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'''大本事件'''(おおもとじけん)は、[[大日本帝国]]において[[大本]]の宗教活動に対して、[[日本の警察]]が行った[[宗教弾圧]]。'''大本弾圧事件'''とも。
'''大本事件'''(おおもとじけん)は、[[大日本帝国]]において[[大本]]の宗教活動に対して、[[日本の警察]]が行った[[宗教弾圧]]。'''大本弾圧事件'''とも。{{和暦|1921}}に起こった第一次大本事件と、{{和暦|1935}}に起こった第二次大本事件の2つがある。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本は壊滅的打撃を受けた
[[1921年]](大正10年)に起こった第一次大本事件と、[[1935年]](昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある。


== 概要 ==
==第一次大本事件==
大本事件は国家権力による宗教団体への統制と弾圧であり<ref>[[#宗教の昭和史]]19頁</ref>、一種の[[国策捜査]]であった<ref>[[#大本襲撃]]65頁</ref>。同時に[[国家神道]]と[[新宗教]]の神話体系・歴史観の対立という側面も強い<ref>[[#神々の目覚め]]250.260頁、[[#宗教の昭和史]]49頁</ref>。第二次大本事件は第一次大本事件にくらべて遥かに大規模であり、また昭和史に与えた影響も大きいが、その評価は現代でも定まっていない<ref>[[#宗教の昭和史]]21頁、[[#大本襲撃]]242頁</ref>。大本聖師/二代教主輔[[出口王仁三郎]]についての解釈が難しいからである<ref>[[#宗教の昭和史]]33頁、[[#大本襲撃]]311-312頁</ref>。二度とも王仁三郎逮捕の後に大本の建造物は破壊され、信者の中から分派(第一次事件では[[生長の家]]、[[世界救世教]]など・第二次事件では[[三五教]]など)が独立した。

== 第一次大本事件 ==
=== 背景 ===
[[ファイル:Oomoto-Kyo 写真通信1921-10月号-60.jpg|thumb|250px|警察によって破壊される大本の神殿<br/>(京都府[[綾部市|綾部]] 1921年10月20日)]]
[[ファイル:Oomoto-Kyo 写真通信1921-10月号-60.jpg|thumb|250px|警察によって破壊される大本の神殿<br/>(京都府[[綾部市|綾部]] 1921年10月20日)]]
第一次大本事件による検挙の数年前から大本は教勢を拡大させていた。[[1919年]](大正8年)には[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]を買収し、従前の[[綾部市|綾部]]に並ぶ本拠地とする準備に入った。また[[1920年]](大正9年)大阪の有力新聞だった[[大正日日新聞]]を買収して言論活動にも進出する。しかし一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・[[浅野和三郎]]を中心とする一派が独走し、社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する向きあった。
第一次大本事件による検挙の数年前から大本は[[出口王仁三郎]]二代教主輔を中核として教勢を拡大させていた。{{和暦|1919}}11月18日には[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]([[明智光秀]]の居城)を買収し、従前の[[綾部市|綾部]]に並ぶ本拠地とする準備に入った<ref>[[#新宗教創始者伝]]144頁、[[#予言・確言]]224-225頁</ref>。また{{和暦|1920}}8月17日に大阪の有力新聞だった[[大正日日新聞]]を買収して言論活動にも進出する<ref>[[#新宗教創始者伝]]147-148頁、[[#予言・確言]]226-227頁</ref>。一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・[[浅野和三郎]]や[[谷口雅春]]を中心とする一派が王仁三郎と対立、[[終末論]]を展開ていた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]133頁[[#新宗教創始者伝]]145頁</ref>。社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する大手メディア現れ<ref>[[#新宗教創始者伝]]147頁</ref>
また、右翼団体の資金源となっているとの疑いももたれはじめていた。


日本政府は陸・海軍の幹部軍人が多数入信したことで、大本に警戒感を抱いた<ref>[[#大本襲撃]]122頁</ref>。そもそも大本は[[国常立尊]]という[[天照大神]]より上位の神を重要視しており、[[現人神]]たる[[天皇]]の宗教的権威を脅かしかねなかったのである<ref>[[#宗教の昭和史]]37頁</ref>。内務省は一部の著作を発禁処分とし、京都府警も王仁三郎を呼び出して予言をしないよう警告した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]146頁、[[#大本襲撃]]125-126頁</ref>。[[原敬]]総理大臣は1920年10月9日と14日の日記で大本の布教方法と教勢について批判した<ref>[[#大本襲撃]]128-129頁</ref>。
[[1921年]]([[大正]]10年)2月12日、[[不敬罪]]と[[新聞紙法]]違反の疑いで、[[出口王仁三郎]]と教団幹部を検挙。王仁三郎は126日間の未決生活の後で保釈されたが、綾部の本宮山神殿は破壊された。


=== 裁判 ===
[[1924年]](大正13年)2月、出口王仁三郎は責付出獄中に[[植芝盛平]]をはじめ日本人6人とともに[[モンゴル]]地方へ行き、盧占魁(ろせんかい・[[馬賊]]の頭領)とともに活動する。同年6月パインタラにて[[張作霖]]により危機もあったが、7月に帰国している
{{和暦|1921}}[[2月12日]]、当局は[[不敬罪]]と[[新聞紙法]]違反の疑いで、[[出口王仁三郎]]と教団幹部を検挙<ref>[[#新宗教創始者伝]]149頁、[[#大本襲撃]]129頁</ref>。メディアも事件を「国体を危うくする大本教の大陰謀」「淫祀邪教」「悪魔の如き王仁三郎」と扇情的に報道し、世論を煽った<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]147頁、[[#新宗教創始者伝]]150頁</ref>。一方、大本二代教主・出口澄は「これもみな神様のお仕組でございます。かえって大本教の真相が世間に知れるのであろうと喜んでおりますので」と大阪毎日新聞に語る<ref>[[#予言・確言]]230頁</ref>。教団内部でも王仁三郎夫妻を追放しようとする動きがあったが、澄は動じなかった<ref>[[#宗教の昭和史]]55頁</ref>。王仁三郎は126日間の未決生活の後で保釈されたが、当局は開祖[[出口なお|出口直]]の墓の改修を要求、さらに綾部の本宮山神殿は破壊するなどの干渉を行った<ref>[[#新宗教創始者伝]]151頁</ref>。同年9月16日に審理開始、10月5日の第一審判決では、王仁三郎は不敬罪と新聞紙法違反で懲役5年、浅野は不敬罪で懲役10ヶ月、吉田祐定に禁固三ヶ月の判決が下った<ref>[[#新宗教創始者伝]]152頁、[[#大本襲撃]]131頁</ref>。審理は事実上2日間という異例の短さであり大本側は即日控訴、検察側も浅野の量刑を不服として控訴した<ref>[[#予言・確言]]230頁</ref>。


{{和暦|1924}}2月、出口王仁三郎は責付出獄中に[[植芝盛平]]をはじめ日本人6人とともに[[モンゴル]]地方へ行き、盧占魁(ろせんかい・[[馬賊]]の頭領)とともに活動する<ref>[[#神々の目覚め]]247頁、[[#新宗教創始者伝]]161頁</ref>。同年6月パインタラにて[[張作霖]]により危機もあったが、7月25日に帰国、11月1日に保釈された<ref>[[#新宗教創始者伝]]165-16頁</ref>
裁判は[[大審院]]まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、[[控訴院]]へ差し戻した。再審理中の[[1926年]](大正15年)12月25日、[[大正天皇]]が崩御し、[[1927年]][[昭和]]2年)免訴となる


=== 幕切れ ===
なお王仁三郎は保釈の後、秋頃から『[[霊界物語]]』の口述を始めている。また、この事件を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後[[浅野和三郎]]は[[心霊科学研究会]]を、[[谷口雅春]]は[[生長の家]]を興している。
裁判は[[大審院]]まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、[[控訴院]]へ差し戻した。再審理中の[[1926年]](大正15年)12月25日、[[大正天皇]]が崩御し、{{和暦|1927}}5月17日に免訴となる<ref>[[#新宗教創始者伝]]152頁</ref>。だが当局は大本に対する警戒を緩めず、次の機会を伺っていた<ref>[[#新宗教創始者伝]]184頁</ref>


なお王仁三郎は第一審判決直後から『[[霊界物語]]』の口述を始めている<ref>[[#新宗教創始者伝]]153頁、[[#予言・確言]]231頁</ref>。教団内の教義争い・派閥争いを自らの権威で克服しようとする意図と解釈する研究者もいる<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]149頁</ref>。第一次大本事件と『霊界物語』の教義化を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後[[浅野和三郎]]は[[心霊科学研究会]]を、[[谷口雅春]]は[[生長の家]]を興した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]150頁、[[#予言・確言]]236-237頁</ref>。この第一次大本事件は、王仁三郎と対立する浅野達を大本から排除すると同時に、大本の名前を全国に宣伝するための方策だったという解釈もある<ref>[[#予言・確言]]310-311頁</ref>。1920年代半ば、大本は事件の影響を脱した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]159頁</ref>。
==第二次大本事件==
第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎は[[エスペラント]]の導入・[[ラマ教]]との提携など様々な活動を展開する。その一方で、[[頭山満]]・[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]ら[[右翼]]人士との交流を行い、[[昭和神聖会]]を結成して軍事教練などを施したり、[[三月事件]]では自ら資金や人員の提供を申し出るなど、「[[昭和維新]]」の実現のために急進的な行動を取るようになっていった。


== 第二次大本事件 ==
[[1935年]](昭和10年)[[12月8日]]に[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]長[[唐沢俊樹]]の直接の指示のもと、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲。王仁三郎は巡教先の[[松江市]]で検挙された。罪名は[[不敬罪]]並びに[[治安維持法]]違反。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、教団幹部61名が検挙・王仁三郎ら8名が起訴された。この第二次大本事件では徹底した弾圧が行われ、綾部・亀岡の聖地は跡形も無く破壊、関連施設も競売に付された。また激しい[[拷問]]で16人が死亡している。王仁三郎の『霊界物語』などの諸著は安寧秩序紊乱によって[[発禁|発売頒布禁止処分]]となった。
=== 背景 ===
第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎は[[エスペラント]]の導入・[[ラマ教]]との提携など様々な活動を展開する。同時に国内における政治活動を活発化させ、不況にあえぐ国民の関心を集めた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]256-257頁、[[#新宗教創始者伝]]181頁</ref>。1935年の時点で支部1990、信者100万~300万人(特高警察資料、大本教40万・人類愛善会25万人)、3割は大学卒業者という高学歴で、政治家・軍人を含む確固たる宗教勢力に成長していた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]264頁</ref>。王仁三郎は[[頭山満]]・[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]ら[[右翼]]人士との交流を行い、{{和暦|1934}}7月22日に[[昭和神聖会]]を結成する<ref>[[#新宗教創始者伝]]182頁</ref>。東京九段軍人会館で行われた発会式には陸海軍将校が多数出席し、[[後藤文夫]]内務大臣、[[秋田清]]衆議院議長が祝辞を述べるなど、政治・軍事への影響力を示した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]265頁、[[#新宗教創始者伝]]182頁</ref>。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼり、国家に圧力を加えた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]267頁</ref>。[[ワシントン海軍軍縮条約]]の早期撤廃、皇族内閣の実現、東北地方の困窮に対する援助など、数々の愛国的主張を行っている<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]267-269頁</ref>。さらに軍事教練などを施したり、[[三月事件]]では自ら資金や人員の提供を申し出るなど、「[[昭和維新]]」の実現のために急進的な行動を取るようになっていった。こうした政治活動に懸念を示す者もいたが、王仁三郎は聞き入れなかった<ref>[[#新宗教創始者伝]]183頁</ref>。その一方、もう一度弾圧が起きる事を示唆する言動も残している<ref>[[#新宗教創始者伝]]187頁、[[#予言・確言]]254頁</ref>。機関誌「神聖」昭和10年9月号では『余は、世間からかかる誤解を受けることが必ずしも余自身のために不利益であるとすら思って居ない。かかる誤解から轟々たる非難の声が起って、余のために騒ぎ立てる世の中をジット眺め、そのために自分がへた張るかどうかと静かにその行末を視守ることもまた面白いではないか』と述べている<ref>[[#予言・確言]]291-292頁</ref>。第一次大本事件のような弾圧が起きることを予期していたが、政府の大本に対する危機意識・警戒感を過小評価していたという指摘もある<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]270-271頁</ref>。


昭和神聖会発足当時、[[大日本帝国]]は[[満州事変]]が勃発して[[国際連盟]]から脱退、国内では[[十月事件]]や[[五・一五事件]]が発生してクーデターや暗殺騒ぎが起きるなど、不安定な状況下にあった<ref>[[#大本襲撃]]37-38頁</ref>。
裁判は[[1938年]](昭和13年)に開廷して以来、[[高山義三]]、[[小山昇]]を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われたが、[[1942年]](昭和17年)7月に下った第二審判決で治安維持法違反について無罪となった。不敬罪については大審院まで持ち込まれたものの、結果として有罪判決が下った。しかし、[[1945年]](昭和20年)10月17日には、敗戦による[[大赦]]令で無効になった。なお、[[1947年]](昭和22年)10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。
日本政府は、大本と王仁三郎が軍部の革新派や右翼団体と協力して[[クーデター]]を起こす危険性を考慮し、昭和神聖会の資金源を断つべく大本の壊滅を意図した<ref>[[#新宗教創始者伝]]185頁</ref>。{{和暦|1934}}10月、[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]長[[唐沢俊樹]]は[[相川勝六]]内務省保安課長と[[杭迫軍二]]愛知[[特別高等警察]]課長を招き、杭迫を京都府特高課長に任命して検挙を前提とした大本の調査を命じている<ref>[[#大本襲撃]]17-24頁</ref>。


=== 逮捕と取調 ===
第二次大本事件は、当初[[共産主義]]運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を[[宗教団体]]に適用した最初の案件であった。この事件より[[信教の自由]]を国民から奪い、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていったという見方がある。一方、宗教団体に対する弾圧というよりも、急進的な政治的主張をする集団を摘発した事件と見る視点も必要と思われる。
{{和暦|1935}}[[12月8日]]、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]272頁、[[#新宗教創始者伝]]191頁</ref>。王仁三郎は巡教先の[[松江市]]で検挙された<ref>[[#新宗教創始者伝]]192頁、[[#大本襲撃]]139頁</ref>。罪名は[[不敬罪]]並びに[[治安維持法]]違反<ref>[[#宗教の昭和史]]42頁</ref>。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、987名が検挙され、318名が検事局送致、61名が起訴された<ref>[[#予言・確言]]275頁</ref>。[[特別高等警察]]の激しい[[拷問]]で起訴61名中16人が死亡している<ref>[[#新宗教創始者伝]]209頁</ref>。王仁三郎の後継者と目された娘婿・[[出口日出麿]]は拷問により発狂し、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠っている<ref>[[#大本襲撃]]155-156頁</ref>。こうした厳しい取調べにも関わらず転向者は少なく、王仁三郎・澄夫妻の[[カリスマ]]と人間性が信者達の抵抗を支えたと見られる<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]275頁、[[#大本襲撃]]161頁</ref>。


第二次大本事件では第一次大本事件を遥かに凌駕する徹底した弾圧が行われた<ref>[[#大本襲撃]]146頁</ref>。『霊界物語』などの諸著は安寧秩序紊乱によって[[発禁|発売頒布禁止処分]]となった。当局もマスコミを利用、メディアも事件をセンセーショナルに書きたてた<ref>[[#宗教の昭和史]]100頁、[[#大本襲撃]]147頁</ref>。第一次大本事件と同様に、大本と王仁三郎を妖教・怪物として非難<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]273頁、[[#予言・確言]]259.277頁</ref>。検挙されなかった信者達も「反逆者」という[[レッテル]]を貼られて精神的にも経済的にも追い詰められた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]275頁、[[#大本襲撃]]149頁</ref>。一方、当局は裁判前の時点で綾部・亀岡の聖地を[[ダイナマイト]]で跡形も無く破壊、その費用を王仁三郎夫妻に請求した<ref>[[#大本襲撃]]178.238-239頁、[[#新宗教創始者伝]]193-194頁</ref>。備品や土地といった財産も安価で競売にかけて処分<ref>[[#大本襲撃]]171頁、[[#予言・確言]]265頁</ref>、石碑や信者の墓石に至るまで、大本の称号を削り落としている<ref>[[#新宗教創始者伝]]195頁</ref>。開祖・[[出口なお|出口直]]の墓に至っては柩を共同墓地に移し「衆人に頭を踏まさねば成仏できぬ大罪人、極悪人なり」として、腹部付近に墓標を立てている<ref>[[#大本襲撃]]177頁、[[#予言・確言]]266頁</ref>。作家の[[坂口安吾]]は廃墟となった亀岡城を訪れ、惨状を紀行文として残した<ref>[[#新宗教創始者伝]]196頁</ref>。唐沢は京都府会議事堂で全国特高課長を集め「大本教は地上から抹殺する方針である」<ref>[[#新宗教創始者伝]]193頁</ref>「わが国教と絶対相容れず、許すべからざる邪教」と宣言したが、翌日[[二・二六事件]]が勃発して現地視察も祝宴も取りやめとなっている<ref>[[#大本襲撃]]156頁、[[#予言・確言]]261頁</ref>。
==事件の影響==
二度の逮捕に共通する要因は、当時の当局が実質上の[[信教の自由]]を許さなかったことに加え、日本が天皇崇拝・国家の統制で生まれる一つのパワーに頼って列強諸国への参入を目指していたこと、さらには戦争へ向かっていた時期にあって、「美しい世界、言葉で和ませる」などの大本の教義や活動内容が当時の人々の意識に反発を呼んだ事にある。二度とも逮捕の後に大本の建造物は破壊され、信者の中から分派(第一次事件では[[生長の家]]、[[世界救世教]]など・第二次事件では[[三五教]]など)が独立した。


=== 裁判と敗戦 ===
取り調べに際して厳しい拷問が行われ、獄死者や発狂者を多く出すこととなった。王仁三郎も度々病院に入院したという記録がある。<!--戦後、その反動から宗教法人に対し、信教の自由を守るという美名のもと、国家権力が宗教法人に介入しないという、全く無責任な態度へと変貌し、この暗黙のルールの為、誰一人責任を負わないまま、[[オウム真理教]]や[[法の華三法行]]事件などの温床を作って行くことになったと言われている。
裁判は{{和暦|1938}}8月10日に京都地方裁判所で開廷して以来、[[清瀬一郎]]、[[高山義三]]、[[小山昇]]を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われた<ref>[[#大本襲撃]]199頁</ref>。検察は、大本は国体を転覆し世界覆滅を計る陰謀結社、王仁三郎は皇統を否定し世界の独裁者とならんとした「[[弓削道鏡]]以来の逆族」と主張する<ref>[[#大本襲撃]]199-202頁</ref>。{{和暦|1940}}2月29日の第一審判決において、庄司直治裁判長は検察側の主張を認めて被告55名に有罪(起訴61名中死亡5名、心神喪失公判停止1名)、内訳は王仁三郎に無期懲役、他は2~15年の懲役を言い渡した<ref>[[#大本襲撃]]209頁、[[#新宗教創始者伝]]202頁</ref>。控訴審は同年10月16日に始まり、{{和暦|1942}}まで続いた<ref>[[#大本襲撃]]215頁</ref>。高野綱雄裁判長は王仁三郎よりも澄の答弁に感心している<ref>[[#大本襲撃]]227-228頁</ref>。1942年7月31日、高野は王仁三郎以下8名について不敬罪での有罪、治安維持法違反について無罪判決を下した<ref>[[#大本襲撃]]231頁、[[#新宗教創始者伝]]206頁</ref>。検察の調書の信頼性が低いことも判決文で指摘された<ref>[[#証拠調関係書類]]pp.13-17</ref>。王仁三郎・澄夫妻、出口宇知麿の3名は8月7日に保釈され、京都府亀岡の長女・[[出口直日]]宅に戻った<ref>[[#大本襲撃]]234頁、[[#新宗教創始者伝]]208頁</ref>。

その後、大本の9名は不敬罪有罪を、検察は治安維持法無罪について上告したため、裁判は大審院まで持ち込まれた。ところが[[太平洋戦争]]の敗北により[[大日本帝国]]そのものが崩壊する<ref>[[#大本襲撃]]249頁</ref>。{{和暦|1945}}9月8日に検察・被告双方の控訴が棄却して原審確定<ref>[[#大本襲撃]]237頁</ref>、大審院検事局の[[平野利]]は「十年の星霜を経たる複雑怪奇の難件も一応落着したりと雖も旧大本教の一党の動静は再起を懸念するものもあり」と棄却2日後に回顧している<ref>[[#証拠調関係書類]]p.19</ref>。10月17日、敗戦による[[大赦]]令で不敬罪は解消となった<ref>[[#大本襲撃]]245頁、[[#予言・確言]]300頁</ref>。{{和暦|1947}}10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。綾部・亀岡の両町に接収された土地返還民事訴訟は戦争中から大本有利に進んでいたが、判決が延期されているうちに敗戦となり、10月~11月にかけて返還された<ref>[[#大本襲撃]]237頁、[[#予言・確言]]298頁</ref>。王仁三郎は戦後の混乱と困窮を思ってそれ以上の追求をせず、当時価格数億円の損害賠償請求権を放棄した<ref>[[#大本襲撃]]237.240頁、[[#新宗教創始者伝]]216頁</ref>。{{和暦|1948}}1月19日、教団の再建に尽力していた王仁三郎が76歳で死去<ref>[[#大本襲撃]]249-250頁</ref>。{{和暦|1952}}3月31日、出口澄も69歳で死去<ref>[[#大本襲撃]]254頁</ref>。大本は[[第二次世界大戦]]における日本の戦争に協力しなかった数少ない宗教教団となった<ref>[[#大本襲撃]]285頁</ref>。

== 事件の影響 ==
第二次大本事件は[[共産主義]]運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を[[宗教団体]]に適用した最初の案件であった<ref>[[#大本襲撃]]203頁、[[#証拠調関係書類]]p.21</ref>。この後、他の新宗教やキリスト教系団体・一部の仏教団体も弾圧され、日本政府は宗教の全面的統制の方針を明確した<ref>[[#宗教の昭和史]]11-13頁</ref>。こうして当局は[[信教の自由]]を国民から奪い、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていったという見方がある。一方、社会的影響力を強めた宗教団体が反権力運動を行うことに対する体制側・権力側の恐怖という視点も必要と思われる<ref>[[#宗教の昭和史]]20-21頁、[[#大本襲撃]]204頁</ref>

二度の弾圧に共通する要因は、当時の当局が実質上の[[信教の自由]]を許さなかったことに加え、[[大本]]の教義そのものにある。大本は[[新宗教]]の中でも社会改革への指向が強く、時に[[大日本帝国]]の滅亡さえ予言し、それが権力者の不安を呼んだ<ref>[[#神々の目覚め]]249頁、[[#大本襲撃]]316頁</ref>。1930年初頭の王仁三郎は陸軍急進派将校や右翼団体と接近しており、当局は異端的な大宗教と極右が結びついたことによる[[クーデター]]を警戒している<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]258-259.270頁、[[#大本襲撃]]314-315頁</ref>。さらに、神話の問題があった。[[明治維新]]後、政府が天皇崇拝・国家の統制で生まれる一つのパワーに頼って列強諸国への参入を目指す中、大本は[[国常立尊]]という日本神話において[[天照大神]](天皇)より上位に立つ神を重要視、加えて天皇制の基礎をなす[[古事記]]・[[日本書紀]]を大本教典「大本神論」「霊界物語」と同格に置いており、[[国家神道]]との衝突は必然であったと言える<ref>[[#宗教の昭和史]]49頁、[[#神々の目覚め]]243頁</ref>。
<!-- 取り調べに際して厳しい拷問が行われ、獄死者や発狂者を多く出すこととなった。王仁三郎も度々病院に入院したという記録がある。戦後、その反動から宗教法人に対し、信教の自由を守るという美名のもと、国家権力が宗教法人に介入しないという、全く無責任な態度へと変貌し、この暗黙のルールの為、誰一人責任を負わないまま、[[オウム真理教]]や[[法の華三法行]]事件などの温床を作って行くことになったと言われている。
↑“神道は宗教に非ず”と靖国を始めとする神社が国家の保護を受けた歴史が省みられていません NPOV-->
↑“神道は宗教に非ず”と靖国を始めとする神社が国家の保護を受けた歴史が省みられていません NPOV-->

== 参考文献 ==
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
**Ref.{{Cite book|和書|author=A05020358600|title=出版警察報(91-93)「大本教関係出版物の取締状況」|ref=出版警察報}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=A07040001900|title=大本教事件証拠調関係書類|ref=証拠調関係書類}}

*{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=1979|month=9|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[光書房]]|isbn=|ref=}}
**{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=2005|month=3|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[みいづ舎]]|isbn=4-900441-72-4|ref=予言・確言}}光書房版を復刻。
*{{Cite book|和書|author=[[伊藤栄蔵]]|year=1984|month=4|title=出口なお・出口王仁三郎の生涯 {{small|新宗教創始者伝・大本}}|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-201171-9|ref=新宗教創始者伝}}
*{{Cite book|和書|author=[[村上重良]]|year=1985|month=11|title=宗教の昭和史|publisher=[[三嶺社]]|isbn=4-914906-35-X|ref=宗教の昭和史}}
*{{Cite book|和書|author=[[丸山照雄]]|year=1995|month=6|title=日本人にとって宗教とは何か|publisher=[[藤原書店]]|isbn=4-89434-018-6|ref=日本人にとって宗教とは何か}}
*{{Cite book|和書|author=[[小滝透]]|year=1997|month=7|title=神々の目覚め {{small|近代日本の宗教革命}}|publisher=春秋社|isbn=4-393-29124-7|ref=神々の目覚め}}
**{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=2005|month=3|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[みいづ舎]]|isbn=4-900441-72-4|ref=予言・確言}} 光書房版を復刻。
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[国家神道]]


==外部リンク==
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2012年2月3日 (金) 08:07時点における版

大本事件(おおもとじけん)は、大日本帝国において大本の宗教活動に対して、日本の警察が行った宗教弾圧大本弾圧事件とも。1921年(大正10年)に起こった第一次大本事件と、1935年(昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本は壊滅的打撃を受けた。

概要

大本事件は国家権力による宗教団体への統制と弾圧であり[1]、一種の国策捜査であった[2]。同時に国家神道新宗教の神話体系・歴史観の対立という側面も強い[3]。第二次大本事件は第一次大本事件にくらべて遥かに大規模であり、また昭和史に与えた影響も大きいが、その評価は現代でも定まっていない[4]。大本聖師/二代教主輔出口王仁三郎についての解釈が難しいからである[5]。二度とも王仁三郎逮捕の後に大本の建造物は破壊され、信者の中から分派(第一次事件では生長の家世界救世教など・第二次事件では三五教など)が独立した。

第一次大本事件

背景

警察によって破壊される大本の神殿
(京都府綾部 1921年10月20日)

第一次大本事件による検挙の数年前から、大本は出口王仁三郎二代教主輔を中核として教勢を拡大させていた。1919年(大正8年)11月18日には亀山城明智光秀の居城)を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入った[6]。また1920年(大正9年)8月17日に大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出する[7]。一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・浅野和三郎谷口雅春を中心とする一派が王仁三郎と対立、終末論を展開していた[8]。社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する大手メディアも現れた[9]

日本政府は陸・海軍の幹部軍人が多数入信したことで、大本に警戒感を抱いた[10]。そもそも大本は国常立尊という天照大神より上位の神を重要視しており、現人神たる天皇の宗教的権威を脅かしかねなかったのである[11]。内務省は一部の著作を発禁処分とし、京都府警も王仁三郎を呼び出して予言をしないよう警告した[12]原敬総理大臣は1920年10月9日と14日の日記で大本の布教方法と教勢について批判した[13]

裁判

1921年(大正10年)2月12日、当局は不敬罪新聞紙法違反の疑いで、出口王仁三郎と教団幹部を検挙[14]。メディアも事件を「国体を危うくする大本教の大陰謀」「淫祀邪教」「悪魔の如き王仁三郎」と扇情的に報道し、世論を煽った[15]。一方、大本二代教主・出口澄は「これもみな神様のお仕組でございます。かえって大本教の真相が世間に知れるのであろうと喜んでおりますので」と大阪毎日新聞に語る[16]。教団内部でも王仁三郎夫妻を追放しようとする動きがあったが、澄は動じなかった[17]。王仁三郎は126日間の未決生活の後で保釈されたが、当局は開祖出口直の墓の改修を要求、さらに綾部の本宮山神殿は破壊するなどの干渉を行った[18]。同年9月16日に審理開始、10月5日の第一審判決では、王仁三郎は不敬罪と新聞紙法違反で懲役5年、浅野は不敬罪で懲役10ヶ月、吉田祐定に禁固三ヶ月の判決が下った[19]。審理は事実上2日間という異例の短さであり大本側は即日控訴、検察側も浅野の量刑を不服として控訴した[20]

1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎は責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6人とともにモンゴル地方へ行き、盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する[21]。同年6月パインタラにて張作霖により危機もあったが、7月25日に帰国、11月1日に保釈された[22]

幕切れ

裁判は大審院まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した。再審理中の1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、1927年(昭和2年)5月17日に免訴となる[23]。だが当局は大本に対する警戒を緩めず、次の機会を伺っていた[24]

なお王仁三郎は第一審判決直後から『霊界物語』の口述を始めている[25]。教団内の教義争い・派閥争いを自らの権威で克服しようとする意図と解釈する研究者もいる[26]。第一次大本事件と『霊界物語』の教義化を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後浅野和三郎心霊科学研究会を、谷口雅春生長の家を興した[27]。この第一次大本事件は、王仁三郎と対立する浅野達を大本から排除すると同時に、大本の名前を全国に宣伝するための方策だったという解釈もある[28]。1920年代半ば、大本は事件の影響を脱した[29]

第二次大本事件

背景

第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎はエスペラントの導入・ラマ教との提携など様々な活動を展開する。同時に国内における政治活動を活発化させ、不況にあえぐ国民の関心を集めた[30]。1935年の時点で支部1990、信者100万~300万人(特高警察資料、大本教40万・人類愛善会25万人)、3割は大学卒業者という高学歴で、政治家・軍人を含む確固たる宗教勢力に成長していた[31]。王仁三郎は頭山満内田良平右翼人士との交流を行い、1934年(昭和9年)7月22日に昭和神聖会を結成する[32]。東京九段軍人会館で行われた発会式には陸海軍将校が多数出席し、後藤文夫内務大臣、秋田清衆議院議長が祝辞を述べるなど、政治・軍事への影響力を示した[33]。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼり、国家に圧力を加えた[34]ワシントン海軍軍縮条約の早期撤廃、皇族内閣の実現、東北地方の困窮に対する援助など、数々の愛国的主張を行っている[35]。さらに軍事教練などを施したり、三月事件では自ら資金や人員の提供を申し出るなど、「昭和維新」の実現のために急進的な行動を取るようになっていった。こうした政治活動に懸念を示す者もいたが、王仁三郎は聞き入れなかった[36]。その一方、もう一度弾圧が起きる事を示唆する言動も残している[37]。機関誌「神聖」昭和10年9月号では『余は、世間からかかる誤解を受けることが必ずしも余自身のために不利益であるとすら思って居ない。かかる誤解から轟々たる非難の声が起って、余のために騒ぎ立てる世の中をジット眺め、そのために自分がへた張るかどうかと静かにその行末を視守ることもまた面白いではないか』と述べている[38]。第一次大本事件のような弾圧が起きることを予期していたが、政府の大本に対する危機意識・警戒感を過小評価していたという指摘もある[39]

昭和神聖会発足当時、大日本帝国満州事変が勃発して国際連盟から脱退、国内では十月事件五・一五事件が発生してクーデターや暗殺騒ぎが起きるなど、不安定な状況下にあった[40]。 日本政府は、大本と王仁三郎が軍部の革新派や右翼団体と協力してクーデターを起こす危険性を考慮し、昭和神聖会の資金源を断つべく大本の壊滅を意図した[41]1934年(昭和9年)10月、内務省警保局唐沢俊樹相川勝六内務省保安課長と杭迫軍二愛知特別高等警察課長を招き、杭迫を京都府特高課長に任命して検挙を前提とした大本の調査を命じている[42]

逮捕と取調

1935年(昭和10年)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した[43]。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙された[44]。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反[45]。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、987名が検挙され、318名が検事局送致、61名が起訴された[46]特別高等警察の激しい拷問で起訴61名中16人が死亡している[47]。王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により発狂し、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠っている[48]。こうした厳しい取調べにも関わらず転向者は少なく、王仁三郎・澄夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えたと見られる[49]

第二次大本事件では第一次大本事件を遥かに凌駕する徹底した弾圧が行われた[50]。『霊界物語』などの諸著は安寧秩序紊乱によって発売頒布禁止処分となった。当局もマスコミを利用、メディアも事件をセンセーショナルに書きたてた[51]。第一次大本事件と同様に、大本と王仁三郎を妖教・怪物として非難[52]。検挙されなかった信者達も「反逆者」というレッテルを貼られて精神的にも経済的にも追い詰められた[53]。一方、当局は裁判前の時点で綾部・亀岡の聖地をダイナマイトで跡形も無く破壊、その費用を王仁三郎夫妻に請求した[54]。備品や土地といった財産も安価で競売にかけて処分[55]、石碑や信者の墓石に至るまで、大本の称号を削り落としている[56]。開祖・出口直の墓に至っては柩を共同墓地に移し「衆人に頭を踏まさねば成仏できぬ大罪人、極悪人なり」として、腹部付近に墓標を立てている[57]。作家の坂口安吾は廃墟となった亀岡城を訪れ、惨状を紀行文として残した[58]。唐沢は京都府会議事堂で全国特高課長を集め「大本教は地上から抹殺する方針である」[59]「わが国教と絶対相容れず、許すべからざる邪教」と宣言したが、翌日二・二六事件が勃発して現地視察も祝宴も取りやめとなっている[60]

裁判と敗戦

裁判は1938年(昭和13年)8月10日に京都地方裁判所で開廷して以来、清瀬一郎高山義三小山昇を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われた[61]。検察は、大本は国体を転覆し世界覆滅を計る陰謀結社、王仁三郎は皇統を否定し世界の独裁者とならんとした「弓削道鏡以来の逆族」と主張する[62]1940年(昭和15年)2月29日の第一審判決において、庄司直治裁判長は検察側の主張を認めて被告55名に有罪(起訴61名中死亡5名、心神喪失公判停止1名)、内訳は王仁三郎に無期懲役、他は2~15年の懲役を言い渡した[63]。控訴審は同年10月16日に始まり、1942年(昭和17年)まで続いた[64]。高野綱雄裁判長は王仁三郎よりも澄の答弁に感心している[65]。1942年7月31日、高野は王仁三郎以下8名について不敬罪での有罪、治安維持法違反について無罪判決を下した[66]。検察の調書の信頼性が低いことも判決文で指摘された[67]。王仁三郎・澄夫妻、出口宇知麿の3名は8月7日に保釈され、京都府亀岡の長女・出口直日宅に戻った[68]

その後、大本の9名は不敬罪有罪を、検察は治安維持法無罪について上告したため、裁判は大審院まで持ち込まれた。ところが太平洋戦争の敗北により大日本帝国そのものが崩壊する[69]1945年(昭和20年)9月8日に検察・被告双方の控訴が棄却して原審確定[70]、大審院検事局の平野利は「十年の星霜を経たる複雑怪奇の難件も一応落着したりと雖も旧大本教の一党の動静は再起を懸念するものもあり」と棄却2日後に回顧している[71]。10月17日、敗戦による大赦令で不敬罪は解消となった[72]1947年(昭和22年)10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。綾部・亀岡の両町に接収された土地返還民事訴訟は戦争中から大本有利に進んでいたが、判決が延期されているうちに敗戦となり、10月~11月にかけて返還された[73]。王仁三郎は戦後の混乱と困窮を思ってそれ以上の追求をせず、当時価格数億円の損害賠償請求権を放棄した[74]1948年(昭和23年)1月19日、教団の再建に尽力していた王仁三郎が76歳で死去[75]1952年(昭和27年)3月31日、出口澄も69歳で死去[76]。大本は第二次世界大戦における日本の戦争に協力しなかった数少ない宗教教団となった[77]

事件の影響

第二次大本事件は共産主義運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を宗教団体に適用した最初の案件であった[78]。この後、他の新宗教やキリスト教系団体・一部の仏教団体も弾圧され、日本政府は宗教の全面的統制の方針を明確にした[79]。こうして当局は信教の自由を国民から奪い、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていったという見方がある。一方、社会的影響力を強めた宗教団体が反権力運動を行うことに対する体制側・権力側の恐怖という視点も必要と思われる[80]

二度の弾圧に共通する要因は、当時の当局が実質上の信教の自由を許さなかったことに加え、大本の教義そのものにある。大本は新宗教の中でも社会改革への指向が強く、時に大日本帝国の滅亡さえ予言し、それが権力者の不安を呼んだ[81]。1930年初頭の王仁三郎は陸軍急進派将校や右翼団体と接近しており、当局は異端的な大宗教と極右が結びついたことによるクーデターを警戒している[82]。さらに、神話の問題があった。明治維新後、政府が天皇崇拝・国家の統制で生まれる一つのパワーに頼って列強諸国への参入を目指す中、大本は国常立尊という日本神話において天照大神(天皇)より上位に立つ神を重要視、加えて天皇制の基礎をなす古事記日本書紀を大本教典「大本神論」「霊界物語」と同格に置いており、国家神道との衝突は必然であったと言える[83]

参考文献

  • 出口和明『出口なお 王仁三郎の予言・確言』光書房、1979年9月。 
    • 出口和明『出口なお 王仁三郎の予言・確言』みいづ舎、2005年3月。ISBN 4-900441-72-4 光書房版を復刻。
  • 伊藤栄蔵『出口なお・出口王仁三郎の生涯 新宗教創始者伝・大本講談社、1984年4月。ISBN 4-06-201171-9 
  • 村上重良『宗教の昭和史』三嶺社、1985年11月。ISBN 4-914906-35-X 
  • 丸山照雄『日本人にとって宗教とは何か』藤原書店、1995年6月。ISBN 4-89434-018-6 
  • 小滝透『神々の目覚め 近代日本の宗教革命』春秋社、1997年7月。ISBN 4-393-29124-7 
  • 早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』毎日新聞社、2007年5月。ISBN 978-4-620-31814-1 
  • ナンシー・K・ストーカー著、井上順孝監修、岩坂彰翻訳『出口王仁三郎 帝国の時代のカリスマ原書房、2009年6月。ISBN 978-4-562-04292-0 

脚注

  1. ^ #宗教の昭和史19頁
  2. ^ #大本襲撃65頁
  3. ^ #神々の目覚め250.260頁、#宗教の昭和史49頁
  4. ^ #宗教の昭和史21頁、#大本襲撃242頁
  5. ^ #宗教の昭和史33頁、#大本襲撃311-312頁
  6. ^ #新宗教創始者伝144頁、#予言・確言224-225頁
  7. ^ #新宗教創始者伝147-148頁、#予言・確言226-227頁
  8. ^ #帝国時代のカリスマ133頁、#新宗教創始者伝145頁
  9. ^ #新宗教創始者伝147頁
  10. ^ #大本襲撃122頁
  11. ^ #宗教の昭和史37頁
  12. ^ #帝国時代のカリスマ146頁、#大本襲撃125-126頁
  13. ^ #大本襲撃128-129頁
  14. ^ #新宗教創始者伝149頁、#大本襲撃129頁
  15. ^ #帝国時代のカリスマ147頁、#新宗教創始者伝150頁
  16. ^ #予言・確言230頁
  17. ^ #宗教の昭和史55頁
  18. ^ #新宗教創始者伝151頁
  19. ^ #新宗教創始者伝152頁、#大本襲撃131頁
  20. ^ #予言・確言230頁
  21. ^ #神々の目覚め247頁、#新宗教創始者伝161頁
  22. ^ #新宗教創始者伝165-16頁
  23. ^ #新宗教創始者伝152頁
  24. ^ #新宗教創始者伝184頁
  25. ^ #新宗教創始者伝153頁、#予言・確言231頁
  26. ^ #帝国時代のカリスマ149頁
  27. ^ #帝国時代のカリスマ150頁、#予言・確言236-237頁
  28. ^ #予言・確言310-311頁
  29. ^ #帝国時代のカリスマ159頁
  30. ^ #帝国時代のカリスマ256-257頁、#新宗教創始者伝181頁
  31. ^ #帝国時代のカリスマ264頁
  32. ^ #新宗教創始者伝182頁
  33. ^ #帝国時代のカリスマ265頁、#新宗教創始者伝182頁
  34. ^ #帝国時代のカリスマ267頁
  35. ^ #帝国時代のカリスマ267-269頁
  36. ^ #新宗教創始者伝183頁
  37. ^ #新宗教創始者伝187頁、#予言・確言254頁
  38. ^ #予言・確言291-292頁
  39. ^ #帝国時代のカリスマ270-271頁
  40. ^ #大本襲撃37-38頁
  41. ^ #新宗教創始者伝185頁
  42. ^ #大本襲撃17-24頁
  43. ^ #帝国時代のカリスマ272頁、#新宗教創始者伝191頁
  44. ^ #新宗教創始者伝192頁、#大本襲撃139頁
  45. ^ #宗教の昭和史42頁
  46. ^ #予言・確言275頁
  47. ^ #新宗教創始者伝209頁
  48. ^ #大本襲撃155-156頁
  49. ^ #帝国時代のカリスマ275頁、#大本襲撃161頁
  50. ^ #大本襲撃146頁
  51. ^ #宗教の昭和史100頁、#大本襲撃147頁
  52. ^ #帝国時代のカリスマ273頁、#予言・確言259.277頁
  53. ^ #帝国時代のカリスマ275頁、#大本襲撃149頁
  54. ^ #大本襲撃178.238-239頁、#新宗教創始者伝193-194頁
  55. ^ #大本襲撃171頁、#予言・確言265頁
  56. ^ #新宗教創始者伝195頁
  57. ^ #大本襲撃177頁、#予言・確言266頁
  58. ^ #新宗教創始者伝196頁
  59. ^ #新宗教創始者伝193頁
  60. ^ #大本襲撃156頁、#予言・確言261頁
  61. ^ #大本襲撃199頁
  62. ^ #大本襲撃199-202頁
  63. ^ #大本襲撃209頁、#新宗教創始者伝202頁
  64. ^ #大本襲撃215頁
  65. ^ #大本襲撃227-228頁
  66. ^ #大本襲撃231頁、#新宗教創始者伝206頁
  67. ^ #証拠調関係書類pp.13-17
  68. ^ #大本襲撃234頁、#新宗教創始者伝208頁
  69. ^ #大本襲撃249頁
  70. ^ #大本襲撃237頁
  71. ^ #証拠調関係書類p.19
  72. ^ #大本襲撃245頁、#予言・確言300頁
  73. ^ #大本襲撃237頁、#予言・確言298頁
  74. ^ #大本襲撃237.240頁、#新宗教創始者伝216頁
  75. ^ #大本襲撃249-250頁
  76. ^ #大本襲撃254頁
  77. ^ #大本襲撃285頁
  78. ^ #大本襲撃203頁、#証拠調関係書類p.21
  79. ^ #宗教の昭和史11-13頁
  80. ^ #宗教の昭和史20-21頁、#大本襲撃204頁
  81. ^ #神々の目覚め249頁、#大本襲撃316頁
  82. ^ #帝国時代のカリスマ258-259.270頁、#大本襲撃314-315頁
  83. ^ #宗教の昭和史49頁、#神々の目覚め243頁

関連項目

外部リンク