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'''森 孝慈'''(もり たかじ、[[1943年]][[11月24日]] - )は、[[日本]]の元[[サッカー|サッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは[[ミッドフィルダー]]。元[[サッカー日本代表|日本代表]]選手・監督で、ミドルシュートの名手として知られた。実兄は[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]創設へ大きな舵取り役を果たした[[森健兒]]。
'''森 孝慈'''(もり たかじ、[[1943年]][[11月24日]] - [[2011年]][[7月17日]])は、[[日本]]の元[[サッカー|サッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは[[ミッドフィルダー]]。


== 来歴・人物 ==
== 人物 ==
元[[サッカー日本代表|日本代表]]選手・監督で、ミドルシュートの名手として知られた。

実父は元教師・[[広島県庁]]および[[日本体育協会]]職員で、[[広島市への原子爆弾投下|原爆被災]]後の[[広島市]]内の様に衝撃を受け、街をうろつく[[戦災孤児|原爆孤児]]を引き取り、戦後[[広島湾]]・[[似島]]に[[似島学園]]を設立したことで知られる森芳麿<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/bingo/3-7.html 教師の父 スポーツに縁/競技振興 学校から地域へ] 中国新聞 2011年7月19日閲覧<br />[http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/52essays/ninosima.html Jリ-グの源流・似島]</ref><ref name="wsm20081202p56">『週刊サッカーマガジン』2008年12月2日号、p56</ref><ref name="不滅のサッカー王">大貫哲義『不滅のサッカー王―釜本選手とその仲間たち』[[大陸書房]]、1983年、p222-236</ref><ref>[[島原帆山]]『竹韻一路』、新芸術社、1990年、p132-199</ref>。実兄は[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)創設へ大きな舵取り役を果たした[[森健兒]]。

== 来歴 ==
=== 選手時代 ===
=== 選手時代 ===
[[広島県]][[福山市]]生まれ。広島[[県庁]]職員だった親は、当時福山にあった出先機関に勤務し[[広島市への原子爆弾投下|原爆投下]]のに[[広島市]]におらず。原爆投下後の[[広島市]]内の光景に衝撃を受け、街をうろつく[[戦災孤児|原爆孤児]]を引き取り戦後、[[広島湾]]・[[似島]]に[[似島学園]]を設立した<ref name="wsm20081202p56">『週サッカマガジン』2008122p56</ref><ref name="不滅のサッカー王">大貫哲義『不滅サッカー王―釜本選手とそ仲間たち』[[大陸書房]]1983年、p222-236</ref>。ため2歳から高校卒業まで[[広島市]]似島で育つ<ref name="wsm20081202p56" />。小学校4年からは毎日船に乗って広島市内の皆実小学校、修道中学校に通う<ref name="不滅のサッカー王"/>。海で鍛えた泳ぎを買われ中学3年間は水泳部に在籍、中の卒業間際から本格的にサッカーを始める<ref name="不滅のサッカー王"/>。[[1961年]]、[[修道高等学校]]3年の、[[下村幸男]]監督もと[[中村勤]][[吉田浩 (サッカー選手)|吉田浩]]らとともに[[国民体育大会|国体]]優勝。更に[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権]]で[[釜本邦茂]][[二村昭雄]]ら擁する[[京都府立山城高等校|京都山城高校]]を破り優勝、当時の高校の全タイトル、高校2冠を達成した<ref name="wsm2011215p62" >『週刊サッカーマガジン』2011年2月15日号、p62</ref>
[[広島県]][[福山市]]生まれ<ref name="nikkansports2011718" >[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20110718-806861.html メキシコ五輪銅「レッズの父」森孝慈氏急死] 刊スポーツ 2011年7月18日閲覧</ref><ref name="日刊スポーツ20117188" >[[日スポツ]]、20117181112面</ref><ref name="chugoku" >[http://www.chugoku-np.co.jp/Olympic/Beijing/Edit/Oe08052401.html 郷土勢82個メダル 中国新聞<5> 森孝慈 勝利へ執念前面に]</ref>。父・芳麿似島学園創設に伴い一家で似島に転居し、孝慈は2歳から高校卒業まで[[広島市]]似島で育つ<ref name="wsm20081202p56" />。小学校4年からは毎日船に乗って島外の学校へ通学、[[広島市皆実小学校]][[修道中学校・修道高等学校]]で学んだ<ref name="不滅のサッカー王"/>。海で鍛えた泳ぎを買われ中学3年間は水泳部に在籍、中3の卒業間際から本格的にサッカーを始める<ref name="不滅のサッカー王"/>。時の同窓に[[惇一郎]]がいる。[[1956年]]、芳麿亡くしてい(詳細は[[似島]]参照)


[[1961年]]、修道高3年の時には[[下村幸男]]監督のもと、[[国民体育大会|国体]]優勝。更に[[第40回全国高等学校蹴球選手権大会|同年度の全国高校サッカー選手権]]で
1年浪人後、[[早稲田大学]][[政治経済学部]]自治行政学科に進学し、2学年上の[[松本育夫]][[野村尊敬]][[桑田隆幸]]、同級生の二村、1学年下の釜本らと[[早稲田大学ア式蹴球部|同大学ア式蹴球部]]の黄金時代を創る。[[1964年]][[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では1年で[[日立製作所本社サッカー部|日立本社]](現[[柏レイソル]])を3-0で破り、早稲田26年ぶりの[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]制覇に貢献。[[1966年]]には主将として無敵を誇った[[東洋工業サッカー部|東洋工業]](現-[[サンフレッチェ広島]])を天皇杯で破り日本一。これは天皇杯、最後の学生優勝である。当時の早稲田は作戦を選手で決めていたという<ref name="wsm20081202p56" />。
[[釜本邦茂]]・[[二村昭雄]]らを擁する[[京都府立山城高等学校|京都山城高校]]を破り優勝、当時の高校の全タイトル、高校2冠を達成した<ref name="wsm2011215p62" >『週刊サッカーマガジン』2011年2月15日号、p62</ref>。当時のチームメイトには[[中村勤]]・[[吉田浩 (サッカー選手)|吉田浩]]らがおり、後に[[日本サッカー協会|JFA]]スポーツ医学委員として日本代表の医療スタッフとなる[[若山待久]]は当時の修道高キャプテンだった<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201107180061.html 森さん死去にサッカー界沈痛] 中国新聞 2011年7月18日閲覧</ref>。


1年浪人後、[[早稲田大学]][[政治経済学部]]自治行政学科に進学し、[[松本育夫]][[野村尊敬]][[桑田隆幸]]二村釜本らと[[早稲田大学ア式蹴球部|同大学ア式蹴球部]]の黄金時代を創る。[[1964年]][[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では1年で[[日立製作所本社サッカー部|日立本社]](現[[柏レイソル]])を3-0で破り、早稲田26年ぶりの[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]制覇に貢献。[[1966年]]には主将として無敵を誇った[[東洋工業サッカー部|東洋工業]](現-[[サンフレッチェ広島]])を天皇杯で破り日本一<ref name="sanspo2011718" >[http://www.sanspo.com/soccer/news/110718/scg1107180504001-n2.htm 森孝慈氏死去…メキシコ五輪銅、浦和レッズの父] サンケイスポーツ 2011年7月18日閲覧</ref>。これは天皇杯、最後の学生優勝である。当時の早稲田は作戦を選手で決めていたという<ref name="wsm20081202p56" /><ref name="日刊スポーツ20117188" />。
[[1967年]]、[[日本サッカーリーグ]] (JSL) の[[三菱重工業サッカー部|三菱重工]](現[[浦和レッドダイヤモンズ]])に入団。[[杉山隆一]]、[[横山謙三]]らと共に主力選手として活躍し、[[1969年]]には当時日本リーグ4連覇中だった東洋工業を破り初優勝を遂げた。JSLでは通算146試合出場、28得点。また[[サッカー日本代表|日本代表]]でも、[[1967年]]の[[メキシコオリンピック]]予選前から、主に[[ディフェンダー (サッカー)#ストッパー|ストッパー]]としてチームの中力選手となると、メキシコオリンピック予選第1戦から[[1968年]]のメキシコオリンピック本戦、[[1970 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]予選・本戦、[[1970年]][[バンコク]]・[[1970年アジア競技大会|アジア大会]]にかけて[[国際Aマッチ]]32試合連続出場。これはメキシコ五輪世代ではダントツ1位で歴代でも3位(1位[[井原正巳]]42試合、2位[[三浦知良]]36試合)にあたる。国際Aマッチは計55試合出場2得点の記録を残し、メキシコオリンピックの銅メダル獲得にも貢献した。

[[1967年]]、[[日本サッカーリーグ]] (JSL) の[[三菱重工業サッカー部|三菱重工]](現[[浦和レッドダイヤモンズ]])に入団。[[杉山隆一]]、[[横山謙三]]らと共に主力選手として活躍し、[[1969年]]には当時日本リーグ4連覇中だった東洋工業を破り初優勝を遂げた。JSLでは通算146試合出場、28得点。また[[サッカー日本代表|日本代表]]でも、[[1967年]]の[[メキシコオリンピック]]予選前から、主に[[ディフェンダー (サッカー)#ストッパー|ストッパー]]としてチームの中力選手となると、メキシコオリンピック予選第1戦から[[1968年]]のメキシコオリンピック本戦、[[1970 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]予選・本戦、[[1970年]][[バンコク]]・[[1970年アジア競技大会|アジア大会]]にかけて[[国際Aマッチ]]32試合連続出場。これはメキシコ五輪世代ではダントツ1位で歴代でも3位(1位[[井原正巳]]42試合、2位[[三浦知良]]36試合)にあたる。国際Aマッチは計55試合出場2得点の記録を残し、メキシコオリンピックの銅メダル獲得にも貢献した<ref name="nikkansports2011718" /><ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref name="chugoku" />。メキシコ五輪の主力が抜けた後は、苦闘の[[1970年代]]の日本代表を中盤の司令塔として釜本らと支える<ref name="日経2011718" >[http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E3E5E2E3988DE3E5E2E5E0E2E3E39191E3E2E2E2;av=ALL (評伝)サッカー代表監督、情に厚く一体感 ] 日本経済新聞 2011年7月18日閲覧</ref>


=== 日本代表監督 ===
=== 日本代表監督 ===
引退後は、[[日本サッカー協会]](JFA)の指導者としてエリートコースを歩む。[[1980年]]西ドイツ留学から帰国、[[川淵三郎]]監督下でコーチ。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" >『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p56-57</ref>。[[1982 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・スペイン大会]]アジア予選の敗退で、翌[[1981年]]からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、一時代を築く<ref name="wsm2011215p62" />。理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった<ref name="不滅のサッカー王"/><ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。森は既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにないチーム作りを行った。この頃からテクニックに優れた新しい世代が台頭したこともあって、そうした選手たちを中心に、パスをつなぐ攻撃的なスタイルで[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]予選に臨んだ<ref name="サッカー日本代表システム進化論" >西部謙司『サッカー日本代表システム進化論』p17-40</ref>。またそれまで勝利給はおろか日当さえも出なかった日本代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力した<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。森が[[日本サッカー協会|JFA]]と交渉して、[[1982年]]から1日3千円の手当てが日本代表につくようになり、翌[[1983年]]からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつく形になった<ref>[http://www.nikkansports.com/news2/soccer2/wcup_countdown/0102/wc-010325.html 日刊スポーツ・サッカー・W杯カウントダウン連載 木村和司2 ]</ref>。日本のライバルである[[大韓サッカー協会|韓国]]では1983年より[[Kリーグ|プロリーグ]]が始まり、[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]選手に金銭的手当てが出るようになっていた。そのことを[[サッカー日本代表|日本代表]]選手も知っていた為、森監督は「韓国との待遇の差を言い訳に出来ない形にしたかった」のだという<ref name="日本サッカー史" >[[後藤健生]]『日本サッカー史 日本代表の90年』(双葉社、2007年)ISBN 978-4-575-29932-8</ref>。1982年[[ニューデリー]]・[[アジア大会]]では[[サッカー大韓民国代表|韓国]]を初めて国外で破り、親善試合においてオランダの[[フェイエノールト]]やブラジルの[[コリンチャンス]]の海外の強豪クラブを破る成果を見せたが、肝心の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]最終予選では連敗を重ね敗退した<ref name="サッカー本代表システム進化論" />。当時の日本代表の情報収集能力は低く、初戦の相手、[[タイ王国|タイ]]の試合のビデオを集めることもできず。相手チームについて何も知らずに初戦に臨み、タイのエース・[[ピヤポン・ピウオン|ピヤポン]]に[[ハットトリック]]を決められるなどで2-5の大敗(ピヤポン・ショック)。結局これが尾を引き4戦全敗に終わった<ref name="サッカー日本代表システム進化論" /><ref name="日本サッカー史" />。
知的なプレーぶり指導者向きと[[長沼健]]ら[[日本サッカー協会]]([[日本サッカー協会|JFA]])幹部から早くから見込まれ、引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩む<ref name="日経2011718" />。[[1979年]]、各競技のオリンピック・メダリストを対象にナショナル・コーチを育成しようという[[日本体育協会]]のプログラムからの助成を受けて[[西ドイツ]]にコーチ留学に送り出され、[[1.FCケルン]]の[[ヘネス・バイスバイラー]]、[[リヌス・ミケルス]]らから一年間、指導法を学ぶ<ref><small>留学中にバイスバイラーが[[ニューヨーク・コスモス]]へ。次がカールハインツ・ヘダゴット、三人目が[[リヌス・ミケルス]]。一年の間に監督が3人代わった(『週刊サッカーマガジン』2008年12月2日号、p56)。</small></ref><ref name="日本サッカー史代表篇">[[後藤健生]]『日本サッカー史 日本代表の85年・代表篇』、[[双葉社]]、2002年、p194-230</ref><ref name="日本サッカー史資料篇">後藤健生『日本サッカー史 日本代表の90年・資料篇』、双葉社、2007年、p171-199</ref><ref name="ワールドサッカークイズ" >森孝慈監修『ワールドサッカークイズ』、[[リイド社]]、2006年、p254-255</ref>。[[1980年]]10月、[[渡辺正]]日本代表監督が病気で倒れたため急遽呼び戻され、予定より早く[[1980年]]11月帰国、[[川淵三郎]]監督下でコーチに就任<ref name="日本サッカー史代表篇"/><ref name="日本サッカー史資料篇"/><ref>[http://mainichi.jp/enta/sports/soccer/news/20110718ddm035050156000c.html 森孝慈さん死去:日本サッカー協会・小倉純二会長、川淵三郎名誉会長の話]</ref>。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った<ref name="日本サッカー史代表篇"/><ref name="日本サッカー史資料篇"/><ref name="週刊サッカーマガジン20081216" >『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p56-57</ref><ref name="sponichi2011718" >[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/07/18/kiji/K20110718001233680.html 五輪で共にプレー 釜本氏「あまりにも早い」 ― スポニチ Sponichi]</ref>。[[1982 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・スペイン大会]]アジア予選の敗退で、翌[[1981年]]4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった[[1980年代]]に一時代を築く<ref name="wsm2011215p62" /><ref name="日経2011718" /><ref name="mainichi2011718" >[http://mainichi.jp/enta/sports/soccer/news/20110718k0000m050085000c.html 森孝慈さん死去:Jリーグ創設に尽力 屈指の理論家 - 毎日jp(毎日新聞)] 毎日新聞 2011年7月18日閲覧</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110717/scr11071719170016-n1.htm 【森孝慈氏死去】加藤久氏「懐が大きくて選手のために動いてくれた ]</ref><ref name="ushiki">[http://blog.goo.ne.jp/s-ushiki/e/ce3763469a4239cd10a6c9a07cf2b1f1 森孝慈さんの思い出 - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評]</ref>。理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった<ref name="不滅のサッカー王"/><ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。プロ化を進める[[日産自動車サッカー部|日産]]や[[読売サッカークラブ|読売]]、アマにこだわる[[古河電気工業サッカー部|古河]]や[[三菱重工業サッカー部|三菱]]など出自の異なる混成軍を巧みにまとめ上げた他<ref name="日経2011718" /><ref name="朝日新聞201171813" >[[朝日新聞]]、2011年7月18日13面</ref>、既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにないチーム作りを行った。この頃からテクニックに優れた新しい世代が台頭したこともあって、そうした選手たちを中心に、パスをつなぐ攻撃的なスタイルで[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]予選に臨んだ<ref name="サッカー日本代表システム進化論" >西部謙司『サッカー日本代表システム進化論』p17-40</ref>。またそれまで勝利給はおろか日当さえも出なかった日本代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力した<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" /><ref name="sanspo2011718" /><ref name="新聞201171813" />。


1980年代、日本は企業スポーツ全盛だった。いち早くプロ契約制度を導入した読売クラブなどの一部の選手を除いて、大多数は勤務する会社からの月給で生計を立てる[[サラリーマン]]<ref name="日刊スポーツ2010427" >[[日刊スポーツ]]、2010年4月2日7面</ref>。代表合宿中は、いわゆる出張。中には欠勤扱いの選手もいた。現役を辞めれば、そのまま会社勤めに入るのが当たり前の時代。副主将ながら控えで出番の少なかった[[岡田武史]]が「もう、ええですわ」と、代表には呼ばないで欲しいと言ってきたときには耳を疑ったという<ref name="日刊スポーツ2010427" /><ref name="sankei110717">[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110717/scr11071722420019-n1.htm 【森孝慈氏死去】「ファミリー」まとめた代表監督]</ref>。日本体育協会に加盟する一競技団体だったJFAも現在のような潤沢な運営資金はなく、代表選手に支払われるお金は[[交通費]]のみ。読売などの契約選手がクラブから出場給や勝利給を手にする一方で、社員選手の臨時報酬といえば、海外遠征時に会社から餞別が渡される程度だった。選手間で格差があり、これでは人間的に信頼し合うことが出来ない、と森はJFAの当時の専務理事・長沼健と何度も掛け合い[[1982年]]から1日3千円の手当てが日本代表につくようになり、翌[[1983年]]からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつく形になった<ref name="日刊スポーツ2010427" /><ref name="sankei110717"/><ref>[http://www.nikkansports.com/news2/soccer2/wcup_countdown/0102/wc-010325.html 日刊スポーツ・サッカー・W杯カウントダウン連載 木村和司2 ]</ref>。日本のライバルである[[大韓サッカー協会|韓国]]では1983年より[[Kリーグ|プロリーグ]]が始まり、[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]選手に金銭的手当てが出るようになっていた。そのことを代表選手も知っていた為、森監督は「韓国との待遇の差を言い訳に出来ない形にしたかった」のだという<ref name="日本サッカー史代表篇"/>。
森は辞意を表明したが慰留され、名誉挽回で挑んだ[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]アジア予選では快調に1次予選、2次予選を突破。[[宮内聡]]と[[西村昭宏]]で、後に世界の主流になる[[サッカーのフォーメーション#現代の一般的なフォーメーション|ダブルボランチ]]をいち早く取り入れるなどで<ref>[[都並敏史]]『日本代表に捧ぐ』ザ・マサダ、1998年、p67</ref><ref>後藤健生『日本サッカー史 日本代表の85年』双葉社、2002年、p22</ref>[[1985年]]10月の最終予選に進出し、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが宿敵・[[サッカー韓国代表|韓国]]の前に敗去った。


1982年[[ニューデリー]]・[[アジア大会]]では[[サッカー大韓民国代表|韓国]]を初めて国外で破り、親善試合においてオランダの[[フェイエノールト]]やブラジルの[[コリンチャンス]]の海外の強豪クラブを破る成果を見せたが、攻撃の軸だった[[尾崎加寿夫]]が[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]の[[アルミニア・ビーレフェルト|ビーレフェルト]]に移籍したのが響いた。当時は国際試合の時に海外移籍した日本人選手を呼び戻して代表入りさせるという発想はなかった<ref name="日本サッカー史代表篇"/>。結局、[[フォワード (サッカー)|フォワード]]の軸は[[柱谷幸一]]を据えて[[原博実]]と組ませて、所属クラブで攻撃的MFにコンバートされていた[[木村和司]]を司令塔に、[[金田喜稔]](後に[[水沼貴史]])を絡ませた日産勢を攻撃の柱にする新布陣で挑むが、肝心の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]最終予選では連敗を重ね敗退した<ref name="サッカー日本代表システム進化論" />。当時の日本代表の情報収集能力は低く、初戦の相手、[[タイ王国|タイ]]の試合のビデオを集めることもできず。相手チームについて何も知らずに初戦に臨み、タイのエース・[[ピヤポン・ピウオン|ピヤポン]]に[[ハットトリック]]を決められるなどで2-5の大敗(ピヤポン・ショック)。結局これが尾を引き4戦全敗に終わった<ref name="サッカー日本代表システム進化論" /><ref name="日本サッカー史代表篇"/>。
この当時の代表チームは守備の[[加藤久]]、中盤の[[木村和司]]、前線の[[原博実]]、[[水沼貴史]]らを擁し強い結束力を持ち合わせた事から'''森ファミリー'''と呼ばれ<ref name="wsm20081202p56" />「[[ドーハの悲劇]]」以前に最も[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]に近づいたチームとしてサッカーファンの間で語り継がれている<ref name="GO AHEAD URAWA REDS" >『GO AHEAD URAWA REDS』 [[日刊スポーツ出版社]] 2005年、33-34頁</ref><ref>[http://www.soccertalk.jp/content/1993/10/no24.html No.24 都並敏史の最終予選 | サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト]</ref>。前記韓国とのアジア最終予選の初戦、[[1985年]][[10月26日]]の[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立]]での試合は代表の試合で初めて国立が満員になった<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。代表戦にお客が入るようになり、サッカー協会の収入が増えてきたのはこの頃から<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」と明言<ref>[http://www.jsports.co.jp/press/column/article/N2010081216411202.html J SPORTS|コラム 【後藤健生コラム】日本代表新監督が決まらないのはなぜか?]</ref>。各ポジションにスペシャリストがいて完成度の高かったこのチーム<ref>都並敏史『日本代表に捧ぐ』、p71、72</ref>の敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、森の協会へのプロコーチとしての契約要求は受け入れられず、[[1986年]]辞任した<ref>実際は辞任したわけではなく、続投を打診され返事を待ってもらっていたら、いつのまにか辞めることになっていたと話している(『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p57)。</ref>。森ファミリーのメンバーは現在、指導者として活躍している者が多いが、とても仲が良く今も年に2回集まるという<ref name="サッカー日本代表システム進化論" /><ref>[http://southafrica2010.nikkansports.com/column/miracle/entry/20100401_94330.html 人格者・森孝慈氏のもとに舞い込むオファー - 奇跡に挑む者たち ]</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/news2/soccer2/wcup_countdown/0102/wc-010326.html 日刊スポーツ・サッカー・W杯カウントダウン連載 「世界」を感じさせたFK 木村和司氏]</ref><ref>都並敏史『日本代表に捧ぐ』、p48-55</ref>。 

森は辞意を表明したが慰留され、名誉挽回で挑んだ[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]アジア予選では快調に1次予選、2次予選を突破。[[宮内聡]]と[[西村昭宏]]で、後に世界の主流になる[[サッカーのフォーメーション#現代の一般的なフォーメーション|ダブルボランチ]]をいち早く取り入れるなどで<ref name="sanspo2011718" /><ref name="2002年の向こう側" >[http://www.nikkansports.com/news2/soccer2/wcup_countdown/0102/wc-010326.html <第68回>「2002年の向こう側」 木村和司3]</ref><ref>[[都並敏史]]『日本代表に捧ぐ』ザ・マサダ、1998年、p67</ref><ref>後藤健生『日本サッカー史 日本代表の85年』双葉社、2002年、p22</ref>[[1985年]]10月の最終予選に進出。当時のW杯でのアジアの出場枠は「1」<ref>日刊スポーツ、2010年4月1日9面</ref>。この当時の代表チームは守備の[[加藤久]]、左[[ディフェンダー (サッカー)|サイドバック]]の[[都並敏史]]、右サイドバックの[[松木安太郎]]、中盤の[[木村和司]]、線の[[原博実]]、[[水沼貴史]]ら、職人気質の個性派を擁し、強い結束力を持ち合わせた事から'''森ファミリー'''と呼ばれた<ref name="wsm20081202p56" /><ref name="日経2011718" /><ref name="sankei110717"/>

サッカーファンもこのチームに懸ける期待が大きく、迎えた宿敵[[サッカー韓国代表|韓国]]とのアジア最終予選の初戦、[[1985年]][[10月26日]]の[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立]]での試合は、代表の試合で初めて国立が満員になった<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" /><ref name="スポーツ20世紀⑥" >スポーツ20世紀⑥サッカー名勝負の記憶』、ベースボールマガジン社、2000年、p102-105</ref><ref>『週刊サッカーマガジン』2008年8月5日号、p56</ref>。代表戦にお客が入るようになり、サッカー協会の収入が増えてきたのはこの頃から<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。立錐の余地もなく埋め尽くされた62000人の大観衆と、スタンドにはためく無数の[[日の丸]]、かつて体験したことのない異様な熱気は、皮肉にも日本代表イレブンに過剰なプレッシャーとなってはね返った<ref name="スポーツ20世紀⑥" /><ref name="W杯カウントダウン連載木村和司" >[http://www.nikkansports.com/news2/soccer2/wcup_countdown/0102/wc-010324.html 日刊スポーツ・サッカー・W杯カウントダウン連載 「世界」を感じさせたFK 木村和司氏]</ref>。また[[サッカー韓国代表|韓国代表]]を率いた[[金正男 (サッカー選手)|金正男]]監督は、森の大学時代からの20年来の親友でもあり、冷静に日本チームを分析していた<ref name="スポーツ20世紀⑥" />。[[木村和司]]の伝説の[[フリーキック]]で1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦を喫すると[[ソウル]]での第2戦も0-1で敗れ、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが宿敵韓国の前に敗れ去った。この時のチームは「[[ドーハの悲劇]]」以前に最も[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]に近づいたチームとしてサッカーファンの間で語り継がれている<ref name="mainichi2011718" /><ref name="sanspo2011718" /><ref name="朝日新聞201171813" /><ref name="W杯カウントダウン連載木村和司" /><ref name="GO AHEAD URAWA REDS" >『GO AHEAD URAWA REDS』 [[日刊スポーツ出版社]] 2005年、33-34頁</ref><ref name="mindan" >[http://www.mindan.org/soccor/k_soccer/k_soccer6.htm 民団/最新ニュース/トピック3]</ref><ref>[http://www.soccertalk.jp/content/1993/10/no24.html No.24 都並敏史の最終予選 | サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト]</ref>。

わずか1点という最少得点差での敗戦ではあったが、またも力の差を見せつけられた。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」「韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と明言した<ref name="mainichi2011718" /><ref name="朝日新聞201171813" /><ref name="スポーツ20世紀⑥" /><ref>[http://www.jsports.co.jp/press/column/article/N2010081216411202.html J SPORTS|コラム 【後藤健生コラム】日本代表新監督が決まらないのはなぜか?]</ref>。各ポジションにスペシャリストがいて完成度の高かったこのチーム<ref>都並敏史『日本代表に捧ぐ』、p71、72</ref>の敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、[[長沼健]]に迫った森のプロコーチとしての契約要求は受け入れられず(森自身も三菱重工からの出向の身だった)<ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref name="日経2011718" /><ref name="朝日新聞201171813" /><ref name="ushiki"/>、[[1986年]]辞任した<ref>実際は辞任したわけではなく、続投を打診され返事を待ってもらっていたら、いつのまにか辞めることになっていたと話している(『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p57)。</ref>。協会の微温的体質に一石を投じたこの行動が、後の[[Jリーグ]]創設という大河の一滴になった<ref name="日経2011718" /><ref name="sankei110717"/><ref name="sponichi2011718" />、また森が取り組んだ改革に今日の日本代表チームの原点があるともいわれる<ref name="日刊スポーツ2010427" /><ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/other/column/2001/ZZZP5AQH8KC.html 『季刊 サッカー批評』半田雄一編集長インタビュー(3)]</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110717/scr11071719170016-n1.htm 加藤久氏「懐が大きくて選手のために動いてくれた」]</ref>。日本代表監督のプロ契約が始まったのは、森退任から3年後、1988年1月に就任した[[横山謙三]]から(年間300万円)<ref name="日刊スポーツ2010427" />。この時からようやくプロの指導者が代表チームを指揮するという慣例ができた。

森ファミリーのメンバーは現在、指導者として活躍している者が多いが、とても仲が良く今も年に2回集まるという<ref name="サッカー日本代表システム進化論" /><ref name="日刊スポーツ2011718" >[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20110723-809228.html 森孝慈さん告別式 森ファミリーが棺担ぐ] 日刊スポーツ 2011年7月23日閲覧</ref><ref>[http://southafrica2010.nikkansports.com/column/miracle/entry/20100401_94330.html 人格者・森孝慈氏のもとに舞い込むオファー - 奇跡に挑む者たち ]</ref><ref name="2002年の向こう側" /><ref>都並敏史『日本代表に捧ぐ』、p48-55</ref>。 


=== 浦和レッズ創設に尽力 ===
=== 浦和レッズ創設に尽力 ===
その後は三菱重工の人事部に戻りサッカー部副部長兼総監督。[[1988年]]、兄・健兒と[[木之本興三]]が設立したJSL活性化委員会(翌1989年、プロリーグ化検討委員会、のちの[[Jリーグ]])に参加。三菱重工社内のプロ化担当者としてサッカー部のプロ参加を嘆願、サッカー部の[[三菱自動車工業]](以下、三菱自工)移管に関わる。重工は[[防衛庁]]や企業相手の仕事で、大衆にアピールするプロスポーツはやらないだろうと予想し、前々から内々に自工移管を打診していた<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。社業として[[ドイツ]]の事業所駐在が決定していたが三菱自工の[[清水泰男]](のち浦和レッズ社長)の要請で[[1989年]]7月、三菱自工に転籍。サッカー部プロ化に対して、社内の反応は冷ややかだったといわれるが、サッカー部のプロ化、立ち上げの中心人物として東奔西走した<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" /><ref name="GO AHEAD URAWA REDS" /><ref>[[西野努]] 『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』 [[東邦出版]]、2007年、124-128頁<br />山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行、[[論創社]]、1998年、68-92、101-104、236-238頁<br />『浦和レッズ10年史』 浦和レッドダイヤモンズ、ベースボール・マガジン社編集 2002年、86-88頁</ref><ref name="サンケイスポーツ20051230" >[[サンケイスポーツ]]、2005年12月30日3面</ref><ref>[http://uragi.com/news/uraginews001054.html 【浦和フットボールメルマガ】Vol.4 レッズ誕生秘話]</ref><ref name="そうだったんですか森孝慈1" >[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0101.html そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その1]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0102.html そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その2]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0502.html そうだったんですか!?レッズ Vol.05清水泰男さんの巻その2]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0602.html そうだったんですか!?レッズ Vol.06武正公一さんの巻その2]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0303.html そうだったんですか!?レッズ Vol.03山口斉さんの巻その3]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0203.html そうだったんですか!?レッズVol.02佐藤仁司さんの巻その3]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0104.html そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その4]]<br />[http://pentasports.net/member/pentabox/0708/p02-01.html Digital PENTA]</ref>。[[1990年]]9月、浦和[[青年会議所]]が中心になって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足、浦和は[[ホンダ]]の誘致が決定的だった。しかし同年10月、ホンダが浦和の誘致を断わったため[[川淵三郎]]の仲介で「つくろう会」のメンバーと11月、[[国立西が丘サッカー場|西が丘サッカー場]]の近くの[[ファミリーレストラン]]・[[すかいらーく]]で会う(森はそれ以前に浦和の関係者と何度か接触はあった)。当初から浦和はリストアップしていたが、浦和はホンダで決定的だったため諦めていた。渡りに船のこの話に、この後は急ピッチに[[浦和レッドダイヤモンズ]]創設、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]入りが決定した。その後は仕事が山積み。[[スポンサー]]集めから、[[スタジアム]]改修の16億円以上の費用を[[自治体]]の[[政治家]]に掛け合う。昼は説明に回り、夜はその人たちと毎日会食<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。森はチームが[[東京]][[田町]]から移るはるか前に、自宅を浦和に引っ越す等、森の人柄の良さから出世街道を歩んでいた[[藤口光紀]](のち浦和レッズ社長)を始め、多くの人物がレッズ発足に参加した。清水泰男は「森ちんがいなかったら今のレッズはなかったと思います」と話している<ref>[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0503.html そうだったんですか!?レッズ Vol.05清水泰男さんの巻その3]</ref><ref name= bugin-eri>[http://www.bugin-eri.co.jp/doc/r0504.pdf 特別調査レポート 浦和レッズはなぜ成功しているのか?]</ref>。[[日刊スポーツ]]、[[サンケイスポーツ]]、森を「クラブ生みの親」「'''浦和レッズの父'''」と評している<ref name="GO AHEAD URAWA REDS" /><ref name="サンケイスポーツ20051230" />。
その後は三菱重工の人事部に戻りサッカー部副部長兼総監督。[[1988年]]、兄・健兒と[[木之本興三]]が設立したJSL活性化委員会(翌1989年、プロリーグ化検討委員会、のちの[[Jリーグ]])に参加<ref name="chugoku" /><ref name="sponichi2011718" /><ref name="ワールドサッカークイズ" />。三菱重工社内のプロ化担当者としてサッカー部のプロ参加を嘆願、サッカー部の[[三菱自動車工業]](以下、三菱自工)移管に関わる<ref name="urawa-reds7123" >[http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_7123.html 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト| 11.07.17 訃報]</ref><ref name="日刊スポーツ2011718" /><ref name="日刊スポーツ20117188" />。重工は[[防衛庁]]や企業相手の仕事で、大衆にアピールするプロスポーツはやらないだろうと予想し、前々から内々に自工移管を打診していた<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。社業として[[ドイツ]]の事業所駐在が決定していたが三菱自工の[[清水泰男]](のち浦和レッズ社長)の要請で[[1989年]]7月、三菱自工に転籍。サッカー部プロ化に対して、社内の反応は冷ややかだったといわれるが、サッカー部のプロ化、立ち上げの中心人物として東奔西走した<ref name="urawa-reds7123" /><ref name="nikkansports2011718" /><ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/07/18/kiji/K20110718001231960.html 森孝慈さんが急死 五輪銅メダル、浦和創設に尽力 ― スポニチ Sponichi ]</ref><ref name="週刊サッカーマガジン20081216" /><ref name="sanspo2011718" /><ref name="GO AHEAD URAWA REDS" /><ref>[[西野努]] 『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』 [[東邦出版]]、2007年、124-128頁<br />山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行、[[論創社]]、1998年、68-92、101-104、236-238頁<br />『浦和レッズ10年史』 浦和レッドダイヤモンズ、ベースボール・マガジン社編集 2002年、86-88頁</ref><ref name="サンケイスポーツ20051230" >[[サンケイスポーツ]]、2005年12月30日3面</ref><ref>[http://uragi.com/news/uraginews001054.html 【浦和フットボールメルマガ】Vol.4 レッズ誕生秘話]</ref><ref name="そうだったんですか森孝慈1" >[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0101.html そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その1]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0102.html そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その2]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0502.html そうだったんですか!?レッズ Vol.05清水泰男さんの巻その2]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0602.html そうだったんですか!?レッズ Vol.06武正公一さんの巻その2]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0303.html そうだったんですか!?レッズ Vol.03山口斉さんの巻その3]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0203.html そうだったんですか!?レッズVol.02佐藤仁司さんの巻その3]<br />[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0104.html そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その4]<br />[http://pentasports.net/member/pentabox/0708/p02-01.html Digital PENTA]</ref>。
[[1990年]]9月、浦和[[青年会議所]]が中心になって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足、浦和は[[ホンダ]]の誘致が決定的だった。しかし同年10月、ホンダが浦和の誘致を断わったため[[川淵三郎]]の仲介で「つくろう会」のメンバーと11月、[[国立西が丘サッカー場|西が丘サッカー場]]の近くの[[ファミリーレストラン]]・[[すかいらーく]]で会う(森はそれ以前に浦和の関係者と何度か接触はあった)。当初から浦和はリストアップしていたが、浦和はホンダで決定的だったため諦めていた。渡りに船のこの話に、この後は急ピッチに[[浦和レッドダイヤモンズ]]創設、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]入りが決定した。その後は仕事が山積み。[[スポンサー]]集めから、[[スタジアム]]改修の16億円以上の費用を[[自治体]]の[[政治家]]に掛け合う。昼は説明に回り、夜はその人たちと毎日会食<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" />。森はチームが[[東京]][[田町]]から移るはるか前に、自宅を浦和に引っ越す等、森の人柄の良さから出世街道を歩んでいた[[藤口光紀]](のち浦和レッズ社長)を始め、多くの人物がレッズ発足に参加した<ref name="スポーツ報知20117189" >スポーツ報知、2011年7月18日9面</ref>。清水泰男は「森ちんがいなかったら今のレッズはなかったと思います」と話している<ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref>[http://www.resonacard.co.jp/reds/column/sou/column_0503.html そうだったんですか!?レッズ Vol.05清水泰男さんの巻その3]</ref><ref name= bugin-eri>[http://www.bugin-eri.co.jp/doc/r0504.pdf 特別調査レポート 浦和レッズはなぜ成功しているのか?]</ref>。は「'''浦和レッズの父'''」「クラブ生みの親」と評され<ref name="nikkansports2011718" /><ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref name="GO AHEAD URAWA REDS" /><ref name="サンケイスポーツ20051230" /><ref name="スポーツニッポン20117188" >[[スポーツニッポン]]、2011年7月18日8面</ref><ref name="スポーツ報知20117189" /><ref>[http://www.daily.co.jp/soccer/2011/07/18/0004281001.shtml 浦和、追悼弾も“父”に弔い星届けられず ]</ref>。


=== レッズ初代監督 ===
=== レッズ初代監督 ===
[[1992年]]から同チームの監督に就任<ref>『レッズと浦和』 68-92、108-109、101-104頁</ref><ref name="GO AHEAD URAWA REDS" /><ref name="そうだったんですか森孝慈1" />。当時の[[ヨハン・クライフ|クライフ]]監督率いる[[FCバルセロナ]]が採用していた3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み、1992年は天皇杯で準決勝まで進出した。しかし翌[[1993年]]にJリーグの公式戦が開幕すると、システムが相手に研究され尽くした事と補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位を独走し辞任した。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った。ただ浦和レッズでの森は、負けても愛された監督というよりは、負けが込むほど愛された監督であった。浦和レッズ[[サポーター]]も「森さんのためなら叫ぶことができる」と森を慕っていた<ref name="GO AHEAD URAWA REDS" />。ぶぎん地域経済研究所([[武蔵野銀行]])は、浦和レッズが熱狂的[[サポーター]]を増やして原因について、開幕初年度に負け続けるレッズを「勝てない、とにかく勝てない」「いつ勝つのか」などと、日本人独特の判官びいきにる気質によってマスメディアが上位のチーム以上に取り上げたから。「出来の悪い子ほど可愛い」という状況となることでより愛されるチームとなった。もし5位や6位や、「ありきたりの成績」であったなら、あまり注目もされなかったであろう、等と論じている<ref name= bugin-eri/>。
[[1992年]]から同チームの監督に就任<ref>『レッズと浦和』 68-92、108-109、101-104頁</ref><ref name="GO AHEAD URAWA REDS" /><ref name="そうだったんですか森孝慈1" />。当時の[[ヨハン・クライフ|クライフ]]監督率いる[[FCバルセロナ]]が採用していた3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み、1992年は天皇杯で準決勝まで進出した。しかし翌[[1993年]]にJリーグの公式戦が開幕すると、システムが相手に研究され尽くした事と補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位を独走し辞任した。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った<ref>『週刊サッカーマガジン』1998年10月14日号、p17</ref>。ただ浦和レッズでの森は、負けても愛された監督というよりは、負けが込むほど愛された監督であった。浦和レッズ[[サポーター]]も「森さんのためなら叫ぶことができる」と森を慕っていた<ref name="nikkansports2011718" /><ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref name="GO AHEAD URAWA REDS" />。情の厚さが人を引きつけ、その美質は浦和レッズ発足前後にも遺憾なく発揮された<ref name="日経2011718" />。レッズ初代監督としては成功したとは言い難いが、温かい人間味がファンを魅了し、熱狂的な[[サポーター]]育てた<ref name="urawa-reds7123" /><ref name="nikkansports2011718" /><ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref name="sanspo2011718" /><ref name="日経2011718" /><ref>清尾淳『浦和レッズの快感―すきにならずにいられない』、アストロ教育システム、あすとろ出版部、1998年、31頁</ref>。ぶぎん地域経済研究所([[武蔵野銀行]])は、浦和レッズが熱狂的サポーターを増やして原因について、開幕初年度に負け続けるレッズを「勝てない、とにかく勝てない」「いつ勝つのか」などと、日本人独特の判官びいきにる気質によってマスメディアが上位のチーム以上に取り上げたから。「出来の悪い子ほど可愛い」という状況となることでより愛されるチームとなった。もし5位や6位や、「ありきたりの成績」であったなら、あまり注目もされなかったであろう、等と論じている<ref name= bugin-eri/>。


=== その後 ===
=== その後 ===
[[1995年]]から[[1997年]]は[[横浜F・マリノス|横浜マリノス]]の[[ゼネラルマネージャー]]、1995年には横浜マリノスは年間チャンピオンに輝いた。[[1998年]]は[[アビスパ福岡]]の監督を務め、[[J1参入決定戦]]で辛うじてJ1に残留、[[1999年]]から[[2001年]]はアビスパ福岡のフロントを務めた。[[2002年]]、浦和レッズ社長・塚本高志から「一からチームを作りなおして欲しい」との復帰要請を受け、レッズ[[ゼネラルマネージャー|GM]]に就任<ref name="浦和フットボール通信創刊号" >[http://www.urawa-football.com/melma090/ [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号]</ref><ref name="浦和フットボール通信" >[http://www.urawa-football.com/column/interview/mori_1/ [浦和フットボール通信] メルマガ創刊記念(1) 森孝慈インタビュー]</ref><ref name="浦和レッズはなぜ" >山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年、52-83、138-157頁</ref><ref name="ビッグクラブ" >島崎英純『ビッグクラブ ―浦和レッズモデルができるまで―』 [[講談社]]、2007年、30-36頁</ref>。塚本に代わって半年後に就任した[[犬飼基昭]]社長、強化本部長に転任した中村修三とともにチームを改革<ref name="浦和フットボール通信" /><ref name="浦和レッズはなぜ" /><ref name="ビッグクラブ" />、3年計画下での[[ハンス・オフト]]監督を招聘しチームを強化、基礎作り2年の後[[2004年]]、[[ギド・ブッフバルト]]監督、[[ゲルト・エンゲルス]]ヘッドコーチを招聘、大型補強の敢行で浦和に悲願のJリーグステージ初優勝、[[2005年]][[第85回天皇杯全日本サッカー選手権大会|第85回天皇杯]]、[[2006年]][[第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会|第86回天皇杯]]連覇をもたらし<ref name="GO AHEAD URAWA REDS" /><ref name="浦和フットボール通信創刊号" /><ref name="浦和フットボール通信" /><ref>[http://28888056.at.webry.info/201102/article_11.html 週刊フットボールトーク Vol.23 もうすけの部屋/ウェブリブログ]<br />[http://www.urawa-reds.co.jp/R_voice/Vol53/p03.html REDS VOICE 53]<br />[http://www.urawa-reds.co.jp/R_voice/Vol54/p05.html REDS VOICE 54]<br />『浦和レッズ10年史』 66-69頁<br />『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』、134-137頁</ref><ref>『週刊サッカーマガジン』2008年11月4日号、ベースボール・マガジン社、p56</ref><ref name="日本サッカーアーカイブ" />今日につながるレッズの礎を築いた<ref name="週刊サッカーマガジン20081216" /><ref name="浦和フットボール通信" /><ref name="浦和レッズはなぜ" />。オフトやブッフバルト、[[田中マルクス闘莉王|闘莉王]]、[[三都主アレサンドロ|三都主]]らの獲得、[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]のレッズ復帰は、森GM=中村強化本部長コンビで行い、犬飼社長が最終決定を下したもの<ref name="浦和レッズはなぜ" />。また在任中、[[浦和レッドダイヤモンズ#ユース・ジュニアユース|ユース、ジュニアユース]]の改革に着手し教育ではなくプロ育成の下部組織として再スタートさせた<ref name="日本サッカーアーカイブ" >[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=41 日本サッカーアーカイブ 森孝慈]</ref>。[[2006年]]1月31日をもってGMを退任<ref>、当時の[[犬飼基昭]]社長により、横山謙三取締役(当時)と共に退任させられたとされる。『[[サイゾー]]』2008年5月号、110頁</ref>。
[[1995年]]から[[1997年]]は[[横浜F・マリノス|横浜マリノス]]の[[ゼネラルマネージャー]]、1995年には横浜マリノスは年間チャンピオンに輝いた。[[1998年]]は[[アビスパ福岡]]の監督を務め、[[J1参入決定戦]]で辛うじてJ1に残留、[[1999年]]から[[2001年]]はアビスパ福岡のフロントを務めた。[[2002年]]、浦和レッズ社長・塚本高志から「一からチームを作りなおして欲しい」との復帰要請を受け、レッズ[[ゼネラルマネージャー|GM]]に就任<ref name="浦和フットボール通信創刊号" >[http://www.urawa-football.com/melma090/ [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号]</ref><ref name="浦和フットボール通信" >[http://www.urawa-football.com/column/interview/mori_1/ [浦和フットボール通信] メルマガ創刊記念(1) 森孝慈インタビュー]</ref><ref name="浦和レッズはなぜ" >山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年、52-83、138-157頁</ref><ref name="ビッグクラブ" >島崎英純『ビッグクラブ ―浦和レッズモデルができるまで―』 [[講談社]]、2007年、30-36頁</ref>。
塚本に代わって半年後に就任した[[犬飼基昭]]社長、強化本部長に転任した中村修三とともにチームを改革<ref name="浦和フットボール通信" /><ref name="浦和レッズはなぜ" /><ref name="ビッグクラブ" />、3年計画下での[[ハンス・オフト]]監督を招聘しチームを強化、基礎作り2年の後[[2004年]]、[[ギド・ブッフバルト]]監督、[[ゲルト・エンゲルス]]ヘッドコーチを招聘、大型補強の敢行で浦和に悲願のJリーグステージ初優勝、[[2005年]][[第85回天皇杯全日本サッカー選手権大会|第85回天皇杯]]、[[2006年]][[第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会|第86回天皇杯]]連覇をもたらし<ref name="nikkansports2011718" /><ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref name="GO AHEAD URAWA REDS" /><ref name="浦和フットボール通信創刊号" /><ref name="浦和フットボール通信" /><ref>[http://28888056.at.webry.info/201102/article_11.html 週刊フットボールトーク Vol.23 もうすけの部屋/ウェブリブログ]<br />[http://www.urawa-reds.co.jp/R_voice/Vol53/p03.html REDS VOICE 53]<br />[http://www.urawa-reds.co.jp/R_voice/Vol54/p05.html REDS VOICE 54]<br />『浦和レッズ10年史』 66-69頁<br />『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』、134-137頁</ref><ref>『週刊サッカーマガジン』2008年11月4日号、ベースボール・マガジン社、p56</ref><ref name="日本サッカーアーカイブ" />今日につながるレッズの礎を築いた<ref name="urawa-reds7123" /><ref name="nikkansports2011718" /><ref name="日刊スポーツ20117188" /><ref name="週刊サッカーマガジン20081216" /><ref name="浦和フットボール通信" /><ref name="浦和レッズはなぜ" /><ref name="スポーツニッポン20117188" /><ref name="スポーツ報知20117189" />。オフトやブッフバルト、[[田中マルクス闘莉王|闘莉王]]、[[三都主アレサンドロ|三都主]]らの獲得、[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]のレッズ復帰は、森GM=中村強化本部長コンビで行い、犬飼社長が最終決定を下したもの<ref name="浦和レッズはなぜ" />。また在任中、[[浦和レッドダイヤモンズ#ユース・ジュニアユース|ユース、ジュニアユース]]の改革に着手し教育ではなくプロ育成の下部組織として再スタートさせた<ref name="日本サッカーアーカイブ" >[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=41 日本サッカーアーカイブ 森孝慈]</ref>。[[2006年]]1月31日をもってGMを退任<ref>、当時の[[犬飼基昭]]社長により、横山謙三取締役(当時)と共に退任させられたとされる。『[[サイゾー]]』2008年5月号、110頁</ref>。


[[2006年]]、第3回[[日本サッカー殿堂]]にて委員会投票により掲額され殿堂入りを果たす。
[[2006年]]、第3回[[日本サッカー殿堂]]にて委員会投票により掲額され殿堂入りを果たす。


[[2008年]]からは神奈川県横浜市を本拠地とするクラブチーム横浜GSフットボール・クラブの顧問<ref>[http://www.ygsfc.org/ 横浜GSFC Official Web]</ref>、[[2010年]]発足した[[日本サッカー名蹴会]]名誉会長を務めている<ref>[http://www.meishukai.or.jp/message/ 日本サッカー名蹴会 | メッセージ]</ref>。
[[2008年]]からは神奈川県横浜市を本拠地とするクラブチーム横浜GSフットボール・クラブの顧問<ref>[http://www.ygsfc.org/ 横浜GSFC Official Web]</ref>、[[2010年]]発足した[[日本サッカー名蹴会]]名誉会長を務め<ref>[http://www.meishukai.or.jp/message/ 日本サッカー名蹴会 | メッセージ]</ref>。


[[2011年]][[7月17日]]、腎盂がんのために死去<ref>[http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_7123.html 訃報 森孝慈氏死去] 浦和レッドダイヤモンズ公式HP 2011年7月17日閲覧</ref>。{{没年齢|1943|11|24|2011|7|17}}。森が亡くなった病院は[[東京オリンピックにおけるサッカー競技|東京オリンピックサッカー競技]]会場であった[[駒沢競技場]]そばにある東京都[[目黒区]]の[[国立病院東京医療センター]]であった<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/110718/scg1107180503000-n1.htm 森孝慈氏の実兄・健児さん「奇運感じる」] サンケイスポーツ 2011年7月18日閲覧</ref>。
== エピソード ==
*森兄弟はともに、修道中学、修道高校と進み、修道高校時代の同窓に[[弁護士]]の[[弘中惇一郎]]がいる。また、中学校時代は、サッカー部でなく水泳部だった。
*大学卒業後、森は兄のいる三菱重工入りを決め、早大の同級・[[釜本邦茂]]も、一緒に三菱重工に入社して「また二人でやろう」と約束をしていた。ところが[[関西]]在住で早大OBの[[川本泰三]]や[[賀川浩]]が「釜本、関西へ戻ってやれよ」と矢のような催促、無理やり連れて行かれた[[ヤンマー|ヤンマーディーゼル]]の山岡浩二郎サッカー部長の熱弁で、[[催眠術]]のように入社を承諾してしまった。東京に帰り森に会いヤンマー入社を知らせると、森は「サッカーやるんだからいいさ。ともかく日本サッカーのためにがんばろうで」と言っただけ。いつもグラウンドでもまず人のことを考えるいい奴、森は変心を咎めたてしたり、詮索したりはしなかったという<ref>[[釜本邦茂]] 『ゴールの軌跡』 ベースボール・マガジン社、1981年、102-103頁</ref>。


== 所属クラブ ==
== エピソード ==
* 大学卒業後、森は兄のいる三菱重工入りを決め、早大の同級・[[釜本邦茂]]も、一緒に三菱重工に入社して「また二人でやろう」と約束をしていた。ところが[[関西]]在住で早大OBの[[川本泰三]]や[[賀川浩]]が「釜本、関西へ戻ってやれよ」と矢のような催促、無理やり連れて行かれた[[ヤンマー|ヤンマーディーゼル]]の山岡浩二郎サッカー部長の熱弁で、[[催眠術]]のように入社を承諾してしまった。東京に帰り森に会いヤンマー入社を知らせると、森は「サッカーやるんだからいいさ。ともかく日本サッカーのためにがんばろうで」と言っただけ。いつもグラウンドでもまず人のことを考えるいい奴、森は変心を咎めたり、詮索したりはしなかったという<ref>[[釜本邦茂]] 『ゴールの軌跡』 ベースボール・マガジン社、1981年、102-103頁</ref>。
* 1959年 - 1961年 : [[修道高等学校]]
* 1962年 - 1966年 : [[早稲田大学ア式蹴球部|早稲田大学]]
* 1967年 - 1977年 : [[三菱重工業サッカー部]]


== 個人成績 ==
== 個人成績 ==
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!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|[[JSLカップ|JSL杯]]!!colspan="2"|[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]!!colspan="2"|期間通算
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|[[1967年のJSL|1967]]||rowspan="11"|[[三菱重工業サッカー部|三菱]]||||rowspan="5"|[[日本サッカーリーグ|JSL]]||14||3||colspan="2"|-||||||||
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|[[1969年のJSL|1969]]||||14||2||colspan="2"|-||||||||
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== 代表歴 ==
== 代表歴 ==
=== 出場大会など ===
=== 出場大会など ===
*[[東京オリンピック]](ベスト8)
* [[東京オリンピック]](ベスト8)
*[[アジア競技大会]] (1966,1970)
* [[アジア競技大会]] (1966,1970)
*[[メキシコシティオリンピック]](銅メダル)
* [[メキシコシティオリンピック]](銅メダル)
*[[1970 FIFAワールドカップ|1970年 ワールドカップメキシコ大会]]予選
* [[1970 FIFAワールドカップ|1970年 ワールドカップメキシコ大会]]予選
*[[ミュンヘンオリンピック]]予選
* [[ミュンヘンオリンピック]]予選
*[[1974 FIFAワールドカップ|1974年 ワールドカップ西ドイツ大会]]予選
* [[1974 FIFAワールドカップ|1974年 ワールドカップ西ドイツ大会]]予選
*[[アジアカップ1976]]予選
* [[アジアカップ1976]]予選
*[[モントリオールオリンピック]]予選
* [[モントリオールオリンピック]]予選


=== 試合数 ===
=== 試合数 ===
*国際Aマッチ 56試合 2得点(1966-1976)
* 国際Aマッチ 56試合 2得点(1966-1976)


{{サッカー代表個人成績|日本|2}}
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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<div class="references-small"><references /></div>


== 参考文献 ==
== 参考文献・ウェブサイト ==
*『浦和レッズ10年史』 浦和レドダイヤモ、[[ベースボール・マガジン社]]編集、2002年 ISBN 9784583036854
* [[週刊サカーマガジ]]、2008年12月2日号、12月9日号、12月16日号他、[[ベースボール・マガジン社]]
* [[後藤健生]]『日本サッカー史日本代表の85年・代表篇』、[[双葉社]]、2002年
*山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行、[[論創社]]、1998年 ISBN 9784846001377
*後藤健生『日本サッカー史 日本代表の90年・資料篇』、双葉社、2007年
*[[西野努]] 『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』 [[東邦出版]]、2007年 ISBN 9784809406317
*『スポーツ20世紀⑥サッカー名勝負の記憶』、ベースボールマガジン社、2000年
*『GO AHEAD URAWA REDS』[[日刊スポーツ出版社]] 2005年 ISBN 9784817252579
*[[釜本邦茂]] ゴールの軌跡』 ベースボール・マガジン社、1981
*『浦和レッズ10年史浦和レッドダイヤモンズベースボール・マガジン社編集2002 ISBN 9784583036854
* 山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行、[[論創社]]、1998年 ISBN 9784846001377
*[[週刊サッカーマガジン]]、2008年12月2日号、12月9日号、12月16日号、ベースボール・マガジン社
* [[西野努]] 『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』 [[東邦出版]]、2007年 ISBN 9784809406317
*西部謙司『サッカー日本代表システム進化論』 [[学研パブリッシング]]、2010年
* 『GO AHEAD URAWA REDS』[[日刊スポーツ出版社]] 2005年 ISBN 9784817252579
*山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年
* [[釜本邦茂]] 『ゴールの軌跡』 ベースボール・マガジン社、1981年
*島崎英純『ビッグクラブ ―浦和レッズモデルができるまで―』 [[講談社]]、2007年
* 西部謙司『サッカー日本代表システム進化論』 [[学研パブリッシング]]、2010年

* 山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年
== 外部リンク ==
* 島崎英純『ビッグクラブ ―浦和レッズモデルができるまで―』 [[講談社]]、2007年
* [http://www.jfa.or.jp/jfa/news/news/060810-03.pdf 第3回日本サッカー殿堂 掲額者(2006.08.10)]
* [http://www005.upp.so-net.ne.jp/I_love_Marinos/bleu/japan_player/mori1.html 日本代表選手出場試合記録]
* [http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=41 日本サッカーアーカイブ 森孝慈]
* [http://www.resonacard.co.jp/reds/column.html#B Reds Resona Smiling Web そうだったんですか!?レッズ]
* [http://www.resonacard.co.jp/reds/column.html#B Reds Resona Smiling Web そうだったんですか!?レッズ]
* [http://www.urawa-football.com/melma090/ [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号]
* [http://www.urawa-football.com/melma090/ [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号]
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[広島県出身の人物一覧]]
*[[Jリーグ監督経験者]]
* [[修道中学校・修道高等学校の人物一覧]]
* [[早稲田大学の人物一覧]]
* [[Jリーグ監督経験者]]
* [[東京オリンピック日本選手団]]
* [[メキシコシティオリンピック日本選手団]]
* [[オリンピックサッカー競技メダリスト一覧]]


== 外部リンク ==
* [http://www.jfa.or.jp/jfa/hall_of_fame/vote_selection.html 日本サッカー殿堂 投票掲額者]([http://www.jfa.or.jp/ 日本サッカー協会]サイト内)
* [http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=41 日本サッカーアーカイブ 森孝慈]
* [http://www005.upp.so-net.ne.jp/I_love_Marinos/bleu/japan_player/mori1.html 日本代表選手出場試合記録]
* [http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_7123.html 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト| 11.07.17 訃報]
* [http://uragi.com/news/uraginews001573.html 浦議ニュース 森孝慈さん死去、レッズ初代監督&レッズGM]
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2011年7月23日 (土) 16:37時点における版

森 孝慈
名前
カタカナ モリ タカジ
ラテン文字 MORI Takaji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1943年11月24日
出身地 広島県
没年月日 (2011-07-17) 2011年7月17日(67歳没)
身長 173cm
体重 65kg
選手情報
ポジション MF/DF
ユース
1958
1959-1961
1963-1966
修道中学校
修道高等学校
早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1967-1977 三菱重工 146 (2)
代表歴
1966-1976 日本の旗 日本 56 (2)
監督歴
1981-1985
1992-1993
1998
日本代表
浦和レッドダイヤモンズ
アビスパ福岡
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1968 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011年7月17日)は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー

人物

日本代表選手・監督で、ミドルシュートの名手として知られた。

実父は元教師・広島県庁および日本体育協会職員で、原爆被災後の広島市内の様に衝撃を受け、街をうろつく原爆孤児を引き取り、戦後広島湾似島似島学園を設立したことで知られる森芳麿[1][2][3][4]。実兄は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設へ大きな舵取り役を果たした森健兒

来歴

選手時代

広島県福山市生まれ[5][6][7]。父・芳麿の似島学園創設に伴い一家で似島に転居し、孝慈は2歳から高校卒業まで広島市似島で育つ[2]。小学校4年からは毎日船に乗って島外の学校へ通学、広島市立皆実小学校修道中学校・修道高等学校で学んだ[3]。海で鍛えた泳ぎを買われ中学3年間は水泳部に在籍、中3の卒業間際から本格的にサッカーを始める[3]。当時の同窓に弘中惇一郎がいる。1956年、父・芳麿を亡くしている(詳細は似島学園参照)。

1961年、修道高3年の時には下村幸男監督のもと、国体優勝。更に同年度の全国高校サッカー選手権釜本邦茂二村昭雄らを擁する京都山城高校を破り優勝、当時の高校の全タイトル、高校2冠を達成した[8]。当時のチームメイトには中村勤吉田浩らがおり、後にJFAスポーツ医学委員として日本代表の医療スタッフとなる若山待久は当時の修道高キャプテンだった[9]

1年浪人後、早稲田大学政治経済学部自治行政学科に進学し、松本育夫野村尊敬桑田隆幸・二村・釜本らと同大学ア式蹴球部の黄金時代を創る。1964年天皇杯では1年で日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。1966年には主将として無敵を誇った東洋工業(現-サンフレッチェ広島)を天皇杯で破り日本一[10]。これは天皇杯、最後の学生優勝である。当時の早稲田は作戦を選手で決めていたという[2][6]

1967年日本サッカーリーグ (JSL) の三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)に入団。杉山隆一横山謙三らと共に主力選手として活躍し、1969年には当時日本リーグ4連覇中だった東洋工業を破り初優勝を遂げた。JSLでは通算146試合出場、28得点。また日本代表でも、1967年メキシコオリンピック予選前から、主にストッパーとしてチームの中力選手となると、メキシコオリンピック予選第1戦から1968年のメキシコオリンピック本戦、ワールドカップ・メキシコ大会予選・本戦、1970年バンコクアジア大会にかけて国際Aマッチ32試合連続出場。これはメキシコ五輪世代ではダントツ1位で歴代でも3位(1位井原正巳42試合、2位三浦知良36試合)にあたる。国際Aマッチは計55試合出場2得点の記録を残し、メキシコオリンピックの銅メダル獲得にも貢献した[5][6][7]。メキシコ五輪の主力が抜けた後は、苦闘の1970年代の日本代表を中盤の司令塔として釜本らと支える[11]

日本代表監督

知的なプレーぶりは指導者向きと、長沼健日本サッカー協会(JFA)幹部から早くから見込まれ、引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩む[11]1979年、各競技のオリンピック・メダリストを対象にナショナル・コーチを育成しようという日本体育協会のプログラムからの助成を受けて西ドイツにコーチ留学に送り出され、1.FCケルンヘネス・バイスバイラーリヌス・ミケルスらから一年間、指導法を学ぶ[12][13][14][15]1980年10月、渡辺正日本代表監督が病気で倒れたため急遽呼び戻され、予定より早く1980年11月帰国、川淵三郎監督下でコーチに就任[13][14][16]。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った[13][14][17][18]ワールドカップ・スペイン大会アジア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く[8][11][19][20][21]。理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった[3][17]。プロ化を進める日産読売、アマにこだわる古河三菱など出自の異なる混成軍を巧みにまとめ上げた他[11][22]、既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにないチーム作りを行った。この頃からテクニックに優れた新しい世代が台頭したこともあって、そうした選手たちを中心に、パスをつなぐ攻撃的なスタイルでロサンゼルスオリンピック予選に臨んだ[23]。またそれまで勝利給はおろか日当さえも出なかった日本代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力した[17][10][22]

1980年代、日本は企業スポーツ全盛だった。いち早くプロ契約制度を導入した読売クラブなどの一部の選手を除いて、大多数は勤務する会社からの月給で生計を立てるサラリーマン[24]。代表合宿中は、いわゆる出張。中には欠勤扱いの選手もいた。現役を辞めれば、そのまま会社勤めに入るのが当たり前の時代。副主将ながら控えで出番の少なかった岡田武史が「もう、ええですわ」と、代表には呼ばないで欲しいと言ってきたときには耳を疑ったという[24][25]。日本体育協会に加盟する一競技団体だったJFAも現在のような潤沢な運営資金はなく、代表選手に支払われるお金は交通費のみ。読売などの契約選手がクラブから出場給や勝利給を手にする一方で、社員選手の臨時報酬といえば、海外遠征時に会社から餞別が渡される程度だった。選手間で格差があり、これでは人間的に信頼し合うことが出来ない、と森はJFAの当時の専務理事・長沼健と何度も掛け合い1982年から1日3千円の手当てが日本代表につくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつく形になった[24][25][26]。日本のライバルである韓国では1983年よりプロリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになっていた。そのことを代表選手も知っていた為、森監督は「韓国との待遇の差を言い訳に出来ない形にしたかった」のだという[13]

1982年ニューデリーアジア大会では韓国を初めて国外で破り、親善試合においてオランダのフェイエノールトやブラジルのコリンチャンスの海外の強豪クラブを破る成果を見せたが、攻撃の軸だった尾崎加寿夫ドイツ・ブンデスリーガビーレフェルトに移籍したのが響いた。当時は国際試合の時に海外移籍した日本人選手を呼び戻して代表入りさせるという発想はなかった[13]。結局、フォワードの軸は柱谷幸一を据えて原博実と組ませて、所属クラブで攻撃的MFにコンバートされていた木村和司を司令塔に、金田喜稔(後に水沼貴史)を絡ませた日産勢を攻撃の柱にする新布陣で挑むが、肝心のロサンゼルスオリンピック最終予選では連敗を重ね敗退した[23]。当時の日本代表の情報収集能力は低く、初戦の相手、タイの試合のビデオを集めることもできず。相手チームについて何も知らずに初戦に臨み、タイのエース・ピヤポンハットトリックを決められるなどで2-5の大敗(ピヤポン・ショック)。結局これが尾を引き4戦全敗に終わった[23][13]

森は辞意を表明したが慰留され、名誉挽回で挑んだワールドカップ・メキシコ大会アジア予選では快調に1次予選、2次予選を突破。宮内聡西村昭宏で、後に世界の主流になるダブルボランチをいち早く取り入れるなどで[10][27][28][29]1985年10月の最終予選に進出。当時のW杯でのアジアの出場枠は「1」[30]。この当時の代表チームは守備の加藤久、左サイドバック都並敏史、右サイドバックの松木安太郎、中盤の木村和司、前線の原博実水沼貴史ら、職人気質の個性派を擁し、強い結束力を持ち合わせた事から森ファミリーと呼ばれた[2][11][25]

サッカーファンもこのチームに懸ける期待が大きく、迎えた宿敵韓国とのアジア最終予選の初戦、1985年10月26日国立での試合は、代表の試合で初めて国立が満員になった[17][31][32]。代表戦にお客が入るようになり、サッカー協会の収入が増えてきたのはこの頃から[17]。立錐の余地もなく埋め尽くされた62000人の大観衆と、スタンドにはためく無数の日の丸、かつて体験したことのない異様な熱気は、皮肉にも日本代表イレブンに過剰なプレッシャーとなってはね返った[31][33]。また韓国代表を率いた金正男監督は、森の大学時代からの20年来の親友でもあり、冷静に日本チームを分析していた[31]木村和司の伝説のフリーキックで1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦を喫するとソウルでの第2戦も0-1で敗れ、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが宿敵韓国の前に敗れ去った。この時のチームは「ドーハの悲劇」以前に最もワールドカップに近づいたチームとしてサッカーファンの間で語り継がれている[19][10][22][33][34][35][36]

わずか1点という最少得点差での敗戦ではあったが、またも力の差を見せつけられた。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」「韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と明言した[19][22][31][37]。各ポジションにスペシャリストがいて完成度の高かったこのチーム[38]の敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、長沼健に迫った森のプロコーチとしての契約要求は受け入れられず(森自身も三菱重工からの出向の身だった)[6][11][22][21]1986年辞任した[39]。協会の微温的体質に一石を投じたこの行動が、後のJリーグ創設という大河の一滴になった[11][25][18]、また森が取り組んだ改革に今日の日本代表チームの原点があるともいわれる[24][40][41]。日本代表監督のプロ契約が始まったのは、森退任から3年後、1988年1月に就任した横山謙三から(年間300万円)[24]。この時からようやくプロの指導者が代表チームを指揮するという慣例ができた。

森ファミリーのメンバーは現在、指導者として活躍している者が多いが、とても仲が良く今も年に2回集まるという[23][42][43][27][44]。 

浦和レッズ創設に尽力

その後は三菱重工の人事部に戻りサッカー部副部長兼総監督。1988年、兄・健兒と木之本興三が設立したJSL活性化委員会(翌1989年、プロリーグ化検討委員会、のちのJリーグ)に参加[7][18][15]。三菱重工社内のプロ化担当者としてサッカー部のプロ参加を嘆願、サッカー部の三菱自動車工業(以下、三菱自工)移管に関わる[45][42][6]。重工は防衛庁や企業相手の仕事で、大衆にアピールするプロスポーツはやらないだろうと予想し、前々から内々に自工移管を打診していた[17]。社業としてドイツの事業所駐在が決定していたが三菱自工の清水泰男(のち浦和レッズ社長)の要請で1989年7月、三菱自工に転籍。サッカー部プロ化に対して、社内の反応は冷ややかだったといわれるが、サッカー部のプロ化、立ち上げの中心人物として東奔西走した[45][5][6][46][17][10][34][47][48][49][50]

1990年9月、浦和青年会議所が中心になって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足、浦和はホンダの誘致が決定的だった。しかし同年10月、ホンダが浦和の誘致を断わったため川淵三郎の仲介で「つくろう会」のメンバーと11月、西が丘サッカー場の近くのファミリーレストランすかいらーくで会う(森はそれ以前に浦和の関係者と何度か接触はあった)。当初から浦和はリストアップしていたが、浦和はホンダで決定的だったため諦めていた。渡りに船のこの話に、この後は急ピッチに浦和レッドダイヤモンズ創設、Jリーグ入りが決定した。その後は仕事が山積み。スポンサー集めから、スタジアム改修の16億円以上の費用を自治体政治家に掛け合う。昼は説明に回り、夜はその人たちと毎日会食[17]。森はチームが東京田町から移るはるか前に、自宅を浦和に引っ越す等、森の人柄の良さから出世街道を歩んでいた藤口光紀(のち浦和レッズ社長)を始め、多くの人物がレッズ発足に参加した[51]。清水泰男は「森ちんがいなかったら今のレッズはなかったと思います」と話している[6][52][53]。森は「浦和レッズの父」「クラブ生みの親」と評される[5][6][34][48][54][51][55]

レッズ初代監督

1992年から同チームの監督に就任[56][34][50]。当時のクライフ監督率いるFCバルセロナが採用していた3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み、1992年は天皇杯で準決勝まで進出した。しかし翌1993年にJリーグの公式戦が開幕すると、システムが相手に研究され尽くした事と補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位を独走し辞任した。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った[57]。ただ浦和レッズでの森は、負けても愛された監督というよりは、負けが込むほど愛された監督であった。浦和レッズサポーターも「森さんのためなら叫ぶことができる」と森を慕っていた[5][6][34]。情の厚さが人を引きつけ、その美質は浦和レッズ発足前後にも遺憾なく発揮された[11]。レッズ初代監督としては成功したとは言い難いが、温かい人間味がファンを魅了し、熱狂的なサポーター育てた[45][5][6][10][11][58]。ぶぎん地域経済研究所(武蔵野銀行)は、浦和レッズが熱狂的サポーターを増やして原因について、開幕初年度に負け続けるレッズを「勝てない、とにかく勝てない」「いつ勝つのか」などと、日本人独特の判官びいきによる気質によってマスメディアが上位のチーム以上に取り上げたから。「出来の悪い子ほど可愛い」という状況となることでより愛されるチームとなった。もし5位や6位や、「ありきたりの成績」であったなら、あまり注目もされなかったであろう、等と論じている[53]

その後

1995年から1997年横浜マリノスゼネラルマネージャー、1995年には横浜マリノスは年間チャンピオンに輝いた。1998年アビスパ福岡の監督を務め、J1参入決定戦で辛うじてJ1に残留、1999年から2001年はアビスパ福岡のフロントを務めた。2002年、浦和レッズ社長・塚本高志から「一からチームを作りなおして欲しい」との復帰要請を受け、レッズGMに就任[59][60][61][62]

塚本に代わって半年後に就任した犬飼基昭社長、強化本部長に転任した中村修三とともにチームを改革[60][61][62]、3年計画下でのハンス・オフト監督を招聘しチームを強化、基礎作り2年の後2004年ギド・ブッフバルト監督、ゲルト・エンゲルスヘッドコーチを招聘、大型補強の敢行で浦和に悲願のJリーグステージ初優勝、2005年第85回天皇杯2006年第86回天皇杯連覇をもたらし[5][6][34][59][60][63][64][65]今日につながるレッズの礎を築いた[45][5][6][17][60][61][54][51]。オフトやブッフバルト、闘莉王三都主らの獲得、岡野雅行のレッズ復帰は、森GM=中村強化本部長コンビで行い、犬飼社長が最終決定を下したもの[61]。また在任中、ユース、ジュニアユースの改革に着手し教育ではなくプロ育成の下部組織として再スタートさせた[65]2006年1月31日をもってGMを退任[66]

2006年、第3回日本サッカー殿堂にて委員会投票により掲額され殿堂入りを果たす。

2008年からは神奈川県横浜市を本拠地とするクラブチーム横浜GSフットボール・クラブの顧問[67]2010年発足した日本サッカー名蹴会名誉会長を務めた[68]

2011年7月17日、腎盂がんのために死去[69]。67歳没。森が亡くなった病院は東京オリンピックサッカー競技会場であった駒沢競技場そばにある東京都目黒区国立病院東京医療センターであった[70]

エピソード

  • 大学卒業後、森は兄のいる三菱重工入りを決め、早大の同級・釜本邦茂も、一緒に三菱重工に入社して「また二人でやろう」と約束をしていた。ところが関西在住で早大OBの川本泰三賀川浩が「釜本、関西へ戻ってやれよ」と矢のような催促、無理やり連れて行かれたヤンマーディーゼルの山岡浩二郎サッカー部長の熱弁で、催眠術のように入社を承諾してしまった。東京に帰り森に会いヤンマー入社を知らせると、森は「サッカーやるんだからいいさ。ともかく日本サッカーのためにがんばろうで」と言っただけ。いつもグラウンドでもまず人のことを考えるいい奴、森は変心を咎めたり、詮索したりはしなかったという[71]

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1967 三菱 JSL 14 3 -
1968 14 3 -
1969 14 2 -
1970 14 6 -
1971 10 1 -
1972 JSL1部 14 0 -
1973 18 1
1974 18 8 -
1975 12 4 -
1976 18 0
1977 0 0
通算 日本 JSL1部 146 28
総通算 146 28

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 56試合 2得点(1966-1976)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1965 0 0 2 0 2 0
1966 4 0 3 1 7 1
1967 5 1 16 0 21 1
1968 4 0 17 1 21 1
1969 4 0 17 1 21 1
1970 13 0 10 1 23 1
1971 3 0 11 0 14 0
1972 8 0 7 3 15 3
1973 1 1 3 0 4 1
1974 1 0 3 0 4 0
1975 9 0 7 1 16 1
1976 4 0 0 0 4 0
通算 56 2 96 8 152 10

得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1967年10月3日 日本東京 レバノンの旗 レバノン 3-1 勝利 メキシコ五輪予選
2 1973年5月20日 大韓民国ソウル ベトナム共和国の旗 南ベトナム 4-0 勝利 1974 FIFAワールドカップ予選

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
1992 J 浦和 - 5位 準決勝
1993 J 浦和 10位 36 - 8 - 28 予選リーグ 2回戦
1998 J 福岡 18位 34 21 8 - 26 予選リーグ 4回戦

脚注

  1. ^ 教師の父 スポーツに縁/競技振興 学校から地域へ 中国新聞 2011年7月19日閲覧
    Jリ-グの源流・似島
  2. ^ a b c d 『週刊サッカーマガジン』2008年12月2日号、p56
  3. ^ a b c d 大貫哲義『不滅のサッカー王―釜本選手とその仲間たち』大陸書房、1983年、p222-236
  4. ^ 島原帆山『竹韻一路』、新芸術社、1990年、p132-199
  5. ^ a b c d e f g h メキシコ五輪銅「レッズの父」森孝慈氏急死 日刊スポーツ 2011年7月18日閲覧
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 日刊スポーツ、2011年7月18日11、12面
  7. ^ a b c 郷土勢82個のメダル 中国新聞<5> 森孝慈 勝利への執念、前面に
  8. ^ a b 『週刊サッカーマガジン』2011年2月15日号、p62
  9. ^ 森さん死去にサッカー界沈痛 中国新聞 2011年7月18日閲覧
  10. ^ a b c d e f 森孝慈氏死去…メキシコ五輪銅、浦和レッズの父 サンケイスポーツ 2011年7月18日閲覧
  11. ^ a b c d e f g h i (評伝)サッカー代表監督、情に厚く一体感 日本経済新聞 2011年7月18日閲覧
  12. ^ 留学中にバイスバイラーがニューヨーク・コスモスへ。次がカールハインツ・ヘダゴット、三人目がリヌス・ミケルス。一年の間に監督が3人代わった(『週刊サッカーマガジン』2008年12月2日号、p56)。
  13. ^ a b c d e f 後藤健生『日本サッカー史 日本代表の85年・代表篇』、双葉社、2002年、p194-230
  14. ^ a b c 後藤健生『日本サッカー史 日本代表の90年・資料篇』、双葉社、2007年、p171-199
  15. ^ a b 森孝慈監修『ワールドサッカークイズ』、リイド社、2006年、p254-255
  16. ^ 森孝慈さん死去:日本サッカー協会・小倉純二会長、川淵三郎名誉会長の話
  17. ^ a b c d e f g h i 『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p56-57
  18. ^ a b c 五輪で共にプレー 釜本氏「あまりにも早い」 ― スポニチ Sponichi
  19. ^ a b c 森孝慈さん死去:Jリーグ創設に尽力 屈指の理論家 - 毎日jp(毎日新聞) 毎日新聞 2011年7月18日閲覧
  20. ^ 【森孝慈氏死去】加藤久氏「懐が大きくて選手のために動いてくれた
  21. ^ a b 森孝慈さんの思い出 - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
  22. ^ a b c d e 朝日新聞、2011年7月18日13面
  23. ^ a b c d 西部謙司『サッカー日本代表システム進化論』p17-40
  24. ^ a b c d e 日刊スポーツ、2010年4月2日7面
  25. ^ a b c d 【森孝慈氏死去】「ファミリー」まとめた代表監督
  26. ^ 日刊スポーツ・サッカー・W杯カウントダウン連載 木村和司2
  27. ^ a b <第68回>「2002年の向こう側」 木村和司3
  28. ^ 都並敏史『日本代表に捧ぐ』ザ・マサダ、1998年、p67
  29. ^ 後藤健生『日本サッカー史 日本代表の85年』双葉社、2002年、p22
  30. ^ 日刊スポーツ、2010年4月1日9面
  31. ^ a b c d スポーツ20世紀⑥サッカー名勝負の記憶』、ベースボールマガジン社、2000年、p102-105
  32. ^ 『週刊サッカーマガジン』2008年8月5日号、p56
  33. ^ a b 日刊スポーツ・サッカー・W杯カウントダウン連載 「世界」を感じさせたFK 木村和司氏
  34. ^ a b c d e f 『GO AHEAD URAWA REDS』 日刊スポーツ出版社 2005年、33-34頁
  35. ^ 民団/最新ニュース/トピック3
  36. ^ No.24 都並敏史の最終予選 | サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト
  37. ^ J SPORTS|コラム 【後藤健生コラム】日本代表新監督が決まらないのはなぜか?
  38. ^ 都並敏史『日本代表に捧ぐ』、p71、72
  39. ^ 実際は辞任したわけではなく、続投を打診され返事を待ってもらっていたら、いつのまにか辞めることになっていたと話している(『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p57)。
  40. ^ 『季刊 サッカー批評』半田雄一編集長インタビュー(3)
  41. ^ 加藤久氏「懐が大きくて選手のために動いてくれた」
  42. ^ a b 森孝慈さん告別式 森ファミリーが棺担ぐ 日刊スポーツ 2011年7月23日閲覧
  43. ^ 人格者・森孝慈氏のもとに舞い込むオファー - 奇跡に挑む者たち
  44. ^ 都並敏史『日本代表に捧ぐ』、p48-55
  45. ^ a b c d 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト| 11.07.17 訃報
  46. ^ 森孝慈さんが急死 五輪銅メダル、浦和創設に尽力 ― スポニチ Sponichi
  47. ^ 西野努 『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』 東邦出版、2007年、124-128頁
    山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行、論創社、1998年、68-92、101-104、236-238頁
    『浦和レッズ10年史』 浦和レッドダイヤモンズ、ベースボール・マガジン社編集 2002年、86-88頁
  48. ^ a b サンケイスポーツ、2005年12月30日3面
  49. ^ 【浦和フットボールメルマガ】Vol.4 レッズ誕生秘話
  50. ^ a b そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その1
    そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その2
    そうだったんですか!?レッズ Vol.05清水泰男さんの巻その2
    そうだったんですか!?レッズ Vol.06武正公一さんの巻その2
    そうだったんですか!?レッズ Vol.03山口斉さんの巻その3
    そうだったんですか!?レッズVol.02佐藤仁司さんの巻その3
    そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その4
    Digital PENTA
  51. ^ a b c スポーツ報知、2011年7月18日9面
  52. ^ そうだったんですか!?レッズ Vol.05清水泰男さんの巻その3
  53. ^ a b 特別調査レポート 浦和レッズはなぜ成功しているのか?
  54. ^ a b スポーツニッポン、2011年7月18日8面
  55. ^ 浦和、追悼弾も“父”に弔い星届けられず
  56. ^ 『レッズと浦和』 68-92、108-109、101-104頁
  57. ^ 『週刊サッカーマガジン』1998年10月14日号、p17
  58. ^ 清尾淳『浦和レッズの快感―すきにならずにいられない』、アストロ教育システム、あすとろ出版部、1998年、31頁
  59. ^ a b [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号
  60. ^ a b c d [浦和フットボール通信] メルマガ創刊記念(1) 森孝慈インタビュー
  61. ^ a b c d 山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年、52-83、138-157頁
  62. ^ a b 島崎英純『ビッグクラブ ―浦和レッズモデルができるまで―』 講談社、2007年、30-36頁
  63. ^ 週刊フットボールトーク Vol.23 もうすけの部屋/ウェブリブログ
    REDS VOICE 53
    REDS VOICE 54
    『浦和レッズ10年史』 66-69頁
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  64. ^ 『週刊サッカーマガジン』2008年11月4日号、ベースボール・マガジン社、p56
  65. ^ a b 日本サッカーアーカイブ 森孝慈
  66. ^ 、当時の犬飼基昭社長により、横山謙三取締役(当時)と共に退任させられたとされる。『サイゾー』2008年5月号、110頁
  67. ^ 横浜GSFC Official Web
  68. ^ 日本サッカー名蹴会 | メッセージ
  69. ^ 訃報 森孝慈氏死去 浦和レッドダイヤモンズ公式HP 2011年7月17日閲覧
  70. ^ 森孝慈氏の実兄・健児さん「奇運感じる」 サンケイスポーツ 2011年7月18日閲覧
  71. ^ 釜本邦茂 『ゴールの軌跡』 ベースボール・マガジン社、1981年、102-103頁

参考文献・ウェブサイト

関連項目

外部リンク