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「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[ファイル:Frederick II and eagle.jpg|thumb|220px|right|神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世]]
| 人名 = フリードリヒ2世
'''フリードリヒ2世'''(Friedrich II., [[1194年]][[12月26日]] - [[1250年]][[12月13日]])は、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]](在位:[[1215年]][[11月22日]] - 1250年12月13日)、及び[[シチリア王国|シチリア王]](フェデリーコ1世、在位:[[1197年]] - 1250年)。イタリア史関係ではイタリア名により'''フェデリーコ2世'''(Federico II)と呼ばれることが多い(しかしこれによって曾孫のシチリア王[[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]](在位:1296年 - 1337年)と混同・誤用されることも多い)。
| 各国語表記 = Friedrich II
| 君主号 = 神聖ローマ皇帝
| 画像 = Frederick II and eagle.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = ''De arte venandi cum avibus''の挿絵に描かれたフリードリヒ2世
| 在位 = [[1220年]] - [[1250年]][[12月13日]]
| 戴冠日 =
| 別号 = [[シチリア王国|シチリア王]]、ドイツ王、[[エルサレム王国|エルサレム王]]
| 全名 =
| 出生日 = [[1194年]][[12月26日]]
| 生地 = [[イェージ]]
| 死亡日 = [[1250年]][[12月13日]]
| 没地 = フィオレンティーノ
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = パレルモ
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ|コスタンツァ]]
| 配偶者2 = [[イザベル2世 (エルサレム女王)|ヨランド]]
| 配偶者3 = [[イザベラ・オブ・イングランド|イザベラ]]
| 配偶者4 =
| 配偶者5 =
| 子女 = [[#家族|後述]]
| 王家 = [[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]
| 王朝 = [[ホーエンシュタウフェン朝]]
| 父親 = [[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]
| 母親 = [[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''フリードリヒ2世'''(Friedrich II., [[1194年]][[12月26日]] - [[1250年]][[12月13日]])は、[[神聖ローマ帝国]][[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[1220年]] - 1250年12月13日)、及び[[シチリア王国|シチリア王]](フェデリーコ1世、在位:[[1197年]] - 1250年)。イタリア史関係では、イタリア名の'''フェデリーコ2世'''(Federico II)で呼ばれることが多い。


学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主としての振る舞いから、[[スイス]]の歴史家[[ヤーコプ・ブルクハルト]]はフリードリヒ2世を「王座上の最初の近代人」と評した<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、110頁</ref><ref name="horupu134">ルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻、134頁</ref>。中世で最も進歩的な君主と評価され<ref name="Coll">{{Cite Collier's|Frederick II.|year=1921|noicon=x}}</ref>、同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛された<ref name="horupu136">ルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻、136頁</ref>。普段の食事は質素であり飲酒も控えていたが、彼が開いた宴会は豪勢なものであり、[[ルネサンス]]時代を先取りしたとも思える宮廷生活を送っていた<ref name="komoriya163">小森谷『シチリア歴史紀行』、163頁</ref>。フリードリヒの容貌について同時代のヨーロッパの人間は皆称賛していたが<ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、401頁</ref>、一方でイスラムの年代記作者は彼を「禿げ上がった赤毛で近眼の、奴隷であれば高い価格は付かない」風采の上がらない人物と記した<ref name="kikuchi111">菊池『神聖ローマ帝国』、111頁</ref>。しかし、その知性はイスラム教国[[アイユーブ朝]]の君主[[アル・カーミル]]を魅了した<ref name="kikuchi111"/>。
しばしば[[教皇|ローマ教皇]]と対立し、[[イスラム]]教徒や[[正教会]]に対する宗教的寛容を非難されて[[反キリスト]]([[悪魔]]を意味する)と呼ばれ、2回[[破門]]されている。また、当代随一の広い学識、合理性、科学的好奇心から畏敬の念も込めて「世界の驚異」と呼ばれた。異文化交流によって培われた合理的思考から、近代以降は「王座の最初の近代人」と評価されている。ヨーロッパ最初の[[絶対王政|絶対主義]]君主ともいわれる。

一方、「早く生まれすぎた」彼は[[カトリック教会|教皇庁]]や北イタリアの都市国家と対立し、[[教皇|ローマ教皇]]から2回の[[破門]]を受けた<ref name="horupu136"/>。治世をイタリア統一のために費やしたが、教皇庁と都市国家の抵抗によって悲願を達することなく没した<ref name="horupu136"/><ref name="fujisawa110">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、110頁</ref>。また、イタリアに重点を置いた彼の施策は[[ドイツ]]に混乱をもたらした<ref name="Coll"/>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 孤児 ===
=== 誕生 ===
[[File:Frederick is born in Jesi.JPG|thumb|200px|フリードリヒ2世の誕生]]
フリードリヒ2世は1194年12月26日、[[イタリア]]中部の町[[イェージ]]で皇帝[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]と[[シチリア王国|シチリア]]王女コンスタンツェ(イタリア名は[[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]])の間に生まれた。コンスタンツェと結婚した事でシチリア王ともなっていた父ハインリヒ6世が[[1197年]]、32歳で死去すると、ドイツ本国では叔父の[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]が[[ローマ王|ドイツ王]]に即位したが、[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]と[[ヴェルフ家]]の争いが再燃し、幼いフリードリヒの身は危険になった。
1194年12月26日にフリードリヒ2世は[[イタリア]]中部の町[[イェージ]]で神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]と[[シチリア王国|シチリア]]王女コンスタンツェ(イタリア名は[[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]])の間に生まれる。出産の際にイェージの広場には天幕が張られ、その中でコスタンツァは血統の証人となる町の貴婦人たちに見守られながらフリードリヒを産み落とした<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、80頁</ref><ref name="komoriya160">小森谷『シチリア歴史紀行』、160頁</ref><ref group="注">出産当時コスタンツァは40歳を越えており、かつ初産だったために彼女の懐妊には疑惑がもたれ、フリードリヒの出生の疑惑を払拭するために公開出産が行われた。(藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、80-81頁)</ref>。


生後3か月目にフリードリヒは[[アッシジ]]で洗礼を受け、ロゲリウス・フリデリクス(フェデリーコ・ルッジェーロ)の洗礼名を与えられる<ref name="komoriya160"/>。この名は、父方の祖父[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]と、母方の祖父であるシチリア王国の建国者[[ルッジェーロ2世]]の両方の名前にあやかったものである<ref name="lar351">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、351頁</ref>。さらに洗礼名とともにコンスタンティヌスという名前を与えられた伝承も存在するが、真意は不明である<ref>西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、248頁
母コンスタンツェは相続権を有するシチリアにフリードリヒを連れて戻り、皇帝の相続権を放棄した上で帝国から[[シチリア王国]]を切り離し、3歳のフリードリヒをシチリア王にし、自ら[[摂政]]となった。コンスタンツェもその翌年[[1198年]]に没し、フリードリヒは教皇[[インノケンティウス3世_(ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]の後見を受けて[[パレルモ]]で成長した。
</ref>。


=== 父母の死 ===
当時の[[シチリア島]]は[[キリスト教]]文化と[[イスラム教|イスラーム教]]文化とが[[ノルマン人]]王朝([[オートヴィル朝]])の下で融合しており、独特の文化を生み出していた。幼い頃より市井を探検するのが好きだったフリードリヒ2世は、ここでキリスト教徒やイスラーム教徒といったさまざまな価値観を持つ人間に触れ、数ヶ国語を話すことが出来たという。彼の異教徒への寛容と理解の精神はこの頃に育まれたものだと見る事が出来よう。また、イスラーム世界で進んでいた自然科学に興味を持ち、イスラーム文化の1つである[[鷹狩]]に関する著書を記している。これは彼自身による詳細な生物観察のもとに記されているのが特徴である。著書の中でしばしば書かれている「ありのままに見よ」という言葉が、彼の自然科学者としての素質を示している。
父ハインリヒはコスタンツァと結婚した事で神聖ローマ皇帝位に加えてシチリア王位も手に入れ、南部イタリア全土、イタリア北部、ドイツ、[[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]]に至る広大な領土を有していた<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、102頁</ref><ref>トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、350-351頁</ref>。[[1197年]]にハインリヒが遠征中に病没すると、ドイツの支配権を欲するフリードリヒの叔父シュヴァーベン公[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]と、シチリア支配を望むパレルモの廷臣であるラヴェンナ公マルクヴァルトがフリードリヒを傀儡に据えようとする。ハインリヒの遺言でフリードリヒの摂政を務めていたコスタンツァは2人に対抗するため、教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]を頼った<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、103頁</ref>。インノケンティウスはフィリップのドイツ王即位、ローマ教皇のシチリア王国に対する宗主権の承認を条件に出し、[[1198年]]5月17日にフリードリヒにシチリア王位が戴冠される<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、103-104頁</ref>。


1198年11月27日に摂政を務めていたコンスタンツェが没すると、孤児となったフリードリヒはインノケンティウスの後見を受けることになる<ref name="horupu134"/>。
=== 神聖ローマ皇帝 ===
[[1210年]]、神聖ローマ皇帝[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]は教皇によって[[破門]]された。翌[[1211年]]、[[ドイツ]]の[[諸侯]]は選挙によって教皇の支持を受けたフリードリヒをドイツ王に選出した。[[1212年]]、フリードリヒは[[マインツ]]で戴冠してその後7年間ドイツに滞在した。オットー4世は[[1214年]]の[[ブーヴィーヌの戦い]]で[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]に敗れると諸侯の支持を失い廃位、フリードリヒが名実共にドイツ王として認められた。


=== 成人まで ===
なお、教皇インノケンティウス3世はフリードリヒがドイツ王の位に就く時、シチリア王位を嫡子([[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ7世]])に譲らせ、さらにシチリアに留め置く事としたが、[[1216年]]の教皇の死後、フリードリヒ2世はハインリヒを呼び戻した。
フリードリヒが生まれた当時の[[シチリア島]]は、[[ノルマン人]]王朝([[オートヴィル朝]])建国前から根付いていた[[イスラム教|イスラム]]文化と[[ビザンティン文化]]、ラテン文化が融合しており、独特の文化を生み出していた<ref name="kikuchi105">菊池『神聖ローマ帝国』、105頁</ref>。インノケンティウス3世はフリードリヒの元に高位聖職者からなる家庭教師を兼ねた執権団を派遣するが<ref name="kikuchi104">菊池『神聖ローマ帝国』、104頁</ref><ref name="komoriya162">小森谷『シチリア歴史紀行』、162頁</ref>、執権団が到着した時、4歳のフリードリヒはすでに[[ラテン語]]を習得しており、歴史と哲学の書籍を読み始めていた<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、85頁</ref>。幼少のフリードリヒは自分を利用しようとする周りの党派に翻弄され、[[1202年]]から[[1206年]]の間にはマルクヴァルトの人質にもされた<ref name="lar352">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、352頁</ref><ref name="komoriya162"/><ref name="kan44">カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、44頁</ref>。人質生活の中では必需品にも欠き、同情したパレルモの市民たちはフリードリヒに食糧を分け与えた<ref name="kan44"/>。フリードリヒはパレルモの文化の影響を受けて成長し<ref name="horupu134"/><ref name="lar352"/>、ラテン語・[[ギリシア語]]・[[アラビア語]]などの6つの言語を習得し、科学に強い関心を示すようになった<ref name="horupu134"/><ref name="lar352"/><ref name="kikuchi104"/>。また、フリードリヒは肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示した<ref name="kikuchi104"/>。<!-- ルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻、134頁 では「教皇はフリードリヒの教育を顧みなかった」 -->


一方、ドイツ本国はシュヴァーベン公フィリップを支持する派閥と[[ヴェルフ家]]の[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー]]をドイツ王に推す派閥に分裂しており、それぞれの派閥に属する諸侯が互いに争っていた<ref name="lar351"/>。[[1208年]]にフィリップが暗殺されると<ref name="kikuchi106">菊池『神聖ローマ帝国』、106頁</ref>、インノケンティウス3世の働きかけを受けた諸侯は11月にオットーをドイツ王に選出した<ref>西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、251頁</ref>。
[[1220年]]、フリードリヒ2世はハインリヒ7世にドイツの支配を委ねてパレルモに戻り、[[十字軍]]の実行と引き換えに新教皇[[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]から神聖ローマ皇帝位を認められる。この時ドイツの聖職者諸侯はハインリヒ7世の王位を認める代わりに、関税徴集権・貨幣鋳造権・築城権、および領内裁判権の大半を与えられた。また、[[ドイツ騎士団]]の東方進出を認め、これにより[[プロイセン]]形成の基礎が作られた。

[[1209年]]に成年を迎えたフリードリヒは10歳年上の[[アラゴン王国]]の王女[[コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ|コスタンツァ]]と婚約し、シチリア王位を望む意思を表明した<ref name="lar352"/>。コスタンツァは女官、吟遊詩人、騎士団とともにパレルモに入城し、フリードリヒは彼女からプロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった<ref name="komoriya162"/>。この年フリードリヒが成年に達したため、インノケンティウス3世は後見人の地位から降りなければならなかったが、フリードリヒがドイツ王位を継ぐことを恐れたインノケンティウス3世はオットーの戴冠式を強行し、オットーが神聖ローマ皇帝位に就いた<ref name="kikuchi106"/>。

=== 神聖ローマ皇帝即位 ===
[[File:Lucera0001.jpg|thumb|200px|ルチェーラの城砦]]
強引なオットーの即位にホーエンシュタウフェン家が反発したためにホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立が再発し、ドイツに内乱が起きる<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、106-107頁</ref>。
オットーはイタリアに矛先を向けて教皇領とシチリアに侵攻し、インノケンティウス3世は報復として彼を破門、ドイツでの反乱を扇動した<ref name="fujisawa87">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、87頁</ref>。

この処分を受けて[[1211年]]にドイツ諸侯は[[ニュルンベルク]]でオットーの廃位とフリードリヒのドイツ王選出を決定し<ref name="fujisawa87"/><ref name="kikuchi107">菊池『神聖ローマ帝国』、107頁</ref>、フリードリヒにドイツに向かうよう要請した<ref name="horupu134"/>。フリードリヒはドイツを訪れる前にインノケンティウス3世が出した教皇の宗主権の再確認、生まれたばかりの子[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]へのシチリア王譲位という条件を呑み、[[1212年]]にドイツに到着した<ref name="kikuchi107"/><ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、87-88頁</ref>。後年フリードリヒはこの激動が続いた時期を、「神によって奇跡的にもたらされたもの」だと述懐した<ref name="nishikawa255">西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、255頁</ref>。

12月5日に[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]でフランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]と教皇の使者が見届ける中でフリードリヒはドイツ王に選出され、12月9日にマインツで戴冠した<ref name="nishikawa255"/>。フリードリヒは[[フランス王国|フランス]]からの援助を受け、諸侯に対しては特許状を発行して支持を集めて吝嗇な性格のオットーに対抗した<ref>西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、255-256頁</ref>。[[1214年]]の[[ブーヴィーヌの戦い]]での敗北でオットーの没落は決定的になり<ref name="fujisawa88">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、88頁</ref><ref name="saito178">齋藤「二つのイタリア」『イタリア史』、178頁</ref><ref>阿部謹也『物語ドイツの歴史 ドイツ的とはなにか』(中公新書, 中央公論社, 1998年5月)、36頁</ref><ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、89頁</ref>、フリードリヒは名実共にドイツ王として認められた。[[1215年]]にフリードリヒは[[アーヘン大聖堂]]でドイツ王に正式に戴冠され、十字軍の遠征に赴くことを誓約した<ref name="kikuchi108">菊池『神聖ローマ帝国』、108頁</ref><ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、92頁</ref>。フリードリヒの宣言に満足したインノケンティウス3世はハインリヒがドイツに移ることを認め、翌1216年に没した<ref name="kikuchi108"/>。ドイツ滞在中、フリードリヒは[[アルザス地域圏|エルザス]]、[[ライン川|ライン河畔]]、[[ヴォルムス]]、[[シュパイアー]]に滞在し、諸侯に積極的に干渉しようとはしなかった<ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、96-97頁</ref>。フリードリヒはドイツ統治において、ハインリヒ6世没後に諸侯が獲得した特権を[[1213年]]と[[1220年]]の2度にわたって承認し、聖俗両方から支持を獲得した<ref name="horupu134"/>。

=== シチリアの復興 ===
[[1220年]]にフリードリヒはハインリヒを共同統治者としてドイツ王の地位に置き、ハインリヒと顧問団にドイツの支配を委ねて<ref>西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、271頁</ref>パレルモに戻った。フリードリヒは新教皇[[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]から[[十字軍]]の実行と引き換えに神聖ローマ皇帝位を認められ、荒れ果てたシチリアの統治に取り掛かった<ref name="horupu134"/><ref>菊池『神聖ローマ帝国』、108-109頁</ref>。シチリアではドイツとは逆に強権的な政策を布き、[[グリエルモ2世]]の死後にシチリアの都市と貴族に与えられていた特権を廃した<ref name="saito178"/><ref>西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、265頁</ref>。貴族の拠る城砦は破壊されて新たに皇帝直轄の城が建設され、自治都市には皇帝直属の行政官が派遣された<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、92-93頁</ref>。フリードリヒに反抗して自治を貫こうとした[[メッシーナ]]は弾圧を受け<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、93頁</ref>、教会にも帝国の介入が及んだ<ref name="saito178"/>。

またフリードリヒの軍はシチリア南部で山賊行為を行っていたイスラム教徒を討伐し、10,000人のイスラム教徒を捕らえた<ref name="saito178"/><ref name="komoriya163"/>。フリードリヒは捕らえたイスラム教徒を新たに建設した都市[[ルチェーラ]]に移住させ、彼らに自治を許した<ref name="lar354">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、354頁</ref>。フリードリヒに感謝したルチェーラの住民は軍事的協力を約束し、彼らは後にフリードリヒの指揮下で教皇派と戦うことになる<ref name="komoriya163"/><ref name="lar354"/>。
[[1224年]]には官僚の養成機関として、[[法学]]と[[修辞学]]を教授する{{仮リンク|ナポリ大学|en|University of Naples Federico II}}が創立された<ref name="lar354"/><ref name="kikuchi114">菊池『神聖ローマ帝国』、114頁</ref>。


=== 破門十字軍 ===
=== 破門十字軍 ===
[[File:Fridrich2 Al-Kamil.jpg|thumb|200px|フリードリヒ2世とアル・カーミルの交渉<br/>フリードリヒ2世:左から2番目の人物<br/>アル・カーミル:中央の人物]]
教皇からは十字軍遠征を度々催促され、遅延を理由に破門される。[[1225年]]11月9日、[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]の娘の[[エルサレム王国|エルサレム]]女王[[イザベル2世 (エルサレム女王)|イザベル2世]]と結婚。[[1228年]]、フリードリヒ2世は[[第6回十字軍]]を起こし、[[エルサレム]]に向かった。フリードリヒ2世とイタリア支配権を争っていた教皇[[グレゴリウス9世_(ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は彼を反キリストと罵り、破門皇帝の軍を正式な十字軍とは認めなかった。
{{See also|第6回十字軍}}
1222年に[[エルサレム王国|エルサレム王]][[ジャン・ド・ブリエンヌ]]の一行が、神聖ローマ帝国領の[[ブリンディジ]]に上陸する。フリードリヒはブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かった。ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒとブリエンヌの娘[[イザベル2世 (エルサレム女王)|ヨランド]](イザベル)の結婚、結婚後2年以内にフリードリヒが十字軍に参加する取り決めが交わされる<ref name="har421">ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、421頁</ref>。[[1225年]]11月9日にフリードリヒは成人したヨランドと再婚し(最初の妻コンスタンツェは[[1222年]]に死没していた)、同時にブリエンヌにエルサレム王位とヨランドが有する権利を譲渡させた<ref name="har421"/>。


[[1227年]]にホノリウス3世が没した時にもフリードリヒの遠征はいまだ実行に移されておらず<ref name="horupu134"/>、教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は破門をちらつかせ、[[1228年]]にフリードリヒは40,000の軍を率いて[[エルサレム]]に向かう<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、109-110頁</ref>。道中で軍内に疫病が流行り、フリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を踏まずに帰国した。この時にフリードリヒは[[サレルノ大学]]の衛生学に触れ、中世ヨーロッパでは稀な毎日入浴する衛生感を身に付けた<ref name="komoriya164">小森谷『シチリア歴史紀行』、164頁</ref>。しかし、グレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため<ref name="nishikawa266">西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、266頁</ref>、仮病と判断してフリードリヒを破門する。フリードリヒは破門が解除されないまま[[第6回十字軍]]を起こして再びエルサレムに向かい、道中で[[キプロス王国]]の政争に介入した。
新皇帝となったフリードリヒ2世は聖地奪回を教皇に宣誓した。[[アイユーブ朝]][[スルタン]]の[[アル・カーミル]]は使節をシチリア島の皇帝のもとに派遣した。使節はそこでキリスト教の教会に描かれたイスラーム教徒の像や、[[アラビア語]]の刺繍の入ったマントを着るフリードリヒ2世を見て驚愕する。報告を受けたアル・カーミルはフリードリヒ2世に書簡を送り、ここから2人の交友が始まった。2人は十字軍に関する話題を避け、お互いが共通に興味を抱く自然科学に関する話題をアラビア語で行ったという。しかし教皇からの執拗な聖地奪回の要請を拒みきれなかったフリードリヒ2世は、精強な軍を率いつつもそれを「背景」に留めてアル・カーミルとの交渉を繰り返し、それによって[[聖地]]を回復した。この交渉には5ヶ月近い日々が費やされ、最終的にお互いが大きく譲歩することで和解した。


教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり<ref name="tar125">ジョルジュ・タート『十字軍』(南条郁子、松田廸子訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 1993年9月)、125頁</ref>、現地の将兵はフリードリヒへの協力を拒否した<ref name="fujisawa96">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、96頁</ref>。一方、エルサレムを統治する[[アイユーブ朝]]のスルターン・[[アル・カーミル]]は、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略した[[フランク人]]たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた<ref name="kikuchi111"/>。
和平協定の大まかな内容は以下の通り。
* イスラームの君主(スルタン:アル・カーミル)は皇帝(神聖ローマ皇帝:フリードリヒ2世)にエルサレムの統治権を譲る。
* [[岩のドーム]]はイスラーム教徒が管理する。
* この和平協定を破るような軍事行動を禁じる。
* もしキリスト教世界でエルサレムへ軍を送ろうとする動きがあれば、神聖ローマ皇帝はイスラームの君主を守る。
* イスラームの威厳と尊厳を理解する者ならば、たとえキリスト教徒であっても岩のドームに立ち入れる。


フリードリヒとアル・カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合い、エルサレム返還の交渉も進められた<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、111-112頁</ref>。フリードリヒは血を流すこともなく<ref name="kikuchi112">菊池『神聖ローマ帝国』、112頁</ref>、1229年2月11日にアル・カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された<ref>ジョルジュ・タート『十字軍』(南条郁子、松田廸子訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 1993年9月)、125,191頁</ref>。両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた<ref name="tar125"/><ref>橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫, 講談社, 1994年6月)、230頁</ref>。
[[エルサレム]]に入城したフリードリヒ2世は、[[聖墳墓教会]]でエルサレム国王として戴冠した。この時岩のドームを訪れたフリードリヒ2世に配慮したイスラーム教徒たちが、定時の祈りの声を挙げないようにした。これを聞いたフリードリヒ2世は不快感を示し、「私はエルサレムへ着いたら、イスラーム教徒の祈りの声を聞くことを楽しみにしていた」と言った。彼の気持ちを知ったイスラーム教徒らは祈りの斉唱をしたという。
* キリスト教徒への[[聖墳墓教会]]の返還<ref name="tar125"/>
* イスラム教徒による[[岩のドーム]]と[[アル=アクサー・モスク]]の保有<ref name="tar125"/>
* 軍事施設の建設の禁止<ref name="hashiguchi231">橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫, 講談社, 1994年6月)、231頁</ref>


しかし、現地の[[騎士修道会]]の中でエルサレムの返還を喜んだのは[[ドイツ騎士団]]だけであり、[[聖ヨハネ騎士団]]と[[テンプル騎士団]]は不快感を示した<ref>橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫, 講談社, 1994年6月)、230-231頁</ref>。エルサレムに入城したフリードリヒはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日に聖墳墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠した<ref name="kikuchi112"/><ref name="komoriya164"/>。現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をドイツ騎士団に任せてシチリアに帰国する<ref name="hashiguchi231"/>。
これにはフリードリヒ2世の語学的才能と外交の手腕が生かされており、パレルモの宮廷におけるイスラム教徒との接触で養った合理主義がよく表れている。しかし、教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世の行ったイスラム教徒との交渉を背教と非難した為、[[教皇派と皇帝派]](ゲルフとギベリン)の争いはエルサレムに持ち込まれ、戴冠式に出席した[[騎士修道会|聖地騎士団]]はドイツ騎士団だけだった。


帰国に際して[[アッコ]]に移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対するテンプル騎士団の本部を包囲した<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、426-427頁</ref>。5月1日にフリードリヒは包囲を解いて密かに帰国し、アッコの住民の一部がフリードリヒの一行に罵声を浴びせた<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、427頁</ref>。
フリードリヒ2世の支配の下、キリスト教徒巡礼者の安全は保障され、[[ムスリム]]もそれまでどおりの生活を許されたが、休戦期間は10年でありエルサレムの城壁の再建も許されていなかった為、その支配の継続性は極めて危ういものだった。


=== ハインリヒ7世の反乱 ===
しかも、イタリアにおいて教皇派と皇帝派の争いが再燃し、フリードリヒ2世は帰国を余儀なくされた。帰国したフリードリヒ2世が教皇派の軍を撃破すると、教皇の権威は失墜、[[1230年]]に和解、破門は解かれた。エルサレムの休戦は[[1240年]]に切れ、[[1244年]]に再びイスラム教勢力により陥落したが、[[イタリア政策]]で教皇と対立するフリードリヒ2世には、これに対処する余裕も意思も無かった。
[[File:EzzIII.jpg|thumb|180px|エッチェリーノ・ダ・ロマーノ。後にフリードリヒの女婿となる。]]
[[File:Henry 7 Stauf.jpg|thumb|180px|15世紀に描かれた絵画。<br/>左:フリードリヒ2世<br/>右:身を投げるハインリヒ7世]]
==== フリードリヒのイタリア統治 ====
フリードリヒの遠征中、グレゴリウス9世は北イタリア諸都市を唆して南イタリアを攻撃した<ref name="lar356">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、356頁</ref>。帰国したフリードリヒは都市を占領していた教皇派の軍隊を撃退し、グレゴリウスを威嚇しつつ和議を提案した<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、97頁</ref>。[[1230年]]にドイツ騎士団の仲介と皇帝側の譲歩の結果、サン・ジェルマノの和約が成立し、フリードリヒの破門が解除された<ref name="nishikawa266"/>。講和では同時にヴェローナのエッチェリーノの破門の解除、港湾都市[[ガエータ]]の神聖ローマ帝国への編入が認められ、教皇側には屈辱的な結果に終わる<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、97-98頁</ref>。<!-- 藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、97頁 では「イタリアで皇帝死亡の噂が流れ、教皇派が南イタリアに侵入」 -->


[[1231年]]のメルフィの会議で、フリードリヒはかつてのローマ皇帝たちが施行した法令を元に編纂した『皇帝の書(リベル・アウグスタリス)』を発布する
=== 息子の反乱 ===
<ref name="fujisawa99">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、99頁</ref><ref>トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、353-354頁</ref>。
世俗の諸侯は混乱に乗じて、聖職者諸侯が得た特権と同じものを皇帝に要求し、フリードリヒ2世はイタリア政策に専念する為これを認めた。王権の強化を狙っていた嫡子ハインリヒ7世は父帝の政策に反発し、[[1235年]]に反乱を起こしたが敗れて幽閉され、その後に自殺した。また反乱に加担した[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]][[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]](好戦公)を追放し、[[1237年]]にオーストリアを皇帝直轄地とした。
* 都市・貴族・聖職者の権利の制限<ref name="saito178"/><ref name="horupu135">ルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻、135頁</ref>
* 司法・行政の中央集権的性質の確立<ref name="horupu135"/>
* 税制・金貨の統一<ref name="horupu135"/>
上記以外に、18世紀の[[啓蒙思想]]を先取りしたとも言われる規定が存在した<ref name="komoriya165">小森谷『シチリア歴史紀行』、165頁</ref>。
* 貧民を対象とした無料の職業訓練・診察<ref name="komoriya165"/>
* 私刑の禁止<ref name="komoriya165"/>
* 薬価の制定<ref name="komoriya165"/>
* 役人に対する不敬・賄賂の禁止<ref name="komoriya165"/>


『皇帝の書』の発布によってシチリアには絶対主義的な体制が成立し<ref name="horupu135"/>、フリードリヒはかつての[[ローマ帝国|ローマ]]の権威と伝統を復興させる意思を顕わにした<ref name="lar354"/><ref name="fujisawa99"/><ref>菊池『神聖ローマ帝国』、114頁</ref>。また、制定した法令を国民に周知させるため、コロックイアという会合が各地で開かれた<ref name="komoriya165"/>。同1231年には北イタリア都市へのポデスタ(行政長官)の任命によって、北イタリアの都市にも支配を行き渡らせることを試みた<ref name="horupu135"/>。
フリードリヒ2世のイタリア支配は安定した成功を収める事がなく、[[1237年]]の[[コルテヌオヴァの戦い]]のようにしばしば軍事的な勝利を収める事はあったものの、教皇に従うドイツの諸侯や独立を望む[[ロンバルディア同盟]]などの頑強な抵抗に遭って頓挫した。[[1245年]]、教皇[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]は、フリードリヒ2世をイスラム教徒の友人、[[異端]]と非難して破門、皇帝の解任を宣言し、以降次々に[[対立王]]を擁立した([[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ハインリヒ・ラスペ]]、[[ホラント伯]][[ウィレム2世 (ホラント伯)|ウィレム2世]])。


[[1232年]]に開催されたフリウリの諸侯会議の後、北イタリアの都市[[ヴェローナ]]が神聖ローマ帝国に帰順し、ヴェローナの領主{{仮リンク|エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ|en|Ezzelino III da Romano|label=エッチェリーノ・ダ・ロマーノ}}は北イタリアの皇帝派の中心人物となる<ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、410-411,426頁</ref><ref name="saito180">齋藤「二つのイタリア」『イタリア史』、180頁</ref>。また、他の北イタリアの自治都市のうち[[ピサ]]、[[シエーナ|シエナ]]、[[クレモナ]]、[[モデナ]]もフリードリヒを支持した<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、94頁</ref>
フリードリヒ2世は1250年12月13日、カステル・フィオレンティーノ(現在の[[フォッジャ県]][[サン・セヴェーロ]]付近)で教皇との抗争中に没し、遺体は棺に納められ彼の軍隊の[[ムスリム|イスラム教徒]]の兵士によってパレルモまで運ばれたという(死に関しては[[アル・カーミル]]も参照)。


==== ドイツのハインリヒ7世 ====
次男の[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]が後を継いだが、ホーエンシュタウフェン朝の支配は揺るぎ始める。
官僚制度の発達が進められる南イタリアとは異なり、ドイツは諸侯の分断統治に委ねられており、国王が直接支配する地域は限定されていた<ref>西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、270頁</ref>。ドイツはイタリアの属州とも言える状態にあり、ドイツ王の地位にあったハインリヒ7世は父フリードリヒの総督でしかなかった<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、116頁</ref>。


ハインリヒは積極的に王権を強化する方策を採り、聖界諸侯(高位聖職者)が領有する都市の自治運動を支援し、彼らの領地経営に介入した<ref name="nishikawa272">西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、272頁</ref>。ハインリヒに反発する諸侯は1231年にヴォルムスで「諸侯の利益のための協定」を結ばせ、多くの特権を認めさせた<ref name="nishikawa272"/>。諸侯は協定の順行を掲げ、王としての統治を望むハインリヒは諸侯の専横とフリードリヒの政策に不満を抱いた<ref name="lar356"/><ref name="kikuchi117">菊池『神聖ローマ帝国』、117頁</ref>。ドイツ・イタリア双方からの圧迫を憂慮するグレゴリウスは[[ロンバルディア同盟]]の再結成を指導し<ref name="horupu135"/><ref name="kikuchi118">菊池『神聖ローマ帝国』、118頁</ref>、ハインリヒに反乱を唆した<ref name="kikuchi117"/>。
==世界の驚異==
*当時十字軍に[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]を追われていた[[東ローマ帝国]]の亡命政権([[ニカイア帝国]])の皇帝[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス|ヨハネス3世]]と[[ギリシャ語]]で親しく書簡を交し合い、庶子のコンスタンツェをヨハネス3世の下へ嫁がせている。本来ニカイア帝国は西欧にとっては敵対勢力であったにもかかわらず、むしろ反ローマ教皇の同盟者として扱っていたのである。この事からも、いかにフリードリヒ2世が宗教・[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]の枠にとらわれない人物であったかが良く分かる。
*シチリア王国にローマ法に基づく中世最初の国家法典「皇帝の書」(Liber Augustalis)を制定した。
*シチリアは歴史的にギリシア人、アラブ人、イタリア人が同居し、これにノルマン人、ユダヤ人、ドイツ人が加わり、海外との交流も多い国際色豊かな土地であり、その中で育ったフリードリヒ2世はドイツ人というよりシチリア人であり、ノルマン朝の後継者であった。東ローマ風の王宮に住み、[[ハーレム]]に多くのアラブ人女性をはべらせていたという。
*好奇心あふれる学者であり、動物学や[[占星術]]に興味を持ち、パレルモに巨大な動物園を持ち、[[ナポリ大学]]を創設している。鷹狩を好み、鷹の飼育に関する詳細な著作をしている。文学も好み、9ヶ国語を操り、[[ラテン語]]で著作をし、シチリア語で詩を作った。


== 逸話 ==
==== 息子の死 ====
グレゴリウス9世の誘いに乗ったハインリヒは、[[1234年]]にロンバルディア同盟と結託して反乱を起こす。しかし、ハインリヒに味方する諸侯はほとんどおらず<ref name="kikuchi118"/>、フリードリヒがほとんど軍勢を連れずにドイツに現れるとハインリヒの敷いた防衛戦は瓦解した<ref name="nishikawa276">西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、276頁</ref>。[[1235年]]7月にハインリヒは降伏<ref name="nishikawa276"/>、王位と継承権を剥奪され、盲目にされた上で[[プッリャ州|プーリア]]の城に幽閉された<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、104頁</ref>。[[1242年]]2月にハインリヒは別の城に護送される道中で、谷底に身を投げて自殺した<ref name="kikuchi118"/>。
{{commons|Frederick II, Holy Roman Emperor}}

* 様々な言語が飛び交うパレルモで育ったフリードリヒ2世は、人は自然には何語を話すのか疑問に思い、生まれたばかりの赤子を集めて一切話しかけずに育てたところ、いずれも死んでしまったという。
=== 教皇との抗争 ===
* 母コンスタンツェがフリードリヒ2世を生んだのは40歳で、本当に妊娠しているのか疑う者もいたため、町の広場で多くの人間の証人の元で出産したといわれる。
[[File:Cortenuova1237.JPG|thumb|200px|コルテノーヴァの戦い]]
[[File:Federico II Parma.jpg|thumb|200px|パルマの敗戦]]
[[File:Palermo-sarcofago di federico II.jpg|thumb|200px|カテドラル内のフリードリヒ2世の棺]]
1235年7月のヴォルムスの集会ではハインリヒの廃位とともに、フリードリヒと[[イングランド]]王女[[イザベラ・オブ・イングランド|イザベラ]]との結婚が執り行われた<ref name="nishikawa276"/>。集会の後にフリードリヒはマインツに向かい、13世紀で最大規模の集会を開催する<ref name="nishikawa276"/>。この集会ではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の和解<ref group="注">オットー4世の甥であるヴェルフェン家の当主、[[リューネブルク]]の[[オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|オットー]]がフリードリヒに服属。オットーの領地であるリューネブルクと王領の[[ブラウンシュヴァイク]]を合わせた大公領([[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家]]を参照)が作られ、オットーに授与された。(西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、276頁)</ref>、[[ラント平和令]]の発布、1236年春のロンバルディア同盟への遠征が決定された<ref name="nishikawa276"/>。

ハインリヒの反乱が鎮圧されるとロンバルディア同盟の都市は蜂起し、フリードリヒの軍はイタリアに攻め込んだ<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、105頁</ref>。[[1237年]]11月27日の{{仮リンク|コルテノーヴァの戦い|en|Battle of Cortenuova}}で、フリードリヒはロンバルディア同盟軍に勝利する。しかし、戦後の講和は難航し、同盟の中心都市である[[ミラノ]]を屈服させることはできなかった<ref name="saito180"/>。フリードリヒは講和を拒んだ[[ブレシア]]の包囲に失敗し、また[[ヴェネツィア]]と[[ジェノヴァ]]が教皇側に加わる<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、106頁</ref>。

[[1237年]]2月の[[ウィーン]]の集会で、フリードリヒは次子の[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート]]をドイツ王に就けた<ref>西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、281頁</ref>。

[[1239年]]にグレゴリウス9世はフリードリヒが庶子{{仮リンク|エンツォ (サルデーニャ王)|en|Enzio of Sardinia|label=エンツォ}}に与えたサルデーニャ王位を剥奪し、一度は取り消した破門を再び行った<ref name="lar357">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、357頁</ref>。皇帝と教皇の争いはイタリアの都市間の抗争、都市内部の派閥にも波及し、[[教皇派と皇帝派|皇帝派と教皇派]](ギベリンとゲルフ)に分かれて争った<ref name="lar357"/>。教皇派はフリードリヒを[[反キリスト|アンチキリスト]]と呼び、フリードリヒは福音にかなった清貧を説いて教皇派に対抗した<ref name="lar357"/>。

フリードリヒは教皇が開く[[公会議]]に参加する者は敵とみなすと脅しをかけて対抗し、公会議に向かう聖職者を捕らえて投獄した<ref name="kikuchi119">菊池『神聖ローマ帝国』、119頁</ref>。[[1241年]]にグレゴリウスは没し、グレゴリウスの次に即位した[[ケレスティヌス4世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス4世]]は在位17日で没した。ケレスティヌス没後の[[コンクラーヴェ]]では選挙に参加する枢機卿のうち2人がフリードリヒに捕らえられ、新教皇の選出は1年半後にまで延びた<ref name="kikuchi119"/>。この間フリードリヒはローマへの進軍を行わず、体勢を立て直した教皇庁は[[1243年]]に[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]を新教皇に選出した<ref name="fujisawa108">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、108頁</ref>。

フランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の仲介でフリードリヒとインノケンティウスの交渉が始まり、[[1244年]]にフリードリヒが捕らえた聖職者が釈放される<ref name="fujisawa108"/>。しかし、ロンバルディア同盟は講和に反対し、インノケンティウスの出身地であるジェノヴァも和平を拒んだために交渉は難航した<ref name="fujisawa108"/>。インノケンティウスは密かに[[リヨン]]に逃れ、[[1245年]]6月26日のリヨン公会議でフリードリヒの廃位と彼の封建家臣の主従関係の解除を宣言した<ref name="fujisawa108"/><ref name="lar358">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、358頁</ref>。インノケンティウス4世はフリードリヒに対する十字軍を呼びかけ、イタリア・ドイツの各地で反乱が勃発した<ref name="kikuchi120">菊池『神聖ローマ帝国』、120頁</ref>。しかし、教皇権の伸張を恐れる多くの王と君主は破門に批判的であり、ルイ9世もフリードリヒに同情を示していた<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、234頁</ref>。

破門の宣告に対し、フリードリヒは「世界の鉄槌」として抗戦する意思を顕わにする<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、234-235頁</ref>。フリードリヒは直属の[[ムスリム|イスラム教徒]]の兵士を率いてイタリア各地を転戦し、またドイツでは聖界諸侯によって[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ハインリヒ・ラスペ]]がコンラートに対立するドイツ王に選出された<ref name="lar358"/>。

[[1246年]]の[[復活祭]]の前日、教皇派によるフリードリヒとエンツォの暗殺計画が発覚する。さらに、パルマ執政官ティバルト・フランチェスコ、トスカーナの前執政官パンドルフォ・ファサネッラら側近たちも計画に加担していた。彼らが陰謀に加わった理由は明らかではないが、フリードリヒが帝国の要職を身内で固めたために進退に不安を覚えたためだと言われている<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、238頁</ref>。逮捕された謀反人たちは目を潰され、残忍な[[身体刑]]を与えられて命を絶たれた<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、237-238頁</ref>。

=== 最期 ===
[[1247年]]にハインリヒ・ラスペが没した後、[[ホラント伯]][[ウィレム2世 (ホラント伯)|ウィレム2世]]が教皇党によって対立王に選出されたが、ウィレム2世は戴冠式の後に領地に帰国し、しばらくの間ドイツ王としての活動は行わなかった<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、130頁</ref>。ハインリヒ・ラスペが没した後、フリードリヒは教皇派との和解のため、リヨンのインノケンティウスの元に向かおうとした<ref name="kan683685">カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、683-685頁</ref>。しかし、フリードリヒの計画が実現する前に[[パルマ]]が教皇派によって陥落したため、リヨンの訪問を諦めなければならなかった<ref name="kan683685"/>。

教皇派の勢力下に置かれたパルマにはフリードリヒに対立する人間が多く集まり、またパルマの陥落をきっかけにイタリア全土でフリードリヒに対する反乱が起きる<ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、685-686頁</ref>。[[1248年]]に教皇の破門はフリードリヒの一族全員に及ぶ<ref name="lar358"/>。フリードリヒはパルマを兵糧攻めにするため、包囲にあたって町の近くに「ヴィットリア」(勝利)と名付けた町を建設し、パルマへの通行を妨害した。1248年2月18日の早朝、フリードリヒが供を連れて鷹狩りに出かけた隙をついてパルマ市民がヴィットリアを奇襲、町は陥落し財貨や兵器が略奪された({{仮リンク|パルマの戦い|en|Battle of Parma}})<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、243頁</ref>。狩猟中に街の陥落を知ったフリードリヒは一旦クレモナに退却、軍を編成して2月22日にパルマを再包囲するが攻略に失敗した。この戦いについて同時代の年代記の著者サリンベーネは、「パルマの敗戦がフリードリヒの破滅の原因となった」と記した<ref>{{cite web|last=Roversi Monaco|first=Francesca|title=Parma|url=http://www.treccani.it/enciclopedia/parma_(Federiciana)/|work=Federiciana|publisher=[[Enciclopedia Italiana]]|accessdate=24 July 2011}}</ref>。教皇派はパルマの勝利に勢いづき、ロマーニャ地方の都市や[[ラヴェンナ]]が教皇派に転じた<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、244頁</ref>。

[[1249年]]には『皇帝の書』編纂事業の中心人物でもある宰相ピエロ・デレ・ヴィーニェの反乱と、侍医による暗殺計画が発覚する<ref name="fujisawa110"/>。さらに将来を期待されていた子エンツォが[[ボローニャ]]軍に敗れ、ボローニャ内の塔に監禁される不測の事件が起きる<ref name="fujisawa110"/>。エンツォ釈放のためにボローニャに大幅な譲渡を提案するが、交渉は失敗に終わった。しかし、この年に北イタリア情勢は好転し、パルマもエンツォの後任であるオベルト・パッラヴィチーニによって陥落した<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、249頁</ref>。教皇インノケンティウス4世は資金の欠乏とフリードリヒとの講和を拒むことに苛立つルイ9世からの圧力によって方針の転換を迫られていた<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、250頁</ref>。

1250年、この年にフリードリヒが出陣することは無かった<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、112頁</ref>。8月にドイツのコンラートがホラント伯ウィレムに勝利し、教皇派の支持者を味方に付けた吉報が届けられる。

同年の晩秋、ルチェーラ近郊で鷹狩を楽しんでいたフリードリヒは突如激しい腹痛に襲われた<ref name="komoriya168">小森谷『シチリア歴史紀行』、168頁</ref>。幼馴染であるパレルモ大司教ベラルドから終油の秘蹟を受け、12月13日に庶子[[マンフレーディ]]と重臣たちに看取られ、カステル・フィオレンティーノ(現在の[[フォッジャ県]][[サン・セヴェーロ]]付近の城砦)で没した<ref name="komoriya168"/>。防腐処理された遺体は海路で[[ターラント]]からパレルモまで運ばれ、彼の遺言に従って{{仮リンク|カテドラル (パレルモ)|en|Palermo Cathedral|label=カテドラル}}に埋葬された<ref name="komoriya168"/>。遺言にはコンラートが神聖ローマ皇帝位とシチリア王位を相続し、コンラートが不在の場合はマンフレーディが代理人として帝位と王位を保持するよう記されていた<ref>西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、284頁</ref>。

フリードリヒの死について、インノケンティウス4世は「天地が喜ぶ」と書き記し、追い詰められていた教皇派は彼の死に安堵した<ref name="yoshi255">吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、255頁</ref>。他方、イングランドの年代記作家マシュー・パリスは「偉人」「世界の驚異」「変革者」が没したと記録している<ref name="yoshi255"/>。

没後、フリードリヒの死を信じようとしない者は多く、不死伝説も生まれた<ref name="abe">阿部謹也『物語ドイツの歴史 ドイツ的とはなにか』(中公新書, 中央公論社, 1998年5月)、37頁</ref>。フリードリヒは死んでおらず、[[エトナ火山]]に身を隠している、あるいは[[ハルツ山地|ハルツ山]]中の洞穴で眠りについていると噂された<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、254頁</ref>。[[1284年]]には[[ケルン]]にフリードリヒ2世を名乗る人物が現れ、一時期独自の宮廷を開いていた<ref name="abe"/>。

== ドイツ領邦国家の原型 ==
1213年、フリードリヒはドイツ諸侯の支持を取り付けるために発布したエーガー勅令で[[選帝侯]]の権利を認め<ref>トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、353頁</ref>、領内の司教・大修道院長の選挙にドイツ王は干渉しないことを約束した<ref>山内進「苦闘する神聖ローマ帝国」『ドイツ史』収録(木村靖二編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2001年8月)、69頁</ref>。ドイツ王即位後は、王位争いによって弱体化した王権を回復するために[[レーエン]]の取得、断絶した貴族家系の所領の相続・分配への介入を行った<ref name="nishikawa262">西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、262頁</ref>。しかし、[[叙任権闘争]]時代以来形成されてきた諸侯の権利を削ることは不可能であり、また息子ハインリヒ7世のドイツ王即位には諸侯の協力が必要であることは周知していた<ref name="nishikawa262"/>。そのため、ドイツにおいては強権的な政策はとらずに諸侯との協調を図った<ref name="nishikawa262"/>。

次いでハインリヒのドイツ王即位に際して、フリードリヒはドイツ諸侯の中で多数を占める聖界諸侯への対策を打ち出す<ref name="nishikawa263">西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、263頁</ref>。1220年4月26日、ドイツの聖界諸侯に領域支配の権限を認める特許状(聖界諸侯との協約)を発行した<ref name="nishikawa263"/><ref>菊池『神聖ローマ帝国』、115頁</ref>。

1231年にハインリヒが受諾した「諸侯の利益のための協定」は、翌1232年5月に若干の修正を加えられた上でフリードリヒの承認を受けた<ref name="nishikawa272"/>「諸侯の利益のための協定」によって聖界諸侯が有していた特権が世俗諸侯にも与えられ<ref name="nishikawa272"/>、この協定は後世のドイツに乱立する領邦国家の成立に繋がった<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、115-116頁</ref>。フリードリヒの没時、ドイツ諸侯は既に領地における主権を築いていた<ref>メアリー・フルブロック『ドイツの歴史』(高田有現、高野淳訳, ケンブリッジ版世界各国史, 創土社, 2005年8月)、32頁</ref>。

また、特許状は聖俗の諸侯以外に[[ドイツ騎士団]]にも与えられた。1226年のリミニの[[金印勅書]]によって、ドイツ騎士団に[[ヘウムノ|クルム]]と隣接する地域、[[プロイセン]]の征服と支配が認められた<ref name="nishikawa275">西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、275頁</ref>。1233年のクルム特権状によって騎士団の権利が補完され、1234年にはグレゴリウス9世も騎士団に特権を授与した。フリードリヒはドイツ騎士団を信頼のおける一勢力に構築し、騎士団の総長を務めた{{仮リンク|ヘルマン・フォン・ザルツァ|en|Hermann von Salza}}は彼の腹心として助言を与えた<ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、109-110頁</ref>。

フリードリヒがドイツに到着した当時微弱な勢力だった騎士団は、年代記に「帝国はもはや騎士団の団員の助言によって動いている」と書かれる一大勢力に成長する<ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、108-109頁</ref>。法的な権利を認められた騎士団は先住民と戦いながら東方への植民を行い、[[ドイツ騎士団国|騎士団国家]]の建設を進めていった<ref name="nishikawa275"/>。

== 南イタリアの経済政策 ==
[[File:Augustale.jpg|thumb|180px|フリードリヒ2世を刻んだアウグストゥス金貨]]
オートヴィル朝時代から地中海交易の要地であったシチリア島を領有するフリードリヒ2世は、南イタリアでは積極的な経済政策を打ち出し、貨幣収入を軍事と施策に充当した<ref>西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、270-271頁</ref>。

南イタリアの収入源は、自治を制限した南イタリア諸都市からの徴税と、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ピサなどの北イタリアの貿易都市の商人からの融資だった<ref name="saito179">齋藤「二つのイタリア」『イタリア史』、179頁</ref>。年ごとに徴収される直接税<ref group="注">1223年以後に南イタリアで直接税が導入。導入当初は毎年の徴税は行われていなかった(西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、271頁)</ref>、新たに制定された間接税が国庫に収入をもたらした<ref name="nishikawa271">西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、271頁</ref>。他方、北イタリア貿易都市がシチリアの港で有していた特権を廃して国家貿易い着手し、オートヴィル朝以前の王権やビザンツ帝国([[東ローマ帝国]])の類似の制度をもとに、産業の独占を行い、収入の増加を図った<ref>西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、270頁</ref>。また、フリードリヒはシチリア統治の初期時代から収入を商人からの借金の返済に充てており、治世末期には財政の大部分を商人からの借金に依存する構図が完成していたと考えられている<ref name="nishikawa271"/>。

しかし、国庫収入の増大を目指したフリードリヒの政策は長期的な経済発展には直結せず、農業の疲弊と都市経済の停滞をもたらした側面もある<ref name="nishikawa271"/>。
都市工業の衰退と北イタリア商人の台頭の結果、南イタリアに北・中部イタリアから製品を輸入し、食料と原材料を輸出する経済構造が確立された<ref name="saito179"/>。

== フリードリヒ2世の宮廷 ==
フリードリヒ2世は、廷臣たちを率いて各地の城と修道院を転々と移動していた<ref name="komoriya166">小森谷『シチリア歴史紀行』、166頁</ref>。移動する宮廷はイスラム教徒の兵士に先導され、貴重品と賓客を乗せた[[ラクダ]]の輸送隊がこれに続き、その後をフリードリヒと廷臣が移動していた。この時のフリードリヒは狩人のような服装をし、黒毛の駿馬に乗って移動していたと伝えられる<ref name="komoriya166"/>。そしてフリードリヒたちの後には従者、楽団、ルチェーラで養成された踊り子、私設動物園の檻が続いていた<ref>小森谷『シチリア歴史紀行』、163,166頁</ref>。ルチェーラの踊り子たちは教皇派からの非難の対象となり、教皇派は彼女たちを指して[[ハレム]](後宮)と呼んだ<ref name="komoriya163"/>。

== 学芸との関わり ==
[[File:Arthur Georg von Ramberg - The Court of Emperor Frederick II in Palermo - WGA18987.jpg|thumb|200px|19世紀に描かれたパレルモの宮廷]]
[[File:De Arte Venandi com Avibus.jpg|thumb|200px|De arte venandi cum avibusの挿絵]]
=== 施政 ===
フリードリヒ2世は信仰に対して寛容な態度を取り、[[東方正教]]・イスラム教・[[ユダヤ教]]は一定の制限を受けながらも信仰が容認されていた<ref name="fujisawa101">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、101頁</ref>。ただし、宗教紛争の一因となりうる[[異端]]に対しては、苛烈な迫害を行った<ref>小森谷『シチリア歴史紀行』、165-166頁</ref><ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、101-102頁</ref>。

フリードリヒは未知の事象と学習に限りない意欲を有していた。エルサレムからシチリアに移住した[[ユダヤ人]]をパレルモの宮廷で雇い、彼らをギリシア語とアラビア語の書籍の翻訳に従事させた<ref>[http://www.bestofsicily.com/mag/art201.htm Sicilian Peoples: The Jews of Sicily by Vincenzo Salerno]</ref>。ユダヤ人以外に[[プロヴァンス]]、[[イングランド]]、イタリア、イスラームの知識人が宮廷に招かれ、宮廷は13世紀ヨーロッパの文化サロンとして発展した<ref name="fujisawa100">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、100頁</ref><ref name="lar355">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、355頁</ref>。フリードリヒの宮廷に集まった文化人としては、[[占星術師]]の[[マイケル・スコット (占星術師)|マイケル・スコット]]、数学者の[[レオナルド・フィボナッチ]]らが挙げられる。

フリードリヒは理知によって説明できない事象を一切信じようとせず、そのために同時代人の中には彼を嫌悪する者もいた。フリードリヒの元では[[神明裁判]]は禁止され、また彼が発布した法令の多くは現代にも影響を及ぼしている。その一つに、[[医師]]が役に立たない(あるいは人体に危険な)薬を売りつけるためにいい加減な診断をする医者に対して、医者が[[薬剤師]]を兼ねることを禁止した法令がある。

1224年に設立したナポリ大学は世界最古の国立大学の一つであり、現在はフリードリヒ2世の名前を冠して呼ばれている。ナポリ大学は数世紀にわたって南イタリアの学術の中心地として機能し、[[トマス・アクィナス]]らの知識人を輩出した。

=== 生物 ===
フリードリヒは鷹狩を趣味とし、鷹狩を主題とした最初の書籍である''[[:en:De arte venandi cum avibus|De arte venandi cum avibus]]''<ref group="注">日本語では『鳥類を用いた狩猟術について』『鷹狩りの書』などと訳される。</ref>を著した。1245年のリヨン公会議で波紋を受けた後もたびたび鷹狩に出かけ、本の執筆を続けていた<ref>吉越『ルネサンスを先駆けた皇帝』、235頁</ref>。''De arte venandi cum avibus''は[[モンゴル帝国]]の[[バトゥ]]の宮廷にも献上され、バトゥはフリードリヒが鷹の性質を深く理解していることを称賛し、良い鷹匠になるだろうと述べた<ref>Albericus Trium Fontium, ''Monumenta'', scriptores, xxiii. 943頁</ref>。パレルモの宮廷では50人の鷹匠が雇われ、当時の書簡にはフリードリヒが[[リューベック]]や[[グリーンランド]]の[[シロハヤブサ]]を求めたことが記されている。''De arte venandi cum avibus''の現存する版のうち1つは、後の時代になってより優れた鷹匠であるフリードリヒの庶子[[マンフレーディ]]によって改訂されたものである。

フリードリヒは異国の動物を愛しており、彼の宮廷は動物を伴って移動していた<ref name="fujisawa101"/><ref name="horupu136"/>。動物園([[:en:Menagerie|Menagerie]])で飼われていた動物には、[[猟犬]]、[[キリン]]、[[チーター]]、[[ヤマネコ]]、[[ヒョウ]]、外国の鳥、[[ゾウ]]が含まれていた。

さらにフリードリヒは人体実験を多く行っており、フリードリヒを敵視する僧侶{{仮リンク|サリンベーネ・ディ・アダム|en|Salimbene di Adam|label=サリンベーネ}}が著した年代記には、彼が行った実験が記録されている。その一例として、教育を受けていない子供が最初に話す言語を知るため、乳母と看護師に授乳している赤子に向かって何も話さないように命じた実験がある。しかし、育ての親から愛情を与えられなかった赤子たちは全て死に、フリードリヒの苦労は無駄になった<ref name="lar355"/>。また、食事をしたばかりの人間や狩りをしに行った人間を解剖させ、消化の機能について調べた記録も残る<ref name="lar355"/>。

=== 文学 ===
フリードリヒは優れた詩人であり、同時に文芸の保護にも熱心だった<ref name="horupu136"/>。

最初の妻コスタンツァからの影響<ref name="komoriya162"/>、[[アルビジョア十字軍]]後にパレルモに逃れた南フランスの吟遊詩人たちによって、宮廷にプロヴァンス詩の作風がもたらされた<ref name="fujisawa100"/>。アラビア詩の影響を受けて口語を用いた詩文が多く作られ<ref name="fujisawa100"/>、ラテン語やフランス語混ざりの隠喩・口語を用いたアラビア風の詩が流行した<ref name="komoriya162"/>。パレルモの宮廷は初めて[[イタリア文学]]が生み出された場所とも言え、フリードリヒはイタリア文学の創始者の一人に数えられる<ref name="fujisawa100"/>。

後世、詩人[[ダンテ・アリギエーリ]]と彼の友人はフリードリヒが設立した学校([[:en:Sicilian School|Sicilian School]])とフリードリヒの詩文を称賛し、フリードリヒの宮廷では『[[神曲]]』の完成よりもおよそ1世紀早くに[[トスカーナ]]方言が詩作に使用されていた<ref>Gaetana Marrone, Paolo Puppa, and Luca Somigli, eds. ''Encyclopedia of Italian literary studies'' (2007) Volume 1、780–82頁、および563, 571, 640, 832–36ページも参照</ref>。

=== その他 ===
[[File:Castel del Monte giu06 001.jpg|thumb|180px|カステル・デル・モンテ]]
フリードリヒの興味は天文にも向けられ、宮廷にはマイケル・スコット、[[グイド・ボナッティ]]ら占星術師と天文学者が集まっていた。また、彼はしばしばヨーロッパ内外の学者に、数学、物理学の疑問点について質問した書簡を送っていた。

パレルモの宮廷ではローマ帝国時代の伝統の復興、[[ルネサンス]]より200年早い[[古典古代]]復興の運動が起き、建築物にもその影響が反映された<ref name="fujisawa99"/>。1240年に狩猟の拠点として建設された[[カステル・デル・モンテ]]はゴシック建設の中で異彩を放つ、古典建築を思わせる姿をしている<ref name="fujisawa99"/>。


== 家族 ==
== 家族 ==
=== 嫡出子 ===
[[1209年]]に[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[アルフォンソ2世 (アラゴン王)|アルフォンソ2世]]の娘[[コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ|コンスタンサ]]と結婚。
* [[コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ|コスタンツァ]](1179年 - 1222年6月23日) - 1209年8月15日に[[メッシーナ]]で結婚。
* [[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ7世]](1211年 - 1242年) - [[ローマ王|ドイツ王]]だったが、反乱を起こして廃嫡。
** [[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]
[[1225年]]に[[エルサレム王国|エルサレム]]王[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]の娘[[イザベル2世 (エルサレム女王)|イザベル2世]]と再婚。
* [[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|ラート4世]](1228年 - 1254年) - ドイツ王、シチア王
* [[イザベル2世 (エルサレム女王)|ヨラ]](1212年 - 12284月25日) - 1225年11月9日に[[ブンディジ]]で結婚
** マルガリータ(1226年11月 - 1227年8月)
[[1235年]]に[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]の娘[[イザベラ・オブ・イングランド|イザベラ]]と再婚。
** [[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート]]
* マルガレーテ(1237年 - 1270年) - [[マイセン辺境伯]][[アルブレヒト2世 (マイセン辺境伯)|アルブレヒト2世]]と結婚。
* [[イザベラ・オブ・イングランド|イザベラ]](1214年 - 1241年12月1日) - 1235年7月15日に[[ヴォルムス]]で結婚。
他にも数人の庶子がおり、愛妾[[ビアンカ・ランチア]]との間にコンスタンツェ(セルヴァッギア)と末子の[[マンフレーディ]]が生まれている。
** ジョルダン - 1236年春に誕生、誕生から数日後に夭折。
** アグネス - 1237年に誕生、同年に夭折。
** ヘンリー・オットー(1238年2月18日 - 1253年5月)
** フレデリック - 1239年もしくは1240年に誕生。夭折。
** マーガレット(1241年12月1日 - 1270年8月8日) - [[マイセン辺境伯]][[アルブレヒト2世 (マイセン辺境伯)|アルブレヒト2世]]と結婚。
* [[ビアンカ・ランチア]] - 愛妾
** コンスタンツェ(1230年 - 1307年4月) - [[ニカイア帝国]]の皇帝[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス|ヨハネス3世]]と結婚。
** [[マンフレーディ]]
** ヴィオランテ([[1233年]] - [[1264年]])


=== 非嫡出子 ===
あとは母不詳のイタリア[[総督]][[エンツォ]](Enzo)([[1220年]]? - [[1272年]])がおり、エンツォは[[ロンバルディア同盟]]の軍勢に捕虜されて、1272年に[[ボローニャ]]で獄死し、ここでホーエンシュタウフェン家は断絶した。</br>
* シチリアの伯爵夫人 - 最初の愛人。シチリア王即位在位中に関係を持った。
また、[[アンティオキア公]]フリードリヒ3世([[1229年]]? - [[1258年]])とセルヴァッジャ([[エッチェリーノ・ディ・ロメノ]]と結婚)もいた。
** フリードリヒ - 1240年に妻子とともにイベリア半島に移るが、2人の子は3歳に満たないままイベリアで没した。
* [[:de:Urslingen|Urslingen]]のアーデルハイト - 1215年から1220年のドイツ滞在中に関係を持った。
** {{仮リンク|エンツォ (サルデーニャ王)|en|Enzio of Sardinia|label=エンツォ}} - サルデーニャ王。
* [[スポレート]]の公爵の娘
** カテリーナ・ダ・マラーノ(1216年もしくは1218年 - 1272年) - 最初の夫は不明。2度目の結婚でイタリアの侯爵ジャコモ・デル・カレットと結婚。
* [[アンティオキア]]のマティルダ(もしくはマリア)
** アンティオキア公フリードリヒ(1221年 - 1256年)
* メッシーナ大司教の姉妹マンナ
** リカルド(1225年 - 1249年5月26日)
* [[レーヴェンシュタイン]]伯ゴットフリートの妻ルチーナ
** マーガレット(1230年 1298年) - [[アチェッラ]]伯ソマスと結婚。
* 母親不明
** セルヴァッジャ(1223年 - 1244年) - {{仮リンク|エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ|en|Ezzelino III da Romano}}と結婚。
** Blanchefleur
** ゲルハルト


==伝記研究==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
* [[エルンスト・カントロヴィチ|エルンスト・カントローヴィチ]] 『皇帝フリードリヒ二世』 [[小林公]]訳、[[中央公論新社]] 2011年
<references group="注"/>
* 吉越英之 『ルネサンスを先駆けた皇帝』 慶友社 2009年
=== 引用元 ===
<references/>

== 参考文献 ==
* 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, [[講談社]], 2003年7月)
* 小森谷慶子『シチリア歴史紀行』(白水Uブックス, [[白水社]], 2009年11月)
* 齋藤寛海「二つのイタリア」『イタリア史』収録(北原敦編, 新版世界各国史, [[山川出版社]], 2008年8月)
* 西川洋一「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
* 西川洋一「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
* 藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』(中公新書, [[中央公論新社|中央公論社]], 1991年10月)
* 吉越英之『ルネサンスを先駆けた皇帝』(慶友社, 2009年9月)
* エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、420-427頁(川成洋、太田美智子、太田直也訳, [[東洋書林]], 2006年11月)
* [[エルンスト・カントロヴィチ|エルンスト・カントローヴィチ]]『皇帝フリードリヒ二世』([[小林公]]訳, 中央公論新社, 2011年9月)
* アーチボールド.R.ルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻(桑原武夫編, [[ほるぷ出版]], 1978年 - 1981年)
* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』([[原書房]], 2004年6月)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commons|Frederick II, Holy Roman Emperor}}
*[[ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)|ハインリヒ3世]] - [[マイセン辺境伯]]。ハインリヒ・ラスペの甥だが、フリードリヒ2世に忠誠を誓った為、ハインリヒ・ラスペ死後の領土相続を認められた。
* [[神聖ローマ皇帝一覧]]
*[[ルートヴィヒ1世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ1世]] - [[バイエルン大公|バイエルン公]]。フリードリヒ2世の即位に協力し、[[ライン宮中伯]]領を獲得した。[[第5回十字軍]]にも参戦している。
* [[ナポリとシチリアの君主一覧]]
*[[カステル・デル・モンテ]] - 現在の[[イタリア]]南部[[アンドリア]]に築いた城。[[1996年]]、[[世界遺産]]に登録された。
* [[ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)|ハインリヒ3世]] - [[マイセン辺境伯]]。ハインリヒ・ラスペの甥だが、フリードリヒ2世に忠誠を誓った為、ハインリヒ・ラスペ死後の領土相続を認められた。
* [[ルートヴィヒ1世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ1世]] - [[バイエルン大公|バイエルン公]]。フリードリヒ2世の即位に協力し、[[ライン宮中伯]]領を獲得した。[[第5回十字軍]]にも参戦している。


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[[sw:Kaizari Federiki II]]
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[[th:จักรพรรดิฟรีดริชที่ 2 แห่งโรมันอันศักดิ์สิทธิ์]]
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[[tl:Federico II, Banal na Emperador ng Roma]]
[[tl:Federico II, Banal na Emperador ng Roma]]
[[tr:II. Friedrich (Kutsal Roma İmparatoru)]]
[[tr:II. Friedrich (Kutsal Roma İmparatoru)]]

2012年9月10日 (月) 15:12時点における版

フリードリヒ2世
Friedrich II
神聖ローマ皇帝
De arte venandi cum avibusの挿絵に描かれたフリードリヒ2世
在位 1220年 - 1250年12月13日
別号 シチリア王、ドイツ王、エルサレム王

出生 1194年12月26日
イェージ
死去 1250年12月13日
フィオレンティーノ
埋葬 パレルモ
配偶者 コスタンツァ
  ヨランド
  イザベラ
子女 後述
家名 ホーエンシュタウフェン家
王朝 ホーエンシュタウフェン朝
父親 ハインリヒ6世
母親 コスタンツァ
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フリードリヒ2世(Friedrich II., 1194年12月26日 - 1250年12月13日)は、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝皇帝(在位:1220年 - 1250年12月13日)、及びシチリア王(フェデリーコ1世、在位:1197年 - 1250年)。イタリア史関係では、イタリア名のフェデリーコ2世(Federico II)で呼ばれることが多い。

学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主としての振る舞いから、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を「王座上の最初の近代人」と評した[1][2]。中世で最も進歩的な君主と評価され[3]、同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛された[4]。普段の食事は質素であり飲酒も控えていたが、彼が開いた宴会は豪勢なものであり、ルネサンス時代を先取りしたとも思える宮廷生活を送っていた[5]。フリードリヒの容貌について同時代のヨーロッパの人間は皆称賛していたが[6]、一方でイスラムの年代記作者は彼を「禿げ上がった赤毛で近眼の、奴隷であれば高い価格は付かない」風采の上がらない人物と記した[7]。しかし、その知性はイスラム教国アイユーブ朝の君主アル・カーミルを魅了した[7]

一方、「早く生まれすぎた」彼は教皇庁や北イタリアの都市国家と対立し、ローマ教皇から2回の破門を受けた[4]。治世をイタリア統一のために費やしたが、教皇庁と都市国家の抵抗によって悲願を達することなく没した[4][8]。また、イタリアに重点を置いた彼の施策はドイツに混乱をもたらした[3]

生涯

誕生

フリードリヒ2世の誕生

1194年12月26日にフリードリヒ2世はイタリア中部の町イェージで神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世シチリア王女コンスタンツェ(イタリア名はコスタンツァ)の間に生まれる。出産の際にイェージの広場には天幕が張られ、その中でコスタンツァは血統の証人となる町の貴婦人たちに見守られながらフリードリヒを産み落とした[9][10][注 1]

生後3か月目にフリードリヒはアッシジで洗礼を受け、ロゲリウス・フリデリクス(フェデリーコ・ルッジェーロ)の洗礼名を与えられる[10]。この名は、父方の祖父フリードリヒ1世と、母方の祖父であるシチリア王国の建国者ルッジェーロ2世の両方の名前にあやかったものである[11]。さらに洗礼名とともにコンスタンティヌスという名前を与えられた伝承も存在するが、真意は不明である[12]

父母の死

父ハインリヒはコスタンツァと結婚した事で神聖ローマ皇帝位に加えてシチリア王位も手に入れ、南部イタリア全土、イタリア北部、ドイツ、ブルゴーニュに至る広大な領土を有していた[13][14]1197年にハインリヒが遠征中に病没すると、ドイツの支配権を欲するフリードリヒの叔父シュヴァーベン公フィリップと、シチリア支配を望むパレルモの廷臣であるラヴェンナ公マルクヴァルトがフリードリヒを傀儡に据えようとする。ハインリヒの遺言でフリードリヒの摂政を務めていたコスタンツァは2人に対抗するため、教皇インノケンティウス3世を頼った[15]。インノケンティウスはフィリップのドイツ王即位、ローマ教皇のシチリア王国に対する宗主権の承認を条件に出し、1198年5月17日にフリードリヒにシチリア王位が戴冠される[16]

1198年11月27日に摂政を務めていたコンスタンツェが没すると、孤児となったフリードリヒはインノケンティウスの後見を受けることになる[2]

成人まで

フリードリヒが生まれた当時のシチリア島は、ノルマン人王朝(オートヴィル朝)建国前から根付いていたイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合しており、独特の文化を生み出していた[17]。インノケンティウス3世はフリードリヒの元に高位聖職者からなる家庭教師を兼ねた執権団を派遣するが[18][19]、執権団が到着した時、4歳のフリードリヒはすでにラテン語を習得しており、歴史と哲学の書籍を読み始めていた[20]。幼少のフリードリヒは自分を利用しようとする周りの党派に翻弄され、1202年から1206年の間にはマルクヴァルトの人質にもされた[21][19][22]。人質生活の中では必需品にも欠き、同情したパレルモの市民たちはフリードリヒに食糧を分け与えた[22]。フリードリヒはパレルモの文化の影響を受けて成長し[2][21]、ラテン語・ギリシア語アラビア語などの6つの言語を習得し、科学に強い関心を示すようになった[2][21][18]。また、フリードリヒは肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示した[18]

一方、ドイツ本国はシュヴァーベン公フィリップを支持する派閥とヴェルフ家オットーをドイツ王に推す派閥に分裂しており、それぞれの派閥に属する諸侯が互いに争っていた[11]1208年にフィリップが暗殺されると[23]、インノケンティウス3世の働きかけを受けた諸侯は11月にオットーをドイツ王に選出した[24]

1209年に成年を迎えたフリードリヒは10歳年上のアラゴン王国の王女コスタンツァと婚約し、シチリア王位を望む意思を表明した[21]。コスタンツァは女官、吟遊詩人、騎士団とともにパレルモに入城し、フリードリヒは彼女からプロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった[19]。この年フリードリヒが成年に達したため、インノケンティウス3世は後見人の地位から降りなければならなかったが、フリードリヒがドイツ王位を継ぐことを恐れたインノケンティウス3世はオットーの戴冠式を強行し、オットーが神聖ローマ皇帝位に就いた[23]

神聖ローマ皇帝即位

ルチェーラの城砦

強引なオットーの即位にホーエンシュタウフェン家が反発したためにホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立が再発し、ドイツに内乱が起きる[25]。 オットーはイタリアに矛先を向けて教皇領とシチリアに侵攻し、インノケンティウス3世は報復として彼を破門、ドイツでの反乱を扇動した[26]

この処分を受けて1211年にドイツ諸侯はニュルンベルクでオットーの廃位とフリードリヒのドイツ王選出を決定し[26][27]、フリードリヒにドイツに向かうよう要請した[2]。フリードリヒはドイツを訪れる前にインノケンティウス3世が出した教皇の宗主権の再確認、生まれたばかりの子ハインリヒへのシチリア王譲位という条件を呑み、1212年にドイツに到着した[27][28]。後年フリードリヒはこの激動が続いた時期を、「神によって奇跡的にもたらされたもの」だと述懐した[29]

12月5日にフランクフルトでフランス王フィリップ2世と教皇の使者が見届ける中でフリードリヒはドイツ王に選出され、12月9日にマインツで戴冠した[29]。フリードリヒはフランスからの援助を受け、諸侯に対しては特許状を発行して支持を集めて吝嗇な性格のオットーに対抗した[30]1214年ブーヴィーヌの戦いでの敗北でオットーの没落は決定的になり[31][32][33][34]、フリードリヒは名実共にドイツ王として認められた。1215年にフリードリヒはアーヘン大聖堂でドイツ王に正式に戴冠され、十字軍の遠征に赴くことを誓約した[35][36]。フリードリヒの宣言に満足したインノケンティウス3世はハインリヒがドイツに移ることを認め、翌1216年に没した[35]。ドイツ滞在中、フリードリヒはエルザスライン河畔ヴォルムスシュパイアーに滞在し、諸侯に積極的に干渉しようとはしなかった[37]。フリードリヒはドイツ統治において、ハインリヒ6世没後に諸侯が獲得した特権を1213年1220年の2度にわたって承認し、聖俗両方から支持を獲得した[2]

シチリアの復興

1220年にフリードリヒはハインリヒを共同統治者としてドイツ王の地位に置き、ハインリヒと顧問団にドイツの支配を委ねて[38]パレルモに戻った。フリードリヒは新教皇ホノリウス3世から十字軍の実行と引き換えに神聖ローマ皇帝位を認められ、荒れ果てたシチリアの統治に取り掛かった[2][39]。シチリアではドイツとは逆に強権的な政策を布き、グリエルモ2世の死後にシチリアの都市と貴族に与えられていた特権を廃した[32][40]。貴族の拠る城砦は破壊されて新たに皇帝直轄の城が建設され、自治都市には皇帝直属の行政官が派遣された[41]。フリードリヒに反抗して自治を貫こうとしたメッシーナは弾圧を受け[42]、教会にも帝国の介入が及んだ[32]

またフリードリヒの軍はシチリア南部で山賊行為を行っていたイスラム教徒を討伐し、10,000人のイスラム教徒を捕らえた[32][5]。フリードリヒは捕らえたイスラム教徒を新たに建設した都市ルチェーラに移住させ、彼らに自治を許した[43]。フリードリヒに感謝したルチェーラの住民は軍事的協力を約束し、彼らは後にフリードリヒの指揮下で教皇派と戦うことになる[5][43]1224年には官僚の養成機関として、法学修辞学を教授するナポリ大学が創立された[43][44]

破門十字軍

フリードリヒ2世とアル・カーミルの交渉
フリードリヒ2世:左から2番目の人物
アル・カーミル:中央の人物

1222年にエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの一行が、神聖ローマ帝国領のブリンディジに上陸する。フリードリヒはブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かった。ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒとブリエンヌの娘ヨランド(イザベル)の結婚、結婚後2年以内にフリードリヒが十字軍に参加する取り決めが交わされる[45]1225年11月9日にフリードリヒは成人したヨランドと再婚し(最初の妻コンスタンツェは1222年に死没していた)、同時にブリエンヌにエルサレム王位とヨランドが有する権利を譲渡させた[45]

1227年にホノリウス3世が没した時にもフリードリヒの遠征はいまだ実行に移されておらず[2]、教皇グレゴリウス9世は破門をちらつかせ、1228年にフリードリヒは40,000の軍を率いてエルサレムに向かう[46]。道中で軍内に疫病が流行り、フリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を踏まずに帰国した。この時にフリードリヒはサレルノ大学の衛生学に触れ、中世ヨーロッパでは稀な毎日入浴する衛生感を身に付けた[47]。しかし、グレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため[48]、仮病と判断してフリードリヒを破門する。フリードリヒは破門が解除されないまま第6回十字軍を起こして再びエルサレムに向かい、道中でキプロス王国の政争に介入した。

教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり[49]、現地の将兵はフリードリヒへの協力を拒否した[50]。一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル・カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略したフランク人たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた[7]

フリードリヒとアル・カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合い、エルサレム返還の交渉も進められた[51]。フリードリヒは血を流すこともなく[52]、1229年2月11日にアル・カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された[53]。両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた[49][54]

しかし、現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはドイツ騎士団だけであり、聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団は不快感を示した[56]。エルサレムに入城したフリードリヒはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日に聖墳墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠した[52][47]。現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をドイツ騎士団に任せてシチリアに帰国する[55]

帰国に際してアッコに移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対するテンプル騎士団の本部を包囲した[57]。5月1日にフリードリヒは包囲を解いて密かに帰国し、アッコの住民の一部がフリードリヒの一行に罵声を浴びせた[58]

ハインリヒ7世の反乱

エッチェリーノ・ダ・ロマーノ。後にフリードリヒの女婿となる。
15世紀に描かれた絵画。
左:フリードリヒ2世
右:身を投げるハインリヒ7世

フリードリヒのイタリア統治

フリードリヒの遠征中、グレゴリウス9世は北イタリア諸都市を唆して南イタリアを攻撃した[59]。帰国したフリードリヒは都市を占領していた教皇派の軍隊を撃退し、グレゴリウスを威嚇しつつ和議を提案した[60]1230年にドイツ騎士団の仲介と皇帝側の譲歩の結果、サン・ジェルマノの和約が成立し、フリードリヒの破門が解除された[48]。講和では同時にヴェローナのエッチェリーノの破門の解除、港湾都市ガエータの神聖ローマ帝国への編入が認められ、教皇側には屈辱的な結果に終わる[61]

1231年のメルフィの会議で、フリードリヒはかつてのローマ皇帝たちが施行した法令を元に編纂した『皇帝の書(リベル・アウグスタリス)』を発布する [62][63]

  • 都市・貴族・聖職者の権利の制限[32][64]
  • 司法・行政の中央集権的性質の確立[64]
  • 税制・金貨の統一[64]

上記以外に、18世紀の啓蒙思想を先取りしたとも言われる規定が存在した[65]

  • 貧民を対象とした無料の職業訓練・診察[65]
  • 私刑の禁止[65]
  • 薬価の制定[65]
  • 役人に対する不敬・賄賂の禁止[65]

『皇帝の書』の発布によってシチリアには絶対主義的な体制が成立し[64]、フリードリヒはかつてのローマの権威と伝統を復興させる意思を顕わにした[43][62][66]。また、制定した法令を国民に周知させるため、コロックイアという会合が各地で開かれた[65]。同1231年には北イタリア都市へのポデスタ(行政長官)の任命によって、北イタリアの都市にも支配を行き渡らせることを試みた[64]

1232年に開催されたフリウリの諸侯会議の後、北イタリアの都市ヴェローナが神聖ローマ帝国に帰順し、ヴェローナの領主エッチェリーノ・ダ・ロマーノは北イタリアの皇帝派の中心人物となる[67][68]。また、他の北イタリアの自治都市のうちピサシエナクレモナモデナもフリードリヒを支持した[69]

ドイツのハインリヒ7世

官僚制度の発達が進められる南イタリアとは異なり、ドイツは諸侯の分断統治に委ねられており、国王が直接支配する地域は限定されていた[70]。ドイツはイタリアの属州とも言える状態にあり、ドイツ王の地位にあったハインリヒ7世は父フリードリヒの総督でしかなかった[71]

ハインリヒは積極的に王権を強化する方策を採り、聖界諸侯(高位聖職者)が領有する都市の自治運動を支援し、彼らの領地経営に介入した[72]。ハインリヒに反発する諸侯は1231年にヴォルムスで「諸侯の利益のための協定」を結ばせ、多くの特権を認めさせた[72]。諸侯は協定の順行を掲げ、王としての統治を望むハインリヒは諸侯の専横とフリードリヒの政策に不満を抱いた[59][73]。ドイツ・イタリア双方からの圧迫を憂慮するグレゴリウスはロンバルディア同盟の再結成を指導し[64][74]、ハインリヒに反乱を唆した[73]

息子の死

グレゴリウス9世の誘いに乗ったハインリヒは、1234年にロンバルディア同盟と結託して反乱を起こす。しかし、ハインリヒに味方する諸侯はほとんどおらず[74]、フリードリヒがほとんど軍勢を連れずにドイツに現れるとハインリヒの敷いた防衛戦は瓦解した[75]1235年7月にハインリヒは降伏[75]、王位と継承権を剥奪され、盲目にされた上でプーリアの城に幽閉された[76]1242年2月にハインリヒは別の城に護送される道中で、谷底に身を投げて自殺した[74]

教皇との抗争

コルテノーヴァの戦い
パルマの敗戦
カテドラル内のフリードリヒ2世の棺

1235年7月のヴォルムスの集会ではハインリヒの廃位とともに、フリードリヒとイングランド王女イザベラとの結婚が執り行われた[75]。集会の後にフリードリヒはマインツに向かい、13世紀で最大規模の集会を開催する[75]。この集会ではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の和解[注 2]ラント平和令の発布、1236年春のロンバルディア同盟への遠征が決定された[75]

ハインリヒの反乱が鎮圧されるとロンバルディア同盟の都市は蜂起し、フリードリヒの軍はイタリアに攻め込んだ[77]1237年11月27日のコルテノーヴァの戦い英語版で、フリードリヒはロンバルディア同盟軍に勝利する。しかし、戦後の講和は難航し、同盟の中心都市であるミラノを屈服させることはできなかった[68]。フリードリヒは講和を拒んだブレシアの包囲に失敗し、またヴェネツィアジェノヴァが教皇側に加わる[78]

1237年2月のウィーンの集会で、フリードリヒは次子のコンラートをドイツ王に就けた[79]

1239年にグレゴリウス9世はフリードリヒが庶子エンツォに与えたサルデーニャ王位を剥奪し、一度は取り消した破門を再び行った[80]。皇帝と教皇の争いはイタリアの都市間の抗争、都市内部の派閥にも波及し、皇帝派と教皇派(ギベリンとゲルフ)に分かれて争った[80]。教皇派はフリードリヒをアンチキリストと呼び、フリードリヒは福音にかなった清貧を説いて教皇派に対抗した[80]

フリードリヒは教皇が開く公会議に参加する者は敵とみなすと脅しをかけて対抗し、公会議に向かう聖職者を捕らえて投獄した[81]1241年にグレゴリウスは没し、グレゴリウスの次に即位したケレスティヌス4世は在位17日で没した。ケレスティヌス没後のコンクラーヴェでは選挙に参加する枢機卿のうち2人がフリードリヒに捕らえられ、新教皇の選出は1年半後にまで延びた[81]。この間フリードリヒはローマへの進軍を行わず、体勢を立て直した教皇庁は1243年インノケンティウス4世を新教皇に選出した[82]

フランス王ルイ9世の仲介でフリードリヒとインノケンティウスの交渉が始まり、1244年にフリードリヒが捕らえた聖職者が釈放される[82]。しかし、ロンバルディア同盟は講和に反対し、インノケンティウスの出身地であるジェノヴァも和平を拒んだために交渉は難航した[82]。インノケンティウスは密かにリヨンに逃れ、1245年6月26日のリヨン公会議でフリードリヒの廃位と彼の封建家臣の主従関係の解除を宣言した[82][83]。インノケンティウス4世はフリードリヒに対する十字軍を呼びかけ、イタリア・ドイツの各地で反乱が勃発した[84]。しかし、教皇権の伸張を恐れる多くの王と君主は破門に批判的であり、ルイ9世もフリードリヒに同情を示していた[85]

破門の宣告に対し、フリードリヒは「世界の鉄槌」として抗戦する意思を顕わにする[86]。フリードリヒは直属のイスラム教徒の兵士を率いてイタリア各地を転戦し、またドイツでは聖界諸侯によってテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペがコンラートに対立するドイツ王に選出された[83]

1246年復活祭の前日、教皇派によるフリードリヒとエンツォの暗殺計画が発覚する。さらに、パルマ執政官ティバルト・フランチェスコ、トスカーナの前執政官パンドルフォ・ファサネッラら側近たちも計画に加担していた。彼らが陰謀に加わった理由は明らかではないが、フリードリヒが帝国の要職を身内で固めたために進退に不安を覚えたためだと言われている[87]。逮捕された謀反人たちは目を潰され、残忍な身体刑を与えられて命を絶たれた[88]

最期

1247年にハインリヒ・ラスペが没した後、ホラント伯ウィレム2世が教皇党によって対立王に選出されたが、ウィレム2世は戴冠式の後に領地に帰国し、しばらくの間ドイツ王としての活動は行わなかった[89]。ハインリヒ・ラスペが没した後、フリードリヒは教皇派との和解のため、リヨンのインノケンティウスの元に向かおうとした[90]。しかし、フリードリヒの計画が実現する前にパルマが教皇派によって陥落したため、リヨンの訪問を諦めなければならなかった[90]

教皇派の勢力下に置かれたパルマにはフリードリヒに対立する人間が多く集まり、またパルマの陥落をきっかけにイタリア全土でフリードリヒに対する反乱が起きる[91]1248年に教皇の破門はフリードリヒの一族全員に及ぶ[83]。フリードリヒはパルマを兵糧攻めにするため、包囲にあたって町の近くに「ヴィットリア」(勝利)と名付けた町を建設し、パルマへの通行を妨害した。1248年2月18日の早朝、フリードリヒが供を連れて鷹狩りに出かけた隙をついてパルマ市民がヴィットリアを奇襲、町は陥落し財貨や兵器が略奪された(パルマの戦い英語版[92]。狩猟中に街の陥落を知ったフリードリヒは一旦クレモナに退却、軍を編成して2月22日にパルマを再包囲するが攻略に失敗した。この戦いについて同時代の年代記の著者サリンベーネは、「パルマの敗戦がフリードリヒの破滅の原因となった」と記した[93]。教皇派はパルマの勝利に勢いづき、ロマーニャ地方の都市やラヴェンナが教皇派に転じた[94]

1249年には『皇帝の書』編纂事業の中心人物でもある宰相ピエロ・デレ・ヴィーニェの反乱と、侍医による暗殺計画が発覚する[8]。さらに将来を期待されていた子エンツォがボローニャ軍に敗れ、ボローニャ内の塔に監禁される不測の事件が起きる[8]。エンツォ釈放のためにボローニャに大幅な譲渡を提案するが、交渉は失敗に終わった。しかし、この年に北イタリア情勢は好転し、パルマもエンツォの後任であるオベルト・パッラヴィチーニによって陥落した[95]。教皇インノケンティウス4世は資金の欠乏とフリードリヒとの講和を拒むことに苛立つルイ9世からの圧力によって方針の転換を迫られていた[96]

1250年、この年にフリードリヒが出陣することは無かった[97]。8月にドイツのコンラートがホラント伯ウィレムに勝利し、教皇派の支持者を味方に付けた吉報が届けられる。

同年の晩秋、ルチェーラ近郊で鷹狩を楽しんでいたフリードリヒは突如激しい腹痛に襲われた[98]。幼馴染であるパレルモ大司教ベラルドから終油の秘蹟を受け、12月13日に庶子マンフレーディと重臣たちに看取られ、カステル・フィオレンティーノ(現在のフォッジャ県サン・セヴェーロ付近の城砦)で没した[98]。防腐処理された遺体は海路でターラントからパレルモまで運ばれ、彼の遺言に従ってカテドラル英語版に埋葬された[98]。遺言にはコンラートが神聖ローマ皇帝位とシチリア王位を相続し、コンラートが不在の場合はマンフレーディが代理人として帝位と王位を保持するよう記されていた[99]

フリードリヒの死について、インノケンティウス4世は「天地が喜ぶ」と書き記し、追い詰められていた教皇派は彼の死に安堵した[100]。他方、イングランドの年代記作家マシュー・パリスは「偉人」「世界の驚異」「変革者」が没したと記録している[100]

没後、フリードリヒの死を信じようとしない者は多く、不死伝説も生まれた[101]。フリードリヒは死んでおらず、エトナ火山に身を隠している、あるいはハルツ山中の洞穴で眠りについていると噂された[102]1284年にはケルンにフリードリヒ2世を名乗る人物が現れ、一時期独自の宮廷を開いていた[101]

ドイツ領邦国家の原型

1213年、フリードリヒはドイツ諸侯の支持を取り付けるために発布したエーガー勅令で選帝侯の権利を認め[103]、領内の司教・大修道院長の選挙にドイツ王は干渉しないことを約束した[104]。ドイツ王即位後は、王位争いによって弱体化した王権を回復するためにレーエンの取得、断絶した貴族家系の所領の相続・分配への介入を行った[105]。しかし、叙任権闘争時代以来形成されてきた諸侯の権利を削ることは不可能であり、また息子ハインリヒ7世のドイツ王即位には諸侯の協力が必要であることは周知していた[105]。そのため、ドイツにおいては強権的な政策はとらずに諸侯との協調を図った[105]

次いでハインリヒのドイツ王即位に際して、フリードリヒはドイツ諸侯の中で多数を占める聖界諸侯への対策を打ち出す[106]。1220年4月26日、ドイツの聖界諸侯に領域支配の権限を認める特許状(聖界諸侯との協約)を発行した[106][107]

1231年にハインリヒが受諾した「諸侯の利益のための協定」は、翌1232年5月に若干の修正を加えられた上でフリードリヒの承認を受けた[72]「諸侯の利益のための協定」によって聖界諸侯が有していた特権が世俗諸侯にも与えられ[72]、この協定は後世のドイツに乱立する領邦国家の成立に繋がった[108]。フリードリヒの没時、ドイツ諸侯は既に領地における主権を築いていた[109]

また、特許状は聖俗の諸侯以外にドイツ騎士団にも与えられた。1226年のリミニの金印勅書によって、ドイツ騎士団にクルムと隣接する地域、プロイセンの征服と支配が認められた[110]。1233年のクルム特権状によって騎士団の権利が補完され、1234年にはグレゴリウス9世も騎士団に特権を授与した。フリードリヒはドイツ騎士団を信頼のおける一勢力に構築し、騎士団の総長を務めたヘルマン・フォン・ザルツァは彼の腹心として助言を与えた[111]

フリードリヒがドイツに到着した当時微弱な勢力だった騎士団は、年代記に「帝国はもはや騎士団の団員の助言によって動いている」と書かれる一大勢力に成長する[112]。法的な権利を認められた騎士団は先住民と戦いながら東方への植民を行い、騎士団国家の建設を進めていった[110]

南イタリアの経済政策

フリードリヒ2世を刻んだアウグストゥス金貨

オートヴィル朝時代から地中海交易の要地であったシチリア島を領有するフリードリヒ2世は、南イタリアでは積極的な経済政策を打ち出し、貨幣収入を軍事と施策に充当した[113]

南イタリアの収入源は、自治を制限した南イタリア諸都市からの徴税と、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ピサなどの北イタリアの貿易都市の商人からの融資だった[114]。年ごとに徴収される直接税[注 3]、新たに制定された間接税が国庫に収入をもたらした[115]。他方、北イタリア貿易都市がシチリアの港で有していた特権を廃して国家貿易い着手し、オートヴィル朝以前の王権やビザンツ帝国(東ローマ帝国)の類似の制度をもとに、産業の独占を行い、収入の増加を図った[116]。また、フリードリヒはシチリア統治の初期時代から収入を商人からの借金の返済に充てており、治世末期には財政の大部分を商人からの借金に依存する構図が完成していたと考えられている[115]

しかし、国庫収入の増大を目指したフリードリヒの政策は長期的な経済発展には直結せず、農業の疲弊と都市経済の停滞をもたらした側面もある[115]。 都市工業の衰退と北イタリア商人の台頭の結果、南イタリアに北・中部イタリアから製品を輸入し、食料と原材料を輸出する経済構造が確立された[114]

フリードリヒ2世の宮廷

フリードリヒ2世は、廷臣たちを率いて各地の城と修道院を転々と移動していた[117]。移動する宮廷はイスラム教徒の兵士に先導され、貴重品と賓客を乗せたラクダの輸送隊がこれに続き、その後をフリードリヒと廷臣が移動していた。この時のフリードリヒは狩人のような服装をし、黒毛の駿馬に乗って移動していたと伝えられる[117]。そしてフリードリヒたちの後には従者、楽団、ルチェーラで養成された踊り子、私設動物園の檻が続いていた[118]。ルチェーラの踊り子たちは教皇派からの非難の対象となり、教皇派は彼女たちを指してハレム(後宮)と呼んだ[5]

学芸との関わり

19世紀に描かれたパレルモの宮廷
De arte venandi cum avibusの挿絵

施政

フリードリヒ2世は信仰に対して寛容な態度を取り、東方正教・イスラム教・ユダヤ教は一定の制限を受けながらも信仰が容認されていた[119]。ただし、宗教紛争の一因となりうる異端に対しては、苛烈な迫害を行った[120][121]

フリードリヒは未知の事象と学習に限りない意欲を有していた。エルサレムからシチリアに移住したユダヤ人をパレルモの宮廷で雇い、彼らをギリシア語とアラビア語の書籍の翻訳に従事させた[122]。ユダヤ人以外にプロヴァンスイングランド、イタリア、イスラームの知識人が宮廷に招かれ、宮廷は13世紀ヨーロッパの文化サロンとして発展した[123][124]。フリードリヒの宮廷に集まった文化人としては、占星術師マイケル・スコット、数学者のレオナルド・フィボナッチらが挙げられる。

フリードリヒは理知によって説明できない事象を一切信じようとせず、そのために同時代人の中には彼を嫌悪する者もいた。フリードリヒの元では神明裁判は禁止され、また彼が発布した法令の多くは現代にも影響を及ぼしている。その一つに、医師が役に立たない(あるいは人体に危険な)薬を売りつけるためにいい加減な診断をする医者に対して、医者が薬剤師を兼ねることを禁止した法令がある。

1224年に設立したナポリ大学は世界最古の国立大学の一つであり、現在はフリードリヒ2世の名前を冠して呼ばれている。ナポリ大学は数世紀にわたって南イタリアの学術の中心地として機能し、トマス・アクィナスらの知識人を輩出した。

生物

フリードリヒは鷹狩を趣味とし、鷹狩を主題とした最初の書籍であるDe arte venandi cum avibus[注 4]を著した。1245年のリヨン公会議で波紋を受けた後もたびたび鷹狩に出かけ、本の執筆を続けていた[125]De arte venandi cum avibusモンゴル帝国バトゥの宮廷にも献上され、バトゥはフリードリヒが鷹の性質を深く理解していることを称賛し、良い鷹匠になるだろうと述べた[126]。パレルモの宮廷では50人の鷹匠が雇われ、当時の書簡にはフリードリヒがリューベックグリーンランドシロハヤブサを求めたことが記されている。De arte venandi cum avibusの現存する版のうち1つは、後の時代になってより優れた鷹匠であるフリードリヒの庶子マンフレーディによって改訂されたものである。

フリードリヒは異国の動物を愛しており、彼の宮廷は動物を伴って移動していた[119][4]。動物園(Menagerie)で飼われていた動物には、猟犬キリンチーターヤマネコヒョウ、外国の鳥、ゾウが含まれていた。

さらにフリードリヒは人体実験を多く行っており、フリードリヒを敵視する僧侶サリンベーネ英語版が著した年代記には、彼が行った実験が記録されている。その一例として、教育を受けていない子供が最初に話す言語を知るため、乳母と看護師に授乳している赤子に向かって何も話さないように命じた実験がある。しかし、育ての親から愛情を与えられなかった赤子たちは全て死に、フリードリヒの苦労は無駄になった[124]。また、食事をしたばかりの人間や狩りをしに行った人間を解剖させ、消化の機能について調べた記録も残る[124]

文学

フリードリヒは優れた詩人であり、同時に文芸の保護にも熱心だった[4]

最初の妻コスタンツァからの影響[19]アルビジョア十字軍後にパレルモに逃れた南フランスの吟遊詩人たちによって、宮廷にプロヴァンス詩の作風がもたらされた[123]。アラビア詩の影響を受けて口語を用いた詩文が多く作られ[123]、ラテン語やフランス語混ざりの隠喩・口語を用いたアラビア風の詩が流行した[19]。パレルモの宮廷は初めてイタリア文学が生み出された場所とも言え、フリードリヒはイタリア文学の創始者の一人に数えられる[123]

後世、詩人ダンテ・アリギエーリと彼の友人はフリードリヒが設立した学校(Sicilian School)とフリードリヒの詩文を称賛し、フリードリヒの宮廷では『神曲』の完成よりもおよそ1世紀早くにトスカーナ方言が詩作に使用されていた[127]

その他

カステル・デル・モンテ

フリードリヒの興味は天文にも向けられ、宮廷にはマイケル・スコット、グイド・ボナッティら占星術師と天文学者が集まっていた。また、彼はしばしばヨーロッパ内外の学者に、数学、物理学の疑問点について質問した書簡を送っていた。

パレルモの宮廷ではローマ帝国時代の伝統の復興、ルネサンスより200年早い古典古代復興の運動が起き、建築物にもその影響が反映された[62]。1240年に狩猟の拠点として建設されたカステル・デル・モンテはゴシック建設の中で異彩を放つ、古典建築を思わせる姿をしている[62]

家族

嫡出子

非嫡出子

  • シチリアの伯爵夫人 - 最初の愛人。シチリア王即位在位中に関係を持った。
    • フリードリヒ - 1240年に妻子とともにイベリア半島に移るが、2人の子は3歳に満たないままイベリアで没した。
  • Urslingenのアーデルハイト - 1215年から1220年のドイツ滞在中に関係を持った。
  • スポレートの公爵の娘
    • カテリーナ・ダ・マラーノ(1216年もしくは1218年 - 1272年) - 最初の夫は不明。2度目の結婚でイタリアの侯爵ジャコモ・デル・カレットと結婚。
  • アンティオキアのマティルダ(もしくはマリア)
    • アンティオキア公フリードリヒ(1221年 - 1256年)
  • メッシーナ大司教の姉妹マンナ
    • リカルド(1225年 - 1249年5月26日)
  • レーヴェンシュタイン伯ゴットフリートの妻ルチーナ
    • マーガレット(1230年 1298年) - アチェッラ伯ソマスと結婚。
  • 母親不明

脚注

注釈

  1. ^ 出産当時コスタンツァは40歳を越えており、かつ初産だったために彼女の懐妊には疑惑がもたれ、フリードリヒの出生の疑惑を払拭するために公開出産が行われた。(藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、80-81頁)
  2. ^ オットー4世の甥であるヴェルフェン家の当主、リューネブルクオットーがフリードリヒに服属。オットーの領地であるリューネブルクと王領のブラウンシュヴァイクを合わせた大公領(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家を参照)が作られ、オットーに授与された。(西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、276頁)
  3. ^ 1223年以後に南イタリアで直接税が導入。導入当初は毎年の徴税は行われていなかった(西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、271頁)
  4. ^ 日本語では『鳥類を用いた狩猟術について』『鷹狩りの書』などと訳される。

引用元

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参考文献

  • 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)
  • 小森谷慶子『シチリア歴史紀行』(白水Uブックス, 白水社, 2009年11月)
  • 齋藤寛海「二つのイタリア」『イタリア史』収録(北原敦編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2008年8月)
  • 西川洋一「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
  • 西川洋一「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
  • 藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』(中公新書, 中央公論社, 1991年10月)
  • 吉越英之『ルネサンスを先駆けた皇帝』(慶友社, 2009年9月)
  • エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、420-427頁(川成洋、太田美智子、太田直也訳, 東洋書林, 2006年11月)
  • エルンスト・カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』(小林公訳, 中央公論新社, 2011年9月)
  • アーチボールド.R.ルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1978年 - 1981年)
  • フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』(原書房, 2004年6月)

関連項目

先代
エンリーコ
シチリア王
1197年 - 1250年
次代
コッラード

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