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岩見浩造 (会話 | 投稿記録)
この記事では福島第一原子力発電所への反対運動について説明する。福島第一原子力発電所2012年6月17日 (日) 00:09の版より分割
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'''福島第一原子力発電所反対運動'''(ふくしまだいいちげんしりょくはつでんしょはんたいうんどう)では[[原子力撤廃]]運動の内、[[東京電力]][[福島第一原子力発電所]]の建設、運転に伴って周辺自治体で発生した反対運動について説明する。特定の場所に関わらない一般的な原子力反対運動については[[原子力撤廃]]、[[福島第二原子力発電所]]、[[浪江・小高原子力発電所]]の反対運動については各発電所の記事を参照のこと。
地元の大半が賛成状態だったとは言え、1970年代より数は少ないながらも懐疑派、反対派は存在していた。高槻博によれば、浜通りに本格的な反対運動が生まれたのは、福島第二原子力発電所、浪江・小高原子力発電所の計画が発表された1968年からであるという。その後、1971年から1973年にかけて、浜通りの各原子力発電所と広野火力発電所計画に対しても地元の教師を中核として住民団体が幾つか結成された。本発電所では「大熊、双葉の環境を良くしよう会」が相当し、各地元組織は合従連衡して1973年9月に「原発・火発反対福島県連絡会」という県レベルの組織をつくった。社会党系の労働組合などはこれとは別に「双葉群原発反対同盟」(双葉地方原発反対同盟)を同時期に結成した<ref>地元住民団体の結成については{{Harvnb|高槻博|1976|pp=29}}</ref>。恩田勝亘によれば構成員は小中学校の教員や労組関係者となっている{{Sfn|恩田勝亘|2012|p=67}}。初期の委員長は1971年に社会党から県議に当選した岩本忠夫であった。東京電力側はこの反対同盟の動向に目を光らせ、集会を開くたびに出入りの車のナンバーをチェックされたり、下請の職場内で模擬投票を実施して意向を確認したりしていた。そのため、韓国の[[諜報機関]][[KCIA]]になぞらえ、東京電力の監視をTCIAと揶揄する風潮もあった<ref>{{Harvnb|恩田勝亘|2012|p=71-72}}「監視される原発反対同盟」</ref>。

== 反対運動の誕生 ==

計画初期は地元の大半が賛成状態だったとは言え、1960年代より数は少ないながらも懐疑派、反対派は存在していた。

最初期から反対運動活動を行っていたのは[[日本社会党|社会党]]の流れをくむ双葉地方原発反対同盟(文献によっては双葉郡原発反対同盟)である。同団体のリーダーとなる石丸小四郎は元々秋田出身で1964年に勤務先の郵便局同僚との結婚を機会に福島県に異動した。その頃は既に用地の取得が大詰めを超えており、また当時は社会党も原子力発電に賛成していたが、そのリスクについても知られていなかったという。石丸は郵便局の組合活動をしていたが、その折に当時[[青年会]]上がりで社会党の双葉地区委員長として活動していた岩本の言葉に感銘し、1965年頃から反対運動の手伝いもするようになった。反対同盟結成前は社会党として反対運動をしていたが、党の上層部は「地区でそういう運動があるならやっても良いよ」というスタンスだった<ref>双葉地方原発反対同盟結成前の活動については{{Harvnb|石丸小四郎|2011|p=52}}</ref>。

岩本忠夫が1975年、建設初期の反対運動について回顧した際には「その当時、私たち(社会党双葉総支部)は遺憾ながら原発についての知識がなく、「広島、長崎の原爆とは違う」という電力会社の欺瞞性を論破することもできないほど無知だったのである。」「原発の開発ムードが支配的な状況のもとでは、私たちの未熟な問題提起は説得力も無く、逆に東電や自治体の「バラ色の夢」攻勢に押しつぶされる始末であった」「エネルギー政策、科学技術の分野において十分に対応できる党の態勢もなく、したがって原発反対の方針を明確にしめすこともできなかった」と反省の弁を述べている。また、発電所を誘致した地元に対して当時の地元の貧窮性を指摘し「原発誘致の話は、この地方にとって闇路の一灯であったに違いないし、また、これを拒否する理由は存在しなかった」と観察している<ref>岩本が反対同盟時代に回顧した誘致時の地元および反対派の状況については{{Harvnb|岩本忠夫|1975|p=37}}</ref>。

高槻博によれば、[[浜通り]]に本格的な[[反対運動]]が生まれたのは、福島第二原子力発電所、浪江・小高原子力発電所の計画が発表された1968年からであるという。その後、1971年から1973年にかけて、浜通りの各原子力発電所と[[広野火力発電所]]計画に対しても地元の教職員を中核として[[住民団体]]が幾つか結成された。本発電所では「大熊、双葉の環境を良くしよう会」が相当し、各地元組織は合従連衡して1973年9月に「原発・火発反対福島県連絡会」という県レベルの組織をつくった<ref>地元住民団体の結成については{{Harvnb|高槻博|1976|pp=29}}</ref>。

岩本、石丸等社会党系の[[労働組合]]などはこれとは別に「双葉地方原発反対同盟」を同時期に結成した。恩田勝亘によれば構成員は小中学校の教員や労組関係者となっている{{Sfn|恩田勝亘|2012|p=67}}。初期の委員長は1971年に県議に当選した岩本忠夫であった。反対同盟を結成したものの、対象が早期に建設された発電所であるため、[[市民運動]]としての下地はゼロに等しく、初期は社会党の他全日本農民組合連合会、[[日本社会主義青年同盟]]、双葉地方労働組合協議会など総評路線の延長上に反対運動を行っていったという{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=53}}。

なお、岩本の言によれば、双葉、大熊両町に合併の話が持ち上がった際、東京電力は折衝窓口の一本化を図るためこの提案を陰で後押ししたものの、各町の革新系議員の反対で流産したことがあるという{{Sfn|岩本忠夫|1975|pp=36}}(山川充夫は合併構想が立ち消えたのは1967年頃としている{{Sfn|山川充夫|1987|pp=160}})。

== 1970年代 ==
=== 運動の確立 ===
1970年代に入ると運転を開始した発電所にて作業員の被曝や機器トラブルが社会問題化し、反対運動にとっては「住民の声が高まり」追い風にもなった{{Sfn|岩本忠夫|1975|p=37}}。


こうした運動の展開に取り阻害要因であったのは福島が[[保守王国]]であり、地縁血縁の「監視網」による圧力が加えられることだったという{{Sfn|高槻博|1976|pp=31}}。
こうした運動の展開に取り阻害要因であったのは福島が[[保守王国]]であり、地縁血縁の「監視網」による圧力が加えられることだったという{{Sfn|高槻博|1976|pp=31}}。


しかし、高槻博によれば1970年代の住民運動は内部対立を生み、反省しなければならない場面もあったという。一例として、1973年9月に福島市内で公聴会が開催されたが、原発・火発反対福島県連絡会は公聴会に参加して批判意見を表明する方針を取ったものの、双葉原発反対同盟は「民主的手続きの仮面をかぶっているだけ」として公聴会をボイコットした上、当日会場入り口にピケを張った。この事件の後、岩本忠夫は若年農民層を中心として新組織「双葉群農民協議会」を結成し、個人の範囲で出来る運動を目指した{{Sfn|高槻博|1976|pp=30-31}}。
そのような状況下、この頃行った活動が[[福島第二原子力発電所]]建設の[[公聴会]]阻止闘争であった。他に変電所への[[変圧器|トランス]]搬入阻止闘争も実施した。当時反対運動が力をつけてきたため、公聴会は双葉郡ではなく福島市での開催に変更されたという{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=53}}。しかし、高槻博によれば1970年代の住民運動は内部対立を生み、反省しなければならない場面もあったという。一例として、上記公聴会は1973年9月に開催されたが、原発・火発反対福島県連絡会は公聴会に参加して批判意見を表明する方針を取ったものの、双葉地方原発反対同盟は「民主的手続きの仮面をかぶっているだけ」として公聴会を[[ボイコット]]した上、当日会場入り口に[[ピケ]]を張った。この事件の後、岩本忠夫は若年農民層を中心として新組織「双葉群農民協議会」を結成し、個人の範囲で出来る運動を目指した{{Sfn|高槻博|1976|pp=30-31}}。岩本によれば「運動自体が労働者階級に向けられていたために地域の中に原発闘争を発起させ、住民運動として組織し得るものにはならなかったのである」としている{{Sfn|岩本忠夫|1975|p=40}}。


なお、岩本自身も県議会で多くの原子力発電関連の質問を重ねたが、1975年3月の県議選にて落選し、県議を務めたのは1期に留まった{{Sfn|記者の目|1986|pp=91}}。
東京電力は1974年12月、事業所によってはトラブルが増加していることを理由に、対策の一環として一部事業所に渉外担当の職を設け、その第一弾として神奈川支店と共に本発電所が選ばれた。初代渉外担当として赴任した神部次郎によれば、ある日、[[不破哲三]]が某タレントなど数名の著名人と高校教師数名を連れ立って本発電所に「押しかけ」て来たことがあった。渉外担当補佐のNが教師に対して「学校を休んできたのか」疑問を呈して大論争が起こり、「一時は[[高教組]]の大事件になりかねない雰囲気」だったが、結局安全論争に話題をスライドして事なきを得たという{{Sfn|神部次郎|1994|pp=48}}。また、当時は初期トラブルの続発していた頃だったため、日毎に反対派の対応があり「一日とて気の休まることがなかった」状態で、本店との情報連絡に忙殺されたという{{Sfn|神部次郎|1994|pp=49}}。
=== 県内他立地点への支援 ===
社会党及び双葉地方原発反対同盟は福島第二立地点での反対運動に対して「支援」以上のことを出来なかったため、反対運動側にとって建設阻止失敗の一因となった。この教訓を生かし、1975年頃は、請戸を拠点とした浪江・小高立地点での1977年着工阻止を当面の目標としていた<ref group="注">請戸漁港は浪江・小高立地点にほど近い場所に位置しており、元々は保守色の強い漁村であった。請戸漁協は福島第二原子力および広野火力の建設の際にも漁業補償金の分配対象となっていた。ところが1974年5月、この補償について組合長に不正をしている事が組合員より指摘され、反対運動とも結びついた。結局、請戸地区の有権者1200名の内900名が浪江・小高立地点へ反対署名を行った。{{Harvnb|岩本忠夫|1975|p=39}}</ref>。なお直接補償を受けた[[漁協]]の一つ、請戸漁協は<ref>請戸漁協が直接補償を受けた件については{{Harvnb|大熊町史編纂委員会|1985|p=836}}</ref>補償金の使途で不明瞭な点が明らかになったため、1976年1月、当時の前組合長の除名処分を決定し、それまでの推進一辺倒から距離を置く姿勢に変化したとされる{{Sfn|高槻博|1976|pp=31}}。
=== 推進派の対応 ===
東京電力側はこの反対同盟の動向に目を光らせ、集会を開くたびに出入りの車の[[ナンバープレート (自動車)|ナンバー]]をチェックしたり、[[下請]]の職場内で選挙の模擬投票を実施して意向を確認したりしていた。そのため、韓国の[[諜報機関]][[KCIA]]になぞらえ、東京電力の[[監視]]をTCIAと揶揄する風潮もあった<ref>{{Harvnb|恩田勝亘|2012|p=71-72}}「監視される原発反対同盟」</ref>。


東京電力は1974年12月、事業所によってはトラブルが増加していることを理由に、対策の一環として一部事業所に渉外担当の職を設け、その第一弾として神奈川支店と共に福島第一原子力発電所が選ばれた。初代渉外担当として赴任した神部次郎によれば、ある日、[[不破哲三]]が某タレント<ref group="注" name="touden-jibunsi1P48">人名を伏せてある部分は原文ママ。{{Harvnb|神部次郎|1994|pp=48}}</ref>など数名の著名人と高校教師数名を連れ立って福島第一原子力発電所に「押しかけ」て来たことがあった。渉外担当補佐のN<ref group="注" name="touden-jibunsi1P48" />が教師に対して「学校を休んできたのか」疑問を呈して大論争が起こり、「一時は[[高教組]]の大事件になりかねない雰囲気」だったが、結局安全論争に話題をスライドして事なきを得たという{{Sfn|神部次郎|1994|pp=48}}。また、当時は初期トラブルの続発していた頃だったため、日毎に反対派の対応があり「一日とて気の休まることがなかった」状態で、本店との情報連絡に忙殺されたという{{Sfn|神部次郎|1994|pp=49}}。一方、推進派は自民党が「明日の双葉をひらく会」を発足させて原発推進の住民運動を試み、県議選においては[[自由国民連合]]の双葉版を立ち上げて候補者を送り込んだ(岩本は金権選挙を展開した、としている){{Sfn|岩本忠夫|1975|pp=40-41}}。
直接補償を受けた漁協の一つ、請戸漁協は<ref>請戸漁協が直接補償を受けた件については{{Harvnb|大熊町史編纂委員会 編.|1985|p=836}}</ref>補償金の使途で不明瞭な点が明らかになったため、1976年1月、当時の前組合長の除名処分を決定し、それまでの推進一辺倒から距離を置く姿勢に変化したとされる{{Sfn|高槻博|1976|pp=31}}。


== 岩本忠夫の転向 ==
その後、岩本は1985年に双葉町長選挙で当選してから明確に[[転向]]した。1985年まで続いた田中清太郎町政では、1981年から始めた下水道工事で赤字を出し、穴埋めを町予算の付帯工事費名目で支出して秘密裏に解決しようとした。しかし、この問題が明るみに出て工事を請け負った建設会社には警察の捜査が入り、かつその会社は田中町長がオーナーであった。田中町長は逮捕こそされなかったものの町民の信用を失い、1985年12月の選挙では保守派は後継候補を立てたものの、岩本と争った末落選したのである{{Sfn|記者の目|1986|pp=90}}。過去の姿勢については選挙中保守派から大量の糾弾チラシも撒かれたが、岩本自身は「あのころの第一原発一号機はトラブルが多かった。立地町民そして県民の生命、財産を守る立場から数多く質問したのは事実だが、それを反原発とみるか安全重視とみるかは勝手ですが…。十年以上の歳月が流れ、原発立地町も増え、安全性もグンと高まっていると思う」「東電さん、ご安心を」と述べている{{Sfn|記者の目|1986|pp=91}}。
=== 反対運動からの離脱 ===
[[スリーマイル島原子力発電所事故]]が発生した1979年、岩本は3度目の県議選に出馬しマスコミは「岩本の選挙に神風が吹いた」と喧伝した。しかし地域にビラまきをしても原子力発電による雇用、交付金等の恩恵を受けている地元にとっては「糠に釘を打つような感じ」で選挙の争点にはならず、岩本陣営にとっては追い風にはならなかった。この選挙以降、岩本は徐々に反対運動から離れ始めた。石丸は「あの選挙を通じて、原発反対運動をしていては政治的な思いを達成することはできないと思ったのではないでしょうか」と推量している<ref>1979年の県議選については{{Harvnb|石丸小四郎|2011|p=54}}。なお[[浪江・小高原子力発電所]]反対運動への協力のため予定地への一坪地主に登記していたが、これも後に返上したという。</ref>。なお、石丸は岩本の離反について親族に東京電力の社員となる者が現れたことを紹介し、そのために「推進派に転じたという人がいるけれど、そんなちゃちな人ではないですね」とコメントしている{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=54}}。

=== 推進派として町長就任 ===
その後、岩本は1985年に[[双葉町]]長選挙で当選してから明確に[[転向]]した。1985年まで続いた田中清太郎町政では、1981年から始めた下水道工事で赤字を出し、穴埋めを町予算の付帯工事費名目で支出して秘密裏に解決しようとした。しかし、この問題が明るみに出て工事を請け負った建設会社には警察の捜査が入り、かつその会社は田中町長がオーナーであった。田中町長は逮捕こそされなかったものの町民の信用を失い、1985年12月の選挙では保守派は後継候補を立てたものの、岩本と争った末落選したのである{{Sfn|記者の目|1986|pp=90}}。過去の姿勢については選挙中保守派から大量の糾弾チラシも撒かれたが、岩本自身は「あのころの第一原発一号機はトラブルが多かった。立地町民そして県民の生命、財産を守る立場から数多く質問したのは事実だが、それを反原発とみるか安全重視とみるかは勝手ですが…。十年以上の歳月が流れ、原発立地町も増え、安全性もグンと高まっていると思う」「東電さん、ご安心を」と述べている{{Sfn|記者の目|1986|pp=91}}。


その後岩本は7・8号機の増設誘致活動を主導し、かつての反対姿勢を知る者たちを唖然とさせた。恩田はこれを「[[アリ地獄]]」と批判した{{Sfn|恩田勝亘|2012|p=236-237}}。「脱原発福島ネットワーク」の佐藤和良は1980年代に工業誘致などで進められたポスト原発政策が増設誘致策となったことや、議会決議を住民無視のものとして批判した{{Sfn|佐藤和良|1992|pp=5}}。また、佐藤和良によれば、1989年の福島第二原子力発電所2号機で発生した再循環ポンプ破断事故の影響で、反岩本派の保守系元町議らは「双葉町原発安全推進町民協議会」を組織し、集会の開催や町長に対する公開質問状の提出などを行い、元町議の中には増設誘致を表明した岩本にリコールを求めたいと述べている者もいたという{{Sfn|佐藤和良|1992|pp=5}}。
その後岩本は7・8号機の増設誘致活動を主導し、かつての反対姿勢を知る者たちを唖然とさせた。恩田はこれを「[[アリ地獄]]」と批判した{{Sfn|恩田勝亘|2012|p=236-237}}。「脱原発福島ネットワーク」の佐藤和良は1980年代に工業誘致などで進められたポスト原発政策が増設誘致策となったことや、議会決議を住民無視のものとして批判した{{Sfn|佐藤和良|1992|pp=5}}。また、佐藤和良によれば、1989年の福島第二原子力発電所2号機で発生した再循環ポンプ破断事故の影響で、反岩本派の保守系元町議らは「双葉町原発安全推進町民協議会」を組織し、集会の開催や町長に対する公開質問状の提出などを行い、元町議の中には増設誘致を表明した岩本にリコールを求めたいと述べている者もいたという{{Sfn|佐藤和良|1992|pp=5}}。
後に開沼博は『フクシマ論 [[原子力村|原子力ムラ]]はなぜ生まれたか』(2011年)等で[[ポストコロニアリズム]]の文脈を基礎に、保守派でありながら徐々に反対派的な姿勢が強まり始めた[[佐藤栄佐久]]と対比している。

{{see also|福島第一原子力発電所7、8号機の増設計画の経緯}}

なお、双葉町長時代には以下のような発言をしている。
:''「双葉町は、原子力発電所との共生をしてきた。'' <br />
:''共生していくということだけではなくて、運命共同体という姿になっていると実は思っています。''<br />
:''ですから、いかなる時 にも原子力には期待をしています。「大きな賭け」をしている、''<br />
:''「間違ってはならない賭け」をこれからも続けていきたいと思っております。原子力発電は私の誇りです。」''<br /><ref>「発電所は運命共同体 岩本 忠夫 双葉町長インタビュー」社団法人原子燃料政策研究所 機関誌Plutonium Summer 2003 No.42より</ref>

石丸等反対運動家はこのような岩本の転向、町長時代の行動を「国と事業者に徹底的に利用されました」「国と電力にとって相当使い勝手があったはずです」としている{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=54}}。

岩本自身は晩節原発事故を見届けて2011年7月15日に82歳で逝去したが、事故後に原子力発電に対してはっきりしたコメントを残していないため最晩年の真意については推測が語られているのみである{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=54}}<ref>{{Harvnb|恩田勝亘|2012|p=236-237}}「原発知事と反原発から推進派に転じた町長」</ref>。

== 岩本離脱後の反対運動 ==
=== 双葉地方原発反対同盟の動き ===
発電所の建設が進展しその金銭的なメリットが地域に享受される中で、一度隆盛した反対運動もしぼみ、1980年頃にはデモや勉強会にも人が集まらなくなり始めた。その対応策として少人数でも運動が出来るように2000年頃から街宣車を購入して使用するようになった。一方容認する者が多いとは言え、石をぶつけられたり罵声を吐かれることは無かったという。これは、住民の中に「俺はできないけれどお前は頑張ってくれ」というような潜在的な反対派がいたこと、推進派の中にも「反対派がいないと東京電力が出すものも出さなくなる」という打算の上で反対運動を認めるものもいたという{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=54}}。

また、双葉地方原発反対同盟は1979年に[[阪南中央病院]]の村田三郎などを頼って作業員の被曝調査を始め、それをきっかけに作業員の[[労働災害]]認定運動などを始めて行った。石丸によると2011年時点で申請は全国で19件、内福島県が11件で殆どが福島第一原子力発電所関連で、これらの内、反対同盟の関与した申請の中では4件が認定に至っているが、運動側としては「氷山の一角」と認識しているという{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=55}}。
=== 県政への影響 ===
1988年より[[佐藤栄佐久]]が知事になると、原子力で不祥事が発生する度に県政自体が徐々に原子力発電推進に対して懐疑的に変質を遂げ、2000年代には反対派の意見を反映することで、反対派は県政に影響を与えるようになった。この過程は佐藤栄佐久自身が『福島原発の真実』にて回顧を行っている。

2002年5月、折からの東京電力の新規電源開発凍結の発表と福島第一原子力発電所等における[[プルサーマル]]実施受入及び[[核燃料税]]引き上げ問題が暗礁に乗り上げた際、佐藤栄佐久は県内に「エネルギー政策検討会」を設置{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=101}}、プルサーマルの必要性の他、委員として原子力発電に是々非々で対応していた[[桜井淳]]、[[佐藤隆光]]、批判的な[[吉岡斉]]などを招聘した。この段階で県政レベルでは、原子力反対派の意見が参考に供され、吉岡、佐藤隆光からは以前より国で実施していた円卓会議を見かけ上の民意聴取であるとして批判された{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=110}}。また、県職員によって「地域振興」の検証作業が実施され、もっぱら[[箱物]]にしか使用できない交付金のあり方や7・8号機増設計画のような「ポスト原発は原発」といった固定資産税目当ての地元町村のモノカルチャー化、原子力発電の産業振興効果の少なさなどが指摘されるようになった{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=125-129}}。このため経済産業省の担当者と県職員が折衝する際には「おたくの県はなんであんな人物を呼ぶのか」となじられるのが通例だったという{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=130}}。

佐藤栄佐久の辞任後の2009年6月、東京電力はプルサーマルの議論再開を県議会に要請し、翌年本発電所3号機にて実施される地ならしが始まった。この動きに対して、『脱原発福島ネットワーク』他の地元反対運動は7月17日に本発電所関連として下記についての批判と検証を要請した{{Sfn|佐藤記者|2009|pp=35}}。

#[[新潟県中越沖地震]]で露呈した事前の[[活断層]]調査・情報公開の不備
#使用済みMOX燃料がウラン燃料に比較した処分の困難性から立地自治体で保管され続ける懸念
#2006年の[[耐震基準]]改定に伴って実施された本発電所への耐震バックチェックについて、双葉断層の長さを「過小評価」とし、再循環系配管の耐震強度評価を批判

なお、この件を報じた『財界ふくしま』は「原発のマチが放射能廃棄物のマチになる日」と見出しを付け、2011年の事故後発行された2011年5月号にて再掲している。

== 福島第一原子力発電所事故後 ==
{{see also|福島第一原子力発電所事故の影響}}

[[福島第一原子力発電所事故]]後石丸も一時秋田の実家に避難していたが、一時帰宅を利用し資料と[[パソコン|PC]]の回収に成功、福島県内(作業員の待機場所となっているいわき市)に戻って活動を再開する意向を表明しており{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=57}}、2011年9月より実際に転居し、活発に講演活動を実施しているという<ref>「[http://mytown.asahi.com/akita/news.php?k_id=05000671109200001 反原発運動40年/石丸小四郎さん]」『朝日新聞』2011年9月20日</ref>。事故については地震発生時より危惧しており屋内に放射性物質が侵入しないように目張りをし、すぐに家族を退避、石丸当人は1号機の爆発があった3月12日にその音を聞いた後、晩に退避している{{Sfn|石丸小四郎|2011|pp=50-51}}。事故については「四〇年間使ってきた原発の「実験炉<ref group="注">性急な導入を行ったことに対する石丸の蔑称</ref>」に社会常識から外れることをやってきて、今日の事故を迎えた」と[[電力自由化]]による維持費削減傾向や高経年化を批判し、「規制当局である原子力安全保安院が誘導して起きた事故」「国家的犯罪」としている{{Sfn|石丸小四郎|2011|pp=56}}。

また、事故後は反原発運動が活発化し、「一般市民も参加する反原発運動が盛り上がりを見せ」た。これを[[過激派]]は「自派の勢力拡大・浸透の好機と捉え」、「[[プロパガンダ|宣伝活動]]」に取り組み、[[中核派]]中央派は、「反原発団体などが主催した様々な集会に活動家を動員」し、さらに「同派独自の集会・デモ」も実施、「8月には、『すべての原発いますぐなくそう!全国会議』(略称「NAZEN」)を立ち上げ」た<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.57</ref>。一部の右翼団体も、「『右から考える脱原発集会&デモ』と称して集会・デモを行った」<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.63</ref>が、逆に、「活発化した反原発運動に対して」、「『左翼に政治利用されている』として抗議活動を実施」した右派もいた<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.72</ref>。

なお、事故後2011年7月に福島県は脱原発を宣言し<ref>[http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011071501000326.html 福島県「脱原発」を宣言 被害拡大、共存を転換]『共同通信』2011年07月15日11時35分配信</ref>、2012年3月にはかつて自ら加盟した[[日本原子力産業協会]]から退会したことを明らかにしている<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0229/TKY201202290628.html 福島県が原子力産業協会を退会 原発立地自治体では初]『朝日新聞』2012年3月1日7時20分配信</ref>。
== 備考 ==
[[田原総一朗]]が1975年に発表した『[[原子力戦争]]』では双葉地方原発反対同盟とその代表の岩本を仮名にした「岩松忠男」が登場し、原子力発電推進派から金権選挙により県議選で落選させたことを誇らしげに語る場面が掲載され、最初は「私はその意味を寝返らせた」と誤解する場面がある{{Sfn|田原総一朗|2011|pp=167-168,174-176,245,255-264}}。皮肉にも10年後、岩本は本当に寝返って町長として当選を果たすことになる。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<div style="font-size:small">
{{Reflist|group="注"}}
</div>
=== 出典 ===
<div style="font-size:small">
{{Reflist}}
</div>

== 参考文献 ==
論文
* {{Cite journal|和書| author = 山川充夫| year=1987 | date = 1987-02 | title = [http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/110/1/3-701.pdf 原発立地推進と地域政策の展開-2-] | journal = 商学論集 | publisher = 福島大学経済学会 |pages=132-162 | naid=120000797816 |ref=harv}}

雑誌記事
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* {{Cite journal|和書| author = 高橋記者| year=2009 | date = 2009-09 | title = 追跡レポート プルサーマル再開より深刻な、処分場なき原子力政策 原発のマチが放射能廃棄物のマチになる日 | journal = 財界ふくしま | publisher = 財界21 |pages=32-37 | naid=40016756338 |ref=harv}}

機関誌
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書籍
* {{Cite book|和書|title=原子力戦争|author=田原総一朗|authorlink=田原総一朗|series=ちくま文庫|publisher=筑摩書房|date=2011-06|isbn=9784480428462|ref=harv}}(初出1975年)
* {{Cite book|和書|title=大熊町史. 第1巻 (通史)|editor=大熊町史編纂委員会|authorlink=大熊町|publisher=大熊町 (福島県)|date=1985-03|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書| author = 神部次郎 | year=1994 | date = 1994-9 | title = 2.多くの職場・多くの仲間 |journal = 東電自分史 第1集 | publisher = [[東京電力|東京電力史料調査室]] | pages=35-53 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=福島原発の真実|author=佐藤栄佐久|authorlink=佐藤栄佐久|series=平凡社新書|publisher=平凡社|date=2011-06|isbn=9784582855944|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=福島原発 現場監督の遺言|author=恩田勝亘|authorlink=恩田勝亘|publisher=講談社|date=2012-02|isbn=9784062172141|ref=harv}}


== 関連項目 ==
岩本自身は晩節に原発事故を見届けて2011年の夏に死没した<ref>{{Harvnb|恩田勝亘|2012|p=236-237}}「原発知事と反原発から推進派に転じた町長」</ref>。
*[[福島の原子力発電所と地域社会]]
*[[原子力撤廃]]
*[[NIMBY]]


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原発事故後は反原発運動が高まり、「一般市民も参加する反原発運動が盛り上がりを見せ」た。これを過激派は「自派の勢力拡大・浸透の好機と捉え」、「宣伝活動」に取り組み、[[中核派]]中央派は、「反原発団体などが主催した様々な集会に活動家を動員」し、さらに「同派独自の集会・デモ」も実施、「8月には、『すべての原発いますぐなくそう!全国会議』(略称「NAZEN」)を立ち上げ」た<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.57</ref>。一部の右翼団体も、「『右から考える脱原発集会&デモ』と称して集会・デモを行った」<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.63</ref>が、逆に、「活発化した反原発運動に対して」、「『左翼に政治利用されている』として抗議活動を実施」した右派もいた<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.72</ref>。
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[[Category:福島第一原子力発電所事故]]

2012年6月25日 (月) 15:40時点における版

福島第一原子力発電所反対運動(ふくしまだいいちげんしりょくはつでんしょはんたいうんどう)では原子力撤廃運動の内、東京電力福島第一原子力発電所の建設、運転に伴って周辺自治体で発生した反対運動について説明する。特定の場所に関わらない一般的な原子力反対運動については原子力撤廃福島第二原子力発電所浪江・小高原子力発電所の反対運動については各発電所の記事を参照のこと。

反対運動の誕生

計画初期は地元の大半が賛成状態だったとは言え、1960年代より数は少ないながらも懐疑派、反対派は存在していた。

最初期から反対運動活動を行っていたのは社会党の流れをくむ双葉地方原発反対同盟(文献によっては双葉郡原発反対同盟)である。同団体のリーダーとなる石丸小四郎は元々秋田出身で1964年に勤務先の郵便局同僚との結婚を機会に福島県に異動した。その頃は既に用地の取得が大詰めを超えており、また当時は社会党も原子力発電に賛成していたが、そのリスクについても知られていなかったという。石丸は郵便局の組合活動をしていたが、その折に当時青年会上がりで社会党の双葉地区委員長として活動していた岩本の言葉に感銘し、1965年頃から反対運動の手伝いもするようになった。反対同盟結成前は社会党として反対運動をしていたが、党の上層部は「地区でそういう運動があるならやっても良いよ」というスタンスだった[1]

岩本忠夫が1975年、建設初期の反対運動について回顧した際には「その当時、私たち(社会党双葉総支部)は遺憾ながら原発についての知識がなく、「広島、長崎の原爆とは違う」という電力会社の欺瞞性を論破することもできないほど無知だったのである。」「原発の開発ムードが支配的な状況のもとでは、私たちの未熟な問題提起は説得力も無く、逆に東電や自治体の「バラ色の夢」攻勢に押しつぶされる始末であった」「エネルギー政策、科学技術の分野において十分に対応できる党の態勢もなく、したがって原発反対の方針を明確にしめすこともできなかった」と反省の弁を述べている。また、発電所を誘致した地元に対して当時の地元の貧窮性を指摘し「原発誘致の話は、この地方にとって闇路の一灯であったに違いないし、また、これを拒否する理由は存在しなかった」と観察している[2]

高槻博によれば、浜通りに本格的な反対運動が生まれたのは、福島第二原子力発電所、浪江・小高原子力発電所の計画が発表された1968年からであるという。その後、1971年から1973年にかけて、浜通りの各原子力発電所と広野火力発電所計画に対しても地元の教職員を中核として住民団体が幾つか結成された。本発電所では「大熊、双葉の環境を良くしよう会」が相当し、各地元組織は合従連衡して1973年9月に「原発・火発反対福島県連絡会」という県レベルの組織をつくった[3]

岩本、石丸等社会党系の労働組合などはこれとは別に「双葉地方原発反対同盟」を同時期に結成した。恩田勝亘によれば構成員は小中学校の教員や労組関係者となっている[4]。初期の委員長は1971年に県議に当選した岩本忠夫であった。反対同盟を結成したものの、対象が早期に建設された発電所であるため、市民運動としての下地はゼロに等しく、初期は社会党の他全日本農民組合連合会、日本社会主義青年同盟、双葉地方労働組合協議会など総評路線の延長上に反対運動を行っていったという[5]

なお、岩本の言によれば、双葉、大熊両町に合併の話が持ち上がった際、東京電力は折衝窓口の一本化を図るためこの提案を陰で後押ししたものの、各町の革新系議員の反対で流産したことがあるという[6](山川充夫は合併構想が立ち消えたのは1967年頃としている[7])。

1970年代

運動の確立

1970年代に入ると運転を開始した発電所にて作業員の被曝や機器トラブルが社会問題化し、反対運動にとっては「住民の声が高まり」追い風にもなった[8]

こうした運動の展開に取り阻害要因であったのは福島が保守王国であり、地縁血縁の「監視網」による圧力が加えられることだったという[9]

そのような状況下、この頃行った活動が福島第二原子力発電所建設の公聴会阻止闘争であった。他に変電所へのトランス搬入阻止闘争も実施した。当時反対運動が力をつけてきたため、公聴会は双葉郡ではなく福島市での開催に変更されたという[5]。しかし、高槻博によれば1970年代の住民運動は内部対立を生み、反省しなければならない場面もあったという。一例として、上記公聴会は1973年9月に開催されたが、原発・火発反対福島県連絡会は公聴会に参加して批判意見を表明する方針を取ったものの、双葉地方原発反対同盟は「民主的手続きの仮面をかぶっているだけ」として公聴会をボイコットした上、当日会場入り口にピケを張った。この事件の後、岩本忠夫は若年農民層を中心として新組織「双葉群農民協議会」を結成し、個人の範囲で出来る運動を目指した[10]。岩本によれば「運動自体が労働者階級に向けられていたために地域の中に原発闘争を発起させ、住民運動として組織し得るものにはならなかったのである」としている[11]

なお、岩本自身も県議会で多くの原子力発電関連の質問を重ねたが、1975年3月の県議選にて落選し、県議を務めたのは1期に留まった[12]

県内他立地点への支援

社会党及び双葉地方原発反対同盟は福島第二立地点での反対運動に対して「支援」以上のことを出来なかったため、反対運動側にとって建設阻止失敗の一因となった。この教訓を生かし、1975年頃は、請戸を拠点とした浪江・小高立地点での1977年着工阻止を当面の目標としていた[注 1]。なお直接補償を受けた漁協の一つ、請戸漁協は[13]補償金の使途で不明瞭な点が明らかになったため、1976年1月、当時の前組合長の除名処分を決定し、それまでの推進一辺倒から距離を置く姿勢に変化したとされる[9]

推進派の対応

東京電力側はこの反対同盟の動向に目を光らせ、集会を開くたびに出入りの車のナンバーをチェックしたり、下請の職場内で選挙の模擬投票を実施して意向を確認したりしていた。そのため、韓国の諜報機関KCIAになぞらえ、東京電力の監視をTCIAと揶揄する風潮もあった[14]

東京電力は1974年12月、事業所によってはトラブルが増加していることを理由に、対策の一環として一部事業所に渉外担当の職を設け、その第一弾として神奈川支店と共に福島第一原子力発電所が選ばれた。初代渉外担当として赴任した神部次郎によれば、ある日、不破哲三が某タレント[注 2]など数名の著名人と高校教師数名を連れ立って福島第一原子力発電所に「押しかけ」て来たことがあった。渉外担当補佐のN[注 2]が教師に対して「学校を休んできたのか」疑問を呈して大論争が起こり、「一時は高教組の大事件になりかねない雰囲気」だったが、結局安全論争に話題をスライドして事なきを得たという[15]。また、当時は初期トラブルの続発していた頃だったため、日毎に反対派の対応があり「一日とて気の休まることがなかった」状態で、本店との情報連絡に忙殺されたという[16]。一方、推進派は自民党が「明日の双葉をひらく会」を発足させて原発推進の住民運動を試み、県議選においては自由国民連合の双葉版を立ち上げて候補者を送り込んだ(岩本は金権選挙を展開した、としている)[17]

岩本忠夫の転向

反対運動からの離脱

スリーマイル島原子力発電所事故が発生した1979年、岩本は3度目の県議選に出馬しマスコミは「岩本の選挙に神風が吹いた」と喧伝した。しかし地域にビラまきをしても原子力発電による雇用、交付金等の恩恵を受けている地元にとっては「糠に釘を打つような感じ」で選挙の争点にはならず、岩本陣営にとっては追い風にはならなかった。この選挙以降、岩本は徐々に反対運動から離れ始めた。石丸は「あの選挙を通じて、原発反対運動をしていては政治的な思いを達成することはできないと思ったのではないでしょうか」と推量している[18]。なお、石丸は岩本の離反について親族に東京電力の社員となる者が現れたことを紹介し、そのために「推進派に転じたという人がいるけれど、そんなちゃちな人ではないですね」とコメントしている[19]

推進派として町長就任

その後、岩本は1985年に双葉町長選挙で当選してから明確に転向した。1985年まで続いた田中清太郎町政では、1981年から始めた下水道工事で赤字を出し、穴埋めを町予算の付帯工事費名目で支出して秘密裏に解決しようとした。しかし、この問題が明るみに出て工事を請け負った建設会社には警察の捜査が入り、かつその会社は田中町長がオーナーであった。田中町長は逮捕こそされなかったものの町民の信用を失い、1985年12月の選挙では保守派は後継候補を立てたものの、岩本と争った末落選したのである[20]。過去の姿勢については選挙中保守派から大量の糾弾チラシも撒かれたが、岩本自身は「あのころの第一原発一号機はトラブルが多かった。立地町民そして県民の生命、財産を守る立場から数多く質問したのは事実だが、それを反原発とみるか安全重視とみるかは勝手ですが…。十年以上の歳月が流れ、原発立地町も増え、安全性もグンと高まっていると思う」「東電さん、ご安心を」と述べている[12]

その後岩本は7・8号機の増設誘致活動を主導し、かつての反対姿勢を知る者たちを唖然とさせた。恩田はこれを「アリ地獄」と批判した[21]。「脱原発福島ネットワーク」の佐藤和良は1980年代に工業誘致などで進められたポスト原発政策が増設誘致策となったことや、議会決議を住民無視のものとして批判した[22]。また、佐藤和良によれば、1989年の福島第二原子力発電所2号機で発生した再循環ポンプ破断事故の影響で、反岩本派の保守系元町議らは「双葉町原発安全推進町民協議会」を組織し、集会の開催や町長に対する公開質問状の提出などを行い、元町議の中には増設誘致を表明した岩本にリコールを求めたいと述べている者もいたという[22]。 後に開沼博は『フクシマ論 原子力ムラはなぜ生まれたか』(2011年)等でポストコロニアリズムの文脈を基礎に、保守派でありながら徐々に反対派的な姿勢が強まり始めた佐藤栄佐久と対比している。

なお、双葉町長時代には以下のような発言をしている。

「双葉町は、原子力発電所との共生をしてきた。
共生していくということだけではなくて、運命共同体という姿になっていると実は思っています。
ですから、いかなる時 にも原子力には期待をしています。「大きな賭け」をしている、
「間違ってはならない賭け」をこれからも続けていきたいと思っております。原子力発電は私の誇りです。」
[23]

石丸等反対運動家はこのような岩本の転向、町長時代の行動を「国と事業者に徹底的に利用されました」「国と電力にとって相当使い勝手があったはずです」としている[19]

岩本自身は晩節原発事故を見届けて2011年7月15日に82歳で逝去したが、事故後に原子力発電に対してはっきりしたコメントを残していないため最晩年の真意については推測が語られているのみである[19][24]

岩本離脱後の反対運動

双葉地方原発反対同盟の動き

発電所の建設が進展しその金銭的なメリットが地域に享受される中で、一度隆盛した反対運動もしぼみ、1980年頃にはデモや勉強会にも人が集まらなくなり始めた。その対応策として少人数でも運動が出来るように2000年頃から街宣車を購入して使用するようになった。一方容認する者が多いとは言え、石をぶつけられたり罵声を吐かれることは無かったという。これは、住民の中に「俺はできないけれどお前は頑張ってくれ」というような潜在的な反対派がいたこと、推進派の中にも「反対派がいないと東京電力が出すものも出さなくなる」という打算の上で反対運動を認めるものもいたという[19]

また、双葉地方原発反対同盟は1979年に阪南中央病院の村田三郎などを頼って作業員の被曝調査を始め、それをきっかけに作業員の労働災害認定運動などを始めて行った。石丸によると2011年時点で申請は全国で19件、内福島県が11件で殆どが福島第一原子力発電所関連で、これらの内、反対同盟の関与した申請の中では4件が認定に至っているが、運動側としては「氷山の一角」と認識しているという[25]

県政への影響

1988年より佐藤栄佐久が知事になると、原子力で不祥事が発生する度に県政自体が徐々に原子力発電推進に対して懐疑的に変質を遂げ、2000年代には反対派の意見を反映することで、反対派は県政に影響を与えるようになった。この過程は佐藤栄佐久自身が『福島原発の真実』にて回顧を行っている。

2002年5月、折からの東京電力の新規電源開発凍結の発表と福島第一原子力発電所等におけるプルサーマル実施受入及び核燃料税引き上げ問題が暗礁に乗り上げた際、佐藤栄佐久は県内に「エネルギー政策検討会」を設置[26]、プルサーマルの必要性の他、委員として原子力発電に是々非々で対応していた桜井淳佐藤隆光、批判的な吉岡斉などを招聘した。この段階で県政レベルでは、原子力反対派の意見が参考に供され、吉岡、佐藤隆光からは以前より国で実施していた円卓会議を見かけ上の民意聴取であるとして批判された[27]。また、県職員によって「地域振興」の検証作業が実施され、もっぱら箱物にしか使用できない交付金のあり方や7・8号機増設計画のような「ポスト原発は原発」といった固定資産税目当ての地元町村のモノカルチャー化、原子力発電の産業振興効果の少なさなどが指摘されるようになった[28]。このため経済産業省の担当者と県職員が折衝する際には「おたくの県はなんであんな人物を呼ぶのか」となじられるのが通例だったという[29]

佐藤栄佐久の辞任後の2009年6月、東京電力はプルサーマルの議論再開を県議会に要請し、翌年本発電所3号機にて実施される地ならしが始まった。この動きに対して、『脱原発福島ネットワーク』他の地元反対運動は7月17日に本発電所関連として下記についての批判と検証を要請した[30]

  1. 新潟県中越沖地震で露呈した事前の活断層調査・情報公開の不備
  2. 使用済みMOX燃料がウラン燃料に比較した処分の困難性から立地自治体で保管され続ける懸念
  3. 2006年の耐震基準改定に伴って実施された本発電所への耐震バックチェックについて、双葉断層の長さを「過小評価」とし、再循環系配管の耐震強度評価を批判

なお、この件を報じた『財界ふくしま』は「原発のマチが放射能廃棄物のマチになる日」と見出しを付け、2011年の事故後発行された2011年5月号にて再掲している。

福島第一原子力発電所事故後

福島第一原子力発電所事故後石丸も一時秋田の実家に避難していたが、一時帰宅を利用し資料とPCの回収に成功、福島県内(作業員の待機場所となっているいわき市)に戻って活動を再開する意向を表明しており[31]、2011年9月より実際に転居し、活発に講演活動を実施しているという[32]。事故については地震発生時より危惧しており屋内に放射性物質が侵入しないように目張りをし、すぐに家族を退避、石丸当人は1号機の爆発があった3月12日にその音を聞いた後、晩に退避している[33]。事故については「四〇年間使ってきた原発の「実験炉[注 3]」に社会常識から外れることをやってきて、今日の事故を迎えた」と電力自由化による維持費削減傾向や高経年化を批判し、「規制当局である原子力安全保安院が誘導して起きた事故」「国家的犯罪」としている[34]

また、事故後は反原発運動が活発化し、「一般市民も参加する反原発運動が盛り上がりを見せ」た。これを過激派は「自派の勢力拡大・浸透の好機と捉え」、「宣伝活動」に取り組み、中核派中央派は、「反原発団体などが主催した様々な集会に活動家を動員」し、さらに「同派独自の集会・デモ」も実施、「8月には、『すべての原発いますぐなくそう!全国会議』(略称「NAZEN」)を立ち上げ」た[35]。一部の右翼団体も、「『右から考える脱原発集会&デモ』と称して集会・デモを行った」[36]が、逆に、「活発化した反原発運動に対して」、「『左翼に政治利用されている』として抗議活動を実施」した右派もいた[37]

なお、事故後2011年7月に福島県は脱原発を宣言し[38]、2012年3月にはかつて自ら加盟した日本原子力産業協会から退会したことを明らかにしている[39]

備考

田原総一朗が1975年に発表した『原子力戦争』では双葉地方原発反対同盟とその代表の岩本を仮名にした「岩松忠男」が登場し、原子力発電推進派から金権選挙により県議選で落選させたことを誇らしげに語る場面が掲載され、最初は「私はその意味を寝返らせた」と誤解する場面がある[40]。皮肉にも10年後、岩本は本当に寝返って町長として当選を果たすことになる。

脚注

注釈

  1. ^ 請戸漁港は浪江・小高立地点にほど近い場所に位置しており、元々は保守色の強い漁村であった。請戸漁協は福島第二原子力および広野火力の建設の際にも漁業補償金の分配対象となっていた。ところが1974年5月、この補償について組合長に不正をしている事が組合員より指摘され、反対運動とも結びついた。結局、請戸地区の有権者1200名の内900名が浪江・小高立地点へ反対署名を行った。岩本忠夫 1975, p. 39
  2. ^ a b 人名を伏せてある部分は原文ママ。神部次郎 1994, pp. 48
  3. ^ 性急な導入を行ったことに対する石丸の蔑称

出典

  1. ^ 双葉地方原発反対同盟結成前の活動については石丸小四郎 2011, p. 52
  2. ^ 岩本が反対同盟時代に回顧した誘致時の地元および反対派の状況については岩本忠夫 1975, p. 37
  3. ^ 地元住民団体の結成については高槻博 1976, pp. 29
  4. ^ 恩田勝亘 2012, p. 67.
  5. ^ a b 石丸小四郎 2011, p. 53.
  6. ^ 岩本忠夫 1975, pp. 36.
  7. ^ 山川充夫 1987, pp. 160.
  8. ^ 岩本忠夫 1975, p. 37.
  9. ^ a b 高槻博 1976, pp. 31.
  10. ^ 高槻博 1976, pp. 30–31.
  11. ^ 岩本忠夫 1975, p. 40.
  12. ^ a b 記者の目 1986, pp. 91.
  13. ^ 請戸漁協が直接補償を受けた件については大熊町史編纂委員会 1985, p. 836
  14. ^ 恩田勝亘 2012, p. 71-72「監視される原発反対同盟」
  15. ^ 神部次郎 1994, pp. 48.
  16. ^ 神部次郎 1994, pp. 49.
  17. ^ 岩本忠夫 1975, pp. 40–41.
  18. ^ 1979年の県議選については石丸小四郎 2011, p. 54。なお浪江・小高原子力発電所反対運動への協力のため予定地への一坪地主に登記していたが、これも後に返上したという。
  19. ^ a b c d 石丸小四郎 2011, p. 54.
  20. ^ 記者の目 1986, pp. 90.
  21. ^ 恩田勝亘 2012, p. 236-237.
  22. ^ a b 佐藤和良 1992, pp. 5.
  23. ^ 「発電所は運命共同体 岩本 忠夫 双葉町長インタビュー」社団法人原子燃料政策研究所 機関誌Plutonium Summer 2003 No.42より
  24. ^ 恩田勝亘 2012, p. 236-237「原発知事と反原発から推進派に転じた町長」
  25. ^ 石丸小四郎 2011, p. 55.
  26. ^ 佐藤栄佐久 2011, pp. 101.
  27. ^ 佐藤栄佐久 2011, pp. 110.
  28. ^ 佐藤栄佐久 2011, pp. 125–129.
  29. ^ 佐藤栄佐久 2011, pp. 130.
  30. ^ 佐藤記者 2009, pp. 35.
  31. ^ 石丸小四郎 2011, p. 57.
  32. ^ 反原発運動40年/石丸小四郎さん」『朝日新聞』2011年9月20日
  33. ^ 石丸小四郎 2011, pp. 50–51.
  34. ^ 石丸小四郎 2011, pp. 56.
  35. ^ 公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.57
  36. ^ 公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.63
  37. ^ 公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.72
  38. ^ 福島県「脱原発」を宣言 被害拡大、共存を転換『共同通信』2011年07月15日11時35分配信
  39. ^ 福島県が原子力産業協会を退会 原発立地自治体では初『朝日新聞』2012年3月1日7時20分配信
  40. ^ 田原総一朗 2011, pp. 167–168, 174–176, 245, 255–264.

参考文献

論文

  • 山川充夫「原発立地推進と地域政策の展開-2-」『商学論集』、福島大学経済学会、1987年2月、132-162頁、NAID 120000797816 

雑誌記事

  • 高槻博「反原発がめざす自前の論理--福島過密地帯にみる飛躍の条件 (原子力発電は引合わない<特集>)」『エコノミスト』第54巻第33号、毎日新聞社、1976年7月27日、27-31頁、NAID 40000226619 
  • 記者の目「「反原発」返上した岩本・双葉町長」『エネルギーフォーラム』、電力新報社、1986年9月。 
  • 佐藤和良「福島第一原発の増設をめぐる動き」『原子力資料情報室通信』第215巻、原子力資料情報室、1992年5月、5-6頁。 
  • 高橋記者「追跡レポート プルサーマル再開より深刻な、処分場なき原子力政策 原発のマチが放射能廃棄物のマチになる日」『財界ふくしま』、財界21、2009年9月、32-37頁、NAID 40016756338 

機関誌

  • 岩本忠夫「大衆闘争を構築し更にたたかいの前進を--福島・双葉原発反対闘争 (反原発・現地闘争報告)」『月刊社会党』、日本社会党中央本部機関紙局、1975年9月、35-41頁、NAID 40001013967 
  • 「発電所は運命共同体 岩本 忠夫 双葉町長インタビュー」『機関誌Plutonium』、社団法人原子燃料政策研究所、2003-Summer。 
  • 石丸小四郎「一橋大学フェアレイバー研究教育センター(47)福島原発震災と反原発運動の46年--石丸小四郎さん(双葉地方原発反対同盟代表)に聞く」『労働法律旬報』第1754巻、旬報社、2011年10月、50-57頁、NAID 40019031296 

書籍

関連項目