま間接照明が配された形となった。これは設計担当の大阪商船工務部長の[[和辻春樹]]の発想であり、和辻曰く「ビームは船特有の持ち味だから、むしろ、あからさまに出して効果を出したら」ということとなり、通例では覆い隠すビーム部分に間接照明を配したのである<ref>[[#創業百年の長崎造船所]] pp.266-267</ref>。「世界にも類を見ない試み」<ref>[[#創業百年の長崎造船所]] p.267</ref>かどうかはさておいても、装飾面においては「あるぜんちな丸」とは決定的に異なる特徴となった。
== ぶらじる丸 ==
大阪商船(のち、日本移住船(現在の[[商船三井客船]]))が運航。移民の輸送などの目的で南米航路に就航した後、同航路からの撤退とともに引退。[[三重県]][[鳥羽市]]に係船され、ブラジル展示館やレストラン、おみやげ店が入居する海上パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」となった。


[[1940年]](昭和15年)1月11日、「ぶら志゛る丸」は処女航海で[[横浜港]]を出港して処女航海の途に就く。しかし、「あるぜんちな丸」の処女航海中に勃発した[[第二次世界大戦]]の影響もあり、3航海を終えた時点で西回り南米航路からは撤退し、[[大阪市|大阪]][[大連市|大連]]線(大連航路)に移されたが<ref name="n200437"/><ref>[[#商船八十年史]] p.349</ref>、大連航路での活躍期間も短く、[[1941年]](昭和16年)9月4日付で[[大日本帝国海軍|日本海軍]]に徴傭される<ref name="toku">[[#特設原簿]] p.120</ref>。当初は一般徴傭船として[[チューク諸島|トラック諸島]]、[[サイパン島]]、[[クェゼリン環礁]]などへの輸送任務に従事<ref name="n200437"/>。徴傭船になったあと、特別室「鎌倉」と「宮島」が霊安室に変身した<ref name="n200438">[[#野間 (2004)]] p.38</ref>。次いで[[1942年]](昭和17年)5月1日付で特設運送船に入籍<ref name="toku"/>。入籍後、「ぶら志゛る丸」は「あるぜんちな丸」とともに第二連合特別陸戦隊([[大田実]]大佐)指揮下の呉第五特別陸戦隊を乗せ、「[[ミッドウェー島|ミッドウェー島(MI)]]」まで輸送することとなった<ref>[[#あるぜんちな丸1705]] p.3</ref>。
[[1996年]]1月に同パビリオンが営業不振で閉館後、解体のため[[上海市|上海]]([[中華人民共和国]])へと曳航されたが、現在は[[広東省]][[湛江市]]にて海上パビリオン「湛江号海上城市」として利用されており、アミューズメント施設やレストランが入居するが、外装や操舵室はそのまま残されている<ref>「湛江で余生を送る旧「ぶらじる丸」の現況」『[[世界の艦船]]』第696集 海人社 [[2008年]]</ref>。


5月28日、「ぶら志゛る丸」は[[第二水雷戦隊]]([[田中頼三]]少将)などの護衛の下にサイパン島を出撃して、一路ミッドウェー島に向かう<ref>[[#あるぜんちな丸1705]] p.5</ref>。しかし、攻略部隊は6月4日になって[[B-17 (航空機)|B-17]]や[[PBY (航空機)|PBY カタリナ]]の雷爆撃を受け<ref>[[#あるぜんちな丸戦闘詳報]] p.36</ref>、翌6月5日には[[ミッドウェー海戦]]が生起して[[第一航空艦隊]]([[南雲忠一]]中将)が壊滅し、作戦が中止になったため攻略部隊も反転せざるを得なかった<ref>[[#あるぜんちな丸戦闘詳報]] p.38</ref>。6月13日、「ぶら志゛る丸」は[[グアム|大宮島(グアム)]]に帰投<ref>[[#あるぜんちな丸戦闘詳報]] p.40</ref>。間を置かず[[アリューシャン方面の戦い]]に投入された「あるぜんちな丸」とは違い<ref>[[#野間 (2004)]] pp.584-585</ref>、「ぶら志゛る丸」は[[横須賀市|横須賀]]に向かい、7月4日に到着<ref name="n200438"/>。7月18日には[[ソロモン諸島|ソロモン方面]]への航空資材と人員の輸送のため[[大阪市|大阪]]と[[釜山広域市|釜山]]に寄港したのちに[[ラバウル]]に向かったが、途中で[[航空母艦]]に改装されることが決まり、輸送任務は打ち切られトラックで待機となった<ref name="n200438"/>。
=== ぶらじる丸の要目 ===
* 総トン数 - 10,101総トン
* 全長 - 156.0m
* 全幅 - 19.6m
* 旅客定員 - 1等:12人、2等:68人、3等:902人
* 建造 - [[三菱重工業|新三菱重工業]][[三菱重工業神戸造船所|神戸造船所]]


===沈没===
=== ぶらじる丸の沿革 ===
8月4日14時、「ぶら志゛る丸」は便乗者240名を乗せてトラックを出港し、北水道を通過して横須賀へ向かった<ref name="k42">[[#駒宮 (1987)]] p.42</ref><ref name="n200439">[[#野間 (2004)]] p.39</ref>。しかし、出港後7時間足らずの20時50分ごろ、{{coor dm|08|50|N|151|04|E|}}の推定地点を航行中、船体に衝撃を受ける<ref name="k42"/>。そのころ、トラック沖で哨戒にあたっていたアメリカ潜水艦「[[グリーンリング (潜水艦)|グリーンリング]]」 (''{{lang|en|USS Greenling, SS-213}}'') は、{{coor dm|08|43|N|151|03|E|}}の推定地点で針路338度、推定速度16ノットから18ノットで航行する「ぶら志゛る丸」を発見しており、浮上攻撃で艦尾発射管から魚雷を4本発射したが、すべて外れたことを確認<ref>[[#SS-213, USS GREENLING, Part 1]] p.51,63</ref>。「グリーンリング」では「命中せず」と判定したものの、実際には不発魚雷が当たっており、「ぶら志゛る丸」では防水扉を閉鎖した上で速力を上げ、警戒を厳重にした<ref name="n200439"/>。「グリーンリング」は一度は振り切られるも、翌8月5日未明に「ぶら志゛る丸」を再び発見し、{{coor dm|09|51|N|150|46|E|}}の推定地点で魚雷を3本発射<ref>[[#SS-213, USS GREENLING, Part 1]] p.51</ref>。魚雷は2本が「ぶら志゛る丸」に命中したことが確認され、「ぶら志゛る丸」は機関室が使用不能となって左舷へ傾斜する<ref name="k42"/>。やがて船首が45度の角度で持ち上がりはじめ、「ぶら志゛る丸」の大野仁助船長がブリッジに立って三度「天皇陛下万歳」を高唱して万歳をしたあと間もなく海中に没した<ref name="n200439"/>。
* [[1954年]]7月10日 - 竣工。
* [[1963年]]9月30日 - 日本移住船に移籍。
* [[1965年]]8月30日 - 船内改装が完成。
* [[1971年]] - 移民船としての運航終了(最後の「移民船」<ref>船による南米移民の最後は、1973年に[[にっぽん丸]]([[あるぜんちな丸]]を改装)による世界一周クルーズを利用した移民285名である。</ref>として、移民109名を輸送した)。
* [[1974年]]7月1日 - 三重県鳥羽市に係留され、海上パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」として開館。
* [[1996年]]2月 - 同パビリオン閉館後、解体のため中国に曳航。
* [[1997年]] - 中国の「湛江海上城市旅遊娯楽」が買収し広東省湛江市に係留<ref>買収および係留の時期は不明。</ref>。海上パビリオン「湛江号海上城市」として開館<ref>[http://www.asahi.com/international/update/0127/TKY200901270041.html ぶらじる丸、生きてた 解体の予定が…中国で観光施設に] - 朝日新聞(2009年1月27日付、2009年3月14日閲覧)</ref>。


「ぶら志゛る丸」の救命ボートは、辛うじて第17号乙艇、第18号乙艇、第19号乙艇と第7号カッターのみが海上に降ろすことが出来、第17号乙艇には乗員53名、第18号乙艇と第19号乙艇には乗員52名、そして第7号カッターには乗員44名が乗艇し、このうち第7号カッターは決死隊として早期救助を求めるべく別行動をとることとされた<ref name="k43">[[#駒宮 (1987)]] p.43</ref>。しかし、4艇が集結していたその時、攻撃を終えて捜索中だった「グリーンリング」が接近し、第19号乙艇乗艇の乗員1名を[[捕虜]]とした<ref name="n200439"/><ref name="k43"/><ref name="uss52">[[#SS-213, USS GREENLING, Part 1]] p.52</ref>。「グリーンリング」はこの捕虜を尋問し、撃沈したのが「ぶら志゛る丸」であることを確認した<ref name="uss52"/>。4艇の運命はさまざまではあったが、結果的にはいずれも救助された。しかし、その漂流日数はいずれも10日以上で、第19号乙艇が10日、第7号カッターは11日、第18号乙艇は20日、そして第17号乙艇は実に25日間も漂流し続けて救助を待ちわびたのであった。
== BRASIL MARU ==
商船三井が運航。世界最大級の[[鉄鉱石]]運搬船である。商船三井が[[新日本製鐵]]と22年半にわたる長期契約を締結し、同社の製鉄所向けの鉄鉱石をブラジルなどから運搬している<ref>[http://www.mes.co.jp/press/2007/20071207.html 鉱石運搬船「BRASIL MARU(ぶらじる丸)」引き渡し](プレスリリース) - 三井造船(2007年12月7日)</ref><ref>[http://www.nsc.co.jp/CGI/news/whatsnew_detail.cgi?section=0&seq=00010886 世界最大級の鉄鉱石専用輸送船「BRASIL MARU」が竣工] - 新日本製鐵(2007年12月11日)</ref>。


別行動の第7号カッターを先発させて、残る3艇は櫂をマスト代わりに、衣類を帆代わりにして帆走を開始する<ref>[[#駒宮 (1987)]] p.44</ref>。また、乗員のうち3名は便乗して漂流していた4名の女性タイピストに席を譲り、自らは海中に消えていった<ref name="n200440">[[#野間 (2004)]] p.40</ref>。やがて第7号カッターは8月15日に{{coor dm|08|31|N|149|16|E|}}の地点で特設砲艦「第二号長安丸」([[東亜海運]]、2,631トン)に発見されて救助され、第19号乙艇は8月16日にナモヌイト環礁オノー島に到達し、乗艇者は後刻トラックに帰還<ref name="k48">[[#駒宮 (1987)]] p.48</ref>。残る第17号乙艇と第18号乙艇は依然として漂流を続けていたが、8月16日に分離してしまった<ref name="k45">[[#駒宮 (1987)]] p.45</ref>。度重なる[[スコール]]の襲来に悩まされ、また発見した航空機も期待通りに艇を見つけてくれることなく飛び去る日々が続き、非常用[[乾パン]]も乏しくなって[[アホウドリ]]を喰らう状況となったが、艇の生存者は神仏の加護を信じて希望を捨てなかった<ref>[[#駒宮 (1987)]] pp.44-46</ref>。とはいえ次第に生存者の体力は衰えていき、第17号乙艇では8月25日に水夫長が衰弱死して[[水葬]]に付された<ref>[[#駒宮 (1987)]] pp.46-47</ref>。一方の第18号乙艇も3名が亡くなったが、8月24日に{{coor dm|11|16|N|149|26|E|}}の地点で特設駆潜艇「第十拓南丸」([[日本水産]]、343トン)に救助された<ref name="k48"/>。第17号乙艇も8月27日に航空機が近接し、翌8月28日に航空機によって通信筒と食料を投下<ref>[[#駒宮 (1987)]] p.47</ref>。そして、8月29日朝に{{coor dm|11|26|N|147|58|E|}}の地点で、第7号カッターと同じく「第二号長安丸」に救助された<ref>[[#駒宮 (1987)]] pp.47-48</ref>。
2007年度の[[シップ・オブ・ザ・イヤー]]([[日本船舶海洋工学会]])を受賞<ref>[http://www.mes.co.jp/press/2008/20080725.html 当社建造「BRASIL MARU(ぶらじる丸)」「Ship of the Year 2007」受賞](プレスリリース) - 三井造船(2008年7月25日)</ref>。


「ぶら志゛る丸」は昭和17年9月15日に除籍・解傭された<ref name="toku"/>。
=== BRASIL MARUの要目 ===
* 総トン数 - 160,774総トン
* 全長 - 340.0m
* 長さ - 325.00m
* 幅 - 60.00m
* 深さ - 28.15m
* 喫水 - 21.13m
* 載貨重量トン数 - 327,180トン
* 主機関 - 三井-MAN B&W ディーゼル機関 7S80MC-C 1基
* 連続最大出力 - 23,640kw×66回転/分
* 速力 - 15.0ノット
* 最大搭載人員 - 30人
* 船籍 - パナマ
* 建造 - [[三井造船]]千葉造船所


=== BRASIL MARUの沿革 ===
===エピソード===
* [[ロイ=ナムル島|ルオット]]停泊中、第六戦隊([[五藤存知]]少将)がルオットに入泊してきた際、第六戦隊側から「ぶら志゛る丸」に対し、「貴船にパンを貰いに行く」と信号を送った。これに対して「ぶら志゛る丸」は「もう客船でないのでパンはない」と返事したところ、「貴船は客船だから是が非でも焼いて欲しい」と無理難題を吹っ掛けられた。「ぶら志゛る丸」は船内から小麦粉とパン焼き器を探し出し、第六戦隊からの難題に応えた<ref name="n200438"/>。
* [[2007年]]12月7日 - 竣工。
*徴傭されてからの「ぶら志゛る丸」は、右上の画像のように煙突は戦時塗装で塗りつぶしたものの、船体のほとんどは平時塗装の面影を残していた。これに関しては、大阪商船出身の海事史家である野間恒は「平時塗装のまま」としている<ref name="n200438"/>。一方、艦艇研究家の岩重多四郎によれば、平時塗装のままではなくグレー系塗料を薄く塗っている、としている<ref>[[#岩重]]</ref>。画像の撮影時期については、野間は昭和17年3月末としている<ref name="n200438"/>。
*万歳三唱を唱えて「ぶら志゛る丸」と運命を共にした大野は「仏の仁助」とのニックネームがつけられるほど温厚な人物であったが、釜山からトラックに回航したあと、到着の報告のためトラックの第四根拠地司令部に赴いた。しかし、司令官がいなかった。大野が司令官の居場所を幕僚に問いただしたところ、司令官は遊びに出ていたという。「仏」大野はこれを聞いていつもの温厚さとは裏腹に憤激し、周囲に自分がトラックまでの航海でトイレ以外ブリッジから離れず任務を遂行したことを挙げたあと司令官の「怠慢」をなじり、「帝国海軍が日本を滅ぼすぞ」と言い捨てた<ref>[[#野間 (2004)]] pp.38-39</ref>。

===ギャラリー===
{{ external media | align = right | width = 250 | image1 = [http://www.blogmercante.com/wp-uploads/2011/11/brasil-maru-1939.jpg 「ぶら志゛る丸」のカラー写真] }}
<gallery>
Image:Brazil Maru 1939 Lounge 1st Class.JPG|一等ラウンジ
Image:Brazil Maru 1939 Dining Room 1st Class.JPG|一等食堂
</gallery>

==ぶらじる丸==
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
|colspan="2"|
|-
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|船歴
|-
|起工
|[[1953年]][[10月27日]]<ref name="smk50f45">[[#新三菱神戸五十年史]] 附p.45</ref>
|-
|進水
|[[1954年]][[4月6日]]<ref name="smk50f45"/>
|-
|竣工
|[[1954年]][[7月10日]]<ref name="smk50f45"/>
|-
|その後
|[[1974年]]に引退、会場パビリオンに転用<br/>[[1996年]]に中国企業に売却
|-
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|主要目
|-
| style="white-space:nowrap;" |総トン数
|10,100 トン<ref name="smk50f45"/>
|-
|載貨重量トン数
|
|-
|全長
|
|-
|垂線間長
|145.0 m<ref name="smk50f45"/>
|-
|型幅
|19.60 m<ref name="smk50f45"/>
|-
|型深
|11.90 m<ref name="smk50f45"/>
|-
|吃水
|
|-
|主機
|三菱神戸スルザー型 ディーゼル機関 1基1軸<ref name="smk50f45"/><ref name="smk50145">[[#新三菱神戸五十年史]] p.145</ref>
|-
|出力
|9,000[[馬力]](計画)<ref name="smk50f45"/>
|-
|航海速力
|
|-
|最高速力
|20.312 ノット<ref name="smk50f45"/>
|-
|船客定員<ref name="smk50145"/>
|一等:12名<br/>二等:68名<br/>三等:902名
|-
|乗員
|
|}
第二次世界大戦後、日本の海運業界および造船業界は[[計画造船]]によって再建が進められた。他方、大阪商船は[[1950年]](昭和25年)11月に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の許可の下に南米航路を貨物船のみで再開しており<ref name="osk80180">[[#商船八十年史]] p.180</ref>、2年後の[[1952年]](昭和27年)4月28日の[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発効を契機として、南米移民が国策として復活することとなった<ref>[[#新三菱神戸五十年史]] p.143</ref>。南米移民輸送を「歴史的大任」と自認していた大阪商船は、再び移民船を差し立てることを計画し「[[さんとす丸#さんとす丸・二代|さんとす丸]]」(8,280トン)など3隻を就航させるが、「さんとす丸」以下の就航船はもとが貨物船で、貨客船への転換が決まってから特別三等船室を急遽増設したため<ref>{{Cite web|url = http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa4/showa4_route_nanbei.htm#osk |title= 南米航路就航船舶 - 海運集約以前 大阪商船|work=なつかしい日本の汽船|publisher=長澤文雄|language=日本語|accessdate=2013-01-10}}</ref>、貨客船とはいっても船客設備は所詮は「付け足し」であった。大阪商船では本格的な移民客船の計画を構想していたが、[[1954年]](昭和29年)度第9次計画造船で貨客船が計画され、大阪商船に割り当てられることとなった。これが、二代目の「ぶらじる丸」である<ref name="smk50145"/>。

二代目「ぶらじる丸」は[[三菱重工業神戸造船所|新三菱重工業神戸造船所]]で[[1953年]](昭和28年)10月27日に起工し昭和29年4月6日に進水、7月10日に竣工した。「さんとす丸」に続いて平甲板型の船型を持っていたが、三等客室に充てられた甲板室全体と船首楼は切り離されていた<ref name="smk50145"/>。、最上甲板に一等船室、食堂と喫煙室が配され、上甲板に特別三等船室と食堂、エントランスを配した<ref name="smk50145"/>。[[海上における人命の安全のための国際条約|1948年のSOLAS条約]]に適合した安全確保の設備も完備していた。竣工後まもなく、「ぶらじる丸」はブラジル移住者603名とその他船客293名を乗せて[[神戸港]]を出港し、処女航海の途に就く<ref>[[#商船八十年史]] p.354</ref>。タイミングよく[[外務省]]に移民局が開設されて移民輸送は華やかに復活するはずであったが、不十分な施策ゆえに移民の数は伸び悩み、予定されていた「ぶらじる丸」の姉妹船建造計画は一時棚上げされた<ref>[[#商船八十年史]] pp.354-355</ref>。やがて「さんとす丸」の大改装や二代目「[[あるぜんちな丸#あるぜんちな丸・二代|あるぜんちな丸]]」(10,863トン)の竣工で大阪商船の移民船隊は5隻となり、[[ホノルル]]への寄港の開始や往航での工業製品の輸送、復航での鉱物や農産物の輸送で一時的には好調を保ったが、「あるぜんちな丸」就航の翌[[1959年]](昭和34年)以降は、日本において[[高度経済成長]]期(第一次)に差し掛かったことや受入国側の状況の変化と、それにともなう移民の数の減少などで移民輸送は衰退の一途をたどる<ref>[[#野間 (1993)]] p.283</ref>。

折からの[[海運集約]]との関係もあって[[運輸省]]から移住船部門を切り離して新会社を設立するよう催促され、[[1963年]](昭和38年)に日本移住船(現:[[商船三井客船]])が設立され、「ぶらじる丸」を含む5隻の移住船は新会社に移籍した上で、大阪商船の裸用船として南米航路に就航し続けた<ref>[[#商船八十年史]] p.222,345</ref>。しかし、[[1964年]](昭和39年)の[[東京オリンピック]]を経て移民の退潮は一層大きくなって年間1,000名を下回るようになり、「ぶらじる丸」は[[1965年]](昭和40年)8月に三菱神戸造船所で船客定員半減に合わせた改装を行った<ref name="naga">{{Cite web|url = http://homepage3.nifty.com/jpnships/company/OSK_sengo_list2.htm |title= 大阪商船の所有船舶 海運再建期|work=なつかしい日本の汽船|publisher=長澤文雄|language=日本語|accessdate=2013-01-10}}</ref>。また、「あるぜんちな丸」ともども航海回数も年3回と削減された<ref>[[#野間 (1993)]] pp.284-285</ref>。運航形態そのものも[[クルーズ客船]]のはしりのような感じとなって移民から大きく離れていくこととなったが依然として収入は上がらず、親会社の[[商船三井|大阪商船三井船舶]]に用船に出されて船客スペースのみを商船三井客船が販売するという有様であった<ref>[[#野間 (1993)]] p.285</ref>。やがて、第1回「日中青年友好の船」としての航海を最後に、[[1973年]](昭和48年)9月限りで引退<ref>[[#野間 (1993)]] p.286</ref>。

引退した「ぶらじる丸」は[[1974年]](昭和49年)7月1日から[[三重県]][[鳥羽市]]に係船され、ブラジル展示館やレストラン、おみやげ店が入居する海上パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」となった<ref name="naga"/>。その後、[[1996年]](平成8年)1月に同パビリオンが営業不振で閉館後、1月20日に「お別れ会」が開かれた<ref>{{Cite web|url = http://www.geocities.jp/funamushi21/log/96/log9601.html |title= ぶらじる丸 お別れ会 1996年1月20日(鳥羽)|work=ふなむしのページ|publisher=ふなむし|language=日本語|accessdate=2013-01-10}}</ref>。解体のため[[上海市|上海]]へと曳航されたが、[[広東省]][[湛江市]]に本拠を持つ「湛江海上城市旅遊娯楽」の張華生会長が買収し、湛江市に係留の上、海上パビリオン「湛江号海上城市」として利用されており、アミューズメント施設やレストランが入居するが、外装や操舵室はそのまま残されている<ref>「湛江で余生を送る旧「ぶらじる丸」の現況」『[[世界の艦船]]』第696集 海人社 [[2008年]]</ref><ref name="wada">{{Cite web|url = http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1345 |title= 生きて残っていたぶらじる丸!!|work=私たちの40年!!あるぜんちな丸同船者寄稿集|publisher=和田好司|language=日本語|accessdate=2013-01-10}}</ref>。

<br style="clear:both"/>

==BRASIL MARU==
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
|colspan="2"|
|-
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|船歴
|-
|起工
|
|-
|進水
|
|-
|竣工
|[[2007年]][[12月7日]]
|-
|その後
|(現役)
|-
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|主要目
|-
| style="white-space:nowrap;" |総トン数
|160,774 トン<ref name="mes">[[#三井造船技報]]</ref>
|-
|載貨重量トン数
|327,180 トン<ref name="mes"/>
|-
|全長
|340.0 m<ref name="mes"/>
|-
|垂線間長
|325.0 m<ref name="mes"/>
|-
|型幅
|60.0 m<ref name="mes"/>
|-
|型深
|28.15 m<ref name="mes"/>
|-
|吃水
|21.13 m<ref name="mes"/>
|-
|主機
|三井-MAN B&W型 7S80MC-C ディーゼル機関 1基1軸<ref name="mes"/>
|-
|出力
|23,640kW × 66回転/分<ref name="mes"/>
|-
|航海速力
|15.0 ノット<ref name="mes"/>
|-
|最高速力
|
|-
|乗員
|
|}

===概要===
[[新日本製鐵|新日本製鐵(新日鐵)]](当時)の製造拠点のうち、[[新日鐵住金大分製鐵所|大分製鐵所]]は喫水の深い船でも入港が可能というメリットがあり、このことから商船三井側が新日鐵からの「大分製鐵所に横付けが可能な30万トンクラスの運搬船を使用して原料調達を行いたい」という要望を受け入れて建造を決断した<ref name="moluna"/>。しかし、30万トンクラスもの船舶の運用方法では入港地が限られて従来の三国間輸送は難しく、日本(大分製鐵所)とブラジルの{{仮リンク|ポンダ・ダ・マディラ|en|Ponta da Madeira}}を直接運航することとなった<ref name="moluna"/>。シャトル輸送の形態をとることに関しては異論もあったが、「新しいオペレーションを構築する」という意図のもとに理解が得られた<ref name="moluna"/>。船名は、日本とブラジル間のみをシャトル輸送することと、2008年が「笠戸丸」による移民輸送100周年にあたっていたことから「BRASIL MARU」と命名されたが、その用途から正式に命名されるまでに商船三井内部で「ぶらじる丸」と呼ばれていた<ref name="moluna"/><ref name="molp">[[#商船三井プレスリリース]]</ref>。船主は洞雲汽船とパナマのタモウ・ラインであり、船籍はパナマに置かれている<ref name="mes"/><ref name="moluna"/>。商船三井は運航を担当している。

「BRASIL MARU」は[[三井造船]]千葉事業所で建造され、2007年12月7日に竣工<ref name="mes"/>。同型船には「TUBARAO MARU(つばろん丸)」がある<ref>{{Cite web|url= http://www.mol.co.jp/unabara/syunkou_0809.html |title= 新造船 世界最大級の鉄鉱石専用船「TUBARAO MARU」竣工 |work= うなばら 2008年9月号 |publisher= 商船三井 |language=日本語|accessdate=2013-01-10}}</ref>。竣工後は新日鐵と20年超にわたる長期契約を締結し、同社の製鉄所向けの鉄鉱石をブラジルから運搬している<ref name="moluna"/>。2012年5月には、留学生として「ぶらじる丸」でブラジルに渡った経験がある[[UCC上島珈琲]]の上島達司会長が[[新日鐵住金君津製鐵所|君津製鐵所]]で荷役中の「BRASIL MARU」を訪問した<ref>{{Cite web|url= http://www.mol.co.jp/unabara/1207/1207n_topics.html |title= 我が心の「ぶらじる丸」 |work= うなばら No.551 |publisher= 商船三井 |language=日本語|accessdate=2013-01-10}}</ref>。

===特徴===
構想の時点から新日鐵が深くかかわっているが、建造でも新日鐵の協力で日本の造船業界では初めて疲労強度改善処理(UIT/Ultrasonic Impact Treatment)を導入し、鉄鉱石が主貨物であることから浮力に余裕を持たせた船型を開発して、総体的に船体強度を高めている<ref name="mes"/><ref name="soy">[[#日本船舶海洋工学会]]</ref>。日本とブラジル間のみのシャトル輸送が主ではあるが、船体自体は[[オーストラリア]]への寄港も念頭に置かれた設計となった<ref name="mes"/>。また、環境に配慮した燃料タンク構造やディーゼル機関を導入した<ref name="mes"/>。これらの点が評価され、2007年度の[[日本船舶海洋工学会]]選定「[[シップ・オブ・ザ・イヤー]]」の大型貨物船部門を受賞した<ref name="soy"/>。

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== 関連作品 ==
== 関連作品 ==
* ぶらじる丸最終航路 - 作詞・作曲・唄:[[新井英一]]
* ぶらじる丸最終航路 - 作詞・作曲・唄:[[新井英一]]


== 脚注 ==
==脚注==
{{reflist|2}}
<div class="references-small"><references /></div>


== 関連項目 ==
==参考文献==
=== サイト ===
* {{Cite web|url = http://ww6.enjoy.ne.jp/~iwashige/brazilmaru.htm |title=1/700戦時輸送船模型集・ぶらじる丸|work=Rosebury Yard|publisher=岩重多四郎|language=日本語|accessdate=2013-01-10|ref=岩重}}
* {{Cite web|url = http://www.mol.co.jp/pr-j/2007/j-pr-2695.html |title=世界最大級の鉄鉱石船 船名を“BRASIL MARU(ぶらじる丸)”と内定|work=プレスリリース2007年|publisher=商船三井|language=日本語|accessdate=2013-01-10|ref=商船三井プレスリリース}}
* {{Cite web|url = http://www.mol.co.jp/unabara/project_0803.html |title=新たな歴史の一歩を ~BRASIL MARU~|work=うなばらバックナンバー プロジェクトの舞台|publisher=商船三井|language=日本語|accessdate=2013-01-10|ref=うなばら}}
* {{Cite web|url = http://www.jasnaoe.or.jp/commendation/soy_2007.html |title=Ship of the Year 2007|work=日本船舶海洋工学会 表彰|publisher=日本船舶海洋工学会|language=日本語|accessdate=2013-01-10|ref=日本船舶海洋工学会}}
* {{Cite web |year=2008 |url = http://www.mes.co.jp/mes_technology/research/pdf/193_07.pdf |title=鉱石運搬船 "BRASIL MARU (ぶらじる丸)" |format=PDF |work=三井造船技報 No.193|publisher=三井造船 |accessdate=2013-01-10 |ref=三井造船技報}}

=== 印刷物 ===
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08050081000|title=昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)|page=31|ref=日本汽船名簿・ぶら志゛る丸}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030680800|title=自昭和十七年五月一日至昭和十七年五月三十一日 あるぜんちな丸戦時日誌|pages=1-30|ref=あるぜんちな丸1705}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030680800|title=自昭和十七年五月二十八日至昭和十七年六月十三日 あるぜんちな丸戦闘詳報|pages=31-46|ref=あるぜんちな丸戦闘詳報}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030094900|title=機密MI攻略部隊護衛隊命令第一号 呉鎮守府戦時日誌|pages=30-55|ref=MI攻略部隊 (1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030095000|title=機密MI攻略部隊護衛隊命令第一号 呉鎮守府戦時日誌|pages=1-47|ref=MI攻略部隊 (2)}}
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html 新聞記事文庫](神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
**{{Cite book|和書|author=大阪朝日新聞(1939年10月2日)|title=誇る日本人の工芸 素晴しい手織の錦 新造ぶらじる丸の壁面を飾る 工房の山鹿氏と手織錦 |url = http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071877&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE |ref=大朝391002}}
*{{Cite book|title=SS-213, USS GREENLING, Part 1|url = http://issuu.com/hnsa/docs/ss-213_greenling_part1?mode=a_p |format= issuu|publisher=Historic Naval Ships Association |ref=SS-213, USS GREENLING, Part 1}}

* {{Cite book|和書|author=三菱造船(編)|year=1957|title=創業百年の長崎造船所|publisher=三菱造船|ref=創業百年の長崎造船所}}
* {{Cite book|和書|author=財団法人海上労働協会(編)|year=2007|origyear=1962|title={{small|復刻版}} 日本商船隊戦時遭難史|publisher=財団法人海上労働協会/成山堂書店|isbn=978-4-425-30336-6|ref=戦時遭難史}}
* {{Cite book|和書|author=新三菱重工業神戸造船所五十年史編さん委員会(編)|year=1957|title=新三菱神戸造船所五十年史|publisher=新三菱重工業株式会社神戸造船所|ref=新三菱神戸五十年史}}
* {{Cite book|和書|author=岡田俊雄(編)|year=1966|title=大阪商船株式会社八十年史|publisher=大阪商船三井船舶|ref=商船八十年史}}
* {{Cite book|和書|author=山高五郎|year=1981|title=図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)|publisher=至誠堂|ref=山高}}
* {{Cite book|和書|author=駒宮真七郎|year=1987|title=戦時輸送船団史|publisher=出版協同社|isbn=4-87970-047-9|ref=駒宮 (1987)}}
* {{Cite book|和書|author=野間恒|coauthors=山田廸生|year=1991|title={{small|世界の艦船別冊}} 日本の客船1 {{small|1868~1945}}|publisher=海人社|isbn=4-905551-38-2|ref=日本の客船1}}
* {{Cite book|和書|author=野間恒|year=1993|title=豪華客船の文化史|publisher=NTT出版|isbn=4-87188-210-1|ref=野間 (1993)}}
* {{Cite book|和書|author=野間恒|year=2004|title=商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史|publisher=野間恒(私家版)|ref=野間 (2004)}}
* {{Cite journal|和書|author=林寛司(作表)|coauthors=戦前船舶研究会(資料提供)|year=2004|title=特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿|journal=戦前船舶|issue=104|publisher=戦前船舶研究会|pages=92-240|ref=特設原簿}}
* {{Cite book|和書|author=松井邦夫|year=2006|title=日本商船・船名考|publisher=海文堂出版|isbn=4-303-12330-7|ref=松井 (2006)}}

==関連項目==
* [[あるぜんちな丸]]
* [[あるぜんちな丸]]
* [[移民]]
* [[計画造船]]

==外部リンク==
* {{Cite web|url= http://homepage2.nifty.com/i-museum/19420805brazil/brazil.htm |title=昭和17年・1942年7-12月に喪われた商船・0805ぶらじる丸|work=戦時下に喪われた日本の商船|publisher=三輪祐児|language=日本語|accessdate=2013-01-10}}
* {{Cite web|url= http://www.oct.zaq.ne.jp/machino/50nennmae_ari_nasi/iminsen.htm |title=40年以上前に有って今は無いもの(1) 移民船|work=おじんのホームぺージ|publisher=おじん|language=日本語|accessdate=2013-01-10}}



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2013年2月23日 (土) 13:55時点における版

ぶら志゛る丸/ぶらじる丸(- まる、BRASIL MARU/BRAZIL MARU)とは、大阪商船商船三井客船が所有し運航されていた貨客船および、洞雲汽船およびパナマのタモウ・ラインが所有し商船三井の手により運航されている鉄鉱石運搬船。

大阪商船所属の初代はあるぜんちな丸級貨客船の二番船として西回り南米航路に就航して移民輸送に活躍したが、太平洋戦争中に潜水艦の雷撃により劇的な最期を遂げた。大阪商船および商船三井客船所属の二代目も貨客船であり、南米航路に就航したあとは海上パビリオンとして活用された。洞雲汽船およびタモウ・ライン所有の三代目は世界最大級の鉄鉱石運搬船であり、「笠戸丸」による移民輸送100周年を期して命名された。

なお、船名表記については初代が「ぶら志゛る丸」、二代目が「ぶらる丸」、三代目がポルトガル語表記で「BRASIL MARU」である。三代目の表記は初代のアルファベット表記と同じであるが[1]、二代目は「BRAZIL MARU」と英語表記である[2]

ぶら志゛る丸


「ぶら志゛る丸」(1942年)
船歴
起工 1938年10月31日[3]
進水 1939年8月2日[3]
竣工 1939年12月23日[3]
その後 1942年8月5日に沈没
主要目
総トン数 12,752 トン[4]
載貨重量トン数 8,109 トン[4]
全長 155.0 m[5]
垂線間長 155.0 m[4]
型幅 21.0 m[4]
型深 12.6 m[4]
吃水 (満載平均)8.793 m[4]
(空艙平均)5.557 m[4]
主機 三菱MS型11気筒ディーゼル機関 2基2軸[4]
出力 16,500 馬力(計画)[4]
17,963 馬力(最大)[4]
航海速力 18 ノット[4]
最高速力 21.4 ノット[4]
船客定員 竣工時[5]
一等:101名
特別三等:130名
三等:670名
1941年[4]
一等:101名
三等:792名
乗員 193名[4]

概要

「ぶら志゛る丸」は三菱長崎造船所1938年(昭和13年)10月15日に起工し1939年(昭和14年)8月2日に進水、12月23日に竣工した。

基本的な仕様は姉妹船「あるぜんちな丸」とほぼ同一であり、船内装飾も「あるぜんちな丸」と同様に日本趣味に統一されたものとなったが、一等食堂壁面は染織家山鹿清華が手掛けた総絹糸織の「手織綿」で彩られ[6]、「日光」、「鎌倉」、「宮島」と日本の観光地の名前が付けられたスイートルームや特別室が配された[7]。また、一等ラウンジの天井部分は、「あるぜんちな丸」とは違ってビームがむき出しのまま間接照明が配された形となった。これは設計担当の大阪商船工務部長の和辻春樹の発想であり、和辻曰く「ビームは船特有の持ち味だから、むしろ、あからさまに出して効果を出したら」ということとなり、通例では覆い隠すビーム部分に間接照明を配したのである[8]。「世界にも類を見ない試み」[9]かどうかはさておいても、装飾面においては「あるぜんちな丸」とは決定的に異なる特徴となった。

1940年(昭和15年)1月11日、「ぶら志゛る丸」は処女航海で横浜港を出港して処女航海の途に就く。しかし、「あるぜんちな丸」の処女航海中に勃発した第二次世界大戦の影響もあり、3航海を終えた時点で西回り南米航路からは撤退し、大阪大連線(大連航路)に移されたが[7][10]、大連航路での活躍期間も短く、1941年(昭和16年)9月4日付で日本海軍に徴傭される[11]。当初は一般徴傭船としてトラック諸島サイパン島クェゼリン環礁などへの輸送任務に従事[7]。徴傭船になったあと、特別室「鎌倉」と「宮島」が霊安室に変身した[12]。次いで1942年(昭和17年)5月1日付で特設運送船に入籍[11]。入籍後、「ぶら志゛る丸」は「あるぜんちな丸」とともに第二連合特別陸戦隊(大田実大佐)指揮下の呉第五特別陸戦隊を乗せ、「ミッドウェー島(MI)」まで輸送することとなった[13]

5月28日、「ぶら志゛る丸」は第二水雷戦隊田中頼三少将)などの護衛の下にサイパン島を出撃して、一路ミッドウェー島に向かう[14]。しかし、攻略部隊は6月4日になってB-17PBY カタリナの雷爆撃を受け[15]、翌6月5日にはミッドウェー海戦が生起して第一航空艦隊南雲忠一中将)が壊滅し、作戦が中止になったため攻略部隊も反転せざるを得なかった[16]。6月13日、「ぶら志゛る丸」は大宮島(グアム)に帰投[17]。間を置かずアリューシャン方面の戦いに投入された「あるぜんちな丸」とは違い[18]、「ぶら志゛る丸」は横須賀に向かい、7月4日に到着[12]。7月18日にはソロモン方面への航空資材と人員の輸送のため大阪釜山に寄港したのちにラバウルに向かったが、途中で航空母艦に改装されることが決まり、輸送任務は打ち切られトラックで待機となった[12]

沈没

8月4日14時、「ぶら志゛る丸」は便乗者240名を乗せてトラックを出港し、北水道を通過して横須賀へ向かった[19][20]。しかし、出港後7時間足らずの20時50分ごろ、北緯08度50分 東経151度04分 / 北緯8.833度 東経151.067度 / 8.833; 151.067の推定地点を航行中、船体に衝撃を受ける[19]。そのころ、トラック沖で哨戒にあたっていたアメリカ潜水艦「グリーンリング」 (USS Greenling, SS-213) は、北緯08度43分 東経151度03分 / 北緯8.717度 東経151.050度 / 8.717; 151.050の推定地点で針路338度、推定速度16ノットから18ノットで航行する「ぶら志゛る丸」を発見しており、浮上攻撃で艦尾発射管から魚雷を4本発射したが、すべて外れたことを確認[21]。「グリーンリング」では「命中せず」と判定したものの、実際には不発魚雷が当たっており、「ぶら志゛る丸」では防水扉を閉鎖した上で速力を上げ、警戒を厳重にした[20]。「グリーンリング」は一度は振り切られるも、翌8月5日未明に「ぶら志゛る丸」を再び発見し、北緯09度51分 東経150度46分 / 北緯9.850度 東経150.767度 / 9.850; 150.767の推定地点で魚雷を3本発射[22]。魚雷は2本が「ぶら志゛る丸」に命中したことが確認され、「ぶら志゛る丸」は機関室が使用不能となって左舷へ傾斜する[19]。やがて船首が45度の角度で持ち上がりはじめ、「ぶら志゛る丸」の大野仁助船長がブリッジに立って三度「天皇陛下万歳」を高唱して万歳をしたあと間もなく海中に没した[20]

「ぶら志゛る丸」の救命ボートは、辛うじて第17号乙艇、第18号乙艇、第19号乙艇と第7号カッターのみが海上に降ろすことが出来、第17号乙艇には乗員53名、第18号乙艇と第19号乙艇には乗員52名、そして第7号カッターには乗員44名が乗艇し、このうち第7号カッターは決死隊として早期救助を求めるべく別行動をとることとされた[23]。しかし、4艇が集結していたその時、攻撃を終えて捜索中だった「グリーンリング」が接近し、第19号乙艇乗艇の乗員1名を捕虜とした[20][23][24]。「グリーンリング」はこの捕虜を尋問し、撃沈したのが「ぶら志゛る丸」であることを確認した[24]。4艇の運命はさまざまではあったが、結果的にはいずれも救助された。しかし、その漂流日数はいずれも10日以上で、第19号乙艇が10日、第7号カッターは11日、第18号乙艇は20日、そして第17号乙艇は実に25日間も漂流し続けて救助を待ちわびたのであった。

別行動の第7号カッターを先発させて、残る3艇は櫂をマスト代わりに、衣類を帆代わりにして帆走を開始する[25]。また、乗員のうち3名は便乗して漂流していた4名の女性タイピストに席を譲り、自らは海中に消えていった[26]。やがて第7号カッターは8月15日に北緯08度31分 東経149度16分 / 北緯8.517度 東経149.267度 / 8.517; 149.267の地点で特設砲艦「第二号長安丸」(東亜海運、2,631トン)に発見されて救助され、第19号乙艇は8月16日にナモヌイト環礁オノー島に到達し、乗艇者は後刻トラックに帰還[27]。残る第17号乙艇と第18号乙艇は依然として漂流を続けていたが、8月16日に分離してしまった[28]。度重なるスコールの襲来に悩まされ、また発見した航空機も期待通りに艇を見つけてくれることなく飛び去る日々が続き、非常用乾パンも乏しくなってアホウドリを喰らう状況となったが、艇の生存者は神仏の加護を信じて希望を捨てなかった[29]。とはいえ次第に生存者の体力は衰えていき、第17号乙艇では8月25日に水夫長が衰弱死して水葬に付された[30]。一方の第18号乙艇も3名が亡くなったが、8月24日に北緯11度16分 東経149度26分 / 北緯11.267度 東経149.433度 / 11.267; 149.433の地点で特設駆潜艇「第十拓南丸」(日本水産、343トン)に救助された[27]。第17号乙艇も8月27日に航空機が近接し、翌8月28日に航空機によって通信筒と食料を投下[31]。そして、8月29日朝に北緯11度26分 東経147度58分 / 北緯11.433度 東経147.967度 / 11.433; 147.967の地点で、第7号カッターと同じく「第二号長安丸」に救助された[32]

「ぶら志゛る丸」は昭和17年9月15日に除籍・解傭された[11]

エピソード

  • ルオット停泊中、第六戦隊(五藤存知少将)がルオットに入泊してきた際、第六戦隊側から「ぶら志゛る丸」に対し、「貴船にパンを貰いに行く」と信号を送った。これに対して「ぶら志゛る丸」は「もう客船でないのでパンはない」と返事したところ、「貴船は客船だから是が非でも焼いて欲しい」と無理難題を吹っ掛けられた。「ぶら志゛る丸」は船内から小麦粉とパン焼き器を探し出し、第六戦隊からの難題に応えた[12]
  • 徴傭されてからの「ぶら志゛る丸」は、右上の画像のように煙突は戦時塗装で塗りつぶしたものの、船体のほとんどは平時塗装の面影を残していた。これに関しては、大阪商船出身の海事史家である野間恒は「平時塗装のまま」としている[12]。一方、艦艇研究家の岩重多四郎によれば、平時塗装のままではなくグレー系塗料を薄く塗っている、としている[33]。画像の撮影時期については、野間は昭和17年3月末としている[12]
  • 万歳三唱を唱えて「ぶら志゛る丸」と運命を共にした大野は「仏の仁助」とのニックネームがつけられるほど温厚な人物であったが、釜山からトラックに回航したあと、到着の報告のためトラックの第四根拠地司令部に赴いた。しかし、司令官がいなかった。大野が司令官の居場所を幕僚に問いただしたところ、司令官は遊びに出ていたという。「仏」大野はこれを聞いていつもの温厚さとは裏腹に憤激し、周囲に自分がトラックまでの航海でトイレ以外ブリッジから離れず任務を遂行したことを挙げたあと司令官の「怠慢」をなじり、「帝国海軍が日本を滅ぼすぞ」と言い捨てた[34]

ギャラリー

画像外部リンク
「ぶら志゛る丸」のカラー写真

ぶらじる丸

船歴
起工 1953年10月27日[35]
進水 1954年4月6日[35]
竣工 1954年7月10日[35]
その後 1974年に引退、会場パビリオンに転用
1996年に中国企業に売却
主要目
総トン数 10,100 トン[35]
載貨重量トン数
全長
垂線間長 145.0 m[35]
型幅 19.60 m[35]
型深 11.90 m[35]
吃水
主機 三菱神戸スルザー型 ディーゼル機関 1基1軸[35][36]
出力 9,000馬力(計画)[35]
航海速力
最高速力 20.312 ノット[35]
船客定員[36] 一等:12名
二等:68名
三等:902名
乗員

第二次世界大戦後、日本の海運業界および造船業界は計画造船によって再建が進められた。他方、大阪商船は1950年(昭和25年)11月にGHQの許可の下に南米航路を貨物船のみで再開しており[37]、2年後の1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を契機として、南米移民が国策として復活することとなった[38]。南米移民輸送を「歴史的大任」と自認していた大阪商船は、再び移民船を差し立てることを計画し「さんとす丸」(8,280トン)など3隻を就航させるが、「さんとす丸」以下の就航船はもとが貨物船で、貨客船への転換が決まってから特別三等船室を急遽増設したため[39]、貨客船とはいっても船客設備は所詮は「付け足し」であった。大阪商船では本格的な移民客船の計画を構想していたが、1954年(昭和29年)度第9次計画造船で貨客船が計画され、大阪商船に割り当てられることとなった。これが、二代目の「ぶらじる丸」である[36]

二代目「ぶらじる丸」は新三菱重工業神戸造船所1953年(昭和28年)10月27日に起工し昭和29年4月6日に進水、7月10日に竣工した。「さんとす丸」に続いて平甲板型の船型を持っていたが、三等客室に充てられた甲板室全体と船首楼は切り離されていた[36]。、最上甲板に一等船室、食堂と喫煙室が配され、上甲板に特別三等船室と食堂、エントランスを配した[36]1948年のSOLAS条約に適合した安全確保の設備も完備していた。竣工後まもなく、「ぶらじる丸」はブラジル移住者603名とその他船客293名を乗せて神戸港を出港し、処女航海の途に就く[40]。タイミングよく外務省に移民局が開設されて移民輸送は華やかに復活するはずであったが、不十分な施策ゆえに移民の数は伸び悩み、予定されていた「ぶらじる丸」の姉妹船建造計画は一時棚上げされた[41]。やがて「さんとす丸」の大改装や二代目「あるぜんちな丸」(10,863トン)の竣工で大阪商船の移民船隊は5隻となり、ホノルルへの寄港の開始や往航での工業製品の輸送、復航での鉱物や農産物の輸送で一時的には好調を保ったが、「あるぜんちな丸」就航の翌1959年(昭和34年)以降は、日本において高度経済成長期(第一次)に差し掛かったことや受入国側の状況の変化と、それにともなう移民の数の減少などで移民輸送は衰退の一途をたどる[42]

折からの海運集約との関係もあって運輸省から移住船部門を切り離して新会社を設立するよう催促され、1963年(昭和38年)に日本移住船(現:商船三井客船)が設立され、「ぶらじる丸」を含む5隻の移住船は新会社に移籍した上で、大阪商船の裸用船として南米航路に就航し続けた[43]。しかし、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを経て移民の退潮は一層大きくなって年間1,000名を下回るようになり、「ぶらじる丸」は1965年(昭和40年)8月に三菱神戸造船所で船客定員半減に合わせた改装を行った[44]。また、「あるぜんちな丸」ともども航海回数も年3回と削減された[45]。運航形態そのものもクルーズ客船のはしりのような感じとなって移民から大きく離れていくこととなったが依然として収入は上がらず、親会社の大阪商船三井船舶に用船に出されて船客スペースのみを商船三井客船が販売するという有様であった[46]。やがて、第1回「日中青年友好の船」としての航海を最後に、1973年(昭和48年)9月限りで引退[47]

引退した「ぶらじる丸」は1974年(昭和49年)7月1日から三重県鳥羽市に係船され、ブラジル展示館やレストラン、おみやげ店が入居する海上パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」となった[44]。その後、1996年(平成8年)1月に同パビリオンが営業不振で閉館後、1月20日に「お別れ会」が開かれた[48]。解体のため上海へと曳航されたが、広東省湛江市に本拠を持つ「湛江海上城市旅遊娯楽」の張華生会長が買収し、湛江市に係留の上、海上パビリオン「湛江号海上城市」として利用されており、アミューズメント施設やレストランが入居するが、外装や操舵室はそのまま残されている[49][50]


BRASIL MARU

船歴
起工
進水
竣工 2007年12月7日
その後 (現役)
主要目
総トン数 160,774 トン[51]
載貨重量トン数 327,180 トン[51]
全長 340.0 m[51]
垂線間長 325.0 m[51]
型幅 60.0 m[51]
型深 28.15 m[51]
吃水 21.13 m[51]
主機 三井-MAN B&W型 7S80MC-C ディーゼル機関 1基1軸[51]
出力 23,640kW × 66回転/分[51]
航海速力 15.0 ノット[51]
最高速力
乗員

概要

新日本製鐵(新日鐵)(当時)の製造拠点のうち、大分製鐵所は喫水の深い船でも入港が可能というメリットがあり、このことから商船三井側が新日鐵からの「大分製鐵所に横付けが可能な30万トンクラスの運搬船を使用して原料調達を行いたい」という要望を受け入れて建造を決断した[1]。しかし、30万トンクラスもの船舶の運用方法では入港地が限られて従来の三国間輸送は難しく、日本(大分製鐵所)とブラジルのポンダ・ダ・マディラ英語版を直接運航することとなった[1]。シャトル輸送の形態をとることに関しては異論もあったが、「新しいオペレーションを構築する」という意図のもとに理解が得られた[1]。船名は、日本とブラジル間のみをシャトル輸送することと、2008年が「笠戸丸」による移民輸送100周年にあたっていたことから「BRASIL MARU」と命名されたが、その用途から正式に命名されるまでに商船三井内部で「ぶらじる丸」と呼ばれていた[1][52]。船主は洞雲汽船とパナマのタモウ・ラインであり、船籍はパナマに置かれている[51][1]。商船三井は運航を担当している。

「BRASIL MARU」は三井造船千葉事業所で建造され、2007年12月7日に竣工[51]。同型船には「TUBARAO MARU(つばろん丸)」がある[53]。竣工後は新日鐵と20年超にわたる長期契約を締結し、同社の製鉄所向けの鉄鉱石をブラジルから運搬している[1]。2012年5月には、留学生として「ぶらじる丸」でブラジルに渡った経験があるUCC上島珈琲の上島達司会長が君津製鐵所で荷役中の「BRASIL MARU」を訪問した[54]

特徴

構想の時点から新日鐵が深くかかわっているが、建造でも新日鐵の協力で日本の造船業界では初めて疲労強度改善処理(UIT/Ultrasonic Impact Treatment)を導入し、鉄鉱石が主貨物であることから浮力に余裕を持たせた船型を開発して、総体的に船体強度を高めている[51][55]。日本とブラジル間のみのシャトル輸送が主ではあるが、船体自体はオーストラリアへの寄港も念頭に置かれた設計となった[51]。また、環境に配慮した燃料タンク構造やディーゼル機関を導入した[51]。これらの点が評価され、2007年度の日本船舶海洋工学会選定「シップ・オブ・ザ・イヤー」の大型貨物船部門を受賞した[55]


関連作品

  • ぶらじる丸最終航路 - 作詞・作曲・唄:新井英一

脚注

  1. ^ a b c d e f g #うなばら
  2. ^ MHI Graph -Read the future- Feature No.168 2012.7” (英語). Mitsubishi Heavy Industries, Ltd. Global. 三菱重工業 (2012年). 2013年1月10日閲覧。
  3. ^ a b c #創業百年の長崎造船所 pp.558-559
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n #日本汽船名簿・ぶら志゛る丸
  5. ^ a b #日本の客船1 p.76
  6. ^ #大朝391002
  7. ^ a b c #野間 (2004) p.37
  8. ^ #創業百年の長崎造船所 pp.266-267
  9. ^ #創業百年の長崎造船所 p.267
  10. ^ #商船八十年史 p.349
  11. ^ a b c #特設原簿 p.120
  12. ^ a b c d e f #野間 (2004) p.38
  13. ^ #あるぜんちな丸1705 p.3
  14. ^ #あるぜんちな丸1705 p.5
  15. ^ #あるぜんちな丸戦闘詳報 p.36
  16. ^ #あるぜんちな丸戦闘詳報 p.38
  17. ^ #あるぜんちな丸戦闘詳報 p.40
  18. ^ #野間 (2004) pp.584-585
  19. ^ a b c #駒宮 (1987) p.42
  20. ^ a b c d #野間 (2004) p.39
  21. ^ #SS-213, USS GREENLING, Part 1 p.51,63
  22. ^ #SS-213, USS GREENLING, Part 1 p.51
  23. ^ a b #駒宮 (1987) p.43
  24. ^ a b #SS-213, USS GREENLING, Part 1 p.52
  25. ^ #駒宮 (1987) p.44
  26. ^ #野間 (2004) p.40
  27. ^ a b #駒宮 (1987) p.48
  28. ^ #駒宮 (1987) p.45
  29. ^ #駒宮 (1987) pp.44-46
  30. ^ #駒宮 (1987) pp.46-47
  31. ^ #駒宮 (1987) p.47
  32. ^ #駒宮 (1987) pp.47-48
  33. ^ #岩重
  34. ^ #野間 (2004) pp.38-39
  35. ^ a b c d e f g h i j #新三菱神戸五十年史 附p.45
  36. ^ a b c d e #新三菱神戸五十年史 p.145
  37. ^ #商船八十年史 p.180
  38. ^ #新三菱神戸五十年史 p.143
  39. ^ 南米航路就航船舶 - 海運集約以前 大阪商船”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2013年1月10日閲覧。
  40. ^ #商船八十年史 p.354
  41. ^ #商船八十年史 pp.354-355
  42. ^ #野間 (1993) p.283
  43. ^ #商船八十年史 p.222,345
  44. ^ a b 大阪商船の所有船舶 海運再建期”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2013年1月10日閲覧。
  45. ^ #野間 (1993) pp.284-285
  46. ^ #野間 (1993) p.285
  47. ^ #野間 (1993) p.286
  48. ^ ぶらじる丸 お別れ会 1996年1月20日(鳥羽)”. ふなむしのページ. ふなむし. 2013年1月10日閲覧。
  49. ^ 「湛江で余生を送る旧「ぶらじる丸」の現況」『世界の艦船』第696集 海人社 2008年
  50. ^ 生きて残っていたぶらじる丸!!”. 私たちの40年!!あるぜんちな丸同船者寄稿集. 和田好司. 2013年1月10日閲覧。
  51. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #三井造船技報
  52. ^ #商船三井プレスリリース
  53. ^ 新造船 世界最大級の鉄鉱石専用船「TUBARAO MARU」竣工”. うなばら 2008年9月号. 商船三井. 2013年1月10日閲覧。
  54. ^ 我が心の「ぶらじる丸」”. うなばら No.551. 商船三井. 2013年1月10日閲覧。
  55. ^ a b #日本船舶海洋工学会

参考文献

サイト

印刷物

  • 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 新三菱重工業神戸造船所五十年史編さん委員会(編)『新三菱神戸造船所五十年史』新三菱重工業株式会社神戸造船所、1957年。 
  • 岡田俊雄(編)『大阪商船株式会社八十年史』大阪商船三井船舶、1966年。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2 
  • 野間恒『豪華客船の文化史』NTT出版、1993年。ISBN 4-87188-210-1 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。 
  • 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂出版、2006年。ISBN 4-303-12330-7 

関連項目

外部リンク