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「北欧史」の版間の差分

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[[File:NordicPassportUnion.png|thumb|250px|北欧]]
'''北欧の歴史'''というものは、「[[北ヨーロッパ|北欧]]」というものがどの地域を指すかによって変わるが、ここでは、[[デンマーク]]、 [[スウェーデン]]、 [[ノルウェー]]、 [[フィンランド]]、 [[アイスランド]]の五カ国を指す。
'''北欧史'''では、一般に[[北欧]]と呼称される[[ヨーロッパ]]北部に位置する地域に関する歴史を詳述する。

これらの国々を総じて「[[北欧諸国]]」ともいう(ほかに[[リトアニア]]、[[ラトビア]]、[[エストニア]]、[[ドイツ]]、[[ポーランド]]、[[ロシア]]の[[バルト海]]沿岸部を北欧と称すこともある)。このうち、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンを「[[スカンディナヴィア]]」と呼ぶ。フィンランドは[[ロシア]]の支配を受けたことによって、スカンディナヴィアに入れない。また、アイスランドは[[島国]]のため含めない。


== 先史時代 ==
== 先史時代 ==
[[バルト海]]を中心にして展開する[[北欧]]の地に人類が足跡を残したのは[[ヨルディア期]]([[紀元前10000年]]から[[紀元前6000年]]ごろ)で、バルト海東岸や[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]北端の[[フィンマルク県|フィンマルク]]など、[[最終氷期|ヴュルム氷期]]の終了とともに[[氷原]]から解放された地域だとされている<ref name="tunoda_018">[[#角田1955|角田1955]]、p.18。</ref>。彼らは南方の地より[[トナカイ]]を追い求めて移動をしてきた人々であり、[[旧石器時代|後期旧石器時代]]の西欧文化の流れを汲んでおり、一定地域を巡回しつつ狩猟生活を送っていた<ref name="tunoda_018"/>。[[シェラン島]]の[[リングビ文化]](''[[:en:Lyngby culture|Lyngby culture]]'')、ノルウェー西岸の[[フォスナ文化]](''[[:en:Fosna-Hensbacka culture|Fosna-Hensbacka culture]]'')、北岸の[[コムサ文化]](''[[:en:Komsa culture|Komsa culture]]'')などがその代表例とされる<ref name="tunoda_018"/>。
約13,000年前まで、ほぼ全域にわたって[[氷河]](氷床)に覆われ、大陸と繋がっていた。約12,000年前には世界的な温暖化をむかえて氷河溶け出して地表面が現れ、動植物とハンブルク文化<ref>現在の[[ドイツ]]北部に栄えていた文化</ref>の影響を受けた人々が南部に渡ってきてブローメ文化を築いた。海面や陸地の両方の上昇によりバルト氷湖が大西洋と繋がってヨルディア海となったり、元に戻ってアンキュルス湖となったりした。この時スカンディナヴィアはヨーロッパ各地と陸続きとなり、大陸北西部の広大な地域に狩猟・採集を生業とし、沿岸部では漁労も営み、季節的移動生活をしていた人々によるマウレモーセ文化が形成された。約8500年前、スカンディナヴィア半島は大陸から離れ、アンキュルス湖は今日のバルト海の原形であるリトリナ海となった。各地で多様な文化が生まれるが、なかでも[[フィンランド]]ではマウレーセ文化に並行するスオムスヤルヴィ文化が長く続いた。
[[File:Altarockcarvings2.jpg|thumb|left|200px|[[1985年]]に[[世界遺産]]として登録された[[ノルウェー]]の[[アルタの岩絵]]は、[[極北美術]]の代表例として知られている。]]
[[アンシルス期]](紀元前6000年から[[紀元前4500年]]ごろ)になると氷河は[[スカンディナヴィア半島]]の背梁部へと後退していき、各地で様々な文化が花開き、活発化した。主要なものとしては[[マグレモーゼ文化]](''[[:en:Maglemosian culture|Maglemosian culture]]'')、[[クンダ文化]](''[[:en:Kunda culture|Kunda culture]]'')、[[スオムスエルヴィ文化]](''Suomusjärvi culture'')などが挙げられる<ref name="tunoda_018"/>。これらの諸文化では[[細石器]]や原始的な[[石斧]]が用いられて狩猟が行われていたほか、[[イヌ|イエイヌ]]が使用されるようになったことが特筆される<ref name="tunoda_018"/>。また、バルト海で採取される[[琥珀]]を用いた垂飾などの[[装身具]]もこのころから利用されるようになった<ref name="tunoda_018"/>。その他、[[1972年]]にフィンマルクで発見され、[[世界遺産]]に登録されている[[アルタの岩絵]]が作成されはじめたのもこの頃からと言われている。

[[リトリナ期]](紀元前4500年から[[紀元前400年]]ごろ)に入ると南方の先進文化の影響を受けつつ北欧の各文化はさらに発展を遂げる。気候の温暖化により海面上昇とともに貝類の繁殖が見られるようになり、デンマークの[[エルテベレ文化]](''[[:en:Ertebølle culture|Ertebølle culture]]'')などでは[[貝塚]]が形成されるようになった<ref name="tunoda_019">[[#角田1955|角田1955]]、p.19。</ref>。時期を同じくして[[フィンランド]]などでは[[ロシア]]から伝播した[[櫛目文土器文化 (ヨーロッパ)|櫛目文土器]]の利用が見られるようになった<ref name="tunoda_019"/>。
[[File:Båtformig skafthålsyxa, Nordisk familjebok.jpg|thumb|150px|[[ネルケ地方]]で出土した舟形斧はBoat Axe cultureと呼称される所以となっている。]]
中東の[[肥沃な三日月地帯]]で始まった[[農耕]]・[[牧畜]]が伝えられるようになった[[紀元前2500年]]には、エルテベレ文化を基盤としつつもそれまでの狩猟・漁撈中心の生活から農耕を中心とした小規模の集落からなる定住生活が行われるようになり、同時に[[ウシ]]、[[ウマ]]、[[ヒツジ]]、[[ブタ]]といった家畜の利用が始まった<ref name="tunoda_021">[[#角田1955|角田1955]]、p.21。</ref>。[[紀元前2100年]]になると[[イギリス]]の[[ストーンヘンジ]]に代表される[[巨石記念物|巨石文化]]が伝播し、巨石墳を製造して合葬を行う[[トレヒテルベーケル文化]]([[:en:Funnelbeaker culture|Trichterrandbecher culture]])が形成された<ref name="tunoda_021"/>。この時代に入ると石器類の製造技術にも飛躍的な発達が見られ、厚頭斧や[[フリント]]の打製短剣などが登場している<ref name="tunoda_021"/>。[[紀元前1000年]]ごろより[[ユトランド半島]]中部や西部で単葬墳が見られるようになると次第に周囲へと広がって行き、[[単葬墳文化]]([[:en:Corded Ware culture|Single Grave culture]])が生まれる。また同じ頃、バルト海東岸やフィンランド西南部では[[舟形斧文化]]([[:en:Corded Ware culture|Boat Axe culture]]、[[キウカイネン文化]]とも)が生まれている。これらの文化での遺物や遺構などから部族(キウカイヌ)の成立、階級の分化が始まっていたと見られており、[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ゲルマン人]]の侵入も相俟って北欧の地は戦乱の時代へと突入していくこととなる<ref name="tunoda_022">[[#角田1955|角田1955]]、p.22。</ref>。

一方、バルト海東岸の[[リガ湾]]では[[紀元前1500年]]ごろより南方から侵入してきた民族により[[青銅]]の[[冶金|冶金術]]がもたらされ、[[原バルト文化]]([[:en:Baltic culture in Pomerania|Baltic culture in Pomerania]])が形成された<ref name="tunoda_026">[[#角田1955|角田1955]]、p.26。</ref>。彼らは先住民の[[フィン・ウゴル人]]を駆逐・吸収してこの地域へ定着を果たした。[[紀元前500年]]ごろになると[[鉄]]の文化が伝播し、この地の文化水準は大きく向上を果たした<ref name="tunoda_026"/>。原バルト文化を形成していた民族は年代の経過と共に[[プルーセン|古プロセイン人]]、[[ラトビア人]]、[[リトアニア人]]という三つの民族に分化していき、集合離散を繰り返しながら[[4世紀]]までに幾多もの部族国家を形成して土地と権力を争った<ref name="tunoda_027">[[#角田1955|角田1955]]、p.27。</ref>。

[[5年|紀元5年]]に入ると、[[イタリア半島]]で興りその版図を広げていた[[古代ローマ|ローマ帝国]]が[[ユトランド半島]]を迂回してバルト海へ姿を見せるようになり、文化的な接触が始まった。ローマの[[古典文化]]は[[ボヘミア]]方面の陸路と[[フリースラント諸島]]方面の海路を経由して北欧へ流れ込み、諸族の文化に多大な影響を与えた<ref name="tunoda_028">[[#角田1955|角田1955]]、p.28。</ref>。同時に、多数存在していた部族国家は戦争の課程で吸収統合を繰り返し、やがていくつかの王国が形成されるようになる。ユトランド半島ではヴァンダル、キンブル、ユート、アングル、サクソン、テウトンといった諸族の原生国家が誕生している<ref name="tunoda_030">[[#角田1955|角田1955]]、p.30。</ref>。ノルウェー方面では約1世紀遅れてこうした動きが見られるようになったが、[[5世紀]]までに形成された王国は[[ルーグ族]]のローガランド、[[ハロード族]]のホルダランド程度で、その他の部族国家は統合の動きはなされていなかった<ref name="tunoda_030"/>。

== 中世 ==
=== 北欧三国の成り立ち ===
[[File:Beowulf and the dragon.jpg|thumb|180px|べオウルフとドラゴンの戦い。([[1908年]]、J. R. Skelton)]]
スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの三国は民族的に深い関わりを持っており、不可分の関係によって歴史を歩んできた<ref name="tunoda_035">[[#角田1955|角田1955]]、p.35。</ref>。[[400年]]ごろから[[1000年]]ごろまでの期間、この地の歴史については彼ら自身の手による文献史料はほとんど残されておらず、[[ヴァイキング]]に敵意を持つ西欧人の記した記録、伝承記があるのみとなっている<ref name="tunoda_038">[[#角田1955|角田1955]]、p.38。</ref>。彼らの残した史料として代表的なものとしては[[8世紀]]から[[9世紀]]にかけて[[デーン人]]から伝えられた英雄叙事詩をイギリスの修道僧の手でまとめられた『[[ベオウルフ]]』、ヴァイキング時代に創られた歌謡『[[:en:Edda|エッダ]]』、それまで口頭で語り継がれてきた神話や伝記を[[12世紀]]末に纏め上げた『[[サガ]]』、ノルウェーやアイスランドの君主に仕えた宮廷詩人によって詠われた賛歌である『[[スカルド詩|スカルド]]』などがあるが、いずれも作品の性質上歴史を目的として記されたものではないため、事実特定が困難であった<ref name="tunoda_040">[[#角田1955|角田1955]]、p.40。</ref>。このため、[[11世紀]]ごろまでの北欧の歴史はこれらの諸史料と、各地から出土した遺物や周辺地域の歴史書に言及されている状況などから類推・整理して輪郭を得たものであることを前提とする必要がある。

さて、北欧各地に誕生した原生国家は、800年ごろまでその地の覇権を巡って激しい争いを繰り返し、強国への併合を繰り返しながら国の強化を図っていった<ref name="tunoda_040"/>。この時代はゲルマン諸族が西欧・南欧へ大きく移動し、各地に王国を築いた[[民族移動時代]]とも重複しており、彼らの多くは北欧を原住地としていたため、北欧の地には多くの冨と文化が流入し、大きな文化的発展を遂げた<ref name="tunoda_040"/>。この時代に対する言及としてはローマの歴史家[[タキトゥス]]の『スイオーネス』がある<ref name="tunoda_029">[[#角田1955|角田1955]]、p.29。</ref>。『スイオーネス』にはスウェーデン中部の[[スヴェーア人]]が建国した初期の王国の成り立ちについて記されており、28の部族国家がやがて3つの原生国家へと統合していったとされている。このうちのひとつであった[[メーラル王国]]は[[メーラレン湖|メーラル湖]]を中心として栄えた王国であり、6世紀中ごろには残りの2王国を併合してスヴェーア諸族を統合し、[[シルフィング王朝]]と呼称されるようになった<ref name="tunoda_041">[[#角田1955|角田1955]]、p.41。</ref><ref group="注釈">[[スウェーデンの国章]]であるトゥレー・クローノー(三つの王冠)はこのことに由来している。([[#角田1955|角田1955]]、p.41。)</ref>。シルフィング王朝は650年ごろに後述するデーン王国によって滅ぼされることとなるが、王子ウーロフは[[ヴェルムランド地方]]へ逃れて[[インリング王朝]]として再建させた。その後も領土を拡張していき、南部の[[ゴート王国]]を服属した後、[[860年]]には首都を[[ウプサラ|古ウプサラ]]へ設置し、後の[[スウェーデン|スウェーデン王国]]の祖形が成立した<ref name="tunoda_041"/>。
[[File:Pictures of English History Plate X - Canute and His Courtiers.jpg|thumb|left|180px|スキョル王朝の版図を大きく拡大させた[[クヌーズ1世 (デンマーク王)|クヌーズ1世]]。]]
また、デンマークではデーン人たちの建国した[[デーン王国]](スキョル王朝)が伸張し、[[シェラン島]]に存在していた幾多もの国々を征服していた<ref name="tunoda_042">[[#角田1955|角田1955]]、p.42。</ref>。彼らはその勢力を[[ユトランド半島]]方面へも伸ばして行き、5世紀後半には現在のデンマークと[[スコーネ]]の一部を統一するに至り、650年にはスヴェーアのインリング王朝を滅ぼすなど、北欧において最も勢威の強い王国となった<ref name="tunoda_042"/>。

一方、[[フランク王国]]の成立によって陸を使用した南下が困難となっていったことから北欧の人口は激増し、北欧で土地の獲得が叶わなかった多くの人々は新しい地を求めて海上へと進出を始めた。これによって造船術や航海術が著しく発達し、[[ヴァイキング|ヴァイキング時代]]が始まった。彼らは単独・混成に関わらずノルウェー、デンマーク、スウェーデンの各地にするさまざまな民族によって編成されていたため、西欧の人々は彼らを一様に「北方の人々」を意味する[[ノルマン人]]と呼称し、区別をつけなかった<ref name="tunoda_046">[[#角田1955|角田1955]]、p.46。</ref>。北欧海岸地帯沿岸を拠点とする彼らは冒険・略奪・通商を求めて海を渡っていたが、やがてその目的は領土獲得・植民へと変化していった。[[803年]]、[[シーグル王]]の戦死によってイングランドへと侵攻先が変わると[[870年]]にはイングランド東部地域([[デーンロウ]])の獲得に成功し、[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]の時代にはイングランドの王を兼ねるまでに至った<ref name="tunoda_048">[[#角田1955|角田1955]]、p.48。</ref>。[[クヌーズ1世 (デンマーク王)|クヌーズ1世]]の時代に入るとさらに勢力を伸ばし、北海を中心とした広大な北海帝国の樹立に成功した。これによってデンマークにはイングランドの文化や[[キリスト教]]が流入し、深く浸透していった<ref name="tunoda_050">[[#角田1955|角田1955]]、p.50。</ref>。しかし、次代[[ハーデクヌーズ]]の死とともにイングランドは独立を果たし、広大な北海帝国は瓦解、スキョル王朝も滅びることとなった<ref name="tunoda_050"/>。
[[File:LeifErikson1968stamp.jpg|thumb|100px|ヨーロッパ人として初めて北アメリカ大陸に渡ったとされる[[レイフ・エリクソン]]。]]
スウェーデン、デンマークに対してノルウェー([[ノール人]])は後進的で、9世紀に入っても統一国家が存在しておらず、小王国に分かれた状態で争っていた<ref name="tunoda_046"/>。このような状況が続く中で、西南海岸に位置する豪族たちは船団を組織し、海外領土の侵攻を始めるようになった<ref name="tunoda_046"/>。特に知られているものとしては[[793年]]の[[リンディスファーン島]]襲撃などがあるが、こうした侵攻は年を経るごとに頻繁に起こるようになった<ref name="tunoda_046"/>。彼らは[[シェトランド諸島]]を拠点に[[スコットランド]]や[[アイルランド]]へ侵攻を繰り返し、大量の植民を行ったほか、[[北海]]を横断して[[フランス]]北部に拠点を築いて内陸へと侵攻していった<ref name="tunoda_046"/>。また、[[865年]]には[[アイスランド]]へ到達してこの島に対しても植民を開始している<ref name="tunoda_046"/>。しかし、インリング王朝の再建によって次第にノール人の国々は併合されていき、インリング王朝は9世紀中ごろまでにその勢力を西海岸まで伸ばすことに成功している<ref name="tunoda_046"/>。残された小王国は連合艦隊を組み抵抗を試みたが、[[ハーラル1世 (ノルウェー王)|ハーラル1世・美髪王]]によって撃退され、[[885年]]([[872年]]としているものもある)、ノルウェー王国が誕生した<ref name="tunoda_047">[[#角田1955|角田1955]]、p.47。</ref>。しかし、ハーラル1世・美髪王の後は王位を巡った内紛が勃発しデンマークの[[ハーラル1世 (デンマーク王)|ハーラル1世・青歯王]]によって領土の大半を奪われるなど、その勢力は縮小していった<ref name="tunoda_049">[[#角田1955|角田1955]]、p.49。</ref>。[[オーラヴ1世 (ノルウェー王)|オーラヴ1世]]の時代には一度盛り返しを見せたが、[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]の時代に完全にその領土はデンマークの支配下に置かれることとなった<ref name="tunoda_049"/>。一方でノール人による海外侵出はこうした国情にも関わらず盛んに行われ、[[900年]]ごろには[[グリーンランド]]が発見され、[[1000年]]ごろには、グリーンランドに最初に入植したとされる[[赤毛のエイリーク]]の息子[[レイフ・エリクソン]]によって[[北アメリカ大陸]]([[ヴィンランド]])が発見されている<ref name="tunoda_049"/>。その他、スペイン南部を侵攻したノール人たちは[[911年]]に[[ノルマンディー公|ノルマンディー公国]]を建国した。

=== 内乱の時代 ===
11世紀中旬、ノルウェーでは[[:en:Olaf II of Norway|オーラヴ2世]]の義弟[[ハーラル3世 (ノルウェー王)|ハーラル3世]]が、デンマークでは[[:en:Sweyn II of Denmark|スヴェン2世]]がそれぞれ新王朝を興し、イングランドの制圧を試みたが失敗に終わり、北欧におけるイングランド侵攻は終息することとなった<ref name="tunoda_053">[[#角田1955|角田1955]]、p.53。</ref>。[[1060年]]にはスキョル王朝が滅び、同年[[:en:Stenkil|ステンキル]]によって新しい王朝が開かれた<ref name="tunoda_053"/>。こうした各国の凋落、および王位を巡る角遂は国内に大きな混乱をもたらし、内乱の時代と呼ばれるようになった<ref name="tunoda_053"/>。また、[[ハンザ同盟]]や[[神聖ローマ帝国]]など、外部との深い関わり合いを持つようになったこともあって、北欧各国は社会・経済・政治が新しく生まれ変わっていく過程で大きな転換期を迎えることとなった<ref name="tunoda_052">[[#角田1955|角田1955]]、p.52。</ref>。
[[File:Birger Jarl Riddarholmen Stockholm.jpg|thumb|150px|今日の[[ストックホルム]]の礎を築いたことでも知られる[[:en:Birger Jarl|ビルイエル]]の登場はスウェーデン伸張の大きな契機となった。]]
ノルウェーでは貴族たちはさまざまな党派に分かれてそれぞれが王族を擁して抗争を続けたことにより次第にその力を失い没落していった。貴族たちの旧領は国軍として創設された騎士たちに充てられるようになり、[[ホーコン4世 (ノルウェー王)|ホーコン4世]]の時代には騎士貴族が台頭するようになった<ref name="tunoda_055">[[#角田1955|角田1955]]、p.55。</ref>。他方で、諸外国との親交も密に行われるようになり、中でも王女[[:en:Ingeborg of Norway|インゲボルグ]]がスウェーデンの王子[[:en:Eric, Duke of Södermanland|エーリック]]との間に儲けた[[マグヌス4世 (スウェーデン王)|マグヌス7世]]はスウェーデン、ノルウェー両国の王に推戴され、両王国連合の端緒をつくった<ref name="tunoda_055"/>。
[[File:Bishop Absalon topples the god Svantevit at Arkona.PNG|thumb|left|200px|共闘してデンマークの国力拡充に努めた[[ヴァルデマー1世 (デンマーク王)|ヴァルデマール1世]]と大司教[[アブサロン]]。]]
スウェーデンではステンキル王朝が[[1122年]]に滅んだ後は[[:en:Sverker I of Sweden|スヴェルチェル]]が王位に就くも[[1130年]]に暗殺、[[:en:Eric IX of Sweden|エーリック9世]]が王位に就いた<ref name="tunoda_053"/>。1世紀に渡る[[:en:House of Sverker|スヴェルチェル家]]と[[:en:House of Eric|エーリック家]]による凄惨な王位継承争いが続く中で[[:en:Folkung|フォルクング家]]が勢力を伸ばし、宰相であった[[:en:Birger Jarl|ビルイエル]]は[[:en:Eric XI of Sweden|エーリック11世]]の妹との間に儲けた[[:en:Valdemar, King of Sweden|ヴァルデマール]]に王位を継がせて[[1266年]]、フォルクング王朝を興した<ref name="tunoda_053"/>。摂政となったビルイエルは地方法を廃して国法を定めて貴族の勢力を抑える傍ら、ハンザ同盟と友好関係を結び、王朝の基盤を固めていき、[[:en:Magnus III of Sweden|マグヌス]]の時代に入るとフォルクング王朝の勢力はより強大なものとなった<ref name="tunoda_054">[[#角田1955|角田1955]]、p.54。</ref>。マグヌスは[[元老院]]を儲けて貴族や司教を政治に関与させるとともに職業軍人制を布いて騎士からなる国軍の編成を行って軍事国家としての体制を整えた。しかし、その後は再び王位継承権を巡った争いが勃発し、ノルウェー王であったマグヌス7世を迎え入れた貴族たちによってビルイエルはデンマークへと放逐されることとなった<ref name="tunoda_054"/>。

デンマークでは[[1076年]]にスヴェン2世が逝去するとその王位を巡って内紛が勃発し、加えてドイツ諸侯や[[ヴェンデ族]]、[[バルト海]]の海賊たちの襲来によって国力が大きく疲弊することとなった<ref name="tunoda_056">[[#角田1955|角田1955]]、p.56。</ref>。[[1103年]]に[[大司教|大司教座]]が[[ルンド]]に設置されると教会の政治力が増大し、国内の紛憂はさらに激化した。[[ヴァルデマー1世 (デンマーク王)|ヴァルデマール1世]]と[[アブサロン]]の登場により一時王族と教会が手を組み、国勢を盛り返した期間もあったが、後は続かず、[[1340年]]の[[ヴァルデマー4世 (デンマーク王)|ヴァルデマール4世]]即位に至るまで内紛は続き、無政府・無秩序状態となって国家として解体寸前に陥るほどの追い詰められた状態にまでなっていた<ref name="tunoda_057">[[#角田1955|角田1955]]、p.57。</ref>。

また、12世紀中旬、ドイツの商人たちは[[リューベック]]を拠点に北進をはじめ、スウェーデンの[[ゴットランド島]]の商人たちを圧倒するようになる。12世紀末に島内に[[ヴィスビュー]]という都市を建設し、ここからさらにロシア貿易、ノルウェー貿易を開始した。13世紀末になるとドイツの商人たちが立ち上げた都市が互いに同盟を結ぶに至り、いわゆる[[ハンザ同盟]]が結成されると、北欧に大きな影響を及ぼすようになる。北欧諸国はハンザ同盟勢力に対抗するため、法による規制をかけようとしたが、逆に経済封鎖による報復の憂き目に会い、これに屈服してしまうこととなった<ref name="tunoda_059">[[#角田1955|角田1955]]、p.59。</ref>。ハンザ同盟は北欧の経済を牛耳ると共にさまざまな特権を獲得していった。こうした動向はドイツから多数の移住者を生み出すに至り、北欧諸国にさまざまなドイツ文化が流入する要因となった。

=== フィンランドの属領化 ===
700年ごろのフィンランドはフィン人同士による争いの絶えない地であった。原生国家は大きく三分され、南西部を[[スオマライセット]]、北東部を[[ハマライセット]]、最北を[[カリアライセット]]がそれぞれ支配していた<ref name="tunoda_152">[[#角田1955|角田1955]]、p.152。</ref>。10世紀ごろになると国際的な諸勢力との接触が認められるようになり、スウェーデンやロシアなどがこの地と住民の獲得に乗り出してくるようになった<ref name="tunoda_152"/>。[[1152年]]にはスウェーデンのエーリック9世による侵略が開始され、スオマライセットとの戦争が始まる<ref name="tunoda_153">[[#角田1955|角田1955]]、p.153。</ref>。スウェーデン軍は破竹の勢いでフィンランドの地を制圧し、属領化に成功した。13世紀に入ると東方から[[ノヴゴロド公国]]のフィンランド侵略が開始され、フィンランド・スウェーデン連合軍と衝突した<ref name="tunoda_153"/>。ノヴゴロド軍は[[ネヴァ川]]にて連合軍を打ち破り、有利に戦いを進めたが、背後から[[蒙古]]によるロシア侵入があったため、[[1323年]]には連合軍との和議にいたり、[[カレリア]]の地をロシアとスウェーデンで二分することとなった<ref name="tunoda_153"/>。以降、フィンランドの地はスウェーデンの一州となり歴史の歩みを共にすることとなる<ref name="tunoda_154">[[#角田1955|角田1955]]、p.154。</ref>。

[[File:Margrete 1.jpg|thumb|180px|1397年、[[マルグレーテ1世]]は北欧三国をまとめあげ、[[カルマル同盟]]を結び、デンマークを中心とする国家連合を成立させた。]]

=== 北欧連合 ===
破綻寸前の国の王として即位したヴァルデマール4世はあらゆる手段を用いて諸外国に渡った国土を取り戻し、デンマークの復興に心血を注いだ<ref name="tunoda_059"/>。[[1360年]]にはスウェーデンの混乱に乗じて[[スコーネ]]を占領し、翌年にはゴットランドのヴィスビューを降した。[[1365年]]にフォルクング王朝を打ち倒したヴァルデマール4世はその勢いのままノルウェーの[[ホーコン6世]]と共闘してスウェーデンに圧迫を加えたが、スウェーデンはデンマークの強大化を怖れるハンザ同盟や諸侯と提携してこれに対抗した<ref name="tunoda_060">[[#角田1955|角田1955]]、p.60。</ref>。[[1370年]]、戦争はスウェーデン側の勝利となり、ハンザ同盟の大幅な特権を認める[[ストーラスンド条約]]の締結をもって終結した。しかし、増大するドイツ勢力たちに反感をもった民衆が蜂起し、デンマークへと支援を求めてきた。ヴァルデマール4世の娘であり、デンマーク、ノルウェーの実権を握っていた摂政[[マルグレーテ1世]]はこれを受入れ、ハンザ同盟の傀儡となっていたスウェーデン王[[アルブレクト (スウェーデン王)|アルブレクト]]と対峙した<ref name="tunoda_061">[[#角田1955|角田1955]]、p.61。</ref>。1389年、スウェーデンを破ったマルグレーテ1世は妹の孫にあたる[[ポメラニア公国]]の[[エーリク7世 (デンマーク王)|エーリック]]をデンマーク、ノルウェーの両国王に推し、[[1397年]]、エーリックが両国王へ即位した。翌年には国内の貴族たちを[[カルマル]]へ集め、三国が一人の君主を擁くことを取り決め、[[カルマル同盟]]を成立させた。これにより北欧三国は欧州最大の王国となった<ref name="tunoda_062">[[#角田1955|角田1955]]、p.62。</ref>。

カルマル連合はデンマークを主体に運営を行っていたが、スウェーデン軽視の体制を布くエーリックに不満を抱いたスウェーデンが[[1434年]]に反乱を起こすと、[[1436年]]にはノルウェーにおいても反乱が勃発した。[[クリストファ3世 (デンマーク王)|クリストファ3世]]が即位する頃には国家連合は名ばかりのものとなり、[[1448年]]に[[クリスチャン1世 (デンマーク王)|クリスティアン]]が即位するとスウェーデンは摂政として[[カール8世 (スウェーデン王)|カール8世]]を擁立して政治運営を行うようになり、実質的に連合を脱した<ref name="tunoda_063">[[#角田1955|角田1955]]、p.63。</ref>。[[1520年]]、デンマークの[[クリスチャン2世 (デンマーク王)|クリスティアン2世]]は王権強化を目指してスウェーデンを攻撃し、スウェーデンの独立党派を惨殺する([[ストックホルムの血浴]])<ref name="tunoda_063"/>。これが発端となって[[1521年]]、[[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスターヴ・ヴァーサ]]を指導者とした大規模な反乱が発生した。クリスティアン2世は戦費を捻出するため、貴族諸侯に対して重税を課したが、これを不服としたユトランドの貴族たちも蜂起したため、クリスティアン2世は国外へと逃亡した<ref name="tunoda_064">[[#角田1955|角田1955]]、p.64。</ref>。[[1523年]]にはデンマーク、ノルウェーの王として[[フレゼリク1世 (デンマーク王)|フレデリック1世]]が即位したが、スウェーデンは完全に独立し、反乱軍を主導したグスターヴ・ヴァーサをグスタフ1世として即位させた<ref name="tunoda_064"/>。

== 近世 ==
=== 宗教改革 ===
[[File:The Entry of King Gustav Vasa of Sweden into Stockholm - color.jpg|thumb|250px|スウェーデンの独立を勝ち取った[[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ1世]]のストックホルム入城。([[カール・ラーション]]画)]]
グスタフ1世が即位した1523年当時、周辺諸国では[[宗教改革]]の機運が高まっていた<ref name="tunoda_071">[[#角田1955|角田1955]]、p.71。</ref>。グスタフ1世はこれに乗じて寺院や修道院から領地を没収せしめ、内政の刷新と財政基盤の強化に取り組んだ。また、国内の治安を良化するため、騎士の雇い入れ、海軍の増強とともに志願制の歩兵隊を創設して大規模な国軍を編成した。並行して諸外国から鉱業、農業などの技術者を多数招聘して国内へ普及させ、ハンザ同盟に対抗するため[[オランダ]]の商人に通商上の特権を与えるなど経済、産業の発展にも力を注いだ。国内体制の整備が進むにつれてスウェーデンは領土的野心を抱くようになり、次代の[[エリク14世 (スウェーデン王)|エーリック14世]]は1561年、[[エストニア]]に兵を派遣してその領有に成功する。1563年にはデンマークに宣戦し、[[北方七年戦争]]が開戦した。この戦争は[[1570年]]の[[ヨハン3世 (スウェーデン王)|ヨハン3世]]の時代に終結し、デンマークとの間で[[シュテッティンの和約]]が締結された<ref name="tunoda_074">[[#角田1955|角田1955]]、p.74。</ref>。ヨハン3世の推戴によって[[ポーランド・リトアニア共和国]]の国王に就いていた[[ジグムント3世]]がスウェーデン国王に即位すると元老院との間に亀裂が生じ、[[1599年]]に退位させられる。[[1604年]]にはこの動きを主導した[[カール9世 (スウェーデン王)|カール9世]]が即位したことにより、[[スウェーデン・ポーランド戦争]]へと発展していった<ref name="tunoda_074"/>。
[[File:Battle of Lutzen.jpg|thumb|left|250px|「北方の獅子」として名を馳せた[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]は[[1632年]]の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]において戦死を遂げる。]]
[[1611年]]、カール9世の死後、その息子である[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]が即位する。グスタフ2世アドルフは先代が始めたロシアやデンマークとの戦争を巧みに終結させるとその戦力をポーランドに集中させ、[[1629年]]にはスウェーデンに有利な条件での講和条約([[アルトマルク休戦協定]])を締結することに成功する<ref name="tunoda_076">[[#角田1955|角田1955]]、p.76。</ref>。他方、スウェーデンとの戦争が終結したデンマークの[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスティアン4世]]は、新教派の盟主という名目の下、[[1625年]]に[[三十年戦争]]へと参戦する。雄飛の野心に燃えていたクリスティアン4世であったが、[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス|ティリー伯]]との戦いに敗れ、[[1629年]]には[[リューベックの和議]]によってドイツへの不介入を約束することとなった<ref name="tunoda_077">[[#角田1955|角田1955]]、p.77。</ref>。ポーランドとの問題が解決し、デンマークと入れ替わるように三十年戦争へ介入を始めたスウェーデンは[[1630年]]に[[ポメラニア]]に上陸し、[[シュチェチン]]の占領に成功する<ref name="tunoda_077"/>。ティリー伯が起こした[[マクデブルクの戦い|マクデブルクの惨劇]]を受けて奮起したスウェーデン軍は連戦連勝を重ね、[[1632年]]の[[レヒ川の戦い]]にてついにティリー伯を打ち倒した。同年の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]においてグスタフ2世アドルフが戦死するもスウェーデン軍は快進撃を続け、帝都[[ウィーン]]に迫る形勢を示した<ref name="tunoda_078">[[#角田1955|角田1955]]、p.78。</ref>。

これを見て北欧の覇権がスウェーデンに移ることを危惧したクリスティアン4世は様々な手段を用いてスウェーデン遠征軍の妨害を試みた<ref name="tunoda_078"/>。こうした行為に憤激したスウェーデンは[[1643年]]、デンマークに対して宣戦しユトランド及びスコーネへ進軍した。[[1645年]]、[[ブレムセブルー条約]]の締結に至ったこの戦争は[[サーレマー島]]、[[イェムトランド地方|イェムトランド]]、[[ヘリエダーレン地方|ヘリエダーレン]]、ゴットランドをスウェーデンに割譲する結果となっている。スウェーデンはさらに[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]によってブレーメン教会領や西ポメラニアなどを獲得し、名実共に宿願であった[[バルト帝国]]を築き上げ、欧州列強に名乗りをあげることとなった<ref name="tunoda_079">[[#角田1955|角田1955]]、p.79。</ref>。

[[File:Victory at Narva.jpg|thumb|250px|北欧の覇権をかけた[[大北方戦争]]。上記はロシアとスウェーデンによる[[ナルヴァの戦い]]。]]
=== 絶対王政の確立 ===
[[1654年]]、スウェーデンの王位に就いた[[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]]は[[リヴォニア]]の確保を目的としてポーランドとの[[北方戦争]]を開始する。これを目にしたデンマークの[[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレデリク3世]]は失地奪還の絶好の機会とみなし、[[1657年]]スウェーデンに対して宣戦し[[ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)|ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ]]とともに[[カール・グスタフ戦争]]を開始した<ref name="tunoda_084">[[#角田1955|角田1955]]、p.84。</ref>。しかし、カール10世はポーランドから転進してユトランドへ攻め入り、翌年には[[シェラン島]]に上陸、[[ロスキルの和議]]を締結したことにより、スウェーデンはスコーネ、[[トロンハイム]]、[[ブレーキンゲ地方|ブレーキンゲ]]などの地域を獲得した<ref name="tunoda_084"/>。しかしオランダや[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]]がデンマークに助勢したため戦局は滞り、[[1660年]]の持久戦の最中にカール10世は病没した<ref name="tunoda_084"/>。カール10世の死を受け、フランスやイングランドなどが仲介に入ったことでスウェーデンは[[北方戦争における諸条約|各国と講和条約を締結]]し、カール・グスタフ戦争を含む北方戦争は終結をみた<ref name="tunoda_085">[[#角田1955|角田1955]]、p.85。</ref>。相次ぐ戦争によりスウェーデンの財政は逼迫し、膨れ上がる戦費を賄うためにスウェーデンは貴族に国土の売却を行っていた。こうした問題を解決するため、[[1672年]]に親政を始めた[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]は、先の戦争における貴族たちの失政を厳しく追及し、土地貴族の勢力の減殺に動いた。[[1680年]]、[[1682年]]、[[1686年]]と度々土地改革法を制定し、多大な所領の回復に成功すると王権はますます強大になった<ref name="tunoda_085"/>。

一方、デンマークはクリスティアン4世の即位以来弱体化の一途を辿り、国威は大いに失墜した<ref name="tunoda_086">[[#角田1955|角田1955]]、p.86。</ref>。しかし内政面から見ると貴族に圧迫を加え、産業の振興に尽力したクリスティアン4世の人気は高く、同様の政策を執ったフレデリック3世も市民の支持を得た<ref name="tunoda_086"/>。これを背景として国会で市民出身議員および聖職者出身議員と提携して王権強化を画策し、1660年には国王の絶対主権を呈上するに至った。これにより選挙王制は撤廃され、デンマークの[[絶対王政]]が確立した。フレデリック3世は国内体制の刷新をはかり、国力の充実に尽力し、続く[[クリスチャン5世 (デンマーク王)|クリスチャン5世]]もこの方針を引き継いでデンマークの平和を維持したが、次に即位した[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリック4世]]はスウェーデンからの覇権奪還を目指し、[[1699年]]、ロシアの[[ピョートル1世]]、ポーランドの[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]とともに[[反スウェーデン同盟]]を結ぶに至った<ref name="tunoda_087">[[#角田1955|角田1955]]、p.87。</ref>。

[[1700年]]、フレデリック4世はスウェーデンの[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]に対して宣戦し、ピョートル1世率いるロシア軍は[[イングリア]]に攻め入り、アウグスト2世率いるザクセン軍は[[リヴォニア]]に攻め入り、[[大北方戦争]]が開戦した<ref name="tunoda_088">[[#角田1955|角田1955]]、p.88。</ref>。カール12世は1700年にデンマークを降し、[[1706年]]にポーランドと[[アルトランシュテット条約]]を締結するなど奮戦したが[[1709年]]のロシア遠征([[ポルタヴァの戦い]])で敗戦を喫すると戦況は徐々に傾いていき、[[1714年]]にはロシアによってバルト海の制海権を奪取されるに至った<ref name="tunoda_088"/>。これに乗じるように[[プロイセン王国]]、[[ハノーヴァー朝]]、[[ポーランド王国]]などが相次いでスウェーデンに宣戦し、デンマークも戦線復帰するなどスウェーデンは四面楚歌に陥ってしまう<ref name="tunoda_088"/>。スウェーデンは[[オスロ|クリスチャニア]]を陥落させるなど抵抗を見せたが[[1718年]]、カール12世が戦死すると国内には反戦勢力の声色が強まり、次代女王[[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|エレオノーラ]]は各国との戦争終結に向けて行動を起こした<ref name="tunoda_088"/>。[[1721年]]、ロシアとの間に[[ニスタット条約]]が締結されたことをもって大北方戦争は終結を見た。スウェーデンが保持していたバルト海東岸の権益はそのほとんどが消滅、またその貿易もイングランドやデンマークの手に移ったことで一時代を築き上げたバルト帝国は完全に崩壊した<ref name="tunoda_089">[[#角田1955|角田1955]]、p.89。</ref>。

[[File:Gustav III Sweden.jpg|thumb|150px|「グスタフ時代」を築き上げたスウェーデンの[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]。]]
=== 啓蒙主義の時代 ===
同時にヨーロッパでは[[啓蒙思想]]や[[自由主義]]が叫ばれる時代へと突入していき、北欧でも絶対王政に対する批判と君主制と民主制を調和させた新しい政体が求められるようになっていった<ref name="tunoda_090">[[#角田1955|角田1955]]、p.90。</ref>。スウェーデンでは[[1719年]]に新憲法が制定されると国会が国家の最高機関と位置付けられるようになり、王権は著しく制限された<ref name="tunoda_090"/>。国会が実権を持つようになると代表者たちは党派を形成するようになり、親英露政策を取る[[ナット・メッサ党]]と親仏政策を取る[[ハット党]]が誕生した。しかし、[[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク王]]の末年に入ると2党の政争は益々激化し、国民からは政権争奪を中心に添えた政治の在り方に疑義が持たれるようになった<ref name="tunoda_094">[[#角田1955|角田1955]]、p.94。</ref>。こうした世論を受けて[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]は即位した翌年の[[1772年]]に元老院と国会に武威を示して新憲法を承認させ、再び絶対王政を布き政党の活動と国会を抑圧した<ref name="tunoda_094"/>。[[1788年]]、グスタフ3世はロシアが対トルコ戦に忙殺されている間隙を縫っての遠征を企てる。これを見たデンマークが再びスウェーデンに宣戦してスコーネに進軍を始めたがグスタフ3世は1789年にこれを撃退、その勢いのままフィンランド湾の海戦にてロシア艦隊を撃破し、スウェーデンの勢威を示すと共にさらなる王権の強化に成功することとなった<ref name="tunoda_095">[[#角田1955|角田1955]]、p.95。</ref>。
[[File:Ratan battle.jpg|thumb|left|220px|[[第二次ロシア・スウェーデン戦争]](フィンランド戦争)によってフィンランドおよびオーランド諸島はロシアに割譲されることとなった。]]
しかし[[1792年]]、グスタフ3世の施政に異論を持つ貴族に暗殺され[[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世]]が王位に就くと国際情勢は一変し、[[1809年]]の[[第二次ロシア・スウェーデン戦争]]においてロシアによってフィンランド全地域を占領されるに至った<ref name="tunoda_096">[[#角田1955|角田1955]]、p.96。</ref>。同年、スウェーデンの無力に絶望したフィンランドはロシア皇帝をフィンランド大公に戴くことを国会で決議し、ロシアへの服属を誓った<ref name="tunoda_096"/>。グスタフ4世はこの敗戦の責任を問われて廃位されると[[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]]がその王位に就いた。カール13世はフィンランドにおけるロシアの軍事力排除は困難と判断し、ロシアと[[フレデリクスハムンの和約]]を締結してフィンランドおよび[[オーランド諸島]]をロシアへ割譲した<ref name="tunoda_096"/>。啓蒙思想が広がる中で絶対王権の国家体制を取り戻そうとしたスウェーデンのこの時代をグスタフ時代と呼称する<ref name="tunoda_094"/>。
[[File:Struensees arrestation.jpg|thumb|250px|数々の改革を断行した[[ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ|ストルーエンセ]]はクーデターにより死罪となった。しかしその多くの改革は彼の死後に実現に至ることとなった。]]
一方でデンマークは[[1720年]]にスウェーデンと講和条約を締結すると[[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレデリック5世]]は歌舞やスポーツを奨励して文化的発展を促しただけでなく、通商に留意して輸入制限を設けることで国内産業の振興に務めるなど、再び平和政策に転じるようになった<ref name="tunoda_091">[[#角田1955|角田1955]]、p.91。</ref>。[[クリスチャン7世 (デンマーク王)|クリスチャン7世]]が王位に就くと、[[1770年]]、后の[[キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ|キャロライン・マティルダ]]によって見出されたドイツ人の[[ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ]]が宰相に任じられ、ルソーの啓蒙思想に倣った多くの改革が断行された<ref name="tunoda_093">[[#角田1955|角田1955]]、p.93。</ref>。しかし、デンマーク語を解さないドイツ人宰相によって猪突的に実施された諸改革は周囲に猛烈な反抗を引き起こし、[[1772年]]には神学者[[:en:Ove Høegh-Guldberg|グルベア]]を中心とした反改革派によるクーデターが勃発した<ref name="tunoda_093"/>。グルベアは同年に宰相に就任するとストルーエンセの諸改革を抹殺し、保守的な政策を十余年継続した。[[1784年]]、[[フレデリク6世 (デンマーク王)|フレデリック6世]]が王位に就くと啓蒙主義的な貴族の支援のもとに農奴制の廃止などの一大改革が断行され、デンマークは近代国家への道を歩み始めた<ref name="tunoda_093"/>。

また、1661年以降、同君連合国という名の下に実質的なデンマークの隷属国としてその歴史を歩んできたノルウェーでは、ストルーエンセによって啓蒙思想が持ち込まれたことをきっかけに独立の機運が高まった<ref name="tunoda_094"/>。1784年にフレデリック6世により改革新政が布かれると市民勢力を中核とする独立運動が益々増大し、[[:en:Johan Nordahl Brun|ブルン]]の独立歌が街中のいたるところで歌われるような状況になった<ref name="tunoda_094"/>。しかしながら[[武装中立同盟]]によってイギリスとの対立が深刻化し始めていたデンマークのあおりを受けてノルウェーの商船が度々拿捕され、貿易停止と海岸の封鎖によって食糧難に陥ってしまう<ref name="tunoda_097">[[#角田1955|角田1955]]、p.97。</ref>。[[1814年]]、スウェーデンとデンマークの間で[[キール条約]]が締結されるとノルウェーの主権はスウェーデンへと移った<ref name="tunoda_098">[[#角田1955|角田1955]]、p.98。</ref>。ノルウェーはこの併合を承認せず、[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン・フレデリク]]を王に立てて独立を標榜した<ref name="tunoda_098"/>。これを受けてスウェーデンの[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール・ヨハン]]はノルウェーへ侵攻し、[[1814年]]に武威を示してノルウェー国会にスウェーデンとの同君連合を承認せしめ、ノルウェーの独立運動は空しい結果に終わることとなった<ref name="tunoda_098"/>。

== 近現代 ==
[[File:Tropper 1849.jpg|thumb|250px|[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]を発端に勃発した[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|デンマーク戦争]]。上記は反乱を鎮圧し、コペンハーゲンに帰還したデンマーク軍。]]
=== 北欧諸国の近代化 ===
デンマークの啓蒙思想的改革を遂行したフレデリック6世は[[ナポレオン戦争]]の後、著しく減衰した国力の回復に注力したが再興は容易ではなかった<ref name="tunoda_103">[[#角田1955|角田1955]]、p.103。</ref>。通商政策に阻まれて主力であった穀物を中心としたの輸出産業がままならなくなり、商工業の疲弊と不振を招いた。しかし、1830年代に入り西欧諸国の[[産業革命]]が進行するに従って穀物価格の高騰が発生し、デンマークの経済も回復の兆しを見せるようになった<ref name="tunoda_103"/>。生活が豊かになるにつれて勢力を伸張させていった国民たちは団結意識に目覚めるようになり、[[1842年]]には[[国民自由党 (デンマーク)|国民自由党]]を、[[1846年]]には[[農民党 (デンマーク)|農民党]]を結成するに至った<ref name="tunoda_104">[[#角田1955|角田1955]]、p.104。</ref>。国民主義、自由主義の機運が高まっていく時代の流れを明察した[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン8世]]は自由憲法の制定の必要性を感じ取っていたが、同時に湧き上がった[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]の解決に力を割かれたため、彼の在位中に実現には至らなかった<ref name="tunoda_105">[[#角田1955|角田1955]]、p.105。</ref>。[[1848年]]に[[フレデリク7世 (デンマーク王)|フレデリック7世]]が即位するとシュレースヴィヒがデンマーク領であることが宣言された。[[ホルシュタイン公国]]はこの宣言に対して反乱を起こし、キールに臨時政府を設けて独立を宣言した<ref name="tunoda_108">[[#角田1955|角田1955]]、p.108。</ref>。デンマークが反乱の鎮圧に動くと臨時政府は[[ドイツ連邦]]に援けを求めたため、これを契機にデンマークと[[プロイセン王国]]との間で[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|デンマーク戦争]]が勃発した<ref name="tunoda_108"/>。戦況はプロセイン公国優位で進んでいたがロシアやイギリスの介入により膠着状態に陥り、[[1852年]]に[[ロンドン議定書]]が取り交わされ、一応の決着を見た<ref name="tunoda_109">[[#角田1955|角田1955]]、p.109。</ref>。しかし、[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]が即位すると特別憲法を制定してシュレースヴィヒ、ホルシュタイン両国の併合を画策したため、再び反乱が勃発し、これを支援するプロセイン、オーストリアとの間で第二次デンマーク戦争に発展した<ref name="tunoda_109"/>。プロセインの[[オットー・フォン・ビスマルク]]の外交政策によりデンマークは孤立化し、[[1864年]]、両国に関する一切の権利を破棄する[[:en:Treaty of Vienna (1864)|ウィーン条約]]が締結され、一連の問題の終結を見た<ref name="tunoda_109"/>。
[[File:Johan Sverdrup (engraving by H P Hansen).jpg|thumb|180px|ノルウェーの民主化を推し進めた[[ノルウェー自由党|自由党]]の初代党首[[:en:Johan Sverdrup|ヨハン・スヴェールップ]]。]]
スウェーデンでは[[1809年]]のカール13世の即位と共に立憲君主制を規定した新憲法が制定され、民主化が大きく前進したが、戦争の爪痕は深く、厳しい状況にあった<ref name="tunoda_106">[[#角田1955|角田1955]]、p.106。</ref>。[[1818年]]に即位した[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世]]はこうした国内経済の建て直しと緊張していた国際関係の円滑化に尽力し、1830年代に入るころには景気が徐々に好況を示すようになった<ref name="tunoda_106"/>。[[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]もカール14世の方針を引き継いだ治世を行い、ギルドの廃止、自由貿易の認可、民間銀行法の設立など、前近代的で産業の発達を抑制するくびきとなっていた障害の排除に乗り出し、民主化を一層推し進めた<ref name="tunoda_108"/>。

キール条約によってスウェーデンとの同君連合を結成したノルウェーでは[[:en:Christian Magnus Falsen|マグヌス・ファルセン]]によって[[エイズヴォル憲法]]が制定され、国会に政治の中心を置き、立憲君主制が規定され、国民の基本的人権の確認がなされた<ref name="tunoda_110">[[#角田1955|角田1955]]、p.110。</ref>。これによってノルウェーではスウェーデン王を統治者に戴きながらも国会と内閣による自治が可能となり、民主化が大きく進んだ<ref name="tunoda_110"/><ref group="注釈">ただし、外交と軍事に関してはスウェーデンに掌握されており、あくまで国内の運営のみであった([[#角田1955|角田1955]]、p.110。)</ref>。フランスで起こった[[フランス7月革命|7月革命]]の影響によって国民が強い政治意識を持つようになると、[[1869年]]には農民や市民を代表する革新派と呼ばれる議員たちによって[[ノルウェー自由党|自由党]]が結成された<ref name="tunoda_110"/>。この結果、保守派の勢力は衰勢に向かい、[[1884年]]、自由党を立ち上げた[[:en:Johan Sverdrup|ヨハン・スヴェールップ]]がはじめて首相に任じられ、[[政党制|政党政治]]が発足した<ref name="tunoda_110"/>。政治の発展に伴い産業経済も急速に進展し、特にイギリスを手本として開始された紡績、マッチ、醸造といった諸産業は大きく伸張した。同時に漁業や海運業も1870年代に入る頃には商戦保有量がイギリスに次ぐ規模となるほどの著しい発展を見せた<ref name="tunoda_112">[[#角田1955|角田1955]]、p.112。</ref>。ここにきてスウェーデンの主導権を廃する動きが再燃し、独立運動へとつながっていくこととなった<ref name="tunoda_112"/>。

[[File:King Oscar II of Sweden in uniform.png|thumb|left|180px|スウェーデン、ノルウェー同君連合最後の国王となった[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]。]]
=== 民主政治の発展 ===
19世紀後半に入ると北欧諸国で政党の発達が見られるようになった。[[1866年]]に国会を改組したスウェーデンでは下院の大半を制する小農出身の議員たちによって[[農民党 (スウェーデン)|農民党]]が結成され、自らの階級利害のための活動をはじめたのを皮切りに20世紀に入ってからは[[自由党 (スウェーデン)|自由党]]や[[スウェーデン社会民主労働党|社会民主党]]などが相次いで結成された<ref name="tunoda_113">[[#角田1955|角田1955]]、p.113。</ref>。こうした背景には[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]のとった産業保護政策があった<ref name="tunoda_114">[[#角田1955|角田1955]]、p.114。</ref>。鉄鉱業が大いに発展し、活発な産業・貿易を背景に豊かで平和な国家として繁栄を築いていった<ref name="tunoda_114"/>。

[[1870年]]に入るとデンマークの農民等は都市部の小市民層を吸収して[[ヴェンスタ|自由党]]となり、国民自由党に対してみずからをヴェンスタ(左翼)と呼称するようになった<ref name="tunoda_115">[[#角田1955|角田1955]]、p.115。</ref>。また、[[1876年]]に入ると労働組合を支持母体とした[[デンマーク社会民主党|社会民主党]]が結成され、急速に党勢を拡張した<ref name="tunoda_115"/>。こうした革新勢力に好意を寄せていた[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]は[[1901年]]、総選挙によって下院の左派勢力が大きく伸張したのを機会に左派勢力による連合内閣の組閣を命じ、義務教育改革や軍事費の削減などに注力した<ref name="tunoda_115"/>。また、産業面ではアメリカやロシアの低廉な穀物がヨーロッパ市場に氾濫したことにより、穀物の輸出によって外貨を獲得していたデンマークは大打撃を蒙り、非常な不況に見舞われた<ref name="tunoda_116">[[#角田1955|角田1955]]、p.116。</ref>。穀物農業従事者たちは相次いで酪農業へと転向し、[[バター]]、[[ベーコン]]、[[チーズ]]、[[練乳]]などの生産に従事するようになった。この転向は農業教育の普及、協同組合の発達、イギリスを主とした海外市場の存在などを背景に急速に成長し、デンマークを世界一の農業国へと押し上げた<ref name="tunoda_116"/>。同時にイギリス、ドイツなどから石炭や鉄を輸入して工業の育成に努め、著しい発展を見せた<ref name="tunoda_116"/>。

一方、独自の政府を持ちつつも軍事と外交をスウェーデンに押さえられていたノルウェーでは、海運業の発達とともに利益を代表する領事を置く必要性が叫ばれるようになった<ref name="tunoda_117">[[#角田1955|角田1955]]、p.117。</ref>。[[1885年]]、[[1901年]]とノルウェー政府はスウェーデンに対して独立領事館の設置を要請したがこれが拒否されたため、[[1905年]]に首相となった[[:en:Christian Michelsen|クリスティアン・ミケルセン]]によって[[6月7日]]、内外に対して同君連合からの離脱と新しい国王を戴くことが宣言された<ref name="tunoda_118">[[#角田1955|角田1955]]、p.118。</ref>。スウェーデンのオスカル2世は主戦論に湧く世論を慰撫してこれを認め、カールスタッドの分離協定に両国が調印することでノルウェーの正式な独立が実現した<ref name="tunoda_118"/>。新しいノルウェーの国王としてデンマークの王子カールが選ばれ、同年[[11月27日]]、[[ホーコン7世]]として即位した<ref name="tunoda_118"/>。こうして宿願であった独立を成し遂げたノルウェーは清新な意気を持って自国の改革と発展に注力し始めた。

[[File:Gustav V speaks in 1914.jpg|thumb|250px|スウェーデンの[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]は、デンマーク、ノルウェーと協同して第一次世界大戦に対しての中立を表明した。]]
=== 第一次世界大戦 ===
[[1914年]][[7月28日]]、[[第一次世界大戦]]が勃発した。北欧諸国は直ちに中立を表明し、相互の安全のために強調しようとする機運が高まり、[[汎スカンディナヴィア主義]]が再び台頭した<ref name="tunoda_121">[[#角田1955|角田1955]]、p.121。</ref>。スウェーデンの[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]はこうした世論をいち早く察知し、同年12月、デンマーク、ノルウェーに働きかけて[[マルメ]]において三国国王会議を実施した。とくに大戦による貿易の不振は各国の経済状況を著しく脅かしたため、これを解消すべく積極的な相互援助を行うことで合意した<ref name="tunoda_121"/><ref group="注釈">デンマークは穀物や畜産品を、ノルウェーは木材、パルプ、化学製品を、スウェーデンは鉄材、鋼鉄製品をそれぞれ相互に供給することで合意した。([[#角田1955|角田1955]]、p.121。)</ref>。こうした三国間の共同歩調の成果もあって前半期は比較的安定した状況が続いていたが、後半期になると連合国の海上封鎖強化などが影響し、食糧事情の悪化が深刻になった<ref name="tunoda_122">[[#角田1955|角田1955]]、p.122。</ref>。穀物取引の政府経営や主要食料品の配給制といった対策が取られたが、行き詰まりは隠せず、国内情勢は不安定となった<ref name="tunoda_122"/>。デンマークは[[ヴァージン諸島]]をアメリカに割譲するなどして財政の窮状を凌いでいたが、これに乗じて[[アイスランド]]の独立問題が勃発し、左派勢力を抑えきることが出来ないまま[[1918年]]、アイスランドの独立が承認されるに至っている<ref name="tunoda_123">[[#角田1955|角田1955]]、p.123。</ref>。また同年、ロシアの混乱に乗じてフィンランドが独立宣言を行うなど、北欧諸国は大きな転換期を迎えることとなった<ref name="tunoda_123"/>。
[[File:Per Albin Hansson - Sveriges styresmän.jpg|thumb|left|150px|福祉国家の建設に尽力したスウェーデンの[[:en:Per Albin Hansson|ペール・アルビン・ハンソン]]首相。]]
第一次世界大戦により北欧諸国は大きな打撃を蒙ったが、直接的な戦災は免れたため、その復興も迅速であった<ref name="tunoda_220">[[#角田1955|角田1955]]、p.220。</ref>。スウェーデンでは短期間に政権が交代する不安定な情勢を迎えたが、[[1932年]]に[[スウェーデン社会民主労働党|社会民主党]]が政権についたことで安定を来した<ref name="murai1_168">[[#村井2009-1|村井2009-1]]、p.168。</ref>。[[:en:Per Albin Hansson|ペール・アルビン・ハンソン]]は「[[国民の家]]」をスローガンに福祉国家の建設を進め、国民全員を恩恵の対象とした普遍主義的社会保障制度の確立を目指した<ref name="murai1_168"/>。デンマークでは[[1915年]]に制定した改正憲法が[[1918年]]になって発効し、男女の普通選挙が実施されるようになった。左派と右派が短期間に入れ替わる混沌とした状態がしばらく続いたが[[1929年]]に[[:en:Thorvald Stauning|トルワード・スタウニング]]が政権につくとようやく情勢が安定し、デンマークに繁栄をもたらした<ref name="tunoda_224">[[#角田1955|角田1955]]、p.224。</ref>。しかし、ノルウェーでは[[:en:Gunnar Knudsen|クヌットセン内閣]]が戦争の終結と同時に復興に乗り出したが労働運動の激化により思うような成果が挙げられずにいた<ref name="tunoda_225">[[#角田1955|角田1955]]、p.225。</ref>。また、[[1919年]]に国民投票で決定した禁酒法の施行に対し、ノルウェーにぶどう酒やシェリー酒を輸出していたスペインやポルトガルが報復的にノルウェーからの輸入を差し止める事態が引き起こされ、ノルウェーの経済に大きな打撃を与えた<ref name="tunoda_226">[[#角田1955|角田1955]]、p.226。</ref>。時の首相はそれぞれの手法で禁酒法の緩和を試みたがその悉くを野党に潰され、景気の回復はままならない状況に陥っていた<ref name="tunoda_226"/>。

一方[[ロシア革命]]に乗じて独立を勝ち取ったフィンランドでは、新興国特有の政争は絶えなかったものの、さほど深刻な状況には至らず、順調な経済成長を続けた<ref name="tunoda_251">[[#角田1955|角田1955]]、p.251。</ref>。政府は輸出の増大と食料の自給化を目指した政権運営を実施し、土地改良と農法改革を積極的に推進して、1930年までに自営農民の数を独立当初と比較して倍加させることに成功した<ref name="tunoda_254">[[#角田1955|角田1955]]、p.254。</ref>。1920年代末に入り、世界的な不況と不安定な政権から左右両勢力が伸張しはじめ、[[1929年]]に[[共産青年同盟]]が結成されるとこの気勢に拍車がかかった<ref name="tunoda_260">[[#角田1955|角田1955]]、p.260。</ref>。国内は大きな混乱に見舞われたが[[ペール・スヴィンヒュー]]が[[1931年]]に大統領に就任して以降、国民が一致団結して国防の強化と産業の振興に注力できるような舵取りを行い、フィンランドの国力は著しく躍進した<ref name="tunoda_262">[[#角田1955|角田1955]]、p.262。</ref>。[[1935年]]にスウェーデン、デンマーク、ノルウェーと協定して北欧中立ブロックを形成すると周辺国への配慮から[[ファシズム]]は鳴りを潜め、ようやく政情は安定化した<ref name="tunoda_262"/>。

また、[[バルト三国]]を構成する[[エストニア]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]もフィンランドと同じくロシア革命を契機に独立を果たした。第一次世界大戦と独立戦争により疲弊した国土の上に立った独立ではあったが、農地改革を緊急的に実施していくことで短期間で驚くべき国力の回復を見せた<ref name="tunoda_273">[[#角田1955|角田1955]]、p.273。</ref>。しかしながら政情不安は解消されることのないまま、[[第二次世界大戦]]へと巻き込まれていくことになる。

[[File:Raate road.jpg|thumb|250px|ソ連によるフィンランド侵攻([[冬戦争]])。]]
=== 第二次世界大戦 ===
北欧中立ブロックを形成していたしていた北欧4国は中立政策を固持するために軍拡へと乗り出し、外相会議を密にすることで団結を強めていたが、[[1938年]]に[[チェコスロバキア併合|ズデーテン問題]]が発生したことにより、ヨーロッパに大きな緊張が走った<ref name="tunoda_280">[[#角田1955|角田1955]]、p.280。</ref>。さらに翌年、ドイツの[[ポーランド侵攻]]によって第二次世界大戦が勃発すると、[[独ソ不可侵条約]]を締結していた[[ソビエト連邦]]がフィンランドとの不可侵条約の破棄を宣言し、侵攻を開始した([[冬戦争]])<ref name="tunoda_281">[[#角田1955|角田1955]]、p.281。</ref>。[[1940年]]、コペンハーゲンで三国外相会議が設けられ、厳正中立の申し合わせと対フィンランド援軍派遣の拒絶が決定され、北欧中立ブロックはあっさりと崩壊してしまうこととなった<ref name="tunoda_282">[[#角田1955|角田1955]]、p.282。</ref>。フィンランドとソ連の戦力差は明らかで、ソ連の圧倒的優位で戦争は進められたが、イギリスとフランスが大規模な援軍派遣を検討していることが表沙汰となるとソ連は態度を軟化させ、フィンランドとの和平交渉に乗り出した<ref name="takeda_180">[[#武田1993|武田1993]]、p.180。</ref>。[[1940年]][[3月12日]]、カレリア地方およびフィンランド湾諸島の割譲などがなどが盛り込まれた[[モスクワ講和条約]]を締結した。[[バルト諸国占領]]などによってソ連の勢いが増したことに脅威を感じていたフィンランドはドイツとの関係を深めることで払拭を試みたが、[[バルバロッサ作戦]]を皮切りとして[[継続戦争]]が開始されると周辺諸国に枢軸国側として認知され、北欧で完全に孤立することとなった<ref name="takeda_1826">[[#武田1993|武田1993]]、pp.182-186。</ref>。

一方、ドイツとイギリス両国に良質な鉄鉱を輸出していたスウェーデンであったが、イギリスはドイツへの鉄鉱供給を阻止するため、戦災をスカンディナヴィア半島へ拡大させた<ref name="tunoda_283">[[#角田1955|角田1955]]、p.283。</ref>。しかしスウェーデンは頑なに中立を固守した<ref name="tunoda_292">[[#角田1955|角田1955]]、p.292。</ref>。対してドイツは「保護占領」と称して[[コペンハーゲン]]、[[オスロ]]、[[トロンハイム]]、[[ナルヴィク]]に進撃し、これらの都市を占領した。圧倒的戦力の前にデンマークはやむなくこの占領を承認したが、ノルウェーはこれを認めず、ドイツに宣戦して交戦状態に入った<ref name="tunoda_285">[[#角田1955|角田1955]]、p.285。</ref>。しかし戦力差は歴然で連合軍はノルウェーから撤退、国王[[ホーコン7世]]とノルウェー政府は[[ロンドン]]へ撤退せざるを得ず、ここに[[ノルウェー亡命政府]]を立ち上げるに至った<ref name="tunoda_286">[[#角田1955|角田1955]]、p.286。</ref>。[[アドルフ・ヒトラー]]はノルウェー作戦の完了を宣言するとノルウェー国内に新政府を立ち上げ、亡命したノルウェー王室と旧政府を正式に否認したことにより、ノルウェーはドイツ軍の占領下に入った<ref name="tunoda_286"/>。しかし、ヨーロッパ東部戦線ではソ連軍が着々と反撃を行い、[[1944年]]の[[ノルマンディー上陸作戦]]により連合軍が勝利を挙げると翌年[[5月6日]]、ドイツ軍の降伏により占領下にあった国々は原状を回復した<ref name="tunoda_286"/>。デンマークとの同君連合を結成していたアイスランドはドイツ軍によるデンマーク占領を機に完全分離独立を決意し、[[1944年]][[6月17日]]に共和国としての独立を宣言した<ref name="takeda_215">[[#武田1993|武田1993]]、p.215。</ref>。


1939年、ポーランド潜水艦がエストニアに避難するという事件があったことを契機にソ連はエストニアに対しポーランドに与しているとの抗議をなした<ref name="tunoda_287">[[#角田1955|角田1955]]、p.287。</ref>。エストニア政府はソ連との折衝を続けたが不平等条約の締結を回避できず、同年9月29日にソ連との間に相互援助条約と通商協定を成立させた。ソ連はラトビアとリトアニアにも同様の条約締結を求め、バルト三国はソ連に対して軍事基地の提供を余儀なくされた<ref name="tunoda_288">[[#角田1955|角田1955]]、p.288。</ref>。しかし、翌年6月14日、バルト三国の軍事同盟は条約違反であるという口実をつけ、ソ連は突然リトアニアに対し最後通牒を発し相互援助条約の破棄を宣言した<ref name="tunoda_288"/>。武力的抵抗が無意味であることを悟ったリトアニア政府はソ連の要求する新政権樹立と駐屯軍の増員を承認し、ソ連の占領下に置かれることとなった<ref name="tunoda_288"/>。同様の要求はエストニア、ラトビアに対しても行われ、同年[[6月17日]]、バルト三国は全てソ連占領下へと置かれた<ref name="tunoda_288"/>。[[1941年]]に[[独ソ戦|独ソ戦争]]が開始されるとこれら三国はドイツ軍の制圧下に入れられ、三年に渡る激しい圧政に耐えねばならなかった<ref name="tunoda_291">[[#角田1955|角田1955]]、p.291。</ref>。敗戦の色濃くなった[[1944年]]にはドイツ軍が東部戦線から後退を開始したため、バルト三国は再びソ連へと併合された<ref name="tunoda_291"/>。
紀元前3000年代に、北欧南部で[[土器]]の使用が始まった。エアテポッレ文化<ref>日本では[[青森県]]蟹田町[[大平山元I遺跡]]で16,500年前の土器が見つかっている。</ref>という。当時の貝塚から[[カキ]]、ムラサキガイの殻、[[アカシカ]]、[[ノロジカ]]、[[イノシシ]]の[[骨]]が出土している。


=== 戦後復興 ===
紀元前2000年代に、大陸から農業が渡来し、[[小麦]]、[[大麦]]、エンマー小麦などの栽培と[[豚]]、[[山羊]]などの飼育が始まった。また、巨石文化<ref>イギリス南部の[[ストーンヘンジ]]と同じで、巨石墓はスエーデン、スコーネ地方、ハーヴェング。テーブル形支石墓はデンマーク、スウェーデンのスコーネ地方西部及びポーヒュースレーンに多い。</ref>も伝わった。
敗戦後のフィンランドは[[連合国管理委員会]]の監視・干渉のもとで[[パリ条約 (1947年)|パリ平和条約]]を締結した<ref name="takeda_187">[[#武田1993|武田1993]]、p.187。</ref>。また、ソ連との相互友好援助条約締結によりソ連の強い影響下に置かれることとなり、冷戦期における[[ノルディックバランス]]の一端が形成されることとなった<ref name="tunoda_298">[[#角田1955|角田1955]]、p.298。</ref><ref name="takeda_223">[[#武田1993|武田1993]]、p.223。</ref>。国内情勢は依然不安定であったが、1950年代には戦後賠償から解放され、復興と工業発展へと進んだ。[[1961年]]には[[欧州自由貿易連合]](EFTA)へ準加盟し、[[1973年]]にはEC間の自由貿易協定を締結するに至った<ref name="takeda_190">[[#武田1993|武田1993]]、p.190。</ref>。


ドイツ軍の占領から解放されたノルウェーは[[1947年]]に[[マーシャル・プラン]]の受入れを表明し、戦後復興を開始した<ref name="takeda_195">[[#武田1993|武田1993]]、p.195。</ref>。また、[[1949年]]にはソ連の圧力を押し切ってデンマーク、アイスランドなどとともに[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟した<ref name="takeda_195"/>。
紀元前2000年から前1800年頃、[[バルト海]]沿岸全域に普及した[[闘斧文化]]は、デンマークでは単葬墓文化、他の北欧では船型[[石斧]]文化と呼ばれる。スエーデン東部と[[ゴットランド]]には、海獣猟を特徴とする有孔土器文化もあった。
闘斧文化に続く[[新石器時代]]後期は、石槨(せきかく)墓の時代とも呼ばれる。石剣はノルウェー沿岸部に、石槨墓はスウェーデン南部の内陸部多くみられる。住宅も建てられ、長さ10メートル近くあり、後のロングハウス<ref>青銅器時代、一般に長さ15メートル以上、幅6メートル以上、二本の桁をもち東西方向に向いているのが主流で、倉庫や作業所を含む多機能建築物だったようである。</ref>の原型ともいえる。
紀元前1800年頃、北欧に[[青銅器]]が到来し、大陸の影響を強く受ける。フィンランドでは、この時代の[[遺構]]・[[遺物]]は極端に少ない。デンマークでは、[[弥生時代の墓制#憤丘墓|憤丘墓]]文化の影響を受け、現在15,000基もある。他の地では石積墓<ref>スエーデンのスコーネ地方シーヴィクの石積墓は直径75メートルに達し、内部には装飾絵画を持つ石槨がある。</ref>が主流である。バルト海沿岸地域には、石の船の形に並べた船型配石墓もみられる。大陸からの影響で、やがて火葬骨が骨壺に収められるようになり、[[キリスト教]]による[[木棺]]の土葬が普及する[[11世紀]]まで、主流を占めた。


直接の戦火を免れたスウェーデンの復興は早く、また、福祉国家としても更なる発展を遂げた。1950年代末に入ると[[:en:Tage Erlander|ターゲ・エランデル]]政権によって[[付加年金制度]]が成立したことにより、福祉受益者の範囲拡大が行われた<ref name="murai1_168"/>。そして中央集権的な労使交渉システムが確立されると生産性の低い企業・産業が淘汰されていき、経済構造の高度化とともに著しい経済成長が起こった<ref name="murai1_168"/>。スウェーデンは1960年代には一人当たりの[[GNP]]が世界で最も高い国のひとつに数えられるようになった。一方でソ連に対する国防の重要性を再認識し、ノルウェー、デンマークに対して北欧軍事同盟構想を持ちかけたが、両国がNATOへ加盟したことで頓挫し、スウェーデンは不同盟を選択することで伝統的な中立政策へと戻っていくこととなる<ref name="takeda_210">[[#武田1993|武田1993]]、p.210。</ref>。
== 各国の歴史 ==
現在、「北欧の歴史」に関係する項目には、以下のものがある。
*各国の歴史
**[[アイスランドの歴史]]
**[[スウェーデンの歴史]]
**[[デンマークの歴史]]
***[[グリーンランドの歴史]]
**[[ノルウェーの歴史]]
**[[フィンランドの歴史]]
*北欧の民族
**[[ノルマン人]]
***[[ノース人]]
***[[ノール人]]
***[[ルーシ族]]
**[[アイスランド人]]
**[[スウェーデン人]]
***[[スヴェーア人]]
**[[デンマーク人]]
***[[デーン人]]
**[[フィンランド人]]
***[[フィン人]]
**[[サーミ人]]
*北欧に関する歴史
**[[北欧神話]]
**[[フィンランド神話]]
**[[ヴァイキング]]
**[[サガ]]
**[[北方十字軍]]
**[[大北方戦争]]
**[[汎スカンディナヴィア主義]]
**[[北欧理事会]]
**[[グリーンランド]]
**[[ラップランド]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[武田龍夫]]|year=1993|title=物語 北欧の歴史|publisher=中公新書|isbn=4-12-101131-7|ref=武田1993}}
* 百瀬宏 熊野聰 村井誠人編集『新版世界各国史21 北欧史』山川出版社 2002年 ISBN 4-634-41510-0
* {{Cite book|和書|author=武田龍夫|year=2001|title=北欧を知るための43章|publisher=明石書店|isbn=4-7503-1398-X|ref=武田2001}}
* {{Cite book|和書|author=[[角田文衞]]編|year=1955|title=北欧史|publisher=山川出版社|ref=角田1955}}
* {{Cite book|和書|author=[[村井誠人]]|year=2009|title=スウェーデンを知るための60章|publisher=明石書店|isbn=978-4-7503-2998-7|ref=村井2009-1}}
* {{Cite book|和書|author=村井誠人|year=2009|title=デンマークを知るための68章|publisher=明石書店|isbn=978-4-7503-3008-2|ref=村井2009-2}}
* {{Cite book|和書|author=[[百瀬宏]]、村井誠人監修|year=1996|title=北欧|publisher=新潮社|isbn=4-10-601844-6|ref=百瀬1996}}
* {{Cite book|和書|author=百瀬宏、[[石野裕子]]|year=2008|title=フィンランドを知るための44章|publisher=明石書店|isbn=978-4-7503-2815-7|ref=百瀬2008}}


== 関連項目 ==
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[[Category:北欧史|*]]
[[Category:北欧史|*]]
[[Category:地域史]]
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2011年8月9日 (火) 16:18時点における版

北欧

北欧史では、一般に北欧と呼称されるヨーロッパ北部に位置する地域に関する歴史を詳述する。

先史時代

バルト海を中心にして展開する北欧の地に人類が足跡を残したのはヨルディア期紀元前10000年から紀元前6000年ごろ)で、バルト海東岸やデンマークノルウェー北端のフィンマルクなど、ヴュルム氷期の終了とともに氷原から解放された地域だとされている[1]。彼らは南方の地よりトナカイを追い求めて移動をしてきた人々であり、後期旧石器時代の西欧文化の流れを汲んでおり、一定地域を巡回しつつ狩猟生活を送っていた[1]シェラン島リングビ文化(Lyngby culture)、ノルウェー西岸のフォスナ文化(Fosna-Hensbacka culture)、北岸のコムサ文化(Komsa culture)などがその代表例とされる[1]

1985年世界遺産として登録されたノルウェーアルタの岩絵は、極北美術の代表例として知られている。

アンシルス期(紀元前6000年から紀元前4500年ごろ)になると氷河はスカンディナヴィア半島の背梁部へと後退していき、各地で様々な文化が花開き、活発化した。主要なものとしてはマグレモーゼ文化(Maglemosian culture)、クンダ文化(Kunda culture)、スオムスエルヴィ文化(Suomusjärvi culture)などが挙げられる[1]。これらの諸文化では細石器や原始的な石斧が用いられて狩猟が行われていたほか、イエイヌが使用されるようになったことが特筆される[1]。また、バルト海で採取される琥珀を用いた垂飾などの装身具もこのころから利用されるようになった[1]。その他、1972年にフィンマルクで発見され、世界遺産に登録されているアルタの岩絵が作成されはじめたのもこの頃からと言われている。

リトリナ期(紀元前4500年から紀元前400年ごろ)に入ると南方の先進文化の影響を受けつつ北欧の各文化はさらに発展を遂げる。気候の温暖化により海面上昇とともに貝類の繁殖が見られるようになり、デンマークのエルテベレ文化(Ertebølle culture)などでは貝塚が形成されるようになった[2]。時期を同じくしてフィンランドなどではロシアから伝播した櫛目文土器の利用が見られるようになった[2]

ネルケ地方で出土した舟形斧はBoat Axe cultureと呼称される所以となっている。

中東の肥沃な三日月地帯で始まった農耕牧畜が伝えられるようになった紀元前2500年には、エルテベレ文化を基盤としつつもそれまでの狩猟・漁撈中心の生活から農耕を中心とした小規模の集落からなる定住生活が行われるようになり、同時にウシウマヒツジブタといった家畜の利用が始まった[3]紀元前2100年になるとイギリスストーンヘンジに代表される巨石文化が伝播し、巨石墳を製造して合葬を行うトレヒテルベーケル文化(Trichterrandbecher culture)が形成された[3]。この時代に入ると石器類の製造技術にも飛躍的な発達が見られ、厚頭斧やフリントの打製短剣などが登場している[3]紀元前1000年ごろよりユトランド半島中部や西部で単葬墳が見られるようになると次第に周囲へと広がって行き、単葬墳文化(Single Grave culture)が生まれる。また同じ頃、バルト海東岸やフィンランド西南部では舟形斧文化(Boat Axe cultureキウカイネン文化とも)が生まれている。これらの文化での遺物や遺構などから部族(キウカイヌ)の成立、階級の分化が始まっていたと見られており、インド・ゲルマン人の侵入も相俟って北欧の地は戦乱の時代へと突入していくこととなる[4]

一方、バルト海東岸のリガ湾では紀元前1500年ごろより南方から侵入してきた民族により青銅冶金術がもたらされ、原バルト文化(Baltic culture in Pomerania)が形成された[5]。彼らは先住民のフィン・ウゴル人を駆逐・吸収してこの地域へ定着を果たした。紀元前500年ごろになるとの文化が伝播し、この地の文化水準は大きく向上を果たした[5]。原バルト文化を形成していた民族は年代の経過と共に古プロセイン人ラトビア人リトアニア人という三つの民族に分化していき、集合離散を繰り返しながら4世紀までに幾多もの部族国家を形成して土地と権力を争った[6]

紀元5年に入ると、イタリア半島で興りその版図を広げていたローマ帝国ユトランド半島を迂回してバルト海へ姿を見せるようになり、文化的な接触が始まった。ローマの古典文化ボヘミア方面の陸路とフリースラント諸島方面の海路を経由して北欧へ流れ込み、諸族の文化に多大な影響を与えた[7]。同時に、多数存在していた部族国家は戦争の課程で吸収統合を繰り返し、やがていくつかの王国が形成されるようになる。ユトランド半島ではヴァンダル、キンブル、ユート、アングル、サクソン、テウトンといった諸族の原生国家が誕生している[8]。ノルウェー方面では約1世紀遅れてこうした動きが見られるようになったが、5世紀までに形成された王国はルーグ族のローガランド、ハロード族のホルダランド程度で、その他の部族国家は統合の動きはなされていなかった[8]

中世

北欧三国の成り立ち

べオウルフとドラゴンの戦い。(1908年、J. R. Skelton)

スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの三国は民族的に深い関わりを持っており、不可分の関係によって歴史を歩んできた[9]400年ごろから1000年ごろまでの期間、この地の歴史については彼ら自身の手による文献史料はほとんど残されておらず、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録、伝承記があるのみとなっている[10]。彼らの残した史料として代表的なものとしては8世紀から9世紀にかけてデーン人から伝えられた英雄叙事詩をイギリスの修道僧の手でまとめられた『ベオウルフ』、ヴァイキング時代に創られた歌謡『エッダ』、それまで口頭で語り継がれてきた神話や伝記を12世紀末に纏め上げた『サガ』、ノルウェーやアイスランドの君主に仕えた宮廷詩人によって詠われた賛歌である『スカルド』などがあるが、いずれも作品の性質上歴史を目的として記されたものではないため、事実特定が困難であった[11]。このため、11世紀ごろまでの北欧の歴史はこれらの諸史料と、各地から出土した遺物や周辺地域の歴史書に言及されている状況などから類推・整理して輪郭を得たものであることを前提とする必要がある。

さて、北欧各地に誕生した原生国家は、800年ごろまでその地の覇権を巡って激しい争いを繰り返し、強国への併合を繰り返しながら国の強化を図っていった[11]。この時代はゲルマン諸族が西欧・南欧へ大きく移動し、各地に王国を築いた民族移動時代とも重複しており、彼らの多くは北欧を原住地としていたため、北欧の地には多くの冨と文化が流入し、大きな文化的発展を遂げた[11]。この時代に対する言及としてはローマの歴史家タキトゥスの『スイオーネス』がある[12]。『スイオーネス』にはスウェーデン中部のスヴェーア人が建国した初期の王国の成り立ちについて記されており、28の部族国家がやがて3つの原生国家へと統合していったとされている。このうちのひとつであったメーラル王国メーラル湖を中心として栄えた王国であり、6世紀中ごろには残りの2王国を併合してスヴェーア諸族を統合し、シルフィング王朝と呼称されるようになった[13][注釈 1]。シルフィング王朝は650年ごろに後述するデーン王国によって滅ぼされることとなるが、王子ウーロフはヴェルムランド地方へ逃れてインリング王朝として再建させた。その後も領土を拡張していき、南部のゴート王国を服属した後、860年には首都を古ウプサラへ設置し、後のスウェーデン王国の祖形が成立した[13]

スキョル王朝の版図を大きく拡大させたクヌーズ1世

また、デンマークではデーン人たちの建国したデーン王国(スキョル王朝)が伸張し、シェラン島に存在していた幾多もの国々を征服していた[14]。彼らはその勢力をユトランド半島方面へも伸ばして行き、5世紀後半には現在のデンマークとスコーネの一部を統一するに至り、650年にはスヴェーアのインリング王朝を滅ぼすなど、北欧において最も勢威の強い王国となった[14]

一方、フランク王国の成立によって陸を使用した南下が困難となっていったことから北欧の人口は激増し、北欧で土地の獲得が叶わなかった多くの人々は新しい地を求めて海上へと進出を始めた。これによって造船術や航海術が著しく発達し、ヴァイキング時代が始まった。彼らは単独・混成に関わらずノルウェー、デンマーク、スウェーデンの各地にするさまざまな民族によって編成されていたため、西欧の人々は彼らを一様に「北方の人々」を意味するノルマン人と呼称し、区別をつけなかった[15]。北欧海岸地帯沿岸を拠点とする彼らは冒険・略奪・通商を求めて海を渡っていたが、やがてその目的は領土獲得・植民へと変化していった。803年シーグル王の戦死によってイングランドへと侵攻先が変わると870年にはイングランド東部地域(デーンロウ)の獲得に成功し、スヴェン1世の時代にはイングランドの王を兼ねるまでに至った[16]クヌーズ1世の時代に入るとさらに勢力を伸ばし、北海を中心とした広大な北海帝国の樹立に成功した。これによってデンマークにはイングランドの文化やキリスト教が流入し、深く浸透していった[17]。しかし、次代ハーデクヌーズの死とともにイングランドは独立を果たし、広大な北海帝国は瓦解、スキョル王朝も滅びることとなった[17]

ヨーロッパ人として初めて北アメリカ大陸に渡ったとされるレイフ・エリクソン

スウェーデン、デンマークに対してノルウェー(ノール人)は後進的で、9世紀に入っても統一国家が存在しておらず、小王国に分かれた状態で争っていた[15]。このような状況が続く中で、西南海岸に位置する豪族たちは船団を組織し、海外領土の侵攻を始めるようになった[15]。特に知られているものとしては793年リンディスファーン島襲撃などがあるが、こうした侵攻は年を経るごとに頻繁に起こるようになった[15]。彼らはシェトランド諸島を拠点にスコットランドアイルランドへ侵攻を繰り返し、大量の植民を行ったほか、北海を横断してフランス北部に拠点を築いて内陸へと侵攻していった[15]。また、865年にはアイスランドへ到達してこの島に対しても植民を開始している[15]。しかし、インリング王朝の再建によって次第にノール人の国々は併合されていき、インリング王朝は9世紀中ごろまでにその勢力を西海岸まで伸ばすことに成功している[15]。残された小王国は連合艦隊を組み抵抗を試みたが、ハーラル1世・美髪王によって撃退され、885年872年としているものもある)、ノルウェー王国が誕生した[18]。しかし、ハーラル1世・美髪王の後は王位を巡った内紛が勃発しデンマークのハーラル1世・青歯王によって領土の大半を奪われるなど、その勢力は縮小していった[19]オーラヴ1世の時代には一度盛り返しを見せたが、スヴェン1世の時代に完全にその領土はデンマークの支配下に置かれることとなった[19]。一方でノール人による海外侵出はこうした国情にも関わらず盛んに行われ、900年ごろにはグリーンランドが発見され、1000年ごろには、グリーンランドに最初に入植したとされる赤毛のエイリークの息子レイフ・エリクソンによって北アメリカ大陸ヴィンランド)が発見されている[19]。その他、スペイン南部を侵攻したノール人たちは911年ノルマンディー公国を建国した。

内乱の時代

11世紀中旬、ノルウェーではオーラヴ2世の義弟ハーラル3世が、デンマークではスヴェン2世がそれぞれ新王朝を興し、イングランドの制圧を試みたが失敗に終わり、北欧におけるイングランド侵攻は終息することとなった[20]1060年にはスキョル王朝が滅び、同年ステンキルによって新しい王朝が開かれた[20]。こうした各国の凋落、および王位を巡る角遂は国内に大きな混乱をもたらし、内乱の時代と呼ばれるようになった[20]。また、ハンザ同盟神聖ローマ帝国など、外部との深い関わり合いを持つようになったこともあって、北欧各国は社会・経済・政治が新しく生まれ変わっていく過程で大きな転換期を迎えることとなった[21]

今日のストックホルムの礎を築いたことでも知られるビルイエルの登場はスウェーデン伸張の大きな契機となった。

ノルウェーでは貴族たちはさまざまな党派に分かれてそれぞれが王族を擁して抗争を続けたことにより次第にその力を失い没落していった。貴族たちの旧領は国軍として創設された騎士たちに充てられるようになり、ホーコン4世の時代には騎士貴族が台頭するようになった[22]。他方で、諸外国との親交も密に行われるようになり、中でも王女インゲボルグがスウェーデンの王子エーリックとの間に儲けたマグヌス7世はスウェーデン、ノルウェー両国の王に推戴され、両王国連合の端緒をつくった[22]

共闘してデンマークの国力拡充に努めたヴァルデマール1世と大司教アブサロン

スウェーデンではステンキル王朝が1122年に滅んだ後はスヴェルチェルが王位に就くも1130年に暗殺、エーリック9世が王位に就いた[20]。1世紀に渡るスヴェルチェル家エーリック家による凄惨な王位継承争いが続く中でフォルクング家が勢力を伸ばし、宰相であったビルイエルエーリック11世の妹との間に儲けたヴァルデマールに王位を継がせて1266年、フォルクング王朝を興した[20]。摂政となったビルイエルは地方法を廃して国法を定めて貴族の勢力を抑える傍ら、ハンザ同盟と友好関係を結び、王朝の基盤を固めていき、マグヌスの時代に入るとフォルクング王朝の勢力はより強大なものとなった[23]。マグヌスは元老院を儲けて貴族や司教を政治に関与させるとともに職業軍人制を布いて騎士からなる国軍の編成を行って軍事国家としての体制を整えた。しかし、その後は再び王位継承権を巡った争いが勃発し、ノルウェー王であったマグヌス7世を迎え入れた貴族たちによってビルイエルはデンマークへと放逐されることとなった[23]

デンマークでは1076年にスヴェン2世が逝去するとその王位を巡って内紛が勃発し、加えてドイツ諸侯やヴェンデ族バルト海の海賊たちの襲来によって国力が大きく疲弊することとなった[24]1103年大司教座ルンドに設置されると教会の政治力が増大し、国内の紛憂はさらに激化した。ヴァルデマール1世アブサロンの登場により一時王族と教会が手を組み、国勢を盛り返した期間もあったが、後は続かず、1340年ヴァルデマール4世即位に至るまで内紛は続き、無政府・無秩序状態となって国家として解体寸前に陥るほどの追い詰められた状態にまでなっていた[25]

また、12世紀中旬、ドイツの商人たちはリューベックを拠点に北進をはじめ、スウェーデンのゴットランド島の商人たちを圧倒するようになる。12世紀末に島内にヴィスビューという都市を建設し、ここからさらにロシア貿易、ノルウェー貿易を開始した。13世紀末になるとドイツの商人たちが立ち上げた都市が互いに同盟を結ぶに至り、いわゆるハンザ同盟が結成されると、北欧に大きな影響を及ぼすようになる。北欧諸国はハンザ同盟勢力に対抗するため、法による規制をかけようとしたが、逆に経済封鎖による報復の憂き目に会い、これに屈服してしまうこととなった[26]。ハンザ同盟は北欧の経済を牛耳ると共にさまざまな特権を獲得していった。こうした動向はドイツから多数の移住者を生み出すに至り、北欧諸国にさまざまなドイツ文化が流入する要因となった。

フィンランドの属領化

700年ごろのフィンランドはフィン人同士による争いの絶えない地であった。原生国家は大きく三分され、南西部をスオマライセット、北東部をハマライセット、最北をカリアライセットがそれぞれ支配していた[27]。10世紀ごろになると国際的な諸勢力との接触が認められるようになり、スウェーデンやロシアなどがこの地と住民の獲得に乗り出してくるようになった[27]1152年にはスウェーデンのエーリック9世による侵略が開始され、スオマライセットとの戦争が始まる[28]。スウェーデン軍は破竹の勢いでフィンランドの地を制圧し、属領化に成功した。13世紀に入ると東方からノヴゴロド公国のフィンランド侵略が開始され、フィンランド・スウェーデン連合軍と衝突した[28]。ノヴゴロド軍はネヴァ川にて連合軍を打ち破り、有利に戦いを進めたが、背後から蒙古によるロシア侵入があったため、1323年には連合軍との和議にいたり、カレリアの地をロシアとスウェーデンで二分することとなった[28]。以降、フィンランドの地はスウェーデンの一州となり歴史の歩みを共にすることとなる[29]

1397年、マルグレーテ1世は北欧三国をまとめあげ、カルマル同盟を結び、デンマークを中心とする国家連合を成立させた。

北欧連合

破綻寸前の国の王として即位したヴァルデマール4世はあらゆる手段を用いて諸外国に渡った国土を取り戻し、デンマークの復興に心血を注いだ[26]1360年にはスウェーデンの混乱に乗じてスコーネを占領し、翌年にはゴットランドのヴィスビューを降した。1365年にフォルクング王朝を打ち倒したヴァルデマール4世はその勢いのままノルウェーのホーコン6世と共闘してスウェーデンに圧迫を加えたが、スウェーデンはデンマークの強大化を怖れるハンザ同盟や諸侯と提携してこれに対抗した[30]1370年、戦争はスウェーデン側の勝利となり、ハンザ同盟の大幅な特権を認めるストーラスンド条約の締結をもって終結した。しかし、増大するドイツ勢力たちに反感をもった民衆が蜂起し、デンマークへと支援を求めてきた。ヴァルデマール4世の娘であり、デンマーク、ノルウェーの実権を握っていた摂政マルグレーテ1世はこれを受入れ、ハンザ同盟の傀儡となっていたスウェーデン王アルブレクトと対峙した[31]。1389年、スウェーデンを破ったマルグレーテ1世は妹の孫にあたるポメラニア公国エーリックをデンマーク、ノルウェーの両国王に推し、1397年、エーリックが両国王へ即位した。翌年には国内の貴族たちをカルマルへ集め、三国が一人の君主を擁くことを取り決め、カルマル同盟を成立させた。これにより北欧三国は欧州最大の王国となった[32]

カルマル連合はデンマークを主体に運営を行っていたが、スウェーデン軽視の体制を布くエーリックに不満を抱いたスウェーデンが1434年に反乱を起こすと、1436年にはノルウェーにおいても反乱が勃発した。クリストファ3世が即位する頃には国家連合は名ばかりのものとなり、1448年クリスティアンが即位するとスウェーデンは摂政としてカール8世を擁立して政治運営を行うようになり、実質的に連合を脱した[33]1520年、デンマークのクリスティアン2世は王権強化を目指してスウェーデンを攻撃し、スウェーデンの独立党派を惨殺する(ストックホルムの血浴[33]。これが発端となって1521年グスターヴ・ヴァーサを指導者とした大規模な反乱が発生した。クリスティアン2世は戦費を捻出するため、貴族諸侯に対して重税を課したが、これを不服としたユトランドの貴族たちも蜂起したため、クリスティアン2世は国外へと逃亡した[34]1523年にはデンマーク、ノルウェーの王としてフレデリック1世が即位したが、スウェーデンは完全に独立し、反乱軍を主導したグスターヴ・ヴァーサをグスタフ1世として即位させた[34]

近世

宗教改革

スウェーデンの独立を勝ち取ったグスタフ1世のストックホルム入城。(カール・ラーション画)

グスタフ1世が即位した1523年当時、周辺諸国では宗教改革の機運が高まっていた[35]。グスタフ1世はこれに乗じて寺院や修道院から領地を没収せしめ、内政の刷新と財政基盤の強化に取り組んだ。また、国内の治安を良化するため、騎士の雇い入れ、海軍の増強とともに志願制の歩兵隊を創設して大規模な国軍を編成した。並行して諸外国から鉱業、農業などの技術者を多数招聘して国内へ普及させ、ハンザ同盟に対抗するためオランダの商人に通商上の特権を与えるなど経済、産業の発展にも力を注いだ。国内体制の整備が進むにつれてスウェーデンは領土的野心を抱くようになり、次代のエーリック14世は1561年、エストニアに兵を派遣してその領有に成功する。1563年にはデンマークに宣戦し、北方七年戦争が開戦した。この戦争は1570年ヨハン3世の時代に終結し、デンマークとの間でシュテッティンの和約が締結された[36]。ヨハン3世の推戴によってポーランド・リトアニア共和国の国王に就いていたジグムント3世がスウェーデン国王に即位すると元老院との間に亀裂が生じ、1599年に退位させられる。1604年にはこの動きを主導したカール9世が即位したことにより、スウェーデン・ポーランド戦争へと発展していった[36]

「北方の獅子」として名を馳せたグスタフ2世アドルフ1632年リュッツェンの戦いにおいて戦死を遂げる。

1611年、カール9世の死後、その息子であるグスタフ2世アドルフが即位する。グスタフ2世アドルフは先代が始めたロシアやデンマークとの戦争を巧みに終結させるとその戦力をポーランドに集中させ、1629年にはスウェーデンに有利な条件での講和条約(アルトマルク休戦協定)を締結することに成功する[37]。他方、スウェーデンとの戦争が終結したデンマークのクリスティアン4世は、新教派の盟主という名目の下、1625年三十年戦争へと参戦する。雄飛の野心に燃えていたクリスティアン4世であったが、ティリー伯との戦いに敗れ、1629年にはリューベックの和議によってドイツへの不介入を約束することとなった[38]。ポーランドとの問題が解決し、デンマークと入れ替わるように三十年戦争へ介入を始めたスウェーデンは1630年ポメラニアに上陸し、シュチェチンの占領に成功する[38]。ティリー伯が起こしたマクデブルクの惨劇を受けて奮起したスウェーデン軍は連戦連勝を重ね、1632年レヒ川の戦いにてついにティリー伯を打ち倒した。同年のリュッツェンの戦いにおいてグスタフ2世アドルフが戦死するもスウェーデン軍は快進撃を続け、帝都ウィーンに迫る形勢を示した[39]

これを見て北欧の覇権がスウェーデンに移ることを危惧したクリスティアン4世は様々な手段を用いてスウェーデン遠征軍の妨害を試みた[39]。こうした行為に憤激したスウェーデンは1643年、デンマークに対して宣戦しユトランド及びスコーネへ進軍した。1645年ブレムセブルー条約の締結に至ったこの戦争はサーレマー島イェムトランドヘリエダーレン、ゴットランドをスウェーデンに割譲する結果となっている。スウェーデンはさらに1648年ヴェストファーレン条約によってブレーメン教会領や西ポメラニアなどを獲得し、名実共に宿願であったバルト帝国を築き上げ、欧州列強に名乗りをあげることとなった[40]

北欧の覇権をかけた大北方戦争。上記はロシアとスウェーデンによるナルヴァの戦い

絶対王政の確立

1654年、スウェーデンの王位に就いたカール10世リヴォニアの確保を目的としてポーランドとの北方戦争を開始する。これを目にしたデンマークのフレデリク3世は失地奪還の絶好の機会とみなし、1657年スウェーデンに対して宣戦しブランデンブルク選帝侯フリードリヒとともにカール・グスタフ戦争を開始した[41]。しかし、カール10世はポーランドから転進してユトランドへ攻め入り、翌年にはシェラン島に上陸、ロスキルの和議を締結したことにより、スウェーデンはスコーネ、トロンハイムブレーキンゲなどの地域を獲得した[41]。しかしオランダやブランデンブルクがデンマークに助勢したため戦局は滞り、1660年の持久戦の最中にカール10世は病没した[41]。カール10世の死を受け、フランスやイングランドなどが仲介に入ったことでスウェーデンは各国と講和条約を締結し、カール・グスタフ戦争を含む北方戦争は終結をみた[42]。相次ぐ戦争によりスウェーデンの財政は逼迫し、膨れ上がる戦費を賄うためにスウェーデンは貴族に国土の売却を行っていた。こうした問題を解決するため、1672年に親政を始めたカール11世は、先の戦争における貴族たちの失政を厳しく追及し、土地貴族の勢力の減殺に動いた。1680年1682年1686年と度々土地改革法を制定し、多大な所領の回復に成功すると王権はますます強大になった[42]

一方、デンマークはクリスティアン4世の即位以来弱体化の一途を辿り、国威は大いに失墜した[43]。しかし内政面から見ると貴族に圧迫を加え、産業の振興に尽力したクリスティアン4世の人気は高く、同様の政策を執ったフレデリック3世も市民の支持を得た[43]。これを背景として国会で市民出身議員および聖職者出身議員と提携して王権強化を画策し、1660年には国王の絶対主権を呈上するに至った。これにより選挙王制は撤廃され、デンマークの絶対王政が確立した。フレデリック3世は国内体制の刷新をはかり、国力の充実に尽力し、続くクリスチャン5世もこの方針を引き継いでデンマークの平和を維持したが、次に即位したフレデリック4世はスウェーデンからの覇権奪還を目指し、1699年、ロシアのピョートル1世、ポーランドのアウグスト2世とともに反スウェーデン同盟を結ぶに至った[44]

1700年、フレデリック4世はスウェーデンのカール12世に対して宣戦し、ピョートル1世率いるロシア軍はイングリアに攻め入り、アウグスト2世率いるザクセン軍はリヴォニアに攻め入り、大北方戦争が開戦した[45]。カール12世は1700年にデンマークを降し、1706年にポーランドとアルトランシュテット条約を締結するなど奮戦したが1709年のロシア遠征(ポルタヴァの戦い)で敗戦を喫すると戦況は徐々に傾いていき、1714年にはロシアによってバルト海の制海権を奪取されるに至った[45]。これに乗じるようにプロイセン王国ハノーヴァー朝ポーランド王国などが相次いでスウェーデンに宣戦し、デンマークも戦線復帰するなどスウェーデンは四面楚歌に陥ってしまう[45]。スウェーデンはクリスチャニアを陥落させるなど抵抗を見せたが1718年、カール12世が戦死すると国内には反戦勢力の声色が強まり、次代女王エレオノーラは各国との戦争終結に向けて行動を起こした[45]1721年、ロシアとの間にニスタット条約が締結されたことをもって大北方戦争は終結を見た。スウェーデンが保持していたバルト海東岸の権益はそのほとんどが消滅、またその貿易もイングランドやデンマークの手に移ったことで一時代を築き上げたバルト帝国は完全に崩壊した[46]

「グスタフ時代」を築き上げたスウェーデンのグスタフ3世

啓蒙主義の時代

同時にヨーロッパでは啓蒙思想自由主義が叫ばれる時代へと突入していき、北欧でも絶対王政に対する批判と君主制と民主制を調和させた新しい政体が求められるようになっていった[47]。スウェーデンでは1719年に新憲法が制定されると国会が国家の最高機関と位置付けられるようになり、王権は著しく制限された[47]。国会が実権を持つようになると代表者たちは党派を形成するようになり、親英露政策を取るナット・メッサ党と親仏政策を取るハット党が誕生した。しかし、アドルフ・フレドリク王の末年に入ると2党の政争は益々激化し、国民からは政権争奪を中心に添えた政治の在り方に疑義が持たれるようになった[48]。こうした世論を受けてグスタフ3世は即位した翌年の1772年に元老院と国会に武威を示して新憲法を承認させ、再び絶対王政を布き政党の活動と国会を抑圧した[48]1788年、グスタフ3世はロシアが対トルコ戦に忙殺されている間隙を縫っての遠征を企てる。これを見たデンマークが再びスウェーデンに宣戦してスコーネに進軍を始めたがグスタフ3世は1789年にこれを撃退、その勢いのままフィンランド湾の海戦にてロシア艦隊を撃破し、スウェーデンの勢威を示すと共にさらなる王権の強化に成功することとなった[49]

第二次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争)によってフィンランドおよびオーランド諸島はロシアに割譲されることとなった。

しかし1792年、グスタフ3世の施政に異論を持つ貴族に暗殺されグスタフ4世が王位に就くと国際情勢は一変し、1809年第二次ロシア・スウェーデン戦争においてロシアによってフィンランド全地域を占領されるに至った[50]。同年、スウェーデンの無力に絶望したフィンランドはロシア皇帝をフィンランド大公に戴くことを国会で決議し、ロシアへの服属を誓った[50]。グスタフ4世はこの敗戦の責任を問われて廃位されるとカール13世がその王位に就いた。カール13世はフィンランドにおけるロシアの軍事力排除は困難と判断し、ロシアとフレデリクスハムンの和約を締結してフィンランドおよびオーランド諸島をロシアへ割譲した[50]。啓蒙思想が広がる中で絶対王権の国家体制を取り戻そうとしたスウェーデンのこの時代をグスタフ時代と呼称する[48]

数々の改革を断行したストルーエンセはクーデターにより死罪となった。しかしその多くの改革は彼の死後に実現に至ることとなった。

一方でデンマークは1720年にスウェーデンと講和条約を締結するとフレデリック5世は歌舞やスポーツを奨励して文化的発展を促しただけでなく、通商に留意して輸入制限を設けることで国内産業の振興に務めるなど、再び平和政策に転じるようになった[51]クリスチャン7世が王位に就くと、1770年、后のキャロライン・マティルダによって見出されたドイツ人のヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセが宰相に任じられ、ルソーの啓蒙思想に倣った多くの改革が断行された[52]。しかし、デンマーク語を解さないドイツ人宰相によって猪突的に実施された諸改革は周囲に猛烈な反抗を引き起こし、1772年には神学者グルベアを中心とした反改革派によるクーデターが勃発した[52]。グルベアは同年に宰相に就任するとストルーエンセの諸改革を抹殺し、保守的な政策を十余年継続した。1784年フレデリック6世が王位に就くと啓蒙主義的な貴族の支援のもとに農奴制の廃止などの一大改革が断行され、デンマークは近代国家への道を歩み始めた[52]

また、1661年以降、同君連合国という名の下に実質的なデンマークの隷属国としてその歴史を歩んできたノルウェーでは、ストルーエンセによって啓蒙思想が持ち込まれたことをきっかけに独立の機運が高まった[48]。1784年にフレデリック6世により改革新政が布かれると市民勢力を中核とする独立運動が益々増大し、ブルンの独立歌が街中のいたるところで歌われるような状況になった[48]。しかしながら武装中立同盟によってイギリスとの対立が深刻化し始めていたデンマークのあおりを受けてノルウェーの商船が度々拿捕され、貿易停止と海岸の封鎖によって食糧難に陥ってしまう[53]1814年、スウェーデンとデンマークの間でキール条約が締結されるとノルウェーの主権はスウェーデンへと移った[54]。ノルウェーはこの併合を承認せず、クリスチャン・フレデリクを王に立てて独立を標榜した[54]。これを受けてスウェーデンのカール・ヨハンはノルウェーへ侵攻し、1814年に武威を示してノルウェー国会にスウェーデンとの同君連合を承認せしめ、ノルウェーの独立運動は空しい結果に終わることとなった[54]

近現代

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を発端に勃発したデンマーク戦争。上記は反乱を鎮圧し、コペンハーゲンに帰還したデンマーク軍。

北欧諸国の近代化

デンマークの啓蒙思想的改革を遂行したフレデリック6世はナポレオン戦争の後、著しく減衰した国力の回復に注力したが再興は容易ではなかった[55]。通商政策に阻まれて主力であった穀物を中心としたの輸出産業がままならなくなり、商工業の疲弊と不振を招いた。しかし、1830年代に入り西欧諸国の産業革命が進行するに従って穀物価格の高騰が発生し、デンマークの経済も回復の兆しを見せるようになった[55]。生活が豊かになるにつれて勢力を伸張させていった国民たちは団結意識に目覚めるようになり、1842年には国民自由党を、1846年には農民党を結成するに至った[56]。国民主義、自由主義の機運が高まっていく時代の流れを明察したクリスチャン8世は自由憲法の制定の必要性を感じ取っていたが、同時に湧き上がったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題の解決に力を割かれたため、彼の在位中に実現には至らなかった[57]1848年フレデリック7世が即位するとシュレースヴィヒがデンマーク領であることが宣言された。ホルシュタイン公国はこの宣言に対して反乱を起こし、キールに臨時政府を設けて独立を宣言した[58]。デンマークが反乱の鎮圧に動くと臨時政府はドイツ連邦に援けを求めたため、これを契機にデンマークとプロイセン王国との間でデンマーク戦争が勃発した[58]。戦況はプロセイン公国優位で進んでいたがロシアやイギリスの介入により膠着状態に陥り、1852年ロンドン議定書が取り交わされ、一応の決着を見た[59]。しかし、クリスチャン9世が即位すると特別憲法を制定してシュレースヴィヒ、ホルシュタイン両国の併合を画策したため、再び反乱が勃発し、これを支援するプロセイン、オーストリアとの間で第二次デンマーク戦争に発展した[59]。プロセインのオットー・フォン・ビスマルクの外交政策によりデンマークは孤立化し、1864年、両国に関する一切の権利を破棄するウィーン条約が締結され、一連の問題の終結を見た[59]

ノルウェーの民主化を推し進めた自由党の初代党首ヨハン・スヴェールップ

スウェーデンでは1809年のカール13世の即位と共に立憲君主制を規定した新憲法が制定され、民主化が大きく前進したが、戦争の爪痕は深く、厳しい状況にあった[60]1818年に即位したカール14世はこうした国内経済の建て直しと緊張していた国際関係の円滑化に尽力し、1830年代に入るころには景気が徐々に好況を示すようになった[60]オスカル1世もカール14世の方針を引き継いだ治世を行い、ギルドの廃止、自由貿易の認可、民間銀行法の設立など、前近代的で産業の発達を抑制するくびきとなっていた障害の排除に乗り出し、民主化を一層推し進めた[58]

キール条約によってスウェーデンとの同君連合を結成したノルウェーではマグヌス・ファルセンによってエイズヴォル憲法が制定され、国会に政治の中心を置き、立憲君主制が規定され、国民の基本的人権の確認がなされた[61]。これによってノルウェーではスウェーデン王を統治者に戴きながらも国会と内閣による自治が可能となり、民主化が大きく進んだ[61][注釈 2]。フランスで起こった7月革命の影響によって国民が強い政治意識を持つようになると、1869年には農民や市民を代表する革新派と呼ばれる議員たちによって自由党が結成された[61]。この結果、保守派の勢力は衰勢に向かい、1884年、自由党を立ち上げたヨハン・スヴェールップがはじめて首相に任じられ、政党政治が発足した[61]。政治の発展に伴い産業経済も急速に進展し、特にイギリスを手本として開始された紡績、マッチ、醸造といった諸産業は大きく伸張した。同時に漁業や海運業も1870年代に入る頃には商戦保有量がイギリスに次ぐ規模となるほどの著しい発展を見せた[62]。ここにきてスウェーデンの主導権を廃する動きが再燃し、独立運動へとつながっていくこととなった[62]

スウェーデン、ノルウェー同君連合最後の国王となったオスカル2世

民主政治の発展

19世紀後半に入ると北欧諸国で政党の発達が見られるようになった。1866年に国会を改組したスウェーデンでは下院の大半を制する小農出身の議員たちによって農民党が結成され、自らの階級利害のための活動をはじめたのを皮切りに20世紀に入ってからは自由党社会民主党などが相次いで結成された[63]。こうした背景にはオスカル2世のとった産業保護政策があった[64]。鉄鉱業が大いに発展し、活発な産業・貿易を背景に豊かで平和な国家として繁栄を築いていった[64]

1870年に入るとデンマークの農民等は都市部の小市民層を吸収して自由党となり、国民自由党に対してみずからをヴェンスタ(左翼)と呼称するようになった[65]。また、1876年に入ると労働組合を支持母体とした社会民主党が結成され、急速に党勢を拡張した[65]。こうした革新勢力に好意を寄せていたクリスチャン9世1901年、総選挙によって下院の左派勢力が大きく伸張したのを機会に左派勢力による連合内閣の組閣を命じ、義務教育改革や軍事費の削減などに注力した[65]。また、産業面ではアメリカやロシアの低廉な穀物がヨーロッパ市場に氾濫したことにより、穀物の輸出によって外貨を獲得していたデンマークは大打撃を蒙り、非常な不況に見舞われた[66]。穀物農業従事者たちは相次いで酪農業へと転向し、バターベーコンチーズ練乳などの生産に従事するようになった。この転向は農業教育の普及、協同組合の発達、イギリスを主とした海外市場の存在などを背景に急速に成長し、デンマークを世界一の農業国へと押し上げた[66]。同時にイギリス、ドイツなどから石炭や鉄を輸入して工業の育成に努め、著しい発展を見せた[66]

一方、独自の政府を持ちつつも軍事と外交をスウェーデンに押さえられていたノルウェーでは、海運業の発達とともに利益を代表する領事を置く必要性が叫ばれるようになった[67]1885年1901年とノルウェー政府はスウェーデンに対して独立領事館の設置を要請したがこれが拒否されたため、1905年に首相となったクリスティアン・ミケルセンによって6月7日、内外に対して同君連合からの離脱と新しい国王を戴くことが宣言された[68]。スウェーデンのオスカル2世は主戦論に湧く世論を慰撫してこれを認め、カールスタッドの分離協定に両国が調印することでノルウェーの正式な独立が実現した[68]。新しいノルウェーの国王としてデンマークの王子カールが選ばれ、同年11月27日ホーコン7世として即位した[68]。こうして宿願であった独立を成し遂げたノルウェーは清新な意気を持って自国の改革と発展に注力し始めた。

スウェーデンのグスタフ5世は、デンマーク、ノルウェーと協同して第一次世界大戦に対しての中立を表明した。

第一次世界大戦

1914年7月28日第一次世界大戦が勃発した。北欧諸国は直ちに中立を表明し、相互の安全のために強調しようとする機運が高まり、汎スカンディナヴィア主義が再び台頭した[69]。スウェーデンのグスタフ5世はこうした世論をいち早く察知し、同年12月、デンマーク、ノルウェーに働きかけてマルメにおいて三国国王会議を実施した。とくに大戦による貿易の不振は各国の経済状況を著しく脅かしたため、これを解消すべく積極的な相互援助を行うことで合意した[69][注釈 3]。こうした三国間の共同歩調の成果もあって前半期は比較的安定した状況が続いていたが、後半期になると連合国の海上封鎖強化などが影響し、食糧事情の悪化が深刻になった[70]。穀物取引の政府経営や主要食料品の配給制といった対策が取られたが、行き詰まりは隠せず、国内情勢は不安定となった[70]。デンマークはヴァージン諸島をアメリカに割譲するなどして財政の窮状を凌いでいたが、これに乗じてアイスランドの独立問題が勃発し、左派勢力を抑えきることが出来ないまま1918年、アイスランドの独立が承認されるに至っている[71]。また同年、ロシアの混乱に乗じてフィンランドが独立宣言を行うなど、北欧諸国は大きな転換期を迎えることとなった[71]

福祉国家の建設に尽力したスウェーデンのペール・アルビン・ハンソン首相。

第一次世界大戦により北欧諸国は大きな打撃を蒙ったが、直接的な戦災は免れたため、その復興も迅速であった[72]。スウェーデンでは短期間に政権が交代する不安定な情勢を迎えたが、1932年社会民主党が政権についたことで安定を来した[73]ペール・アルビン・ハンソンは「国民の家」をスローガンに福祉国家の建設を進め、国民全員を恩恵の対象とした普遍主義的社会保障制度の確立を目指した[73]。デンマークでは1915年に制定した改正憲法が1918年になって発効し、男女の普通選挙が実施されるようになった。左派と右派が短期間に入れ替わる混沌とした状態がしばらく続いたが1929年トルワード・スタウニングが政権につくとようやく情勢が安定し、デンマークに繁栄をもたらした[74]。しかし、ノルウェーではクヌットセン内閣が戦争の終結と同時に復興に乗り出したが労働運動の激化により思うような成果が挙げられずにいた[75]。また、1919年に国民投票で決定した禁酒法の施行に対し、ノルウェーにぶどう酒やシェリー酒を輸出していたスペインやポルトガルが報復的にノルウェーからの輸入を差し止める事態が引き起こされ、ノルウェーの経済に大きな打撃を与えた[76]。時の首相はそれぞれの手法で禁酒法の緩和を試みたがその悉くを野党に潰され、景気の回復はままならない状況に陥っていた[76]

一方ロシア革命に乗じて独立を勝ち取ったフィンランドでは、新興国特有の政争は絶えなかったものの、さほど深刻な状況には至らず、順調な経済成長を続けた[77]。政府は輸出の増大と食料の自給化を目指した政権運営を実施し、土地改良と農法改革を積極的に推進して、1930年までに自営農民の数を独立当初と比較して倍加させることに成功した[78]。1920年代末に入り、世界的な不況と不安定な政権から左右両勢力が伸張しはじめ、1929年共産青年同盟が結成されるとこの気勢に拍車がかかった[79]。国内は大きな混乱に見舞われたがペール・スヴィンヒュー1931年に大統領に就任して以降、国民が一致団結して国防の強化と産業の振興に注力できるような舵取りを行い、フィンランドの国力は著しく躍進した[80]1935年にスウェーデン、デンマーク、ノルウェーと協定して北欧中立ブロックを形成すると周辺国への配慮からファシズムは鳴りを潜め、ようやく政情は安定化した[80]

また、バルト三国を構成するエストニアラトビアリトアニアもフィンランドと同じくロシア革命を契機に独立を果たした。第一次世界大戦と独立戦争により疲弊した国土の上に立った独立ではあったが、農地改革を緊急的に実施していくことで短期間で驚くべき国力の回復を見せた[81]。しかしながら政情不安は解消されることのないまま、第二次世界大戦へと巻き込まれていくことになる。

ソ連によるフィンランド侵攻(冬戦争)。

第二次世界大戦

北欧中立ブロックを形成していたしていた北欧4国は中立政策を固持するために軍拡へと乗り出し、外相会議を密にすることで団結を強めていたが、1938年ズデーテン問題が発生したことにより、ヨーロッパに大きな緊張が走った[82]。さらに翌年、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発すると、独ソ不可侵条約を締結していたソビエト連邦がフィンランドとの不可侵条約の破棄を宣言し、侵攻を開始した(冬戦争[83]1940年、コペンハーゲンで三国外相会議が設けられ、厳正中立の申し合わせと対フィンランド援軍派遣の拒絶が決定され、北欧中立ブロックはあっさりと崩壊してしまうこととなった[84]。フィンランドとソ連の戦力差は明らかで、ソ連の圧倒的優位で戦争は進められたが、イギリスとフランスが大規模な援軍派遣を検討していることが表沙汰となるとソ連は態度を軟化させ、フィンランドとの和平交渉に乗り出した[85]1940年3月12日、カレリア地方およびフィンランド湾諸島の割譲などがなどが盛り込まれたモスクワ講和条約を締結した。バルト諸国占領などによってソ連の勢いが増したことに脅威を感じていたフィンランドはドイツとの関係を深めることで払拭を試みたが、バルバロッサ作戦を皮切りとして継続戦争が開始されると周辺諸国に枢軸国側として認知され、北欧で完全に孤立することとなった[86]

一方、ドイツとイギリス両国に良質な鉄鉱を輸出していたスウェーデンであったが、イギリスはドイツへの鉄鉱供給を阻止するため、戦災をスカンディナヴィア半島へ拡大させた[87]。しかしスウェーデンは頑なに中立を固守した[88]。対してドイツは「保護占領」と称してコペンハーゲンオスロトロンハイムナルヴィクに進撃し、これらの都市を占領した。圧倒的戦力の前にデンマークはやむなくこの占領を承認したが、ノルウェーはこれを認めず、ドイツに宣戦して交戦状態に入った[89]。しかし戦力差は歴然で連合軍はノルウェーから撤退、国王ホーコン7世とノルウェー政府はロンドンへ撤退せざるを得ず、ここにノルウェー亡命政府を立ち上げるに至った[90]アドルフ・ヒトラーはノルウェー作戦の完了を宣言するとノルウェー国内に新政府を立ち上げ、亡命したノルウェー王室と旧政府を正式に否認したことにより、ノルウェーはドイツ軍の占領下に入った[90]。しかし、ヨーロッパ東部戦線ではソ連軍が着々と反撃を行い、1944年ノルマンディー上陸作戦により連合軍が勝利を挙げると翌年5月6日、ドイツ軍の降伏により占領下にあった国々は原状を回復した[90]。デンマークとの同君連合を結成していたアイスランドはドイツ軍によるデンマーク占領を機に完全分離独立を決意し、1944年6月17日に共和国としての独立を宣言した[91]

1939年、ポーランド潜水艦がエストニアに避難するという事件があったことを契機にソ連はエストニアに対しポーランドに与しているとの抗議をなした[92]。エストニア政府はソ連との折衝を続けたが不平等条約の締結を回避できず、同年9月29日にソ連との間に相互援助条約と通商協定を成立させた。ソ連はラトビアとリトアニアにも同様の条約締結を求め、バルト三国はソ連に対して軍事基地の提供を余儀なくされた[93]。しかし、翌年6月14日、バルト三国の軍事同盟は条約違反であるという口実をつけ、ソ連は突然リトアニアに対し最後通牒を発し相互援助条約の破棄を宣言した[93]。武力的抵抗が無意味であることを悟ったリトアニア政府はソ連の要求する新政権樹立と駐屯軍の増員を承認し、ソ連の占領下に置かれることとなった[93]。同様の要求はエストニア、ラトビアに対しても行われ、同年6月17日、バルト三国は全てソ連占領下へと置かれた[93]1941年独ソ戦争が開始されるとこれら三国はドイツ軍の制圧下に入れられ、三年に渡る激しい圧政に耐えねばならなかった[94]。敗戦の色濃くなった1944年にはドイツ軍が東部戦線から後退を開始したため、バルト三国は再びソ連へと併合された[94]

戦後復興

敗戦後のフィンランドは連合国管理委員会の監視・干渉のもとでパリ平和条約を締結した[95]。また、ソ連との相互友好援助条約締結によりソ連の強い影響下に置かれることとなり、冷戦期におけるノルディックバランスの一端が形成されることとなった[96][97]。国内情勢は依然不安定であったが、1950年代には戦後賠償から解放され、復興と工業発展へと進んだ。1961年には欧州自由貿易連合(EFTA)へ準加盟し、1973年にはEC間の自由貿易協定を締結するに至った[98]

ドイツ軍の占領から解放されたノルウェーは1947年マーシャル・プランの受入れを表明し、戦後復興を開始した[99]。また、1949年にはソ連の圧力を押し切ってデンマーク、アイスランドなどとともに北大西洋条約機構(NATO)に加盟した[99]

直接の戦火を免れたスウェーデンの復興は早く、また、福祉国家としても更なる発展を遂げた。1950年代末に入るとターゲ・エランデル政権によって付加年金制度が成立したことにより、福祉受益者の範囲拡大が行われた[73]。そして中央集権的な労使交渉システムが確立されると生産性の低い企業・産業が淘汰されていき、経済構造の高度化とともに著しい経済成長が起こった[73]。スウェーデンは1960年代には一人当たりのGNPが世界で最も高い国のひとつに数えられるようになった。一方でソ連に対する国防の重要性を再認識し、ノルウェー、デンマークに対して北欧軍事同盟構想を持ちかけたが、両国がNATOへ加盟したことで頓挫し、スウェーデンは不同盟を選択することで伝統的な中立政策へと戻っていくこととなる[100]

脚注

注釈

  1. ^ スウェーデンの国章であるトゥレー・クローノー(三つの王冠)はこのことに由来している。(角田1955、p.41。)
  2. ^ ただし、外交と軍事に関してはスウェーデンに掌握されており、あくまで国内の運営のみであった(角田1955、p.110。)
  3. ^ デンマークは穀物や畜産品を、ノルウェーは木材、パルプ、化学製品を、スウェーデンは鉄材、鋼鉄製品をそれぞれ相互に供給することで合意した。(角田1955、p.121。)

出典

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参考文献

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関連項目