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'''クムル市'''(―し)は[[中華人民共和国]][[新疆ウイグル自治区]][[クムル地区]]に位置する[[県級市]]。 [[ハミウリ]]の産地として知られる。ウィグル語のクムルは元時代に蒙古によりカミルと呼ばれ、漢字でハミリと表記され、明代以降はハミと呼ばれるようになった
'''クムル市'''(―し)は[[中華人民共和国]][[新疆ウイグル自治区]][[クムル地区]]に位置する[[県級市]]。'''ハミ'''(哈密)の名前でも知られる。[[シルクロード#シルクロードの起点と終点|天山南路と天山北路]]の合流点に位置し、[[ハミウリ]]の産地として著名である。また、市にはクムル地区行政公署が置かている。

== 語源 ==
クムルの語源については諸説ある。
* 古[[ウイグル語]]で「大きな門」<ref>地球の歩き方編集室著作編集『西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部』、242頁</ref>
* 「遠くを眺め渡せる土の盛り上がり」<ref name="sekaichi">「ハミ」『世界の地名・その由来 アジア篇』、265-266頁</ref>
* [[モンゴル語]]でクムル北西にある「哈木爾達山」<ref name="sekaichi"/>
* [[テュルク諸語|テュルク語]]で「砂」<ref name="ari">蟻川明男『世界地名語源辞典』三訂版(古今書院, 2003年3月)、302頁</ref>

現地名のKumalがウイグル語のQumul、モンゴル語のHamil、Khamilに転訛した<ref name="ari"/>。ハミ(哈密)は、モンゴル語のハミル(Hamil、Khamil)を漢訳した「哈密力」を略した言葉であり<ref name="matsuda">松田「ハミ」『アジア歴史事典』7巻、407頁</ref>、中国でハミ(哈密)の呼称が使われるようになったのは、[[明]]の[[永楽帝]]の時代からである<ref>『シルクロード事典』、247頁</ref>。明より前の時代の中国では、クムルは'''伊吾'''、'''伊吾盧'''と呼ばれた。


==行政区画==
==行政区画==
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 先史時代、伊吾郡の設置 ===
[[紀元前2世紀]]初め[[匈奴]]の統治を受けた。 [[紀元前60年]][[前漢]]が[[西域都護府]]を設け、「伊吾盧」と称した。[[後漢]]は宜禾都尉を置いた。[[北魏]]は伊吾郡を置き、[[隋]]は伊吾郡と柔遠鎮を設け、 [[唐]]はここに伊州を設けその下に伊吾、納職、柔遠の三県を設けた。また伊吾軍も置いた。 [[耶律大石]]が西遷し、[[西遼]]の領土となった。[[元朝]]には西域に阿力麻里([[アルマリク]])行中書省が設けられ、哈密はこれに属した。 当時回鶻は畏兀児、伊州は哈密力(''Qamil'')と呼ばれていた。(ポルトガル人Jesuit Benedict Goësと[[マテオ・リッチ]]の1615年がCamulの名を記録している)哈密の名が今も続く。 後に[[チャガタイ汗国]]系の王侯による独立した哈密国となった。 [[1404年]]に明朝へ帰属し、哈密衛が設けられた。 [[1678年]]には[[モンゴル]]の[[ジュンガル部]]の占領を受け、その後[[清朝]]へ属し,次年に編旗設隊。[[1759年]]に哈密庁を設け、[[1884年]]直隸庁へ昇格、[[中華民国]]が[[1913年]]に庁から県へ改めた。しかしながらチャガタイ系王侯は形式上1930年まで哈密で命脈を保っていた。
{{Main|伊吾}}
古くからクムルには人間が居住しており、クムル近郊では[[旧石器時代]]、[[新石器時代]]の遺跡が発見されている。[[青銅器時代]]後期の墓からは[[モンゴロイド]]、[[コーカソイド]]両方の人骨とミイラが発掘された<ref>梅村「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』、94-95頁</ref>。

古くから西方の商人が東方で交易を行うにあたっての重要な拠点であり、各地から移民が集まった。[[バルクル・カザフ自治県|バルクル]]盆地の遊牧勢力の影響下に置かれていたため、他の[[オアシス都市]]のように王国が形成されることは無かった<ref name="matsuda"/>。[[匈奴]]、[[柔然]]、[[鉄勒]]、[[突厥]]といったこの地を統治する遊牧民族にとっても、国際交易の重要な拠点であった。

[[紀元前2世紀]]初め、匈奴の統治を受けた。[[前漢]]では、クムルは「五船」と呼ばれていたと思われる。[[73年]]に[[後漢]]は匈奴の呼衍王からこの地を獲得して[[宜禾都尉]]を設置して屯田を開始するが、[[北匈奴]]によって奪回された。後漢と北匈奴は伊吾の支配権を巡って争うが、[[3世紀]]に入ると伊吾は[[鮮卑]]の支配を受け、やがて柔然が新たな伊吾の支配者となる。[[422年]](もしくは[[423年]])に[[北涼]]に打ち破られた[[西涼]]の唐契・[[唐和]]兄弟が伊吾に亡命し、柔然は唐契を伊吾王として都市の経営を委任した<ref>『シルクロード事典』、248頁</ref>。[[442年]]([[太平真君]]3年)、唐契は[[北魏]]と連絡を取り合っていたために柔然に殺害されるが、[[太和 (北魏)|太和]]年間([[477年]] - [[499年]])に北魏は伊吾の平定に成功する。

[[610年]]([[大業]]6年)、[[隋]]によってクムルに植民が行われて[[伊吾|伊吾郡]]が設置されるが、数年で経営は放棄された。[[630年]]([[貞観 (唐)|貞観]]4年)に[[突厥]]に従属していた伊吾の植民団は[[唐]]に帰順し、伊吾に西伊州が設置され、[[632年]](貞観6年)に[[伊州 (新疆ウイグル自治区)|伊州]]に改称された。[[大唐西域記]]の著者として知られる[[玄奘三蔵|玄奘]]も、インドに向かう往路で伊吾の地を通過した。[[安史の乱]]以後に唐の西域経営は行き詰まり、760年代に伊州は[[吐蕃]]の支配下に置かれる<ref name="silk249">『シルクロード事典』、249頁</ref>。

=== ハミ王家の成立まで ===
[[9世紀]]に[[天山山脈|東天山]]が[[ウイグル]]の勢力下に置かれる過程でクムルは僕固氏の長・[[僕固俊]]に征服され、[[天山ウイグル王国]]の一部となった。以降、クムルはウイグルスタン([[東トルキスタン]])に含まれる一都市に数えられるようになる<ref name="matsuda"/>。

[[元 (王朝)|元朝]]には西域に阿力麻里([[アルマリク]])行中書省が設けられ、哈密はこれに属した。当時、伊州は哈密力(''Qamil'')と呼ばれ、火州のウイグル&#39385;馬家に属した。後、[[チャガタイ]]の曾孫[[チュベイ]]の子孫である威武王の支配下に置かれる。

[[明|明朝]]の成立後もチュベイ家のハミの統治は続いた<ref name="hamada102">濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、101頁</ref>。[[1390年]]([[洪武]]23年)ごろに[[北元]]の粛王ウナシュリがハミに入城、翌年にハミは明の将軍・[[宋晟]]の攻撃を受けた。明はハミに対して懐柔策を取り<ref name="silk249"/>、[[1404年]]にウナシュリの弟エンケ・テムルを忠順王に封じて、哈密衛が設けられた。その後ハミは北元や[[オイラト]]から干渉を受け、[[1473年]]([[成化]]9年)に明と[[モグーリスタン・ハン国]]の[[ユーヌス (モグーリスタン)|ユーヌス]]・ハーンの間でハミの領有をめぐる抗争が起きる。モグーリスタンのハンは忠順王を拉致・殺害し、明は対抗策としてチャガタイ家の人間から代わりの王を立てるとともに西域との通行を中止して圧力をかけた<ref name="silk249"/>。[[1513年]]([[正徳 (明)|正徳]]8年)に忠順王バーヤジードがモグーリスタンに拉致され、マンスール・ハーンの腹心である[[ホージャ]]・タージュ・アル=ディーン・ムハンマドがハミに駐留した。同年、ハミの仏教徒が哈密衛の都督エンケ・ボラドに率いられ、モグーリスタン・ハン国の支配を逃れて明の支配下にある[[粛州区|粛州]]に移住した<ref>中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、299-300頁</ref>。この移住以降、クムル以西の地域から仏教徒は姿を消した<ref name="hamada102">濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、102頁</ref>。なおもモグーリスタンからの攻撃は続き、[[1529年]]に明はハミ王家の再興を断念し、マンスールの通貢を認めた<ref>中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、300頁</ref><ref name="hamada102"/>。

[[1678年]]([[康熙]]17年)には、クムルは[[ジュンガル|ジュンガル部]]の[[ガルダン・ハーン]]の支配下に入る。[[1697年]](康熙36年)、クムルの支配者ウバイドゥッラー(額貝都拉、アブド=アッラー、ウバイド=アッラー・ベグ)<ref group="注">ウバイドゥッラーの出自は不明である。しかし、モグーリスタン・ハン国の部族との関連性は薄いと考えられている。(濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、112頁)</ref>は[[清朝]][[康熙帝]]に帰順し、翌[[1698年]](康熙37年)に対ジュンガルの前線基地としてウバイドゥッラーに[[ジャサク]]が授与された。[[1759年]]([[乾隆]]24年)に哈密庁が設けられ、[[1884年]]([[光緒]]10年)に[[新疆省]]が設置された際にハミは直隸庁に昇格、[[中華民国]]が[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)に庁から県へ改めた。ウバイドゥッラーの曾孫ユースフ(玉素布)は清のカシュガリア征服に協力した功績によって郡王に封じられ、ウバイドゥッラーの子孫はクムルで王家として存続し続ける<ref>羽田明『中央アジア史研究』(臨川書店, 1982年6月)、68頁</ref>。1860年代の[[回族]]の反乱([[回民蜂起]])ではクムルも被害を受けるが、間もなく復興した。

=== 近現代 ===
{{See also|東トルキスタン共和国}}
[[1930年]](民国19年)に哈密王シャー・マスクードが没すると、新疆省政府主席の[[金樹仁]]はハミ王領を廃止して省政府の直轄地にする計画を立てる。翌年、クムル東部の小堡でムスリムの土地を占拠し、現地のムスリム女性を強引に娶ろうとした漢人官吏がテュルク系ムスリムに殺害される。これをきっかけにクムルの住民が蜂起し、{{仮リンク|ホージャ・ニヤーズ|en|Hoja-Niyaz}}を指導者とした反乱が起きる<ref name="shinmen">新免「ハミ(哈密)事件」『中央ユーラシアを知る事典』、433頁</ref>。王領の有力者に加え、甘粛のムスリム軍閥[[馬仲英]]が反乱に合流した。彼らは王領の復活を求めるが、[[イリ地方|イリ]]から省政府軍が接近すると馬仲英は軍を引き上げ、反乱軍は戦力を喪失する。反乱軍は次第に山間部に追いやられていき、[[1932年]]末に[[トルファン市|トルファン]]に移動した。しかし、この反乱が引き金となり、1932年12月にテュルク系ムスリムの反乱は[[東トルキスタン]]各地に飛び火した<ref name="shinmen"/>。[[1933年]](民国22年)11月、ホージャ・ニヤーズは他地域の反乱軍と合流し、[[東トルキスタン共和国#第1次東トルキスタン共和国|東トルキスタン・イスラーム共和国]]を建国した。

[[中華人民共和国]]の成立後、[[1961年]]にクムルは県の市街地を分けて市に移行するが、翌[[1962年]]に県に戻る。[[1977年]]に再び市に昇格した。


== 人口統計 ==
== 人口統計 ==
2002年現在、クムル市の人口は約519,700人で68.4%の[[漢族]]と31.6%の少数民族([[ウイグル族]]、[[回族]]、[[カザフ族]]など)の21の民族が居住する。
クムル市は約68%の[[漢族]]と約32%の少数民族([[ウイグル族]]、回族、[[カザフ族]]など)の32の民族が居住する<ref name="gai">劉、張、劉『新疆概覧 シルクロードの十字路』、373-377頁</ref>。クムル地区の人口の約半分はクムル市の住民で占められている<ref name="gai"/>

== 気候 ==
{{Weather box
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|Jan precipitation mm = 1.8
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|Dec rain days = 2
|source 1 = World Weather Online<ref>[http://www.worldweatheronline.com/Hami-weather-averages/Xinjiang/CN.aspx](2013年1月閲覧)</ref>
}}

== 産業 ==
クムルは豊富な鉱物資源を有し、種類、品質、埋蔵量いずれにも恵まれている<ref name="gai"/>。[[石炭]]、[[石油]]、[[天然ガス]]、[[鉄]]、[[銅]]、[[金]]、[[岩塩]]などが産出される<ref name="gai"/>。資源を活用するために必要な工業基盤も整備されており、2,000以上の工業製品が生産されている。特に石炭、元明粉([[硫酸ナトリウム]])、綿紡績、石材、黄腐酸([[フルボ酸]])、革製品が高く評価されている<ref name="gai"/>。哈密製鉄所では、現地で採掘された磁鉄を原料とする銑鉄鋼が生産されている<ref name="komai">駒井「ハーミー」『世界地名大事典』7巻、998-999頁</ref>。

市内には紅星渠などの灌漑用水路が整備されており、肥沃な土壌を利用しての農業も行われている。農産物としてはハミウリが有名であり、国内外に出荷されている。また、[[ナツメ]]、[[ブドウ]]もクムルの特産品として著名である<ref name="gai"/>。他には綿花、[[モロコシ|コーリャン]]、豆類、果実が栽培されている<ref name="komai"/>。


== 観光 ==
== 観光 ==
* 魔鬼城 - クムル南東部に位置する遺跡。風が城内を吹き抜けるとき、しばしば恐ろしげな魔物の声のような音が鳴ることから魔鬼城と命名された<ref name="gai"/>。
五堡の魔鬼城、白石頭の草原、鳴沙山の万民嘶鳴、回王墳、蓋斯墓、五堡古墓群、天山廟、沁城岩画、廟爾溝、西路軍進疆紀念園、烈士陵園。
* 白石頭の草原
* 鳴沙山 - 高さ180m。中国の4大鳴沙山の中で最も良い音が出るとされる<ref name="gai"/>。
* 回王墳(ハミ王陵) - 清代の哈密の郡王とその一族が眠る墓。敷地は約13,300平方メートル<ref name="chi245">地球の歩き方編集室著作編集『西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部』、245頁</ref>。最大の墓は第7代の王モハメド・ビシルの陵墓で、東西20m・南北15m・高さは17.8mに及ぶ<ref name="chi245"/>。モハメド・ビシル陵の西に建てられたエイティガール寺院は、宗教行事の際に多くのイスラム教徒で賑わう。
* ケイス墓(蓋斯麻墓) - [[635年]]にクムルで没したと伝えられる、イスラム教の宣教者ケイスを祀った廟<ref name="chi245"/>。哈密王によって廟が建てられた。
* 五堡古墓群 - 青銅器時代の遺跡。「金髪娘」というコーカソイドのミイラが発見されたことで知られる。
* 天山廟 - 正式名称は関帝廟。市街から60km離れた場所に位置する。現在の廟は[[同治]]年間に再建されたものである。廟に隣接する屋敷には漢、唐、清代の石碑が保存されている。
* 沁城岩画
* 廟爾溝
* 西路軍進疆紀念園
* 烈士陵園


== 交通 ==
== 交通 ==
[[蘭新線]][[ハミ駅]])と[[G312国道|312国道]]が東西に市域を貫く。これらは[[中国内地]]と西域各地の交通の中心である。
[[蘭州市]]と[[ウルムチ市]]を結ぶ[[蘭新線]]の主要駅である[[ハミ駅]]が置かれ、[[G312国道|312国道]]が東西に市域を貫く。市の中心部にはバスターミナルが置かれ、ウルムチやトルファン、[[敦煌市|敦煌]]などに向かうバスが出ている<ref name="chi243">地球の歩き方編集室著作編集『西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部』、243頁</ref>。これらは[[中国内地]]と西域各地の交通の中心である。

2008年12月16日、市の北東約13kmの地点に<ref name="chi243"/>[[ハミ空港]]が開港し、[[中国南方航空]]が[[ウルムチ地窩堡国際空港|ウルムチ]]まで運航している<ref>[http://j.people.com.cn/94476/6553851.html 新疆哈密空港、あす開港] 人民網日本語版 2008年12月15日</ref>。ハミ空港は国内線専用であり、国外線は運航されていない<ref name="chi243"/>。

==姉妹都市・提携都市==
*{{Flagicon|JPN}} [[入善町]]([[日本]]・[[富山県]])
**[[1997年]]6月5日 友好交流都市提携
:共通する特産品を持つ縁(「[[入善ジャンボ西瓜]]」を特産品とする入善町と、ハミウリを特産品とする哈密市)から、1994年に入善町より友好都市調査団が哈密市を訪問、交流を開始<ref name="clair">{{Cite web | url=http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | title=姉妹(友好)提携情報 | publisher=[[自治体国際化協会]] | accessdate=2012-09-18 }}</ref><ref>{{Cite web | url=http://www.town.nyuzen.toyama.jp/kyouiku/bunka/hami.jsp | title=中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 哈密市 | publisher=入善町 | accessdate=2012-09-18 }}</ref>。


== 脚注 ==
2008年12月16日、[[ハミ空港]]が開港し、[[中国南方航空]]が[[ウルムチ地窩堡国際空港|ウルムチ]]まで運航している<ref>[http://j.people.com.cn/94476/6553851.html 新疆哈密空港、あす開港] 人民網日本語版 2008年12月15日</ref>。
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
<references/>


==脚注==
== 参考文献 ==
* 梅村坦「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
{{reflist}}
* 駒井正一「ハーミー」『世界地名大事典』7巻(朝倉書店, 1974年3月)
* 新免康「ハミ(哈密)事件」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
* 地球の歩き方編集室著作編集『西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部』2009~2010年版(地球の歩き方, ダイヤモンド社, 2009年7月)
* 中見立夫、濱田正美、小松久男「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
* 濱田正美「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』収録(岩波講座13, 岩波書店, 1998年8月)
* 松田寿男「ハミ」『アジア歴史事典』7巻収録(平凡社, 1961年)
* 劉宇生、張濱、劉暁慶編著『新疆概覧 シルクロードの十字路』(山口昭、張乃恒、張淑芳訳, 文芸社, 2003年3月)
* 「ハミ」『世界の地名・その由来 アジア篇』(和泉光雄編著, 講談社出版サービスセンター, 1997年1月)
* 『精選中国地名辞典』(塩英哲編訳, 凌雲出版, 1983年3月)
* 『シルクロード事典』(前嶋信次、加藤九祚共編、芙蓉書房、1975年1月)


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2013年2月13日 (水) 05:08時点における版

中華人民共和国 新疆自治区 哈密市
新疆ウイグル自治区中のクムル市の位置
新疆ウイグル自治区中のクムル市の位置
新疆ウイグル自治区中のクムル市の位置
中心座標 北緯42度50分19秒 東経93度30分15秒 / 北緯42.83861度 東経93.50417度 / 42.83861; 93.50417
簡体字 哈密
繁体字 哈密
拼音 Hāmì
カタカナ転写 ハーミー、ハミ
ウイグル語 قۇمۇل ۋىلايىتى
ウイグル語ローマ字転写 Qumul Wilayiti
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
自治区 新疆
地区 クムル地区
行政級別 県級市
面積
総面積 81,794 km²
人口
経済
電話番号 0902
郵便番号 839000
行政区画代碼 652201
公式ウェブサイト http://www.xjhm.gov.cn/

クムル市(―し)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区クムル地区に位置する県級市ハミ(哈密)の名前でも知られる。天山南路と天山北路の合流点に位置し、ハミウリの産地として著名である。また、市にはクムル地区の行政公署が置かれている。

語源

クムルの語源については諸説ある。

現地名のKumalがウイグル語のQumul、モンゴル語のHamil、Khamilに転訛した[3]。ハミ(哈密)は、モンゴル語のハミル(Hamil、Khamil)を漢訳した「哈密力」を略した言葉であり[4]、中国でハミ(哈密)の呼称が使われるようになったのは、永楽帝の時代からである[5]。明より前の時代の中国では、クムルは伊吾伊吾盧と呼ばれた。

行政区画

5街道4鎮、13郷、2民族郷を管轄:

  • 街道弁事所:東河区街道、西河区街道、新市区街道、麗園街道、石油新城街道
  • :雅満蘇鎮、七角井鎮、星星峡鎮、二堡鎮
  • :沁城郷、双井子郷、大泉湾郷、陶家宫郷、回城郷、花園郷、南湖郷、五堡郷、西山郷、天山郷、白石頭郷、城郊郷、柳樹溝郷
  • 民族郷:烏拉台哈薩克族郷、徳外都如克哈薩克族郷

市内に三道嶺鉱区、園林場、伊吾軍馬場、兵団紅星一場、兵团紅星二場、兵団紅星三場、兵団紅星四場、兵団黄田農場、兵団火箭農場、兵団柳樹泉農場、兵団紅星二牧場、牙吾龍扶貧開発区、駱駝圏子開発区を有する。

歴史

先史時代、伊吾郡の設置

古くからクムルには人間が居住しており、クムル近郊では旧石器時代新石器時代の遺跡が発見されている。青銅器時代後期の墓からはモンゴロイドコーカソイド両方の人骨とミイラが発掘された[6]

古くから西方の商人が東方で交易を行うにあたっての重要な拠点であり、各地から移民が集まった。バルクル盆地の遊牧勢力の影響下に置かれていたため、他のオアシス都市のように王国が形成されることは無かった[4]匈奴柔然鉄勒突厥といったこの地を統治する遊牧民族にとっても、国際交易の重要な拠点であった。

紀元前2世紀初め、匈奴の統治を受けた。前漢では、クムルは「五船」と呼ばれていたと思われる。73年後漢は匈奴の呼衍王からこの地を獲得して宜禾都尉を設置して屯田を開始するが、北匈奴によって奪回された。後漢と北匈奴は伊吾の支配権を巡って争うが、3世紀に入ると伊吾は鮮卑の支配を受け、やがて柔然が新たな伊吾の支配者となる。422年(もしくは423年)に北涼に打ち破られた西涼の唐契・唐和兄弟が伊吾に亡命し、柔然は唐契を伊吾王として都市の経営を委任した[7]442年太平真君3年)、唐契は北魏と連絡を取り合っていたために柔然に殺害されるが、太和年間(477年 - 499年)に北魏は伊吾の平定に成功する。

610年大業6年)、によってクムルに植民が行われて伊吾郡が設置されるが、数年で経営は放棄された。630年貞観4年)に突厥に従属していた伊吾の植民団はに帰順し、伊吾に西伊州が設置され、632年(貞観6年)に伊州に改称された。大唐西域記の著者として知られる玄奘も、インドに向かう往路で伊吾の地を通過した。安史の乱以後に唐の西域経営は行き詰まり、760年代に伊州は吐蕃の支配下に置かれる[8]

ハミ王家の成立まで

9世紀東天山ウイグルの勢力下に置かれる過程でクムルは僕固氏の長・僕固俊に征服され、天山ウイグル王国の一部となった。以降、クムルはウイグルスタン(東トルキスタン)に含まれる一都市に数えられるようになる[4]

元朝には西域に阿力麻里(アルマリク)行中書省が設けられ、哈密はこれに属した。当時、伊州は哈密力(Qamil)と呼ばれ、火州のウイグル駙馬家に属した。後、チャガタイの曾孫チュベイの子孫である威武王の支配下に置かれる。

明朝の成立後もチュベイ家のハミの統治は続いた[9]1390年洪武23年)ごろに北元の粛王ウナシュリがハミに入城、翌年にハミは明の将軍・宋晟の攻撃を受けた。明はハミに対して懐柔策を取り[8]1404年にウナシュリの弟エンケ・テムルを忠順王に封じて、哈密衛が設けられた。その後ハミは北元やオイラトから干渉を受け、1473年成化9年)に明とモグーリスタン・ハン国ユーヌス・ハーンの間でハミの領有をめぐる抗争が起きる。モグーリスタンのハンは忠順王を拉致・殺害し、明は対抗策としてチャガタイ家の人間から代わりの王を立てるとともに西域との通行を中止して圧力をかけた[8]1513年正徳8年)に忠順王バーヤジードがモグーリスタンに拉致され、マンスール・ハーンの腹心であるホージャ・タージュ・アル=ディーン・ムハンマドがハミに駐留した。同年、ハミの仏教徒が哈密衛の都督エンケ・ボラドに率いられ、モグーリスタン・ハン国の支配を逃れて明の支配下にある粛州に移住した[10]。この移住以降、クムル以西の地域から仏教徒は姿を消した[9]。なおもモグーリスタンからの攻撃は続き、1529年に明はハミ王家の再興を断念し、マンスールの通貢を認めた[11][9]

1678年康熙17年)には、クムルはジュンガル部ガルダン・ハーンの支配下に入る。1697年(康熙36年)、クムルの支配者ウバイドゥッラー(額貝都拉、アブド=アッラー、ウバイド=アッラー・ベグ)[注 1]清朝康熙帝に帰順し、翌1698年(康熙37年)に対ジュンガルの前線基地としてウバイドゥッラーにジャサクが授与された。1759年乾隆24年)に哈密庁が設けられ、1884年光緒10年)に新疆省が設置された際にハミは直隸庁に昇格、中華民国1913年民国2年)に庁から県へ改めた。ウバイドゥッラーの曾孫ユースフ(玉素布)は清のカシュガリア征服に協力した功績によって郡王に封じられ、ウバイドゥッラーの子孫はクムルで王家として存続し続ける[12]。1860年代の回族の反乱(回民蜂起)ではクムルも被害を受けるが、間もなく復興した。

近現代

1930年(民国19年)に哈密王シャー・マスクードが没すると、新疆省政府主席の金樹仁はハミ王領を廃止して省政府の直轄地にする計画を立てる。翌年、クムル東部の小堡でムスリムの土地を占拠し、現地のムスリム女性を強引に娶ろうとした漢人官吏がテュルク系ムスリムに殺害される。これをきっかけにクムルの住民が蜂起し、ホージャ・ニヤーズを指導者とした反乱が起きる[13]。王領の有力者に加え、甘粛のムスリム軍閥馬仲英が反乱に合流した。彼らは王領の復活を求めるが、イリから省政府軍が接近すると馬仲英は軍を引き上げ、反乱軍は戦力を喪失する。反乱軍は次第に山間部に追いやられていき、1932年末にトルファンに移動した。しかし、この反乱が引き金となり、1932年12月にテュルク系ムスリムの反乱は東トルキスタン各地に飛び火した[13]1933年(民国22年)11月、ホージャ・ニヤーズは他地域の反乱軍と合流し、東トルキスタン・イスラーム共和国を建国した。

中華人民共和国の成立後、1961年にクムルは県の市街地を分けて市に移行するが、翌1962年に県に戻る。1977年に再び市に昇格した。

人口統計

クムル市には約68%の漢族と約32%の少数民族(ウイグル族、回族、カザフ族など)の32の民族が居住する[14]。クムル地区の人口の約半分はクムル市の住民で占められている[14]

気候

クムルの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F −3
(27)
5
(41)
13
(55)
22
(72)
28
(82)
33
(91)
34
(93)
33
(91)
28
(82)
19
(66)
8
(46)
−1
(30)
18.3
(64.7)
平均最低気温 °C°F −16
(3)
−10
(14)
−2
(28)
6
(43)
12
(54)
16
(61)
18
(64)
16
(61)
9
(48)
2
(36)
−5
(23)
−13
(9)
2.8
(37)
降水量 mm (inch) 1.8
(0.071)
0.8
(0.031)
2.4
(0.094)
5
(0.2)
4.5
(0.177)
6.9
(0.272)
16.7
(0.657)
12
(0.47)
4
(0.16)
5.1
(0.201)
9.5
(0.374)
2.2
(0.087)
70.9
(2.794)
平均降雨日数 2 1 2 4 4 7 11 9 4 3 2 2 51
出典:World Weather Online[15]

産業

クムルは豊富な鉱物資源を有し、種類、品質、埋蔵量いずれにも恵まれている[14]石炭石油天然ガス岩塩などが産出される[14]。資源を活用するために必要な工業基盤も整備されており、2,000以上の工業製品が生産されている。特に石炭、元明粉(硫酸ナトリウム)、綿紡績、石材、黄腐酸(フルボ酸)、革製品が高く評価されている[14]。哈密製鉄所では、現地で採掘された磁鉄を原料とする銑鉄鋼が生産されている[16]

市内には紅星渠などの灌漑用水路が整備されており、肥沃な土壌を利用しての農業も行われている。農産物としてはハミウリが有名であり、国内外に出荷されている。また、ナツメブドウもクムルの特産品として著名である[14]。他には綿花、コーリャン、豆類、果実が栽培されている[16]

観光

  • 魔鬼城 - クムル南東部に位置する遺跡。風が城内を吹き抜けるとき、しばしば恐ろしげな魔物の声のような音が鳴ることから魔鬼城と命名された[14]
  • 白石頭の草原
  • 鳴沙山 - 高さ180m。中国の4大鳴沙山の中で最も良い音が出るとされる[14]
  • 回王墳(ハミ王陵) - 清代の哈密の郡王とその一族が眠る墓。敷地は約13,300平方メートル[17]。最大の墓は第7代の王モハメド・ビシルの陵墓で、東西20m・南北15m・高さは17.8mに及ぶ[17]。モハメド・ビシル陵の西に建てられたエイティガール寺院は、宗教行事の際に多くのイスラム教徒で賑わう。
  • ケイス墓(蓋斯麻墓) - 635年にクムルで没したと伝えられる、イスラム教の宣教者ケイスを祀った廟[17]。哈密王によって廟が建てられた。
  • 五堡古墓群 - 青銅器時代の遺跡。「金髪娘」というコーカソイドのミイラが発見されたことで知られる。
  • 天山廟 - 正式名称は関帝廟。市街から60km離れた場所に位置する。現在の廟は同治年間に再建されたものである。廟に隣接する屋敷には漢、唐、清代の石碑が保存されている。
  • 沁城岩画
  • 廟爾溝
  • 西路軍進疆紀念園
  • 烈士陵園

交通

蘭州市ウルムチ市を結ぶ蘭新線の主要駅であるハミ駅が置かれ、312国道が東西に市域を貫く。市の中心部にはバスターミナルが置かれ、ウルムチやトルファン、敦煌などに向かうバスが出ている[18]。これらは中国内地と西域各地の交通の中心である。

2008年12月16日、市の北東約13kmの地点に[18]ハミ空港が開港し、中国南方航空ウルムチまで運航している[19]。ハミ空港は国内線専用であり、国外線は運航されていない[18]

姉妹都市・提携都市

共通する特産品を持つ縁(「入善ジャンボ西瓜」を特産品とする入善町と、ハミウリを特産品とする哈密市)から、1994年に入善町より友好都市調査団が哈密市を訪問、交流を開始[20][21]

脚注

注釈

  1. ^ ウバイドゥッラーの出自は不明である。しかし、モグーリスタン・ハン国の部族との関連性は薄いと考えられている。(濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、112頁)

出典

  1. ^ 地球の歩き方編集室著作編集『西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部』、242頁
  2. ^ a b 「ハミ」『世界の地名・その由来 アジア篇』、265-266頁
  3. ^ a b 蟻川明男『世界地名語源辞典』三訂版(古今書院, 2003年3月)、302頁
  4. ^ a b c 松田「ハミ」『アジア歴史事典』7巻、407頁
  5. ^ 『シルクロード事典』、247頁
  6. ^ 梅村「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』、94-95頁
  7. ^ 『シルクロード事典』、248頁
  8. ^ a b c 『シルクロード事典』、249頁
  9. ^ a b c 濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、101頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "hamada102"が異なる内容で複数回定義されています
  10. ^ 中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、299-300頁
  11. ^ 中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、300頁
  12. ^ 羽田明『中央アジア史研究』(臨川書店, 1982年6月)、68頁
  13. ^ a b 新免「ハミ(哈密)事件」『中央ユーラシアを知る事典』、433頁
  14. ^ a b c d e f g h 劉、張、劉『新疆概覧 シルクロードの十字路』、373-377頁
  15. ^ [1](2013年1月閲覧)
  16. ^ a b 駒井「ハーミー」『世界地名大事典』7巻、998-999頁
  17. ^ a b c 地球の歩き方編集室著作編集『西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部』、245頁
  18. ^ a b c 地球の歩き方編集室著作編集『西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部』、243頁
  19. ^ 新疆哈密空港、あす開港 人民網日本語版 2008年12月15日
  20. ^ 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2012年9月18日閲覧。
  21. ^ 中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 哈密市”. 入善町. 2012年9月18日閲覧。

参考文献

  • 梅村坦「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
  • 駒井正一「ハーミー」『世界地名大事典』7巻(朝倉書店, 1974年3月)
  • 新免康「ハミ(哈密)事件」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
  • 地球の歩き方編集室著作編集『西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部』2009~2010年版(地球の歩き方, ダイヤモンド社, 2009年7月)
  • 中見立夫、濱田正美、小松久男「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
  • 濱田正美「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』収録(岩波講座13, 岩波書店, 1998年8月)
  • 松田寿男「ハミ」『アジア歴史事典』7巻収録(平凡社, 1961年)
  • 劉宇生、張濱、劉暁慶編著『新疆概覧 シルクロードの十字路』(山口昭、張乃恒、張淑芳訳, 文芸社, 2003年3月)
  • 「ハミ」『世界の地名・その由来 アジア篇』(和泉光雄編著, 講談社出版サービスセンター, 1997年1月)
  • 『精選中国地名辞典』(塩英哲編訳, 凌雲出版, 1983年3月)
  • 『シルクロード事典』(前嶋信次、加藤九祚共編、芙蓉書房、1975年1月)