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{{Infobox 事件・事故
| 名称 = ヘイゼルの悲劇
| 画像 = Heysel-Stadium.jpg
| 脚注 = 事件現場となった[[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル・スタジアム]]
| 場所 = {{BEL}} ・[[ブリュッセル]]
| 日付 = [[1985年]][[5月29日]]
| 時間 =
| 開始時刻 =
| 終了時刻 =
| 時間帯 =
| 概要 =
| 原因 = [[フーリガン]]問題、スタジアムの老朽化、警備体制の不備
| 手段 = 暴力
| 武器 =
| 攻撃人数 =
| 死亡 = 39人
| 負傷 = 400人以上
| 損害 =
| 犯人 = [[リヴァプールFC]]サポーター
| 対処 = リヴァプールFCは7年間、それ以外のイングランドのクラブは5年間の国際試合出場禁止。暴動に関与した14人が過失致死傷罪により懲役3年。
}}
'''ヘイゼルの悲劇''' {{#tag:ref|英語名の''Heysel Studium Disaster''の''Disaster''を日本語訳すると「[[災害]]」「[[事故|惨事]]」「災難」になるが、日本では「[[悲劇]]」 (''Tragedy'') と表記されることが慣例化している<ref name="encyclopedia">{{Cite book|和書 |author= |year=2006 |title=サッカーマルチ大辞典 改討版 |publisher=[[ベースボールマガジン社]] |page=416頁 |isbn=978-4583038803 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author= |year=2008 |title=ワールドサッカー歴史年表 |publisher=カンゼン |page=112頁 |isbn=978-4862550156 }}</ref><ref>[[#安藤、石田 2001|安藤、石田 2001]]、25頁</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=[[陣野俊史]] |year=2002 |title=フットボール都市論--スタジアムの文化闘争 |publisher=[[青土社]] |page=118頁 |isbn=978-4791759613 }}</ref><ref>{{cite news| url = http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/champion-league/2647490/4685617 | title= プランデッリ監督 「ヘイゼルの悲劇は忘れられない」 | publisher =AFPBB News| date=2009年9月29日 | accessdate = 2011年8月12日}}</ref><ref name="Gazzetta">{{cite news| url = http://news.livedoor.com/article/detail/4798158/ | title= “ヘイゼルの悲劇”から25年「ニ度と繰り返してはいけない」 | publisher =Gazzetta.it| date=2010年5月30日 | accessdate = 2011年8月12日}}</ref><ref name="Goal">{{cite news| url = http://www.goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2010/05/30/1949430/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%92%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%81%8C%E8%BF%BD%E6%82%BC%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC | title= ヘイゼルの悲劇から25年、ユーヴェが追悼セレモニー | publisher =Goal.com| date=2010年5月30日 | accessdate = 2011年8月12日}}</ref>。1980年代以降に出版された翻訳書では「ヘイゼル事件<ref name="ボダン47">[[#ボダン 2005|ボダン 2005]]、47頁</ref>、「ヘイゼル・スタジアム死亡事件」<ref>{{Cite book|和書 |author=ビル・ビュフォード著、北代美和子訳 |year=1994 |title=フーリガン戦記 |publisher=[[白水社]] |page=148頁 |isbn=978-4560040362 }}</ref>「ヘーゼル・フットボール競技場騒動」<ref>{{Cite book|和書 |author=[[マーガレット・サッチャー]]著、石塚雅彦訳 |year=1994 |title=サッチャー回顧録--ダウニング街の日々(上) |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=508頁 |isbn=978-4532161163 }}</ref>、「エーゼルの悲劇」<ref>{{Cite book|和書 |author=[[ニック・ホーンビィ]]著、森田義信訳 |year=2000 |title=ぼくのプレミア・ライフ |publisher=[[新潮社]] |page=246頁 |isbn=978-4102202128 }}</ref>といった表記もある。|group=注}} (ヘイゼルのひげき、{{lang-en|Heysel Studium Disaster}})は、[[1985年]][[5月29日]]に[[ベルギー]]・[[ブリュッセル]]にある[[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル・スタジアム]] {{#tag:ref|[[1963年]]に制定された言語法により、ブリュッセルを含む周辺19自治体では[[フランス語]]と[[オランダ語]]の双方を公用語とすることを定めている<ref>{{Cite book|和書 |author=小川秀樹 |year=2009 |title=ベルギーを知るための52章 |publisher=[[明石書店]] |page=106-108頁 |isbn=978-4750329246 }}</ref>。フランス語では、スタッド・デュ・エゼル (''Stade du Heysel'')、オランダ語では、ヘイゼル・スタディオン (''Heizel Stadion'') と表記されることになるが、本稿では慣例的表記<ref name="encyclopedia"/>に併せて記す。|group=注}} で行われた[[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85]]決勝の[[リヴァプールFC|リヴァプール]]([[イングランド]])対[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]([[イタリア]])の試合前に、サポーター同士の衝突がきっかけとなり発生した[[群集事故]]である<ref name="encyclopedia"/>。

== 背景 ==
{{main|フーリガン|:en:Football hooliganism}}
=== フーリガニズムの起源 ===
サッカースタジアムでの観客による暴動は[[19世紀]]以来の問題であり<ref name="ボダン17">[[#ボダン 2005|ボダン 2005]]、17頁</ref>、[[1909年]]の[[スコティッシュカップ]]決勝では延長戦を行わなかったことを不服としたサポーターがスタジアムを破壊し100人以上が負傷<ref name="マクドナルド">{{Cite book| 和書| editor = ロジャー・マクドナルド著、サッカーマガジン編集部訳| title = 写真で見るサッカーの歴史 グローバル・スポーツそのメモリアル・シーン| edition= | year = 1982| publisher = [[ベースボールマガジン社]]| id = | isbn=978-4583021317| page = 126-129頁}}</ref>。[[1964年]]には[[ペルー]]でピッチに雪崩れ込んだサポーターに対して警官隊が[[催涙剤|催涙ガス]]を使用し、パニック状態になった観客が出口に殺到し300人が死亡した事故 ([[:en:1964 Lima football riot|1964 Lima football riot]]) などが記録として残されている<ref name="マクドナルド"/>。また[[1972年]]5月に[[スペイン]]の[[バルセロナ]]で行われた[[UEFAカップウィナーズカップ]]決勝・[[グラスゴー・レンジャーズFC|グラスゴー・レンジャーズ]]対[[FCディナモ・モスクワ|ディナモ・モスクワ]]戦では、試合中から試合後にかけて泥酔したレンジャーズサポーターと警官隊が衝突を繰り返し、1人が死亡150人が負傷する事件を引き起こした ([[:en:1972 European Cup Winners' Cup Final riots|1972 European Cup Winners' Cup Final riots]]) <ref name="マクドナルド"/><ref name="ライゼナール161-162">[[#ライゼナール 2002|ライゼナール 2002]]、161頁</ref>が、これによりレンジャーズは[[欧州サッカー連盟]] (UEFA) から2年間の国際試合出場禁止処分(後に1年間に軽減)を受けた<ref name="ライゼナール161-162"/>。この試合はサッカークラブが暴力的サポーターの逸脱した行為により深刻な処分を受けた初の事例とされている<ref name="ライゼナール161-162"/>。

=== イングランド情勢 ===
イングランドのサポーターによる暴動は[[1960年代]]頃から頻発するようになリ<ref name="ボダン17"/><ref name="メイソン47-48">[[#メイソン 1991|メイソン 1991]]、47-48頁</ref>、サポーター同士による抗争だけでなく、遠征先の相手チームのスタジアムや近隣の商店街、移動に使用する[[鉄道]]や[[バス]]などの公共の交通機関への破壊活動などを通じて通じて社会問題として認識されるようになった<ref name="メイソン47-48"/><ref>[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、121頁</ref>。暴力行為に及ぶサポーターの多くは若い失業者であった<ref name="読売19850604">「荒れる"紳士"に不況の影 サッカー暴動の傷跡深い英国」『[[読売新聞]]』1985年6月4日夕刊 2版 3面</ref>。この背景には労働者階級の若者達がテレビ放送の影響もあり自分達の応援するクラブや選手達を崇拝の対象と見做し、日常の捌け口としてスタジアムでの暴力行為に及んでいたこと<ref name="マクドナルド"/>、テレビ放送により映し出される暴力的なサポーターの姿に感化され、他のサポーター達も同じように振舞うようになったこと<ref name="マクギル201"/><ref>[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、125頁</ref>など挙げられる。

これらの対策として、スタジアムでは大量の警官が動員され、暴動の首謀者を捕獲するために特別チームが編成された<ref name="メイソン47-48"/>。また他の都市から遠征してくるサポーター集団に対してはスタジアム外でトラブルを派生させないように交通機関からスタジアムまでを警官により護送が行われ<ref name="メイソン47-48"/>、スタジアム内では観客同士のトラブル派生をさけるために別々の区画に隔離がされた<ref name="メイソン47-48"/><ref>[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、123頁</ref>。

その一方でサポーターによる暴動は、[[鉄道]]や[[飛行機]]を使用した低料金での旅行が可能になり行動範囲が広がった<ref name="マクドナルド"/><ref name="マクギル201">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、201頁</ref>ことから、遠征先となるヨーロッパ各国のスタジアム周辺でも行われ、[[1974年]]5月29日に[[オランダ]]の[[ロッテルダム]]で行われた[[UEFAカップ]]決勝第2戦・[[フェイエノールト]]対[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]戦<ref name="メイソン49">[[#メイソン 1991|メイソン 1991]]、49頁</ref><ref name="ライゼナール162-164">[[#ライゼナール 2002|ライゼナール 2002]]、161頁</ref>や、[[1975年]]5月28日に[[フランス]]の[[パリ]]で行われた[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]決勝・[[バイエルン・ミュンヘン]]対[[リーズ・ユナイテッドAFC|リーズ・ユナイテッド]]戦<ref name="メイソン49"/><ref name="ライゼナール162-164"/>、[[1980年]]6月12日にイタリアの[[ローマ]]で行われた[[UEFA欧州選手権1980]]グループリーグ、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]対[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦<ref name="メイソン49"/>などで暴動を引き起こした<ref name="ボダン17"/><ref name="マクドナルド"/>。

[[1980年代]]に入り、長引く経済不況の対策として[[マーガレット・サッチャー]]首相は、財政支出の削減と通貨供給量の縮小による[[インフレーション|インフレ]]の抑制<ref name="川北399">[[#川北 1998|川北 1998]]、399頁</ref>、国営企業の民営化と経済活動への規制緩和<ref name="川北403">[[#川北 1998|川北 1998]]、403頁</ref>、労働組合運動を雇用法の改正により規制<ref name="川北399"/><ref name="川北403"/>、税制改革<ref name="川北399"/>、行政改革、教育改革<ref name="川北402">[[#川北 1998|川北 1998]]、402頁</ref>、福祉制度見直し<ref>[[#川北 1998|川北 1998]]、404頁</ref>などの改革を実施したが、これにより大量の失業者を生み出すことになった<ref name="川北399"/>。1985年当時のイギリスの失業率は13%を記録していたが、産業の構造転換に乗り遅れた[[リヴァプール]]などの工業都市の若年失業率は30%に達しており、社会全体の閉塞感が暴動の頻発に繋がっているとの指摘がされた<ref name="読売19850604"/><ref>[[#ボダン 2005|ボダン 2005]]、31-33頁</ref>。

=== 兆候 ===
事故が発生した1985年には、3月11日に[[FAカップ]]準々決勝での[[ミルウォールFC]]のサポーターによる大規模な暴動 ([[:en:1985 Kenilworth Road riot|1985 Kenilworth Road riot]]) や、5月11日に[[バーミンガム]]で15歳の少年が死亡57人が重軽傷を負う乱闘事件が発生<ref name="読売19850604"/>するなど、暴力的集団によるトラブルが毎週のように報じられていた<ref>[[#ライゼナール 2002|ライゼナール 2002]]、167頁</ref>。こうした暴力行為に及ぶ集団は、チェルシーFC、トッテナム・ホットスパーFC、ミルウォールFCなどの[[ロンドン]]を本拠地とするクラブに多く<ref name="ライゼナール168">[[#ライゼナール 2002|ライゼナール 2002]]、168頁</ref>、地方のクラブの中でも[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]、リーズ・ユナイテッドなどの集団が危険な存在として知られていた<ref name="ライゼナール168"/>。

一方でリヴァプールFCのサポーター集団も、これまで幾度かの暴力事件を発生させており<ref name="ボダン44-45">[[#ボダン 2005|ボダン 2005]]、44-45頁</ref>、国際試合においても[[1984年]]5月30日に行われた[[UEFAチャンピオンズカップ 1983-84]]決勝の[[ASローマ]]対リヴァプール戦の試合後に両サポーターが衝突し、イタリア人青年1人が死亡し37人が負傷した事件<ref name="Geschiedenis 24"/><ref name="ボダン44-45"/>。1985年3月に[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で行われた[[FKアウストリア・ウィーン]]戦などで事件を引き起こしていた<ref name="ボダン44-45"/>。頻発するサポーターによる暴動の対策として[[チェルシーFC]]ではスタジアムのゴール裏に強制収容所に用いられる[[鉄条網]]を設置し、「人体には害はないが強度のショック症状を与える」電流を流す改装を施した<ref name="読売19850604"/>が、[[グレーター・ロンドン・カウンシル|大ロンドン議会]]の反対に遭い電流の使用は中止された<ref name="読売19850604"/>。

また観客による暴動ではないものの、5月11日には[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード]]で、試合中に火の不始末が原因となり木造のスタジアムが全焼し56人が死亡265人が負傷した火災事故 ([[:en:Bradford City stadium fire|Bradford City stadium fire]]) が発生するなど、大きなトラブルが頻発していた。

== 概要 ==
=== 運営 ===
[[ファイル:Heysel.jpg|thumb|250px|ヘイゼル・スタジアムの見取り図]]
会場となったヘイゼル・スタジアムは収容人数6万人のベルギー国内で最大のスタジアムであり、[[陸上競技]]と[[球技]]兼用のスタジアムである。過去に[[UEFA欧州選手権1972]]決勝、[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]決勝 (1958, 1966, 1974) 、[[UEFAカップウィナーズカップ]]決勝 (1964, 1976, 1980) 、[[ヨーロッパ陸上競技選手権大会]] (1950) などの国際大会を開催した実績のあるスタジアムだったが、[[1930年]]の建設から55年の年月が経過しており老朽化が進んでいた<ref name="ピコ80">[[#ピコ 1985|ピコ 1985]]、80頁</ref>。

運営側は混乱を避けるためにユヴェントスサポーターは正面向かって右側ゴール裏のM、N、Oゾーン、リヴァプールサポーターには正面向かって左側ゴール裏のX、Yゾーンに席が割り当てチケット販売を行った。X、Yゾーンに隣接するZゾーンは一般観客用の席として割り当てられていたが、[[ダフ屋]]がチケットを持たずに現地を訪れた一般のファンにZゾーンの席を売りさばいた<ref name="ピコ80"/>。Zゾーンのチケットを購入した人々の多くはユヴェントスサポーターだったため、両サポーターがX、YゾーンとZゾーンを隔てるフェンスを挟んで対峙することになった<ref name="ピコ80"/>。

=== 事故の経過 ===
[[ファイル:Heysel plan.png|thumb|250px|リヴァプールサポーターの進入経路。M、N、Oゾーンはユヴェントス、X、Yゾーンはリヴァプール、Zゾーンは中立的な一般客の席として割り当てられていたが、試合当日にチケットを求めて訪れたユヴェントスサポーターがダフ屋からZゾーンの席を購入していた経緯もあり、運営側の思惑と外れ両者が対峙する形になった。試合開始1時間前から小競り合いが続き、やがて暴動へと発展した。]]
会場では試合に先立ちエキシビションマッチとして11歳から12歳の選手で構成される若い[[サッカーベルギー代表|ベルギー代表]]選手による紅白戦が行われていた<ref name="Geschiedenis 24">{{cite news| url = http://www.geschiedenis24.nl/andere-tijden/afleveringen/2004-2005/Heizeldrama.html | title= Heizeldrama | publisher =Geschiedenis 24 | date=2005年5月24日 | accessdate = 2011年8月12日}}</ref>。赤チームが3-0でリードしたまま前半を終了し、後半に入った19時10分頃からスタンドではサポーター同士によるトラブルが始まった<ref name="Geschiedenis 24"/>。

試合開始1時間前から酒に酔ったリヴァプールサポーターはZゾーンにいるユヴェントスサポーターに空き缶や旗を投げつけるなど断続的に挑発<ref name="朝日1985530">「サッカー場惨事 地獄絵のパニック」『[[朝日新聞]]』1985年5月30日夕刊 4版 19面</ref>。これにユヴェントス側も応じ両サポーターは小競り合いを繰り返していたが、リヴァプール側がYゾーンとZゾーンを隔てていた防御用フェンスを破壊すると、手薄な警備の隙を突いて煉瓦や鉄パイプを武器にユヴェントスサポーターのいるZゾーンへと雪崩れ込んだ<ref name="朝日1985530"/><ref name="コリンズ70">[[#コリンズ 1985|コリンズ 1985]]、70頁</ref>。

Zゾーンの観客はリヴァプール側の襲撃により[[パニック]]状態になり、大勢の観客が襲撃を避けようとメインスタンドとZゾーンの境にある高さ3mの[[コンクリートブロック|コンクリート]]製の壁に殺到した<ref name="ピコ80"/>。壁は老朽化のため殺到した観客の重量に耐え切れず倒壊したことで「群衆雪崩」が発生し、先頭部にいた観客は崩れ落ちた壁や後方から殺到した観客に押しつぶされる形となり次々と犠牲になった<ref name="ピコ80"/>。グラウンドや陸上競技用のトラックには負傷者やトラブルを回避する数百人近い人々で溢れかえり、重傷者には[[心肺蘇生法|心肺蘇生]]などの[[救急処置]]が行われ、救急車とヘリコプターを使って市内の医療施設に搬送された<ref name="朝日1985530"/>。また犠牲者の遺体はスタジアム正面入り口の仮設テントに並べられた<ref name="朝日1985530"/>。

その一方で興奮した両サポーター同士が衝突を続けたり、警官隊めがけて投石を行うなどの行為が頻発した<ref name="コリンズ69"/>。この試合を最後に監督を退く事を表明していたリヴァプール監督の[[ジョー・フェイガン]]がスタンドに歩み寄りサポーターに対し冷静になるよう直に呼びかけを行った<ref name="コリンズ69">[[#コリンズ 1985|コリンズ 1985]]、69頁</ref>。またユヴェントス主将の[[ガエタノ・シレア]]とリヴァプール主将の[[フィル・二ール]] ([[:en:Phil Neal|Phil Neal]]) が場内放送を通じて事態を鎮圧するべくサポーターに呼びかけを行った<ref name="ピコ80"/>が聞き入れるファンは少なく、1時間後に警官隊700人、軍隊1000人を動員して暴動を鎮圧した<ref name="コリンズ70"/>。

ベルギー内務省は事件翌日の5月30日、両クラブのサポーターの衝突により[[イタリア人]]25名を含む38人が犠牲になり<ref name="朝日19850531">「死者38人、15人逮捕」『朝日新聞』1985年5月31日朝刊 14版 23面</ref>(後に39人が死亡<ref name="BBC2011">{{cite news| url = http://www.bbc.co.uk/news/mobile/uk-england-merseyside-13430935| title=Heysel stadium disaster film is plannedl| publisher =BBC News| date=2011年5月17日 | accessdate = 2011年8月12日}}</ref>、内訳はイタリア人が32人、ベルギー人が4人、[[フランス人]]が2人、[[イギリス人]]([[北アイルランド]]出身)が1人と判明<ref name="BBC2011"/>)、事件に関与したとしてイギリス人12人を含む15人を逮捕したことを発表した<ref name="朝日19850531"/>。

=== 原因 ===
事故の背景には、ベルギー当局の警備上の問題があることが指摘された<ref name="朝日19850531"/><ref name="BBC2000">{{cite news| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/768380.stm | title=The Heysel disaster | publisher =BBC News| date=2000年5月29日 | accessdate = 2011年8月12日}}</ref>。イギリス政府からはサポーター同士の衝突を懸念し、ベルギー政府に対し厳重な警備を行うよう事前に要請が行われた<ref name="朝日1985530"/>が、スタジアム内では適切な警備体制は行われなかった<ref name="朝日1985530"/>。通常の警備体制であれば両サポーターの間に緩衝地帯を設けてその間に警官隊を配置して混乱やトラブルを防ぐような仕組みになっているが<ref name="ピコ80"/>、当日のスタジアムでの警官の配置は不十分であり、両サポーターによる小競り合いが始まった後も警官隊の応援を要請するなどの対応は遅れた<ref name="ピコ80"/>。

また会場ではナイフや鉄パイプなどの凶器、瓶缶類の持込が公然と認められており<ref name="朝日19850531"/>、暴動を起こしたリヴァプールサポーターは酒に酔い酩酊状態にあるため一般客は騒動を止めたくても止めることが出来なかったとしている<ref name="朝日19850531"/>。この暴動にはイギリスの極右団体[[イギリス国民戦線|国民戦線]] (NF) が関わっているとの証言が多くのファンや関係者からなされた<ref name="朝日1985531">「英の極右が挑発か サッカー惨事目撃者が証言」『朝日新聞』1985年5月30日夕刊 4版 17面</ref>。NFはこれまでもサッカースタジアムで党員の勧誘や暴力行為を推奨する活動を行っており<ref name="朝日1985531"/>、当日もNF党員がサポーターの暴動を扇動したと指摘された<ref name="朝日1985531"/>。

一方、加害者側であるリヴァプール側サポーターの中には、事故の発端となったのはユヴェントス側であり、「ユヴェントス側の投石行為が暴動を誘発させた」と主張する者もいた<ref name="BBC2000"/>。また「ユヴェントス側サポーターに虐められていた子供を助けるために喧嘩をしかけた。このことが暴動のきっかけとなった」と主張するリヴァプール出身の少年の談話がイギリスの新聞に掲載された<ref name="イレブン198509">「ヘイゼル・スタジアム大惨事の後遺症に悩むイングランド」『イレブン』1985年9月号、46頁</ref>が、抗議が殺到したという<ref name="イレブン198509"/>。またユヴェントス側サポーターの一人が拳銃を所持し、暴動が発生した際に複数回に渡って警官に発砲を行ったとの報道がテレビニュースを通じて行われた<ref>「イタリア側のファン発砲 ?」『朝日新聞』1985年5月30日夕刊 4版 17面</ref>。

また警備体制の不備のほかに、スタジアムの老朽化<ref name="Geschiedenis 24"/>、ダフ屋行為による不正なチケット販売<ref name="Geschiedenis 24"/>、スタジアムでの飲酒の容認<ref name="Geschiedenis 24"/>による暴力行為の誘発などが挙げられるが、[[1984年]]5月30日に行われた[[UEFAチャンピオンズカップ 1983-84]]決勝の[[ASローマ]]対リヴァプール戦の試合後に両サポーターが衝突し、イタリア人青年1人が死亡し37人が負傷した事件<ref name="Geschiedenis 24"/><ref>「暴走サポーター イタリアでも深刻化」『サッカーダイジェスト』1984年8月号、78頁</ref>や、事故直前に催されたエキシビションマッチが事故の遠因となっているとの指摘もされた<ref name="Geschiedenis 24"/>。

== 試合 ==
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{{main|UEFAチャンピオンズカップ 1984-85#決勝}}
[[ファイル:Heysel plan.png|thumb|250px|サポーターの動き]]
'''ヘイゼルの悲劇'''(-ひげき)は、[[1985年]][[5月29日]]に[[ベルギー]]・[[ブリュッセル]]にある[[ボードゥアン国王競技場|エゼル競技場]](ヘイゼル・スタジアム)で起こったサッカーのサポーターによる乱闘事件である。


ユヴェントス監督の[[ジョバンニ・トラパットーニ|ジョヴァンニ・トラパットーニ]]は「多数の死傷者を出した惨事の後に試合をすることは出来ない」と中止を求めた<ref name="ピコ81">[[#ピコ 1985|ピコ 1985]]、81頁</ref>が、主催者側の「試合が中止になれば、騒動は更に過熱化する」との主張を受け入れ<ref name="ピコ81"/>、試合開始を1時間30分後に遅らせて試合を決行した<ref name="ピコ81"/>。
== 概要 ==
1985年5月29日に行われた[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ 1984-85]]の決勝戦である[[リヴァプールFC|リヴァプール]]対[[ユヴェントス]]の試合で事件は起こった。互いのサポーターが小競り合いをきっかけに暴徒化し、リヴァプールのサポーターがユヴェントス側の観客席になだれ込み、サポーター同士が衝突する事態に発展した。両チームのキャプテンが事態を鎮圧するべく必死に呼びかけたが、耳を貸すファンはいなかった。


試合は56分に[[ズビグニェフ・ボニエク]]が倒されて獲得したPKを[[ミシェル・プラティニ]]が決めてユヴェントスが1-0で勝利。ユヴェントスは3度目の決勝進出で初優勝を成し遂げたが、イタリア勢としては1968-69シーズンの[[ACミラン]]以来16年ぶりの優勝となった。またリヴァプールはこれまで同大会では4回決勝戦へ進出しいずれも優勝を成し遂げていたが、初の決勝戦での敗退となった。
そしてユヴェントスのサポーターがリヴァプール側の襲撃から逃れるために壁によじ登り、重量に耐え切れなくなった壁は崩壊した。これに伴い多くの人々が下敷きとなり、結果として死者39名、負傷者400名以上を出す大惨事になってしまった。死傷者の大多数がイタリア人だった。


なお決勝点を決めたプラティニ自身は25年後の[[2010年]][[5月29日]]に[[トリノ]]で行われた事件の追悼式典においてヘイゼルの悲劇について
多数の死傷者を出した原因として一番に挙げられるものは、競技場の老朽化である。
{{Quotation|私は30歳に満たず無邪気にサッカーを楽しんでいたが、あの夜の暗い体験をした。あの試合は普通ではなかった。悲劇を経験した全ての人間はあの記憶を消しさることは出来ないし誰も忘れることは出来ない。今でも犠牲者とその遺族の方々を考えずにはいられない}}と発言している<ref name="Gazzetta"/><ref name="Goal"/>。


== 国際社会の反応 ==
試合が中止になれば、暴徒化したサポーター達が再び街中で暴れ出しかねないと判断した主催者側が、試合開始を大幅に遅らせて試合を決行させた。試合は、PKを[[ミシェル・プラティニ]]が決めてユヴェントスが1-0で勝ったが、チャンピオンズカップを渡されたのは人目に付かない更衣室だった。当然のことながらチャンピオンズカップ獲得をユヴェントスの選手たちが素直に喜べるはずがなかった。試合後、プラティニは「もう、サッカーをしたくない」と言った。
{{GBR}}
:5月29日、サッチャー首相は同日夜に「事件に関与し責任を負うべき者たちは、我が国とサッカー競技に対し多大な恥辱と不名誉をもたらした」との声明を発表<ref name="朝日1985530-2">「「英国の恥辱」サッチャー首相声明」『朝日新聞』1985年5月30日夕刊 4版 19面</ref>。
:5月30日、サッチャー首相は事件の全責任がリヴァプール側のイギリス人にあることを認め、イタリア政府に謝罪。犠牲者の遺族に対し見舞金として暫定的に25万ポンド(約8千万円)を支払った<ref name="コリンズ71">[[#コリンズ 1985|コリンズ 1985]]、71頁</ref><ref>「サッカー惨事 被害救済に英が25万ポンド」『朝日新聞』1985年5月31日朝刊 14版 23面</ref>。同日、サッチャー首相は暴動の再発防止策として、警察の警備権限強化、スタジアムでのアルコール販売禁止、凶器となり得る瓶缶類の持込禁止、観客の身元を確認するためのIDカードの発行などを盛り込んだ規制立法を提出<ref name="コリンズ71"/>。元首の[[エリザベス2世]]はイタリアとベルギー両国に対し事件に関するメッセージを送り弔意を示した<ref name="コリンズ71"/>。
{{BEL}}
:5月29日、[[ヴィルフリート・マルテンス]] ([[:en:Wilfried Martens|Wilfried Martens]]) 首相がイタリア政府に対し弔電を送った<ref name="コリンズ70"/>。
:5月30日、同国の内務大臣はイングランドの全てのサッカークラブのベルギーへの入国を拒否する声明を発表<ref name="コリンズ71"/>。
:5月31日、同国のテレビ局[[RTBF]]は事件当日、騒動が更に悪化することを懸念した関係者によりユヴェントスFCを意図的に勝利させたとする[[八百長]]疑惑を報道したが、ベルギーサッカー協会は疑惑を全面的に否定した<ref name="コリンズ71"/>。
:6月1日、[[メルスブローク空軍基地]]で犠牲者に対する追悼式典を開催し、マルテンス首相ら政府関係者が出席<ref>「首相ら出席し追悼式 ベルギー」『朝日新聞』1985年6月1日夕刊 4版 10面</ref>。
{{ITA}}
:5月29日、[[アレッサンドロ・ペルティーニ]]大統領は「スタジアムを惨劇に変えた暴力行為を憎む」との声明を発表<ref name="コリンズ70"/>。
:6月1日、[[リグーリア州]][[インペリア県]]の[[ディアーノ・マリーナ]]でイギリス系企業の所有するバスが襲撃にあう<ref name="朝日19850602">「サッカー不祥事 高まる反英感情」『朝日新聞』1985年6月2日朝刊 14版 16面</ref>。[[ミラノ]]市内でイギリス人男性が暴行を受ける<ref name="朝日19850602"/>。
:6月2日、ミラノ市内のイギリス系専門学校に[[火炎瓶]]が投げ込まれる<ref name="コリンズ71"/>。同日、[[ローマ]]市内のイギリス大使館前で数百人が[[デモ活動]]<ref name="コリンズ71"/>。
{{VAT}}
:5月29日、ローマ法王[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は追悼ミサを行い事故の犠牲者を弔った<ref name="コリンズ70"/>。
{{BRD}}
:5月29日、[[第2ドイツテレビ]] (Zweites Deutsches Fernsehen, ZDF) は試合開催に抗議して当日の中継を中止した<ref name="コリンズ70"/>。同テレビ局は放送中止の理由について「多数の死者を出した後に、暴徒に囲まれながら何事もなく試合を放送することは無責任である」と伝えた<ref name="朝日1985530-2"/>。
{{FRA}}
:5月31日、[[パリ]]市内でイギリスナンバーの自動車50台が破壊される<ref name="コリンズ71"/><ref name="朝日19850602"/>。


== 対処 ==
この事件後、[[イングランド]]のクラブは無期限(後に5年間、当事者のリヴァプールは7年間に変更される)国際大会への出場を禁じられた。このことが、後のイングランド代表の低迷の一因となった。また、主催者となった[[ベルギーサッカー協会]]に対しても、「カップ戦の決勝戦の開催地となる権利の剥奪」という処分が下された。
イングランドのサッカーを統括する[[イングランドサッカー協会|フットボール協会]] (FA) は5月30日、協会に加盟する全クラブに対し翌1985-86シーズンの国際大会への出場自粛を決定<ref name="コリンズ70"/>したが、[[欧州サッカー連盟]] (UEFA) は6月2日、
イングランドの全クラブに対し欧州での国際試合への無期限出場禁止
<ref name="コリンズ71"/><ref name="イレブン198511">「英国とイタリアの上訴却下」『イレブン』1985年11月号、89頁</ref>(当初はイングランドの全クラブへの無期限出場禁止処分の解除後に当事者のリヴァプールは更に3年の出場禁止処分を課せられていたが、後にイングランドの全クラブは5年間、リヴァプールは7年間の出場禁止処分に変更された)、被害者側のユヴェントスに対しUEFA主催の国際試合においてホームゲーム2試合を無観客で執り行う<ref name="サカダイ198509">「リバプールは他の処分解除後も3年追加」『[[週刊サッカーダイジェスト|サッカーダイジェスト]]』1985年9月号、37頁</ref>、主催者側のベルギーは今後10年間、UEFA主催の国際大会の決勝戦開催を禁止するとの処分を発表した<ref name="イレブン198511"/><ref name="サカダイ198509"/>。FAの理事を務めるバート・ミリチップは「妥当な判断」としてこれを支持した<ref name="コリンズ71"/>。UEFAは6月5日、事故犠牲者の遺族に対し総額50万スイスフラン(約5千万円)の見舞金を支払うことを決定<ref name="コリンズ71"/>。

[[国際サッカー連盟]] (FIFA) は事故後、試合時の安全性を高めるように世界各国のサッカー協会に対し通達したが<ref name="コリンズ70"/>、UEFAの決定を受けて6月6日にイングランドの全クラブに対し国外での全ての国際試合禁止を決定。これに対しFAは「全ての国際試合から締め出されては改善した成果を見せる機会を失う」とFIFAの決定に提訴し<ref name="コリンズ71"/>、同年7月11日に欧州以外での国際試合禁止処分は解除された<ref name="サカダイ198509"/>。

同年6月、欧州21カ国のスポーツ担当大臣による会議の席上でスタジアム周辺での警備強化、スタジアムでのアルコール販売禁止などを盛り込んだ「サッカースタジアムでの暴力根絶のための協定」が採択され、同年9月にイギリス、[[オーストリア]]、[[オランダ]]、[[ギリシャ]]、[[デンマーク]]、ベルギーの6カ国が協定に署名した<ref>「暴力根絶の協定に6カ国がサイン」『イレブン』1985年11月号、89頁</ref>。

== 裁判 ==
イギリス当局により実行犯と見られるリヴァプールサポーター25人が割り出され、[[1987年]]9月9日、ベルギーでの裁判の起訴に出頭するため、[[軍用機]]でベルギーに移送された<ref name="BBC2002">{{cite news| url = http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/september/9/newsid_2503000/2503885.stm | title=1987: Liverpool fans to stand trial in Belgium | publisher =BBC ON THIS DAY | date=2002年11月22日 | accessdate = 2011年8月12日}}</ref>。裁判は翌1988年から開始され、有罪の場合は最大で懲役15年の判決が下される可能性があった<ref name="BBC2002"/>。ベルギーで行われた裁判での5ヶ月の審議の結果、[[1989年]]に暴動に関与した14人が[[過失致死傷罪]]により有罪となり、7人に懲役3年、残りの7人が執行猶予3年の判決を受けた<ref name="BBC2011"/><ref name="BBC2002"/>。

== 影響 ==
=== クラブへの影響 ===
UEFAによるイングランド勢の出場禁止処分により以下のクラブが数年間、UEFA主催の各国際大会への出場資格を失った。事件が発生する年までの10年間でチャンピオンズカップに7度優勝するなど絶頂期にあったイングランドのクラブは国際舞台での活躍の場を失ったことで国際競争力を失う結果となった<ref name="地球の歩き方プラスワン">{{Cite book| 和書 |author = 「Another Side of Football リヴァプールの優勝と2つの悲劇」| title = 地球の歩き方プラスワン405 欧州サッカー観戦ガイド| edition= | year = 2005| publisher = [[ダイヤモンド社]]| id = | isbn=978-4478037744
| page = 350頁}}</ref>。出場禁止処分が解けた後のイングランド勢のUEFAチャンピオンズカップとUEFAチャンピオンズリーグでの決勝進出は[[1999年]]のマンチェスター・ユナイテッドまで1つもなく、リヴァプールは事件から20年後の[[2005年]]まで同大会での決勝進出と優勝は途絶えることになった。

{| class="wikitable sortable" cellpadding="3" style="text-align: left;"
|-
! クラブ !! [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] !! [[UEFAカップウィナーズカップ]] !! [[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]
|- bgcolor="white"
|[[リヴァプールFC|リヴァプール]]||1986-87, 1988-89, 1990-91 ||1989-90||1985-86, 1987-88
|-bgcolor="white"
|[[エヴァートンFC|エヴァートン]]||1985-86, 1987-88||1986-87||1988-89
|- bgcolor="white"
|[[アーセナルFC|アーセナル]]||1989-90||-||1987-88
|- bgcolor="white"
|[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]||-||1985-86||1986-87, 1988-89
|-bgcolor="white"
|[[コヴェントリー・シティFC|コヴェントリー・シティ]]||-||1987-88||-
|- bgcolor="white"
|[[ミルトン・キーンズ・ドンズFC|ウィンブルドン]]||-||1988-89||-
|- bgcolor="white"
|[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]||-||-||1985-86, 1987-88, 1989-90
|- bgcolor="white"
|[[ノリッジ・シティFC|ノリッジ・シティ]]||-||-||1985-86, 1987-88, 1989-90
|- bgcolor="white"
|[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]||-||-||1988-89, 1989-90
|- bgcolor="white"
|[[サウサンプトンFC|サウサンプトン]]||-||-||1985-86
|- bgcolor="white"
|[[ウェストハム・ユナイテッドFC|ウェストハム・ユナイテッド]]||-||-||1986-87
|- bgcolor="white"
|[[シェフィールド・ウェンズデイFC|シェフィールド・ウェンズデイ]]||-||-||1986-87
|- bgcolor="white"
|[[オックスフォード・ユナイテッドFC|オックスフォード・ユナイテッド]]||-||-||1986-87
|- bgcolor="white"
|[[ルートン・タウンFC|ルートン・タウン]]||-||-|| 1988-89
|- bgcolor="white"
|[[ダービー・カウンティFC|ダービー・カウンティ]]||-||-||1989-90
|}
=== フーリガン対策 ===
[[1989年]]にサッカー監視法が制定され、サッカー関連の犯罪に関して有罪判決を受けた者に対し、裁判所が行動を制限する命令を下せるようにした<ref name="マクギル202">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、202頁</ref>。この監視法は暴力行為だけでなく、人種差別行為、ダフ屋行為などを行った者も処罰の対象となった<ref name="マクギル202"/>。

また、武装組織[[アイルランド共和軍]] (IRA) と対立していた[[アルスター義勇軍]] ([[:en:Ulster Volunteer Force|Ulster Volunteer Force]]) を取締する際に効果を発揮した[[おとり捜査|潜入捜査]]をサポーター集団や暴力的サポーターに対し実施<ref name="ミニョン165">[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、165頁</ref>。国家犯罪情報局 (NCIS) にサッカー部門が常設され情報を調整し、過去にスタジアムでの暴力事件に関与した人物のデーターベース化や、各国のクラブや警察機関と連携し情報を共有できるようにするなどの対策も講じられた<ref name="ミニョン165"/><ref name="マクギル208">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、208頁</ref>。

同年[[4月15日]]に行われた[[FAカップ]]準決勝のリヴァプール対[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]戦ではテラスと呼ばれるゴール裏の立見席にサポーターが殺到し、96人が死亡600人以上が負傷する群集事故が発生([[ヒルズボロの悲劇]])し、リヴァプールサポーターは再び批判を受けた<ref name="地球の歩き方プラスワン"/>。事件を検証したピーター・テイラー裁判官は入場時の観客誘導に問題があったことを指摘すると共に、スタジアムの安全性確保のため立見席の廃止を提唱した([[:en:Taylor Report|Taylor Report]])<ref name="地球の歩き方プラスワン"/><ref name="ミニョン166-168">[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、166-168頁</ref>。この提唱を受け[[1992年]]から始まった[[プレミアリーグ]]ではスタジアムの座席は全席指定の着席式に改められた。

1980年代に発生した2つの事件はスタジアムにおける観客の安全性確保の大きな警鐘となった<ref name="地球の歩き方プラスワン"/>。1990年代に入ると労働者階級に変わって中産階級のファンが増加<ref name="マクギル210-211">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、210-211頁</ref>したことで暴力事件は減少し観客のマナーも向上するなど、スタジアム内でのトラブルは過去の出来事と考えられるようになった<ref name="マクギル210-211"/><ref>[[#ライゼナール 2002|ライゼナール 2002]]、199頁</ref>。その一方で、路上、酒場、交通機関などといったスタジアム外でのトラブルは依然として頻発<ref name="ライゼナール200">[[#ライゼナール 2002|ライゼナール 2002]]、200頁</ref>するなど、フーリガン問題の根本的な解決には至っておらず<ref name="ライゼナール200"/>、NCISの規定では試合前後の24時間以内に発生したトラブルについてはサッカーに関連した事件として記録し、取り締まっている<ref name="ライゼナール200"/>。


== その後 ==
== その後 ==
[[File:Amicizia.jpg|thumb|350px|right|[[アンフィールド]]のサポーターによる "Amicizia" (友情)の人文字]]
[[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05]]の決勝トーナメント準々決勝で、20年ぶりにリヴァプールとユヴェントスが対戦することとなった。第1戦[[アンフィールド]]での試合前に、この事件により亡くなった人たちへの追悼式が行われた。「加害者側」であるリヴァプールのサポーター達は「AMICIZIA」(イタリー語で友情)の人文字を作り和解を求めたが、「被害者側」であるユベントスのサポーター達は無言で背を向けて立ちこれに応えた。この第1戦はホームのリヴァプールが2-1で勝利し、[[デッレ・アルピ]]で行われた第2戦は0-0の引き分けに終わり、リヴァプールが準決勝への切符を手にした。
[[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05]]の決勝トーナメント準々決勝で、20年ぶりにリヴァプールとユヴェントスが対戦することとなった。


[[2005年]]4月5日に行われた[[アンフィールド]]での第1戦の試合前に、事件の犠牲者への追悼式が行われた。この際に「加害者側」であるリヴァプールのサポーター達は「''AMICIZIA''」([[イタリア語]]で友情)の人文字を作り「被害者側」であるユベントスのサポーターへ和解を求めた<ref>{{cite news| url =http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/4409501.stm | title= Mixed reactions to Heysel homage | publisher =BBC SPORT| date=2005年4月6日 | accessdate = 2011年8月12日}}</ref>。これに対しユベントスのサポーターは同年13日に[[デッレ・アルピ]]で行われた第2戦において「1989年4月15日シェフィールド、神は存在する」と描かれた横断幕を掲示し、ヒルズボロの悲劇はヘイゼルの悲劇に対する神罰であると応じた<ref name="地球の歩き方プラスワン"/>。
== ポップカルチャーへの影響 ==

*[[ミニストリー]]の[[アル・ジョージェンセン]]等を中心とするインダストリアルバンド、[[リヴォルティングコックス]]([[:en:Revolting Cocks]])の曲「38」に題材として取り上げられた。
試合は第1戦はホームのリヴァプールが2-1で勝利、第2戦は0-0の引き分けに終わり、リヴァプールが準決勝へ進出した。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 脚注 ===
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=安藤正純、石田英恒著|year=2001|title=ワールドカップを100倍楽しむための フーリガン完全対策読本|publisher=[[ビジネス社]]|isbn=978-4828409085|ref=安藤、石田、2001}}
* {{Cite book|和書|author=[[川北稔]]|year=1998|title=イギリス史 |publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634414105 |ref=川北 1998}}
*パット・コリンズ「血塗られた欧州チャンピオンズカップ--欧州サッカーの栄誉を決める日が戦慄すべき夜となった!」『イレブン』1985年8月号
*ミシェル・ピコ「ベルギーの惨劇でやっと糾弾されたサポーターの暴走--ファンの暴挙はサッカーをダメにする」『[[週刊サッカーマガジン|サッカーマガジン]]』1985年8月号
* {{Cite book|和書|author=ドミニック・ボダン著、[[陣野俊史]]、相田淑子訳|year=2005|title=フーリガンの社会学|publisher=[[白水社]]|isbn=4560508941 |ref=ボダン 2005}}
* {{Cite book|和書|author=クレイグ・マクギル著、田邊雅之訳|year=2002|title=サッカー株式会社|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163581804|ref=マクギル 2002}}
* {{Cite book|和書|author=パトリック・ミニョン著、堀田一陽訳|year=2002|title=サッカーの情念--サポーターとフーリガン|publisher=[[社会評論社]]|isbn=978-4784503988|ref=ミニョン 2002}}
* {{Cite book|和書|author=トニー・メイソン著、[[松村高夫]]、山内文明訳|year=1991|title=英国スポーツの文化|publisher=[[同文館]]|isbn=978-4163581804|ref=メイソン 1991}}
* {{Cite book|和書|author=テオ・ライゼナール著、佐藤克彦、野間けい子訳|year=2002|title=フーリガン解体新書|publisher=[[ビクター・エンターテインメント|ビクターブックス]]|isbn=978-4893891723|ref=ライゼナール 2002}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Heysel Stadium disaster}}
{{Commons|Category:Heysel Stadium disaster}}
*[[フーリガン]]
* [[ヴァダリズム]]
* [[若者文化]]
*[[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝]](イスタンブールの奇跡)
* [[雑踏警備]]
*[[ヒルズボロの悲劇]]

== 外部リンク ==
* {{en icon}}[http://www.timesonline.co.uk/tol/system/topicRoot/Heysel_Disaster/ Heysel Disaster]
* {{en icon}}[http://www.sirc.org/publik/football_violence.pdf Football Violence in Europe]
* {{it icon}}[http://spazioinwind.libero.it/solegemello/heysel.html Stadio Heysel 29-5-1985. la tragedia pagina ricordo]

{{ウィキ座標2段度分秒|50|53|42|N|4|20|2|E|region:BE_type:event|display=title}}
{{DEFAULTSORT:へいせるのひけき}}
{{DEFAULTSORT:へいせるのひけき}}
[[Category:サッカー試合]]
[[Category:1985年災害]]
[[Category:UEFAチャンピオンズリーグ]]
[[Category:1985年のサッカー]]
[[Category:1985年のサッカー]]
[[Category:暴動]]
[[Category:暴動]]
[[Category:群集事故]]
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[[Category:ユヴェントス]]
[[Category:ユヴェントス]]
[[Category:ブリュッセルの歴史]]
{{Link FA|pl}}
{{Link FA|pl}}



2011年8月11日 (木) 21:10時点における版

ヘイゼルの悲劇
事件現場となったヘイゼル・スタジアム
場所 ベルギーの旗 ベルギーブリュッセル
日付 1985年5月29日
原因 フーリガン問題、スタジアムの老朽化、警備体制の不備
攻撃手段 暴力
死亡者 39人
負傷者 400人以上
犯人 リヴァプールFCサポーター
対処 リヴァプールFCは7年間、それ以外のイングランドのクラブは5年間の国際試合出場禁止。暴動に関与した14人が過失致死傷罪により懲役3年。
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ヘイゼルの悲劇 [注 1] (ヘイゼルのひげき、英語: Heysel Studium Disaster)は、1985年5月29日ベルギーブリュッセルにあるヘイゼル・スタジアム [注 2] で行われたUEFAチャンピオンズカップ 1984-85決勝のリヴァプールイングランド)対ユヴェントスイタリア)の試合前に、サポーター同士の衝突がきっかけとなり発生した群集事故である[1]

背景

フーリガニズムの起源

サッカースタジアムでの観客による暴動は19世紀以来の問題であり[13]1909年スコティッシュカップ決勝では延長戦を行わなかったことを不服としたサポーターがスタジアムを破壊し100人以上が負傷[14]1964年にはペルーでピッチに雪崩れ込んだサポーターに対して警官隊が催涙ガスを使用し、パニック状態になった観客が出口に殺到し300人が死亡した事故 (1964 Lima football riot) などが記録として残されている[14]。また1972年5月にスペインバルセロナで行われたUEFAカップウィナーズカップ決勝・グラスゴー・レンジャーズディナモ・モスクワ戦では、試合中から試合後にかけて泥酔したレンジャーズサポーターと警官隊が衝突を繰り返し、1人が死亡150人が負傷する事件を引き起こした (1972 European Cup Winners' Cup Final riots) [14][15]が、これによりレンジャーズは欧州サッカー連盟 (UEFA) から2年間の国際試合出場禁止処分(後に1年間に軽減)を受けた[15]。この試合はサッカークラブが暴力的サポーターの逸脱した行為により深刻な処分を受けた初の事例とされている[15]

イングランド情勢

イングランドのサポーターによる暴動は1960年代頃から頻発するようになリ[13][16]、サポーター同士による抗争だけでなく、遠征先の相手チームのスタジアムや近隣の商店街、移動に使用する鉄道バスなどの公共の交通機関への破壊活動などを通じて通じて社会問題として認識されるようになった[16][17]。暴力行為に及ぶサポーターの多くは若い失業者であった[18]。この背景には労働者階級の若者達がテレビ放送の影響もあり自分達の応援するクラブや選手達を崇拝の対象と見做し、日常の捌け口としてスタジアムでの暴力行為に及んでいたこと[14]、テレビ放送により映し出される暴力的なサポーターの姿に感化され、他のサポーター達も同じように振舞うようになったこと[19][20]など挙げられる。

これらの対策として、スタジアムでは大量の警官が動員され、暴動の首謀者を捕獲するために特別チームが編成された[16]。また他の都市から遠征してくるサポーター集団に対してはスタジアム外でトラブルを派生させないように交通機関からスタジアムまでを警官により護送が行われ[16]、スタジアム内では観客同士のトラブル派生をさけるために別々の区画に隔離がされた[16][21]

その一方でサポーターによる暴動は、鉄道飛行機を使用した低料金での旅行が可能になり行動範囲が広がった[14][19]ことから、遠征先となるヨーロッパ各国のスタジアム周辺でも行われ、1974年5月29日にオランダロッテルダムで行われたUEFAカップ決勝第2戦・フェイエノールトトッテナム・ホットスパー[22][23]や、1975年5月28日にフランスパリで行われたUEFAチャンピオンズカップ決勝・バイエルン・ミュンヘンリーズ・ユナイテッド[22][23]1980年6月12日にイタリアのローマで行われたUEFA欧州選手権1980グループリーグ、イングランドベルギー[22]などで暴動を引き起こした[13][14]

1980年代に入り、長引く経済不況の対策としてマーガレット・サッチャー首相は、財政支出の削減と通貨供給量の縮小によるインフレの抑制[24]、国営企業の民営化と経済活動への規制緩和[25]、労働組合運動を雇用法の改正により規制[24][25]、税制改革[24]、行政改革、教育改革[26]、福祉制度見直し[27]などの改革を実施したが、これにより大量の失業者を生み出すことになった[24]。1985年当時のイギリスの失業率は13%を記録していたが、産業の構造転換に乗り遅れたリヴァプールなどの工業都市の若年失業率は30%に達しており、社会全体の閉塞感が暴動の頻発に繋がっているとの指摘がされた[18][28]

兆候

事故が発生した1985年には、3月11日にFAカップ準々決勝でのミルウォールFCのサポーターによる大規模な暴動 (1985 Kenilworth Road riot) や、5月11日にバーミンガムで15歳の少年が死亡57人が重軽傷を負う乱闘事件が発生[18]するなど、暴力的集団によるトラブルが毎週のように報じられていた[29]。こうした暴力行為に及ぶ集団は、チェルシーFC、トッテナム・ホットスパーFC、ミルウォールFCなどのロンドンを本拠地とするクラブに多く[30]、地方のクラブの中でもマンチェスター・ユナイテッド、リーズ・ユナイテッドなどの集団が危険な存在として知られていた[30]

一方でリヴァプールFCのサポーター集団も、これまで幾度かの暴力事件を発生させており[31]、国際試合においても1984年5月30日に行われたUEFAチャンピオンズカップ 1983-84決勝のASローマ対リヴァプール戦の試合後に両サポーターが衝突し、イタリア人青年1人が死亡し37人が負傷した事件[32][31]。1985年3月にオーストリアウィーンで行われたFKアウストリア・ウィーン戦などで事件を引き起こしていた[31]。頻発するサポーターによる暴動の対策としてチェルシーFCではスタジアムのゴール裏に強制収容所に用いられる鉄条網を設置し、「人体には害はないが強度のショック症状を与える」電流を流す改装を施した[18]が、大ロンドン議会の反対に遭い電流の使用は中止された[18]

また観客による暴動ではないものの、5月11日にはブラッドフォードで、試合中に火の不始末が原因となり木造のスタジアムが全焼し56人が死亡265人が負傷した火災事故 (Bradford City stadium fire) が発生するなど、大きなトラブルが頻発していた。

概要

運営

ヘイゼル・スタジアムの見取り図

会場となったヘイゼル・スタジアムは収容人数6万人のベルギー国内で最大のスタジアムであり、陸上競技球技兼用のスタジアムである。過去にUEFA欧州選手権1972決勝、UEFAチャンピオンズカップ決勝 (1958, 1966, 1974) 、UEFAカップウィナーズカップ決勝 (1964, 1976, 1980) 、ヨーロッパ陸上競技選手権大会 (1950) などの国際大会を開催した実績のあるスタジアムだったが、1930年の建設から55年の年月が経過しており老朽化が進んでいた[33]

運営側は混乱を避けるためにユヴェントスサポーターは正面向かって右側ゴール裏のM、N、Oゾーン、リヴァプールサポーターには正面向かって左側ゴール裏のX、Yゾーンに席が割り当てチケット販売を行った。X、Yゾーンに隣接するZゾーンは一般観客用の席として割り当てられていたが、ダフ屋がチケットを持たずに現地を訪れた一般のファンにZゾーンの席を売りさばいた[33]。Zゾーンのチケットを購入した人々の多くはユヴェントスサポーターだったため、両サポーターがX、YゾーンとZゾーンを隔てるフェンスを挟んで対峙することになった[33]

事故の経過

リヴァプールサポーターの進入経路。M、N、Oゾーンはユヴェントス、X、Yゾーンはリヴァプール、Zゾーンは中立的な一般客の席として割り当てられていたが、試合当日にチケットを求めて訪れたユヴェントスサポーターがダフ屋からZゾーンの席を購入していた経緯もあり、運営側の思惑と外れ両者が対峙する形になった。試合開始1時間前から小競り合いが続き、やがて暴動へと発展した。

会場では試合に先立ちエキシビションマッチとして11歳から12歳の選手で構成される若いベルギー代表選手による紅白戦が行われていた[32]。赤チームが3-0でリードしたまま前半を終了し、後半に入った19時10分頃からスタンドではサポーター同士によるトラブルが始まった[32]

試合開始1時間前から酒に酔ったリヴァプールサポーターはZゾーンにいるユヴェントスサポーターに空き缶や旗を投げつけるなど断続的に挑発[34]。これにユヴェントス側も応じ両サポーターは小競り合いを繰り返していたが、リヴァプール側がYゾーンとZゾーンを隔てていた防御用フェンスを破壊すると、手薄な警備の隙を突いて煉瓦や鉄パイプを武器にユヴェントスサポーターのいるZゾーンへと雪崩れ込んだ[34][35]

Zゾーンの観客はリヴァプール側の襲撃によりパニック状態になり、大勢の観客が襲撃を避けようとメインスタンドとZゾーンの境にある高さ3mのコンクリート製の壁に殺到した[33]。壁は老朽化のため殺到した観客の重量に耐え切れず倒壊したことで「群衆雪崩」が発生し、先頭部にいた観客は崩れ落ちた壁や後方から殺到した観客に押しつぶされる形となり次々と犠牲になった[33]。グラウンドや陸上競技用のトラックには負傷者やトラブルを回避する数百人近い人々で溢れかえり、重傷者には心肺蘇生などの救急処置が行われ、救急車とヘリコプターを使って市内の医療施設に搬送された[34]。また犠牲者の遺体はスタジアム正面入り口の仮設テントに並べられた[34]

その一方で興奮した両サポーター同士が衝突を続けたり、警官隊めがけて投石を行うなどの行為が頻発した[36]。この試合を最後に監督を退く事を表明していたリヴァプール監督のジョー・フェイガンがスタンドに歩み寄りサポーターに対し冷静になるよう直に呼びかけを行った[36]。またユヴェントス主将のガエタノ・シレアとリヴァプール主将のフィル・二ール (Phil Neal) が場内放送を通じて事態を鎮圧するべくサポーターに呼びかけを行った[33]が聞き入れるファンは少なく、1時間後に警官隊700人、軍隊1000人を動員して暴動を鎮圧した[35]

ベルギー内務省は事件翌日の5月30日、両クラブのサポーターの衝突によりイタリア人25名を含む38人が犠牲になり[37](後に39人が死亡[38]、内訳はイタリア人が32人、ベルギー人が4人、フランス人が2人、イギリス人北アイルランド出身)が1人と判明[38])、事件に関与したとしてイギリス人12人を含む15人を逮捕したことを発表した[37]

原因

事故の背景には、ベルギー当局の警備上の問題があることが指摘された[37][39]。イギリス政府からはサポーター同士の衝突を懸念し、ベルギー政府に対し厳重な警備を行うよう事前に要請が行われた[34]が、スタジアム内では適切な警備体制は行われなかった[34]。通常の警備体制であれば両サポーターの間に緩衝地帯を設けてその間に警官隊を配置して混乱やトラブルを防ぐような仕組みになっているが[33]、当日のスタジアムでの警官の配置は不十分であり、両サポーターによる小競り合いが始まった後も警官隊の応援を要請するなどの対応は遅れた[33]

また会場ではナイフや鉄パイプなどの凶器、瓶缶類の持込が公然と認められており[37]、暴動を起こしたリヴァプールサポーターは酒に酔い酩酊状態にあるため一般客は騒動を止めたくても止めることが出来なかったとしている[37]。この暴動にはイギリスの極右団体国民戦線 (NF) が関わっているとの証言が多くのファンや関係者からなされた[40]。NFはこれまでもサッカースタジアムで党員の勧誘や暴力行為を推奨する活動を行っており[40]、当日もNF党員がサポーターの暴動を扇動したと指摘された[40]

一方、加害者側であるリヴァプール側サポーターの中には、事故の発端となったのはユヴェントス側であり、「ユヴェントス側の投石行為が暴動を誘発させた」と主張する者もいた[39]。また「ユヴェントス側サポーターに虐められていた子供を助けるために喧嘩をしかけた。このことが暴動のきっかけとなった」と主張するリヴァプール出身の少年の談話がイギリスの新聞に掲載された[41]が、抗議が殺到したという[41]。またユヴェントス側サポーターの一人が拳銃を所持し、暴動が発生した際に複数回に渡って警官に発砲を行ったとの報道がテレビニュースを通じて行われた[42]

また警備体制の不備のほかに、スタジアムの老朽化[32]、ダフ屋行為による不正なチケット販売[32]、スタジアムでの飲酒の容認[32]による暴力行為の誘発などが挙げられるが、1984年5月30日に行われたUEFAチャンピオンズカップ 1983-84決勝のASローマ対リヴァプール戦の試合後に両サポーターが衝突し、イタリア人青年1人が死亡し37人が負傷した事件[32][43]や、事故直前に催されたエキシビションマッチが事故の遠因となっているとの指摘もされた[32]

試合

ヘイゼルの悲劇
大会名 UEFAチャンピオンズカップ 1984-85
開催日 1985年5月29日
会場 ヘイゼル・スタジアム(ブリュッセル)

ユヴェントス監督のジョヴァンニ・トラパットーニは「多数の死傷者を出した惨事の後に試合をすることは出来ない」と中止を求めた[44]が、主催者側の「試合が中止になれば、騒動は更に過熱化する」との主張を受け入れ[44]、試合開始を1時間30分後に遅らせて試合を決行した[44]

試合は56分にズビグニェフ・ボニエクが倒されて獲得したPKをミシェル・プラティニが決めてユヴェントスが1-0で勝利。ユヴェントスは3度目の決勝進出で初優勝を成し遂げたが、イタリア勢としては1968-69シーズンのACミラン以来16年ぶりの優勝となった。またリヴァプールはこれまで同大会では4回決勝戦へ進出しいずれも優勝を成し遂げていたが、初の決勝戦での敗退となった。

なお決勝点を決めたプラティニ自身は25年後の2010年5月29日トリノで行われた事件の追悼式典においてヘイゼルの悲劇について

私は30歳に満たず無邪気にサッカーを楽しんでいたが、あの夜の暗い体験をした。あの試合は普通ではなかった。悲劇を経験した全ての人間はあの記憶を消しさることは出来ないし誰も忘れることは出来ない。今でも犠牲者とその遺族の方々を考えずにはいられない

と発言している[6][7]

国際社会の反応

イギリスの旗 イギリス

5月29日、サッチャー首相は同日夜に「事件に関与し責任を負うべき者たちは、我が国とサッカー競技に対し多大な恥辱と不名誉をもたらした」との声明を発表[45]
5月30日、サッチャー首相は事件の全責任がリヴァプール側のイギリス人にあることを認め、イタリア政府に謝罪。犠牲者の遺族に対し見舞金として暫定的に25万ポンド(約8千万円)を支払った[46][47]。同日、サッチャー首相は暴動の再発防止策として、警察の警備権限強化、スタジアムでのアルコール販売禁止、凶器となり得る瓶缶類の持込禁止、観客の身元を確認するためのIDカードの発行などを盛り込んだ規制立法を提出[46]。元首のエリザベス2世はイタリアとベルギー両国に対し事件に関するメッセージを送り弔意を示した[46]

ベルギーの旗 ベルギー

5月29日、ヴィルフリート・マルテンス (Wilfried Martens) 首相がイタリア政府に対し弔電を送った[35]
5月30日、同国の内務大臣はイングランドの全てのサッカークラブのベルギーへの入国を拒否する声明を発表[46]
5月31日、同国のテレビ局RTBFは事件当日、騒動が更に悪化することを懸念した関係者によりユヴェントスFCを意図的に勝利させたとする八百長疑惑を報道したが、ベルギーサッカー協会は疑惑を全面的に否定した[46]
6月1日、メルスブローク空軍基地で犠牲者に対する追悼式典を開催し、マルテンス首相ら政府関係者が出席[48]

イタリアの旗 イタリア

5月29日、アレッサンドロ・ペルティーニ大統領は「スタジアムを惨劇に変えた暴力行為を憎む」との声明を発表[35]
6月1日、リグーリア州インペリア県ディアーノ・マリーナでイギリス系企業の所有するバスが襲撃にあう[49]ミラノ市内でイギリス人男性が暴行を受ける[49]
6月2日、ミラノ市内のイギリス系専門学校に火炎瓶が投げ込まれる[46]。同日、ローマ市内のイギリス大使館前で数百人がデモ活動[46]

バチカンの旗 バチカン

5月29日、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は追悼ミサを行い事故の犠牲者を弔った[35]

西ドイツの旗 西ドイツ

5月29日、第2ドイツテレビ (Zweites Deutsches Fernsehen, ZDF) は試合開催に抗議して当日の中継を中止した[35]。同テレビ局は放送中止の理由について「多数の死者を出した後に、暴徒に囲まれながら何事もなく試合を放送することは無責任である」と伝えた[45]

フランスの旗 フランス

5月31日、パリ市内でイギリスナンバーの自動車50台が破壊される[46][49]

対処

イングランドのサッカーを統括するフットボール協会 (FA) は5月30日、協会に加盟する全クラブに対し翌1985-86シーズンの国際大会への出場自粛を決定[35]したが、欧州サッカー連盟 (UEFA) は6月2日、 イングランドの全クラブに対し欧州での国際試合への無期限出場禁止 [46][50](当初はイングランドの全クラブへの無期限出場禁止処分の解除後に当事者のリヴァプールは更に3年の出場禁止処分を課せられていたが、後にイングランドの全クラブは5年間、リヴァプールは7年間の出場禁止処分に変更された)、被害者側のユヴェントスに対しUEFA主催の国際試合においてホームゲーム2試合を無観客で執り行う[51]、主催者側のベルギーは今後10年間、UEFA主催の国際大会の決勝戦開催を禁止するとの処分を発表した[50][51]。FAの理事を務めるバート・ミリチップは「妥当な判断」としてこれを支持した[46]。UEFAは6月5日、事故犠牲者の遺族に対し総額50万スイスフラン(約5千万円)の見舞金を支払うことを決定[46]

国際サッカー連盟 (FIFA) は事故後、試合時の安全性を高めるように世界各国のサッカー協会に対し通達したが[35]、UEFAの決定を受けて6月6日にイングランドの全クラブに対し国外での全ての国際試合禁止を決定。これに対しFAは「全ての国際試合から締め出されては改善した成果を見せる機会を失う」とFIFAの決定に提訴し[46]、同年7月11日に欧州以外での国際試合禁止処分は解除された[51]

同年6月、欧州21カ国のスポーツ担当大臣による会議の席上でスタジアム周辺での警備強化、スタジアムでのアルコール販売禁止などを盛り込んだ「サッカースタジアムでの暴力根絶のための協定」が採択され、同年9月にイギリス、オーストリアオランダギリシャデンマーク、ベルギーの6カ国が協定に署名した[52]

裁判

イギリス当局により実行犯と見られるリヴァプールサポーター25人が割り出され、1987年9月9日、ベルギーでの裁判の起訴に出頭するため、軍用機でベルギーに移送された[53]。裁判は翌1988年から開始され、有罪の場合は最大で懲役15年の判決が下される可能性があった[53]。ベルギーで行われた裁判での5ヶ月の審議の結果、1989年に暴動に関与した14人が過失致死傷罪により有罪となり、7人に懲役3年、残りの7人が執行猶予3年の判決を受けた[38][53]

影響

クラブへの影響

UEFAによるイングランド勢の出場禁止処分により以下のクラブが数年間、UEFA主催の各国際大会への出場資格を失った。事件が発生する年までの10年間でチャンピオンズカップに7度優勝するなど絶頂期にあったイングランドのクラブは国際舞台での活躍の場を失ったことで国際競争力を失う結果となった[54]。出場禁止処分が解けた後のイングランド勢のUEFAチャンピオンズカップとUEFAチャンピオンズリーグでの決勝進出は1999年のマンチェスター・ユナイテッドまで1つもなく、リヴァプールは事件から20年後の2005年まで同大会での決勝進出と優勝は途絶えることになった。

クラブ UEFAチャンピオンズカップ UEFAカップウィナーズカップ UEFAカップ
リヴァプール 1986-87, 1988-89, 1990-91 1989-90 1985-86, 1987-88
エヴァートン 1985-86, 1987-88 1986-87 1988-89
アーセナル 1989-90 - 1987-88
マンチェスター・ユナイテッド - 1985-86 1986-87, 1988-89
コヴェントリー・シティ - 1987-88 -
ウィンブルドン - 1988-89 -
トッテナム・ホットスパー - - 1985-86, 1987-88, 1989-90
ノリッジ・シティ - - 1985-86, 1987-88, 1989-90
ノッティンガム・フォレスト - - 1988-89, 1989-90
サウサンプトン - - 1985-86
ウェストハム・ユナイテッド - - 1986-87
シェフィールド・ウェンズデイ - - 1986-87
オックスフォード・ユナイテッド - - 1986-87
ルートン・タウン - - 1988-89
ダービー・カウンティ - - 1989-90

フーリガン対策

1989年にサッカー監視法が制定され、サッカー関連の犯罪に関して有罪判決を受けた者に対し、裁判所が行動を制限する命令を下せるようにした[55]。この監視法は暴力行為だけでなく、人種差別行為、ダフ屋行為などを行った者も処罰の対象となった[55]

また、武装組織アイルランド共和軍 (IRA) と対立していたアルスター義勇軍 (Ulster Volunteer Force) を取締する際に効果を発揮した潜入捜査をサポーター集団や暴力的サポーターに対し実施[56]。国家犯罪情報局 (NCIS) にサッカー部門が常設され情報を調整し、過去にスタジアムでの暴力事件に関与した人物のデーターベース化や、各国のクラブや警察機関と連携し情報を共有できるようにするなどの対策も講じられた[56][57]

同年4月15日に行われたFAカップ準決勝のリヴァプール対ノッティンガム・フォレスト戦ではテラスと呼ばれるゴール裏の立見席にサポーターが殺到し、96人が死亡600人以上が負傷する群集事故が発生(ヒルズボロの悲劇)し、リヴァプールサポーターは再び批判を受けた[54]。事件を検証したピーター・テイラー裁判官は入場時の観客誘導に問題があったことを指摘すると共に、スタジアムの安全性確保のため立見席の廃止を提唱した(Taylor Report)[54][58]。この提唱を受け1992年から始まったプレミアリーグではスタジアムの座席は全席指定の着席式に改められた。

1980年代に発生した2つの事件はスタジアムにおける観客の安全性確保の大きな警鐘となった[54]。1990年代に入ると労働者階級に変わって中産階級のファンが増加[59]したことで暴力事件は減少し観客のマナーも向上するなど、スタジアム内でのトラブルは過去の出来事と考えられるようになった[59][60]。その一方で、路上、酒場、交通機関などといったスタジアム外でのトラブルは依然として頻発[61]するなど、フーリガン問題の根本的な解決には至っておらず[61]、NCISの規定では試合前後の24時間以内に発生したトラブルについてはサッカーに関連した事件として記録し、取り締まっている[61]

その後

アンフィールドのサポーターによる "Amicizia" (友情)の人文字

UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05の決勝トーナメント準々決勝で、20年ぶりにリヴァプールとユヴェントスが対戦することとなった。

2005年4月5日に行われたアンフィールドでの第1戦の試合前に、事件の犠牲者への追悼式が行われた。この際に「加害者側」であるリヴァプールのサポーター達は「AMICIZIA」(イタリア語で友情)の人文字を作り「被害者側」であるユベントスのサポーターへ和解を求めた[62]。これに対しユベントスのサポーターは同年13日にデッレ・アルピで行われた第2戦において「1989年4月15日シェフィールド、神は存在する」と描かれた横断幕を掲示し、ヒルズボロの悲劇はヘイゼルの悲劇に対する神罰であると応じた[54]

試合は第1戦はホームのリヴァプールが2-1で勝利、第2戦は0-0の引き分けに終わり、リヴァプールが準決勝へ進出した。

脚注

注釈

  1. ^ 英語名のHeysel Studium DisasterDisasterを日本語訳すると「災害」「惨事」「災難」になるが、日本では「悲劇」 (Tragedy) と表記されることが慣例化している[1][2][3][4][5][6][7]。1980年代以降に出版された翻訳書では「ヘイゼル事件[8]、「ヘイゼル・スタジアム死亡事件」[9]「ヘーゼル・フットボール競技場騒動」[10]、「エーゼルの悲劇」[11]といった表記もある。
  2. ^ 1963年に制定された言語法により、ブリュッセルを含む周辺19自治体ではフランス語オランダ語の双方を公用語とすることを定めている[12]。フランス語では、スタッド・デュ・エゼル (Stade du Heysel)、オランダ語では、ヘイゼル・スタディオン (Heizel Stadion) と表記されることになるが、本稿では慣例的表記[1]に併せて記す。

脚注

  1. ^ a b c 『サッカーマルチ大辞典 改討版』ベースボールマガジン社、2006年、416頁頁。ISBN 978-4583038803 
  2. ^ 『ワールドサッカー歴史年表』カンゼン、2008年、112頁頁。ISBN 978-4862550156 
  3. ^ 安藤、石田 2001、25頁
  4. ^ 陣野俊史『フットボール都市論--スタジアムの文化闘争』青土社、2002年、118頁頁。ISBN 978-4791759613 
  5. ^ “プランデッリ監督 「ヘイゼルの悲劇は忘れられない」”. AFPBB News. (2009年9月29日). http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/champion-league/2647490/4685617 2011年8月12日閲覧。 
  6. ^ a b ““ヘイゼルの悲劇”から25年「ニ度と繰り返してはいけない」”. Gazzetta.it. (2010年5月30日). http://news.livedoor.com/article/detail/4798158/ 2011年8月12日閲覧。 
  7. ^ a b “ヘイゼルの悲劇から25年、ユーヴェが追悼セレモニー”. Goal.com. (2010年5月30日). http://www.goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2010/05/30/1949430/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%92%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%81%8C%E8%BF%BD%E6%82%BC%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC 2011年8月12日閲覧。 
  8. ^ ボダン 2005、47頁
  9. ^ ビル・ビュフォード著、北代美和子訳『フーリガン戦記』白水社、1994年、148頁頁。ISBN 978-4560040362 
  10. ^ マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳『サッチャー回顧録--ダウニング街の日々(上)』日本経済新聞社、1994年、508頁頁。ISBN 978-4532161163 
  11. ^ ニック・ホーンビィ著、森田義信訳『ぼくのプレミア・ライフ』新潮社、2000年、246頁頁。ISBN 978-4102202128 
  12. ^ 小川秀樹『ベルギーを知るための52章』明石書店、2009年、106-108頁頁。ISBN 978-4750329246 
  13. ^ a b c ボダン 2005、17頁
  14. ^ a b c d e f ロジャー・マクドナルド著、サッカーマガジン編集部訳 編『写真で見るサッカーの歴史 グローバル・スポーツそのメモリアル・シーン』ベースボールマガジン社、1982年、126-129頁頁。ISBN 978-4583021317 
  15. ^ a b c ライゼナール 2002、161頁
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  17. ^ ミニョン 2002、121頁
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  19. ^ a b マクギル 2002、201頁
  20. ^ ミニョン 2002、125頁
  21. ^ ミニョン 2002、123頁
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  23. ^ a b ライゼナール 2002、161頁
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  28. ^ ボダン 2005、31-33頁
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  50. ^ a b 「英国とイタリアの上訴却下」『イレブン』1985年11月号、89頁
  51. ^ a b c 「リバプールは他の処分解除後も3年追加」『サッカーダイジェスト』1985年9月号、37頁
  52. ^ 「暴力根絶の協定に6カ国がサイン」『イレブン』1985年11月号、89頁
  53. ^ a b c “1987: Liverpool fans to stand trial in Belgium”. BBC ON THIS DAY. (2002年11月22日). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/september/9/newsid_2503000/2503885.stm 2011年8月12日閲覧。 
  54. ^ a b c d e 「Another Side of Football リヴァプールの優勝と2つの悲劇」『地球の歩き方プラスワン405 欧州サッカー観戦ガイド』ダイヤモンド社、2005年、350頁頁。ISBN 978-4478037744 
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参考文献

関連項目

外部リンク

座標: 北緯50度53分42秒 東経4度20分2秒 / 北緯50.89500度 東経4.33389度 / 50.89500; 4.33389 Template:Link FA