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'''フリッツ・ハーバー'''(Fritz Haber, [[1868年]][[12月9日]] – [[1934年]][[1月29日]])は[[ドイツ]](現在の[[ポーランド]]・[[ヴロツワフ]])出身の[[物理化学]]者、[[電気化学]]者。[[ユダヤ人]]から改宗した[[プロテスタント]]である。[[第一次世界大戦]]時に[[塩素]]を始めとする各種[[毒ガス]]使用の指導的立場にあったことから「[[化学兵器]]の父」と呼ばれることもある。
'''フリッツ・ハーバー'''(Fritz Haber, [[1868年]][[12月9日]] – [[1934年]][[1月29日]])は[[ドイツ]](現在の[[ポーランド]]・[[ヴロツワフ]])出身の[[物理化学]]者、[[電気化学]]者。[[ユダヤ人]]から改宗した[[プロテスタント]]である。空気中の窒素からアンモニアを合成する[[ハーバー・ボッシュ法]]で知られる。[[第一次世界大戦]]時に[[塩素]]を始めとする各種[[毒ガス]]使用の指導的立場にあったことから「[[化学兵器]]の父」と呼ばれることもある。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]や[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]で修学した。1894年に[[カールスルーエ大学]]の助手となり、[[1904年]]に平衡論を利用した[[窒素]]分子からの[[アンモニア]]の合成法の開発に着手した。これは[[1912年]]に[[BASF]]で実用化され、現在[[ハーバー・ボッシュ法]]として知られている。これにより、ドイツはチリ硝石に依存せず、火薬と肥料を生産できるようになり、第一次大戦の折、英海軍の海洋封鎖にもかかわらずドイツは弾薬を製造可能であった。ドイツは第二次大戦においては[[フィッシャー・トロプシュ法]]や[[ベルギウス法]]で石油を石炭から合成して自給している。
ドイツ東部のヴロツワフ(現在ではポーランド領)に、ユダヤ人の家系として生まれた<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.129</ref>。父のジークフリートは染料を主に扱う商人であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.27-28</ref>。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した<ref name="m36">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.36</ref>。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した<ref name="yamamoto130">[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.130</ref><ref group="注釈">父子の反りが合わなかったのは、妻のパウラを失った原因がフリッツにあるからだという事実が、父のジークフリートの心理に影響を与えていたからだと考えられている([[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.30)。</ref>。


11歳のときに[[ギムナジウム]]に入学した。ギムナジウムでは文学や哲学を学び、自作の詩を作った。一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどといった理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた<ref name="m36"/>。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、ハンブルクの染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため2,3か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、[[1886年]]、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]へと進学した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.36-37</ref>。
[[1906年]]にカールスルーエ大学教授となる。[[1909年]]にカイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所(現在の[[マックス・プランク研究所]])の所長となった。[[1912年]]には[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]の物理化学科の名誉教授となった。[[第一次世界大戦]]中は毒ガス開発に携わる。自身も科学者であった妻クララは夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し、初めてそれが実戦で使われた([[1915年]][[4月22日]])のち、5月2日に自ら命を絶った。その頃ハーバーはこの[[塩素]]ガス作戦の指揮を執っていた<ref>[http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/9712/N.html 世界の人口を養う“窒素”の光と影:日経サイエンス 1997年12月号]</ref><ref>[http://fdr.nifty.com/info/2005/09/post_d6b7.html @nifty:ディフェンス・レビュー・フォーラム(FDR): フリッツ・ハーバー]</ref><ref>[http://brains.te.chiba-u.jp/~itot/work/genius/g2/haber.htm マンガ「栄光なき天才たち」『フリッツ・ハーバー』]</ref>。そのため、終戦後は激しい非難に晒され、[[戦争犯罪人]]の候補に挙げられた。


フリッツは大学で化学を専攻した。当時のドイツは化学、特に有機化学の分野に秀でており、ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在である[[アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン]]がいた。ハーバーが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.37</ref>。
[[1918年]]に[[ノーベル化学賞]]を受賞して名誉を回復。[[1919年]]には[[ボルン・ハーバーサイクル]]を提唱した。さらに[[1923年]]に西回りの世界一周の旅に出て、[[日本]]にも2か月滞在。[[函館市|函館]]で叔父ルートヴィヒの遭難50周年追悼行事に参加した。この日本滞在中、[[星製薬]]の創設者である[[星一]]との知遇を得、生涯に亘る親交を結ぶ。[[1928年]]にドイツの賠償金返済のために[[海水]]から[[金]]を回収する実験を試みたが、これは失敗に終わった。


ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]で学び(当時のドイツでは途中で大学を変えるのは珍しいことではなかった)<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.41</ref>、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となる[[クララ・インマーヴァー]]([[:en:Clara Immerwahr]])と出会った<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.41-42</ref>。
愛国的科学者として名声の絶頂にあったハーバーだが、[[1933年]]にその生涯は暗転した。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]によってユダヤ人公職追放令が出されたことを受け、[[カール・ボッシュ]]は[[アドルフ・ヒトラー]]に対し「ユダヤ人の学者を追放することは、ドイツから物理や化学を追放するのと同じことだ」と抗議し、[[4月30日]]にハーバーはマックス・プランク研究所所長を辞任、病気療養を理由に[[スイス]]へ出国。一旦[[イギリス]]に行くが、毒ガスの件で風当たりが強く、気候の問題もあって再び[[スイス]]に渡る。


兵役終了後はベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげた[[カール・リーベルマン]]([[:en:Carl Theodore Liebermann]])に学んだ。そして[[1891年]]、[[ヘリオトロピン|ピペロナール]]の反応についての論文で博士号をとった<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.130</ref>。
翌[[1934年]]、亡命先の[[バーゼル]]で[[冠状動脈硬化症]]により、睡眠中に死去した<ref>[http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=267359 キューバ有機農業ブログ: 空気からパンを作った男]</ref>。現在は、妻のクララとともにバーゼルのHornli Cemeteryに埋葬されている。

=== 求職 ===
有機化学を学んでいたハーバーだが、当時ドイツでは新しい学問分野である[[物理化学]]の人気が高まっていた。ハーバーもこの分野に魅力を感じ、今までの専攻分野を変更して、物理化学における代表的な研究者である[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]のもとでの研究を望んだ<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.43</ref>。しかし当時、ドイツの化学界はポストに比べて志望者が多く、とりわけオストヴァルトは人気が高かったため、職に就くことができなかった。そのためハーバーは、職を求めて企業や大学を転々としたが、思うような仕事場を見つけることができず、24歳の時に父親の染色商の手伝いを始めた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.45</ref>。

ここでは商売の方法などをめぐり父親と意見が食い違った。そのうえ、フリッツは商業上の失敗により、会社に大きな損害を出してしまった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.46</ref>。親子の溝はますます深くなっていったため、フリッツは父の元を離れ、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]で修学した。ここでルドルフ・シュトラウベの講義を聞き、化学者になりたいという気持ちが再び強まった。そのため再びオストヴァルトに、研究室に入れてくれるよう懇願したが、その願いは叶えられなかった<ref group="注釈">ハーバーがオストヴァルトの研究室に入れなかったのはオストヴァルト自身に断られたからだといわれることが多い([[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.47など)。しかしそれに対して、オストヴァルトがハーバーの願いを断った事実はないとする反論も存在する([[#渡邉(2009)|渡邉(2009)]] pp.236-237)。</ref>。そのため他の研究室を探し求め、[[1894年]]、[[カールスルーエ大学]]のハンス・ブンテ([[:de:Hans Bunte]])のもとで、無給助手として働けるようになった<ref name="m48">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.48</ref>。

またこの頃、ハーバーは洗礼を受け、ユダヤ教徒からキリスト教徒へと改宗した<ref name="m48"/>。当時のドイツではユダヤ人に対する反感がいくぶんかあった。ハーバーはもともと宗教には熱心でなかったため、改宗することによって形式的にでもドイツ人の一員となろうとしたのである<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.48-49</ref>。

=== カールスルーエ大学時代 ===
25歳にしてようやく落ち着いた職場を得ることができたハーバーは、同じ研究室にいた友人にも恵まれ、才能を発揮していった。[[1896年]]に発表した論文「炭化水素の分解の実験的研究」は学界の注目を集め、この論文がきっかけで同年、無給助手から、講義収入を得ることのできる私講師へと昇格した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.55</ref>。

さらに[[1898年]]には、電気化学の教科書となる『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版した。当時ハーバーはこの分野における経験が浅かったため、執筆に当たっては、同僚からは恥をかくことになるから思いとどまるよう言われた<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.131</ref>。しかし結果的にはこの教科書は好評で、ブンテはもとより、オストヴァルトからも評価された<ref name="m56">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.56</ref>。そして同年、助教授となった。<ref name="m56"/>。[[1901年]]には、兵役期間中に知り合ったクララと学会で再会し、同年に結婚、翌年には長男を出産した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.60</ref>。

[[1904年]]に平衡論を利用した[[窒素]]分子からの[[アンモニア]]の合成法の開発に着手した(詳細は後述)。これは[[1912年]]に[[BASF]]で実用化され、現在[[ハーバー・ボッシュ法]]として知られている。[[1906年]]はにカールスルーエ大学教授となった。

アンモニア合成の成功により、ハーバーの知名度は著しく上昇した。ハーバーの元には国内外から多くの学生が集まり、ハーバーを呼び寄せようとする大学や企業からの誘いもまた多くあった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.82</ref>。そして[[1912年]]、ハーバーは新たに作られた[[マックス・プランク研究所|カイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所]]に所長として就任した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.84-85</ref>。

=== 第一次大戦 ===
[[File:Clara Immerwahr.jpg|thumb|160px|クララ・インマーヴァー]]
[[第一次世界大戦]]が勃発すると、ドイツに対する愛国心の強かったハーバーは従軍を志願した。しかしその願い出は却下され、代わりに軍からガソリン凍結防止用の添加剤の開発を命じられた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.101</ref>。そして、その問題を解決した後にハーバーが関わったのが、毒ガスの開発であった。

毒ガスの開発は、ハーバーの前に[[ヴァルター・ネルンスト]]が担当していた。ネルンストは、砲弾に「くしゃみ粉」を入れて発射する計画を立てたが上手くいかず、すでに開発からは撤退していた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.100</ref>。ハーバーもはじめは砲弾に催涙ガスを入れて発射させる計画を試みたが、実現が難しかったため、ボンベから直接ガスを散布する方式に切り替えた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.101-102</ref>。

ハーバーは毒ガスの開発に熱心に取り組み、軍もハーバーを信頼し、ハーバーに毒ガスに関する全権を与えた。ハーバーはアンモニア合成などの際につかみとった企業とのつながりを利用し、毒ガスの材料を確保した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.103-104</ref>。さらに、物理化学・電気化学研究所のほぼ全体を、毒ガスの研究に利用した。当時研究所にいた[[オットー・ハーン]]に、毒ガスの使用は[[ハーグ陸戦条約|ハーグ条約]]に違反するのではないかと問われたハーバーは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語った<ref>[[#ハーン(1977)|ハーン(1977)]] p.147</ref><ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.106</ref>。

ハーバーが指揮した毒ガス作戦は、4月22日にイープル地区で実行に移された。この時は大きな成果をあげたが、作戦を続けてゆくうちに連合国側も対応しだし、しだいに当初のような成果をあげられなくなっていった<ref name="m114">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.114</ref>。一方で毒ガス作戦は国際的な非難を浴びた。<ref name="m114"/>。また、ハーバーの周囲でも一部に反対意見があった。カールスルーエ大学の同僚である[[ヘルマン・シュタウディンガー]]がそうであったし<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] pp.142-143</ref>、妻クララも夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し続けた。そしてついには5月2日、クララは抗議のために自ら命を絶った<ref>[http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/9712/N.html 世界の人口を養う“窒素”の光と影:日経サイエンス 1997年12月号]</ref><ref>[http://brains.te.chiba-u.jp/~itot/work/genius/g2/haber.htm マンガ「栄光なき天才たち」『フリッツ・ハーバー』]</ref><ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.117-118</ref>。

もともとクララは化学の分野で博士号もとった才女であったが、フリッツはクララに、科学を捨て妻として家庭に入るよう押しつけ<ref name="Hager161">[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.161</ref>、しかもフリッツは仕事に熱中するあまり家族に気を使うことはほとんどなかったという。そのためもあってか、クララは徐々に家に引きこもりがちになっていた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.162-163</ref>。クララの自殺には、毒ガス作戦への抗議の他に、こういった生活や、さらには同じ化学者である夫の活躍へのうらやみなど、いくつかの理由が重なったものであるともいわれている<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.171</ref>。

ハーバーはクララの死後も毒ガス作戦を継続した。毒ガス戦の戦場はイープル地区以外に、東部戦線へも拡大していった。ここではドイツ軍のみならず連合国軍も毒ガスを使用し、その戦闘はエスカレートしていった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.123-124</ref>。ハーバーは研究所を利用し、フォスゲンや[[マスタードガス]](イペリット)などの新たな毒ガスやその投射機などの開発を進めた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.125-126</ref>。しかし戦争が長引くにつれドイツ軍はしだいに劣勢となり、1812年2月にはハーバー自身も、この戦争で勝てる見込みはないと述べた<ref>[[#宮田(1996)|宮田(1996)]] p.90</ref>。それでもなおハーバーは毒ガスに関する研究開発を続けた。一方では[[1917年]]10月、ベルリンのクラブで知り合ったシャルロッテと再婚した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.130</ref>。

=== ノーベル賞受賞 ===
[[File:Nobel Prize Diploma Fritz Haber 1918.JPG|thumb|200px|ノーベル化学賞(1918年)]]
[[1918年]]11月に戦争は終結した。ハーバーは、毒ガス開発のかどで[[戦争犯罪人]]のリストに載せられたといううわさが流れており<ref name="Hager161"/>、国際法廷において死刑の判決が下るだろうともいわれていた<ref>[[#ハーン(1977)|ハーン(1977)]] p.148</ref>。そのためハーバーは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態にあった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.145</ref>。ハーバーは妻子を連れてスイスへと逃亡した。

自らの逮捕の可能性がないと分かったハーバーはドイツに帰国し、研究所の再編に取り掛かった。そのさなか、ハーバー・ボッシュ法の業績に対する[[ノーベル化学賞]]受賞の知らせを聞いた。ただし当時、ドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判があった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.150-151</ref>。

ハーバーはその後、研究所の再編と共に、研究者を集めて発表を行うことを目的とした、ハーバー・コロキウムを開催した。ここでは、「ヘリウム原子からノミにいたるまで」と謳われたように、化学、物理学から、生物に至るまで、幅広い領域を対象にした<ref>[[#島尾(2002)|島尾(2002)]] p.134</ref>。このコロキウムは以後30年余りにわたって続いた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.155</ref>。一方で自らの研究においても、[[1919年]]に[[マックス・ボルン]]と共同で[[ボルン・ハーバーサイクル]]を提唱するなど、成果をあげ続けた。

=== 資金の調達 ===
ドイツの敗戦により、ハーバーの研究所は資金難におちいっていた。ハーバーはこれを解消するため、[[星一]]による星基金を活用するなど、財政面での改善を進めた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.160</ref>。

さらにハーバーは、賠償金の支払いに苦しんでいたドイツの国家財政を改善するために、[[海水]]から[[金]]を回収する計画を始めた。ハーバーは、賠償金の支払いとその後の復興資金を得るためには50,000トンの金が必要と見積もった<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.193</ref>。そしてこの金を取りだすために、[[1920年]]、M研究室と名付けた極秘の研究室を作り<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.167</ref>、世界中の海から海水を採取し調査を行った。しかし実験の結果、海水に含まれる金の量は、当時推定されていた値よりはるかに少なく、採算が取れないことが明らかになった。そのためこの計画は[[1926年]]に中止された。

一方で、[[1924年]]に西回りの世界一周の旅に出て<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.172</ref>、星一の招待により、[[日本]]にも2か月滞在。[[函館市|函館]]で叔父ルートヴィヒの遭難50周年追悼行事に参加した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.7</ref>。また、妻のシャルロッテとは性格が合わず、[[1929年]]に離婚した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.196</ref>。

=== 晩年 ===
愛国的科学者として名声の絶頂にあったハーバーだが、[[1933年]]にその生涯は暗転した。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権をとると、ユダヤ人の多かったカイザーウィルヘルム協会への圧力が強まった<ref name="m202">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.202</ref>。ハーバーは、第一次大戦の従軍経験が考慮されたために自らが解雇されることはなかった<ref>[[#島尾(2002)|島尾(2002)]] p.135</ref>が、研究員におけるユダヤ人の割合を減らすよう求められた<ref name="m202"/>。しかしハーバーは、この要求は受け入れなかった。1933年4月、ハーバーは、研究員を採用するにあたって今まで自分はずっと人種を基準にしたことはなかったし、その考えを65歳になった今になって変えることはできない、さらに、「あなたは、祖国ドイツに今日まで全生涯を捧げてきたという自負が、この辞職願を書かせているのだということを理解するだろう<ref>[[#宮田(1996)|宮田(1996)]] p.203</ref>」と記した辞職願を教育大臣に提出した。

ハーバーは9月までベルリンに留まり、他のユダヤ人研究者の転職先を探すなどの活動を続けた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.204</ref>。その間、自らの職も求めたが、ハーバーすでに高齢で健康状態が悪化しており、しかも毒ガス開発にかかわったことによって印象を悪くしていたせいもあって、思うような仕事を見つけることは出来なかった<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.255-256</ref>。10月にはドイツを離れ、息子のいるパリや、スイスなどで生活した。

その後[[ケンブリッジ大学]]からの誘いを受けて一旦[[イギリス]]に渡った。ケンブリッジでは触媒を使用した[[過酸化水素]]の分解の研究にたずさわった<ref name="Hager260">[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.260</ref>。しかしイギリスでは毒ガスの件で風当たりが強く、たとえば[[アーネスト・ラザフォード]]にはこの理由により会うことを拒まれた<ref name="Hager260"/>。さらにイギリスの気候もハーバーには合わなかった。

ハーバーはスイスにいた時に、[[シオニズム]]運動家の[[ハイム・ヴァイツマン]]と出会っており、ヴァイツマンから[[パレスチナ]]へ来るよう誘いを受けていた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.209</ref><ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.260-261</ref>。そのため1934年1月、パレスチナへ向かおうとして、いったんスイスのバーゼルへと移った。しかしその移動中に体調を崩し、1月29日、バーゼルのホテルで睡眠中に[[冠状動脈硬化症]]により死去した<ref>[http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=267359 キューバ有機農業ブログ: 空気からパンを作った男]</ref><ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.217-218</ref>。

=== 死後 ===
[[File:DBPB 1957 166 Haber.jpg|thumb|140px|ハーバーを記念して1957年に作られたドイツの切手]]
ユダヤ人であるハーバーの死は、ドイツの新聞などではほとんど取り上げられることはなかった。また、ハーバーへの追悼のコメントをした科学者も、[[マックス・フォン・ラウエ]]などのごく少数に限られた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.266</ref>。

しかし死の1年後にあたる[[1935年]]1月、[[マックス・プランク]]の提唱により、ハーバーの追悼式が行われた。開催にあたってはナチスから、公務員の出席禁止命令を出されるなどの妨害を受けた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.267</ref>。しかし式には、ボッシュ、ハーン、さらには第一次大戦の戦友など、多くの関係者が訪れた。禁止命令のため来ることができなかった科学者は妻を代理で出席させた。そして満席となった会場で、ハーバーの死を悼んだ<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.217-218</ref><ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.267-268</ref>。

ハーバーはケンブリッジにいた頃、自分の遺灰はクララと一緒に埋めてほしい、そして墓碑銘には「彼は戦時中も平和時も、許される限り祖国に尽くした」とだけ記してほしいと遺言書に記していた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.261</ref>。そのため現在ハーバーの遺体は、妻のクララとともにバーゼルのHornli Cemeteryに埋葬されている<ref group="注釈">ハーバー遺灰を埋葬したのは息子のヘルマンである。クララの遺灰はドイツにあったが、1937年にヘルマンの手によって、遺言通りハーバーと同じ場所へと移された。ただし墓碑銘に書かれているのは2人の名前と生没年月日のみである。([[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.261)</ref>。

== 業績 ==
ハーバーが取り組んだのは、空気中の窒素分子N<sub>2</sub>からアンモニアを生成しようという試みだった。そのためにはいったん窒素分子を2個の窒素原子に分離しなければならないが、この窒素原子同士の結びつきは[[三重結合]]のため非常に強い<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.72</ref>。そのため分離させるには1000℃もの高温にしなければならないが、温度を高くすると生成されたアンモニアが壊れてしまうことになる。ハーバーは熱を加えてアンモニアを生成してから素早く冷やすという方法で少量のアンモニアを生成したが、それは商業的な生産を見込めるほどの量ではなかった。1905年、ハーバーはこれまでの研究結果を論文として発表した<ref name="Hager73">[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.73</ref>。

しかしこの結果はネルンストの批判を受けた。ネルンストの理論によれば、この方法によって得られるアンモニアの量はハーバーの結果より少なくなるはずだと主張し、実際に助手に実験をさせて自分の理論が正しいことを確かめた<ref name="Hager73"/>。こうして、ハーバーはネルンストと対立した。ネルンストは[[1907年]]に開かれたブンゼン協会の会合でこの結果を発表し、ハーバーの結果は誤りだと述べた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.74</ref>。

ハーバーはこの会合の後も、装置に精通したル・ロシニョールと共にアンモニアの研究を続け、圧力を加えることで温度を下げることができ、その結果、より多くのアンモニアが作れることを発見した<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.86</ref>。

[[1908年]]にはアンモニア合成に関してBASF社と契約を結んだ。そして、BASFからの援助を元に研究を続けた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] pp.95-96</ref>。ハーバーは圧力の他に、反応の際の[[触媒]]を変えることでアンモニアの生産効率を上げられるかを実験し、結果、[[オスミウム]]を使うことで生産量が飛躍的に向上することを明らかにした<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.98</ref>。ハーバーはこれらの研究内容をBASFに提供し、BASFではボッシュを中心にその研究を進めることで商業生産を成功させた。

アンモニアは化学肥料だけでなく、火薬の原料でもあった。そのためこれにより、ドイツはチリ硝石に依存せず、火薬と肥料を生産できるようになり、第一次大戦の折、英海軍の海洋封鎖にもかかわらずドイツは弾薬を製造可能であった。

== 人物 ==
ハーバーは、どの分野においても、その重要なポイントを認識し、短期間で自分のものにする能力を持っていた。そのため、今まで自分が関わっていなかった研究分野でも、短期間で集中して学ぶことによって、その分野に精通することができた<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.131</ref>。しかしあまりに集中するあまり、他のことに気が回らなくなったり、我を忘れたような状態になることがあった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.80</ref>。さらに神経症の症状が出ることもあり、そのため1年に1度くらいの頻度で、温泉や[[サナトリウム]]で数週間の休養をとっていた<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.70</ref>。

話術にも長けており、講演の上手さには定評があった。また教育者としても評価が高く、ドイツ以外にもアメリカ、ロシア、ニュージーランド、日本などから、多くの研究員が集まった。ハーバーは外国の研究員が祖国に帰る時にも、その国での研究ポストを融通するなど、親身に接した<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.81-82,120</ref>。

一方で家庭はないがしろにしがちで、2度の結婚生活はどちらもうまくいかなかった。最初の妻のクララは結婚後も自分の化学研究を続けたいと思っていたが<ref>[[#島尾(2002)|島尾(2002)]] p.128</ref>、フリッツはその願いをかなえることはしなかった。クララは社交的ではなかったが、フリッツはクララの都合を考えず、突然研究員を自宅に招きもてなすといった行動をとったりした<ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.130</ref>。フリッツがアンモニア合成で成功した頃、クララは、フリッツが得たことと同じ、あるいはそれ以上のことを、私は失った、と手紙につづっている<ref>[[#ヘイガー(2010)|ヘイガー(2010)]] p.162</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>

=== 参照元 ===
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== 伝記 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
*{{Cite book|和書|author=宮田親平|authorlink=宮田親平|year=2007|month=11|title=毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者|series=朝日選書|publisher=朝日新聞社|isbn=978-4-02-259934-6}}
|author=島尾 永康
|year=2002|month=11|
|title=人物化学史―パラケルススからポーリングまで
|publisher=朝倉書店
|isbn=978-4254105773
|ref=島尾(2002)}}
* {{Cite book|和書
|author=オットー・ハーン
|year=1977|month=9|
|title=オットー・ハーン自伝
|others=山崎和夫訳
|publisher=みすず書房
|ref=ハーン(1977)}}
* {{Cite book|和書
|author=トーマス・ヘイガー
|year=2010
|title=大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀
|others=渡会圭子訳
|publisher=みすず書房
|isbn=978-4622075363
|ref=ヘイガー(2010)}}
* {{Cite book|和書
|author=宮田親平
|year=1996|month=1
|title=毒ガスと科学者
|series=文春文庫|publisher=文藝春秋
|isbn=978-4167213039
|ref=宮田(1996)}}
* {{Cite book|和書
|author=宮田親平
|year=2007
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|title=毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者
|series=朝日選書|publisher=朝日新聞社
|isbn=978-4-02-259934-6
|ref=宮田(2007)}}
* {{Cite journal|
|author=山本明夫
|year=2008
|title=フリッツ・ハーバーとその時代
|journal=化学史研究
|volume=35
|issue=3
|pages=pp.129-153
|ref=山本(2008)}}
* {{Cite journal|
|author=渡邉慶昭
|year=2009
|title=ヴィルヘルム・オストヴァルトに対する誤解を解く――フリッツ・ハーバーの場合
|journal=化学史研究
|volume=36
|issue=4
|pages=pp.236-238
|ref=渡邉(2009)}}


== 関連項目==
== 関連項目==
* [[ドサイエンティスト]]
* [[フリツ・ハーバー研究所]]
* [[ツィクロンB]]
* [[ツィクロンB]]
* [[ルートヴィヒ・ハーバー]]([[1843年]]-[[1874年]]) - フリッツ・ハーバーの叔父。開国後の日本に[[領事]]として派遣され、[[1874年]][[8月11日]]に[[函館]]で旧[[秋田藩]]の[[士族]]田崎秀親に[[暗殺]]された(ハーバー事件)。ルートヴィヒおよびハーバー事件についての詳細は外部リンクを参照のこと。
* [[オットー・ハーン]] - 部下として[[化学兵器]]の開発に携わる。
* [[ルートヴィヒ・ハーバー]]([[1843年]]-[[1874年]]) - フリッツ・ハーバーの[[叔父]]。開国後の日本に[[領事]]として派遣され、[[1874年]][[8月11日]]に[[函館]]で旧[[秋田藩]]の[[士族]]田崎秀親に[[暗殺]]された(ハーバー事件)。ルートヴィヒおよびハーバー事件についての詳細は外部リンクを参照のこと。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.donan.info/modules/pukiwiki/233.html ハーバー遭難記念碑]-[http://www.donan.info/ 道南ミュージアム]
* [http://www.donan.info/modules/pukiwiki/233.html ハーバー遭難記念碑]-[http://www.donan.info/ 道南ミュージアム]


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2012年1月22日 (日) 00:25時点における版

フリッツ・ハーバー
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1918年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:アンモニア合成法の開発

フリッツ・ハーバー(Fritz Haber, 1868年12月9日1934年1月29日)はドイツ(現在のポーランドヴロツワフ)出身の物理化学者、電気化学者。ユダヤ人から改宗したプロテスタントである。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。

経歴

生い立ち

ドイツ東部のヴロツワフ(現在ではポーランド領)に、ユダヤ人の家系として生まれた[1]。父のジークフリートは染料を主に扱う商人であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である[2]。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した[3]。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した[4][注釈 1]

11歳のときにギムナジウムに入学した。ギムナジウムでは文学や哲学を学び、自作の詩を作った。一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどといった理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた[3]。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、ハンブルクの染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため2,3か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、1886年ベルリン大学へと進学した[5]

フリッツは大学で化学を専攻した。当時のドイツは化学、特に有機化学の分野に秀でており、ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在であるアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンがいた。ハーバーが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない[6]

ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間ハイデルベルク大学で学び(当時のドイツでは途中で大学を変えるのは珍しいことではなかった)[7]、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となるクララ・インマーヴァー(en:Clara Immerwahr)と出会った[8]

兵役終了後はベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげたカール・リーベルマン(en:Carl Theodore Liebermann)に学んだ。そして1891年ピペロナールの反応についての論文で博士号をとった[9]

求職

有機化学を学んでいたハーバーだが、当時ドイツでは新しい学問分野である物理化学の人気が高まっていた。ハーバーもこの分野に魅力を感じ、今までの専攻分野を変更して、物理化学における代表的な研究者であるヴィルヘルム・オストヴァルトのもとでの研究を望んだ[10]。しかし当時、ドイツの化学界はポストに比べて志望者が多く、とりわけオストヴァルトは人気が高かったため、職に就くことができなかった。そのためハーバーは、職を求めて企業や大学を転々としたが、思うような仕事場を見つけることができず、24歳の時に父親の染色商の手伝いを始めた[11]

ここでは商売の方法などをめぐり父親と意見が食い違った。そのうえ、フリッツは商業上の失敗により、会社に大きな損害を出してしまった[12]。親子の溝はますます深くなっていったため、フリッツは父の元を離れ、イェーナ大学で修学した。ここでルドルフ・シュトラウベの講義を聞き、化学者になりたいという気持ちが再び強まった。そのため再びオストヴァルトに、研究室に入れてくれるよう懇願したが、その願いは叶えられなかった[注釈 2]。そのため他の研究室を探し求め、1894年カールスルーエ大学のハンス・ブンテ(de:Hans Bunte)のもとで、無給助手として働けるようになった[13]

またこの頃、ハーバーは洗礼を受け、ユダヤ教徒からキリスト教徒へと改宗した[13]。当時のドイツではユダヤ人に対する反感がいくぶんかあった。ハーバーはもともと宗教には熱心でなかったため、改宗することによって形式的にでもドイツ人の一員となろうとしたのである[14]

カールスルーエ大学時代

25歳にしてようやく落ち着いた職場を得ることができたハーバーは、同じ研究室にいた友人にも恵まれ、才能を発揮していった。1896年に発表した論文「炭化水素の分解の実験的研究」は学界の注目を集め、この論文がきっかけで同年、無給助手から、講義収入を得ることのできる私講師へと昇格した[15]

さらに1898年には、電気化学の教科書となる『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版した。当時ハーバーはこの分野における経験が浅かったため、執筆に当たっては、同僚からは恥をかくことになるから思いとどまるよう言われた[16]。しかし結果的にはこの教科書は好評で、ブンテはもとより、オストヴァルトからも評価された[17]。そして同年、助教授となった。[17]1901年には、兵役期間中に知り合ったクララと学会で再会し、同年に結婚、翌年には長男を出産した[18]

1904年に平衡論を利用した窒素分子からのアンモニアの合成法の開発に着手した(詳細は後述)。これは1912年BASFで実用化され、現在ハーバー・ボッシュ法として知られている。1906年はにカールスルーエ大学教授となった。

アンモニア合成の成功により、ハーバーの知名度は著しく上昇した。ハーバーの元には国内外から多くの学生が集まり、ハーバーを呼び寄せようとする大学や企業からの誘いもまた多くあった[19]。そして1912年、ハーバーは新たに作られたカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所に所長として就任した[20]

第一次大戦

クララ・インマーヴァー

第一次世界大戦が勃発すると、ドイツに対する愛国心の強かったハーバーは従軍を志願した。しかしその願い出は却下され、代わりに軍からガソリン凍結防止用の添加剤の開発を命じられた[21]。そして、その問題を解決した後にハーバーが関わったのが、毒ガスの開発であった。

毒ガスの開発は、ハーバーの前にヴァルター・ネルンストが担当していた。ネルンストは、砲弾に「くしゃみ粉」を入れて発射する計画を立てたが上手くいかず、すでに開発からは撤退していた[22]。ハーバーもはじめは砲弾に催涙ガスを入れて発射させる計画を試みたが、実現が難しかったため、ボンベから直接ガスを散布する方式に切り替えた[23]

ハーバーは毒ガスの開発に熱心に取り組み、軍もハーバーを信頼し、ハーバーに毒ガスに関する全権を与えた。ハーバーはアンモニア合成などの際につかみとった企業とのつながりを利用し、毒ガスの材料を確保した[24]。さらに、物理化学・電気化学研究所のほぼ全体を、毒ガスの研究に利用した。当時研究所にいたオットー・ハーンに、毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと問われたハーバーは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語った[25][26]

ハーバーが指揮した毒ガス作戦は、4月22日にイープル地区で実行に移された。この時は大きな成果をあげたが、作戦を続けてゆくうちに連合国側も対応しだし、しだいに当初のような成果をあげられなくなっていった[27]。一方で毒ガス作戦は国際的な非難を浴びた。[27]。また、ハーバーの周囲でも一部に反対意見があった。カールスルーエ大学の同僚であるヘルマン・シュタウディンガーがそうであったし[28]、妻クララも夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し続けた。そしてついには5月2日、クララは抗議のために自ら命を絶った[29][30][31]

もともとクララは化学の分野で博士号もとった才女であったが、フリッツはクララに、科学を捨て妻として家庭に入るよう押しつけ[32]、しかもフリッツは仕事に熱中するあまり家族に気を使うことはほとんどなかったという。そのためもあってか、クララは徐々に家に引きこもりがちになっていた[33]。クララの自殺には、毒ガス作戦への抗議の他に、こういった生活や、さらには同じ化学者である夫の活躍へのうらやみなど、いくつかの理由が重なったものであるともいわれている[34]

ハーバーはクララの死後も毒ガス作戦を継続した。毒ガス戦の戦場はイープル地区以外に、東部戦線へも拡大していった。ここではドイツ軍のみならず連合国軍も毒ガスを使用し、その戦闘はエスカレートしていった[35]。ハーバーは研究所を利用し、フォスゲンやマスタードガス(イペリット)などの新たな毒ガスやその投射機などの開発を進めた[36]。しかし戦争が長引くにつれドイツ軍はしだいに劣勢となり、1812年2月にはハーバー自身も、この戦争で勝てる見込みはないと述べた[37]。それでもなおハーバーは毒ガスに関する研究開発を続けた。一方では1917年10月、ベルリンのクラブで知り合ったシャルロッテと再婚した[38]

ノーベル賞受賞

ノーベル化学賞(1918年)

1918年11月に戦争は終結した。ハーバーは、毒ガス開発のかどで戦争犯罪人のリストに載せられたといううわさが流れており[32]、国際法廷において死刑の判決が下るだろうともいわれていた[39]。そのためハーバーは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態にあった[40]。ハーバーは妻子を連れてスイスへと逃亡した。

自らの逮捕の可能性がないと分かったハーバーはドイツに帰国し、研究所の再編に取り掛かった。そのさなか、ハーバー・ボッシュ法の業績に対するノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた。ただし当時、ドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判があった[41]

ハーバーはその後、研究所の再編と共に、研究者を集めて発表を行うことを目的とした、ハーバー・コロキウムを開催した。ここでは、「ヘリウム原子からノミにいたるまで」と謳われたように、化学、物理学から、生物に至るまで、幅広い領域を対象にした[42]。このコロキウムは以後30年余りにわたって続いた[43]。一方で自らの研究においても、1919年マックス・ボルンと共同でボルン・ハーバーサイクルを提唱するなど、成果をあげ続けた。

資金の調達

ドイツの敗戦により、ハーバーの研究所は資金難におちいっていた。ハーバーはこれを解消するため、星一による星基金を活用するなど、財政面での改善を進めた[44]

さらにハーバーは、賠償金の支払いに苦しんでいたドイツの国家財政を改善するために、海水からを回収する計画を始めた。ハーバーは、賠償金の支払いとその後の復興資金を得るためには50,000トンの金が必要と見積もった[45]。そしてこの金を取りだすために、1920年、M研究室と名付けた極秘の研究室を作り[46]、世界中の海から海水を採取し調査を行った。しかし実験の結果、海水に含まれる金の量は、当時推定されていた値よりはるかに少なく、採算が取れないことが明らかになった。そのためこの計画は1926年に中止された。

一方で、1924年に西回りの世界一周の旅に出て[47]、星一の招待により、日本にも2か月滞在。函館で叔父ルートヴィヒの遭難50周年追悼行事に参加した[48]。また、妻のシャルロッテとは性格が合わず、1929年に離婚した[49]

晩年

愛国的科学者として名声の絶頂にあったハーバーだが、1933年にその生涯は暗転した。ナチスが政権をとると、ユダヤ人の多かったカイザーウィルヘルム協会への圧力が強まった[50]。ハーバーは、第一次大戦の従軍経験が考慮されたために自らが解雇されることはなかった[51]が、研究員におけるユダヤ人の割合を減らすよう求められた[50]。しかしハーバーは、この要求は受け入れなかった。1933年4月、ハーバーは、研究員を採用するにあたって今まで自分はずっと人種を基準にしたことはなかったし、その考えを65歳になった今になって変えることはできない、さらに、「あなたは、祖国ドイツに今日まで全生涯を捧げてきたという自負が、この辞職願を書かせているのだということを理解するだろう[52]」と記した辞職願を教育大臣に提出した。

ハーバーは9月までベルリンに留まり、他のユダヤ人研究者の転職先を探すなどの活動を続けた[53]。その間、自らの職も求めたが、ハーバーすでに高齢で健康状態が悪化しており、しかも毒ガス開発にかかわったことによって印象を悪くしていたせいもあって、思うような仕事を見つけることは出来なかった[54]。10月にはドイツを離れ、息子のいるパリや、スイスなどで生活した。

その後ケンブリッジ大学からの誘いを受けて一旦イギリスに渡った。ケンブリッジでは触媒を使用した過酸化水素の分解の研究にたずさわった[55]。しかしイギリスでは毒ガスの件で風当たりが強く、たとえばアーネスト・ラザフォードにはこの理由により会うことを拒まれた[55]。さらにイギリスの気候もハーバーには合わなかった。

ハーバーはスイスにいた時に、シオニズム運動家のハイム・ヴァイツマンと出会っており、ヴァイツマンからパレスチナへ来るよう誘いを受けていた[56][57]。そのため1934年1月、パレスチナへ向かおうとして、いったんスイスのバーゼルへと移った。しかしその移動中に体調を崩し、1月29日、バーゼルのホテルで睡眠中に冠状動脈硬化症により死去した[58][59]

死後

ハーバーを記念して1957年に作られたドイツの切手

ユダヤ人であるハーバーの死は、ドイツの新聞などではほとんど取り上げられることはなかった。また、ハーバーへの追悼のコメントをした科学者も、マックス・フォン・ラウエなどのごく少数に限られた[60]

しかし死の1年後にあたる1935年1月、マックス・プランクの提唱により、ハーバーの追悼式が行われた。開催にあたってはナチスから、公務員の出席禁止命令を出されるなどの妨害を受けた[61]。しかし式には、ボッシュ、ハーン、さらには第一次大戦の戦友など、多くの関係者が訪れた。禁止命令のため来ることができなかった科学者は妻を代理で出席させた。そして満席となった会場で、ハーバーの死を悼んだ[62][63]

ハーバーはケンブリッジにいた頃、自分の遺灰はクララと一緒に埋めてほしい、そして墓碑銘には「彼は戦時中も平和時も、許される限り祖国に尽くした」とだけ記してほしいと遺言書に記していた[64]。そのため現在ハーバーの遺体は、妻のクララとともにバーゼルのHornli Cemeteryに埋葬されている[注釈 3]

業績

ハーバーが取り組んだのは、空気中の窒素分子N2からアンモニアを生成しようという試みだった。そのためにはいったん窒素分子を2個の窒素原子に分離しなければならないが、この窒素原子同士の結びつきは三重結合のため非常に強い[65]。そのため分離させるには1000℃もの高温にしなければならないが、温度を高くすると生成されたアンモニアが壊れてしまうことになる。ハーバーは熱を加えてアンモニアを生成してから素早く冷やすという方法で少量のアンモニアを生成したが、それは商業的な生産を見込めるほどの量ではなかった。1905年、ハーバーはこれまでの研究結果を論文として発表した[66]

しかしこの結果はネルンストの批判を受けた。ネルンストの理論によれば、この方法によって得られるアンモニアの量はハーバーの結果より少なくなるはずだと主張し、実際に助手に実験をさせて自分の理論が正しいことを確かめた[66]。こうして、ハーバーはネルンストと対立した。ネルンストは1907年に開かれたブンゼン協会の会合でこの結果を発表し、ハーバーの結果は誤りだと述べた[67]

ハーバーはこの会合の後も、装置に精通したル・ロシニョールと共にアンモニアの研究を続け、圧力を加えることで温度を下げることができ、その結果、より多くのアンモニアが作れることを発見した[68]

1908年にはアンモニア合成に関してBASF社と契約を結んだ。そして、BASFからの援助を元に研究を続けた[69]。ハーバーは圧力の他に、反応の際の触媒を変えることでアンモニアの生産効率を上げられるかを実験し、結果、オスミウムを使うことで生産量が飛躍的に向上することを明らかにした[70]。ハーバーはこれらの研究内容をBASFに提供し、BASFではボッシュを中心にその研究を進めることで商業生産を成功させた。

アンモニアは化学肥料だけでなく、火薬の原料でもあった。そのためこれにより、ドイツはチリ硝石に依存せず、火薬と肥料を生産できるようになり、第一次大戦の折、英海軍の海洋封鎖にもかかわらずドイツは弾薬を製造可能であった。

人物

ハーバーは、どの分野においても、その重要なポイントを認識し、短期間で自分のものにする能力を持っていた。そのため、今まで自分が関わっていなかった研究分野でも、短期間で集中して学ぶことによって、その分野に精通することができた[71]。しかしあまりに集中するあまり、他のことに気が回らなくなったり、我を忘れたような状態になることがあった[72]。さらに神経症の症状が出ることもあり、そのため1年に1度くらいの頻度で、温泉やサナトリウムで数週間の休養をとっていた[73]

話術にも長けており、講演の上手さには定評があった。また教育者としても評価が高く、ドイツ以外にもアメリカ、ロシア、ニュージーランド、日本などから、多くの研究員が集まった。ハーバーは外国の研究員が祖国に帰る時にも、その国での研究ポストを融通するなど、親身に接した[74]

一方で家庭はないがしろにしがちで、2度の結婚生活はどちらもうまくいかなかった。最初の妻のクララは結婚後も自分の化学研究を続けたいと思っていたが[75]、フリッツはその願いをかなえることはしなかった。クララは社交的ではなかったが、フリッツはクララの都合を考えず、突然研究員を自宅に招きもてなすといった行動をとったりした[76]。フリッツがアンモニア合成で成功した頃、クララは、フリッツが得たことと同じ、あるいはそれ以上のことを、私は失った、と手紙につづっている[77]

脚注

注釈

  1. ^ 父子の反りが合わなかったのは、妻のパウラを失った原因がフリッツにあるからだという事実が、父のジークフリートの心理に影響を与えていたからだと考えられている(宮田(2007) p.30)。
  2. ^ ハーバーがオストヴァルトの研究室に入れなかったのはオストヴァルト自身に断られたからだといわれることが多い(宮田(2007) p.47など)。しかしそれに対して、オストヴァルトがハーバーの願いを断った事実はないとする反論も存在する(渡邉(2009) pp.236-237)。
  3. ^ ハーバー遺灰を埋葬したのは息子のヘルマンである。クララの遺灰はドイツにあったが、1937年にヘルマンの手によって、遺言通りハーバーと同じ場所へと移された。ただし墓碑銘に書かれているのは2人の名前と生没年月日のみである。(ヘイガー(2010) p.261)

参照元

  1. ^ 山本(2008) p.129
  2. ^ 宮田(2007) pp.27-28
  3. ^ a b 宮田(2007) p.36
  4. ^ 山本(2008) p.130
  5. ^ 宮田(2007) pp.36-37
  6. ^ 宮田(2007) p.37
  7. ^ 宮田(2007) p.41
  8. ^ 宮田(2007) pp.41-42
  9. ^ 山本(2008) p.130
  10. ^ 宮田(2007) p.43
  11. ^ 宮田(2007) p.45
  12. ^ 宮田(2007) p.46
  13. ^ a b 宮田(2007) p.48
  14. ^ 宮田(2007) pp.48-49
  15. ^ 宮田(2007) p.55
  16. ^ 山本(2008) p.131
  17. ^ a b 宮田(2007) p.56
  18. ^ 宮田(2007) p.60
  19. ^ 宮田(2007) p.82
  20. ^ 宮田(2007) pp.84-85
  21. ^ 宮田(2007) p.101
  22. ^ 宮田(2007) p.100
  23. ^ 宮田(2007) pp.101-102
  24. ^ 宮田(2007) pp.103-104
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  28. ^ 山本(2008) pp.142-143
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  30. ^ マンガ「栄光なき天才たち」『フリッツ・ハーバー』
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参考文献

  • 島尾 永康『人物化学史―パラケルススからポーリングまで』朝倉書店、2002年11月。ISBN 978-4254105773 
  • オットー・ハーン『オットー・ハーン自伝』山崎和夫訳、みすず書房、1977年9月。 
  • トーマス・ヘイガー『大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀』渡会圭子訳、みすず書房、2010年。ISBN 978-4622075363 
  • 宮田親平『毒ガスと科学者』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年1月。ISBN 978-4167213039 
  • 宮田親平『毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者』朝日新聞社〈朝日選書〉、2007年11月。ISBN 978-4-02-259934-6 
  • 山本明夫 (2008). “フリッツ・ハーバーとその時代”. 化学史研究 35 (3): pp.129-153. 
  • 渡邉慶昭 (2009). “ヴィルヘルム・オストヴァルトに対する誤解を解く――フリッツ・ハーバーの場合”. 化学史研究 36 (4): pp.236-238. 

関連項目

外部リンク