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「T4作戦」の版間の差分

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{{ナチズム}}
{{ナチズム}}
'''T4作戦'''(テーフィアさくせん、{{lang-de-short|Aktion T4}}、{{lang-en-short|T4 Euthanasia Program}})は、[[ナチス・ドイツ]]において[[優生学]]思想に基づき[[1939年]]10月から[[1941年]]8月にかけて行われた安楽死政策を指す名称は本部の所在地、[[ベルリン]]の[[ティーアガルテン]]通4番地 ('''T'''iergartenstraße '''4''') に基づき第2次世界大戦後に付けられた名称である。一次資料には '''E-Aktion'''エーアクツィオーン、E作戦), もしくは '''Eu-Aktion''' の名称が残されている。この政策により、20万人以上が犠牲になったと見積もられている([[ニュルンベルク裁判]]の検察側による見積もり)
'''T4作戦'''(テーフィアさくせん、{{lang-de-short|Aktion T4}})は、[[ナチス・ドイツ]]において[[優生学]]思想に基づき行われた安楽死政策。[[1939年]]10月から開始され、[[1941年]]8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された「T4」は本部の所在地、[[ベルリン]]の[[ティーアガルテン]]通4番地<ref>{{lang-de-short|'''T'''iergartenstraße '''4'''}}</ref>に基づき[[次世界大戦]]後に付けられた組織の名称である{{sfn|澤田愛子|2005|pp=159}}{{sfn|木畑和子|1989|pp=279}}。一次資料には{{ルビ|{{lang|de|'''E-Aktion'''}}|エーアクツィオーン}}(E作戦)もしくは{{ルビ|{{lang|de|'''Eu-Aktion'''}}|オイ・アクツィオン}} の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し{{sfn|木畑和子|1989|pp=250}}、その後も継続された安楽死政策により、20万人以上が犠牲になったと見積もられている。

== 機関設立と目的 ==
政策機関はナチス・ドイツ総統[[アドルフ・ヒトラー]]によって設立され、ナチ党指導者官房長の[[フィリップ・ボウラー]]と[[親衛隊]][[軍医]]の[[カール・ブラント]]の下、[[精神科医]]のヴェルナー・ハイデ ([[:en:Werner Heyde|Werner Heyde]])とパウル・ニッチェ([[:en:Paul Nitsche|Paul Nitsche]])によって行われた。


== 前史 ==
[[ファイル:EnthanasiePropaganda.jpg|250px|right|thumb|優生政策を正当化するポスター<BR><SUB>「[[遺伝病]]患者1人に対し、生涯に6万[[ライヒスマルク]]が負担されている。同胞諸君、君の金だ」とある。</SUB>]]
[[ファイル:EnthanasiePropaganda.jpg|250px|right|thumb|優生政策を正当化するポスター<BR><SUB>「[[遺伝病]]患者1人に対し、生涯に6万[[ライヒスマルク]]が負担されている。同胞諸君、君の金だ」とある。</SUB>]]
[[ドイツ]]において[[社会ダーウィニズム]]に基づく[[優生学]]思想は[[第一次世界大戦]]以前からすでに広く認知されており、1910年代には劣等分子の断種や、治癒不能の病人を要請に基づいて殺すという「[[安楽死]]」の概念が生まれていた{{sfn|木畑和子|1989|pp=248}}。1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日には[[プロイセン州]]で劣等分子の断種にかかわる法律が提出されている{{sfn|木畑和子|1989|pp=249}}。
[[ファイル:Alkoven Schloss Hartheim 2005-08-18 3589.jpg|250px|right|thumb|T4作戦絶滅収容所だったハルトハイム城]]
この政策の目的は、ドイツ国民の'''「遺伝的な純粋性」'''を守るためのものであり、また[[身体障害者]]や[[精神障害者]]を組織的に根絶するというものであった。障害のある子供たちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。障害を持つ成人に関しては、すでに '''「Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses」'''の結果として強制的[[不妊]]手術の対象となっていたが、この政策の対象にも含まれた。


[[ナチ党の権力掌握]]後、民族の血を純粋に保つという[[ナチズム]]思想に基づき、遺伝病や精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるという[[プロパガンダ]]が開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、「断種」や「安楽死」への正当性を強調していった{{sfn|木畑和子|1989|pp=250}}。1933年7月14日には「{{仮リンク|遺伝病根絶法|de|Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses}}<ref>{{lang-de-short|Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses}}</ref>」が制定され、断種が法制化された{{sfn|木畑和子|1989|pp=278}}。
この事業は、各地の精神医療施設等からリストアップした障害者を、[[郵政省]]から譲られ灰色に再塗装した[[バス (交通機関)|バス]]に乗せて'''「処分場」'''と呼ばれる施設に運搬、[[ガス室]]に入れて処分した。「ガス」は建物外に固定された自動車の[[排気ガス]]をホースで引き、その[[一酸化炭素中毒]]効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かい[[コーヒー]]や[[サンドイッチ]]がふるまわれた。


1938年から1939年にかけ、重度の身体障害と知能障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]に訴えた。この訴えを審議したナチ党指導者官房長の[[フィリップ・ボウラー]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]][[軍医]]の[[カール・ブラント]]は、その後の安楽死政策の中心人物となった{{sfn|木畑和子|1989|pp=246}}。またこの訴えは後に「{{仮リンク|私は告発する|de|Ich klage an (1941)}}」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった{{sfn|木畑和子|1989|pp=246}}。
このT4作戦は、1941年8月に[[アドフ・ヒトラー|ヒトラー]]の命令で中止となった。中止理由は諸説あるが、完全には分かっていない。終戦後、関係者は[[医者裁判]]などの軍事法廷にかけられた。のうちブラントとニッチェは処刑され、ボウラーは獄中で自殺。ハイデは逃亡したものの[[1959年]]に自首し、自らの裁判が始まる[[1963年]]に自殺した。

== 「T4」による安楽死政策 ==
[[ファイル:Aktion brand.jpg|250px|right|thumb|T4作戦の命令書。]]
[[ファイル:Alkoven Schloss Hartheim 2005-08-18 3589.jpg|250px|right|thumb|安楽死施設ったハルトハイム城]]
1939年9月1日、ヒトラーは日付を持たない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」対して「情の死<ref>{{lang-de|Gnatentod}}</ref>」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者<ref>{{lang-de-short|Führerbevollmächtigter}}</ref>」としての地位をボウラーとブラントに与えた{{sfn|宮野彬|1968|pp=128-129}}<ref>ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している{{harv|宮野彬|1968|pp=128-129}}。</ref>{{sfn|木畑和子|1989|pp=246}}。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった{{sfn|宮野彬|1968|pp=131}}。1940年8月には安楽死法の制定が協議されたが、ヒトラーはこの法案の制定は戦後に延ばすという決定を行い、結局最後まで法制化はされなかった{{sfn|木畑和子|1989|pp=278}}。

T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(ゲクラート)、そして実施部門の三つに分かれていた{{sfn|澤田愛子|2005|pp=159}}。中枢組織は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており{{sfn|木畑和子|1989|pp=280}}、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた{{sfn|木畑和子|1989|pp=279}}。

処分されるべきと考えられた基準には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、[[夜尿症]]、脱走や反抗、不潔、[[同性愛者]]なども含まれていた{{sfn|木畑和子|1989|pp=259}}。T4組織の鑑定人、[[精神科医]]の{{仮リンク|ヴェルナー・ハイデ|de|Werner Heyde}}と{{仮リンク|パウル・ニッチェ|de|Paul Nitsche}}らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて、「処分者」を決定した{{sfn|木畑和子|1989|pp=258}}{{sfn|澤田愛子|2005|pp=159}}。「処分者」は[[郵政省]]から譲られ灰色に再塗装した[[バス (交通機関)|バス]]に乗せて'''「処分場」'''と呼ばれる施設に運搬した。

専門の安楽死施設は、{{仮リンク|ハルトハイム安楽死施設|de|Tötungsanstalt Hartheim}}、{{仮リンク|ブランデンブルク安楽死施設|de|Tötungsanstalt Brandenburg}}、{{仮リンク|ベレンブルク安楽死施設|de|Tötungsanstalt Bernburg}}
、{{仮リンク|ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設|de|Tötungsanstalt Pirna-Sonnenstein}}
、{{仮リンク|ハダマー安楽死施設|de|Tötungsanstalt Hadamar}}の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した{{sfn|木畑和子|1989|pp=278}}。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた{{sfn|木畑和子|1989|pp=280}}。

移送された者は[[ガス室]]に入れられて処分された。「ガス」は建物外に固定された自動車の[[排気ガス]]をホースで引き、その[[一酸化炭素中毒]]効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かい[[コーヒー]]や[[サンドイッチ]]がふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、[[フェノバルビタール]]注射による殺害<ref>この方式はニッチェ方式と呼ばれた{{harv|澤田愛子|2005|pp=161}}</ref>、飢餓による殺害も含まれている{{sfn|木畑和子|1989|pp=259}}。また作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。

===14f13作戦 ===
{{main|{{仮リンク|14f13作戦|de|Aktion 14f13}}}}
また[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]においては、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]がボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物<ref>{{lang-de|Ballastexistenz}}</ref>」を排除する「{{仮リンク|14f13作戦|de|Aktion 14f13}}」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった{{sfn|木畑和子|1989|pp=262}}。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の[[近視]]を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などがあげられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心となった{{sfn|木畑和子|1989|pp=262}}。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、[[エホバの証人]]の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる{{sfn|木畑和子|1989|pp=265}}。

=== 安楽死政策への反発 ===
この計画についてはキリスト教会の一部、特に[[ローマ教皇庁]]から強い反対があった{{sfn|宮野彬|1968|pp=129-130}}。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、[[教皇]][[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]がその決定を広く公布するよう命じた{{sfn|宮野彬|1968|pp=130}}。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。また世論も安楽死政策に動揺し、一部では反発もあった。

===作戦の「中止」===
1941年8月24日{{sfn|木畑和子|1989|pp=276}}、ヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した{{sfn|宮野彬|1968|pp=130}}。この中止命令により、安楽死政策そのものが中止されたと長らく信じられていた{{sfn|木畑和子|1989|pp=276}}。しかしこの命令ではハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみであり、ほかの施設では規模が縮小されたのみで安楽死作戦は継続されていた{{sfn|木畑和子|1989|pp=257}}。

==「中止」後の安楽死政策 ==
「作戦中止」後、T4の職員はいわゆる[[ユダヤ人]]「[[絶滅収容所]]」に配置され、[[ホロコースト]]におけるガス殺、死体焼却、施設のカモフラージュについての技術を伝えた{{sfn|木畑和子|1989|pp=257-258}}。また既存の精神病患者の収容施設では[[医師]]・[[看護師]]による、患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた{{sfn|木畑和子|1989|pp=258}}。

1941年10月23日、内務大臣[[ヴィルヘルム・フリック]]は医療・養護施設の受託者として保険局参事官の{{仮リンク|ヘルベルト・リンデン|de|Herbert Linden}}を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害する{{仮リンク|ブラント作戦|de|Aktion Brandt}}が始まり、医療施設から患者を大規模に移送した{{sfn|木畑和子|1989|pp=260}}{{sfn|木畑和子|1989|pp=258-259}}。

また「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、[[乞食]]、[[浮浪者]]、[[ロマ|ジプシー(ロマ)]]、流れ者、労働忌避者、怠業者、売春婦、不満分子、常習性飲酒者、暴力犯、性的規範違反者、精神的病質者がその対象となった{{sfn|木畑和子|1989|pp=266}}。1942年9月18日には[[オットー・ゲオルク・ティーラック]]法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた{{仮リンク|劣等人種|de|Untermensch}}(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には[[登校拒否]]児童、[[てんかん]]患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている{{sfn|木畑和子|1989|pp=270}}。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務につかされていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた{{sfn|木畑和子|1989|pp=270}}。

これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった{{sfn|木畑和子|1989|pp=260-261}}。また1943年5月には労働力配置総監[[フリッツ・ザウケル]]が、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、[[国家保安本部]]の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた{{sfn|木畑和子|1989|pp=273}}。

===乳幼児の安楽死 ===
{{main|{{仮リンク|ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死|de|Kinder-Euthanasie}}}}
障害のある子供たちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。子供を対象とする安楽死は1943年4月から本格化した{{sfn|澤田愛子|2005|pp=161}}。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象となった{{sfn|木畑和子|1989|pp=279}}。

== 犠牲者数 ==
これらの政策により、身体障害者・精神病患者がおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1000人、障害を持つ乳幼児が5000人から8000人、また労働不能になった強制収容者が1万人から2万人が殺害された。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている{{sfn|木畑和子|1989|pp=254}}。またドイツ占領地にあった精神病院でも患者の処分が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、処分方法も射殺や餓死、凍死などの手段が主にとられた{{sfn|木畑和子|1989|pp=274}}。

== 裁判 ==
後、関係者[[ニュルンベルク軍事裁判]]、[[ニュンベルク継続裁判]]の[[医者裁判]]などの法廷にかけられた。主要な関係者のうちブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの[[1959年]]に自首し、自らの裁判が始まる[[1963年]]に自殺した。

==脚注==
{{reflist|3}}

== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author= [[宮野彬]] |title=ナチスドイツの安楽死思想 : ヒトラーの安楽死計画|date=1968 |publisher=鹿児島大学 |journal=法学論集|volume=4 |naid=40003476739|pages=119-151 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author= [[澤田愛子]] |title=ナチT4作戦における看護師 : その役割分析と共犯のメンタリティーに焦点を当てて|date=2005|publisher=上智大学 |journal=人間学紀要|volume=35 |naid=40003476739|pages=155-178 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[木畑和子]]|coauthors = [[井上茂子]]、[[芝健介]]、[[矢野久]]、[[永岑三千輝]]|date= 1989年|title= 1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦|publisher =同文舘出版|chapter=第2次世界大戦下のドイツにおける「安楽死」問題|isbn= 978-4495853914|ref=harv}}


== 文献 ==
== 文献 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*{{仮リンク|ナチスの優生学|en|Nazi eugenics}}
*{{仮リンク|ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死|en|Child euthanasia in Nazi Germany}}
*[[生きるに値しない命]]
*[[障害者]]
*[[障害者]]
*[[AB行動]]
*[[AB行動]]
*[[タンネンベルク作戦]]
*[[タンネンベルク作戦]]
*[[安楽死]]
*[[安楽死]]
*[[ナチス・ドイツ]]
*[[医者裁判]]
*[[医者裁判]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Action T4}}
*[http://www.polunbi.de/pers/bouhler-01.html Website with photo of Philipp Bouhler and facsimile of Hitler’s letter to Bouhler and Brandt authorising the T4 program]
*[http://www.polunbi.de/pers/bouhler-01.html Website with photo of Philipp Bouhler and facsimile of Hitler’s letter to Bouhler and Brandt authorising the T4 program]
*[http://www.holocaust-history.org/lifton/ The complete text of Robert Lifton's ''The Nazi Doctors'' online]
*[http://www.holocaust-history.org/lifton/ The complete text of Robert Lifton's ''The Nazi Doctors'' online]
*[http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=45327 List of Action T-4 personnel]
*[http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=45327 List of Action T-4 personnel]
{{ナチス・ドイツ}}


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[[Category:精神医学]]
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2013年2月3日 (日) 05:48時点における版

T4作戦(テーフィアさくせん、: Aktion T4)は、ナチス・ドイツにおいて優生学思想に基づき行われた安楽死政策。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は本部の所在地、ベルリンティーアガルテン通4番地[1]に基づき第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2][3]。一次資料にはE-Aktionエー・アクツィオーン(E作戦)、もしくはEu-Aktionオイ・アクツィオン の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し[4]、その後も継続された安楽死政策により、20万人以上が犠牲になったと見積もられている。

前史

ファイル:EnthanasiePropaganda.jpg
優生政策を正当化するポスター
遺伝病患者1人に対し、生涯に6万ライヒスマルクが負担されている。同胞諸君、君の金だ」とある。

ドイツにおいて社会ダーウィニズムに基づく優生学思想は第一次世界大戦以前からすでに広く認知されており、1910年代には劣等分子の断種や、治癒不能の病人を要請に基づいて殺すという「安楽死」の概念が生まれていた[5]。1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン州で劣等分子の断種にかかわる法律が提出されている[6]

ナチ党の権力掌握後、民族の血を純粋に保つというナチズム思想に基づき、遺伝病や精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるというプロパガンダが開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、「断種」や「安楽死」への正当性を強調していった[4]。1933年7月14日には「遺伝病根絶法[7]」が制定され、断種が法制化された[8]

1938年から1939年にかけ、重度の身体障害と知能障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えた。この訴えを審議したナチ党指導者官房長のフィリップ・ボウラー親衛隊軍医カール・ブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[9]。またこの訴えは後に「私は告発するドイツ語版」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった[9]

「T4」による安楽死政策

T4作戦の命令書。
安楽死施設のあったハルトハイム城

1939年9月1日、ヒトラーは日付を持たない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」対して「情の死[10]」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[11]」としての地位をボウラーとブラントに与えた[12][13][9]。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった[14]。1940年8月には安楽死法の制定が協議されたが、ヒトラーはこの法案の制定は戦後に延ばすという決定を行い、結局最後まで法制化はされなかった[8]

T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(ゲクラート)、そして実施部門の三つに分かれていた[2]。中枢組織は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており[15]、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた[3]

処分されるべきと考えられた基準には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[16]。T4組織の鑑定人、精神科医ヴェルナー・ハイデドイツ語版パウル・ニッチェドイツ語版らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて、「処分者」を決定した[17][2]。「処分者」は郵政省から譲られ灰色に再塗装したバスに乗せて「処分場」と呼ばれる施設に運搬した。

専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設ブランデンブルク安楽死施設ドイツ語版ベレンブルク安楽死施設ドイツ語版ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設ドイツ語版ハダマー安楽死施設ドイツ語版の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[8]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた[15]

移送された者はガス室に入れられて処分された。「ガス」は建物外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーサンドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、フェノバルビタール注射による殺害[18]、飢餓による殺害も含まれている[16]。また作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。

14f13作戦

また強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[19]」を排除する「14f13作戦ドイツ語版」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった[20]。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などがあげられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心となった[20]。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる[21]

安楽死政策への反発

この計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強い反対があった[22]。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[23]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。また世論も安楽死政策に動揺し、一部では反発もあった。

作戦の「中止」

1941年8月24日[24]、ヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した[23]。この中止命令により、安楽死政策そのものが中止されたと長らく信じられていた[24]。しかしこの命令ではハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみであり、ほかの施設では規模が縮小されたのみで安楽死作戦は継続されていた[25]

「中止」後の安楽死政策

「作戦中止」後、T4の職員はいわゆるユダヤ人絶滅収容所」に配置され、ホロコーストにおけるガス殺、死体焼却、施設のカモフラージュについての技術を伝えた[26]。また既存の精神病患者の収容施設では医師看護師による、患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[17]

1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデンドイツ語版を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦ドイツ語版が始まり、医療施設から患者を大規模に移送した[27][28]

また「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、乞食浮浪者ジプシー(ロマ)、流れ者、労働忌避者、怠業者、売春婦、不満分子、常習性飲酒者、暴力犯、性的規範違反者、精神的病質者がその対象となった[29]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[30]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務につかされていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[30]

これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった[31]。また1943年5月には労働力配置総監フリッツ・ザウケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた[32]

乳幼児の安楽死

障害のある子供たちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。子供を対象とする安楽死は1943年4月から本格化した[33]。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象となった[3]

犠牲者数

これらの政策により、身体障害者・精神病患者がおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1000人、障害を持つ乳幼児が5000人から8000人、また労働不能になった強制収容者が1万人から2万人が殺害された。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている[34]。またドイツ占領地にあった精神病院でも患者の処分が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、処分方法も射殺や餓死、凍死などの手段が主にとられた[35]

裁判

終戦後、関係者はニュルンベルク軍事裁判ニュルンベルク継続裁判医者裁判などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの1959年に自首し、自らの裁判が始まる1963年に自殺した。

脚注

  1. ^ : Tiergartenstraße 4
  2. ^ a b c 澤田愛子 2005, pp. 159.
  3. ^ a b c 木畑和子 1989, pp. 279.
  4. ^ a b 木畑和子 1989, pp. 250.
  5. ^ 木畑和子 1989, pp. 248.
  6. ^ 木畑和子 1989, pp. 249.
  7. ^ : Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses
  8. ^ a b c 木畑和子 1989, pp. 278.
  9. ^ a b c 木畑和子 1989, pp. 246.
  10. ^ ドイツ語: Gnatentod
  11. ^ : Führerbevollmächtigter
  12. ^ 宮野彬 1968, pp. 128–129.
  13. ^ ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している(宮野彬 1968, pp. 128–129)。
  14. ^ 宮野彬 1968, pp. 131.
  15. ^ a b 木畑和子 1989, pp. 280.
  16. ^ a b 木畑和子 1989, pp. 259.
  17. ^ a b 木畑和子 1989, pp. 258.
  18. ^ この方式はニッチェ方式と呼ばれた(澤田愛子 2005, pp. 161)
  19. ^ ドイツ語: Ballastexistenz
  20. ^ a b 木畑和子 1989, pp. 262.
  21. ^ 木畑和子 1989, pp. 265.
  22. ^ 宮野彬 1968, pp. 129–130.
  23. ^ a b 宮野彬 1968, pp. 130.
  24. ^ a b 木畑和子 1989, pp. 276.
  25. ^ 木畑和子 1989, pp. 257.
  26. ^ 木畑和子 1989, pp. 257–258.
  27. ^ 木畑和子 1989, pp. 260.
  28. ^ 木畑和子 1989, pp. 258–259.
  29. ^ 木畑和子 1989, pp. 266.
  30. ^ a b 木畑和子 1989, pp. 270.
  31. ^ 木畑和子 1989, pp. 260–261.
  32. ^ 木畑和子 1989, pp. 273.
  33. ^ 澤田愛子 2005, pp. 161.
  34. ^ 木畑和子 1989, pp. 254.
  35. ^ 木畑和子 1989, pp. 274.

参考文献

  • 宮野彬「ナチスドイツの安楽死思想 : ヒトラーの安楽死計画」『法学論集』第4巻、鹿児島大学、1968年、119-151頁、NAID 40003476739 
  • 澤田愛子「ナチT4作戦における看護師 : その役割分析と共犯のメンタリティーに焦点を当てて」『人間学紀要』第35巻、上智大学、2005年、155-178頁、NAID 40003476739 
  • 木畑和子井上茂子芝健介矢野久永岑三千輝「第2次世界大戦下のドイツにおける「安楽死」問題」『1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』同文舘出版、1989年。ISBN 978-4495853914 

文献

  • フランツ・ルツィウス著、山下公子訳 『灰色のバスがやってきた;ナチス・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置』 草思社、1991年、ISBN 4-7942-0445-0
  • 小俣和一郎 『ナチスもう一つの大罪;「安楽死」とドイツ精神医学』 人文書院、1995年、ISBN 4-409-51037-1
  • ヒュー・グレゴリー・ギャラファー著、長瀬修訳 『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』 現代書館、1996年、ISBN 4-7684-6687-7
  • 小俣和一郎 『精神医学とナチズム;裁かれるユング、ハイデガー』 講談社、1997年、ISBN 4-06-149363-9

関連項目

外部リンク

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