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'''大戦景気'''(たいせんけいき)とは、[[戦争]]が発生すると局地的に起こる[[好景気]]の[[現象]]である。'''戦争景気'''などとも言われる。
'''大戦景気'''(たいせんけいき)とは、[[戦争]]が発生すると局地的に起こる[[好景気]]の[[現象]]である。'''戦争景気'''などとも言われる。日本では、[[1915年]]([[大正]]4年)から[[1920年]](大正9年)に起きた


== 概要 ==
== 大戦景気の概要 ==
[[景気循環]]としては最も大きいものの1つで、以下の要因が挙げられる。
[[景気循環]]としては最も大きいものの1つで、以下の要因が挙げられる。


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一方で、終戦とともに軍需が急激に減少すると、深刻な[[戦後恐慌]]が発生する。総力戦では総動員体制が敷かれ、経営判断を差し置いた生産設備の拡大が義務付けられるため、戦後には膨大な過剰生産力を抱えることとなる。[[第二次世界大戦]]でのアメリカは、戦勝の見通しが定まった段階で徐々に平時生産体制に切り替え、また戦後には[[マーシャル・プラン]]によって欧州の復興需要を満たす資金を供給するなどの方法で、終戦による急激な需要減に対処した。
一方で、終戦とともに軍需が急激に減少すると、深刻な[[戦後恐慌]]が発生する。総力戦では総動員体制が敷かれ、経営判断を差し置いた生産設備の拡大が義務付けられるため、戦後には膨大な過剰生産力を抱えることとなる。[[第二次世界大戦]]でのアメリカは、戦勝の見通しが定まった段階で徐々に平時生産体制に切り替え、また戦後には[[マーシャル・プラン]]によって欧州の復興需要を満たす資金を供給するなどの方法で、終戦による急激な需要減に対処した。


== 日本 ==
==戦争景気が起きた国 ==
[[ヨーロッパ]]を主戦場とした[[第一次世界大戦]]の影響により、その圏外にあった[[日本]]の[[商品]][[輸出]]が急増したため発生した空前の[[好景気]](ブーム)が起きた。このブームは[[1915年]]([[大正]]4年)下半期に始まって[[1920年]](大正9年)3月の[[戦後恐慌]]の発生までつづき、戦前の日本経済の大きな曲がり角となった<ref name="nakataka_026">[[#中村隆|中村隆(1989)pp.26-27]]</ref>。[[工業]][[生産]]が急激に増大し、[[重化学工業]]化の進展がみられ、日本の[[都市]][[社会]]にも大きな変貌をもたらした<ref name="chimoto_042">[[#千本|千本(1989)pp.42-46]]</ref>。
===日本===
日本で最初に大戦景気が起きたのは[[日清戦争]]後、日本が獲得した戦時賠償による消費の拡大からである。このとき日本経済は大きく前進し、[[殖産興業]]がますます推進されることになる。


=== 経緯 ===
[[第一次世界大戦]]では欧州のアジア市場不在の隙を突き、製鉄業や造船業や海運業を中心にアジア市場の独占によって好景気が生まれる。[[成金]]などの単語が生まれ、大戦景気の中でもひときわ大きいものである。(大戦バブル、大正バブル、成金景気)
[[日露戦争]]から[[第一次世界大戦]]までの約10年間、日本経済は着実な発展を遂げてはいたが、[[国際収支]]はつねに[[赤字]]で[[大蔵省]]や[[日本銀行]]の懸念材料となっていた。[[1914年]](大正3年)4月に成立した[[第2次大隈内閣]]は、国際収支改善のために、[[財政]]・[[金融]]を引き締めて「非募債主義」の姿勢を示した<ref name="nakataka_026"/>。


1914年7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、当初は、[[為替相場]]が混乱し、[[ロンドン]]を中心とする国際[[信用]]機構の機能が妨げられたことや製品の海上輸送が困難さを増し、工業原料の入手も困難になったことなども加わって一時的に[[恐慌]]状態となり、[[繭]]価格が暴落した。大隈内閣は、救済に乗り出し、全国蚕糸業者大会の[[陳情]]をいれて政府が500万円を出資、[[帝国蚕糸株式会社]]を設立して滞貨の買い入れにあたらせた<ref name="imai_079">[[#今井|今井(1974)pp.79-95]]</ref>。しかし、一時は深刻な不況にみまわれた日本経済も、翌[[1915年]](大正4年)の後半から好況に転じはじめた<ref name="imai_079"/><ref name=hashimoto>[[#橋本|橋本(1987)p.793]]</ref>。[[ロシア帝国]]や[[イギリス]]などの交戦諸国は、不足する[[軍需品]]などの[[供給]]を日本に求めた<ref name="imai_079"/>。また、[[アジア]]市場からヨーロッパ製の[[商品]]が後退したあと、日本の商品に[[需要]]が高まり、一時的にではあったが、日本がアジア・[[アフリカ]]の輸出市場を独占したことで空前の好況を呈することとなった<ref name="nakataka_026"/>。特に[[鉱山]]、[[造船]]、[[商事]]の3業種は花形産業として潤った。年5割や年7割などの[[配当]]をする会社もめずらしくなく、[[株式市場]]も活況を呈し、にわか[[成金]]が続出した<ref name="nakataka_026"/><ref group="注釈">「成金」とは、将棋の駒([[歩兵 (将棋)|歩兵]])が敵陣に入ると成って[[金将]]になることに由来することばで、「にわか富豪」を意味する。</ref>。この結果、[[日本政府]]と[[日本銀行]]の保有する[[正貨]](本位貨幣、[[金本位制]]においては[[金貨]]、金地金および金為替)は、1914年から[[1918年]](大正7年)のあいだに約3億4,000万円から約15億9,000万円に増加し、世界大戦前まで約11億円の[[債務国]](1914年)だった日本は、[[1920年]](大正9年)には27.7億円以上の対外[[債権]]を有する[[債権国]]に転換した<ref name="nakataka_026"/>。産業構造では、[[農業国]]から[[工業国]]へと脱皮し、さらに[[重化学工業]]化の進展がみられた。工業生産は急激に増大し、[[工場]][[労働者]]は100万人をうわまわった。「東洋の[[マンチェスター]]」と呼ばれた工業都市[[大阪市]]で一時期、人手不足から「成金職工」も現れた<ref name="chimoto_042"/>。また、その過程で工業の動力は[[蒸気機関|蒸気力]]から[[電力]]に転換した<ref name="nakataka_026"/>。
また、朝鮮戦争時に起きた[[特需景気]]なども大戦景気の一つである。


=== 貿易の飛躍的な発展 ===
===アメリカ===
大戦景気は[[輸出]][[貿易]]の飛躍的な発展によってもたらされた。日本は参戦したものの、[[アメリカ合衆国]]と同様、ヨーロッパを主戦場とする大戦から直接の被害を受けなかった。そのため、アメリカの好景気にささえられて[[生糸]]などアメリカ市場向けの輸出が著しく増加した。[[綿糸]]や[[綿布]]、[[綿織物]]、[[雑貨]]などは、戦争によりヨーロッパ列強がアジアなどから後退したため中国はもちろん[[インド]]・[[東南アジア]]などのアジア市場・アフリカ市場への輸出が増加した
<ref name="kimishima_232">[[#君島|君島(1987)pp.232-233]]</ref>。輸出貿易は、[[オーストラリア]]や[[南米]]など従来未開拓であった市場でも活発化した
<ref name="imai_079"/>。また、[[兵器]]、軍需品、[[食料品]]などが戦争当事国であるヨーロッパ諸国に輸出された<ref name="kimishima_232"/>。

輸出入の総額は1914年から[[1919年]](大正8年)にかけて4倍近くも増加した。また、従来の[[輸入]]超過から輸出超過に転じ、大戦期を通じて超過額は14億円にのぼった。第一次大戦中およびその前後の貿易額の推移を下に記す(単位は万円)<ref>[[#総覧|『明治大正国勢総覧』]]による。</ref>。

{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan=1|相手国
!colspan=2|中国
!colspan=2|アメリカ
!colspan=2|総計
!rowspan=2|差引
|-
!年次
!輸出
!輸入
!輸出
!輸入
!輸出
!輸入
|-
|[[1912年]]
|11,482
|5,481
|16,871
|12,702
|52,698
|61,899
|Δ9,201
|-
|[[1913年]]
|15,466
|6,122
|18,447
|12,241
|63,246
|72,943
|Δ9,697
|-
|[[1914年]]
|16,237
|5,831
|19,654
|9,677
|59,110
|59,574
|Δ464
|-
|[[1915年]]
|14,112
|8,585
|20,414
|10,253
|70,831
|53,245
|17,586
|-
|[[1916年]]
|19,271
|10,864
|34,025
|20,408
|112,747
|75,643
|37,104
|-
|[[1917年]]
|31,838
|13,327
|47,854
|35,971
|160,301
|103,581
|56,720
|-
|[[1918年]]
|35,915
|28,171
|53,013
|62,603
|196,210
|166,814
|29,396
|-
|[[1919年]]
|44,705
|32,210
|82,810
|76,638
|209,887
|217,346
|Δ7,459
|-
|[[1920年]]
|41,027
|21,809
|56,502
|87,318
|194,840
|233,618
|Δ38,778
|-
|[[1921年]]
|28,723
|19,168
|49,622
|57,440
|125,284
|161,416
|Δ36,132
|}

大戦初期では、[[銅]]、[[ラシャ]]、[[サージ]]、[[靴]]、[[アンチモニー]]、[[豆]]類、[[茶]]、米、綿布などの輸出が増加したが、大戦中期に輸出額がのびたのは、生糸、[[汽船]]、[[真鍮]]および[[黄銅]]、[[亜鉛]]のほか、豆類や綿布は大戦初期から継続して輸出額が伸びつづけた<ref name="imai_079"/>。

また、[[海運業]]における[[運賃]]などの[[貿易外収入]]も貿易黒字に匹敵するほどの巨額にのぼった。

=== 生産の急激な発展 ===
輸出貿易の発展を基礎に、国内生産は空前の活況を呈した。とくに工業部門の増加はいちじるしく、工業部門生産額が総生産額の過半を占めるようになり、利益率も数倍にのぼり、日本もようやく本格的な工業国となった<ref name="kimishima_232"/>。この間、[[軽工業]]部門では綿糸紡績業、重工業部門では造船業の発展がめざましく、さらに、従来、その多くを輸入に頼っていた[[化学工業]]部門も確立した。

生産の発展を業種別にみると、大戦の前半から発展を遂げたのが造船業、海運業、[[鉱業]]であり、主として後半に発展したのが化学工業、金属工業、機械器具工業、そして、紡績業、電力・[[電気鉄道]]については主に戦後に新設拡張がさかんになったものである<ref name="imai_079"/>。

==== 軽工業部門の発展 ====
工業部門の生産額が農業生産額を凌駕したとはいえ、工業生産額のなかでは依然として[[繊維工業]]のそれが半ばを占めていた<ref name="kimishima_232"/>。綿糸紡績業は、東アジア・[[東南アジア]]へのヨ-ロッパ諸国の輸出が途絶したあと、日本商品が同地に進出し、とくに中国市場では独占的地位を獲得したことによって飛躍的な発展をとげた。また、輸出の中心が綿糸から綿布へと移り、1916年から1917年にかけて以降は、綿布が生糸とともに日本の輸出商品の主力となって、綿織物業が発展した。製糸業は、開戦直後、[[繭]]価格が暴落したものの、1916年以降アメリカ合衆国の好景気によって輸出が伸び、生産が増えた。

==== 重化学工業の発展 ====
工業の中心は依然として軽工業ではあったが、第一世界大戦が終わるまでのあいだに、海運、造船、綿紡績、[[銅]]、[[石灰]]、電力、[[銀行]]の7部門では独占資本が確立した<ref name="kimishima_232"/>。

[[ファイル:Governmental Yawata Iron & Steel Works.JPG|150px|right|thumb|官営八幡製鉄所(19世紀末の写真)]]
「[[産業の米]]」とも称され、工業生産の基礎となる[[鉄鋼業]]は、大戦による輸入途絶や造船業をはじめとする各工業部門の急激な発展を土台として、[[福岡県]]の官営[[八幡製鉄所]]の拡張や[[南満州鉄道]]の経営する[[鞍山製鉄所]]の設立のほか、1917年に制定された[[製鉄業奨励法]]の後押しもあって、三菱の[[兼二浦製鉄所]]の新設など、民間製鉄所の新設・拡張が相次いだ。また、東アジア地域への資本支出もさかんとなり、中国の[[大冶鉄鉱|漢冶萍鉱山]]([[湖北省]][[大冶市]])からは安価な[[鉄鉱石]]がもたらされた<ref name="kimishima_232"/>。

大戦による世界的な[[船舶]]不足によって、海運・造船業は急激な発展をとげた。海運業は世界第3位にまで急成長し、造船技術も世界のトップレベルに肩を並べるまでに達し、造船量も米英に次いで世界第3位に躍進して、いわゆる船成金が続出した。しかし、船の材料となる鉄鋼は当初大幅に不足したため、鉄鋼価格は高騰し、「鉄であれば何でも買え」と指令を出した[[鈴木商店]]は大躍進を遂げた<ref name="takeda_067">[[#武田|武田(1992)pp.67-82]]</ref>。また、アメリカが輸出禁止としていた鉄鋼の輸入をとくに認めてもらうかわりに、完成した船舶を輸出しようという「[[船鉄交換]]」もおこなわれた。「船鉄交換」は1917年に実現している<ref name="nakataka_026"/><ref name="takeda_067"/>。

化学工業は、その基幹部門をなす[[合成染料]]と[[水酸化ナトリウム|化成ソーダ]]がそれぞれ[[ドイツ]]とイギリスの独占におさえられていた。[[薬品]]や[[肥料]]もドイツからの輸入が多かったが、これら化学製品がいずれも大戦によって輸入が途絶えて品不足になったため、国内生産の確保が必要となった。1915年には[[染料医薬品製造奨励法]]が制定され、翌年には政府の補助により[[日本染料製造会社]]が設立されて染料の国産化が開始された<ref name="nakataka_026"/><ref name="kimishima_232"/>。すでに生産が開始されていた[[過リン酸]]や[[石灰窒素]]においては莫大な利益を得ている<ref name="kimishima_232"/>。このように、化学工業は、政府の手厚い保護奨励策もあって新興産業として発展の基礎をかためた。

日露戦争後から発達をみせていた電力工業も[[水力発電]]を中心にいちじるしく発展し、以後の躍進の基礎を固めた。1914年には[[猪苗代水力発電所]]が竣工し、翌年には猪苗代-東京間228キロメートルの[[送電]]が成功して、大規模水力発電と高圧長距離送電が可能となった<ref name="nakataka_026"/>。電力は、大戦を契機に[[動力|原動力]]および[[照明]]用としてひろく普及し、[[原動機]]の総[[馬力]]にしめる[[電動機]]の割合は[[1909年]]の16パーセントから1919年には62パーセントに拡大して蒸気力をうわまわった。また、余剰電力を利用しての[[電炉]]工業や化学工業も勃興した<ref name="nakataka_026"/>。電力は、他の動力にくらべ低コストであったが、水力発電の開発によって電力価格がさらに廉価となったため、一般[[家庭]]や[[地方都市]]における電化が進展した。第一次大戦期は、このような[[イノベーション]](技術革新)の時代であった<ref name="nakataka_026"/>。

機械器具工業では、[[工作機械]]、船用機械、[[電気機械]]など、広汎な分野において生産が拡大し、また各部門とも、資本金・生産能力・労働者数などすべてにおいて大きな発展をとげた。特に電気機械は国産化の進展をみた。

=== 産業構造と社会の変化 ===
==== 財閥の確立と独占資本 ====
諸産業の飛躍的な発展を通じて、[[資本]]の集積・集中がいっそう進み、[[独占]]が強められた。これに対応して銀行資本の集中が進み、五大銀行([[三井銀行]]・[[三菱銀行]]・[[住友銀行]]・[[安田銀行]]・[[第一銀行]])の支配力が拡大した。これとともに銀行資本の産業支配が促進され、大戦中から戦後にかけて四大財閥([[三井財閥]]・[[三菱財閥]]・[[住友財閥]]・[[安田財閥]])を中心とする[[独占資本主義]]がかたちづくられた。[[古河財閥]]、[[大倉財閥]]、[[浅野財閥]]などの資産家も[[持株会社]]を設立し、巨大[[コンツェルン]]を形成した<ref name="kasuga_068">[[#春日|春日(1989)pp.68-73]]</ref>。

日本の「財閥」は、1.同族で固める資本の排他性・閉鎖性、2.封鎖的性格を強化する「[[家訓]]」「家憲」などの存在、3.豊かな資金力に支えられた自己金融的性格、4.部門ごとには[[寡占]]ないし[[独占]]的傾向を示す、多角的な事業経営、の諸特徴を有する<ref name="kasuga_068"/>。大戦期は、財閥形態が普及したというだけではなく、大資本の新分野への参入や新分野の開拓が活発化し、多角経営の取り組みがなされて、財閥の傘下事業に新しい広がりを見せた時代でもあった<ref name="kasuga_068"/>。

==== 経営者団体の設置 ====
めざましい経済発展のなかで、第一次世界大戦中から戦後にかけて、[[財閥]]の主導によって大資本家のおもだった人びとを網羅した[[日本工業倶楽部]](1917年)や[[日本経済連盟会]](1922年)など、[[資本家]]・[[経営者]]の団体が設立され、経済政策の形成におけるかれらの発言力が強まった<ref name="kimishima_232"/>。

==== 都市への人口集中 ====
[[工場]][[労働者]]は第一次世界大戦開始の1914年には85万人であったが、5年後の1919年には147万人と2倍近い増加を示し、とくに重化学工業の発展の結果、[[男子]]労働者が急造した。[[商業]]・[[サービス業]]の発達もめざましく、都市への人口集中が目立った。

[[梅村又次]]の推計によれば、1913年から1920年までの7年間で農林業人口は約70万人減少して1,416万人になり、非農林業人口は約250万人増加して1,304万人に達した<ref name="nakataka_026"/>。

その結果、[[京浜工業地帯]]、[[中京工業地帯]]、[[阪神工業地帯]]、[[北九州工業地帯]]が鉄鋼、化学、機械などの分野を中心に形成されていった<ref name="nakataka_026"/>。

==== 都市の変貌 ====
工業ブームで、資本家による工場の新設や[[設備]]の革新も活発だった反面、廃棄された[[機械]]をベテランの職工が横流しして大金を得たり、あるいはみずからそれを利用して工場を立ち上げるケースもあった。そこから労働力不足が生じ、「成金職工」と呼ばれる富裕な職工も出現することとなるが、従来、都市部の伝統的な職種であった[[女中]]や[[丁稚]]のなり手がおらず、人手不足に陥るという状況があらわれた<ref name="chimoto_042"/>。

また、明治の末年に[[摂津紡績]]が[[朝鮮人]][[女工]]を導入したのを嚆矢として日本人労働者の5割から8割の賃金で働かせることのできる朝鮮人労働者が続々と移入され、大阪では全国最大の朝鮮人町がかたちづくられた<ref name="chimoto_042"/>。

=== インフレーションと人びとの生活 ===
==== インフレとその原因 ====
1913年から1920年までの7年間の実質[[経済成長率]]は5パーセント強であった。全体としてみれば、[[第二次世界大戦]]後の[[高度成長]]期の平均10パーセントの[[経済成長]]に比較すれば遠くおよばない。しかし、この時のブーム感が強かったのは、[[インフレーション]]のために企業の名目上の[[利潤]]が急激に膨張したからであった<ref name="nakataka_026"/>。大戦景気のあいだ、[[卸売物価]]、[[消費者物価]]ともに平均2倍強に上昇した<ref name="nakataka_026"/>。

夕陽丘高等女学校(現[[大阪府立夕陽丘高等学校]])がおこなった、[[生徒]]の[[家庭]]の1914年と1916年の[[家計簿]]を利用した物価調べの結果が、1916年[[2月8日]]の『[[大阪毎日新聞]]』夕刊に載っている。それによれば、[[石灰酸]]が2年間で25銭-30銭から8円に、[[昇汞]]([[水銀]]化合物)が1円20銭から6円50銭に値上がりしている。また、[[毛織物]]は3割ないし5割増、[[紙]]類は6割ないし7割増、[[ちり紙]]は4倍増、ソーダが6倍以上、[[鍋]]や[[釜]]は1.5倍、[[アルミニウム]]類2倍、[[包丁]]が5割増などとなっており、鉄製[[バケツ]]は30銭だったものが57銭に値上がりしている<ref name="chimoto_042"/>。

物価高騰の原因は世界的な戦時インフレの影響もあったが、日本の重化学工業の生産力水準がいまだ低いレベルにあったため、[[資本財]]が不足して需要超過の状態がつづいたことにも原因があった<ref name=hashimoto/>。

==== 物価高騰と生活苦 ====
[[賃金]]や[[俸給]]は[[物価]]に見合って上昇したわけではなかったので、多くの場合、[[労働者]]、[[サラリーマン]]、[[官吏]]の生活はかえってきびしいものとなった<ref name="nakataka_026"/><ref name="chimoto_042"/>。「職工中の成金」といわれた造船労働者には、1913年から1917年までのあいだに161パーセントもの増収となった者もいたが、平均すると47パーセントも下落しており、生活費の高騰を考慮すると、それ以上の生活苦であった<ref name="chimoto_042"/>。[[富山県]]の[[漁村]]より始まった[[1918年米騒動]]が全国に波及していった背景には、インフレによる生活難があったのである。高度経済成長期の賃金上昇が消費者物価の上昇率をうわまわって[[所得]]分配の平等化を促したのに対し、このときの好況は、物価高騰が賃金の上昇をうわまわったために、所得分配は不平等なものとなり、社会の緊張をむしろ激化させた<ref name="nakataka_026"/>。

[[ファイル:Kawakami Hajime.jpg|150px|right|thumb|河上肇]]

下層の人びとの生活は困窮し、大都市では[[スラム街]]が形成され、また、いたるところに[[質屋]]があって隆盛し、[[小学校]]に入学したばかりの学童も家計を助けるために働いた<ref name="chimoto_042"/>。[[欠食児童]]も多く、[[朝食]]ぬきで登校する学童も多かった<ref name="chimoto_042"/>。官公吏は、その待遇のわるさから、民間に転職することも流行した。[[妻]]の内職は当然のことであり、[[避妊具]]を購入する吏員が増え、当時の法で禁じられている[[人工中絶]]さえおこなわれた。大阪市では、外勤の[[警察官]]150余名が結束して当局に生活苦を訴える嘆願書を出す事態が発生している<ref name="chimoto_042"/>。小学校の教員は低収入・栄養不良が原因で[[結核]]に感染するケースが多く、結核は教員の死因の3分の1におよび、社会問題化した<ref name="chimoto_042"/>。

経済学者[[河上肇]]がベストセラー『貧乏物語』の執筆をはじめたのも大戦景気のさなかの1916年であった。

大阪では市役所を中心に公的な労働者[[福祉]]事業が本格化し、公設市場・簡易[[食堂]]・共同宿泊所などが設けられ、[[方面委員制度]]も実行にうつされた<ref name="chimoto_042"/>。1920年前後に高揚した[[ストライキ]]の影響を受けて、住友系工場が他の工場にさきがけて[[終身雇用]]や[[年功序列]]を柱とする新たな[[労務管理]]を採用しはじめている<ref name="chimoto_042"/>。

==== インフレと後発企業 ====
インフレーションは、後発企業にとっては著しく不利な条件を課されることとなった。1920年からの[[戦後恐慌]]で破綻した企業の多くは後発企業であり、財閥系をはじめとする先発企業は有利な条件をにぎり、のちの独占体制の形成につながった<ref name=hashimoto/>。

=== 成金の登場 ===
[[ファイル:Narikin Eiga Jidai.jpg|150px|right|thumb|当時の成金の豪遊ぶりを風刺した漫画([[和田邦坊]]画「成金栄華時代」1928年)]]
第一次世界大戦中、民間の船舶は軍用として徴発されたため、大戦の長期化によって船舶不足が深刻化した。これにより、海上[[運賃]]と船価が暴騰し、船主や商船会社は巨利をあげ、船成金を生んだ<ref name="nakataka_026"/>。老朽化した船でさえ引く手あまたの状態であり、大戦前1トンあたり3円ほどであった船舶のチャーター料金は1917年には40円以上に跳ね上がった。船の建造価格もトンあたり50円くらいから最高1,000円近くまで上昇した。[[日本郵船|日本郵船会社]]は、1914年の純益484万円が1918年には8,631万円に達し、同年下半期には11割もの配当をしている。

とくに有名な船成金には[[内田信也]]、[[山本唯三郎]]、[[勝田銀次郎]]、[[山下亀三郎]]らがいる<ref name="kimishima_232"/>。内田は1914年、資本金2万円足らず、チャーター船1隻で汽船会社を起こしたが、翌々年には所有する船は16隻となり、60割という驚異的な配当をおこない、大戦が終わった翌年には、その資産は7,000万円に膨れあがっていたという。内田は30代の青年であったが[[神戸市|神戸]]の[[須磨区|須磨]]に「須磨御殿」と呼ばれる敷地5,000坪の[[豪邸]]を建てて、連日大宴会を開いたことが有名である。山本唯三郎は、[[朝鮮]]に[[虎]]狩りに出かけ、[[帝国ホテル]]を借り切って虎肉の晩餐会を催した<ref name="nakataka_026"/><ref group="注釈">ただし、虎の肉は臭く、ぼろぼろになっていて食べられたものではなかったといわれている。[[#中村隆|中村隆(1989)p.26]]</ref>。

「鉄成金」と呼ばれた神戸の貿易商[[鈴木商店]]は、支配人[[金子直吉]]の強気の商業戦略が功を奏して、一時は三井物産を上まわる貿易額を記録した<ref name="nakataka_026"/>。また、[[日立鉱山]]の[[久原房之助]]は、戦時下の[[銅]]の値上がりで巨利を得、[[石油]]、石灰、海運、中国投資などにも事業を拡大した<ref name="nakataka_026"/>。

職工のなかには、労働力不足から「成金職工」と呼ばれる人も現れた<ref name="chimoto_042"/>。1916年年末の『大阪朝日新聞』には「職工の黄金時代」の見出しで[[ボーナス]]風景を伝えており、[[大阪鉄工所]]では20ヶ月分ものボーナスを受けとった者もいたという。ただし、上述したように、大戦景気は極端な成金と極端な貧窮に苦しむ人びとの格差をむしろ拡大させたのであり、多くの人びとはインフレのために困窮した生活を送った<ref name="chimoto_042"/>。

=== 財政規模の拡大 ===
ブームにともなう税収の増加にともなって[[財政]]規模も拡大した。中央の一般会計に限定しても、[[歳出]]が1914年の6億4,800万円から1921年の14億9,000万円まで2倍以上の財政規模となった。これに臨時軍事費を加えれば、7億円から16億円の増加になった。最大の支出項目は[[軍事費]]で、1920年と1921年には[[シベリア出兵]]の費用と軍備拡張費によって歳出の6割近くに達した<ref name="chimoto_042"/>。

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=== 資本輸出 ===
独占資本の確立とともに、資本輸出もさかんになった。1920年末までには海外投資の額は約30億円にのぼったと推定される。資本輸出はほとんどが対中国投資であった。[[在華紡]]が大戦中に倍増するなど紡績会社が中国に進出、その他の部門にも進出した。

日本政府が1918年に[[実業家]]の[[西原亀三]]を密使として派遣し、[[北京政府]][[安徽派]]の[[段祺瑞]]に1億4,500万円を提供した[[西原借款]]など、政治的・軍事的目的をもった投資借款もさかんで、南満州鉄道、[[東洋拓殖会社]]、[[日本興業銀行]]、[[朝鮮銀行]]、[[台湾銀行]]など特殊会社・特殊銀行を中心におこなわれた。これは、いわば国家的な成金政略であったといえる<ref name="nakataka_026"/>。

== その他の国での事例 ==
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=== アメリカ ===
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==関連項目==
== 脚注 ==
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*[[戦争経済]]
=== 注釈 ===
*[[バブル経済]]
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[今井清一]]|year=1974|month=9|title=日本の歴史23 大正デモクラシー|publisher=[[中央公論社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=|ref=今井}}
* {{Cite book|和書|author=|editor=[[東洋経済新報社]](編)|year=1975|month=|title=明治大正国勢総覧|publisher=東洋経済新報社|ASIN=B000J9UQ7O|ref=総覧}}
* {{Cite book|和書|author=[[君島和彦]]|chapter=第4部近代・現代、4.米騒動|君島・[[竹内誠]]・[[佐藤和彦]](編)|year=1987|month=2|title=教養の日本史|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=4-13-022014-4|ref=君島}}
* {{Cite book|和書|author=[[橋本寿朗]]|chapter=大戦景気|editor=国史大辞典編集委員会|year=1987|month=10|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]第8巻 す-たお|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4-642-00508-0|ref=橋本}}
* {{Cite book|和書|author=[[中村隆英]]|chapter=第一次世界大戦下の日本経済-もう一つの高度成長|editor=[[野上毅]](編)|year=1989|month=4|title=朝日百科日本の歴史11 近代II|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-38007-4|ref=中村隆}}
* {{Cite book|和書|author=[[千本秀樹]]|chapter=成金、生活苦、安月給|editor=野上毅(編)|year=1989|month=4|title=朝日百科日本の歴史11 近代II|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-38007-4|ref=千本}}
* {{Cite book|和書|author=[[春日豊]]|chapter=財閥の確立と展開|editor=野上毅(編)|year=1989|month=4|title=朝日百科日本の歴史11 近代II|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-38007-4|ref=春日}}
* {{Cite book|和書|author=[[武田晴人]]|year=1992|month=12|title=日本の歴史19 帝国主義と民本主義|publisher=[[集英社]]|series=集英社版日本の歴史|isbn=4-08-195019-9|ref=武田}}

== 関連項目 ==
*[[第一次世界大戦]]
*[[戦後恐慌]]
*[[戦後恐慌]]
*[[バブル経済]]
*[[高度成長]]
*[[チューリップ・バブル]]
*[[金ぴか時代]]
*[[成金]]


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2012年1月21日 (土) 23:47時点における版

大戦景気(たいせんけいき)とは、戦争が発生すると局地的に起こる好景気現象である。戦争景気などとも言われる。日本では、1915年大正4年)から1920年(大正9年)に起きた。

大戦景気の概要

景気循環としては最も大きいものの1つで、以下の要因が挙げられる。

  1. 戦争に関係する物資の需要の高まり(戦争特需)によってもたらされる直接的なもの。
  2. 戦争に関わる物資を生産する上で必要とする原材料の需要の高騰でもたらされる間接的なもの。
  3. 戦争によって破壊された建造物の撤去や死亡した人間の処理。
  4. 勝戦国が敗戦国から獲得した戦時賠償による消費の拡大。

これらを一括して「戦争景気」「大戦景気」という。

大戦景気が顕著になった時期は第一次世界大戦の頃からであり、軍事の巨大化において戦争の規模が拡大し、総力戦となったためである。大戦景気が及ぶ場所は、直接戦場となっていない国であることが多い。これらの大戦景気が起こると、造船や航空などの軍事に直結する技術が著しく進化する傾向を持っており、戦争が終わった後に大きな影響をもたらす。

一方で、終戦とともに軍需が急激に減少すると、深刻な戦後恐慌が発生する。総力戦では総動員体制が敷かれ、経営判断を差し置いた生産設備の拡大が義務付けられるため、戦後には膨大な過剰生産力を抱えることとなる。第二次世界大戦でのアメリカは、戦勝の見通しが定まった段階で徐々に平時生産体制に切り替え、また戦後にはマーシャル・プランによって欧州の復興需要を満たす資金を供給するなどの方法で、終戦による急激な需要減に対処した。

日本

ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の影響により、その圏外にあった日本商品輸出が急増したため発生した空前の好景気(ブーム)が起きた。このブームは1915年大正4年)下半期に始まって1920年(大正9年)3月の戦後恐慌の発生までつづき、戦前の日本経済の大きな曲がり角となった[1]工業生産が急激に増大し、重化学工業化の進展がみられ、日本の都市社会にも大きな変貌をもたらした[2]

経緯

日露戦争から第一次世界大戦までの約10年間、日本経済は着実な発展を遂げてはいたが、国際収支はつねに赤字大蔵省日本銀行の懸念材料となっていた。1914年(大正3年)4月に成立した第2次大隈内閣は、国際収支改善のために、財政金融を引き締めて「非募債主義」の姿勢を示した[1]

1914年7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、当初は、為替相場が混乱し、ロンドンを中心とする国際信用機構の機能が妨げられたことや製品の海上輸送が困難さを増し、工業原料の入手も困難になったことなども加わって一時的に恐慌状態となり、価格が暴落した。大隈内閣は、救済に乗り出し、全国蚕糸業者大会の陳情をいれて政府が500万円を出資、帝国蚕糸株式会社を設立して滞貨の買い入れにあたらせた[3]。しかし、一時は深刻な不況にみまわれた日本経済も、翌1915年(大正4年)の後半から好況に転じはじめた[3][4]ロシア帝国イギリスなどの交戦諸国は、不足する軍需品などの供給を日本に求めた[3]。また、アジア市場からヨーロッパ製の商品が後退したあと、日本の商品に需要が高まり、一時的にではあったが、日本がアジア・アフリカの輸出市場を独占したことで空前の好況を呈することとなった[1]。特に鉱山造船商事の3業種は花形産業として潤った。年5割や年7割などの配当をする会社もめずらしくなく、株式市場も活況を呈し、にわか成金が続出した[1][注釈 1]。この結果、日本政府日本銀行の保有する正貨(本位貨幣、金本位制においては金貨、金地金および金為替)は、1914年から1918年(大正7年)のあいだに約3億4,000万円から約15億9,000万円に増加し、世界大戦前まで約11億円の債務国(1914年)だった日本は、1920年(大正9年)には27.7億円以上の対外債権を有する債権国に転換した[1]。産業構造では、農業国から工業国へと脱皮し、さらに重化学工業化の進展がみられた。工業生産は急激に増大し、工場労働者は100万人をうわまわった。「東洋のマンチェスター」と呼ばれた工業都市大阪市で一時期、人手不足から「成金職工」も現れた[2]。また、その過程で工業の動力は蒸気力から電力に転換した[1]

貿易の飛躍的な発展

大戦景気は輸出貿易の飛躍的な発展によってもたらされた。日本は参戦したものの、アメリカ合衆国と同様、ヨーロッパを主戦場とする大戦から直接の被害を受けなかった。そのため、アメリカの好景気にささえられて生糸などアメリカ市場向けの輸出が著しく増加した。綿糸綿布綿織物雑貨などは、戦争によりヨーロッパ列強がアジアなどから後退したため中国はもちろんインド東南アジアなどのアジア市場・アフリカ市場への輸出が増加した [5]。輸出貿易は、オーストラリア南米など従来未開拓であった市場でも活発化した [3]。また、兵器、軍需品、食料品などが戦争当事国であるヨーロッパ諸国に輸出された[5]

輸出入の総額は1914年から1919年(大正8年)にかけて4倍近くも増加した。また、従来の輸入超過から輸出超過に転じ、大戦期を通じて超過額は14億円にのぼった。第一次大戦中およびその前後の貿易額の推移を下に記す(単位は万円)[6]

相手国 中国 アメリカ 総計 差引
年次 輸出 輸入 輸出 輸入 輸出 輸入
1912年 11,482 5,481 16,871 12,702 52,698 61,899 Δ9,201
1913年 15,466 6,122 18,447 12,241 63,246 72,943 Δ9,697
1914年 16,237 5,831 19,654 9,677 59,110 59,574 Δ464
1915年 14,112 8,585 20,414 10,253 70,831 53,245 17,586
1916年 19,271 10,864 34,025 20,408 112,747 75,643 37,104
1917年 31,838 13,327 47,854 35,971 160,301 103,581 56,720
1918年 35,915 28,171 53,013 62,603 196,210 166,814 29,396
1919年 44,705 32,210 82,810 76,638 209,887 217,346 Δ7,459
1920年 41,027 21,809 56,502 87,318 194,840 233,618 Δ38,778
1921年 28,723 19,168 49,622 57,440 125,284 161,416 Δ36,132

大戦初期では、ラシャサージアンチモニー類、、米、綿布などの輸出が増加したが、大戦中期に輸出額がのびたのは、生糸、汽船真鍮および黄銅亜鉛のほか、豆類や綿布は大戦初期から継続して輸出額が伸びつづけた[3]

また、海運業における運賃などの貿易外収入も貿易黒字に匹敵するほどの巨額にのぼった。

生産の急激な発展

輸出貿易の発展を基礎に、国内生産は空前の活況を呈した。とくに工業部門の増加はいちじるしく、工業部門生産額が総生産額の過半を占めるようになり、利益率も数倍にのぼり、日本もようやく本格的な工業国となった[5]。この間、軽工業部門では綿糸紡績業、重工業部門では造船業の発展がめざましく、さらに、従来、その多くを輸入に頼っていた化学工業部門も確立した。

生産の発展を業種別にみると、大戦の前半から発展を遂げたのが造船業、海運業、鉱業であり、主として後半に発展したのが化学工業、金属工業、機械器具工業、そして、紡績業、電力・電気鉄道については主に戦後に新設拡張がさかんになったものである[3]

軽工業部門の発展

工業部門の生産額が農業生産額を凌駕したとはいえ、工業生産額のなかでは依然として繊維工業のそれが半ばを占めていた[5]。綿糸紡績業は、東アジア・東南アジアへのヨ-ロッパ諸国の輸出が途絶したあと、日本商品が同地に進出し、とくに中国市場では独占的地位を獲得したことによって飛躍的な発展をとげた。また、輸出の中心が綿糸から綿布へと移り、1916年から1917年にかけて以降は、綿布が生糸とともに日本の輸出商品の主力となって、綿織物業が発展した。製糸業は、開戦直後、価格が暴落したものの、1916年以降アメリカ合衆国の好景気によって輸出が伸び、生産が増えた。

重化学工業の発展

工業の中心は依然として軽工業ではあったが、第一世界大戦が終わるまでのあいだに、海運、造船、綿紡績、石灰、電力、銀行の7部門では独占資本が確立した[5]

官営八幡製鉄所(19世紀末の写真)

産業の米」とも称され、工業生産の基礎となる鉄鋼業は、大戦による輸入途絶や造船業をはじめとする各工業部門の急激な発展を土台として、福岡県の官営八幡製鉄所の拡張や南満州鉄道の経営する鞍山製鉄所の設立のほか、1917年に制定された製鉄業奨励法の後押しもあって、三菱の兼二浦製鉄所の新設など、民間製鉄所の新設・拡張が相次いだ。また、東アジア地域への資本支出もさかんとなり、中国の漢冶萍鉱山湖北省大冶市)からは安価な鉄鉱石がもたらされた[5]

大戦による世界的な船舶不足によって、海運・造船業は急激な発展をとげた。海運業は世界第3位にまで急成長し、造船技術も世界のトップレベルに肩を並べるまでに達し、造船量も米英に次いで世界第3位に躍進して、いわゆる船成金が続出した。しかし、船の材料となる鉄鋼は当初大幅に不足したため、鉄鋼価格は高騰し、「鉄であれば何でも買え」と指令を出した鈴木商店は大躍進を遂げた[7]。また、アメリカが輸出禁止としていた鉄鋼の輸入をとくに認めてもらうかわりに、完成した船舶を輸出しようという「船鉄交換」もおこなわれた。「船鉄交換」は1917年に実現している[1][7]

化学工業は、その基幹部門をなす合成染料化成ソーダがそれぞれドイツとイギリスの独占におさえられていた。薬品肥料もドイツからの輸入が多かったが、これら化学製品がいずれも大戦によって輸入が途絶えて品不足になったため、国内生産の確保が必要となった。1915年には染料医薬品製造奨励法が制定され、翌年には政府の補助により日本染料製造会社が設立されて染料の国産化が開始された[1][5]。すでに生産が開始されていた過リン酸石灰窒素においては莫大な利益を得ている[5]。このように、化学工業は、政府の手厚い保護奨励策もあって新興産業として発展の基礎をかためた。

日露戦争後から発達をみせていた電力工業も水力発電を中心にいちじるしく発展し、以後の躍進の基礎を固めた。1914年には猪苗代水力発電所が竣工し、翌年には猪苗代-東京間228キロメートルの送電が成功して、大規模水力発電と高圧長距離送電が可能となった[1]。電力は、大戦を契機に原動力および照明用としてひろく普及し、原動機の総馬力にしめる電動機の割合は1909年の16パーセントから1919年には62パーセントに拡大して蒸気力をうわまわった。また、余剰電力を利用しての電炉工業や化学工業も勃興した[1]。電力は、他の動力にくらべ低コストであったが、水力発電の開発によって電力価格がさらに廉価となったため、一般家庭地方都市における電化が進展した。第一次大戦期は、このようなイノベーション(技術革新)の時代であった[1]

機械器具工業では、工作機械、船用機械、電気機械など、広汎な分野において生産が拡大し、また各部門とも、資本金・生産能力・労働者数などすべてにおいて大きな発展をとげた。特に電気機械は国産化の進展をみた。

産業構造と社会の変化

財閥の確立と独占資本

諸産業の飛躍的な発展を通じて、資本の集積・集中がいっそう進み、独占が強められた。これに対応して銀行資本の集中が進み、五大銀行(三井銀行三菱銀行住友銀行安田銀行第一銀行)の支配力が拡大した。これとともに銀行資本の産業支配が促進され、大戦中から戦後にかけて四大財閥(三井財閥三菱財閥住友財閥安田財閥)を中心とする独占資本主義がかたちづくられた。古河財閥大倉財閥浅野財閥などの資産家も持株会社を設立し、巨大コンツェルンを形成した[8]

日本の「財閥」は、1.同族で固める資本の排他性・閉鎖性、2.封鎖的性格を強化する「家訓」「家憲」などの存在、3.豊かな資金力に支えられた自己金融的性格、4.部門ごとには寡占ないし独占的傾向を示す、多角的な事業経営、の諸特徴を有する[8]。大戦期は、財閥形態が普及したというだけではなく、大資本の新分野への参入や新分野の開拓が活発化し、多角経営の取り組みがなされて、財閥の傘下事業に新しい広がりを見せた時代でもあった[8]

経営者団体の設置

めざましい経済発展のなかで、第一次世界大戦中から戦後にかけて、財閥の主導によって大資本家のおもだった人びとを網羅した日本工業倶楽部(1917年)や日本経済連盟会(1922年)など、資本家経営者の団体が設立され、経済政策の形成におけるかれらの発言力が強まった[5]

都市への人口集中

工場労働者は第一次世界大戦開始の1914年には85万人であったが、5年後の1919年には147万人と2倍近い増加を示し、とくに重化学工業の発展の結果、男子労働者が急造した。商業サービス業の発達もめざましく、都市への人口集中が目立った。

梅村又次の推計によれば、1913年から1920年までの7年間で農林業人口は約70万人減少して1,416万人になり、非農林業人口は約250万人増加して1,304万人に達した[1]

その結果、京浜工業地帯中京工業地帯阪神工業地帯北九州工業地帯が鉄鋼、化学、機械などの分野を中心に形成されていった[1]

都市の変貌

工業ブームで、資本家による工場の新設や設備の革新も活発だった反面、廃棄された機械をベテランの職工が横流しして大金を得たり、あるいはみずからそれを利用して工場を立ち上げるケースもあった。そこから労働力不足が生じ、「成金職工」と呼ばれる富裕な職工も出現することとなるが、従来、都市部の伝統的な職種であった女中丁稚のなり手がおらず、人手不足に陥るという状況があらわれた[2]

また、明治の末年に摂津紡績朝鮮人女工を導入したのを嚆矢として日本人労働者の5割から8割の賃金で働かせることのできる朝鮮人労働者が続々と移入され、大阪では全国最大の朝鮮人町がかたちづくられた[2]

インフレーションと人びとの生活

インフレとその原因

1913年から1920年までの7年間の実質経済成長率は5パーセント強であった。全体としてみれば、第二次世界大戦後の高度成長期の平均10パーセントの経済成長に比較すれば遠くおよばない。しかし、この時のブーム感が強かったのは、インフレーションのために企業の名目上の利潤が急激に膨張したからであった[1]。大戦景気のあいだ、卸売物価消費者物価ともに平均2倍強に上昇した[1]

夕陽丘高等女学校(現大阪府立夕陽丘高等学校)がおこなった、生徒家庭の1914年と1916年の家計簿を利用した物価調べの結果が、1916年2月8日の『大阪毎日新聞』夕刊に載っている。それによれば、石灰酸が2年間で25銭-30銭から8円に、昇汞水銀化合物)が1円20銭から6円50銭に値上がりしている。また、毛織物は3割ないし5割増、類は6割ないし7割増、ちり紙は4倍増、ソーダが6倍以上、は1.5倍、アルミニウム類2倍、包丁が5割増などとなっており、鉄製バケツは30銭だったものが57銭に値上がりしている[2]

物価高騰の原因は世界的な戦時インフレの影響もあったが、日本の重化学工業の生産力水準がいまだ低いレベルにあったため、資本財が不足して需要超過の状態がつづいたことにも原因があった[4]

物価高騰と生活苦

賃金俸給物価に見合って上昇したわけではなかったので、多くの場合、労働者サラリーマン官吏の生活はかえってきびしいものとなった[1][2]。「職工中の成金」といわれた造船労働者には、1913年から1917年までのあいだに161パーセントもの増収となった者もいたが、平均すると47パーセントも下落しており、生活費の高騰を考慮すると、それ以上の生活苦であった[2]富山県漁村より始まった1918年米騒動が全国に波及していった背景には、インフレによる生活難があったのである。高度経済成長期の賃金上昇が消費者物価の上昇率をうわまわって所得分配の平等化を促したのに対し、このときの好況は、物価高騰が賃金の上昇をうわまわったために、所得分配は不平等なものとなり、社会の緊張をむしろ激化させた[1]

河上肇

下層の人びとの生活は困窮し、大都市ではスラム街が形成され、また、いたるところに質屋があって隆盛し、小学校に入学したばかりの学童も家計を助けるために働いた[2]欠食児童も多く、朝食ぬきで登校する学童も多かった[2]。官公吏は、その待遇のわるさから、民間に転職することも流行した。の内職は当然のことであり、避妊具を購入する吏員が増え、当時の法で禁じられている人工中絶さえおこなわれた。大阪市では、外勤の警察官150余名が結束して当局に生活苦を訴える嘆願書を出す事態が発生している[2]。小学校の教員は低収入・栄養不良が原因で結核に感染するケースが多く、結核は教員の死因の3分の1におよび、社会問題化した[2]

経済学者河上肇がベストセラー『貧乏物語』の執筆をはじめたのも大戦景気のさなかの1916年であった。

大阪では市役所を中心に公的な労働者福祉事業が本格化し、公設市場・簡易食堂・共同宿泊所などが設けられ、方面委員制度も実行にうつされた[2]。1920年前後に高揚したストライキの影響を受けて、住友系工場が他の工場にさきがけて終身雇用年功序列を柱とする新たな労務管理を採用しはじめている[2]

インフレと後発企業

インフレーションは、後発企業にとっては著しく不利な条件を課されることとなった。1920年からの戦後恐慌で破綻した企業の多くは後発企業であり、財閥系をはじめとする先発企業は有利な条件をにぎり、のちの独占体制の形成につながった[4]

成金の登場

ファイル:Narikin Eiga Jidai.jpg
当時の成金の豪遊ぶりを風刺した漫画(和田邦坊画「成金栄華時代」1928年)

第一次世界大戦中、民間の船舶は軍用として徴発されたため、大戦の長期化によって船舶不足が深刻化した。これにより、海上運賃と船価が暴騰し、船主や商船会社は巨利をあげ、船成金を生んだ[1]。老朽化した船でさえ引く手あまたの状態であり、大戦前1トンあたり3円ほどであった船舶のチャーター料金は1917年には40円以上に跳ね上がった。船の建造価格もトンあたり50円くらいから最高1,000円近くまで上昇した。日本郵船会社は、1914年の純益484万円が1918年には8,631万円に達し、同年下半期には11割もの配当をしている。

とくに有名な船成金には内田信也山本唯三郎勝田銀次郎山下亀三郎らがいる[5]。内田は1914年、資本金2万円足らず、チャーター船1隻で汽船会社を起こしたが、翌々年には所有する船は16隻となり、60割という驚異的な配当をおこない、大戦が終わった翌年には、その資産は7,000万円に膨れあがっていたという。内田は30代の青年であったが神戸須磨に「須磨御殿」と呼ばれる敷地5,000坪の豪邸を建てて、連日大宴会を開いたことが有名である。山本唯三郎は、朝鮮狩りに出かけ、帝国ホテルを借り切って虎肉の晩餐会を催した[1][注釈 2]

「鉄成金」と呼ばれた神戸の貿易商鈴木商店は、支配人金子直吉の強気の商業戦略が功を奏して、一時は三井物産を上まわる貿易額を記録した[1]。また、日立鉱山久原房之助は、戦時下のの値上がりで巨利を得、石油、石灰、海運、中国投資などにも事業を拡大した[1]

職工のなかには、労働力不足から「成金職工」と呼ばれる人も現れた[2]。1916年年末の『大阪朝日新聞』には「職工の黄金時代」の見出しでボーナス風景を伝えており、大阪鉄工所では20ヶ月分ものボーナスを受けとった者もいたという。ただし、上述したように、大戦景気は極端な成金と極端な貧窮に苦しむ人びとの格差をむしろ拡大させたのであり、多くの人びとはインフレのために困窮した生活を送った[2]

財政規模の拡大

ブームにともなう税収の増加にともなって財政規模も拡大した。中央の一般会計に限定しても、歳出が1914年の6億4,800万円から1921年の14億9,000万円まで2倍以上の財政規模となった。これに臨時軍事費を加えれば、7億円から16億円の増加になった。最大の支出項目は軍事費で、1920年と1921年にはシベリア出兵の費用と軍備拡張費によって歳出の6割近くに達した[2]

1918年に成立した原内閣は、歳入増加にめぐまれて積極財政を展開した。原敬は、大蔵大臣高橋是清をむかえ、寺内内閣より引き継いだ中等教育・高等教育の拡充はじめ、鉄道の普及、道路の建設や補修、港湾の修築、河川改良、電話の普及などの公共投資を展開していった。その意味では、大戦景気は、今まで立ちおくれていたインフラ整備が着手される契機となった[2]

資本輸出

独占資本の確立とともに、資本輸出もさかんになった。1920年末までには海外投資の額は約30億円にのぼったと推定される。資本輸出はほとんどが対中国投資であった。在華紡が大戦中に倍増するなど紡績会社が中国に進出、その他の部門にも進出した。

日本政府が1918年に実業家西原亀三を密使として派遣し、北京政府安徽派段祺瑞に1億4,500万円を提供した西原借款など、政治的・軍事的目的をもった投資借款もさかんで、南満州鉄道、東洋拓殖会社日本興業銀行朝鮮銀行台湾銀行など特殊会社・特殊銀行を中心におこなわれた。これは、いわば国家的な成金政略であったといえる[1]

その他の国での事例

アメリカ

アメリカでは第二次世界大戦後、ベトナム戦争前などに大戦景気が起こっている。

脚注

注釈

  1. ^ 「成金」とは、将棋の駒(歩兵)が敵陣に入ると成って金将になることに由来することばで、「にわか富豪」を意味する。
  2. ^ ただし、虎の肉は臭く、ぼろぼろになっていて食べられたものではなかったといわれている。中村隆(1989)p.26

出典

参考文献

  • 今井清一『日本の歴史23 大正デモクラシー』中央公論社中公文庫〉、1974年9月。 
  • 東洋経済新報社(編) 編『明治大正国勢総覧』東洋経済新報社、1975年。ASIN B000J9UQ7O 
  • 君島和彦「第4部近代・現代、4.米騒動」『教養の日本史』東京大学出版会、1987年2月。ISBN 4-13-022014-4 
  • 橋本寿朗 著「大戦景気」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典第8巻 す-たお』吉川弘文館、1987年10月。ISBN 4-642-00508-0 
  • 中村隆英 著「第一次世界大戦下の日本経済-もう一つの高度成長」、野上毅(編) 編『朝日百科日本の歴史11 近代II』朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-38007-4{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 千本秀樹 著「成金、生活苦、安月給」、野上毅(編) 編『朝日百科日本の歴史11 近代II』朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-38007-4{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 春日豊 著「財閥の確立と展開」、野上毅(編) 編『朝日百科日本の歴史11 近代II』朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-38007-4{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 武田晴人『日本の歴史19 帝国主義と民本主義』集英社〈集英社版日本の歴史〉、1992年12月。ISBN 4-08-195019-9 

関連項目