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{{基礎情報 君主
[[画像:Bayezid II by John Young.jpg|thumb|バヤズィト2世]]
[[画像:II Bayezid.jpg|thumb|バヤズィト2世]]
| 人名 = バヤズィト2世
| 各国語表記 = بايزيد ثانى
[[画像:II Bayezit.jpg|thumb|バヤズィト2世]]
| 君主号 =
'''バヤズィト2世'''([[1447年]]-[[1512年]][[5月26日]])は、[[オスマン帝国]]の第8代[[皇帝]]。第7代皇帝・[[メフメト2世]]の子(在位:[[1481年]]-1512年)。
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| 画像説明 = バヤズィト2世
| 在位 = [[1481年]] - [[1512年]]
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| 生地 =
| 死亡日 = [[1512年]][[5月26日]]
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| 埋葬地 =
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| 配偶者1 =
| 配偶者2 =
| 子女 = コルクト<br>アフメト<br>[[セリム1世|セリム]]
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| 王朝 = [[オスマン帝国|オスマン朝]]
| 父親 = [[メフメト2世]]
| 母親 = ギュル・バハル
| 宗教 =
| サイン = Tughra of Bayezid II.JPG
}}


'''バヤズィト2世'''([[トルコ語]]:II. BayezidもしくはII. Beyazıt、[[1447年]] - [[1512年]][[5月26日]])は、[[オスマン帝国]]の第8代[[皇帝]]([[スルタン]])。第7代皇帝[[メフメト2世]]の子(在位:[[1481年]] - 1512年)。「聖者(ヴェリー)」と呼ばれるほど信心深い敬虔なムスリムであった。華々しい外征を行った父メフメト2世と息子[[セリム1世]]に比べて外征で目覚ましい成果が見られず<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、119頁</ref>、書籍では業績を低く評されることもある<ref>ジョン.W.バーカー「メフメト2世」『世界伝記大事典 世界編』11巻(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1978年 - 1981年)</ref>。彼の治世については、停滞の時代<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、70頁</ref>、あるいはメフメト2世の時代の反動でイスラーム色が前面に出た保守的な時代とする見方がある<ref>鈴木『オスマン帝国』、119頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73-74頁</ref>。
==略歴==
[[1447年]]誕生。[[皇帝]]即位前は、[[アマスィヤ]]の太守を務めていた。[[1481年]]、父[[メフメト2世]]が[[イタリア]]遠征途上で陣没すると、弟の[[ジェム・スルタン|ジェム]]と帝位をめぐって争い、これに勝利。正式に、父の後を継いで皇帝として即位した。


== 生涯 ==
即位後は父のように西洋のような異教徒の文明を導入することを嫌って、これを取りやめ、ペルシャ風の洗練された独自の文化によるイスラム系の大学の創設や寺院の建立を進めた。父の代まではビザンチン文化の影響を残していたイスタンブルの宮殿内や官僚たちの間に、バヤズィト2世の治政下でイスラム文化、ペルシャ文化の影響が強くなっていった。
=== 即位以前 ===
[[1447年]]にメフメト2世の長子として生まれた。[[1456年]]に弟のムスタファと共に割礼を施され、同日にメフメトによって[[アナトリア半島|アナトリア]]の[[ベイリク]]たちを招待しての大宴会が開かれた。この祝宴はメフメトがベオグラード包囲で大敗して帰国した直後のことであり、宴を開いたのは敗北を忘れる意味合いもあった<ref>A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、121頁</ref>。オスマン帝国の皇子の慣例として[[アマスィヤ]]の知事を務め、[[1473年]]に起きた[[白羊朝]]との[[バシュケントの戦い]]([[:en:Battle of Otlukbeli]])では、[[イェニチェリ]]とヨーロッパ人からなる部隊を指揮し、[[ウズン・ハサン]]の甥が率いる騎兵隊と交戦した<ref>A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、244頁</ref>。


メフメトの存命中、中央集権化と国際化に反発する運動が[[イスラーム]]宗教界、そしてバヤズィトによって行われた<ref>A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、250頁</ref>。アマスィヤのバヤズィトの宮廷にはメフメトの独裁的とも言える政策に反対する党派が形成され、メフメトは反対派を監視することはできても、彼らを解散させることはできなかった。
[[聖ヨハネ騎士団]]の手引きで生き延びたジェムが、[[ロードス島]]を始めとしてヨーロッパに13年間にわたって留まり人質として利用されたこと、および父の代の精力的な領土拡大による国家財政の疲弊から、バヤズィト2世の治世では戦争は先代に比べると大幅に減り、父の時代に拡大した領土の基盤固めが主な施策となった。その間に海軍力の増強を進め、当時勢力を伸ばしていた[[ヴェネツィア]]に対抗する戦力を蓄え、[[大航海時代]]に入っていたヨーロッパ各国との対抗、協同の基盤を備えた。また積極的に諸国の人材を迎え入れ、[[レコンキスタ]]後の混乱で国を追われたユダヤ教徒の一部もイスタンブルに逃れ、技術者として受け入れられた。陸上の戦力においても近代化が進められ、後の時代にシリア、エジプトまでを征服する基礎となった。


=== ジェムとの争い、周辺諸国への対応 ===
バヤズィト2世は「聖者(ヴェリー)」と呼ばれるほど信心深い敬虔なムスリムであり、福祉事業にも熱心で、他宗教にも寛容であった。しかし、優柔不断な性格から政治家としては三流で、臣下からの人望も乏しかった。このため、「[[イラン]]の[[サファヴィー朝]]から干渉を受けて、国内に混乱が広がった」と言われている。そして、このような父の統治に不満を持った息子・[[セリム1世]](冷酷王)により、1512年に帝位を廃されて幽閉されてしまった。そして、同年のうちに死去している。
[[1481年]]にメフメト2世が[[イタリア]]遠征途上で陣没すると、弟の[[ジェム・スルタン|ジェム]]との帝位をめぐる争いが始まる(もう1人の弟ムスタファは1474年に暗殺されていた<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、100頁</ref>)。バヤズィトとジェムの両方にメフメトの死を告げる使者が送られたが、縁戚の総督(ベイレルベイ)シナンによってジェムへの使者が足止めを受け<ref>A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、341頁</ref>、ジェムに先んじて[[イスタンブル]]に入城した。バヤズィトの入城に先立ち、ジェムの擁立を考えていた大宰相メフメト・カラマニーはイェニチェリに殺害されており、イェニチェリとメフメトの政策に反対的だった臣下に支持されて<ref>A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、342頁</ref>、1481年5月21日に正式に皇帝として即位した。その即位の経緯からイェニチェリに特権と恩賞を付与し<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、101頁</ref>、反対派の要求に対して譲歩する必要があった<ref>林「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、238頁</ref>。


ジェムはブルサを占領して貨幣と[[フトバ]]に自らの名を刻んで独立を表明し、バヤズィトはジェムから提案された和平を拒絶して対決の意を示した。ジェム側の司令官の幾人かを調略し<ref>N.アクシト『トルコ 2』、85頁</ref>、6月20日に[[イェニシェヒル]]でジェムの軍を破った。[[マムルーク朝]]、[[ロードス島]]の[[聖ヨハネ騎士団]]、[[フランス]]の[[ヴァロワ朝]]、[[教皇庁]]といったジェムが亡命したヨーロッパの諸勢力と交渉を行い、聖ヨハネ騎士団からの要求に応じて多額の身代金を支払った。一方でジェムの子オウズ、ジェム派の高官を粛清した<ref>A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、344頁</ref>。[[1495年]]にジェムが病死した後に彼の生母、妻、娘を保護するが、男子の子孫はロードス島に残っていた1人を除いて全員を絞首に処した<ref name="hayasi101-102">林『オスマン帝国500年の平和』、101-102頁</ref>。
死因は「失意からの病死」と言われているが、セリム1世がバヤズィト2世廃位と同時に多くの反抗的な親族を殺害していることから、「セリム1世に毒殺されたのではないか」と言う説もある。

[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]とはジェムの保護以外に、メッカの水路の修理を拒絶されたこと、[[インド]]からの贈物を携えた使節がマムルーク朝の領土を通行した際に[[ジッダ]]の太守に荷物を奪われたことで関係を悪化させていた<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、169頁</ref>。[[ドゥルカディル侯国]]のベイリクであるアラー・アッダウラがマムルーク朝のスルターン・[[アシュラフ・カーイトバーイ]]と対立していることを知るとアッダウラを助けるために[[1485年]]にアナトリア南部に派兵した。オスマン・ドゥルカディルの連合軍は[[マラティヤ]]付近でマムルーク朝軍と戦うが敗れ、かえって[[アダナ]]、[[タルソス]]内の城砦を奪われた。戦後にマムルーク朝から和平が提案され、和解を勧めるカリフの親書と共に奪われた贈物も届けられるが、バヤズィトはこの提案に対して進軍という答えを返した。オスマン軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況だったが、マムルーク朝側も戦争によって財政が悪化しており、[[1491年]]に[[ハフス朝]]の仲介によって和議が結ばれた<ref>N.アクシト『トルコ 2』、86頁</ref>。

=== オスマン海軍の躍進 ===
[[ファイル:Battle of Zonchio 1499.jpg|left|thumb|240px|「ゾンキオの悲しい戦い」]]
[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]][[マーチャーシュ1世]]が没した後、[[1492年]]にマーチャーシュの死を好機と考えて<ref name="rober60">R.マントラン『改訳 トルコ史』、60頁</ref>[[ベオグラード]]攻略に挑むが失敗、[[1495年]]にハンガリーと10年の休戦協定を結んだ。しかし、ベオグラード遠征と同じ1492年に[[モルダヴィア|モルダヴィア公国]]を属国化し、黒海方面への拡大は着実に果たした。黒海沿岸部のキリア、アッケルマン(いずれも[[ブジャク]]に属する都市)を支配下に置いて黒海西岸の通行を確保し、[[クリミア・ハン国]]の騎兵の動員を容易にした。

陸軍と[[オスマン帝国海軍|海軍]]に新兵器を導入して戦力の増強を進め<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、101頁</ref>、当時勢力を伸ばしていた[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]に対抗する戦力を蓄え、[[大航海時代]]に入っていたヨーロッパ各国と対峙するとともに、アフリカのイスラーム諸国を征服する基盤を整えた。バヤズィトの時代に導入された兵器の最たるものに、キリスト教徒の技術者ヤーニがヴェネツィアの技術を取り入れて設計した2隻の大型艦船があり<ref name="SP70">S.プール『バルバリア海賊盛衰記 イスラム対ヨーロッパ大海戦史』、70頁</ref>、全長70[[キュビット]](約32メートル)、全幅30キュビット(約13.7メートル)の大きさを誇っていた<ref name="SP70"/>。[[1499年]]にバヤズィトは[[ナフパクトス|レパント]]へ親征、別働隊としてダウード・パシャの率いる艦隊が[[アドリア海]]より出発し、艦隊には2隻の大型艦船も含まれていた。同年8月12日の[[ゾンキオ]](ツォンキオ)城近海の戦いでオスマン海軍の[[ガレー船]]がヴェネツィアの[[ガレアス船]]を破り、ヤーニの艦は包囲を仕掛けたヴェネツィア船を沈める勝利を収め、キリスト教徒はこの戦いを「ゾンキオの悲しい戦い」([[:en:Battle of Zonchio]])と記録した<ref>S.プール『バルバリア海賊盛衰記 イスラム対ヨーロッパ大海戦史』、73頁</ref>。ダウード・パシャの艦隊はバヤズィトの本隊に合流し、8月28日にレパントをオスマンの支配下に置いた。

勝利の翌[[1500年]]に、さらにモレア半島にあるヴェネツィア領の[[モドン]]([[:en:Methoni, Messenia]])、[[コロン]]([[:en:Koroni]])、ナヴァリノ([[:en:Pylos]])を獲得し、イスラム勢力の進出を重く見たヨーロッパではヴェネツィア、ハンガリー、[[スペイン]]、フランス、教皇庁による軍事同盟が結成された<ref name="rober60"/>。同盟軍による攻撃は、艦隊がアナトリアの沿岸部を数度襲撃する程度の規模にとどまり、[[1502年]]12月にヴェネツィア、[[1503年]]3月にハンガリーと講和を結ぶに至った<ref name="rober60"/>。しかし、それでもなお、海軍の戦力は陸軍に比べると充実しているとは言えなかった<ref>N.アクシト『トルコ 2』、94頁</ref>。

=== サファヴィー朝の宣教活動 ===
[[ファイル:Sultan Bayezid II tomb March 2008.JPG|thumb|160px|バヤズィト2世の墓]]
[[16世紀]]初頭に東方の[[イラン]]で勃興した[[サファヴィー朝]]が勢力を拡大、当初オスマン帝国はサファヴィー朝とは友好的な関係にあった<ref name="rober60"/>。[[シャー]]・[[イスマーイール1世]]はアナトリア進攻の布石として、アナトリア全域での[[シーア派]]の布教を指示した<ref name="chuko74">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、74頁</ref>。優れた詩人でもあったイスマーイール1世は自ら筆を執って[[トルコ語]]で勧誘の詩を綴り<ref>鈴木『オスマン帝国』、124頁</ref>、宣教師(ハリーフェ)を通じて勧誘の詩がアナトリアに伝えられた。バヤズィトは当初サファヴィー朝の宣教を静観しており<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、105頁</ref>、高官たちも関心を持たず、王子たちは互いに帝位を争っていたが<ref name="aku88">N.アクシト『トルコ 2』、88頁</ref>、[[1511年]]にシャー・クル(サファヴィー朝のシャーの奴隷)を名乗る者が反乱を起こすと事態は変化する。オスマン帝国で確立されつつある[[スンナ派]]に違和感を抱く、あるいはバヤズィトの推進する厳格なイスラームの教えに不満を持つ民衆が反乱に参加し<ref name="chuko74"/>、その軍勢は10000にも達した<ref name="chuko75">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、75頁</ref>。

=== 反乱の鎮圧と廃位 ===
バヤズィトにはコルクト、アフメト、セリム(次代の[[セリム1世]])の三子がおり、シャー・クルの反乱中に息子たちの後継者争いに影響を与える事件が起きた。長子のコルクトは文人気質で王位への関心を見せず<ref name="rober61">R.マントラン『改訳 トルコ史』、61頁</ref>、アフメトが後継者と目されていた<ref name="rober61"/>。反乱中に三男セリムが後継者争いを有利に進めるためにバルカン半島への任地替えを要求する事件が起き<ref name="hayashi107">林『オスマン帝国500年の平和』、107頁</ref>、次子アフメトを後継者に考えていたバヤズィトはセリムの要求を退け、セリムは[[クリミア半島]]に逃れた。アフメトと大宰相ハドゥム・アリー・パシャが反乱軍を包囲した際にイェニチェリがアフメトの命令を拒否したために反乱軍の包囲に失敗した出来事に表されるように<ref name="aku88">N.アクシト『トルコ 2』、88頁</ref>、鎮圧においてコルクトとアフメトはイェニチェリ達の評判を落とし、イェニチェリの中ではセリムの人気が高まっていった<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、107頁 >R.マントラン『改訳 トルコ史』、61頁</ref>。ハドゥム・アリー・パシャ、司令官ハイダル・パシャらが戦死するもかろうじて反乱は鎮圧されるが、司令官を欠いたために反乱を完全に鎮圧することができず、参加者の大部分はサファヴィー朝に亡命した<ref name="aku88"/>。反乱の後にアフメトは王位を継ぐためにイスタンブルに入城しようとするがイェニチェリに阻まれて入城できず<ref name="hayashi107"/>、1512年3月にクリミアからセリムが帰還、イェニチェリの支持を受けたセリムがクーデターを起こし、1512年[[4月25日]]にバヤズィトは廃位された。[[5月26日]]に隠棲先である[[トラキア]]の[[ディメトカ]]([[:en:Didymoteicho]])に向かう途上で急死するが、セリムによる毒殺を指摘する声は多い<ref>鈴木『オスマン帝国』、125頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、75頁 林『オスマン帝国500年の平和』、107頁</ref>。

== 政策 ==
対外政策としては[[聖ヨハネ騎士団]]の手引きで生き延びたジェムが、ヨーロッパ諸国に13年間にわたって留まり人質として利用されたこと、および父の代の精力的な領土拡大による国家財政の疲弊からバヤズィト2世の治世では戦争は先代に比べると大幅に減り<ref name="hayasi101-102"/>、父の時代に拡大した領土の基盤固めが主な施策となった。国庫の立て直しのために余分な支出を減らし、その一方でメフメトが導入した新税を廃止して社会不満の抑制を試みた。また、積極的に諸国の人材を迎え入れ、[[レコンキスタ]]後の混乱で国を追われた[[ユダヤ教徒]]の一部もイスタンブルに逃れ、技術者として受け入れられた<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、103頁</ref>。バヤズィトと交流を持とうとしたヨーロッパの技術者の中で著名な人物として、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が挙げられる。バヤズィトが橋の建造を考えてはいるがオスマン帝国内に技術者がいないと聞いたダ・ヴィンチはオスマン帝国に書簡を送った。書簡で[[金角湾]]、[[ボスポラス海峡]]に橋を架けることが提案されたが実現には至らず、設計図は現在も残っている<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、28-29頁</ref>。

メフメト2世の治世に建設された[[マドラサ]]で学んだイスラーム法学者([[ウラマー]])の影響力が増加し、彼らは国政と立法で力を持った<ref name="chuko73"/>。バヤズィトの時代に編纂された法典が「立法者」[[スレイマン1世]]時代のものとされる法典の基礎となり<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73-74頁</ref>、代表的な法令に[[ティマール制]]を整備するために土地を有する兵士の義務と権利を告知した文書がある<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、73頁</ref>。

== バヤズィト2世とイスラーム ==
=== 学問水準の向上と民衆の反発 ===
[[ファイル:Bayezid Mosque.jpg|thumb|200px|バヤズィト・モスク]]
王子時代と君主になった当初は娯楽と美食に目がなく<ref name="aku88"/>、麻薬を愛好していたとも言われる<ref name="chuko73">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73頁</ref>が、快楽への情熱は宗教にも向けられた。内政においてはメフメト2世による中央集権化への反動が起きたが、文化面でも同様の反動が起きた<ref>鈴木『オスマン帝国』、119頁</ref>。敬虔なムスリムである彼は偶像崇拝を忌み嫌っており<ref>A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、269頁</ref>、王宮が有していた絵画を売却あるいは破棄し、[[ジェンティーレ・ベリーニ]]らがイスタンブルで制作した作品の多くが失われた。バヤズィトは宮廷でイスラームの神秘主義([[スーフィズム]])と韻文に親しみ<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、104頁</ref>、学者の保護にも熱心だった。彼の保護を受けた人物としては、[[イスラームの書法|アラビア書道]]の6つの基本的な書体を独自の手法によって再解釈した[[書家]]シェフ・ハムドゥッラーを挙げられる<ref>T.ビタール『オスマン帝国の栄光』、102頁</ref>。オスマン帝国内のイスラーム諸学の研究水準は向上したが、同時にイスラーム法学が権威化されたことで国内の規定がイスラーム法([[シャリーア]])の制限を受けるようにもなる<ref name="suzuki120">鈴木『オスマン帝国』、120頁</ref>。同時に正統のスンナ派を奉じる国家としての意識も高まるが<ref name="suzuki120"/>、領民の全てがバヤズィトとイスラーム学者が推進する教義を受け入れたわけではなく、シャー・クルの反乱に参加した民衆の中には、政府の宗教政策に否定的な者も多く含まれていた<ref name="chuko74"/>。

=== バヤズィト・モスク ===
バヤズィトは[[モスク]]、マドラサ、救貧院を建てており、[[1501年]]から[[1506年]]にかけてイスタンブルに建設したバヤズィト・モスクは、今も[[イスタンブル大学]]の向いに姿を留めている。メフメト2世が建設したファーティフ・モスクが[[1766年]]の地震によって入口の一部を除いて倒壊したため<ref>日高、谷水『イスタンブール』、78頁</ref>、バヤズィトのモスクがイスタンブルに現存する、最古のスルタンによるモスクとなっている<ref>日高、谷水『イスタンブール』、79頁</ref>。[[アヤソフィア]]を構成する半ドーム、大ドーム、半ドームという設計が簡略化されながらも継承されていることがバヤズィト・モスクの特徴であり<ref>日高、谷水『イスタンブール』、80頁</ref>、オスマン帝国の建築家たちが[[東ローマ帝国]]の建築技術を意識し、あるいは目標としていたことがうかがえる<ref>日高、谷水『イスタンブール』、81頁</ref>。


==年表==
==年表==
*[[1447年]] 誕生
*[[1447年]] - 誕生
*[[1473年]] - [[バシュケントの戦い]]で[[白羊朝]]と交戦
*[[1481年]] - 即位
*[[1481年]][[5月21日]] - 即位
*[[1485年]] - [[マムルーク朝]]との戦争を開始
*[[1491年]] - マムルーク朝と和約を締結
*[[1492年]] - [[モルダヴィア|モルダヴィア公国]]の属国化
*[[1495年]] - 弟[[ジェム・スルタン|ジェム]]の死
*[[1499年]] - [[ナフパクトス|レパント]]を制圧
*[[1501年]] - バヤズィト・モスクの建設を開始
*[[1506年]] - バヤズィト・モスクの完成
*[[1511年]] - シャー・クルの反乱
*[[1512年]][[4月25日]] - クーデターによって廃位
*[[1512年]][[5月26日]] - 死去
*[[1512年]][[5月26日]] - 死去

== 肖像画 ==
<center><gallery>
Image:Bayezid II by John Young.jpg
Image:II Bayezit.jpg
</gallery></center>

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* [[大原与一郎]]『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
* N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, [[ほるぷ出版]], 1981年11月)
* スタンリー・レーン・プール『バルバリア海賊盛衰記 イスラム対ヨーロッパ大海戦史』([[前嶋信次]]訳, リブロポート, 1981年12月)
* ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』([[小山皓一郎]]訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)
* [[日高健一郎]]、[[谷水潤]]『イスタンブール』(建築巡礼17, [[丸善]], 1990年8月)
* [[鈴木董]]『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』([[講談社現代新書]], 講談社, 1992年4月)
* テレーズ・ビタール『オスマン帝国の栄光』(鈴木董監修, 富樫瓔子訳, 「知の再発見」双書51, [[創元社]], 1995年11月)
* [[永田雄三]]、[[羽田正]]『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, [[中央公論社]], 1998年1月)
* アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)
* [[林佳世子]]「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)
* 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)


==関連項目==
==関連項目==
{{commons|Bayezid II}}
*[[オスマン帝国]]
*[[オスマン帝国の君主]]
* [[オスマン帝国]]
* [[オスマン帝国の君主]]
* [[ジェム・スルタン]]


{{先代次代|[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]|第8代: 1481 - 1512|[[メフメト2世]]|[[セリム1世]]}}
{{先代次代|[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]|第8代: 1481 - 1512|[[メフメト2世]]|[[セリム1世]]}}

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[[Category:1447年生|はやすいと2]]
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2011年8月7日 (日) 22:40時点における版

バヤズィト2世
بايزيد ثانى
ファイル:II Bayezid.jpg
バヤズィト2世
在位 1481年 - 1512年

出生 1447年
死去 1512年5月26日
子女 コルクト
アフメト
セリム
家名 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 メフメト2世
母親 ギュル・バハル
サイン
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バヤズィト2世トルコ語:II. BayezidもしくはII. Beyazıt、1447年 - 1512年5月26日)は、オスマン帝国の第8代皇帝スルタン)。第7代皇帝メフメト2世の子(在位:1481年 - 1512年)。「聖者(ヴェリー)」と呼ばれるほど信心深い敬虔なムスリムであった。華々しい外征を行った父メフメト2世と息子セリム1世に比べて外征で目覚ましい成果が見られず[1]、書籍では業績を低く評されることもある[2]。彼の治世については、停滞の時代[3]、あるいはメフメト2世の時代の反動でイスラーム色が前面に出た保守的な時代とする見方がある[4]

生涯

即位以前

1447年にメフメト2世の長子として生まれた。1456年に弟のムスタファと共に割礼を施され、同日にメフメトによってアナトリアベイリクたちを招待しての大宴会が開かれた。この祝宴はメフメトがベオグラード包囲で大敗して帰国した直後のことであり、宴を開いたのは敗北を忘れる意味合いもあった[5]。オスマン帝国の皇子の慣例としてアマスィヤの知事を務め、1473年に起きた白羊朝とのバシュケントの戦いen:Battle of Otlukbeli)では、イェニチェリとヨーロッパ人からなる部隊を指揮し、ウズン・ハサンの甥が率いる騎兵隊と交戦した[6]

メフメトの存命中、中央集権化と国際化に反発する運動がイスラーム宗教界、そしてバヤズィトによって行われた[7]。アマスィヤのバヤズィトの宮廷にはメフメトの独裁的とも言える政策に反対する党派が形成され、メフメトは反対派を監視することはできても、彼らを解散させることはできなかった。

ジェムとの争い、周辺諸国への対応

1481年にメフメト2世がイタリア遠征途上で陣没すると、弟のジェムとの帝位をめぐる争いが始まる(もう1人の弟ムスタファは1474年に暗殺されていた[8])。バヤズィトとジェムの両方にメフメトの死を告げる使者が送られたが、縁戚の総督(ベイレルベイ)シナンによってジェムへの使者が足止めを受け[9]、ジェムに先んじてイスタンブルに入城した。バヤズィトの入城に先立ち、ジェムの擁立を考えていた大宰相メフメト・カラマニーはイェニチェリに殺害されており、イェニチェリとメフメトの政策に反対的だった臣下に支持されて[10]、1481年5月21日に正式に皇帝として即位した。その即位の経緯からイェニチェリに特権と恩賞を付与し[11]、反対派の要求に対して譲歩する必要があった[12]

ジェムはブルサを占領して貨幣とフトバに自らの名を刻んで独立を表明し、バヤズィトはジェムから提案された和平を拒絶して対決の意を示した。ジェム側の司令官の幾人かを調略し[13]、6月20日にイェニシェヒルでジェムの軍を破った。マムルーク朝ロードス島聖ヨハネ騎士団フランスヴァロワ朝教皇庁といったジェムが亡命したヨーロッパの諸勢力と交渉を行い、聖ヨハネ騎士団からの要求に応じて多額の身代金を支払った。一方でジェムの子オウズ、ジェム派の高官を粛清した[14]1495年にジェムが病死した後に彼の生母、妻、娘を保護するが、男子の子孫はロードス島に残っていた1人を除いて全員を絞首に処した[15]

エジプトマムルーク朝とはジェムの保護以外に、メッカの水路の修理を拒絶されたこと、インドからの贈物を携えた使節がマムルーク朝の領土を通行した際にジッダの太守に荷物を奪われたことで関係を悪化させていた[16]ドゥルカディル侯国のベイリクであるアラー・アッダウラがマムルーク朝のスルターン・アシュラフ・カーイトバーイと対立していることを知るとアッダウラを助けるために1485年にアナトリア南部に派兵した。オスマン・ドゥルカディルの連合軍はマラティヤ付近でマムルーク朝軍と戦うが敗れ、かえってアダナタルソス内の城砦を奪われた。戦後にマムルーク朝から和平が提案され、和解を勧めるカリフの親書と共に奪われた贈物も届けられるが、バヤズィトはこの提案に対して進軍という答えを返した。オスマン軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況だったが、マムルーク朝側も戦争によって財政が悪化しており、1491年ハフス朝の仲介によって和議が結ばれた[17]

オスマン海軍の躍進

「ゾンキオの悲しい戦い」

ハンガリー王マーチャーシュ1世が没した後、1492年にマーチャーシュの死を好機と考えて[18]ベオグラード攻略に挑むが失敗、1495年にハンガリーと10年の休戦協定を結んだ。しかし、ベオグラード遠征と同じ1492年にモルダヴィア公国を属国化し、黒海方面への拡大は着実に果たした。黒海沿岸部のキリア、アッケルマン(いずれもブジャクに属する都市)を支配下に置いて黒海西岸の通行を確保し、クリミア・ハン国の騎兵の動員を容易にした。

陸軍と海軍に新兵器を導入して戦力の増強を進め[19]、当時勢力を伸ばしていたヴェネツィアに対抗する戦力を蓄え、大航海時代に入っていたヨーロッパ各国と対峙するとともに、アフリカのイスラーム諸国を征服する基盤を整えた。バヤズィトの時代に導入された兵器の最たるものに、キリスト教徒の技術者ヤーニがヴェネツィアの技術を取り入れて設計した2隻の大型艦船があり[20]、全長70キュビット(約32メートル)、全幅30キュビット(約13.7メートル)の大きさを誇っていた[20]1499年にバヤズィトはレパントへ親征、別働隊としてダウード・パシャの率いる艦隊がアドリア海より出発し、艦隊には2隻の大型艦船も含まれていた。同年8月12日のゾンキオ(ツォンキオ)城近海の戦いでオスマン海軍のガレー船がヴェネツィアのガレアス船を破り、ヤーニの艦は包囲を仕掛けたヴェネツィア船を沈める勝利を収め、キリスト教徒はこの戦いを「ゾンキオの悲しい戦い」(en:Battle of Zonchio)と記録した[21]。ダウード・パシャの艦隊はバヤズィトの本隊に合流し、8月28日にレパントをオスマンの支配下に置いた。

勝利の翌1500年に、さらにモレア半島にあるヴェネツィア領のモドンen:Methoni, Messenia)、コロンen:Koroni)、ナヴァリノ(en:Pylos)を獲得し、イスラム勢力の進出を重く見たヨーロッパではヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、教皇庁による軍事同盟が結成された[18]。同盟軍による攻撃は、艦隊がアナトリアの沿岸部を数度襲撃する程度の規模にとどまり、1502年12月にヴェネツィア、1503年3月にハンガリーと講和を結ぶに至った[18]。しかし、それでもなお、海軍の戦力は陸軍に比べると充実しているとは言えなかった[22]

サファヴィー朝の宣教活動

バヤズィト2世の墓

16世紀初頭に東方のイランで勃興したサファヴィー朝が勢力を拡大、当初オスマン帝国はサファヴィー朝とは友好的な関係にあった[18]シャーイスマーイール1世はアナトリア進攻の布石として、アナトリア全域でのシーア派の布教を指示した[23]。優れた詩人でもあったイスマーイール1世は自ら筆を執ってトルコ語で勧誘の詩を綴り[24]、宣教師(ハリーフェ)を通じて勧誘の詩がアナトリアに伝えられた。バヤズィトは当初サファヴィー朝の宣教を静観しており[25]、高官たちも関心を持たず、王子たちは互いに帝位を争っていたが[26]1511年にシャー・クル(サファヴィー朝のシャーの奴隷)を名乗る者が反乱を起こすと事態は変化する。オスマン帝国で確立されつつあるスンナ派に違和感を抱く、あるいはバヤズィトの推進する厳格なイスラームの教えに不満を持つ民衆が反乱に参加し[23]、その軍勢は10000にも達した[27]

反乱の鎮圧と廃位

バヤズィトにはコルクト、アフメト、セリム(次代のセリム1世)の三子がおり、シャー・クルの反乱中に息子たちの後継者争いに影響を与える事件が起きた。長子のコルクトは文人気質で王位への関心を見せず[28]、アフメトが後継者と目されていた[28]。反乱中に三男セリムが後継者争いを有利に進めるためにバルカン半島への任地替えを要求する事件が起き[29]、次子アフメトを後継者に考えていたバヤズィトはセリムの要求を退け、セリムはクリミア半島に逃れた。アフメトと大宰相ハドゥム・アリー・パシャが反乱軍を包囲した際にイェニチェリがアフメトの命令を拒否したために反乱軍の包囲に失敗した出来事に表されるように[26]、鎮圧においてコルクトとアフメトはイェニチェリ達の評判を落とし、イェニチェリの中ではセリムの人気が高まっていった[30]。ハドゥム・アリー・パシャ、司令官ハイダル・パシャらが戦死するもかろうじて反乱は鎮圧されるが、司令官を欠いたために反乱を完全に鎮圧することができず、参加者の大部分はサファヴィー朝に亡命した[26]。反乱の後にアフメトは王位を継ぐためにイスタンブルに入城しようとするがイェニチェリに阻まれて入城できず[29]、1512年3月にクリミアからセリムが帰還、イェニチェリの支持を受けたセリムがクーデターを起こし、1512年4月25日にバヤズィトは廃位された。5月26日に隠棲先であるトラキアディメトカen:Didymoteicho)に向かう途上で急死するが、セリムによる毒殺を指摘する声は多い[31]

政策

対外政策としては聖ヨハネ騎士団の手引きで生き延びたジェムが、ヨーロッパ諸国に13年間にわたって留まり人質として利用されたこと、および父の代の精力的な領土拡大による国家財政の疲弊からバヤズィト2世の治世では戦争は先代に比べると大幅に減り[15]、父の時代に拡大した領土の基盤固めが主な施策となった。国庫の立て直しのために余分な支出を減らし、その一方でメフメトが導入した新税を廃止して社会不満の抑制を試みた。また、積極的に諸国の人材を迎え入れ、レコンキスタ後の混乱で国を追われたユダヤ教徒の一部もイスタンブルに逃れ、技術者として受け入れられた[32]。バヤズィトと交流を持とうとしたヨーロッパの技術者の中で著名な人物として、レオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられる。バヤズィトが橋の建造を考えてはいるがオスマン帝国内に技術者がいないと聞いたダ・ヴィンチはオスマン帝国に書簡を送った。書簡で金角湾ボスポラス海峡に橋を架けることが提案されたが実現には至らず、設計図は現在も残っている[33]

メフメト2世の治世に建設されたマドラサで学んだイスラーム法学者(ウラマー)の影響力が増加し、彼らは国政と立法で力を持った[34]。バヤズィトの時代に編纂された法典が「立法者」スレイマン1世時代のものとされる法典の基礎となり[35]、代表的な法令にティマール制を整備するために土地を有する兵士の義務と権利を告知した文書がある[36]

バヤズィト2世とイスラーム

学問水準の向上と民衆の反発

バヤズィト・モスク

王子時代と君主になった当初は娯楽と美食に目がなく[26]、麻薬を愛好していたとも言われる[34]が、快楽への情熱は宗教にも向けられた。内政においてはメフメト2世による中央集権化への反動が起きたが、文化面でも同様の反動が起きた[37]。敬虔なムスリムである彼は偶像崇拝を忌み嫌っており[38]、王宮が有していた絵画を売却あるいは破棄し、ジェンティーレ・ベリーニらがイスタンブルで制作した作品の多くが失われた。バヤズィトは宮廷でイスラームの神秘主義(スーフィズム)と韻文に親しみ[39]、学者の保護にも熱心だった。彼の保護を受けた人物としては、アラビア書道の6つの基本的な書体を独自の手法によって再解釈した書家シェフ・ハムドゥッラーを挙げられる[40]。オスマン帝国内のイスラーム諸学の研究水準は向上したが、同時にイスラーム法学が権威化されたことで国内の規定がイスラーム法(シャリーア)の制限を受けるようにもなる[41]。同時に正統のスンナ派を奉じる国家としての意識も高まるが[41]、領民の全てがバヤズィトとイスラーム学者が推進する教義を受け入れたわけではなく、シャー・クルの反乱に参加した民衆の中には、政府の宗教政策に否定的な者も多く含まれていた[23]

バヤズィト・モスク

バヤズィトはモスク、マドラサ、救貧院を建てており、1501年から1506年にかけてイスタンブルに建設したバヤズィト・モスクは、今もイスタンブル大学の向いに姿を留めている。メフメト2世が建設したファーティフ・モスクが1766年の地震によって入口の一部を除いて倒壊したため[42]、バヤズィトのモスクがイスタンブルに現存する、最古のスルタンによるモスクとなっている[43]アヤソフィアを構成する半ドーム、大ドーム、半ドームという設計が簡略化されながらも継承されていることがバヤズィト・モスクの特徴であり[44]、オスマン帝国の建築家たちが東ローマ帝国の建築技術を意識し、あるいは目標としていたことがうかがえる[45]

年表

肖像画

脚注

  1. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、119頁
  2. ^ ジョン.W.バーカー「メフメト2世」『世界伝記大事典 世界編』11巻(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1978年 - 1981年)
  3. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、70頁
  4. ^ 鈴木『オスマン帝国』、119頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73-74頁
  5. ^ A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、121頁
  6. ^ A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、244頁
  7. ^ A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、250頁
  8. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、100頁
  9. ^ A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、341頁
  10. ^ A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、342頁
  11. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、101頁
  12. ^ 林「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、238頁
  13. ^ N.アクシト『トルコ 2』、85頁
  14. ^ A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、344頁
  15. ^ a b 林『オスマン帝国500年の平和』、101-102頁
  16. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、169頁
  17. ^ N.アクシト『トルコ 2』、86頁
  18. ^ a b c d R.マントラン『改訳 トルコ史』、60頁
  19. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、101頁
  20. ^ a b S.プール『バルバリア海賊盛衰記 イスラム対ヨーロッパ大海戦史』、70頁
  21. ^ S.プール『バルバリア海賊盛衰記 イスラム対ヨーロッパ大海戦史』、73頁
  22. ^ N.アクシト『トルコ 2』、94頁
  23. ^ a b c 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、74頁
  24. ^ 鈴木『オスマン帝国』、124頁
  25. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、105頁
  26. ^ a b c d N.アクシト『トルコ 2』、88頁
  27. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、75頁
  28. ^ a b R.マントラン『改訳 トルコ史』、61頁
  29. ^ a b 林『オスマン帝国500年の平和』、107頁
  30. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、107頁 >R.マントラン『改訳 トルコ史』、61頁
  31. ^ 鈴木『オスマン帝国』、125頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、75頁 林『オスマン帝国500年の平和』、107頁
  32. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、103頁
  33. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、28-29頁
  34. ^ a b 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73頁
  35. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73-74頁
  36. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、73頁
  37. ^ 鈴木『オスマン帝国』、119頁
  38. ^ A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、269頁
  39. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、104頁
  40. ^ T.ビタール『オスマン帝国の栄光』、102頁
  41. ^ a b 鈴木『オスマン帝国』、120頁
  42. ^ 日高、谷水『イスタンブール』、78頁
  43. ^ 日高、谷水『イスタンブール』、79頁
  44. ^ 日高、谷水『イスタンブール』、80頁
  45. ^ 日高、谷水『イスタンブール』、81頁

参考文献

  • 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
  • N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)
  • スタンリー・レーン・プール『バルバリア海賊盛衰記 イスラム対ヨーロッパ大海戦史』(前嶋信次訳, リブロポート, 1981年12月)
  • ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)
  • 日高健一郎谷水潤『イスタンブール』(建築巡礼17, 丸善, 1990年8月)
  • 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)
  • テレーズ・ビタール『オスマン帝国の栄光』(鈴木董監修, 富樫瓔子訳, 「知の再発見」双書51, 創元社, 1995年11月)
  • 永田雄三羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, 中央公論社, 1998年1月)
  • アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)
  • 林佳世子「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)
  • 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)

関連項目

先代
メフメト2世
オスマン帝国の皇帝
第8代: 1481 - 1512
次代
セリム1世