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「鎌倉仏教」の版間の差分

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{{buddhism}}
{{buddhism}}
'''鎌倉仏教'''(かまくらぶっきょう)とは、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]にかけて発生した[[仏教]]変革の動きを指す。特に[[浄土思想]]の普及や[[禅宗]]の伝来の影響によって新しく成立した[[仏教]][[宗派]]のことを'''鎌倉新仏教'''(かまくらしんぶっきょう)と呼場合ある、後述のように問題が無い訳では
'''鎌倉仏教'''(かまくらぶっきょう)とは、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]にかけて発生した[[仏教]]変革の動きを指す。特に[[浄土思想]]の普及や[[禅宗]]の伝来の影響によって新しく成立した[[仏教]][[宗派]]のことを'''鎌倉新仏教'''(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合ある。しかし「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々見解が存在する(→ ''「[[#鎌倉仏教論|鎌倉仏教論]]」'' 節)


== 鎌倉新仏教 ==
== 概要 ==
[[ファイル:Illustrated biography of priest Hōnen 2.jpg|300px|left|thumb|女人救済をおこなった[[法然]]の生涯を描いた[[絵巻物]]『法然上人絵伝』([[国宝]])]]
一般的には、鎌倉新仏教とは次の6宗を示している。
*[[浄土宗]]([[法然]])
*[[浄土真宗]]([[親鸞]]、法然の弟子。)
*[[臨済宗]]([[栄西]])
*[[曹洞宗]]([[道元]]、栄西の孫弟子。)
*[[時宗]]([[一遍]])
*[[法華宗]]([[日蓮宗]]、[[日蓮]])


[[鎌倉時代]]にあっては、国家的事業として[[東大寺]]はじめ[[南都]]の諸寺の再建がなされる一方、[[12世紀]]中ごろから[[13世紀]]にかけて、新興の武士や[[農民]]たちの求めに応じて、新しい宗派である[[浄土宗]]、[[浄土真宗]]、[[時宗]]、[[日蓮宗]]、[[臨済宗]]、[[曹洞宗]]が生まれた(このうち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、[[平安時代]]末期のことであるが、鎌倉仏教ないし「鎌倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は[[比叡山延暦寺]]など[[天台宗]]に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は[[中国]]から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい[[戒律]]や[[学問]]、[[寄進]]を必要とせず(ただし、[[禅宗]]は戒律を重視)、ただ、[[信仰]]によって[[在家]](在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。
(ただし、浄土宗の開宗は厳密に言えば、[[平安時代]]末期の事である。)


これに対し、「旧仏教」([[南都六宗]]、天台宗および[[真言宗]])側も[[奈良時代]]に[[唐]]僧[[鑑真]]が日本に伝えた[[戒律]]の護持と普及に尽力する一方、[[社会事業]]に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した<ref name=matsuo82>[[#松尾|松尾(1995)pp.82-87]]</ref>。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役割を担ったのが、[[官僧]]([[天皇]]から[[得度]]を許され、国立[[戒壇]]において[[授戒]]をうけた[[仏僧]])の制約から解き放たれた[[遁世僧]](官僧の世界から離脱して[[仏道]][[修行]]に努める仏僧)の存在であった<ref name=matsuo82/><ref name=matsuo19>[[#松尾|松尾(1995)pp.19-47]]</ref>。
[[平安仏教]]が、学問的能力を必要とした[[顕教]]にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする[[密教]]にしても、貴族仏教としての性格を免れなかったのにたいして、鎌倉新仏教はあらたに台頭してきた[[武士]]階級(特に臨済宗・曹洞宗)や一般庶民(浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗)へと広がっていった。[[国風文化]]期に隆盛した[[浄土教]]にしても、平安時代にあっては、[[阿弥陀堂]]建立の盛行にみられるように経済力の裏づけあってのものであった。それに対し鎌倉仏教は、


== 「新仏教」6宗の概要 ==
*易行(いぎょう)…厳しい修行ではない
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
*選択(せんちゃく)…救済方法を一つ選ぶ
*専修(せんじゅ)…ひたすらに打ち込む


{|class="wikitable" cellspacing="0"
の特徴を有するといわれ、この特徴は特に[[念仏]]を重んじる浄土系の宗派に顕著であった(他力易行門)。念仏、[[題目]]、[[坐禅]]という救済と悟りの道は庶民や新興武士階級にも受容できる仏教のあり方であった。
!宗派||開祖||教義||教理の特色||主要著書||支持層||中心寺院
|-
|[[浄土宗]]||[[法然]](源空)<br/>[[1133年]]-[[1212年]]||[[絶対他力]]、[[専修念仏]]||難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「[[南無阿弥陀仏]]」を唱えることが大切だと説く。||『[[選択本願念仏集]]』([[1198年]]ころ)<br/>『[[一枚起請文]]』(1212年)||[[京都]]周辺の[[公家]]、武士、庶民||[[知恩院]]([[京都市]][[東山区]])
|-
|[[浄土真宗]](一向宗)||[[親鸞]]<br/>[[1173年]]-[[1262年]]||[[一向専修]]、[[一念発起]]、[[悪人正機]]||法然の教えをさらに進め、一念発起(一度信心をおこして念仏を唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。||『[[教行信証]]』([[1224年]]ころ)<br/>[[唯円]]著『[[歎異抄]]』||地方武士や農民、とくに下層民||[[東本願寺]]・[[西本願寺]](京都市[[下京区]])
|-
|[[時宗]](遊行宗)||[[一遍]](智真)<br/>[[1239年]]-[[1289年]]||全国遊行([[賦算]]、[[踊念仏]])||賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。||(『[[一遍上人語録]]』)||全国の武士・農民||[[清浄光寺]]([[神奈川県]][[藤沢市]])
|-
|[[法華宗]]([[日蓮宗]])||[[日蓮]]<br/>[[1222年]]-[[1282年]]||[[題目|題目唱和]]、[[法華経]]主義、[[四箇格言]]||法華経こそが唯一の[[釈迦]]の教えであり、題目(「[[南無妙法蓮華経]]」)唱和により救われると説く。[[辻説法]]で布教した。||『[[立正安国論]]』([[1260年]])<br/>『[[開目鈔]]』([[1272年]])』||下級武士、商工業者||久遠寺([[山梨県]][[身延町]])、中山[[法華経寺]]([[千葉県]][[市川市]])
|-
|[[臨済宗]]||[[栄西]]<br/>[[1141年]]-[[1215年]]||[[坐禅]]、[[公案]]||坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。||『[[興禅護国論]]』([[1198年]])||公家、京・[[鎌倉]]の上級武士、地方有力武士||[[建仁寺]](京都市東山区)、[[建長寺]](神奈川県[[鎌倉市]])
|-
|[[曹洞宗]]||[[道元]]<br/>[[1200年]]-[[1253年]]||[[出家]]第一主義、[[修証一如]]、[[只管打坐]]||ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。||『[[正法眼蔵]]』([[1231年]]-[[1253年]])<br/>[[孤雲懐奘|懐奘]]著『[[正法眼蔵随聞記]]』||地方の中小武士・農民||[[永平寺]]([[福井県]][[永平寺町]])
|-
|}


すなわち、[[他力本願]]を旨とする浄土系諸宗(浄土宗、浄土真宗、時宗)、天台宗系の法華宗(日蓮宗)、[[不立文字]]を旨とする[[禅宗]]系の臨済宗と曹洞宗である。
ただし、鎌倉時代にあっては山門([[天台宗]])勢力が依然として大きな勢力を保ち、それと結んだ[[権門体制|権門]]勢力の弾圧(鎌倉幕府の庇護を受けた[[臨済宗]]を除く)などもあって、これらの宗派が社会を真に動かすような力を持つようになるのは[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以降である。


「[[鎮護国家]]」の思想のもと、[[律令国家]]によって保護された[[奈良時代]]の[[南都六宗]](奈良仏教)が仏教研究者集団としての性格をもち<ref name=matsuo19/>、また、[[平安仏教]]においては、学問的能力を必要とした[[顕教]]にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする[[密教]]にしても、貴族仏教としての性格を免れなかったのに対して、上記の6宗は主として新たに台頭してきた[[武士]]階級や一般庶民へと広がっていった。
== 鎌倉旧仏教 ==
旧仏教(南都仏教)の中にも新仏教に触発されて新しい動きが生まれた。具体的には、
*[[華厳宗]]の[[明恵]]・[[凝然]]
*[[法相宗]]の[[貞慶]]
*[[真言宗]]の[[覚鑁]]
*[[真言律宗]]を開き、広く社会事業を展開した[[叡尊]]や、その弟子[[忍性]]
などで、これらの動きを'''鎌倉旧仏教'''と呼ぶ場合もある。


[[国風文化]]期に隆盛した[[浄土教]]にしても、[[平安時代]]にあっては、[[阿弥陀堂]]建立の盛行にみられるように経済力の裏づけあってのものであったが、それに対し鎌倉仏教は、概して、
== 「鎌倉新仏教」という表現 ==
:*易行(いぎょう)…厳しい修行ではない
===沿革===
:*選択(せんちゃく)…救済方法を一つ選ぶ
鎌倉仏教を「旧仏教」「新仏教」と呼んで区分する考え方は比較的新しい考え方である。この語が最初に用いられたのは、日本仏教史研究の先駆者とされる[[村上専精]]が[[明治期]]に出した『日本仏教史綱』([[1898年]]-[[1899年]])で、「新仏教」という表現には明恵以下の旧仏教側の改革の動きをも含めて解説し、こうした動きに加わらなかった既存寺院を「従来仏教」「古宗」と表記している。
:*専修(せんじゅ)…ひたすらに打ち込む
の諸特徴を有するといわれ、これらが特に[[念仏]]を重んじる浄土系の浄土宗・浄土真宗・時宗に顕著にみられる。浄土系諸門はみずからを「他力易行門」と称し、禅宗(臨済宗、曹洞宗)の実践する[[坐禅]]を「自力」のわざであり、「難行」であると批判したが、[[悟り]]に到達する方法として一つを選び、それに打ち込むあり方においては、禅宗もまた鎌倉時代に成立した他の「新仏教」諸派に共通する要素をもっていた。


12世紀からの大転換期にあって、人びとは相次ぐ戦乱と[[飢饉]]に[[末法]]の世の到来を実感し、あたらしい救いを仏教に求めた。こうした要望にこたえたのが、信心や修行のあり方に着目した念仏と[[題目]]、および禅の教えであった。これらは、庶民や新興武士階級にも受容できる仏教のあり方だったのである。そして、民衆の生活に奥深く浸透していった点で、鎌倉仏教(「鎌倉新仏教」)は、大陸から伝わった仏教の「日本化」を示す現象として説明される<ref>{{PDFlink|[http://csc.tsukuba.ac.jp/csc/kenkyu/csc_kenkyu_j_imai_02a.pdf 「日本文化と仏教 -鎌倉時代の念仏僧親鸞(1173-1262)をめぐって-」]}}[[今井雅晴]](2006)</ref>。
そして[[大正期]]に入ってから、鎌倉時代に成立した上記6宗派をもって既存宗派と区別する見解が登場して、[[辻善之助]]が「旧宗」「新宗」、続いて[[大屋徳城]]が今日のような「旧仏教」「新仏教」と呼んで以後、この呼称が定着した。


===真言律宗の扱い===
== 浄土系諸宗の開宗 ==
=== 法然と浄土宗 ===
ところが、近年入るとこうした分け方にいくつかの問題点が指摘されている。法然の浄土宗成立の時期の問題も当然含まれるが、一番の問題とされているのが、「叡尊・忍性の真言律宗は新仏教ではないのか?」という点である。
{{main|法然|浄土宗}}
[[ファイル:Takanobu-no-miei.jpg|150px|left|thumb|[[法然]](源空)]]
[[美作国]]の豪族の家に生まれた[[法然]](1133年-1212年)は、9歳のとき、同じ[[荘園]]に住む武士の夜討ちにあって殺害された父の[[遺言]]にしたがい、その[[菩提]]をとむらうため仏門に入った<ref name=murakami80>[[#村上|村上(1981)pp.80-84]]</ref>。[[1147年]]([[久安]]3年)、[[比叡山延暦寺]][[戒壇]]で[[天台座主]]の[[行玄]]を戒師として授戒を受けた<ref name=matsuo19/>。当初は山門(比叡山)で[[皇円]]らのもとで[[天台宗]]の教学を学んだが、そこでの生活にあきたらず、「悟り」の仏教ではなく、「救い」の仏教を求め、[[黒谷別所]]<ref group="注釈">黒谷別所は、比叡山の山中にあっても本寺である延暦寺とは別組織であり、官僧から離脱した[[聖]]の住む場所であった。いわば、官寺と俗界の境界的な場であるといえる。[[#松尾|松尾(1995)p.30]]</ref>にうつり浄土教の学僧として知られた[[叡空]]に学び、「法然房源空」と号した<ref name=murakami80/><ref name=gomi68>[[#五味|五味(2000)pp.68-70]]</ref><ref name=seigouhounen>[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1239.html 松岡正剛の千夜千冊『選択本願念仏集』]</ref>。一切経を読むこと5回におよび、その学識の高さは「知恵第一の法然房」と呼ばれるほどであった<ref name=murakami80/><ref name=bitoh94>[[#尾藤|尾藤(2000)pp.94-96]]</ref>。叡空やその師の[[良忍]]([[融通念仏宗]]の開祖)は、[[源信]]の『[[往生要集]]』に発する浄土教の教えを信奉した。しかし、[[浄土]]に[[往生]]する行法としては念仏以外の諸行を認めていた。


[[1175年]]([[承安]]5年)、黒谷別所での修行をへた法然は、もっぱら[[阿弥陀仏]]の誓願を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に[[往生]]できるという[[専修念仏]]の教えを説き、[[中国]]の[[唐]]代の僧[[善導]]の著作『[[観無量寿経疏]]』に依拠して[[浄土宗]]を開いた<ref name=murakami80/><ref name=gomi68/><ref group="注釈">浄土宗開宗(法然回心)の時期をもっと後のこととする説もみられる。[[井上光貞]]は1190年「三部経釈」著述以前のある時期、[[赤松俊秀]]は1175年以降、[[福井康順]]は1204年以降など。</ref>。阿弥陀仏の誓願([[弥陀の本願]])とは、阿弥陀仏がまだ「法蔵比丘」とよばれる[[修行者]]だったときに立てた48の願のことであり、また、これらの願がすべて成就しなければ仏とはならないと誓い、すべての衆生を必ず救済しようとした強い願いのことを指す。ところで、すでに法蔵比丘は[[劫|十劫]]のむかしに悟りを開いて仏となっているのだから、願いはすべて成就されていることとなる<ref name=bitoh94/>。法然は、阿弥陀仏が多くの行のなかから48を選び、さらにそのなかで最も平易な行は第十八願の念仏行なのであるから、人は、ただひたすらそのことを信じ、念仏を唱えればよいと説いたのである<ref name=bitoh94/>。ここでは、顕密の修行のすべては難行・雑行としてしりぞけられ、念仏を唱える[[易行]]のみが正行とされた<ref name=gomi68/><ref name=amino138>[[#網野|網野(1997)pp.137-140]]</ref>。法然は浄土門以外の教えを「聖道門」と呼んで否定し、仏僧たちが口では[[戒律]]を尊びながらも実際には退廃した生活を送っている現状を批判した<ref name=murakami80/>。
[[松尾剛次]]は、鎌倉新仏教の最も重要な要素を「国家からの自立」と「個人の救済」と捉え、この2つがあって初めて[[貴族仏教]]から脱却して[[民衆仏教]]としての鎌倉新仏教が成立したとする観点より、真言律宗がどの新仏教宗派よりも先に国家公認の[[戒壇]]に代わる独自の戒壇を樹立して独自の[[授戒]]を開始し、社会事業を通じて[[非人]]などの社会的弱者を救済し、あるいはこれまで国家から授戒を拒否されてきた女性([[尼]])への授戒を認めるなど、個人の救済を通じて社会に対する布教を行った事実を指摘し、そして鎌倉新仏教とされる諸派が[[天台宗]]と何らかのつながりがあった(上記6宗開祖のうち、5人は延暦寺、残る一遍も末寺の継教寺で修行した)ように、真言律宗は[[真言宗]]と[[律宗]](南都仏教)に基礎を置きながらも実態は新仏教そのものであるとして、真言律宗を鎌倉新仏教の1つとする説を唱えた。
また、[[蓑輪顕量]]・[[追塩千尋]]なども見解に差はあるものの、真言律宗を新仏教とする見方を採る。


[[1186年]](文治2年)、大原[[勝林院]]の丈六堂に、延暦寺の永弁・智海・証真、[[三論宗]]の[[明遍]]、[[法相宗]]の[[貞慶]]、嵯峨[[往生院]]の念仏房、大原[[来迎院 (京都市左京区)|来迎院]]の[[蓮契]]、それに[[重源]]ら20名をこえる学僧や300名をこす聴衆が集まり、法然の真意を聴く[[大原問答]]がおこなわれている<ref name=seigouhounen/>。ここで、法然は自身を「乱想の凡夫」と自己規定し、それゆえ観念ではなく称念、観仏ではなく念仏に専修できると諄々と説いていったが、これは「鎌倉仏教」の名で総称される新宗教の成立を示す歴史上の一転換点となった<ref name=seigouhounen/>。
これに対する批判として、真言律宗は[[薬師寺]]・[[西大寺_(奈良市)|西大寺]]や諸国の[[国分寺]]などの南都仏教寺院及びその系列をそのまま継承しており、[[奈良時代]]の[[行基]]などと同様の南都仏教における既成体制内での動きに過ぎない、とする意見も出されている。


東山の吉水を本拠に念仏の信仰を説いた法然の教えは、摂関家の[[九条兼実]]ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族や[[平重衡]]など上級武士、さらに一般の武士や庶民にも広まった<ref name=gomi68/><ref name=bitoh94/>。[[1189年]]([[文治]]5年)には兼実に授戒しており、[[1190年]](建久元年)には[[勧進#東大寺大勧進職|東大寺大勧進職]][[重源]]の求めに応じて、[[東大寺]]で浄土三部経の講説をおこなった。兼実の求めに応えて、その教義を弟子に記させた著作が『[[選択本願念仏集]]』であり、その完成は1198年(建久9年)ころと考えられる<ref group="注釈">『法然上人行状絵図』などでは実際に執筆にあたったのは安楽房遵西や真観房感西などであった。[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1239.html 松岡正剛の千夜千冊『選択本願念仏集』]</ref>。また、法然の教えは京ばかりではなく、[[熊谷直実]]、[[宇都宮頼綱]]、[[結城朝光]]ら[[東国]]の武士や農民にも広がっていった<ref name=murakami80/>。
この議論は一体何をもって「鎌倉新仏教」と定義づけるのか、「鎌倉新仏教」という表現そのものの是非も含めて、問題点を提示していると言える。


戦乱の世にあって、つねに生きるか死ぬかの生活に身を置く武士たちにとって法然の教えは新しい救いになったのみならず、荘園を支配する公家や天台宗・真言宗の寺院、神社など既存の権威や権力と対抗していくため、阿弥陀如来のみに帰依する[[一神教]]的な信仰を受け入れたのである<ref name=murakami80/>。日本仏教史上初めて、一般の[[女性]]にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人救済に専念する姿勢を示した<ref name=ienaga128>[[#家永|家永(1982)pp.128-129]]</ref>。
== 主な文献 ==

* [[追塩千尋]] 『中世の南都仏教』 [[吉川弘文館]]、1995年。 ISBN 4642027440
こうした専修念仏の教えは旧仏教からのはげしい反発を受けた。天台座主の[[慈円]]は、法然が[[称名念仏]]を唱え、それ以外の[[勤行]]をするなと説いたことから「愚かな尼入道」の喜ぶところとなり、無知蒙昧な者に念仏が受け容れられたのだと批判している<ref name=gomi68/>。1204年(元久元年)には、法然は[[国家権力]]による弾圧を回避しようと[[七箇条制戒]]を弟子たちに示して同意を求めた。しかし、[[法相宗]]の[[貞慶]](解脱)から批判され、[[南都北嶺]]の[[大衆 (仏教)|大衆]]からも訴えられて、[[1207年]]([[建永]]2年・[[承元]]元年)、国家からのきびしい弾圧にさらされた([[承元の法難]])<ref name=gomi68/>。法然は流刑地への旅の途中でも布教をつづけ、[[塩飽諸島|塩飽島]]に落ち着いたが10ヶ月あまりで許された<ref name=murakami80/>。こののち数年間[[摂津国]]にとどまり、帰京をゆるされて[[1211年]]([[建暦]]元年)に東山大谷にうつったが、翌年、同地で没した<ref name=murakami80/>。なお、[[華厳宗]]の[[高弁]](明恵)は法然死去の直後、『選択本願念仏集』批判の書である『[[摧邪輪]]』を著している。
* [[松尾剛次]] 『勧進と破戒の中世史 <small>中世仏教の実像</small>』 吉川弘文館、1995年。ISBN 4642027505

*田中久夫 『鎌倉仏教』 [[教育社歴史新書]] 1980年、[[講談社学術文庫]] 2009年11月 
[[ファイル:Main Hall, Chion-in - IMG 5082.JPG|300px|right|thumb|[[知恩院]]本堂(御影堂)]]
*『[[日本思想大系]]15、鎌倉旧仏教』 [[鎌田茂雄]]・田中久夫校注、[[岩波書店]]、初版1971年
浄土宗が広がった背景には、念仏という作善(善行を積むこと)をおこなうことによって救われるという、その簡便性に理由があったが、一面では、念仏が「[[能声]](のうしょう)」とも呼ばれたように、「音芸」(音の[[芸能]])という性格を有していたからでもあった<ref name=gomi68/><ref group="注釈">虎関師錬『元亨釈書』では「能読」「能声」「能説」を総称して「音芸」と記している。</ref>。また、専修念仏の教えは、浄土門のなかに念仏を唱える回数の多寡により[[多念義]]と[[一念義]]の論議を生んでおり、法然自身は一念義の立場を認めながらも自身は多念であったが、後述する弟子の親鸞は一念義の立場に立った<ref>[[#石井|石井(1974)pp.429-430]]</ref>。

法然門下からは多くの弟子があらわれ、浄土宗の教えを広めていった。のちに浄土真宗の開祖となった親鸞もそのひとりであったが、[[筑前国]]の武士の家に生まれた[[弁長]]は、京都に出て法然門下となり、その教えを[[筑後国]]の[[善導寺 (久留米市)|善導寺]]([[福岡県]][[久留米市]])を本拠に九州一帯に広げて「[[浄土宗鎮西派|鎮西派]]」を立て、その弟子で[[石見国]]出身の[[良忠]]は[[東国]]へ渡って熱心に布教に努めたので鎮西派は[[関東地方]]にも広まった<ref name=gomi70>[[#五味|五味(2000)pp.70-72]]</ref>。また、京都出身の[[証空]]は法然の没後、京都西山の[[善峯寺]]を本拠として「[[浄土宗西山派|西山派]]」を称した。証空は、[[大和国]]の[[当麻寺]]で伝説として知られていた[[当麻曼荼羅]]を掘り出し、浄土宗の教えをそこに見いだして布教に努めた<ref name=gomi70/>。

このように、浄土宗の教えは全国に広まっていったが、[[1227年]]([[嘉禄]]3年)に再び弾圧を受けた。比叡山の[[僧兵]]によって法然の墓があばかれる事件も生じたが、その一方で教義は[[朝廷]]内部へも深く食い込み、信者を獲得していった<ref name=gomi70/>。弟子の[[源智]]は、大谷の地に法然の遺骨をおさめ、法然の[[月命日]]ごとに開かれていた知恩講をもとにして、のちの浄土宗総本山[[知恩院]]を創建した<ref name=murakami80/>。

=== 親鸞と浄土真宗 ===
{{main|親鸞|浄土真宗}}
[[ファイル:ShinranShonin.png|150px|left|thumb|[[親鸞]]]]
[[日野家]]出身ともいわれる[[親鸞]](1173年-1262年)は、9歳で比叡山にのぼり、「範宴」の名をあたえられた<ref name=murakami84>[[#村上|村上(1981)pp.84-89]]</ref>。20年近くにわたって延暦寺で学んだが悟ることができず、[[1201年]]([[建仁]]元年)、京中の庶民が信仰していた[[頂法寺|六角堂]](京都市[[中京区]])に参籠し、そこで[[聖徳太子]]の夢告によって法然の門をたたいた<ref name=gomi70/>。親鸞は師の法然に深く傾倒して「もし法然上人にだまされて、念仏によって地獄に堕ちることとなっても決して悔やまない」と誓ったといわれる<ref name=murakami84/>。

1207年の[[承元の法難]]では僧の身分をうばわれて[[越後国]]に配流となったが4年後にゆるされた。すでに[[肉食妻帯]]を実行にうつしていた親鸞は、ほどなく法然の死を知るがそのまま越後にとどまった。[[1214年]]([[建保]]2年)、42歳の親鸞は妻の[[恵信尼]]と子どもたちをともない東国への布教に旅立ち、[[常陸国]]で[[西念寺 (笠間市)|稲田の草庵]]を営んだ<ref name=murakami84/>。

親鸞は、師の教えをさらに徹底させて稲田の地で『[[教行信証]]』の著述を開始し、[[絶対他力]]を唱え、阿弥陀仏を信じる心さえあればよく([[信心為本]])、信じることによって往生が決定(けつじょう)し([[信心決定]])、また、おかした[[罪]]を自覚する[[煩悩]]の深い者([[悪人]])こそ、むしろ[[仏]]が救おうとする人間であるという[[悪人正機説]]を説いて、[[東国]]の武士や農民に受けいれられた<ref name=gomi70/>。

親鸞における徹底した絶対他力の姿勢は、願力回向の説によくあらわれている。念仏者である自己が、阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)第十八願に示された「浄土に生まれたいと信じ願う心」に成りきることは、法然にあっては念仏者がまずもって備えておかなければならない条件とされていたが、親鸞にあっては、それすらも阿弥陀仏の側からすでに[[回向]]されているとし、信ずる心さえも含めて極楽往生に必要な条件はすべて阿弥陀仏の願力によってすでに実現されていると説く<ref name=bitoh96>[[#尾藤|尾藤(2000)pp.96-98]]</ref>。したがって、ここで唱える念仏は「行」でも「作善」でもなく、そうした性質を失って、純粋に感謝の意味で唱える報恩念仏となる<ref name=bitoh96/>。これは、一種、[[天台本覚思想]]に通じる考え方である<ref name=bitoh96/>。

悪人正機説は、弟子の[[唯円]]の著した『[[歎異抄]]』の一節「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」で著名であるが、これは、法然にしたがって念仏行をおこなっていた親鸞が、みずからをかえりみて第十八願に示されるような純粋な心さえ持てない罪業深い人間であると自覚したところに端を発したと考えられる<ref name=bitoh96/>。「自力作善の人」すなわち「善人」は換言すれば不信心の人なのであり、それに対して、自分の罪深さを自覚し、ひたすら仏の[[慈悲]]にすがらざるを得ない人にこそ、むしろ真実の救済がひらかれていると親鸞は主張した<ref name=bitoh96/>。自力の作善をなしうる「善人」が救済されるのであるならば、生業として[[殺生]]などを営まざるをえないような「悪人」がいかにして救われないことがあろうか、「悪人」こそはむしろ「弥陀の本願」の正因を宿しているのではないかと親鸞は考えたのである<ref name=amino138/>。また、親鸞は阿弥陀仏の前では、誰もが[[平等]]なのであり、師もなければ弟子もないとして同じ信仰に立つ人びとを御同朋御同行と呼んだ<ref name=murakami84/>。こうした親鸞における思想の深化は、常陸国にうつった親鸞が、そこでみた[[寛喜の大飢饉]]([[1230年]]-[[1231年]])の惨憺たる光景に遭遇したことと深くかかわっているとの指摘がある<ref name=amino138/>。なお、『歎異抄』については、[[室町時代]]に現れて[[浄土真宗]](一向宗)の布教に尽力した[[蓮如]]が、歎異抄の教えは真宗にとっては大切な聖教であるので、宿世の善根もなく仏法に真摯に取り組む気のない者に対してはむやみに読ませるべきものではないという趣旨の[[奥書]]をしたためている<ref name=seigoushinran>[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0397.html 松岡正剛の千夜千冊『歎異抄』]</ref>。

[[ファイル:Higashi Honganji Goeidomon.jpg|300px|right|thumb|[[東本願寺]]の御影堂門]]
1231年([[寛喜]]3年)以降、親鸞は末娘の[[覚信尼]]をともない京都へ帰った。帰京後の生活は貧窮していたが、親鸞は極楽往生した者は再び現世にあらわれて人びとを救うという[[還相回向]]を説き、『教行信証』を完成させ、さらに、東国にのこした同朋のために[[和讃]]をつくった<ref name=murakami84/>。親鸞はこののち、[[1256年]]([[康元]]元年)、東国にあって念仏に呪術をもちこんだ長男の[[善鸞]]と義絶し、最晩年には、すべての事物は仏の誓いのままに姿かたちや是非善悪を超越して絶対真理として現われるとして、自力のはからいをすべて捨てて仏法にしたがうという[[自然法爾]](じねんほうに)の境地に達した<ref name=murakami84/>。90歳で没した親鸞は、みずからの生涯をかえりみて罪業深き一生であったとし、「遺体は灰にして賀茂川に捨てよ」と遺言した<ref name=murakami84/>。

[[呪術]]的な救済を超えて[[来世]]への純化された信仰を説く親鸞の教えはのちに[[浄土真宗]]と呼ばれる教団をかたちづくることとなり、[[1272年]]([[文永]]9年)には[[大谷廟堂|大谷御影堂]]が建立された<ref name=amino138/>。御影堂は、覚信尼の再婚相手である小野宮禅念の所有地だったところに建てられ、[[1321年]]([[元亨]]元年)には大谷本願寺と改称された。「本願寺」の名称は[[1332年]]([[元弘]]2年)に鎌倉将軍[[守邦親王]]から、その翌年には[[後醍醐天皇]]の皇子[[護良親王]]から、それぞれ[[令旨]]をえたものである<ref name=kuroda1979>[[#黒田|黒田(1979)pp.221-253]]</ref>。

=== 承元の法難と信仰の自由 ===
{{main|承元の法難}}
1207年、法然ひきいる吉水教団が[[延暦寺]]・興福寺によって指弾され、[[後鳥羽上皇]]によって、専修念仏の停止、および法然の門弟のうち安楽房[[遵西]]と[[住蓮]]房ら4人の死罪、さらに、法然自身と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処せられ、法然は[[土佐国]](のち[[讃岐国]])に、親鸞は[[越後国]]に流された。75歳の法然は僧の身分を剥奪されて「藤井元彦」という俗名をつけられたが、「たとえ死罪となっても念仏は停止しない。辺鄙な土地で田夫野人に念仏を勧めることができるのはむしろ朝恩というべきだ」と語ったといわれる<ref name=murakami80/>。34歳であった親鸞は、老いた師と別れ、「藤井善信」の俗名で流罪となったが、越後国府で「愚禿(ぐとく)」あるいは単に「禿(とく)」と称し、非僧非俗(僧でも俗人でもない、ただ一個の人間)の立場を打ち出し、終生これを貫いた<ref name=murakami84/>。親鸞はここで、[[朝廷]]に対し「[[信仰の自由]]」を主張し、弾圧に対する抗議の意を表明しているが、これは日本思想史上、画期的なできごとと評価される<ref name=ienaga128/>。

=== 一遍と時宗 ===
{{main|一遍|時宗}}
[[ファイル:IPPEN.JPG|200px|left|thumb|[[一遍]]]]
鎌倉時代中期に「遊行上人」と呼ばれた[[一遍]](1239年-1289年)は、[[伊予国]]の豪族[[河野氏]]の出身といわれる<ref name=murakami89>[[#村上|村上(1981)pp.89-91]]</ref><ref group="注釈">現在、[[愛媛県]][[松山市]]道後の[[宝厳寺 (松山市)|宝厳寺]]門前に「一遍上人御誕生旧蹟」の碑が立っている。</ref>。10歳のとき母を亡くし、[[1250年]]([[建長]]2年)に[[太宰府]]近くの原山にいた[[浄土宗西山派]]の僧[[聖達]]のもとで出家した<ref name=matsuo19/>。聖達の紹介により、[[肥前国]]清水に住む華台という高僧に師事して浄土宗の教学を学び、智真の名をあたえられたが、[[1263年]]([[弘長]]3年)にいったんは[[還俗]]して妻をめとって仏に仕える在俗生活を送った。しかし、[[所領]]に絡む事件に巻き込まれたことを契機として[[輪廻]]の業を断とうと再出家を決意、[[信濃国]][[善光寺]]に参詣した<ref name=matsuo19/><ref name=murakami89/>。その後、再び伊予にもどり、修行を重ねて遊行の生活に入り、西国各地の霊場をめぐって参籠した<ref name=murakami89/>。

[[1274年]]([[文永]]11年)ころ、智真は[[高野山]]を経て[[熊野三山|熊野]]で100日間の参籠をしたとき、その満願の日に[[熊野権現]]の[[神託]]を受けたといわれる<ref name=murakami89/>。そのことばは四句から成り、「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」という[[偈]](げ)のかたちになっていた。これは、各句のかしら文字が「六十万人」となることから「六十万人の偈」と呼称されている<ref name=murakami89/>。

神託により念仏信仰をさらに深めた智真は、神託中の語より「一遍」を自称して、[[空也]]を先師とあおいで古代以来の念仏聖の活動を受けついだ。以後15年にわたり、北は[[陸奥国]][[江刺]]から南は[[薩摩国]]・[[大隅国]]にいたる諸国をくまなく遊行回国した。

[[時宗]]では、日常を「臨命終時」すなわち、毎日の生活を臨終の「時」と受けとめて念仏を唱える生き方を説く<ref name=murakami89/>。一遍は、各地で「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と刷られた算(紙札)を配り、信仰の縁をむすんだ人びとの名を[[勧進帳]]に書き記した<ref name=murakami89/>。この布教活動を[[賦算]](ふさん)といい、記帳した人びとは誰でも救済の対象となった。

これはやがて、[[身分]]の上下や貴賤の別、有智・無智の別や男女の別、[[穢れ]]の有無、また善人・悪人の区別、さらには[[信心]]の有無をさえ問うことなく、万人は阿弥陀仏によって救われるという教えとなり、[[1279年]]([[弘安]]2年)以降、その喜びと感謝の思いは念仏によってあらわされるべきだと説いて信濃[[佐久郡]]の小田切の里で[[踊念仏]]をはじめた<ref name=murakami89/>。一遍は、十劫以前に[[正覚]]を得て[[如来]]となった阿弥陀仏と、その阿弥陀仏を信ずる一念で[[浄土]]に往生することのできる[[衆生]]とは根本において同一であると説き、「となふれば仏もわれもなかりけり。南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と歌っている(『[[一遍上人語録]]』)<ref name=bitoh99>[[#尾藤|尾藤(2000)pp.99-100]]</ref>。このように、一遍の浄土信仰には、天台宗の[[本覚思想]]との密接な関係がうかがわれる<ref name=bitoh99/>。

[[ファイル:Yugyou Ji.JPG|300px|right|thumb|[[清浄光寺]](遊行寺)本堂]]
時宗は、その場に居合わせた人がつくる集団という意味で当初は「時衆」と表記された。一遍は、寺をつくらず、生前に自らの著作を全部焼いてしまったが、死後、弟子たちが『一遍上人語録』としてその教義をまとめた。一遍の布教で勧進帳に名を記した人は25万人を超えたといわれる<ref name=murakami89/>。

時宗の教えは踊念仏や、古来の神々への信仰を取り込んだ教義を通じて民衆や武士に広められた。遊行回国には、高弟の[[聖戒]]や尼僧の[[超一]]がしたがっており、そのようすは絵巻物『[[一遍上人絵伝]](一遍聖絵)』に活き活きと描写されている<ref name=murakami89/>。この詞書は聖戒によって書かれており、絵は[[法眼]]絵師[[円伊]]によって描かれたものである<ref name=murakami89/>。

一遍没後、[[他阿弥陀仏]](真教)があらわれ、遍歴をつづけながら時衆をまとめていった。その後、他阿弥陀仏の直系(遊行派)と奥谷派、六条派、四条派、一向派など他の諸派<ref group="注釈">遊行派もふくめのちに時宗12派とよばれる。[[#黒田|黒田(1979)p.226]]</ref>のあいだに様々な確執や緊張をともないながら、時宗の教団が確立されていった。こうした状況は、一遍や他阿弥陀仏同様、当時は各地を遍歴する聖が多数いて、みずからの教えをひろめていた事実を反映している<ref name=kuroda1979/>。時宗の本山は、[[1325年]]([[正中]]2年)に[[呑海]]のひらいた神奈川県[[藤沢市]]の[[清浄光寺]]である。

== 法華宗とその広がり ==
=== 日蓮と法華宗 ===
{{main|日蓮|日蓮宗}}
[[ファイル:Nichiren.jpg|130px|left|thumb|[[日蓮]]]]
一遍の活躍と同じころ、古くからの法華信仰をもとに、新しい救いの道をひらいたのが[[日蓮]](1222年-1282年)である。日蓮は[[安房国]][[長狭郡]]東条郷の生まれで、のちに「[[旃陀羅]](せんだら)が子」「片海の石中の賎民が子」と記している<ref name=murakami98>[[#村上|村上(1981)pp.98-101]]</ref><ref group="注釈">「旃陀羅(せんだら)」は、インドの最下層の[[ヴァルナ (種姓)|ヴァルナ]]よりさらに下位に位置する被差別民「チャンダーラ」を漢音訳したものである。[[#村上|村上(1981)p.98]]。[[村上重良]]は、そこから日蓮の出自を寺院の隷属民の出身だったと推定しているが、[[入間田宣夫]]は荘官クラスの子弟、[[尾藤正英]]は一般庶民の出身、松尾剛次は漁師の子としている。[[#村上|村上(1981)p.98]]・[[#入間田|入間田(1991)p.294]]・[[#尾藤|尾藤(2000)p.106]]・[[#松尾|松尾(1995)p.33]]</ref>。

日蓮は、はじめ地元安房の天台宗[[清澄寺 (鴨川市)|清澄寺]]([[千葉県]][[鴨川市]])に少童として入り、16歳で僧となり蓮長と名乗った<ref name=murakami98/>。「日本一の智者になりたい」と願った日蓮は、はじめ鎌倉で学び、ついで京都・比叡山・南都をめぐって天台教学のみならず密教や浄土教、禅の教えも学んだといわれる<ref name=murakami98/>。当時の天台宗の僧は、[[園城寺]]門徒を除けば延暦寺[[戒壇]]で[[授戒]]を受けることとなっていたので、日蓮も受戒したものと推定される<ref name=matsuo19/>。浄土教の著しい発展のなか、当時の比叡山は哲学的・神秘主義的な天台本覚思想がさかんで、その教義をもって念仏など新興の仏教運動に対する弾圧をくりかえしたが、日蓮は、天台教学のなかに広まりつつあった浄土教との妥協に反発し、新しい法華信仰をもって浄土系と対抗し、末法の世において人びとを救う天台復興を決意した<ref name=murakami98/>。日蓮は、[[法華経]](妙法蓮華経)を[[釈迦]]の正しい教えとして選び、「[[南無妙法蓮華経]]」という[[題目]]をとなえること([[唱題]])を重視した。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は[[経典]]の表題を唱えることに由来する<ref name=murakami98/>。

[[1253年]](建長5年)、日蓮は安房に帰り、清澄山の旭の森で題目を10回唱えて立教開宗を宣言した<ref name=murakami98/>。翌年鎌倉にうつり、[[名越 (鎌倉市)|名越]]の地に庵をむすんだが、このころの鎌倉では[[大火]]・[[洪水]]・[[地震]]が相次ぎ、[[疫病]]もしばしば流行した。[[1259年]]([[正元 (日本)|正元]]元年)には[[飢饉]]が全国に広がった<ref name=murakami98/>。日蓮は、これら打ちつづく天変地異は末法の到来を示すものであり、邪教(専修念仏の教え)のために、正しい法である法華経が見失われてきたためであるとして、[[1260年]]([[文応]]元年)、幕府が法華経にもとづく政治をおこなうよう求める『[[立正安国論]]』を著し、執権[[北条時頼]]の側近に提出した<ref name=murakami98/>。このまま「邪教」を放置すれば、経典に記された三災七難のうち、まだ起こっていない「自界叛逆難」(反乱)と「他国侵逼難」(外国から侵略をうける災難)も必ず起こるであろうと訴えたのである<ref name=bitoh106>[[#尾藤|尾藤(2000)pp.106-110]]</ref>。日蓮と弟子たちは幕府に期待をかけ、公衆の面前での法論を望んだが、日蓮の行動は念仏者たちの怒りを買い、草庵は焼き討ちされた([[松葉ヶ谷#松葉ヶ谷法難|松葉ヶ谷法難]])。この法難は、『立正安国論』を時頼に建白した約1ヶ月後のことであり、襲撃の背後には幕府の有力者やそれにつらなる仏僧がいたと考えられており、幕府による迫害のなかでも最大のものであった<ref group="注釈">1271年(文永8年)に片瀬(神奈川県藤沢市)の[[龍口|龍ノ口]]でひそかに斬殺されようとした日蓮が天の御加護により助かったという龍ノ口法難は、後世に創作された[[伝説]]と考えられている。[[#村上|村上(1981)p.101]]</ref>。日蓮はこののち、一時[[下総国]]に避難したが再び鎌倉にもどり、幕府によって2年余り[[伊豆国]]に配流された。

ゆるされて故郷にもどった日蓮は再び鎌倉で活動した。権力に屈せず、[[辻説法]]によって法華経への帰依をうったえ、鎌倉の諸寺に宗論をいどんで、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の[[四箇格言]]で他宗を激しく攻撃しながら、国難の到来を予言した。かれのひらいた[[法華宗]]([[日蓮宗]])は関東の武士層や商工業者を中心に広まっていったが、折りしも1268年(文永5年)には[[元 (王朝)|元]]からの国書が幕府に届き、日蓮は『立正安国論』で指摘した「他国侵逼難」の予言が的中したとして、執権[[北条時宗]]に対し、念仏、禅を退けて国難への対策を知っているみずからを[[国師]]として用いるよううったえた<ref name=murakami98/>。また、時宗、[[平頼綱]]、[[蘭渓道隆]]、[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]の[[忍性]](良観)などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫った。日蓮の教えには「旧仏教」的な要素が多くふくまれ、「われ日本の柱とならん」と述べて、法華信仰に依拠しなければ国が滅ぶと鎌倉幕府にせまったのも[[鎮護国家]]の思想のなごりを示す現象といえる<ref name=ienaga128/>。

[[ファイル:Kuonji-temple-Hondou.jpg|300px|right|thumb|[[久遠寺]]本堂]]
[[1271年]](文永8年)、日蓮は幕府や他宗を批判したとして[[佐渡国]]に配流された。この時期の日蓮は自身が末法の世に法華経をひろめる[[上行菩薩]]であるとの自覚に達し、『[[開目鈔]]』(1272年)を著すなど独自の教義を展開させた<ref name=murakami101>[[#村上|村上(1981)pp.101-105]]</ref>。[[1274年]](文永11年)、日蓮はゆるされて鎌倉にもどったが、ほどなく日蓮に深く帰依した[[甲斐国]]の[[地頭]][[波木井実長]]により寄進された[[身延山]]にうつり、[[久遠寺]](山梨県[[身延町]])をひらいた。久遠寺には、天台宗の下級僧出身者など数十人の弟子が集まり、武士、地主、農民、職人などの帰依者が増加していった<ref name=murakami101/>。

日蓮は、[[1276年]]([[建治]]2年)の『妙密上人御消息』のなかで自身が「無戒の僧」で牛や馬のごとき者であるとし、そのような自分が法華経の行によって救われたとしている。佐渡配流以降(「佐後」)の日蓮の思想は、佐渡配流以前(「佐前」)の外向的な姿勢にくらべ内面的性格が強められており、自己を人間以下の者、無戒で罪深き者とする謙虚な姿勢には親鸞の悪人正機に通じる要素も認められる<ref name=bitoh106/>。日蓮は、また『本尊問答抄』のなかで自身を「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』では「海辺の旃陀羅が子なり」などと書き記しており、自分の信仰は、この時代に虐げられていた底辺の人びとの救済を強い動機としていることを表明しているのである。

=== 法華本門の教え ===
法華宗の広がりの背景には、それに先だつ[[持経]]([[経典]]への信仰)の伝統があった<ref name=gomi72>[[#五味|五味(2000)pp.72-74]]</ref>。それは、[[写経]]や埋経、暗誦(あんじゅ)などのかたちでおこなわれていたが、[[厳島神社]]への『[[平家納経]]』や、「法華の持者」と称されて常に法華経を暗誦していた[[後白河法皇]]、やはり「法華八幡の持者」と称された[[源頼朝]]など権力者にも広くみられた信仰のあり方であった<ref name=gomi72/>。また、平安時代末期に[[陸奥国]][[宮城郡]][[松島]]にあって12年間法華経を読誦した[[見仏]]のように、[[鳥羽法皇]]から[[仏像]]や器物をおくられ、法華の行者として広く世に知られた僧もいた<ref>[[#入間田|入間田(1991)p.294]]</ref>。

法華経はまた、元来は天台宗の理論の根拠をなすものとして重視されてきた経典であり、平安時代初期の[[最澄]]に始まる天台宗は「天台法華宗」とも称されてきたが、日蓮はその伝統を受けつぎながらも、かれ独自の法華宗、すなわち日蓮宗をはじめたのである<ref name=bitoh106/>。

[[ファイル:Rinmetsudojihonzon.jpg|150px|right|thumb|日蓮自筆といわれる十界曼荼羅(鎌倉・[[妙本寺]]蔵)]]
日蓮の教えは、法華経を唯一の正法とし、[[時間]]と[[空間]]を超越した絶対の真理とするものであり、他の教義や信仰は否定される<ref name=murakami101/>。題目は[[真理]]そのものであり、そのまま全[[宇宙]]をあらわす[[曼荼羅]]であるとされ、日蓮は中央に題目を記して周囲に諸仏・諸神の名を配した[[法華曼荼羅]](文字曼荼羅)を[[本尊]](本門の本尊)とした。また、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「[[日蓮宗#五綱教判|五綱の教判]]」を立てた<ref name=murakami101/>。すなわち、「教」(教え)にはおいては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質・能力)においては、末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経なのであり、「時」では、現在は末法であることから法華経が正法とされ、「国」では、[[大乗仏教]]の流布した[[日本国]]にふさわしいのは法華経であり、「序」(順序)では、最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした<ref name=murakami101/>。

さらに日蓮は、天台教学を迹門(しゃくもん)の法華経であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁的・観念的なあり方を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的な行としての唱題を唱えた<ref name=murakami101/><ref group="注釈">「一念三千」とは、一瞬の思念のなかに三千世界の実相をみるという意味である。[[#尾藤|尾藤(2000)p.109]]</ref>。とくに「佐後」は、法華経の呪力に依存するのではなく、法華経に説かれた精神を実践する者、すなわち「法華経の行者」としての自覚が深まっていった<ref name=bitoh106/>。日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないとも説いている。かれは、[[仏法]]と[[王法]]が一致する[[王仏冥合]]を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張した<ref name=murakami101/>。また、王法(政治)の主体を[[天皇]]とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむると考え、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った<ref name=murakami101/>。

「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」や「国」を掲げるあり方から、こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる<ref name=murakami101/>。

== 禅宗の広がりと幕府による保護 ==
=== 禅宗の広まりと日本達磨宗 ===
{{main|日本達磨宗}}
[[インド]]の[[達磨|達磨大師]](ボーディダルマ)に発し、[[坐禅]]を組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教えは、宋の上流階級のあいだにひろまっていた。禅そのものは日本には[[奈良時代]]にすでに伝わっていたが、宋での禅宗の隆盛により平安末期以降あらためて注目されるようになった。栄西より少し前にあらわれた[[大日房能忍]](生没年不詳)は、[[摂津国]]水田([[大阪府]][[吹田市]])に[[三宝寺]]を建立し、日本で最も早く禅宗をうちたてようとした僧であった。能忍の活動は当時の社会に大きな影響をあたえたが、かれのひらいた[[日本達磨宗]]は、多くの人びとに教義を広める過程で中心を失ってしまった<ref>[[#石井|石井(1974)pp.270-271]]</ref>。

しかし、後述する栄西や道元の登場によって、禅宗は急速に広がっていった。阿弥陀仏への絶対的な救いを求める浄土門の他力の教えに対し、自力で往生を悟ろうとする禅宗の教えは自力で問題解決を図る武士の時代の風潮とも合致していた<ref name=gomi74>[[#五味|五味(2000)pp.74-75]]</ref>。

=== 栄西と臨済宗 ===
{{main|栄西|臨済宗}}
[[ファイル:Eisai.jpg|150px|right|thumb|[[栄西]]]]
[[備中国]]の[[吉備津神社]]の[[神官]]の家に生まれた[[栄西]](1141年-1215年)は、[[1154年]]([[久寿]]元年)に比叡山で出家得度したのち、 2度にわたって宋([[南宋]])へ渡った。1度目は、天台教学を学ぶため[[1168年]]([[仁安]]3年)に[[天台山]]万年寺を訪れたが、そこはすでに禅の寺院に変わっていた。栄西は禅に魅力を感じたが、同時期に宋に留学していた念仏僧[[重源]]の勧めで短期間で帰国し、『[[天台章疎]]』60巻を天台座主に献じた<ref name=murakami92>[[#村上|村上(1981)pp.92-95]]</ref>。[[1187年]]([[文治]]3年)、栄西は再び渡宋し、足かけ5年、天台山と[[天童山]](ともに中国[[浙江省]])で臨済禅を学び、[[虚庵壊敞]]より嗣法を受けて、帰国後の[[1191年]]([[建久]]2年)に[[臨済宗]]をひらいた<ref name=matsuo19/><ref name=murakami92/>。当初は[[聖福寺]]をひらいた[[博多]]や[[香椎]]、[[平戸]]など[[九州]]各地で布教して臨済禅の紹介に努めていたが、やがて京にもどり、禅こそが[[末法]]における正しい教えだとして、禅による天台復興を唱えた<ref name=murakami92/>。しかし、建久5年([[1194年]])[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]、[[日本達磨宗]]の[[大日房能忍]]らの[[摂津国]]三宝寺の教団とともに禅宗停止の[[宣下]]が下されている<ref name=murakami92/><ref name="hanuki_419">[[#葉貫|葉貫(1989)p.419]]</ref>。

[[筑前国]][[箱崎 (福岡市)|筥崎]](福岡市東区)の良弁という人物が<ref group="注釈">奈良時代の華厳宗の僧[[良弁]]とは別の人物である。</ref>九州において禅に入門する人びとが増えたことを延暦寺講徒に訴え、栄西による禅の弘通を停止するよう朝廷にも働きかけたためであり、建久6年には関白九条兼実が栄西を京に呼び出し、[[舎人|大舎人頭]]の職にあった[[白河仲資]]に「禅とは何か」を聴聞させ、[[大納言]]の[[葉室宗頼]]に対してはその傍聴の任にあたらせている<ref name="hanuki_419"/>。

栄西はこうした動きに対し、遅くとも[[1198年]]([[建久]]9年)には、「大いなる哉。心や」ではじまる『[[興禅護国論]]』を著し、戒律がすべての仏法の基礎であり、禅は戒を基本とすること、また、禅宗が従来の仏教と根本的に対立するものではないこと、王法を仏法の上において禅を興して国を護り、もって王法鎮護となすことは[[最澄]]のひらいた天台宗の教義と何ら変わらないとして反論した<ref name=gomi74/>。この書は、九州で著されたと考えられ、禅に対する誤解を解き、禅の主旨を明らかにしようとしたものであった<ref>[http://www.shofukuji.or.jp/onki/index.htm 栄西禅師八百年遠諱大法要](安国山聖福寺)</ref>。

延暦寺は[[止観]]の行と法華経を絶対の権威としており、栄西や上述した法然の教えはそれに違背するものとして、特に京洛の地でかれらの思想が広まることに対してこれを怖れ、徹底的に弾圧を加えようとしたのである<ref name="taga_094">[[#多賀|多賀(1965)pp.94-95]]</ref><ref group="注釈">比叡山延暦寺の立場と日蓮の立場とは相違がみられるものの、両者は、禅に対する攻撃については、禅宗が止観・法華を排除ないし軽視していることを理由とする点で共通している。それに対し、栄西は建仁寺に禅のほか真言・止観の両業をおいている。[[#多賀|多賀(1965)pp.94-95]]</ref>。栄西は、これに対し、法然よりはやや妥協的な方法を選んだ<ref name="taga_094"/>。自分の意見が京都では容易に受け容れられないと判断し、[[1199年]]([[正治]]元年)には鎌倉に下って[[北条政子]]や将軍[[源頼家]]に禅の教えを説き、その帰依を受けたのである<ref name=gomi74/>。

[[ファイル:Kenninji Kyoto06n4272.jpg|300px|left|thumb|[[建仁寺]]法堂]]
臨済禅は、看話禅(かんなぜん)とも称され、坐禅をくむなかで、師から与えられる[[禅問答]]([[公案]])に答えることで、悟りの境地に達しようという教えであり、京の[[公卿]]の文化に対抗心をいだく武士層から新しい教学として迎えられ、歴代の[[北条氏]]もこれを保護した<ref name=murakami92/>。とはいえ、必ずしも禅宗への帰依が栄西を引き立てたのではなかった<ref name=gomi74/>。[[1200年]]([[正治]]2年)に北条政子の後援で鎌倉に建てた[[寿福寺]]も、[[1202年]]([[建仁]]2年)に将軍頼家の保護により開かれ、のちに臨済宗総本山となる京都の[[建仁寺]]も、当初は臨済禅のみの寺院ではなかった<ref name=gomi74/>。

栄西がめざしたのは、[[顕教]]・[[密教]]に禅を加え、禅を柱にして仏教を総合しようということであり、かれ自身は禅僧であると同時に密教僧でもあった<ref name=amino138/>。生涯を天台僧として生きた栄西は、大陸の新しい文化や京の文化を伝える僧として鎌倉幕府に認められたのであり、喫茶の風習もその一環として広まったものである<ref name=gomi74/>。[[1211年]](建暦元年)ころに将軍[[源実朝]]に献上した『[[喫茶養生記]]』は茶の効能を説いた著作であった。

宋で最新の学術文化を学習した栄西は、中国の[[建築]]技術等にも通じており、重源をたすけて[[東大寺]]の再建に尽くし、重源亡きあとの[[勧進#東大寺大勧進職|東大寺大勧進職]]となった。栄西はまた、[[1213年]]([[建保]]元年)には鎌倉幕府の後援もあって[[僧正|権僧正]]という僧綱(僧官)になっているが、遁世僧の身でありながら権僧正に任じられるのはきわめて例外的なことであった<ref name=matsuo19/><ref group="注釈">[[無住]]『[[沙石集]]』(1283年成立)では栄西が権僧正に任じられたことを、「遁世の身でありながら僧正になったのは、遁世僧は非人のように蔑まれていたので、いわば遁世僧の地位の向上のために僧正になったのだ」と弁護している。[[#松尾|松尾(1995)p.33]]</ref>。慈円や道元は栄西が僧正や[[大師|大師号]]宣下をみずから運動していることを批判しているが、幕府要人が栄西に帰依したことによって、禅宗はやがて京都へも広まっていった<ref name=gomi74/>。

[[ファイル:Lanxi Daolong.jpg|120px|thumb|right|[[頂相]]「蘭渓道隆像」]]
栄西没後も中国の臨済禅との交流は活発であり、渡宋した僧や来日した宋・元の禅僧の活躍によって広まっていった。渡宋した[[円爾]](聖一国師、[[1202年]]-[[1280年]]))は、帰国後、[[九条道家]]の帰依で京都に[[東福寺]]を建て、その弟子[[無関普門]]([[1212年]]-[[1292年]])は[[亀山上皇]]の帰依で[[南禅寺]]をひらいた。こうして臨済禅は、王朝国家たる朝廷の保護するところとなった。当初は外来宗教的な要素が濃厚であった臨済宗も、[[南浦紹明]]([[1235年]]-[[1309年]])などの活動により、しだいに独自の発展の道をあゆむこととなった<ref name=bitoh100>[[#尾藤|尾藤(2000)pp.100-101]]</ref>。南浦紹明の弟子の[[宗峰妙超]](大燈国師、[[1282年]]-[[1338年]])は[[大徳寺]]、その弟子[[関山慧玄]]([[1277年]]-[[1361年]])は[[妙心寺]]を開創した。鎌倉末期には「七朝帝師」となった[[夢窓疎石]]([[1275年]]-[[1351年]])があらわれている。

鎌倉では、宋から来日した渡来僧[[蘭渓道隆]]([[1213年]]-[[1278年]])が執権[[北条時頼]]からの深い帰依を得て[[建長寺]]を建て<ref group="注釈">建長寺2世の[[兀庵普寧]](1197年-1276年)も宋からの渡来僧であるが、時頼死後は支持者を失って帰国した。[[#鎌倉事典|鎌倉事典(1992)]]</ref>、息子[[北条時宗]]は宋から[[無学祖元]]([[1226年]]-[[1286年]])をまねいて参禅し、[[円覚寺]]を建てて初代住持とした。時宗の子[[北条貞時]]は元出身の渡来僧[[一山一寧]]に帰依した。こうして臨済宗は、一方では、王朝国家からは独立した東国国家をめざす[[鎌倉幕府]]の保護するところとなったのである<ref name=amino138/>。

一山の門下からは最初の日本仏教史といえる『[[元亨釈書]]』を著した[[虎関師錬]]([[1278年]]-[[1346年]])、[[五山文学]]最盛期の中心をになった[[雪村友梅]]([[1290年]]-[[1347年]])があらわれた。[[竺仙梵僊]]([[1292年]]-[[1348年]])は[[1329年]]([[元徳]]元年)に渡来した中国僧で、一山一寧同様、日本の禅宗文化を創始した一人と見なされる<ref>[[#村井|村井(2004)pp.70-71]]</ref>。以上掲げた人物以外にも大陸からはたくさんの禅僧が渡来し、いわば「渡来僧の世紀」とも呼ぶべき文化状況が生まれた<ref group="注釈">[[1240年代]]から14世紀なかばまでの約100年間で30名ほどの中国からの渡来僧、200名以上の渡海僧が確認されている。[[#村井|村井(2004)pp.67-69]]</ref><ref group="注釈">中世における禅林は多民族的な世界から成り立っており、さかんに文化交流がおこなわれて「アジアの国際社会」を創出していた。[[#村井|村井(2004)pp.83-86]]</ref>。

=== 道元と曹洞宗 ===
{{main|道元|曹洞宗}}
[[ファイル:Dogen.jpg|130px|left|thumb|[[道元]]]]
[[曹洞宗]]の開祖である[[道元]](1200年-1253年)は、[[内大臣]]であった[[土御門通親]](久我通親)の子息として京に生まれた<ref group="注釈">道元の妹の生んだ子が[[土御門天皇]]であり、[[承久の乱]]に連坐して配流された三上皇の一人である。ただし、乱には無関係でみずから土佐国に赴いた。</ref>。道元も幼少にして父母を失い世の[[無常]]を感じて仏門に入った人物であり、13歳のとき比叡山で出家して天台教学を学んだ<ref name=murakami95>[[#村上|村上(1981)pp.95-98]]</ref>。仏法をきわめるために中国で禅を学ぶことを勧められ、栄西の建てた建仁寺の[[明全]]に師事し、[[1223年]](貞応2年)明全とともに渡宋して足かけ5年間禅を学び、最後に天童山の[[天童如浄|如浄]]に師事して、ついに悟りの境地(「[[身心脱落]]」)の境地に達して、如浄の[[印可]]を受けた<ref name=gomi74/><ref name=bitoh101>[[#尾藤|尾藤(2000)pp.101-106]]</ref>。曹洞禅は黙照禅(もくしょうぜん)ともいい、公案中心の臨済禅に対し、ひたすら禅に打ち込むことによって内面の自在な境地を体得しようというものである<ref name=murakami95/>。

上述のように、禅宗は一般に外来宗教の要素が強いともいわれるが、道元の思想についてはしばしば独創性が豊かあると評される<ref name=bitoh100/>。道元が比叡山を離れた時、かれの念頭にあった疑問とは「人が本来、仏であるのならば、どうしてさらに発心修行して悟りを求める必要があるのか」ということであった<ref name=bitoh101/>。すなわち、天台本覚思想に対する根本的な疑問であり、それをどう乗り越えるかということであった<ref name=bitoh101/>。また、宋に渡って船が[[寧波]]の港に着き、積み荷の[[シイタケ]]を買いに来た老僧との対話も、その後の道元の思想形成に強い影響をあたえることとなった。その老僧は、近くの育王山で[[炊事]]係をつとめているとのことであり、道元が「どうして、尊年(御高齢)でありながら、坐禅して、禅僧のことばを手がかりに考えるということをなさらず、炊事係のようなわずらわしい雑用に従事しておられるのですか。それが何のお役に立つのですか」と話しかけたところ、「外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざるあり」と答えた、つまり、あなた(道元)は、書籍に記してあることの本当の意味が分かっていないと「大笑」されたのである。これは、坐禅や勉学にくらべて炊事などの日常的な用務は低級ないし無意味と考えていた道元にとっては大きな衝撃であった<ref name=bitoh101/>。これは、後述する[[修証一如]]の思想に大きな影響をあたえることとなる。

道元は、時を経るにつれて仏法が失われていくとする[[末法思想]]は、かりそめの教えであり真の教えではないと否定した。そして自力による修行をすすめたが、これは天台本覚の教えで説くところの「人はみな[[仏性]](悟りを得る力)を備えている」からこそ可能だという考えにもとづいている。

[[1227年]]([[安貞]]元年)に帰国した道元は、建仁寺で正しい坐禅を説いた『[[普歓坐禅儀]]』を著し、禅こそが釈迦より伝えられた正法であると説いたため、延暦寺の僧たちの迫害対象となった<ref name=gomi74/><ref name=murakami95/>。道元は、[[1230年]]([[寛喜]]2年)建仁寺を去って[[深草]](京都市[[伏見区]])にのがれて『[[正法眼蔵]]』の著作を開始、[[1234年]]([[文暦]]元年)、[[山城国]][[宇治郡|宇治]]に[[興聖寺 (宇治市)|興聖宝林禅寺]]を建て、坐禅修行を求める人びとの道場とした<ref name=murakami95/>。道元は、[[唐]]代のきびしい禅を追求したところから「古仏道元」と呼ばれた<ref name=murakami95/>。

[[ファイル:Eiheiji15s4592.jpg|300px|right|thumb|[[永平寺]]:階段状の回廊]]
道元は、[[不立文字]]を唱え、理論にとらわれず、一切を捨ててただひたすら坐禅に打ちこむことによってありのままの自己が現れ、身心脱落して悟りにいたる[[只管打坐]]を唱えた。これが正法禅である。道元は[[加持祈祷]]も念仏行を否定して正法禅の運動をつづけたが、それは従来の仏教における贅肉をいっさい削ぎおとす主張でもあったため、延暦寺からの迫害は年を追うごとにいっそう激化した<ref name=seigoudougen>[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0988.html 松岡正剛の千夜千冊『正法眼蔵』]</ref>。道元は、貴族の子として生まれた人物ではあったが、世俗的な権勢をいっさい拒否し、[[六波羅探題]]の武士であった[[波多野義重]]の招きに応じて[[1243年]]([[寛元]]元年)[[越前国]]志比荘に向かい、[[永平寺]]<ref group="注釈">永平寺は、[[1244年]](寛元2年)に建てられた大仏寺が起源であり、その2年後、中国に仏教が伝わったとされる[[後漢]]の元号[[永平]]にちなみ、また、戦乱の世を倦いて「永久平和」を願ったところから改称された。</ref>で坐禅中心のきびしい修行と弟子の育成に努めた<ref name=gomi74/><ref name=murakami95/>。

和文で記された道元の主著『正法眼蔵』は、その存在論や時間論、言語論が現代においても注目されている<ref group="注釈">『正法眼蔵』の書名は、真理を見通す知恵の眼(正法眼)によって悟られた秘蔵の法を意味している。[[#村上|村上(1981)p.97]]</ref><ref group="注釈">時間論については、75巻本中第20巻「有時」が「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」の一節とともに知られており、[[マルティン・ハイデッガー]]や[[アンリ・ベルクソン]]の時間論に匹敵する時間哲学と評される。[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0988.html 松岡正剛の千夜千冊『正法眼蔵』]</ref>。また、その含蓄深い内容はもとより、言葉づかいや文体その他表現の上でも[[日本語]]による宗教的・哲学的論述の最高峰のひとつといわれる<ref name=bitoh101/><ref name=seigoudougen/>。道元は『正法眼蔵』冒頭「現成公按」巻において、「仏道をならふといふは自己をならふ也、自己をならふといふは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と説いている<ref name=bitoh101/>。すなわち、仏の道を学ぶということは[[自己]]を知るということであり、自己を知るということは自己へのとらわれを取り除くことであり、自己にとらわれなければ現実のすべてが明らかになり、現実のすべてが明らかになれば身心脱落([[悟り]])に達し、自身と他者との区別もおのずから無くなるというような意味であり、さらに、世俗の一切を捨てて、[[生活]]のすべてを修行とすることこそ、悟りであると教え、[[自己放下]](じこほうげ)を強調して、[[煩悩]]や迷いのもととなる自己意識をうち捨てて本来の自己や真実の自己のあり方にめざめるべきことを説いている<ref name=bitoh101/>。栄西が新しい国家仏教を指向したのに対し、道元は、あくまでも普遍的な思想としての仏教を追い求め、如浄の教えにしたがって政治権力から離れた。世俗化した当時の仏教については臨済禅もふくめて根本からこれを批判している。これは、[[仏陀]]本来の精神に立ち帰ることの提唱であり、その点では、道元の思想もまた仏教の純化を指向するものであった<ref name=amino138/><ref name=murakami95/>。

道元ならではの思想として「修証一如」がある。修証一如とは、「修証一等」とも称し、『正法眼蔵』の巻首「弁道話」のなかで説かれ、「修」すなわち修行と「証」すなわち悟りとは同じ一つのものであって、修行に終わりはなく、また、悟りにも始まりはないというという考え方である<ref name=bitoh101/>。したがって、そこにおける坐禅(只管打坐)は、悟るための修行ではなく、すでに悟ったうえでの修行なのだから、たとえば、それが初心者の学問修行であっても、そこには完全な悟りが実現されているとみる。すなわち、道元の説くところにおいては、坐禅は、悟りを得るための手段にとどまらない<ref name=bitoh101/>。坐禅して無心の境地にあるとき、人はすでに覚者すなわち仏陀なのであって、坐禅は仏としての行為(仏行)となる。ただし、仏であるという事実に安住するのではなく、仏であるからこそ、無限の修行を続けていかなくてはならないと理解される<ref name=bitoh101/>。そこから敷衍するならば、生活のすべてが修行なのであり、修行となるような生活をこそ送らなければならない。

孤高の思想家である道元自身には元来一つの宗をおこす意思はなかったと思われるが、永平寺につどった道元の弟子たちは教団化に努めた<ref name=murakami95/>。永平寺の2代貫主となった[[孤雲懐奘]]は道元の教えを『[[正法眼蔵随聞記]]』として記し、懐奘の弟子で鎌倉時代末期にあらわれた[[瑩山紹瑾]]は、[[越前国]]・[[加賀国]]・[[能登国]]など[[北陸道]]を基盤として曹洞宗教団を打ち立てた<ref name=murakami95/>。坐禅の修行そのものが悟りであるという修証一如(修証一等)の教えはしだいに地方武士のあいだに広まっていった<ref group="注釈">社会の上層階級と結ぶ臨済宗と庶民に広まった曹洞宗とを対照させて「臨済将軍、曹洞土民」の語も生まれている。[[#村上|村上(1981)p.98]]</ref>。

なお、この時代の遁世僧は、禅宗のみならず律宗や時宗などもふくめ、一般に顕密諸宗の官僧にくらべて諸国間を移動することが多かった。特に禅宗の場合は各地に「[[旦過]]」と称する宿泊施設を設けて僧の逗留に資している<ref>[[#原田|原田(2009)p.4]]</ref>。

== 旧仏教の刷新 ==
信仰と実践を重んじる新仏教があいついで生まれ、武士や庶民に急速に浸透していったものの、社会的勢力としては[[南都六宗]]や天台宗・[[真言宗]]などの勢力(旧仏教)が、依然として大きな力を保っていた。特に山門(天台宗)は大勢力を保ち、権門勢力と結んでしばしば新仏教に弾圧を加えた([[権門体制]])。しかし、新仏教の活発な活動に刺激をうけて、旧仏教内部でも現状の反省と革新への気運が盛り上がってきた。なお、新仏教各宗派が実際に社会を動かすような力を持つようになるのは[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけてのことである。

{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" style="text-align:left"
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|- style="background:#efefef;"
|style="font-weight:bold"|宗派||僧侶||おもな事跡
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| style="background:#efefef;font-weight:bold" rowspan="1"|[[法相宗]]||[[貞慶]](解脱)<br/>[[1155年]]-[[1213年]]||[[興福寺]]の僧の堕落をきらって[[笠置山]]に隠棲、[[戒律]]の護持・普及につとめ、[[法然]]の[[専修念仏]]を攻撃した。
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| style="background:#efefef;font-weight:bold" rowspan="1"|[[華厳宗]]||[[高弁]](明恵)<br/>[[1173年]]-[[1232年]]||京都の栂尾に[[高山寺]]を開いた。戒律を重視し、『[[摧邪輪]]』を著して法然を批判した。
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| style="background:#efefef;font-weight:bold" rowspan="4"|[[律宗]]||[[俊じょう|俊芿]](我禅)<br/>[[1166年]]-[[1227年]]||渡宋して戒律を学び、京都に[[泉涌寺]]をひらいて台・密・禅・律兼学の[[道場]]とした。[[真言宗泉涌寺派]]の祖といわれる。
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|[[叡尊]](思円)<br/>[[1201年]]-[[1290年]]||大和の[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]を復興し、戒律の護持・普及や民衆の教化につとめた。架橋や道路建設などの社会事業も熱心におこなった。
|-
|[[忍性]](良観)<br/>[[1217年]]-[[1303年]]||叡尊の弟子で鎌倉に[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]をひらいた。病人や貧民救済につとめ、奈良に救らい施設[[北山十八間戸]]を設営した。
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|[[凝然]](示観)<br/>[[1240年]]-[[1321年]]||学問即行の立場で仏教史はじめ多数の著述をおこない、華厳、戒律の宣揚に努めた。特に『八宗綱要』は日本仏教史上重要である。
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| style="background:#efefef;font-weight:bold" rowspan="1"|[[真言宗]]||[[覚鑁]](正覚)<br/>[[1095年]]-[[1143年]]||諸流細分した真言宗の修行を大成し、大伝法院流を創唱して、[[新義真言宗]]の祖といわれた。
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| style="background:#efefef;font-weight:bold" rowspan="1"|[[天台宗]]||[[恵鎮]](円観)<br/>[[1281年]]-[[1356年]]||叡尊らの活動に刺激を受けて戒律「復興」運動をおこす。[[後醍醐天皇]]の討幕運動に参画、『[[太平記]]』編集の責任者でもあった。
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|}

=== 法相宗 ===
京都に生まれ、[[法相宗]]中興の祖といわれる解脱房[[貞慶]](1155年-1213年)は、南都の[[興福寺]]にはいって叔父にあたる[[覚憲]]に師事して法相教学と律を学んだが、[[1193年]]([[建久]]4年)、僧侶の堕落をきらって、[[荘園領主]]のひとつとして世俗勢力化した興福寺を出て、[[弥勒菩薩|弥勒信仰]]によりながら南[[山城国|山城]]山中の[[笠置寺]]に隠遁し、[[海住山寺]]の再興に尽力した。[[戒律]]の復興につとめた貞慶は、[[1205年]]([[元久]]2年)に浄土宗を批判する『[[興福寺奏状]]』をあらわし、これは上述の法然弾圧の契機をつくることとなった。[[1208年]]([[承元]]2年)、貞慶は再興された海住山寺にうつっている。

海住山寺五重塔は、貞慶の弟子[[覚真]]が師の一周忌[[供養]]に建立したものであり、国宝に指定されている。

=== 華厳宗 ===
[[ファイル:Semuiji Myoue.jpg|130px|right|thumb|明恵上人樹上坐禅図(国宝)]]
[[華厳宗]]中興の祖といわれる[[高弁]](1173年-1232年)は、[[紀伊国]]で[[平重国]]の子として生まれ、明恵上人の名で知られる<ref name=matsuo19/>。高弁は[[後鳥羽上皇]]と[[北条泰時]]から帰依をうけた<ref group="注釈">[[承久の乱]]で幕府方大将として京にのぼり初代[[六波羅探題]]長官となった北条泰時は高弁と出会っており、執権就任後にかれの定めた『[[御成敗式目]]』の理念は高弁の思想から強い影響を受けたといわれる。</ref>。

[[1188年]](文治4年)、高弁は[[上覚]]を師として出家し、東大寺戒壇で受戒した<ref name=matsuo19/>。東大寺の尊勝院で華厳教学を学んだが、21歳のときに国家的[[法会]]への参加要請を拒んだのち、東大寺を出て遁世した。[[1206年]](建永元年)、高弁は、後鳥羽上皇の[[院宣]]により京都北郊の[[栂尾]]に[[高山寺]]をひらき、法然の専修念仏に反論する『[[摧邪輪]]』をあらわした。かれは、仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、生涯にわたり戒律の「復興」を身をもって実践した<ref name=amino138/><ref group="注釈">松尾剛次は、高弁(明恵)を祖師とする教団を「新義華厳教団」と呼んでいる。[[#松尾|松尾(1995)p.37]]</ref>。

なお、高弁は栄西より[[茶]]の[[種子]]を譲られたことから、栂尾はのちに茶の名産地となっている。

=== 律宗 ===
戒律を重んじる[[律宗]]では我禅坊[[俊じょう|俊芿]](1166年-1227年)が南宋からの帰国後、京都に[[泉涌寺]]<ref group="注釈">現在では[[真言宗]]の寺であるが、江戸時代にあっては「御寺」と呼ばれ、歴代天皇の墓、[[天皇陵|月輪陵]]があった。</ref>を再興し、天台・真言・禅・律兼学の[[道場]]とした。俊芿の律は、[[唐招提寺]]や西大寺を中心とする奈良の律(南京律)に対し、北京律といわれた<ref name=murakami106>[[#村上|村上(1981)pp.106-108]]</ref>。また、宋学([[朱子学]])を日本に伝えたのも彼であるという。

[[律宗]]中興の祖といわれる思円房[[叡尊]](1201年-1290年)は、興福寺の僧を父として現在の[[奈良県]][[大和郡山市]]に生まれた<ref name=matsuo19/>。[[1217年]]([[建保]]5年)、17歳で京都山科の[[醍醐寺]]で出家し、同年中に東大寺戒壇で受戒した<ref name=matsuo19/>。[[1236年]]([[嘉禎]]2年)、興福寺の[[覚盛]]らとともに[[東大寺法華堂]]の[[観音菩薩]]の前で自誓受戒し、単にみずからの悟りをめざすのみならず、他人も救済しようとする菩薩僧になることを誓った<ref name=matsuo19/>。叡尊は大和国[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]を再興し、[[殺生]]を悪としてきびしく禁じて戒律「復興」に努める一方、[[道路]]の修復や架橋、非人をはじめとして貧民・病者の救済など社会事業に力を尽くし、民衆の教化に努めた<ref name=amino150>[[#網野|網野(1997)pp.150-151]]</ref><ref group="注釈">松尾剛次は、叡尊を祖師とする教団を「新義律宗教団」と呼んでいる。[[#松尾|松尾(1995)p.38]]</ref>。叡尊の教団にあっては、厳しい戒律を守ることこそが多様な救済活動の原点になっていたのであり、民衆に対しては、分に応じた戒律の護持を勧め、戒律を守れば、その呪術力によって願いがかなうと説いている<ref name=matsuo7>[[#松尾|松尾(1995)pp.7-17]]</ref>。叡尊は[[1262年]](弘長2年)、[[金沢実時]]や三村寺にいた弟子の忍性の招きにより鎌倉を訪れ、実時や新しく執権となった[[北条時宗]]に授戒した。叡尊による直接の受戒者は出家者で1,694人、在家者6万人余におよぶと伝えられる<ref name=murakami106/><ref>[[#松尾|松尾(1995)pp.168-181]]</ref><ref group="注釈">叡尊が授戒した人数にくらべて親鸞の直弟子は75人であり、鎌倉時代にあっては親鸞の教団は決して代表的な教団とはいえなかった。[[#松尾|松尾(1995)p.180]]</ref>。叡尊は、南都北嶺で受戒した官僧に対し、新たに西大寺と[[唐招提寺]]に戒壇を設け、遁世僧にも授戒の道をひらき、鎌倉時代の社会に大きな影響をあたえた<ref name=amino150/>。朝廷・幕府の権力者から最底辺の民衆にまで厚い支持を集めた叡尊はまた、[[元寇]]に際して敵国調伏の祈祷を[[石清水八幡宮]]でおこなったことでも知られる。

[[ファイル:Kitayama-Juhachikento01.jpg|right|250px|thumb|国の史跡[[北山十八間戸]](奈良県奈良市)<br/>忍性(良観)の設立による救らい施設]]
[[ファイル:Monju crossing the sea.jpg|200px|right|thumb|国宝「絹本著色文殊渡海図」(13世紀)、[[醍醐寺]]蔵]]
良観房[[忍性]](1217年-1303年)は、16歳で母を失い官僧となったが、[[1239年]]([[延応]]元年)、23歳で叡尊の西大寺再建に勧進聖として加わったことを契機として、叡尊に師事した。[[1240年]]([[仁治]]元年)ころ、忍性は叡尊とともに西大寺を拠点として大和国内の宿々に[[文殊菩薩]]の図像を掲げて[[供養]]をおこない、住人に施物(せもつ)をあたえているが、このような慈善はそののちもしばしば繰り返された<ref name=irumada289>[[#入間田|入間田(1991)pp.289-291]]</ref>。師と同様、社会事業に尽力した忍性は、[[1243年]]([[寛元]]元年)、奈良に[[ハンセン病]]患者を救済するための施設として[[北山十八間戸]]を設立し、その経営にあたった。忍性は、[[1252年]](建長4年)、東国に下り、常陸国三村寺([[つくば市]])に住み、その後、鎌倉に入って[[北条業時]]らの保護を受け、[[1267年]](文永4年)、鎌倉の[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]を再興してそこを拠点に律宗復興のため尽力した。極楽寺境内には病宿・らい宿・薬湯室・療病院・坂下馬療屋などの施設が整えられた<ref name=irumada289/>。また、[[和賀江島]]の修築や[[極楽寺坂切通し]]の開削など鎌倉で[[港湾]]の整備や[[道路]]整備などの土木事業にたずさわった<ref name=matsuo62>[[#松尾|松尾(1995)pp.62-79]]</ref>。同時期に鎌倉で活躍していた日蓮からは「律国賊」と論争を挑まれたことがある。鎌倉はじめ各地に[[悲田院]]を設立した忍性は、とくに[[非人]]救済に尽力したが、それがことのほか重視されたのは、文殊菩薩信仰によるものである。文殊菩薩が貧窮・孤独・苦悩の姿に変わって人びとの前面にあらわれるという経文が信じられていたからであった<ref name=irumada289/>。忍性はまた、重源・栄西とならび、東大寺大勧進職となった遁世僧であった<ref name=matsuo62/><ref group="注釈">東大寺大勧進職には、[[1181年]]([[養和]]元年)から[[1527年]]([[大永]]7年)まで、中断をはさみ46人が任じられているが、鶴岡八幡宮別当をつとめた第6代大勧進の[[定親]]をのぞくとすべて遁世僧であった。[[#松尾|松尾(1995)p.70]]</ref>。

他に律宗出身の学僧としては、[[円照]]([[1221年]]-[[1277年]])とその弟子[[凝然]]([[1240年]]-[[1321年]])がいる。特に凝然は、[[華厳経]]にも通じ、インド・中国・日本にまたがる仏教史を研究してその編述をおこない、日本仏教の包括的理解を追究して多くの著作をのこした<ref name=oosumi210>[[#大隅|大隅(1989)p.210]]</ref>。凝然の著した『[[八宗綱要]]』は日本仏教史上重要な文献である<ref group="注釈">『八宗綱要』における「[[八宗]]」とは、[[法相宗]]・[[倶舎宗]]・[[三論宗]]・[[成実宗]]・[[華厳宗]]・[[律宗]]の南都六宗および[[天台宗]]・[[真言宗]]の平安二宗のことである。</ref>。

=== 真言宗 ===
[[高野山]]では平安末期に正覚坊[[覚鑁]](1095年-1143年)があらわれて、山内に大伝法院をつくり、民衆への布教につとめたが、[[金剛峯寺]]と対立して紀伊国の根来に退いて円明寺([[根来寺]])を建てた<ref name=murakami106/>。かれは、諸流細分した[[真言宗]]の修行方法を大成し、大伝法院流を創唱した。その後、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で抗争が長くつづいた。

鎌倉時代中期にあらわれた俊音房[[頼瑜]]([[1226年]]-[[1304年]])は、大伝法院をさかんにしたが、金剛峯寺側が大伝法院に圧迫をくわえたため、[[1286年]](弘安9年)、頼瑜は大伝法院を根来円明寺にうつして高野山から分かれ、[[大日如来]]の加持法身説(新義)を唱えて[[新義真言宗]]がひらかれた<ref name=murakami106/><ref group="注釈">真言宗の流れからは、性崇拝を中心とする左道密教の[[真言立川流]]が鎌倉時代にあらわれた。武蔵国立川(東京都立川市)の[[陰陽師]]集団から形成されていったもので南北朝時代まで隆盛をみたが、他の真言宗諸派からきびしい弾圧を受けたため、室町時代には衰微した。[[#村上|村上(1981)pp.107-108]]</ref>。

=== 天台宗 ===
近江に生まれた円観房[[恵鎮]](1281年―1356年)は、[[1295年]]([[永仁]]3年)に延暦寺で出家・受戒し、官僧名としては伊予房道政の名を付けられた<ref name=matsuo19/>。[[1303年]]([[嘉元]]元年)、いったん遁世して禅僧となったが、翌年には黒谷にもどり、[[1305年]](嘉元3年)ころ、師の[[興円]]にしたがって再び遁世し、以後、師に協力して円戒(天台宗の戒律)護持を主張した。この戒律復興運動は南都の叡尊らの活動に影響を受けたものである<ref name=matsuo19/>。恵鎮は、東大寺の大勧進となったり、[[法勝寺]]の復興に尽力するなど重要な役割をにない、『[[太平記]]』編纂の責任者も務めた<ref name=matsuo19/>。[[後醍醐天皇]]の討幕計画に参画し、[[文観]]とともに[[北条氏]]を呪咀したため、一時、[[陸奥国]]に配流されている。[[建武新政]]が倒れたのちは[[足利尊氏]]の帰依を受け、[[建武式目]]の制定にかかわったといわれる。恵鎮は、円戒に関する多くの著作をのこしている。

=== 「旧仏教」諸派と「新仏教」の関係 ===
このように、「旧仏教」は戒律の「復興」を掲げて、国家からの自立と[[非人]]などの社会的弱者や女人もふくんだ個人の救済に努めたが、「新仏教」とりわけ念仏に対する対抗意識も強く、これを排撃する側に加わることもあった。上述した承元元年の弾圧はそのことにより引き起こされたものであった。

そのいっぽう、華厳宗の高弁(明恵)は[[三時三宝礼]]により「南無三宝後生たすけさせたまえ」と唱えるだけで[[成仏]]できると説き、法相宗の貞慶は[[唯心]]の念仏をひろめるなど、表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、これによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとした<ref name=ienaga128/>。

教学の面では、いわゆる「旧仏教」の側で「新仏教」に刺激されて集大成の気運が高まった。貞慶や高弁、また[[三論宗]]の[[明遍]]はじめ超人的な学僧が多数あらわれ、日本独特の教学を成立させた<ref name=oosumi210/>。また、東大寺の[[宗性]]は数々の僧伝を集成して日本仏教史を考察しようと努め、華厳教学を宗性に学んだ上述の凝然もまた仏教史を編述した<ref name=oosumi210/>。

鎌倉仏教と[[天台本覚思想]]との関連については、鎌倉仏教が本覚思想を否定することによって成立したという見方がこんにちの仏教学界では大勢をしめている<ref name=bitoh98>[[#尾藤|尾藤(2000)pp.98-99]]</ref>。しかし、
鎌倉仏教を天台本覚思想の発展とする考え方も従来から存在しており、[[島地大等]]や[[宇井伯寿]]らすぐれた仏教学者によっても唱えられている。とくに島地は、「日本には『哲学』がない」と説いた[[中江兆民]]に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている<ref name=bitoh98/>。上述した親鸞の願力回向の説や一遍の思想などは本覚思想との連続性がみてとれる<ref name=bitoh99/><ref name=bitoh98/>。日本思想史を専門とする[[尾藤正英]]は、日蓮の思想や道元の思想にも、本覚思想の実践化・具体化の要素があると指摘している<ref name=bitoh106/><ref name=bitoh100/>。

== 鎌倉仏教論 ==
=== 「新仏教」・「旧仏教」概念の提唱 ===
鎌倉仏教を「旧仏教」「新仏教」と呼んで区分する考え方自体は[[近代]]以降に成立した比較的新しいとらえ方である。この語が最初に用いられたのは、日本仏教史研究の先駆者とされる[[村上専精]]が[[明治時代]]に発行した『日本仏教史綱』([[1898年]]-[[1899年]])であり、「新仏教」という表現には高弁(明恵)以下のいわゆる「旧仏教」側の改革の動きをも含めて解説し、こうした動きに加わらなかった既存寺院を「従来仏教」「古宗」と表記している。

[[大正時代]]に入ってから、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗をもって既存宗派と区別する見解が登場した。大正から[[昭和]]にかけては[[辻善之助]]が「旧宗」「新宗」と分類し、続いて[[大谷大学]]の[[大屋徳城]]が今日のような「旧仏教」「新仏教」の区分を用いて以降、この呼称が定着した。この6宗を「鎌倉新仏教」と称する見解は、戦後にもひきつがれ、[[家永三郎]]・[[井上光貞]]らをはじめとして長い間通説となっていたものであるが、ここでは、選択・専修・易行を特徴として広く武士や庶民に信仰の門戸を開いたことが重視される。

一方、前掲したように、奈良仏教や平安仏教、いわゆる「旧仏教」と称されるなかにも「新仏教」6宗に触発されて新しい動きが生まれた。具体的には、華厳宗の高弁(明恵)や凝然、法相宗の貞慶(解脱)、真言宗の覚鑁、後世「[[真言律宗]]」と称される教団を開いて広く社会事業を展開した叡尊と弟子の忍性などの仏教活動である。これらについては単純に「旧仏教」と称してよいのかという疑問が提起された。特に、叡尊・忍性の真言律宗は「新仏教」と称すべき要素を持つのではないのかという指摘がなされた。

=== 「真言律宗」の扱い ===
[[松尾剛次]]は、鎌倉新仏教の最も重要な要素を「国家からの自立」と「個人の救済」ととらえ、この2つがあって初めて貴族仏教から脱却して民衆仏教としての鎌倉新仏教が成立したとする立場に立っている<ref name=matsuo19/>。そこで、「[[真言律宗]]」(正確には、[[江戸時代]]初期に「真言律宗」として開宗される教団。以下、括弧書きで表記する)と称される教団がどの新仏教宗派よりも先に国家公認の[[戒壇]]に代わる独自の戒壇を樹立して、独自の[[授戒]]を開始し、社会事業を通じて[[非人]]などの社会的弱者を救済し、あるいはこれまで国家から授戒を拒否されてきた女性([[尼]])への授戒を認めるなど、個人の救済を通じて社会に対する布教を行った事実を指摘した<ref>[[#松尾|松尾(1995)pp.149-166]]</ref>。そして、「鎌倉新仏教」と称されてきた6宗が[[天台宗]]を母体としていたように、「真言律宗」は[[律宗]]と[[真言宗]]に基礎を置きながらも、寺院外で活動する遁世僧を組織し、民衆救済を目的として活発な活動をおこなうなど、実態としては新仏教そのものであるとして、「真言律宗」教団を鎌倉新仏教の1つとする説を唱えた<ref name=matsuo19/><ref group="注釈">叡尊は、戒律と密教(真言宗)を二本柱としてとらえ、両者を「日月のごとし」(戒律が太陽であるなら密教は月である)と論じて、両者不可分であることを説いている。[[#松尾|松尾(1995)p.159]]</ref>。また、[[蓑輪顕量]]・[[追塩千尋]]なども、その立脚する立場はそれぞれ異なるものの、「真言律宗」を鎌倉新仏教としてとらえなおしている。

これに対して、「真言律宗」は[[薬師寺]]・[[西大寺_(奈良市)|西大寺]]や諸国の[[国分寺]]などの南都仏教の寺院およびその系列の寺院をそのまま継承しており、[[奈良時代]]の[[行基]]などと同様、南都仏教における既成体制内での動きにすぎないとする見解もある。

=== 家永・井上説 ===
上述した、家永三郎・井上光貞の見解は、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗を「鎌倉新仏教」とし、ここでは、[[選択]]・[[専修]]・[[易行]](反[[戒律]])・[[在家]]主義・[[悪人]][[往生]]などを特徴として、広く新興[[武士]]層や[[庶民]]などに対し信仰の門戸が開かれ、[[階層]]や[[身分]]を超越したあらゆる人びとの救済が掲げられたことが重視されており、多数の研究者の圧倒的な支持を得て定説化されたものである<ref name=souten93/>。

鎌倉仏教の研究史に画期をもたらすことになった家永の研究には[[1947年]](昭和22年)の『中世仏教思想史研究』収載の一連の論文があり、浄土教についてさらに深く追究し、克明かつ実証的な研究によって家永説をささえることとなった井上の理論的著作としては[[1956年]](昭和31年)の『日本浄土教成立史の研究』がある<ref name=souten93/>。

=== 八宗体制論と顕蜜体制論 ===
{{main|八宗体制論|顕密体制論}}

[[1969年]](昭和44年)に日本仏教史研究者の[[田村圓澄]]によって初めて提唱された[[八宗体制論]]は、法然より始まる鎌倉新仏教の成立を、それ以前の[[貴族]]的・[[祈祷]]的な[[鎮護国家]]的な古代仏教に対し、[[個人]]の救済を主眼とする民衆仏教の成立として把握する家永・井上らによって唱えられた知見をベースとしており、[[1970年代]]以降の日本仏教史研究に影響をあたえた<ref name=souten93>[[#佐藤1|佐藤(1991)pp.92-94]]</ref>。田村は論文「鎌倉仏教の歴史的評価」において、『興福寺奏状』中の「八宗同心の訴訟」(伝統仏教八宗が心をひとつにしての訴え)の文言に注目し、八宗(南都六宗および平安二宗)がそのように同心して[[法然]]とその教えを排撃しようとする背景には、法然の教義から自分自身のもつ[[特権]]を防衛しようとする伝統仏教側の意図があったとみなし、そうした共通の利害にもとづく仏教界の古代的な秩序を「八宗体制」と名づけたのである<ref name=souten91>[[#佐藤1|佐藤(1991)pp.91-92]]</ref>。

なお、家永・井上の研究によって定説化され、田村圓澄の八宗体制論にひきつがれる通説をまとめると下表のようになる<ref name=matsuo19/>。

{|class="wikitable" cellspacing="0"
!項目||家永・井上・田村らの定説による説明
|-
|新仏教||法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍をそれぞれ祖師とする教団の仏教。
|-
|旧仏教と旧仏教改革派||[[八宗]](南都六宗・平安二宗)は旧仏教。華厳宗の高弁(明恵)・律宗の叡尊は旧仏教のなかの改革派。    
|-
|新仏教の特色||選択・専修・易行。民衆救済の仏教。
|-
|旧仏教の特色||兼学・雑信仰・戒律重視。国家仏教・貴族仏教。
|-
|中世仏教||新仏教
|-
|布教対象||武士・農民・都市民
|-
|社会経済史とのかかわり||荘園制を古代的制度ととらえる。荘園領主である寺社もまた古代的である。
|-
|}

八宗体制論を軸とする田村の見解は、それまで混乱と分裂のイメージでとらえられがちであったいわゆる「旧仏教」の側にも、共通の利害に由来した一定の秩序があったことを指摘した点が従来説とは異なっており、これはやがて次の段階における鎌倉仏教研究にあって大きな課題として浮上していった<ref name=souten93/>。すなわち、中世社会において伝統仏教がたがいに共存する体制をどうとらえるかが問題になったのである。

こうしたなか、従来、思想史と宗門史によって進められてきた鎌倉仏教研究を宗教史への総合的な統一のなかで扱うことを提言した[[黒田俊雄]]は[[1975年]](昭和50年)、『日本中世の国家と宗教』などにおいて、「新仏教」「旧仏教」という分析概念ではなく、「正統派」「改革派」「異端派」の分析概念を採用した<ref name=kitai>[[#鍛代|鍛代(1995)pp.113-114]]</ref>。そして、鎌倉時代にあっても南都六宗や天台宗・真言宗は「顕密主義」という共通の基盤を有しており、むしろ密教化を進めてきた「旧仏教」の方こそが主流であったという「[[顕密体制論]]」を唱え、これら主流派の[[寺社勢力]]に対する[[異端]]として法然・親鸞・日蓮・道元らを位置づけ、一方、[[明恵|高弁]]や[[叡尊]]らを改革者と位置づけた<ref name=matsuo19/><ref>[[#佐藤1|佐藤(1991)pp.94-96]]</ref><ref name=kenkyu>[[#佐藤2|佐藤(1995)p.132]]</ref><ref group="注釈">黒田による「顕密体制」の議論は、『日本中世の国家と宗教』のほか「中世寺社勢力論」(1975)『寺社勢力』(1980)などに収載されている。[[#佐藤|佐藤(1991)p.97]]</ref>。ここでは、従来、古代的とのみ見なされてきた仏教勢力が[[封建領主]]の一形態として中世的な変化を遂げていく様態が重視され<ref name=matsuo19/><ref name=kenkyu/>、黒田自身の提唱した[[権門体制論]]の国家像を前提としながら、政治社会史全体のなかで仏教をとらえることで仏教史に新たな視点を提供した。家永・井上らの「旧仏教=古代仏教、新仏教=中世仏教」という図式は完全にくつがえされた<ref name=kenkyu/>。なお、国家的寺院かつ古代寺院であった[[東大寺]]が、荘園領主としての中世寺院へ生まれ変わっていく過程については、[[稲葉伸道]]、[[久野修義]]、[[永村真]]らの研究がある<ref>[[#佐藤1|佐藤(1991)pp.98-99]]</ref>。

かつて鎌倉新仏教によって克服されるべき古代的秩序とみなされた「八宗体制」は、日本中世史研究の新たな蓄積をふまえた黒田によって換骨奪胎され、「顕密体制論」として再構築された<ref name=souten97>[[#佐藤|佐藤(1991)pp.97-98]]</ref>。そして、田村によって「八宗」と総称され、新仏教によって克服の対象とされた伝統仏教の側こそがむしろ中世における正統仏教とされたのである<ref name=souten97/>。黒田による顕密体制論をまとめると、以下のようになる<ref name=matsuo19/>。

{|class="wikitable" cellspacing="0"
!項目||黒田説(顕密体制論)による説明
|-
|新仏教||法然・親鸞・日蓮・道元による異端の仏教(弾圧を受けた一握りの弟子たちの仏教も含める)。
|-
|旧仏教と旧仏教改革派||南都六宗・平安二宗は旧仏教。高弁・叡尊・栄西・一遍は旧仏教改革派。法然・親鸞・日蓮・道元らの大部分の弟子の仏教も改革派に属する。
|-
|新仏教の特色||密教の否定。世俗権力と対決したため、異端として弾圧される。
|-
|旧仏教の特色||密教化・世俗権力との癒着。中世仏教における正統。
|-
|中世仏教||変質した旧仏教(新仏教は異端で少数派)
|-
|布教対象||荘園農民
|-
|社会経済史とのかかわり||荘園制を中世的制度ととらえる。荘園領主である寺社もまた中世的である。
|-
|}

法然・親鸞の研究からはじまって黒田の顕蜜体制論をひきついだ[[平雅行]]によれば、「改革派」は祈祷を重視した戒律興行、[[王法仏法相依論]]の主張、禅律僧の諸活動([[勧進]]、交通路の整備、[[葬送]]、慈善救済事業)を特色としており、「異端派」の特色は、雑行・雑信の否定をともなう仏法の一元化、宗教的平等思想、[[一切衆生]](「穢悪の群生」)という身分思想、そして、顕蜜仏教の思想的呪縛や宗教的領主支配からの民衆の解放などの諸点である<ref name=kitai/>。平はまた、中世においても、鎮護国家と[[五穀豊穣]]を祈念する「旧仏教」は津々浦々に末寺末社のネットワークを張り巡らし、全国一斉に豊作祈願をおこなっていること、なかでも比叡山延暦寺では、天台・真言のみならず南都仏教や浄土宗・禅宗まで仏教のあらゆる教学が講じられる一方、[[和歌]]、[[儒学]]、[[農学]]、[[医学]]、[[天文学]]から[[医学]]、[[土木技術]]にいたるまでの諸学が教授されていたことを指摘し、いわゆる「旧仏教」は「中世の知識体系の結節点」でもあったと述べている<ref name=taira1>{{PDFlink|[http://www.jikkyo.co.jp/contents/download/2093579218 平雅行「中世史像の変化と鎌倉仏教(1)」(2007)]}}</ref>。いわゆる「旧仏教」はこのように、社会的にも、文化的にもきわめて大きな影響力を保持しており、平はその大きさを「中世社会を貫く文化体系」と表現している<ref name=taira1/>。それにくらべれば、いわゆる「新仏教」が同時代にあたえた影響力はほとんどなく、浄土真宗や日蓮宗、曹洞宗が社会的意味合いをもつようになるのは[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ってからである。仏教界でも[[下剋上]]の動きがおこって「異端派」の教えが爆発的に広まっていったのであった<ref name=taira1/>。

=== 「遁世僧」という視座 ===
近年、[[松尾剛次]]が、[[官僧]]および[[遁世僧]]という分析視覚を設定して、新たな鎌倉仏教論を展開している。それによれば、[[国家公務員]]的な僧侶である官僧に対し、その世界から離脱して遁世僧となった僧を祖師として個人の救済につとめた教団こそが「鎌倉新仏教」と称されるべきであり、その意味からは[[高弁]](明恵)や[[叡尊]]も何ら6宗との差異が認められないところから、「鎌倉新仏教」の[[範疇]]に含めて考えて問題ないと主張している<ref name=matsuo19/>。松尾は、上述の黒田に対して宗教史の展開は社会経済史の展開に対して自律的だとの見解を採っており、「新仏教」の呼称も中世仏教の新しさを典型的に示すという意味で用いている<ref name=matsuo19/>。松尾独自の視点をまとめると下表のようになる<ref name=matsuo19/>。

{|class="wikitable" cellspacing="0"
!項目||松尾説による説明
|-
|新仏教||法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、高弁、叡尊、[[恵鎮]]などの遁世僧を祖師とする教団の仏教。
|-
|旧仏教||官僧僧団(天皇より鎮護国家を祈る資格を認められた僧侶の集団)による仏教。
|-
|新仏教の特色||「個人」救済を第一義とする個人宗教。祖師信仰を有する。
|-
|旧仏教の特色||鎮護国家の祈祷を第一義とする共同体宗教。
|-
|中世仏教||新仏教
|-
|布教対象||[[都市]]的な場での「個人」<ref group="注釈">松尾は特に、「(親鸞)聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなり」(『歎異抄』)における親鸞の述懐を、悩める「個人」の述懐であり、阿弥陀の救済対象がまさしく「個人」であったことの証左と評価している。[[#松尾|松尾(1995)p.165]]</ref>
|-
|}

[[ファイル:Ippen Biography 3.jpg|300px|right|thumb|[[踊り念仏]]のようすが描かれた[[絵巻物]]『一遍上人絵伝』(国宝)]]
松尾によれば、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、高弁、叡尊、恵鎮らは、一遍をのぞけばすべていったんは受戒して正式な官僧となった人物であり、なおかつ、官僧集団との対抗関係や協力関係を通して、みずからの立脚すべき道を見いだしていった僧である<ref name=matsuo19/>。松尾は、「鎌倉新仏教」が一応社会的に認められるに至った鎌倉時代後半にあらわれた一遍もまた、事実としては官僧経験のなかった人物であるにかかわらず、延暦寺で学び、延暦寺戒壇で受戒したという一種の神話が『一遍上人年譜略』に記されていることから、遁世僧教団の核となった僧は、官僧から離脱して再出家した二重出家者(遁世僧)であるべきとの観念が流布していたことが裏付けられることを指摘している<ref name=matsuo19/>。そして、従来「旧仏教」にカテゴライズされていた高弁(明恵)、叡尊、恵鎮もふくめて、「新仏教」の祖師と称されるべき新しい仏教活動を開始し、在家信者を構成員とする教団を樹立したのである(松尾は、泉涌寺の[[俊芿]]、海住山寺の[[貞慶]]、三宝寺の[[大日能忍]]もその可能性が高いとしている)<ref name=matsuo19/>。さらに、これらの教団は祖師神話をもち、祖師である遁世僧を核として構成員を再生産するシステムをつくりだしているのであり<ref name=matsuo19/>、具体的には、松尾のいう「旧仏教」が国家的得度によって出家・受戒した僧によって担われ、[[法衣]]も[[律令]]の授戒制下にあって[[白色]]の[[袈裟]]を着用することが多かったのに対し、松尾のいう「新仏教」は、天皇とは無関係な独自の入門儀礼のシステムを持ち、「[[穢れ]]」や貴賤を超越した色と認識された[[黒衣]]を着るなどの違いがある<ref name=matsuo19/><ref name=matsuo50>[[#松尾|松尾(1995)pp.50-60]]</ref>。そして、着衣の色は、それを着ている僧の自己認識を象徴していたと考えられるのである<ref name=matsuo50/>。

さらに、松尾は、官僧が大きな特権を有していた反面、朝廷に仕えることによって「穢れ」を忌避しなければならず、公費によって活動するため、穢れた存在とみられた[[女|女人]]の救済<ref>[[#松尾|松尾(1995)pp.120-141]]</ref>や[[非人]]の救済<ref>[[#松尾|松尾(1995)pp.82-102]]</ref>、死穢にふれる[[葬送]]<ref>[[#松尾|松尾(1995)pp.104-118]]</ref>、諸国をめぐりさまざまな穢れにふれる可能性の高い[[勧進]]<ref>[[#松尾|松尾(1995)pp.62-79]]</ref>などの諸活動に大きな制約があったのに対し、黒い法衣を選んだ遁世僧僧団は、官僧の特権と制約を離れ、教義の母体をどこに置くかにかかわらず、あるいは、戒律を重視する・しないにかかわらず、女人救済・非人救済・葬送・勧進などの諸活動に従事することができたのであり、これこそが「新仏教」と称されるべき内実であると主張した<ref name=matsuo19/>。

=== 「新仏教」概念の脱構築 ===
平雅行は、貞慶や[[良遍 (法相宗)|良遍]]が法相宗において画期的な教義を展開したことや律宗の叡尊教団が従来とは異なる考え方にもとづいて新しい活動をおこない、担い手も異なることから、ともに「新仏教の祖」と称されてよい内実を備えている一方、日蓮のめざしたことは「天台宗の復興」であり、南北朝・室町期の日蓮宗寺院は延暦寺の[[末寺]]であって日蓮宗僧侶も多くそこで学んでいることから、「旧仏教の復興」という範疇にふくめてよいと論じたうえで、「旧仏教」と「新仏教」を分ける基準が、実は[[江戸時代]]にあったことを指摘した<ref name=taira2>{{PDFlink|[http://www.jikkyo.co.jp/contents/download/7851663520 平雅行「中世史像の変化と鎌倉仏教(2)」(2008)]}}</ref>。すなわち平は、江戸時代に独自の宗派として認可されたもののうち、中世前半の宗祖をいただいている宗派だけが従来「鎌倉新仏教」と称されてきた中身であり、そうであるならば、「新仏教」はむしろ「江戸新仏教」と呼ぶのが実態としては正確であるとして、鎌倉仏教の分類は、その内在性に即して検討されるべきだと主張している<ref name=taira2/>。
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「鎌倉仏教」概念をめぐっては、以上のように活発な議論がおこなわれてきたが、こんにちでは鎌倉仏教の変容を時間的推移のなかで探究していくこと、および、経済史および政治史との関係性のなかで鎌倉仏教の全体史を構築していくことが重要な課題となっている<ref name=kitai>[[#鍛代|鍛代(1995)pp.113-114]]</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|author=[[松尾剛次]]|year=1995|month=10|title=鎌倉新仏教の誕生|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|isbn=4-06-149273-X|ref=松尾}}
* {{Cite book|和書|author=[[網野善彦]]|year=1997|month=7|title=日本社会の歴史(中)|publisher=岩波書店|series=岩波新書|isbn=4-00-430501-2|ref=網野}}
* {{Cite book|和書|author=[[五味文彦]]|year=2000|month=1|title=日本の歴史4 武士の時代|publisher=岩波書店|series=岩波ジュニア新書|isbn=4-00-500334-6|ref=五味}}
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* {{Cite book|和書|author=[[原田正俊]]|year=2009|month=9|chapter=中世における禅宗の展開と地域社会|title=歴史と地理627|publisher=山川出版社|series=日本史の研究226||isbn=|ref=原田}}

== 関連文献 ==
*『[[日本思想大系]]15、鎌倉旧仏教』[[鎌田茂雄]]・田中久夫校注、[[岩波書店]]、初版1971年
**新装版 『続日本仏教の思想3 鎌倉旧仏教』(1995年) -原典を収む。
**新装版 『続日本仏教の思想3 鎌倉旧仏教』(1995年) -原典を収む。
* [[追塩千尋]]『中世の南都仏教』[[吉川弘文館]]、1995年1月。ISBN 4642027440
* [[田中久夫]]『鎌倉仏教』講談社&lt;[[講談社学術文庫]]&gt;、2009年11月。ISBN 4062919680


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[南都六宗]]
* [[南都六宗]]
*[[平安仏教]]
* [[平安仏教]]
*[[日本の仏教]]
* [[鎌倉文化]]
* [[日本の仏教]]
*[[十三宗五十六派]]
* [[十三宗五十六派]]
*[[鎮護国家]]
*[[遁世僧]]
* [[鎮護国家]]
* [[八宗体制論]]
* [[顕密体制論]]
* [[官僧]]
* [[遁世僧]]


== 外部リンク ==
{{Buddhism-stub}}
*{{PDFlink|[http://www.jikkyo.co.jp/contents/download/2093579218 「中世史像の変化と鎌倉仏教(1)」平雅行]}}(『じっきょう地歴・公民科資料No.65』[[実教出版]]、2007年10月)
*{{PDFlink|[http://www.jikkyo.co.jp/contents/download/7851663520 「中世史像の変化と鎌倉仏教(2)」平雅行]}}(『じっきょう地歴・公民科資料No.66』実教出版、2008年2月)
*[http://japanese-thought.seesaa.net/article/162652466.html 第七回 浄土教と鎌倉仏教の思想]
*[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1239.html 松岡正剛の千夜千冊『選択本願念仏集』法然] - [http://www.honza.jp/index.html ISIS本座]
*[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0397.html 松岡正剛の千夜千冊『歎異抄』親鸞・唯円]
*[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0988.html 松岡正剛の千夜千冊『正法眼蔵』道元]


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2011年12月31日 (土) 02:29時点における版


鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて発生した仏教変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを「鎌倉新仏教」(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する(→ 鎌倉仏教論 節)。

概要

女人救済をおこなった法然の生涯を描いた絵巻物『法然上人絵伝』(国宝

鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺はじめ南都の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、新しい宗派である浄土宗浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗が生まれた(このうち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、平安時代末期のことであるが、鎌倉仏教ないし「鎌倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律学問寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。

これに対し、「旧仏教」(南都六宗、天台宗および真言宗)側も奈良時代鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した[1]。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役割を担ったのが、官僧天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒をうけた仏僧)の制約から解き放たれた遁世僧(官僧の世界から離脱して仏道修行に努める仏僧)の存在であった[1][2]

「新仏教」6宗の概要

「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。

宗派 開祖 教義 教理の特色 主要著書 支持層 中心寺院
浄土宗 法然(源空)
1133年-1212年
絶対他力専修念仏 難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説く。 選択本願念仏集』(1198年ころ)
一枚起請文』(1212年)
京都周辺の公家、武士、庶民 知恩院京都市東山区
浄土真宗(一向宗) 親鸞
1173年-1262年
一向専修一念発起悪人正機 法然の教えをさらに進め、一念発起(一度信心をおこして念仏を唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。 教行信証』(1224年ころ)
唯円著『歎異抄
地方武士や農民、とくに下層民 東本願寺西本願寺(京都市下京区
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
1239年-1289年
全国遊行(賦算踊念仏 賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。 (『一遍上人語録』) 全国の武士・農民 清浄光寺神奈川県藤沢市
法華宗日蓮宗 日蓮
1222年-1282年
題目唱和法華経主義、四箇格言 法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、題目(「南無妙法蓮華経」)唱和により救われると説く。辻説法で布教した。 立正安国論』(1260年
開目鈔』(1272年)』
下級武士、商工業者 久遠寺(山梨県身延町)、中山法華経寺千葉県市川市
臨済宗 栄西
1141年-1215年
坐禅公案 坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。 興禅護国論』(1198年 公家、京・鎌倉の上級武士、地方有力武士 建仁寺(京都市東山区)、建長寺(神奈川県鎌倉市
曹洞宗 道元
1200年-1253年
出家第一主義、修証一如只管打坐 ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。 正法眼蔵』(1231年-1253年
懐奘著『正法眼蔵随聞記
地方の中小武士・農民 永平寺福井県永平寺町

すなわち、他力本願を旨とする浄土系諸宗(浄土宗、浄土真宗、時宗)、天台宗系の法華宗(日蓮宗)、不立文字を旨とする禅宗系の臨済宗と曹洞宗である。

鎮護国家」の思想のもと、律令国家によって保護された奈良時代南都六宗(奈良仏教)が仏教研究者集団としての性格をもち[2]、また、平安仏教においては、学問的能力を必要とした顕教にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする密教にしても、貴族仏教としての性格を免れなかったのに対して、上記の6宗は主として新たに台頭してきた武士階級や一般庶民へと広がっていった。

国風文化期に隆盛した浄土教にしても、平安時代にあっては、阿弥陀堂建立の盛行にみられるように経済力の裏づけあってのものであったが、それに対し鎌倉仏教は、概して、

  • 易行(いぎょう)…厳しい修行ではない
  • 選択(せんちゃく)…救済方法を一つ選ぶ
  • 専修(せんじゅ)…ひたすらに打ち込む

の諸特徴を有するといわれ、これらが特に念仏を重んじる浄土系の浄土宗・浄土真宗・時宗に顕著にみられる。浄土系諸門はみずからを「他力易行門」と称し、禅宗(臨済宗、曹洞宗)の実践する坐禅を「自力」のわざであり、「難行」であると批判したが、悟りに到達する方法として一つを選び、それに打ち込むあり方においては、禅宗もまた鎌倉時代に成立した他の「新仏教」諸派に共通する要素をもっていた。

12世紀からの大転換期にあって、人びとは相次ぐ戦乱と飢饉末法の世の到来を実感し、あたらしい救いを仏教に求めた。こうした要望にこたえたのが、信心や修行のあり方に着目した念仏と題目、および禅の教えであった。これらは、庶民や新興武士階級にも受容できる仏教のあり方だったのである。そして、民衆の生活に奥深く浸透していった点で、鎌倉仏教(「鎌倉新仏教」)は、大陸から伝わった仏教の「日本化」を示す現象として説明される[3]

浄土系諸宗の開宗

法然と浄土宗

法然(源空)

美作国の豪族の家に生まれた法然(1133年-1212年)は、9歳のとき、同じ荘園に住む武士の夜討ちにあって殺害された父の遺言にしたがい、その菩提をとむらうため仏門に入った[4]1147年久安3年)、比叡山延暦寺戒壇天台座主行玄を戒師として授戒を受けた[2]。当初は山門(比叡山)で皇円らのもとで天台宗の教学を学んだが、そこでの生活にあきたらず、「悟り」の仏教ではなく、「救い」の仏教を求め、黒谷別所[注釈 1]にうつり浄土教の学僧として知られた叡空に学び、「法然房源空」と号した[4][5][6]。一切経を読むこと5回におよび、その学識の高さは「知恵第一の法然房」と呼ばれるほどであった[4][7]。叡空やその師の良忍融通念仏宗の開祖)は、源信の『往生要集』に発する浄土教の教えを信奉した。しかし、浄土往生する行法としては念仏以外の諸行を認めていた。

1175年承安5年)、黒谷別所での修行をへた法然は、もっぱら阿弥陀仏の誓願を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、中国代の僧善導の著作『観無量寿経疏』に依拠して浄土宗を開いた[4][5][注釈 2]。阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)とは、阿弥陀仏がまだ「法蔵比丘」とよばれる修行者だったときに立てた48の願のことであり、また、これらの願がすべて成就しなければ仏とはならないと誓い、すべての衆生を必ず救済しようとした強い願いのことを指す。ところで、すでに法蔵比丘は十劫のむかしに悟りを開いて仏となっているのだから、願いはすべて成就されていることとなる[7]。法然は、阿弥陀仏が多くの行のなかから48を選び、さらにそのなかで最も平易な行は第十八願の念仏行なのであるから、人は、ただひたすらそのことを信じ、念仏を唱えればよいと説いたのである[7]。ここでは、顕密の修行のすべては難行・雑行としてしりぞけられ、念仏を唱える易行のみが正行とされた[5][8]。法然は浄土門以外の教えを「聖道門」と呼んで否定し、仏僧たちが口では戒律を尊びながらも実際には退廃した生活を送っている現状を批判した[4]

1186年(文治2年)、大原勝林院の丈六堂に、延暦寺の永弁・智海・証真、三論宗明遍法相宗貞慶、嵯峨往生院の念仏房、大原来迎院蓮契、それに重源ら20名をこえる学僧や300名をこす聴衆が集まり、法然の真意を聴く大原問答がおこなわれている[6]。ここで、法然は自身を「乱想の凡夫」と自己規定し、それゆえ観念ではなく称念、観仏ではなく念仏に専修できると諄々と説いていったが、これは「鎌倉仏教」の名で総称される新宗教の成立を示す歴史上の一転換点となった[6]

東山の吉水を本拠に念仏の信仰を説いた法然の教えは、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族や平重衡など上級武士、さらに一般の武士や庶民にも広まった[5][7]1189年文治5年)には兼実に授戒しており、1190年(建久元年)には東大寺大勧進職重源の求めに応じて、東大寺で浄土三部経の講説をおこなった。兼実の求めに応えて、その教義を弟子に記させた著作が『選択本願念仏集』であり、その完成は1198年(建久9年)ころと考えられる[注釈 3]。また、法然の教えは京ばかりではなく、熊谷直実宇都宮頼綱結城朝光東国の武士や農民にも広がっていった[4]

戦乱の世にあって、つねに生きるか死ぬかの生活に身を置く武士たちにとって法然の教えは新しい救いになったのみならず、荘園を支配する公家や天台宗・真言宗の寺院、神社など既存の権威や権力と対抗していくため、阿弥陀如来のみに帰依する一神教的な信仰を受け入れたのである[4]。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人救済に専念する姿勢を示した[9]

こうした専修念仏の教えは旧仏教からのはげしい反発を受けた。天台座主の慈円は、法然が称名念仏を唱え、それ以外の勤行をするなと説いたことから「愚かな尼入道」の喜ぶところとなり、無知蒙昧な者に念仏が受け容れられたのだと批判している[5]。1204年(元久元年)には、法然は国家権力による弾圧を回避しようと七箇条制戒を弟子たちに示して同意を求めた。しかし、法相宗貞慶(解脱)から批判され、南都北嶺大衆からも訴えられて、1207年建永2年・承元元年)、国家からのきびしい弾圧にさらされた(承元の法難[5]。法然は流刑地への旅の途中でも布教をつづけ、塩飽島に落ち着いたが10ヶ月あまりで許された[4]。こののち数年間摂津国にとどまり、帰京をゆるされて1211年建暦元年)に東山大谷にうつったが、翌年、同地で没した[4]。なお、華厳宗高弁(明恵)は法然死去の直後、『選択本願念仏集』批判の書である『摧邪輪』を著している。

知恩院本堂(御影堂)

浄土宗が広がった背景には、念仏という作善(善行を積むこと)をおこなうことによって救われるという、その簡便性に理由があったが、一面では、念仏が「能声(のうしょう)」とも呼ばれたように、「音芸」(音の芸能)という性格を有していたからでもあった[5][注釈 4]。また、専修念仏の教えは、浄土門のなかに念仏を唱える回数の多寡により多念義一念義の論議を生んでおり、法然自身は一念義の立場を認めながらも自身は多念であったが、後述する弟子の親鸞は一念義の立場に立った[10]

法然門下からは多くの弟子があらわれ、浄土宗の教えを広めていった。のちに浄土真宗の開祖となった親鸞もそのひとりであったが、筑前国の武士の家に生まれた弁長は、京都に出て法然門下となり、その教えを筑後国善導寺福岡県久留米市)を本拠に九州一帯に広げて「鎮西派」を立て、その弟子で石見国出身の良忠東国へ渡って熱心に布教に努めたので鎮西派は関東地方にも広まった[11]。また、京都出身の証空は法然の没後、京都西山の善峯寺を本拠として「西山派」を称した。証空は、大和国当麻寺で伝説として知られていた当麻曼荼羅を掘り出し、浄土宗の教えをそこに見いだして布教に努めた[11]

このように、浄土宗の教えは全国に広まっていったが、1227年嘉禄3年)に再び弾圧を受けた。比叡山の僧兵によって法然の墓があばかれる事件も生じたが、その一方で教義は朝廷内部へも深く食い込み、信者を獲得していった[11]。弟子の源智は、大谷の地に法然の遺骨をおさめ、法然の月命日ごとに開かれていた知恩講をもとにして、のちの浄土宗総本山知恩院を創建した[4]

親鸞と浄土真宗

親鸞

日野家出身ともいわれる親鸞(1173年-1262年)は、9歳で比叡山にのぼり、「範宴」の名をあたえられた[12]。20年近くにわたって延暦寺で学んだが悟ることができず、1201年建仁元年)、京中の庶民が信仰していた六角堂(京都市中京区)に参籠し、そこで聖徳太子の夢告によって法然の門をたたいた[11]。親鸞は師の法然に深く傾倒して「もし法然上人にだまされて、念仏によって地獄に堕ちることとなっても決して悔やまない」と誓ったといわれる[12]

1207年の承元の法難では僧の身分をうばわれて越後国に配流となったが4年後にゆるされた。すでに肉食妻帯を実行にうつしていた親鸞は、ほどなく法然の死を知るがそのまま越後にとどまった。1214年建保2年)、42歳の親鸞は妻の恵信尼と子どもたちをともない東国への布教に旅立ち、常陸国稲田の草庵を営んだ[12]

親鸞は、師の教えをさらに徹底させて稲田の地で『教行信証』の著述を開始し、絶対他力を唱え、阿弥陀仏を信じる心さえあればよく(信心為本)、信じることによって往生が決定(けつじょう)し(信心決定)、また、おかしたを自覚する煩悩の深い者(悪人)こそ、むしろが救おうとする人間であるという悪人正機説を説いて、東国の武士や農民に受けいれられた[11]

親鸞における徹底した絶対他力の姿勢は、願力回向の説によくあらわれている。念仏者である自己が、阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)第十八願に示された「浄土に生まれたいと信じ願う心」に成りきることは、法然にあっては念仏者がまずもって備えておかなければならない条件とされていたが、親鸞にあっては、それすらも阿弥陀仏の側からすでに回向されているとし、信ずる心さえも含めて極楽往生に必要な条件はすべて阿弥陀仏の願力によってすでに実現されていると説く[13]。したがって、ここで唱える念仏は「行」でも「作善」でもなく、そうした性質を失って、純粋に感謝の意味で唱える報恩念仏となる[13]。これは、一種、天台本覚思想に通じる考え方である[13]

悪人正機説は、弟子の唯円の著した『歎異抄』の一節「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」で著名であるが、これは、法然にしたがって念仏行をおこなっていた親鸞が、みずからをかえりみて第十八願に示されるような純粋な心さえ持てない罪業深い人間であると自覚したところに端を発したと考えられる[13]。「自力作善の人」すなわち「善人」は換言すれば不信心の人なのであり、それに対して、自分の罪深さを自覚し、ひたすら仏の慈悲にすがらざるを得ない人にこそ、むしろ真実の救済がひらかれていると親鸞は主張した[13]。自力の作善をなしうる「善人」が救済されるのであるならば、生業として殺生などを営まざるをえないような「悪人」がいかにして救われないことがあろうか、「悪人」こそはむしろ「弥陀の本願」の正因を宿しているのではないかと親鸞は考えたのである[8]。また、親鸞は阿弥陀仏の前では、誰もが平等なのであり、師もなければ弟子もないとして同じ信仰に立つ人びとを御同朋御同行と呼んだ[12]。こうした親鸞における思想の深化は、常陸国にうつった親鸞が、そこでみた寛喜の大飢饉1230年-1231年)の惨憺たる光景に遭遇したことと深くかかわっているとの指摘がある[8]。なお、『歎異抄』については、室町時代に現れて浄土真宗(一向宗)の布教に尽力した蓮如が、歎異抄の教えは真宗にとっては大切な聖教であるので、宿世の善根もなく仏法に真摯に取り組む気のない者に対してはむやみに読ませるべきものではないという趣旨の奥書をしたためている[14]

東本願寺の御影堂門

1231年(寛喜3年)以降、親鸞は末娘の覚信尼をともない京都へ帰った。帰京後の生活は貧窮していたが、親鸞は極楽往生した者は再び現世にあらわれて人びとを救うという還相回向を説き、『教行信証』を完成させ、さらに、東国にのこした同朋のために和讃をつくった[12]。親鸞はこののち、1256年康元元年)、東国にあって念仏に呪術をもちこんだ長男の善鸞と義絶し、最晩年には、すべての事物は仏の誓いのままに姿かたちや是非善悪を超越して絶対真理として現われるとして、自力のはからいをすべて捨てて仏法にしたがうという自然法爾(じねんほうに)の境地に達した[12]。90歳で没した親鸞は、みずからの生涯をかえりみて罪業深き一生であったとし、「遺体は灰にして賀茂川に捨てよ」と遺言した[12]

呪術的な救済を超えて来世への純化された信仰を説く親鸞の教えはのちに浄土真宗と呼ばれる教団をかたちづくることとなり、1272年文永9年)には大谷御影堂が建立された[8]。御影堂は、覚信尼の再婚相手である小野宮禅念の所有地だったところに建てられ、1321年元亨元年)には大谷本願寺と改称された。「本願寺」の名称は1332年元弘2年)に鎌倉将軍守邦親王から、その翌年には後醍醐天皇の皇子護良親王から、それぞれ令旨をえたものである[15]

承元の法難と信仰の自由

1207年、法然ひきいる吉水教団が延暦寺・興福寺によって指弾され、後鳥羽上皇によって、専修念仏の停止、および法然の門弟のうち安楽房遵西住蓮房ら4人の死罪、さらに、法然自身と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処せられ、法然は土佐国(のち讃岐国)に、親鸞は越後国に流された。75歳の法然は僧の身分を剥奪されて「藤井元彦」という俗名をつけられたが、「たとえ死罪となっても念仏は停止しない。辺鄙な土地で田夫野人に念仏を勧めることができるのはむしろ朝恩というべきだ」と語ったといわれる[4]。34歳であった親鸞は、老いた師と別れ、「藤井善信」の俗名で流罪となったが、越後国府で「愚禿(ぐとく)」あるいは単に「禿(とく)」と称し、非僧非俗(僧でも俗人でもない、ただ一個の人間)の立場を打ち出し、終生これを貫いた[12]。親鸞はここで、朝廷に対し「信仰の自由」を主張し、弾圧に対する抗議の意を表明しているが、これは日本思想史上、画期的なできごとと評価される[9]

一遍と時宗

一遍

鎌倉時代中期に「遊行上人」と呼ばれた一遍(1239年-1289年)は、伊予国の豪族河野氏の出身といわれる[16][注釈 5]。10歳のとき母を亡くし、1250年建長2年)に太宰府近くの原山にいた浄土宗西山派の僧聖達のもとで出家した[2]。聖達の紹介により、肥前国清水に住む華台という高僧に師事して浄土宗の教学を学び、智真の名をあたえられたが、1263年弘長3年)にいったんは還俗して妻をめとって仏に仕える在俗生活を送った。しかし、所領に絡む事件に巻き込まれたことを契機として輪廻の業を断とうと再出家を決意、信濃国善光寺に参詣した[2][16]。その後、再び伊予にもどり、修行を重ねて遊行の生活に入り、西国各地の霊場をめぐって参籠した[16]

1274年文永11年)ころ、智真は高野山を経て熊野で100日間の参籠をしたとき、その満願の日に熊野権現神託を受けたといわれる[16]。そのことばは四句から成り、「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」という(げ)のかたちになっていた。これは、各句のかしら文字が「六十万人」となることから「六十万人の偈」と呼称されている[16]

神託により念仏信仰をさらに深めた智真は、神託中の語より「一遍」を自称して、空也を先師とあおいで古代以来の念仏聖の活動を受けついだ。以後15年にわたり、北は陸奥国江刺から南は薩摩国大隅国にいたる諸国をくまなく遊行回国した。

時宗では、日常を「臨命終時」すなわち、毎日の生活を臨終の「時」と受けとめて念仏を唱える生き方を説く[16]。一遍は、各地で「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と刷られた算(紙札)を配り、信仰の縁をむすんだ人びとの名を勧進帳に書き記した[16]。この布教活動を賦算(ふさん)といい、記帳した人びとは誰でも救済の対象となった。

これはやがて、身分の上下や貴賤の別、有智・無智の別や男女の別、穢れの有無、また善人・悪人の区別、さらには信心の有無をさえ問うことなく、万人は阿弥陀仏によって救われるという教えとなり、1279年弘安2年)以降、その喜びと感謝の思いは念仏によってあらわされるべきだと説いて信濃佐久郡の小田切の里で踊念仏をはじめた[16]。一遍は、十劫以前に正覚を得て如来となった阿弥陀仏と、その阿弥陀仏を信ずる一念で浄土に往生することのできる衆生とは根本において同一であると説き、「となふれば仏もわれもなかりけり。南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と歌っている(『一遍上人語録』)[17]。このように、一遍の浄土信仰には、天台宗の本覚思想との密接な関係がうかがわれる[17]

清浄光寺(遊行寺)本堂

時宗は、その場に居合わせた人がつくる集団という意味で当初は「時衆」と表記された。一遍は、寺をつくらず、生前に自らの著作を全部焼いてしまったが、死後、弟子たちが『一遍上人語録』としてその教義をまとめた。一遍の布教で勧進帳に名を記した人は25万人を超えたといわれる[16]

時宗の教えは踊念仏や、古来の神々への信仰を取り込んだ教義を通じて民衆や武士に広められた。遊行回国には、高弟の聖戒や尼僧の超一がしたがっており、そのようすは絵巻物『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』に活き活きと描写されている[16]。この詞書は聖戒によって書かれており、絵は法眼絵師円伊によって描かれたものである[16]

一遍没後、他阿弥陀仏(真教)があらわれ、遍歴をつづけながら時衆をまとめていった。その後、他阿弥陀仏の直系(遊行派)と奥谷派、六条派、四条派、一向派など他の諸派[注釈 6]のあいだに様々な確執や緊張をともないながら、時宗の教団が確立されていった。こうした状況は、一遍や他阿弥陀仏同様、当時は各地を遍歴する聖が多数いて、みずからの教えをひろめていた事実を反映している[15]。時宗の本山は、1325年正中2年)に呑海のひらいた神奈川県藤沢市清浄光寺である。

法華宗とその広がり

日蓮と法華宗

日蓮

一遍の活躍と同じころ、古くからの法華信仰をもとに、新しい救いの道をひらいたのが日蓮(1222年-1282年)である。日蓮は安房国長狭郡東条郷の生まれで、のちに「旃陀羅(せんだら)が子」「片海の石中の賎民が子」と記している[18][注釈 7]

日蓮は、はじめ地元安房の天台宗清澄寺千葉県鴨川市)に少童として入り、16歳で僧となり蓮長と名乗った[18]。「日本一の智者になりたい」と願った日蓮は、はじめ鎌倉で学び、ついで京都・比叡山・南都をめぐって天台教学のみならず密教や浄土教、禅の教えも学んだといわれる[18]。当時の天台宗の僧は、園城寺門徒を除けば延暦寺戒壇授戒を受けることとなっていたので、日蓮も受戒したものと推定される[2]。浄土教の著しい発展のなか、当時の比叡山は哲学的・神秘主義的な天台本覚思想がさかんで、その教義をもって念仏など新興の仏教運動に対する弾圧をくりかえしたが、日蓮は、天台教学のなかに広まりつつあった浄土教との妥協に反発し、新しい法華信仰をもって浄土系と対抗し、末法の世において人びとを救う天台復興を決意した[18]。日蓮は、法華経(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとして選び、「南無妙法蓮華経」という題目をとなえること(唱題)を重視した。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する[18]

1253年(建長5年)、日蓮は安房に帰り、清澄山の旭の森で題目を10回唱えて立教開宗を宣言した[18]。翌年鎌倉にうつり、名越の地に庵をむすんだが、このころの鎌倉では大火洪水地震が相次ぎ、疫病もしばしば流行した。1259年正元元年)には飢饉が全国に広がった[18]。日蓮は、これら打ちつづく天変地異は末法の到来を示すものであり、邪教(専修念仏の教え)のために、正しい法である法華経が見失われてきたためであるとして、1260年文応元年)、幕府が法華経にもとづく政治をおこなうよう求める『立正安国論』を著し、執権北条時頼の側近に提出した[18]。このまま「邪教」を放置すれば、経典に記された三災七難のうち、まだ起こっていない「自界叛逆難」(反乱)と「他国侵逼難」(外国から侵略をうける災難)も必ず起こるであろうと訴えたのである[19]。日蓮と弟子たちは幕府に期待をかけ、公衆の面前での法論を望んだが、日蓮の行動は念仏者たちの怒りを買い、草庵は焼き討ちされた(松葉ヶ谷法難)。この法難は、『立正安国論』を時頼に建白した約1ヶ月後のことであり、襲撃の背後には幕府の有力者やそれにつらなる仏僧がいたと考えられており、幕府による迫害のなかでも最大のものであった[注釈 8]。日蓮はこののち、一時下総国に避難したが再び鎌倉にもどり、幕府によって2年余り伊豆国に配流された。

ゆるされて故郷にもどった日蓮は再び鎌倉で活動した。権力に屈せず、辻説法によって法華経への帰依をうったえ、鎌倉の諸寺に宗論をいどんで、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言で他宗を激しく攻撃しながら、国難の到来を予言した。かれのひらいた法華宗日蓮宗)は関東の武士層や商工業者を中心に広まっていったが、折りしも1268年(文永5年)にはからの国書が幕府に届き、日蓮は『立正安国論』で指摘した「他国侵逼難」の予言が的中したとして、執権北条時宗に対し、念仏、禅を退けて国難への対策を知っているみずからを国師として用いるよううったえた[18]。また、時宗、平頼綱蘭渓道隆極楽寺忍性(良観)などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫った。日蓮の教えには「旧仏教」的な要素が多くふくまれ、「われ日本の柱とならん」と述べて、法華信仰に依拠しなければ国が滅ぶと鎌倉幕府にせまったのも鎮護国家の思想のなごりを示す現象といえる[9]

久遠寺本堂

1271年(文永8年)、日蓮は幕府や他宗を批判したとして佐渡国に配流された。この時期の日蓮は自身が末法の世に法華経をひろめる上行菩薩であるとの自覚に達し、『開目鈔』(1272年)を著すなど独自の教義を展開させた[20]1274年(文永11年)、日蓮はゆるされて鎌倉にもどったが、ほどなく日蓮に深く帰依した甲斐国地頭波木井実長により寄進された身延山にうつり、久遠寺(山梨県身延町)をひらいた。久遠寺には、天台宗の下級僧出身者など数十人の弟子が集まり、武士、地主、農民、職人などの帰依者が増加していった[20]

日蓮は、1276年建治2年)の『妙密上人御消息』のなかで自身が「無戒の僧」で牛や馬のごとき者であるとし、そのような自分が法華経の行によって救われたとしている。佐渡配流以降(「佐後」)の日蓮の思想は、佐渡配流以前(「佐前」)の外向的な姿勢にくらべ内面的性格が強められており、自己を人間以下の者、無戒で罪深き者とする謙虚な姿勢には親鸞の悪人正機に通じる要素も認められる[19]。日蓮は、また『本尊問答抄』のなかで自身を「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』では「海辺の旃陀羅が子なり」などと書き記しており、自分の信仰は、この時代に虐げられていた底辺の人びとの救済を強い動機としていることを表明しているのである。

法華本門の教え

法華宗の広がりの背景には、それに先だつ持経経典への信仰)の伝統があった[21]。それは、写経や埋経、暗誦(あんじゅ)などのかたちでおこなわれていたが、厳島神社への『平家納経』や、「法華の持者」と称されて常に法華経を暗誦していた後白河法皇、やはり「法華八幡の持者」と称された源頼朝など権力者にも広くみられた信仰のあり方であった[21]。また、平安時代末期に陸奥国宮城郡松島にあって12年間法華経を読誦した見仏のように、鳥羽法皇から仏像や器物をおくられ、法華の行者として広く世に知られた僧もいた[22]

法華経はまた、元来は天台宗の理論の根拠をなすものとして重視されてきた経典であり、平安時代初期の最澄に始まる天台宗は「天台法華宗」とも称されてきたが、日蓮はその伝統を受けつぎながらも、かれ独自の法華宗、すなわち日蓮宗をはじめたのである[19]

日蓮自筆といわれる十界曼荼羅(鎌倉・妙本寺蔵)

日蓮の教えは、法華経を唯一の正法とし、時間空間を超越した絶対の真理とするものであり、他の教義や信仰は否定される[20]。題目は真理そのものであり、そのまま全宇宙をあらわす曼荼羅であるとされ、日蓮は中央に題目を記して周囲に諸仏・諸神の名を配した法華曼荼羅(文字曼荼羅)を本尊(本門の本尊)とした。また、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた[20]。すなわち、「教」(教え)にはおいては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質・能力)においては、末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経なのであり、「時」では、現在は末法であることから法華経が正法とされ、「国」では、大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのは法華経であり、「序」(順序)では、最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした[20]

さらに日蓮は、天台教学を迹門(しゃくもん)の法華経であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁的・観念的なあり方を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的な行としての唱題を唱えた[20][注釈 9]。とくに「佐後」は、法華経の呪力に依存するのではなく、法華経に説かれた精神を実践する者、すなわち「法華経の行者」としての自覚が深まっていった[19]。日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないとも説いている。かれは、仏法王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張した[20]。また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむると考え、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った[20]

「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」や「国」を掲げるあり方から、こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる[20]

禅宗の広がりと幕府による保護

禅宗の広まりと日本達磨宗

インド達磨大師(ボーディダルマ)に発し、坐禅を組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教えは、宋の上流階級のあいだにひろまっていた。禅そのものは日本には奈良時代にすでに伝わっていたが、宋での禅宗の隆盛により平安末期以降あらためて注目されるようになった。栄西より少し前にあらわれた大日房能忍(生没年不詳)は、摂津国水田(大阪府吹田市)に三宝寺を建立し、日本で最も早く禅宗をうちたてようとした僧であった。能忍の活動は当時の社会に大きな影響をあたえたが、かれのひらいた日本達磨宗は、多くの人びとに教義を広める過程で中心を失ってしまった[23]

しかし、後述する栄西や道元の登場によって、禅宗は急速に広がっていった。阿弥陀仏への絶対的な救いを求める浄土門の他力の教えに対し、自力で往生を悟ろうとする禅宗の教えは自力で問題解決を図る武士の時代の風潮とも合致していた[24]

栄西と臨済宗

栄西

備中国吉備津神社神官の家に生まれた栄西(1141年-1215年)は、1154年久寿元年)に比叡山で出家得度したのち、 2度にわたって宋(南宋)へ渡った。1度目は、天台教学を学ぶため1168年仁安3年)に天台山万年寺を訪れたが、そこはすでに禅の寺院に変わっていた。栄西は禅に魅力を感じたが、同時期に宋に留学していた念仏僧重源の勧めで短期間で帰国し、『天台章疎』60巻を天台座主に献じた[25]1187年文治3年)、栄西は再び渡宋し、足かけ5年、天台山と天童山(ともに中国浙江省)で臨済禅を学び、虚庵壊敞より嗣法を受けて、帰国後の1191年建久2年)に臨済宗をひらいた[2][25]。当初は聖福寺をひらいた博多香椎平戸など九州各地で布教して臨済禅の紹介に努めていたが、やがて京にもどり、禅こそが末法における正しい教えだとして、禅による天台復興を唱えた[25]。しかし、建久5年(1194年7月5日日本達磨宗大日房能忍らの摂津国三宝寺の教団とともに禅宗停止の宣下が下されている[25][26]

筑前国筥崎(福岡市東区)の良弁という人物が[注釈 10]九州において禅に入門する人びとが増えたことを延暦寺講徒に訴え、栄西による禅の弘通を停止するよう朝廷にも働きかけたためであり、建久6年には関白九条兼実が栄西を京に呼び出し、大舎人頭の職にあった白河仲資に「禅とは何か」を聴聞させ、大納言葉室宗頼に対してはその傍聴の任にあたらせている[26]

栄西はこうした動きに対し、遅くとも1198年建久9年)には、「大いなる哉。心や」ではじまる『興禅護国論』を著し、戒律がすべての仏法の基礎であり、禅は戒を基本とすること、また、禅宗が従来の仏教と根本的に対立するものではないこと、王法を仏法の上において禅を興して国を護り、もって王法鎮護となすことは最澄のひらいた天台宗の教義と何ら変わらないとして反論した[24]。この書は、九州で著されたと考えられ、禅に対する誤解を解き、禅の主旨を明らかにしようとしたものであった[27]

延暦寺は止観の行と法華経を絶対の権威としており、栄西や上述した法然の教えはそれに違背するものとして、特に京洛の地でかれらの思想が広まることに対してこれを怖れ、徹底的に弾圧を加えようとしたのである[28][注釈 11]。栄西は、これに対し、法然よりはやや妥協的な方法を選んだ[28]。自分の意見が京都では容易に受け容れられないと判断し、1199年正治元年)には鎌倉に下って北条政子や将軍源頼家に禅の教えを説き、その帰依を受けたのである[24]

建仁寺法堂

臨済禅は、看話禅(かんなぜん)とも称され、坐禅をくむなかで、師から与えられる禅問答公案)に答えることで、悟りの境地に達しようという教えであり、京の公卿の文化に対抗心をいだく武士層から新しい教学として迎えられ、歴代の北条氏もこれを保護した[25]。とはいえ、必ずしも禅宗への帰依が栄西を引き立てたのではなかった[24]1200年正治2年)に北条政子の後援で鎌倉に建てた寿福寺も、1202年建仁2年)に将軍頼家の保護により開かれ、のちに臨済宗総本山となる京都の建仁寺も、当初は臨済禅のみの寺院ではなかった[24]

栄西がめざしたのは、顕教密教に禅を加え、禅を柱にして仏教を総合しようということであり、かれ自身は禅僧であると同時に密教僧でもあった[8]。生涯を天台僧として生きた栄西は、大陸の新しい文化や京の文化を伝える僧として鎌倉幕府に認められたのであり、喫茶の風習もその一環として広まったものである[24]1211年(建暦元年)ころに将軍源実朝に献上した『喫茶養生記』は茶の効能を説いた著作であった。

宋で最新の学術文化を学習した栄西は、中国の建築技術等にも通じており、重源をたすけて東大寺の再建に尽くし、重源亡きあとの東大寺大勧進職となった。栄西はまた、1213年建保元年)には鎌倉幕府の後援もあって権僧正という僧綱(僧官)になっているが、遁世僧の身でありながら権僧正に任じられるのはきわめて例外的なことであった[2][注釈 12]。慈円や道元は栄西が僧正や大師号宣下をみずから運動していることを批判しているが、幕府要人が栄西に帰依したことによって、禅宗はやがて京都へも広まっていった[24]

頂相「蘭渓道隆像」

栄西没後も中国の臨済禅との交流は活発であり、渡宋した僧や来日した宋・元の禅僧の活躍によって広まっていった。渡宋した円爾(聖一国師、1202年-1280年))は、帰国後、九条道家の帰依で京都に東福寺を建て、その弟子無関普門1212年-1292年)は亀山上皇の帰依で南禅寺をひらいた。こうして臨済禅は、王朝国家たる朝廷の保護するところとなった。当初は外来宗教的な要素が濃厚であった臨済宗も、南浦紹明1235年-1309年)などの活動により、しだいに独自の発展の道をあゆむこととなった[29]。南浦紹明の弟子の宗峰妙超(大燈国師、1282年-1338年)は大徳寺、その弟子関山慧玄1277年-1361年)は妙心寺を開創した。鎌倉末期には「七朝帝師」となった夢窓疎石1275年-1351年)があらわれている。

鎌倉では、宋から来日した渡来僧蘭渓道隆1213年-1278年)が執権北条時頼からの深い帰依を得て建長寺を建て[注釈 13]、息子北条時宗は宋から無学祖元1226年-1286年)をまねいて参禅し、円覚寺を建てて初代住持とした。時宗の子北条貞時は元出身の渡来僧一山一寧に帰依した。こうして臨済宗は、一方では、王朝国家からは独立した東国国家をめざす鎌倉幕府の保護するところとなったのである[8]

一山の門下からは最初の日本仏教史といえる『元亨釈書』を著した虎関師錬1278年-1346年)、五山文学最盛期の中心をになった雪村友梅1290年-1347年)があらわれた。竺仙梵僊1292年-1348年)は1329年元徳元年)に渡来した中国僧で、一山一寧同様、日本の禅宗文化を創始した一人と見なされる[30]。以上掲げた人物以外にも大陸からはたくさんの禅僧が渡来し、いわば「渡来僧の世紀」とも呼ぶべき文化状況が生まれた[注釈 14][注釈 15]

道元と曹洞宗

道元

曹洞宗の開祖である道元(1200年-1253年)は、内大臣であった土御門通親(久我通親)の子息として京に生まれた[注釈 16]。道元も幼少にして父母を失い世の無常を感じて仏門に入った人物であり、13歳のとき比叡山で出家して天台教学を学んだ[31]。仏法をきわめるために中国で禅を学ぶことを勧められ、栄西の建てた建仁寺の明全に師事し、1223年(貞応2年)明全とともに渡宋して足かけ5年間禅を学び、最後に天童山の如浄に師事して、ついに悟りの境地(「身心脱落」)の境地に達して、如浄の印可を受けた[24][32]。曹洞禅は黙照禅(もくしょうぜん)ともいい、公案中心の臨済禅に対し、ひたすら禅に打ち込むことによって内面の自在な境地を体得しようというものである[31]

上述のように、禅宗は一般に外来宗教の要素が強いともいわれるが、道元の思想についてはしばしば独創性が豊かあると評される[29]。道元が比叡山を離れた時、かれの念頭にあった疑問とは「人が本来、仏であるのならば、どうしてさらに発心修行して悟りを求める必要があるのか」ということであった[32]。すなわち、天台本覚思想に対する根本的な疑問であり、それをどう乗り越えるかということであった[32]。また、宋に渡って船が寧波の港に着き、積み荷のシイタケを買いに来た老僧との対話も、その後の道元の思想形成に強い影響をあたえることとなった。その老僧は、近くの育王山で炊事係をつとめているとのことであり、道元が「どうして、尊年(御高齢)でありながら、坐禅して、禅僧のことばを手がかりに考えるということをなさらず、炊事係のようなわずらわしい雑用に従事しておられるのですか。それが何のお役に立つのですか」と話しかけたところ、「外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざるあり」と答えた、つまり、あなた(道元)は、書籍に記してあることの本当の意味が分かっていないと「大笑」されたのである。これは、坐禅や勉学にくらべて炊事などの日常的な用務は低級ないし無意味と考えていた道元にとっては大きな衝撃であった[32]。これは、後述する修証一如の思想に大きな影響をあたえることとなる。

道元は、時を経るにつれて仏法が失われていくとする末法思想は、かりそめの教えであり真の教えではないと否定した。そして自力による修行をすすめたが、これは天台本覚の教えで説くところの「人はみな仏性(悟りを得る力)を備えている」からこそ可能だという考えにもとづいている。

1227年安貞元年)に帰国した道元は、建仁寺で正しい坐禅を説いた『普歓坐禅儀』を著し、禅こそが釈迦より伝えられた正法であると説いたため、延暦寺の僧たちの迫害対象となった[24][31]。道元は、1230年寛喜2年)建仁寺を去って深草(京都市伏見区)にのがれて『正法眼蔵』の著作を開始、1234年文暦元年)、山城国宇治興聖宝林禅寺を建て、坐禅修行を求める人びとの道場とした[31]。道元は、代のきびしい禅を追求したところから「古仏道元」と呼ばれた[31]

永平寺:階段状の回廊

道元は、不立文字を唱え、理論にとらわれず、一切を捨ててただひたすら坐禅に打ちこむことによってありのままの自己が現れ、身心脱落して悟りにいたる只管打坐を唱えた。これが正法禅である。道元は加持祈祷も念仏行を否定して正法禅の運動をつづけたが、それは従来の仏教における贅肉をいっさい削ぎおとす主張でもあったため、延暦寺からの迫害は年を追うごとにいっそう激化した[33]。道元は、貴族の子として生まれた人物ではあったが、世俗的な権勢をいっさい拒否し、六波羅探題の武士であった波多野義重の招きに応じて1243年寛元元年)越前国志比荘に向かい、永平寺[注釈 17]で坐禅中心のきびしい修行と弟子の育成に努めた[24][31]

和文で記された道元の主著『正法眼蔵』は、その存在論や時間論、言語論が現代においても注目されている[注釈 18][注釈 19]。また、その含蓄深い内容はもとより、言葉づかいや文体その他表現の上でも日本語による宗教的・哲学的論述の最高峰のひとつといわれる[32][33]。道元は『正法眼蔵』冒頭「現成公按」巻において、「仏道をならふといふは自己をならふ也、自己をならふといふは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と説いている[32]。すなわち、仏の道を学ぶということは自己を知るということであり、自己を知るということは自己へのとらわれを取り除くことであり、自己にとらわれなければ現実のすべてが明らかになり、現実のすべてが明らかになれば身心脱落(悟り)に達し、自身と他者との区別もおのずから無くなるというような意味であり、さらに、世俗の一切を捨てて、生活のすべてを修行とすることこそ、悟りであると教え、自己放下(じこほうげ)を強調して、煩悩や迷いのもととなる自己意識をうち捨てて本来の自己や真実の自己のあり方にめざめるべきことを説いている[32]。栄西が新しい国家仏教を指向したのに対し、道元は、あくまでも普遍的な思想としての仏教を追い求め、如浄の教えにしたがって政治権力から離れた。世俗化した当時の仏教については臨済禅もふくめて根本からこれを批判している。これは、仏陀本来の精神に立ち帰ることの提唱であり、その点では、道元の思想もまた仏教の純化を指向するものであった[8][31]

道元ならではの思想として「修証一如」がある。修証一如とは、「修証一等」とも称し、『正法眼蔵』の巻首「弁道話」のなかで説かれ、「修」すなわち修行と「証」すなわち悟りとは同じ一つのものであって、修行に終わりはなく、また、悟りにも始まりはないというという考え方である[32]。したがって、そこにおける坐禅(只管打坐)は、悟るための修行ではなく、すでに悟ったうえでの修行なのだから、たとえば、それが初心者の学問修行であっても、そこには完全な悟りが実現されているとみる。すなわち、道元の説くところにおいては、坐禅は、悟りを得るための手段にとどまらない[32]。坐禅して無心の境地にあるとき、人はすでに覚者すなわち仏陀なのであって、坐禅は仏としての行為(仏行)となる。ただし、仏であるという事実に安住するのではなく、仏であるからこそ、無限の修行を続けていかなくてはならないと理解される[32]。そこから敷衍するならば、生活のすべてが修行なのであり、修行となるような生活をこそ送らなければならない。

孤高の思想家である道元自身には元来一つの宗をおこす意思はなかったと思われるが、永平寺につどった道元の弟子たちは教団化に努めた[31]。永平寺の2代貫主となった孤雲懐奘は道元の教えを『正法眼蔵随聞記』として記し、懐奘の弟子で鎌倉時代末期にあらわれた瑩山紹瑾は、越前国加賀国能登国など北陸道を基盤として曹洞宗教団を打ち立てた[31]。坐禅の修行そのものが悟りであるという修証一如(修証一等)の教えはしだいに地方武士のあいだに広まっていった[注釈 20]

なお、この時代の遁世僧は、禅宗のみならず律宗や時宗などもふくめ、一般に顕密諸宗の官僧にくらべて諸国間を移動することが多かった。特に禅宗の場合は各地に「旦過」と称する宿泊施設を設けて僧の逗留に資している[34]

旧仏教の刷新

信仰と実践を重んじる新仏教があいついで生まれ、武士や庶民に急速に浸透していったものの、社会的勢力としては南都六宗や天台宗・真言宗などの勢力(旧仏教)が、依然として大きな力を保っていた。特に山門(天台宗)は大勢力を保ち、権門勢力と結んでしばしば新仏教に弾圧を加えた(権門体制)。しかし、新仏教の活発な活動に刺激をうけて、旧仏教内部でも現状の反省と革新への気運が盛り上がってきた。なお、新仏教各宗派が実際に社会を動かすような力を持つようになるのは室町時代から戦国時代にかけてのことである。

宗派 僧侶 おもな事跡
法相宗 貞慶(解脱)
1155年-1213年
興福寺の僧の堕落をきらって笠置山に隠棲、戒律の護持・普及につとめ、法然専修念仏を攻撃した。
華厳宗 高弁(明恵)
1173年-1232年
京都の栂尾に高山寺を開いた。戒律を重視し、『摧邪輪』を著して法然を批判した。
律宗 俊芿(我禅)
1166年-1227年
渡宋して戒律を学び、京都に泉涌寺をひらいて台・密・禅・律兼学の道場とした。真言宗泉涌寺派の祖といわれる。
叡尊(思円)
1201年-1290年
大和の西大寺を復興し、戒律の護持・普及や民衆の教化につとめた。架橋や道路建設などの社会事業も熱心におこなった。
忍性(良観)
1217年-1303年
叡尊の弟子で鎌倉に極楽寺をひらいた。病人や貧民救済につとめ、奈良に救らい施設北山十八間戸を設営した。
凝然(示観)
1240年-1321年
学問即行の立場で仏教史はじめ多数の著述をおこない、華厳、戒律の宣揚に努めた。特に『八宗綱要』は日本仏教史上重要である。
真言宗 覚鑁(正覚)
1095年-1143年
諸流細分した真言宗の修行を大成し、大伝法院流を創唱して、新義真言宗の祖といわれた。
天台宗 恵鎮(円観)
1281年-1356年
叡尊らの活動に刺激を受けて戒律「復興」運動をおこす。後醍醐天皇の討幕運動に参画、『太平記』編集の責任者でもあった。

法相宗

京都に生まれ、法相宗中興の祖といわれる解脱房貞慶(1155年-1213年)は、南都の興福寺にはいって叔父にあたる覚憲に師事して法相教学と律を学んだが、1193年建久4年)、僧侶の堕落をきらって、荘園領主のひとつとして世俗勢力化した興福寺を出て、弥勒信仰によりながら南山城山中の笠置寺に隠遁し、海住山寺の再興に尽力した。戒律の復興につとめた貞慶は、1205年元久2年)に浄土宗を批判する『興福寺奏状』をあらわし、これは上述の法然弾圧の契機をつくることとなった。1208年承元2年)、貞慶は再興された海住山寺にうつっている。

海住山寺五重塔は、貞慶の弟子覚真が師の一周忌供養に建立したものであり、国宝に指定されている。

華厳宗

明恵上人樹上坐禅図(国宝)

華厳宗中興の祖といわれる高弁(1173年-1232年)は、紀伊国平重国の子として生まれ、明恵上人の名で知られる[2]。高弁は後鳥羽上皇北条泰時から帰依をうけた[注釈 21]

1188年(文治4年)、高弁は上覚を師として出家し、東大寺戒壇で受戒した[2]。東大寺の尊勝院で華厳教学を学んだが、21歳のときに国家的法会への参加要請を拒んだのち、東大寺を出て遁世した。1206年(建永元年)、高弁は、後鳥羽上皇の院宣により京都北郊の栂尾高山寺をひらき、法然の専修念仏に反論する『摧邪輪』をあらわした。かれは、仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、生涯にわたり戒律の「復興」を身をもって実践した[8][注釈 22]

なお、高弁は栄西より種子を譲られたことから、栂尾はのちに茶の名産地となっている。

律宗

戒律を重んじる律宗では我禅坊俊芿(1166年-1227年)が南宋からの帰国後、京都に泉涌寺[注釈 23]を再興し、天台・真言・禅・律兼学の道場とした。俊芿の律は、唐招提寺や西大寺を中心とする奈良の律(南京律)に対し、北京律といわれた[35]。また、宋学(朱子学)を日本に伝えたのも彼であるという。

律宗中興の祖といわれる思円房叡尊(1201年-1290年)は、興福寺の僧を父として現在の奈良県大和郡山市に生まれた[2]1217年建保5年)、17歳で京都山科の醍醐寺で出家し、同年中に東大寺戒壇で受戒した[2]1236年嘉禎2年)、興福寺の覚盛らとともに東大寺法華堂観音菩薩の前で自誓受戒し、単にみずからの悟りをめざすのみならず、他人も救済しようとする菩薩僧になることを誓った[2]。叡尊は大和国西大寺を再興し、殺生を悪としてきびしく禁じて戒律「復興」に努める一方、道路の修復や架橋、非人をはじめとして貧民・病者の救済など社会事業に力を尽くし、民衆の教化に努めた[36][注釈 24]。叡尊の教団にあっては、厳しい戒律を守ることこそが多様な救済活動の原点になっていたのであり、民衆に対しては、分に応じた戒律の護持を勧め、戒律を守れば、その呪術力によって願いがかなうと説いている[37]。叡尊は1262年(弘長2年)、金沢実時や三村寺にいた弟子の忍性の招きにより鎌倉を訪れ、実時や新しく執権となった北条時宗に授戒した。叡尊による直接の受戒者は出家者で1,694人、在家者6万人余におよぶと伝えられる[35][38][注釈 25]。叡尊は、南都北嶺で受戒した官僧に対し、新たに西大寺と唐招提寺に戒壇を設け、遁世僧にも授戒の道をひらき、鎌倉時代の社会に大きな影響をあたえた[36]。朝廷・幕府の権力者から最底辺の民衆にまで厚い支持を集めた叡尊はまた、元寇に際して敵国調伏の祈祷を石清水八幡宮でおこなったことでも知られる。

国の史跡北山十八間戸(奈良県奈良市)
忍性(良観)の設立による救らい施設
国宝「絹本著色文殊渡海図」(13世紀)、醍醐寺

良観房忍性(1217年-1303年)は、16歳で母を失い官僧となったが、1239年延応元年)、23歳で叡尊の西大寺再建に勧進聖として加わったことを契機として、叡尊に師事した。1240年仁治元年)ころ、忍性は叡尊とともに西大寺を拠点として大和国内の宿々に文殊菩薩の図像を掲げて供養をおこない、住人に施物(せもつ)をあたえているが、このような慈善はそののちもしばしば繰り返された[39]。師と同様、社会事業に尽力した忍性は、1243年寛元元年)、奈良にハンセン病患者を救済するための施設として北山十八間戸を設立し、その経営にあたった。忍性は、1252年(建長4年)、東国に下り、常陸国三村寺(つくば市)に住み、その後、鎌倉に入って北条業時らの保護を受け、1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺を再興してそこを拠点に律宗復興のため尽力した。極楽寺境内には病宿・らい宿・薬湯室・療病院・坂下馬療屋などの施設が整えられた[39]。また、和賀江島の修築や極楽寺坂切通しの開削など鎌倉で港湾の整備や道路整備などの土木事業にたずさわった[40]。同時期に鎌倉で活躍していた日蓮からは「律国賊」と論争を挑まれたことがある。鎌倉はじめ各地に悲田院を設立した忍性は、とくに非人救済に尽力したが、それがことのほか重視されたのは、文殊菩薩信仰によるものである。文殊菩薩が貧窮・孤独・苦悩の姿に変わって人びとの前面にあらわれるという経文が信じられていたからであった[39]。忍性はまた、重源・栄西とならび、東大寺大勧進職となった遁世僧であった[40][注釈 26]

他に律宗出身の学僧としては、円照1221年-1277年)とその弟子凝然1240年-1321年)がいる。特に凝然は、華厳経にも通じ、インド・中国・日本にまたがる仏教史を研究してその編述をおこない、日本仏教の包括的理解を追究して多くの著作をのこした[41]。凝然の著した『八宗綱要』は日本仏教史上重要な文献である[注釈 27]

真言宗

高野山では平安末期に正覚坊覚鑁(1095年-1143年)があらわれて、山内に大伝法院をつくり、民衆への布教につとめたが、金剛峯寺と対立して紀伊国の根来に退いて円明寺(根来寺)を建てた[35]。かれは、諸流細分した真言宗の修行方法を大成し、大伝法院流を創唱した。その後、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で抗争が長くつづいた。

鎌倉時代中期にあらわれた俊音房頼瑜1226年-1304年)は、大伝法院をさかんにしたが、金剛峯寺側が大伝法院に圧迫をくわえたため、1286年(弘安9年)、頼瑜は大伝法院を根来円明寺にうつして高野山から分かれ、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて新義真言宗がひらかれた[35][注釈 28]

天台宗

近江に生まれた円観房恵鎮(1281年―1356年)は、1295年永仁3年)に延暦寺で出家・受戒し、官僧名としては伊予房道政の名を付けられた[2]1303年嘉元元年)、いったん遁世して禅僧となったが、翌年には黒谷にもどり、1305年(嘉元3年)ころ、師の興円にしたがって再び遁世し、以後、師に協力して円戒(天台宗の戒律)護持を主張した。この戒律復興運動は南都の叡尊らの活動に影響を受けたものである[2]。恵鎮は、東大寺の大勧進となったり、法勝寺の復興に尽力するなど重要な役割をにない、『太平記』編纂の責任者も務めた[2]後醍醐天皇の討幕計画に参画し、文観とともに北条氏を呪咀したため、一時、陸奥国に配流されている。建武新政が倒れたのちは足利尊氏の帰依を受け、建武式目の制定にかかわったといわれる。恵鎮は、円戒に関する多くの著作をのこしている。

「旧仏教」諸派と「新仏教」の関係

このように、「旧仏教」は戒律の「復興」を掲げて、国家からの自立と非人などの社会的弱者や女人もふくんだ個人の救済に努めたが、「新仏教」とりわけ念仏に対する対抗意識も強く、これを排撃する側に加わることもあった。上述した承元元年の弾圧はそのことにより引き起こされたものであった。

そのいっぽう、華厳宗の高弁(明恵)は三時三宝礼により「南無三宝後生たすけさせたまえ」と唱えるだけで成仏できると説き、法相宗の貞慶は唯心の念仏をひろめるなど、表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、これによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとした[9]

教学の面では、いわゆる「旧仏教」の側で「新仏教」に刺激されて集大成の気運が高まった。貞慶や高弁、また三論宗明遍はじめ超人的な学僧が多数あらわれ、日本独特の教学を成立させた[41]。また、東大寺の宗性は数々の僧伝を集成して日本仏教史を考察しようと努め、華厳教学を宗性に学んだ上述の凝然もまた仏教史を編述した[41]

鎌倉仏教と天台本覚思想との関連については、鎌倉仏教が本覚思想を否定することによって成立したという見方がこんにちの仏教学界では大勢をしめている[42]。しかし、 鎌倉仏教を天台本覚思想の発展とする考え方も従来から存在しており、島地大等宇井伯寿らすぐれた仏教学者によっても唱えられている。とくに島地は、「日本には『哲学』がない」と説いた中江兆民に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている[42]。上述した親鸞の願力回向の説や一遍の思想などは本覚思想との連続性がみてとれる[17][42]。日本思想史を専門とする尾藤正英は、日蓮の思想や道元の思想にも、本覚思想の実践化・具体化の要素があると指摘している[19][29]

鎌倉仏教論

「新仏教」・「旧仏教」概念の提唱

鎌倉仏教を「旧仏教」「新仏教」と呼んで区分する考え方自体は近代以降に成立した比較的新しいとらえ方である。この語が最初に用いられたのは、日本仏教史研究の先駆者とされる村上専精明治時代に発行した『日本仏教史綱』(1898年-1899年)であり、「新仏教」という表現には高弁(明恵)以下のいわゆる「旧仏教」側の改革の動きをも含めて解説し、こうした動きに加わらなかった既存寺院を「従来仏教」「古宗」と表記している。

大正時代に入ってから、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗をもって既存宗派と区別する見解が登場した。大正から昭和にかけては辻善之助が「旧宗」「新宗」と分類し、続いて大谷大学大屋徳城が今日のような「旧仏教」「新仏教」の区分を用いて以降、この呼称が定着した。この6宗を「鎌倉新仏教」と称する見解は、戦後にもひきつがれ、家永三郎井上光貞らをはじめとして長い間通説となっていたものであるが、ここでは、選択・専修・易行を特徴として広く武士や庶民に信仰の門戸を開いたことが重視される。

一方、前掲したように、奈良仏教や平安仏教、いわゆる「旧仏教」と称されるなかにも「新仏教」6宗に触発されて新しい動きが生まれた。具体的には、華厳宗の高弁(明恵)や凝然、法相宗の貞慶(解脱)、真言宗の覚鑁、後世「真言律宗」と称される教団を開いて広く社会事業を展開した叡尊と弟子の忍性などの仏教活動である。これらについては単純に「旧仏教」と称してよいのかという疑問が提起された。特に、叡尊・忍性の真言律宗は「新仏教」と称すべき要素を持つのではないのかという指摘がなされた。

「真言律宗」の扱い

松尾剛次は、鎌倉新仏教の最も重要な要素を「国家からの自立」と「個人の救済」ととらえ、この2つがあって初めて貴族仏教から脱却して民衆仏教としての鎌倉新仏教が成立したとする立場に立っている[2]。そこで、「真言律宗」(正確には、江戸時代初期に「真言律宗」として開宗される教団。以下、括弧書きで表記する)と称される教団がどの新仏教宗派よりも先に国家公認の戒壇に代わる独自の戒壇を樹立して、独自の授戒を開始し、社会事業を通じて非人などの社会的弱者を救済し、あるいはこれまで国家から授戒を拒否されてきた女性()への授戒を認めるなど、個人の救済を通じて社会に対する布教を行った事実を指摘した[43]。そして、「鎌倉新仏教」と称されてきた6宗が天台宗を母体としていたように、「真言律宗」は律宗真言宗に基礎を置きながらも、寺院外で活動する遁世僧を組織し、民衆救済を目的として活発な活動をおこなうなど、実態としては新仏教そのものであるとして、「真言律宗」教団を鎌倉新仏教の1つとする説を唱えた[2][注釈 29]。また、蓑輪顕量追塩千尋なども、その立脚する立場はそれぞれ異なるものの、「真言律宗」を鎌倉新仏教としてとらえなおしている。

これに対して、「真言律宗」は薬師寺西大寺や諸国の国分寺などの南都仏教の寺院およびその系列の寺院をそのまま継承しており、奈良時代行基などと同様、南都仏教における既成体制内での動きにすぎないとする見解もある。

家永・井上説

上述した、家永三郎・井上光貞の見解は、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗を「鎌倉新仏教」とし、ここでは、選択専修易行(反戒律)・在家主義・悪人往生などを特徴として、広く新興武士層や庶民などに対し信仰の門戸が開かれ、階層身分を超越したあらゆる人びとの救済が掲げられたことが重視されており、多数の研究者の圧倒的な支持を得て定説化されたものである[44]

鎌倉仏教の研究史に画期をもたらすことになった家永の研究には1947年(昭和22年)の『中世仏教思想史研究』収載の一連の論文があり、浄土教についてさらに深く追究し、克明かつ実証的な研究によって家永説をささえることとなった井上の理論的著作としては1956年(昭和31年)の『日本浄土教成立史の研究』がある[44]

八宗体制論と顕蜜体制論

1969年(昭和44年)に日本仏教史研究者の田村圓澄によって初めて提唱された八宗体制論は、法然より始まる鎌倉新仏教の成立を、それ以前の貴族的・祈祷的な鎮護国家的な古代仏教に対し、個人の救済を主眼とする民衆仏教の成立として把握する家永・井上らによって唱えられた知見をベースとしており、1970年代以降の日本仏教史研究に影響をあたえた[44]。田村は論文「鎌倉仏教の歴史的評価」において、『興福寺奏状』中の「八宗同心の訴訟」(伝統仏教八宗が心をひとつにしての訴え)の文言に注目し、八宗(南都六宗および平安二宗)がそのように同心して法然とその教えを排撃しようとする背景には、法然の教義から自分自身のもつ特権を防衛しようとする伝統仏教側の意図があったとみなし、そうした共通の利害にもとづく仏教界の古代的な秩序を「八宗体制」と名づけたのである[45]

なお、家永・井上の研究によって定説化され、田村圓澄の八宗体制論にひきつがれる通説をまとめると下表のようになる[2]

項目 家永・井上・田村らの定説による説明
新仏教 法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍をそれぞれ祖師とする教団の仏教。
旧仏教と旧仏教改革派 八宗(南都六宗・平安二宗)は旧仏教。華厳宗の高弁(明恵)・律宗の叡尊は旧仏教のなかの改革派。    
新仏教の特色 選択・専修・易行。民衆救済の仏教。
旧仏教の特色 兼学・雑信仰・戒律重視。国家仏教・貴族仏教。
中世仏教 新仏教
布教対象 武士・農民・都市民
社会経済史とのかかわり 荘園制を古代的制度ととらえる。荘園領主である寺社もまた古代的である。

八宗体制論を軸とする田村の見解は、それまで混乱と分裂のイメージでとらえられがちであったいわゆる「旧仏教」の側にも、共通の利害に由来した一定の秩序があったことを指摘した点が従来説とは異なっており、これはやがて次の段階における鎌倉仏教研究にあって大きな課題として浮上していった[44]。すなわち、中世社会において伝統仏教がたがいに共存する体制をどうとらえるかが問題になったのである。

こうしたなか、従来、思想史と宗門史によって進められてきた鎌倉仏教研究を宗教史への総合的な統一のなかで扱うことを提言した黒田俊雄1975年(昭和50年)、『日本中世の国家と宗教』などにおいて、「新仏教」「旧仏教」という分析概念ではなく、「正統派」「改革派」「異端派」の分析概念を採用した[46]。そして、鎌倉時代にあっても南都六宗や天台宗・真言宗は「顕密主義」という共通の基盤を有しており、むしろ密教化を進めてきた「旧仏教」の方こそが主流であったという「顕密体制論」を唱え、これら主流派の寺社勢力に対する異端として法然・親鸞・日蓮・道元らを位置づけ、一方、高弁叡尊らを改革者と位置づけた[2][47][48][注釈 30]。ここでは、従来、古代的とのみ見なされてきた仏教勢力が封建領主の一形態として中世的な変化を遂げていく様態が重視され[2][48]、黒田自身の提唱した権門体制論の国家像を前提としながら、政治社会史全体のなかで仏教をとらえることで仏教史に新たな視点を提供した。家永・井上らの「旧仏教=古代仏教、新仏教=中世仏教」という図式は完全にくつがえされた[48]。なお、国家的寺院かつ古代寺院であった東大寺が、荘園領主としての中世寺院へ生まれ変わっていく過程については、稲葉伸道久野修義永村真らの研究がある[49]

かつて鎌倉新仏教によって克服されるべき古代的秩序とみなされた「八宗体制」は、日本中世史研究の新たな蓄積をふまえた黒田によって換骨奪胎され、「顕密体制論」として再構築された[50]。そして、田村によって「八宗」と総称され、新仏教によって克服の対象とされた伝統仏教の側こそがむしろ中世における正統仏教とされたのである[50]。黒田による顕密体制論をまとめると、以下のようになる[2]

項目 黒田説(顕密体制論)による説明
新仏教 法然・親鸞・日蓮・道元による異端の仏教(弾圧を受けた一握りの弟子たちの仏教も含める)。
旧仏教と旧仏教改革派 南都六宗・平安二宗は旧仏教。高弁・叡尊・栄西・一遍は旧仏教改革派。法然・親鸞・日蓮・道元らの大部分の弟子の仏教も改革派に属する。
新仏教の特色 密教の否定。世俗権力と対決したため、異端として弾圧される。
旧仏教の特色 密教化・世俗権力との癒着。中世仏教における正統。
中世仏教 変質した旧仏教(新仏教は異端で少数派)
布教対象 荘園農民
社会経済史とのかかわり 荘園制を中世的制度ととらえる。荘園領主である寺社もまた中世的である。

法然・親鸞の研究からはじまって黒田の顕蜜体制論をひきついだ平雅行によれば、「改革派」は祈祷を重視した戒律興行、王法仏法相依論の主張、禅律僧の諸活動(勧進、交通路の整備、葬送、慈善救済事業)を特色としており、「異端派」の特色は、雑行・雑信の否定をともなう仏法の一元化、宗教的平等思想、一切衆生(「穢悪の群生」)という身分思想、そして、顕蜜仏教の思想的呪縛や宗教的領主支配からの民衆の解放などの諸点である[46]。平はまた、中世においても、鎮護国家と五穀豊穣を祈念する「旧仏教」は津々浦々に末寺末社のネットワークを張り巡らし、全国一斉に豊作祈願をおこなっていること、なかでも比叡山延暦寺では、天台・真言のみならず南都仏教や浄土宗・禅宗まで仏教のあらゆる教学が講じられる一方、和歌儒学農学医学天文学から医学土木技術にいたるまでの諸学が教授されていたことを指摘し、いわゆる「旧仏教」は「中世の知識体系の結節点」でもあったと述べている[51]。いわゆる「旧仏教」はこのように、社会的にも、文化的にもきわめて大きな影響力を保持しており、平はその大きさを「中世社会を貫く文化体系」と表現している[51]。それにくらべれば、いわゆる「新仏教」が同時代にあたえた影響力はほとんどなく、浄土真宗や日蓮宗、曹洞宗が社会的意味合いをもつようになるのは戦国時代に入ってからである。仏教界でも下剋上の動きがおこって「異端派」の教えが爆発的に広まっていったのであった[51]

「遁世僧」という視座

近年、松尾剛次が、官僧および遁世僧という分析視覚を設定して、新たな鎌倉仏教論を展開している。それによれば、国家公務員的な僧侶である官僧に対し、その世界から離脱して遁世僧となった僧を祖師として個人の救済につとめた教団こそが「鎌倉新仏教」と称されるべきであり、その意味からは高弁(明恵)や叡尊も何ら6宗との差異が認められないところから、「鎌倉新仏教」の範疇に含めて考えて問題ないと主張している[2]。松尾は、上述の黒田に対して宗教史の展開は社会経済史の展開に対して自律的だとの見解を採っており、「新仏教」の呼称も中世仏教の新しさを典型的に示すという意味で用いている[2]。松尾独自の視点をまとめると下表のようになる[2]

項目 松尾説による説明
新仏教 法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、高弁、叡尊、恵鎮などの遁世僧を祖師とする教団の仏教。
旧仏教 官僧僧団(天皇より鎮護国家を祈る資格を認められた僧侶の集団)による仏教。
新仏教の特色 「個人」救済を第一義とする個人宗教。祖師信仰を有する。
旧仏教の特色 鎮護国家の祈祷を第一義とする共同体宗教。
中世仏教 新仏教
布教対象 都市的な場での「個人」[注釈 31]
踊り念仏のようすが描かれた絵巻物『一遍上人絵伝』(国宝)

松尾によれば、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、高弁、叡尊、恵鎮らは、一遍をのぞけばすべていったんは受戒して正式な官僧となった人物であり、なおかつ、官僧集団との対抗関係や協力関係を通して、みずからの立脚すべき道を見いだしていった僧である[2]。松尾は、「鎌倉新仏教」が一応社会的に認められるに至った鎌倉時代後半にあらわれた一遍もまた、事実としては官僧経験のなかった人物であるにかかわらず、延暦寺で学び、延暦寺戒壇で受戒したという一種の神話が『一遍上人年譜略』に記されていることから、遁世僧教団の核となった僧は、官僧から離脱して再出家した二重出家者(遁世僧)であるべきとの観念が流布していたことが裏付けられることを指摘している[2]。そして、従来「旧仏教」にカテゴライズされていた高弁(明恵)、叡尊、恵鎮もふくめて、「新仏教」の祖師と称されるべき新しい仏教活動を開始し、在家信者を構成員とする教団を樹立したのである(松尾は、泉涌寺の俊芿、海住山寺の貞慶、三宝寺の大日能忍もその可能性が高いとしている)[2]。さらに、これらの教団は祖師神話をもち、祖師である遁世僧を核として構成員を再生産するシステムをつくりだしているのであり[2]、具体的には、松尾のいう「旧仏教」が国家的得度によって出家・受戒した僧によって担われ、法衣律令の授戒制下にあって白色袈裟を着用することが多かったのに対し、松尾のいう「新仏教」は、天皇とは無関係な独自の入門儀礼のシステムを持ち、「穢れ」や貴賤を超越した色と認識された黒衣を着るなどの違いがある[2][52]。そして、着衣の色は、それを着ている僧の自己認識を象徴していたと考えられるのである[52]

さらに、松尾は、官僧が大きな特権を有していた反面、朝廷に仕えることによって「穢れ」を忌避しなければならず、公費によって活動するため、穢れた存在とみられた女人の救済[53]非人の救済[54]、死穢にふれる葬送[55]、諸国をめぐりさまざまな穢れにふれる可能性の高い勧進[56]などの諸活動に大きな制約があったのに対し、黒い法衣を選んだ遁世僧僧団は、官僧の特権と制約を離れ、教義の母体をどこに置くかにかかわらず、あるいは、戒律を重視する・しないにかかわらず、女人救済・非人救済・葬送・勧進などの諸活動に従事することができたのであり、これこそが「新仏教」と称されるべき内実であると主張した[2]

「新仏教」概念の脱構築 

平雅行は、貞慶や良遍が法相宗において画期的な教義を展開したことや律宗の叡尊教団が従来とは異なる考え方にもとづいて新しい活動をおこない、担い手も異なることから、ともに「新仏教の祖」と称されてよい内実を備えている一方、日蓮のめざしたことは「天台宗の復興」であり、南北朝・室町期の日蓮宗寺院は延暦寺の末寺であって日蓮宗僧侶も多くそこで学んでいることから、「旧仏教の復興」という範疇にふくめてよいと論じたうえで、「旧仏教」と「新仏教」を分ける基準が、実は江戸時代にあったことを指摘した[57]。すなわち平は、江戸時代に独自の宗派として認可されたもののうち、中世前半の宗祖をいただいている宗派だけが従来「鎌倉新仏教」と称されてきた中身であり、そうであるならば、「新仏教」はむしろ「江戸新仏教」と呼ぶのが実態としては正確であるとして、鎌倉仏教の分類は、その内在性に即して検討されるべきだと主張している[57]


「鎌倉仏教」概念をめぐっては、以上のように活発な議論がおこなわれてきたが、こんにちでは鎌倉仏教の変容を時間的推移のなかで探究していくこと、および、経済史および政治史との関係性のなかで鎌倉仏教の全体史を構築していくことが重要な課題となっている[46]

脚注

注釈

  1. ^ 黒谷別所は、比叡山の山中にあっても本寺である延暦寺とは別組織であり、官僧から離脱したの住む場所であった。いわば、官寺と俗界の境界的な場であるといえる。松尾(1995)p.30
  2. ^ 浄土宗開宗(法然回心)の時期をもっと後のこととする説もみられる。井上光貞は1190年「三部経釈」著述以前のある時期、赤松俊秀は1175年以降、福井康順は1204年以降など。
  3. ^ 『法然上人行状絵図』などでは実際に執筆にあたったのは安楽房遵西や真観房感西などであった。松岡正剛の千夜千冊『選択本願念仏集』
  4. ^ 虎関師錬『元亨釈書』では「能読」「能声」「能説」を総称して「音芸」と記している。
  5. ^ 現在、愛媛県松山市道後の宝厳寺門前に「一遍上人御誕生旧蹟」の碑が立っている。
  6. ^ 遊行派もふくめのちに時宗12派とよばれる。黒田(1979)p.226
  7. ^ 「旃陀羅(せんだら)」は、インドの最下層のヴァルナよりさらに下位に位置する被差別民「チャンダーラ」を漢音訳したものである。村上(1981)p.98村上重良は、そこから日蓮の出自を寺院の隷属民の出身だったと推定しているが、入間田宣夫は荘官クラスの子弟、尾藤正英は一般庶民の出身、松尾剛次は漁師の子としている。村上(1981)p.98入間田(1991)p.294尾藤(2000)p.106松尾(1995)p.33
  8. ^ 1271年(文永8年)に片瀬(神奈川県藤沢市)の龍ノ口でひそかに斬殺されようとした日蓮が天の御加護により助かったという龍ノ口法難は、後世に創作された伝説と考えられている。村上(1981)p.101
  9. ^ 「一念三千」とは、一瞬の思念のなかに三千世界の実相をみるという意味である。尾藤(2000)p.109
  10. ^ 奈良時代の華厳宗の僧良弁とは別の人物である。
  11. ^ 比叡山延暦寺の立場と日蓮の立場とは相違がみられるものの、両者は、禅に対する攻撃については、禅宗が止観・法華を排除ないし軽視していることを理由とする点で共通している。それに対し、栄西は建仁寺に禅のほか真言・止観の両業をおいている。多賀(1965)pp.94-95
  12. ^ 無住沙石集』(1283年成立)では栄西が権僧正に任じられたことを、「遁世の身でありながら僧正になったのは、遁世僧は非人のように蔑まれていたので、いわば遁世僧の地位の向上のために僧正になったのだ」と弁護している。松尾(1995)p.33
  13. ^ 建長寺2世の兀庵普寧(1197年-1276年)も宋からの渡来僧であるが、時頼死後は支持者を失って帰国した。鎌倉事典(1992)
  14. ^ 1240年代から14世紀なかばまでの約100年間で30名ほどの中国からの渡来僧、200名以上の渡海僧が確認されている。村井(2004)pp.67-69
  15. ^ 中世における禅林は多民族的な世界から成り立っており、さかんに文化交流がおこなわれて「アジアの国際社会」を創出していた。村井(2004)pp.83-86
  16. ^ 道元の妹の生んだ子が土御門天皇であり、承久の乱に連坐して配流された三上皇の一人である。ただし、乱には無関係でみずから土佐国に赴いた。
  17. ^ 永平寺は、1244年(寛元2年)に建てられた大仏寺が起源であり、その2年後、中国に仏教が伝わったとされる後漢の元号永平にちなみ、また、戦乱の世を倦いて「永久平和」を願ったところから改称された。
  18. ^ 『正法眼蔵』の書名は、真理を見通す知恵の眼(正法眼)によって悟られた秘蔵の法を意味している。村上(1981)p.97
  19. ^ 時間論については、75巻本中第20巻「有時」が「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」の一節とともに知られており、マルティン・ハイデッガーアンリ・ベルクソンの時間論に匹敵する時間哲学と評される。松岡正剛の千夜千冊『正法眼蔵』
  20. ^ 社会の上層階級と結ぶ臨済宗と庶民に広まった曹洞宗とを対照させて「臨済将軍、曹洞土民」の語も生まれている。村上(1981)p.98
  21. ^ 承久の乱で幕府方大将として京にのぼり初代六波羅探題長官となった北条泰時は高弁と出会っており、執権就任後にかれの定めた『御成敗式目』の理念は高弁の思想から強い影響を受けたといわれる。
  22. ^ 松尾剛次は、高弁(明恵)を祖師とする教団を「新義華厳教団」と呼んでいる。松尾(1995)p.37
  23. ^ 現在では真言宗の寺であるが、江戸時代にあっては「御寺」と呼ばれ、歴代天皇の墓、月輪陵があった。
  24. ^ 松尾剛次は、叡尊を祖師とする教団を「新義律宗教団」と呼んでいる。松尾(1995)p.38
  25. ^ 叡尊が授戒した人数にくらべて親鸞の直弟子は75人であり、鎌倉時代にあっては親鸞の教団は決して代表的な教団とはいえなかった。松尾(1995)p.180
  26. ^ 東大寺大勧進職には、1181年養和元年)から1527年大永7年)まで、中断をはさみ46人が任じられているが、鶴岡八幡宮別当をつとめた第6代大勧進の定親をのぞくとすべて遁世僧であった。松尾(1995)p.70
  27. ^ 『八宗綱要』における「八宗」とは、法相宗倶舎宗三論宗成実宗華厳宗律宗の南都六宗および天台宗真言宗の平安二宗のことである。
  28. ^ 真言宗の流れからは、性崇拝を中心とする左道密教の真言立川流が鎌倉時代にあらわれた。武蔵国立川(東京都立川市)の陰陽師集団から形成されていったもので南北朝時代まで隆盛をみたが、他の真言宗諸派からきびしい弾圧を受けたため、室町時代には衰微した。村上(1981)pp.107-108
  29. ^ 叡尊は、戒律と密教(真言宗)を二本柱としてとらえ、両者を「日月のごとし」(戒律が太陽であるなら密教は月である)と論じて、両者不可分であることを説いている。松尾(1995)p.159
  30. ^ 黒田による「顕密体制」の議論は、『日本中世の国家と宗教』のほか「中世寺社勢力論」(1975)『寺社勢力』(1980)などに収載されている。佐藤(1991)p.97
  31. ^ 松尾は特に、「(親鸞)聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなり」(『歎異抄』)における親鸞の述懐を、悩める「個人」の述懐であり、阿弥陀の救済対象がまさしく「個人」であったことの証左と評価している。松尾(1995)p.165

出典

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参考文献

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関連文献

関連項目

外部リンク