コンテンツにスキップ

「フマーユーン廟」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
WikitanvirBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: eo:Tombo de Humajun
Chokorin (会話 | 投稿記録)
加筆修正、画像位置変更
(2人の利用者による、間の27版が非表示)
16行目: 16行目:
|map_img_width = 200px
|map_img_width = 200px
}}
}}

[[Image:Tombe de Humayun.JPG|right|thumb|250px|正面から見たフマーユーン廟]]
'''フマーユーン廟'''(英語:'''Humayun's Tomb''')は、[[インド]][[デリー]]にある、[[ムガル帝国|ムガル]]皇帝[[フマーユーン]](همايون)の廟。その建築スタイルは[[タージ・マハル]]にも影響を与えた。フマーユーン廟は、フマーユーンの死後の1562年、ペルシア出身の王妃ハミーダ・バーヌー・ベーガムが建築を指示し、伝えられるところによれば、サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンと父ミラーク・ギヤートゥッディーン二人の建築家によって8年の歳月を経て完成された
'''フマーユーン廟'''({{lang-en|'''Humayun's Tomb'''}}、{{lang-hi|'''हुमायूँ का मक़बरा'''}}、{{lang-ur|'''ہمایون کا مقبره'''}})は、[[インド|インド共和国]]の首都[[デリー]]にある、[[ムガル帝国]]の第2代皇帝[[フマーユーン]](Nasiruddin Humayun、همايون)廟。インドにおける[[イスラーム建築]]の精華のひとつと評され<ref>近藤(1979)p.19</ref>、その建築スタイルは[[タージ・マハル]]にも影響を与えたといわれる。

== 沿革 ==
[[ファイル:Humayun's Tomb from the entrance, Delhi.jpg|thumb|200px|left|入口からみたフマーユーンの廟]]

ムガル帝国第2代皇帝[[フマーユーン]] は、[[1540年]]、[[ビハール州|ビハール]]の地をしたがえた[[パシュトゥーン人]](アフガン人)の将軍でのちに[[シェール・シャー]]と名乗るスール族のシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われて[[ペルシア]]に亡命し、流浪の生活をおくった。やがて[[イラン]](ペルシア)の[[サファヴィー朝]]の支援を受け、シェール・シャー死後の[[1555年]]には[[アーグラ]]と[[デリー]]を奪回して北インドの再征服に成功したが、翌[[1556年]]に事故死してしまった。

フマーユーン死後の[[1565年]]、ペルシア出身の王妃で信仰厚い[[ムスリム|ムスリマ]]であったハミーダ・バーヌー・ベーガム(ハージ・ベグム)は、亡き夫のためにデリーの[[ヤムナー川]]のほとりに壮麗な墓廟を建設することを命令した<ref name=k52>「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.52</ref><ref group="注釈">ムガル帝国では、しばしば皇帝の存命中に墓園の造営が開始されている。</ref>。時代は、[[アクバル|アクバル大帝]]治世の前半にあたっていた。

伝えられるところによれば、ペルシア出身の建築家サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンとその父ミラーク・ギヤートゥッディーンの2人の建築家によって9年の歳月を経て完成されたという<ref name=k54>「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.54</ref><ref group="注釈">皇帝の死後9年目に完成したとも、また、皇帝没後9年目に工事が始まり、アクバル帝治世の14年目に完了したともいわれる。</ref>。その建築は、ムガル帝国の廟建築の原型を示すといわれている。

[[1993年]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]](国際連合教育科学文化機関)[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])に登録された<ref name=green/>。

== 四分庭園 ==
[[ファイル:Tombe de Humayun.JPG|right|thumb|200px|正面から見たフマーユーン廟]]
霊廟周囲の[[庭園]]は、ペルシア的な[[チャハルバーグ]](四分庭園)となっており、10ヘクタール以上の広大な敷地を有する。四分庭園とは、四面同等の[[意匠]]をもち、4つの区画に分けられた[[正方形]]の庭園であり<ref name=green>『地球紀行 世界遺産の旅』(1999)p.206</ref>、庭園には[[水路]]や園路が[[格子]]状に走向して中形ないし小形の正方形をつくり、それぞれの[[交点]]には小空間や露壇、[[池|池泉]]などが設けられている<ref name=k54/>。

フマーユーン廟の庭園は、[[インド亜大陸]]におけるチャハルバーグ形式の庭園としては最古のものであり<ref name=k54/>、ペルシアの伝統が色濃く反映された、従来の[[ヒンドゥー建築]]や[[イスラーム建築|インド・イスラーム建築]]には存在しなかった形式の庭園である<ref name=green/>。

優美な庭園はまた、しばしば「楽園の思想」の具現化であると評される<ref name=green/>。すなわち、[[中近東]]生まれの[[宗教]]である[[イスラーム]]にとって、[[塀]]によって囲まれ、[[日陰]]と[[水]]がふんだんにある庭とは、まさに「天上の楽園」を地上に模写した人工物だったのである<ref name=kamiya>[http://www.kamit.jp/02_unesco/12_humayun/humayun.htm デリーのフマーユーン廟] - 神谷武夫</ref>。

== 霊廟建築 ==
[[ファイル:Details of the arch on the exterior of Humayun's Tomb, Delhi.jpg|right|170px|thumb|フマーユーン廟外側のアーチ。イーワーンの凹みは二段階になっている]]
[[ファイル:Inside view of the dome of Humayun's Tomb.jpg|right|120px|thumb|内側ドームの天井]]
霊廟は上下の二層構造をとっており、東西南北の四面それぞれは同じ立面([[ファサード]])をもっている<ref>近藤(1979)p.16</ref>。

霊廟の中心には[[玄室]]が設けられており、その外側に[[アーケード]]をめぐらせた低平な下層(基壇)は、一辺およそ95メートルの矩形をなして高さは約7メートルに達している。その上方に設けられた上層建築は一辺およそ48メートルであり、中央墓室を4つの正方形の墓室が対角上に取り巻くような形状に配置されており、各面に対し、[[アーチ]]状の天井をもつ[[イーワーン]]をひらいている<ref name=kamiya/><ref name=shiseki>『世界の文化史蹟第10巻 イスラムの世界』p.160</ref>。それぞれのファサード(正面)は、[[赤色]]の[[砂岩]]に[[白色]]の[[大理石]]を組み合わせて[[幾何学]]的な文様が華やかにデザインされている<ref name=k55>「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.55</ref>。ここではまた、[[象嵌]]の手法も採り入れられている<ref name=k55/>。

[[ファイル:The white marble dome and chhatris on the roof of Humayun's tomb.jpg|left|200px|thumb|砂岩と大理石を組み合わせた上層建築。ヒンドゥーの建築技法があらわれたチャトリや小さな[[ミナレット]](尖塔)が[[イーワーン]]上部を装飾する]]
霊廟の中央広間には、[[屋根]]と[[天井]]を切りはなした[[中央アジア]]的な二重殻の[[ドーム]]を有する。外殻ドームは総白大理石で、その最頂点までの高さはおよそ38メートルにおよんでいる<ref name=shiseki/><ref name=k55/>。ドーム屋根の周囲には[[柱]]で支えられた[[傘]]のような形状の[[チャトリ]](小塔)が立ち並んでインド的印象を受けるが、これはペルシア風の[[アーチ]]やドームを主体にした建築に、柱や[[梁]]を多用したヒンドゥー的装飾が各所にほどこされているためである<ref>[http://www.tbs.co.jp/heritage/1st/archive/20020217/onair.html 『THE世界遺産』「フーマユーン廟、デリー」(TBS)]</ref>。

外殻ドームの12メートル下には内部をおおうドームがあり、3連アーチ窓が2段に並んで玄室の天井としては好適な高さとなっている。この半円ドームは、周囲の墓室や四方のイーワーンを結びつける重要な空間となっている<ref name=k56>「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.56</ref>。

墓廟には、すべて合わせると計150人の死者が埋葬されている。フマーユーン、王妃ベーガム、王子ダーラー・シコー、そして、重きをなしたムガル朝の宮廷人たちの遺体である<ref name=k56/>。玄室となる建物の中央にはフユマーンの墓として白大理石の[[棺|石棺]]が置かれるが、これはいわば仮の墓、すなわち模棺(セノターフ)であり、実際のフマーユーンの遺体を納めた棺はこの直下に安置されている。このような形式は、中央アジアの葬送に由来している<ref name=green/>。宮廷人たちの棺については、資料を欠いており、それぞれの石棺がどのように配置されたか、その詳細はよくわかっていない<ref name=k56/>。

[[建築史]]的には、同時代のペルシア建築と共通する要素が多いといわれているが、フマーユーン廟で採用された上層建築の形式は過去の廟建築にはみられず、むしろ[[宮殿]][[パビリオン]]の系譜に連なる形式に属している。この形式は、アーグラ近郊シカンドラに所在する[[アクバル廟]]や第4代皇帝[[ジャハーンギール]]の墓廟である[[ジャハーンギール廟]]には採用されなかったものの、第5代皇帝[[シャー・ジャハーン]]が第一王妃[[ムムターズ・マハル]]のためにアーグラに建てた墓廟「[[タージ・マハル]]」では再び採用されることとなった<ref name=shiseki/>。


== 登録基準 ==
== 登録基準 ==
{{世界遺産基準|2|4}}
{{世界遺産基準|2|4}}


== ムガル帝国終焉の地 ==
==外部リンク==
[[ファイル:Humayun Delhi 1.jpg|160px|right|thumb|玄室となる内側ドームとフマーユーンの模棺</br>最後のムガル皇帝が捕らえられたのは模棺のそばであったといわれる]]
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/unesco/12_humayun/humayun.htm ユネスコ世界遺産(インド) デリーのフマーユーン廟]
[[インドの歴史]]において、フマーユーン廟は、奇しくもムガル帝国終焉の舞台となった。[[1857年]]にはじまる反英蜂起、いわゆる[[インド大反乱]]の際、[[シパーヒー]]たちに擁立されたムガル朝最後の皇帝[[バハードゥル・シャー2世]]は3人の王子とともにこの墓廟に避難した。しかし、皇帝は[[ウィリアム・ハドソン (軍人)|ウィリアム・ハドソン]]の率いる[[イギリス軍]]によって捕縛され、[[裁判]]にかけられて帝位を剥奪された。翌[[1858年]]、バハードゥル・シャー2世は、[[年金]]をあてがわたうえで[[イギリス統治下のビルマ|英領ビルマ]]の首府[[ヤンゴン|ラングーン]](現ヤンゴン)に追放された<ref name=k56/>。

== アクセス・周辺地理 ==
フマーユーン廟は、[[ニューデリー]]中心部([[コンノート・プレイス]])の南東約5キロメートル、[[インド門]]からは南東約2.6キロメートルの地点にあり、[[デリー首都圏]]の空の玄関口である[[インディラ・ガンディー国際空港]]の東方やや北寄り約13キロメートル、デリー首都圏における[[ターミナル駅]]のひとつである[[ハズラト・ニザームッディーン駅]]([[:en:Hazrat Nizamuddin Railway Station|en]])の北北西約500メートルに立地する。

フマーユーン廟の周辺には、上述の[[スール朝]]のシェール・シャーの[[宮廷]]に仕えた貴族[[イサ・カーン]]([[:en:Isa Khan Niazi|en]])の墓廟である[[イサ・カーン廟]]、[[13世紀]]後半から[[14世紀]]前半にかけての[[イスラーム]]の[[スーフィー]]の聖者の墓廟[[ニザームッディーン廟]]、また、サブジ・ブルズ廟など、墓建築をはじめとするイスラームの宗教遺跡が数多く分布する。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 参照 ===
{{Reflist}}

== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:Mausoleum of Humayun, Delhi, in 1820.jpg|フマーユーン廟と庭園([[1820年]]の[[絵画]])
ファイル:Humayun's Tomb, with the Barber's Tomb in the foreground, Delhi, 1858 photograph.jpg|フマーユーン廟とナイカ・グンバッド(フマーユーンの理髪師の墓)([[1858年]]の[[写真]])
ファイル:Humanyu.JPG|フマーユーン廟全景と庭園を散策する人びと
ファイル:Delhi Humayun's Tomb.jpg|フマーユーン廟近景
ファイル:Details of Entrance portal into Humayuns Tomb, Delhi.jpg|フマーユーン廟正面細部
ファイル:Entrance Gateway, Humayun's Tomb, Delhi.jpg|フマーユーン廟入口
ファイル:Humayun's mausoleum, Delhi.jpg|上層・下層の両矩形建築のうちの縁(へり)部分
ファイル:Delhi Humayun-Mausoleum.jpg|上層建築の4つの正方形は面取りがなされ[[八角形]]にもみえる
ファイル:Fountain at the centre of the Charbagh, surrounding Humayun's Tomb.jpg|チャハルバーグ庭園先端部分に設けられた池泉
ファイル:Jaali or marble lattice screen showing a mihrab, from inside Humayun's tomb, Delhi.jpg|[[メッカ]]の方向を向いた[[ミフラーブ]]に設けられた格子スクリーン
ファイル:Humayuns Tomb innen.JPG|中央玄室とフマーユーンの模棺
ファイル:Here lies Humayun.jpg|フマーユーンの模棺;[[遺体]]を実際に納めた棺はこの直下に安置されている
ファイル:Humayun Delhi 2.jpg|ハミーダ・バーヌー・ベーガムとダーラー・シコー等の模棺
ファイル:HTSign.jpg|「フマーユーンの死を悼む未亡人ハミーダ・バーヌー・ベーガム…」ではじまる史跡案内板
ファイル:Isa Khan Niyazi's mausoleum, within Humayun's Tomb complex, Delhi.jpg|イサ・カーン([[:en:Isa Khan Niyazi|en]])の墓廟(1547年)
ファイル:HumayunsTombindia20083.jpg|イサ・カーン廟
ファイル:Isa Khan's mosque, built ca 1547 AD, near Humayun's tomb.jpg|イサ・カーンのモスク
ファイル:Nila Gumbad, and Nai-ka-Gumbad or Barber's Tomb, near Humayun's Tomb.jpg|フマーユーン廟内のナイカ・グンバッドと廟外のニラ・グンバッド(青いドーム)
ファイル:Nila Gumbad, Delhi.jpg|ニラ・グンバッド;1625-26年頃にアブドゥル・ラヒーム・カーン1世([[:en:Abdul Rahim Khan-I-Khana|en]])によって建てられた
ファイル:Gateway into Arab Sarai, near Humayun's tomb complex, Delhi.jpg|フマーユーン廟の南を通過して「アラブ・サライ」へ抜ける道
ファイル:Arab Sarai, near Humayun's Tomb, Delhi.jpg|「アラブ・サライ」(アラブ人たちのためのレストハウス);フマーユーン廟に近接している
ファイル:Bu Halima's tomb, Humayun's tomb complex, Delhi.jpg|ブ・ハリマの墓と庭園(フマーユーン廟内)
ファイル:Sabz Burj on Mathura road traffic circle, Delhi.jpg|マトゥラ・ロード([[:en:Mathura Road, Delhi|en]])の[[ロータリー交差点]]に面したサブズ・ブルジ廟
</gallery>

== 関連項目 ==
* [[インドの世界遺産]]
* [[フマーユーン]]

== 参考文献 ==
* [[前嶋信次]]・[[石井昭]]編集『世界の文化史蹟第10巻 イスラムの世界』[[講談社]]、1978年4月。
* [[近藤治]]「ムガル帝国」廣實源太郎翻訳監修『図説世界の歴史5 民族主義の時代』[[学習研究社]]、1979年10月。
* ユネスコ世界遺産センター「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』講談社、1997年11月。ISBN 4-06-254705-8
* [[小学館]]編『地球紀行 世界遺産の旅』小学館&lt;GREEN Mook&gt;、1999年10月。ISBN 4-09-102051-8

== 外部リンク ==
* [http://whc.unesco.org/en/list/232 UNSCO World Heritage List "Humayun's Tomb, Delhi"](英語)
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/unesco/12_humayun/humayun.htm ユネスコ世界遺産(インド) デリーのフマーユーン廟]{{Dead link|date=February 2011}}
* [http://www.tbs.co.jp/heritage/1st/archive/20020217/onair.html 『THE世界遺産』「フーマユーン廟、デリー」(TBS)]
* [http://www16.plala.or.jp/southasia-ua/delhi_mughal.html 「イスラーム美術」>「フマーユーン廟」] - 上杉彰紀『南アジアへの招待』
* [http://www.kamit.jp/02_unesco/12_humayun/humayun.htm デリーのフマーユーン廟] - 神谷武夫『ユネスコ世界遺産 (インド)』
* [http://maps.google.com/maps?ll=28.593264,77.250602&q=28.593264,77.250602&spn=0.002209,0.00537&t=h Google map「フマーユーン廟」]
{{Commons category|Humayun's Tomb, Delhi}}


{{インドの世界遺産}}
{{インドの世界遺産}}

2011年2月10日 (木) 02:10時点における版

座標: 北緯28度35分35.89秒 東経77度15分3.25秒 / 北緯28.5933028度 東経77.2509028度 / 28.5933028; 77.2509028

世界遺産 デリーのフマーユーン廟
インド
フマーユーン廟
フマーユーン廟
英名 Humayun's Tomb, Delhi
仏名 Tombe de Humayun, Delhi
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(4)
登録年 1993年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

フマーユーン廟英語: Humayun's Tombヒンディー語: हुमायूँ का मक़बराウルドゥー語: ہمایون کا مقبره‎)は、インド共和国の首都デリーにある、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーン(Nasiruddin Humayun、همايون)の墓廟。インドにおけるイスラーム建築の精華のひとつと評され[1]、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたといわれる。

沿革

入口からみたフマーユーンの廟

ムガル帝国第2代皇帝フマーユーン は、1540年ビハールの地をしたがえたパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍でのちにシェール・シャーと名乗るスール族のシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命し、流浪の生活をおくった。やがてイラン(ペルシア)のサファヴィー朝の支援を受け、シェール・シャー死後の1555年にはアーグラデリーを奪回して北インドの再征服に成功したが、翌1556年に事故死してしまった。

フマーユーン死後の1565年、ペルシア出身の王妃で信仰厚いムスリマであったハミーダ・バーヌー・ベーガム(ハージ・ベグム)は、亡き夫のためにデリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建設することを命令した[2][注釈 1]。時代は、アクバル大帝治世の前半にあたっていた。

伝えられるところによれば、ペルシア出身の建築家サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンとその父ミラーク・ギヤートゥッディーンの2人の建築家によって9年の歳月を経て完成されたという[3][注釈 2]。その建築は、ムガル帝国の廟建築の原型を示すといわれている。

1993年ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)世界遺産文化遺産)に登録された[4]

四分庭園

正面から見たフマーユーン廟

霊廟周囲の庭園は、ペルシア的なチャハルバーグ(四分庭園)となっており、10ヘクタール以上の広大な敷地を有する。四分庭園とは、四面同等の意匠をもち、4つの区画に分けられた正方形の庭園であり[4]、庭園には水路や園路が格子状に走向して中形ないし小形の正方形をつくり、それぞれの交点には小空間や露壇、池泉などが設けられている[3]

フマーユーン廟の庭園は、インド亜大陸におけるチャハルバーグ形式の庭園としては最古のものであり[3]、ペルシアの伝統が色濃く反映された、従来のヒンドゥー建築インド・イスラーム建築には存在しなかった形式の庭園である[4]

優美な庭園はまた、しばしば「楽園の思想」の具現化であると評される[4]。すなわち、中近東生まれの宗教であるイスラームにとって、によって囲まれ、日陰がふんだんにある庭とは、まさに「天上の楽園」を地上に模写した人工物だったのである[5]

霊廟建築

フマーユーン廟外側のアーチ。イーワーンの凹みは二段階になっている
内側ドームの天井

霊廟は上下の二層構造をとっており、東西南北の四面それぞれは同じ立面(ファサード)をもっている[6]

霊廟の中心には玄室が設けられており、その外側にアーケードをめぐらせた低平な下層(基壇)は、一辺およそ95メートルの矩形をなして高さは約7メートルに達している。その上方に設けられた上層建築は一辺およそ48メートルであり、中央墓室を4つの正方形の墓室が対角上に取り巻くような形状に配置されており、各面に対し、アーチ状の天井をもつイーワーンをひらいている[5][7]。それぞれのファサード(正面)は、赤色砂岩白色大理石を組み合わせて幾何学的な文様が華やかにデザインされている[8]。ここではまた、象嵌の手法も採り入れられている[8]

砂岩と大理石を組み合わせた上層建築。ヒンドゥーの建築技法があらわれたチャトリや小さなミナレット(尖塔)がイーワーン上部を装飾する

霊廟の中央広間には、屋根天井を切りはなした中央アジア的な二重殻のドームを有する。外殻ドームは総白大理石で、その最頂点までの高さはおよそ38メートルにおよんでいる[7][8]。ドーム屋根の周囲にはで支えられたのような形状のチャトリ(小塔)が立ち並んでインド的印象を受けるが、これはペルシア風のアーチやドームを主体にした建築に、柱やを多用したヒンドゥー的装飾が各所にほどこされているためである[9]

外殻ドームの12メートル下には内部をおおうドームがあり、3連アーチ窓が2段に並んで玄室の天井としては好適な高さとなっている。この半円ドームは、周囲の墓室や四方のイーワーンを結びつける重要な空間となっている[10]

墓廟には、すべて合わせると計150人の死者が埋葬されている。フマーユーン、王妃ベーガム、王子ダーラー・シコー、そして、重きをなしたムガル朝の宮廷人たちの遺体である[10]。玄室となる建物の中央にはフユマーンの墓として白大理石の石棺が置かれるが、これはいわば仮の墓、すなわち模棺(セノターフ)であり、実際のフマーユーンの遺体を納めた棺はこの直下に安置されている。このような形式は、中央アジアの葬送に由来している[4]。宮廷人たちの棺については、資料を欠いており、それぞれの石棺がどのように配置されたか、その詳細はよくわかっていない[10]

建築史的には、同時代のペルシア建築と共通する要素が多いといわれているが、フマーユーン廟で採用された上層建築の形式は過去の廟建築にはみられず、むしろ宮殿パビリオンの系譜に連なる形式に属している。この形式は、アーグラ近郊シカンドラに所在するアクバル廟や第4代皇帝ジャハーンギールの墓廟であるジャハーンギール廟には採用されなかったものの、第5代皇帝シャー・ジャハーンが第一王妃ムムターズ・マハルのためにアーグラに建てた墓廟「タージ・マハル」では再び採用されることとなった[7]

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

ムガル帝国終焉の地

玄室となる内側ドームとフマーユーンの模棺
最後のムガル皇帝が捕らえられたのは模棺のそばであったといわれる

インドの歴史において、フマーユーン廟は、奇しくもムガル帝国終焉の舞台となった。1857年にはじまる反英蜂起、いわゆるインド大反乱の際、シパーヒーたちに擁立されたムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー2世は3人の王子とともにこの墓廟に避難した。しかし、皇帝はウィリアム・ハドソンの率いるイギリス軍によって捕縛され、裁判にかけられて帝位を剥奪された。翌1858年、バハードゥル・シャー2世は、年金をあてがわたうえで英領ビルマの首府ラングーン(現ヤンゴン)に追放された[10]

アクセス・周辺地理

フマーユーン廟は、ニューデリー中心部(コンノート・プレイス)の南東約5キロメートル、インド門からは南東約2.6キロメートルの地点にあり、デリー首都圏の空の玄関口であるインディラ・ガンディー国際空港の東方やや北寄り約13キロメートル、デリー首都圏におけるターミナル駅のひとつであるハズラト・ニザームッディーン駅en)の北北西約500メートルに立地する。

フマーユーン廟の周辺には、上述のスール朝のシェール・シャーの宮廷に仕えた貴族イサ・カーンen)の墓廟であるイサ・カーン廟13世紀後半から14世紀前半にかけてのイスラームスーフィーの聖者の墓廟ニザームッディーン廟、また、サブジ・ブルズ廟など、墓建築をはじめとするイスラームの宗教遺跡が数多く分布する。

脚注

注釈

  1. ^ ムガル帝国では、しばしば皇帝の存命中に墓園の造営が開始されている。
  2. ^ 皇帝の死後9年目に完成したとも、また、皇帝没後9年目に工事が始まり、アクバル帝治世の14年目に完了したともいわれる。

参照

  1. ^ 近藤(1979)p.19
  2. ^ 「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.52
  3. ^ a b c 「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.54
  4. ^ a b c d e 『地球紀行 世界遺産の旅』(1999)p.206
  5. ^ a b デリーのフマーユーン廟 - 神谷武夫
  6. ^ 近藤(1979)p.16
  7. ^ a b c 『世界の文化史蹟第10巻 イスラムの世界』p.160
  8. ^ a b c 「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.55
  9. ^ 『THE世界遺産』「フーマユーン廟、デリー」(TBS)
  10. ^ a b c d 「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.56

ギャラリー

関連項目

参考文献

  • 前嶋信次石井昭編集『世界の文化史蹟第10巻 イスラムの世界』講談社、1978年4月。
  • 近藤治「ムガル帝国」廣實源太郎翻訳監修『図説世界の歴史5 民族主義の時代』学習研究社、1979年10月。
  • ユネスコ世界遺産センター「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』講談社、1997年11月。ISBN 4-06-254705-8
  • 小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』小学館<GREEN Mook>、1999年10月。ISBN 4-09-102051-8

外部リンク